使徒の働き19章8~20節 「みことばの力」

 きょうは、「みことばの力」というタイトルで、共に恵みを受けたいと思います。先週からパウロの第三回伝道旅行におけるエペソでの伝道の様子を学んでおります。8節には、「それから、パウロは会堂にはいって、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。」とあります。エペソにおける伝道そのものは、まずユダヤ教の会堂で3ヶ月の間行われました。それから、9,10節には、ツラノの講堂における伝道が2年間続いたとありますから、全部で2年3ヶ月となります。ところが、22節を見ますと、その後もしばらくエペソにとどまっていましたから、20章31節でパウロがエペソの長老たちに語ったように、全部で約3年間となります。パウロは約3年の間、夜も昼も、涙とともに、このエペソでみことばを語り続けたのです。

 しかし、このエペソでの3年にもわたる伝道の様子は、ほんのわずかしか紹介されておりません。先週見たように、ヨハネのバプテスマのことしか知らなかった幾人かの弟子たちが主イエスの御名によってバプテスマを受けたとき聖霊を受けたということと、さきほど読んでいただいた内容、そして、来週学びたいと思いますが、21節から終わりまでに記された内容です。3年も伝道し続けたのにその内容がこれだけであるというのはどういうことなのでしょうか。それは、これらの出来事が19章20節に記されてある結論を導き出すために選び出されたものだからなのです。すなわち、「こうして、主のことばは驚くほど広がり、ますます力強くなって行った」ということです。つまり、これを書いたルカは、主のことばがどれほど力強く広がって行ったのかということを伝えることに主眼点を置いていたというなのです。

 では、その主のことばはどのようにして力強く広がって行ったのでしょうか。きょうはこのことについて、三つのポイントで見ていきたいと思います。まず第一のことは、ツラノの講堂におけるパウロの伝道です。彼はそこで約2年の間、毎日みことばを語りました。そのようにパウロが、ひたすらにみことばを語ったので、アジアに住む者がみな主のことばを聞きました。第二のことは、力あるわざです。神はパウロの手によっておこなわれた驚くべき奇跡です。そして第三のことは、そのことによって生じた神への恐れです。こうして、主のことばは驚くほど広がり、ますます力強くなって行ったのです。

 Ⅰ.ツラノの講堂で(8-10)

 それではまず、約2年にわたるツラノの講堂におけるパウロの伝道の様子から見ていきましょう。8~10節をご覧ください。

「それから、パウロは会堂にはいって、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」

 エペソにやって来たパウロは、いつものようにユダヤ教の会堂に入ってみことばを語りました。その町にユダヤ教の会堂がある時にはまずそこで語るというのが、パウロの常套手段でした。しかし今回は、それが3ヶ月も続くという異例の長さです。以前この町に立ち寄ったときには、その会堂の人々がパウロに「もっと長くとどまるように頼んだ」(18:20)ことからすると、パウロの説教はよほど歓迎されたようです。それでパウロも大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようとしましたが、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れなかったばかりか、会衆の前で、この道をののしったりしたので、9節にありますように、彼らから身を引き、ツラノの講堂で伝道することになりました。

 この「ツラノ」というのは人の名前ですが、この人がどのような人であったのかはわかりません。おそらくこの講堂の持ち主か、ここで講義をしていた教師の中の中心的な人だったのかもしれません。「講堂」とは、ギリシャ語で「スコレー」という言葉ですが、英語の「スクール」の語源になった言葉で、人々が互いに話し合ったり、論じ合ったりしながら時を過ごす場所を意味していました。つまり、余暇を過ごす場所だったのです。今でいう公民館や市民会館の一室のような所だったのでしょう。人々は、お昼頃まで(写本では午前11時ままでとなっている)まで仕事をし、午後の時間は余暇の時間として過ごしていたようです。その余暇の時間に人々は何をして過ごしていたのかというと、ある人は昼寝をしたり、ある人は趣味に勤しんだりしましたが、ある人たちはその時間を勉学に励みました。町中が昼寝をしていた余暇の時間に、みことばを聞くためにこのツラノの講堂に集まった信徒や求道者たちの熱心さにも頭が下がります。彼らは、自分たちの余暇をそっくりそのままみことばの学びに費やしたのです。昼寝よりもみことばを愛したのです。もちろん、信仰は、余暇やレジャーでするようなものではありません。しかし、そのような時間があればそれをみことばの学びに費やしたいという彼らの信仰が、いかに熱心であったかがわかります。というのは、人は、余暇ができるや否や寸暇を惜しんで飛びつくものが何であるかによって、その人の本性や生き方がわかるからです。寸暇を惜しんで、ちょっとの余暇にもみことばの学びに集まるクリスチャン。そういうクリスチャンこそどこに行っても良い働きができる信徒伝道者なのです。パウロはそういう人たちと、毎日、論じたのです。

 ところで10節を見ると、このようなことが2年も続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いたとあります。これは驚くべきことです。おそらくこの間に、コロサイ、ラオデキヤといった教会や、あの黙示録に出てくるアジヤにある七つの教会も生まれたのではないかと思います。ツラノの講堂で論じていたことが、どうしてそのようにアジヤ全土に広がって行ったのでしょうか。

 一つには、このエペソという町の特殊性がありました。エペソは、今日の東京のような大都会だったので、地方から多くの人たちが集まっていたのです。そういう人たちがここでみことばを聞いた後、また地方へ散らされて行ってみことばを語ったのです。そういう人たちは、散らされて行った各地でほんとうに良い働きをしました。たとえば、コロサイの教会はパウロが一度も行ったことのない町ですが、どうしてそこに教会が出来たのかというと、彼らは「エパフラス」からそれを学んだからです。(コロサイ1:7)おそらく、エパフラスがこのエペソに来たとき、ツラノでみことばを語っていたパウロからそれを聞き、コロサイに帰って、それを宣べ伝えたのでしょう。つまり、このツラノの講堂での働きが、アジヤ州における伝道センターの役割を果たしていたのです。

 これは大都会の大田原(那須)でも言えることです。大田原が大都会だと聞いて心の中で笑っておられる方が3人くらいいますが、これは事実なのです。こんな田舎のような所でも、今は交通やインターネットの進歩によって、都会と何ら変わらない生活ができるようになれました。ということは、毎週行われるこの教会の礼拝で語られるみことばはとても重要であるということです。なぜなら、そのようにして語られたことばを聞いた人たちが各地に散らされて、そこで効果的に証しをしていくならば、それがやがて全国にまき散らされ、各地で教会の芽となり根となり、やがて実を結ぶようになっていくからです。私たちはそういうことを視野に入れながら伝道の裾野を広げていかなければなりません。

 もう一つのことは、2年にわたり、粘り強くみことばを語り続けたパウロの姿です。ここに改めて、主のことばを宣べ伝えるということは、根気強い働きであることがわかります。その成果をすぐに求めることはできませんし、それが成功であったか失敗であったかといった評価も性急に下すことはできないのです。来る日も来る日も、たゆまずに、ひるまずに、ただひたすら語り続けるという根気強さが求められのです。12節には「パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして」とありますが、これは、パウロが天幕作りをしながら伝道していたということでょう。午前中はみんなと同じように働き、午後の余暇の時間を利用して主のことばを語っていましたが、あまりにも忙しくて手ぬぐいや前掛けを取る時間がなかったのでしょう。仕事着のままでツラノの講堂にやって着ては伝道していたのです。この時の様子を彼は、後にエペソの長老だちを集めて説教した際に、次のように言いました。

「皆さんは、私がアジヤに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過ごして来たか、よくご存じです。私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」(使徒20:18-21)

「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。」(同20:31)

 それは涙なしにできることではありませんでした。パウロは、昼も夜も、涙とともに訓戒し続けたのです。その結果、アジヤに住むすべての人がみな、主のことばを聞くということにつながって行ったのです。大切なのは、どのような状況にあっても、主のことばを語ることをやめてはならないということです。あのコリントの町で主が幻の中で語りかけてくださったことばが、いつもパウロの心の中に鳴り響いていたのだと思います。

 Ⅱ.力あるわざ(11-16)

 では次に11~16節に注目したいと思います。主のことばがそのように広がって行ったのは、そうしたパウロの涙の伝道によっただけではありませんでした。そこに驚くべき神の業があったからです。まず11~12節をご覧ください。

「神はパウロの手によって驚くべき奇跡を行われた。パウロの身につけている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」

 エペソに滞在していたパウロは、会堂やツラノの講堂で、主のことばを語っていただけでなく、驚くべき奇跡も行いました。このように彼がみことばによる伝道とともに驚くべき奇跡を行ったのは、このエペソという町の憂うべき霊的状況があったからです。この後23節からのところを見るとわかるのですが、このエペソの町は女神アルテミスを祀った神殿を中心とする偶像の町、悪霊のうごめく町でした。そのような状況の中でパウロの宣教が単にみことばの宣教だけでなく、そのみことばともに働く聖霊の御業によって推し進められていったこともうなずけます。

 ここでパウロが行った奇跡とは、ふつうの奇跡ではなく、めったに起こらない奇跡という意味で、非常に驚くべきものでした。具体的には12節にありますように、パウロが身につけていた手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行ったというものです。これはかつてペテロが行ったいやしのわざに似ています。人々は病人を大通りへ運び出し、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにしたほどでした。(5:15)ここでは影ではなく、パウロが身につけていた手ぬぐいや前かけでした。それを病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行ったのです。

 なぜこのような奇跡を行う必要があったのでしょうか。それは先ほども申し上げたように、このエペソという町がアルテミスという女神を拝んでいた偶像の町であって、そうした町では目に見える形での霊の戦いが必要だったからでしょう。しかし、それだけではなく、そのことが契機となって、つぎの事件へとつながって行ったからだったのです。13~16節までをご覧ください。

「ところが、諸国を巡回しているユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも、ためしに、悪霊につかれている者に向かって主イエスの御名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみた。そういうことをしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった。すると悪霊が答えて、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ。」と言った。そして悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、ふたりの者を押えつけて、みなを打ち負かしたので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出した。このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」

 ここにユダヤ人の魔よけ祈祷師が登場します。このエペソの町は、アジヤ州の首都でありながら偶像と迷信に満ちていた町でしたから、そこには当然魔よけ祈祷師なる者もうようよしていました。パウロを通して神が驚くべき奇跡をされるとこれを見ていたそうしたユダヤ人の魔よけ祈祷師のある者たちが、自分たちもパウロのようにやってみたいと思い、ためしに悪霊につかれている人に向かって主イエスの御名によって命じてみたのです。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる・・・」するとどうでしょう。15節を見ると、悪霊がこう言ったと記されてあります。「自分たちはイエスを知っているし、パウロも知っている。けれどおまえたちのことは知らない。おまえたちは何者だ」そう言って、彼らに飛びかかったというのです。そしてこのふたりを押さえて、みなを打ち負かしてしまったので、彼らは裸にされ、傷を負ってその家を逃げ出してしまったのです。そういうことをしたのはだれでしょう。不名誉にも14節には、そのようなことをした人たちの名前まで記録されています。「そういうことしたのは、ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たち」です。

 彼らの誤りはどんなことだったのでしょうか。彼らの誤りは、「イエス」という名前に何か特別な効力があると思ったことです。それは一つの呪文のように、何かを唱えると不思議なことが起こると考えたり、お札のように、それさえあれば願いが叶うと考えることと同じです。あの魔法使いサリーが、「マハリク マハリタ ヤンバラ ヤンヤンヤン」と唱えると何でも思うとおりになるように、「イエス」の御名を使えば、何でも自分の思うとおりになると考えたのです。そのような考えはこの日本でもよく見られるものです。何無妙法連華経と唱えてさえすれば厄払いができると考えたり、交通安全のお札を、自動車の運転席にぶら下げておきさえすれば、交通事故から免れると考えるのと同じです。しかし、そのようなことを機械的にやったからといって、特別な効能があるわけではないのです。よく交通事故に遭った車を見かけることがありますが、意外にその車の後ろには「交通安全 ○○不動尊」などというステッカーが貼られてあるのを見ることがあります。そうしたお札やステッカー、呪文に、特別な効能があるわけではないのです。むしろ、そのようにすることが、あまりにも神を冒涜することになるのではないでしょうか。生けるまことの神を相手に、人間が勝手に作り出した考えを押し付けようとするのですから・・・。

 しかし、悪霊も馬鹿ではありません。ユダヤ人の祈祷師たちが、おそるおそる、「パウロの宣べ伝えているイエスの御名によって、おまえに命じる」と宣言すると、「ハァ~、あんたはだれだ?自分はイエスを知ってるし、パウロも知ってるが、おまえたちのことは全然知らない」そう言って、彼らに飛びかかったのです。人間の世界では、人の目をごまかすことができた祈祷師たちでも、霊の世界ではうとかったのです。彼らは、霊の世界ではごまかしが効かないということを知りませんでした。悪霊に飛びつかれ、押さえ付けられ、打ち負かされ、傷を負い、その家から逃げ出して行ったのです。このことは偶像の町エペソにものすごい衝撃が走りました。17節をご覧ください。

 Ⅲ.みな恐れを感じて(17-20)

「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。」

 この事件は、パウロの驚くべき奇跡以上に、人々を驚かせました。そして、このことがエペソに住んでいたすべての人々、すなわち、ユダヤ人とギリシャ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主の御名をあがめるようになったのです。この「恐れ」は怖いといった恐れではなく、生ける唯一のまことの神の存在の前に抱く畏敬の念です。それまでは華々しい魔術やご利益があるような魔よけ祈祷師に人々は集まってきましたが、生ける唯一のまことの神以外に神はいないということを示されると、人々の心に恐れが生じ、主イエスの御名をあがめるようになったのです。そればかりではありません。18,19節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。」

 何と、イエス様のことを知らない人たちだけでなく、すでに信仰に入っていた多くのクリスチャンもやって来て、自分たちのしていることをさらけ出しして告白し、魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てたのです。その値段を合計すると、何と銀貨5万枚、日本円で約300万円ですが、それだけの額にのぼる魔術の本が焼き捨てられたのです。パウロはエペソ5:8~12で、

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―― そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。」

と勧めました。クリスチャンでもこのように口にするのも恥ずかしいことを続けている場合があります。実を結ばない暗やみのわざを続けていることがあるのです。それはエペソのクリスチャンだけのことではなく、私たちにも言えることではないでしょうか。もし私たちがそのような暗やみのわざを行っているなら、さらけ出し、それがどんなに高価なものであっても捨てなければなりません。なぜなら、光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実だからです。神はそのことを願っておられます。そうした罪を悔い改めて神に立ち返るなら、それがどんなに大きな罪であっても、主は赦してくださるのです。それこそここでパウロによって成された驚くべき奇跡の目的だったのです。そして、そのような神への恐れと、真の悔い改めが起こった結果、みことばがものすごい勢いで広がって行ったのです。それがエペソのリバイバルの要因だったのです。

「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

  つまり、パウロが偶像のうごめくエペソの町で、ただひたすらみことばを語り続けたこと、そして、神の驚くべき御業によって悪霊との戦いに勝利したこと、そして、そのことがきっかけとなってユダヤの祭司長スケワの七人の息子たちが悪霊に打ち負かされたことで人々の心に神への恐れが生じ、次々と信仰や悔い改めに入っって行ったことによって、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行ったのです。このようにすればいいのです。

 グアテマラにアルモロンという小さな町があります。この町は福音が宣教された後で、急激に変わった町として有名です。それまで0%だったクリスチャンの人口が92%になりました。犯罪率が非常に高く、偶像崇拝と貧困、アルコール中毒が蔓延していましたが、その後は犯罪率が急激に落ち、アルコール中毒者たちもほとんどなくなり、多くの家庭が回復しました。いつからか、土壌も肥沃になりました。依然は毎月トラック6台ほどの農作物を収穫する程度でしたが、その後は生産量が奇跡的に増え、一日の収穫量だけでトラック50台も収穫するようになりました。この町がこのように激変したので、それはいったいどうしてかとその原因を調査するため、多くの国々が農業専門家を派遣して調査しました。
 しかし、誰もその原因を発見することができませんでした。そのような変化の中心には、1974年からその村のためにいのちをかけて祈り、働いていたマリアノという牧師がいましたが、誰もその存在を知らなかったからです。マリアノ牧師は多くの脅しといのちの危機にされされながらも、その地域に福音を伝え、激しい霊的戦いを繰り広げました。荒れくれた男たちが牧師を引いて行き、牧師の口に銃口を押し込み、引き金を引いたりもしました。しかし、神が守られ、銃口から弾が発射されずに、カチッという音をするということだけが繰り返されたのです。それで逆に、男たちが恐ろしさのあまり逃げ出したほどです。このようにいのちをかけた激しい霊的戦いを通して、その町は神の力強い働きを経験したのです。その結果、アルモロンは文字通り、乳と蜜の流れる祝福の地に変えられたのです。

 それはこの日本も同じです。時として、自分が取り組んでいる伝道の働きが本当にちっぽけなように感じ、全く徒労であるかのように思え、空しさだけが心に迫り、焦る気持ちや挫折感にさいなまれることもあるかもしれませんが、しかし、そのような中にあっても、謙遜の限りを尽くし、涙をもって、ただひたすらみことばを語り続け、主の御業に励むなら、やがて人々の心に神への恐れと悔い改めが生じ、次から次に信仰に入って行くようになるのです。そう信じて、この主の御業に励んでまいりましょう。