使徒の働き22章22~30節 「生きることはキリスト」

きょうは「生きることはキリスト」というタイトルでお話したいと思います。今読んだ聖書の箇所は、神殿で捕らえられたパウロがユダヤ人に弁明したとき、それを聞いていた群衆が激しく憤ったのを見た千人隊長が、なぜ人々がそんなにパウロに向かった叫ぶのかを知ろうとして、彼をむちで打って取り調べた時の様子が記されてあります。その時パウロは、自分が生まれながらのローマ市民であると、さも自慢するかのように言いました。いったい彼はどうしてそのように言ったのでしょうか。それはパウロが自分の生い立ちを自慢したかったからでも、それを利用してローマに行こうと考えていたからでもありません。パウロがそのように主張したのは、少しでも長く生き延びて伝道するためでした。すなわち、そのように主張することによって彼の命が守られ、神の福音が宣べ伝えられるためだったのです。パウロにとって生きることはキリスト、死ぬことも益でした。彼が望んでいたことは、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によって、キリストの御名があがめられることだったのです。

きょうはこの「生きることはキリスト」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人たちはなぜそんなに怒り狂ったのかについてです。第二のことは、パウロがローマの市民であると主張したことについてです。そして第三のことは、どんな時でも恐れないということです。

Ⅰ.神から与えられている使命を忘れない(22-23)

まず第一に、パウロの弁明を聞いていたユダヤ人たちは、どうしてそんなに怒ったのかについて見たいと思います。22~23節をご覧ください。

「人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。そして、人々がわめき立て、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、」

22章1節からのパウロのあかし、弁明は静粛な中で行われました。彼が語ったことは、第一に、自分がクリスチャンになる前も後も律法に熱心な者であったということ、第二に、しかしその熱心は間違っていたということ。律法が与えられていた目的はイエス・キリストを信じるためであったのに、彼はそのイエスを迫害するということをしていたのですから。彼の熱心は的をはずしていた熱心でした。ですから第三のことは、悔い改めて、主イエスを信じ、主イエスをかなめとして生きていきましょうということでした。
パウロは、できるだけ彼らが感情的にならないようにと刺激を与えないように配慮して語りましたが、これを聞いていたユダヤ人たちは、着物を放り投げ、ちりを空中にまき散らしながら、叫んで言いました。「こんな男は、地上からのぞいてしまえ。生かしておくべきではない」と。いったいどうして彼らはこんなにも激しく怒り狂ったのでしょうか。

確かに彼らはパウロの話を聞いていて、それまでにも怒りが積み重ねられていたことでしょう。怒りというのはたいていの場合はそうです。初めはどんなことを言われてもある程度は我慢していても、それが限界に達すると、もはやじっとしていることができなくなります。そしてついには爆発するのです。しかしそうであってもやはり怒りが爆発する引き金となるような出来事があったのではないかと思うのです。この場合はどうだったのでしょうか。

もちろん彼らはパウロの話を聞いているうちに、だんだんと心が穏やかならぬものがあったでしょう。しかし、彼らがこれほどまでに激昂したのには、それなりの理由があったのです。それは、パウロが「主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす」と言われました。」と言ったからです。(21節)どうしてそれがそんなに彼らを刺激したかというと、彼らには選民意識があったからです。選民意識というのは、自分たちこそ神に選ばれた民であるという意識です。自分たちは選民なのだから、いつも神がともにいてくださる。したがってほかのどの民族よりもすぐれた者であり、自分たちだけが救われるのであって、他の異邦人が救われるためには、自分たちの一員にならなければならないというのです。問題は、彼らがそのように選ばれたのは何のためであったのかということを忘れてしまったことです。申命記7章6~8節を開いてみましょう。ここには、

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家からエジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」

とあります。ここには、彼らが神によって選ばれた聖なる民であり、宝の民であるとあります。神にとって特別な民です。そして、そのように彼らが選ばれたのは、彼らの数が多かったからでも、彼らが力があったからでもありません。そのように彼らが選ばれたのは、主が彼らを愛されたからであり、彼らの先祖たちに誓われた誓いを守られたからです。それは具体的に言うなら、その昔、彼らの先祖であるアブラハムに語られた約束です。創世記12章1~3節です。

「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されます。」

ユダヤ人の祖先はアブラハムです。神はアブラハムを選び、彼に、自分の生まれた家を出て、神が示される場所に行くようにと命じられました。そうすれば、彼を大いなる国民とし、彼を祝福する・・・と。そして、地上のすべての民族は、彼によって祝福される・・と。それでアブラハムは自分の生まれ故郷を出て、神が約束された地カナンに出て行ったのです。それは彼を祝福するだけでなく、地上のすべての民族が、彼によって祝福されるためでした。すなわち、アブラハムは地上のすべての民族の祝福の基となるために選ばれたのです。なのにユダヤ人は自分たちが選ばれた目的を見失い、自分たちが祝福されることしか考えられなくなってしまいました。自分たちが選ばれたのは生けるまことの神を、全世界の人々にあかしすることであるということをすっかり忘れてしまったのです。ですからパウロが「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす」と言われたことを聞いたとき、選民である自分たちを差し置いて、異邦人たちが救われるとは何事だ、そんなことなんて考えられないと怒ったのです。

ここに、民族や人種差別を行う人間の罪の姿というか、本質を見るような気がします。人はみな自分の立場が脅かされると必ず相手を蹴落として、自分を守ろうとするものです。人種差別とかいうようなものは、そういうところから起こってくるのではないでしょうか。ユダヤ人の誤った選民意識も、結局は、そうした自己保身的な罪人の表れにほかなりません。自分たちに与えられた特権を、自分たち以外の民族に侵されたくなかったのです。

最近テレビでハーバード大学のマイケル・サンデルという教授が東大の安田講堂でさまざまなテーマで学生たちに議論させる「白熱教室in JAPAN」という番組が放映されていますが、先週のテーマの中にこの民族意識についての討論がありました。すなわち、大災害で二人の人が負傷しました。一人は同じ民族の人で、もう一人は他の民族の人であったとしたら、しかもどちらか一方しか助けられないとしたら、あなたはどちらの人を助けますかという質問でした。多くの学生は同じ民族の人を助けると答えました。なぜ?同じ民族だからです。しかしこの民族意識が、それにつながらない人々が疎外感を持つというような問題を引き起こしているのではないでしょうか。すなわち、小さくは親族、財閥、派閥といった党派意識から、広くはかつて日本がアジヤで虐殺行為を繰り返したような問題にです。

最近、二人の科学者がノーベル化学賞を受賞しましたが、メディヤはこぞって日本人はこうした化学に強いとか、優秀な民族であるということを強調していましたが、それも同じです。化学の分野で優れた功績を残されたということはすばらしいことだと思いますが、それがこのような民族の優位性を強調することにつながるとしたら、それはまさに選民意識に凝り固まってその本来の目的を見失ってしまったこのユダヤ人たちと何ら変わりがありません。

私たちはこのような民族性を超えたもっと大きな視野でその目的をとらえていかなければなりません。それは、地上のすべての民族はあなたによって祝福されるという視点です。もし自分たちに何らかの才能や能力が与えられているとしたら、地上のすべての民族はあなたによって祝福されるとあるように、それを地上のすべての人たちのために用いるべきなのです。同じ民族だからではなく、この地上のすべての民族は同じ民族であるという視点が必要なのです。

それは私たちがクリスチャンとして選ばれていることについても言えることです。いったい私たちは何のためにクリスチャンとして選ばれたのでしょうか。それは私たちを通して、すべての人が救われるためです。私たちは救いの基して選ばれているのです。ペテロ第一の手紙2章9節をご覧ください。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あなたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。」

私たちが王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民となったのは、私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるためです。それなのに、自分たちが選ばれたことに満足して、その目的を見失ってしまたら、それこそ、自分を守るというきわめて利己的、自己保身的な罪にとどまることになってしまいます。ですから私たちは、自分たちが神に選ばれてクリスチャンになったのは何のためなのかを常に思い起こし、その使命を確認することは大切なことです。

そうした事実を忘れたユダヤ人たちは、目覚めたパウロを殺そうとしましたが、それは現代でも同じです。集団意識、民族意識を超えて神の使命に生きようとすれば必ず大きな抵抗にもあいますが、しかし、神様のみこころは、「あなたを遠く、異邦人に遣わす」ことであり、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」ことです。ですから、間違った選民意識を捨てて、地上のすべての人たちの救いのために生き、存在しているということをしっかりと覚えていたいと思います。

Ⅱ.生きることはキリスト(24~28)

第二のことは、パウロがローマ市民であると主張したことについてです。24~28節までをご覧ください。

「千人隊長はパウロを兵営の中に引き入れるように命じ、人々がなぜこのようにパウロに向かって叫ぶのかを知ろうとして、彼をむち打って取り調べるようにと言った。彼らがむちを当てるためにパウロを縛ったとき、パウロはそばに立っている百人隊長に言った。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところに行って報告し、「どうなさいますか。あの人はローマ人です」と言った。千人隊長はパウロのところに来て、「あなたはローマ市民なのか、私に言ってくれ」と言った。パウロは「そうです」と言った。すると、千人隊長は、「私はたくさんの金を出して、この市民権を買ったのだ」と言った。そこでパウロは、「私は生まれながらの市民です」と言った。」

パウロに対して荒れ狂った群衆の様子を見ていた千人隊長は、すぐにパウロを兵営の中へ引き入れるように命じました。パウロが問題の張本人であることはわかりましたが、彼らがなぜそんなに騒ぎ立てるのかがわからなかった千人隊長は、彼をむちで打って取り調べようとしたのです。これは取り調べではありません。拷問です。拷問にかけて白状させようというわけです。このむち打ちは当時、かなりひどいもので、中には死ぬ者もいたほどです。というのは、このむちは、皮ひもの先に金属片や動物の骨が結びつけられていたので、それで打たれると、その金属片や動物の骨が皮膚を打ち破り、内臓とかといった臓器が飛び出すほど威力があったからです。

さあ、そのむちを当てるためにパウロを縛ったとき、彼は何と言ったでしょうか。25節です。「ローマ市民である者を、裁判にもかけずに、むち打ってよいのですか。」パウロは、自分がローマ市民であることを主張しました。いったいなぜパウロはこのように主張したのでしょうか。もちろん、当時のローマの法律では、正当な裁判をすることなくローマ市民をむちで打つことは固く禁じられていました。もしこれを破ったとしたら、重罪を免れることができなかったほどです。それにしても死をまで覚悟していた彼がそのような特権を主張しむち打ちを逃れたのは、どうしてだったのでしょうか。

キャンベル・モルガンという有名な保守的な注解者などは、ここでパウロがローマの市民権を周知用したのは彼の弱さからであって、彼の失敗であったと言っています。パウロとて人間だったのだから、そのような弱さを抱えていたのだ・・・と。しかしそうなのでしょうか。そうした弱さからこれを主張したのでしょうか。そうではありません。パウロがこのように主張したのは、神から与えられた使命に生きるためでした。パウロはエペソにいたころ、御霊によって示されていたことがありました。それはマケドニヤとアカヤを通ってエルサレムに行き、そこからローマに行くことです。19章21節です。彼は「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言いました。それが神から与えられていた使命だったのです。その使命を果たすために彼はエルサレムに行き、長年待望していた同胞ユダヤ人の救いのために精一杯あかしをし、もう思い残すところは何もありませんでした。あとはローマです。ローマに行って福音を伝えなければなりません。そのために彼は、少しでも生き延びなければならないと思ったのです。それがここでのローマの市民権の主張となって表れたのでした。それは決して自分の身の安全のためではありませんでした。福音のあかしのためにそうしたのです。彼が願っていたことは、生きるにしても死ぬにしても、キリストがあがめられることだったのです。

「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」(ピリピ1:20~21)

パウロが願っていたことは、どんな場合にも恥じることなく、いつものように大胆にキリストをあかしすることでした。生きることはキリストだったのです。イチローのプロ野球安打記録を塗り替えて、214本の新記録を樹立したマック・マートンは、その日のインタビューでもやはり言いました。「神様は私の力です。」いつでも、どんな時でも、キリストがあがめられることを願って生きていた彼の生き方が見事に表れていると思うのです。パウロも同じです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。いつでも、どんな場合にも、恥じることなく大胆にキリストをあかしし、キリストがあがめられることを求めていきたいものです。

Ⅲ.どんな時にも恐れない(29)

第三のことは、どんな時にも恐れないということです。パウロがローマの市民権があることを主張すると、パウロを取り調べようとしていた人たちはどうしたでしょうか。29節です。

「このため、パウロを取り調べしようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引いた。また千人隊長も、パウロがローマ市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れた。」

このことがわかると、パウロを取り調べようとしていた者たちは、すぐにパウロから身を引きました。また千人隊長も、パウロがローマの市民だとわかると、彼を鎖につないでいたので、恐れました。今、状況は逆転し、むしろパウロを取り調べていた人たちが恐れるようになったのです。なぜでしょうか。そのような状況さえも神様の御手の中にあったからです。

人生の荒波が吹き荒れ、危険にさらされるようなことがあっても、その荒波もまた神の御手の中にあるのです。どのような状況にあっても神のうちにいる限り恐れる必要はありません。イエス様はこのように言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は1アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10:28~31)

そんな雀の一羽でも、天の父のお許しがなければ地に落ちることはないのです。私たちはほんとうにちっぽけなものですが、天の父に覚えられているのです。であるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。私たちが真に恐れなければならないのは、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方、唯一の神だけなのです。

南アフリカのアパルトヘイト、人種差別撤廃に尽力し、27年間も独房で過ごしたネルソンマンデラは、南アフリカ共和国大統領就任演説(1994年)の中で、次のように言いました。

「最も深い恐れ」
私たちの最も深い恐れは無力であることではない。
私たちの最も深い恐れは量り知れずパワフルであるということである。
私たちを最も脅かすものは闇ではなく光である。
立派で華麗で有能ですばらしいなら、私は一体誰なのかと私たちは自問する。
だが実際には、あなたがそうでないなら、誰なのだろうか。

あなたは神の子である—
あなたの卑小な振る舞いは世界に貢献しはしない。
萎縮していては啓発されるものなど何もないので、
他の人々はあなたの回りにいても不安を感じはしないだろう。

私たちは内にある神の栄光を現すために生まれてきた。
それは何人かの中だけにあるというものではない。
それは誰の中にもある。

そして私たちが自分自身の光を輝かせる時、無意識のうちに同じようにしても良いのだという許可を他の人々にも与えているのである。
自分自身の恐れから解き放たれる時、私たちの存在は自ずと他者をも解き放つのである。」

神は私たちにその恐れに打ち勝つ光を与えてくださいました。それは神の光、聖霊の光です。神がともにいてくださるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。イザヤ書12章2節、

「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

もし、恐れのめがねをかけて状況を見たら、すべて心配と不安ばかりです。しかし、私たちの救い主を信じ、みことばに信頼して生きるなら、すべてが感謝と賛美に変わるのです。重要なことは、状況や環境ではなく、神を仰ぎ見続けることです。そういう信仰のめがねをかけることなのです。皆さんはどんなめがねをかけて今の状況を見ていますか。

すべての状況にたじろぐことなく対処しましょう。苦難と危険を前にしても、主がともにいてくださることを信じましょう。恐れを神に告白してください。神は私たちの避け所、とりで、より頼むべき方なのです。生きることはキリスト、このお方に信頼して、どんな時にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることを求めていきましょう。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益だからです。