Ⅱペテロ2章10~22節 「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」

きょうは、第二ペテロ2章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」です。前回の箇所でペテロは、偽教師に気をつけなさいと警告しました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込みます。そして、多くの者が彼らの好色にならい、真理の道から離れるようにします。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもって多くの者を食い物にするのです。だから偽預言者には気をつけなければなりません。今日はその続きです。

 

2つの絵を比べて違いを探す間違いゲームがあります。ぱっと見た感じは同じでも、よく見ると色とか、向きとか、違いを発見することができます。同じように、偽教師たちはぱっと見た感じでは同じようでも、よく見ると違いがあることが分かります。何が違うのでしょうか。今日のところでペテロは、その違いを明らかにしています。

 

Ⅰ.理性のない動物と同じ(10-16)

 

まず10節から16節までのところに注目してください。10節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とあります。

 

ペテロはここで、そうした偽教師たちの特徴として、彼らは大胆不敵で、尊大な者たちだと言っています。大胆不敵とは、敵を敵とも思わないということ、また、尊大な者とは、高ぶって偉そうにすること、傲慢な態度をとる人たちのことです。彼らは、大胆不敵で尊大な者たちです。また、栄誉ある人たちをそしって、恐れることがありません。この「栄誉ある人たち」とは、りっぱな人たちのことを指して言われているかのようですが、11節との関係で読むと、悪霊たちのことを指して言われていることがわかります。というのは、11節には「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしって訴えることはしません。」とあるからです。この「彼ら」とはだれのことかというと、悪霊のことです。

ユダの手紙1:9をご覧ください。ここには、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました。」とあります。

御使いのかしらミカエルは、人間よりも、悪魔よりもはるかに力のある存在なのに、そんな御使いでさえ悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をそしるようなことを言わず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」といっただけでした。それなのに、この偽教師たちは、天使のかしらミカエルさえもさばくことをしなかった悪魔たちをそしって、恐れることがなかったのです。実に大胆不敵です。尊大な者たちです。

 

12節と13節を見ると、ここには、彼らは理性のない動物と同じだと言われています。皆さん、人間と動物の違う点は何でしょうか。人間と動物の大きな違いは、人間には理性がありますが動物にはないという点です。動物は本能だけで生きています。ただ食べるためだけに生きているのです。私はよく、「あなたは何のために生きていますか」と尋ねることがありますが、意外と多くの人が、「はい、私は食うために生きています」と答えます。食うためだけに生きているとしたら、動物と同じなのです。人間はただ食うために生きているのではなく、これはどういうことなのかと考え、してもいいこと、してはいけないことをわきまえながら生きています。理性があるからです。その理性がなくなったら動物とあまり変わりません。私はよく家内から、「あなたは豚のように食べる」と言われます。何ですか、豚のように食べるとは・・・?とにかく美味しいものをみたら、それしか考えられないということでしょう。ろくに話もしないで食べることだけに集中します。それが豚のように見えるのでしょう。「もう少しゆっくり食べて」と言うのです。食べることしか考えられなければ、それは理性のない動物と同じです。まさにこの偽教師たちは、理性のない動物のようでした。その結果、動物が滅ぼされるように滅ぼされてしまうことになるのです。この滅びとは永遠の滅びのことです。

 

いったいなぜそのような滅びを身に招くようなことをしていたのでしょうか。その理由が13節にあります。

「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちからの飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」

 

「不義」とは罪のこと、悪事のことです。彼らは自分のやった悪事の報いとして大きな損害を受けるのです。彼らはどんな悪事を働いていたのでしょうか?ここには昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えているとあります。別にお酒を飲むことが悪いのではありません。ここで問題にしているのは、昼のうちから飲み騒いでいたことです。昼のうちから飲み騒ぐというのは、それしか考えていないということだからです。普通お酒は夜飲むものでしょう。それなのに昼間から飲んでいました。その結果理性を失い、自分をコントロールすることができなくなっていたのです。エペソ5:18には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあります。なぜ酒によってはいけないのでしょうか。そこには放蕩があるからです。酒を飲んで酔っ払い、自分の一生を棒に振ってしまったという話はあとを絶ちません。酒に飲まれるこで、そこにどれほどの弊害が生まれてくるかわかりません。そんなお酒を朝から飲んで騒いでいるとしたら、百害あって一利なしです。

 

しかし、彼らはただ昼間から飲み騒いでいただけではありませでした。何とそのお酒を教会にまで持ち込んで飲み騒いでいました。ここに、「あなたがたといっしょに宴会に連なるとき」とありますが、これは教会の愛餐会や食事会のことを指しています。というのは、この「あなたがた」とは、小アジア地方に散らされていたクリスチャンたちのこと、教会のことを指しているからです。教会の食事会までお酒を持ち込んで騒いでいるなんて考えられません。お酒を買いに教会の前のコンビニに来て救われたという方はおられますが、お酒をもって教会に来たという人は今まで見たことがありません。彼らにとってどこで飲むかも関係ありませんでした。何とも大胆不敵、神を恐れない、しみや傷のようなものたちでした。

 

それだけではありません。14節をご覧ください。ここには、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」とあります。

彼らの罪の大きさは、自分自身がそのような悪を行っていたというだけでなく、心の定まらない者たちを誘惑し、滅びをもたらしていた点です。心の定まらない人というのは信仰が不安定な人たちのことです。いつもあっちに行ったり、こっちに行ったりしてフラフラしています。神の言葉ではなく人の言葉に左右され、いやしや奇跡といった現象に振り回されているのです。そういう人がターゲットにされます。彼らの心は欲に目がありません。彼らはのろいの子なのです。

 

「のろいの子」とはかなり厳しいことばです。いったいどうしてペテロはここまで言い切っているのでしょうか。それは、彼らがそのような不義を行って自分たちに滅びを招いていただけでなく、純粋な信仰を持っていた他の人々をも誘惑して滅びに導いていたからです。ペテロがこれほどまで強い言葉で非難しているのはそのためです。子どもが危険に遭っているのを見て黙っている親はいません。同じようにペテロは霊的な親として、こうした偽預言者によって滅びの道に巻き込まれないように彼らを責め、その違いを明らかにしているのです。

 

15節をご覧ください。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。正しい道とは真理の道、イエス・キリストを信じる信仰の道です。その道を捨ててさまよっていました。ちょうど不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。皆さんは、バラムのことをご存知でしょうか。バラムについては、民数記22章から25章までのところに詳しく記されてありますので、後で読んでいただきたいと思いますが、簡単に言うと、彼はモアブの王バラクにイスラエルを呪うようにと雇われたのに祝福してしまった預言者です。これだけ聞いたら、「なんだ、いい預言者じゃないか」と思われるかもしれませんが、ここに不義の報酬を愛したとあるように、陰では不義の報酬を愛するような貪欲な者でした。

彼がイスラエルを祝福したのは、神によって自分の罪がとがめられたからです。つまり、ものをいうことのないろばが、人間の声でものを言ったことで、その狂った振る舞いがはばまれたからです。それで彼はイスラエルをのろうことをせず、逆に祝福したのです。

 

ここまでは良かったのです。しかし、その後が悪かった。彼は不義の報酬を愛しました。自分の国に帰って行くふりをして、実はあのバラク王のところに戻って来てこう言いました。

「私はイスラエルを呪うことはできないけれども、神が彼らを呪う方法を知っています。もし聞きたいなら、あの報酬を私にください。そうすれば教えてあげますよ。」

それでバラクがお金を差し出すと、バラムは教えました。「イスラエルの男たちのところに神を信じない異邦人の女たちを送り込み、彼らを誘惑するんですよ。そうすればあの女たちが拝んでいる神を拝むようになるでしょう。そうすれば、神がお怒りになって、彼らを呪うことになります。」

それで、バラクは、シティムにとどまっていたイスラエル人のところにモアブの女たちを送ると、案の定、バラムの言ったとおり、イスラエル人はモアブの女たちとみだらなことをして、彼女たちが拝んでいたバアル・ペオルを拝むようになりました。それで神は怒られ、その日、二万四千人が神罰で死んだのです。

 

つまり、バラムは表面では真面目な預言者を装いながら、陰では不義の報酬を愛したのです。彼は正しい道を捨ててさまよいました。お金のためにイスラエルをそそのかし、堕落させて、神の道から遠ざけたのです。それと同じように、ここに出てくる偽教師たちも、バラムのやり方に従い正しい道を捨ててさまよっていました。彼らはお金のために自分自身がさまよっただけでなく、人々を惑わせ、そそのかして、神の愛から引き離そうとしていたのです。

 

なぜ偽教師に注意しなければならないのでしょうか。それは彼らだけでなく、純粋な神の民をも惑わし、彼らを滅びに導くからです。だから偽教師たちには気を付けなければなりません。私たちはこの違いを見て、彼らのだましごとにかからないように十分気をつけなければなりません。

 

Ⅱ.罪の奴隷(17-19)

 

次に17節から19節までをご覧ください。いったいなぜ彼らはそのような不義を行うのでしょうか。その理由がここに記されてあります。それはもともと罪の奴隷だからです。

「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

 

「この人たち」とは、偽教師たちのことです。彼らは、水のない泉であり、突風に吹き払われる霧です。どういうことですか?水のない泉とか、突風に吹き払われる霧とは。水は私たちのいのちに欠かせないものです。泉があるのにその水がないというのは、ただの見せかけにすぎないということです。また彼らは、突風に吹き払われる霧です。突風が吹くとすぐに霧が晴れてしまいます。つまり、そこには何の実態もないということです。彼らはあるかのように見せかけるだけで、何も与えることができません。一時的に人々を興奮させることはできるかもしれませんが、渇いた心を満たすことは決してできないのです。私たちの渇いた心を満たすことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス様はこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

イエス・キリストは、あなたに生ける水を与えることができます。だれでも、イエス様のもとに行くなら、その人の心の奥底から流れる生ける水が流れ出るようになります。しかし、彼らにはできません。彼らは水のない泉、突風に吹き払われる霧にすぎないからです。

 

18節には、「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、」とあります。

「大言壮語」とは、自分の力以上のことを言って人々をそそのかすことです。大きなことを言います。夢を語って期待を持たせ、誤った生き方をするだけでなく、そこからのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑するのです。それはちょうど肉欲と好色というえさをひっかけて魚を釣るようなものです。「あなたのやりたいことをしなさい。神が祝福してくださいます。」

何とも聞こえがいいですね。あなたのやりたいようにしなさい。とても魅力的な言葉ですが、もしこの言葉に従って生きたら、破滅の人生を送ることになります。というのは、罪からくる報酬は死だからです。私たちが本当に人間らしく生きることができるのは、私たちの人生を、私たちを造られた神によってしっかりと握りしめられることによってです。ちょうど人の手にしっかりと握られた凧が空高く飛ぶように、神の手にしっかり握られてこそ、本当に自由に飛ぶことができるのです。その糸が切れてしまったら、どこへ飛んで行ってしまうかわかりません。

 

それなのに彼らは、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷となっていました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはその征服者、肉欲と好色の奴隷、罪の奴隷だったからです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。しかし、神に征服されれば、神の奴隷となり、主イエスにある永遠のいのちに至ります。

 

このことをパウロはローマ6:20~23でこのように言っています。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行きつく所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行きつく所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

あなたはどちらの奴隷ですか。罪の奴隷ですか、それとも神の奴隷ですか。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。罪に征服されるなら罪の奴隷に、神に征服されるなら神の奴隷になります。そして、その行き着く所は全く違います。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。どうか彼らの甘い罠にひっかからないようにしてください。彼らはあなたの肉欲と好色を利用して、自由を約束するかもしれませんが、その行き着くところは永遠の滅びなのです。イエス・キリストによって罪から解放された者として、いつも神に支配されて歩みましょう。

 

Ⅲ.終わりの状態(20-22)

 

最後に20節から22節までを見て終わりたいと思います。ここまでは偽教師の終わりの状態が描かれています。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」

 

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」とは、イエス様を信じたことによって罪から救われたということです。イエス様を信じて罪から救われた後で、再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなる、と言われています。ここは非常に難解な箇所です。というのは、一度救われた人でもその救いを失うことがあるかのように書かれてあるからです。しかも、そのような人たちの状態は、初めの状態よりももっと悪いものになるというのです。イエス様を信じて救われた人が、その救いを失うということがあるのでしょうか?ありません。なぜなら、イエス様はヨハネ10章28節で次のように約束しておられるからです。

「私は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはありません。」

また、使徒ヨハネはこう言っています。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)

 

ですから、イエス・キリストを信じて救われた人がその救いを失うことは絶対にありません。悪魔の誘惑によって罪の影響を受けることはありますが、その救いを失うことはないのです。では、ここに「イエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて制服されるなら」とはどういうことでしょうか。

 

これは、イエス・キリストを信じているようであっても、ほんとうに信じていなければ、という意味です。ほんとうに信じたのであれば、だれも主イエスの手から私たちを奪い去ることはできません。でもそうでなければ、このようなことが起こってくるのです。ではほんとうに信じるとはどういうことでしょうか?みんなイエス様を信じているんじゃないですか。確かに口では信じるといいました。でも心から信じるというのは口で告白する以上のことです。つまり、本当に信じるというのは、イエス様を自分の人生の主とすることです。イエス様と人格的な関係を持っているかどうかということなのです。イエス様を信じますといくら口で告白しても、そのイエス様に従うのではなければ、あるいは、従いたいと願っていなければ、それはイエス様を主とするということではないのです。その人にとって信じているのは自分自身であって、イエス様ではないのです。しかし、イエス様を信じるというのは、自分ではなくイエス様に従うことです。神を愛するとは、神の命令を守ることだからです。ですから、外側では信じているように見えても、内側はその限りではないというケースが起こってくるのです。イエス様を主としていなければ、結局のところ自分の欲に従うことになり、信仰から離れてしまうことになりかねません。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなるのです。そのような人は最初から救われていなかったのです。救われていなければ神を愛することはできません。神を愛する人は神の命令を守ります。完全に守れる人などいませんが、少なくともそうしたいという願いはあるはずです。完全な人はいませんが、失敗しても悔い改めて、主に立ち返り、もう一度主に従いたいと思うようになるのです。

 

その良い例がペテロです。彼はイエス様を裏切るという大罪を犯しました。鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと否定したのです。でも、彼は悔い改めました。自分の弱さを知り、自分の力ではどうすることもではないことを悟り、完全に砕かれて、主の御前に悔い改めたのです。そして、彼は立ち直って、最後まで主に従いました。彼はイエス様を否定し、失敗もおかしましたが、でも、イエス様に従いたいと願っていたのです。イエス様を信じていたからです。

 

一方、イスカリオテのユダは違います。彼もペテロのようにイエス様を裏切りました。銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまいました。しかし、悔い改めることをしなかったので、彼は結局、首をつって死んでしまいました。なぜ悔い改めなかったのでしょうか。彼はイエス様を信じていなかったからです。

 

ペテロもユダも同じように罪を犯しました。立ち直れないような罪を犯しましたが、ペテロは赦され、ユダは赦されませんでした。その違いはイエス様を本当に信じていたかどうかという点です。本当に信じている人は悔い改めて、イエス様に立ち返ります。どんなに罪を犯しても主に立ち返り、悔い改めて、もう一度やり直します。それは外側から見た目ではわかりません。また、今の状態で判断することもできません。それはただイエス様だけが知っておられることです。ただ一つだけはっきりしていることは、本当に信じている人はどんなことがあっても主から離れることなく、主の命令に従うということです。しかし、そうでない人は、義の道を知っていてもそれに従いません。なぜなら、元々汚れているからです。そのような人は、22節にあるように、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざのとおりです。

 

「犬は自分の吐いた物に戻る」とは、箴言26:11からの引用です。これは自分の愚かさを繰り返すという意味です。また、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とは一般に知られていたことわざでした。当時、犬と豚は汚れた動物として知られていました。犬は吐いた物や汚い物を食べました。また、豚はどんなにきれいに身体を洗っても、またすぐにどろの中にころがってしまいます。偽預言者は犬であり、豚です。彼らは汚れたことを繰り返していました。なぜでしょうか?それは、彼らの内側が汚れていたからです。元々汚れていたので汚れたことを繰り返すのです。ですからどんなに外側をきれいにしても、すぐにまたどろの中に戻ってしまいます。彼らはのろいの子であり、滅びの子です。イエス様を信じていなかったからです。イエス様信じて罪赦された人には、神の子どもとしての特権が与えられます。神の子であれば、神の子にふさわしくなっていきます。以前はどろの中にいましたが、そのどろが洗われて少しずつ聖くされていくのです。

 

あの放蕩息子はそうです。彼は泥沼の中にいました。放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしまい、食べるにも困り果て、豚の食べるいなごまめで腹を満たしたいと思うほどでした。しかし、はっと我に返って時、彼は父のことを思い出しました。そして、父の元に帰る決心しました。すると、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って、走り寄り、彼を抱き、口づけしました。そして、一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてこう言いました。「食べて祝おうじゃないか。この息子は死んでいたのが生き返ったのだから。」死んでいたのが生き返りました。以前は泥の中で死んでいたのに、その泥が洗われて新しくなりました。神の子として新しく生まれ変わったのです。

 

しかし、この偽教師たちは、犬や豚のようでした。いつも自分が吐いた物に戻りました。どんなに外側を洗ってもすぐにまた泥の中にころがりました。なぜでしょうか。内側が聖められていなかったからです。彼らは最初からそうでした。そして歩いことに、純粋にイエス様を信じて歩んでいる人たちさえも惑わし、その中に引きずり込もうとしていたのです。

 

だからペテロは、そのような偽教師たちには気をつけていなさいと、厳しく警告したのです。世の終わりが近くなると、そうした偽教師がはびこるようになります。今はそういう時代です。いかにも正しい教えであるかのように装いながらも、真理にそむくようなことを教えて、人々を滅びに導くようなことをしています。私たちもそうした異端に惑わされることがないように注意しましょう。彼らはひそかに滅びをもたらします。まさかという方法で持ち込むのです。あの有名な牧師が言っているのだから間違いがないとか、あの本に書かれていたから間違いないとか、全く吟味しないで信じてしまうのです。危ないです。私たちが惑わされためには神の御言葉にしっかり立たなければなりません。神の御言葉は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものだからです。それはイエス様が再び来られるまで、私たちの足元を照らすともしびです。これに目を留めているとよいのです。絶えず神の言葉に目を留めて、ウォーリーを探せではありませんが、聖書の教えと違う偽教師たちの教えを見分け、神の真理に堅く立ち続ける者でありたいと思います。

ヨシュア記20章

きょうは、ヨシュア記20章から「逃れの町」について学びたいと思います。まず、20章全体をお読みしたいと思います。

「20:1 【主】はヨシュアに告げられた。
20:2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
20:3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
20:4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
20:5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
20:6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」

イスラエルのそれぞれの部族にくじによる相続地の割り当てを行うと、主はヨシュアに逃れの町を定めるように言われました。逃れの町とは、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むことができるためのもので、その町々は、彼らが血の復讐をする者からのがれる場所となりました。この逃れの町については、民数記35章において既にモーセを通してイスラエルの民に語られていました。(民数記35:10-11)  ヨシュアはカナンの地に入った後で各部族に相続地を分割すると、それを実行したのです。

3節には、「意図せずに誤って人を殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。」とあります。この逃れの町は、あやまって、知らずに人を殺した者が、血の復讐をする者から逃れるために設けられたものです。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:12)とありますが、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合はその限りではありませんでした(出エジプト21:13)。逃れの町にのがれることができたのです。

では、どうやって故意による殺人と誤って人を殺した場合、すなわち不慮の事故によるものなのかを判別することができるのでしょうか。民数記35章22~29節には、そのことが詳しく述べられています。
「35:22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
35:23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、35:24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
35:26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、
35:27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。
35:28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
35:29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。」

つまり、動機と手段によって判断されるということです。すなわち、相手に対して「憎しみ」「悪意」「敵意」といった思いがなかったかどうか、そのためにどのような道具が用いられたのか、人を殺せるほどの道具であったかどうかということです。がなかったかどうかです。それが、殺してしまったのであれば、それは彼が意図して行ったことではなく誤って殺してしまったということであって、この逃れの町に逃れることができました。

4節には、「人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」とあります。逃げてきた人の切羽詰った様子が窺えます。一刻も早く町の中に入らなければ、殺されてしまうかもしれなかったからです。ユダヤ教の言い伝えによると、この逃れの町までの道は整備がしっかりと施されており、「こちらが逃れの町」という標識があったほどです。それほど早く逃げ込むことができるように保護されていました。彼らがこれらの町に逃げ込む場合、その者は、その町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べると、長老たちは、自分たちの町に彼らを受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼とともに住みました。もしそれが嘘だったら、たとえのがれの町に入ったとしても、殺されなければなりませんでした。

しかし、それが本当に誤って起きたものであれば、たとい、血の復讐をするものがその者を追ってきても、殺人者をその手に渡してはなりませんでした。その者は会衆の前に立って正しいさばきを受けるまで、その町に住まなければならなかったのです。つまり、公正な裁判を受けるまでしっかりと保護されなければならなかったのです。あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければなりませんでした。それから後に彼は、自分の町、自分の家に帰って行くことができました。すなわち自由の身になることができたということです。なぜ、大祭司が死ぬまでその町に住まなければならなかったのでしょうか。

それは、この大祭司がイエス・キリストのことを指し示していたからです。へブル4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とありますが、この大祭司が死ぬまでとは、イエス・キリストが十字架で死ぬまでのことを示していました。大祭司が死ねば、逃れの町に逃れた殺人者は自由になり、自分の家に帰ることかできたように、真の大祭司であられるイエス・キリストが十字架で死ぬなら、すべての人の罪が赦され、罪から解放されて自由になることができました。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。

多くの人は問題を抱えると、環境を変え、場所を変えれば、やり直すことができると考えますが、それは無駄なことです。あるいは、どこか遠くの別の場所に行けばもう一度人生をやり直すことができると考えますが、そのようなことをしても状況を変えることはできません。なぜなら、これは霊的なことだからです。主イエスはニコデモとの会話の中で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。どうしたら人は神の国を見ることができるのでしょうか。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。これがすべての解決です。神の国を見ることがでるなら、神が共にいてくださるなら、私たちのすべての問題は解決します。そのためには罪が赦されなければなりません。罪が赦されて新しく生まれなければならないのです。私たちのその罪を贖ってくれる唯一の道が、キリストの十字架の死であり、この他にはありません。それゆえ、私たちはこの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければなりません。そして、その御前にへりくだって悔い改めなければならないのです。そうすれば、私たちは主イエスの贖いのゆえにすべての罪が聖められ、悪魔の力から解放されて、全く新しく生まれ変わるのです。

この十字架の贖いこそ、私たちが罪から解放され、失敗と挫折の中からもう一度立ち上がる道であり、その力の源なのです。多くの人はそのことを知らないので、環境を変え場所を変えればやり直すことができると考えますが、いくらそのようにしてもこの罪の縄目から解放されることはできません。そんなことをしてもこの罪から抜け出すことはできないのです。私たちを罪から贖い、新しく生まれるためには、主イエスの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければならないのです。そうです、この大祭司こそ、主イエス・キリストそのものを指示していたのです。
詩篇46篇1節には、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」とあります。本来であれば、罪のために私たちが殺されなければいけないのに、主が避け所となって救ってくださるのです。これが、逃れ町が示していたことだったのです。

私たちは、ここに逃れれば絶対に安心だというところがあります。それがイエス・キリストです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」イエス・キリストにあるものは罪に定められることはありません。イエス・キリストにあるものは、ちょうど逃れの町の中にいる者が復讐者によって殺されることのないように、決して罪に定められることはありません。もしあなたが過去に犯した罪があるなら、あるいは、現在も肉の弱さによって犯している罪があるなら、このイエス・キリスト、逃れの町に逃れてください。そこで悔い改めて、キリストにある新しい人生を始めてください。あなたにもこの逃れの町が用意されてあるのです。

次に7節から9節までをご覧ください。

「20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」

それで彼らは、ヨルダン川の向こう側と、こちら側にそれぞれ三つの町をのがれの町に当てました。それはかつてモーセが命じたように距離を測ってすべての相続地の中で均等に置かれました。それは何のためかというと、9節にあるように、あやまって人を殺したものが、そこに逃げ込むためです。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をするものの手によって死ぬことがないように、すべての人にとってできるだけ近いところにのがれの町を置きました。つまり、神は相続地の中でだれもがすぐに逃げ込むことができるようにと配慮してくださったのです。神はそれほどまでにあやまって罪を犯した者を救うことを願っておられるのです。神は私たちをさばくことを良しとし常にその眼をさばきに向けておられるのではありません。神は私たちを愛し、赦すことに向けておられことがわかります。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかを神は知っておられ、深く理解しておられるからです。ですから、私たちはその度に悩み、落ち込むものですが、その度にこの逃れの町に逃げ込み、神の赦しと力をいただかなければなりません。

へブル人への手紙4章15~16節には、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵をいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは、私たち人間の弱さに同情できない方ではありません。私たちを思いやることができます。なぜなら、ご自身があらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解してくださいます。だから安心して、喜んで恵みの御座に近づかなければなりません。
時として私たちはこのような試練に会うとき、「神がおられるならどうしてこんな苦しみに会わせるのだ」と、神を呪い、信仰から離れてしまうことさえありますが、そんな私たちのためにこそ逃れ町が用意されておられるということを知り、そこに身を寄せなければなりません。そして、私たちを完全に理解してくださる主のあわれみと恵をいただいて、立ち上がらせていただきたいと思うのです。聖書を見ると、そのようにして人生をやり直した多くの聖徒たちのことが記されてあります。

たとえば、パウロはどうでしょう。彼は非の打ちどころがないほどのパリサイ人で、正義感に燃え、それ故クリスチャンを迫害し、牢に投げ込み、殺害していきました。しかしダマスコに向かう途中で、復活のキリストと出会い、数年に及ぶアラビヤでの悔い改めの期間を経て、やがて世界的なキリスト教の指導者として用いられていきました。パウロはキリストによって新しい人生をやり直した人物の典型です。パウロはこのように言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ペテロもそうです。彼もまた、主イエスを三度も否むという大きな過ちを犯しましたが、主の前に悔い改めて立ち直りました。そして、イエス様のあの言葉にあるように、イエス様のとりなしによって立ち直った彼は、兄弟たちを力づけてやる者へとなりました。パウロのように、ペテロのように、イエス・キリストは人々が立ち直り、やりなおすことを願っておられるのです。

旧約聖書における最高の指導者の一人であるモーセもそうです。彼は民族愛に燃え、ある日エジプト人を撃ち殺し、それがばれるのを恐れてミデヤンの地へのがれました。しかし、40年の荒野での空白期間を経て、神はモーセをイスラエルの解放者として召されました。モーセもまた、失敗してもやり直した人物です。

またイスラエルの最大の王であったダビデは、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その罪をもみ消そうと夫エリヤを戦場の最前線に送り込ませて殺しました。彼は道徳的に失敗し、家庭的にも失敗し、子供たちの反逆にも遭いましたが、その度に悔い改めて神の恵みにすがりました。その結果彼はその罪を許していただき、再びやりなおすことができたのです。

このように聖書は繰り返し人生をやり直した人物にスポットを当てています。神が用いられる人とは失敗やあやまちを犯さない人ではなく、そうした失敗やあやまちを犯しても悔い改めて神のあわれみにすがる人のことであり、そのようにして人生をやりなおした人なのです。その失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いていかれたのです。

まとめてみると、この逃れの町が示していることはこれです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
これは、主イエスの宣教の第一声です。それは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。これは、イエスを信じて、もう一度やり直しなさい、ということです。逃れの町であられるイエスの下に逃れるなら、あなたももう一度やり直すことができる。これが福音です。神の福音は私たちを立ち直らせることができます。あなたも悔い改めて、主イエスを信じてください。主イエスにあって、あなたも必ずやりなおすことができるのです。

創世記2章

きょうは、創世記2章から学びます。

 

Ⅰ.神の安息(1-7)

 

まず1~7節をご覧ください。

「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

 

神は、六日間で天地創造の御業を完成されると、七日目になさっていたすべてのわざを休まれました。これは、神が人間のように疲れたからということではありません。イザヤ書40:28には、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。神は疲れることなく、たゆむことがない方です。ですから、この休まれたというのは、いわゆる人間の休息とは違います。神が休まれたというのは、その創造の御業を完成されたので、その活動を停止されたということです。その一切のわざを完成されたので、それをご覧になられて満足されたのです。ですから、神が休まれたというのは、ご自身の天地創造の御業に対して満足されたということなのです。

 

それが3節の「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」ということばからもわかります。「聖」であるとは、「他のものから分離して、神のものになる」という意味です。たとえば、聖書は聖なる書物です。それは、他の書物とは区別された、神の書物です。したがって、「この日を聖であるとされた。」というのは、他の日と区別されて神の日とされたということなのです。つまり、天地創造の目的は人間を創造されたことで終わらず、その創造された人間が神を喜び、神を礼拝することによって、神の栄光を現すことであったのです。

 

次に4節から7節までをご覧ください。これは天と地が創造されたときの経緯です。特に、1章27節には「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とありますが、その詳しい叙述がなされているのです。いったい人はどのように造られたのでしょうか。7節には、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。

神である主はまず土地のちりで人を形造りました。ですから、人間の肉体にある17の主成分のほとんどは、土にある主成分と同じなのです。それは、私たちの肉体が土のちりからできているからです。皆さんは土のちりです。このことを思うと、とかく傲慢になりがちな私たちにへりくだることを教えられ、高ぶりに陥らないようにとの教訓が示されているように感じます。この「形造る」ということばは、原語で「アサー」という言葉が使われています。夜ではなく「アサー」です。創世記1章の「創造された」という言葉は「バラ―」という言葉で、使い分けされています。この「アサー」という言葉は、陶器師が物を造る時に用いられる言葉です。この言葉は、エレミヤ書18章6節の言葉を連想させます。「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」つまり、私たちは造り主なる神の手の中に自由に練り上げられる存在であるということです。このことからも、造り主なる神の前にへりくだって歩むことの大切さを教えられます。

 

しかし、人は土のちりで形造られただけでなく、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きものとなりました。この「息」は、原語のヘブル語では「ルアッハ」という言葉で、「霊」と訳されています。つまり、神は霊ですから、人間にも霊を与えられたのです。1章27節の「神は人をご自身のかたちとして創造された」の「ご自身のかたち」とは、この「霊」のことを示しています。人間には、動物と違って、この霊が与えられています。神に対する思いや永遠を慕う思いが与えられているのです。伝道者の書3章11節には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とあります。自分はどこから来たのか、そしてどこにいるのか、自分が死んでからどこへ行くのか、そうした思いが私たちに与えられています。それは、人間が霊的な存在だからです。だから私たちは、神を礼拝し、神に祈ることによって、真の平安と満足を得ることができるのです。

 

Ⅱ.エデンの園(8-17)

 

次に8節から18節までをご覧ください。

「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

神である主は東の方エデンに園を設け、そこに人を置かれました。そこには、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木が生えていました。神は、人間が食べるために必要なものをすべて用意しておられたのです。人は汗を流し、苦労して働かずして、食物を得ることができました。

また、この園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がありました。いのちの木とはいのちを与える気のことです。それは神ご自身の存在を現わしていました。なぜなら、命を与えることができるのは神だからです。ですから、このエデンの園は、神の楽園(パラダイス)だったのです。神の楽園、神の国の本質は何かというと、そこに神がおられるところです。エデンの園の中央には、神が住んでおられました。その神と交わり、神とともに生きることこそ、神によって造られた人間にとっての最高の喜びだったのです。

 

もう一つ、園の中央には、善悪の知識の木が生えていました。善悪の知識の木とは何でしょうか。16-17節には、「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。

 

これは、取って食べてはならないと神が命じられた木です。それを取って食べる時、あなたは必ず死にます。これは人間には限界があることを示しています。人間は何でもできるのではありません。何をしてもいいわけではないのです。することが許されていることと許されていないことがあります。越えてはならない一線があるのです。そして、人間に許されていないことは、自分で善悪を判断することです。なぜなら、善悪を判断することは神がなさることだからです。その神の指示を仰がないで自分で判断するということは自分が神のようになろうとすることであり、人には許されていないことだったのです。ですから、それを食べるようなことがあれば、必ず死ぬのです。ここでの死は、神との関係が断たれることを意味します。神は人が生きるためにふさわしい最高の環境を備えてくださったのに、その中心である神との関係が断たれることによってそこから追放され、すべての祝福を失うことになってしまうのです。

 

であれば、なぜ神はわざわざこのような木を園の中央に置かれたのでしょうか。この木から取って食べるということがわかっていたのならば、最初から置かない方が良かったのではないでしょうか。そうではありません。神は人をロボットとして造られたのではなく、自由意志を持つ者として造られました。心から神に信頼して生きるようにと造られたのです。ですから、この善悪を知る知識の木は、神によって造られた人間が神に信頼して生きるために備えられたのであり、その善悪を知る木から取って食べることは、神以外の何ものも信頼すべきではないことを示すためのものだったのです。また、この善悪を知る知識の木は、そのような中で、人間が創造者のみこころに忠実に従うかどうかをためすためのものだったのです。このような木の存在を通して、人間がより成長し、道徳的にも円熟していくことを、神は願っておられたのです。

 

10節から14節までをご覧ください。このエデンの園の中央にはいのちの木があっただけでなく、この園を潤すために四つの川が流れていました。第一の川の名前はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。第二の川の名前はギホンで、それはクシュの全土を巡って流れます。第三の川の名前はティグリスで、それはアシュルの東を流れます。第四の川はユーフラテス川です。この川は人にいのちと潤いを与える川です。預言者エゼキエルは、その水の中にいる魚は生き生きとし、そのほとりに生えている果樹は、新しい実を結び続けます、と言っています。(エゼキエル47:1-12)それは、世の終わりに現われる天の御国の描写でした。黙示録22章1節には、神によってもたらされる新しい天と新しい地の真ん中に神と小羊との御座があり、都の大通りの中央を流れていた、とあります。それはいのちの水の川で、その川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができました。また、その木の葉は諸国の民をいやした、とあります。(黙示録22:1-2)

 

したがって、ここに書かれているエデンの園は、人間が生きるための最適な場所であり、神は終わりの時に罪によって堕落したこの世界を再び新しくしてくださるということの象徴としての神の啓示でもあったのです。

 

Ⅲ.結婚の奥義(18-25)

 

最後に18節から25節までをご覧ください。

「その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

 

ここには、1章27節の「神は人ご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」という御言葉の詳しい説明が記されてあります。神は天地万物をお造りになられたとき、造られたすべてのものをご覧になられ、「それは非常に良かった」(1:31)と仰せになられましたが、どこを見ても人(アダム)にふさわしい助け手はいませんでした。神の霊が与えられた人間と交わることができるものは、ほかにいなかったのです。人格をもった者は、他に人格をもった者と交わりをもたずにはいられません。もちろん、神が造られたものは、みな彼を楽しませてくれましたが、彼の助け手として、彼と真に交われるものはありませんでした。

 

そこで神は、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と仰せになられ、彼のためにふさわしい助け手を造ろうとされたのです。この「ふさわしい」とはどういう意味でしょうか。それはただ単に「孤独」や「多忙」を補うという意味での「ふさわしい」存在というのではなく、人間の使命を達成するにあたりかけがいのない必要な相手としてふさわしいということであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも一つになれるという点でふさわしい助け手であったのです。単に孤独や寂しさを補うだけの助け手であれば他の男でも良かったわけですが、男では満たすことのできない存在、つまり女が必要だったのです。

 

それでは、なぜ神は人間を最初から男と女に造らなかったのでしょうか。神はまず男を造り、その後で女を造られました。それは男と女の結合(結婚)は、本来ふたりの男女の結合なのではなく、もともとひとりであったふたりの男女がそのもとの姿にかえることだからです。男と女というふたつの人格が一個の人格として歩むことなのです。

 

アダムは、神が造られたあらゆる動物に名前を付ける特権が与えられました。彼が生き物につける名はみな、そのとおりとなりました。いったい何のために彼は動物に名前をつけたのでしょうか。それは単に名前をつけたということ以上に、その動物たちの性質を見たということです。何のために?自分にふさわしい助け手はどのようなものなのかを考えさせたのでしょう。しかし、彼はふさわしい助け手は見つけることができませんでした。

 

それで神はどうされましたか?神はかれに深い眠りを下されたので、彼は眠りました。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。これはどういうことでしょうか。神は妻となるべき女を造られた時、夫となるべき男にまさる者としては造られなかったということです。男から、そのあばら骨を取って造られました。それはアダムと同質の存在であるということ、またアダムをもとにして造られたということです。決して男の頭から作りませんでした。また神は夫が妻を踏みつけるようにと、足元からも作られませんでした。妻は夫の助け手となるべく男のあばら骨から(わき)造られたのです。妻は夫の良き友、愛すべき者、保護すべき者、夫を助ける者として、夫のわきから造られたのです。したがって、夫は妻を愛し、妻は夫に従うのは自然です。本来そのように創られたからです。

 

女が造られたことで、いよいよアダムの結婚生活が始まろうとしていました。神である主によって導かれ、自分の前に現われた女性を見た時、アダムの心はどんなに興奮したことでしょう。それは23節を見るとわかります。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

これはアダムの心にあった率直な表現です。「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」すごい表現です。自分の肉親でさえこのようには言えません。まさにアダムにとってエバはこのように言える存在であり、これが結婚の原点であると言えます。アダムは彼女を「女」と名づけました。男から取られたからです。女とはこのような意味で男から取られたもの、妻は夫から取られたものなのです。ここに結婚の奥義があります。それゆえ、結婚は、神が計画し、神が成立させてくれるものです。アダムとエバはすべてを神にゆだね、神に従ったことで、結果としてこのような喜びと感謝に満たされたのです。

 

「それゆえ男はその父母から離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」これは神が啓示された結婚観です。結婚とは何でしょうか。それは父母を離れ、妻と結び合い、ふたりが一体となることです。

 

この「父母から離れ」とは、父母から独立することを意味しています。男も女も両親から独立しなければ結婚することはできません。しかし、独立するとはもう両親とは関係を持たないとか、親の言うことを聞かないということではありません。あるいは、親の面倒を見ないということでもないのです。それはまず精神的に独立することを意味しています。親に依存したままでは結婚しても、それでは結婚したとは言えません。自分が主体的にひとりで物事を考えることができて初めて結婚が成り立つのです。

 

また、「妻と結び合い」とは、霊的、精神的、肉体的に一つとなることを意味しています。この「結び合い」ということばはとても強い言葉で「糊付けすること」を表しています。糊付けしたものを剥がそうとするとどうなるでしょうか。ビリビリに敗れてしまいます。それほど強く結びついているからです。ここでも同じように、夫と妻の結び合いは、切り離すことのできないほど強力なものなのです。

 

離婚の第一の理由で最も多いのは「性格の違い」です。しかし、性格が一致するわけがありません。もしこれが結婚の条件であれば、その条件がなくなったときに結婚は破綻してしまうことになります。しかし、夫と妻の結び付というものはそのようなものによって破られてしまうものでありません。どんなことがあっても切り離されないほどの強い結び付なのです。ですから、結婚にとって最も重要なことは、神への献身であるということです。結婚の相手がどんな人であろうとも、それは神が自分のところに導いてくださった相手であると認め、どんなことがあっても神に従うという神への献身が求められるのです。

 

そして、もう一つ、ここには「二人は一体となる」です。英語では”one flesh”、「一つの肉となる」と訳されています。つまり、夫婦は一つの体になるのですが、その体にはそれぞれの人格があります。神が唯一であられるのに父、子、聖霊がおられるように、夫婦も結婚においてふたりが一人になるのでする

 

このように、結婚は神が制定された幸福な制度です。だから罪が入ってくるまでは、人間において結婚のみが正常な男女の営みであって、いわゆるホモセクチャルなどの在り方はこの教えから逸脱していると言えます。それは罪が入ってきたことによって混乱した人類の状態の一つなのです。

 

このように、神が定めた結婚の結果、ふたりはどのようになったでしょうか。ここには、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。ここで意味していることは、彼らは互いに隠すものが何一つなかったと言うことです。神の前に出ても、そしてお互いの間にも、隠し立てすることが何もなかったのです。私たちの結婚においても、すべてを透明にして相手に自分のことを正直に打ち明かす透明な関係を築いていきたいと思います。

Ⅱペテロ2章1~9節 「偽教師たちに気をつけなさい」

きょうは、「偽教師たちに気をつけなさい」というタイトルでお話しします。この手紙は第一の手紙と同様、キリストの弟子であったペテロから、迫害によって小アジヤに散らされていたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。これは、彼の生涯における最後の手紙となりました。第一の手紙では、教会の外側からの迫害があっても神の恵み覚え、その恵みの中にしっかりと立っているようにと勧めましたが、この第二の手紙では、そうした教会の外側からの問題だけでなく教会の内側からの問題、すなわち、教会の中に忍び込んでいた偽教師たちに惑わされないようにと警告しています。

 

Ⅰ.偽教師たちが現われる(1a)

 

まず1節をご覧ください。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」

 

「しかし」というのは、この前で語られてきたことの関わりを示しています。それと比較してどうかということです。この前で語られていたことは、預言とはどのようなものであるかということです。つまり、預言とは決して人間の考えや意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものであるということです。彼らは自分の考えを語ったのではありません。聖霊に動かされて、神からのことばを語りました。神がこのように語りなさいと言われたことを、そのまま語ったのです。それは神から出たものであり、それゆえに、彼らは神のことばを語ったのです。これが神の預言です。

 

「しかし」です。しかし、それに対してそうでない預言者もいました。彼らは神のことばを語っているようでも、実際には神のことばではなく自分の考えを語っていました。神のことばを語っていれば必ずしもそれが本物だとは限りません。それは今に始ったことではなく、ずっと昔から、旧約の時代からイスラエルの中に出ていました。

 

たとえば、エレミヤ書28章にはハナヌヤという預言者が出てきますが、彼はこの偽預言者でした。神が廃ってもいないのに、あたかも神が語っているかのように語ったのです。彼は祭司たちとすべての民の前で、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」と言って、二年のうちに、万軍の主が、バビロンの王のくびきを砕き、ユダのすべての捕囚の民をエルサレムに帰らせる、と預言しました。そしてエレミヤの首にかけてあった木のかせを取り除くと預言したのです。この木のかせというのは、神のわざわいと呪いの象徴です。イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩んだので、自らにそのわざわいと受けることになりましたが、その打ち砕くと言ったのです。大体、偽預言者は悪いことはいいません。その人にとって受け入れられることしかいいません。そうでないと去って行かれますから。

 

しかし、その時、エレミヤに次のような主のことばがありました。

「行って、ハナヌヤに次のように言え。「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせをつくることになる。まことに、イスラエルの神は、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。」(エレミヤ28:13-14)

どういうことかというと、神は木のかせを砕くどころかもっと強力な鉄のかせをはめるというのです。ハナヌヤは、イスラエルの民にとって聞こえがいいように神の平安を預言しましたが、神のみこころは、むしろイスラエルが悔い改めることだったのです。それなのにハナヌヤは神のことばではなく、自分の考えを語りました。なぜでしょうか。人に気に入られたかったからです。イスラエルの民に聞こえがいいことを語りたかった。神のことばを語る者にとって、こうした誘惑はいつでも起こるものです。しかし、神の預言者は自分の考えを語るのではなく、神からのことばを語らなければなりません。

 

そのハナヌヤに対して、エレミヤは言いました。

「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わさなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(エレミヤ28:15-16)

 

そのことばのとおり、ハナヌヤはその年の第七の月に死にました。恐ろしいですね。神が語っていないのにあたかも語ったかのように言うとしたら、神はそのような偽りの預言者を厳しく罰せられるのです。なぜなら、そのように語ることで自らに滅びを招くだけでなく、それに聞き従う人たちをも滅びに導くことになるからです。ですから、神のことばを語るということはとても重いことなのです。神のことばを語る者として襟を正される思いです。

 

しかし、本物の預言者は自分の考えではなく、神からのことばを語ります。たとえそれが人に気に入られなくても、それを聞いている人にとって聞き触りがよくなくとも、神のことばとして語るのです。なぜなら、それは1:19にあるように、暗やみを照らす確かなともしびだからです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

神のことばは私たちを正しい道に導きます。なぜなら、神のことばは、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。だからどんなに気に入られなくても、どんなに聞き触りがよくなくても、神のことばに目を留めていなければなりません。そうでないと惑わされてしまうことになってしまいます。

 

ここでペテロは、イスラエルにそうしたにせ預言者が出たように、あなたがたの中にも、偽教師が現われると警告しています。そういう教師がペテロの時代もいました。これからも出てきます。それはいつの時代でも起こることなのです。イエス様もこのような偽教師が現われることを予め語っておられました。マタイ7:15をご覧ください。ここには、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)とあります。

こうした偽教師は、あのグリムの童話にある「狼と七匹の子山羊」のように、羊のなりをしてやって来ても、その中身は貪欲な狼です。いくらチョークの粉を食べてお母さんのような声を出しても、いくら小麦粉を足に塗って真っ白くしても、内側は貪欲な狼なのです。ドアの隙間から白い足を見て油断して戸開けると、呑み込まれてしまうことになります。

 

パウロも同じように警告しました。使徒20:29です。パウロはエペソの長老たちに告別の説教した時、その中で次のように言いました。

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:29-31)

ここでは、そうした狂暴な狼が外から入り込んで来るというだけでなく、内側からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こると言っています。だから、目を覚ましていなさい、と警告したのです。

 

そして、ペテロも警告しています。イスラエルの中にそうした偽預言者が出ました。そして今、あなたがたの中にも偽教師がいます。これからも出てきます。彼らはいろいろな曲がったことを語ってはあなたがたを惑わそうとしますが、そういう者たちには気をつけなさいと、警告していたのです。

 

最近、預言カフェに行ったという人の話を聞きました。預言カフェとは、お茶を飲みながら神様の預言を伝えてもらえるという変わったコンセプトになっています。1杯数百円のコーヒーを頼めば、だれでも預言が聞けるというのです。コーヒーを飲んでいるところに預言者だという女性が現われて一方的に神のことばを語るのです。たとえば、「あなたが大きな夢を抱いて、それに向かっていることを(神は)知っていて、応援しますと言っています。

ただ、いま目の前にあることを、たまたまこれを知ったから、やろうと決めたから「やらなくちゃ」とがむしゃらになっている。でもそれは結果が出るまでに半年1年と時間がかかりそうな事。やめるというのではなく、今「これしかない」と思っていることをいったん横に置いて、少しそのことばかり考えているのを離れて、やりやすいことから2つ3つ始めてみる。

それから、「これがいいんじゃないか」と、自分の考えだけで必死に進んでるんだけど、そうじゃなくて説明書を手に入れる。やり方を分かっている人に話を聞いて、やり方を理解した上で取り組んだほうがいい。その出会いがあるように、私はサポートしていきますよ(と神は言っています)」

といった具合にです。

その時自分が悩んでいることや迷っていることにピッタリあてはまることを言ってくれるので、とても癒されるというか、ホッとするのです。しかも、「と神はいっています」というので、本当に神が言っておられるのではないかと錯覚してしまうのです。

 

危ないです。それはここでペテロが警告していることです。神が言ってもいないのに、神の名を使ってあたかも神が語ったかのように思わせるのは、昔も今も変わらない偽預言者の常套手段です。そういう偽りの預言、偽りの教えに惑わされないように気を付けなければなりません。

 

Ⅱ.偽教師たちの特徴(1b-3a)

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。そのような偽教師の教えに惑わされないためには、そうした偽教師たちがどのような者なのか、その特徴を知らなければなりません。ペテロはここで、偽教師たちの三つの特徴を取り上げています。1節後半から3節の前半までをご覧ください。

まず第一に、彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むということです。1節の後半に、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかに滅びを招いています。」とあります。

 

「異端」とは「誤った教え」とか「偽りの教え」という意味です。キリスト教を名乗ってはいても、実質は違うことを教えます。聖書の教えではなく、聖書の教えを利用して自分の考えを語るのです。彼らの関心は神ではなく、この地上のことだけです。そして、自分を買い取ってくださった主を否定するようなことさえするのです。「買い取る」とは贖いのことを指します。その贖いを否定するのですから、救いを失ってしまうことになります。この異端の最大の特徴は、自分を贖って下さった主を否定するということです。そしてキリストを知らない、贖い主を知らないという事は罪が残るということなので、永遠の滅びに至ることになってしまいます。何年も教会に行き続けたのに、こうした異端に惑わされてしまうことになったら本当に悲しいことです。

 

2004年に「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)という本が出版されました。2006年には映画にもなりましたが、これは、イエス・キリストが、マグダラのマリヤと結婚したという想定のもと、イエスの死後、マリヤは子供たちを連れて逃れ、やがて古代の異教の信仰の聖なる女性のシンボルになったというものです。これを書いたダン・ブラウンは、この本に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものであるかのように思わせ信じさせようとしていますが、これらはフィクションです。それなのに、この本が世界的な旋風を巻き起こしたのは、悲しいことに、神のみことばに対して無知な人が少なくなく、更に悪いことに、神の言葉を信じないでそれに従わない言い訳を必死に探している人が多いからなのです。

 

このような教えが、教会の中に広がって来ています。それはこれからもっと広がって行くでしょう。「キリストはインチキだった」とか、「十字架の贖い、復活などはあり得ない」などと、まさに「自分たちを買い取ってくださった主を否定」するようなことを言って、人々を滅びへと導くのです。

 

しかも悪いことに、彼らはそれをひそかに持ち込みます。「私は偽預言者です。これはあくまでも私の考えですが、私はあまり聖書に関心はないんです。私の関心はあくまでも皆さんの悩みを聞いて、皆さんを励ますことです。天国とか地獄とか、そんなことはどうでもいいんです。」なんて言うのであればすぐに「あっ、あれは偽教師だ」とわかるのですが、聖書のことばを用いて神はこう仰せられるというので、それを見分けるのが難しいのです。

 

冬が近くなる頃、いつも福島の教会の姉妹がりんごを送ってくださいますが、何年か前に届かない時がありました。というか、時期的に少し早かったんですね。家内からアップルパイを作るからりんごを買って来て、と頼まれたので、近くのスーパーで4個で498円のリンゴを買いました。それは青森産の真っ赤なりんごで、とても美味しそうでした。ところがそれをケーキに入れようと切ってみたところ、その内の1個が腐っていたのです。どうするのかなぁと思って見ていたら、腐ったところを取り除いて使える部分だけを使ってアップルパイを作りました。どれがいいりんごなのは切ってみないとわかりません。表面的にはどれも真っ赤で美味しそうに見えても、切ってみると中にはこのようなものが入りこんでいることがあるのです。

後日、スーパーに言って、「すみません。この前買ったりんごですが、中に腐ったものがありました」というと、スーパーのご主人が、「そうでしたか、それは大変申し訳ないことをしました。確かにりんごは外からは見分けが付かないので、そういうものが入り込んでいることがわからないんですよ。すぐに新しいものとお取替えします」と言って、1個おまけに2個くださいました。

 

異端も同じです。切ってみるまでわかりません。表面的には同じように見えても、切ってみるまではそれがどのようなものなのかわからないのです。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、あたかもそれが正しい教えであるかのように見せかけますが、中身は自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招くようなことをするのです。だから、そうした偽りの教えに騙されることがないように注意し、いつも本物に触れていることが大切です。聖書をよく学び、聖書の正しい教えを持っていることが必要なのです。

 

偽教師を見分ける第二の方法は、それを教える者がどういう者であるかをよく見ることです。2節をご覧ください。ここには、「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道からそしりを受けるのです。」とあります。どういうことでしょうか。何が正しい教えであり、何が間違った教えなのかを見分けることは困難ですが、それでも、それを見分ける方法があるというのです。それは何でしょうか?それを教えている者がどういう者であるかをよく見ることです。ここには、「多くの者が彼らの好色にならい」とあります。どんなに正しい教えをしているようでも、それを教えている人が道徳的に堕落しているとしたら、それは偽物だと判断することができます。

 

イエス様は、マタイ12:33~35でこう言われました。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

木の善し悪しは、その実によって知られます。もし木がよければよい実を結びますが、悪ければ悪い実を結びます。どんなに正しいことを言っていても、もし悪い実を結んでいるのであれば、それは悪い木であると判断することができるのです。

 

パウロは、エペソ4:19で、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と言っています。それは神のいのちから遠く離れているため、道徳的に無感覚となっているからです。であれば、結果的に、そのような者から出てくる行いも肉的なものとなります。

 

ペテロは、第一の手紙の中で、「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像崇拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(Ⅰペテロ4:3)と言っています。もう十分なのです。それは神を知らない人たちがふけっていたものであって、神を知った今、キリストによって罪が贖われた人には、そのような行いは必要ありません。もう十分なのです。イエス・キリストを信じて新しい者にされたのですから、そういう人は、昼間らしい、正しい生き方をしようと努めるのです。

 

それなのに、こうした生活を続け、彼らの好色にならうなら、真理の道がそしられることになります。どういうことでしょうか?それは、不信者から、「だからキリスト教は変なんだよな」とか「そこが違うよ、キリスト教!」と言われるようになるということです。つまり、全く証になりません。そして、人々が真理から離れて行ってしまうことになるのです。ここには「多くの者が」とあります。怖いですね、多くの者がそのようになるのです。そういえばイエス様もそのように言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

そこから入って行く者が多いのです。そことはどこですか?広い門です。滅びの門です。そこから入って行く者が多いのです。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。そこから入って行かないように注意しましょう。

 

偽教師の特徴の第三は、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にするということです。3節の前半をご覧ください。

「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」

彼らは貪欲です。貪欲であるとは、今持っているもので満足できず、もっと欲しいとむさぼるということです。

 

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろい結果が出ました。調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もっとほしい」と回答したのです。人間の欲望は止まるところを知らないということです。どんなに持っていても、「もう少しほしい」という思いがあるのです。

 

これは生まれながらの人間の性質です。生まれながらの人間はどんなに物があっても満足することができません。もっと欲しいとむさぼるのです。特にお金や持ち物に対して貪欲です。だから聖書はこう言っているのです。

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分たちを刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8-10)

 

金銭自体が問題なのではありません。金銭を愛することが問題なのです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。これは、働き人が報酬を受けることを言っているのではありません。働き人が報酬を受けるのは当然だと、聖書にはっきり教えられています(Ⅰテモテ5:17-18)。ここで言われていることはお金そのものが目的となることであり、貪欲であることです。そしてそのために作り事のことばをもって人々を食い物にすることです。彼らはお金集めを目的として人々が聞きたいことだけを語るのです。

 

「作り事のことば」とは、インチキであるということです。だれかれかまわず、このようなインチキに引っかからせようとしてやって来ます。「食い物にします」の原語の意味は、「商品として売り買いする」です。ですから、ここにも贖いという概念が含まれているのです。このインチキに引っかかると、私たちの罪がせっかく贖われたのに食い物にされてしまいますから、そういうことがないようによくよく注意し、見極めるようにしなければなりません。

 

Ⅲ.偽教師たちへのさばき(3b)

 

それでは、こうした預言者はどのようになるのでしょうか。第三に、その結果です。3節後半をご覧ください。

「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」

 

偽教師は、今は繁栄しているように見えても必ず滅びに至り、さばかれることになります。どのようにさばかれるのでしょうか。ペテロはここで、昔行われたいくつかの例をあげて説明しています。

一つ目の例は、罪を犯した御使いたちに対するさばきです。4節をご覧ください。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」

これは天使たちの堕落と、彼に対するさばきです。イザヤ書14:12~15には、堕落した天使に対する神のさばきが次のようにあります。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

これが悪の起源とされています。いったい悪魔はどこから来たのでしょうか。神が造られたものはすべて良いものばかりだったのであれば、いったいどこから悪が来たのでしようか。ここです。この「明けの明星」とはヘブル語で「ヘーレル」、ラテン語で「ルシファー」です。意味は「輝く者」です。ですから、この明けの明星とは輝く天使でした。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。心の中で、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と言って神に反逆したのです。それで神は彼をよみに落とし、穴の底に落としました。それが悪魔、サタンとなったのです。神さまが造られたものはすべて良かったのですが、神は天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上り、いと高き方のようになろうと高ぶってしまいました。それで神はこの天使をさばき、よみに落とされたのです。どんなに輝いていても、どんなに繁栄していても、神に背く者は、このようにさばかれるのです。

 

二つ目の例は、ノアの時代の不敬虔な世界に対するさばきです。5節をご覧ください。ここには、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。

ノアの時代、人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまですべて、地の面から消し去ろうと言われました。40日40夜雨を降らせ、不敬虔な世界を洪水で滅ぼされたのです。しかし、神とともに歩んだノアとその家族を保護し、箱舟によって救われました。ノアは人々に、もうすぐ洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて箱舟の中に入りなさいと警告しましたが、その言葉を受け入れる人はだれもいませんでした。結局、ノアとその家族以外はすべて神に滅ぼされてしまいました。

 

三つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神のさばきです。6節から9節までをご覧ください。

「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

ソドムとゴモラは、アブラハムの甥のロトが住んでいた町です。そこは主の園のように潤っていたので、ロトはアブラハムと別れて住むようになった時その地に住むことを選択しました。しかし、そこに住んでいたの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人でした。ここに「無節操な者たちの好色なふるまい」とありますが、いわゆるホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたのです。ロトの家に来た二人の御使いに対して、その町の住人は、「彼らをよく知りたいのだ」とロトに詰め寄りました。神はそうしたソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼし、それ以後の不敬虔な者たちへのみせしめとされたのです。

 

しかし、ロトはというと、そうした神のさばきから救われました。なぜなら、ここに「義人ロト」とあるように、彼はそうしたソドムの近くに住みながらも、心が神から離れなかったからです。というのは、ロトは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見たり聞いたりしても、それに流されることなく、日々その正しい心を痛めていたからです。

 

私たちも今、ある意味でソドムのような町に住んでいます。しかし、そうした不法な行いを見たり、聞いたりして、日々心を痛め、神から離れることがなければ、ロトのように神のさばきから救い出されます。なぜなら、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、そのために神はご自身のひとり子を与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。この方によって救われるようにと、神は救いの道を用意してくださいました。それが十字架の贖いでした。そこには大きな犠牲が伴いましたが神はそれほどまでに私たちを愛してくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように注意すべきです。もしそのようにして滅びに向かわせることがあったら、神はきびしくさばかれるのです。

 

偽預言者が出ることは避けられません。でも、惑わされないように注意しなければなりません。偽預言者たち、偽教師たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとします。彼らはひそかに異端を持ち込むのでなかなか見分けができないのです。しかし、彼らの最後は滅びです。彼らはいのちに導くのではなく、滅びをもたらします。だから、気をつけてください。あなたがたの中にも偽教師が現われます。世の終わりが近くなると、ますますこうした傾向が強くなります。ですから、惑わされないように注意しましょう。彼らが言っていることをよく聞いてください。彼らは、神は言っていると言いながら、自分の考えを言っていませんか。自分のことを言い当てることに不思議な力を感じていませんか。貪欲に、作り事のことばをもって、あなたを食い物にしていませんか。惑わされないようにしましょう。真理のみことばである聖書に堅くたって、動かされないようにしましょう。この真理のみことばが、あなたを救いへと導いてくれるからです。

 

 

 

 

ヨシュア記19章

きょうはヨシュア記19章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.シメオン部族の相続地(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、エルトラデ、ベトル、ホルマ、ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々。および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」

 

まだ自分たちの相続地が割り当てられていなかった七つの部族に対してヨシュアは、「あなたがたはいつまで先延ばしているのか。」(18:3)と叱咤激励し、彼らが具体的な行動を起こすことができるように部族ごとに三人の者を選び出し、その地を行き巡るように彼らを送り出し、具体的に相続地のことを書き記させることによってその重い腰を起こさせ、行動へと駆り立てました。何よりも彼らには全能の神がともにおられました。そのことを思い起こさせるためにそれまでギルガルにあった会見の天幕をカナンの地の真ん中、シロに移しました。そして、その最初のくじがベニヤミン族に当たり、その割り当て地が彼らに与えられました。

 

この19章には残りの六つの部族に対する相続地が割り当てについて記されてあります。まずシメオン部族に対する相続地の分配です。シメオン族に対する相続地の分配で特筆すべきことは、彼らの相続地はユダ族の割り当て地から取られたということです。いわばユダ族から借用したかのような形で割り当てられたのです。9節にはその理由がこのように記されてあります。「それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」どういうことでしょうか。ユダ族には広すぎたのでシメオン族には借地しか与えられなかったというのは理解ができません。

 

二つのことが考えられます。一つは、シメオン族は相続地が与えられても、それを勝ち取っていくだけの気力というか、気概がなかったのではないかということです。以前にも述べたように、イスラエルの各部族は相続地が与えられたとは言っても、その地には先住民がいたわけですから、それを自分たちの領土にするためにはそうした先住民と戦い、勝ち取らなければなりませんでした。けれども、シメオン族は臆病であったがためにそのような戦いを回避したので、結局、ユダ族の領土を間借りするようなことになってしまったのではないかということです。

 

もう一つのことは、シメオン族は極めて激情的な性格であったがゆえに神の祝福に与ることができず、それ故に領土も与えられなかったということです。

シメオン族の始祖シメオンについては、創世記34章にある一つの出来事が記されてあります。それは妹ディナがその土地の族長ヒビ人ハモルの子シェケムに汚された時、シェケムだけでなく、その一族郎党全員を虐殺したという出来事です。ヒビ人たちはディナに行った行為を大変後悔し、自分たちはシメオンと同じヤハウェの神を信じてもよいと申し出たにもかかわらず、彼らが割礼を受けてその傷が痛んでいるとき、レビと一緒に剣ですべての男子を殺しました。彼らは妹ディナを遊女のように扱ったヒビ人を決して赦すことができなかったのです。

 

その出来事は後々までも尾を引き、創世記49:5~7には、ヤコブはシメオンの将来について次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

これはヤコブの預言的遺言ですが、これによるとシメオンとレビはその激しい性格のゆえに呪われるということでした。しかしレビ族は、やがてイスラエルの民が金の子牛を作って礼拝するという罪を犯したとき、兄弟に逆らっても主に身をささげたことで、その呪いから外されることになります。(出エジプト32:25-29)しかしシメオン族は、あのヤコブの預言のごとく呪われていくことになるのです。怒りや憤りを抑えることができないと、災いや呪いをもたらすことになるのです。

 

詩篇37:8-9には、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」とあります。

またヤコブ書1:19-20にも、「愛する兄弟たち。 あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るには おそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものでは ありません。」とあります。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。それは大きな損失をもたらすことになります。ですから、私たちはキリストの十字架の道を思い起こし、聖霊の助けをいただいて、怒りを制御することを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.ゼブルン部族への相続地(10-16)

 

次に10節から16節までをご覧ください。

「第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ここにはゼブルン族への相続地について記されてあります。ゼブルン族が獲得した地域は、巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、マナセ族の北にありますが、彼らの獲得した地域は小さいながらも、ほぼ長方形をした肥沃な地でした。

ヤコブの預言的遺言では、「ゼブルンは海辺に住み、その側面はシドンにまで至る。」(創世記49:13)とありますが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、その側面もツロを越えることはありませんでした。神のみこころにかなう祈りのみが聞かれるということなのでしょうか。

 

このゼプルンについて、後にイザヤは、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(イザヤ9:1)と預言しました。ここにはナザレという村があり、やがて救い主イエス・キリストが公に姿を現わされるまで、ここで成長していくことになります。そういう意味で、このゼブルンとナフタリの地は光栄を受けることになるのです。

 

「ゼブルン」は「ザーバル」というヘブル語に由来しますが、意味は「進む」です。それは彼らの性格をよく表していました。士師4章には、イスラエルがカナンの将軍ヤビンの将軍シセラとの天下分け目の戦いについて記されてありますが、この戦いにおいて極めて勇猛果敢に戦ったのがゼブルン族でした。イスラエル12部族の内の半分はこの戦いは勝ち目がないと思ったのか、兵を出しませんでしたが、残りの半分が兵を出し、その中でもこのゼブルン族の兵士は、死を恐れず、命を捨てて戦いました。このようにゼブルン族は極めて前向きで積極的な勇気ある部族だったのです。

 

これは私たちの人生にとっても大切なことです。生まれながらの人間は、そのまま放っておけば必然的に後ろ向きになり、否定的になっていきます。それほどに、私たちの周りには否定的で悲観的な事柄であふれているからです。新聞を読んでも、テレビを観ても、また周囲の人々が語る言葉を聞いても、積極的な言葉や前向きなことばよりも、否定的で後ろ向きな言葉で満ちています。ですから、そのままでいれば、自然に否定的になっていかざるを得ません。

 

しかし、神は私たちを罪から贖ってくださいました。私たちも「ゼブルン」のように、前に進んで行けるように、神が根本的な問題を取り除いてくださいました。異邦人のガリラヤも光栄を受けたのです。ですから私たちもゼブルンのように、信仰によって前に進んでいく者でなければなりません。

 

Ⅲ.イッサカル族への相続地(17-23)

 

次はイッサカル族への相続地です。17節から23節までをご覧ください。

「第四番目のくじは、イッサカル、すなわちイッサカル族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、イズレエル、ケスロテ、シュネム、ハファライム、シオン、アナハラテ、ラビテ、キシュヨン、エベツ、レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツ。その境界線は、タボルに達し、それからシャハツィマと、ベテ・シェメシュに向かい、その境界線の終わりはヨルダン川であった。十六の町と、それらに属する村々であった。これが、イッサカル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

次はイッサカル族への相続地です。彼らに与えられた相続地は狭くはありましたが、ガリラヤ湖の南西部に位置するイズレエル平原と呼ばれる大きな平原の東部にありました。創世記49:14のヤコブの預言には、「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」(創世記49:14)とあります。この「二つの鞍袋」とは何かは難解なことばとされてきましたが、これが土地の相続についての預言だとすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、この地を相続地として得るという預言だったのではないかと思われます。

 

この地は、古来重要な戦いの拠点でした。また、エジプトからレバノンに抜ける通商道路が通っていた重要な貿易の拠点でもありました。それゆえ、この地は狭くはあっても戦略的に見るならば極めて重要な場所であったと言えます。イッサカル族はこの領地を得たのです。それはイッサカル族が極めて謙遜であり、柔和であり、しかも忠実な部族であったからです。たとえば、それはイッサカル族の弟分にあたるゼブルンに対する態度を見てもわかります。ゼブルンは弟であるにもかかわらず、イッサカルに優先して相続地の割り当てを受けましたが、イッサカルはそのことで怒ったりせず、その優先権を弟に渡しました。なぜなら、ゼブルンの性格を知っていたからです。ゼブルンは前向きで積極的であり、リーダーへシップがあることを認めたのです。しかも、そのことですねたりせずに、弟ゼブルンを愛し、互いの共通の聖所を自分の領土のタボル山に建てました。こうした彼らの冷静で、慎重で、柔和で、謙遜、そして忠実さのゆえに、こうした重要な地を受けることになったのです。

 

「イッサカル」ということばは、「神が恵みを示してくださるように」という意味です。霊性で、慎重で、謙遜で、忠実なところに、神は恵みを施してくださいます。私たちもこのイッサカル族のような者でありたいと願わされます。

 

Ⅳ.アシェル族への相続地(24-31)

 

次は、アシェル族への相続地です。24節から31節までをご覧ください。

「第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、アラメレク、アムアデ、ミシュアルで、西のほう、カルメルとシホル・リブナテに達する。また、日の上る方、ベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに達し、北のほう、エフタ・エルの谷、ベテ・ハエメク、ネイエルを経て、左のほう、カブルに出て、エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て、大シドンに至る。その境界線は、ラマのほうに戻り、城壁のある町ツロに至る。またその境界線は、ホサのほうに戻り、その終わりは海であった。それに、マハレブ、アクジブ、アコ、アフェク、レホブなど、二十二の町と、それらに属する村々であった。これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

「アシェル」という名前の意味は、「幸い」です。そのことばのごとく、彼の始祖が父ヤコブから受けた遺言的預言では、「アシェルは、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作りだす。」(創世記49:20)とあります。また、神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばには、「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」(申命記33:24-25)とあります。その預言のとおり、彼らは、イスラエルの北部に位置する地中海沿岸の平野で、極めて肥えた良い土地が与えられました。

 

しかし、士師記を見ると、必ずしもそうではなかったことがわかります。彼らは地中海沿岸沿いの平野部どころか、むしろ山間部に閉じ込められ、カナン人の圧迫に悩まされ続けながら、やがては歴史の中へ消えていくことになりました。なぜでしょうか。それは彼らの姿勢にありました。士師5:17を見ると、「アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。」とあります。すなわち、イスラエルとカナン人の連合軍の天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度でその兵を動かさなかったのです。あんなにすばらしい約束が与えられていたのに、その約束に対して力の限り応答せず優柔不断な態度であったため、その約束を受けることができなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。神は私たちに「幸い」を約束してくださいました。それなのに、主が成せと命じられたことに対して全力で応答していくのでなければ、それは成就することはないのです。

 

Ⅴ.ナフタリ族への相続地(32-39)

 

次にナフタリ族への相続地を観たいと思います。32節から39節までをご覧ください。

「第六番目のくじは、ナフタリ人、すなわちナフタリ族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘレフとツァアナニムの樫の木のところから、アダミ・ハネケブ、ヤブネエルを経てラクムまでで、終わりはヨルダン川であった。その境界線は、西のほう、アズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出る。南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達する。その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、アダマ、ラマ、ハツォル、ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。これが、ナフタリ部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ナフタリ族はガリラヤ湖の南西の平野部が与えられました。その地は豊かに越えたと地でした。それはヤコブとモーセに与えられた預言の成就でもありました。創世記49:21には、「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しく子鹿を産む。」とあります。この「美しく子鹿を産む」ということばは、欄外の注釈にもあるように、「美しいことばを出す」という意味です。どういう意味でしょうか。それは将来メシヤがこの地から出て美しいことばを出すということの預言でもありました。事実、そのことばのとおり主イエスはこのナフタリの地から宣教の第一歩を踏み出されました。マタイ4:12-17をご覧ください。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」」

主イエスの宣教は、このナフタリとゼブルンの間にあったカペナウムから開始されました。ここから美しいことば、神の国の福音が宣教されたのです。

 

さらに申命記33:21には、「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」とあります。ずばりナフタリの領土の豊かさが預言されていました。このようにモーセが語り、ヤコブが語ったごとく、ナフタリは極めて豊かで肥沃な土地を手にすることができました。しかしながら、やがてこのナフタリ族は多くの多民族からの侵略を受け、その影響の中で混合民族を形成していくことになります。そして、遂には「異邦人のガリラヤ」と他のユダヤ人から蔑視され、歴史の中からその姿を消していくことになるのです。

 

いったいなぜそのようになってしまったのでしょうか。士師1:33に、その理由が記されています。「ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。」すなわち、ナフタリ族は追い出すべきカナン人を追い出さなかったからです。「ナフタリ」ということばは、「争い」という意味です。彼らは戦いを大変好んでいた民族です。それなのに追い出しませんでした。それは、異教や偶像崇拝に対して曖昧な態度をとったからです。モーセの命令はカナン人を追い出すことでした。それはイスラエルの民が他の民族に対して、差別的で冷酷であったからではありません。それはイスラエル民が偶像と交わることから守られるためです。それなのに彼らは偶像に対して曖昧な態度をとることで、その命令を守られなかったのです。それゆえに、ここにあるようなナフタリの曖昧な態度は、信仰的には極めて悪いものでした。その結果、彼らは折角与えられた神の祝福を喪失し、滅びていくことになったのです。

 

私たちはこのナフタリがたどった運命を他山の石としなければなりません。特に、私たち日本のクリスチャンはナフタリを反面教師にすべきです。クリスチャンは他者に対して、寛容であることが望ましく、それは大切なことです。むやみに他者の弱さや罪を暴き立て、裁くようなことがあってはなりません。しかし、時としてこうした神の命令には曖昧な態度を捨て、毅然とした態度で臨まなければなれません。こうした曖昧な態度がもたらす弊害は、私たちが考えていること以上に大きなものがあるからです。

 

Ⅵ.ダン族への相続(40-48)

 

最後に、ダン族への相続地です。40節から48節までをご覧ください。

「第七番目のくじは、ダン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地となる地域は、ツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、シャアラビン、アヤロン、イテラ、エロン、ティムナ、エクロン、エルテケ、ギベトン、バアラテ、エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リモン、メ・ハヤルコン、ラコン、およびヤフォの近くの地境であった。ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。これがダン部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ダン族にはパレスチナ中部にある地中海沿岸の土地が与えられました。しかしそれだけでなく、47節を見ると、彼らは上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ、とあります。与えられた地が狭かったので、さらに領土を広げるためにそこから北上し、パレスチナの最北端、ガリラヤ湖の北に当たる地を責めて、その所を勝ち取ったのです。最初は小さな領域でしたが、積極的に領地を広げようと前進して行ったのです。この記録から、ダン族というのは、実に積極的な部族であったことがわかります。創世記49章のヤコブの預言や、申命記33章のモーセの預言でも、ダン族が積極的な民であることが言及されています。

 

しかし、士師記5:17のデボラの歌を見ると、必ずしもそうでなかったことがわかります。そこには、「なぜダンは舟にとどまったのか」とあります。つまり、彼らは戦いに出て行かなかったのです。カナン人の連合軍との天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度をとったのです。とすると、ここに記されてあるダン族の勇敢な姿はどういうことなのでしょうか。

 

ここには、ダン族が上って行ったのは、さらに領土を広げるためであったかのように書かれてありますが、必ずしもそうではありませんでした。確かに彼らに与えられたのはパレスチナ中部の地中海沿岸の狭い土地でしたが、そこには強力なペリシテ人が住んでいたのです。そのためペリシテ人に圧迫されたダン族は、仕方なく北へ逃走し、誰も行こうとしないパレスチナの北の果てに住むようになったのです。そのことは士師記1:34を見るとわかります。そこには、「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。」とあります。何とダン族は勇敢な民どころか、狭い自分の土地さえも守ることができませんでした。そして終われに追われて、遂にはパレスチナの最北端にまで逃れて行ったのです。そればかりか、彼らはパレスチナにはびこっていた偶像崇拝に陥り、堕落して、黙示録7章にある終末の回復のリストからも外されていったのです。いったいこれはどういうことでしょうか。片や勇猛果敢な姿が描かれ、片や弱くて臆病な姿が描かれているのです。どちらが本当のダンの姿なのでしょうか。どちらも本当のダン族の姿でした。

 

このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。ある時には信仰が強められ、自分でも信じられないくらい神の力に満ち溢れたかと思うと、次の瞬間には周りの状況をなかなか受け入れられず、極端に弱くなってしまうことがあります。あの神の預言者エリヤでさえ、バアルとアシェラの預言者と戦い神の圧倒的な力によって勝利したかと思ったら、次の瞬間にはイゼベルのことばに恐れ、「神さま、どうか私のいのちを取ってください。」というほど弱くなりました。そうした二面性が、私たちの中にあります。だったら、いつも信仰によって勇敢であるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

それは神とともに歩むことです。いつも聖霊に満たされて、神の力を頂くことです。あのサムソンはどうでしたか。彼の力の源は長く伸びた髪の毛でした。ナジル人として生まれた彼は、生涯、頭にかみそりをあてませんでした。それは神の霊が彼とともにおられることを表していました。しかし、デリラによってその秘密を洩らすと彼の髪の毛はさっと切り落とされ、神の力が彼から去って行きました。

 

それは私たちも同じです。私たちがいつも神の力によって勇敢に前進していくためには、神の聖霊に満たされていなければなりません。神の命令を守り、神のみこころに歩むとき、神はご自身の聖霊で満たしてくださいます。私たちはダン族のように時として弱くなってしまう器であるということをわきまえて、いつも聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。

 

Ⅶ.ヨシュアが求めた町(49-51)

 

最後に49節から51節までを見て終わりたいと思います。

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、主の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。」

 

ここには、イスラエルの全部族に対する割り当てが終わってからのことが記されてあります。各部族への割り当てが終わったとき、イスラエルの民はヨシュアに対して、どの町でも自分の好きな街を一つとるようにと言いました。それは、ヨシュアのこれまでの指導者としての功労に感謝を表すためです。イスラエルの民はその犠牲と功績の大きさを決して忘れることなく、これに最大限に報いようとしたのです。

 

それに対してヨシュアは、どんな土地を求めたでしょうか。ここには、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを求めたとあります。このティムナテ・セラフとは「太陽の部分」という意味で、太陽礼拝、すなわち偶像崇拝が盛んにおこなわれていたところです。いったいなぜ彼はそんなところを求めたのでしょうか。

 

ここにヨシュアの開拓者精神を観ます。この時彼は80歳を超えていました。年齢から行っても功績から言っても、もう隠居してもいい年であったはずです。それなのに彼はそのようにはせず、新しい挑戦を開始しようとしたのです。あえて困難な道を選んで、新しい第三の人生をスタートさせたのです。

 

私たち人間は老いていくと段々からだが弱り思考力も鈍くなるので、周囲もあまり期待しなくなります。そこでつい後ろ向きになり、消極的になりがちですが、また過去を振り返り、それで満足しがちですが、そうではなく、いつでも開拓者の精神をもって進んでいきたいものです。特にこの日本ではまだまだ獲得していない地がたくさんあります。そうした地を獲得していくためには、むしろ、人生のある程度のことを成し終えた老人のパワーが求められるのではないでしょうか。それは私たちには死を越えた永遠のいのちが与えられたという根源的な希望が与えられているからです。

Ⅱペテロ1章16~21節 「さらに確かな預言のみことば」

前回は、1章12節から15節までの箇所から、「いつも思い起こして」というタイトルでお話ししました。覚えていらっしゃいますか。私たちは、聞いてもすぐに忘れてしまいます。今聞いたかと思ったら、すぐにどこかへ飛んで行ってしまいます。昔、「とんで、とんで、とんで・・」という歌がありましたが、ほんとうにどこかに飛んで行ってしまいます。だから、いつも思い起こして、神の恵みにとどまるようにと励まして、奮い立たせることが、自分に与えられた努め、使命だと、ペテロは語ったのです。

 

きょうの箇所は、その続きです。タイトルは、「さらに確かな預言のみことば」です。ペテロはなぜこんなことを言っているのでしょうか。なぜなら、彼の話というのはうまく考え出した作り話ではなく、実際にそれを目撃した体験者であるからです。体験者は語るのです。

 

Ⅰ.キリストの威光の目撃者(16-18)

 

まず16節から18節までをご覧ください。

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 

どういうことでしょうか?「私たちは」とは、ペテロをはじめとしたキリストの弟子たちのことです。正確に言えば、変貌山でキリストの御姿が変わったのを見たペテロとヤコブとヨハネのことです。ここに、「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」とあるからです。

 

「主イエス・キリストの力と来臨」とは、キリストの再臨のことです。ペテロは第一の手紙で、キリストが再臨することを繰り返し教えました。たとえば、1:7や1:13、2:12、4:7、5:4等です。特に1:13では、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と勧めています。「イエス・キリストの現われ」とは、イエス・キリストの再臨のことです。その再臨に備えて、心を引き締め、身を慎むようにと勧めたのです。

また4:7でも、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。「万物の終わり」とはキリストの再臨の時を指します。キリストの再臨に備えて、心を整え、身を慎むようにと勧めました。

 

それは何もペテロが考え出した作り話ではありません。それは主イエスご自身も教えられたことですが、正しいことです。真実な教えです。なぜそれが真実だと言えるのでしょうか。なぜなら、ペテロはそのキリストの威光の目撃者だからです。キリストの神としての栄光を目撃した者だからです。

 

ちょっと待ってください。キリストの神としての栄光の目撃者だとは言っても、それはまだ起きていないことではないのですか?それは世の終わりに起こることであって、ペテロは実際には見ていないはずです。それなのに、どうして彼は、自分たちがキリストの威光の目撃者だと言っているのでしょうか。はい、確かにキリストの再臨は見ていません。しかし、キリストが再臨させる時のご威光は見ました。どこで?あの高い山で、です。あの山はヘルモン山だと言われていますが、その山にイエス様に上った時、目の当たりにしたのです。ヤコブとヨハネも一緒でした。私だけではありません。彼らも一緒でした。そこでイエス様の御姿が変わったのです。その顔は太陽のように輝き、まぶしくて、見ることができないほどでした。そして着ていた御衣は光のように白く輝きました。それは世のさらし屋、クリーニング屋ではとてもできないほどの白さでした。それは何を表していたのかというと、キリストの神としての栄光の輝きでした。ですから、自分たちは実際にキリストの再臨を見てはいませんが、キリストが再臨される時の栄光を見たのです。だから、キリストが再臨するというのは本当のことなのです。それを見たんですから・・。

 

それだけではありません。天から父なる神の御声を聞きました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロはその御声を自分の耳で聞いたのです。人から聞いたのではありません。自分で聞いたのです。それはペテロだけではありません。ヤコブもヨハネも一緒です。「私」ではなく、「私たち」です。私だけ見たり、聞いたりしたというのであれば気が狂ったと言われてもしょうがないですが、私だけではありません。ヤコブとヨハネも一緒に目撃し、一緒に聞きました。ということはどういうことかいうと、それは事実であるということです。

 

ここでペテロは何を言いたいのでしょうか。当時教会の中にはにせ預言者たちが忍び込んでいました。そして、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでは人々を惑わしていましたが、彼らはペテロの教えを聞いたとき、「そんなの関係ない」と言ったのです。「ありっこない。嘘だ」と否定したのです。「キリストが再臨するなんてありえない、そんなのはペテロがうまく考え出した作り話だ」と非難したのです。ですからペテロはそれが真実であるということを証明するために、これが本当の話であるということを、自分たちが実際に敬虔した事実として語っているのです。

 

しかし、キリストの再臨はこれから後に起こることであって、だれも経験したことがない話です。それなのに、これが真実な教えだということをどうやって証明することができるのでしょうか。確かにキリストが再臨するのをだれも見たことがありません。でもその再臨の主の栄光を前もって見たというのであれば話は別です。キリストの再臨はこれからまだ先のことであり、だれも見たことがありませんが、その再臨の姿を前もって見ることができたとしたら、間違いなくキリストは再び来られるということになるのではないでしょうか。ですから、このヘルモン山でのキリストの威光を目撃したということは、キリストが再び来られることの威光を目撃したということと同じことなのです。

 

それはイエス様が言われたことです。マタイ16:27,28節をご覧ください。ここには、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」とあります。

これはイエス様が語られたことですが、イエス様は、父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来るとき、おのおのその行いに応じて報いをなさいますが、ここに立っている人々の中には、イエス様が再臨するまで、決して死を味わわない人々がいる、というのです。どういうことですか?それまで死を味わわない人がいるわけがありません。それは世の終わりのことなのですから・・・。

 

それは、このヘルモン山での出来事を指して言われたのです。つまり、ヘルモン山でのキリストのご威光は、再臨の主イエスのご威光だったのです。マタイ17:1には、「それから六日たって」とありますが、この出来事はイエスが言われたことの証明であり、やがて来られるキリストの御姿だったのです。ですから、キリストはまだ再臨していなくとも、あの山上でその御姿を目撃したということは、あの父なる神の御声を聞いたということは、まさに、キリストの再臨を目撃したということと同じことなのです。そのように考えると、16:28のイエス様の言われたことばの意味が分かってきます。このあとペテロとヨハネとヤコブの三人は、イエス様といっしょに高い山に登って行き、それを体験しました。人の子が御国とともに来るのを見たのです。それまでは死を味わうことはありません。彼らは死ぬ前に、キリストが再び来られるのを見たのです。

 

ペテロがこの手紙の中で言いたかったのはこのことだったのです。彼はキリストが再臨することを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話なのではなく、彼が実際に見て、実際に聞いて体験したことでした。彼らは聖なる山で、主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 

皆さん、聖書は作り話とかでっち上げのようなものではなく、実際に体験した者たちの証言がまとめられたものです。ペテロはキリストの威光の目撃者としてこの手紙を書いたのです。ですから、彼の証言は真実で確かなものです。私たちは今、実際に見たり聞いたりすることはできませんが、神はこのように実際にキリストの威光を目撃した人たちを通してご自身を啓示してくださいました。このような人たちは「使徒」と呼ばれています。使徒とは、イエス・キリストの復活の証人であり、また主イエスと生前ともにいた人たちです。彼らが実際に見て、聞いて、触れて、体験したことが証言としてまとめたもの、それが、私たちが今手にしている聖書です。特に彼らは、十字架と復活の御業を実際に目撃して書いたのです。

 

使徒ヨハネはこのことを次のように証言しています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現われた永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ1:1-2)

ヨハネは、このいのちは、初めからあったものであり、目で見たものであり、じっと見て、また手でさわったものだと言っています。彼はそれを見たので、その証をし、この永遠のいのちについて私たちに伝えているのです。

 

ですから、聖書は実際にあったことです。間違いのない真理なのです。私たちに必要なのは、この神の啓示の書である聖書に聞くことです。私たちは聞いたので知ることができました。そして知ったので信じることができました。さらに深く主イエスを知るためにはどうしたらいいのでしょうか。この神のことばである聖書をよく知ることです。ここから離れては神を知ることはできません。私たちは彼らが実際に見たり聞いたりしたことを通して、さらにもっと深く、もっと正しく主イエスを知ることができるのです。

 

皆さんは何を見ていますか。何を聞いておられますか。偽りの教えを聞いてはいけません。それは聞こえがいいかもしれませんが、あなたを滅びと恐怖に陥れるだけのわなです。私たちが見なければならないのは、私たちが聞かなければならないのは、この神のことばです。私たちがどう思うかではなく、実際にキリストのことばを聞き、キリストの栄光を目撃したキリストの弟子たちが語った証言、聖書のことばなのです。

 

Ⅱ.さらに確かな預言のみことば(19)

 

次に19節をご覧ください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

 

ペテロはここで、驚くべきことを言っています。それは、「さらに確かな預言のみことばを持っている」ということです。ペテロは超自然的なすばらしい体験をしました。キリストの神としての栄光を目撃しました。さらに天から父なる神の御声を聞きました。それはうまく考え出した作り話ではなく、彼が自分の目で見、自分の耳で聞いたことです。彼だけでなく、他の弟子たちも一緒に目撃しました。ですから、彼らの証言は真実で確かなものです。しかしペテロはここで、それよりもさらに確かなものを持っているというのです。普通は、自分が目撃したことほど確かなものはありません。裁判においても証人の証言が有効であるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。しかし、それよりもさらに確かなものがあります。いったいそれは何でしょうか。それは確かな預言のみことばです。

 

預言のみことばとは、旧約聖書のことです。旧約聖書は創世記からマラキ書まで、全部で39巻あります。それはメシヤ、救い主、キリストが来られることの預言です。キリストとは「油注がれた者」という意味ですが、罪に陥った人間を救うために神が遣わされた救い主のことです。最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から、神はこの救い主を遣わすことを約束されました。創世記3:15には、「わたしは、おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、アダムとエバが罪に陥った直後に語られた神の救いのことばなので、原始福音と呼ばれています。これはキリストの十字架と復活によって死の力を持つ悪魔を滅ぼすという預言です。神はまず女の子孫から救い主を遣わすという約束をお与えになりました。そして創世記12章になると、その救い主はアブラハムの子孫から遣わされると示されました。

 

その後神は、神の預言者たちを通して、キリストについての預言をお与えになりました。それは実に三百か所以上、間接的なものも含めると四百か所以上になります。これらを全部開くことは大変でできませんので、その中のいくつかを見たいと思いますが、たとえばⅡサムエル7:12-13にはこうあります。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

「あなた」とはダビデのことです。ダビデが死んで眠りについてから、彼の身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国をとこしえに確立されると言いました。これはダビデの子ソロモンのことではありません。ここに「とこしえまでも堅く立てる」とあるように、これは王の王であられるキリストが来られる時のことを預言して言われたのです。キリストはダビデ王の子孫から生まれるということでする

 

そのとおり、キリストはダビデの子孫からお生まれになられました。そのことが新約聖書マタイ1:1にあります。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

ですから、新約聖書は系図から始まっているのです。神が約束された救い主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫から来られると預言されましたとおりに救お生まれになられたことを証明するためです。

 

その他にも、救い主は処女にみごもるとか(イザヤ7:14)、ユダヤのベツレヘムで生まれること(ミカ5:2)、その働きはガリラヤから始まり(イザヤ9:1)、このキリストが来られたときにどのような奇跡をなさるのか(イザヤ35:5)、また、キリストはろばの子によってエルサレムに入場されるということも預言されています(ゼカリヤ9:9)。同じゼカリヤ11:13には、銀30枚で売られるということまで預言されています。さらにキリストは苦難を受けるということがイザヤ書53章にあります。そればかりではありません。キリストは死人の中からよみがえることもちゃんと預言されていました。詩篇16:10-11です。

「まことに、あなたは、わたしのたましいをよみに捨てておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)

キリストは私たちの罪のために死なれたわけですがそこに捨ておかず、神はキリストを三日目によみがえらせてくださいました。その他にも、このメシヤ、救い主に関する預言はたくさんあります。そしてそのすべての預言がキリストによって成就しました。中にはこれから成就するものもあります。キリストが再臨されることなどはその一つです。しかし、キリスト、救い主、メシヤが来られることについて語られた預言のことばは、ことごとく成就しました。それは、この方が旧約聖書で預言されていたあの救い主であるということを示しているのです。

 

皆さん、どうして聖書は確かなものなのであると言えるのでしょうか。それはこの預言が100%成就したからです。神がご自分の預言者たちを通して語られたことが、すべてそのとおりに実現しました。旧約聖書の預言のとおりに、神が約束された救い主キリストが来られました。すべて聖書が預言したとおり成就したのです。この方がまことの神であり救い主であられるイエス・キリストなのです。

 

この手紙を書いたペテロは、このキリストの神としての栄光を目撃しました。直接父なる神の声を聞きました。すばらしい体験をしました。しかし、こうした自分のすばらしい体験よりもさらに確かなものがあります。それが預言のみことばです。なぜこの預言のみことばはペテロの体験よりも確かなものだと言えるのでしょうか。それはこの預言のみことばはすべて成就したからです。ですからペテロは19節の最後のところでこう言っているのです。「それに目を留めているとよいのです」。

 

「夜明け」とは、キリストが再び戻って来られる日のことです。「明けの明星」とはキリストのことです。暗い所とはこの世のことです。この世は暗やみです。神から離れているので真っ暗です。どのように生きていったらいいのか、皆、道に迷っています。本当の希望を知りません。そのような暗やみの中に必要なのは何でしょうか。光です。ともしびが必要です。このともしびこそ神のことばです。詩篇119:105にこう書かれてあります。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

 

神のことばは、この世の暗やみを照らす光なのです。暗やみの中にともしびがあれば、つまずくことがありません。光があれば道に迷うこともありません。ともしびがあれば目的地へ導いてくれます。今は暗やみですが、もうすぐ夜明けがやって来ます。夜明けには太陽が上ります。夜明けの前は真っ暗になります。最も暗いとき、最も寒いとき、それが夜が明ける時です。しかしそのあとに太陽が上ると、すべてを照らします。キリストが再び戻って来られる前に真っ暗になりますが、そのあとに、すべてを照らすまことの光が上ってくるのです。

 

私たちは今、暗やみの中にいますが、神はその暗やみの中にあっても私たちの足元を照らすともしびを与えてくださいました。それが聖書です。それはさらに確かな預言のみことばです。このみことばに照らされるなら、決してつまずくことはありません。夜明けとなって、明けの明星が上るまでは、真っ暗闇ですが、そのような真っ暗闇の中にあっても、それを照らすともしびに目を留めるなら、あなたは決してつまずくことはありません。この預言のことばに目を留めようではありませんか。

 

Ⅲ.神からのことば(20-21)

 

最後に、20,21節を見て終わります。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 

ここでペテロは、神のことばについてまず知らなければならないことは何かを教えています。それは、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。どういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈があります。一つは、私たちが聖書をどのように解釈するかという意味です。そのように解釈すると、ここは、自分に都合のいいように勝手な解釈をしてはいけない、ということになります。

 

もう一つの解釈は、ここではおそらくこの意味で使われていると思われますが、聖書の預言は、預言者たちの私的解釈ではないということ、つまり、彼らの考えではないということです。すなわち、私たちが聖書をどのように解釈するのかということではなくて、その聖書の預言はどこから来たのかという出どころ、起源のことを言っているという解釈です。恐らく、そういうことでしょう。英語の聖書ではこう訳しています。

「Above all ,you must understand that no prophecy of Scripture came about by the prophets own interpretation.」(NIV)

これはこういう意味になります。「あなたは理解しなければなりません。聖書の預言は、預言者たちの解釈から出たものではないということを・・。」つまり、どこから来たのかということです。そして、それは預言者たちの解釈や考えから来たものではないということです。彼らが自分で勝手に考えて、自分の考えを語ったのではないということです。

 

新改訳聖書改訂版では、ここをとてもよく訳しています。「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきない。」と訳していますが、この「勝手に解釈するものではないということばに※がついていて、別訳として、「預言者自身の解釈ではない」と説明しています。このように訳している他の日本語の聖書は、創造主訳聖書です。創造主訳聖書では、「聖書に記されている預言はすべて、預言者が自分勝手に語ったものではない。」と訳しています。これがここでペテロが言いたかったことです。私たちがどう解釈するかということではなく、この聖書の預言はどこから来たのかということです。それは預言者たちが自分勝手に語ったものではありません。

 

では、この聖書の預言はどこから来たのでしょうか。21節をご一緒に読みましょう。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

それは決して人間の意志によってもたらされたのではありません。それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。創世記から黙示録まで、聖書は全部で66巻ありますが、1,600年以上かけて、40人以上の人たちによって書かれましたが、それは決して人間の意志から出てものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。「聖霊によって動かされた」とは、聖霊によって運ばれたとか、聖霊によってもたらされたという意味です。ちょうど海に浮かんだヨットのようなものです。ヨットはどのようにして目的地に行くのでしょうか。風です。風を受けて、風に運ばれて動いて行きます。それと同じように、預言は、聖霊の風を受けて、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。ですから、聖書は神によって書かれた神のことばなのです。

 

Ⅱテモテ3:16には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。皆さん、聖書とは何でしょうか。聖書は神のことばです。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。神の霊感とは神の息という意味です。聖書は神の息がかけられたものなのです。すなわち、人間のインスピレーションとか、思い付きによって書かれたものではないのです。聖書はすべて神の霊感、神のいぶき、神によって語られた神のことばなのです。それは、預言者たちが意識を失って、ロボットのように勝手に筆が動いたということではありません。「か・み・は、こ・う・い・わ・れ・た・。」と機械的に書かれたのでもないのです。彼らはみな聖霊に動かされて神のことばを受け止め、そのことばを語り、書き止めたのです。

 

ですから、聖書は誤りのない神のことばであり、完全なものです。もしこれが人の考えによって書かれたものであればどうでしょうか。危ないです。これは「7つの習慣」という本から学んだ人生を本当の幸福へと導く成功哲学です。これは40か国以上の言語に翻訳され、全世界で2,000万部を越えるベストセラーになった本で、「人生のOSである」と言われているほどの本なんです。だから信頼するに値します!「そうですか、ところでそれはどこから来たんですか。」「はい、スティーブン・R・コヴィーという有名な哲学者が書きました。」「そうですか、でもどんなに有名な哲学者でも危ないですよ。」Ⅰペテロ1:24-25にはこうあります。

「人はみな草の花のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

人から出たものは変わります。それは時代によって、国によって、場所によってその価値観も違ってきます。しかし、神は永遠の神です。真実な方です。いつまでも変わることがありません。ですから、この世の暗やみを照らす光として最も信頼できるもの、もっと確かなものなのです。それが聖書です。

 

あなたは何に信頼していますか。何に心を留めておられるでしょうか。あなたが心を留め、あなたが信頼すべきものは、この聖書のことばです。さらに確かな預言のことばなのです。私たちはこのさらに確かな預言のみことば、聖書に目を留め、神に信頼して歩ませていただきましょう。

 

最後に詩篇18:30-32を読んでこのみことばを閉じたいと思います。

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。」

ヨシュア記18章

きょうはヨシュア記18章から学びたいと思います。

Ⅰ.新たな拠点シロ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「18:1 イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らに服していたが、18:2 イスラエルの子らの中に、相続地を割り当てられていない七部族が残っていた。」

16章、17章には、エフライム族とマナセ族、すなわちヨセフ族に与えられた相続地の割り当てについて記されてありました。この18章には、まだ相続地を割り当てられていない7つの部族の相続について記されてあります。1節には、イスラエルの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕が建てられたとあります。これまでイスラエルのカナン侵略の拠点はギルガルでした。その拠点をシロに移したのです。なぜでしょうか。会見の幕屋とは、その中に契約の箱が置かれてあり、神ご自身が自らを現わされる所です。それはイスラエルの民にとって最も重要な所でした。というのは、イスラエルは単なる民族主義的な共同体ではなく、創造主なる神を中心とした宗教的共同体であったからです。そのシンボルとしての幕屋をシロに建てたというのは、そこがイスラエルの中心となることを意味していました。シロはエフライムの土地にあり、イスラエルのほぼ真ん中に位置していました。そこに幕屋を建てたのは、1節に「この地は彼らによって征服されていた」とあるように、イスラエルのカナン侵攻がある程度区切りがついたからです。それで、約束の地の端にあったエリコの隣にあったギルガルから、全体の中心であったシロに本拠地を移したのです。そしてそこに12部族の中心となるべく会見の幕屋を建てることで、さらに一致団結して神の約束の実現に向かっていこうとしたのです。

Ⅱ.七つの部族への相続地の割り当て(3-10)

次に、3~10節までをご覧ください。「18:3 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、【主】があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。18:4 部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。18:5 彼ら自身でそれを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南にある自分の地域にとどまり、ヨセフの家は北にある自分の地域にとどまる。18:6 あなたがたはその地の七つの割り当て地を書き記し、私のところに持って来なさい。私はここで、私たちの神、【主】の前で、あなたがたのためにくじを引こう。18:7 しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。【主】の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。ガドとルベンと、マナセの半部族は、ヨルダンの川向こう、東の方で自分たちの相続地を受けている。【主】のしもべモーセが彼らに与えたものである。」18:8 その人たちは立って出て行った。その際ヨシュアは、その地について書き記すために出て行く者たちに命じた。「さあ、あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに帰って来なさい。ここシロで、【主】の前で、私はあなたがたのためにくじを引こう。」18:9 その人たちは行って、その地を巡り、それぞれの町を七つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。18:10 ヨシュアはシロで、すなわち【主】の前で、彼らのためにくじを引いた。ヨシュアはそこで、彼らへの割り当てにしたがって、その地をイスラエルの子らに分割した。」

ところが、2節を見ると、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない部族が7つ残っていました。7つの部族というのは、ヨルダン川の東側の地を相続したガド族とルベン族とマナセの半部族に、ヨルダン川の西側で既に相続したユダ族とエフライム族、マナセの半部族の5つの部族を除いた7つの部族です。彼らは自分たちの割り当て地を受け取っていましたが、その地に進んで行くのをためらっていたのです。彼らはこれまでヨシュアの指導の下勇敢に戦って来たのに、なぜ自分たちの相続地を受け取る段階になって与えられた地を占領しに行くのをためらっていたのでしょうか。確かに、カナンの地を相続することは彼らにとっては待ち望んでいた夢でしたが、現実的には色々と困難がありました。前回のところでも、ヨセフ族がヨシュアのところにやって来て、「谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」(17:16)と言ったように、敵の数の多さや装備を見て恐れ、なかなか出て行けなかったのでしょう。今すぐやらなくてもしばらくは大丈夫、カナンの地の主なところは手に入れたのでしばらくは様子を見ようと、主から与えられた使命に対して踏み出すのを先延ばしにしていたのです。

そんな7つの部族に対して、ヨシュアはこう言いました。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのですか。」(3)神はすでにこの地を彼らに与えておられるのになぜその命令に従い取り組もうとしなかったのでしょうか。それは彼らが無力だったからではありません。あるいは遠慮深かったからでもありません。それは、彼らに全能の神により頼む信仰がなかったからです。生きて働いておられる主を正しい目をもって見上げていなかったので、目の前にある課題を否定的にばかりとらえ、その歩みが止まっていたのです。それはあのヨセフ族の言い訳と同じです。ヨセフ族もヨシュアのところに来てこう言い訳しました。「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(17:18)

その地は、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えた地です。つまり、その地は神の一方的な恵みによって与えられた地なのです。そのような恵みを受けた者として神が私たちに求めておられることは、神が共にいて働いてくださることを信じて従うことです。神に信頼して神の御業に取り組まなければなりません。神の恵みによって救われた私たちは、神とともに働く者であり、神の御業を行い神の使命を果たしていかなければならないのです。

いったいどのように取り組んで行ったらいいのでしょうか。4節をみると、ヨシュアは「部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。」と言っています。7つの部族から3人ずつを選び出しまだ割り当てられていない地を行き巡らせ、彼らにその相続地のことを書き記してもらい、それをヨシュアのところに持って来らせます。そしてその地を7つの割り当て地に分割し、主の前でくじを引きます。

ここには、何回も繰り返して、それを書き記すようにと命じられています。(4、6、8、9)何回も繰り返して書かれているということは、それだけ重要なことであるということです。それは彼らを信仰による行動へと突き動かすためでした。たらたらして手足の動きが止まっている彼らにもう一度約束の地を見て来させ、そこにどんな町々があるのか、改めて主が約束して下さっているものを細かく調べさせることによって、本来自分たちが取り組むべき仕事に着手できるように駆り立てるためだったのです。そのためには、彼らが獲得しようとしている地がどのような所で、そのためには誰と戦わなければならないのかということを具体的に書き記す必要がありました。そのようにすることで、より行動に移すことができるからです。彼らはその地を行き巡りそれを7つの割り当て地に分割しそれを実際に書き記すことによって、神に信頼して出て行く勇気が与えられたのです。

私たちはどうでしょうか。この7部族のように主は素晴らしい祝福を用意しておられるのに適当なところで満足し、信仰の歩みをストップしていることはないでしょうか。確かに主に従う生活には戦いがあります。イスラエルの行く先にもなお敵がいましたし、他の課題もありました。しかしそこで問われていることはその困難さを人間的に計算して難しそうだからやめようというのではなく、主に信頼する者を主は必ず助けて下さると信頼して、どのような中でも御言葉に従うことを何よりも大切にして進み行くことなのです。何よりも心に留めたいことは、1節でみたように、主は私たちのただ中にいることを覚えることです。主はご自身の約束のとおりに、私たちをこの地に導いてくださいました。そして、私たちとともにいると約束してくださいました。この主に信頼して、主が導いてくださる地がどのような所なのかを行き巡り、それを心に刻みたいと思います。主に従う歩みには常に困難はあるでしょうが、しかし、共にいて下さる主が、その歩みを助け、それを乗り越えることができるように導いて下さいます。その主により頼んで、困難も乗り越えさせて頂いて、主が用意下さっている祝福を十分に受け取り、主の御名があがめられるような歩みを続けていきたいものです。

Ⅲ.ベニヤミン族の割り当て地(11-28)

次に、11~28節までをご覧ください。「18:11 ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。18:12 北側の境界線はヨルダン川から始まる。その境界線はエリコの北の傾斜地に上り、西の方へ山地を上る。その終わりはベテ・アベンの荒野である。18:13 さらに境界線はそこからルズに向かい、ルズの南の傾斜地を過ぎる。ルズはベテルである。それから境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルを下る。18:14 さらに境界線は折れ、西側を、ベテ・ホロンの南向かいの山から南へ回る。その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムである。これが西側である。18:15 南側はキルヤテ・エアリムの外れを起点とする。その境界線は西に出て、メ・ネフトアハの泉に出る。18:16 さらに境界線は、レファイムの谷間にあるベン・ヒノムの谷を北から見下ろす山の外れへ下り、ヒノムの谷をエブスの南の傾斜地に下り、エン・ロゲルを下り、18:17 北の方に折れ、エン・シェメシュに出て、アドミムの坂の反対側にあるゲリロテに出て、ルベンの子ボハンの石に下り、18:18 アラバに面する傾斜地を北へ進み、アラバに下る。18:19 そして境界線はベテ・ホグラの傾斜地を北へ進む。境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端である。これが南の境界である。18:20 ヨルダン川が東側の境界線である。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であり、その周囲の境界線である。18:21 ベニヤミン部族の諸氏族の町々はエリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、18:22 ベテ・ハ・アラバ、ツェマライム、ベテル、18:23 アビム、パラ、オフラ、18:24 ケファル・ハ・アンモニ、オフニ、ゲバ。十二の町とその村々。18:25 ギブオン、ラマ、ベエロテ、18:26 ミツパ、ケフィラ、モツァ、18:27 レケム、イルペエル、タルアラ、18:28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブア、キルヤテ。十四の町とその村々。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地である。」

11節以降は、その7つの部族の内、まずベニヤミン族の割り当て地について記しています。11節にあるように、彼らの地域は、南はユダ族、北はヨセフ族(マナセ族)の間の地域でした。その境界線は、12~20節に記されてあります。そして、そこにある町々が21節から記されています。前半の21~24節は東側の町々で、全部で12の町と、それに属する村落です。25~28節は西側の町々で、全部で 14の町と、それに属する村落です。

こうやってみると、ベニヤミン族に与えられたのは極めて小さな領土でした。それは、ベニヤミン族がイスラエルの12部族の中でも、最も小さな部族であったことによります。彼らはその人数、部族の小ささによって、ほんのわずかの領地しか与えられなかったのです。しかし、この割り当てられた領土をみると、そこには重要な場所が含まれていることに気付きます。13節を見ると、「そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。」とあります。

この「ベテル」とは「神の家」という意味です。これはあのヤコブの物語と関連していることに気付きます。ヤコブが兄エサウから逃れて叔父のラバンの所へ行く途中、ある町に来ました。彼はそこで石を枕にして寝ますが、不思議な光景を見ました。それは天から地にはしごがかけられていて、神の天使が上がったり、下がったりしているというものでした。彼は夢ら目が冷めたとき、いかなる孤独の中にあっても、主は自分とともにいてくださるということを知り、そこに祭壇を築いて、その祭壇に「神の家」、すなわち、ベテルと名付けたのです。(創世記28章)

このようにベニヤミン族は小さくあまり力のない部族でしたが、ヤコブ以来、人々がその所に来て、祈りと賛美をささげる聖なる場所「ベテル」を、自分の領地に取り込んでいたのです。つまり、ベニヤミン族に与えられた領地は小さかったけれども、重要な場所をしっかりと押さえ、自分たちのものとしていたのです。エルサレムもそうです。彼らはエブス(エルサレム)も自分たちの領土に取り込みました。

このように要所を押さえるというベニヤミン族の姿勢は、その後もずっと続きました。たとえば、B.C.931年に、イスラエルが北と南に分かれて戦争した時には、当時主導権を握っていたユダ族に対して不満を抱いていた他のイスラエル10部族が挑んだ戦いでしたが、12部族の中で最も小さかったベニヤミン族はユダ族とそれ以外の10部族の間に立ちながらも、結局ユダ族に付いたのです。1対10ですから、力の差は歴然です。しかも、大義名分も十部族にありました。にもかかわらず、彼らはユダ族に付いたのです。その結果、どうなったかというと、やがて北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、その10部族は、世界中に散り散りになり「失われた10部族」と言われるようになりました。要するに、この10部族は歴史のかなたに消えて行くことになるのです。そして、パレスチナには、ユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残ることになります。やがてこの2つの部族もバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれますが、しかし、70年の捕囚の期間の後で再びエルサレムに帰還し、もう一度イスラエルを再興していくのです。そして彼らは以後「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。それはユダ族に由来しているからです。ベニヤミン族もやがてこのユダ族に吸収されていきますが、しかし部族としては、その名を遺すことになるのです。

このベニヤミン族の生き方は、私たちに大切なことを教えてくれます。つまり、私たちにとって重要なことは、自分にどれだけ力があるかとか、どれだけ有利な条件の中にいるかということではなく、たとえ小さく弱い存在であっても、「要所を押さえていく生き方」が肝心だということです。

では、私たちの人生における要所とは何でしょうか。それは聖書に示されているように、神への信仰です。なぜなら、人はそのように神に造られているからです。私たちにとって真実な神への信仰を持つかどうかということは、極めて重要な事柄なのです。私たちの人生を不幸にするさまざまな原因がありますが、その根本的な原因は罪です。しかし、神はイエス・キリストを通してその罪から解放してくださいました。この十字架の贖いの御業を信じる私たちは、人生の要所を得ているのです。この要所を押さえているのなら、たとえそれがどんなに小さな領土でも、何も恐れることはありません。ただ神を見上げ、神に従って生きる人生こそ、私たちにとって最も重要なことなのです。この要所を押さえて、私たちも充実した人生を送らせていただきたいと願うものです。

創世記1章

 きょうからご一緒に創世記を学んでいきましょう。「創世記」というタイトルは、「始まり」という意味です。創世記は神以外のすべての始まりについて私たちに知らせてくれます。つまり、天地万物の始まり(1:1-25)、人の始まり(1:26-2:25)、人類の罪の始まり(3:1-7)、神の救いの始まり(3:8-24)、家族の始まり(4:1-15)、文明の始まり(4:16-9:29)、世界の諸国民と言語の始まり(11-12)、イスラエル民族の始まり(12-50)についてです。
 それでは、早速、聖書の第1ページから開いていきましょう。

 Ⅰ.天地万物の始まり(1-31)

 まず1~5節をご覧ください。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

あなたは、この天地がどのようにして始まったのかを考えたことがありますか。いくら考えても答えが出ないので、いつしか考えることすらしなくなったという人も少なくないかと思います。宇宙と人間の起源が、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと唱える進化論を、全く疑うことなく受け入れるようになってしまいました。しかし、本当に宇宙はそうしたものから進化してきたのでしょうか。もしそうであるなら、次の質問にどのように答えるのでしょうか。
①もしも、宇宙が「何か」から始まったのだとしたら、その「何か」はいったいどこから来たのでしょうか。
②もしそであるなら、物質の中から、人間のような感情や愛情といったものが生まれてくるでしょうか。
③もしも、進化論が事実であるとすれば、すべては偶然であり、私たちの人生や宇宙には何の意味もないことになります。
進化論は、一つの仮説にすぎず、すでに証明された事実ではありません。ではいったいこの宇宙はどのようにして始まったのでしょうか。

1-2節を見ると、「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあります。宇宙の初めは何もありませんでした。ただ神だけが存在し、神がこの天と地を創造されたのです。このことから、真の神とはどのような方であるかがわかります。それは永遠から永遠まで存在しておられ、この天と地を造られた創造主であられるということです。人間の手で造られたものは神ではありません。神は創造者であって、無から有を創造することができる方なのです。

その神が最初に造られたものは何でしょうか。3節には、神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」とあります。この光とは何の光のことでしょうか。というのは、14~16節の第四日の創造の記録に、太陽や月、そして星々が造られた、とあるからです。ですから、ここでいう光は、そのような星を光源とする物理的な光ではないことがわかります。それでは、この光とは何なのかと問われても、正直な話わかりません。いろいろな説明がなされています。それは「時間的な秩序だ」という人がいれば、それは「エネルギーのことだ」という人もいます。「太陽の光だが地球に到達するまでには時間がかかるのだ」という人もいます。「いのちの光だ」という人もいます。また、「神の御業を白日のもとにさらす光だ」という人もいます。どれもなるほどとは思いますが、聖書的な根拠に曖昧さが残ります。結局、この光が何であるかは分かりません。おそらくそれは太陽の光でも、人造の光でもなく、私たちの心の闇を照らす光のことでしょう。あるいは、そうした光のすべての源といってもいいかもしれません。私たちには、太陽の光や人造の光をもってしても照らすことができない闇があります。そのような闇に神が「光あれ」と仰せられたのです。この神の言葉が、闇の中に光をもたらしました。この光に照らされて歩む人はどんなに幸いなことでしょうか。

次に6~8節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」

神が第二日目に創造されたものは何でしょうか。それは「大空」です。神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別されました。これはどういうことかというと、水と水の間に空間が出来たということです。空の下に水があるだけではなく、空の上にも水がありました。もしかしたら、地球のオゾン層のように、地球のまわりに水の層があったのかもしれません。現在はその層は存在していません。なぜなら、ノアの時代にその水が地上に降ったからです。こうして、ただ光があるところから、空が造り出されました。

三日目には造られたものは何でしょうか。9~13節をご覧ください。
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。」
神が三日目に造られたのは、海と地です。神は、水しかなかったところを海と陸とに分け、陸地に植物を生えさせました。ここに、「種を生じる草」とか、「種のある実」とあります。これは、植物に自己繁殖する能力を備えられたということです。また、「おのおのその種類にしたがって」とあります。植物はおのおのその種類にしたがって造られました。ひとつの種から、別の種に進化するということはありません。植物がなぜか魚になって、魚がいつのまにか陸に這い上がって、それがわにのような爬虫類となり、それが巡り巡って猿になり、猿が進化して人間になった、ということはないのです。植物や動物は、おのおのその種類にしたがって造られたのです。

四日目に造られたものは何でしょうか。14~19節をご覧ください。
「神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。」

四日目に造られたのは太陽と月と星です。神は二つの大きな光る物を造られました。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さい方の光ものには夜をつかさどらせました。また星を造られました。神は第一日日に「光」を創造されましたが、その光が集められて保持しておく物として、こうした星を造られたのでしょう。

この大田原市は、環境省が行う「星空継続観察」において、過去に4度日本一に輝きました。自宅から見る星空は回りが明るすぎてそれほどきれいには見えませんが、車で20分ほど離れた「ふれあいの丘」から見る夜空は、恵まれた自然環境のもとでとてもきれいに見えます。しかし、「ふれあいの丘」まで行かなくとも、夜空に輝く星を見てどれほど感動したことでしょうか。それは単に夜空がきれいだからということではなく、果てしない宇宙の広がりを思うとき、神の創造の偉大さを感じるからです。ヨブ記26:7には、「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」とあります。何もそれは地球だけでなく、すべての星に言えることです。その星の数は何と、一つの銀河に数千億個もあると言われています。その銀河が数千億個もあるわけですから、宇宙には「数千億個×数千億個」の星が存在しているのです。まさに海の砂のようです。それだけの数の星が何もない空間に掛けられているということを考えると、宇宙の広がりに圧倒されます。このような宇宙が存在していることを思うとき、そこには神が存在しているとしか言いようがありません。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)のです。

第五日目に造られたものは何でしょうか?20~23節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。」

第五日目に造られたものは、魚類と鳥類でした。神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造されました。

第六日目はどうでしょうか。24~31節をご覧ください。
「神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

第六日目に造られたのは何でしょうか。第六日目に造られたのは家畜や、はうもの、野の獣です。そして、人を造られました。神は六日間で天と地と、その中の生き物のすべてを創造されました。

このように見てくると、神の創造の御業に、何か特徴があることにお気づきでしょうか。そうです、神はその種類にしたがって、すべての生き物を創造されました。したがって、宇宙と人間の起源は、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まったのではなく、神がその種類にしたがって創造されたのです。そして、その神の創造の目的は何だったのでしょうか。それは人間です。なぜなら、神は人を最初に造られたのではなく、すべてのものを造られた後で最後に造られたからです。もし最初に造られたとしたらどうでしょうか。生きていくことができなかったでしょう。しかし、神は人がちゃんと生きていくことができるように、人に必要なすべてのものを事前に備えてくださったのです。それはちょうど赤ちゃんが産まれる時に親が生まれてくる赤ちゃんが生命を維持していくために必要なすべての環境を整えるようなものです。神にとって人はそれだけ重要な、創造の目的なり、中心だったのです。

 Ⅱ.神のかたちに造られた人(26-27)

 では、神はどのように人を造られたのでしょうか。26節と27節をご覧ください。ここには、「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。

 神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。「われわれのかたち」とはどういうことでしょうか。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神はわれわれのように目や鼻や耳を、手や足といった肉体をもっておられるということではありません。神のかたちとは、神の性質や特徴のことを指しています。その特徴とは何でしょうか。それは「霊」です。神はわれわれが神と交わることができるように、霊を持つものとして造ってくださいました。これは他の動物には無いものです。人だけが神と交わることができるように、霊を与えてくださいました。これが人格の最も中心にあるもので、われわれはこの霊をもって神を慕い求め、神に祈り、神と交わるのです。これはいわば手を合わせる部分と言ってもいいでしょう。どうして人は手を合わせるのでしょうか。それが創造主なる真の神であるかどうかは別として、人はすべて、どの時代の人でも、何らかを神として拝むように造られたからです。

 娘がまだ小さいころ、青森の三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡ですが、その集落の真ん中に櫓(やぐら)が組まれてありました。「いったい何のために櫓が組まれたのか」と思いガイドさんの説明を聞いていたら、それは神を祭るためであったというのです。ずっと昔の日本人も、その生活の中心は神を祭ることだったということを知った時、それは当然と言えば当然だと思いました。なぜなら、人はそのように創られたからです。人は単に肉体と精神を持っているだけでなく、その中心に霊魂を持つものとして造られ、この霊魂を通して神を仰ぎ、神と交わるように造られたのです。

 よく東京の超高層ビルの屋上に鳥居があるのを見ます。現代の建築の技術を結集してつくられた超高層ビルなのに、なぜその屋上に鳥居があるのか。それは、どんなに建築技術が進歩しても、それだけでは解決できないものがあるからです。それは人知を超えた神の存在です。人の思いを超えた神の守りがあるようにという祈りから置かれているのではないでしょうか。それは、人がそのようなものとして造られているからです。世界中のどの民族でも、またどの時代でも、みな神を恐れ、神を敬い、神に祈って生きてきました。木や石で作られたものを神として拝む気持ちもわかります。それは罪によって真の神がわからないために、自分で神を作って拝んでいるからです。しかし、それもまたわれわれが神のかたちに造られているということの証明でもあります。人は、造り主である神に向かい、神と交わり、神のいのちに満たされてこそ、真の幸福を味わうことができるのであって、それが満たされるまでは、どんなに物質的に満たされていても、真の満足を得ることはできないのです。

 Ⅲ.神の栄光と喜びのため(31)

 では、神はいったい何のために人を造られたのでしょうか。言い換えると、人はいったい何のために生きているのでしょうか。皆さんは考えたことがありますか。皆さんはいったい何のために生きているのでしょうか。この聖書の箇所にはそのことについて二つのことが教えられています。

 第一のことは、支配するためです。28節をご覧ください。
「神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 神は人をご自身のかたちに創造すると、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。神はこの地上のすべての生き物を支配するようにと、人を創造されました。詩篇8:5-6には、このことを別の表現で次のように言及されています。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」
 これが神のかたちに造られた人類に対する神の命令です。人間は神の代理者として、被造物を管理するようにという使命がゆだねられたのです。それは、人は神に信頼された者であるということです。だから、人には考える力、この世界を形作る能力が与えられたのです。また、文化を創造することもできます。人は特別な被造物なのです。そして、特別な使命がゆだねられたのです。

 第二のことは、これが人の造られた主な目的ですが、それは、造り主である神を喜び、永遠に神をほめたたえることです。31節には、神はお造りになったすべてのものをご覧になられたとき、「それは非常に良かった」と言われました。「なぜこんなものを造ってしまったんだろう」と悲しみませんでした。「非常に良かった」と言って、喜んでくださったのです。それは言い換えると、われわれ人間は、このように喜んでくださる神のために生き、存在しているということです。もし、私たちが何のために生きているのかがわからなかったらどうでしょうか。人生はほんとうに空しいものになってしまいます。何のために生きているかがわからなければ、生きる力や喜びは生まれてこないのです。

 ある中学校の女子生徒が、担任の教師の所に行ってこう質問しました。「先生。私たちはいったい何のために勉強するのでしょうか。」この生徒は勉強していてもその意味がわからず、空しい思いを抱いて先生に質問したのです。しかし、その教師の答えはこうでした。「バカ!そんなことを考える暇があったら勉強しなさい!」でも、何のために勉強しているのかがわからなかったら、どこからその力が出てくるでしょう。どこからも出てきません。いったい何のために生きているのか、何のために勉強しているのかがわかって、初めて力が生まれてきます。人生の目的を知っているということは、私たちの人生にとって最も大切なことなのです。今、若い青少年が、人生の意味がわからなくて悩んでいます。その結果ひきこりや、不登校といった社会問題が起こっています。彼らにとって最も大切なことはどうしたらひきこもりから解放されるかということではなく、何のために生きているのか、その意味を知ることです。そのことがわかったらどれほど生きる喜びと希望、力が与えられることでしょう。

 あなたは何のために生きていますか?多くの人は「生きるために生きている」とか、「食うために生きている」というようなピントがズレたような答えをします。それだけこの問いに対して答えを持っている人は少ないのです。しかし、聖書はその問に対して明快な答えを与えてくれます。それは、神のためです。神の栄光のためです。永遠に神を喜ぶためです。なぜなら、人は神のかたちに創られたからです。このことがわかったら、私たちの人生がどんなに意味あるものとなるでしょう。

 ところで、神の栄光のために生きるとはどういうことでしょうか。それは神のために何か特別なことをすることではありません。神の喜びのために生きるとは、神に造られた者として神の御前に、神を信じて生きるということです。そうすれば、きっと神が自分に与えられた賜物を見い出すことでしょう。その賜物を用いて、心から神に仕えて生きることです。

 神はお造りになられたすべての者をご覧になられたとき、「非常に良かった」と言われました。神はあなたをご覧になられた時、何と言わるでしょう。「非常に良かった」と言って喜んでくださるような、そんな人生を歩ませていただきましょう。それこそ、私たちが造られた目的なのですから。

Ⅱペテロ1章12~15節 「いつも思い出して」

 今日はⅡペテロ1章12節から15節までのみことばから、「いつも思い起こして」というタイトルでお話したいと思います。

 Ⅰ.いつも思い起こして(12)

 まず12節をご覧ください。
「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」

「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けてのことです。ペテロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。それは救いの恵みと救いの確信に関することです。すなわち、私たちが救われたのは一方的な神の恵みであるということ、そしてその恵みを信じる信仰によってであるということ、また、そのように主イエスを信じたことで、主イエスの神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのものを私たちに与えてくださったということです。いのちとは永遠いのちのことです。敬虔とは信じた人の生き方とか考え方、価値観のことです。イエス様を信じたことで私たちに神のいのちがもたらされ、そのいのちは、私たちの人生に豊かな恵みと力をもたらしました。それまではこの世の欲によって滅びていくような者でしたが、イエス様を信じたことで、この世の欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者とされたのです。

そればかりでなく、その救いの恵みに応答しあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることによって、豊かな実を結ぶ者となりました。このことを忘れなければ、つまずくことなど決してありません。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。これらのことです。

これらのことを、この手紙の受取人たちは知らなかったのでしょうか。いいえ、知っていました。ここには、「すでにこれらのことを知っており」とあります。すでに知っていたというだけでなく、その真理に堅く立っていました。それなのに、なぜペテロはこれらのことを語る必要があったのでしょうか。

ここには、「とはいえ」とあります。彼らはすでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っていましたが、とはいえ、あえて言いたかったのです。なぜなら、いつも思い起こしてほしかったからです。「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」とあります。神がしてくださったすばらしい救いの御業、すでに救われて神のご性質にあずかっているということを忘れないように、いつもこれらのことを思い起こさせたかったのです。なぜでしょうか。人はすぐに忘れてしまうからです。

人は本当に忘れやすいものです。皆さんは昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか?ほとんど覚えていないでしょう。料理を作られた方は覚えているかもしれませんが、食べるだけの人であればすぐに忘れてしまいます。
私は学生の頃一生懸命英語の単語を覚えました。豆カードの表に英語の単語を書き、裏にその意味を書いて、何回も繰り返して記憶させるのです。ところが、30分もしないうちに半分くらいは忘れてしまいます。それでも何度も繰り返して完璧に覚えても、翌朝にはすっかりさ忘れているのです。

最近とても困るのは人の名前を忘れてしまうことですね。「あれっ、あの人の名前は何だっけなぁ」なかなか思い出せません。先日もスーパーキッズの時間に2階でお母さんたちのための聖書の学びをしましたが、そこにいつも参加している一人のお母さんの名前を度忘れしてしまいました。ちょうど学びに入る前だったので、別のお母さんがキッチンでケーキを切っていたので、その方の所に行って小声で、「あの方、何というお名前でしたっけ?」と聞いたら、「どの方ですか、あの方は舩山さんです。」と教えてくれました。それで、問題なく学びを進めることができたので助かりました。

先日も、注文した本がなかなか届かないので仙台のバイブルショップに電話して、「ちゃんとやってもらいますか?」と言おうと思ったら、その電話に出られた方が、「大橋先生、覚えていらっしゃいますか。佐藤です。佐藤康子です。福島にいたときお世話になりました。」と言われましたが、一瞬「あれっ、だれだろう」と頭が真っ白になりましたが、昔のことは意外と覚えているんですね。その方のお顔を鮮明に覚えていて、思い出すことができました。もう30年も前に短大の学生さんとしていらしていた方です。かなり昔のことでしたが、よく覚えていました。でも話の中で「平井さんはどこにいるんですか?」と聞かれたのです。「平井さんですか、彼女は結婚して今山形にいますよ」と答えられたところまでは良かったのですが、結婚して苗字が何となったか度忘れしてしまったのです。「彼女は今結婚して、あれっ何だっけな、ええと、ちょっと待って、ああ、なかなか思い出せない。まあ、とにかく結婚して元気にしています。」という会話になってしまいました。そして、受話器を置いたとたん思い出したのです。「あっ、思い出した、早坂さんだ!」こういうことってよくあるでしょう。すぐに忘れてしまいます。

神の救いについてはどうでしょうか。私たちは自分が救われていることをどれだけはっきりと覚えているでしょうか。忘れてしまうと、ただ忘れるというだけでなく、元の生活に逆戻りしてしまいます。救われているはずなのに、いや、救われているのですが、でも元に戻ったようになってしまうのです。

それはイスラエルの民も同じでした。彼らはエジプトから救い出された後、神の民としてどうあるべきなのかを聞いても、すぐに忘れてしまいました。それで約束の地を前にして、モーセはもう一度彼らに神のおきてを語りました。それが「申命記」です。「申命記」というタイトルは英語では「Deuteronomy」と言いますが、これは「再び語る」とか「もう一度語る」という意味です。どうしてもう一度語る必要あったのでしょうか。それは彼らが忘れないためです。神様は彼らが忘れやすい者であるということをちゃんと知っていました。その時は聞いているかのようですが、全然聞いていません。右から入ったかと思うと、すぐに左の方に抜けて行ってしまいます。だから、忘れないようにともう一度語ったのです。

その申命記の中で、主がモーセを通して繰り返し、繰り返し語ったことは次のことでした。ちょっと開いてみたいと思います。6章4節から12節までをご覧ください。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。・・私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:4-12)

このように、モーセの最後のメッセージは、主を愛するようにということでした。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさいということを心に刻み、これを忘れないようにしなさい、ということだったのです。しかし、彼らが約束の地に入るとすっかり忘れてしまいました。そして敵に征服され、ついには国が分裂するという悲劇を招きました。

それはイスラエルだけではありません。すべてのクリスチャンに言えることです。黙示録2章と3章にはアジヤにある七つの教会に書き送られた手紙が書かれてあります。この七つの教会は、この地上のすべての教会のひな型です。それらの教会は現在どのようになっているかというと、すべてイスラム教の寺院に化しているのです。なぜでしょうか。忘れてしまったからです。
たとえば、2章4節にはエペソにある教会に、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」(黙示録2:4-5)と書き送られましたが、彼らは初めの愛から離れてしまいました。初めは熱心でした。心から主を愛していました。しかし豊かになると、初めの愛から離れてしまったのです。だから主はここで、どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさいと言われたのです。

また、サルデスの教会には、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされてはいるが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」(黙示録3:1-3)と書き送られました。彼らは、はたから見たら熱心な人たちでした。いろいろな活動をしていました。しかし、霊的には眠ったような教会で、ただ形式的に、義務感から礼拝しているような教会でした。ですから主はここで、「だから、あなたがたはどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」と言われたのです。

「思い出しなさい」。思い出すことは大切なことです。私たちも主を忘れてしまうと、自分の罪が赦されているのを忘れてしまうと、昔のむなしい生活に逆戻りしてしまいます。ですから、ペテロはここで、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、その真理に堅く立っている人たちですが、とはいえ、私たちはこういう弱さを持っているので、いつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとしているのです、と言っているのです。

きょうは、この後で聖餐式を行いますが、なぜ聖餐式を行うのでしょうか。忘れないためです。主イエスは言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカ22:19)私たちのために主はどんなことをしてくださったのか、そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。そのことを忘れないで心に刻むために、行うのです。どうか忘れないでください。そうすれば、決してつまずくことはありません。そして、あらゆる恵みがますます加えられ、イエス・キリストのご性質へと変えられていくでしょう。

Ⅱ.奮い立たせるために(13)

「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」

「地上の幕屋」とは、肉体のことを指しています。ペテロは自分のこの地上の肉体を指して「幕屋」と言ったのです。ペテロは生きている間、自分がすべきことが何かを知っていました。それは、これらのことを思い起こさせることによって、人々を奮い立たせることです。これが、自分が生きている間、自分がなすべき務めであると思っていたのです。

もともと彼は漁師でしたが、そんな彼を主は召してくださいました。しかし荒々しく、直情的な彼は、いろいろなことで失敗もしました。彼の最大の失敗は、鶏が鳴く前に三度、イエス様を否むことでした。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)とは言ったものの、いざイエス様が捕らえられると、彼はイエス様が言われたとおりに、イエス様を否んでしまいました。彼はどれほど悲しかったでしょうか。聖書には、ペテロは、鶏が鳴いたときイエス様が言われたあのことばを思い出し、外に出て激しく泣いた、とあります。しかし、イエス様はそんな彼のために祈ってくださいました。信仰がなくならないように祈ってくださったのです。なぜでしょうか。それは、彼が立ち直ったら、同じように落ち込んでいる人たちを励ましてあげるためです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
ペテロはこのことばを心に留め、繰り返して周りの人たちを励まし続けてきました。救われたことを思い起こすように、自分がどこから救われたのか、主を裏切った自分が主のあわれみによってまた再び立ち上がらせていただき、その恵みを忘れないように、いつも主のことばを思い起こすように、そう言って彼は人々をずっと励まし続けてきたのです。

それは私たちにも同じです。私たちもペテロ同様失敗しては落ち込み、なかなか立ち上がれないでいるような者です。しかし、朱はそんな私たちのために祈ってくださいました。それは、私たちも立ちあがったら兄弟たちを励ましてあげるためです。不思議なことに、信仰が落ち込んでいる時は、他の人はだれも自分のような経験なんてしたことがないだろうと思って孤独になりがちです。そのような時、いつもそばにいて話を聞いてくれる人がいたら、そして励ましてくれる人がいたら、どんなに慰められることかと思います。

ペテロは、それが自分の生涯において自分がなすべきことだと受け止めていました。それはペテロだけでなく私たちにも求められているのではないでしょうか。神は、私たちがペテロのように信仰で悩み、苦しみ、失敗し、落ち込んでいる人たちを励ますために、用いようとしておられるのです。

Ⅲ.クリスチャンの努め(14-15)

ペテロはなぜそのように思っていたのでしょうか。14節にその理由が記されてあります。「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」

ペテロは、人々の信仰を励ますこと、人々を奮い立たせることが、自分に与えられている使命だということをよく理解していました。それは、彼が自分の死が間近に迫っているのを知っていたからです。幕屋とは先ほども申し上げたように「テント」のことです。キャンプの時テントを張って一時的に寝泊りすますが、キャンプが終わるとテントをたたんで家に帰ります。それと同じように、私たちのたましいはこの肉体というテントに一時的に住みますが、やがて肉体を去るときがやって来ます。その時私たちのたましいは永遠の住まいである天のふるさとに帰ります。そしてイエス様が再び地上に来られるとき、もはや古いからだではなく新しいからだ、栄光のからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるのです。それはもうテントのような一時的なものではありません。決して滅びることのないからだ、天国というマンションに住むようになるのです。このことをパウロはこのように言っています。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Ⅱコリント5:1)
私たちの住まいである地上の幕屋、地上の建物が壊れても、神が下さる建物があります。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。

ペテロは、自分がこの幕屋を脱ぎ捨てるとき、すなわち、死が間近に迫っているのを知っていました。ですから彼は、自分がこの地上で何をなすべきかを覚え、そこに専念したのです。

それはパウロも同じ多です。パウロも自分の死が近づいたとき、このように言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
すばらしいみことばです。私の墓石にも書いてもらいたいみことばです。「走るべき道のりを走り終え」このようにペテロも、パウロも、栄冠を受けたるために、走るべき道のりを走り終えました。彼らは自分たちのゴールを知っていたのです。ゴールを知らないような走り方ではなく、ゴールを知っていて、ゴールに向かって走っていたのです。だから、途中いろいろなことがあってもそれを乗り越えることができました。このように自分のゴールを知っているということは大切なことです。

あなたの人生のゴールは何でしょうか。あなたは今そこに向かって走っておられるでしょうか。私たちのゴールはこの地上にはありません。私たちのゴールは神の国です。このゴールを知っている人は、たとえ死を間近にしても何の恐れもありません。また、このゴールを持っている人はどんな苦難の中にあっても生きる希望があるので前進することができるのです。今生かされていることに感謝して、今自分にできることを熱心にやろうと奮闘するのです。

そればかりではありません。15節をご覧ください。ここには、「また、私が去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こさせるよう、私は努めたいのです。」とあります。
「私が去った後に」というのは、ペテロが死んだ後にということです。この「去る」という言葉は英語の「exodus」、つまり「出国」のことです。これは「出エジプト記」の書名にもなっている言葉です。同じ言葉がルカ9:31で、イエス・キリストの死、最期を表すために使われています。つまり、聖書は、「死は」終わりではなく、むしろ新しい場所への出発、出国として教えているのです。この世では悩みや苦しみ、叫び、死がありますが、神の国では死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ペテロはこの後で自分が捕らえられて処刑されるということを知っていましたが、このことを覚えて喜んでいたのです。そしてそれだけでなく、残されている人たちのことを考え、彼らを励まそうと、自分が去った後もそのことを思い起こせるように、努めていたのです。すごいですね。生きている間だけでなく、死んでからも、残された人たちが励まされるような生き方をしようと努めていたとは。彼は自分が死んだ後で自分のことを思い出してほしいなんて思いませんでした。残された人たちが励まされるようにと願っていたのです。

いったいどうしたら残された人たちが励ましを受けることができるのでしょうか。彼らがいつもこれらのことを思い起こすことによってです。これらのことって何ですか。それは彼がこれまで語ってきた救いのすばらしさです。イエス様を救い主と信じたことで、永遠のいのちと敬虔に関するすべてのものが与えられました。また、キリストのご性質にあずかる者ともされました。イエス様を信じたことで、すべてのものが与えられました。何という恵みでしょう。このことを彼らがいつでも思い起こせるように努めたのです。

皆さんはどうでしょうか。死んだらどうしようとか、病気になったらどうしよう、ちゃんと食べていけるだろうかと不安になってはいませんか。ペテロはここで、自分はもうすぐ幕屋を脱ぎ捨てる時が近くなっていることを知っている。でも行先は天国ですから何の心配もありません。心配なのは、残された人たちがどうやって励ましを受けるかということであって、そのためには、いつでもこれらのことを思い出してほしい。思い起こせるようにと努めたいと願っていました。

これは神が私たちにも望んでおられることです。私たちはこの先どうなるかということを心配するよりも、残された人たちがこの信仰にしっかりと立っていることができるようにと努めることです。そのためには、彼らがいつもでもこのことを思い起こせるように、私たちがただ口で言うというだけでなく、その神の恵みの中を実際に生きるということです。私たちがこの世を去る時に、「ああ、おじいちゃんは走るべき行程を走り終えた。神の恵みって本当にすばらしい!主よ、感謝します。」と残された人たちが言えるような生き方を、私たちも努めたいと思うのです。

ヨシュア記17章

きょうはヨシュア記17章から学びたいと思います。

 Ⅰ.戦士マキル(1-2)

 まず1節から2節をご覧ください。
「マナセ部族が、くじで割り当てられた地は次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。さらにそれはマナセ族のほかの諸氏族、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族のものになった。これらは、ヨセフの子マナセの男子の子孫の諸氏族である。」

16章ではエフライム族が受けた相続地について記されてありましたが、この17章にはマナセ族に割り当てられた相続地について記されてあります。マナセはヨセフの長男でしたが、先に相続地を受けたのは弟のエフライムでした。それは創世記48:19にあるように、「弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と語ったイスラエルの預言の成就でもありました。

1節には、マナセの長男であるマキルという人物が、ギルアデとバシャンという二つの土地を獲得したことが書かれてあります。その地はくじによって割り当てられましたが、「彼は戦士であったので」とあるように、戦ってその地を獲得しました。つまり、イスラエルの相続地というのは自動的に与えられたというのではなく、その地を確保できる自由が与えられたに過ぎないということだったのです。そこには先住民族が住んでいたわけですから、いくら神がこの地を与えるとは言っても、それは棚ぼた式にもたらされるものではなく、自分たちの努力によって獲得していかなければならなかったのです。マキルは戦士だったので、自分に割り当てられた相続地を獲得していきました。

ここに、「信仰」とはいかなるものであるかが教えられています。つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救い、驚くほどの祝福を与えられましたが、そのような約束を与えられた者は、自らの手でそれをしっかりと掴まなければならないということです。ちょうど今週の日曜日の礼拝でⅡペテロ1:5~11までを学びましたが、そこには、「あらゆる努力をして、信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)とありました。また、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(同1:10)とありました。救いは一方的な神の恵みであり、私たちの行いによるのではありません。しかし、そのように一方的な神の恵みによって救われた者は、その恵みに応答してますます実を結ぶ者となるように熱心に求めていかなければなりません。信仰を持つというのは、決してあなた任せになるということではありません。自分は何もしなくても、神様がみんなやってくれるのだというのではなく、みんなやってくれた神の驚くべき恵みに感謝して、キリストのご性質にあずかるためにあらゆる努力をしなければならないのです。その時神の聖霊が働いてくたさいます。神が与えてくださった祝福を、自分たちの最大限の力をもって応答し、神の約束と命令を遂行していくことなのです。

Ⅱ.ツェロフハデの娘たち(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。
「ところが、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、娘だけで息子がなかった。その娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、族長たちとの前に進み出て、「私たちの親類の間で、私たちにも相続地を与えるように、主はモーセに命じられました。」と言ったので、ヨシュアは主の命令で、彼女たちの父の兄弟たちの間で、彼女たちに相続地を与えた。こうして、マナセはヨルダン川の向こう側のギルアデとバシャンの地のほかに、なお十の割り当て地があてがわれた。マナセの娘たちが、彼の息子たちの間に、相続地を受けたからである。ギルアデの地は、マナセのほかの子孫のものとなった。」

ここには、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデの娘たちのことが記されてあります。マナセから見たら曾曾曾孫に当たります。この娘たちが、相続地を受けるために、祭司エルアザルとヨシュアのもとに来て、自分たちにも相続地を与えるようにと懇願しました。なぜこんなことをしたのでしょうか。当時の女性は、戦前の日本と同じように財産を受け継ぐ権利はなく、その資格を持っていなかったからです。彼らはその権利を主張したのです。しかも彼らはマナセから数えたら曾曾曾孫です。そのような意味からもこのように懇願することは極めて異例のことであり、考えられないことでした。がしかし、彼女たちは大胆にも願い出て、その結果、驚くべきことに相続地を得ることができました。しかも、あの戦士マキルでさえその武力を行使してやっと二つの相続地を獲得したというのに、彼らには何の努力もなしに、十の割り当て地が与えられたのです。これはどういうことなのでしょうか。

このツェロフハデの娘たちのことについては、以前、民数記で学びました。民数記27章です。そこには、このツェロフハデの娘たちがモーセのところにやって来て、男の子がいないという理由で相続地が与えられないのはおかしいと、自分たちにも与えてほしいと訴えたところ、モーセはそれを主の前に持って行き祈りました。すると主は、「彼女たちの言い分は正しい」と、彼女たちにも相続地を与えるようにと命じられたばかりか、もし子どもに男子がいない時にはその娘に相続地を渡すように、また娘もいない時には父の兄弟たちに、兄弟もいなければ、彼の氏族の中で最も近い血族に継がせるというおきてを作るようにと命じたのです。それは、このツェロフハデの娘たちの訴えがきっかけとなってできたおきてでした。

ここで彼女たちが大祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、自分たちにも相続地を与えてほしいと懇願したのは、この出来事が根拠になっています。つまり彼女たちは、主がそのように約束されたので、それを自分たちのものとしたいと願い出たのです。確かに、彼女たちは男子ではありませんでした。しかし、そうした障害にも関わらず主の前に出て、主のみこころを求め大胆に願い出たのです。私たちの神は、このようにみこころを求めて大胆に願う者の祈りを聞いてくださるのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。どのような人が受け、見つけ出し、開かれるのでしょうか。求め続け、捜し続け、たたき続ける人です。そのような人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。

イエス様はそのことを教えるために、不正な裁判官のたとえを話されました。ルカの福音書18章です。一人の不正な裁判官がいました。彼は神を恐れず人を人とも思わない人でした。そんな彼のところにひとりのやもめがやって来て、「どうか、私のために裁きを行って、私を守ってください。」と懇願しました。しかし、彼はその訴えを無視しました。それでも、このやもめが毎日やって来ては、「どうか私を訴える者をさばいてください」と叫び続けたので、彼は神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でしたが、あまりにもうるさいので、さばきをつけてやることにしました。神はこのようなお方だというのです。だとしたら、私たちもあつかましいと思われるほど執拗に求め続けていくのなら、神は心を動かしてくださるのではないか、と言われたのです。

しかし、このツェロフハデの娘たちは、ただ執拗に訴えたのではありませんでした。彼女たちは神の約束のことばに信頼して訴えたのです。4節を見ると、「主はモーセに命じられました」とあります。それはかつてモーセを通して命じられたことなので、その神の約束を握りしめて訴えたのです。「神さま、あなたはこのように約束してくださったではありませんか。ですから、どうかこれを実現してください。」と、迫ったのです。そして、ヨシュアはこの約束を知った時、彼女たちは受ける資格のない者たちでしたが、その約束のごとく彼らに与えたのです。ですから、大切なのは自分たちが執拗に祈ればいいということよりも、それが神の約束であることを確信して祈ることです。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

Ⅲ.マナセ族の失敗(7-13)

次に7節から13節までをご覧ください。
「マナセの境界線は、アシェルからシェケムに面したミクメタテに向かい、その境界線は、さらに南に行って、エン・タプアハの住民のところに至った。タプアハの地は、マナセのものであったが、マナセの境界に近いタプアハは、エフライム族のものであった。またその境界線は、カナ川に下り、川の南に向かった。そこの町々は、マナセの町々の中にあって、エフライムのものであった。マナセの境界線は、川の北で、その終わりは海であった。その南は、エフライムのもの、北はマナセのものであった。海がその境界となった。マナセは、北はアシェルに、東はイッサカルに達していた。またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」

ここには、マナセ族が受けた相続地の地域がリストアップされています。しかし、何度も述べてきたように、相続地が与えられたとは言っても、そこにはまだカナン人が住んでおり、このカナン人と戦って獲得しなければ、それを自分たちの土地にすることはできませんでした。かくしてマナセ族はカナン人の原住民と戦い、次々とその地を占領していきました。しかし、12節を見ると、マナセの子孫は、これらの町々を取ることができなかったので、カナン人は長くこの地に住みとおしました。つまり、実際にはかなり多くの地を占領できずにいたのです。けれども、長い戦いの時を経て、彼らは次第に力をつけて強くなって行くと、やがて、完全にカナン人を征服するに至りました。13節には、「イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」とあります。どういうことでしょうか。彼らは戦いに勝って、やっとその地を占領することができました。しかし、占領した時、彼らはカナン人をどのように熱かったかというと、カナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことはしませんでした。なぜでしょうか。その地を占領したならば、その地の住人を追い払うか、あるいは聖絶するようにというのが、主の命令であったはずです。それなのに彼らはそのようにしませんでした。カナン人に苦役を課したが、追い払ってしまうまでしなかったのです。どうしてでしょうか。

ある学者は、ここはイスラエルの人道主義の表れだと評価します。長い間定住地を持っていなかったイスラエルの民にとって、その厳しい生活を顧みる時に、カナン人たちに対して、自分たちが歩んできたと同じ運命を担わせるにはあなりに忍びなかったのだと言うのです。苦難が私たちにもたらす大切な意味の一つは、自らが経験した苦労や苦悩によって、他者への思いやりを持つことができることだというのです。

しかし、そうではありません。ここでマナセ族が強くなってもその地に住むカナン人を追い払わなかったのは、彼らが神の命令を割り引いて従い、妥協してしまったからです。苦役を課していれば、追い払わなくてもいいだろうと、それでも自分たちは神に従っていると思い込んでいたのです。しかし、神の命令は聖絶することでした。その地の住人を追い払い、その地の偶像を完全に破壊し、その地において神の民として聖く生きることだったのです。それなのに、彼らはカナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことをしませんでした。

その結果、イスラエルがどうなったかを、私たちはイスラエルの歴史を通して見ることができます。彼らは自分たちの目で良いと思われるようなことをしたので、後になってそのカナン人からの攻撃によって苦しみ、その苦しみの中から叫ぶことで、神はさばきつかさ(士師)を送りイスラエルを救い出されました。そうやってイスラエルが神に従い、安定し、豊かになると、彼らは再び神を忘れて自分勝手に行動し、自らそのさばきを招くことになってしまうのです。その結果、国が二つに分裂し、北も南も諸外国によって攻撃されてしまいます。ほんの小さなほころびが、大きな滅亡を招くことになったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。自分では神に従っていると思っていても、ただそのように思い込んでいるだけで、この時のイスラエル人のように徹底的に神に従っているのでなければ、実際には従っていないことになるのです。それは信仰の敗北を招くことになってしまいます。99%従っていても1%従っていなければ、従っているとは言えません。誰も完全に主に従うことなどできませんが、その中にあってこうしてみことばに教えられながら、ご聖霊の助けをいただいて、神のみこころにかなった者となるように努めていきたいと思います。

Ⅳ.信仰の目で見る(14-18)

最後に14節から18節までを見て終わりたいと思います。
「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

ヨセフ族の子孫エフライム族とマナセ族に対する土地の分配が終わると、そのヨセフ族がヨシュアのところに来てこう言いました。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
これはどういうことかというと、自分たちは主が祝福してくださったので、こんなに数の多い民となったのに、なぜただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのか、ということです。つまり、彼らは、これでは不十分だと、ヨシュアに不満を訴えたのです。何ということでしょう。彼らが与えられたのはカナンの地の中心部分の最良の地でした。しかも最も広大な土地が与えられたのです。しかも、それは彼らが何かをしたからではなく、彼らの先祖ヨセフの遺徳のゆえです。どれほど感謝してもしきれないはずなのに、彼らは深く感謝したかというとそうではなく、逆に不満タラタラ訴えました。

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろいことに調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もう少し収入がほしい」と回答しました。人間の欲望は止まるところを知らないようで、「満足です」というよりも「もう少しほしい」と思っているのです。
このヨセフの子孫たちもまた、この調査結果にあるように、神の恵みによって与えられた土地なのに、これでは足りない、もっと欲しいと言いました。

それに対してヨセフは何と言ったでしようか。16節には、「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」とあります。だっだ自分たちで上って行って、山地を切り開いたらいいじゃないか、と言いました。

するとヨセフ族が言いました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
なるほど、彼らがヨシュアに不満を漏らすのもわかります。確かに彼らが受けた相続地は良い地でありその領地は最も広くても、そのほとんどが山岳地帯であり、しかもそこには強い敵が住んでいたので、その領地を自分たちのものとするには、極めて困難だったのです。山岳地帯であり、住むのに適さず、しかも強力な敵がいたので、「この地を与える」と言われても、実際に彼らが使用できる土地、支配することができた土地はほんの僅かしかありませんでした。そこで彼らは、「もっと別の領地を、もっと広い地を・・」と願い出たのです。

彼らの気持ちはわかります。けれども、カナンの地であればどこにでもカナン人は住んでいたはずであって、それはマナセとエフライムだけではなく、他のどの部族も同じことでした。そのカナン人と戦って与えられた相続地を自分たちのものにしなければならなかったのです。それなのに彼らは、そうした問題点を見つけてはヨシュアに文句を言い、自分で切り開くということをしませんでした。むしろ彼らはその広い土地が与えられていることを喜び、感謝して、敵と戦ってその地を自分のものにしなければならなかったのです。彼らに欠けていたのは、こうした信仰であり、開拓者精神だったのです。

それは日本の教会にも言えます。確かに地方での伝道は困難を極めます。人口が減少しているというだけでなく、因習との戦いもあります。都会で伝道すればどんなに楽かという同労者の声をどれほど聞いたことでしょう。けれども、都会には都会の悩みもあります。都会で一定の土地を確保しようとしたらどれほど大変なことでしょう。しかし、地方では都会と比べてそれほど困難ではありません。都会ではできないようなダイナミックな伝道ができるのです。要するにどこで伝道しているかということではなく、どこで伝道しても、どこに遣わされても、自分たちに与えられている使命を確認して、その置かれた地で咲くことなのです。

それに対してヨシュアはどのように答えたでしょうか。17節と18節をご覧ください。ここには、「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

まずヨセフの子孫たちが訴えた、自分たちは数が多い民であるので、山地は自分たちが住むのには十分ではないということに対しては、何を言っているんですか、数が多いということはそれだけ力があるということですから、その力で山地を切り開いていくべきではないか、と言いました。
また、ヨセフの子孫たちが、自分たちが住んでいる所にはカナン人がいて、彼らは鉄の戦車を持っていて強い、と言うと、敵が強いということ、鉄の戦車を持っているということは、神の全能の力が働く余地があるということだから、その神に信頼して、その信仰によって敵を打ち破ることができる、と言いました。
このように、ヨシュアから見るとヨセフの子孫たちが挙げた不利な条件は、むしろ有利な条件だったことがわかります。ヨシュアは不利と思われる状況の中に有利な条件を見出して、それを神のみこころを行っていく力へと転換していったのです。神を信じるということはこういうことです。信仰を持つとはこういうことなのです。

私たちもこの世の目で見れば不利だと思える条件を信仰の目で見て、それを有利な条件へと転換し主の力に支えられながら、大胆に神のみこころを行う者とさせていただこうではありませんか。