使徒の働き15章1~21節 「エルサレム会議」

 きょうは、世界で初めて行われたキリスト教会の公式な会議であるエルサレム会議からご一緒に学びたいと思います。パウロとバルナバによって異邦人にも福音が伝えられていくと、エルサレムを中心としたユダヤ人クリスチャンたちとの間にいろいろな論争や対立が生じるようになりました。歴史には過渡期と言われる時期があり、そういう時には多少なりのぎくしゃくが起こることがありますが、それはキリスト教の歴史においても同じでした。福音が異邦人にも伝えられていくという転換期を迎えていく中で、ユダヤ人クリスチャンとの間に意見の相違や軋轢が生じたのです。しかもその問題は福音とは何かというキリスト教の本質に関わる重要な問題でした。その問題について話し合ったのがこのエルサレム会議です。教会はこの会議での話し合いを通して福音とは何かを正しく理解し、新たな宣教へと進んで行ったのです。

 きょうはこのエルサレム会議から三つのことを学びたいと思います。まず第一に、この会議が開かれるようになったきっかけです。それは、ユダヤ人クリスチャンが古い自分の考えにとらわれていたことに起因しました。第二のことは、この会議で確認された一つのことです。それは救いはただ神の恵みによるということです。そして第三のことは、この会議で確認された福音のもう一つの真理についてです。それは、つまずきを与えてはならないということです。

 Ⅰ.自分の考えにとらわれないで(1-5節)

 まず第一に、エルサレム会議が開かれるようになったきっかけから見ていきたいと思います。1~5節までをご覧ください。まず1節と2節です。

「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。」

 事の発端は、アンテオケに下ってきたユダヤの人々のことばでした。彼らはアンテオケにいたクリスチャンたちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と言ったのです。割礼とは男子の性器を覆っている皮を切り取る儀式で、それは旧約時代の選民のしるしでした。それを受けなければ救われないというのは、救いにはイエス・キリストを信じる信仰だけでは足りないということです。信仰プラス割礼が必要だと言うことになります。彼らにしてみたら、主イエスの福音によって救われたとはいえ、ずっと長い間守り続けてきた律法の生活はなお残っていたのでしょう。ですから、後から救われてきた異邦人クリスチャンたちも自分たちと同じような道を通るべきだと考えたのです。

 しかしそのことでパウロやバルナバとの間に激しい対立と論争が生じました。というのは、パウロたちが宣べ伝えた福音は、人はたとえどんな人であってもその罪を悔い改めイエス・キリストを救い主と信じるなら救われるというものだったからです。救われるためにはユダヤ教の伝統や律法を守らなくても、異邦人が異邦人のままで救われると教えていたのです。この福音に少しでも何かを付け加えることがあるとしたら、それはもう福音ではありません。ですからこれは救いの本質に関わる重要な問題であり、異邦人クリスチャンたちとユダヤ人クリスチャンたちの一致を脅かす大きな問題でした。そこでパウロとバルナバはこの問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになりました。3~5節です。

「彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。」

 エルサレムに到着したパウロとバルナバは、教会と使徒たち、長老たちに迎えられると、神が彼らとともにいて行われたすべてのことを報告しました。それは彼らが第一次伝道旅行を終えてアンテオケ教会に戻った時に報告したことと同じです。14章27節には、「神が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」とありますが、ここでもそのように報告したのでしょう。

 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々は、パウロとバルナバたちが語ることを受け入れることができませんでした。彼らは、異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守らせるべきだと主張したのです。彼らは異邦人がイエス・キリストを信じて聖霊を受けたということを聞いても、相変わらず古い契約に固執し、それに縛られていたのです。彼らがしていたことはすべての人がキリストの福音によって救いに導くことではなく、キリストを信じるユダヤ教徒を作ることだったのです。このように自分の考えにとらわれてしまうと、ともすると神の働きを妨げてしまうことがありますから注意しなければなりません。大切なのは、神の働きに敏感であるために、いつも自分の考えにとらわれないようにすることです。

 Ⅱ.ただ恵みによって(6-19節)

 では次に、この問題をどのように解決したかを見ていきましょう。6節をご覧ください。

「そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。」

 パウロやバルナバたちとユダヤ主義クリスチャンたちとの間に対立が生じたとき、使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まりました。ここに世界で初めてのキリスト教界における公式な会議が開かれました。これがエルサレム会議です。このように重要な事柄を会議で決めるという伝統は、教会がこの長い歴史の中で大切に培い、養ってきたことです。それは、人間の知恵を出し合い、合意を目指すということよりも、教会のかしらであられる主イエス・キリストのみこころを尋ね求め、それを受け取り、それに従うために開かれるものです。ある人にとっては教会の中にこのような争いが起こると自体が受け入れられないという方もいますが、教会が真理を究明し、自分たちが信じていることを極めていこうとする時には、このような論争が避けられないこともあるのです。そのうよな時にはどうしたらいいのでしょうか。みことばを中心にして、聖霊の導きを祈りながら話し合うことです。教会に問題が起こることが問題なのではなく、それをどのように解決していくのかが重要なのです。初代教会はこのような問題が起こったとき、その問題の解決のために話し合いました。その内容が7~19節までに記されてあることです。まず11節までのところをご覧ください。激しい論争があって後、ペテロが立ち上がってこう言いました。

「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

 ここでペテロが指摘したことは二つの事実です。一つは、使徒の働き10章に出てきたあの異邦人コルネリオが救われた出来事です。彼が救われたのはどのようにしてだったのでしょうか。彼が救われたのは、彼が割礼を受けたり、律法を守ったからではありませんでした。彼はただペテロの語った福音のことばを聞いて信じただけでした。そのとき自分たちと同じように聖霊を受けるということを経験したのです。すなわち、神は彼らの心をユダヤ人たちと何の差別もつけずに、ただ信仰によってきよめてくださったのです。

 ペテロが取り上げたもう一つのことは、自分たちが負いきれなかったくびきのことです。その「くびき」とは律法のことです。それはユダヤ人の先祖たちも、自分たちも負いきれなかったくびきでした。それを守ろうとしても、自分にはそんな力などなく、それは重荷でしかなかったというのがペテロの抱いた率直な気持ちでした。律法を完全に守れる人間などひとりもいないからです。ではどういうことになりますか。律法によっては救われなかった私たちがどのようにして救われたのかというと、それはただ主イエスの恵みによるのです。であればなおのこと、異邦人が救われるのも主イエスの恵みによると言えるのではないでしょうか。なのにそのくびきを彼らの首に掛けるようなことをしてはいけない。それは神を試みることになるのだ、というのです。

 ウォーフィールドという人は、「事実というものは、なかなか手ごわいものである」と言いましたが、このペテロの語った事実というのは、なかなか説得力がありました。人間の学説や解釈をあざ笑うかのように、一見理屈に合わないようなことでも立証してしまう力がありました。しかもペテロの論じ方は単なる事実ではなく、あらかじめ神が幻によってみこころを示された解釈付きの事実でした。だからこそ、彼はこの出来事を「神が・・・お決めになり」「神があかしをし」と断言することができたのです。それを聞いていた全会衆が沈黙するほどの説得力がありました。 

 そして、彼の主張を裏付けるかのように、パウロとバルナバが、先の伝道旅行において、神が彼らを通して異邦人たちの間でなされたしるしと不思議なわざについて話しました。12節です。事実に基づいたペテロの経験に加えて、しるしと不思議なわざの伴ったパウロとバルナバの働きを通して、異邦人もまた信じるだけで救われるということが、少しずつ理解できるようになりました。

 極めつけはヤコブの発言です。このヤコブとは主イエスの実際の兄弟で、ヤコブの手紙を書いたヤコブです。この時にはエルサレム教会の牧師をしていたのではないかと思われていますが、彼は次のように言いました。13~19節です。

 「兄弟たち。私の言うことを聞いてください。神が初めに、どのように異邦人を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになったかは、シメオンが説明したとおりです。預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる。』そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」

 彼の発言は、この会議の総括とも言える重要なものでした。彼はまず、ペテロをユダヤ名で「シメオン」と呼び、彼が語ったことを全面的に支持すると、さらにその根拠として旧約聖書を引用して、異邦人の救いは旧約時代からの約束であったことを示しました。ここに引用されているのはアモス書9:11~12のみことばですが、これはアモスが、滅び行くイスラエルの未来を預言して、後の日にもたらされるダビデ王国の復興を終末における神の国の成就の幻と重ね合わせて語ったことです。そこでは単に王国が立て直されるばかりではなく、「わたしの名で呼ばれるすべての異邦人がみな、主を求めるようになる」ということでした。つまり異邦人の救いがイスラエルの再建とともに、その王国の拡大をもたらす終末的な祝福として位置付けられていたのです。

 もちろん、このような預言を語ったのはアモスが最初ではありませんでした。ずっと遡っていくと、創世記の中でアブラハムにも語られていたことがわかります(創世記17:4~5)。このように異邦人が救われるということはずっと昔から旧約聖書で預言されていたことであり、神のみこころだったのです。ですから、ヤコブはこう結論しました。19節です。

「そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。」

 この「悩ませる」という言葉は、ペテロが10節で語ったように、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、異邦人クリスチャンたちの首にかけるようなことをしてはならないということです。つまり、ユダヤ人クリスチャンは異邦人の回心者たちに、割礼やユダヤ教にかかわる律法を課してはならないということです。だれであれ、救い主イエスキリストを信じて神に立ち返るなら、救われるのです。そこには何の条件もありません。私たちを縛り付けるための律法は何一つないのです。ただイエス・キリストを信じるだけで救われる。それが福音です。これがこの会議で確認されたことでした。であれば私たちはこの恵みに生きる者でなければなりません。だれひとり、くびきを負わせて悩ませるようなことをしてはならないのです。

 「だれも知らなかった恵み」という本を書いたフッリップ・ヤンシーは、その本の中で、クリスチャンは頭ではそのことが分かっていますが、実際の生活はというと、強迫的なまでの努力を繰り返していると指摘しています。人の心はもちろん、神の心まで引こうと必死に努力しているというのです。神のもとに行くには何かをしなければならないと本能的に思ってしまうというのです。しかし神の恵みとは、私たちのどんな行いをもってしても、神の愛を大きくすることでも小さくすることでもありません。恵みとは、救われるに値しない者が救われること。ただ救い主イエスを見上げることでしかないのです。

 それにしても、このヤコブのすばらしかった点は、彼がこの福音の真理に導いていく上で御言葉を通して神のみこころを求めたことです。なぜなら、このような会議において重要なことは、ただ人間の知恵を出し合い、合意を目指すということではなく、神のみこころを求め、それを受け取り、それに従うことだからです。そのために必要なことは、こうした話し合いが神の御言葉と聖霊の導きの中で、神のみこころに聞き従うというへりくだった姿勢のもとで行われることであり、そのようにして決められたことでも絶えず御言葉によって検証され、後で誤りが認められたなら、いつでもそれを修正し撤回することができるという柔軟な姿勢を持つことです。ヤコブは、旧約聖書を通して異邦人がみな主を求めるようになることが神のみこころであり、であるならば、そうした異邦人を悩ませてはいけないと結論することができたのです。それはまさに28節にあるように、「聖霊と私たちが・・決めた」ことだと言えるでしょう。がゆえに、この会議で確認されたことはとても重要なことであり、私たちがしっかりと守り続け、立ち続けていなければならない真理です。それは、私たちが救われれるのは私たちが何かをすることによってではなく、主イエスの恵みによってであるということだったのです。

 Ⅲ.つまずきを与えないように(20-21節)

 第三のことは、つまずきを与えないようにということです。このようにして導き出された結論ですが、ヤコブの勧めはそれだけで終わっていません。彼は「ただ」と言葉をつないで、次のように言いました。20~21節です。

「ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います。昔から、町ごとにモーセの律法を宣べる者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 どういうことでしょうか。ここで取り上げられている避けるべき四つの事柄は、どれも旧約の儀式律法に関することです。いましがた、異邦人は異邦人のままてで、ただイエス・キリストを信じるだけで救われるのであって、そのような律法の要求を異邦人につきつけることによって彼らを悩ませてはいけないと言ったばかりのヤコブがこのようなことを言うことは、一見矛盾しているかのように感じます。このようなことを言うことは、それもまた異邦人を悩ませることになるのではないでしょうか。彼はなぜこのようなことを言ったのでしょうか。その理由は21節に記されてあります。それは「昔から、町こどにモーセの律法を宣べ伝える者がいて、それが安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」つまり、異邦人クリスチャンの周囲には、安息日ごとにユダヤ諸会堂で律法の朗読を聞いているユダヤ教の人たちがいるので、そういう人たちのつまずきにならないようにする必要があったということでするというのは、この四つの事柄は特に目立つ規定だったからです。救われるためにこのような律法を守らなければならないのではありません。私たちが救われるためには、ただイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるだけでいいのです。このような律法を守るか守らないかは全く関係ありませんが、しかし、世間の人々のつまづきになるか否かという点から考えると、この四つの項目は心して避けるべきものだったのです。パウロはIコリント9:19~22で次のように言っています。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです」

 ここでパウロは、自分はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となったと言いました。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにです。弱い人々のためには、弱い者になりました。それは何とかして幾人かでも救うためです。具体的には、偶像に備えた肉を食べてもよいかどうかと言うときも、偶像の神なんていないのだから、備えられた肉を食べても別に問題はないという見解を持っていましたが、彼は食べることをしませんでした。なぜなら、偶像に備えた肉を食べたら汚れるのではないだろうかとか、悪霊につかれてしまうのではないだろうかと、心配する人たちがいたからです。そういう人たちにつまずきを与えないために、あえて食べないことにしたのです。彼の言動の基準はいつも、福音のために生きるということでした。何とかして、幾人かでも救われてほしいという願いがあったからです。

 かつて、日本にスイスからとても有名な一人の神学者がやって来ました。その人の名前はエミール・ブルンナーです。彼は日本の大学や神学校で教えるために約2ヶ月間日本に滞在しました。実は彼は大変な愛煙家なのです。彼の著書の表紙にはよく写真が載っているのですが、だいたいは口にパイプをくわえています。ところが彼が日本にいた二ヶ月間、彼は一本のたばこも吸いませんでした。それで、心配したある人が聞きました。「博士。日本のたばこはお口に合いませんか」すると彼はこういい言いました。「私は日本に来る前に、日本のクリスチャンたちの多くは、禁酒、禁煙をモットーにしていると聞きました。それがスタンダードな日本の教会の考えだと。だから、私がたばこを吸うとによってつまずく人がいるかもしれない。もちろん、いないかもしれない。でもいるかもしれない。もし一人でもそういう人がいる可能性があればと考えたので、私は日本にいる間は一本のたばこも吸わないことに決めたのです。」そう言って彼は本当に吸わなかったのです。すごいですね。でも、これが福音に生きる大人のクリスチャンの考え方です。すべては福音のために。それゆえに彼は弱い人のためには、弱い人のようになったのです。

 インドネシアのボルネオ島に21世紀のシュバイツァーと言われるお医者さんがいます。この方の名前は、ドクター・ゲーリーと言いますが、彼は医療宣教師としてそこで働いておられます。
 ドクター・ゲーリーは、アメリカのミネソタ州の小さな村で生まれました。15歳の時、イエス・キリストを自分の救い主として信じました。そして16歳の時に、アフリカから帰国した宣教師が各地の教会を回って報告した話を聞いて、自分も大きくなったら医者になって、宣教師として海外で神様のために働きたいと思うようになりました。やがて医師の資格を取り、宣教師の訓練を受けてから、今いる西カリマンタンのボルネオ島に遣わされました。そこには50万人もの人が住んでいるのに、医者はたった3人しかいませんでした。最初に遣わされた町には、電気も、ガスも、水道もありませんでした。そういうところで彼は、36年間も奉仕したのです。その36年の間に、彼も、また彼の家族もマラリヤなどのさまざまな風土病にかかりながらも、その奉仕を続けてきたのです。なぜそういう生き方をしてきたのか。その理由はたった一つだけです。キリストの福音のためにです。彼は医師としてアメリカにとどまり、そこで医師として奉仕することもできましたし、それもまたすばらしい方法であったに違いありません。しかし、あえてこのような道を選んだのは、パウロのように幾人かでも救いたいと思ったからなのです。彼はそこにいる人たちの救いのために、彼らのようになりました。祖国の快適な生活を捨てて、宣教師になって、ガスも、電気も、水道もないような所に行って仕えたのです。

 考えてみたら、私たちの主イエス様もそうされました。イエス様は神でありながらも、神であるという考え方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それは罪人を救うためです。イエス様は罪人を救うために罪人のようになられたのです。それが神のみこころであり、福音に生きる者の姿です。私たちはだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になるべきです。ユダヤ人にはユダヤ人のように。ギリシャ人にはギリシャ人のように。だれひとり、つまずかせてはならないのです。

 ですから、ヤコブがここであれこれの行状を慎むべきだと言ったのは、そのように多くの人を救うことが神とキリストのみこころであるという大前提の下で語られた忠告であって、ある人たちが考えるように、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンが互いに歩み寄り、妥協を図ったからではないのです。それはただキリストの福音に表された神のみこころを第一に求めた結果導き出された結論だったのです。
 
 もし私たちが、ほんとうに、神のみこころを第一に求めるならば、だれひとり、くびきを負わせて悩ませてはなりません。また、もし私たちが、ほんとうに、キリストの福音に表された神のみこころを第一に求めるならば、だれひとり、信仰以前の問題でつまずかせてはならないのです。パウロのように、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにと、喜んで自分の生活を律し、すべての人に対してすべての人のようになることを求めていかなければならないのです。このどちらかを忘れて、兄弟をさばいても平気、いや、つまずかせても平気、というのであれば、それはほんとうの意味で、キリストの福音を正しく理解していないことなのです。それは兄弟愛の欠如とか教会観の間違いということではなく、福音を福音としてつかんでいないからなのです。

 どうか、私たちの教会の一致というものもまた、この世の知恵とか常識といったものから出たものではなく、あるいは、互いが歩み寄って譲歩することによってもたらされるというものでもなく、福音を福音として正しく受け止め、この福音によって救われ生かされた者であるから、すなわち、主イエスの恵みによって生かされているからところから生まれたものでありますように。この福音のいのちが、私たちの教会にいつも脈々と流れていきますように。これこそ、このエルサレム会議を通して明らかにされた福音の奥義だったのです。