使徒の働き20章28~38節 「良い牧者」

きょうは、「良い牧者」というタイトルでお話したいと思います。きょうの箇所には、先週に引き続きミレトにおけるパウロの説教が記されてあります。先週はその説教の最初の部分から、福音をあかしする者とはどういう者なのかについて学びましたが、きょうは、神の教会のリーダーとはどうあるべきなのかを学びたいと思います。28節をご覧ください。ここには、

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。」

とあります。あなたがたとは、エペソ教会の長老たちのことです。その長老たちのことをここでは何と言われているかというと、神の教会を牧させるために群れの監督として立てられた人たちです。聖書の中に、イエス様がご自分のことを「わたしは、良い牧者です。」(ヨハネ10:11)と言われたことから、プロテスタントの教会では聖職者たちのことを牧師と呼ぶようになりましたが、それは、こういうところにも現れています。よく「カトリックでは神父と呼ぶのに対して、プロテスタントではどうして牧師と呼ぶのですか」という質問を受けることがありますが、それはこの聖職者の立場がどのようなものなのかの理解の違いにあります。カトリック教会では、司祭は父の如く信者の霊魂の世話をするということから神父と名づけられました。実際、スペインやイタリアでは父を意味するパドレ(padre)、英語圏ではファーザー(father)と呼ばれています。カトリックでは父のように世話をするのです。しかし、プロテスタントは違います。、プロテスタントでは牧者、羊飼いのように仕えるのです。そういう違いがありますが、その働きは同じです。私はよく近くのカトリック教会のバルトロ神父と会って一緒に食事をすることがありますが、まさに父のように信徒さんに接しておられます。しかしここでは単なる牧者に対して勧められているだけでなく、エペソの教会を治めるために選ばれた牧師や長老など、いわゆる教会のリーダーに対して、どのように神の教会を牧したらいいのかが語られているのです。

イスラエルに行ったことのある牧師からこんな話を聞いたことがあります。ある場所に多くの人たちが集まっていたので、何があるのかなぁと思って行ってみたら、その真ん中に美しくて立派な一頭の牛がいたそうです。この牛の前には立て札があって、このように書かれてありました。「この牛を泣かせた人にこの牛を差し上げます。」そこで多くの人たちが試してみましたが、牛はウンともツンとも泣きませんでした。するとそこへ老年の牧師が出て来て、牛の耳でなにやらひそひそと話しました。すると突然、牛は涙をボロボロ流したというのです。それで人々は驚いて、「いったいどんな話をして、あんなに牛を泣かせたのですか。」と聞きました。するとその老人は答えました。「30年間牧会しながら苦しくて悔しくて悲しかったことを話しただけです。」また、他の場所にも行ってみると、そこにも一頭の牛がいて、そこにはこういう立て札がありました。「牛をまっすぐに歩かせた人にこの牛を差し上げます。」すると今度もあの老年の牧師がやって来て、何やら牛の耳元でつぶやきました。すると牛がまっすぐに一目散に逃げて行きました。それを見て驚いた人ちがまた尋ねました。「いったい何と言って牛をまっすぐに歩かせることができたのですか。」するとその老人がこのように答えました。「私と一緒に牧会しようと言ったら逃げて行きました。」

神の羊を飼う、神の教会を牧するというのは、それほど大変なことだということなのでしょう。しかし、見方を変えるとそれは、神の羊を養うということはそれほどやりがいもあるということなのです。では、いったいどうしたら神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧会することができるのでしょうか。

きょうはこの箇所から、神の教会を牧する良い羊飼いとはどのような者なのかについて、三つの点から見ていきたいと思います。第一のことは、良い羊飼いは、自分自身と群れの全体とに気を配る人であるということ、第二のことは、良い羊飼いとは、神とその恵みのみことばにゆだねる人であるということ、そして第三のことは、良い羊飼いとは、受けるよりも与える人は幸いであると言われたイエス様のお言葉に生きる人であるということです。

Ⅰ.自分自身と群れの全体とに気を配りなさい(28-30)

まず、28~30節までをご覧ください。

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。」

神の教会を牧させるために、群れの監督として立てられたエペソのリーダーたちにパウロが語った第一のことは、「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい」ということでした。「気を配る」とは“注意を集中する”とか“留意する”という意味です。すなわち、自分自身と羊の群れのために気を付けなさいということです。なぜでしょうか。29,30節、なぜなら、パウロが出発したあとで、凶暴な狼がやって来て、群れを荒らし回ることを知っているからです。そればかりではありません。その群れの中からも、いろいろなことを言って、羊たちを惑わし、自分たちの方に引き込もうとする者たちが起こるからです。
信じる人々を惑わす悪しき勢力は、教会が始まったばかりのこの時からすでにありました。このような悪しき勢力は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を荒らし回ります。ですから、そのような勢力に対抗して、教会が教会としてしっかりと立っていくたくために、自分自身と群れの全体とに気を配らなければなりません。

まず、あなたがた自身に気を配らなければなりません。どういうことでしょうか。ほかの人の世話や事務的なことに気をとられているうちに、自分の足下が危なくなるとこのないように、自分自身を立て上げていかなければならないということです。もちろん、そのためにはリーダー自身の能力やアイデヤといったことも必要でしょうが、それ以上に、いつもみことばによって養われていなければなりません。ですから、自分自身を立て上げるとは、神のみことばによって、ご聖霊の助けをいただきながら、霊的に成長させていただくことなのです。教会のリーダーは、人々を養う前にまず自分自身を養わなければならないのです。

それから、群れ全体とに気を配らなければなりません。これは「神の教会を牧する」ということです。牧者に求められていることは何でしょうか。羊が草を食べたり水を飲んだりして、成長していけるように、牧草地や水辺に連れて行ったり、あるいは、猛獣の餌食にならないように守ることです。また、「監督」というのは見張り人のことです。凶暴な狼が群れの中に入り込んで来て、群れ全体を荒らすことがないように見張らなければなりません。つまり、自分たちに任せられた人々を深く愛して、仕えることです。群れのリーダーに求められているのは、そのような心を持つことです。

アメリカ南北戦争後、アメリカテネシー州、アラバマ州、ミズーリ州で説教者として活躍したE..M.バウンズは、この牧会者の心を持つことについて次のように言っています。

「偉大な働き人たちは、偉大な心を持つ人々でした。羊飼いは羊の群れを打ちますが、教会の羊の群れを祝福し牧者としての職を全うできるのは「良い牧者」の心を持つ牧会者だけです。良い牧者は人々からのいくつものほめ言葉よりも、神に一言ほめられることを喜びます。良い牧者はたましいを愛する情熱をもって、祈りの場から逃げません。私たちを愛し、ひとり子をお与え下さった父なる神の大きな愛、その愛が私たちを通して現される時、世は神が生きておられることを知るでしょう。」(「祈りの力」から)

教会に仕えるリーダーとして、神が任せてくださった兄弟姉妹に、私たちはどのように仕えているでしょうか。あなたがた自身と群れ全体とに気を配りなさい。群れ全体に気を配り、群れを愛する牧者の心をもって仕えていく者でありたいと思います。

Ⅱ.神との恵みのみことばとにゆだねます(31-32)

第二のことは、良い牧者は群れを神とその恵みのみことばとにゆだねるということです。31,32節をご覧ください。

「ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

そのような外からの狂暴な狼に対して、また、内からの偽教師の働きかけに対して、いったいどのように対処していったらいいのでしょうか。そのためにまず目をさましていなければなりません。そして、与えられた群れを神とその恵みのみことばとにゆだねなければならないのです。32節です。

「いま私は、あなたがたを神とその恵みのことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」

ここにパウロの最も深い確信と、最も強いメッセージが記されているのではないでしょうか。それは、これまでに彼が語ってきたどんな勧めの言葉や命令の言葉、警告の言葉よりも、またどれほど自分の生き様を模範として示して来たことよりも強い確信です。それは、結局のところ、最後にゆだねなければならないのは神とその恵みのみことばであるということです。なぜなら、みことばがクリスチャンを育成し、御国を継がせることができるからです。決して人間の知恵や力によって教会が建て上げられるのではありません。そうしたものは一時的なしのぎにはなるかもしれませんが、教会を建て上げていくことはできないのです。ただ神とその恵みのみことばだけが、教会を建て上げ、すべての聖なる人々の中にあって、御国を継がせることができるのです。

かつてユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、敵がエルサレムを攻撃するためにやって来たことがありました。城壁に囲まれたエルサレムが敵の軍勢に囲まれ、絶体絶命のピンチにあったのです。その時に、エルサレムの政治的な指導者たちは、この難局をどうやって乗り切ろうかと考えました。知恵を出し合って、いろいろと相談しました。様々な作戦も考えました。敵と和睦するべきだろうか。いくら払ったら包囲網を解除してくれるだろうか。あるいはもっと強い国と同盟関係を結んで、その国に助けてもらった方がいいだろうか、等々。
その時に、イザヤは、彼らにこう警告したのです。「あなたがたは、自分の知恵に頼ってはならない。そもそも、なぜこのような事態に陥ったのかを考えるべきだ。それは、あなたがたが、真の神を捨てて偶像の神に走ったからだ。だから、この危機的な状況から逃れる道は一つしかない。人間の知恵ではなく、神の知恵に従うこと。あなたがたは悔い改めてもう一度、真の神のもとへ立ち返りなさい。そうすれば、主ご自身が、あなたを救ってくださる。人間の知恵に頼ってはならない。主に信頼せよ。」そう語ったのです。これがイザヤの警告でした。
しかし、エルサレムの指導者たちは、イザヤの警告に耳を傾けませんでした。彼らはどこまでも自分たちの知恵で、この難局を乗り切ろうとしたのです。その結果、どうなったでしょうか。エルサレムが滅んでいったのです。神のことば、神の知恵に頼らなかったからです。

それは今日の教会にも言えることではないでしょうか。教会がみことばから離れて人間的になり、人の知恵によって進んで行ったら、かつてイスラエルが経験したように崩壊してしまうことになります。しかし、神とその恵みのみことばにゆだねるなら、決して滅びることがありません。みことばは、天地が滅び失せない限り、一点一画でもすたれることがないからです。ですから、みことばは何と言っているのかを正しく理解し、それに従うことが重要なのです。

パウロは、神とその恵みのみことばこそ教会を建て上げ、信者に御国を継がせることができると信じていたがゆえに、愛する神の教会をみことばにゆだていくことができたのです。それはこのエペソの教会ばかりでなく、いつの時代のどの教会にも言えることです。私たちは、教会を育て、教会を建て上げてくださるお方は神であり、神がそのみことばを聖霊とともに働かせてくださることによってのみ成長していくことができるのだということを心に刻みながら、このみことばに従う群れでありたいと思うのです。

Ⅲ.受けるよりも与える方が幸いである(33-35)

良い牧者の第三のことは、受けるよりも与える方が幸いであると主イエスが言われたみことばを実践する人です。33~35節をご覧ください。

「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

エペソの長老たちに対してパウロが語った最後のことは、どのようにして弱い人々を助けることができるかということです。そのためには、主イエスが語られたことばを思い出さなければなりません。すなわち、「受けるよりも、与える方が幸いである」というみことばです。このことばは福音書を見る限りイエス様が語られたことばとしては記されてありませんが、イエス様の生き方やイエス様が他に語られたことばをみると、確かにイエス様がこのようなことを言われたのは明らかです。たとえば、ルカの福音書6章38節には、

「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

とあります。また、ヨハネの福音書12章24,25節にも、

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」

とあります。イエス様はこのことばのとおりに、まさに一粒の麦として地に落ちて死んでくださいました。十字架の上で。それは、そのことによって多くの人たちが生きるためです。豊かな実を結ぶためです。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに入るのです。イエス様のご生涯は、実に与える生涯だったのです。ですからイエス様は、

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

と言うことができたのです。イエス様は良い羊飼いです。なぜなら、私たちのためにいのちを捨ててくださったからです。悪い羊飼いはいのちを捨てません。狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行くのです。それで、狼は羊を奪い、また散らします。それは彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。けれども、良い羊飼いは違います。良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てるのです。イエス様はその良い羊飼いです。そして、このイエス様につき従って行く私たちもまた、受けるよりも、与えることを幸いとしなければならないのです。

この世にあって多くの人々は逆に考えています。与えるよりも受ける方が幸いだと思っているのです。生まれながらに利己的な私たちは、たとえどのようなものであっても、何かを人からもらうということに対して喜びを感じるものです。お金や物がたくさんたまっていくということ、名誉や地位が与えられるということを喜ぶのです。しかし、それはほんとうに喜ぶべきことなのでしょうか。お金や物や名誉や地位が自分のものとなっていくということは嬉しいことかもしれませんが、それによって人間として重要なものを失っているのではないでしょうか。

皆さんは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」という作品を読んだことがあるでしょうか。ドストエフスキーはその作品の中で、若き日のゾシマ長老のところに訪ねて来た謎の客のことばとして、次のようなことを言っています。

「現代の人は、すべて箇々の分子に分かれてしまって、誰も彼も、自分の穴の中に隠れています。誰も彼もお互いに遠く隔てて、姿を隠し合っています。持ち物を隠し合っています。そして結局、自分で自分から他人を切り離すのが落ちです。ひとりひそかに富を蓄えながら、おれはいまこんなに強くなった。こんなに物質上の保証を得たなどと考えていますが、富を蓄えれば蓄えるほど、自殺的無力に沈んでいくことは、愚かにも気づかないでいるのです。なぜというに、我一人を憐れむことに馴れて、一箇の分子として全体から離れ、彼の扶助も人間も人類も、何ものも信じないように、己の心を教え込んで、ただただ己の金や己の獲得した権利を失いはしないかと戦々兢々としているからです。」

この謎の客のことばには含蓄があります。富を蓄えれば蓄えようとするほど、全体を離れ我一人の世界に馴れることによって、自殺的無力に沈んでいってしまうからです。

オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーは、次のように言いました。「不幸な人は、自分の喜びばかり考えている人です。憂鬱な時、どうしたら他人に喜んでもらえるかを考えることです。」受けるよりも、与える方が幸いなのです。神と人のためにいかに自分を与えることができるかと考える人は、多くのものを受ける祝福された人なのです。

パウロは、コリント第二の手紙の中で献金について触れ、それは「恵みのわざ」だと言いました。(Ⅱコリント8:7、19)与えることは神の恵みであり、恵みのわざなのです。それは、献金がただ単にお金をささげることではなく、生ける神との交わりと神への奉仕の表れだからです。ですから、献金は恵みなのです。パウロは喜んでささげたのです。労苦して弱い者たちを助けなければならないということ、また、主イエスが受けるよりも与える方が幸いであると言われたみことばを思い起こしながら、そのような生き方に徹ることができたのです。そして、いつも喜びに満ちあふれていました。彼には霊的スランプというものがあまりなかったのです。彼はいつも神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、人々の必要のためにも労苦して働きました。

惜しまずに与え、報いを望まず、なすべきこと忠実にを淡々とこなし、神とその恵みのみことばにすべてを委ねて、自分自身と群れの全体とに気を配る。これが神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、群れの監督として立てられた者たちに求められている姿であり、クリスチャン一人一人が祝福を受ける道なのです。

ところで、このエペソの教会はその後どうなったでしょうか。黙示録2章を見ると、このエペソの教会が1世紀末までにどうなっていったかを知ることかできます。2章1~5節です。

「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

2節を見るとこのエペソの教会は、パウロの教えを守り、使徒と自称している者たちの偽りを見抜いたとあります。つまり、みことばを守り抜く戦いにおいて、この教会は勝利していたのです。しかし、彼らには避難すべきことがありました。それは、「初めの愛から離れてしまった」ことです。すなわち、弱い羊を助け、羊たちを守るという愛から離れてしまった。ですから、それがどこから落ちたのかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなければなりませんでした。

皆さん、このエペソの教会はどこから落ちてしまったのでしょうか。まさにここから落ちたのです。受けるよりも与える方が幸いであると言われた、あの主イエスのことばに生きることができず、自分のことしか考えられなくなってしまったのです。教会が神のひとり子の血をもって買い取られた神の教会であり、弱い羊も、小さな羊も、神がご自身の血をもって買い取られた尊い神の羊であるという理解から離れ、だれかが、いつか、どこかで何とかしてくれるでしょうといった他人事のようにしか考えられなくなってしまったのです。すなわち、初めの愛から離れてしまったのです。

皆さん、愛がないなら、何の値打ちもありません。私たちの教会がみことばに基づいたあつい愛と、暖かい母の愛と涙をもった神の教会として、天の御国まで建て上げられていく教会であるために、私たち一人一人が、与えられた役割を忠実に果たしていくことができますように。イエス様やパウロに習って、喜んで自分を与えていくことができますように。この愛に生きる牧会者でありたいと思うのです。それこそイエス様やパウロに見られる良い牧者、良い羊飼いの姿なのではないでしょうか。