使徒の働き18章24~28節 「神の道をもっと正確に」

 きょうは「神の道をもっと正確に」というタイトルでお話したいと思います。26節に、「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に説明した」とあります。アポロの話を聞いていたプリスキラとアクラは、彼を自宅に招き、神の道をもっと正確に説明しました。するとアポロはそれを聞き入れ、やがてアカヤに渡ると、聖書によって、イエスがキリストであることを力強く証明し、そこにいたクリスチャンたちを大いに助けました。

 きょうはこのアポロに神の道をもっと正確に説明したプリスキラとアクラの働きから、三つのことを学びたいと思います。第一のことは、アポロの信仰の欠陥についてです。彼は、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。第二のことは、そんなアポロを建て上げたアクラとプリスキラの愛についてです。第三のことは、その結果です。正しい聖書の知識を身につけたアポロは、アカヤでイエスがキリストであることを力強く語ることによって、そこにいた信者たちを大いに助けることができました。

 Ⅰ.アポロの信仰の欠陥(24-25)

 まず第一に、アポロの信仰の欠陥から見ていきましょう。23節をご覧ください。

「そこにしばらくいてから、彼はまた出発し、ガラテヤの地方およびフルギヤを次々に巡って、すべての弟子たちを力づけた。」

 第二次伝道旅行から戻り、エルサレム教会であいさつをしてからアンテオケ教会に行ったパウロは、そこにしばらくいてから、また宣教の旅へと出かけて行きました。これが21章16節まで続くいわゆる第三次伝道旅行の始まりです。この伝道旅行はおおむね3年半ほどの期間であったと考えられていますが、そのほとんどの期間をエペソで過ごします。今回の旅の目的は、ここに書いてあるように「すべての弟子たちを力づけ」ることでした。そこで小アジヤ地方の諸教会およびフルギヤを巡って、すべての弟子たちを励まし、エペソへと向かって行ったのです。そのエペソに着いてからの出来事については19章1節からのところに続くのですが、そうやって彼がエペソに向かっていたとき、そのエペソで一つのエピソードが起こっていました。それがきょうのところです。24節と25節をご覧ください。

「さて、アレキサンドリヤの生まれで、雄弁なアポロというユダヤ人がエペソに来た。彼は聖書に通じていた。この人は、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、また教えていたが、ただヨハネのバプテスマしか知らなかった。」

 このエペソの町に、アレキサンドリヤの生まれで、アポロという雄弁なユダヤ人がやって来ました。この人は聖書に通じており、主の道をよく教えられていて、霊に燃えて、イエスのことを正確に教えていました。この「雄弁」というのは単に弁が立つというだけでなく、十分な知識と教養、学識があったという意味です。そして聖書に通じていたというのも、単に聖書の知識があったというだけでなく、非常に聖書に精通していたということです。それでけではありません。彼は、伝道にも熱心で、霊に燃えて、イエスのことを大胆に語っていました。頭が切れて、弁も立つ。そして、物怖じせずに大胆に、かつ冷静沈着に語るという、まさに野球で言うならば走・攻・守の三拍子そろった選手のような人で、類い希な資質を持っていたのです。そんな彼ですから、おそらく多くの人が引きつけられていたことと思います。事実、後に彼がコリントに行って伝道すると、「私はアポロにつく」という人たちが出たほどですから、彼にはよっぽど魅力があったのです。

 しかし、そんな彼にも問題がなかったわけではありませんでした。そのように聖書に精通していたはずのアポロでしたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかったのです。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。ヨハネのバプテスマとは、ヨハネが授けていたバプテスマのことで、悔い改めのバプテスマを指します。それはルカの福音書3章に詳しく記されてありますが、ヨハネは、自分のあとに来る方は自分などはその方のくつのひもを解く値打ちもないほどもっと力のある方だから、その方の到来に備えて罪を悔い改め、バプテスマを受けるようにと叫んでいたのです。そのバプテスマとは、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマと言われていたものでした。アポロが知っていたのは、そのヨハネのバプテスマだったのです。しかし、それはイエス・キリストを救い主として信じ、主イエスの御名によって受けるバプテスマとは本質的に違うものでした。アポロは、旧約聖書で預言されていたメシヤこそイエス・キリストであり、この方がおいでになることと、そのために罪を悔い改めて心を整えておかなければならないことは知っていましたが、そのイエスが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、信じる人に罪の赦しと永遠のいのちの祝福がもたらされるということ、つまり、聖霊のバプテスマについてはよく理解していなかったのです。もちろん、聖霊が降臨したあのペンテコステのできごとによってキリストの教会が誕生したことについてもよくわからなかったと思います。彼が知っていたのは、あのナザレ人イエスこそキリストであるというということでした。それは間違っていたわけではありませんが、十分な理解ではなかったのです。聖書に精通し、主の道をよく教えていた彼が、こういう信仰の基本的なことについて知らなかったということも不思議なことですが、今日のように聖書が完結していなかった当時は口頭で伝えられていましたから、すべてのことを正しく理解することは困難だったのでしょう。

 しかし、今はこうして聖書が完結して一人一人が読めるようになっていますから、もっと聖書を知りたいと思うならいくらでも知ることはできるのです。私たちは、十分な知識や教養があっても魂に対する情熱がなかったり、あるいは逆に、燃え上がるような情熱はあっても聖書の知識において弱いといった場合がありますが、主の働き人として用いられていくためには、正しい聖書の知識と情熱の両面が求められます。私は頭が悪いからなかなか理解できないという方がおられますが、聖書は決して理解できないものではありません。求めなさい。そうすれば与えられるのです。求めるなら、必ず聖書の正しい知識を身につけることができるのです。ですから、もし自分が十分に聖書を理解していなかったとしたら、それを克服するためのあらゆる努力をしていかなければなりません。では、アポロはどのようにしてその欠けを補っていったのでしょうか。

 Ⅱ.プリスキラとアクラの愛(26-27a)

 そのために用いられたのがアクラとプリスキラという夫婦です。26節と27節の前半の所までをご覧ください。

「彼は会堂で大胆に話し始めた。それを聞いていたプリスキラとアクラは、彼を招き入れて、神の道をもっと正確に彼に説明した。そして、アポロがアカヤへ渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、そこの弟子たちに、彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。」

 アポロは、パウロのように、ユダヤ人の会堂に入って、大胆に話し始めました。その話は彼のもっていた学識と聖書の知識に基づいて、雄弁に行われていたものと思われます。それを聞いていた一般の聴衆は深い感銘を受けたことでしょう。しかし、それを聞いていたプリスキラとアクラ夫婦は、彼の説教に重大な欠陥があることに気づきました。そこで彼らはアポロを自宅に招き入れ、神の道をもっと正確に説明したのです。このプリスキラとアクラについては18章2,3節に出てきました。パウロがコリントで伝道していたとき、その町で天幕作りをしていた夫婦で、後にパウロがシリヤのアンテオケに帰ることになったとき彼に同行してエペソまでやってきて来ました。一刻も早くエルサレムの兄弟たちにマケドニヤの諸教会からの献金を届けようと出て行ったパウロとは違って、彼らはこのエペソにとどまって伝道を続けていたのです。
 
 ここで彼らの名前がアクラとプリスキラからプリスキラとアクラに変わっているのはユニークです。おそらく、パウロと出会ってからのキリスト教の伝道と奉仕において、夫のアクラよりも妻のプリスキラの方が熱心で積極的だったのでしょう。ここでアポロを自宅に招き入れ、聖書のことをもっと正確に説明したのも妻のプリスキラの方だったのではないかと思います。彼女は、「教会で語ることは、女にとってはふさわしくないことです」というパウロの教えのとおり(Iコリント14:35)、会堂では黙って聞いていましたが、私的には自宅に招き、アポロ先生の欠けを補うことにやぶさかではなかったのです。

 しかし、これほど有能なアポロの話の中に足りないことがあることに気づいただけでも大したものなのに、自宅に招いてそれを教えてあげるとは、なかなかできることではありません。おそらく、パウロと一緒に伝道し、パウロから主の道を教えられていたアクラとプリスキラには、パウロの教えとの間に微妙な違いがあることが、すぐに分かったのでしょう。彼らは自分たちの家にアポロを招き、彼に「神の道をもっと正確に説明した」のです。ここにはこうした彼らの建徳的な振る舞いが目に留まります。たとえば、若くて、あまり経験のない牧師、伝道者が教会に赴任してきたら、長い間信仰を守り、聖書をよく知っている信者さんなら、なかなか受け入れられることができないのではないでしょうか。聖書のことは勉強して多少は知ってるかもしれないが、信仰の経験や教会のあり方においては自分の方がずっと知っていると思いがちだからです。経験があってもそうなのですから、まして若い牧師、若い説教者には、とかく足りないものがあるものです。そのようなとき、公然であるにせよ、ひそかであるにせよ、批判することは易しいことですが、この時のプリスキラとアクラのようにそんな伝道者を自宅に招き、そこで、神の道をさらに正確に説明するというようなことはなかなかできることではありません。彼らは会堂でも自分の家でもアポロを批判したりはしませんでした。そしてアポロがさらに神に用いられる伝道者になるために、懇切丁寧に教えたのです。

 ここで注目すべきことは、彼らがそれを自分たちの家で行ったことです。もしこれを会衆の面前で行ったとしたらどうなったでしょうか。おそろく、この有能な若き伝道者をつぶすことになったではないでしょうか。彼らにはそうした気配り、配慮ができました。それは、結局のところ、彼らのアポロに対する愛以外の何ものでもなかったのです。彼らは、アポロのことを、我がことのように思いました。それは、彼らが主をこよなく愛していたからです。主をこよなく愛している人は、その教会を愛します。そして、その教会が建て上げられていくために、いつも心を配るのです。

 先日、フレッド谷崎牧師が来られてメッセージされましたが、その中で、イエス様にあって新しい人生のトレーニング基地はどこか?という話がありましが、それは教会ですと言われました。この地上における教会には完全はなく、そこにはいろいろな問題もありますが、しかし、そのような教会を通して、私たちの信仰がトレーニングを受けているのだ・・・と。イエス様を愛する人は、その御体である教会を愛し、大切にします。そして、教会が建て上げられていくために、いつも心を配るのです。逆に、主を愛さず、自分のことしか考えていない人は、冷たい批判者となって、労苦を共にしない傍観者となりがちなのです。ですから、プリスキラとアクラは、そういう配慮からアポロを自宅に招いて個人的に説明したのです。

 そのうえ、アポロがアカヤに渡りたいということを知ると、そんなアポロの願いを聞き入れ、アカヤ地方の教会、すなわちコリントの教会に、「彼を歓迎してくれるように」と紹介状まで書きました。ご存じのように、アクラとプリスキラは以前コリントに住んでいて、そこで天幕を作りながらパウロと一緒に伝道していましたから、コリントの教会のことをよく知っていたのです。そんなアクラとプリスキラの紹介状は、初めて行くアポロにとってはどんなに心強かったかわかりません。思慮深い敬虔なクリスチャン夫婦の愛は、こうして一人の若い伝道者を真に生かすことになったのです。

 Ⅲ.信者たちを大いに助けたアポロ(27b-28)

 では、そのように励ましを受けたアポロはどのようになったでしょうか。最後にその結果を見たいと思います。27節後半から28節までをご覧ください。

「彼はそこに着くと、すでに恵みによって信者になっていた人たちを大いに助けた。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破したからである。」

 プリスキラとアクラ夫婦に導かれて信仰の確信を深め、紹介状までもらってアカヤに渡ったアポロは、コリント教会内外でめざましい働きをしました。彼は聖書によって、イエスがキリストであることを証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破し、すでに恵みによってクリスチャンになっていた人たちを大いに助けたのです。そうした彼の活躍は、パウロがコリント人へ送った手紙を見ても明らかです。パウロはその中で、「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。」と言っています。(Ⅰコリント3:6)開拓したのはパウロですが、アポロは信仰的にクリスチャンを成長させるために役立ったと評価したわけです。もちろん、それらすべてのことが神によることでしたが・・・。

 そうした彼の立派さは、このコリントの教会の中に「私はアポロにつく」という人が現れると、今度はサッと身を引いてエペソに帰ったことにも見られます。そういうことで彼は有頂天になるような人ではなかったのです。むしろそうした事態になるとそこからわざと身を引き、後でどんなに要請されても再びコリントに行こうとはしませんでした。彼は、それほどまでに成長していたのです。アクラとプリスキラによってなされた愛の奉仕が、このようにして立派に成長して花開いたのです。

 振り返ってみたら、あの時プリスキラとアクラがアポロを自宅に招き入れ、神の道をもっと正確に教えてあげなかったら、このような彼の働きにはつながらなかったでしょう。あのときプリスキラとアクラがおこがましいように思われても、きちんと教えてあげたことが、このような大きな神の御業へとつながっていったのです。そんなことを誰が想像することができたでしょうか。ただ聖霊に示されてやったことが、後に芽を出し、大きく成長していったのです。

 カン・ジュンミンという人が書いた「舞台の裏に立つ英雄たち」という本の中にこんな話が紹介されています。
 1858年、シカゴのある教会の日曜学校の教師であったエズラ・キンボールという人は、地元に住む靴屋の店員に何とかして福音を伝えたいと思っていました。しばらく店の前でもじもじしていた彼は、ついに勇気を出して中に入りました。この靴屋の店員は、ドワイト・ ムーディーといって、後に大伝道者として知られるようになった人物です。そのムーディーの説教を聞いて新しい目が開かれたのがF・B・マイヤーという神学者です。彼も後に偉大な神学者となりました。
 そのF・B・マイヤーがムーディーの神学校で講演をしたときのことです。クラスの後ろの席で熱心に聞いていた人がいました。この人はウィルバー・チャップマンという青年で、後にYMCAの牧会者になった人です。このチャップマンがある時YMCAの幹部を募集することになったとき、それに申し込んだのが、プロ野球出身のビリー・サンデーというすばらしい青年でした。彼も後に有名な伝道者になりました。そしてあるリバイバル集会でサンデーの説教に感動した人々が集まって祈り会を作りました。彼らはモルデカル・ハムという人が導く宣教団で活動し、全米の各地でリバイバル集会を行いました。そのリバイバル集会でハムの説教を聞いたある青年が、伝道者になる決心をしたのです。その青年は誰ですか。そうです、ビリー・グラハムです。ビリー・グラハムは後に1年に200万人に説教する大伝道者になった人物なのです。あのエズラ・キンボールという人がシカゴの靴屋の店員であったムーディーに伝道したのがきっかけで、このような大きな神の御業へと発展していったのです。そんなことを誰が想像することができたでしょうか。こうした舞台の裏に立つ英雄たちの働きが、神の国を大きく建て上げていくのです。

 私たちも特別な人でないかもしれません。立派な功績を残したわけもありません。あのプリスキラとアクラのように、舞台の裏に立つ者たち、裏方さんかもしれません。けれども、彼らのような影響を及ぼすことができるのです。聖書をよく学び、正しく理解し、与えられた賜物に応じて忠実に仕えていくとき、やがてそれが神の国を建て上げていくために大いに用いられていくのです。それこそ私たちにとって最高の喜びなのではないでしょうか。