使徒の働き27章1~44節 「人生の艱難を乗り越える」

 きょうは「人生の艱難を乗り越える」というタイトルでお話したいと思います。艱難とは、困難に出あって苦しみ悩むことです。私たちの人生ではさまざまな艱難に遭遇することがありますが、このような艱難に直面した時どうやって切り抜けたらよいのでしょうか。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、私たちがトラブルに陥る原因についてです。第二のことは、艱難を乗り越える方法についてです。ですから第三のことは、このようにして私たちも艱難を乗り越えましょうということです。

 Ⅰ.ユーラクロンという暴風(1-20)

 まず第一に、私たちが艱難に陥る原因について見ていきたいと思います。1~20節までのところです。まず1節と2節をご覧ください。

「さて、私たちが船でイタリヤへ行くことが決まったとき、パウロと、ほかの数人の囚人は、ユリアスという親衛隊の百人隊長に引き渡された。私たちは、アジヤの沿岸の各地に寄港して行くアドラミテオの船に乗り込んで出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。」

 エルサレムで捕らえられ、カイザリヤに移送されてからはや2年以上の月日が流れ、その間、忍耐強くローマ行きを待ち望んでいたパウロに、ようやくその時が訪れました。ついにそのローマ行きの道が開かれたのです。1節を見ると、ここに21章以来となる「私たち」という言葉が出てきます。これは、この使徒の働きを書いたルカが、この時から再び同行したことを表しているものです。この旅には他に、テサロニケ人のアリスタルコも同行しました。パウロのローマ行きの旅は孤独なものではなく、こうした主にある同労者たちとの祈りと交わりの中で励まされながら進んでいく旅でした。パウロたちが乗り込んだ船は、カイザリヤからシドン、キリキヤ、パンフリヤ、ルキヤと、地中海を陸沿いに進み、やがてアジヤ州のアドラミオという所に向かう船でした。それはちょうど季節が秋から冬にさしかかっていた時で、この季節は地中海が荒れ模様になることで知られていたため、ローマに直行する船がなかったからです。そこでまずルキヤの港ミラまで行き、そこからイタリヤを圣由して北アフリカのアレキサンドリヤに向かう船に乗り換え、そこからローマを目指そうと思ったのです。6節にそのことが書いてあります。この船は北アフリカのアレキサンドリヤとイタリヤ半島の間を穀物を積んで行き来する貿易船で、乗員と乗客276名を乗せることができた大型船であったようです。しかしすでに地中海は冬の荒れた天候に変わりつつあったようで、船はなかなか思うようには進みませんでした。ようやくのことで地中海に浮かぶクレタ島の「良い港」というところまで来たところで足止めを食うことになりました。かなりの日数が経過して、断食の季節もすでに過ぎていたため、もう航海は危険だと判断したパウロは、人々に注意して、こう言いました。10節です。

「皆さん、この航海では、きっと、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます」

 断食の季節というのは、だいたい10月の上旬頃のことです。それがすでに過ぎていたというのですから、おそらくもう11月も近づいていたのでしょう。9月半ばから11月半ばまでは航海には非常に危険な季節であり、それ以後は、冬が終わるまで航海はすべて停止しました。パウロはそのことを考えて、このように忠告したのに、船員たちはそのパウロの忠告を退けて船出してしまったのです。11~13節をご覧ください。

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した。
また、この港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の者の意見は、ここを出帆して、できれば何とかして、南西と北西とに面しているクレテの港ピニクスまで行って、そこで冬を過ごしたいということになった。おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。」

 ここに、私たちが人生のトラブルに陥ってしまう三つの原因が見られます。第一のことは、神のことばよりも専門家たちの意見を信用してしまうことです。11節を見てください。せっかくパウロが、これ以上を航海を続けると後悔するようになる、いや生命にも危害が及ぶようになると忠告したのに、百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長たちの言うことのほうを信用しました。当たり前といえば当たり前のことかもしれません。航海士や船長たちは航海の専門家で、より深い知識と経験を持っている人たちですから、そういった人たちの言うことを信用するのは当然なのかもしれません。しかし、そうした専門家たちの意見が必ずしも正しいかというとそうとは限りません。

 世の中には、いろいろな考えを持った人たちがたくさんいます。毎週のように、だれかが新しい精神療法を発表したり、新興宗教を始めたりしています。ある人が、「人生の活力の秘訣は、バナナとヨーグルトを食べることにある」というと、別の人は「いや、ストレッチだ」と言うのです。「ストレッチは血液の循環をよくし、身体を健康にする」と。そうかと思うと別の人が「いや、いきいき人生の鍵は、自分たちのセミナーのテープを買うことだ」という人もいるのです。すべての人が自分の考え方を持ち、専門的な意見を持っているかのように見えますが、実際には、専門家たちの見解には間違っていることが多いのです。自分の意見に賛成してくれる専門家が見つかるまで、いろいろな専門家に意見を聞いて回る人もいますが、もし間違った専門家に意見を聞けば、トラブルに巻き込まれ、艱難に遭遇することになってしまうのです。本当に信頼できるのは、完全に正しい意見を持っておられる神だけなのです。

 トラブルに陥ってしまう第二の原因は、多数決に従ってしまうことです。12節をご覧ください。ここには、停泊していた港が冬を過ごすのに適していなかったので、大多数の意見はここを出発して、できれば何とかしてクレテ島の反対側に位置するピニクスまで行き、そこで冬を過ごしたいと思ったのです。このように多数決の意見が必ずしも正しいということではありません。多数決の欠点は、多数決が間違っている場合もあるということです。モーセがイスラエルを約束の地に導きだそうとしたとき、大多数の人たちはエジプトに戻りたいと言いました。みんなが言うから正しいとは限りません。この場合も、明らかに大多数の意見は間違っていました。広く行き渡った意見や流行の考え方を取り入れることによって、かえってトラブルに巻き込まれてしまうこともあるのです。しかし、神が言われることに耳を傾けるなら、正しい道を進むことができるのです。

 第三の原因は、状況を信頼してしまうことです。13節には、「おりから、穏やかな南風が吹いて来ると、人々はこの時とばかり錨を上げて、クレテの海岸に沿って航行した。」とあります。「この時とばかり」ということばは、下の欄外の注にもありますが、「目的が達せられると思って」という意味のことばです。穏やかな南風が吹いてくると、船員たちは、自分たちの望みがかなったと判断しました。この判断が誤りであったことは後でわかります。どんなに状況が良く思われ、見通しが良くても、神の忠告を無視することは愚かで浅はかなことなのです。たとえ今の状況は良くても、嵐の中へ船を漕ぎ出していることもあるからです。ある人はこう思うでしょう。「自分の下した判断は絶対に間違っていない。なぜなら、自分はその判断にとても満足しているからだ」と。しかし、そうした自分の感情もしばしば私たちを欺くことがあるのです。もし神が「待ちなさい」と言われたら、港で待つべきであります。そうでないと、船出した後で、状況が望ましくないものに変わってしまうかもしれないからです。

 14節、15節を見てください。案の定、彼らが船出するとまもなく、ユーラクロンという暴風が陸から吹き下ろしてきて、船はそれに巻き込まれ、進むことができなくなってしまい、漂流してしまったとあります。そして「積荷を捨て始め」(18節)、「船具までも投げ捨て」(19節)、「最後の望みも今や絶たれようとしていた」(20節)、希望までも捨ててしまったのです。絶望的になりました。

 皆さんは今、どのような状況に置かれているでしょうか。先週、先月、あるいは昨年以来、前からも後ろからも問題が襲って来て、どうにもならないような状況が続いているかもしれません。彼らと同じように絶望的な心境になっているかもしれません。しかし、決して希望を捨てないでください。船乗りたちが希望を捨てたのは、神に望みを置かなかったからなのです。神がすべてを支配しておられるということを忘れてしまったからなのです。彼らは、神が、全く望みのないような状況の中にさえも希望を与えることのできる方であることを忘れていたのです。絶望的に思えるような中にあっても、もし神を見上げ、神に信頼するなら、絶望は希望に変わるのです。

 Ⅱ.元気を出しなさい(21-26)

 それがパウロのとった方法でした。ですから第二のことは、そのような絶望的な状況に置かれた時、私たちはどうしたら良いかについて見たいと思います。21~26節までをご覧ください。

「だれも長いこと食事をとらなかったが、そのときパウロが彼らの中に立って、こう言った。「皆さん。あなたがたは私の忠告を聞き入れて、クレテを出帆しなかったら、こんな危害や損失をこうむらなくて済んだのです。しかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。私たちは必ず、どこかの島に打ち上げられます。」

 このような危機的な状況の中で、パウロは船員たちとは全く正反対の反応を見せました。船員たちが絶望的になり、もはや最後の望みも絶たれようとしていたとき、そんな彼らに向かって、「元気を出しなさい」「恐れてはいけません」と、彼らを励ますのでした。パウロは、暴風が吹き荒れ、荒波を受けて漂流を続ける船の上でも冷静さを保ち、揺るぎない確信を持っていました。危機に瀕してもなお、勇気を失ってはいませんでした。彼の心を動じさせるものは何もなかったのです。いったい彼はどうしてそんなに堂々としていることができたのでしょうか。ここにはそのために三つの理由があったことがわかります。

 第一のことは、神が共におられるという確信を持っていたことです。23節と24節をご覧ください。

「昨夜、私の主で、私の仕えている神の御使いが、私の前に立って、こう言いました。『恐れてはいけません。・・」

 この箇所から教えられることは、どんな嵐も私たちを神の目から覆い隠すことはできないということです。私たちには神のお姿が見えなくても、神は私たちを見ておられます。たとえ何万㌔も離れているように感じようとも、実際に神は私たち共におられ、私たちを守っていてくださるのです。神は、人格を持った神の代理人である御使いを通して、「わたしはあなたと共にいる。嵐の中に浮かぶ小舟の中にいてもあなたを見守っている」とパウロに語られたのです。聖書の中には、そのような神の約束がたくさん出ています。たとえば、ヘブル人への手紙13章5節には、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とありますし、マタイの福音書の最後28章20節のところにも、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」とあります。また、ヨハネの福音書14章16節のところにも、「 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」とあります。

 聖書は繰り返し繰り返し、私たちがどこにいようとも神が私たちと共にいてくださると教えています。そして、神が私たちと共にいてくださるならば、私たちが何かを一人で切り抜けなければならないということはありません。どんなに苦しいところを通らされていても、神は私たちとともにいてくださるのです。

 以前にも紹介したことがありますが、マーガレット・F・パワーズが書いた「あしあと」という詩は、この事実をよく思い出させてくれます。

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 皆さん、主はいつも私たちとともにいてくださる方なのです。どんなことがあっても、見捨てたり、見離したりすることはありません。ですから私たちは、この方に心から信頼することができるのです。

 二つ目にパウロは、神の目的を確信していました。24節をご覧ください。ここには、「こう言いました。『恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。』」とあります。神はパウロに、「わたしはあなたの人生に計画を持っている。あなたが今、この船に乗っているのは偶然ではない。ある目的のためにわたしがあなたをこの船に乗せたのだ。わたしがあなたの人生に持っている目的は、あなたが今経験している嵐をはるかに超えたところにある」と言われたのです。

 クリスチャンは、ある意味での「運命」というものを信じています。人の誕生にはさまざまな事情があるにせよ、偶然に生まれて来た人など一人もいません。みな何らかの特別な目的を持って生まれて来たのです。神は、私たちの人生に対してその特別の目的とご計画を持っておられるのです。ですから、たとえその人生に激しい嵐が吹き付けようとも、それは目的の実現に向けた一時的な停滞でしかありません。もし私たちがこの神のご計画を自ら拒むのでなければ、私たちの人生に対する神の究極的なご計画を変えることができるものは何一つ存在しないのです。そしてその神のご計画というものは、今私たちが直面している問題を超えたところにあるのです。ですから、私たちが見なければならないのはこの神の目的なり、計画なのであって、直面している問題にではないのです。そうでないと、あの船員たちのように何もかも捨て、あてもなくさまよってしまうことになってしまうのです。そして、その先にあるのは何かというと絶望です。ひとたび目標を失ってしまうと、私たちは、自分が何のために生きているのかがわからなくなり、目的もなくたださまよってしまうことになってしまうのです。

 危機的な状況の中でもパウロが確信を持ち続けることができた第三の理由は、彼が神の約束をしっかりと握りしめていたことです。25節をご覧ください。ここには、「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」とあります。主がパウロに告げられたこととは何でしょうか。それは前の節に記されてあるように、「あなたは必ずカイザルの前に立つ」ということです。それはあの23章11節のところで語られた主の約束でもありました。

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない」と言われた。

 パウロはこの約束のみことばを握りしめていたので、嵐と漂流という絶望的な状況の中にあっても、恐れと不安の中にある人々に向かって、「恐れてはならない」「元気を出しなさい」と語りかけることができたのです。この神の約束は決して破られることはありません。たとえ嵐が吹き付けようと、荒波にもまれようと、消えてしまうものではないのです。必ず実現するのです。

 私たちクリスチャンがこの世に生かされていることの大切な使命の一つは、このことではないでしょうか。どんなに厳しい危機的な状況に絶たされても、この神の臨在と神の目的、神の約束を信じて、希望を抱き続けることです。

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル10:23)

そしてただ希望を告白するだけでなく、その希望に立って、先の見えない不安にとらわれ、絶望の淵に立たせられている人に向かって「さあ、元気を出してください」と慰め、励ましを与えなければなりません。しかもそれは何の根拠もない空元気でも、単なる一時的な気休めでもない、確かな主の約束に基づいた励ましであり慰めであります。私たちにはそのような希望と力が与えられているのです。

 Ⅲ.人生の艱難を乗り越えて(27-44)

 ですから第三のことは、こうやって人生の艱難を乗り越えましょうということです。27~44節までのところを見てみましょう。まず27~29節をご覧ください。

「十四日目の夜になって、私たちがアドリヤ海を漂っていると、真夜中ごろ、水夫たちは、どこかの陸地に近づいたように感じた。水の深さを測ってみると、四十メートルほどであることがわかった。少し進んでまた測ると、三十メートルほどであった。どこかで暗礁に乗り上げはしないかと心配して、ともから四つの錨を投げおろし、夜が明けるのを待った。」

 さて、この漂流の結末はどうなったでしょうか。27節をみると、14日目の夜になって、アドリヤ海を漂っていましたが、水夫たちはどこかの陸地に近づいているように感じました。そして水深を測ってみると、40メートルであることがわかりました。もう少し進んでまた測ると、30メートルであることがわかりました。それはこの危機的な状況からの脱出を意味していました。しかしそのように水深がだんだんと浅くなるとまた別の心配も生まれました。どこかの暗礁に乗り上げはしないかという心配です。真夜中に船が暗礁に乗り上げたら、船が座礁してしまいます。そこで彼らは、「ともから四つの錨を投げおろし、夜が明けるのを待」つことにしました。もう以前の彼らとは違います。パウロの確信に満ちた励ましによって、自分たちがどうしたらいいのかを冷静に考えることができるようになり、適切な行動をしました。彼らは錨をおろして、夜が明けるのを待ったのです。自分の思い、考えによって判断して行動するのではなく、神の真実の上に錨をおろし、夜が明けるのを待ったのです。それがどうして正しい判断であったかは、その後どうなったかを見ればわかります。39節には、夜が明けて光が差し込んで来たとき、どこの陸地かわかりませんでしたが、砂浜のある入り江が目に留まったので、そこに船を乗り入れることにしました。船は浅瀬に乗り上げて座礁してしまいましたが、それでももう陸にも近かったので、276人全員が無事に陸地まで泳いでたどり着くことができたのです。主がパウロに約束された通りにです。

 私たちの人生に嵐が吹き荒れるとき、それを乗り越えるために重要なことは、どこに錨をおろすのかということです。嵐に遭ったときの最も安全な方法は、神の上に錨をおろすことです。詩篇125篇1節に、

「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。」

とあるように、神に信頼し、神の上に錨をおろすなら、どんな嵐の中にあっても揺るぎない確信を持つことができるでしょう。どんな嵐も、私たちと神との間をさえぎることはできないのです。神が共におられることを信じ、神が私たちの人生に目的を持っておられること、そして、みことばの約束が与えられていることを忘れないでください。もしかすると皆さんにも今、ユーラクロンのような嵐が吹きつけているかもしれません。しかし、それがどんな嵐であろうとも、必ずそれを乗り越えることができるのです。無事に陸地にたどり着くことができるのです。この神に信頼して人生の荒波を乗り越えていきたいものです