レビ記11章1~23節

 レビ記は、この11章から新しい段落に入ります。1章から7章までは、会見の天幕における犠牲のささげものについて教えられていました。それはイエス・キリストを表すもので、私たちはイエス・キリストの犠牲によって神に近づくことができるということが教えられていました。また、8章から10章までのところには、その犠牲のいけにえをささげる祭司について語られていました。その祭司もまたイエス・キリストを表すもので、そのキリストの働きによって私たちは神に近づくことができるということでした。そして、この11章以降には、主がモーセとアロンに、きよいものと汚れたものについて区別することを命じられています。

1.食べてもよい動物(1~8)

 それではまず1~8節までをご覧ください。まず、最初に出てくる区別の規定は、イスラエル人が食べてよい動物と、そうではない動物についての規定です。
「1 それから、主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
2 「イスラエル人に告げて言え。地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物は次のとおりである。
3 動物のうちで、ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するものはすべて、食べてもよい。
4 しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはならない。すなわち、らくだ。これは反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
5 それから、岩だぬき。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
6 また、野うさぎ。これも反芻するが、そのひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
7 それに、豚。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものであるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。またそれらの死体に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。」

 このところによると、食べてもよいきよい動物は、「ひづめが分かれ、そのひづめが完全に割れているもの、また、反芻するもの」(3)です。「ひづめ」(英語 : Hoof, 複数形 : Hooves)とは、哺乳動物が四肢端に持つ角質の器官で、爪の一種です。扁爪や鉤爪と比べると厚くて大きく、固い。指先を幅広く被って前に突き出しています。この爪を持つものは指も柔軟ではなく、先端の爪で体を支えるようになっていて、指の腹は地面に着かないものも多くあります。扁爪が指先の保護器官、鉤爪がひっかけるための器官であるのに対し、ひづめは歩行の補助器官として使われます。すなわち、土を蹴るのに使われる器官なのです。これを持つ群れでは、ひづめのみが地面について体を支え、残りの指やかかとは高く地面から離れます。その結果として地面を速く走ることに優れていますが、指を使った細かい操作などは苦手とされています。このひずめがあり、かつ反芻するものが、きよい動物です。

 反芻(はんすう、rumination)とは、ある種の哺乳類が行う食物の摂取方法で、まず食物(通常は植物)を口で咀嚼し、反芻胃に送って部分的に消化した後、再び口に戻して咀嚼する、という過程を繰り返すことで食物を消化します。一度飲み下した食物を口の中に戻し、かみなおして再び飲み込むことから、よく繰り返し考え、よく味わうことのたとえに用いられています。

 足にひずめがあり、かつ反芻するものは、きよい動物です。ひずめがない動物とは、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、それは汚れているとされました。そして、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているもののうちでも、次のものは、食べてはいけませんでした。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものです。それから、岩だぬき。これも反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものでした。また、野うさぎ。これも反芻しますがそのひづめが分かれていないので、汚れたのでした。それに、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。福音書の中に、イエスさまが悪霊レギオンを豚の群れの中に移された話が出てきますが、彼らは不法なビジネスを行なっていたということが、ここから分かります。

 こうした汚れた動物は食べてはいけないし、その死体にも触れてもいけませんでした。しかし、これらの規定は2節にあるようにイスラエル人に対するものであり、私たちクリスチャンに対するものではありません。むしろ、イエスさまは、すべての食物はきよい、と言われました。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。ですから、私たちはこの律法の規定に文字通り従わなければならないということではなく、この律法で言わんとしていることがどういうことなのかを、よく理解しなければなりません。そのことを理解するために、もう少し先を見てみましょう。

2.食べてよい水の中の生き物(9-12)

 次に9~12節までをご覧ください。
「9 水の中にいるすべてのもののうちで、次のものをあなたがたは食べてもよい。すなわち、海でも川でも、水の中にいるもので、ひれとうろこを持つものはすべて、食べてもよい。
10 しかし、海でも川でも、すべて水に群生するもの、またすべて水の中にいる生き物のうち、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
11 これらはさらにあなたがたには忌むべきものとなるから、それらの肉を少しでも食べてはならない。またそれらの死体を忌むべきものとしなければならない。
12 水の中にいるもので、ひれやうろこのないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。」

 ここには、水の中にいるすべての生き物で食べてよいものと、そうでないものとが区別されています。そして、食べて良いものは、ひれとうろこを持つもの、つまり、鯛やさんまや、普通の魚です。しかし、海でも川でも、すべて水の中にいる生き物のうちで、ひれやうろこのないものは食べてはなりませんでした。うろこやひれがないものと言ったら、かに、うなぎ、貝など、数多くの種類の生き物が該当します。そして、これらは「忌むべきもの」なのです。「忌むべきもの」という言い方は、汚れているよりもさらに強い表現です。イエス様は地引き網のたとえの中で、網にかかった魚のうちで良いものは器に入れ、悪いものは捨てると言われましたが(マタイ13:47-48)、それはこの規定が背景にあったからです。イスラエル人の漁師は、ひれとうろこのあるものを器に入れ、ひれとうろこのないものを捨てたのでした。

 ここで教えられていることも、こうした魚介類を食べてはならないということよりも、このことが指し示していることがどういうことなのをよく理解する必要があります。それを理解するために、もう少し先に話を進めていきたいと思います。

3.鳥のうちで食べてよいもの(13-23)

 次に、13~23節までをご覧ください。
「13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べてはならない。すなわち、はげわし、はげたか、黒はげたか、
14 とび、はやぶさの類、
15 烏の類全部、
16 だちょう、よたか、かもめ、たかの類、
17 ふくろう、う、みみずく、
18 白ふくろう、ペリカン、野がん、
19 こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもりなどである。
20 羽があって群生し四つ足で歩き回るものは、あなたがたには忌むべきものである。
21 しかし羽があって群生し四つ足で歩き回るもののうちで、その足のほかにはね足を持ち、それ
で地上を跳びはねるものは、食べてもよい。
22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいな
ごの類、こおろぎの類、ばったの類である。
23 このほかの、羽があって群生し四つ足のあるものはみな、あなたがたには忌むべきものであ
る。」

 ここには、鳥のうちで忌むべきものはどのようなものかが教えられています。このリストを見ると、忌むべき鳥として上げられているのは、主に猛禽類です。猛禽類とは、他の動物を食べる鳥のことです。そのような鳥は忌むべきものであり、食べてはいけません。しかし、はね足があって、地上を飛びはねるものは、食べてもよいとされていました(20-22)。

 さて、このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見てきましたが、いったいどのような理由から区別されているのでしょうか。それは衛生的な理由からでありません。確かに、汚れているものとされている動物の中には、例えば、豚などは今でも寄生虫が付いているのでよく焼かなければなりませんが、だからといって、それが区別の理由や根拠になっているのではないのです。

 そこで、この3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみたいと思います。まず第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされています。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?それは、その肉に血がついているからです。神が初めに天と地が初めに創造されたとき、人も含め、すべての地上の動物は草食でした。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、ノアの時代に洪水があってから神は、人に動物を食べてもよい、と言われました。けれども、そこには一つの条件が付いていました。それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何物にもまして尊いものとされていることが分かります。

 ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にされているように、自分たちも大切にすることの現われなのです。広い意味での暴力をふるわないということでもあります。私たちクリスチャンにとっては、神を畏れかしこんで、相手を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることであろうと思われます。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を行ったりするとき、私たちは、相手の心を傷をつけ、いわば「血を流す」ようなことをしてしまうのです。けれども、私たちが生きているこの世では、そのような暴力が当たり前のようにまかり通っています。けれども、クリスチャンの間では、決してそのようなことはあってはなりません。そのような価値観から、相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を、いっさい共有してはいけないのです。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければなりません。
 
 そして、汚れた動物に共通しているもう一つのことは、地上に、あるいは水に、直接、接していることです。地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので、汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されていたのです。

 コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(3:1-2,5)」不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。
 
 また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(ヤコブ3:14-17)」

 ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を分つ決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。