使徒の働き23章1~11節 「きよい良心をもって」

きょうは「きよい良心をもって」というタイトルでお話したいと思います。今読んでいただいた箇所には、パウロがなぜユダヤ人に訴えられたのかを知ろうとした千人隊長が、ユダヤ人議会にパウロを連れて来た時の様子が記されてあります。この箇所は異邦人であった千人隊長によってユダヤ教の議会が招集されたり、そこでパウロが発言することが許されていることなど、普通では考えられないことが記されてあるので、使徒の働きの中でもその史実生が疑われている箇所ですが、しかしここに描かれているパウロの姿には、実に印象深いものがあります。パウロはユダヤ教議会の前に立たせられると、ユダヤ教の祭司長や長老たちを前にして、臆することなく、次のように言いました。1節です。

「パウロは議会を見つめて、こう言った。「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」

パウロは、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来たと言いました。それはいたずらに人を恐れたり、人の顔色をうかがったり、媚びへつらったり心ではなく、神の御前で自らが信じるところに立って行動してきたという宣言です。周りがどう言おうと、上からどう押しつけられようとも、神の御前にあって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うことのできる精神の自由さです。それは24章16節のところに、「私はいつも、神の前にも人の前にも責められるところのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と言われている良心の自由のことです。私たちも、このような良心の自由をもって生きることができたらどんなに幸いなことでしょうか。

きょうはこのきよい良心をもって生きることについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、クリスチャンの生き方は、「良心的」な生き方であるということです。神の前にも人の前にも責められるところのない良心もって生きること、それがクリスチャンの生き方の根本にあるものです。第二のことは、的はずれの良心についてです。ユダヤ教の指導者たちは、それぞれ自分にとって良かれと思って行動していましたが、結局それは的をはずした良心でした。キリストの十字架という基盤なしに、生まれながらの人間の良心というものは、結局、的はずれに終わってしまいかねません。第三のことは、しかし勇気を出しなさいということです。全くきよい良心を持って生きようとすればそこには戦いも生じますが、心配する必要はありません。神が共にいていて励ましてくださいますから。

Ⅰ.きよい良心をもって(1-3)

まず第一のことは、クリスチャンの生き方というのは良心的な生き方であるということについて見ていきたいと思います。1-3節をご覧ください。パウロは、ユダヤ人議会の前に立たせられると、議会の議員たちを見つめて、こう言いました。1節です。

「兄弟たちよ。私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました。」

これは実に大胆な主張でした。並み居るユダヤ教の祭司長や長老たちを前にして、自分が全くきよい良心をもって、神の御前を歩んできたというのですから・・・。パウロはかつてユダヤ教の律法については厳格な教育を受け、神に対しては熱心な者でしたが、その彼がクリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていたとき、そこで復活の主イエスに出会いました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのですか」という声を聞いたとき、彼は地に倒れ、「あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という声を聞いたのです。その時彼ははっきりわかりました。自分がこれまで正しいと思ってやっていたことが間違いであったということが。神であるはずがないと思っていたイエスが、実は神であり、救い主であるということがはっきりわかったのです。すると彼は直ちにキリストを宣べ伝えるようになりました。ナザレのイエスこそ神の子、キリストである・・・と。最初はだれも信じませんでした。あんなにキリスト教を迫害していたパウロが、手のひらを返したかのように、今度はイエスがキリストだと言うのですから。しかし、バルナバという人の仲介によって彼はクリスチャン仲間から受け入れられ、認められるようになると、アンテオケ教会から遣わされ、いのちをかけて神の福音を宣べ伝えたのです。そうした彼の行動のすべては、全くきよい良心に基づいたものであったというのです。その良心は、いたずらに人を恐れたり、人の顔色をうかがったり、人に媚びへつらったりするものではなく、神の御前で自らが信じているところに基づいての、人間の尊厳に関わる心です。周りの人がどう言おうと、上からどう押しつけられようと、神の御前にあって「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言うことのできる精神の自由さです。パウロは、そのような全ききよい良心をもって、神の前に生活してきたのです。

皆さん、キリスト教がほかの宗教と大きく違う一つの点はここにあります。すなわち、クリスチャンは良心的であるということです。クリスチャンがほかの人をだましたり、欺いたりしないのはなぜでしょうか。良心的に生きているからです。心の中まで見通しておられる神の御前において、良心的に生きようとしているからなのです。一般的にはそうではありません。一般的には、法律に引っかかるかどうかが、行動に基準となります。そして法律に引っかからなければ何をしても構わないと考えますが、クリスチャンはそうではありません。クリスチャンは、神の御前においてどうであるかが問われるのです。

私が小さい時、母はよく私にこう言いました。「いいかい。悪いことすっと罰が当たったかんない。」母はその頃はまだクリスチャンではありませんでしたから、ワンパクな私を育てようとしたとき因果応報的な考えによって躾けようとしたのでしょう。悪いことをすると必ず罰が当たるから、いい子でいなさい・・・と。確かに「悪いことをすると罰が当たる」と脅されると、なかなか悪いことができなくなるものです。しかし問題は、何が悪いことなのかがはっきりしていないこです。多く場合はそうではないでしょうか。先日那須で聖書入門講座が行われましたが、6回の学びが終わったときそこに参加されたお一人の方がこう言われました。「私は今まで自分が罪人だなんて考えたことがありませんでした。悪いことなんて何一つしていないいい人だと思っていたのに、ここに来て罪人だと聞いてぴっくりしました・・。」

多くの場合はそなんです。一般的な感覚や基準でみたら、法律で定められていることを侵さなければ罪人ではないと思っていますが、クリスチャンはそうではありません。クリスチャンは一般の法律もそうですが、それ以上に神様の目から見てどうなのかということが基準になるのです。私たちの心の中までもちゃんと見通しておられる方の前にどのように生きるのかが問われる。だから人をあざむいたり、だましたりできないのです。

ちょっと前に娘の誕生日があってプレゼントを探していたときのことです。車いすで家の中のいろいろなものを取ろうとするのは大変だからと、卓上の電気コンロやミキサーとかを置ける台を買おうということになりました。リサイクルショップを何軒か回り「あれがいいなぁ」と思うものに目星を付けて翌日買いに行ってみると、前日まで外に置いてむあったはずのテーブルがないのです。中に移したのかなと思って見たところちゃんと重ねて置いてありました。「良かった」と思って早速レジの定員さんに「あのテーブルください」と行って歩み寄ると、ほんの少し遅れて別の方も他の店員さんを連れてやって来て「このテーブルです」と指さしたのです。どうも同じテーブルが欲しかったようなのです。しかもよく見たらその方はよく知っているクリスチャンの老夫妻でした。「あら先生でしたか。教会の聖餐式に使うテーブルを探してまして・・」「でもいいんです。先生の方が早かったんですから、ご心配しないでください」と言われました。こっちは娘の誕生プレゼント、かたや教会の聖餐で使う台です。そう言われるとどうも平安がないのです。確かに私の方が5秒ほど早かったし、私がこれを買うことが決して悪いわけではありません。しかし「聖餐に・・」と言われると、神様のものを奪っているようで心が騒ぐのでした。店を出てからすぐに家内に電話しました。「聖餐の台に使うんだって。私の方が早かったのよ。決して悪いことをしているわけじゃないと思う。でも聖餐に使うと聞くと使えないよね」結局、電話して、もしお使いになるのでしたらどうぞ使ってくださいと申し上げました。すると、遠慮されたのかどうかわかりませんが、「あら、いいんですわよ。今別にないわけじゃなくて別のものを使ってるんですけど、それが小さいからもう少し大きいのにしようかと思って探していただけですから」と言われたので、「それじゃ、こちらで使わせていただきます」と言って使うことにしました。

悪くはありません。私の方が5秒早かったんですから・・。しかし、クリスチャンにはそういうこととは別の基準があるのです。それは神様から見たらどうかということです。神様がご覧になられて喜んでおられないならそれは良心が責められることになってしまいます。24章16節のところでパウロは、「神の前にも人の前にも責められるところのない良心を保つように、と最善を尽くしています」と言っていますが、これこそ私たちの行動の基準なのではないでしようか。

ところで、パウロがそのように言うと、大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打てと命じました。いったい何が問題だったのでしょうか。何が彼をそんなに怒らせたのでしょう。わかりません。おそらく、パウロがこれまで自分のやって来たことが神の御前に正しいことであるかのように言ったことが、彼の心に痛く響いたのでしょう。するとパウロはアナニヤに向かってこう言いました。3節です。

「ああ、白く塗った壁。神があなたを打たれる。あなたは、律法に従ってわたしをさばく座に着きながら、律法にそむいて、私を打てと命じるのですか。」

「白く塗った壁」とは、しっくいで上塗りされた壁のような心のことです。つまり倒れかかった壁をしっくいで白く塗れば、その危険な状態が隠されてしまいますが、そういう壁のことです。それは今にも倒れそうな危険な状態なのに、ただそれが見えないようにカモフラージュしているだけなのです。かつてイエス様は律法学者やパリサイ人に向かって「あなたがたは白く塗った墓のようなものだ」と言われました(マタイ23:27)。墓はその外側が美しく見えても、内側はというと、死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいですが、まさに彼らは外側は正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだという意味です。ここでは白く塗った墓ではなく、白く塗った壁だとパウロは言いましたが、その意味はほとんど同じでしょう。外見を美しく装っても、内面は偽善と汚れ、ひびが入った壁のように今にも倒壊寸前の状態なのです。パウロはアナニヤに向かってそのように言ったのです。

これぞ神の御前にきよく、正しく生きている人の姿なのではないでしょうか。相手の人がどのような人であろうとも、そうした人にへつらうことなく、自分の良心にしたがって、自分が正しいと思うことをはっきりと申し上げたのです。それは彼が人に気に入られようとへつらうような生き方をしていたのではなく、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしていたからではないでしょうか。

私たちはどうでしょうか。時に相手によって自分の本心を偽ってしまうということがあるのではないでしょうか。ほらよく「本音と建前」という言葉があるじゃないですか。本音ではなく建前で行動してしまうのです。そんなことを言ったら悪いと思ってしまうからです。その結果、良心が責められるような言動を取ってしまうのです。私たちにとって必要なことは、パウロが神の前にも人の前にも責められるところのない良心を保つように最善を尽くしたように、この神の御前に全くきよい良心をもって歩むことではなのです。

Ⅱ.的はずれの良心(4-10)

次に、的はずれの良心について見ていきましょう。4~10節までをご覧ください。まず4~5節です。

「するとそばに立っている者たちが、「あなたの神は大祭司をののしるのか」と言ったので、パウロが言った。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書いてあります。」

パウロが大祭司アナニヤに向かって、「白く塗った壁。・・あなたは、律法に従って私をさばく座に着きながら、律法に背いて、私を打てと命じるのですか。」というと、すかさずそばに立っていた人が言いました。「あなたは神の大祭司をののしるのですか。」と。するとパウロは、「私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない」と書いてあります。」と。
パウロはほんとうにアナニヤが大祭司であることを知らなかったのでしょうか。良心の自由に従って、たとえ相手が大祭司であってもいいことは「いい」「悪いことは悪い」とはっきりと主張したはずのパウロが、ここに来てシュンと縮まっているかのような印象があるのはどういうことなのでしょうか。ある人はパウロが大祭司をののしった後で、それを注意されるとすぐに態度を翻してしまったのは彼の失敗だったと言っていますが、果たしてそうなのでしょうか。

そうではありません。パウロはアナニヤが大祭司であったことくらいちゃんと知っていました。知っていたからこそ、あれほどはっきりとものを言ったのです。そうであるとしたら、ここでパウロが「私は彼が大祭司だとは知らなかった」と言っているのはどういうことなのでしょうか。それは、かなり厳しい皮肉のことばであったと解するのがいいと思います。つまり、「あれでも大祭司なのですか」といった意味です。まさか彼が大祭司だとは知らなかった・・・という皮肉だったのだと思います。そう言わざるを得ないほど、彼の言動というのは大祭司のそれとはかなりかけ離れたものだったのです。ですからパウロは指導者を悪く言ったことを注意されたので手のひらを返したかのような態度を取ったのではなく、そのように言うことによって、彼らが自分たちの間違いに気づいて悔い改めることを願っていたのだと思います。

それは、その後のところで、パウロが彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、死人の復活についての望みについて語っていることからもわかります。ある人たちは、こうしたパウロの言動は議会を錯乱するためであって、自分の身を守るためだったのではなかったかと考えていますがそうではありません。ここでパウロが死人の復活の希望について取り上げたのは、彼らの本性を暴露するためだったのです。すなわち、彼らの宗教的な装いというのは、神の前の良心にしたがったものでなく、自分たちの都合のよい良心であったというこです。

ですから見てください。パウロがそのように言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に意見の衝突が起こり、議会は二つに割れてしまいました。サドカイ人は、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、そのどちらもあると考えていたからです。そして騒ぎがいよいよ大きくなると、パリサイ派のある者たちは、「私たちはこの人には何の悪い点も見いださない。もしかしたら、霊か御使いが、彼に語りかけたのかもしれない」と言ったのです。
すなわち、パウロがあえて議会を構成するサドカイ派とパリサイ派というユダヤ教の二大派閥の間に論争を引き起こしたのは、それによって彼らの宗教的な装いの中に潜む俗なる部分を暴き出そうとしたからだったのです。つまり彼らの言動というのは良心から出たものではなく、彼らに都合がいいように、彼ら中心から導かれたところの言動であったということです。それは結局のところ良心に従って行動しているかのようですが、実際はそうでない的をはずした良心に従った行動だったと言えるでしょう。

多くの人は、自分は良心に従って行動していると言いながらも、このサドカイ人やパリサイ人に見られるような的をはずした良心に従っている場合が少なくありません。パウロだってキリストを知る前は自分では良心的な行動をしているはずだと思っていたのに、何と教会を迫害していたのです。自分は良心に従って正しい行動をしているとと思っていても、それが必ずしも正しいとは限りません。良心的行動が正しくあり得るのは、正しい基盤に立った時においてのみなのです。キリストの十字架という基盤なしに、生まれながらの人間の良心というのは、結局、このサドカイ人やパリサイ人の姿に見られるような的はずれに終わってしまうこともあるのです。いや、キリストを信じて生まれ変わったはずのクリスチャンであっても、キリストの十字架という基盤の上に立っているかと言うことを、絶えずみことばによってチェックされなければ、いつしか曲がった方向へ行ってしまわないとも限りません。キリストの十字架という基盤の上に立ちながら、絶えずみことばによってチェックされた全くきよい良心をもって歩む者でありたいと思うのです。

Ⅲ.勇気を出しなさい(11)

第三のことは、勇気を出しなさいということです。ユダヤ人議会での論争がますます激しくなると、パウロが引き裂かれるのではないかと心配になった千人隊長は、再び彼を兵営に連れてきました。するとその夜、主がパウロのそばに立って、このように言いました。11節です。

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」

このときパウロはかなり落ち込んでいたと思います。血気盛んにエルサレムに乗り込み、いのちをはってあかししたものの、その効果というものはほとんどありませんでした。神殿ではユダヤ人たちの誤解によって大騒動が起こり、ユダヤ教議会においても混乱が生じて兵営に連れて行かれるはめになってしまいました。少しでもユダヤ人の救いのためにあかししたいと思ってやってきたのに、目の前に起こるのは混乱に次ぐ混乱で、相当疲労困憊して孤独の夜を過ごしていたのではないかと思うのです。そんな彼に突如として主が、幻を通して語りかけるのを聞いたのです。「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と。これまでも彼は、事あるたびに幻を通して主が語りかけるのを聞いていました。中でもあのコリントでの出来事は強く彼の心に残っていたことでしょう。18章9,10節です。

「ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。」

主は、いつでも必要なときに、必要なみことばをもって励まし、立ち上がらせてくださいます。コリントにいた時にはそうでした。しかし、この夜パウロが聞いた主の御声は、彼の心のさらに奥深く染み渡り、彼を深く慰め、励ましてくれるものだったと思います。主は、パウロのそばに立って「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかししなければならない」と語ってくださったのです。

それはかつてヤコブが兄エサウのもとを逃れておじのラバンのもとにむかっていた時のようだったでしょう。孤独と恐れの中にいた彼は、そのところで一つの石を枕にして横たわると一つの夢を見ました。それは、一つのはしごが天から地に向かって建てられているというもので、その頂は天に届き、神の使いがそのはしごを上り下りしているというものでした。そして主が彼のかたわらに立って仰せられたのです。

「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創世記28:13~15)

それは孤独の中にいたヤコブをどれほど勇気づけたことかわかりません。あのときヤコブは、その場所の名前を「ベテル」と呼びました。意味は「神の家」です。だれもいなくても、神がともにいてくださるという現実に、勇気百倍受けたのでした。それと同じです。

主がここでパウロに与えてくださった励ましは、単なる景気づけではありませんでした。そこには確かな約束と使命がともなっていたものでした。この旅がエルサレムで終わることなく、さらにローマまで続くという約束です。しかもそれは「ローマでもあかししなければならない」とありますように、必ずそうなるという約束に基づいたものでした。このような神の約束と使命に裏付けられた勇気をいただき、それによって自らを奮い立たせ、立ち上がることができる人は、その神からの励ましと慰めによって同じように意気消沈し、落ち込んでいる人をも励まし慰めることができるようになるのです。その象徴的な出来事がこの後の27章23~26節に記されてあることかと思います。

「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』
ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」

これは後にパウロがローマへ向かう途中で、乗船していた船が難破したときに語ったパウロの言葉です。このとき「勇気を出しなさい」と主から励ましを受けたパウロが、今度はその励ましによって嵐の中で恐れ惑っていた人たちに「元気を出しなさい」と励ましを与えることができたのです。

神の御前に良心の自由が与えられている人は、神の勇気によって励まされるだけでなく、同じような苦しみの中にある人をも励まし、力づける者とされて生きることができるのです。そのような人生に今、私たちも招かれていることを覚えて、この週もまた神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしてまいりたいと思います。