きょうは「信仰の決断」のために何が必要なのかについてお話したいと思います。今お読みした聖書の箇所はアグリッパ王に語ったパウロの弁明に対して、ローマの総督フェストと、アグリッパ王の態度が記されてあるところです。パウロの弁明は、弁明というよりも、弁明という名を借りた伝道説教でした。3節のところでパウロは、「どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いします。」と言って話を始めましたが、それは23節をもってクライマックスを迎えます。すなわち、「キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、」ということです。パウロのメッセージの中心は、キリストの十字架と復活でした。しかも、これは天からの啓示によるものでした。その啓示によってパウロは、旧約聖書に記されていたメシヤ、すなわち救い主は、この十字架と復活のキリストでなければならないということがわかったのです。パウロはそのことを、自分の過去の生き方から始めて丁寧に説明したのです。
さて、その話を聞いたアグリッパ王は、どのように応答したでしょうか。きょうはこのアグリッパ王と総督フェスト、それからパウロのことばから、信仰の決断のために必要な三つのことをお話したいと思います。第一のことは、真理に従うという姿勢です。ほかの人がやっているかどうかといった物差しではなく、あくまでもそれが真理であるかどうかを考え、それが真理ならば周りが何と言っても従うという姿勢が大切なのです。第二のことは、幼子のように素直に信じるということです。そして第三のことは、神の恵みに目を留めることです。
Ⅰ.まじめな真理のことば(24-25)
まず第一に、真理に従うということについて見ていきたいと思います。24~25節ををご覧ください。
「パウロがこのように弁明していると、フェストが大声で、「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と言った。するとパウロは次のように言った。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」
パウロの伝道説教のような弁明が佳境にさしかかろうとしていたその時、突然フェストが大声で叫びました。「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている・・」と。この時パウロはフェストに語っていたのではなく、アグリッパ王に語っていたのですから、このように途中でことばをさしはさむということは筋違いであり、失礼なことであるのに、彼はなぜこんなことを言ったのでしょうか。パウロが語っていたことが理解できなかったからです。パウロが語っていることが理解できなかったので、その復活について辛抱強く聞いているのが辛かったのだ思います。ローマ人であったフェストにとって、復活それ自体が別次元のような話でした。ですから彼は、パウロの博学が彼の気を狂わせていると言ったのです。本当は自分が理解できないのが問題なのに、彼はそれをパウロのせいにしました。パウロが異常なことを言っているので理解できない・・と。これが人間の姿です。人は自分が理解できないことは、人のせいにするのです。自分の中に問題があって理解できないでいるのに、自分が理解できないのは、その内容が難しいからだとか、それを語っている人がまともでないからだと、ほかの人のせいにしようとするのです。しかし本当の問題は、ほかのだれかとか、ほかのどこかにあるのではなく自分自身にあるのに、それを認めたくないのです。
それに対してパウロは何と言ったでしょうか。25節、パウロは次のように言いました。「フェスト閣下。気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています。」パウロは、自分が気違いだなんて思っていませんでした。もちろん、だれも自分が気違いだなんて思っている人はいないでしょう。しかし彼にはそのように言える根拠がありました。それは彼が、「まじめな真理のことば」を話していたことです。「まじめな」ということばは(ソーフロスュネー)、「気が狂った」とか「異常」に対する「正常」のことで、「正気な」とか「健全な」という意味のことばです。パウロが話していたことはフェストにとっては異常なことばのようだったかもしれませんが、正常で、健全な真理のことばでした。一般的に人は、それが意味のない風習であってもみんながやっているのにやらないと、異常だとか、変な人だというレッテルを貼りたがります。そういうおかしな物差しを持っているのです。ですから、「氏神のお祭りの寄付を断るなんて、それでも日本人ですか」なんて言われるのです。
私が福島にいたとき、町内会の方が氏神のお札を配るために来られました。家は教会ですよ。なのに「これ、お札です。千円ですが、よろしくお願いします」と持って来られたのです。何と言ってお断りしようかと悩みましたが、「私の家はキリスト教なのでお札はいらないんです。申し訳ありません。」と言ってお断りしました。しかし、そのように言ってもなかなか理解してくれません。「キリスト教というのは頭がおかしいんだ。氏神様に寄付できないって言うんだから・」と言うのです。でも頭がおかしいのは氏神様なんです。なぜなら、信仰は自由だと憲法でもちゃんと唱っているではないですか。なのに氏神様に寄付を強要するとしたら、それこそ憲法違反ではないですか。
そもそも日本では行動の基準が正しいかどうかということではなく「長いものに巻かれろ」式の考えにあるのであって、みんながやってることをしないことがおかしいと考えられているところにあるのです。
しかし、クリスチャンは違います。みんながやっているかどうかではなく、それが真理であるかどうかが問われるのです。それが真理で、正しいことだから従う、それがクリスチャンの行動の基準です。真理でなかったら、どうしてそれが安全だと言えるでしょうか。イエス様はこのように言われました。マタイの福音書7章13,14節です。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
滅びに至る門は大きく、その道は広いのです。そして、そこから入って行く人が多いのです。しかし、みんながやっているからそれが必ずしも正しいとは限りません。いのちに至る門は小さく、その道は狭いのです。それを見いだす者はまれです。しかし、真理こそ人を救うのです。たとえ多くの人からそっぽを向かれ、囚人のくせに何を言うのかとあざ笑われても、真理は洋の東西を問わず、動くことのないものなのです。たとえ囚人服を着ている者が語ろうが、真理は真理なのです。身分や地位や人数の多さによって真理が決まるのではありません。真理は、それがほんとうに人を救うのかによって確かめられるものです。
「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)
これこそほんとうの真理であり、私たちが信じるに価するまじめなことば、健全なことばなのです。パウロが語ったのはこの真理のことばだったのです。そして私たちが信仰の決断をするために求められることは、これが真理のことばであるならばこれに従うという姿勢です。
Ⅱ.私をキリスト者にしようとしている(26-28)
第二のことは幼子のように、素直な心で信じるということです。26~28節をご覧ください。
「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。これらのことは片隅で起こった出来事ではありませんから、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと信じます。アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。」
フェストからの横合いが入り話が一時中断しましたが、パウロはここに再びアグリッパ王に向かって話し始めます。「王はこれらのことをよく知っておられるので、王に対して私は率直に申し上げているのです。」と。パウロは何とかアグリッパ王に信じてほしいのです。そこで、このイエス・キリストの十字架と復活の出来事がどのようなものなのかを説明します。すなわち、それは片隅で起こった出来事ではなく、だれもが知っている出来事であって、そのうちの一つでも王の目に留まらなかったものはないと言いました。イエス・キリストが十字架で死んで、三日目に復活したということは歴史的な事実であって、だれもが知っていることなのです。それは決してキリスト教会が作り上げた神話などではありません。そうした事実から目をそらすということは、自分の生活が崩れていくことになりかねません。なぜなら、私たちの生活というのは、そうした事実の上に成り立っているからです。決して雲の上を歩くようなものではないのです。ですから、そうした事実を受け入れるということは無理なことでなく、自然なことなのです。むしろ受け入れない方がおかしいのです。
そればかりではありません。パウロは続けてこう言うのです。27節、「アグリッパ王よ。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じていると思います。」ここからパウロは、少しずつ核心部分に入ろうとしています。アグリッパ王がユダヤ人であることを十分承知の上で、そのユダヤ人が人生のよりどころとしている旧約聖書を取り上げ、そこに記されてあることばを信じているはずだと迫るのです。いったいパウロは何を言いたかったのでしょうか。パウロが言いたかったことは、もし彼が旧約聖書をちゃんと信じているのなら、キリストが復活するということも信じるはずであって、信じないという方がおかしいということです。パウロはアグリッパ王が信じていた旧約聖書という共通の土台の上に、自らの論理を展開していこうとしているのです。
これにはアグリッパ王も参りました。もし信じていないと言えば、正統的なユダヤ教徒とは言えなくなり、王としての地位にもひびが入りますし、そうかと言ってそれを受け入れると言えば、パウロの言っているキリストの福音を受け入れざるを得なくなるからです。アグリッパ王は何と言ったらいいか悩みました。悩んだ末にこう言ったのです。28節です。
「するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。」
アグリッパ王はなぜこのように答えたのでしょうか。「わずかなことば」には*印がついておりますが、下の欄外を見るとここには注意書きが記されてあって、「短い時間で」とあります。ですから、この「わずかなことば」というのがことば数が少ないということなのか、時間的に短いということなのかははっきりわかりません。しかし、29節のところでパウロが「ことばが少なかろうが、多かろうが・・」と言っていることから考えると、どうもことば数が足りない、説明不足であるという意味かのように感じられます。しかし、ことば数が少ないということは時間的にも短いということなので、その両方の意味を含んで言われているのではないかと思います。つまり、「そんなわずかなことばで、短い時間で、簡単に説き伏せようとするのか」ということでしょう。それはアグリッパ王のプライドから生じた反感の気持ちでした。俺はそんなに単純な人間ではない。そう簡単に信じてたまるかといった彼の気持ちが見え隠れしています。しかしその反面、そのわずかなことばで、短い時間でキリスト者になりそうだった、思わず心が動いたというのも事実でしょう。それが彼の正直な思いでした。しかし、アグリッパ王が抱えている様々なもの、たとえば、彼の地位とか、社会的な立場とか、他の人への影響とか、王としてのメンツとか、そうしたものが彼の心を押し戻して、自分の心を打ち消すかのように、「そんなことばで簡単に信じではだめだ」という思いがわき上がってきたのではないかと思います。
私たちの周りには、意外とこのような方が多くいらっしゃいます。いろいろと話を聞くとなるほどと納得させられるところはあっても、そんなに簡単に信じたのでは軽い人間ではないかと思われるのが嫌で、もっと長い時間をかけなければならないと思ってしまうのです。そして少しでも信じそうになると、自分の置かれている立場とか、周りの人たちへの影響といった現実が、信じようとする心を押し戻して、自分の心を打ち消すかのようなことを言うのです。たとえば、「まだ聖書のことがよくわからないから、もっと勉強してから信じます」とか、「まあ、だんだんと、少しずつ勉強します」というふうにです。しかし、短時間であろうと、少しのことばであろうと、簡単なやり方であろうと、クリスチャンになれないことはないのです。入信の方法は人によってみな違うのであって、イエス様を信じたいと思ったらそれを単純に、素直に受け入れることが大切なのです。単純に信じるということはそれだけ軽い人間であるということではなく、それだけ心が素直であるということの証拠です。なぜなら、素直に信じられるかどうかはその人の罪の頑固さいかんにあるからです。なかなか信じて、受け入れられないという人は、罪のためにそれだけ心がかたくなになっているだけなのです。
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は比較的似たような内容を記録しているので共感福音書と呼ばれていますが、その三つの福音書に共通して記録されてある出来事があります。それは、あるときイエス様にさわっていただこうと人々がその幼子たちをみともとに連れて来た時の話です。それを見た弟子たちはしかりました。とても忙しい先生を煩わせてはいけないと思っての配慮だったのでしょう。しかしイエス様はこのように言われました。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
(ルカ18:16~18)
皆さん、神の国はこのような者たちのものです。幼子のように、素直に受け入れる心がないと入れないです。
またヘブル人への手紙4章7節には、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とあります。もし御声を聞くなら、心をかたくなにしてはいけないのです。皆さんはいかがですか。福音のことばを聞くとき、どのようにそれを受け止めているでしょうか。アグリッパ王のように、「あなたはわずかなことばで、わたしをキリスト者にしようとしている」とごまかしますか。あるいは、あのアテネのアレオパゴスでパウロが語った時、それを聞いた人たちが「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言って相手にしなかったような態度を取るでしょうか。あるいはついちょっと前に出てきた前総督のペリクスとその妻のドルシラのように、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう」と言ったように、いたずらに時間を延期するでしょうか。信仰において一番肝心なことは、信仰を一般論として語ったり、論じたり、いいかげんな避難を浴びせたり、だれかを批判したりすることによって、このまじめな問題をごまかしたり、延期したりするのではなく、それを自分の問題として受け取り、まじめに向き合うことです。そして、心をかたくなにしないで、幼子のように単純に、素直に受け入れることなのです。
Ⅲ.神の恵みに目を留める(29)
第三のことは、神の恵みに目を留めるということです。29節をご覧ください。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」というアグリッパに対して、パウロは何と言ったでしょうか。彼は次のように言いました。
「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」
これは非常に大胆なことばだと思います。鎖につながれた囚人パウロが、王や総督を前にして、「ことばが少なかろうと、多かろうと関係ない。私が願っていることは、鎖は別として、みんな私のようになることだ」と言い切っているからです。私たちはなかなか「私のようになってください」なんて口が割けても言えません。昔から「でもクリ」「へそくり」「こそくり」などと、クリスチャンに対して言われます。「それでもクリスチャン」、「これこそクリスチャン」、果たして自分はどちらだろうかと思ったりもしますが、「これこそクリスチャン」と言える人はそんなにいないのではないでしょうか。しかしパウロは大胆にも、「私のようになってください」と言うのです。いったい彼はなぜそのように言うことができたのでしょうか。それは彼が模範的なクリスチャン、模範的な伝道者、模範的な人格者だったからではないのです。そうではなく、彼が「私のようになってください」とか「私にならう者になってください」と言うことができたのは、まさにここでアグリッパ王を前にして語ったあの光の経験があったからなのです。つまり、キリストを迫害していた者がキリストを宣べ伝える者に、サタンの支配にいた者がキリストの支配の中に生かされる者になったという、その恵みの事実があったからなのです。そうした感謝以外の何ものでもありません。こんな私が、こんな罪深い私が、それでもこうして救われて、光の中を生かされている。その喜びと感謝です。それがパウロをして「私のようになってください」と言わしめていたのです。
かつて奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは、奴隷たちを運んでアフリカから英国に戻る途中に大嵐に会い、命からがら助かったとき、二つの事実がよくわかったと言います。一つは、自分がどんなに汚れた者であるかということ、そしてもう一つのことは、そんな汚れた自分を救うのに、神がどんなにあわれみ深い方であるかということです。そして彼はその出来事から数年後に奴隷船の船長の仕事を辞め、パウロのようにキリストの福音を伝える伝道者になりました。そして、神の恵みがどれほど大きいのかを自らの体験を通して語ったのです。それが「アメージング・グレース」です。
弁護士になるために東京で勉強していたある方がクリスチャンになり、やがて献身することになりました。あるとき彼はそのことを両親に告げるために帰省しました。そして、自分がどのように救われたのかを打ち明けたのです。何とか親に理解してもらおうと必死で話したのですが、彼が弁護士になることを夢見ていた両親は顔色を変えてしまいました。父親は興奮して「でたらめ言うな!そんな作り話!」と怒鳴り、母親からは「気でも狂ったのか?」となじられました。
そんなある日のデボーションで、親の気持ちを少しも思いやっていなかった自分に気づかされ、悔い改めて、両親に手紙を書きました。これまで自分を育ててくれたことへの感謝。両親を愛しているにもかかわらず、期待を裏切ってしまったことへの謝罪。しかしこの決心を翻すことはできないこと。そして、最後にこう書き添えました。「私はイエス・キリストを信じて罪赦され、自分の心と人生に本当の自由と喜びを得ることができました。お父さん、お母さんにもこの喜びを得てほしい。いや、すべての人に得て欲しい。そのための働きを生涯の仕事にしたいと思ったのです。いつかきっと理解していただける日が来ると信じています。」手紙を投函した翌日、父親から電話がありました。「手紙、ありがとう。何度も読ませてもらったよ。君の言いたいことはよくわかった。その道で頑張りなさい!」こうして彼の献身がきっかけとなり、30年近く教会から離れていた父親の信仰も回復されていったのまでした。
「わたしのようになってください」それは救われた者の切なる願いではないでしょうか。驚くほどの神の恵みを体験させていただいた者として、そのように変えられた喜びと感謝が、そのような恵みの事実が、このようなことを言わしめたのです。
皆さんはどうですか。アグリッパ王のように自分のプライドが邪魔をしたり、周りの目が気になったり、本当は心の中で信じたいのに、それらのことが足を引っ張ってなかなか信仰の決断に踏み切れないという方がおられるかもしれません。けれどもそのようなことの理由で、このすばらしい恵みから遠ざかろうとするのは賢明な判断とは言えません。パウロを見れば鎖につながれていてもその恵みにいた方が幸いであることははっきりと分かります。これは闇から光へ、死からいのちへ、滅びからいのちへと移される大きな決断なのです。その決断の時は今です。
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
この決断の時を逃すことなく、光の招きに応じて救いの恵みにあずかっていただきたいと切に願ってやみません。