使徒の働き10章34~48節 「すべての人の主」

 きょうは「すべての人の主」というタイトルでお話したいと思います。私たちは先週、ローマの百人隊長コルネリオとペテロが聖霊によって出会ったことについて見てきました。いよいよこのところからユダヤ人だけでなく異邦人の救いが展開してまいります。すなわち、イエス・キリストはすべての人の救い主であられるということです。きょうはこのイエス・キリストがすべての人の主であるという大いなる恵みについて三つのポイントでお話したいと思います。

 まず第一のことは、イエス・キリストはすべての人の主であられるということ、第二は、ではこのイエスとはどのような方なのかについて、すなわち、福音の内容についてです。そして第三のことはその証拠としての聖霊の注ぎです。異邦人にも聖霊が注がれたという事実こそ、この方がユダヤ人だけでなく異邦人も含むすべての人の主であられるということです。

 Ⅰ.はっきりわかりました(34-36)

 まず34-36節を見てみましょう。

「そこでペテロは、口を開いてこう言った。『これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受入られるのです。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』」

 29節のところでペテロが、「いったいどういうわけで私をお招きになったのですか」と言うと、百人隊長コルネリオが自分に起こった事の次第を告げました。それは彼が三時の祈りをしていたとき、御使いを通して、ヨッパに人をやってシモンを招くようにと語られたということでした。そこでペテロは口を開いてこう言ったのです。「これで私は、はっきりわかりました。・・・」ここでわざわざ「口を開いて」と言われているのは、おごそかに語ることを表す慣用句です。腹話術でもあるまいし、口を開かないで語る人などいません。語る時はだれでも口を開くのです。なのにわざわざそのように記したのは、これからペテロが語ろうとしていたことがきわめて重要な内容だったからです。では、その内容とはどんなことだったのでしょうか。それは、神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるということです。人をその民族や血筋といったもので差別したり偏見を持ってみたりすることをせず、どの国の人であっても、神がお遣わしなさったイエス・キリストを信じるなら、神の民として受け入れてくださるというのです。ユダヤ人は長い間、自分たちこそ神に選ばれた民族であり、神の祝福を受ける資格がある者だと思いこんでいましたが、神様はそういうことをなさるお方ではなく、どの民族であっても、神を恐れ、正しいことを行う人なら受け入れてくださるのです。この世ではある人たちをVIPと呼んで特権を与えます。そのようなことから羨望や諦めが生じ、差別や偏見が日常化します。そして一度植え付けられた優越感や劣等感というものは先入観や固定概念となって根を張るので、それを取り除くことがなかなか困難となります。ユダヤ人のそうした選民意識は、いつのまにか彼らの固定概念となり、それとは違った考え方を持つことができなくなってしまっていたのです。

 しかし、ペテロはここで聖霊による気づきが与えられ、神の視点で物事を見ることを学びました。彼は、神はかたよった見方をされる方ではなく、どの国の人であっても、神を恐れ、神がお遣わしくださったひとり子イエス・キリストを信じ、神の目で正しいことを行うなら神は受け入れてくださるということが、はっきりとわかったのです。まさしく、イエス・キリストはすべての人の主であるということです。このペテロの証言は、彼個人の確信に留まるものではなく、キリスト教全体の普遍的な、信仰の確信でもあります。エペソ2:14~17には次のように書いてあります。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自分において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬りさられました。それからキリストは来られて、遠くにいるあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。」

 このようにしてイエス・キリストの福音が、ユダヤからサマリヤ、小アジア、ヨーロッパ、全世界へと広がっていくことになったわけですが、そのきっかけとなったのがペテロに与えられた聖霊による気づきだったのです。それゆえに私たちは、このコルネリオの回心の物語を単に異邦人であったコルネリオの回心の出来事としてだけでなく、むしろペテロ自身が大きく変えられた出来事、いわばペテロの回心物語として見ていくことができる、いやもっと言うならばこの時救われたばかりのキリスト教会、ひいてはユダヤ人クリスチャン全体の回心物語であったとさえ言える出来事だったのです。ある歴史家が「分かる」ということは「変わる」ということだと言いました。本当に分かったならば、その人は必ず変わります。ペテロの気づきというものは、彼自身を大きく変えていった出来事だったのです。

 教会が新しい宣教に進んでいこうとする時、あるいは、教会が何か新しいことに取り組んでいこうとするときには、時として聖霊は私たちに変化を求められることがあるかもしれません。いやあるでしょう。そのような時に私たちはそうした変化を恐れずに、たえず聖霊が促しておられることに敏感でありたいと思います。そして「分かる」ことから「変わる」ことへの柔軟さとしなやかさをたえず持ち続ける者でありたいと思います。教会は絶えずみことばによって変革され続けていくものです。いつまでも変わらないみことばに導かれ、絶えず新しく変革され続けながら、そのようにして生きて成長していく主の宮として、私たちの教会も建て上げられていきたいと思うのです。

 Ⅱ.イエス・キリストの福音(37-43)

 では、すべての人の主であられるこのイエス・キリストとはどのようなお方なのでしょうか。イエス・キリストはすべての人の主であり、その福音が全世界へと広がって行くものであることを悟ったペテロは、続けて主イエス・キリストの福音について語ります。37~43節です。

「あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

 ここでペテロが語っていることは、この地上での主イエスの歩みと、主イエスの御業の中心である十字架と復活です。これはペテロが異邦人に向けて語った最初の説教という点でとても興味深い内容ですが、その内容は彼がこれまでユダヤ人に語ってきたことと同じです。すなわち、このイエスをユダヤ人たちは十字架につけて殺しましたが、神はこのイエスをよみがえらせてくださったということです。つまり、このイエスは犯罪人どころか、何一つ悪いことをしたことのない正しい方であり、旧約聖書の中で預言されていた救い主であられるということです。しかし、これまでの彼の説教にはなかったことが一つだけ語られています。それは43節の、「この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが得られる」ということです。すなわち、このイエス・キリストこそすべての人の主であるということです。完全で誤りのない旧新約66巻から成る神のことばである聖書が私たちに語りかけるメッセージの中心は、イエス・キリストはすべての人の主であるということに尽きるのです。これこそ2000年の間、多くの伝道者たちが汗水流して宣べ伝えてきたメッセージであり、多くの聖徒たちが涙の祈りとともに証ししてきた内容なのです。もしかすると、皆さんの中には、自分は救われるに値しない者だと思っている方がおられるかもしれません。しかし、神の思いは違います。神の思いは、だれでもこの方を信じる者は、その名によって罪の赦しが受けられるということです。もしかすると皆さんの中には、自分は救われるに十分値する者だと思っている方がおられるかもしれません。しかし、それは単なる誤解です。だれであってもこのイエスを信じなければ罪の赦しは得られないからです。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。イエス・キリストこそ唯一の救い主であって、この方を信じる者はだれでも、罪の赦しを受けることができるというのが、昔も今も変わらない福音の真理なのです。

 アメリカ大陸にはロッキー山脈がありますが、この山脈の頂にある分水嶺は山頂に落ちた雨を東と西に分けます。東側に落ちた雨は、東側の斜面を下って川に合流し、やがて大西洋に、西側に落ちた雨は、同じように西側の斜面を下って、川に合流し、やがて太平洋へと流れていきます。最初に落ちたところは数メートルしか違わないのに、その結果は天と地の違いがあるのです。私たちの人生も同じです。私たちの人生の分水嶺、それは救い主イエス・キリストを信じるかどうかです。イエス・キリストを信じるなら、天の御国に向かって歩む者とされますが、そうでないと、地獄に向かって歩むことになるのです。私たちの人生における分水嶺、それはイエス・キリストを救い主として信じるかどうかなのです。このことをパウロは次のように言いました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られるのです。それはかつてキリスト教を迫害していたサウロも例外ではありませんでした。彼には人間的には決して許されないであろう過去がありました。キリストに敵対し、キリストを信じていた者たちを捕らえては迫害していたのです。中にはそれによって命を落とした人もいるのです。絶対に許されないことです。しかし、そんな彼が神からあわれみを受けました。ダマスコという町に向かって進んでいたとき、そこで復活の主イエスと出会ったのです。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」という天からの声に対して、彼は一瞬、言葉を詰まらせます。「あなたはどなたですか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」その言葉を聞いたとき、彼は天と地がひっくり返るような衝撃を受けました。そして、そんなサウロであるにもかかわらず、キリストが彼に現れてくださったのは、ただ神のあわれみでしかないことを悟ったのです。そして彼は、ただちにこのキリストの福音を宣べ伝えたのです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造り替えられるのです。その名によって罪の赦しと永遠のいのちを受けることができるのです。

 アメリカにロバート・ファンクさんという、アメリカ最大の牧畜業を営んでいる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーでもあり、アメリカ最大の人材派遣会社の社長さんでもあられます。年間150万人くらいの人と面接して仕事を紹介している方です。
 この方のお母さんは熱心なクリスチャンでした。ですから、小さい頃から、いつも教会に連れて行かれたそうです。ところが学校を卒業してビジネスの世界に入った途端に、仕事が忙しくなって教会に行かなくなりました。でも彼は20年以上も教会に通っていたので、自分はクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っているし、分かっていると思っていました。
 ところがある時、今世紀最大の伝道者と言われているビリー・グラハムの集会に行き、そこで彼の語るメッセージを聞いたとき、彼は非常に考えさせられたと言います。それはビリー・グラハムがこう言ったからです。「本当の信仰とは、聖書をどれだけ知っているか、何年教会に通ったかではなく、生ける神との個人的な関係によって築かれるものだ。あなたは神とそういう関係を持っていますか。」
 神との個人的な関係?もしそれが本当の信仰ならば自分にはそれがない、と彼は感じたのです。メッセージが終わったとき、「今日、キリストと個人的な関係を持ちたい人は、どうぞ前に出て来てください」という招きに応じて、前に出て行きました。

 だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られるのです。古いものは過ぎ去ります。すべてが新しくされるのです。このイエス・キリストこそすべての人の主であり、この方を信じる人はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられるからです。
昔も今も変わらない福音のメッセージ、それはイエス・キリストはすべての人の主であるということです。これまでの聖徒たちがそうであったように、私たちもまたこれから先、この大切な福音のメッセージを携え、証ししていく者でありたいと願うものです。

 Ⅲ.異邦人にも聖霊の賜物が(44-48)
 
最後に、主イエス・キリストがすべての人の主であるということの確証を見て終わりたいと思います。44-48節をご覧ください。
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」

 神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、受け入れて下さるという真理を気づいたペテロは、イエス・キリストの福音を語りましたが、その説教がまだ終わらないうちに、すなわち、彼がなおもこれらのことを話し続けているときに、それを聞いていた人たちの上に聖霊がお下りになりました。まさに、あの使徒の働き2章に記されたペンテコステの時のようにです。

 いったいなぜこの時に聖霊が下られたのでしょうか。それは45節にあるように、聖霊は今やイスラエルだけでなく、イエス・キリストを信じるすべての人に、すなわち、異邦人にも下るということを目に見える形で示すためでした。ですから45節のところには、「割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたの」を見て、驚いたのです。聖霊が注がれ、そのしるしとして聖霊の賜物が与えられる。人々は異言を話し、神を賛美する。これは異邦人の救いの確かさを証しする証人がペテロ一人ではなく、彼とともにやって来た他のユダヤ人たちにも証しとなるためだったのです。このことは彼らにとってどれほどの驚きだったかわかりません。この後、15章のところで、ユダヤ人クリスチャンたちが異邦人の救いの出来事というものをただすんなりと受け入れたわけではないことが出てきます。当初は様々な疑い、戸惑い、反発といったものが相当あったのです。特にユダヤ人たちにとっては割礼の有無や食卓の清さ、安息日の厳守といったことは自分たちの民族的なアイデンティティーとして深く刻み込まれていましたから、その壁を越えて、その枠を乗り越えて異邦人たちを自分たちの兄弟姉妹として受け入れることは、並大抵のことではないチャレンジだったのです。けれども今やペテロとともにヨッパからやって来たユダヤ人クリスチャンたちも、ペテロとともに異邦人コルネリオとその一族が救われた出来事を目の当たりにしたのです。そして彼らもまた異邦人の救いの証人として、すなわち、イエス・キリストはすべての人の主であるという確証の証人として立たせられたのです。

 人間の偏見というものには、実に根強いものがあります。その偏見が取り除かれるためには、相当の努力が必要です。それほど人間は保守的であり、古い考え方や、やり方から抜けることができません。そんな人の偏見を取り除くために、神はだれの目にも明らかな方法によって、異邦人の救いという門戸を開放しようとされたのでした。それは昔も今も変わらず、イエス・キリストこそすべての人の主であり、私たちの罪を赦してくださる方であるという証明なのです。私たちがどんなに罪に悩み、罪の奴隷であったとしても、このイエス・キリストを信じるならだれでもその罪が赦され、すべての罪から解放されるというメッセージこそほんとうの福音であり、私たちがしっかり握りしめ、宣べ伝え、証しし続けなければならないものなのです。