きょうは「聖霊を受けたか」というタイトルでお話したいと思います。1節には、「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。」とあります。第二回伝道旅行の帰りにエペソに立ち寄ったパウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」(18:21)と言って別れましたが、そのみこころが成就して、今、再びエペソに戻ってくることができました。そのエペソに戻って来た時、どうも様子のおかしい一団と出会いました。彼らはクリスチャンであるはずなのに、そうでないかのような言動をしていたのです。そこでパウロは、「あなたがたは、信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。この聖霊を受けるということは、神との交わりが回復するということで、永遠のいのちに預かること、つまり、救われていることを意味しています。これはキリスト教の基本的な教えでとても重要なテーマですが、意外にこのことについてよく理解していないケースがあります。きょうは、この聖霊を受けることについて三つのポイントでお話したいと思います。
第一のことは、聖霊を受けることの重要性についてです。第二のことは、イエスの御名によるバプテスマと聖霊のバプテスマの関係についてです。そして第三のことは、その結果です。主イエスの御名によってバプテスマを受けた彼らはどうなったでしょうか。彼らは聖霊に満たされ、喜びと賛美の生活へと変えられました。
Ⅰ.信じたとき、聖霊を受けたか(1-3)
まず第一に、聖霊を受けることの重要性を見ていきたいと思います。1~3節をご覧ください。
「アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。」
パウロは、念願叶ってエペソに戻って来ることができましたが、そこで彼は、幾人かの弟子に会ったとき、彼らに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。この「弟子」という言葉は、主イエス・キリストの弟子という意味で、クリスチャンのことを指すことばです。そうしたクリスチャンに向かって、あなたは聖霊を受けていますか」と言うのは、ある意味で、とても失礼なことかと思います。というのは、Iコリント12:3には、「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。」とあるように、だれであれ、イエス様を救い主として信じたのであれば、聖霊を受けていないということなどあり得ないからです。クリスチャンであるならば、みな聖霊を受けているはずなのです。なのになぜパウロはそのように尋ねたのでしょうか。おそらく、彼らを見ていたら、どうもキリスト教信仰とは相入れない異質なものを感じたからでしょう。その証拠に、パウロが「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねられたとき、彼らは「いいえ、聖霊が与えられることは、聞きもしませんでした」と答えています。聖霊が与えられることについて曖昧な理解しか持っていませんでした。クリスチャンなら、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストが身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちが与えられる。つまり、神の聖霊が与えられたことを知っているはずなのに、彼らはそのことを知らなかったし、聞きもしませんでした。つまり、彼らはイエス様を信じていましたが、その信仰は福音の正しい理解を欠いたものだったのです。
では、彼らはどんなバプテスマを受けたのでしょうか。3節を見ると、彼らは、「ヨハネのバプテスマです」と答えています。「ヨハネのバプテスマ」とは何でしょうか。先々週のところにも出てきました。聖書に精通していたはずのアポロでしたが、彼はヨハネのバプテスマしか知りませんでした。(18:25)ですから彼の話を聞いていたプリスキラとアクラ夫妻は、彼を自分の家に招き、神の道をもっと正しく説明したのでした。そのアポロと同じようにヨハネのバプテスマしか知らなかったということは、アポロと同じように、福音の全体像を正しく理解していなかったのでしょう。旧約聖書に記されているメシヤこそイエス・キリストだと理解はしていたものの、このキリストを信じるということがどういうことなのかをよく理解していなかったのです。ヨハネは、後に来られるイエス・キリストを受け入れるための備えとして、悔い改めのバプテスマを授けていましたが、そのヨハネのバプテスマは受けていましたが、主イエスの御名によって授けられる聖霊のバプテスマのことはわかりませんでした。彼らは、聖霊によってもたらされる救いの恵みと喜びをいまだに知らなかったのです。
それは7節を見てもわかります。ここには、「その人々は、みなで12人ほどであった」とありますが、この「12人」というのは「12人の男たち」という意味で、妻子がいない12人の男たちであったという意味です。別に結婚していない男たちが一緒にいたからといって問題ではありませんが、問題は、なぜ彼らは結婚していなかったのかということなのです。そしてそれはどうも禁欲的な生活をしていたからだったのです。バプテスマのヨハネは、らくだの毛衣をまとい、皮の帯をしめ、いなごと野蜜を食べて、禁欲的な生活をしていました。おそらく、彼らも悔い改めを強調して、厳格な禁欲的な生活をしていたのではないかと思われます。そういう点で、目立っていたのです。どうも様子がおかしかった。確かにクリスチャンであるはずなんだけれども、どこか違う。信じたときに聖霊を受けたのならば、その結果としての実、すなわち愛とか、喜びとか、平安とか、親切、善意、誠実、柔和、自制といった聖霊の実が見られ、生活も生き生きした面が見られるはずなのに、彼らにはどうもそういうものが見られなかった。そこでパウロは彼らに、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。しかし、そのように聞かずにはいられないほど、彼らの言動にはキリスト教信仰とは異質なものが感じられたのです。ですから、ここでは、よくペンテコステ派の人たちやカリスマ派の人たちが強調しているような、救われた後の第二の経験としての聖霊のバプテスマや、そのしるしとしての異言について教えられているのではないのです。というのは、この12人の男たちは、イエス様を信じていても、聖霊のことについては知らなかったからです。
こういうことは、私たちにもよく見られるのではないでしょうか。イエス様が神であって、このイエス様を信じれば天国に行ける、救われるということを知って信じても、このイエスを信じる人に神の聖霊がもたらされ、聖霊によって喜びと平安と、感謝が溢れるようになるということを知らない人が意外と多いのです。信じていてはいても、信じるということがどういうことなのかをはっきりと知らない人がいるのです。まだ信じていない人のように歩んでいる場合があるのです。それはこの12人の弟子たちと同じです。パウロはそういう人たちに対して、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねたのです。
皆さんは、どうでしょうか。皆さんは、聖霊を受けていますか。イエス様を信じていても、まだ肉に従って歩んではいないでしょうか。その結果、ガラテヤ書の中にあるように、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、酩酊、遊興、といった行いにはなっていないでしょうか。イエス様を信じていても、聖霊を受けること、また、聖霊によって歩んでいないと、信じていない人と同じような状態になってしまうのです。何が問題なのでしょうか。正しい福音の理解です。聖霊のバプテスマについての理解です。
ヨハネ7:37,38を開いてみましょう。ここには、
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
とあります。この「生ける水の川」とは何でしょうか。聖霊のことです。だれでもイエス様のもとに来て、飲むなら、すなわち、イエス様を信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。この「心の奥底から」というのは、「腹の底から」という意味です。イエス様を信じるなら、表面的な喜び、表面的な平安ではない、腹の底からの、ほんとうの喜び、ほんとうの平安が与えられるのです。
聖書の中に出てくるサマリヤの女性は、まさにそれを体験した人でした。彼女は何をしても心が満たされませんでした。人生の幸せを求めて5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできなかったのです。しかし、ある日、サマリヤのスカルという所で、水をくみに来たとき、そこでイエス様に出会い、彼女は、本当の満足を受けました。
イエス・キリストを救い主として信じて、受け入れるなら、この神の聖霊が与えられるのです。大切なのは、イエス様のところに来て、飲むことです。イエス様を信じることです。そうすれば、その人の心の奥底から生ける水の川である聖霊が溢れるようになるのです。
Ⅱ.主イエスの御名によるバプテスマ(4-5)
では次に、主イエスの御名によるバプテスマについて見ていきましょう。4,5節をご覧ください。
「そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。」
「どんなバプテスマを受けたのですか」という問いに、「ヨハネのバプテスマです」と答えた12人の人たちに対してパウロは、ヨハネが授けたバプテスマとは、自分のあとに来られるイエスを信じるように、悔い改めのバプテスマを授けたのであって、聖霊を受けるためのバプテスマではなかったことを説明して、主イエスの御名によってバプテスマを授けました。
では、この主イエスの御名によるバプテスマとは、どのようなバプテスマなのでしょうか。それは主イエスを救い主として信じるバプテスマです。つまり、自分の罪を悔い改めるだけでなく、十字架と復活によって成し遂げられた神の救いの御業を信じ、イエス・キリストを救い主として受け入れることです。ローマ6:3のところでパウロは、このことを「キリスト・イエスにつくバプテスマ」と言っています。開いてみましょう。ローマ6:3~8です。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」
それはただ自分の罪を悔い改めるだけでなく、その罪の身代わりとしてキリストが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたことによって、この方を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられたということを受け入れることなのです。そのような人には聖霊のバプテスマが授けられます。それがイエスの御名によるバプテスマです。まさに水のバプテスマ、洗礼は、そのことを現しているのです。キリストが十字架にかかって死なれたように、私たちの古い人も十字架で死に、キリストが死からよみがえられたように、私たちもキリストのいのちにあって、新しい歩みをするようになったということです。ですから、それがどんな形であるにせよ、信じて、主イエスの御名によってバプテスマを受けたのなら救われているのであって、もう一度バプテスマを受ける必要はないのです。
ある人たちはこのところから、一度信じてバプテスマを受けても、そのバプテスマが無効である場合、もう一度受けなければならないと主張する人たちがいます。アナバプテストと呼ばれる人たちです。アナというのはゴルフのホールのことではありません。「再び」という意味の言葉で、再洗礼派という人たちのことです。この人たちは、最初に受けたバプテスマが有効でない場合、もう一度バプテスマを受け直すべきだと考えています。たとえば、最初にバプテスマを受けたときには信仰があったのかなかったのかがはっきりしていなかった場合とか、その洗礼が浸礼といって、全身が水の中に浸からないものであれば無効だから、もう一度受け直すべきだと言うのです。しかし、そういう必要はありません。もしそれが父と子と聖霊の御名によってなされたバプテスマであるなら、それがどのようなやり方であったとしてもすべて有効なのであって、もう一度受け直す必要はないし、そのようにすべきではないのです。主イエスの御名によって受けた洗礼は、その人の自覚が十分であったとか、不十分であったとかにかかわらず、その生涯においてただ一度で十分なのです。なぜなら、バプテスマとは死からいのちに移されていることを現している礼典であって、それは一度しかないはずだからです。むしろそのようにするとは神の礼典をもて遊ぶことになり、神を侮ることになってしまうのです。そもそも、ここでパウロが彼らに主イエスの御名によってバプテスマを授けたのは、彼らが受けたバプテスマがキリスト教で言うバプテスマではなかったからであって、決してアナバプテマ、再洗礼ではありませんでした。それがほんとうのバプテスマであり、最初のバプテスマだったのです。
私たちは、時として、信じてバプテスマ受けても、落ち込んだり、悩んだりしますと、あのときに受けたバプテスマが十分ではなかったのではないかと考えることがあります。信じて、バプテスマを受けたつもりだったが、実際のところはそんなに信じていなかったとか、あの時の信仰はあまりはっきりしたものではなかった思い、もう一度バプテスマを受ければ新しく生まれ変わるのではないかと思って受ける場合がありますが、その必要はないということです。なぜなら、それはバプテスマの問題ではなく、信仰の問題だからです。すなわち、私たちの信仰が自分の感情に振り回される信仰なのか、それとも、みことばに信頼し、みことばに従う信仰なのかということです。もし、私たちの信仰が感情に支配されたものであるならばいつも状況に振り回された不安定なものになってしまうでしょう。なぜなら、私たちの置かれている状況は、いつも変化するものだからです。であればバプテスマを受け直したからといって問題が解決するわけではないのです。どうしたらいいのでしょうか。みことばに信頼し、神のみこころにかなった歩みをしていこうと選択することです。
ヴィクトル・フランクルは、ナチの強制収容所に入れられたユダヤ人の一人でした。彼が強制収容所に入れられたとき、看守たちは彼が身につけていたものをすべて剥ぎ取りました。彼の人としての尊厳を奪い、妻、家族、服、結婚指輪さえ奪い取ったのです。けれども、彼から奪い取ることができなかったものが一つだけありました。何だと思いますか。彼はその著書「夜と霧」の中で、こう書いています。
「人間の自由の中で最後に残されるものは、置かれた状況の中で、どう振る舞うかを選択する能力である」と。
看守はフランクルから、どう振る舞うかを選択する自由だけは奪うことができなかったのです。
自分の人生の状況をすべてコントロールすることはできません。明日何が起こるのか、いや、今日のことさえ分からないのが私たちです。そのように私たちは状況をコントロールすることはできませんが、その状況にどう対処するかをコントロールすることはできるのです。人生において本当の意味で問題となるのは、起こってしまった問題そのものよりも、むしろその問題を通して私たちの内側に何が起こったかということなのです。もし、私たちが起こってしまったことに振り回されて生きるなら、いつも揺れ動いて安定性のない生き方になってしまういますが、与えられたみことばに信頼し、神のみこころにかなった生き方を選択するなら、より豊かな実を結ぶ人生となるのです。
Ⅲ.聖霊が彼らに臨まれ(6)
最後に、彼らが主イエスの御名によってバプテスマを受けた結果、どのようになったかを見て終わりたいと思います。6節をご覧ください。
「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」
彼らが、主イエスの御名によってバプテスマを受けると、聖霊が彼らに臨まれ、異言を語ったり、預言をしたりしました。これはどういうことでしょうか。この異言とか預言とは聖霊の賜物ですが、この二つは、ともに初代教会特有の聖霊の賜物でした。この二つの違いについてパウロは、コリントに書き送った手紙の中で次のように言いました。
「異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。」(Iコリント14:2,3)
すなわち、この12人の弟子たちは、この時から、これまでの堅い殻に閉じこもった禁欲的な生活を捨てて、神に向かっては喜びをもって賛美し、人に向かっては熱心にみことばの勧めとあかしをするクリスチャンへと変えられたということです。孤立的分派主義が、積極的な礼拝と交わり、伝道の生活へと変わったのです。陰気な禁欲主義は、喜びに満ちた賛美の生活へと変わりました。そうして、それこそが、パウロの福音の結果だったのです。人は聖霊によって新しく生まれ変わるとき、ここで彼らが経験したような、生活へと変えられるのです。
皆さんは、聖霊を受けましたか?主イエスを信じて、キリストをその人生と心の主として迎えておられますか?もしそうならば、皆さんの内なる人が新しく変えられました。このエペソの弟子たちのように、喜びをもって賛美し、熱心に証しする人へと変えられたのです。もしそうでないとしたら、どこかにその原因があるはずです。教会にはいつも二種類のクリスチャンが存在すると言われます。ひとつは名前と形式だけのクリスチャンで、もう一つは信仰と行動が一致したクリスチャンです。教会の中には神を形式的に礼拝する人と、霊とまことをもって礼拝する人がいるのです。この世に心ささげるを人と、神に心をささげる人がいます。聖書を信じ、その信仰通りに生きようと願っている人がいれば、そうでない人もいます。その違いは何でしょうか。新しく生まれ変わっているかどうかです。聖霊を受けているかどうかです。新生は外見や肉体的な変化ではない、内面の性質が全く新しくなることです。神のいのちに生きることです。私たちの存在の根本、本質に関わることなのです。ですから、「信じたとき、聖霊を受けましたか」という質問は、新生についての質問であり、新しい変化へのチャレンジのメッセージなのであり、私たちの人生において最も重要な質問なのです。あなたは聖霊を受けましたか。
ムーディーというアメリカの有名な伝道者が、説教の途中で会衆に尋ねました。「このガラスのコップから空気を全部取り出すにはどうしたらいいでしょうか」するとある人が答えました。「そのコップにふたをして空気を抜けばいいんじゃないですか」するとムーディーは笑いながら言いました。「そんなことをしたら真空状態になり、コップが割れてしまいますよ。」そしてやかんを手に持ち、コップに水を注いでこう言いました。「ご覧ください。空気は少しも残っていません。コップを水で満たせば空気はすべて出て行きます。私たちの罪を取り除く方法も同じです。自分の意志で罪を追い払おうとすると必ず失敗します。しかし、聖霊によって満たされるなら、自然に罪が出て行くのです。」
クリスチャンがこの世で罪に打ち勝ってきよさを保つ秘訣は、聖霊に満たされることです。聖霊に満たされるなら、罪に打ち勝つことができるのです。この聖霊によって、新しい力と活力、正しいことを行いたいとという願い、そしてそれを実行するための力が与えられます。聖霊が私たちの内に働かれると、私たちはいよいよキリストに似た者へと変えられていくのです。
ニック・ブイチチという人の証しを読みました。彼は四肢欠損症という非常にまれな病気のため、腕と足がなく、あるのは左足に2本の指だけでした。彼はこの障害のためにさまざまな困難を味わい、幼い頃に自殺まで考えましたが、イエス様を信じたとき、彼のその傷ついた心は奇跡的にいやされ、神にある希望を持つことができました。そして彼は、自分がなぜそんな体で生まれてきたのかの意味を見いだしたのです。それは、神の栄光を現すためだということでした。それ以来彼は、「Life Without Limbs」という団体を作り、全世界で神様のすばらしさを証しする者に変えられたのです。彼はどこに行っても「神はあなたのためにすばらしいご計画を持っている」というシンプルなメッセージを伝え、希望を与える者になったのです。彼はこう言っています。
「これまで人々の言ううそを信じて生きてきたために、絶望の日々を送っていましたが、神を信じると、山の頂の神は谷底の神でもあるということがわかりました。この世に完璧な人などいません。人は誰でも失敗するものです。だからといって、私たちは失敗者ではありません。失敗する恐れ、完璧でないことへの恐れ、拒否されることへの恐れは、腕や脚がないことよりも悪い。心が傷ついてボロボロなのに、見た目で完璧であっても意味がありません。神にすがってください。そうすれば、神はあなたを離されることありません。あなたの将来のための神のご計画を信じると決めてください。真理であられる神に信頼しながら、一日一日を生きてください。そして、傷ついた心のいやしを神から受けてください。」
神の力は、傷ついた心の灰を喜びの冠へと変えることができるのです。神のあわれみによって、私たちは平安に満たされるのです。それが聖霊によって歩む人の姿です。たとえ悲しみがあっても、その悲しみに押しつぶされない確かな平安があるのです。あなたは聖霊を受けましたか。聖霊によって、新しいいのちを受けているでしょうか。この聖霊とともに歩む新しい人生を、ともに歩ませていただこうではありませんか。