伝道者の書2章1~11節「あなたの心を満たすもの」

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前回から伝道者の書を学んでおります。前回もお話ししたように、この書のポイントはこれです。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「日の下」というのは「日の上」に対する表現で、神様抜きの、神様なしのという意味です。神様なしの人生は、実に空しい。どんなに楽しいことやすばらしいことをやっても、イマイチ心が満たされません。喜び、平安がありません。全然ないと言っているのではありません。イマイチなのです。それをやっている時はいいのですが、その後で急に空しさが襲って来ることがあります。日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって何の益にもならないのです。

伝道者は「空の空。すべては空。」という言葉を繰り返して語っています。「空」という言葉は、文字通り「空っぽ」という意味です。実がないのです。見てくれは良くても、中身は空っぽです。それは煙のようにつかみようがありません。伝道者はいろいろな人生の経験を通して、このことを語るのです。たとえば、知恵とか知識ですね。人はみないろいろなことを学びたいし、知りたいです。私たちは好奇心でいっぱいですのでどの本屋さんも、どの図書館も、いつも人が絶えません。新しい情報、新しい知識、そうした知的関心や好奇心が旺盛なのです。しかしこの伝道者は、1:16に「今や、私は、私より前にエルサレムにいただけよりも、知恵を増し加えた。」とあるように、いろいろなことを知ろうと熱心に知恵、知識を増しました。もう知識王ですよ。もしクイズ王決定戦にでも出ようものなら、ピンポーン、ピンポーンと、すぐにスイッチを押して答えられるような人でした。本当にいろいろなことを知っていて、彼に抜きん出るような人はいませんでした。それほどよく学んだ人だったのです。

ところが、それほど多くの知識を得た伝道者は何と言いましたか。1:17には、「それもまた、風を追うようなものだ。」とあります。「空」です。「ヘベル」です。いろいろなことを学び、いろいろなことを探究しましたが、彼の心にあったものは、風を追うようなもの、つまり、何とも掴みようのないもの、ヘベルだったのです。むしろ、知恵が多くなることで皮肉なことに悩みも多くなりました。知識を増したことで、苛立ちも増しました。何か物事が整理できたかというとそうではなく、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、知れば知るほど、逆に心の中には喜びや満足感といったものが消え失せ、不安や恐れ、空しさが残ったのです。きょうの箇所はその続きです。

Ⅰ.快楽を味わってみて (1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」

伝道者が次に試してみたのは快楽でした。快楽を味わってみるということです。彼は心の中でこう言いました。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」彼は人生を十分楽しむことができれば、人は幸せになることができるのではないかと考えたのです。ソロモン王は最高の知者であるのみならず、富者、大金持ちでもありました。列王記第一10章を見ると、彼がどれほどの富を持っていたかがわかります。彼のところには1年間に666タラント、すなわち、数億円もの金が入ってきました。このほかに、隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがありました。彼は、大縦1つに六百シェケルの金を使いました。大盾とは、足から頭まですっぽりおおってしまう大きな盾のことですが、これをすべて延べ金で作ったのです。六百シェケルは数十万円の価値になるでしょうか。金ですから、初めから戦うための実用性はなく、威光を表していた過ぎません。また延べ金で盾三百を作り、レバノンの森の宮殿に置きました。そこには大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。彼が飲み物に用いる器もすべて金です。レバノンの森の宮殿にあった器もすべて純金で、銀の物はありませんでした。銀はソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかったのです。それだけ富んでいたということです。私の名前も富んでいる男ですが、数億倍、いやそれ以上の違いがあります。信じられないほど富んでいました。ということはどういうことかというと、どんな快楽でも味わうことができたということです。

まあ、私たちも庶民の快楽を味わうことがあります。この辺は温泉も近いですから、ちょっと車を走らせるとゆったりと温泉に入ることができます。佐久山温泉。那須温泉。大田原温泉。喜連川温泉。いろいろありますね。私も温泉に入るのは好きですが、もう一年以上行っていません。寒い日などに行くことがありますが、本当に気持ちがいいです。他にも、楽しいことはたくさんあります。私の趣味は食い道楽なんですが、さくらに向かう途中、佐久山温泉の近くに小さな和菓子屋さんがあって、そこを通るたびに「アンドーナッツあります」という張り紙がしてあるんです。しかも、土日限定です。私は小さい時から母が買ってくれた「あぶら饅頭」の味を忘れられず、そこを通るたびに「ああ、食べたい」「ああ、食べたい」と言うものですから、家内が「だったら買って食べたら」と言うので買おうと思っても、いつも「本日完売」の張り紙が出ているのです。そうなると、ますます食べてみたくなるでしょう。ある日曜日さくらの教会に行く途中で言ってみたらありました。しかも最後の1袋でした。1袋に3つしか入っていなかったので、教会の皆さんの分はないなと、家内に1つ、私が2つ食べました。しかし、思っていたような味じゃなくてがっかりしました。でも楽しいものです。食べ歩きは。

中にはカフェに行ったり、映画を観たり、野山を散策したり、釣りに行ったり、スポーツを観戦したり、農作物を作ったりと、いろいろなことを楽しんでおられるのではないかと思いますが、ソロモンが味わったのは私たちのそれとは比較にならないものでした。ありとあらゆる快楽を味わうことができたのです。そのソロモンが感じたことはどんなことだったか。1節、「しかし、これもまた、なんと空しいことか。」何とも冷めた言い方です。そうした快楽や楽しみは全く無意味なものであり、何の実りももたらさなかったのです。

2節をご覧ください。ここには、「笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」とあります。第三版は、「笑いか。ばからしいことだ」と訳しています。笑いは、内容にもよりますが、おもしろいですよね。私はよく「笑点」をよく見ますが、一つのお題に対して回答者が答えるわけですが、実におもしろい。よくぞまあこんなことを考えられるものだなあと感心してしまいます。何だか心が軽くなるのを感じます。でもそんな笑いさえも、この伝道者は狂気だと言い切るのです。もちろん、ここで伝道者が言っていることはそうした笑いそのものがばかばかしいとか、趣味や楽しいことが全く無意味だということではありません。ここで伝道者が言っていることは、日の下で行われること、つまり、神を抜きにしての快楽や笑いは空しいということです。人間が自らの手で満足を作り出そうとすることの愚かさを言っているのです。というのは、その背後には狂気と悲しみが潜んでいるからです。この新改訳聖書2017で、「笑いか。それは狂気だ。」と訳しているのはそのためです。神を無視した人生において、どんなに快楽と笑いを求めても、結局それは意味のないことであり、何の役にも立たないのです。

心に病を抱えているひとりの男の人が、精神科医を訪ねました。彼は、極度のうつ病で苦しんでいたのです。それであらゆることを試してみましたが、なんの効果もありませんでした。朝目が覚めると、心に重いものがありました。その状態は、時間の経過とともに悪化して行きました。彼はこのままでは生きていくことができないと思い、助けを求めて精神科医のところに行きました。

その日の診察が終わって部屋を出ようとした時、精神科医からこんな提案を受けました。「町の劇場でショーが行われているから、それを観に行くといいですよ。イタリア人のピエロが出ています。彼は毎晩、腹がよじれるほど観客を笑わせてくれます。あなたもそれを観て苦しいことを忘れ、2時間ほど笑ったらどうですか。治療効果があると思いますよ。」
するとその患者は、無表情でこう答えました。「私がそのピエロなんです。」

ですから、ここで伝道者はやみくもに快楽や笑いはみな悪いものだとか、必要ないものだと言っているのではありません。クリスチャンはこうした楽しいことをすべて避けるようにと勧めているわけでもないのです。むしろ、クリスチャンも笑いのある楽しい生活であったらいいと思います。しかし、その楽しみというのはこの世の楽しみとは違い、日の上での楽しみ、神の御前で喜ぶことです。

ダビデは、人生における真の喜びについてこのように歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)

クリスチャンの喜びとはこれでしょう。神の御前での喜びです。ダビデが経験した喜びは、この喜びでした。「日の下」ではなく、「日の上」での喜び、神の御前での喜びだったのです。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

いつだったか忘れましたが、私がまだ20代の頃、アメリカの家内を日本に派遣した教会の礼拝に行った時のことです。その教会の青年の方々が私たちを歓迎して礼拝後にポットラックパーティーを開いてくれました。その教会の牧師は、今はもう天国におられますがキュースターという牧師で、日本の宣教にとても重荷をもっておられた方で、私たちがアメリカに帰国するたびにいつも暖かくもてなしてくれました。その牧師から依頼されたのでしょう。青年の方々が私たちのために楽しい時を計画してくれたのです。

私たちが連れて行かれたのはある若い夫婦の家でした。バックヤードにはプールがあって、バーベキューができるスペースもありました。彼らはそこで思いっきりはしゃいでいました。私たちをウエルカムするのかと思ったら、私たちのことはそっちのけで、キャー、キャー言いながら自分たちが思いっきり楽しんでいるのです。そうかと思ったらランチの後で私たちについて話を聞きたいと言い、真剣に聞いて祈ってくれました。オンとオフがはっきりしているんですね。別に気取らないし、かた苦しさもないのです。本当にリラックスした一時でした。日の上での喜び、神の御前での楽しみというのはこういうことなんだなぁということを教えられたような気がしました。

Ⅱ.愚かさを身につけてみて(3-8)

次に、3節から8節までをご覧ください。3節には、「私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。」とあります。

そこで伝道者が次に考えたことは、ぶどう酒によって元気づけられることでした。ぶどう酒は伝道者が好んでいたものです。最良のぶどう酒を飲めば、からだは元気づけられるだろうと思ったのです。さらに「愚かさ」も身に着けてみることにしました。「愚かさ」とは1:17にも出てきましたが、「知恵」と真逆のものです。そこにも、知恵と知識を、そして、念のためにその真逆の狂気と愚かさを知ろうと心に決めたとあるように、自由奔放に生きる方が楽しいとは思うが、何が良いかを見つけるまでは、念のために愚かさも試してみようとしたのです。しかし彼の心は知恵によって導かれていたので、完全に愚かになることはありませんでした。心のどこかでブレーキをかけながら、からだはぶどう酒で元気づけようとしたのです。そういう時がありますよね。ちょっと羽目を外してみようと思っても、心のどこかでブレーキをかけているということが。そうやって少し愚かさを試してみようとしましたが、それでも彼の心が満たされることはありませんでした。

そこで伝道者が次にしたことは、自分の事業を拡張することでした。4-6節をご覧ください。「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。」

すごいじゃないですか。彼は自分に与えられた仕事や、さまざまな事業をどんどんやる人でした。今日でもすばらしい事業家、サクセスストーリーを歩んでいる人がいます。ソロモンも彼は彼なりにその時代、自分に与えられた仕事に一生懸命打ち込み、事業を拡大していったのです。そして豪邸も建てました。広々としたぶどう畑もいくつも造りました。立派な庭園も造りました。そんな暮らしにあこがれませんか。私の家の前はセブンイレブンなので、もっと静かで森に囲まられたところでクラスことができたらなぁと思うことがあります。ソロモンにはそれがありました。いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹も植えました。いいですね。園を歩きながらリンゴを取っては食べられる。いろいろな果実をとってそれをシリアルに入れれば、あとは牛乳を注ぐだけです。そして、その森を潤すために池も造りました。もう彼の右に出る人はいませんでした。それくらいのすばらしい事業を展開していたのです。

一方でまた男女の奴隷もいました。7-8です。「私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。」

ここをよく見ると、家で生まれた奴隷も何人もいたとあります。つまりお金で買った奴隷だけでなく、自分が所有していた奴隷が生んだ奴隷がいたということです。それだけ多くの奴隷がいたわけです。当時はどれだけ奴隷を所有しているかも、その人の豊かさのステータスであり、一つのバロメーターだったのです。そして同じ7節には、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」とあります。羊何頭、牛何頭を所有していたというのも、その人がいかに豊かな人であったか、富裕な人であったかを表していました。

そしてまた彼は、自分のために金や銀、それに王たちの宝や諸州の宝も集めました。もう珍しい金銀財宝をいっぱい手にすることができたのです。先ほども紹介したように、列王記第一10章を見ると、彼は銀を石ころのように使ったとあります。そしてシェバの女王など、諸国が宝をもって彼のところに貢ぎました。かつては無名の若い青年でした。そのソロモンが一代でここまで築くことができたというのはすごいことです。普通なら先代の成し遂げた事業の上にそれを拡張していくわけですが、彼は一代でここまで財を築きました。どれほど頑張って来たかがわかります。

さらに彼は男女の歌い手を得ました。ニューヨークのエンターテーメント、音楽、ショーを、毎晩自由に楽しむことかできたということです。そして人の子らの快楽である、多くの側女も手に入れました。列王記第一11章には、彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいたとあります。そんなに妻がいれば名前を覚えるも大変だったと思いますが、彼はそれだけの女性がいれば充足できるのではないかと思ったのです。しかし残念ながらその結果は、そうした妻たちによって心が転じられてしまうということでした。彼の心がほかの神々へと向けられ、イスラエルの神、主から離れることになってしまったのです。結局、そのようなものによって心が満たされることはありませんでした。後に残ったのは何ですか?ただの空しさだけでした。

いったい何が問題だったのでしょうか。決して事業を拡張したり、邸宅を建てたり、いくつものぶどう畑を設けたり、きれいな庭や園を造ったりすることが問題なのではありません。問題は、それがすべて自分のためであったことです。この4節から8節までには「自分のために」ということばが繰り返して用いられていることがわかります。「自分の事業を拡張し」、「自分のために邸宅を建て」、「自分のためにいくつものぶどう畑を設け」、「自分のためにいくつもの庭と園を造り」、「自分のためにそこにあらゆる種類の果樹を植え」ました。また、「自分のために銀や金」を集め、「自分のために男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れました。」全部自分のためです。それは、自分の欲求にしたがって事業をするのだという意図です。

イザヤ書55:2にはこうあります。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」

神に聞き従うことが、私たち人間にとって最良の食物なのです。自分のためではなく、神のために働き、神のために邸宅を建て、神のためにぶどう畑、庭や園、池を造り、神のために金銀財宝が用いられるなら、神の喜びと栄光で満たされるのです。

Ⅲ.すべてが空しい(9-11)

第三に、その結論です。9節から11節までをご覧ください。「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

こうして彼は偉大な者となりました。それ以前にエルサレムにいただれよりも、です。彼は最高の富める者、富者になりました。しかも、その間、彼は知恵を失うことはありませんでした。9節後半の「私の知恵は私のうちにとどまった」とは、知恵を失うことがなかった、つまり、正気を保ったということです。もう知恵も豊かで、近くの国の王たちが謁見にやって来るほどでした。彼はそれほど知恵においても、働きにおいても、富においても、何事においても、成功した人だったのです。いろんな苦労もあったでしょう。しかし10節を見てもわかるように、彼はどんな苦労もいとわず、その苦労に立ち向かっていきました。しかし、どんなに物を手に入れても、いくら心の赴くままに、あらゆることを楽しんでも、彼の心が満たされることはありませんでした。彼は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った結果、こう言いました。11節です。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

本当に信じられないことばです。あんなにビジネスで成功し、立派な邸宅を建て、多くの財を築き、何もかもうまく行き、心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しむことができたソロモンが、その労苦を振り返って発した言葉は、「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」ということだったのです。ここには書いてありませんが、ため息を入れるとピッタリするかもしれませんね。「見よ。すべてが空しいことか。ハァ~。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」これが、この時点における伝道者の正直な思いでした。私たちから見ればもっと喜んでいいはず、もっと感謝していいはず、もっと幸せですと言っていいはず、もっと私の人生は本当にすばらしいと言っていいはずなのに、彼は「空しい」と言ったのです。「すべては空しく、風を追うようなものだ」と。

何がこの伝道者の心に足りなかったのでしょうか。何が彼をしてそのように言わしめたのでしょう。その答えは11節の最後に書かれてあります。つまり、「日の下には何一つ益になるものはない。」ということです。「日の下」とは、先ほども申し上げたように、神様なしの、神様を無視した、ただ自分のために生きる人生という意味です。それが人の目にどんなに魅力的なもののように見えても、神様抜きの生活は空しいのです。それは、人は神のかたちに造られているからです。人は神と交わりを持ち、神のいのちをいただいてこそ、真に生きることができるからです。前回も紹介しましたが、そのことをパスカルは、「私の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある」と言いました。私たちの心には、本当の神以外には満たすことができない真空があるのです。それが満たされて初めて、人は生きることができるのです。それを満たすことができるのは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストだけです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあるとおりです。ですから、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦していただいて、神のいのち、永遠のいのちをいただき、神と共に生きるとき、私たちは何をしても喜ぶことができるし、感謝することができるのです。それが上からの知恵です。

現代を生きる私たちも、この伝道者の生き方から学ぶべきです。物や快楽は、私たちに本当の喜びや満足をもたらすことはできません。大切なのは「何を手に入れ、何を成し遂げたか」ということではなく、「どのような人になり、どのように生きたか」ということです。あなたは何を求めて生きていらっしゃいますか。この世の富や快楽、名誉ですか。そうした物欲による葛藤や競争ではなく、日の上の喜び、神の国とその義を第一に求める生き方こそ、私たちが求めなければならないものです。

アメリカ中西部になだたる金持ちがいました。彼は、愛する娘にどのような遺産を残こしたらよいかを考えました。現金、証券類、株、不動産などと考えていきましたが、それらの遺産では満足できませんでした。そうした物質的なもので人は幸せになれないことを、十分に経験していたからです。
「信仰以外に、人を真に幸福にするものはない」ついに彼は、信仰が最も安心できる遺産であるとの結論に達しました。しかし、そこには大きな問題がありました。彼はお金持ちではありましたが、信仰を持っていなかったからです。そのうえ、信仰というものは娘自身が選び取らなければなりません。
「そうと決まったら、自分自身がまずその信仰を手に入れることだ」と、彼は聖書を読み始め、ついにイエスこそ救い主であると信じるに至りました。その結果、娘を誘って教会に行くようになったのです。

どうぞ、この伝道者のことばを聞いてください。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものです。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)しかし、日の上には、あなたを真に満たすものがあります。神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さるということを、私たちは知っています。この神の下に来てください。イエス・キリストがあなたの救い主です。イエスはあなたを満たすことがおできになります。この地上のことに振り回された生き方から、主のみこころにかなった生き方へと、主体的に生きることができるようになります。それは、真にあなたの心を満たしてくれるでしょう。私たちは今朝、私たちに与えられているものがどんなに価値があり、真に私たちの心を満たすものであるかを知り、主だけで満足する人生を選び取る者でありたいと思います。

出エジプト記32章

出エジプト記32章から学びます。

Ⅰ.金の子牛(1-6)

まず、1-6節までをご覧ください。「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」それでアロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来た。彼はそれを彼らの手から受け取ると、のみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にした。彼らは言った。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼びかけて言った。「明日は【主】への祭りである。」彼らは翌朝早く全焼のささげ物を献げ、交わりのいけにえを供えた。そして民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた。」

モーセがシナイ山に登り40日40夜主と会っている間、地上ではどんなことが起こっていたでしょうか。1節には、「民はモーセが山から一向に下りて来ようとしないのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。」とあります。彼らの心は、モーセがいなくなると主から離れてしまいました。神の時を待つことができず、自分たちの手で神に代わるものを求めたのです。それが、過去に慣れ親しんでいたエジプトの神の一つであった子牛でした。彼らは、自分の手で安心を勝ち取ろうとしたのです。つまり、自分たちを守り導いてくれる神を造り出そうとしたのです。エジプトから救い出されたという神の救いの力を体験しても、神の臨在が感じられなくなると、過去のもの、目に見えるものに心が奪われてしまったのです。人は目に見えないものを待ち望むのができません。その代わりに目に見えるもの、手っ取り早いものを造ろうとします。それで彼らもアロンに、自分たちに先立って行く神を求めたのです。

それでアロンは、彼らの妻や息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外させて、自分のところに持って来るように言いました。そしてそれをのみの鋳型に流し込み、鋳物の講師にしたのです。そしてこう言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」そして、翌朝その金の子牛の像に全焼のささげものを捧げ、交わりのいけにえを捧げました。

それにしても、どうしてアロンまでもが民の要求を受け入れ金の子牛を造ってしまったのでしょうか。アロンはそれが罪であるということを十分知っていたはずです。人を恐れたからです。「人を恐れるとわなにかかる。」(箴言29:25)とあります。アロンは人を恐れてしまいました。このままでは民は何をするかわからない。だから、民の怒りを鎮めるために彼らの気持ちを満足させなればならない。それで民が要求したとおりのことを行ったのです。しかし、彼は人ではなく、神を恐れるべきでした。神を恐れる者は守られるのです。

このようなことは、私たちにもよくあります。人を恐れることてしまうことがあるのです。それで、人の顔色を伺いながら話したり、行動したりするのです。しかし、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。」とあるように、人を恐れるのではなく、主を恐れ、主にのみ従う者でありたいと思います。

Ⅱ.モーセのとりなし(7-14)

次に、7-10節をご覧ください。「【主】はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」【主】はまた、モーセに言われた。「わたしはこの民を見た。これは実に、うなじを固くする民だ。今は、わたしに任せよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がり、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とする。」

主は、そのことをモーセに伝えます。そこには、イスラエルの民に対する主の悲しみが表れています。7節には、イスラエルの民を「わたしの民」と呼ばないで、「あなたの民は」と呼んでいます。ご自分の民と呼ぶはずの親密さが無くなっているのです。そして、「堕落してしまった」と言っています。これは創世記6:12で、ノアの時代の人々が堕落した時に使った言葉と同じです。すなわち、ノアの時代の人々が水によってさばかれた時に匹敵する罪を行ったということです。

9節には「うなじを固くする民だ」とあります。「うなじを固くする」とは、これからもよく出てくることばですが、これは馬の乗り手が手綱で馬を引いても全然言うことをきかない状態のことを指しています。まさに彼らの心はかたくなで、どんなに神がみことばを語っても聞こうとしませんでした。

そのような彼らに対して、主は断ち滅ぼすと言われましたが、モーセに対しては、彼を大いなる国民とすると言われました。これはモーセにとって大きな誘惑であったにちがいありません。彼らが滅ぼされても自分は大いなる国民となるのだから。

しかし、モーセはそのことを良しとせず、主に嘆願してこう言いました。11-14節です。「しかしモーセは、自分の神、【主】に嘆願して言った。「【主】よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。どうか、あなたの燃える怒りを収め、ご自身の民へのわざわいを思い直してください。あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」すると【主】は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」

彼はまず、「ご自分の民に向かって、どうして、御怒りを燃やされるのですか。」と言いました。彼らは神が創造された民であるばかりでなく、その偉大な力と力強い御手をもってエジプトの地から導きだされた民です。それほど愛されたご自身の民なのです。その民に対してどうして御怒りを燃やされるのでしょうか。

そんなことをすれば、神の名がそしられることになってしまいます。12節には、「どうしてエジプト人に、『神は、彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ』と言わせてよいでしょうか。」とあります。そんなことをしたらエジプト人たちが神の名をそしることになるでしょう。ですから、彼らのためだけでなく主の名誉にかけて、その名誉が傷つけられないためにも、わざわいを思い直してくださいと訴えたのです。

そればかりではありません。ここでモーセは神の約束にも訴えています。13節には、「あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたはご自分にかけて彼らに誓い、そして彼らに、『わたしはあなたがたの子孫を空の星のように増し加え、わたしが約束したこの地すべてをあなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれをゆずりとして受け継ぐ』と言われました。」」とあります。

つまり、モーセは神の贖い、神の御名、神の約束に訴えて、彼らを滅ぼさないでくださいと懇願したのです。徹頭徹尾、神を中心に、それを前面に押し出して訴えたわけです。イスラエルの民の正しさ、理屈などは一切関係ありません。ただ神の義に訴えたのです。これが神のみこころにかなった祈りです。私たちがだれかの救いのために祈るとき、それはその人がどういう人であるかということ以上に、それが神にとってどういうことなのかを考えて祈らなければなりません。

すると、主は何と言われましたか。14節です。「すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。」どういうことでしょうか。主が考え直すということがあるのでしょうか。Iサムエル15:29には、「実に、イスラエルの栄光であられる方は、偽ることもなく、悔いることもない」とあります。神は悔いることのない方です。ですから、神の御心が変わることはありません。それなのに、ここで神の御心が変わったかのような印象を与えているのは、モーセにとりなしの祈りの機会を与えるためだったのです。ここに祈りの本質があります。私たちの祈りも、神の御心を変化させるためではなく、神の御心がなるようにというものなのです。

Ⅲ.懲らしめ(15-29)

次に、15-20節までをご覧ください。「モーセは向きを変え、山から下りた。彼の手には二枚のさとしの板があった。板は両面に、すなわち表と裏に書かれていた。その板は神の作であった。その筆跡は神の筆跡で、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中に戦の声があります。」モーセは言った。「あれは勝利を叫ぶ声でも敗北を嘆く声でもない。私が聞くのは歌いさわぐ声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。それから、彼らが造った子牛を取って火で焼き、さらにそれを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの子らに飲ませた。」

モーセが二枚の石の板を手にして山の中腹まで降りて来ると、そこに留まっていたヨシュアが麓で民が叫ぶ声を聞いて、「宿営の中にいくさの声が聞こえる」と言いました。それは何の声か?それは勝利を叫ぶ声ではなく、歌いさわぐ声でした。すなわち、民が金の子牛の前でどんちゃん騒ぎをしている声でした。モーセは宿営に近づき、そこで子牛と踊りを見るなり怒りが燃え上がり、手にしていたあの二枚の石の板を投げ捨て、山のふもとで砕いてしまいました。そして、彼らが造った子牛を火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らすと、イスラエル人に飲ませました。これはどういうことかというと、イスラエルの民が神の戒めをことごとく破ったことに対する神の怒りを表すものであり、それがどれほどこの大きな罪であるかを示し、もう二度と同じ罪を犯すことがないようにとその苦さを味わうようにさせたのです。

21-29節をご覧ください。「モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」アロンは言った。「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』それで私は彼らに『だれでも金を持っている者は、それを取り外せ』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れていて、アロンが彼らを放っておいたので、敵の笑いものとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも【主】につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう言われる。各自腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、【主】に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」

モーセがアロンに、「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らの上にこのような大きな罪をもたらすとは。」と言うと、アロンは何と答えたでしょうか。彼はまず「わが主よ、どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、この民が悪に染まっているのをよくご存じのはずです。」と言いました。つまり、民は本質的に悪い性質を持っていると言い訳したのです。つまり、自分の責任逃れです。

さらにアロンは、民がそのことを自分に強く要求したのだ、と答えています。「彼らは私に言いました。『われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から連れ上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから。』」(23)ここでアロンは、なかなか山から降りて来なかったモーセにも責任があるのではないかと訴えていいます。

極めつけは、子牛は自然に出て来たという言い訳です。「民が、自分たちに先立って行く神々を作ってほしいというので、彼らが身に着けていた金を集めて火の中に入れたところ、この子牛が出て来たのです。」(24)そんなことがあるはずないじゃないですか。アロンがのみで鋳型を造り、それを鋳物の子牛にしたのです。それなのに、彼は火の中に金を入れたら子牛が出て来たかのように言いました。全く反省の色がありません。なぜアロンはこのようなことを言ったのでしょうか。申9:20に、「主はアロンに向かって激しく怒り、彼を滅ぼそうとされたが・・」とあることから、彼はそれを恐れたのではないかと思います。

モーセは民が乱れていてアロンが彼らを放っておいたので、敵の物笑いとなっているのを見て、神のさばきを執行します。モーセについたレビ族によって、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺すというさばきを行ったのです。その日、民のうち約三千人が剣で倒れました。なぜこのようなことをしたのでしょうか。それは、神の共同体の中に聖さがなくなれば、共同体全体が崩壊してしまうことになるからです。これは旧約聖書だけの話ではありません。新約聖書にも、アナニヤとサッピラの事件が記録されています。地所の代金の一部を自分のために取っておいたアナニヤとサッピラは、息が絶えてしまいました(使徒5:5)。また、父の妻を自分の妻にしていた者に対して、自分たちの中から取り除くべきだと言っています(Ⅱコリント5:2)。それは、わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることになるからです。その結果、どうなったでしょうか。アナニヤとサッピラの事件の時は、「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。」(使徒5:5)とあります。しかし、こうした執行は決して人間の思いとは違うので、これを行う時にはかなり注意が必要となります。

ところで、この時、主についたのは誰でしたか?レビ族です。彼らはモーセを通して主が語られた通りに自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺しました。愛する家族を殺すことはなかなかできません。しかし彼らは家族よりも主のみこころに立ったのです。なぜ彼らは主のみこころに立つことができたのでしょうか。それは、彼らが学んでいたからです。

創世記34章をご覧ください。ここには、シメオンとレビの妹ディナがヒビ人ハモルの子シェケムに犯されるという事件のことが記録されてあります。その解決のために出された条件は、互いに婚姻関係を結ぶということでした。しかし、割礼を受けていないヒビ人のところへイスラエル人をとつがせるわけにはいきません。そこで割礼を受けてイスラエルのようになるならそれを受け入れましょうと提案すると、ヒビ人はその条件を受け入れ、割礼を受けることになりました。ところが、彼らが割礼を受けて三日目になって、ディナの兄シメオンとレビが剣を取って何なくその町を襲い、ハモルとシェケム、そしてその町のすべての男子を殺してしまったのです。このことはヤコブにとって困ったことでした。なぜなら、そのことによってカナン人とペリジ人に憎まれることになったからです。シメオンとレビの問題は何だったのでしょうか。シェケムの住人を許せなかったということです。彼らはその過ちから学んだのです。

私たちも、主のみこころに立てず、時に失敗することがあります。しかし、その失敗をいつまでもくよくよするのではなく、そこから学ぶことが大切です。その失敗を次の機会に生かさなければなりません。レビ族はかつての失敗から学んでいました。そして、このような主のさばきを執行する苦しい局面でも、主につくことができたのです。

Ⅳ.神の書物(30-35)

最後に、30-35節を見て終わりたいと思います。「翌日になって、モーセは民に言った。「あなたがたは大きな罪を犯した。だから今、私は【主】のところに上って行く。もしかすると、あなたがたの罪のために宥めをすることができるかもしれない。」そこでモーセは【主】のところに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」【主】はモーセに言われた。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。見よ、わたしの使いがあなたの前を行く。だが、わたしが報いる日に、わたしは彼らの上にその罪の報いをする。」こうして【主】は民を打たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのであった。」

モーセは、罪を犯したイスラエルの民をいさめると、主のもとに上って行きました。彼らの罪の宥めをすることができるかもしれないと思ったからです。そこで彼は主のもとに上って行くと、驚くべき祈りをささげました。それはもし、主が彼らの罪を赦してくださるのなら、自分の名前を神の書物から消し去っても構わないということです。この「あなたの書物」とは何でしょうか。これは「いのちの書」のことです。ルカ10:20で主イエスは、70人の弟子たちに対してこう言われました。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と。また黙示録3:5には、「彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。」と言われました。この「いのちの書」のことです。だからここでモーセが言っていることは、彼らが天国に入るために、代わりに自分を地獄に送ってくださいということだったのです。かつてパウロも同胞ユダヤ人の救いのために同じように祈りました(ローマ9:3)。モーセは、それほどの愛をもって祈ったのです。

けれども主は、モーセの祈りを聞かれませんでした(33-34)。「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。」と言われました。こうして主は民を打たれました。二十歳以上の男子はみな荒野で死に絶えたのです。それは35節にあるように、アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからです。アロンはモーセに代わって民を治めなければならなかったのにそれを怠り、民が欲していたこと、民が願っていたことにそのまま追従してしまいました。これは主に仕えるということではありません。主に仕えるとは主の御心を行うことです。人を恐れるとわなにかかる。しかし、主を恐れる者は守られる。この神を恐れ、神の中に人々を導いていくこと。そのために労することが求められているのです。

Ⅰサムエル記27章

今日は、サムエル記第一27章から学びたいと思います。

Ⅰ.ペリシテの地に逃れたダビデ(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。「ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。」

ダビデのいのちを狙ったサウルでしたが、主はダビデの信仰(26:24)に報いてくださり、ダビデをいのちの危険から救い出してくださいました。サウルはそんなダビデを祝福し、自分のところに戻ってくるようにと勧めましたが、ダビデはそんな彼の申し出を断り自分の道を行きました。

自分のところに帰ったダビデは、心の中でこう言いました。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」

それで彼は、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王アキシュの所へ行き、彼のもとに住みました。そこは以前ダビデがサウルの手から逃れて間もなくして行った所です。そのときは、アキシュの家来がそれがダビデであると見破ったことで、ダビデは気違いを装うことでその窮地を逃れることができました。それなのに、彼はまたペリシテ人の地ガテに行ったのでしょうか。ここには、「そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」とあります。つまり、彼の心を動かしていたものは、サウルに対する恐れだったのです。それにしても、彼はこれまでも様々な困難の中でもずっとイスラエルの地にとどまり、サウルに対峙してきました。また、自分を侮辱したナバルの家をこっぱみじんにしてやろうと思った時も、アビガイルのとりなしによってその過ちに気が付き、すべてのさばきを主にゆだねました。そして前回も自分を追って来たサウルに対して、その陣営の中に忍び込み、サウルが寝ているそばにあった水差しと槍を取って、さばきを主にゆだねました。彼は多くの困難と試みの中でも主に拠り頼むことで、サウルの手から逃げてきたのです。ところが今彼はそのサウルから逃れるために、イスラエルの敵であるペリシテ人の中に住むことに決め、渡って行ったのです。それは彼の不信仰から出たことでした。ダビデほどの信仰者でも、その信仰が揺らぐことがあるのです。

彼の気持ちもわからないわけではありません。これまでずっと緊張した中にいて、疲れてしまい、もうこんなに緊張しながら生きるのは懲り懲りだと思ったのかもしれません。ダビデはこれまで、人間的な方法を使えばいくらでも使えたのに、それを拒み続けてきました。サウルを殺そうと思えば殺すことができたし、ナバルを殺そうと思えば簡単にできました。しかしあえて、さばきを主にゆだねてきたのです。けれども、こうしたことに疲れてしまい、ほっとできる場がほしかったのでしょう。  けれども、人間的に考えて安全であると考えられる場、いくらほっとできるような場であっても、信仰者にとってはそうではあるとは限りません。イエスさまを信じていながら、たとえその信仰のゆえに多くの試みがあろうとも、この世にその安住を求めることは正しい判断とは言えません。それに、この時彼には特別な啓示が与えられていました。そうです、イスラエルの王になるという約束です。それが神のみこころであるなら必ず成就します。つまり、彼はイスラエルの王になるまで決して死ぬことはないのです。これが信仰です。ところがダビデは、神の守りがあることを忘れ、自分の判断で行動しました。イスラエルの地を離れてペリシテの地に避難すること自体が間違っています。そこには、神の守りはないからです。イスラエルの地にとどまっていることはダビデにとって危険が伴いましたが、彼の成すべきことは、それでもそこに神の守りがあると信じて踏みとどまることだったのです。

このことは、私たちにも言えることです。今置かれているところは必ずしも安息があるようなところには思えないかもしれません。絶えず戦いがあり、恐れが付きまとうかもしれない。しかし、神の約束は、必ず成就します。神の約束にしっかりと踏み留まりたいと思います。自分で判断するのではなく、神のみことばと祈りによって信仰によって判断しましょう。

Ⅱ.ツィケラグを与えられたダビデ(5-6)

次に、5-6節をご覧ください。「ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」 その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。」

ダビデはガテの王アキシュに、ペリシテの地方の町の一つの場所をくれるようにと頼みました。それは、自分のような者が王の都であるガテに住むのは、あまりにも恐れ多いと思ったからです。しかし、それはあくまでも建て前であって、本音は、ガテからできるだけ遠くの所に身を置いて、ペリシテ人の監視の目から逃れようと思ったのです。また、ダビデは、部下たちがペリシテ人と同化することを恐れたのでしょう。たとえ異邦人の地に身を寄せたとしても、彼は自分たちがイスラエル人であるということを忘れていませんでした。

それでアキシュはダビデに、ツィケラグの町を与えました。ツィケラグはガテから30㎞ほど南に行ったところにあります。ガテからは適度な距離にありました。この町は、本来シメオン部族の領地に属していましたが(ヨシュア19:5)、この当時はペリシテ人に占領されていました。

Ⅲ.ツィケラグでのダビデ(7-12)

7-12節をご覧ください。「ダビデがペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」」

ダビデはツィケラグに1年4か月間住みました。1年4か月というのは、短いようで長い年月だったでしょう。この間、ダビデはどんな生活をしていたのでしょうか。彼はツィケラグを本拠地として、部下たちとともに略奪に出かけました。彼が討ったのは、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人などです。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいました。これらの地は、実はヨシュアや士師たちの時代に完了しておくべきものでしたが、皮肉なことにそれを、不信仰に陥ったダビデが行ったのです。

ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのもとに帰って来ていましたが、アキシュに報告するときにそれを隠し、自分がユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブ、つまり、イスラエル人やその町々を攻めて来たように報告したのです。なぜでしょうか。それはアキシュに疑われないようにするためです。その嘘がバレないように、彼は略奪した町の住民を皆殺しにし、ガテに一人も連れて来ませんでした。いくら何でも、ダビデがどんなに落ちぶれたとしても、同胞のユダヤ人を殺すことはできなかったでしょう。一方、アキシュはそんなダビデをどのように見ていたでしょうか。アキシュはダビデを信用して、ダビデはいつまでも自分のしもべとして仕えてくるものと思い込んでいました。

結局ダビデは、ペリシテ人の地に1年4カ月もとどまりましたが、この間、彼の生活は決して祝福されたものではありませんでした。自分では最善と思ったことでも、それが主のみこころにかなったものでなければ、必ずボロが出ます。ダビデの場合は、嘘に嘘を塗り重ねるような生活を強いられることになりました。彼は霊的にも道徳的にも、日が当たらない者のような生活を余儀なくされたのです。それはダビデだけではありません。私たちも約束の地から離れることがあれば、ダビデと同じようになるでしょう。嘘がバレないようにと、何かに脅えながら生活するようになってしまうのです。そういうことがないように、私たちも悔い改め、神のもとに立ち返りましょう。そして、それが自分にとって状況が不利のようであっても、主がすべての苦難から救い出してくださると信じて、しっかりと信仰に留まり、神に喜ばれる道を歩ませていただきたいと思います。

伝道者の書1章1~18節「空の空 すべは空」

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今日からご一緒に伝道者の書を学びたいと思います。4月からNHKで放映されている「こころの時代、宗教・人生」という番組で、小友聡先生がこの「伝道者の書」からお話ししています。テレビで聖書の話を放映するのは珍しいと思って一度だけ観ましたが、そのタイトルがずっと心に残りました。「それでも生きる」です。ちょうど今、社会はコロナウイルスの問題で生きづらい状況にあるのではないかと思いますが、神が「それでも生きよ」と呼びかけておられるのではないかと思いました。これからしばらの間この伝道者の書からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.空の空 すべては空 (1-3)

まず、1~3節までをご覧ください。「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

「エルサレムでの王、ダビデの子」と言えば、ソロモンですから、これはソロモンのことばと考えて良いでしょう。しかし、この「伝道者」という語はへブル語では「コヘレト」と言いますが、これは集会を主催する人、あるいは説教者という意味があることから、この書の著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて「知恵」を語っていた人ではないか、その人がソロモンの名を借りて語ったのではないかと考える人もいます。それで新共同訳ではこの伝道者という語の原語である「コヘレト」から、これを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。また英語の聖書では、「伝道者のことば」を「The words of the Preacher」と訳しています。

では、伝道者は何を伝えたかったのでしょうか。伝道者はその基本的なメッセージを最初と最後にまとめています。2節をご覧ください。ここには「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「空」と訳されたことばは、へブル語で「ヘベル」です。これは「蒸気」とか「煙」のことを表しています。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、このことばを38回も使っています。つまり、人生とは煙のようにつかの間ではかなく消えていくものであり、掴みようがないものであるとうことです。皆さん、煙を掴んだことがありますか。煙は、確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。たとえば、この世には美しいもの、良いものがたくさんありますが、それを楽しんでいる最中に悲劇が起こり、すべてが吹き飛んでしまうことがあります。また、人は正義を信じていますが、往々にして善良な人に悪いことが起こることがあります。旧約聖書に登場するヨブの人生はまさにそうでしょう。そのように人生とは予想がつかず、安定せず、伝道者のことばを借りれば風を追うようなもの、つまり、「へベル」なのです。この「空の空」という言い方は、「主の主、王の王」という言い方と同じで、「空の中の空」という意味です。つまり、最も強い空しさを表しています。「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」ということです。「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」これが、伝道者が伝えたかったことです。何とも気がめいってしまうような話です。しかし、伝道者はそれだけで終わっていません。ずっと「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」と語りながら、最後にこう言うのです。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

これが伝道者の言いたかったことです。この世のすべては空しいのだから、どこに希望を置いて生きるのか、何を見て生きるのか、どのように生きるべきなのか、そうです、結局はこれなのです。神を恐れること、神の命令を守ること、これが人間にとってすべてなのです。伝道者は、このことが言いたくて、この世がどれだけ空しいものなのかを、これでもか、これでもかと、たたみかけるように語るのです。

それにしても、なぜ伝道者はこのように言ったのでしょうか。聖書と言えばキリスト教の正典であり、だれもが心に響く言葉が書かれているものだと思っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と聞くと、そうだ、こんなことでつぶやいていちゃだめだ。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなきゃいけない。さすが、聖書の教えは違うな。神の教えだ、と思うでしょう。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)と聞けば、そうだな、なんで明日のことをそんなに心配しているんだろう。明日のことは明日が心配するんだから、神様にすべてをゆだねよう。感謝!となるのですが、「空の空。すべては空。」とあると、何だか生きる気力が削がれてしまうような気がします。それはこれを書いた伝道者が物事を斜に構えて見ていたからではありません。むしろ、こうした現実を突きつけることによって、ある一つの真実を強く訴えたかったからです。それは何でしょうか。それは、神を抜きにしての人生がいかに無意味であるかということです。一般に人々は、究極的には意味のないどうでもいいことに多くの時間とエネルギーを費やしては一喜一憂しているわけですが、果たしてそのことにどれだけの価値を見出すことができるでしょうか。そのことを伝えるために彼は、逆説的に「ヘベル。ヘベル。すべてはヘベル。」「空の空。すべては空。」「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」と最上級の表現を用いて、そうではないと、神を信じて生きることの重要さを訴えているのです。

3節をご覧ください。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」この「日の下で」ということばも、この書のキーワードの一つです。全体で29回、「地上」ということばと合わせると35回も使われています。これは地上の目に見える世界のことを表しています。それは神を忘れた人間の世界であり、神を抜きにした人生のことを意味しています。その日の下でどんなに労苦しても、いったいそれが人に何の益になるでしょうか。なりません。

人間は常により良い世界、より住みやすい世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、どれだけ人の幸福につながってきたでしょうか。確かにインターネットは驚くべき発展を遂げ、社会はとても便利になりました。しかしそのことでかえって世の中が忙しくなり、みんな疲れ果てているのではないでしょうか。技術の進歩が競争を世界的なレベルまで引き上げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。まさに、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」です。適度な労働は神が人間に与えてくださった祝福ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人間が神から離れてしまったことでその労働の真の意味が色あせてしまい、空しいものになってしまったのです。

Ⅱ.日の下には新しいものが一つもない(4-11)

次に、4節から11節までをご覧ください。日の下で、つまりこの世の人生には何の益もないということを述べるにあたり、伝道者はここでその理由を3つの角度から語ります。まず、4節です。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」

人生の空しさの第一の理由は、人生はうつろいやすいということです。地はいつまでも変わりませんが、人は過ぎ去って行く存在にすぎません。新共同訳聖書ではこう訳されています。「一世代過ぎればまた一世代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」しかし、その大地でさえ消え去ると聖書は言っています (Ⅱペテロ3:10)。こうやって見ますと、変わらないものは何もないということになります。人生はそのようにはかないものなのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。」

次に伝道者が上げている理由は、自然現象の繰り返しです。自然界は同じ動きを繰り返しているだけで、何か益になるものを作り出しているわけではありません。たとえば、日は上り、日は沈みます。そしてまた、元の昇るところへと戻って行きます。また風は南に吹いたかと思うと、巡って北に吹きます。つまり、ぐるぐると巡り巡って吹いているだけなのです。これは科学的にも証明されています。伝道者はそれを、今から三千年も前に知っていました。川はどうでしょうか。7節、川はみな海に流れ込みますが、それで海が満ちるかというとそうではありません。なぜ?水は蒸発して元の場所に戻って行くからです。どの川も同じ行程を繰り返しているだけなのです。これが水の循環システムです。私たちにとっては当たり前のことですが、このことは近代まで証明させていませんでした。ですから、日が昇ったり、風が吹いたり、雨が降ったりしても、実質的には昔から何も変わっていないことになります。それらは単調な、延々とした繰り返しで、何の変化もありません。

では、私たちの人生はどうでしょう。同じです。8節から11節までをご覧ください。「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」

どういうことでしょうか。人生も同じで、満たされることはないということです。もっと、もっとと、何かあると思ってその満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。人間の労苦も同じことで、過去にあったものの繰り返しです。新しいものは何一つありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、それも昔からあったものにすぎません。たとえば、ファッションはどうでしょう。新しいファッションは、実は昔あったものと同じものであることが多いのです。考え方にしてもそうです。何か奇抜なアイデアのようなものでも、ずっと昔に既に考えられていたものです。日の下には新しいものは何一つないのです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものは何一つありません。

しかし、日の上は違います。日の上には新しい創造があります。Ⅱコリント5:17には、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。だれでも、キリストのうちにある者は、新しく造られた者です。イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく造られます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは、今までになかったものです。ですから、聖書にはイエス・キリストを信じた人は新しい人と呼ばれているのです。それに対して古い人もいます。考え方が古いというのではありません。イエス・キリストによって新しく生まれ変わっていない人のことです。イエス・キリストを信じるなら、だれでも新しく造られるのです。ですから、日の下にあって、単調な日々の繰り返しのようであっても、主イエス・キリストを信じて新しく造られ、神とともに生き生きとした創造的な人生を生きていただきたいと思うのです。

11節には、「前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあります。過去のことは忘れられてしまいます。これは老人になって記憶が衰えてしまうということではありません。どれほど偉大なことをしてもそれはその時のことだけで、後の時代の人々がずっと覚えていることはないということです。先週、新しい総理大臣が誕生しました。菅義偉さんです。しかし、その前の総理大臣がだれだったか覚えていますか。あの小渕官房長官が「平成」と書いて始まった時の総理大臣はだれですか。覚えている方は少ないでしょう。竹下登総理大臣です。今話題にしていることや注目していることも、少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまうのです。そのような一時的なもののために自分の人生のすべてを費やしているとしたら、それは本当に空しいことではないでしょうか。そのように語る伝道者のことばは、実に私たちの人生の空しさを的確に言い当てています。

映画やテレビの脚本を数多く手がけた脚本家の田中澄江さんは、23歳のとき東京にある聖心女子学院の教師になりました。そのとき、彼女は英国人のマザー・ラムから公教要理の講義を受けましたが、その時マザー・ラムが発したことばに衝撃を受けます。「人は何のために生まれましたか。神を知るためですね。」
これは彼女に取って衝撃的なことばでした。「『神を知るためだ』と言われたとき、大粒の涙が机の上にこぼれ落ちて、『そうだ、ほんとうにそうだ、神を知るために生まれたのだ」と全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。』」と言いました。

あなたはいったい何のために生きていますか。私たちももし神を知らなかったら、どんなに有名人になったとしても、決して心の飢え渇きを満たすことはできません。それは、神を知り、救い主イエス・キリストを信じることによってもたらされる恵みです。イエス・キリストを信じたことで永遠の命が与えられ、永遠の命に至る食物のために働く者とされたことを感謝しましょう。

Ⅲ.知的探求の空しさ(12-18)

第三に、12節から18節までをご覧ください。しかし、伝道者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見いだそうといくつかのことを試みました。12-13節をお読みします。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」

ここで伝道者は、改めて自分の立場を書き記します。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。」つまり、彼はエルサレムでイスラエルの王であり、富も地位も力も持っていたということです。彼は天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。つまり、知的探求によって人生の意味を見いだそうとしたのです。しかしそれは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事でした。つまり、人は「何のために生きるのだろう」「この人生の苦しみに意味があるのだろうか」などと思い巡らしているうちに、そのこと自体に疲れ果ててしまったのです。「人間は考える葦である」(パンセ347)と言ったのはパスカルです。確かに人が他の被造物に勝っているのは考えるという能力ですが、しかし、どんなに考えても究極的な答えを見出すことができなません。結局のところ、伝道者が見出した結論は次のことでした。14-15節です。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」

伝道者は、日の下で行われるすべてのわざを見ました。彼は最高の教育を受け、科学、哲学、歴史、芸術、文化、宗教などあらゆる分野において豊かな知識を得ました。しかし、彼が経験したすべてのことは空しく、風を追うようなものでした。「風を追うようなもの」とは、あの「ヘベル」、「空」であるということです。「ヘベル」とは、蒸気とか、煙のことだと申し上げましたが、煙のように確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。風も同じです。確かに吹いているのに、どんなに掴もうとしても掴むことができません。つまり、風を追うように、空しく、空虚で、無意味であるということです。

曲げられたものをまっすぐにすることはできません。欠けているものを、教えることはできません。これは、この世には不可解なものがたくさんありますが、それを人間の知恵で理解したり、修正したりすることはできないということです。ではどうすれば良いのでしょうか。どうすれば曲げられたものをまっすぐにすることができるのでしょうか。どうすれば、欠けているものを、数えることができるのでしょうか。

伝道者は、続いてこう述べています。16-18節です。「私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

彼は、自分はエルサレムにいただれよりも豊富な知恵と知識を増し加えたと言っています。そればかりではありません。知恵と知識とともに、狂気と愚かさも知ろうとしました。念のために、両極端を試してみたというわけです。その結果わかったことはどんなことでしたか。それもまた、風を追うようなものであるということです。知恵と知識だけでなく、反対の狂気と愚かさも試してみて、それもまた、風を追うようなものであったというのは、何をやってもダメだということです。風を追うようなもの、ヘベルです。すべては空なのです。それどころか、彼は重要な真理を見出しました。それは何ですか。18節です。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」 知恵が多くなればなるほど悩みも多くなり、知識を増せば増すほど苛立ちも増します。このことがわかっただけでも大したものです。なぜなら、人は、知的探求の道に限界を感じる時、神を見上げるようになるからです。

ひとりのインテリ青年が牧師のところへきて、科学的、文学的にキリスト教に対して難解な質問をあびせかけ、牧師を困らせました。ついに牧師は答えに行き詰り、沈黙してしまいました。
すっかり得意になってしまった青年は、牧師に別れを告げて意気揚々と帰ろうとしました。その時、その牧師が静かに言いました。「もしもあなたに、謙遜があったなら」
このひとことが青年の胸を打ちました。彼は、自分はさまざまな知識を持ち、立派な人間だと思っていましたが、謙遜がなかったことに気がついたのです。そして心から悔い改め、その夜、彼は救われました。この青年こそ、後に伝道者になった河辺(かわべ)貞(てい)吉(きち)(1864~1953)という人です。彼は、日本自由メソジスト教会の創立者となり、説教者として活躍しました。

そうです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、本当に知るべきことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。本当の知恵は、イエス・キリストにあります。キリストは神の知恵、神の力と呼ばれました。ですから、この神の知恵であるキリストを知り、キリストを愛するなら、人生の生きる意味が教えられ、空しさから解放され、心満たされて生きることができるのです。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるというのでしょうか。何の益にもなりません。しかし、キリストを知り、キリストを愛するなら、すべてが益になります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

日の下には、新しいものは一つもありませんが、しかし、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。どんなに知恵を求めても、どんなに知識を求めても、あるいは、その逆のことを求めても、日の下にはあなたの心を真に満たすものは何もありません。それらのことは、すべて空しく、風を追うようなものなのです。しかし、神の知恵であられるイエス・キリストを求めるなら、あなたの心は真の満たしを受けるでしょう。これが、伝道者が見出したことでした。

先ほどパスカルのことをお話ししましたが、彼は、「私の心の中には、本当の神以外にはとても満たすことができない、真空がある。」という有名なことばを残しています。彼は、ソロモン王のように様々な知識を探究しいろいろな発見もしましたが、それらのものが自分の中にある空洞を満たすことはできないことに気付いたとき、回心して、キリストを信じました。彼が23歳の時でした。

しかし、残念ながらその後彼は、数学や物理学の研究に熱中するあまり、生ける神から離れてしまいます。そして31歳になったとき、真の悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができました。その時の彼の祈りが記録されています。それは1654年のことでした。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安。ああイエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となって下さったとは。キリストの神が私の神。私は、あなたを除くこの世のすべてと、その一切のものを忘れ去ります。福音書に示された神こそ真実の神です。私の心は大きく広がります。正しき父よ。世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。私はあなたから離れていのちの水の源を塞いでいましたが、わが神よ。あなたは私を捨てたりなさいませんでした。どうか私がこれより後、永久にあなたから離れませんように。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト、イエス・キリスト、私は、彼から離れて、彼を避け、彼を捨てて、彼を十字架につけました。しかし、これより後、私が彼から離れることが永遠にありませんように。福音書に記されたあなたこそ、まことの神です。ああ、全き心、心地よい自己放棄、イエス・キリストよ、私はあなたと、あなたのしもべたちに全く従います。私の地上の試練の1日は、永遠の歓喜となりました。私はあなたのみことばを永遠に忘れません。アーメン。」

この祈りには、彼の充実した思いが込められています。これまで知的に探究することで満たされるであろうと思っていた心の真空は満たされませんでしたが、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じたことによって与えられた神の霊によって、彼の心の空洞は完全に満たされたのです。

イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

あなたは、イエス様が与える水を飲みましたか。この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

あなたが探究しているものは何ですか。日の下で行われるものは、すべてヘベルです。空です。しかし、日の上から与えられるもの、主イエスが与えてくださるものは、あなたの心を完全に満たしてくださいます。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。もう信じている方は、パスカルのように、もう一度自分の心を点検しましょう。あなたの心がキリストから離れていないかどうかを。そして、もし離れているなら、悔い改めて、主に立ち返りましょう。そして、主が与えてくださる永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。イエス・キリストはあなたを満たしてくださいます。この方は、決してあなたを裏切ることはありません。ここに答えがあります。このキリストにすべてをゆだね、キリストに従い、あなたも真の満たしを受けてください。

出エジプト記31章

出エジプト記31章から学びます。

 

Ⅰ.ウリの子ベツァルエル(1-5)

まず、1節から5節までをご覧ください。
「【主】はモーセに次のように告げられた。「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

 

モーセは今、シナイ山の頂上で、幕屋建設に関する指示を神から受けています。これまで、幕屋の建設と、それに仕える祭司の任職式について、また、常供の香のりささげものについて、そして祭司の奉仕に必要な聖なる油注ぎについて語ってきました。しかし、ここではもっと実際的な奉仕について語られます。すなわち、幕屋を建設する人についてです。それがユダ部族に属するフルの子ウリの子のベツァルエルです。「フルの子」の「フル」とは、アマレクとの戦いにおいてモーセの手を両側から支えた2人のうちの一人です(17:8-13)。そのフルの孫にあたるのが、このベツァルエルです。主はこの幕屋の建設にあたり、彼を名指しで召されました。彼は自分がやりたいからとか、自分から望んでいたからというよりも、神が名指しで召され、神から命じられてこの働きに就いたのです。この意識はとても重要です。よく、「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と聞かれることがありますが、私は迷わずこう答えます。「それは、主が召してくださったという召命です」と。それは神によって召された奉仕であるということです。そうでないと続けていくことはできません。自分をみたらあまりにも能力がないことに落胆して、途中でその働きを放棄してしまうことになるでしょう。しかしこれは主が召してくださったのであり、主が命じられたことである故に、主が最後までこれを成し遂げる力を与えてくださいます。それは牧師だけではありません。こうした実際的な奉仕においても言えることなのです。どんな奉仕においても、神によって召されているという確信が大切です。

3節には、主は「彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。」とあります。英語の訳では、知恵はwisdom、英知はunderstanding、知識はknowledgeとあります。こうした実践的な奉仕においても、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊に満たされる必要がありました。確かに彼には生来そうした才能が与えられていたのかもしれませんが、それだけでなく、それを成し遂げることができるように神の霊、聖霊の賜物が必要だったのです。それは幕屋建設に際しては、人間の能力以上の力が必要であったからです。

その仕事の内容に関しては、4節と5節にこうあります。「それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」

彼の働きは祭司のような霊的な奉仕とは違い、幕屋の建設という実際的な奉仕でしたが、どちらも聖霊の力が求められました。教会には祈りとみことばといった霊的な奉仕もあれば、人々がよく礼拝できるように礼拝堂を掃除したり、司会や受付、献金、会場案内、プログラムの印刷、送迎といった実際的な奉仕があります。いずれも大切な奉仕であり、そうした奉仕もまた聖霊によって成されていかなければなりません。

 

Ⅱ.アヒサマクの子オホリアブ(6-11)

次に6-11節をご覧ください。
「見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、 机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」

幕屋建設の統括者はベツァルエルですが、その補佐役としてオホリアブが任命されます。すなわち、アシスタントです。No2としてトップを陰で支えていた人です。このような人はとても貴重な存在です。トップはまとめ役で気遣いが必要です。あれもこれもと細かなことまで気を遣わなければなりません。それを陰で支えてくれる人がいれば、自分の働きに専念することができます。こうした補佐をする人、アシストをする人の存在が、教会ではとても重要となります。でもなかなかなれません。なぜなら、みな上に立ちたいと思うからです。そんな器じゃないのに、上に立ちたいと思うのが人間の性です。人を補佐するには謙遜が求められるのです。

オホリアブは、「ダン部族に属する、アヒサマクの子」とあります。ダン部族は12部族の中で最も小さな部族です。そこから無名の人物が選ばれました。そして、ベツァルエルとオホリアブを中心に、すべての知恵ある者たちが集められたのです。それは彼らが、主が命じられたすべてのものを作るためです。彼らは、幕屋とその中に入れる器具、祭司の装束、注ぎの油、聖所のための香り高い香を作りました。ここでの鍵は、彼らは、すべて、主が命じられたとおりに作らなければならなかったということです。自分が良いと思う方法ではなく、主の方法によって作らなければなりませんでした。信仰生活が長くなると、いつしか自分の考えややり方を通そうとする傾向になることがあります。これまでの経験から、自分がやっていることは何でも正しいと錯覚していることがあるのです。しかし大切なのは自分の考えややり方ではなく、主の考えに従わなければならないということです。そのためには、何が良いことで神に受け入れられ、正しいことなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。神の言葉をつまびらかに読み、幼子のような純粋で、謙虚な心で、御言葉に聞く必要があります。そうでないと用いられません。こうした実際的な奉仕も、祭司のような霊的奉仕と同様、どちらも大切な奉仕なのです。

Ⅲ.安息日(12-18)

次に、12-17節をご覧ください。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。 わたしが【主】であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは【主】が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」

今モーセは、シナイ山の山頂で神から幕屋建設に関する指示を受けているわけですが、ここで急に安息日の規定について語られます。すなわち、幕屋を建設している人も、安息日を守らなければならないということです。なぜここで急に安息日について語られたのでしょうか。幕屋建設のプロジェクトと安息日の規定は無関係のように感じますが、実はそうではありません。なぜなら、こうしたプロジェクトに取り組んでいこうとするとプロジェクトそのものに心が奪われ、大切なものが置き去りにされてしまうことがあるからです。最も重要なことが何であるかが忘れられてしまうことがあるのです。最も大切なこととは何でしょうか。それは神ご自身であり、神を礼拝することです。神を第一とするということです。たとえ神の幕屋を作る仕事であっても、神を礼拝することが最も重要なことなのです。神に対する奉仕よりも神を礼拝することの方がもっと重要なことなのです。それはイエス様がマルタに語られた通りです(ルカ10:41-42)。私たちはややもすると教会の奉仕や周りの付随的なことを優先させ、主の前に静まることを忘れてしまうことがありますが、それでは本末転倒です。まず神を第一とし、神を礼拝し、神に仕えることから始めなければなりません。それを忘れてはなりません。だからここで主は安息日の規定を語ることによって、もう一度主ご自身に目を戻すようにされたのです。

13節には、「これは、代々にわたり、 わたしとあなたがたとの間のしるしである。」とあります。これは神とイスラエル人との間のしるしです。ノアの契約のしるしは虹でした。また、アブラハム契約のしるしは、割礼でした。それと同じように、このシナイ契約のしるしは、安息日だったのです。安息日の規定の目的は、イスラエルの民を聖別することでした。聖別とは、神のためにこの世から区別するということです。彼らが神の民であることの一つのしるしが、この安息日を守ることだったのです。彼らは、安息日が来るたびに、自分たちは神のものであるということを思い出しました。第二の目的は、神の性質を教えることでした。すなわち、主は六日間でこの天と地を造り、七日目に休まれたことを思い出すためだったのです。そして第三の目的は、イスラエルの民の信仰を育てることでした。安息日に休息することは、神がすべての必要を満たしてくださる方であるということを信じるためでもあったのです。

この規定に違反した場合は、だれでも殺されなければなりませんでした(14)。新約時代に生きるクリスチャンは、このモーセの律法はそのまま適用されません。セブンスデーアドベンティストという団体ではこれをそのまま守らなければならないと信じ、今でも毎週土曜日に礼拝しています。しかしこれはユダヤ人に対する契約であって、それをそのままクリスチャンに適用することはできません。たとえば、アブラハム契約としての割礼も、使徒の働き15章を見ると、異邦人クリスチャンに対してこの割礼を強いることはしないことが決議されました。それはユダヤ人に対する神の定めであって、クリスチャンに対する定めではないのです。新約に生きるクリスチャンにとって大切なのは、愛によって働く信仰だけです。神を愛し、人を愛することが、この律法の要求を完全に満たすことなのです。

最後に18節をご覧ください。
「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。」

主は、シナイ山でモーセと語り終えたとき、さとしの板を2枚、それは神の指で書き記された石の板でしたが、それをモーセにお授けになりました。神の指で書かれたというのは、神ご自身が書かれたということです。

パウロはこの石の板について、次のように言及しています。Ⅱコリント3:6-9にこうあります。
「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者となる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです。石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。」

パウロは、古い契約と新しい契約を比較しています。文字に仕える者と御霊に仕える者を比較しているのです。そして、「文字は殺し、御霊は生かすからです。」と言っています。さらに、罪に定める務めさえ栄光があるのなら、これはシナイ契約のことですが、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちていると語っています。「神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)今は恵みの時代です。文字によってではなく、恵みによって生かされる道を求めましょう。

ヨハネの福音書18章28~40節「真理とは何なのか」

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きょうは、ヨハネ18:28~40から「真理とは何なのか」というタイトルでお話しします。これは、ポンテオ・ピラトがイエス様に尋ねたことです。38節には、「ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」とあります。

いったいどれだけの人が真理を求めているでしょうか。大抵の人は、真理とは何かということにあまり関心がありません。関心があるのは、目に見えることやこの世のことです。どうしたらお金が儲かるかとか、何が楽しいことで、どこに美味しいものがあるか、どこで良い商品を格安で買うことができるかといった目先のこと、過ぎ去ってしまうことです。また、自分の立身出世や名声をあげることなど、自分に関することばかりです。

しかし、真理を正しく知らなければ、悪に負けてしまうことになります。その結果、そうした目に見えるものまでも失ってしまうことにもなりかねません。それは畑に隠された宝のように、貴いものなのです。真理に関心のないこの世において、鈍くなっている私たちの心の目を開けさせていたただき、真理とは何かということを正しく知り、真理に従う者でありたいと思います。

Ⅰ.イエスのことばが成就するため (28-32)

まず28~32節までをご覧ください。「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」

「彼ら」とは、ユダヤ人の下役たちのことです。彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行きました。大祭司カヤパのもとでの裁判の様子は、マタイ、マルコ、ルカの他の三つ福音書に詳しく書かれてありますが、ヨハネはそれを省略し、アンナスのもとでの尋問の後、ただちにローマ総督ポンテオ・ピラトによる裁判の出来事に入ります。それはヨハネがこの福音書を書いたのが他の福音書よりもずっと後であったということ、そして、そのことについては既にみんな知っている事実であったからです。

イエス様がローマ総督ピラトのもとに連れて行かれたのは、明け方のことでした。アンナスのもとでの尋問とカヤパのもとでの裁判を受け、イエス様は一睡もせずにピラトのもとに連れて来られたわけです。かなり疲れておられたことでしょう。彼らはイエスをカヤパのもとから連れて来ましたが、官邸の中には入りませんでした。それは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとしたからです。どういうことかというと、ユダヤ人たちは、異邦人の家に入ることは宗教的に汚れてしまうことだと考えていたのです。しかし、実際には律法にはそうした決まりはなく、それは彼らが勝手に考え出した言い伝えにすぎませんでした。彼らはこのような細かなことを守ることを気にしていながら、律法が本当に言わんとしていたことを理解していませんでした。それは、神が遣わされたメシヤを受け入れるということです。こうした彼らの偽善的な態度を、ヨハネはここで皮肉たっぷりに伝えているのです。なぜ彼らはそのことに気付かなかったのでしょうか。真理がわからなかったからです。真理がわからないとこうした態度を取ってしまうことになります。あるいは、自分がそうした態度を取っていることにさえ気付きません。

それで、ピラトは外に出て、ユダヤ人たちのところに来て言いました。「この人に対して何を告発するのか。」(29)ピラトは、イエス様に何の罪も見出せませんでした。

すると、彼らは答えました。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」悪いことをしたから引き渡したのであって、ちゃんと調べたらわかるはずだというのです。でも、ピラトはわかりませんでした。というよりも、彼はこれが宗教的な問題であるということを知っていたので、「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言いました。そのようなことには関わりたくなかったのです。自分たちのことは自分たちでさばいたらいいんじゃないかと。

するとユダヤ人たちはこう言いました。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」これは事実です。ローマ帝国は紀元30年にユダヤ人から死刑を執行する権利を剥奪していました。ですから、彼らにはイエスを死刑にする権限はありませんでした。しかし、ピラトはここで、「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい」と言っているのですから、これはある意味で許可したと同じことです。だったら「ああそうですか。わかりました。」と言ってイエスを引き取り、死刑にすればよかったはずです。それなのに彼らがそのようにしなかったのは、群衆を恐れていたからです。群衆はイエスをメシヤだと信じていました。そのイエスをユダヤ教の指導者が殺したとなると、群衆も黙っていないでしょう。そうならないように、ローマの権限のもとでイエスを処刑しようと企んだのです。

しかし、実はそれ以上の理由がありました。ヨハネはその理由をここに述べています。32節をご覧ください。「これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。」どういうことでしょうか。ユダヤ人の律法にしたがってイエスがさばかれたとしたら、石打ちにさけなければなりませんでした。しかし、それではイエス様がこれまで語ってこられたことが偽りであったということになります。というのは、イエスはご自分が十字架につけられて死なれると預言しておられたからです。マタイ20:17-19にはこうあります。「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」」

これはまだイエス様がエルサレムに上っていない時に弟子たちに語られたことですが、イエス様はどのように死なれるのかを弟子たちに話され話されました。すなわち、十字架につけるさめに、異邦人に引き渡されるということです。もしユダヤ人の手によって石打ちにされたとしたら、ここでご自身が言われたことと違うことになってしまいます。

また、ヨハネ12:32-33には、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」とあります。イエス様はここで、ご自分がどのような死に方をされるのかを示されました。それは、「地上から上げられる」ということです。地上から上げられるなら、すべての人をご自分のもとに引き寄せられます。それは十字架で死なれることを示していました。ですから、石打ちではだめだったのです。十字架でなければなりませんでした。ユダヤ人の手によってではなく、異邦人に引き渡されなければならなかったのです。イエスの十字架は、ローマ人の権力や異邦人の悪巧みによるものに見えますが、実は神のご摂理の中で起こったことだったのです。

もちろん、ユダヤ人たちはそんなことを考えていたわけではなかったでしょう。ただ群衆を恐れていただけです。しかし、それはイエス様が十字架で死なれるというこの聖書のことばが成就するために用いられたのです。どんなことでも、何一つとして神の御手の外で起こることはありません。それは、主のみこころに従った人だけでなく、このような悪人たちが行ったことさえも、です。主は、そうしたすべてのことを支配しておられるのです。

それは創世記に出てくるヨセフの人生にも見られます。ヨセフは17歳の時、ある夢を見ました。それは、兄弟たちが畑で束を作っていたとき、突然、自分の束が起き上がり、まっすぐに立ったかと思ったら、兄たちの束が彼の周りに来て、彼の束を伏し拝んだというものでした。また、彼はもう一つの夢を見ました。それは、太陽と月と11の星が自分を伏し拝んでいたというものです。それは、彼の家族が彼を伏し拝むようになるという神からの啓示でした。

その後、彼はどうなりましたか。私たちは何度も聞いてもうその結末を知っています。そのことのゆえに彼はエジプトに売られてしまいますが、そこでエジプトの王ファラオの夢を解き明かしたことで、エジプトの総理大臣にまで上り詰めました。彼が30歳の時です。そして、ファラオが見た夢のとおり飢饉が全地に及ぶと、全地は穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに行きました。それはヤコブの兄弟たちも例外ではありませんでした。そこで、ヨセフの兄たちは顔を地に付けてヨセフを伏し拝みました。彼がかつて見た夢のとおりになったのです。いったいそれは何のためだったのでしょうか。ヨセフはその理由を次のように言っています。

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:8)

それは、イスラエルを救うための神のご計画でした。神は兄たちの悪巧みを用いて、ご自身のご計画を成就してくださったのです。

ルツも同じです。単純に言うなら、彼女はただ姑ナオミに誠実に仕えただけでした。モアブ人でしたが、故郷を捨ててイスラエルに行き、白い目に耐えながらも異国の地で仕えました。そこで何が起こるかなんてわかりませんでした。しかし、そこでボアズという男性と出会い、結婚して子どもを産みました。ただそれだけです。ところが、後にその子孫からダビデが生まれ、旧約聖書にルツ記となって彼女の話が収められ、新約聖書の1ページにその名が刻まれることになります。モアブ人であるルツがキリストの先祖になったのです。自分の人生が聖書に収められ、自分が救い主の先祖になるなどと、だれが考えることができたでしょう。同じように私たちの人生も神のご計画の中に組み込まれているのです。その役割がどのようなものかは天の御国に着くまで完璧にはわかりませんが、それでいいのです。ただ、今は自らの前にある、越えなければならないハードルに挑戦し、祈りによって越えるのです。

娘が小さいとき、プラレールというおもちゃを買ってあげた時がありました。結構高かったですが、誕生日だったかクリスマス時だったか忘れましたがとても喜びました。最初のうちは・・。子供は小さいので目線が電車と同じくらいの高さなので、電車がいつ通るかわからないのです。ですからトンネルから急に電車が出てくると大はしゃぎです。そんな娘に、「いい、もうすぐ出てくるよ。3、2、1、バアー」と言うと、「オー!」と歓声を上げます。お父さんは何でわかるのか不思議な顔をするのです。この時はまるで私が神様にでもなったかのような気分です。何でわかるのって、上から見ているからです。上からだとすべてが見えます。子供には突然電車がやって来たかのように見えても大人には全体が見えるので、いつ電車が来るのかがわかるのです。

神の国も同じです。私たちは目先しか見えないため、私たちが全体のどの部分にいるのか、全体がどうなっているのかはわかりません。しかし神様は、何千年という救いの歴史をずっと見ておられ、そのご計画の中で私たちを用いておられるのです。であれば、私たちはその神にすべてをゆだね、神に敵対する人生ではなく、神のみこころにしたがって生きていくことが求めていかなければなりません。

Ⅱ.あなたはユダヤ人の王なのか(33-37)

次に、33~37節前半までご覧ください。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスにこう尋ねました。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これは、イエスがカイザルに反逆しているかどうかを調べるための尋問です。ローマ人にとって王とは一人しかいませんでした。それ以外に王がいるとしたら、それは政治的な王としてローマに反逆する者であることを意味していました。ですから、イエス様はここでその質問の意味をはっきりさせる必要がありました。それで、このように答えられました。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」

他の福音書を見ると、それに対して主は、「そのとおりです」と答えています(マタイ27:11、マルコ15:11、ルカ23:3)が、ヨハネの福音書ではそのことが省略されています。しかし、イエス様はそのことを前提にして答えておられるのです。あなたは自分でそのことを言っているのですか、それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したからですかと。つまり、それはあなた自身の考えなのか、それとも、ほかの人々から聞いたのでそのように言っているのか、ということです。このことは非常に重要なことです。というのは、多くの人は、自分で考え、自分で確信して言っているのではなく、ほかの人が言ったことを、あたかも自分の考えであるかのように言っているからです。皆さんはどうですか。皆さんもイエス様を信じているでしょう。でもどのように信じたのですか。自分でそう確信したからですか。それとも、だれかほかの人がそのように言ったからでしょうか。他の人の証言を信じたとしても救いという点では問題ありません。しかし信仰生活という点では、どこか確信に欠けてしまうところがあります。頭だけの、観念的なものになりやすいのです。「この方以外に救いはない!」という確信に満ちた信仰となるために、誰かほかの人がそう言ったからではなく、自分で聖書を読んで確かめ、頭で考え、日々の生活の中で祈ることによって神を体験する必要があります。

するとピラトは答えました。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」どういうことですか。私はユダヤ人ではないでしょう。それなのにあなたの同胞ユダヤ人たちが、あなたを私に引き渡したのです。でもこれはローマの問題ではなくあなたがたユダヤ人の問題でしょう。であれば、あなたがたで解決しなければならない問題です。いったいあなたは何をしたんですか。そんなニュアンスです。

するとイエスは答えられました。36節です。ご一緒に読みましょう。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」どういうことでしょうか。

イエス様は王の王、主の主であられますが、この世の王ではありません。確かにイエスは王であられますがそれは神の国の王であって、この世のものではないのです。もしこの世のものであったら、ご自身のしもべたちが、ご自身をユダヤ人たちに渡さないように戦ったでしょう。事実、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、ペテロが大祭司のしもべに切りかかりました。それは、ペテロがイエスをこの世の王と思っていたからです。しかしイエスはペテロが切り落としたしもべの耳を癒されました。戦ったのではなく敵の耳を癒されたのです。そしてペテロに言われました。「剣にさやに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないとでも思うのですか。」(マタイ26:52-53)

イエス様は天の軍勢を呼んで彼らを滅ぼすこともできました。しかし、そうされなかったのは、イエスが来られたのは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを救うためだったからです。もし彼らを滅ぼされたなら、こうならなければならないと書いてある聖書の言葉が成就することはありませんでした。つまり、イエス様は王であられますが、この世の王ではないのです。では何の王なのですか。

37節をご覧ください。それでピラトが、「それでは、あなたは王なのか。」と再度尋ねると、イエスはこう言われましたか。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」どういうことですか。イエスが王であることについてはピラトが言っている通りです。しかし、王は王でもその治めている国が違います。イエス様が来られたのは政治的な王としてこの世を治めるためではなく、真理について証しするためでした。それがクリスマスです。100%神であられる方が、100%人の姿を取って来てくださいました。それは、真理について証しするためです。そして、真理に属する者はみな、イエス様の声に聞き従います。あなたはどうですか。あなたは何に聞き従っていますか。あなたが何に聞き従っているかによって、あなたが何に属しているかがわかります。真理に属している人は、真理に従うのです。

もしかするとあなたは真理に従うことに失望感を持っておられるかもしれません。キリストを信じる信仰のとおりに生きても、だれも気付いてくれないのに、どうしてそのように生きる必要があるのか。そのようにする価値があるのだろうか。日曜日、なぜ毎週早く起きて教会学校の奉仕をし、夜遅くまで教会に残っているのか。そのことにどんな価値があるのか。少しでも長く寝ていたいのに、毎朝、早起きして30分も祈ったり聖書を読んだりする時間を持つことは、そんなに大切なことなのか。福音について話したために友だちを失うことになってしまったが、それでも話す必要があったのか。家を失った人や希望のない人々に、イエスの御名によって仕えているが、だれもそのことに気付いてくれない。それでもその働きを続けるだけの意味があるのか。どんなに神様のみことばに従って生きても、全世界が正反対の方向に進んでいるようだけれど、最後まで信仰生活を続けて少数派に属そうと努力することは、それほど尊いことなのか・・。もちろんです!クリスチャンとして敬虔に生きるということは、どんな代価を払ったとしても、何度でもそのように繰り返すだけの価値があります。なぜでしょうか。そうすることを願われるイエス様が、それほどの価値がある方だからです。真理に属する者はみな、真理であられるキリストに従うのです。

Ⅲ.真理とは何なのか(38-40)

では、真理とは何でしょうか。最後にそのことを見て終わりたいと思います。38-40節をご覧ください。「ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」

それで、ピラトはイエスに言いました。「真理とは何なのか」これはとても重要な問いです。もっとも、彼は真剣に真理を求めていたわけではありません。彼は立場のある人でした。知識もあり、権威もありました。ですから、そのような得にならないような話には興味がありませんでした。「真理とは何なのか」という彼の言葉は、皮肉を込めて言ったものでした。「だったら真理って何なの」といった感じです。というのは、彼がそのように言うと、再びユダヤ人たちのところに出て行ったからです。そして、「私はあの人に何の罪も認めない。」というと、彼らに一つの取引を持ちかけました。それは、過越の祭りでは、だれか一人をユダヤ人たちのために釈放する慣わしがありましたが、イエスを釈放することを望むかということでした。もしイエスに何の罪もなければ釈放すればいいのに、彼はそのようにしませんでした。なぜ?ユダヤ人たちを恐れたからです。そのことでユダヤ人が怒り、騒動を起こすことになったら大変です。もしそんなことになったら総督としての自分の立場を失うことになってしまいます。仕事を失うかもしれない。これは一般の人が一番恐れていることでしょう。でもキリストには罪がないことも知っていたので、何とか釈放したかったわけです。いったいどうしたらよいものか・・。でもそれを自分から言い出すわけにはいかなかったので、ユダヤ人たちの方からその訴えを取り下げる方法を考えたのです。その時ユダヤ人の慣わしを思い出しました。そうだ、過越の祭りでは、だれか一人をユダヤ人のために釈放することになっているが、彼らがユダヤ人の王として訴えたこのイエスを釈放するように話をもちかけたらいいのではないか。

しかし、彼の企みは見事に失敗します。というのは、彼らはイエスではなく、別の人物の釈放を求めたからです。40節をご覧ください。「すると、彼らは再び大声を上げて「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」
何と彼らが釈放を要求したのはイエスではなく、バラバでした。バラバはどういう人でしたか。ここには、バラバは強盗であったとありますが、ルカ23:25には、「暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男」とあります。彼はただの強盗ではありませんでした。強盗で人殺しでした。一方、イエス様は何をしたんですか。何も悪いことはしませんでした。人々を愛し、人々をあわれんで、病気の人を癒し、悪霊を追い出し、貧しい人々に福音を宣べ伝えられました。イエス様は心優しく、へりくだったお方でした。ピラトも、「あの人に何の罪も認めない。」と宣言したほどです。それなのに、彼らはイエス様ではなくピラトを釈放するように要求したのです。なぜでしょうか。それは彼らが真理に属していなかったからです。彼らは完全に自分たちの王を拒みました。そして、全く罪のない方を十字架につけて殺したのです。しかし十字架は、神が私たちを罪から救うたった一つの方法でした。全く罪のない方、神の子イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださることによって、私たちの罪に対する神の怒りが宥められたのです。そして、三日目に死からよみがえられることによって、救いの道を完成してくださいました。ですからだれでも、このイエスを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

ですから、イエス様はこう言われたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」
イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。イエス様が真理です。イエス様はこの真理を証しするために来られました。ですから、真理に生きるためには、イエス・キリストを受け入れなければなりません。その時、真理はあなたがたを罪の縄目から解放してくださるのです。

先日、静岡県にある「ぶどうの木」というところから、「真実の愛」という冊子が送られてきました。これは、精神崩壊した一人の女子校生が、イエス様によって救われた証しです。この少女は高校1年生の時、両親はじめ周りの大人の声を聞き、それに従い、応えようと一生懸命になった末、ついに頭も心もパンクしてしまい、学校を飛び出して、自殺も考えました。この世の心療内科やカウンセリングも勧められましたが、牧師による霊のカウンセリングによって心を開き、イエス様に救われました。そこから、囚われてきた悪霊との戦いと、無条件の赦しを体験し、神の力によって精神疾患が癒されたのです。

それにしても、このお母さんの証しがすばらしい。それまで自分の子育てを自負していました。子供が生まれてからというもの、自分の時間を惜しみなく子育てに捧げてきました。子供の声に耳を傾け、愛情をかけて、ベストな選択でわが子を導いてきたつもりでした。現に子供たちは地元でいういわゆるエリートコースを歩んでいるのが何よりもの証拠で、自分の全力子育ては間違っていないという自信がありました。このプライドがのちに神のカウンターパンチを食らうことになるわけですが。

初めて招かれた教会の集会で示されたのは、コリント人への手紙第一13章4~8節のみことばでした。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

このみことばを読んだとき、自分が注いできた愛情がいかに自己中心で「愛」とは真逆のものであったか、自分が誇ってきた子育てがいかに愚かで子どもの心に悪い種を蒔いてきたか、全ては自分の価値観によるものであったことに気付かされました。

とはいえ、悲しみに明け暮れる苦悩の日々はしばらく続きました。イエス様の愛に目覚めた娘の言動は学校で問題となり、何度も呼び出しを受ける有様でした。また、娘のことでご主人との関係も悪化し、身も心もボロボロでした。

身体が聖書を拒否するようになると、主はコリント第二6:13のみことばをもって歩み寄ってくださいました。「私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。」

そして、「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(Ⅱコリント4:16-17)と宣言し、希望を与えて下さいました。自分のすべてのことをご存知の神が、終わりの見えない今の苦悩を「一時の軽い患難」と言われ、その先に祝福を約束してくださったのです。娘に何と言われようが、どんな誤解を受けようが、イエス様がいつかこの思いを光に出して下さると信じ、言葉を慎むことに意思を傾けることにしたのです。

こうしてイエス様と一対一の関係が築けたことで、自分がどれほど子どもの教育や学歴、富や名誉に翻弄されてきたかを知りました。娘は周囲を見返したい、関心を買いたい、期待に応えたい一心で女優を目指していましたが、牧師は「動機がそれではかわいそう。仮になれたとしても世間から見放されたらまた同じ」だと言いました。どんなに優秀な学校に合格しても、華やかな職業に着いたとしても、精神が崩壊したら何の意味もありません。子どもに変わってほしければ、まず親が変わらなければならないと示され、お母さんもこれまで握ってきた価値観を手放し、新たな道の端に立ちました。そして、悔い改めて、イエス様を信じて心に受け入れました。

あれから1年以上が経ち、娘は無邪気さを取り戻し、神経質や妄想癖からも解放され、目の前に与えられた学業や人間関係に感謝して向き合うことができるようになりました。そして、世界情勢や地球環境、国際問題に関心を向けるようになり、世界中で多くの子どもたちが戦争や資本主義の犠牲になっている事実を知り、そのように苦しんでいる子供たちの代弁者となる目標に向かって一歩踏み出すことができました。きらびやかな世界に憧れ、自分の内側しか見えていなかった1年半前とはまるで別人です。一度は自分を見失い、夢も未来も閉ざされたかのように思えた娘が、聖書から生きる力を得て、喜び、前進することができるようになったのです。

彼女もお母さんも、この世の見方、考え方で生きていた時には、自分のほんとうの姿というものに気付きませんでしたが、真理を知り、真理に属し、真理であられるキリストの声に聞き従ったとき、全く違った人生が開かれていきました。それは私たちも同じです。真理はあなたがたを自由にします。しかし、真理に心を開き、それに従わなければ闇のままです。どうか真理であられるイエス・キリストを信じ、真理に属してください。そして、このイエスにあなたの人生のすべてをゆだね、その声に聞き従ってください。あなたの人生が真理によって導かれ、真理によって開かれ、真理によって祝福されたものとなりますように。

Ⅰサムエル記26章

今日は、サムエル記第一26章全体から学びたいと思います。

Ⅰ.再びダビデのいのちをねらうサウル(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。5節までをお読みします。
「ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているのではないでしょうか。」サウルは立って、三千人のイスラエルの精鋭とともに、ジフの荒野へ下って行った。ジフの荒野でダビデを捜すためであった。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り、サウルが確かに来たことを知った。ダビデは立って、サウルが陣を敷いている場所にやって来た。そしてダビデは、サウルと、その軍の長ネルの子アブネルが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ていて、兵たちは彼の周りに宿営していた。」

ダビデのいのちをねらってエン・ゲディの荒野にやって来たサウルでしたが、用をたすためにある洞窟に入ったとき、その奥にダビデとその部下が座っていることに気付きませんでした。「今こそ、主があなた様に敵を渡された時です」という部下からの進言があったにもかかわらず、ダビデはサウルを殺すことをしませんでした。彼は主に逆らって、主に油注がれた方に、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだと言って、こっそりとサウルの上着の裾を、切り取りました。洞窟から出たサウルにそのことを告げると、サウルは声を上げて泣き、悔い改めたはずでした。しかし、その悔い改めはただの感情的なものであって、真の悔い改めではありませんでした。それは、今日の箇所を見るとわかります。

ジフ人がギブアにいたサウルのところに来て、ダビデがエシモンの東にあるハキラの丘に隠れていることを告げました。覚えていますか、彼らは23章でもダビデを追っていたサウルに、ダビデが自分たちのところに隠れていることを密告しました。それは祭司の町ノブが皆殺しにされたことで、その二の舞にはなりたくないという思いがあったからでしょう。ここで再びサウルに密告しています。ジフはユダのヘブロンから南東に10キロ、エン・ゲディからですと西に20キロのところにあります。その彼らが北に40キロも離れていたギブアにいたサウルのところまでやって来て、しかも、自ら進んでそれをしました。

それを聞いたサウルはどうしたでしょうか。彼は立って、三千人の精鋭とともに、ジフの荒野に下って行きました。もちろん、ダビデを探し出して殺すためです。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道の傍らに陣を敷きました。一方、ダビデは、サウルが自分を追って荒野に来たのを見て、偵察を送り確かめると、確かにサウルが来たことを知りました。それでダビデは立って、サウルと、その軍の長アブネルの陣営の忍び込み、彼らが寝ていた場所を確認しました。

6~12節までをご覧ください。
「ダビデは、ヒッタイト人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイに言った。「だれか、私と一緒に陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」アビシャイが答えた。「私が一緒に下って参ります。」ダビデとアビシャイは夜、兵たちのところに来た。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵たちも、その周りに眠っていた。アビシャイはダビデに言った。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」ダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。 私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」ダビデはサウルの枕もとの槍と水差しを取り、二人は立ち去ったが、だれ一人としてこれを見た者も、気づいた者も、目を覚ました者もいなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠り込んでいたのである。」

それでダビデは、アビシャイを伴って夜、兵たちの所に行ってみると、サウルは陣営の中で横になって寝ていて、彼の槍が、枕もとの地面に突き刺してありました。アブネルも兵たちもみな、その周りに眠っていました。ダビデと一緒に行ったアビシャイはそれを見て、今がチャンスとばかり、ダビデにこう言いました。「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」

これは、ダビデにとって大きな誘惑でした。なぜなら、今サウルを殺せば自分が直面している困難から解放されるからです。しかし、ダビデはアビシャイの進言を拒否してこう言いました。「殺してはならない。【主】に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」ダビデは言った。「【主】は生きておられる。【主】は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。 私が【主】に逆らって、【主】に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」

ダビデはすべてのさばきを主にゆだね、自分からサウルに手を下すことをしませんでした。なぜなら、主が最善の時にサウルを滅ぼされるという確信があったからです。それでダビデは、サウルの枕もとにあった槍と水差しを取って、立ち去りました。それは彼らがサウルを殺す機会があったのにそれをしなかったことを証明するためです。ここにも、主に全く信頼するダビデの信仰をみることができます。彼は自分から動こうとせず、主の時を待ったのです。

それにしても、ダビデとアビシャイがサウルの陣営に侵入しても、彼らはそれに全く気付きませんでした。なぜでしょうか。みな眠り込んでいたからです。ここには、「主が彼らを深い眠りに陥れられたので、眠りこけていた」とあります。これは主が与えた眠りだったのです。主はご自身のみこころを行うために、このように人の眠りさえも支配されるのです。

このような例は、聖書の他の箇所にもみられます。たとえば、創世記2:21には、「神である【主】は、深い眠りを人に下された。それで、人は眠った。主は彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさがれた。」とあります。主なる神はアダムに助け手を作られる際に、彼に深い眠りを与えられました。どうしてでしょうね?それは彼のあばら骨を取って造られたので、手術をする時の麻酔のように、痛みを感じなくするためだったのかもしれません。あるいは、どのような形で造られても、彼が驚かないようにするためだったのかもしれません。深層はわかりません。

また、創世記15:12には、「日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。」とあります。これは、アブラハム契約の締結にあたり、神はアブラハムに深い眠りを与えたわけですが、それは一方的に神から出た契約であることを表すためでした。

また、エステル記6:1には、「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じた。そしてそれは王の前で読まれた。」とあります。これは逆に神が眠りを与えられなかった例です。なぜ神はアハシュエロス王に深い眠りを与えられなかったのか。それはユダヤ人絶滅の危機にあって、ハマンの策略を無に帰するためでした。このことによって、ユダヤ人モルデカイと、全イスラエルのいのちが助かることになったのです。

このように神は、人に深い眠りを与えたり、与えなかったりと、人の眠りを支配することができるのです。この主の御前に、私たちは何の成す術もありません。大切なのは、全てを主にゆだね、主のみこころに生きることです。

Ⅱ.ダビデの訴え(13-20)

次に、13-20節までをご覧ください。まず16節までをお読みします。
「ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、大きな隔たりがあった。ダビデは、兵たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル、返事をしないのか。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があるだろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を護衛していなかったのか。兵の一人が、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのだ。おまえのやったことは良くない。【主】に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、【主】に油注がれた方を護衛していなかったのだから。今、王の枕もとにあった槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」」

ダビデは剣と水差しを取って帰り、遠く離れた山の頂上に立って、将軍アブネルに呼びかけて言いました。ダビデは彼が有能な戦士であることを認めた上で、自分の主君であるサウル王をしっかり守られなかった罪を指摘しました。それは、死刑に値する罪であるというのがダビデの見解です。そのことを証明するために、サウル王の枕もとにあった槍と水差しを示します。つまり、彼らが寝ていた間に自分たちが忍び込んで盗んで来たということです。本来であれば、サウル王を殺すことだって出来ました。それを証明するのがその槍と水差しです。将軍アブネルは、まったくその役目を果たしていませんでした。それゆえ、彼らは殺されなければなりません。なぜなら、主に油注がれた方を護衛していなかったからです。

それを聞いたサウルはどうしたでしょうか。17-20節をご覧ください。
「サウルはダビデの声と気づいて、言った。「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「わが君、王様。私の声です。」そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべの後を追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。わが君、王様。どうか今、しもべのことばを聞いてください。もし私に敵対するようあなたに誘いかけたのが【主】であれば、主がささげ物を受け入れられますように。しかし、それが人によるのであれば、その人たちが【主】の前でのろわれますように。彼らは今日、私を追い払って、【主】のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです。どうか今、私の血が【主】の御顔から離れた地に流されることがありませんように。イスラエルの王が、山でしゃこを追うように、一匹の蚤を狙って出て来ておられるのですから。」

それがダビデの声であることがわかると、サウルはダビデに「わが子ダビデよ、これはおまえの声ではないか」と言いました。するとダビデは、再びサウルに自分が無実であることを訴えます。その訴えの内容は19節ですが、新改訳聖書の訳は少しわかりづらいです。新共同訳聖書ではこれを、「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください。もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら、どうか、主が献げ物によってなだめられますように。もし、人間であるなら、主の御前に彼らが呪われますように。彼らは、『行け、他の神々に仕えよ』と言って、この日、主がお与えくださった嗣業の地からわたしを追い払うのです」と訳しています。つまり、サウルがダビデを殺すように仕向けているのが人間によるものであるならば、それは彼をイスラエルの地の外に追い出すようなことであり、偶像崇拝を強いるのと同じことで、決して許されることではないということです。その上で、ダビデの血が主の御前から離れた地に流されることがないようにと言いました。主の御前から離れた地に流されないようにとは、イスラエルの地から離れることがないようにという意味です。つまり、ダビデは、主の御前から離れることを恐れたのです。それは、ダビデにとって霊的な死を意味していたからです。

ダビデは、相手から攻撃されてもなお、最後まで説得と弁明を繰り返し、決して暴力的な手段に訴えようとはしませんでした。パウロは、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」と言っています(ローマ13:1)。なぜなら、「神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立られているからです。」(同13:1)また、ペテロも「しもべたちよ。敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」(Ⅰペテロ2:18)と言っています。この「意地悪な」というのは「横暴な」という意味です。優しい主人だけでなく、横暴な主人であっても従うようにというのが、聖書が勧めていることです。時として私たちは、自分の思うようにいかないと暴力に訴えてもそれを成し遂げようとする傾向がありますが、聖書が教えていることはそういうことではなく、あくまでも間違いは間違いとして訴えつつも、最後まで丁寧に説得なり、弁明をしながら、誠実の限りを尽くして理解し合う努力をすべきであると教えています。結果をすべて主にゆだねて。

Ⅲ.サウルの悔い改め(21-25)

最後に、21-25節を見て終わります。
「サウルは言った。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。わたしは愚かであった。大きな過ちを犯した。」ダビデは答えた。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」サウルはダビデに言った。「わが子ダビデよ。お前に祝福があるように。お前は活躍し、また、必ず成功する。」ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」

ダビデの訴えを聞いたサウルは、自分の間違いに気付き、「私が間違っていた。」と認めました。これで二度目です。以前、エン・ゲディの荒野でも同じようなことがあったとき彼は、「お前は私より正しい。私に欲してくれたのに、私はお前に悪い仕打ちをした。」(24:17)と泣いて悔い改めたはずです。しかし、その悔い改めは単なる感情から出たことであって、信仰に基づいたものではありませんでした。ですから、ここで同じことを繰り返しているのです。

サウルは、自分が間違っていたと認めたうえで、ダビデに「わが子ダビデよ、かえって来なさい。もう害を加えない。」と約束します。しかしダビデは、サウルがすぐに心変わりすることを知っていたので、その招きには応ぜず、王の槍と水差しを取りに、だれか若い者の一人をよこしてくれるようにと言いました。ここにダビデのすばらしい信仰を見ます。彼は、「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。今日、主はわたしの手にあなたを渡されましたが、主が油を注がれた方に手をかけることをわたしは望みませんでした。今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように。」と言っています。ダビデの確信は、主が自分のいのちを必ず守ってくださるということでした。

その言葉を聞いたサウルは、ダビデを祝福しました。そして、ダビデは多くのことをするようになるが、それはきっと成功すると、預言的なことを言いました。主がそう言わせたのでしょう。しかし、ダビデは調子に乗ることはありませんでした。ダビデは自分の道を行き、サウルはサウルで自分のところへ帰って行きました。これが二人にとって最後の別れとなります。これ以降、ふたりが出会うことはありません。

サウルに対するダビデの行動を見ると、その背後にあったのは主への全き信頼でした。そして、主が油注がれた者に対する尊敬と信頼です。それがたとえ主に従わない者たちであっても、主が立てた権威のゆえに従ったのであり、自分でそれに敵対しようとはしませんでした。最後まで主の導きにゆだねたのです。主に信頼し、すべてのさばきを主にゆだねた人こそ、あらゆる状況の中を生き延びることができる人なのです。

出エジプト記30章

出エジプト記30章から学びます。ここには、幕屋の備品の中で最後の二つのもの、香をたくための祭壇と洗いのための洗盤について書かれています。まず、香をたく祭壇についてです。1~10節までをご覧ください。

  1. 香をたくための壇(1-10)

「また、香をたくための祭壇を作れ。 それをアカシヤ材で作る。長さ一キュビト、幅一キュビトの正方形で、その高さは二キュビトとする。祭壇から角が出ているようにする。祭壇の上面と、側面すべて、および角には純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作る。また、その祭壇のために二つの金の環を作る。その飾り縁の下の両側に、相対するように作る。これは祭壇を担ぐ棒を通すところとする。その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。それを、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前、わたしがあなたと会う、あかしの箱の上の『宥めの蓋』の手前に置く。アロンはその上で香りの高い香をたく。朝ごとにともしびを整え、煙を立ち上らせる。アロンは夕暮れにともしびをともすときにも、 煙を立ち上らせる。 これは、 あなたがたの代々にわたる、主の前の常供の香のささげ物である。あなたがたはその上で、異なった香や全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げてはならない。 また、 その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。 アロンは年に一度、その角の上で宥めを行う。その祭壇のために、罪のきよめのささげ物の、宥めのための血によって、彼は代々にわたり、年に一度、宥めを行う。これは主にとって最も聖なるものである。」」

1節から5節までに、その説明があります。まず、それはアカシヤ材で作らなければなりませんでした(1)大きさは、長さ1キュビト(約44.5㎝)、幅1キュビトの正方形で、その高さは2キュビト(89㎝)でした。そして、その祭壇のそれぞれの隅には角が出ているようにしなければなりませんでした(2)。それに純金をかぶせ、その周りには金の飾り縁を作るようにしました(3)。また、その飾り縁の下には、金でかぶせた棒を通す金の環がありました。それで香の祭壇をかついで運ぶことができました(4-5)。

その香をたくための祭壇がどこに置かれたかが6節に書かれてあります。それは、あかしの箱をさえぎる垂れ幕の手前に置かれました。その垂れ幕の向こうには何があったかというと、あかしの箱とそれを塞ぐ宥めの蓋です。「そこでわたしはあなたと会う」と主が言われたその蓋です。

アロンはその上で香りの高い香をたきました。それは朝ごとに、夕ごとにたかれ、一日中煙が立ち上がらせるようにしました。(7-8)。それは「常供の香のささげ物」でした。常供とは、「日ごとの」という意味です。燭台のともし火も日ごとにささげられましたが、この香も日ごとにささげられました。これは祭司の日課であったのです。この香のささげものは、聖徒たちの祈りを表していました。黙示録5:8には、「香は聖徒たちの祈り」とあります。また、黙示録8:3には、天の御座の前の金の香の祭壇の位置について書かれてありますが、それは御座の前にある金の祭壇の前にありました。それは、この地上における幕屋の宥めの蓋が置かれてある場所と同じです。違うのは、天の御座の前には垂れ幕がないことです。天では、もはや垂れ幕は必要がないからです。なぜ香の祭壇が至聖所に向けて、至聖所に一番近くに置かれたのでしょうか。それは、私たちが神と出会い、神と交わりを持ち、生ける神を体験するためです。そのためには祈りが必要だからです。それは、絶えずささげられなければなりませんでした。Ⅰテサロニケ5:16~18には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。私たちがいつも喜び、すべてのことについて感謝するためには、絶えず祈らなければきならないのです。

9節をご覧ください。ここには、この香をたく祭壇の上で、異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげものをささげてはならない、注ぎのぶどう酒を注いではならない、とあります。なぜでしょうか?なぜなら、それは庭にあった祭壇でささげられたからです。祭壇はキリストの贖いのためのいけにえがささげられました。それは既にほふられたので、もうほふられる必要はないのです。必要なのは神との交わり、つまり、祈りとみことばなのです。

10節をご覧ください。アロンは年に一度、その角の上で宥めを行いました。それはどのように成されましたか?罪のきよめのためのささげ物の血を角に塗ることによってです。同じ聖所にあった備えのパンの机と燭台には、このような規定はありませんでした。これは香のための祭壇にだけ言われていることです。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、主にとって最も聖なるものであるからです。神の御子キリストを象徴していた臨在のパンも、聖霊を象徴していた燭台もきよめる必要はありませんでしたが、人間が行う最高のことである祈りを象徴する祭壇は、きよめが必要だったのです。詩篇66:18には、「もしも不義を、私たちの心のうちに見出すなら、主は聞き入れてくださらない。」とあります。つまり、私たちの罪は祈りを妨げてしまうのです。ですから、きよめが必要なのです。どうしたらきよめられるのでしょうか。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)それゆえ、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)そうすることによって、私たちの罪はきよめられ、祈りは聞かれることになります。義人の祈りは働くと、大きな力があるからです。

この香のための祭壇の角に、宥めのための血が塗られたのはそのためです。祭壇の角は、その祭壇の上に乗っているものがその役割をするのに十分な力を持っていることを示していました。それは、祭壇にささげられたいけにえが、罪を赦す力を持っていたということです。そのように、香の祭壇の四隅の角に塗られた血は、罪を赦す力があることを示していました。そこでささげられる祈りは、どんな祈りでもかなえられるだけの力があるのです。

Ⅱ.人口調査(11-16)

次に、11節から16節までをご覧ください。

「主はモーセに告げられた。「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。登録される者がそれぞれ納めるのは、これである。 聖所のシェケルで半シェケル。一シェケルは二十ゲラで、半シェケルが主への奉納物である。二十歳またそれ以上の者で、登録される者はみな、主にこの奉納物を納める。あなたがたのたましいのために宥めを行おうと、主に奉納物を納めるときには、 富む人も半シェケルより多く払ってはならず、 貧しい人もそれより少なく払ってはならない。イスラエルの子らから償いのための銀を受け取ったなら、それを会見の天幕の用に充てる。 こうしてそれは、イスラエルの子らにとって、 あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる。 」」

幕屋の備品の中で最後のものは、洗いのための洗盤です。しかし、ちょっとその前に、「贖い金」について語られています。11節には、「あなたがイスラエルの子らの登録のためにその頭数を調べるとき、各人はその登録にあたり、自分のたましいの償い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録にあたり、彼らにわざわいが起こらないようにするためである。」とあります。この贖い金を収めるのは、人口調査がある度でした。各人はその登録にあたり、自分のたましいの贖い金を主に収めなければならなかったのです。その額は、一人半シェケルです。20歳以上の男子は、全員その額を収めました。富んだ者も、貧しい者も皆同じ額です。その目的は、わざわいが起こらないためでした。どういうことでしょうか。為政者は、人口調査をすると傲慢になりやすくなります。自分の力を誇るようになるからです。Ⅱサムエル24章には、ダビデが主のみこころでない人口調査をしたことが記されてあります。その結果、主からの刑罰を受けることになってしまいました。この傲慢の罪を戒めるのが贖い金です。贖い(金)の目的は、幕屋の建設のためでした。幕屋が完成した後は、その維持運営のための資金になりました。

ですから、この贖い金は、神の働きは神の民のささげ物によって支えられているという原則を教えています。Ⅰテモテ5:18には、「聖書に「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」、また「働く者が報酬を受けるのは当然である」と言われているからです。」とありますが、それは新約聖書でも同じことです。フルタイムの献身者は、信徒たちの献金によって支えられているという原則が教えられています。私たちが霊的な祝福を受けているのなら、物質的なものでその働きを援助し、主の働き人が安心してその働きに専念できるようにしましょう。

Ⅲ.洗盤(17-21)

次に、17節から21節までをご覧ください。ここには、幕屋の備品の最後のもについて記されてあります。それは洗盤です。  「主はまた、モーセに告げられた。「洗いのために洗盤とその台を青銅で作り、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。彼らが会見の天幕に入るときには水を浴びる。 彼らが死ぬことのないようにするためである。 また、彼らが、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、その手、その足を洗う。彼らが死ぬことのないようにするためである。これは、彼とその子孫にとって代々にわたる永遠の掟である。」」

この備品も、青銅で作られました。どのような天候にも耐え、水がずっと入っていても錆びないためです。それを会見の天幕と祭壇の間に置きました。それは、アロンとその子どもたちが幕屋に入る前に、手と足を洗うためでした。それは彼らが死ぬことがないためです。このことが、20節と21節で繰り返して言われています。それは、それがどれほど重要なことであり、また、真剣に行われなければならないことであるかを示すためでした。これはどういうことでしょうか。

このことが教えていることは明らかです。つまり、手と足は私たちの日ごとの務めの事を表していました。私たちが日々の仕事をしていく時、私たちは肉体的にも霊的にも汚れ、埃をかぶってしまいます。ですから洗盤で手足を洗うのは、そうした内側の清めを表していたのです。祭司たちは、常に主に仕えていて、その働きの中に身を沈めていたので、自分たちは霊的に大丈夫だと思いがちでした。それは現代のクリスチャンたちにとっても同じことで、自分たちはお酒を飲まないし、タバコも吸わない。悪い言葉も使わないし、そういうことをする人たちとも付き合わないので、汚れていないと考えがちですが、しかし、本当にそうなのかどうか吟味するために洗盤で洗わなければなりません。そうすると、自分がいかに汚れた者であるのかに気付かせられることになるでしょう。自分はいつも霊的に十分なのではなく、常にきよめが必要であるということを知る必要があったのです。

この洗盤(水)は、真理のみことばを象徴していました。ヨハネ15:3には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」とあります。またヨハネ17:17には、「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」とあります。私たちは、真理のみことばによって聖め分かたれるのです。またエペソ5:26には、「みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとする」とあります。神のみことばを聞いて、心が洗われるのです。毎日、毎日、みことばの水を浴びなければなりません。みことばを知れば知るほど自分がいかに汚れた者であるかを知るようになります。日々、真理のみことばによって聖められ、神の御前に出て行かなければなりません。

Ⅲ.聖なる注ぎの油(22-33)

幕屋の中で、礼拝のために必要なもう二つの事が書かれてあります。それは、注ぎの油と香の祭壇で焚かれる香です。まず注ぎの油です。22節から33節までをご覧ください。  「主はモーセにこう告げられた。「あなたは最上の香料を取れ。液体の没薬を五百シェケル、香りの良いシナモンをその半分の二百五十シェケル、香りの良い菖蒲を二百五十シェケル、桂枝を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油を一ヒン。あなたは調香の技法を凝らしてこれらを調合し、聖なる注ぎの油を作る。これが聖なる注ぎの油となる。そして、次のものに油注ぎを行う。会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台。こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。あなたはアロンとその子らに油注ぎを行い、彼らを聖別して、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。あなたはイスラエルの子らに告げよ。これは、あなたがたの代々にわたり、わたしにとって聖なる注ぎの油となる。これを人のからだに注いではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものでなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人に付ける者は、だれでも自分の民から断ち切られる。」」

この最上の香料とは、聖なる注ぎの油のことです。その作り方は、23節と24節にある材料を調合して作ります。そして26-28でその油を注がなければならない物は何かを示しています。すなわち、会見の天幕、あかしの箱、机とそのすべての備品、 燭台とそのすべての器具、 香の祭壇、全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、 洗盤とその台です。  その結果は何でしょうか。29節にはこのように書かれてあります。「こうして、これらを聖別するなら、それは最も聖なるものとなる。これらに触れるものはすべて、聖なるものとなる。」油注ぎを受ける前はただの備品でしたが、この聖なる油注ぎを受けた後は、それらはきよめられ、聖なるものとなったのです。どういうことですか。これらのものは物ですから、元々罪があるわけではありません。ですから、これらのものがきよめられるというのは、神聖な働きのために用いられるということです。これらの幕屋の備品は、油注ぎを受けた後で、100%主のために捧げられ用いられたのです。他の目的のために使われることはありませんでした。これが、聖なるものとなるという意味です。それはこれらのものに触れる者も同じです。聖なるものとなりました。イスラエルの民は、ただの好奇心から祭壇や洗盤に近づいて触れることは許されていませんでした。それは主と主に関わる務めに捧げられた者だけが携わることができたのです。それでアロンとアロンの子どもたちもまた、この油注ぎを受けなければならなかったのです。

32節と33節には、この聖なる油について二つの禁止令が語られています。それは、これに似たものを調合してはならないということ、そして、祭司以外のものにこれを注いではならないということです。もしこの命令に違反した場合は、イスラエルの民の中から断ち切られました。死によってか、追放されることによってかのいずれかの方法で、断ち切られたのです。これはどういうことでしょうか。  この注ぎの油は聖霊を象徴していました。Ⅰヨハネ2:27にこうあります。「しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。」どういうことですか。私たちには御子から受けた注ぎの油があるので、だれにも教えてもらう必要はないということです。この注ぎの油が、すべてのことを教えてくれます。この注ぎの油こそ真理の御霊です。この御霊が、私たちにすべてのことを教えてくれるので、これに何かを調合してはならないのです。つまり偽教師から教えてもらう必要はないということです。私たちには聖霊の油が注がれているので、聖霊の助けと導きを求めて祈らなければならないのです。この油に他のものを混ぜたりしてはなりません。

Ⅳ.香の祭壇で焚かれる香(34-38)

最後に、34節から38節までを見て終わります。ここには、幕屋の中で、礼拝のために必要なもう一つの事が教えられています。それは、香の祭壇で焚かれる香です。  「主はモーセに言われた。「あなたは香料のナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香と純粋な乳香を取れ。これらは、それぞれ同じ量でなければならない。これをもって、調香の技法を凝らして調合された、塩気のある、きよい、聖なる香を作れ。また、その一部を打ち砕いて粉にし、その一部を、わたしがあなたと会う会見の天幕の中のあかしの箱の前に供える。これは、あなたがたにとって最も聖なるものである。その割合で作る香を自分たちのために作ってはならない。 それはあなたにとって、主に対して聖なるものである。これと似たものを作って、これを嗅ぐ者は、自分の民の間から断ち切られる。」」

香料は、高価な材料(香料)を調合して作られました。ナタフ香、シェヘレナ香、ヘルベナ香、純粋な乳香の四種類の香料を同じ量だけ取らなければなりませんでした。これらの四種類の香料を調合法にしたがって混ぜ、香ばしい聖なる純粋な香料を作りました。この香は、聖所の中に配置された香の壇の上で、香として焚くためのものです。また、その一部を砕いて粉にし、その一部を、会見の天幕のあかしの箱に供えました。細かく砕いたのは、燃えやすくするためです。この香料に関しても、厳しい禁止事項が記されています。それは、これと似たものを、自分自身のために作ってはならないということです。どういうことでしょうか。

前述したように、この香の壇と香は、生徒たちの祈りを象徴しています。私たちの祈りは、キリストを通してのみ、父なる神の御前に香しい香りとなるのです。また、香はその日に必要なものを取り、よく砕いてから香の上で焚かれましたが、私たちの祈りも、砕かれた心で、日々御前にささげられるべきです。このような祈りを、神は決して蔑まれることはありません。

Ⅰサムエル記25章

今日は、少し長いですが、サムエル記第一25章全体から学びたいと思います。

Ⅰ.愚か者ナバル(1-12)

まず、1~8節までをご覧ください。
「サムエルは死んだ。全イスラエルは集まって、彼のために悼み悲しみ、ラマにある彼の家に葬った。ダビデは立ってパランの荒野に下って行った。マオンに一人の人がいた。カルメルで事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていた。彼はカルメルで羊の毛の刈り取りをしていた。この人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。ダビデは、ナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行ってナバルのところに着いたら、私の名で彼に安否を尋ね、わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。 今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちと一緒にいましたが、彼らに恥をかかせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何かが失われることもありませんでした。あなたの若者たちに尋ねてみてください。彼らはそう報告するでしょう。ですから、私の若者たちに親切にしてやってください。祝いの日に来たのですから。どうか、しもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

サムエルが死にました。彼の死は、全イスラエルに深い悲しみをもたらしました。それはダビデにとっても同じで、彼もまたサムエルの死を悼み悲しみました。ダビデにとってサムエルは霊的支えとなっていましたが、そのサムエルが死んだことで、これからは彼の祈りと助言を期待することができなくなってしまいました。それは、600人の部下を率いて荒野を放浪していたダビデにとって、すぐに現れました。彼らを養うという責任がダビデの肩に重くのしかかっていたからです。ちょうどそのようなとき、ダビデの耳にナバルという人の情報が飛び込んできました。

この人は、マオンに家があり、カルメルで事業をしていて、非常に裕福でした。彼は羊三千匹、やぎ千匹を持っていました。当時は、その人がどれだけ家畜を持っているかによって、その人がどれだけ裕福であるかがわかりました。そのことからすると、彼は非常に裕福であったことがわかります。この人の名はナバルで、妻の名はアビガイルと言いました。「ナバル」とは「愚か者」という意味があります。彼がどれほど愚か者であるかは、この後で起こる出来事によって示されますが、ここには、彼は「頑迷で行状が悪かった。」と紹介されています。頑迷とは、彼の心が頑なであったということを表しています。彼はカレブ人であったとあります。カレブと言えば、あのヨシュアとカレブのカレブで、非常に信仰的であった家系から出た者でしたが、実際にはそれとは裏腹に心が頑な人でした。しかし、彼の妻は彼とは対照的に、賢明で、姿が美しかったとあります。彼女は聡明で、美人だったのです。

そのナバルがカルメルで羊の毛の刈り取りをしていたとき、ダビデは彼のもとに若者十人を遣わして、彼と彼の家を祝福し、彼の手もとにある物を与えてくれるようにと頼みました。それはダビデが彼の羊飼いたちを守ってきたという事実に基づいての依頼でした。

それに対して、ナバルはどのように応答したでしょうか。9節から12節までをご覧ください。
「ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」ダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。」

ダビデの若者たちは行って、ダビデに言われたとおりのことをナバルに告げると、ナバルはダビデを侮辱して言いました。「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。」ナバルはダビデについて聞いて知っていたはずです。それなのに彼はダビデを知らないふりをして侮辱したのです。そればかりではありません。「このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。」と言って、ダビデを悪者扱いしました。さらに、「私のパンと水、それに羊の毛を刈り取る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかも分からない者どもに、くれてやらなければならないのか。」と大口をたたいて、ダビデの要請をキッパリと断ったのです。

「ナバル」という名前にはどんな意味がありましたか?ここにナバルの愚かさがあります。物質的か霊的かを問わず、祝福された者には貧しい者を助けるという義務があります。これが、神の国の原則なのです。それなのに彼は、この神の国の原則に生きようとしませんでした。なぜでしょうか?神への恐れがなかったからです。詩篇14:1には、「愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」とあります。つまり、彼は神に対して心が閉ざされていたのです。神への恐れがありませんでした。それゆえに、だれの忠告も受けようとしなかったのです。そのような人を待ち受けているのは、滅びしかありません。私たちはナバルのように神に対して心を閉ざすのではなく、神に対して心を開き、神を恐れて生きるものでありたいと願わされます。

Ⅱ.アビガイルのとりなし(13-31)

それに対してダビデはどのような態度を取ったでしょうか。13節をご覧ください。
「ダビデは部下に「各自、自分の剣を帯びよ」と命じた。それで、みな剣を身に帯びた。ダビデも剣を帯びた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。」

若者たちの報告を受けたダビデは激怒し、「各自、自分の剣を帯よ。」と命じました。そしてダビデ自身も剣を帯び、ただちにナバル討伐に立ち上がりました。四百人ほどがダビデについて上って行き、二百人は本営に留まりました。当然と言えば当然でしょう。人間的に見れば、恩を仇で返すような相手を赦すことはできません。しかし、ここで自分を侮辱するわずかばかりの言葉を聞いて、感情をコントロールすることができなくなるほどに激怒し、ナバル一家を滅ぼそうとしたダビデの姿には、かつてサウルが祭司の町ノブを皆殺しにしたのを思い起こさせます(Ⅰサムエル22:19)。これは、明らかにダビデの罪でした。人間はどんなにすばらしい人であっても、必ずなんらかの欠点があるものです。そうした弱さに学びながら、ダビデの子として来られた神の子イエス様だけが何の罪もない完全な方であることを認め、この方に信頼して歩まなければなりません。

次に、14-22節までをご覧ください。
「ナバルの妻アビガイルに、若者の一人が告げて言った。「ダビデがご主人様に祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、ご主人様は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにとても良くしてくれたのです。私たちは恥をかかされたこともなく、野で一緒にいて行動をともにしていた間、何も失いませんでした。一緒に羊を飼っている間は、夜も昼も、彼らは私たちのために防壁となってくれました。今、あなたがどうすればよいか、よく考えてください。わざわいがご主人とその一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」アビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。あなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会った。ダビデは、こう言ったばかりであった。「荒野で、あの男のものをすべて守ってやったので、その財産は何一つ失われなかったが、それは全く無駄だった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が明日の朝までに、あの男に属する者のうち小童一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」」

すると、ナバルの妻アビガイルの下に若者の一人がやって来て、その一部始終を告げました。彼が告げたことは、ダビデがナバルに祝福のあいさつをするために、荒野から使者たちを遣わしたのに、主人ナバルは彼らをののしったということ。そのののしったダビデとその部下たちというのは非常に良い人たちで、自分たちが野で羊を飼っていたときに良くしてくれたばかりか、自分たちのために防壁となってくれたということ。それゆえ、どうすればよいかをよく考えていただきたいということでした。そして、最後にこの若者はこう言いました。「ご主人はよこしまな方ですから、だれも話しかけることができません。」

何とも大胆なことばです。実際、ナバルとはそれほど愚かな男であったのでしょう。また、この若者はアビガイルもそのように思っていて、自分の意見に同意してくれるという確信を持っていたのだと思います。

それを聞いたアビガイルはどうしたでしょうか。彼女は何が起こったのかをすぐに理解し、ただちに行動に移しました。パン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五匹、炒り麦五セア、干しぶどう百房、干しいちじく二百個を取って、これをろばに乗せ、若者たちを先に進ませて、ダビデのもとへと向かったのです。しかも、このことは夫ナバルには何も告げていませんでした。

アビガイルがろばに乗って山陰を下って行くと、ちょうど、ダビデとその部下が彼女の方に下って来るのに出会いました。彼女はダビデを見ると、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏し、ダビデの足もとにひれ伏してこう言いました。24-31節です。
「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(24-31)

ここでアビガイルはダビデにどんなことを言ったのでしょうか。彼女はまず、「あの責めは私にあります」と、自分の罪を認めて告白しました。ダビデが遣わした若者たちに気付かなかったのは、自分の罪だというのです。すごいですね。その上で、自分の罪を赦してほしいと願っています。一方、夫については、何と言っていますか。夫ナバルはその名のとおりよこしまな者、愚かな者だから、彼のことに関しては気にかけないでほしいと懇願しています。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐されることを主が止められたことを告げ、その主が復讐してくださるようにと祈りました。それはダビデが主の戦いをしているからです。主の戦いにおいて重要なことは、悪が見出されてはならないということです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになります。彼女は、ダビデがイスラエルの王になることを確信していました。それゆえ、理由もなく血を流したり、復讐をして、ダビデのつまずきとなったり、心のさまたげとなったりすることがないようにし、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

アビガイルのとりなしは言葉には、深い感動を覚えます。なんと聡明で、行動力と説得力をもった女性でしょうか。彼女はダビデに贈り物をささげて、夫とその家のためにとりなしをしました。私たちのためにとりなしてくださるのはイエス様です。イエス様は自らのいのちをささげて、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と言ってとりなしてくださいました。そのとりなしによって、私たちの罪は赦され、神の子とされました。そして、イエス様は今も天で大祭司として、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

そんなアビガイルのとりなしに対して、ダビデは何と言ったでしょうか。32~35節をご覧ください。
「ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」ダビデはアビガイルの手から、彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、家へ上って行きなさい。見なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」」

ダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、アビガイルと合わせてくれた主に、心からの感謝をささげました。それは彼女が、ダビデが血を流すという罪、復讐するという罪から免れるようにしてくれたからです。もしアビガイルが来て引き止めてくれなかったら、きっとナバル一家を皆殺しに、主に罪を犯していたことでしょう。そう思うとダビデは、このアビガイルの判断をほめたたえずにはいられませんでした。ダビデは、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けました。

忠告してくれる人の言葉に耳を傾ける人は、知恵のある人です。そして、忠告してくれる人に感謝することができるなら、それはさらにすばらしいことです。忠告してくれる人の言葉は、時として痛く感じることがありますが、大切なのは自分がどう感じているかということではなく、その忠告者の言葉に耳を傾け、その言葉を受け入れることなのです。

Ⅲ.神のさばき(36-44)

最後に、36-44節を見て終わります。38節までをご覧ください。
「アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは、自分の家で王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上機嫌で、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ。」

アビガイルがナバルのところに帰って来ると、彼はちょうど自分の家で王の宴会のようなものを開いていました。ナバルはかなり酔っていたので、彼女は明け方まで、何一つ話しませんでした。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、彼女が一連の出来事について彼に告げると、彼は気を失って石のようになりました。そして、それから10日後に息絶えたのです。いたいなぜ彼は死んでしまったのでしょうか。ここには、「主はナバルを打たれ」とあります。彼は単に病気で死んだのではなく、主が彼を打たれたので、彼は死んだのです。つまり、主が彼をさばかれたので、彼は死んだのです。ダビデが復讐を思いとどまったとき、主の出番がやって来ました。自分で復讐するのではなく、裁きを主にゆだねる人は幸いです。ローマ12:19にはこうあります。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」私たちも自分で復讐したいと思うことがありますが、復讐は神がなさることです。その神の怒りに任せましょう。そして、私たちは神のみこころに従い、悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけたいと思います。

最後に、39-44節をご覧ください。
「ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「主がほめたたえられますように。主は、私がナバルの手から受けた恥辱に対する私の訴えを取り上げ、このしもべが悪を行うのを引き止めてくださった。主はナバルの悪の報いをその頭上に返された。」ダビデは人を遣わして、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。ダビデのしもべたちはカルメルのアビガイルのところに来て、彼女に、「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました」と言った。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「さあ。このはしためは、ご主人様のしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女を後に従え、ダビデの使者たちの後に従って行った。彼女はダビデの妻となった。ダビデはイズレエルの出であるアヒノアムを妻としていたので、二人ともダビデの妻となった。サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリム出身のライシュの子パルティに与えていた。」

ナバルが死んだという知らせを聞き、ダビデは主をほめたたえました。自分で復讐せずとも、主が彼をさばいてくださったからです。それからしばらくして、ダビデは人を遣わして、アビガイルに結婚を申し入れました。ダビデの最初の妻はサウルの娘のミルカでしたが、サウルは彼女をガリム出身のライシュの子パルティに与えていたからです。しかし、彼にはもう一人の妻がいました。イズレエルの出身のアヒノアムという女性です。今の間隔からすると、不思議な感覚です。旧約聖書を見ると、確かに申命記17:17には、「多くの妻を持ってはならない。」とありますが、たとえば、アブラハムにしても、ヤコブにしても、このダビデにしても、ソロモンにしても、複数の妻がいました。しかも神は、そのことを明確には糾弾しておられません。なぜでしょうか。

その一つの背景には、当時の婦人たちが、父親、兄弟、夫などに依存して生活していたことがあげられます。未婚の女性や夫に先立たれた婦人は、非常に厳しい状況の中に置かれました。彼女たちに残された道は、娼婦になるか、奴隷になるか、餓死するか、のいずれかだったのです。そう考えると、一夫多妻制には、女性を救済するという側面があったことが分かります。と同時に、一夫多妻制によって数々の問題が生じたことも事実です。たとえば、アブラハムもヤコブも、妻たちの対立関係によって苦しめられました。ダビデもまた、家庭内の不和に苦しみました。ソロモンの場合は、異教の妻たちを通して偶像礼拝をイスラエルに持ち込むことになりました。 それなのに、どうしてこのことが許容されたのでしょうか。

創世記2:24には、「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 とあります。従って、一夫多妻制は神が積極的に認めたものではなく、堕落した人間が始めた習慣だと言えます。新約聖書を見ると、神の計画が、結婚の最初の形態である一夫一婦制を回復する段階に入ったことがわかります。マタイ19:4からのところでイエス様は、「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっていることでしょうか。」というパリサイ人の質問に対して、あの創世記2:24のことばを引用し、二人は一体であることを教えられました。つまり、一夫一婦を支持されたのです。そして、もし妻を離縁し、別の女を妻とする者は姦淫を犯すことになると言われました。もし一夫多妻制が神のみこころなら、イエス様はこのようなことを言わなかったでしょう。ですから、聖書が教えていることは、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのであって、複数の女性と結びつくことではありません。それなのに神が一夫多妻制を一時的に黙認されたのは、先に述べた理由があったからです。しかし、近代社会においては、女性が自立して生きる可能性は広がりました。今でも一夫多妻制を必要とする文化圏があるかもしれませんが、それは極めて希なケースです。現在、ほとんどの国で一夫一婦制が法制化されています。クリスチャンは、神の御心に反しない限り、自分の国の法律に従うように命じられています。それゆえ、今は一夫一婦制だけが有効な結婚の在り方であると言えるのです。

アビガイルはすぐに行動を起こします。彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、「さあ、このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」と言いました。彼女の姿勢は、仕えるしもべそのものでした。しもべたちのしもべになろうというのですから。そして、急いで用意して、彼女の5人の侍女を後に従え、ダビデの使いたちのあとに従って行きました。こうして彼女はダビデの最初の妻ミカル、二番目の妻アヒノアムに続いて3番目の妻となりました。

アビガイルは、先にある栄光のゆえに、ダビデとともに苦しむことを選び取ったのです。私たちもまた、将来の祝福の約束を信じて、キリストとともに苦しむことを選び取った者たちです。かつてロトの妻が後ろを振り返って塩の柱となってしまったように、この世を振り返って塩の柱にならないように、主が与えてくださった栄光を見つめて、前進していきましょう

ヨハネの福音書18章12~27節「イエスを否定したペテロ」

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きょうは、ヨハネ18:12~27から「イエスを否定したペテロ」というタイトルでお話しします。

Ⅰ.ペテロの弱さ (12-18)

まず12節から14節までをご覧ください。
「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

ゲッセマネの園でイエスは、イスカリオテのユダの裏切りにより一隊のローマ兵士と祭司長たちによって送られた下役によって捕えられました。しかし、イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われました。ここで著者のヨハネが示そうとしていたのは、自ら進んで十字架に向かおうとしおられた主イエスの姿です。それとは裏腹に、このゲッセマネの園は人間の弱さも示していました。ペテロはイエスを捕らえるためにやって来た人たちの一人、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。なぜそんなことをしたのでしょうか。そんなことをすれば捕らえられてしまうことになります。剣は真の解決をもたらしません。それでイエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言われ、このしもべの耳を癒されました。イエスの最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものだったのです。

一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえると、どこへ行きましたか。まずアンナスのところに連れて行きました。なぜ?彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからです。彼自身も以前大祭司でしたが今は引退しており、代わって娘婿のカヤパが大祭司になっていたこともあって、まだ相当の影響力をもっていたのです。いわば陰の実力者だったわけです。それで、彼らはまずアンナスのところに連れて行き、そこで不当な裁判が持たれたのです。その後、現大祭司のカヤパのもとに連れて行かれますが、ヨハネはここでそのカヤパを紹介するにあたり、彼が以前ユダヤ人に助言した言葉をもう一度引用しています。14節です。「カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬ方が得策である、とユダヤ人に助言した人である。」。ヨハネはなぜこの言葉を引用したのでしょうか。それは、カヤパが自分たちの利益のみを考えて語った言葉が、はからずもそれがイエス・キリストの身代わりの死を予告していたからです。ですから、ヨハネは再びそれを引用することによって、イエスの身代わりの死がいよいよ始まろうとしていたことを、示そうとしたのです。

15~18節までをご覧ください。
「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」

イエスが捕らえられアンナスのところへ連れて行かれた時、弟子たちはどうしたでしょうか。シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行きました。「もう一人の弟子」とは、もちろん、この福音書を書いているヨハネのことです。イエスが捕らえられると、他の弟子たちはイエスを見捨てて一目散に逃げて行きましたが、シモン・ペテロともうひとりの弟子であるヨハネはイエスについて行きました。そしてヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入りましたが、ペテロはそうでなかったので、門の外から中の様子を眺めていました。この大祭司とはアンナスのことです。先ほども申し上げたように、現役の大祭司はカヤパですが、アンナスも大祭司とみなされていたのです。

ここには、そのアンナスとヨハネが知り合いだったとありますが、どうして彼らが知り合いだったのかはよくわかっていません。ある人は、ヨハネの父ゼベダイはガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でしたが、そのとれた魚を大祭司に届けていたことで、知り合いになったのではないかと考えています。しかし、いくら魚を届けていたとしても、ガリラヤ湖からエルサレムまでは遠すぎます。また、漁師と大祭司とでは身分が違いすぎることから、少し考えにくいことだと思います。

それである人は、ヨハネの母はサロメですが(マタイ27:56)、サロメはイエスの母マリヤの親戚であったことから、そのマリヤの親戚にはだれがいましたか。そうです、バプテスマのヨハネの母エリサベツがいました。そして、エリサベツの夫は祭司ザカリヤでしたから、それでヨハネは大祭司とも知り合いだったのではないかというのです。この考えが有力ではないかと思いますが、いずれにせよ、ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ることができました。

一方、ペテロはというと、16節を見てください。彼は、門のところに立っていました。でもこれは、ただ立っていたというよりも、どこか彼の心の状態を表しているかのようです。彼は以前、「あなたのためならいのちも捨てます」と言いましたが、今は臆病になっていて中に入って行くことができませんでした。入って行こうものなら、自分も捕らえられてしまうのではないかと恐れていたからです。門のところに立って、遠くからその様子を眺めていました。それでヨハネが出て来て、門番の女に話をして、彼を中に入れてもらうようにしました。

すると、門番をしていた召使いの女が、いきなりペテロにこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」ドキッ!ですよね。不意打ちを食らったかのような突然の質問に、ペテロは驚きを隠すことができませんでした。それで冷静さを装いながら、「違う」と言いました。彼女としてはあまり見た顔ではなかったので、軽く聞いただけだったのでしょうが、ペテロとしては息がとまるのではないかと思ったことでしょう。辺りは薄暗かったので互いの顔もはっきり見えない状態だったこともあって、何とかその場を切り抜けることかできました。でも彼はイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言った人ですよ。また、ゲッセマネの園では、一隊のローマ兵士とユダヤ人の下役たちがイエスを捕らえに来た、勇敢に剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落とした人です。そのペテロが、門番をしていた召使いの女が放ったたった一つのことばに、シュ~ンとなってしまいました。びくびくしていたのです。「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言ったあの言葉はいったい何だったのでしょうか。人間的な強がりとか意志というものは、ほんとうに弱いなあと思いますね。いざとなると、自分を守ることしか考えられないのですから。それはペテロだけではありません。私たちも同じです。私たちも、主の支えがなければ実は何も出来ない弱い者にすぎません。このことがわかっていないと、この時のペテロのようになってしまいます。自分では信仰があると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意志にすぎないということがあるのです。

それは、18節のペテロの態度にも見られます。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こして立って暖まっていましたが、ペテロも彼らと一緒にいて、立って暖まっていました。これは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは3月末から4月中旬までの間に行われますから、まだ肌寒いわけです。しかも真夜中であれば相当寒かったでしょう。それでしもべたちや下役たちが炭火を起こして暖まっていたのですが、ペテロもちゃっかりとそこに混じって暖まっていました。彼自身は気付いていなかったでしょうが、実はこれは大変危険なことでした。敵の火で暖まっていたのですから。これは外の気温だけでなく彼の心も冷えていたということです。ペテロの心も寒かった。それで彼は敵の火で暖めていたのです。私たちにもこういうことがありますね。イエス様は何と言われましたか。イエス様はいつもの場所、ゲッセマネの園に来られると、こう言われました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)イエス様は十字架を前にして、悲しみのあまり死ぬほどでした。ですから、苦しみもだえながら、いよいよ切に祈られたのです。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどでした。ところが、弟子たちは何をしていたかというと、彼らは眠りこけていました。「どうして眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われても、彼らはまた眠りこけてしまいました。起きていることができなかったのです。同じことが三度繰り返されました。確かに彼らは疲れていましたが、ただ疲れていたのではありません。霊的に眠った状態だったのです。祈るべき時に祈らないとこうなってしまいます。私たちは本当に弱い者であり、どんなに信仰があると言っても、祈らないで行動すると簡単に失敗したり、躓いてしまうことになります。敵の火で暖まってしまうようなことになるのです。それはただ気温が寒かったからということではなく、ペテロの心が寒かったから、ペテロの信仰が寒かったからです。ペテロの失敗の本当の原因はここにありました。私たちも誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなければなりません。

Ⅱ.イエスの強さ(19-24)

次に、19節から24節までをご覧ください。
「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。」

一方、アンナスのところに連れて行かれたイエス様はとうなったでしょうか。場面がペテロのシーンからイエスの裁判に移っています。場所は同じ大祭司の中庭ですが、映画のシーンのように、ペテロとイエスのシーンを交互に映し出しています。ここに出てくる大祭司もアンナスのことです。これは実際の裁判ではなく、実際の裁判が行われ前の予備尋問のようなものでした。最初からイエスを有罪と決めつけての尋問ですから、訴訟手続きそのものに問題があります。彼はどんなことを尋問しましたか。彼はイエスに弟子たちについて、また、その教えについて尋問しました。弟子たちについて尋問したのは、ローマ帝国に対する反逆罪で弟子たち全員を総督ピラトに告発するためだったのでしょう。また、イエスの教えてについて尋問したのは、その教えが神を冒涜するものであることを暴き、冒涜罪で立証するためでした。

それに対してイエス様は何と答えましたか。20-21節をご覧ください。イエス様は弟子たちに関しては沈黙されましたが、その教えに関しては、それは公然となされたのだから、それを聞いた人たちに尋ねなさい、と言われました。そして、もし何か問題があるなら、その人たちに聞くべきだというのです。というのは、律法には何とありますか。律法には、裁判において証言するのは本人ではなく、二人か三人の証言者によるとあるからです。

すると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打ちました。最初に神の子に手を出したのは、正義を行うはずの下役たち、ユダヤ教の神殿警備隊の者でした。「恐れ多くも先の副将軍・・」という文句がありますが、恐れ多くも先の副将軍どころか全地の主、神の子イエスを平手で打ったのです。しかし、この下役の言葉と行動には注目すべきものがあります。というのは、彼が言っていることは一理あるからです。大祭司にそのような答え方をするのはよくありません。問題は、彼が平手で打った方がどういう方であるかを知らなかったことです。「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って彼が平手で打ったお方こそ、実は真の大祭司だったのです。イエス・キリストは永遠の大祭司であり、神と人をとりなすお方です。このとりなしの働きをするために、人間の大祭司が一時的に立てられていたわけですが、その大祭司の権威を認め、その権威を尊重することはとても大切なことです。ですから、この下役が取った態度は間違いではありませんでした。彼の過ちは、自分の目の前にいるお方が真の大祭司であったということを知らなかったことです。もしもこの役人の霊的な目が開かれていて、自分の目の前にいるお方が聖なるお方、全能の神、メシアであることを知っていたなら、彼の行動は全く違ったものになっていたでしょう。彼は即座にキリストの足元にひれ伏して礼拝したに違いありません。

ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方を遮りました。すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。
「そちらの進路を変更されたし!」
すると相手から返事が返って来ました。
「そちらこそ進路を変えてください」
皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。
「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」
すると再び相手から返事がありました。
「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」
もし、あなたが皇太子ならどうしますか?

まさにイエス様は世の光です。灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側なのです。この方こそ真の大祭司、聖なる方、全能の神、メシアであられるのです。それなら、どうしてこの方を打つのでしょうか。私たちはこの方が正しい方、神の子、救い主であると認め、この方の前にひれ伏さなければなりません。

さて、下役が平手でイエスを打つと、イエスは彼にこう言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

イエス様は、たとえ彼がご自分のことを知らなかったとは言え、悪に対しては毅然とした態度で立ち向かいました。相手が受け入れないということがわかっていても、正しいことを語られたのです。もしかすると、また平手で打たれるかもしれません。いや、今度はグーパンチが飛んでくるかもしれません。しかし、イエス様はそれに動じませんでした。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」と、堂々と応じたのです。悪に対して毅然とした態度で立ち向かったとはいえ、目には目を、歯には歯をと、暴力に対して暴力で対抗したのではなく、丁寧に相手の間違いを指摘されたのです。まさにイエスこそまことの神、王の王、主の主なのです。

Ⅲ.鶏の鳴き声を聞いたペテロ(25-27)

最後に、25-27節をご覧ください。
「さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」

場面が再び大祭司の中庭にいたシモン・ペテロに戻ります。そこはイエス様が顔につばきをかけられ、殴りつけられていたところですが、一方ペテロはどうしていたかというと、彼はまだ敵の火に暖まっていました。イエス様が苦しめられている間、彼はずっと敵の火で暖まっていたのです。すると人々が彼にこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」(25)

マタイの福音書を見ると、彼らがそのように言ったのは、彼のことばになまりがあったからだとあります。彼らは「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」(26:73)と言いました。これはきついですね。ことばのなまりはそう簡単には直せません。その人の言葉を聞くと、その人がどこの出身であるかがわかります。私の両親は福島県の霊山という山奥で生まれ育ったなので、二人ともかなりのズーズー弁なのです。「フクシマ」も「フクシマ」とは言わず、「フグシマ」と言います。なまりが抜けないのです。それで私もズーズー弁が抜けなくて、言葉には相当のコンプレックスがあるのです。私がこんなに内向的なのはそのせいです。ペテロはガリラヤ出身でしたから、そのことばのなまりでわかりました。するとペテロは否定して、「弟子ではない」と言いました。二回目です。今回は以前よりも否定する度合いが強くなっています。一回目は、「違う」だけでしたが、今回は「弟子ではない」とはっきりと否定しました。三回目はどうでしょう。

26節をご覧ください。今度は大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人とはマルコスです。自分の親戚が耳を切り落とされたんです。ですから、その様子をしっかり見ていたのでしょう。相手の顔もよく覚えていました。その人が、「見たんです。あなたが園でマルコスの耳を切り落としたのをこの目で見たのです。」と言ったのですから、もう言い逃れは出来ません。

するとペテロは何と答えましたか。27節、「ペテロは再び否定した。」。もう一度否定しました。マタイの福音書を見ると、ただ否定したのではなく、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。」(26:74)とあります。皆さんもよくあるでしょう。「神に誓ってもいい。嘘じゃない。私じゃない。」嘘なのに、嘘じゃないと、力を込めて否定したことがあるんじゃないですか。嘘なのに・・・。大抵の人は嘘の上に嘘を塗ろうとするとこのような結果になります。「のろわれてもよい」とは、絶対に嘘じゃないということです。ペテロは三度も否定しました。「すると、すぐに鶏が鳴いた。」コケコッコー!

イエス様はこのことを知っていました。ですから、最後の晩餐の時ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と言ったとき、こう言われたのです。「わたしのために命を捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)

その御言葉の通りになりました。ペテロは鶏が鳴いた時、この言葉を思い出しました。ルカの福音書を見ると、この時イエス様が振り向いてペテロを見つめられたとあります(ルカ22:61)。目と目が合ったのです。そして彼は、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とイエス様が言われたことばを思い出して、外に出て、激しく泣きました(ルカ22:62)。

ペテロは、以前は自分自身にとても自信のある男でした。行動的なタイプの人です。イエス様を愛して、本当にいのちをかけて最後まで従おうと思っていたでしょう。他の弟子たちが躓いても、自分だけは絶対にそんなことはないと思っていました。そのように思っていた彼が今、そうでないということに気付かされ、完全に打ちのめされてしまいました。完全に砕かれたのです。イエス様はそのことをちゃんと知っておられました。人間の強さというものがどれほど弱く、脆いものであるかということを。ですから、ペテロのためにとりなしの祈りをされたのです。ルカ22:31-32です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは失敗しましたが、彼の信仰は無くなりませんでした。なぜでしょうか。イエス様が彼のために祈られたからです。彼はのろいまでかけて誓いイエス様を否定しましたが、それでも信仰が無くなりませんでした。なぜですか。それはイエス様が彼のために祈られたからです。そして復活してから後40日間、彼らの前にご自身を現わされると、ペテロに三度尋ねられました。

「あなたはわたしを愛しますか」

これは、ペテロが三度イエス様を否定したことを赦し、公に彼の信仰を回復させるためでした。ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と告白すると、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして、初代教会の指導者として立ててくださったのです。ペテロの信仰は完全ではありませんでしたが、主が彼のために祈り、赦し、癒し、励まし、立ち上がらせてくださったので彼は神の器として用いられ、神の御言葉を通して多くの人々を救いに導き励ますことができたのです。

それは私たちも同じです。もしかすると、あなたは自分にはできないことはない、自分には何でもできると思っているかもしれません。自分にはそれだけの意志と力があると。しかし、自分自身に自信がある時には神の働きをすることはできません。表面的にはできるかもしれませんが、しかし、それで神の働きをすることはできないのです。神の働きは、自分が簡単に失敗し躓いてしまうような弱い者であることをとことん知り、神の前に砕かれ、自分の人生を主イエス様に明け渡した時に始まるのです。

ベトナムのダナンにあるカトリック教会、ダナン大聖堂は、ダナンの街でひときわ存在感を発揮するピンク色の教会です。屋根の上に鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれています。なぜ屋根の上に鶏があるのかとある外がその教会の神父に尋ねると、その教会の神父はこう答えました。

「ペテロは残りの生涯の間、鶏の声を聞くたびにあの時のこと(イエス様を三度裏切ったこと)を思い出して泣いて悔い改めました。それ以来、教会に鶏の像をつけるようになったのです。」

私はそれを聞いて笑ってしまいました。そんな考えがどこから来るのでしょうか。聖書は何と言っていますか。ペテロはイエス様の御力を味わってから、完全な赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはなかったのです。それなのにイエス様が赦してくださった罪を、鶏が鳴いたからと言ってまた思い出して泣くなどということはあり得ません。また人は神様のみことばを聞いて悔い改めるのであって、鶏の声を聞いて悔い改めるわけではないのです。

ペテロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様が言われたことを思い出して激しく泣きました。彼は自分の弱さ、自分の足りなさに打ちのめされ完全に砕かれたのです。しかし、自分の罪を悔改めた彼は完全な赦しを得て新しくされ、自分の力ではなく、神の力、イエス・キリストの力に完全により頼んだので、神に大きく用いられたのです。

私たちもペテロと同じように弱い者です。多くの失敗をします。でも、安心してください。イエス様があなたのために祈っていてくださいます。あなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのです。イエス様はすでにあなたを赦してくださいました。ですから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるべきです。まずはあなたが自分の弱さを知り、そんな者でさえも愛されていることを深く知って、イエス様にあなたの人生のすべてを明け渡すことです。あなたが神の前に砕かれるとき、神の恵みと神の力があなたに注がれるからです。

サムソンといえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。長髪を思い浮かべる人、腕力の強さを思い浮かべる人など、さまざまでしょう。「サムソナイト」というメーカーのスーツケースがありますが、これは丈夫で強いサムソンにちなんで名づけられたものです。彼は長所を生かせず失敗したヒーローです。彼は、神様の偉大なみわざを行うために用意された器でした。ところが、彼は大きな勝利の後に、女性を追いかけては失敗します。そして、最後は自分の力の秘密であった髪の毛を剃り落とされると、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられて牢につながれてしまいました。しかし、牢の中で悔い改めた彼は再び神の力を受け、一度に三千人のペリシテ人を打ち殺すことができました。それは、彼が生きている間に殺した数よりも多かったと聖書にあります。確かに彼は失敗の多い人生でした。しかし、最後は神の御力を受けて神の器として働くことができたのです。

あなたもサムソンのように失敗することがあるかもしれません。ペテロのようにイエスを否定することがあるかもしれない。しかし、あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦してくださいます。そして、あなたを立ち直らせてくださいます。主があなたのために祈られたからです。その時あなたは兄弟たちを力づけてやらなければなりません。それはあなたの力によってではなく、主の恵み、主の御力によってです。主はあなたの信仰がなくならないように祈られました。主の恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みによって立ち直り、主の御力によって主に仕えさせていただきましょう。