使徒の働き19章21~41節 「この道に歩む」

 きょうは「この道に歩む」というタイトルでお話したいと思います。23節には「そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が起こった」とあります。「この道」とは、キリスト教のことです。ヘブル10:20には、この道は「新しい生ける道」とも言われていますが、クリスチャンとは、この道を歩む人たちのことです。しかし、クリスチャンがこの道を歩もうとする時には、時として思わぬ騒動が起こってくる場合もあります。しかし、クリスチャンはそれでもこの道を歩むのです。いや、単に歩むというだけでなく、そのことによってこの道が生ける唯一の道であって、力に満ちあふれた祝福の道であることをこの世に示していかなければなりません。

 きょうは、この道を生きることについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、この道を歩んで行こうとする時には、必ずといってよいほどそこに問題も起こるということです。第二のことは、そうした問題の根本的な原因は何かということです。それは、表面的には人間の私利私欲が絡んだ罪が原因ですが、言い換えると、キリストの福音によって人々が変えられたことに起因します。すなわち、福音には人を全く変える力があるということです。ですから第三のことは、神に信頼しましょう、ということです。私たちの神は生ける、まことの神です。この神が、この道を歩もうとしている人に起こる一つ一つの問題を解決してくださいます。

 Ⅰ.ただならぬ騒動(21-23)

 まず第一にクリスチャンがこの道を歩もうとする時には、必ずといってよいほどそこに問題も起こってくるということを見ていきたいと思います。21~23節をご覧ください。

「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。そこで、自分に仕えている者の中からテモテとエラストのふたりをマケドニヤに送り出したが、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまっていた。そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。」

 エペソにおけるパウロの伝道も、いよいよ終止符が打たれる時が来ました。彼はこの町で約3年間、昼も夜も、涙ながらに福音を語り続けてきましたが、それが一段落すると、御霊の示しによって、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムへと行くことにしました。なぜ彼はマケドニヤとアカヤに行こうとしたのでしょうか。そこにはあのコリントの教会があつったからです。聞くと教会の中にいろいろな問題があるというではありませんか。そこで彼は何度か手紙を送って解決を図ろうとしましたが、それでもなかなかうまく解決することができませんでした。そこで彼は自らが訪問して、そうした問題の解決を図ろうとしただけでなく、彼らと直接会って励まそうとしたのです。しかし、彼の計画はそれで終わりではありませんでした。彼はそこからエルサレムに行き、そして、ローマに行こうと考えていました。エルサレムに行こうとしたのは、第二回の伝道旅行の時と同じように伝道の報告をするためであったとともに、マケドニヤとアカヤから集めた献金を手渡すためでした。ではローマも見なければならないというのはどういうことなのでしょうか。

 それは、当時の世界ではローマが世界の中心であったということもあれますが、それだけでなく、実はローマこそ当時のいわゆる「地の果て」であったからなのです。そして、この地の果てまでに福音を宣べ伝えていくということが神様のみこころでした。それは使徒の働きは1章8節に、

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

とあることからもわかります。このキリストの約束のことばが実現するためには、「地の果て」であるローマに立たなければなりませんでした。それが神のみこころだったのです。ですからここに、「パウロは御霊の示しにより」とあるわけです。ルカは、そのことを言いたかったのです。しかし、パウロがみこころに従ってエルサレム、ローマへと向かって進んで行こうとしていたとき、一つの問題が起こったことを聖書は告げています。テモテとエパフラスを先にマケドニヤとアカヤへ遣わし、パウロはその後で行こうと、なおしばらくの間エペソに留まっていたわけですが、その時にこの町でただならぬ騒動が起こったのです。デメテリオという銀細工人がいて、その銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたのですが大勢の人がキリストを信じたことで商売が成り立たなくなつたため、騒ぎを起こしたのです。せっかくパウロが福音の前進のためにマケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに、そしてローマに行こうとしていたのに、そういうときに、それを妨げるようなことが起こったのです。いったいなぜそんなことが起こるのでしょうか。そうなんです。私たちが福音の前進、御国の拡大のために取り組もうとすると、必ずといってよいほと、それを妨げるような問題が起こるのです。

 西山宣教師ご一家が、宣教地に向けていよいよ出発することになりました。これまでその準備を着々と進めてまいりましたが、その中で一つの問題が起こりました。先方の学校から就学ビザのための通知が来なかったのです。それでどうしてかと訪ねてみたところ、どうもこちらから送った資料を紛失したというのです。そんなことがあのか、随分いい加減な国だなぁと思いましたが、後で電話で確かめたところ、「まず観光ビザでこちらに来てください。それから観光ビザに切り替えましょう」ということになって、まだ就学ビザは下りていないのですが、進行によって行くことになったわけです。御国のために進もうとするときには、必ずこのようなこともまた起こってくるのです。

 紀元前445年頃、エルサレムに帰還したネヘミヤが、そこで神殿の城壁を築いた時もそうでした。反対者たちの攻撃に遭ったのです。サヌバラテとか、アモン人トビヤといった人たちでした。彼らは、城壁が修復されているのを聞くと激しく怒り、敵対してきたのです。アモン人トビヤは「おまえたちが建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣を崩してしまうだろう」と言って嘲笑しました。それでも工事が進んでいくと、その怒りは激しさを増してきました。その工事を妨害しようと陰謀を企てたのです。そのときイスラエルはどうしたでしょうか。片手で仕事をし、片手に投げやり(武器)を持って仕事を続けたのです。そうやって52日間で完成したのです。神様は、この工事が何の妨げもなしに再建されることをお許しになりませんでした。むしろ、そのような妨げを乗り越えて完成するように導かれたのです。

 それは私たちも同じです。Ⅱテモテ3:12には、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」とあります。パウロはどれほどの迫害を受けたことでしょう。私たちが御国の前進のために取り組んで行こうとすると、必ずそこに何らかの妨げが起こるのです。けれども、たとえそれがどんな障害であっても真の勝利者というのは、それを乗り越えるのです。重要なのは、そのような迫害を受けながらそれをどのように乗り越えるかということです。パウロはどうしたでしょうか。

 Ⅱ.福音の力(24~32)

 次に、そのような騒動が起こったとき、パウロはそれをどのように乗り越えたかについて見たいと思います。24~34節までのところに注目してみましょう。

「それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」 そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と叫び始めた。」

 パウロの宣教が引き金となって、エペソの人々の中に大変な騒動が持ち上がりました。それはエペソの宗教であった大女神アルテミスを巡ってのことでした。デメテリオという銀細工人が銀でアルテミス神殿の模型を作り職人たちにかなりの収入を得させていたのですが、パウロが、手で作った物など神ではないと言ったたために、商売が繁盛しなくなってしまったのす。それで彼はこれでは商売あがったりと、騒ぎを起こしたのです。このアルテミスとは、本来ギリシャのオリンポスの神々の一つで狩猟の神とされていましたが、このエペソでは、この地方に古くから伝わる豊饒の神と結びついて、豊饒の神として、またその御神体が多くの乳房を持つ女性の姿をしていたことから、多産の神としても崇拝されるようになっていました。このアルテミスの御神体を祭った神殿、アルテミス神殿は、実に絢爛豪華(けんらんごうか)なもので、エペソの宗教と経済に大きな影響を及ぼしていました。エペソの町はこの神殿に関わる様々な祭儀を中心に成り立った町であると言われていたほどです。祭りの時期には多くの巡礼者や観光客が訪れ、それはエペソに大きな経済的繁栄をもたらすものでもありました。神殿の回りには様々な店が建ち並び、中でもアルテミス神殿の模型はお土産品として多く売られており、一大観光地の名産品となっていたようです。そのようにしてエペソの多くの人々がアルテミス神とのつながりの中で生活を成り立たせていたのです。先日、ギャスリー先生が来会されたとき日光東照宮へお連れしましたが、日光もそうでしょう。そこには多くのおみやげやさんやレストランが建ち並んでいました。日光東照宮があるおかげで、その町の人たちの生活が成り立っているのです。それがなくなったら大変です。それがこのエペソの町に起こったわけです。
パウロがやって来て、このような手で作ったものなど神ではないと言ったので、多くの人たちがまことの神に立ち返ったので、そんなアルテミスの女神と神殿の模型など必要なくなりました。それでそれを売って商売していたデメテリオは、売り上げが非常に落ち込んでいるのに気づき、同業の人たちを召集してパウロを訴えたのです。おそらく彼は、この組合のボス的存在だったのではないかと思われます。

 彼の訴えは、まず第一に自分たちが繁盛しているのはこの仕事のおかげであり、第二にパウロが手で作ったものなど神ではないと言い広めたことで、この大女神アルテミスの神殿が顧みられなくなっているばかりか、この大女神のご威光も地に落ちてしまいそうであるということ、そして第三に、その結果自分たちの仕事も信用を失う危険があるということでした。つまりここでデメテリオが問題にしたのは何かというと、自分たちの生活が脅かされるということだったのです。彼は一見アルテミス神の威光が損なわれることを問題にしているようですが、実際のところはそうではなく、彼らの商売が成り立たなくなることへの危機感のゆえに、こうした騒動を起こしたのです。それはパウロがピリピで伝道していたときも同じでした。あの占いの霊につかれていた若い女奴隷たちから、占いの霊を追い出してやったとき、その主人たちが役人たちに訴えたのと同じです。彼らは、そのことで多くの利益を得ていましたが、もうける望みがなくなってしまったので、役人たちに訴えたのでした。(使徒16:19)あるいは、イエス様がゲラサ人の地で、レギオンという名の多くの悪霊を追い出した時もそうでした。悪霊が豚の群れに乗り移ったので、その土地の人たちはイエスに土地から離れてくれるようにと申し入れたのです。(マルコ5:16~17)多くの人は、神への敬虔を利得の手段と考えていますが、このデメテリオもそうでした。彼は、口先では「偉大なのは、エペソ人のアルテミスだ」と言いながらも、腹の中では、結局、自分の利益のことしか考えていなかったのです。そして悲惨なことに、この騒動はさらにエスカレートして、町中が大騒ぎとなり、人々はパウロの同行者であったマケドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一段となって劇場へとなだれ込み、大混乱に陥ったのです。大多数の物は、なぜ自分たちがここに集まっているのかさえわからなかったほどです。もうほとんど手の着けられないほどの集団ヒステリー状態のようになりました。そこには騒ぎに便乗した野次馬たちも紛れ込んで、どんどん大きくなり、もう収集不可能な状態に陥ったのです。

 しかし、よく考えてみますと、こうした暴動の引き金になったのは何かというと、パウロが福音を語ったからなのです。パウロの語った福音がそれを信じたエペソの人たちの心を変え、アジヤの巡礼者たちの心を変えたからなのです。パウロの語った福音を受け入れた人々が、もう大女神アルテミスを必要としなくなり、神殿の模型も必要としない人間に造り替えられたからなのです。そうでしょ?福音にはそれほどの力があるのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。それは、死んだ状態から生ける神に立ち返られせるほどの力です。それはのちにローマ帝国が、大々的にキリスト教を迫害するようになった大きな理由でもありました。キリスト教は何の実力行使もしませんが、その語る福音によって、異教の神殿に仕え、それによってもうけていた商人たちの商売がもうからなくなった、客足がつかなくなったほどに、生活も趣味も何もかもを変えてしまうほどの力があるのです。そういう道なのです。そういうところには、このような問題が起こることもやむを得ないことです。生活がかかっているわけですから・・。しかし、大切なのは自分の生活がどうのこうのということよりも、人を救いに至らしめる真理は何であるかということです。そして、それまで歩んできた道が間違っていたならば、たとえ生活がかかっていることでも辞め、正しい道に立ち返ることです。そうすれば、主が守ってくださいます。

 ところで、ここでちょっと32節に注目していただきたいのです。ここに「集会」という言葉があるのにお気づきかと思いますが、この「集会」という言葉は、下の欄外にある注釈をご覧いただくとわかりますが「エクレシヤ」という言葉が使われているのです。この「エクレシヤ」という言葉は聖書ではキリスト教会を表す専用語になっている言葉ですが、元来は、このようにギリシャの都市国家を意味する言葉だったのです。その集会が今やどうなってしまったのでしょうか。もう収集困難となって、大混乱に陥ってしまったのです。ということはどういうことかというと、そうしたエクレシヤではない、キリストによってもたらされるところの新しいエクレシアこそ、真の命と力に満ちたエクレシヤであって、まことの神であることを表しているのです。

 皆さん、私たちの信じている神こそまことの神であり、人を全く新しく造り替えることのできる力のある神です。私たちは、そのような福音によって新しく生まれ変えられたのです。であれば、福音が語られるところには確かに戦いも生じますが、しかし、それは同時に、この福音にはそれだけの力があるといことの表れあるのですから、たとえそれによってどんなに大きな問題が引き起こされたとしても恐れる必要はないのです。救いを得させる神の力である福音を信じ、この福音に堅く立っていればいいのです。

 Ⅲ.生ける神に信頼して(33~41)

 ですから第三のことは、生ける神に信頼してということです。33~41節までをご覧ください。

「ユダヤ人たちがアレキサンデルという者を前に押し出したので、群衆の中のある人たちが彼を促すと、彼は手を振って、会衆に弁明しようとした。しかし、彼がユダヤ人だとわかると、みなの者がいっせいに声をあげ、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ。」と二時間ばかりも叫び続けた。町の書記役は、群衆を押し静めてこう言った。「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。これは否定できない事実ですから、皆さんは静かにして、軽はずみなことをしないようにしなければいけません。皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。それで、もしデメテリオとその仲間の職人たちが、だれかに文句があるのなら、裁判の日があるし、地方総督たちもいることですから、互いに訴え出たらよいのです。もしあなたがたに、これ以上何か要求することがあるなら、正式の議会で決めてもらわなければいけません。きょうの事件については、正当な理由がないのですから、騒擾罪に問われる恐れがあります。その点に関しては、私たちはこの騒動の弁護はできません。」こう言って、その集まりを解散させた。」

 ところで、わけも分からないまま劇場になだれ込むと集会は大混乱に陥り、収集困難な状態になりました。そして、ユダヤ人たちがアレキサンデルという人を前に押し出したので、彼が会衆に弁明しようとしましたが、彼がユダヤ人だとわかると、みながいっせいに声をあげ、偉大なのはエペソ人のアルテミスだと2時間も叫び続けたため、解決になりませんでした。このような状態を静めたのは誰かというと、町の書記役でした。彼は群衆を静めるとこのように言いました。

「エペソの皆さん。エペソの町が、大女神アルテミスと天から下ったそのご神体との守護者であることを知らない者が、いったいいるでしょうか。」(35,36節)

 彼はまず、このエペソの町が、大女神アルテミスと天からくだったその御神体との守護者であることを確認して満足させ、決して軽はずみなことをしないようにと注意を促すと、次に、「皆さんがここに引き連れて来たこの人たちは、宮を汚した者でもなく、私たちの女神をそしった者でもないのです。」と、彼らがここに連れて来られたクリスチャンたちが何の犯罪も犯した人たちではないことを確認し、38,39節で実際的な提案をしました。それは、もしこのことで何らかの文句があるならばちゃんと裁判の日もあるんだから、そこに訴えらいいということ、そうした合法的な手続きもなしに騒ぐことは、逆に、騒擾罪(そうじょうざい)に問われる恐れがあるのだから、注意しなければならないということでした。

 この書記役の言葉は、表面的にはエペソの人々の対面を保ったのか、群衆の心をなだめることに成功しました。とは言っても、彼自身がアルテミスへの宗教心を持っていたかどうかはわかりません。ただ騒ぎを大きくして騒擾罪に問われ、自分たちの生活が脅かされるようになったら大変なことになるという思いがあったようです。そういう点では、この書記役も、あのデメテリオと何ら変わらない人物であったと言えるでしょう。

 しかし、この一連の流れをよく見てみると、おもしろいことに気づくのではないでしょうか。それはここにはデメテリオをはじめとするエペソの群衆たちと書記官とのやりとりが記されていますが、パウロの姿は一切出ていないということです。パウロ不在です。彼はここで一言の言葉も発しないばかりか、何一つしていないのです。パウロは、その集団の中に入って行こうとしましたが、アジヤ州の高官でパウロの友人である人たちが入っていかないようにと頼んだので、彼はどこかに待機していたのです。だから何もしませんでした。何もしなくても、何も言わなくても、彼らが勝手に騒いで、いつの間にか終わってしまったのです。どういうことですか?おそらくこれを書いたルカは、このエペソのアルテミスを巡る騒動を通して、真に偉大な神はだれなのかを伝えようとしたのではないでしょうか。つまり、忌まわしい偶像を祭る神殿とそれを取り巻く人間のさまざまな思惑がうずめく中で、人の手によって作られる偶像礼拝の空しさや、宗教を利用して結局は自分の利益をむさぼろうとする人間の浅ましい姿を通して、むしろ唯一のまことの偉大な神のお姿というものをくっきりと描き出そうとしていたのではないでしょうか。

 そして、唯一の生けるまことの神は人の手によってでなければ作られず、顧みられず、そのご威光も地に落ちてしまうような神ではなく、あるいは、自分たちの仰が脅かされるからといって暴力的になって他の信仰を攻撃し圧倒しなければ、立ち行きできなくなってしまうような神でもなく、人の仲裁や調停がなければ他の信仰と共存できないような人間の力頼みのような神でもないのです。まことの神とは、人々が頼りにしていた魔術本から解放し、家々に祀るために買い求めていた神殿模型から解放し、そのようにして空しい偶像礼拝、物言わぬ神々に寄りかかっていきていたような生き方に決別させ、みことばと聖霊のご支配によって罪の赦しと、死に対するほんとうの解決を与え、世のあらゆる事柄を越えた真理を示し、空しい富以上の確かな宝である天の御国をお与えになって、真の自由と平和をもたらすことのできる方なのです。そのようなお方は、人間のあらゆる業を越えて、人間が指一本触れなくてもこのような大混乱から脱出を与えることができる方なのです。これがまことの生ける神です。このまことの神は、目には見えなくても、今も生きて働いておられる力強い方なのです。私たちが信頼しなければならないのは、このお方なです。私たちがこの道に歩んで行こうとするときには、確かに多くの困難もあるでしょう。しかし、同時に、そこにこの偉大な神の助けと守りもあるのです。私たちは信仰によってこの神を見上げ、神に祈り、神に信頼して生きること、それこそ困難を乗り越えていく最大の秘訣なのです。イエス様は、

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:31~34)

と言われました。問題は何を第一にするかです。私たちの人生にはほんとうに心が引き裂かれるような数多くの出来事に取り囲まれています。そうしたことをいちいち数え上げたら心配の材料は尽きることはないでしょう。しかし、神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。大切なのは心配することではなく、信頼することです。なぜなら、私たちの神は偉大な生ける神であって、この方に信頼し、この方に従って歩もうとする人に目を留め、心を配っておられるからなのです。このただならぬ騒動もパウロが指一本触れることがありませんでしたが、完全に解決したではありませんか。
私たちの神様は、今も生きておられる偉大な神なのです。その方に信頼しなければなりません。

 アメリカ第16代大統領アブラハム・リンカーンは、ほんとうに神様に信頼して生きた大統領だったと言われています。彼は祈る大統領でした。それは、彼が自分の能力や努力だけでは、何もすることができないと考えていたからです。彼が大統領に当選した後、ワシントンに向かって立つ日の朝、見送りのためにやって来た市民たちに、次のような別れのあいさつをしたと言われています。

「愛する皆さん!私はスプリングフィールドで、皆さんから多くのものを頂ました。私たちは皆、神様なしには決して成功することはできません。私はこの場を離れますが、私のために祈ってくださるようお願いします。私は、かつてワシントン大統領のり肩の上に乗っていた重荷よりも、さらに重い荷を負っている気持ちでここをたちます。神様が助けてくだされば、どんな困難も乗り越えることができると信じています。私のために祈ってください!」

 彼は神様に祈ることこそ、ほかのどんな仕事よりも優先させることであり、多くの事を成し遂げるための方法であると考えていたのです。そしてその結果、国が北と南に分裂していた状態を統一し、奴隷解放を成し遂げることができたのです。

 それは私たちも同じなのです。私たちの歩もうとしている道は決して平坦なものではなく、多くの障害が横たわっているような道かもしれませんが、たとえそれがどんな道であろうとも、神に祈り、神に信頼して進むなら、必ず神が解決を与えてくださるのです。神の国とその義とを第一にするなら、神は、それに加えてすべてのものを与えてくださるからです。私たちの信じている神は偉大な神だからです。ですから、この神に信頼して、この道を一歩一歩歩んで行こうではありませんか。エペソに起こったただならぬ騒動は、そのことを私たちに伝えたかったのではないでしょうか。