ヨハネの福音書8章31~47節 「真理はあなたがたを自由にます」

今日は「真理はあなたがたを自由にします」というタイトルでお話しします。真理に従う時、私たちは自由になり、不思議な力が出てきます。では真理とは何でしょうか。今日は、その真理についてご一緒に学んでいきたいと思います。

 

Ⅰ.キリストの弟子とは(31)

 

まず31節をご覧ください。

「イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」

 

「ご自分を信じたユダヤ人たち」とは、その前のところで、イエスを信じたユダヤ人たちのことです。彼らは、主が「わたしが「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになる」(24)と言われた言葉を聞いて、イエスを信じました。そのユダヤ人たちに対して主は、「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」と言われました。どうして主はこのように言われたのでしょうか。

 

その後のところを見ると、その理由がわかります。つまり、彼らの信仰が十分でなかったからです。確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはただ口先だけのものでした。というのは、33節を見るとわかりますが、イエスがこのように言うと、彼らはイエスの言葉に反発しています。「あなたがたは自由になる」とはどういうことか・・。自分たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともない。初めから自由人である自分たちに、「あなたがたは自由になる」と言うのはおかしいではないか。それははなはだ失礼なことである、そう言ったのです。彼らはイエス様のことばを受け止めることができませんでした。

 

また、44節を見ると、イエス様が彼らに向かって、「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。」と言っています。「あなたがた」とはだれのことですか?ここでイエス様を信じたユダヤ人たちのことです。その彼らに向かって悪魔呼ばわりしているのです。そうです、確かに彼らはイエス様を信じましたが、その信仰というのはイエスに従う信仰ではなく、自分の思いを優先する信仰だったのです。自分の思いを優先する信仰、そういう信仰があるでしょうか。ありません。したがって、彼らの信仰は本当の信仰ではなかったのです。では本当の信仰とはどのようなものなのでしょうか。

 

イエス様はここでこう言っています。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。」「わたしの弟子」とはキリストの弟子のこと、すなわち、クリスチャンのことです。本当のクリスチャンとは、本当にキリストを信じるとは、キリストのことばを聞いて信じ、そのみことばにとどまっている人のことです。そうでなければ、信仰生活を続けることはできないでしょう。信仰生活において大切なことはそれを「始める」ことだけでなく、それを「続ける」ことです。そして、最後まで走り抜くことです。それが本当に恵みのうちにいるかどうかの試金石となるからです。最初に猛然と走り出す人ではなく、自分のスピードを保ちながら最後まで走り続ける人です。そういう人こそ「賞を受けられるように走る」人なのです。出発するとともに進み続ける人が、本当にキリストの弟子です。そしてそのためには、キリストのことばにとどまっていなければなりません。

 

主は、そのことをマタイの福音書7章21節でこのように教えられました。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」どういうことですか?その日には多くの人が主に言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」でも、そのとき主は、彼らにはっきりとこう言われます。「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)どういうことですか?

どんなにキリストの名を呼んでも、どんなにキリストの名によって奇跡を行っても、キリストの父のみこころを行うのでなければ、すなわち、キリストに従うというのでなければ、キリストの弟子ではないということです。

 

ですから、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。また、イエスのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

岩の家に建てられた家と砂の家に建てられた家のたとえ話です。キリストのことばを聞くだけでは本当の弟子になることはできません。本当の弟子は、キリストのことばを聞いて信じ、そのことばにとどまる人です。そのことばに生きる人なのです。

 

Ⅱ.真理はあなたがたを自由にします(32-41)

 

なぜキリストのことばにとどまることが必要なのでしょうか。それは、32節にあるように、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」からです。

 

真理とは何でしょうか。真理とは、イエス・キリストであり、イエス・キリストのことばです。イエス・キリストはこのように言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

人類は長い間この真理を捜し求めてきました、未だになお到達していません。しかし主はここで、もし人がご自身のことばにとどまるなら、その人は真理を知り、その真理があなたがたを自由にすると言われました。すなわち、キリストご自身が真理であり、ご自身のことばが真理のことばなのです。

人類の長い歴史の中で多くの学者たちが追及してきたのに到達できなかった真理が今、キリストのことばにとどまることによって到達することができるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ真理そのものだからです。この真理とは哲学的な真理とか、科学的な真理といったものではなく、真理そのもののことです。真理の中の真理です。そしてこの真理が、あなたがたを自由にします。どういうことでしょうか?

 

私たちは別にイエス様に自由にしてもらわなくても自由ですよ。いつ寝ても自由だし、いつ起きても自由です。別に働いても、働かなくても自由です。勉強しても、しなくても自由、信じても、信じなくても自由、何をしても自由です。確かに今の日本ほど自由な国はありません。でも、それで本当に私たちは自由でしょうか。外面的には自由かもしれませんが、でも内面的にはどうかというと、必ずしもそうではありません。案外と不自由なのではないでしょうか。たとえば、私たちは私たちを取り巻く環境や人のうわさの奴隷になっているということはないでしょうか。また世間体やメンツ、名誉といったものの奴隷になっていることはないでしょうか。あるいは、欲望やお金の奴隷になってはいないでしょうか。さらには習慣や性格の奴隷になっているということはないでしょうか。パウロはローマ人への手紙の中で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)と嘆いていますが、したいと思う善を行わないで、したくない悪を行ってしまうということはないでしょうか。そうした罪の奴隷となっていることがあります。

 

たとえば、人を赦すことはどうでしょうか。私たちはなかなか人を赦すことができなくて苦しむことがあります。モーパッサンの作品に「ひも」という短編があります。主人公の男オーシュコロンは、ある日道を歩いていてひもを見つけ、それを拾ってポケットに入れました。

やがてその同じ道で財布を落とした人があらわれました。するとひとりの人が、「おれはオーシュコロンおっさんがポケットに入れるのを見た。」と言いました。

それで彼は疑われ、取り調べを受けることになりました。ポケットからひもを取り出して「拾ったのはこのひもだ」と説明してもなかなか信じてもらえません。

そうこうしているうちに、なくなったはずの財布が見つかるのです。「よかった。よかった。」とみんな喜び、人々はその出来事をすっかり忘れてしまいましたが、どうしても忘れられない人が1人だけいました。そうです、このオーシュコロンのおっさんです。彼は自分が疑われたことを、あちこちに行っては話し、とうとう田畑を耕すのを忘れて、寂しく死んでいきました。人を赦すというのは本当に難しいことです。どうしたら赦すことができるのでしょうか。

 

それは真理に従うことです。真理とはイエス様であり、イエス様のことばのことですから、そのことばに従うことによって赦すことができるのです。イエス様は何と言われたでしょうか。

あるとき、弟子のひとりのペテロがやって来て、イエス様にこのように尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」(マタイ18:21)

すると、イエス様はこう言われました。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」(マタイ18:22)

七回を七十倍するまでとは49回までということではありません。まあ、一日に49回も赦すというのはすごいことですが、ここではそういうことではなく「どこまでも」ということです。どこまでも赦すこと、それが真理であられるイエス様のことばです。このことばに従うことです。

また、イエス様はこうも言われました。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:38-44)

「目には目を、歯には歯を。」それが人間の持っている自然の反応です。けれども、天の父である神の子どもは違います。右の頬を打つ者には左の頬も向ける。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせる。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行くのです。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。これが天の父である神の子に求められている姿です。これを実行するのです。

 

つまり、赦すというのは感情の問題ではなく、従順の問題なのです。たとえ赦すという感情がなくても赦せるのは、それがイエス様の命令であり、そのイエス様の命令に従うがゆえなのです。そして、このイエス様の命令、イエス様のことばに従うとき、初めて赦すことができるようになるのです。真理はあなたがたを自由にするからです。

 

しかし、当時のユダヤ人たちは、この真理のことばに従うことができませんでした。33節をご覧ください。彼らはイエスがそのように言うと、こう言いました。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

「アブラハムの子孫」というのは、彼らが持っていた確信とプライドを表現しています。つまり、彼らはだれの奴隷にもなったことがないということです。ですから、最初から自由人である自分たちに向かって、「真理はあなたがたを自由にする」というのはおかしいではないかと、と言ったのです。どこか私たち日本人に似ていると思いませんか?自分は何の奴隷にもなっていないし、すべてから解放されているのに、どうして自由にしてもらう必要などあるだろうか・・と。本当にそうでしょうか。

 

34節から36節までの箇所の中でイエス様は、彼らが本当に自由ではないことを次のように言って、次のように言って説明しています。

「イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」

主はここで、彼らをそこから救い出したいと願っておられる奴隷の状態というものがどういうものなのか、そして、その自由というものがどのような意味での自由なのかを教えています。それは「罪の奴隷」であって、その罪から解放されること、霊的に自由にされることです。罪の奴隷は、神の家に住むことができません。それゆえ、真理によって解放してもらわなければなりません。真理とは何ですか。真理とはイエス・キリストです。ですから、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。」とあるのです。子であられるイエス・キリストを信じ、そのことばにとどまるなら、その真理が彼らを罪から解放し、自由にすることができるのです。

 

しかし、彼らは真理に従っていませんでした。というのは、彼らは自分たちこそアブラハムの子孫であると確信していたからです。そして、イエスを殺そうとしていました。37節でイエス様は、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていなかったからです。」と言われました。アブラハムの子であると主張していながら、アブラハムのわざを行っていないというのは自己矛盾です。アブラハムが義と認められたのは、主を信じたからです。「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創世記15:6)とあるとおりです。「主」とはだれですか。イエス様でしょう。そのイエスを彼らは殺そうとしていたのです。神から聞いた真理を話していたイエスを殺そうとすることが、アブラハムのわざであるはずがありません。逆にイエスを信じることこそ、アブラハムのわざを行うことであり、そのような人こそアブラハムの子孫なのです。

 

つまり、彼らは真理のことばに従っていなかったのです。従っているようで、実のところ、そうではありませんでした。彼らはイエス様のことばに対して良いところは受け入れても、嫌なことは受け入れることができませんでした。結局のところ、イエス様のことばよりも自分の考えの方を優先していたのです。そのような心でどうやって真に自由になることができるでしょうか。なれません。なぜなら、真理があなたがたを自由にするのだからです。真理であられるイエス様が私たちを自由にし、その真理のことばにとどまることによってこそ、本当に自由になることができるのです。あなたはどうでしょうか。

 

アメリカの南北戦争の時、有名な将軍で小説家でもあったリュー・ウォレスは、「ベン・ハー」という小説を書きました。この小説は、もともと彼がキリスト教の神話を永遠になくすために書いた本でしたが、第二章の第1ページを書き始めたところで、イエス・キリストの復活の出来事の真実の前に、「あなたはわが主、わが神です」と信仰を告白したことで、キリストが真実であることを証しする本になりました。

この本の主人公であるベン・ハーは、自分の母親と妹をらい病へと追いやったローマの将軍メッサラを赦すことができず、彼と戦って勝利をおさめ、彼の命までも奪っても赦すことができませんでしたが、彼の妻がクリスチャンになったことで、キリストがどのように教えているのかを証しするのです。そんなの迷信の類だとなかなかキリストを受け入れることができなかったのですが、ゴルゴタの丘でキリストが十字架にかかられた時に、そこで発せられた言葉を聞くのです。それは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)ということばでした。敵のために祈られるキリストのことばを聞き、このキリストこそまことの救い主であると信じた彼は、そのことばに従い心から敵を赦すことができました。そのとき、らい病に冒されていた母親と妹がいやされたのです。

 

それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神はそのみわざをご自身の御子イエス・キリストによってあらわしてくださいました。ですから、子があなたを自由にするなら、あなたは本当に自由になるのです。あなたもイエス様を信じてください。そうすれば、あなたはあなたの心を縛っていた罪の縄目から解放していただくことができます。そして、あなたがこのイエスをあなたの人生の主としてあなたの心の王座に迎え、このイエスのことばに従って生きるなら、あなたは真の自由を経験することができるのです。真理があなたを自由にするからです。

 

Ⅲ.真理に従うために(42-47)

 

では、真理に従うにはどうしたらいいのでしょうか。42節から47節までをご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの父がすることを行っているのです。」すると、彼らは言った。『私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。』イエスは言われた。『神があなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わされたのです。あなたがたは、なぜわたしの話が分からないのですか。それは、わたしのことばに聞き従うことができないからです。あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。しかし、このわたしは真理を話しているので、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。』」

 

このイエス様のことばを、彼らはなかなか理解することができませんでした。そして彼らはイエス様にこう言いました。「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神がいます。」どういうことですか。自分たちは愚かな偶像の民ではない、唯一のまことの神を信じている者であって、正しい者であるということです。彼らはイエスを信じたはずなのに、もうイエス様のことばに反抗しています。

 

そこでイエス様は彼らがなぜご自分に従うことができないのか、その理由を語られます。それは彼らが悪魔から出た者たちだからです。

「あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(44)

彼らがイエス様の教えに耳を傾けることができなかったのは、悪魔によって目が閉ざされていたからです。皆さんは、福音のメッセージを聞いても、それをなかなか理解しようとしない人を見て不思議に思ったことはありませんか。使徒パウロは、その理由を次のように述べています。「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)つまり、悪魔が未信者の顔におおいをかけているということです。悪魔は、人殺しであり、偽り者です。最初の嘘は悪魔が作り出したものです。また悪魔は、人類に罪を犯させて、人類に死をもたらしました。これが、彼らがイエス様を信じることができなかった本当の理由です。

 

46節でイエス様は、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」とチャレンジしています。なぜ信じないのでしょうか?それは、彼らが悪魔から出ていたからです。神から出た者は、神のことばに聞き従います。それは神のわざなのです。聖書を理解するということは、知的なことであるだけでなく、霊的なことでもあります。使徒パウロは、顔の覆いを取り除くことができるのは、聖霊のわざであると言っています。それは私たちが頑張ってとか、一生懸命に努力してできることではありません。それは御霊なる神の働きによるのです。

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

私たちが真理を知り、真理に従うためには、御霊なる神、聖霊によってこの覆いを取り除いてもらわなければなりません。今、聖霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えていただけるように祈りましょう。また霊の目が閉ざされている人々の目が開かれてイエス様を信じることができるように、そしてイエス様が自由にしてくださるという意味を理解し、イエス様のみことばに従って生きることができるように祈りましょう。そのとき、私たちは悪魔の支配から解放されて神の支配に移されます。そして真理を知り、真理が私たちを自由にします。それは御霊なる主の働きなのです。今、聖霊によって、この働きを受け入れましょう。そして、キリストのことばに従って生きる者とさせていただきましょう。

出エジプト記11章

きょうは、出エジプト記11章から学びたいと思います。まず1節から3節までをご覧ください。

 

Ⅰ.もう一つのわざわい(1-3)

 

「主はモーセに言われた。「わたしはファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す。その後で彼は、あなたがたをここから去らせる。彼があなたがたを去らせるときには、本当に一人残らず、あなたがたをここから追い出す。さあ、民に言って聞かせよ。男は隣の男に、女は隣の女に、銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」

 

いよいよ第十番目のわざわいが下ろうとしています。きょうの箇所は、その挿入句の部分です。従って、10章29節と11章4節はつながっていると考えられます。10章29節には、「モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」とありますが、実際にはまだファラオの前を去っていないのです。そのファラオとのやり取りの中で、主がモーセに語られたことが1~3節にまとめられているのです。

 

主はモーセに「ファラオとエジプトの上に、もう一つのわざわいを下す」と言われました。その後でファラオは、イスラエルをエジプトから去らせます。その時には、大人も、子どもも、男も、女も、家畜も、あらゆるもののすべてをエジプトから追い出します。

 

それだけではありません。2節をご覧ください。主は、イスラエルの民がエジプトから、金の飾りや銀の飾りを求めるようにと言われました。どうして主はこのようなことを要求されたのでしょうか。それは、イスラエルの民が後に荒野に導かれそこで幕屋を造るようになる時、それを造る材料が必要だったからです。奴隷であったイスラエル人には金銀がなかったので、エジプト人から受け取るようにしたのです。すごいですね。主はずっと先のことまでご存知で、その準備を進めておられたのです。しかし、それはエジプト人から奪い取るのではなく、エジプト人のほうから進んで差し出してくれるようになります。なぜなら、主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされるからです。5節には、「モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。」とあります。こんなにもひどいさばきが自分たちに下っているのに、彼らはなぜモーセとイスラエルの民に好意を持つことができたのでしょうか。一言で言えば、それは主がそのようにされたからです。モーセを通して成された神の御業を見て、彼らはまことの神を認めるようになりました。それでエジプト人はモーセと神の民であるイスラエル人に対して好意を持つようになったのです。

 

使徒の働き5章12~14節にも同じようなことが記されてあります。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議が人々の間で行われたとき、人々はクリスチャンを尊敬するようになりました。

「さて、使徒たちの手により、多くのしるしと不思議が人々の間で行われた。皆は心を一つにしてソロモンの回廊にいた。ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかったが、民は彼らを尊敬していた。そして、主を信じる者たちはますます増え、男も女も大勢になった。」

これはアナニヤとサッピラ夫婦が、聖霊を欺いて地所の代金の一部を自分のために取っておいたことで神の怒りが下り、彼らの息が絶えた出来事の後のことです。それを聞いた教会全体とすべての人たちに大きな恐れが生じましたが、主を信じる人たちはますます増え、男も女も大勢になりました。それは、民の中に彼らに対する尊敬があったからです。彼らは、その仲間に加わろうとはしませんでしたが、弟子たちをとても尊敬していたので、主を信じる者たちはますます増えて行ったのです。

 

ここでも同じです。エジプト人たちは、神のわざわいによって苦しんでいましたが、主の大いなる御業を見てモーセとイスラエルの民をたいへん尊敬するようになったのです。私たちも、聖霊によって主の御業を行うなら、周りの人たちから好意を持たれるようになるでしょう。

 

Ⅱ.エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる(4-8)

 

次に4~8節をご覧ください。

「モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。あなたのこの家臣たちはみな、私のところに下って来て、私にひれ伏し、「あなたもあなたに従う民もみな、出て行ってください」と言うでしょう。その後私は出て行きます。」こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った。」

「モーセは言った」とは、ファラオに対して言ったということです。つまり、これは10章29節の続きであるということです。モーセはまだファラオの前にいて、ファラオに語ったのです。それは、どのような内容だったでしょうか。それは、主がエジプトの中に出て行き、エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ、ということでした。それで、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こるということでした。このようなことはかつてなかったし、また二度とありません。

 

聖書の中で、長子はとても重要な意味がありました。それは、初めに生まれてきた、というだけでなく、最優先されるべきもの、他と比べてとびぬけて優れているもの、一番良いいもの、という意味があります。民族の存続は長子を通して維持されます。その長子が死ぬということは、民族の存亡にかかわることであり、大きな痛手となります。また、ファラオの長子は、神の地位を継承する器でしたので、その器が死ぬということは、神の権威がはずかしめられることを表していました。それがエジプト全土で起こります。それはこれまで起こったことがないような大きな叫びです。

 

ところで、4節には、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」とあります。何のためにエジプトに出て行くのでしょうか。わざわいをもたらすためです。これまではすべてモーセとアロンの手によって行われてきましが、これからは主ご自身によって行われます。それは今までのものが不十分であったからではありません。モーセとアロンによって行われたときも主の命令によって行われたわけですから、主がわざわいを下されたことと同じです。しかしここで「わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたのは、これまでのものとは違い、主が直接さばきを行われることを表していたのです。これが、主がこれまでエジプトに下されたさばきの集大成であって、最後のさばきであるということです。それは単なるさばきではなく、キリストの十字架の贖いを指し示す出来事でもありました。それはかつてなかったようなさばきで、また、二度とないであろうさばきです。

 

しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、うなりません。なぜでしょうか。イスラエルが安全に出て行くためです。真夜中に物音がすると、犬はうなり声を上げます。その犬がだれに対してもうならないというのは、イスラエルの民は何の妨げも受けることもなく、エジプトを出て行くようになるということです。イスラエル人とエジプト人との間には区別がなされていて、イスラエル人は少しも災害を受けることがないからです。

 

すでに、この区別についての言及が何度かありました。8章23節には、第四のわざわいに関して、「わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。」とあります。アブに刺されないように、アブの群れがいないようにゴシェンの地を特別に扱ってくださったのです。また9章6節でも、第五のわざわいに関して、すべての家畜に重い疫病が起こることがないように、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別してくださいました。さらに9章26節でも、第七のわざわいに関して、イスラエルの子が住むゴシェンの地には、雹が降らないようにしてくださいました。そして10章23節でも第九のわざわいに関して、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があるようにされました。ここでも同じです。主はイスラエルをエジプトと区別して、彼らの上にはわざわいがないようにしてくだいました。

 

それは新約の時代に生きる私たちに対する約束でもあります。主はキリストを信じる私たちがわざわいを受けることがないように、この世と区別しておられるのです。パウロはこう言っています。

「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。」(Ⅰテサロニケ5:4-5)

私たちはみな、光の子ども、昼の子どもです。夜の者、闇の者ではありません。なるほど、ここで主が4節のところで、「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」と言われたことの意味が分かるような気がします。なぜ「真夜中」に出て行かれるでしょうか。それは、彼らは夜の者、闇の者だからです。そのような者たちにわざわいが下るもっともふさわしい時が「真夜中」だったのでしょう。しかし、私たちは光の子ども、昼の子どもです。ですから、主のわざわいを受けることはありません。主がそのように区別してくださったからです。

 

8節をご覧ください。第十のわざわいが下ると、ファラオの家臣たちはみな、モーセのところに下って来て、ひれ伏して、エジプトを出て行ってくれと懇願するようになります。この時点で、ファラオの威光は完全に地に落ちることになります。モーセが優位になるのです。その後、イスラエル人は堂々とエジプトを出て行くようになります。そのように言うとモーセは、怒りに燃えてファラオのところから出て行きました。これが決定的な断絶です。どうしてモーセはここで怒りに燃えたのでしょうか。それは、モーセがこれまで9回にわたって神のことばを告げたにもかかわらず、ファラオが受け入れなかったからです。もはや神のあわれみの時が終わりました。

 

哀歌3章23-24節に、「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」」とあります。私たちが滅びうせないのは、主のあわれみによるのです。主のあわれみは尽きないからです。しかし、それがいつまでも続くわけではありません。それが閉ざされる時がやって来ます。それゆえ、私たちはこの主のあわれみをないがしろにしないで、主に信頼して歩む者でなければなりません。モーセは、神のことばを頑なに拒んだファラオに対して、今や神のあわれみが閉ざされたことを知り、神の怒りを燃やしたのです。

 

Ⅲ.神の奇跡をすべて行ったモーセとアロン(9-10)

 

最後に9節と10節を見て終わりたいと思います。

「主はモーセに言われた。「ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。わたしの奇跡がエジプトの地で大いなるものとなるためである。」モーセとアロンは、ファラオの前でこれらの奇跡をすべて行った。主はファラオの心を頑なにされ、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかった。」

 

ファラオは、最後の警告をも無視します。彼は、最後までイスラエルの子らを行かせませんでした。それは主が彼の心を頑なにされたからです。それによって、主の御業がエジプトの地で大いなるものとなるためです。モーセとアロンは、ファラオの前で主が仰せられたすべての奇跡を行いましたが、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオはイスラエルの子らを自分の国から去らせなかたのです。それで今十番目のわざわい、最後のわざわいが下ろうとしているのです。私たちはこのことから何を学ぶことができるでしょうか。神に従うことには忍耐と犠牲が伴うということです。ファラオのあまりもの頑なさに、モーセとアロンは途中で任務を投げ出しそうになることもありましたが、彼らは最後まで全うしました。それは、彼らはファラオとの戦いの中でそのことを学んでいったからです。

 

それは私たちも同じです。事態が思うように進まない時、私たちは途中で捨ててしまいたいと思うことがありますが、大切なのは、最後まで忍耐して神のみわざを行うということです。へブル人への手紙10章35-36には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」とあります。私たちが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。自分の目の前の状況が思うようにいかなくても、忍耐をもって最後まで神のみこころを行うなら、必ず約束のものを手に入れることができます。もし、モーセとアロンが最初から事態が順調に進んでいたとしたら、彼らは傲慢になっていたでしょう。しかし、なかなか思うように進まない中で神の教訓を学び、最後まで忍耐することができたのです。

 

パウロは、「けれども、私が自分の走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(使徒20:24)と言っていますが、この「走るべき道のりを走り尽くす」ということです。今、教会で墓地の購入を検討していますが、私は自分の墓石にこのみことばを入れられたらなぁと思っています。自分の人生を振り返ったとき、そこには何も輝かしいものはなかったかもしれないが、主から与えられた道のり、行程を、走り尽くした生涯だったと言える、そんな人生を全うしたいと思っています。

 

 

11節には、ファラオの心を頑なにされたのは主ご自身であったとあります。主がそのようにされたのです。私たちの人生には本当に不可解なことが起こりますが、神の許しなしに起こることは一つもありません。ですから、それがどんなことであっても、そこに主の主権があることを認め、主にすべてをゆだね、主が成してくださることを待ち望みたいと思います。主は、私たちの人生において最善をなされるお方なのです。

ヨハネの福音書8章21~30節「あなたはだれですか」

きょうは「あなたはだれですか」というタイトルでお話ししたいと思います。これはユダヤ人たちとの論争の中で、彼らがイエスに投げかけた質問です。25節に「そこで、彼らはイエスに言った。『あなたはだれなのですか』」とあります。

同じ一つの言葉でも、そこに込められているニュアンスが異なる場合があります。そのような大それたことを語るとは、あなたは一体何様だと思っているのか、という反発から出た言葉のようにも聞こえますし、このように大いなることを語られるとは、あなたは一体どなたなのですか、という素直な質問のようにも聞こえます。いずれにせよ、この質問はとても重要な質問です。それによって永遠のいのちが決まるからです。「あなたはだれなのですか」。きょうは、この質問に対する答えを、ご一緒に聖書から見ていきたいと思います。

 

Ⅰ.どのようにイエスを捜していますか(21)

 

まず21節をご覧ください。

「イエスは再び彼らに言われた。『わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。』」

 

イエスは姦淫の現場で捕らえられた女に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」(11)と言われると、再び人々に語られました。12節です。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

するとパリサイ人はイエスに言いました。「あなたの証しは真実ではない」と。それでイエスは、ご自分の証が真実であることを証明するために、ご自分がどこから来られたのかを話されました。

 

きょうの箇所では、イエスがどこへ行くのかということに論点が移っていきます。ここでイエスは再び彼らに言われました。彼らとはユダヤ人たち、パリサイ人たちのことです。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」どういう意味でしょうか?

 

「わたしは去って行きます」というのは、主が間もなくこの世を去って行こうとしているということです。主に与えられた使命は終わりに近づいていました。主が私たちの罪のために犠牲となって死なれるときが近づいていたのです。イエスがこのように語られたのは、ユダヤ人の心のうちをかきたてて、ご自身がどのような者であるのかを真剣に考えさせるためでした。それは、その後で語られたことばを見るとわかります。主はこのように言われました。

「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」

これは少しわかりづらいことばです。「あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます」。自分の罪の中に死ぬというのは霊的死のことです。永遠に神から切り離されてしまうことを指しています。したがって、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることはできない」とは、天の御国に来ることはできないということです。それは永遠に続く住まいであって、世に来られる前に御子が御父とともにおられたところです。ここには罪がある者は来ることはできません。罪を悔い改めて赦された人だけが行くことができるのです。

 

でもちょっと待ってください。ここには「あなたがたはわたしを捜しますが」とあります。彼らがイエスを捜すのは救いを求めていたからでしょう。つまり、旧約聖書に約束されているメシヤに飢え渇いていたからです。それでイエスを捜していたのです。それなのに自分の罪の中に死ぬとはどういうことでしょうか。それは、彼らの求め方が正しくなかったということです。間違った動機で求めていたり、なかなか信じようとしないためイエスを見出すことはできないので、罪が残ることになります。それが「罪の中で死にます」ということです。結果、イエスが行かれる天の御国に行くことはできません。

 

先日、NHKの「逆転人生」という番組で、元ヤクザから牧師へと壮絶な転身を遂げた鈴木啓之(すずき ひろゆき)先生のドキュメンタリーが放映されました。人生につまずいた人の再出発を支える鈴木先生が主人公です。かつては暴力団員で名うての博打うち。多額の借金を背負い、死の淵まで追い詰められました。しかし裏切り続けた妻に救われ、生き方を180度変えることができました。今度は自分が拠り所のない人の支えになりたいと元受刑者などを受け入れ、再出発を応援するものの、再犯者が出るなど厳しい現実に直面しますが、それでも「人生は必ずやり直せる」という鈴木先生の人生を紹介したのでした。

私も鈴木先生とお会いしお話しを伺ったことがありますが、本当に先生をそのように変えてくださった主はすばらしい方です。でも、その番組では、NHKということもあったのでしょうが、イエス様の「イ」の字も出てきませんでした。人はどのようにしたらやり直すことができるのでしょうか。それはイエス様でしょ。イエス様が私たちを新しく造り変えてくださるのです。イエス様が私の罪のために十字架にかかって死んでくださいました。だから、この方を信じるすべての人の罪が赦され、新しい者に変えていただけるのです。それがなかったら、どんなに人生をやり直すことができたとしても本当の解決にはなりません。自分の罪の中で死んで行くことになるからです。本当のやり直しとは、これまで神を神ともせず自分勝手に生きて来た者が、それを罪と言いますが、その罪を悔い改め、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じ、この方を中心に生きることによって可能になるのであって、そうでないとやり直すことはできません。どんなに求めても真の救いに至ることはできないのです。

 

同じように、私たちも様々なきっかけで主を捜し求めることがありますが、それがイエス・キリストにつながるものでなければ、何の意味もありません。私たちはよく、病気とか、突然の不幸、あるいは仕事や家族の問題、人間関係のこじれ、将来への不安、死への恐怖などに直面することがありますが、それが魂の渇きとなって主を求めるのでなければ、真に満たされることはできないのです。主イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(7:37)と言われました。渇いているなら、キリストのもとに行って飲まなければなりません。そうすれば、その人の心の奥底に生ける水の川が流れ出るようになります。そうでなければ、どんなにキリストを捜しても、自分の罪の中で死ぬことになるのです。

 

そればかりではありません。キリストに対する根深い抵抗というのもあります。どんなにキリストを求めても最後まで抵抗し続け、気付いた時には遅かったということがあるのです。よく伝道しているとこういうことを言われる方がおられます。「キリストがいいのはわかっているけど、今はいらない。死ぬちょっと前でいい。その時はお願いします。」

 

私たちが福島で開拓伝道を始めたのは1983年のことでした。初めは6帖2間と4畳半の小さな借家で始めました。私は翌年から仙台の神学校で学ぶようになったため、自宅で英会話スクールを始めることにしましたが、そこに近くの卸業を営んでおられた会社の社長さんが来られました。当時65歳くらいだったかと思います。よく私たちの小さな学校で学んでくださったと感謝しておりましたら、この方の先妻の方がクリスチャンだったんですね。それで、教会は信用できるからと、教会の英語教室で学ぶようになったのです。私はクラスの後に交わりの時を持ち、そこでお茶を飲みながらイエス様のお話しをするのですが、随分関心がおありのようなので、「どうですか、イエス様を信じませんか」というと、決まってこう言いました。「いや、キリスト教は一番いいのはわかっている。でも、私はまだ清くないから、もうちょっと後にします。死ぬちょっと前がいいですね。その時にはよろしくお願いします。」

「死ぬちょっと前と言ったって、人間いつ死ぬかわからないじゃないですか。石川さん、今がその時ですよ。」

「いや、もう少し後でいいです。その時は信じますから。」

そんなことが随分続きました。そして20年の月日が流れました。それで私たちは大田原に移ることになったのですが、その時にもお勧めしました。「石川さん、私たちは大田原に行くのでこれでお別れになります。これまで本当にお世話になりました。どうですか。その前にイエス様を信じると決心なさいませんか。」

でも、答えはノーでした。もう85歳くらいになっていましたが、それでも、死ぬ前にお願いします、というのです。仕方なく、私たちは大田原に引っ越してきましたが、それから間もなくのことです。奥様からお葉書をいただき、ご主人が亡くなられたことを知りました。死ぬ前に・・・とおっしゃっていたのに、残念ながら、その死ぬ前に信仰を告白することができませんでした。少なくとも私たちの前では・・。

 

どんなにイエスを捜し求めていても、それが遅すぎることがあります。真実の悔い改めであるならば決して遅すぎるということはありませんが、ことさらにキリストを拒絶し、キリストを求めることを止めてしまうならば、キリストを捜し求めても自分の罪の中に死んでしまうということになるのです。

 

ですから、そういうことがないように、キリストを見出すことができるうちに真実な心をもって主を尋ね求め、誠実な心をもって主のもとに行かなければなりません。イエス様はこう言われました。

「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)

私たちが大胆に確信できるのは、光があるうちに光を信じるなら、闇が襲うことはないということです。そのように尋ね求めるならば決してそれが徒労に終わることはありません。そのように尋ね求めた者が「罪の中に死んだ」とは、決して記録されることはないのです。本当にキリストのもとに来るなら、決して捨てられることはありません。

 

Ⅱ.「わたしはある」という方(22-24)

 

次に22節から24節までをご覧ください。

「そこで、ユダヤ人たちは言った。「『わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません』と言うが、まさか自殺するつもりではないだろう。」

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」」

 

イエス様が、「わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません」と言うと、ユダヤ人の指導者たちは、「まさか自殺するつもりではないだろう」と言いました。彼らは、イエス様が語った言葉の意味を全く理解することができませんでした。イエス様が死んであの世に行くと言っておられるに違いないと思ったのですが、どのようにしてあの世に行こうとしているのか、さっぱりわかりませんでした。それで、「まさか、自殺するつもりではあるまい」と言ったのです。しかし、それは彼らの全くの誤解でした。当時、ユダヤ人たちは、自殺を人殺しと同様、モーセの十戒を破るものと考えていました。イエス様がそんなことをするはずがないじゃないですか。彼らには、イエス様の心がさっぱりわからなかったのです。

 

そこでイエスは、そのことを説明して言われました。23節、「あなたがたは下から来た者ですが、わたしは上から来た者です。あなたがたはこの世の者ですが、わたしはこの世の者ではありません。それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」

「上から」というのは「天から」ということであり、「下から」というのは「この世から」という意味です。それは神がおられる聖なる天と、罪に満ちたこの世のことを意味しています。ですから、「上から来た」とは神を意味し、「下から来た」とは「この世の者」、つまり人間を意味しています。人間は最初の人アダムが罪を犯して以来、罪を持った存在ですから、自分の罪の中に死ななければなりませんが、イエス様はそうではありません。イエスは天から来られた方です。この天と地を造られた創造主なる神なのです。

 

このことをもっともよく表されていることばが、24節の「わたしはある」という言葉です。これはすでに6章20節のところで、イエス様が「わたしだ」と言われた時に説明したように、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミー」(εγω ειμι)という語で、出エジプトの時、モーセが神にその名を尋ねたところ、神が「わたしは、「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と仰せになられた言葉と同じ(へブル語で「エーイェー」)言葉です。それは存在の根源であられる方であることを意味しています。聖書の神は、他の何ものにも依存することなく、それ自体で存在することができる方です。つまり、全能者であられます。私たち人間は違いますね。私たちは生きていくためには何かに依存しなければ生きていくことができません。空気とか、水とか、食べ物とか、飲み物など、何かに依存しなければ生きていくことはできません。しかし、創造主なる神は、そうした他の何物にも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる自存者であられます。なぜなら、神は創造者であられるからです。この空も、海も、山も、水も、その他この地球にあるすべてのもの、いやこの宇宙も含めたすべてのものは、神によって造られました。神は創造主なる方であって、神だけで存在することができるのです。それが「わたしはある」という意味です。そして、イエス様はそのような方なのです。イエス様は「わたしはある」という方なのです。イエス様はこの世界のすべてをお創りになられました。イエス様はすべての存在の根源者であられます。つまりイエス様は神ご自身であられるのです。そのことを信じなければなりません。そのことを信じなければ、救いを受けることはできないのです。

 

ここでイエス様が言っておられることは分かりにくいことでしょうか。決してそうではありません。それなのに、多くの人々がこの単純なメッセージを信じないのはなぜでしょうか。それはイエス様が言っておられることが難しくて理解できないからではなく、信じたくないからです。それを信じるためには、自分の罪を認めなければならないからです。人はだれも自分の罪を認めたくありません。誰にも束縛されたくないのです。自分の思うように生きていきたいと思っています。

 

私もそうでした。小さい頃は早く大きくなって、自分の好きなように生きていきたい。勉強なんてしたくないし、お金持ちになって、自由に生きていきたいと思っていました。そして、高校生活も終わりに近づいたころ、神様は私を捕らえてくださいました。せっかく自由に生きていきたいと思っていたのに、神様に従わなければならないなんて嫌だ!と始めは抵抗しましたが、「真理はあなたがたを自由にする」(8:32)ということばになぜか納得し、「これが本当の自由なんだ」とわかってイエス様を信じました。これがわかるまでは、信仰ほど窮屈なものはないと思っていました。何にも束縛されないで、自由に生きていきたい。それが罪の本質です。神を信じたくないのはそのためです。もしかすると、自分のメンツが傷つけられると思っているからかもしれません。また、罪を告白し、そこから離れた生活をすると、今までの楽しい生活をすることができなくなってしまうのではないかと恐れているのかもしれません。あるいは、自分だけが信じて天国へ行っても、自分の愛する家族が別の所に行ってしまうのでは、あまりにも申し訳ないと思っているのかもしれません。

 

いずれにせよ、イエス様は、「わたしが、「わたしはある」であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」と言われました。イエス様が「わたしはある」という方です。イエス様が救い主であられるのです。救いはこのイエス様にあります。どうぞこのイエスを信じてください。そうでないと、あなたは自分の罪の中で死ぬことになるからです。

 

Ⅲ.イエスは神の子です(25-30)

 

第三のことは、だからイエス様を信じましょう、ということです。25節から30節までをご覧ください。

「そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれなのですか。」イエスは言われた。「それこそ、初めからあなたがたに話していることではありませんか。わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わされた方は真実であって、わたしはその方から聞いたことを、そのまま世に対して語っているのです。」彼らは、イエスが父について語っておられることを理解していなかった。

そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。 わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」

 

そこで、彼らはイエス様に言いました。「あなたはだれなのですか。」だれなのですかって、それこそ、初めからイエス様が彼らに話していたことです。それなのに、彼らは全く聞こうとはしませんでした。彼らが知るようになるのはいつですか?28節をご覧ください。ここに、「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが「わたしはある」であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたは知るようになります。」とあります。これは、イエス様が十字架に付けられる時のことを指しています。その時ユダヤ人たちは主こそメシヤであられ、父なる神によって遣わされた方であるということを知るようになります。イエス様が十字架に付けられた時、イエス様を十字架に付けたローマの百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言いました。「この方は本当に神の子であった。」(マタイ27:54)ここでイエス様が言われたとおりです。でも、その時では遅いのです。その前に、イエスは「わたしはある」であることを信じなければなりません。また、イエスは自分からは何もせず、すべてはイエスを遣わされた父なる神がいわれたとおりに言っておられるということを信じなければならないのです。つまり、イエスと父とは一つであるということを信じなければならないのです。それが29節にあることです。

「わたしを遣わした方は、わたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしは、その方が喜ばれることをいつも行うからです。」

イエス様は、イエス様を遣わされた方とともにおられ、この方が喜ばれることを行われます。この方が喜ばれることとは何でしょうか。それは、私たちが救われることです。私たちが救われてこの方の許に行くことです。そのために神はそのひとり子をこの世に送ってくださいました。あなたに与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

あなたは、この方を信じましたか。信じて永遠のいのちを持っていますか。神は、あなたが滅びることがないように、ひとり子なるキリストを遣わしてくださいました。もしあなたがキリストを信じなければ、自分の罪の中で死ぬことになります。でも、もしあなたがこの方を信じるなら、決して滅びることなく、永遠のいのちを持つことができるのです。あなたもぜひこのイエスを信じてください。信じて、永遠のいのちを持っていただきたいのです。

 

さあ、これを聞いた人たちはどのように応答したでしょうか。30節です。「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」感謝ですね。だれも信じないかと思ったら、やっぱりちゃんといました。信じる人が・・。こうした論争の場にいると、何が真理なのかを考える以前に、もうそういうしたことには関わりたくないと思うものですが、そうした中にあっても彼らが信じることができたのはどうしてでしょうか。彼らが素直な人たちだったからでしょうか。人が良くて、物わかりの良い人たちだったからですか。そうではありません。どんなに素直でも、それだけではイエス様を信じることはできません。どんなに人が良くて、物わかりがよくても、イエスを信じることができないのです。ではどうしてこの人たちはイエスを信じることができたのでしょうか。

このことに関して、使徒パウロはこう言っています。 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたが

たから出たことではなく、神の賜物です。」(エペソ2:8) 私たちがイエス様を信じることができるのは、この恵みのゆえに、です。私たちの

側に何か原因があったからではなく、神の側から注がれた恵みによって救われたので

す。私たちの救いは、私たちが素直であるとか、物わかりが良いとかによってではな

く、神様からの賜物なのです。この恵みはあなたにも注がれています。あなたが心を

開いて救いを求めるなら、あなたにも神の愛と恵みが豊かに注がれるのです。

 

先日、黒澤さんが山形のご実家に戻られた際、地元の教会に行かれたそうですが、

そこで国際ギデオン協会のメンバーの方が証をしてくださったそうです。この方は米沢で「相良堂」(さがらどう)という和菓子屋さんを営んでおられる方ですが、少しでもイエス様を証しできればと10年くらいでしょうか、長年、「和菓子作りと語らいの時」を持ってきました。しかし、信仰に導かれる人が少なく、洗礼に導かれたのはたった1人でしたが、それでも召される方の多くが、病床で、「私もイエス様のところに行きたい」とか、「私も救われたいです」。「イエス様のみそばにおいてください」「私の罪を告白します。イエス様を信じます。」と言われる方々がたくさん起こされたそうです。

イエス様を信じる方が少ないかと思っていましたが、そのようにして救いを求めていた方がおられたことに、慰められたとのことでした。

 

あなたはどうでしょうか。あなたもイエス様を捜しておられますか。どのように捜しておられますか。どうぞ光があるうちにイエス様を信じてください。遅かったということがないように。神の恵みは、そのように求めるあなたの上に豊かに注がれています。その恵みを無駄にすることがありませんように。また、既にイエス様を信じた私たちも、どのように信じたのかを点検させていただきながら、この神の恵みに感謝し、その恵みの中にしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。イエス様こそ「わたしはある」という方なのです。

出エジプト記10章

出エジプト記10章から学びます。まず、1節から11節までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.息子や孫に語って聞かせるため(1-6)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。」

 

第8の災いです。それはいなごをエジプトに送るというものです。1匹や2匹のいなごではありません。それは地の面をおおい、地が見えなくなるほどの量のいなごです。先の雹の害を免れた植物も、このいなごの大群によって食い尽くされます。それは野に生えている草木だけでなく、ファラオの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちるようになります。それは、エジプトがこれまで見たことがないようなものです。

 

この災いが下る警告が与えられる前に、主はモーセにこの災いがもたらされる目的を語ります。1節と2節です。「それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」ためです。これまでは、イスラエルの神、主のような方が地のどこにもいないことを、エジプト人が知るようになるためでしたが、ここには新たな目的が加えられています。それは、主がエジプトに対して行われたことをイスラエル人が息子や娘に語って聞かせるためです。

 

これはとても大切なことです。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで何十年、何百年経った後も彼らの霊的指導者たちは、この出来事を語って聞かせました。彼らの神がどれほど偉大な方であるのかは、かつてエジプトに430年もの間囚えられていた彼らの先祖たちをそこから解放してくださった方であるということによって示してきたのです。いわばそれは、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷の状態から解放してくださりご自分の所有とされた主が自分たちの神である、ということです。何百年も後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなにし、災いを起こされたのです。

 

それは私たちも同じです。主は私たちが神の民であることを思い起こさせるために、一つのことを行うようにと命じられました。何でしょうか。それは聖餐式です。それは主が私たちを罪の奴隷から解放するために十字架で死んでくださったことを覚えるためです。パウロはこう言っています。

「すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

私たちがどんなことをしても自分の力では成し得なかったことを主が成し遂げてくださいました。主は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、血を流し、肉を割かれることによって、救いの御業を成し遂げてくださいました。このことを思い起こすために聖餐式を行うのです。私たちは主が私たちの罪を赦すために成し遂げられたこの十字架の御業を、私たちの息子や娘、孫たちに語って聞かせなければなりません。

 

モーセを通して語られた主の警告に対して、ファラオはどのように応答したでしょうか。7節から11節をご覧ください。

「家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」ファラオは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの妻子を行かせるようなときには、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。 そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。」

 

モーセを通して語られた主のことばに対して、決してファラオに反対することのない家臣たちが、必死になってファラオに訴えています。

「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」

家臣たちは、これまでの教訓から学んでいました。このままではエジプトが滅んでしまうという危機感を抱いていたのです。

 

それでファラオはどうしたかというと、モーセとアロンを連れ戻して言いました。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」(8)ファラオもこのままではだめだと思い少しずつ譲歩し始めます。ここでは、行くのはいいが、だれが行くのか、と言っています。もちろん全員です。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(9)

 

するとファラオは、何と言いましたか。「悪いがおまえたちの顔に表れている。」と言って、子どもや祭司たちが行くことを許しませんでした。ただ壮年の男子だけが行って、主に仕えるようにと言ったのです。これはどういうことでしょうか。主の影響力が妻子たちまで及ぶことがないように、必死になって抵抗しているのです。このようなことがよくあります。未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」といった圧力をかけられたりすることがあります。けれども、自分だけでなく自分の息子や娘たちも主に従うことがみこころなのです。

 

Ⅱ.いなごの大群(12-20)
それで第8番目の災いが下ります。12節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。」

 

それで主はモーセに、「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲うようにせよ」と言われました。

すると、主は終日終夜、その上に東風を吹かせたので、朝になると東風がいなごの大群を運んで来ました。そして、エジプト全土を襲い、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、エジプト全土で、木や野の草に少しも緑が残りませんでした。

 

するとファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言いました。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(16)

これはどういうことですか?ここでも、これまでのパターンが繰り返されています。このような災害を見たファラオは悔い改めているように見えます。ここでは、「もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」と言っていますが、これまで何度見逃してきたでしょうか。9:27にも「今度は私が間違っていた」と言いながら、小麦と裸麦が打ち倒されていないのを見ると、また心を頑なにしました。ここでも彼は同じことを繰り返しています。

 

するとモーセはファラオのところから出て、主に祈ります。すると主は風向きを変え、今度は非常に強い、海からの風、すなわち西からの風に変えていなごを吹き上げさせ、エジプト全土に一匹のいなごも残らないようにされました。しかし、主はファラオの心を再び頑なにされたので、彼はイスラエルの子らを去らせませんでした。いったいなぜここまで頑なになるのでしょうか。それは主がなされたことです。主がファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを行かせなかったのです。それはイスラエルの神、主の力を彼らに示すためでした。主の力がエジプト人だけでなく、イスラエルの民に対して、そして全世界に対し示されるためだったのです

 

Ⅲ.闇(21-29)

 

それで主はどのようにされたでしょうか。それで主は次の災いを下されます。それは闇の災いです。21節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」」

 

第9番目の災いです。今度は何の警告もなく、一方的にさばきを宣言されました。それは、「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」というものでした。それでモーセが手を天に向けて伸ばすと、エジプト全土が三日間、真っ暗になりました。光は神が創造されたものの中で一番初めに造られたものです。その光がないというのは、人間の生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれると、数時間で精神的におかしくなってしまうと言われています。あの3.11の後でしばらく計画停電がありました。夜でも電気が使えないのです。それで電池式のランタンとか蝋燭で対応しなければなりませんでしたが、でんきが使えないとパニックになってしまいます。その苦しみをエジプト人はそれを三日間、味わいました。しかし、イスラエルの子らのいたところには光がありました。

 

するとファラオはどうしたでしょうか。彼はモーセを呼んでこう言いました。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」(24)

今度は、妻子は連れて行ってもよいが羊と牛は残しておくようにと言いました。ここに新たな妥協案が示されました。ファラオがこのように言ったのは、自分たちの羊や牛が、すでに死んでしまったからです。ですから、イスラエルが牛や羊までも連れて行ったら、エジプトには何も残らないことになってしまいます。それはできないと、ファラオは頑なに牛と羊だけは残しておくようにと言ったのです。

 

するとモーセはその申し出を拒否しました。なぜなら、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきかわからないからです。あちらとは荒野のことです。そこで神から律法が与えられることで、どの家畜を主にささげたら良いかが示されます。それまではわかりません。だから、全部連れて行くと言ったのです。

 

それを聞いたファラオの心は再び頑なになりました。それでファラオは彼らを去らせようとはしませんでした。交渉が決裂したのです。そして、お互いに顔を合わせないようにしました。これ以降、両者が顔を合わせることは二度とありません。それでファラオは暗闇の中を歩むことになります。もっと恐ろしいさばきが彼を襲うことになります。これだけでも気が狂いそうになるのに、もっと恐ろしいさばきが彼らを襲うことになります。

 

このように神に背を向けるなら、暗闇の中を歩むようになります。しかし、神に従うなら、いかなる闇の中にあっても、光の中を歩むようになります。それは主の栄光の輝きです。イザヤ書60:1-3には、「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。それは主イエス・キリストに従う者にもたらされる光です。主イエスはこう宣言されました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

主イエスは世の光です。イエス様に従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。いのちの光を持つのです。あなたは闇の中を歩んでいませんか。世の光であられるイエス様を信じて、光の中を歩む者となりましょう。

ルツ記4章

きょうは、ルツ記4章から学びます。まず1節から6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ボアズの提案(1-6)

 

「一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこに座った。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類が通りかかった。ボアズは彼に言った。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」彼はそこに来て座った。ボアズは町の長老十人を招いて、「ここにお座りください」と言ったので、彼らも座った。ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買い受けるときには、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません。」するとその買い戻しの権利のある親類は言った。「私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。私に代わって、あなたが買い戻してください。私は買い戻すことができません。」」

 

いよいよルツ記の最終章となりました。ルツはナオミが言うことに従い、主の約束のことばを握り締めてボアズにプロポーズしまたが、ボアズは自分の感情に流されることなく、主の定めに従って事を進めていきました。すなわち、彼よりももっと近い買戻しの権利のある親類と話し、もしその人がその役割を果たすというのであればそれでよし、しかし、もし果たすことを望まないというのであれば自分が彼女を買い戻すことにしたのです。

 

かといって、ボアズはいつまでもぐずぐずしているような人ではありませんでした。彼女のためにすぐに行動を起こします。ルツと話したその翌日に、門のところへ上って行って、そこに座りました。あの買戻しの権利のある親類と話すためです。町の門は、防衛上必要であっただけでなく、会議の場となったり、裁判所となったり、市場になったりもしました。ボアズはここで公に話し合おうと思ったのです。それは、どのような結論が出ようとも、事実に反する風評が立たないようにするためです。

 

すると、そこにその人が通りかかったので、ボアズは彼に言いました。「どうぞこちらに来て、ここにお座りください。」そればかりではなく彼は、町の長老たち10人を招いて、「ここにお座りください。」と言って、彼らにも座ってもらいました。法的に重要な決定を下すためには、10人という人数が必要だったからです。

このようにボアズは、この件を自分に都合がいいように小細工をしたり、隠れて事を行うようなことをせず、誰の目にも公明正大に行いました。私たちが取るべき道として最も安全なのは、正攻法で行くことです。まさに箴言に「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:26)とあるとおりです。合法的、かつ正当なやり取りは、その人の信用を高め、将来の祝福を約束することになるのです。

 

ボアズは、その買戻しの権利のある親類に、モアブの野から帰って来たナオミが、自分たちの身内のエリメレクの畑を売ろうとしていることを告げ、もしその親類がそれを買い戻したいのであればそれでよし。でも買い戻さないというなら、自分が買い戻すと言いました。するとその親類が「買戻しましょう」と言ったので、もし買い戻すというのであれば、死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブ人の女ルツも引き受けなればならないと言うと、だったら買い戻すことはできないと、断りました。自分自身の相続地を損なうことになると思ったからです。どういうことでしょうか。ルツを引き受けことが、どうして自分自身の相続地を損なうことになるのでしょうか。恐らく、ルツが産む子に財産を持っていかれるのではないかと思ったのでしょう。そんなことになったら大変です。また、彼にはルツがモアブ人であるという偏見があったようです。このような経済的な損得勘定や偏見で、人はどれほど多くの祝福を損なっているでしょうか。これはキリスト教に対しても同じで、多くの人は損得勘定や偏見によって見ることによって、キリストのすばらしい祝福を受け損なっているのは残念なことです。神のみこころは何なのか、何が良いことで神に受け入れられるのかをわきまえ知るために祈りましょう。

 

Ⅱ.あなたがたは証人です(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」」

 

その買戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい。」と言って、自分の履き物を脱いで渡しました。それは、昔イスラエルでは、買戻しの権利を譲渡する場合、すべての取引を有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡すという習慣があったからです。これがイスラエルにおける認証の方法だったのです。

 

そして、ボアズは、長老たちとすべての民に、自分がエリメレクのものすべて、またマフロンとキルヨンのものすべてを買い取ったことを宣言しました。もちろん、その中にはマフロンの妻であったモアブ人の女ルツも含まれています。ボアズは正当な方法でルツを自分の妻としました。

 

ボアズが、自分がルツを買い戻したと宣言すると、そこにいたすべての民と長老たちが、「私たちは証人です」と言い、彼に神の祝福を祈りました。それは、「どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのようにされますように。」という祈りでした。これはどういう意味でしょうか。ユダヤ人たちは、アブラハムの妻サラと、ヤコブの二人の妻ラケルとレアは、「民族の母」として特別な存在として考えていました。ここにはその「ラケルとレアの二人のようにされますように」とあります。ラケルとレアは、ヤコブの二人の妻です。この妻と女奴隷から12人の息子が生まれ、イスラエル12部族が出ました。特にラケルは、このベツレヘムの町で最年少の子ベニヤミンを産み、そして死にました。ですから、これはこのレアとラケルのように、子孫が祝福を受けますようにという祈りだったのです。

 

また、「エフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。」というのは、このベツレヘムで有力な人となるようにという祈りです。エフラテとベツレヘムは同じ意味です。やがてこのベツレヘムから救い主が生まれることで、ボアズは名をあげることになります。

 

また、長老たちは、「どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」と祈りました。ボアズの先祖はペレツです。そのペレツは、タマルという女とヤコブの12人の息子のひとりユダの間に生まれました。ユダはカナン人を妻としてめとり、その妻から三人の息子が生まれましたが、その息子にタマルという妻を迎えたのですが、兄息子が死に、そこで次男のオナンをタマルと結婚させました。まだ律法は与えられていませんでしたが、兄弟の名を残さなければいけないという習慣がすでにあったからです。オナンは兄の名のためにタマルとの間に子を持つことを嫌がり精子を地上に流していたため、神に打たれて死んでしまいました。そしてシェラという三男がいましたが、シェラも殺されるのではないかと思い、ユダはタマルに彼を与えなかったのです。これは神のみこころにそぐわないことでした。それでタマルはどうしたかというと、売春婦の姿に変装して、通りかかったユダを巧みに誘惑し、彼と関係を持ちました。ユダはあとでタマルが妊娠したのを知って、「あの女を引き出して、火で焼け。」と言いましたが、タマルがあのときの売春婦であると知ったとき、自分の過ちを認めました。自分が息子シェラをタマルに与えなかったために、このようなことになったのだと知りました。そこで生まれて来たのがペレツです。ペレツは、そうした人間の罪がドロドロと錯綜するような中で生まれたのです。しかし神はそんなペレツを祝福し、救い主の系図の中に入れてくださいました。ですから、タマルがユダに産んだペレツの家のようにとは、そのようにしてもたらされたペレツの家が神の祝福の中に加えられたように、ルツがボアズに産んだ子が、神の祝福の中に加えられるようにという祈りだったのです。加えられるどころか、救い主の系図の中にバッチリと収められています。私たちは、ここでの祈りがやがて救い主イエス・キリストがベツレヘムで誕生することによって成就するのを見ます。

 

Ⅲ.ナオミに男の子が生まれた(13-22)

 

最後に13節から22節までをご覧ください。

ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。

これはペレツの系図である。ペレツはヘツロンを生み、ヘツロンはラムを生み、ラムはアミナダブを生み、アミナダブはナフションを生み、ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生み、エッサイはダビデを生んだ。」

 

とうとうボアズはルツを妻に迎えることができました。そして、主はルツを身ごもらせたので、彼女は男の子を産みました。やがてその子の子孫としてメシアが誕生することになります。だれがそんなことを考えることができたでしょう。これが神のなさることです。しかも、ルツはモアブ人です。神の民から遠く離れた異邦人です。にもかかわらず、神は異邦人のルツを通して全人類に祝福をもたらされました。これは、神が異邦人のことも決して忘れていないことを示しています。ユダヤ人とか、異邦人といったことではなく、神はご自身の御旨とご計画によって、ご自身の救いの御業を進めておられたのです。

 

その日、町の女たちがナオミに言いました。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」

ルツの子どもは、ナオミにとっての子どもでもあります。なぜなら、ナオミは死んだ長男マフロンに代えてこの子を得たのですから。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名前をつけました。「オベデ」という名です。意味は、「神を礼拝する者」とか、「神に仕える者」です。ナオミは、ベツレヘムに来たとき、すべてを失って、悲しみの中にいました。自分を「ナオミ」と呼ばないでください、「マラ」と呼んでほしいと言いましたが、その悲しみが今、喜びに変えら名付けられたのでしょう。

 

そして、このオベデは、ダビデの父であるエッサイの父です。そのことがわかるように、18節から終わりまでのところにペレツの系図が記されてありますが、これはこのペレツからダビデが生まれたことを示しています。それは、私たちの救い主がここから生まれたことを示しています。神の計画は、人間の想像をはるかに超えています。それがこの系図によく表われているのではないかと思います。この系図はペレツの系図となっていますが、ペレツという人物も前述したとおり、あのユダとタマルとの間に生まれた子どもでしょ。そこから出たペレツの子孫にボアズが生まれ、そのボアズがルツと結婚することでダビデの祖父にあたるオベデが生まれ、そのオベデからダビデが生まれ、そのダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれてくるのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。それは、神はすべてを支配しておられ、ご自身のご計画に従って、すべてのことを導いておられるからです。

 

それは、あなたも例外ではありません。私たちは本当に小さな者にすぎませんが、神はこのような小さな者をご自身の救いの計画の中にしっかりと組み込んでいてくださり、偉大な御業を行わっておられるのです。ルツはモアブの女にすぎませんでしたが、彼女を通して主は救いの御業を成し遂げられました。まさにそれは主の計らいなのです。私たちは本当にちっぽけな者にすぎませんが、神はこのような者にも驚くような計画をもっていてくださることを信じ、すべてのことをつぶやかず、疑わずに行う者でありたいと願わされます。その時、主がこんな私たちを通しても偉大な御業を行ってくださるのです。

ヨハネの福音書8章12~20節「わたしは世の光です」

きょうは「わたしは世の光です」と言われたイエスの言葉から学びたいと思います。皆さんは、「もしも、光がなかったら」と考えたことがありますか。そうなったら、何も見えず、私たちはこの世界で、何が起こっているかを知ることができません。同様に、私たちの人生に霊的な光がなければ、私たちは、自分の人生の目的やその意味を知ることができず、闇の中を生きることになってしまいます。

 

見ることも、聞くことも、話すこもできなかったヘレン・ケラーは、その三重苦を乗り越え、多くの人々の「希望の光」となりました。彼女はこう言っています。「目に太陽が見えるか見えないかは問題ではありません。大切なのは、心に光をもつことです。」私たちは、心に光をもっているでしょうか。その光は、どこから来るのでしょうか。それはどんな光なのでしょうか。きょうはこの光であるキリストについてご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.世の光であられるキリスト(12)

 

まず、イエスは世の光であられるということについてです。12節をご覧ください。

「イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」

 

「イエスは再び人々に語られた」という言葉遣いは、その前の話とぴったり調和しています。イエスは、2節で宮に入られた時、集まって来た人々に教え始めました。その時、姦淫の現場で捕らえられた女が主イエスの前に連れて来られたために、話を一時的に中断しなければなりませんでしたが、事件の決着もつき、告訴人も告訴された者も立ち去った後で、主イエスは教えを再開されました。ですから、その前の姦淫の現場で捕らえられた女の人がイエス様のもとに連れて来られたという話は、実際にあった話なのです。

 

イエスが再び語られたこととはどんなことでしょうか。ここには、「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」とあります。ヨハネの福音書には、「わたしは・・です」という宣言が7回出てきますが、この「わたしは世の光です」というのは、その2回目です。1回目は6章35節、あるいは6章48節に出てきました。「わたしはいのちのパンです」という宣言です。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでは「わたしは世の光です。」と言われました。「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」これはイエス様ご自身が約束のメシヤであるという宣言です。すなわち、イエスが救い主であられるということです。

 

イエス様はなぜこのように言われたのでしょうか。ある註解者によると、7章で仮庵の祭りについての言及がありましたが、その祭りの大いなる日に、イエスは立ってこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになります。」(7:37-38)

それは、この祭りのクライマックスとも言うべき祭りの最終日のことでした。その終わりの大いなる日に、シロアムの池から運ばれた水を、祭司が祭壇に注ぐという儀式がありましたが、それともう一つの儀式がありました。それは、神殿の中をいっぱいに埋めた祭司や民が、手に持った燭台のろうそくに一斉に火を灯したのです。それはまさに真昼のように、エルサレムの隅々を照らしました。ユダヤ教のラビたちはそれを「神の栄光の光」と呼びました。こうした儀式を背景に、イエスはご自分こそまことの神の栄光の光であると宣言されたのだ、というのです。

 

皆さん、この世は真っ暗闇です。この「闇」というのは、神について全く知らないという意味です。どこに行っても神を知ることができません。私たちの周りにはスマホをはじめとした文明の機器がたくさんありますが、どこを探しても光を見ることができません。どんなにテレビやネットの情報を見ても、それらのものが私たちの人生を照らしてくれるでしょうか。いいえ、そうしたものはとても便利なものですが、むしろ私たちを暗闇の中へと放り投げてしまいます。どこを探しても、私たちの人生を照らす光を見つけることができません。

 

しかし、イエスはここで、「私は世の光です」と言われました。私たちは、この光であるイエスによって照らされるまで真理を見ることができません。それはこの前に記された内容を見てもわかります。律法学者やパリサイ人たちは、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、律法では、こういう女を石打ちにするようにと命じていますが、あなたは何と言われますかと、イエスに詰め寄りました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われました。

すると、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、その女とイエス様だけが残されました。イエス様の光に照らされた時、彼らは自分も罪人であり、死ななければならない存在であることが示されたのです。同じように、私たちもイエス様によって照らしてただかなければ、神の真理を知ることはできないのです。イエスは世の光です。イエスに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

しかもその光はただの光ではありません。ここには「いのちの光」とあります。この「いのちの光」とは、私たち人間が人間として生きていく上で必要な光であるということです。それは霊的光のことであって、いのちを与える光です。どんな人でもイエス・キリストを信じるまでは霊的に死んでいますが、イエス・キリストのもとに来て、キリストを信じる時、このいのちが与えられます。こうして、神が私たちのために用意しておられる本当の人生を歩むことができるのです。

 

以前、NHKテレビで、「無縁社会~新たなつながりを求めて~」という番組を放映していました。かつては、人と人とが何らかの絆によって結ばれていたのに、現代ではそれが失われて来ています。家庭において、職場において、その他の人間関係において、人と人の結びつきが薄れてきている。人間関係のストレスから、部屋に閉じこもって、インターネットのつながりだけで生きている人々、人生に行き詰って自殺へと追い詰められた人々が増えています。そのような無縁社会と向き合って、辿り着いたところがここでした、と紹介されたのが、和歌山県白浜にある教会でした。この教会の近くにある三段壁という自殺の名所があって、一年中自殺者が絶えません。そこでこの教会ではそこに看板を立て、自殺する前にまず教会に連絡するようにと呼びかけました。その結果、この20年間に905人の自殺志願者を止まらせました。

それでNHKが今のこの無縁社会の問題の解決を捜し求めるうちに辿り着いたのが、この白浜に立っている十字架を掲げた教会だったというのです。このことは、この社会と私たちの人生の真実を深く物語っている象徴的な出来事ではないかと思います。つまり、暗闇の中で苦悩する私たちは、光であられるキリストのもとに引き寄せ去られて初めて安らぎが与えられ、人間らしい交わりを取り戻すことができるということです。キリストこそこの世の光です。この方に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

もし光がなかったらどうなるでしょうか。先月、北海道で、猛烈な砂嵐が発生し、高速道路ではバスやトラックなどが絡む多重事故が相次ぎ、計14人以上がけがをしました。原因は何かというと、その砂嵐のため視界が不良であったことです。視界ゼで周りが全く見えませんでした。そうなりますと、車のライトも役に立ちません。前方にも後方にも全く光が届かず、砂嵐の暗闇に閉じ込められてしまったのです。かろうじて、車の左側に白いペンキで引かれた道路の端の境界線がかすかに見えました。そのわずかに見える境界線をたどりながら、恐る恐る前進していくのですが、前進していくことができません。後ろから車が来たら、追突されてしまうかもしれませんから。早くサービスエリヤに逃げ込むしかないのです。

 

それは私たちの人生も同じで、もし光がなかったら、どこを、どのように進んで行ったら良いかがわからないため倒れてしまうことになります。その光がイエス・キリストです。キリストに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

 

私はイエス様を信じて40年になりますが、もし、イエス様と出会っていなかったらどうなっていただろうと思うことがあります。おそらく、とんでもない人生を送っていたのではないかと思います。しかし、そんな者がキリストと出会い、キリストの光が与えられたことで、キリストに支えられながら、光の中を歩むことができたのは、本当に感謝なことです。

 

Ⅱ.キリストの証言の確かさ(13-18)

 

しかし、どうしてキリストが光だと言えるのでしょうか。第二に、キリストの証言の確かさです。すると、イエスの言葉を聞いたパリサイ人たちがイエスのもとにやって来てこう言いました。13節、「あなたは自分で自分のことを証ししています。だから、あなたの証しは真実ではありません。」

 

どういうことでしょうか。「自分で自分のことを証ししています」とは、「自分で自分の証言をしている」ということです。そんな証言を誰が信用することができでしょうか。そのようなものを信用するのは難しいでしょう、というのです。旧約聖書にも、「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって。」(箴言27:2)とあります。また、モーセの律法にも、「二人の証人または三人の証人の証言によって、死刑に処さなければならない。一人の証言で死刑に処してはならない。」(申命記17:6)と、証言が真実であると認められるためには2人ないし3人の証言が必要とされていました。ですから、自分で自分のことを証言することはできないと言ったのです。

 

それに対してイエスは、それが真実であることを証明するためこう言いました。14節です。

「イエスは彼らに答えられた。「たとえ、わたしが自分自身について証しをしても、わたしの証しは真実です。わたしは自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのかを知っているのですから。しかしあなたがたは、わたしがどこから来て、どこへ行くのかを知りません。」

この「自分がどこから来たのか、また、どこへ行くのか」というのは、その人の本質を表しています。つまり、イエスはここでご自分が父なる神から来られた神ご自身であると言っているのです。イエス様が彼らのところに来られ、彼らの前に立っておられるのは、一般の預言者やありふれた証人としてではなく、神から遣わされたメシヤとしてここにいるのだ・・・・と。それゆえ、ご自分の証言が信頼できるものであると言えるのです。彼らにはそのことがわかりませんでした。彼らはイエスが神であり、神から遣わされた方であるということを信じることもできなかったからです。

 

そればかりではありません。15節から18節までにはこうあります。

「あなたがたは肉によってさばきますが、わたしはだれもさばきません。 たとえ、わたしがさばくとしても、わたしのさばきは真実です。わたしは一人ではなく、わたしとわたしを遣わした父がさばくからです。あなたがたの律法にも、二人の人による証しは真実であると書かれています。わたしは自分について証しする者です。またわたしを遣わした父が、わたしについて証ししておられます。」」

 

「あなたがたは肉によってさばきますが」の「肉」とは、下の欄外の説明にもあるように「人間的判断」のことです。つまり、彼らは人間的判断にしたがって、外見や、この世の基準で判断していました。ですから、正しく判断することができなくなっていたのです。彼らは、自分たちの目に見えるところによってキリストを判断していたために、イエスのうちにある神としてのご性質を見ることができませんでした。だって、ただの大工の息子ですから・・・。そんな者をだれがメシヤだなんて認めることができるでしょうか。でもそれは人間的な判断でしかありませんでした。彼らの思いは肉的で、偏見に満ちていました。だから、イエスを正しい目で見ることができなかったのです。

 

しかし、イエス様の本質はそうではありませんでした。主はだれをもさばきません。これはどういうことかというと、だれもさばかないということです。たとえ最悪の罪人であっても、罪に定めるようなことはなさいません。それは、やがて終わりの日にそのような時があるでしょうが、今はそうではありません。今はさばいたり、罪に定めるようなことはしないのです。なぜなら、イエスは人々を罪に定めるために来たのではなく、罪人を救うために来たからです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(ルカ2:17)

 

しかし、たとえイエス様がさばくとしても、そのさばきは正しいのです。なぜなら、イエス様は一人でさばかくのではなく、イエスを遣わされた父がさばかれるからです。これは、主が今は審判者としての務めを果たされなくても、それはそのような資格がないからではなく、むしろその反対で、もし主が誰かの行為や意見をさばくとしたら、それは完全に正確で信頼できるものであるということです。なぜなら、主はひとりではないからです。主と、主を遣わされた父なる神との間には、分かつことのできない結びつきがあるので、そのさばきは確かなものなのです。

 

17節を見てください。それは、先ほども申し上げたとおり万人が認めるモーセの律法の中でも言われていることです。このように二人の証言が信頼に値するものであることを認めるなら、イエスの証言は真実であると言えます。18節、なぜなら、イエスご自身が神から来られた神であり、その遣わされた父なる神の二人の証人がいるからです。これ以上、どんな証言が必要だと言うのでしょう。これで十分なはずです。

 

ですから、イエスを認めることは父なる神を認めることであり、イエスを認めないことは、父なる神をも認めないことです。イエス様こそこの世の光であり、私たちを闇の中から救うことができるいのちの光なのです。あなたはこのことを認めますか。

 

Ⅲ.キリストを通して神を知る(19-20)

 

第三のことは、だから私たちは、このキリストを通して神を知ることができるということです。19節をご覧ください。

「彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」」

すると彼らはイエスに言いました。「あなたの父はどこにいるのですか。」おそらく、この質問は本当に神を知りたいという願いからというよりも、イエスに対してあざけりを込めた皮肉な質問だったのではないかと思います。

 

それに対してイエスはこう言われました。19節、「あなたがたは、わたしも、わたしの父も知りません。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知っていたでしょう。」

結局のところ、彼らは神について全く知りませんでした。彼らは聖書から神について教える立場にありながら、その神のことを全く理解していなかったのです。なぜでしょうか。キリストを知らなかったからです。もし、キリストを知っていたなら、父なる神のことも知っていたでしょう。しかし、彼らはキリストを受け入れることができませんでした。それで、神のことを知らなかったのです。

 

どうしたら神を知ることができるのでしょうか。それは、「キリストを通して」です。キリストについて無知でありながら、神について何事かを正しく知っていると思っている人は、全くの思い違いをしています。その人が知っているのは聖書の神ではなく、自分自身が考えている神であり、想像の産物なる神にすぎません。私たちが神を知るために必要なのは、このキリストを通してなのです。キリストは、神を説き明かすために来られたひとり子の神であり、この神のみもとに私たちを導くために、その御業を成し遂げてくださった方です。キリストはこう言われました。

「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

キリストが道であり、真理であり、いのちです。だれも、キリストを通してでなければ父のみもとに行くことはできないし、父を知ることもできないのです。

 

このことはとても重要なことです。ある人たちは、「神を信じることは簡単にできるけれども、イエス・キリストが出てくると分からなくなる」と言います。でも、神を信じたいと思うなら、このキリストから始めなければなりません。キリストを自分の罪からの救い主であると知るなら、その人は神を知ることができるからです。でもキリストを退けるなら、ここに出てくるパリサイ人のように、どんなに知識があっても、神について全く無知であり、結局のところ、闇の中を歩むことになるでしょう。しかし、最も貧しく、最も卑しい人であっても、キリストを信じる人は、神を知ることができるようになるのです。なぜなら、キリストこそこの世の光だからです。この的を逃さないようにしましょう。最近は、人間が考え出した心理学や哲学といった学問によってキリスト教信仰を持とうとする人が少なくないわけではありません。確かにその方がわかりやすいかもしれませんが、そうしたものはあくまでも人間が考え出したものにすぎず、人を滅びに導くものでしかありません。私たちが神を知るためには、聖書が示しているイエス・キリストを通してのみなのです。なぜなら、キリストこそこの世の光であられるからです。

 

皆さんは、おたまじゃくしがカエルになるのを観察したことがありますか。おたまじゃくしは、数珠つながりになった受精卵から50日してカエルになりますが、おたまじゃくしからカエルになる時に光を受けないと、おたまじゃくしはずっとおたまじゃくしのままで、やがて十分な呼吸ができなくなってしまい死んでいくのだそうです。

それは私たちにも言えることです。私たちも、イエス様からいのちの光を受けなければ、おたまじゃくしと同じように、罪の泥沼の中に沈んでしまうことになります。聖書は、私たちが罪の暗やみの中に沈んでいる状態を「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。」(エペソ4:18)と言っています。しかし、私たちもイエスの光を受けるなら、暗やみから光に変わり、光の子になることができるのです。エペソ5:8ではこう言っています。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」あなたもイエスの光を受けているでしょうか。その光の中を歩いているでしょうか。

 

ルイ十四世といえば、「朕は国家なり」と言ってフランスに君臨した王でした。彼が死んだ時、遺言にしたがって彼のからだは、もっとも豪華な衣にまとわれ、黄金に輝く棺におさめられ大聖堂のまん中に安置されました。聖堂内のすべてのともし火は消され、ただ一本の大きなろうそくだけが棺の上にともされて、黄金の棺を照らしていました。それは、フランスの王だけが、栄光に輝く王であることを象徴するためでした。やがて、ヨーロッパ全土から集まった王侯貴族が参列して、厳かに葬儀がはじめられましたが、その司式にあたった司教は、葬儀のなかばで、突然、棺の上に一本だけともされていた、そのともし火をかき消しました。司教は、真っ暗になった会堂にひびきわたる声で言いました。「ただ神のみ偉大なるかな。」この司教は、この世の権力を誇り、神を見失っていた王侯貴族たちに、神のみが栄光に輝く王であり、世界の光であること示したのです。「世の光」であるイエス・キリストを見失った社会は暗やみです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イエスの招きのことばに、今こそ従いましょう。

出エジプト記9章

出エジプト記9章から学びます。まず、1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.第5番目の災い:重い疫病(1-7)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。

しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」

また、主は時を定めて言われた。「明日、主がこの地でこのことを行う。」主は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。」

 

これまでエジプトに対する四つの災いを見てきましたが、きょうは第5、第6、第7番目の災いを見ていきたいと思います。いまお読みしたところには、5番目の災いについて記されてあります。それはエジプトにいる家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に、重い疫病が起こるということです。3節には、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にとありますが、エジプトでは、馬、牛、雄牛などは神聖な動物とされ、礼拝の対象になっていました。こうした家畜の上に疫病が起こるというのです。しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない、と言われました。また、主は「時」を定めておられました。それは「明日」です。「明日、この地でこのことを行う」と。

 

その結果はどうだったでしょうか。主が言われたとおり、主は翌日そのようにされました。エジプトの家畜はことごとく死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした。主がそのように区別してくださったからです。それは、テサロニケ第一5章9節にあるとおりです。

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

この「御怒り」とは神のさばきのことです。このさばきは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきのことではなく、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことです。これはその文脈で語られていることからわかります。神のさばきは突如として人々に襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、クリスチャンがさばきに会うことはありません。主がそのように区別してくださったからです。私たちがイエス様を救い主と信じたことで、神はゴシェンにいる神の民イスラエルのように区別してくださったのです。それゆえ、私たちの上に神のさばきが下るということはありません。

 

エジプトの王ファラオは、イスラエルの民がどうなったのかが気になったようで、使いを送って調査させました。すると、イスラエルの家畜は一頭も死んでいませんでした。であれば、怖くなってイスラエルの民を行かせたかというとそうではなく、逆に、彼の心は硬くなって、民を行かせませんでした。

 

Ⅱ.第6の災い:うみの出る腫物の害(8-12)

 

それで主はどうされたでしょうか。それで主は第6の災いを下します。それはうみの出る腫物の害です。8節から12節までをご覧ください。

「主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」

 

第6の災いです。この第6の災いの特徴は、第3の災いと同様に警告がないことです。主がファラオに対して何の警告なしに、わざわいが下ることを宣言します。それはうみの出る腫物の害です。

主はモーセとアロンに仰せられました。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らがそのとおりにすると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫物となりました。エジプトの呪法師たちは、その腫物のためにモーセの前に立つことができませんでした。これは、エジプトで癒しの神として信じられていた偶像に対するさばきです。エジプトには、疫病を支配する神「セクメット」、癒しの神として信じられていた「セラピス」、そして、薬の神として信じられていた「イムホテプ」といった偶像がありましたが、これらの偶像の神々は、エジプト人をうみの出る腫物から守ることができませんでした。

それでも、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れませんでした。

今回の災いのもう一つの特徴は、かまどのすすがうみの出る腫物となったという点です。この「かまど」とは、レンガを焼くかまどのことです。それはエジプトにいたイスラエル人たちがレンガを焼く作業をするために使っていたものでした。それはイスラエル人にとって苦難の象徴でもありました。エジプトは、そのイスラエル人を苦しめたかまどのすすによって災いを受けたのです。それはまさに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)とあるとおりです。アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。あなたにとってのアブラハムとはだれでしょうか。それは神によって選ばれ、神によって立てられた神の器ではないでしょうか。その神の器をのろうのではなく祝福する。それはあなたの祝福となってかえってくるのです。

 

Ⅲ.第7の災い: 雹の害(20-32)
次に第7の災いを見ていきましょう。13節から35節までですが、まず26節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」

ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 

第7の災いは雹の害によるさばきです。まずこの災いの前に、モーセを通して警告が与えられています。「主はモーセに言われた。『明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。』」

この災いの目的は何でしょうか。それは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるため」です。災いのは内容は何ですか。「明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。」ということです。エジプトは最古の歴史を持つ国ですから、国が始まってから今に至るまでなかったようなというのは、人類の歴史上これまでなかったようなということです。だから、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させるように・・と。

 

それに対して、エジプト人はどのように応答したでしょうか。20-21節をご覧ください。「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」

不思議なことに、ファラオの家臣たちの中に主のことばを恐れた者とそうでなかったもの、つまり、主のことばに心を留めなかった者という2種類の人たちがいました。主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に非難させましたが、主のことばを心に留めなかったものは、しもべや家畜たちをそのまま野に残しておきました。

 

その結果どうなったでしょうか。モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主が雷と雹を送ったので、火が地に向かって走り、エジプトの地に雹が降りました。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡りました。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものでした。それで、エジプトの人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打ちました。しかし、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降りませんでした。主がイスラエルの民とエジプト人を区別されたからです。

 

ここで注目したいことは、エジプト人の中にも主のことばを恐れた人々がいたということです。彼らは主のことばに従ったので、災害から守られました。主のみことばを聞いてどのように応答するかが重要です。主は、種まきのたとえでこのように教えてくださいました。

ある人が種を蒔いたら四種類の土地に落ちました。それは道ばた、岩地、いばら、良い地です。それはその人の心を表していました。その人が実を結ぶかどうかは、その人が主のことばをどのように受け止めるのかによって決まります。良い地に落ちた種だけが多くの実を結ばせます。あなたはどのような心で主のことばを受け止めていますか。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)とあります。私たちも主を恐れ、主のことばに従う者となりましょう。

 

さて、雹の災いを受けてファラオはどうしたでしょうか。27節と28節をご覧ください。

「ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」」

よっぽどひどい災害だったのでしょう。ファラオは、「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。」と言っています。そして、「主に祈ってくれ。私はおまえたちを去らせよう。」と言いました。これはファラオが悔い改めたということではありません。ただ苦しみから解き放たれたいというだけです。苦しみから解き放たれたいという思いだけでは、救いを得ることはできません。

 

それに対するモーセの回答は、「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を差し伸べましょう。そうすれば、雷はやみ、雹はもう降らなくなります。」というものでした。しかし、それでもファラオとファラオの家臣たちはまだ、神である主を恐れていないと言いました。それはどうしてでしょうか。31節と32節をご覧ください。

「亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。」

どういうことでしょうか。大麦が穂を出し、亜麻がつぼみをつけるのは、大体1月から2月にかけてのことです。また、小麦と裸麦が実をつけるのは、4月から5月にかけてのことです。つまり、この雹の災害は2月から3月にかけて起こったと考えられます。大麦と亜麻は雹で打ち倒されましたが、小麦と裸麦は打ち倒されていませんでした。そのことを知ったファラオと彼の家臣たちは心を頑なにし、イスラエルの子らを行かせませんでした。

 

神は、人をへりくだらせるために、その人の力を弱くされることがあります。ある人は病気になったり、ある人は事業が失敗したりと、自分だけでは生きることができない状況に陥ることがありますが、それは私たちが主の御前にへりくだるために、主が与えてくださるものです。しかし、そうした弱さの中にあっても小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にまだやっていける力や可能性が少しでもあると思い、この時のファラオのように頑なになってしまうことがあるのです。主がエジプトのすべてを打たなかったのはエジプトに対するあわれみであったのに、それを自分たちはまだやっていけると思う判断材料にしてしまったのです。

 

しかし、それは主がモーセを通して言われたとおりでした。つまり、これほど激しい災いがあってもファラオが頑なになったのは、イスラエルの神、主のような方がどこにもいないことを、彼が知るようになるためでした。モーセが手を伸ばせば、今すぐにでも彼と彼の民を疫病で打って、この地から消し去ることなど実に簡単なことなのにそのようにされなかったのは、「わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に示すため」(16)だったのです。つまり、エジプトに主とはどのような方であるかを示すため、いや、エジプト人に限らず全地に主の名を知らしめるためだったのです。このことによって、現代に生きる私たちも、主がどれほど偉大なお方であり、主のように大いなる方はほかにはいないということを確信することができます。ファラオの頑な心は、そのために用いられたのでした。私たちは、このようにして示された主の御業を通して、主がどれほど偉大な方であるのかを知り、この方に信頼する者とさせていただきましょう。

ヨハネの福音書8章1~11節「わたしもあなたを罪に定めない」

きょうからヨハネの福音書8章に入ります。きょうのテーマは、罪に定めないイエスです。「わたしもあなたを罪に定めない」というテーマでお話しします。11節に、「わたしもあなたにさばきを下さない。」とあります。新改訳改訂第3版ではこのところを、「わたしもあなたを罪に定めない。」と訳しています。きょうのタイトルは、この第3版の訳から取りました。このところから、罪に定めないイエスについてご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.姦淫の場で捕らえられた女(1-6)

 

まず、1節から6節までをご覧ください。

「イエスはオリーブ山に行かれた。そして朝早く、イエスは再び宮に入られた。人々はみな、みもとに寄って来た。イエスは腰を下ろして、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

 

きょうの箇所は7章の続きになっていますが、7章53節から8章11節までは括弧で閉じられています。それは下の欄外にあるように、古い写本のほとんどがこの部分を欠いているからです。それで古くからこの箇所の信憑性について議論されてきましたが、これが主イエス・キリストの出来事として本当にあったということについては議論の余地がありません。

 

さて、この箇所は7章の続きであると言いましたが、7章には主イエスが仮庵の祭りにエルサレムに行かれ、そこで人々と議論され、力強い御言葉を語られたことが記されてあります。その日一日が終わると、人々はそれぞれ自分の家へと帰って行きました。その翌日のことです。イエス様は朝早く再びエルサレムに来られ、エルサレムの神殿に入られました。そこは神殿の庭であったようです。すると、人々がみもとに近寄って来たので、腰を下ろして、彼らに教え始められました。

するとそこに、律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえたというひとりの女性を連れて来て、彼らの真中に立たせ、イエスにこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

彼らはなぜこのように言ったのでしょうか。そんなことくらいは聞かなくてもわかることだったでしょう。なぜなら、彼らは律法の専門家なのですから。律法には何とありますか。律法の中心である十戒の中にはこうあります。

「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)

そのような罪を犯した場合にどうなるのかについては、次のように定められていま

した。 「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、

二人とも死ななければならない。こうして、あなたはイスラエルの中からその悪い者を除き去りなさい。夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。」(申命記22:22)

つまり、姦淫の罪に対する刑罰は、死刑だったのです。これが律法で定められていたことでした。であれば、そのようにすればよかったのではないですか。それなのに、なぜわざわざイエスに質問したのでしょうか。それは、彼らの魂胆が別のところにあったからです。6節にあります。

「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった。」

彼らの魂胆は、イエスを告発することでした。もしもイエスがモーセの律法のとおりにこの女性を死刑にするようにと言ったなら、二つの点で問題がありました。一つはローマ帝国で定めていた法律を無視するということでした。ですから、ローマへの反逆罪で訴えられることになります。当時、ユダヤ人には死刑に対する決定権が与えられていませんでした。それはローマ帝国にありました。ですからその権利を無視して勝手に行使したということになれば、ローマに反逆したとみなされても仕方ありません。もう一つのことは、イエス日ごろから罪人たちの友であると言っておられました。なのに、もしこの女性を死刑にするようにと言えば、自分が行っておられたことに矛盾することになります。イエスは、取税人や売春婦に救いの手を差し伸べるために来たと自分で言っておられたのですから。

逆に、もしもイエスが「赦すべきだ」と言うものなら、モーセによって定められた律法を破る者として訴えられることになります。ですから、どちらに転んでも分が悪かったのです。これは彼らにとってイエスを訴えるための格好の材料であったわけです。彼らは初めからこの女性のことなどどうでも良かったのです。もし本当にこのことで知りたかったのであれば、この女性だけでなく男性も連れてきたことでしょう。なぜなら、律法には男も女も、ふたりとも死ななければならないとあるのですから。女だけを連れて来て、「さあ、どうする?」と言うこと自体が間違っていました。

 

それに対してイエス様はどうされたでしょうか。6節後半にはこうあります。

「だが、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。」

イエス様は、そんな彼らの問いかけには一言も答えられず、ただ身をかがめて、指で地面に何かを書いておられました。何を書いておられたのでしょうか。わかりません。そのことについて聖書は何も言っていませんから。大切なことは、何を書いていたかということではなく、彼らの質問には何も答えなかったということです。なぜでしょうか。答える必要がなかったからです。ただ本文を見ると、「指で」という言葉が強調されています。神がその指で書かれたものとは何でしょうか。十戒です。出エジプト記31章18節にこうあります。

「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

十戒は、神がその指で書き記したものです。その十戒には何と書かれてありますか。その中にはこの「姦淫してはならない」という言葉が含まれていました。つまり、イエス様はその内容をよくご存知であられたということです。律法学者やパリサイ人たちは、その十戒をさらに細分化して613もの規定を作りましたが、それは人間が作り出したものにすぎず、人を闇の中へと突き落とすものでした。しかし、イエス様は律法を定められた方であって、その律法を意味することがどんなことであるのかを完全にご存知であられました。ですから、私たちに必要なのは律法に何と書かれてあるかということではなく、この律法を定められた方であるイエス様に従うことなのです。それなしに律法に従おうとすると、ここで律法学者やパリサイ人たちが陥った過ちに陥ることになってしまいます。

 

Ⅱ.あなたがたの中で罪のない者が(7-9)

 

するとどうなったでしょうか。7節から9節までをご覧ください。

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」そしてイエスは、再び身をかがめて、地面に何かを書き続けられた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

 

しかし、彼らが問い続けて止めなかったので、イエスは身を起こして言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

このイエス様の言葉は、ちょうど静かな湖面に石を投げたときの波紋のように広がっていきました。大声を張り上げていた人々が次第に黙り始めたのです。それは思いがけないことばでした。彼らは、姦淫の女にひたすら注目していました。こいつは悪い女だ。とんでもないことをした。姦淫の罪は十戒でも禁じられている罪で、極刑に値する。それなのに、イエスは人々の心の流れをまったく思いがけないところへと導かました。この女に石を投げつけるがよい。しかし、一つだけ条件がある。それは、あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさいということです。人をさばくことができる人は、自らも罪のない者でなければなりません。自分の心にやましさがあるのにほかの人をさばくことなどできるでしょうか。できません。多くの場合自分が罪を持っているにもかかわらずそれを隠し、良心の呵責をごまかして平気で人をさばこうとしますが、実際にはそんなことができる人などだれもいないのです。だれにでも罪があるからです。つまり、イエス様は、その非難や怒りの流れを、自分自身に向き会うようにとされたのです。姦淫の女を見つめることから、自分自身を見つめることへと方向転換を迫られたのです。

 

これはとても大切なことです。人はほかの人の罪はよく見えても、自分の罪は見えないものです。それでこの時の律法学者はパリサイ人たちのように、この女はとんでもないことをした!と責め立てますが、自分の胸に手を置いてよく考えると、自分もこの人と同じ罪人にすぎず、五十歩百歩だということに気付かされるでしょう。

主イエスは言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」(マタイ7:15)

梁とは裁縫で使う針のことではありません。家の柱と柱を結ぶ梁のことです。私たちは自分の中にそんな大きな梁があるのにもかかわらず、兄弟の目の中にある小さなちりを取り除こうとします。しかし、まず自分の中にある大きな梁を取り除かなければなりません。そうすればよく見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 

すると、どのようになったでしょうか。9節をご覧ください。「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」

年長者から始まりというのは、年を重ねて自分の姿がよくわかるようになっていたということでしょうか。彼らは、イエス様のひとことで、自分を振り返り、良心の呵責を感じたのでしょう。みな、その場から立ち去ってしまいました。まさに、聖書に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」(へブル4:12)とあるとおりです。

 

しかし、それは何も年長者だけの問題ではありません。ここには、「年長者から始まり、一人、また一人と去って行き、真ん中にいた女とともに、イエスだけが残された。」とあります。結局のところ、老人も若者も、男性も女性も、強い者も弱い者も、地位の高い者も低い者も、一人残らず、自分にはこの女性を罰する資格がないと思い知らされ、その場から去って行ったのです。

 

私たちが人生でキリストに出会うということは、こういうことなのではないでしょうか。思ってもみなかったような視点で物事を見ることを教えられるということです。神殿に集まった人々は、キリストに教えられなければ、あのような視点を持つことはできませんでした。今、ここにいる私たちも同じです。この視点がなければ、私たちもついつい高慢になって、自らを滅ぼし、人をも滅ぼしかねません。ですから、こうして日曜日に教会に集い、主の御言葉を通してキリストに出会うということは大切なことなのです。いつも、キリストに教えられていなければ、私たちは、物事を正しく見ることができないばかりか、そのことにさえ気付かないことが多いからです。自分では見えていると思っていてもそれはただ自分でそう思っているだけにすぎず、実際はそうでないというのがほとんどなのです。それは、9章41 節で、主が「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」とおっしゃっていることからもわかります。

私たちが見えるようになるためにはまず、キリストのもとに来ることです。そうすれば、見えるようになります。キリストに出会うことによって初めて、私にも罪があるということがわかるようになるからです。

 

Ⅲ.わたしもあなたを罪に定めない(10-11)

 

その結果どのようになったでしょうか。10節と11節をご覧ください。

「イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

 

この女をさばくことができる人はだれもいませんでした。すると主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。」と言われました。ここにいた人々の中で、人々を罪に定める権威を持っていたのはイエス様だけでしたが、そのイエス様が、彼女に罪の赦しを宣言されたのです。人の罪をさばく権威のない者が人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられた方はさばこうとされませんでした。ここに一つのコントラストが見られます。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出してその罪をさらしましたが、イエス様は、女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされたのです。

 

どうしてでしょうか。それは、イエス様が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。それは主がここで「これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われたことからもわかります。主が彼女を罪に定めなかったのは彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない刑罰を代わりに受けることによって彼女を赦してくださるからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。

 

彼女を訴える者がひとりもいなくなった時、彼女がその場から立ち去って行かなかったのはそのためです。もう誰もいなくなったのですから、彼女もその場から立ち去って良かったのにそうしませんでした。そこから一歩も動こうとしなかった。それは動けなかったからです。すべてをご存知であられる主が、こんなに罪深い者を赦してくださる。その主の愛に釘づけにされてしまったのです。主は、自分の罪を正直に認める者に対してこのように愛をもって接しくださいます。いや、主の御前に立つ時、私たちは自分の罪を正直に認めないわけにはいきません。でもその時主は、「わたしもあなたにさばきを下さない。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言ってくださるのです。

 

これが私たちの人生においてどうしても必要なものです。私たちが本当に生かされるために必要なのは、このイエス様の赦しの宣告なのです。聖書には、「罪から来る報酬は死である」と書かれています。人は皆、罪のために裁かれ罰せられなければならない存在ですが、イエス様は、私たちひとりひとりの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かって、いっさいの罰を受けてくださいました。だからこそ、イエス様は、私たちに赦しを宣言することができるのです。私たちを罪に定めることのできる唯一の方が、私たちの罪を背負って自らを罪に定め、十字架についてくださったのです。イエス様の赦しは、ご自分のいのちと引き替えにもたらされるものなのです。

 

その赦しを、イエス様は、この女性にも宣言なさいました。そして、続けてこう言われました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」それは、「元の虚しい生活に戻ることのないように注意して歩んで生きなさい」ということです。罪赦された者の生き方は、もはや、過去に縛られて生きる生き方ではありません。罪を赦してくださったイエス様とともに前に向かって歩んでいくものです。もちろんそこには困難があり、葛藤があり、罪の誘惑があり、いろいろなことが襲ってきます。でも、こんな私たちを愛し、赦してくださり、いつもともにいてくださるというイエス様の赦しの宣言が、私たちを生かしてくれるのです。

 

全米でベストセラーとなった本に、「アーミッシュの赦し」(亜紀書房)という本があります。2006年10月、ペンシルベニア州のアーミッシュの学校で、男が押し入り、女生徒5人を射殺し、さらに5人が重傷を負わせますが、犯人のチャールズ・カール・ロバーツは犯行後自殺しました。アーミッシュのコミュニティでこのような事件が起こったということに全米が大きな衝撃を受けましたが、その後に起こったことは、世間にもっと大きな衝撃をもたらしました。

何と被害者のアーミッシュの家族が、犯人の家族を赦したのです。事件が発生したその日に、アーミッシュの人々がすぐさま犯人の家族を訪ねて「あなたたちには何も悪い感情を持っていませんから」「私たちはあなたを赦します」と伝えたのです。

彼らはこう考えました。犯人の遺族(妻エイミーと子供たち)は自分たち以上に事件の犠牲者である。つまり、夫(父)を失った上に、プライバシーも暴かれて自分の家族が凶行を行なったという世間の非難の中を生きて行かなければならないということは、どんなに辛いことかと思ったのです。

事件の二日後に、被害者の遺族がいきなりレポーターからマイクを突きつけられて「犯人の家族に怒りの気持ちはありますか」と訊ねられた際に、「いいえ」とこたえました。

「もう赦しているのですか?」 「ええ、心のなかでは」 「どうしたら赦せるんですか?」 「神のお導きです」 「あの人たち(ロバーツの未亡人と子供たち)がこの土地にとどまってくれるといいんですが。友達は大勢いるし、支援もいっぱい得られる。」

殺された何人かの子の親たちは、ロバーツ家の人たちを娘の葬儀に招待しました。さらに人々を驚かせたのは、土曜日にジョージタウンメソジスト教会で行なわれたロバーツの埋葬に75人の参列者がありましたが、その半分以上がアーミッシュの人たちだったことです。

犯人のロバーツの葬儀の前日か前々日、我が子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちも何人かが墓地へ出向いて、エイミー(犯人の妻)にお悔やみを言い、抱擁しました。葬儀屋は、その感動的な瞬間をこう回想しています。

「殺されたアーミッシュの家族が墓地に来て、エイミー・ロバーツにお悔やみを言い、赦しを与えているところを見たんですが、あの瞬間は決して忘れられないですね。奇跡を見ているんじゃないかと思いましたよ。」

この「奇跡」をまぢかで見た犯人のロバーツの家族の一人は、こう言っています。 「35人から40人ぐらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ、涙を流しました。それからエイミーと子供たちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って、赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう。」(80~81pp)

 

どうしたらあんなふうになれるんでしょうか。なれません。これは奇跡なんです。アーミッシュの奇跡です。その奇跡を、主は私たちにももたらしてくださいました。私たちは神に背を向けながら自分勝手に生きているような者ですが、そんな罪深い私たちに、「私もあなたを罪に定めない」と宣言しておられるのです。人は赦されなければ生きていくことができません。この赦しの宣言を受け取りましょう。そして、この赦しの恵みに生かしていただきましょう。その恵みに溢れながら、前に向かって、イエス様とともに歩んでいく者でありたいと思います。

ルツ記3章

きょうは、ルツ記3章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

 

Ⅰ.ルツの従順(1-5)

 

「姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」

 

ルツの大きな決断によって、ナオミはルツと一緒にベツレヘムに帰って来ました。すると彼女はナオミに「畑に行かせてください」と言って、落ち穂拾いに出かけて行くと、はからずも、そこはエリメレク一族に属するボアズの畑でした。ボアズは、ルツが大きな決断をしてベツレヘムまでやって来たこと、そこで大きな犠牲を払って落ち穂拾いをしていることに同情して彼女に慰めのことばをかけ、彼女に落ち穂をたくさん与えるように取り計らってくれました。こうしてナオミとルツは、なんとか食いつなぐことができたのです。

 

そんなある日、姑のナオミはルツに言いました。からだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行くように・・と。それはボアズのところでした。そこでボアズが寝るとき、その場所を見届け、後で入って行って一緒に寝るためです。当時、麦打ち場は戸外にあったため、収穫された麦が盗まれないように、主人か雇人が寝泊まりして番をしていました。ナオミは、そのことを知っていたのです。

 

それにしてもナオミは、どうしてこのようなことを言ったのでしょうか。1節には、「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」とあります。ナオミは、ルツとボアズが結婚できるように取り計らっているのです。ナオミは、ルツが自分について来たとき、彼女が再婚する見込みはないと思っていましたが、彼女がボアズの畑に導かれたことを聞いて、しかもボアズは買戻しの権利のある親戚の一人であることがわかると、ボアズと結婚することができると思ったのです。

 

このナオミの助言に対して、ルツはどのように応答したでしょうか。彼女は、「おっしゃることは、みないたします。」とナオミの助言を受け入れ、従順に従いました。彼女のこの従順が、後に大きな祝福を生むことになります。やがて彼女はボアズと結婚することで、オベデという子どもが生まれ、そのオベデからエッサイが生まれ、エッサイからあのダビデが生まれます。ダビデは、イスラエルの王になる人物で、イエス・キリストの先祖となる人物です。このルツとボアズから、やがて全世界の救い主イエス・キリストが誕生するのです。そういう意味で、この時のルツの従順がどれほど大きなものであったかが分かります。

 

そして、このルツの従順は、後にイエスが生まれる時に天使から受胎告知を受けた時のマリヤを思い出させます。マリヤは御使いガブリエルから、「あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」(ルカ1:31)と告げられた時、まだ男の人を知らない身、処女であったにもかかわらず、「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(同1:38)と言いました。その結果、全く罪のない神の子キリストがこの世に誕生することになったのです。

 

このように従順は大きな祝福をもちらします。あなたはどうですか。神の言葉に対して従順でしょうか。そして、主に用いられる器になっているでしょうか。あなたも、みこころがこの身になりますようにと、祈りましょう。

 

Ⅱ.御翼の陰に(6-13)

 

こうして、彼女が打ち場に下って行くと、どういうことになったでしょうか。6節から13節までをご覧ください。

「こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてある麦の傍らに行って寝た。彼女はこっそりと行って、ボアズの足もとをまくり、そこに寝た。夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」

ボアズは言った。「娘さん、主があなたを祝福されるように。あなたが示した、今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています。あなたは、貧しい者でも富んだ者でも、若い男の後は追いかけませんでした。娘さん、もう恐れる必要はありません。あなたが言うことはすべてしてあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っています。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、それでよいでしょう。その人に親類の役目を果たしてもらいましょう。もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられます。さあ、朝までお休みなさい。」

 

彼女は、打ち場に下って行くと、姑が命じたことをすべて行いました。ボアズは食べたり飲んだりして、気分が良くなり、積み重ねてあった麦の傍らに行って寝ると、一人の女が自分の足もとにいるのを見てびっくり!彼は驚いて起き直り、「あなたはだれだ」と言うと、「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。」という声が聞こえました。「覆い」と訳されている言葉は、衣の「裾」のことで、直訳すると「翼」です。かつてボアズはルツに、「主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(2:12)と言いましたが、ルツは彼こそ主から与えられた避けどころであると信じて、その大きな翼の下に身を寄せようとしたのです。

 

今日でも、ユダヤ教の結婚式では、このような習慣があります。新郎はタリートと呼ばれる裾で花嫁の頭を覆います。これは新郎が花嫁を受け入れ、生涯彼女を守るという決意を示す象徴的行為です。ですからこれは、ボアズを性的に誘惑したのではなく、結婚のプロポースのしきたりでもあったのです。

 

ルツは、ボアズの買い戻しの権利に訴えました。これは2章にもありましたが、申命記25章5~10節にある律法の定めです。それは、人が子を残さずに死んだ場合は、買戻しの権利のある者がその妻をめとり、死んだ者の名を残すようにと定められたものです。ルツの夫マフロンは、子を残さないまま死にました。つまり、ルツにはボアズに買戻しを要求する権利があったのです。彼女は、自分がボアズと結婚するようなことなどとてもできないと思っていました。そんな値打ちなどないことは十分分かっていたのです。しかし、ルツは神のことばをしっかりと握っていました。神が、買い戻しの権利があると言われたのですから、自分はそれを求めることができると信じたのです。

 

それに対して、ボアズはどのように応えたでしょうか。ボアズは、「主があなたを祝福されるように」と答えています。それは、ルツが尽くした誠実さが、先の誠実さにまさっているからです。どういうことでしょうか。これは、ルツがナオミに対して尽くした誠実にまさって、今また結婚について誠実を尽くしているということです。ボアズはルツを「娘さん」と呼んでいますから、父と娘ぐらいの年が離れていたのではないかと考えられています。けれども、ルツは若い男たちの後を追いかけたりせず、神の律法を重んじて、買い戻しの権利があるボアズにプロポーズしたのです。

 

ボアズという名前には、「彼には力が宿る」という意味があります。その名のとおり、彼はは裕福な資産家であり、気力、体力ともに充実した人でした。しかし、彼が人格者として数えられた最大の理由は、彼が律法に精通していた人物であったということでしょう。それは、2章1節で「有力な」という言葉を説明したとおりです。とはいえ、彼がどんなに人格者であったとは言っても、40歳の若い女性が80歳のお爺ちゃんと結婚したいと思うでしょうか。遺産でも目当てでなければ考えられないことです。しかしルツはそんなボアズにプロポーズしました。それはそうしたボアズの人柄と立場というものを理解した上で、ルツが誠実を尽くしたいと思ったからです。

 

とはいえ、ボアズは感情で走る男性ではありませんでした。すべてが公明正大に行われるようにと計画を練ります。もし買戻しの権利のある人で優先権のある親類がいて、その人が買い戻したいというのであればそれでよし、でもその人が親類の義務を果たしたくないというのであれば、自分が彼女を買い戻すと申し出たのです。つまり、彼はすべてを主の御手にゆだねたのです。なかなかできることではありません。自分の気に入った女性がいて、その人から求婚されたのであれば、もう天にも昇るような気分なって、「O.Kそうしましょう!」と即答したいところですが、彼はそのように自分の感情に流されることはありませんでした。ここに、信仰者としてのボアズの誠実な姿が表れています。ボアズはルツに優しい言葉をかけ、朝まで彼女をそこで休ませました。

 

あなたがボアズだったらどうしますか。どのような行動を取ったでしょうか。あなたは主に信頼して待つことができますか。それとも、できずに自分から動いてしまうでしょうか。待つことは、信仰の重要な要素です。主の言葉に信頼し、忍耐して待つ者となりましょう。

 

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(14-18)

 

その結果、どうなったでしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「ルツは朝まで彼の足もとで寝て、だれかれの見分けがつかないうちに起きた。彼は「打ち場に彼女が来たことが知られてはならない」と思い、 「あなたが着ている上着を持って、それをしっかりつかんでいなさい」と言った。彼女がそれをしっかりつかむと、彼は大麦六杯を量り、それを彼女に背負わせた。それから、彼は町へ行った。彼女が姑のところに行くと、姑は尋ねた。「娘よ、どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしてくれたことをすべて姑に告げて、こう言った。「あなたの姑のところに手ぶらで帰ってはならないと言って、あの方はこの大麦六杯を下さいました。」姑は言った。「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」

 

ボアズは本当に誠実な人です。妙なうわさが立つことを恐れた彼は、夜明け前の早いうちに起きて、ルツを自分の家に送り返します。そればかりでなく彼は、大麦6杯を量り、それを彼女に背負わせたのです。

 

彼女が姑のところに着くと、早速、姑から尋ねられました。「どうでしたか」そこでルツは、ボアズがしてくれたことをすべて姑に告げました。すると姑は、「娘よ、このことがどう収まるか分かるまで待っていなさい。あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから。」(16)と助言しました。ボアズは、「朝になって」(13)、また、「あの方は、今日このことを決めてしまわなければ落ち着かないでしょうから」とあるように、ルツと彼女の土地を買い戻すために、すぐに行動を起こします。実にボアズはルツにとって愛すべき、信頼に足る人でした。

 

そして、このボアズの姿はイエス・キリストの姿を表していました。ボアズがルツを買い戻すために行動を起こしたように、イエス様は私たちを買い戻すために、十字架の上で贖いとなってくださいました。

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。」(Ⅰテモテ2:6)

キリストこそ私たちの愛すべき方、信頼に足るお方であり、私たちを買い戻すためにすぐに実行に移される方、いや、すでに実行に移してくださいました。

 

私たちは自分の努力や頑張りではどうしようもないことがあります。でも、このことを覚えておいてください。主は、あなたのために働いてくださる方であるということを。自分の成すべきことをしたなら、あとは主にすべてをゆだねましょう。待つことは決して簡単なことではありませんが、神の御業を待たなければなりません。ルツのように、座って待つという信仰がるなら、私たちの魂は平安で満たされるだけでなく、次の展開に向けて大きく動き出すことでしょう。

ヨハネの福音書7章40~53節「キリストに出会って」

ヨハネの福音書から学んでいます。きょうは、7章の最後の部分から「キリストに出会って」というタイトルでお話ししたいと思います。あなたは、キリストに出会ってどのように応答しますか、ということです。

 

Ⅰ.群衆たちの反応(40-44)

 

まず、40~44節をご覧ください。

「このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。」

 

「このことばを聞いて」とは、その前でイエスが語られたことばを聞いてということです。イエスは仮庵の祭りを祝うために、ガリラヤからエルサレムに上られました。その祭りは一週間ほど続きました。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは人々に向かって、こう叫ばれました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(37-38)  すると、群衆の中に、さまざまな反応が起こりました。ある人たちは、「この方は、確かにあの預言者だ」と言い、別の人たちは、「この方はキリストだ」と言いました。また、このように言う人たちもいました。「キリストはガリラヤから出るだろうか。キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

 

まず、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいました。「あの預言者」とは、申命記18章15節に預言されていたモーセのような預言者のことで、来るべきメシヤのことを指しています。つまり、救い主を意味していました。それはモーセがイスラエルの民をエジプトから救い出したように、罪の奴隷として捕らえられている人たちを救い出す方であるという意味です。ですから申命記の中には、「あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」とあるのです。その方こそメシヤ、救い主であられるからです。

 

また、別の人たちは「この方はキリストだ」と言いました。「キリスト」とは、「油注がれた者」という意味で、メシヤのことを指しています。ですから、「この方はキリストです」というのは、「確かにあの預言者だ」と言うのと、本質的には同じです。彼らはイエスのことばを聞いた時、イエスについてのうわさであるとか、だれか他の人から聞いたことばとかによって判断したのではなく、イエスが語られたことばそのものによってそのように受け止めたのです。

 

しかし、群衆の別の者たちはそうではありませんでした。彼らは「キリストはガリラヤから出るだろうか」と言いました。なぜなら、キリスト(メシヤ)はダビデの子孫であって、ダビデの町ベツレヘムから出ると、聖書にあるからです。彼らが言っていることはある意味で正しいです。旧約聖書のミカ書5章2節にはそのように預言されてありますから。でも彼らはイエスがダビデの町ベツレヘムで生まれたという事実を知りませんでした。

 

こうして、イエスのことで群衆たちの間に分裂が生じました。昔も今も、イエスは誰かということについて、人々の意見は分かれます。イエス・キリストの福音は、人々に一致をもたらすのではなく、このように分裂をもたらすのです。真理とは、そのような性質を持っています。いったい何が問題なのでしょうか。真理が問題なのではありません。その真理をどのように受け止めるのかという受け止め方に問題があるのです。彼らは偏見を持っていました。その偏見によって、真理がゆがめられていたために、正しく判断することができないのです。

 

ある註解者は、こうした群衆たちの中にメシヤに対する考え方の違いがあったことを指摘しています。つまり、やがて来るべきメシヤはダビデの王位を継ぐ政治的解放者として、イスラエルをローマの支配の支配から救い出し、イスラエル民族を中心とした世界を統一する王として期待していましたが、イエスはそのような王としてではなく、彼らの罪を赦し、悪魔とその支配から救い出すたましいの救い主として来られました。そうした違いがあったのです。そして、こうした誤解が真実を見る目というものを曇らせていたのです。

 

これは、私たちにもよくあることではないでしょうか。よくキリスト教についてこのように言う人たちがいます。「キリスト教は西洋の宗教じゃないか。日本には日本の宗教があるんだから、それを信じていればいいんだ。」どう思いますか?キリスト教は西洋の宗教であるという先入観です。でも私たちがキリストを信じるのは、それが西洋の宗教だからとか、日本の宗教だからということではなく、それが真理だからです。それは私たちが学校で数学や物理を学ぶのと同じで、私たちが数学や物理を学ぶのはそれが西洋から来たものだからではなく、真理そのものだからです。それに日本には日本の宗教があると言う人の多くが信じている仏教は、もともと外来の宗教であって、日本古来のものではありません。ですから、こうした誤解なり偏見なりといったものが取り去られない限り、本当のものを知ることはできないのです。

Ⅱ.役人たちと祭司長やパリサイ人たち(45-49)

 

このような偏見を持っていたのは、一般の群衆だけではありませんでした。もっとひどかったのは、祭司長やパリサイ人たちでした。45節から49節までをご覧ください。

「さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」」

 

祭司長やパリサイ人たちは、役人たちが戻って来た時、彼らが「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままを告げると、「おまえたちまで惑わされているのか」と言いました。律法を知らない愚かな者だけが、イエスのことばに惑われている・・・と。その証拠に、議員やパリサイ人たちの中で、イエスを信じた者が誰かいるか。だれもいないだろう。それだけお前たちは惑わされているのだ。そう言ったのです。つまり、彼らはこの世の権力を笠に着て、役人たちを威圧したのです。いったいこの違いはどこから来たのでしょうか。キリストに対する受け止め方が、役人たちと祭司長やパリサイ人たちとでは大きく異なっていました。一方は肯定的であり、他方は否定的です。同じキリストとその語られた言葉に対して、このように人によって違いが生じたのです。

 

役人たちは、キリストに対してあまり偏見を持っていませんでした。祭司長やパリサイ人たちは、キリストを捕らえて殺そうというたくらみをもっていたので、「なぜあの人を連れて来なかったのか。」と問い詰めましたが、役人たちはそのような意図を持ってはいなかったので、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」とありのままに答えることができたのです。イエスの言葉を聞くなら、これが自然の反応でしょう。

 

私は最近車を運転する時「聴く聖書」というCDを聞いています。新約聖書を朗読したCDです。マタイの福音書からずっと聴いていると、イエス様の言葉はすごいなぁと、改めて感じます。だれかこんなふうに話すことができる人がいるだろうか。どんなに考えても、人間には考え付かない言葉です。ですから、役人たちが、「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」と答えたのはもっともなことでしょう。彼らはほかの人がどう言うかということよりも、イエスが実際に語る言葉を聞いて、率直にそう思ったのです。この役人たちがイエスを信じたかどうかはわかりませんが、彼らは、自分の前にいる人物を間違いなく正しく見ることができる可能性を持っていました。それは、イエスに対する祭司長やパリサイ人のような偏見やたくらみがなかったからだです。それゆえに、イエスという存在を曇りのない目で見ることができたのです。

 

一方の祭司長やパリサイ人たちは、全く異なっていました。彼らはキリストをありのままに見ることができませんでした。それは彼らの中にねたみがあったからです。マルコの福音書15章10節を見ると、このように記されています。 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。」

もしねたみをもってイエスを見るならば、イエスがどんなに素晴らしい方であっても、そのように受け止めることができなくなってしまいます。いいえ、素晴らしければ素晴らしいほど、かえってその思いは膨らんでいくでしょう。まさに、こうしたねたみが、イエスと向きあった時に、彼らの目を曇らせていたのです。

 

あなたはどうでしょうか。役人たちのように全く曇りのない目で、イエスを見ているでしょうか。それとも、祭司長やパリサイたちのように、ねたみや偏見に囚われて見ているということはないでしょうか。人と人との関係、そして神と人との関係は、いつでもそのことが問われていると思います。ねたみや偏見といった曇りのない目でイエスを見る者でありたいと思います。

 

Ⅲ.ニコデモの信仰(50-53)

 

最後に、そのような中にあっても勇気をもってイエスを告白したニコデモという人の姿を見たいと思います。50節から53節までをご覧ください。

「彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」〔人々はそれぞれ家に帰って行った。〕

 

「彼らのうちで」とは、ユダヤ教の議員やパリサイ人たちのうちで、ということです。彼らは、いわばユダヤ人の社会におけるエリートたちでした。その中の一人で、以前イエスのもとに来たことのあるニコデモが、こう言いました。

「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

 

ニコデモは、ここで主イエスを弁護しています。覚えていらっしゃいますか。彼は、以前イエスのもとに夜こっそりとやって来た人物です。なぜ夜こっそりとイエスのもとにやって来たんですか?人から見られたくなかったからです。そのような立場にある自分がイエスのもとに行ったということが知られたら、大変なことになるでしょう。でも、どうしても知りたかったのです。人はどうしたら神の国を見ることができるのか、どうしたら神の国に入ることができるのか。

すると、イエスから「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」と言われました。社会的な地位や名誉、立場が邪魔をしていたのか、ニコデモは霊的なことがあまりよくわかりませんでした。それほど鋭い人ではなかったのです。それでも真理を求め、自分の悩みをごまかすことをせず、イエスのもとにやって来ました。そして、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われ、神の救いについて、真理について、もっと深く求めるようになり、信仰が芽生えました。

しかし、48節の「議員やパリサイ人たちの中で、だれかイエスを信じた者がいたか。」という言葉から考えると、この時点ではまだ公に信仰を告白するまでには至っていなかったようです。しかし、彼のイエスに対する信仰は、確実に成長していました。彼は、「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」と問題提起をしたのです。

 

「私たちの律法」とは、ユダヤ教の律法のこと、つまり、モーセ五書のことです。その律法には、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか、なのに、何も聞かないで、何も知らないのに、イエスを殺そうというのはおかしいのではないか、と声を上げたのです。これはとても勇気のいることだったと思います。

 

それに対して、祭司長やパリサイ人たちはニコデモに言いました。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」「ガリラヤの出」とは、「愚か者」という意味があります。あなたもガリラヤの出なのか、ガリラヤの出身なのか、そう言ってニコデモを軽蔑したのです。

 

信仰を告白するとか、公に表明することが得策ではないと思われる時、あなたはどのような態度を取るでしょうか。それでもニコデモのように勇気をもって、信仰の一歩を踏み出しますか。それとも、長い物に巻かれて黙り込んでしまうでしょうか。最初の一歩を踏み出すことには恐れも伴うでしょう。しかし、そうした一歩を踏み出すと、次の一歩がより易しくなります。この一歩が彼の信仰を大きく飛躍させました。彼はやがてイエスが十字架に付けられて、私たちの罪の贖いのために死なれた時、イエスの12弟子のほとんどが逃げて行ったにもかかわらず、アリマタヤのヨセフと一緒にイエスの遺体の下げ渡しを願い出ました。ヨハネの福音書19章38~41節にはこうあります。

「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」

彼は、目覚ましい信仰生活ではなかったかもしれませんが、最終的にそこに辿り着いたのです。

 

このニコデモの姿に、私たちは自分の信仰を見ます。六日間、神に背を向けた社会で過ごし、時には周囲のさまざまな圧迫に耐えながら、かろうじて信仰を保っているような者ですが、そして、そんな姿に情けない思いを抱きながら、毎週の礼拝に集ってくることが少なくありません。けれども、そんな私たちもニコデモのような信仰に辿り着くことができるのです。それは、主が私たちの信仰の戦いと苦悩をご存知であられ、受け入れておられるからです。この箇所を見る限り、聖書はニコデモの信仰の不徹底さを責めることを一切せず、むしろ受け入れていることがわかります。それは主がそこに信仰の芽をご覧になっておられたからです。私たちも今はか細い信仰かもしれませんが、勇気をもってその一歩を踏み出すとき、やがて大きな信仰の飛躍を遂げていくことになるのです。

 

アメリカの名門プリンストン大学の大学院に入学したコートニー・エリスというクリスチャンの証です。

彼は教会の中や友人たちの間では、自分がクリスチャンであることを大胆に証ししていましたが、大学では、沈黙を保ちました。なぜなら、大学院では、院生たちがイエスの御名をあざけるのを何度も聞いていたので、自分の評判が落ちるのではないかと恐れていたからです。大学院生のほとんどが、イエスについて無知であったり、中には、今まで一度もクリスチャンに出会ったことがないという人たちもいて、クリスチャンは教養のない、批判的な人たちだと思っていたのです。

時が経つにつれて、彼は罪責感を感じるようになりました。こんなに基本的な点で主に忠実でないとしたら、他の点でどのように神に仕えることができるだろうかと思うと、自分の信仰にはがゆさを感じていたのです。神は彼に、証の機会を与えてくれても、彼は恐れのために行動に移すことができなかったのです。

ある日、ひとりの院生がクラスの中で、「あなたはクリスチャンか」と尋ねてきました。彼は、どのように答えたらいいか決めなければなりませんでした。

そして、深呼吸をして、神の助けによって、震える声で言いました。

「そうだ」

質問をした院生は不思議そうな顔をしながら彼の顔を見つめて言いました。

「驚いたわ。クリスチャンというと、サーカスに出てくるような変人ばかりかと思っていたのに、あなたの場合そうじゃないわね。頭もいいし。」

それは彼にとって小さなステップでありましたが、大きな進歩でもありました。彼はこう思いました。神は自分たちに、自分の評価はどうなるかを気にするなと語っておられると。真理に立つ者は、必ず勝利できるからです。

 

最後に53 節をご覧ください。「人々はそれぞれ家に帰って行った。」

キリストに出会った人々は、それぞれ家に帰ってどうしたのでしょうか。聖書には何も記されていませんが、私なりに想像そうぞうするに、たとえば、役人は家に帰りその日にあったことを奥さんや家族の誰かに話したかもしれません。しかし、次の日からは忙しさや雑事に追われ、キリストとの出会いを忘れてしまったかもしれませんね。

祭司長やパリサイ人はどうでしょう。彼らは家に帰り、キリストに対するねたみがエスカレートしていったかもしれません。今のようにラインといったものはありませんでしたが仲間と連絡を取り合って、さらにキリストを追い詰めていく策を相談したかもしれません。

では、ニコデモはどうだったでしょうか。彼はひとり思い悩んでいたかもしれません。どうしたら良いだろうか・・と。しかし、行きつ戻りつしながらも、彼の心はキリストへと引き寄せられていったのではないでしょうか

 

あなたはどうでしょうか。それぞれがいろいろな反応を示しました。あなたはどのように応答しますか。これから私たちもそれぞれ自分の家に帰って行きます。帰って行ってどうなるでしょうか。キリストと出会いその言葉に感動しても、家に帰って瞬間に冷めていくでしょうか。あるいは、いくらキリストと出会っても自分の思い通りにならないということで嫌になり、キリストと縁を切ろうとするでしょうか。それとも、その出会いを大切にして、キリストへの愛がますます深めていくのでしょうか。

 

このニコデモのように、勇気をもって信仰の一歩を踏み出しましょう。それは小さな一歩かもしれませんが、やがて大きな結果へとつながっていくのです。