きょうは、この使徒18章12節からのところから、「神のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。一つのことばが私たちの人生において大きな励ましや力強い支えになることがあります。そして、そのような一つのことばを頼りにしながら、試練や苦しみの中を歩み続けていくという経験をさせられることがあるのです。1年半にわたるコリントでの生活において、パウロを支え続けた言葉とは何だったのでしょうか。それは、9節と10節で主が語られた「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」という言葉でした。その言葉に支えられてパウロは、このコリントでの宣教を続けることができたのです。
きょうの箇所には、そんなみことばの確かさを証しする一つの出来事が記されてあります。ガリオが地方総督であったとき、ユダヤ人たちがこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて、行って訴えたのですが、ガリオはその訴えをユダヤ人だけの問題として取り扱うことをしなかったのです。ここにみことばの確かさがあります。主が語られた言葉は必ず実現するのです。主が語られたとおり、パウロに危害を加える者はいなかったのです。このような確かな主のみことばに励まされながら歩む人生はどんなに幸いなものでしょうか。きょうは、この神のみこころに生きたパウロの生涯について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神はご自分のみこころのとおりに導いておられる方であるということ。第二のことは、神のみこころに生きたパウロの姿についてです。そして第三のことは、神のみこころを判別する基準は、教会に仕える者としての自覚から生まれるということについてです。
Ⅰ.みこころのとおりに導いておられる神(12-17)
まず第一に、神はご自分のみこころのとおりに導いておられる方であるということについて見ていきたいと思います。12-17節をご覧ください。まず12節と13節です。
「ところが、ガリオがアカヤの地方総督であったとき、ユダヤ人たちはこぞってパウロに反抗し、彼を法廷に引いて行って、「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています。」と訴えた。」
コリントにおけるパウロの伝道で、多くの人たちが信じてバプテスマを受けると、そのことでねたみに燃えたユダヤ人たちがパウロに反抗して、彼を法廷に引いて行き、時の総督ガイオに訴えました。「この人は、律法にそむいて神を拝むことを、人々に説き勧めています」と。この「律法」とは旧約聖書の律法のことではありません。ローマの法律のことです。旧約の律法であったのなら、ローマの総督に訴える意味がなかったからです。彼らは、パウロが伝えていた宗教はローマ法によって認められていない宗教だから、ローマ法によって禁ずべきだと訴えたのです。
これまでパウロは何度かこのように訴えられたことがありましたが、今回の訴えはこれまでのものとは比較にならないほど重要な意味がありました。確かに彼はピリピやテサロニケでも訴えられたことがありましたが、ピリピで訴えられた時は長官たちにであり、テサロニケで訴えられた時は町の役人たちにすぎませんでした。しかし、今度は違います。今度はローマの総督です。かつてユダヤ教の祭司長や律法学者たちがイエス様を訴えたピラトと同じローマの総督なのです。ですから、そうした町の役人たちに訴えるのとは訳が違うのです。ローマの総督が下す判決というものは、その管轄の州において有効であったばかりでなく、ほかの州の総督が下す判決の前例ともなったのです。ですから非常に重いのです。もし彼がパウロに対して不利な判決でも下したとしたら、その後のキリスト教の歴史に大きな影響を及ぼしたことでしょう。それほど重く、大きな事件でした。
そのような訴えに対して、ガリオはどのように対処したでしょうか。14~16節です。
「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った。「ユダヤ人の諸君。不正事件や悪質な犯罪のことであれば、私は当然、あなたがたの訴えを取り上げもしようが、あなたがたの、ことばや名称や律法に関する問題であるなら、自分たちで始末をつけるのがよかろう。私はそのようなことの裁判官にはなりたくない。」こうして、彼らを法廷から追い出した。」
パウロが弁明しようと口を開こうとしたら、何とガリオの方から、この訴えを却下してしまいました。その理由は、今彼らが訴えていることは、ユダヤ教内部の宗教用語のことであり、信仰の内容に関するものだったからです。ローマ法に違反したことであるならば、その訴えを取り上げることもできるけれども、今訴えている問題はそういうことではなく、自分たちの宗教に関することなんだから、自分たちの間で解決すべきだというのです。これはまことに名裁判というべきです。総督ガリオは、自分たちの取り上げるべき問題と、そうでない問題とを明確に区別していました。彼は裁判官であったばかりでなく、政治家でもあったので、その限界をよく心得ていたのです。そして、政治が宗教の分野に介入することを避けました。
彼がユダヤ人の訴えに対して、このように扱ったのは、別にキリスト教に対して好意を持っていたからではありません。そうしたことに関わりたくなかっただけです。あまりわからないことに首を突っ込んだとしても、正しい判断を下すことなど出来ないでしょうし、自分の分は、ローマの法律に基づいてきちんと裁判をすることだとわきまえでいたのです。また、18:2のところで、クラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたとありますが、それはローマのユダヤ人社会にキリスト教が伝えられたことによって生じたあつれきと騒動が原因であったことを知っていたので、この問題をいいかげんにすれば、自分の首がとられるのではないかと思ったのでしょう。ですから、一番良いのはこのような事件には関わらないことだと思ったのです。しかし、別の視点で見るならば、こうしたガリオの判断もまた、その背後で神が導いておられたことだと言えるでしょう。というのは、ここでガリオが下した裁定は、キリスト教もまたユダヤ教同様、ローマ法の保護の下にあることができるという内容だったからです。これは、後にローマ皇帝ネロがキリスト教を迫害するまでの約12年間(ネロの迫害はA.D.64年。ガリオの統治はA.D.52年であった)、キリストの福音がローマ法と衝突しないで、ローマ帝国内に浸透していくための神の導きによるものだったのです。
このように神は、時に、ご自分のみこころをなされるために、未信者の為政者を用いることもあるのです。かつてイエス様がお生まれになられた時もそうでした。預言者ミカによると、救い主はベツレヘムで生まれると預言されていましたが、その父ヨセフと母マリヤが住んでいたのはガリラヤのナザレでした。実に150キロも離れたところにいたのです。その救い主がベツレヘムで生まれるために、主はどのようなことをされたでしょうか。ローマ皇帝アウグストの人口調査の勅令を用いられました。それでヨセフとマリヤは、ベツレヘムに上って行ったのです。ヨセフが、ダビデの家系であり、血筋であったからです(ルカ2:4)そしてここでは、福音がローマ帝国一帯に広がるために、アカヤの地方総督ガリオの裁定を用いられました。それはまた、先に幻によってパウロに主が約束されたことを守るためでもありました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。」
皆さん、私たちの神はどこまでも約束を守られる方であり、歴史を支配し動かしておられる方です。未信者を用いてまで、ご自分のみこころを行われる方なのです。そして、この方のみこころに従って歩もうとする者を顧みてくださり、行き届いた配慮を示してくださる恵みの方なのです。であれば、私たちがどうしようもない大きな問題に圧倒されることがあっても、この方を見上げるなら、そこに大きな希望を抱くことができるのです。それは、この方がどんなに小さなことをも見逃さず、すべてのことを働かせて益としてくださるあわれみ深い方だからであって、そのことがわかるとき、私たちの悩みはすべて消え失せるからです。私たちが見なければならないのは、目の前のちっぽけな問題ではなく、この歴史を動かし、ご自分のみこころのとおりに導いておられる神なのです。
Ⅱ.神のみこころなら(18-21)
次に、18-21節までのところに注目してみましょう。まず18節です。
「パウロは、なお長らく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向けて出帆した。プリスキラとアクラも同行した。パウロは一つの誓願を立てていたので、ケンクレヤで髪をそった。」
1年6ヶ月という、コリントにおける異例の長い滞在の後、パウロはアクラとプリスキラ夫妻を伴ってシリヤに向かいました。このシリヤというのは、彼が送り出されたアンテオケ教会がある所です。約2年にわたる第2回目の伝道旅行を終えて、ひとまず帰ろうとしているのです。彼らは、船で、コリントの東側にあったケンクレヤという港から出帆したのですが、そのケンクレヤで、髪をそったことが記されてあります。パウロは一つの誓願を立てていたので、その誓願を終えたこの時、髪をそったのです。この誓願とは旧約聖書に定められていた「ナジル人の誓願」のことではないかと考えられています。このナジル人の誓願については、民数記6章2~5節のところに記されてありますが、このところによると、このナジル人の誓願とは、主のものとして身を聖別するための特別の誓いのことで、この期間はぶどう酒や強い酒を断たなければなりませんでした。また、この誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならなかったのです。髪を切ってはいけないということです。ですからパウロはある固い決意のもとに自らを聖別して一定の期間を過ごし、その願いの期間が満ちたので髪をそったのです。パウロが聖別してまで願っていたこととはいったい何だったのでしょうか。それが何だったのかはここには書いていないのではっきりはわかりませんが、恐らく彼のコリントでの伝道と何か関係があったのではないかと思います。コリントでは激しい迫害がありました。この先どうなるかもわからない中で、1年半も腰を据えて伝道したのです。そうした中で与えられたのが主の励ましと約束の言葉でした。「恐れはならない。わたしはあなたとともにいる。だれもあなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるから・・・」と。それはパウロにとってどれほど大きな慰めであり、励ましであったでしょうか。そうした中で彼は、コリントでの伝道が守られるように、特別の誓願を立てたのだと思います。そのコリントでの働きを終えた今、その期間が終わって髪を剃り、シリヤに向けて出帆しようと思ったのです。それほどの固い決意と期する思いをもってコリントでの宣教に励んだのでした。
ところで、彼らがエペソに着くと、パウロはアクラとプリスキラをそこに残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じました。すると人々は、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、彼は聞き入れませんでした。どうしてでしょうか。21節をご一緒に読んでみたいと思います。
「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。」と言って別れを告げ、エペソから船出した。」
エペソといったらアジア州の首都です。かつてパウロが伝道することを切望していた町です。その時には、聖霊によってアジアでみことばを語ることを禁じられたので、急遽進路を変更してマケドニヤに渡ったという経緯がありました(16:6)。しかし、今、こうしてようやく念願叶ってやってきたこのエペソ、しかもこれまでになく人々の反応は好意的でかつ熱心でした。もっと長くとどまって、みことばを聞かせてほしいと懇願するほどでした。それなのに彼らに別れを告げて、船出したというのはどうしてだったのでしょうか。どうも水が合わなかったとか、早くエルサレムやアンテオケに帰りたかったということではなかったようです。というのは、その後でパウロはすぐに第三回目の伝道旅行を始めると、このエペソにやって来て3年にわたり、腰を据えて伝道しているからです。とすればむしろこのエペソでの滞在を一端切り上げてでもエルサレム、そしてアンテオケに戻らなければならなかった事情があったからと考えられます。ではその事情とは何だったのでしょうか。
聖書はそれをこう言っています。「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」つまり、そこにとどまることは神のみこころではなかったということです。ここで彼が「神のみこころなら」と言っている言葉に注意したいと思います。というのは、私たちもよくこの言葉を使うからです。「どうですか、今度・・に来ませんか。大歓迎しますか・・」「神のみこころだったら・・・」「今度、是非、・・しましょう」「神のみこころだったら・・・」そう言うではありませんか。しかし、よく考えてみると、私たちがこの「神のみこころだったら」という言葉を使う時には、どちらかというと消極的な意味で使っているのではないでしょうか。自分の本心を信仰のオブラートに包んで装うかのようなことに使うことが多いのです。しかし、この言葉はそのような言い訳や責任を回避するような場合に使うような言葉ではないのです。むしろ、その事柄が求める重荷を引き受けていく信仰の決断、従っていく服従とともに使われることばなのです。いわば「神のみこころならばどんなことでもす。」というパウロの気持ちの表れです。このときパウロはそれほど悩んでいました。エペソにとどまるべきなのか、それともエルサレムに向かって行くべきなのか、二つの道を前にして相当悩んだのではないかと思うのです。そのような時に、彼の下した判断の基準は何だったのか。それはただ一つ「神のみこころなら」ということでした。そして彼に対する神のみこころは、カイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行」くことでした。あれほど行きたいと思っていたエペソの町で、こんなに自分を歓迎してくれるなら、だれだってずっとそこにとどまって伝道したいと思うものです。彼もそうしたいと思ったに違いありません。しかし、今は違う。今主が願っておられることはエペソにとどまることではなく、エルサレムに向かうことだと示され、そのように決断したのです。なぜそこまでしてエルサレムに行かなければならなかったのかはわかりません。恐らく、それはエルサレムの貧しい聖徒たちを助けるための献金を持っていくためではなかったかと思います。エルサレム教会の貧しい兄弟たちを助ける献金はすでにアンテオケ教会が初めていたことでしたが、彼はそれを生涯の自分の務めとして行っていたのです。ですから、せっかくエペソでの伝道の道が開かれたにもかかわらず、それを振り切って、エルサレムに向かって行ったわけです。それが神のみこころと確信したからです。
パウロは、自分の願いや人々の親切などによって心動かされるような人ではありませんでした。彼にとってはいつも「神のみこころ」が第一だったのです。神が願っていることは何かを求め、そこに生きたのです。ですから、どんなに自分に好意を持ってくれる人がいようとも関係ありませんでした。エルサレムに向かってまっしぐらです。もしエペソに戻ってくることが神のみこころならば、戻ってくるのです。どこに行くか、何をするかは、すべて神のみこころにかかっていました。彼がケンクレヤで髪をそったということもそうなのです。彼はコリントで誓願を立てていましたが、誓願もまた神に向かって立てられるものです。そのように彼は常に神を見つめて生きていたのです。
それは私たち信仰者の姿でもあります。皆さんはどこを見つめて生きるのでしょうか。何を基準にして生きるのでしょうか。私たちは常に神を見つめて生き、神のみこころに従って生きる者でありたいと思います。
Ⅲ.教会に仕える者として(22)
ではその神のみこころを、どうしたら正しく判断することができるのでしょうか。最後に、どうしたら神のみこころを正しく判断することができるかについて触れておきたいと思います。私たちが神のみこころを判断する基準は、もちろん神のことばです。神のことばである聖書は何といっているかがその基準です。しかし、その神のことばとともに、私たちが覚えておかなければならない大切な原則があるというのです。それは、教会に仕える者としてどうあるべきなのかという視点です。22節をご覧ください。
「それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。」
15章36節から始まった約4年間におよぶ第二次伝道旅行が終わりを迎えます。パウロはエペソを船出するとカイザリヤに上陸し、陸路エルサレムに向かいました。そして、教会にあいさつしてから、自分を宣教に送り出したアンテオケ教会へと下って行きました。エペソでの宣教を切り上げてでもこのエルサレムに行かなければならなかった理由については、先ほども申し上げたように、エルサレム教会の貧しい兄弟たちを助けるために献金を手渡すためでした。献金を届けるためならば他の人を遣わすこともできたでしょうが、彼が献金を届けたのには、それがただ単に献金を届けることだけでなく、あいさつをするためでもあったからです。ですからここに、「エルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った」とあるのです。
教会にあいさつをするとはどういうことなのでしょうか。「ああ、こんにちは。久しぶりですね。お元気でしたか。お会いできて本当にうれしゅうございます。」まぁ、このような会話も含まれるでしょうが、ここで言われている「あいさつ」というのはそうした言葉以上の愛の交わりであり、足かけ4年にも及んだパウロの第二次伝道旅行の成果をこのエルサレム教会に対して報告するということでもあったのです。これはパウロの母教会であり彼を宣教に使わしたアンテオケ教会でも成されたでしょうが、このエルサレム教会に対して宣教の報告を重んじていたというところに、パウロが教会に仕えていた姿を見ることができると思うのです。つまりパウロが行っていた宣教の旅は、決してパウロ一人の個人プレーによるものではなく、教会から送り出され、派遣され、教会を代表して行った教会のわざであったということです。そして、その使命を果たし終えて今、再びその教会に戻り、神が彼らとともにいて行われたすべてのことを報告するのです。これは極めて公的な働きだったのです。ここに私たちは、教会に仕える者としてのパウロの自覚を見ることができます。そしてここにこそ神のみこころを判断していく基準があると思うのです。つまり、自分が行きたいから行く、行きたくなければ行かない、人々が聞き入れるならとどまるが、そうでなかったら退くというようなことではなく、主に召された者として、絶えず教会に仕える者として神のみこころが何なのかを判断し、それに従って行くのです。
私たちの信仰は、決して個人プレーではありません。神の家族である教会の交わりの中でどうあるべきなのかが求められているのです。パウロがエペソにとどまらなかった理由もそこにありました。個人的にはとどまってみことばを語りたかったでしょうが、神の国全体を考えたとき、それよりももっと重要なことがあることに気づいたのです。それは、献金を届けることでした。献金を届けることによって、聖徒たちを支える交わりの恵みにあずかりたいと思った。また、自分を宣教に送り、そのために祈り、支えてくれた教会の兄弟姉妹にその恵みを証し報告したいと思ったのです。なぜなら、彼の働きは彼だけのものではなく、教会のわざだったからです。
先月行われたサッカーのワールドカップで、日本は一次予選を通過して決勝トーナメントまで駒を進めましたが、惜しくも1回戦で南米のパラグアイにPK戦の末敗れました。日本チーム3人目の駒野がけったボールはゴール左上のクロスバーを直撃し、外れてしまいました。試合後、駒野がピッチに崩れ落ちると、松井が肩を抱いて一緒に泣き、阿部も目を真っ赤にして駒野を支えました。出番がなかった稲本が笑顔をつくり、サポーターの元へ導きました。主力も控えもみんな一つになって彼を支えたのです。
教会はまさにサッカーのチームのようです。Iコリント11:26,27には、
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
とあります。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。私たちはキリストの体であって、ひとりひとりは各器官だからです。それは、神のみこころを判断する時も同じなのです。家族全体の中で自分がどうあるべきなかを考える。それが大人の信仰であり、神が望んでおられる姿です。
駒野選手は小さい時にお父さんを病気で亡くされ、女手一つで育ててくれたお母さんを「早くプロになって楽させてやりたい」と言っていたそうです。そしてプロになると、大学に通う弟のために安い給料の中から毎月仕送りしていたというではありませんか。この駒野選手の生き方の中に、クリスチャンとしての歩みの大切な原則が見られるのではないかと思うのです。それは、絶えず神の家族である教会という枠組みの中で、自分が何をすべきなのかを判断していくということです。なぜなら、そこに神のみこころがあるからです。ヤコブ4:13~15
には、
「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
主が私たちに願っておられることは、私たちが神のみこころに生きることです。自分がしたいからするとか、他の人がそのように期待しているからするというのではなく、神のみこころだからそうする。そういう基準をもって進んでいきたいものです。