ヨシュア記22章

きょうは、ヨシュア記22章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

Ⅰ.同胞を捨てず(1-9)

 

「そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じたすべてのことについても、私の声に聞き従った。」今日まで、この長い間、あなたがたの同胞を捨てず、あなたがたの神、主の戒め、命令を守ってきた。今すでに、あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞に約束したように、彼らに安住を許された。今、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川の向こう側の所有地、あなたがたの天幕に引き返して行きなさい。ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。ヨシュアは彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕に行った。・マナセの半部族には、モーセがすでにバシャンに所有地を与えていたが、他の半部族には、ヨシュアはヨルダン川のこちら側、西のほうで、彼らの同胞といっしょに所有地を与えた。・・さらに、ヨシュアは彼らを天幕に送り返すとき、彼らを祝福して、次のように彼らに言った。「あなたがたは多くの財宝と、おびただしい数の家畜と、銀、金、青銅、鉄、および多くの衣服とを持って天幕に帰りなさい。敵からの分捕り物はあなたがたの同胞と分け合いなさい。」それでルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるシロでイスラエル人と別れ、モーセを通して示された主の命令によって、彼らが得た自分の所有地、ギルアデの地へ行くために帰って行った。」

 

前章のところで、ヨシュアはすべての部族に占領した土地の割り当てを行ない、また、のがれの町と、レビ人の町々を定め、すべての仕事を終えました。そのとき、ヨシュアはルベン人、ガド人、およびマナセの半部族を呼び寄せて、彼らに言いました。それが2節から5節までに記されてある内容です。彼らはヨルダンの東側に相続地がすでに与えられていました。ですから、人間的に考えるなら、わざわざ戦いに出て行く必要はなかったわけです。しかし、モーセは、ヨルダン川を渡る前に、これら2部族と半部族に、妻子と家畜を残し、成年男子の勇士たちはともにヨルダン川を渡って戦いに参加するように命じました。そして、すべての戦いが終わり安住することができるようになったら、自分たちの所有地に戻りなさい、と言いました。彼らはその命令を最後まで守り通しました。そのことに対してヨシュアはここで、その働きの功績に対してねぎらいのことばを語っているのです。ヨシュアはヨルダンの東側の土地が割り当てられていた彼らが、モーセの命令を守り、わざわざ川を渡ってまで、同胞イスラエルを助けるために労を惜しまなかったことに対して、深く感謝しました。そして多くの財宝とともに彼らを祝福して去らせたので、彼らは自分たちの天幕へと帰って行きました。

 

パウロはピリピ人への手紙の中でテモテの働きについてこう言っています。

「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」(ピリピ2:20-22)

自分のことを考えれば、人はばらばらになります。けれども、キリスト・イエスを求めるときに、自分を無にして、他の人々のことを考えることができるようになり、そこで思いを一つにすることができるようになるのです。私たちに求められているのは、このキリスト・イエスを求めることです。キリスト・イエスを求めることで一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしなければなりません。

 

Ⅱ.戦いの危機(10-20)

 

次に10節から20節までをご覧ください。ルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族がヨルダンの東側の自分たちの領地に帰って行ったとき、ある一つの事件が起こります。まず、10節から12節までをご覧ください。

「ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築いた。それは、大きくて、遠くから見える祭壇であった。イスラエル人はこういううわさを聞いた。「ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族が、カナンの地の国境、ヨルダン川のほとりの地、イスラエル人に属する側で、一つの祭壇を築いた。」イスラエル人がそれを聞いたとき、イスラエル人の全会衆は、シロに集まり、彼らといくさをするために上って行こうとした。

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、カナンの地にあるヨルダン川のほとりの地に来たとき、そこ、ヨルダン川のそばに一つの祭壇を築きました。しかもそれは大きな祭壇で、遠くからも見えるものでした。いったいなぜ彼らはヨルダン川のほとりにそんなに大きな祭壇を築いたのでしょうか。またそのことがなぜイスラエル民族に戦いをもたらす程の重大な事だったのでしょうか。

 

13節から20節までをご覧ください。

「それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせた。これらはみな、イスラエルの分団の中で、父祖の家のかしらであった。彼らはギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに行き、彼らに告げて言った。「主の全会衆はこう言っている。『この反逆は何か。あなたがたはきょう、主に従うことをやめて、イスラエルの神に反逆し、自分のために祭壇を築いて、きょう、主に反逆している。』ペオルで犯した不義は、私たちにとって小さなことだろうか。私たちは今日まで、自分たちの身をきよめていない。そのために、神罰が主の会衆の上に下ったのだ。あなたがたは、きょう、主に従うことをやめようとしている。あなたがたは、きょう、主に反逆しようとしている。あす、主はイスラエルの全会衆に向かって怒られるだろう。もしもあなたがたの所有地がきよくないのなら、主の幕屋の立つ主の所有地に渡って来て、私たちの間に所有地を得なさい。私たちの神、主の祭壇のほかに、自分たちのために祭壇を築いて、主に反逆してはならない。また私たちに反逆してはならない。ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルの全会衆の上に御怒りが下ったではないか。彼の不義によって死んだ者は彼ひとりではなかった。」

 

ここにはなぜ他のイスラエルの部族がそれを問題にしたのかが記されています。それはヨルダンの東側のイスラエル人たち、すなわち、ルベン族、ガド族、マナセの半部族が、シロにある幕屋の祭壇ではない祭壇をつくり、自分たちで勝手に、イスラエルの神ではない異なる神にささげものをしようとしていると思ったからです。イスラエル人たちは、自分たちの中に罪があれば、大変なことになることを知っていました。それは彼らだけの問題ではなく自分たちの問題でもあり、イスラエル全体に影響を及ぼすものであると理解していました。だから、彼らが主に背いて罪を犯すなら、彼らと戦わなければいけないと思ったのです。それでイスラエル人は、祭司エルアザルの子ピネハスを、ギルアデの地のルベン族、ガド族、およびマナセの半部族のところに送り、イスラエルの全部族の中から、一族につき族長ひとりずつ、全部で十人の族長を彼といっしょに行かせました。

 

イスラエル人の偉大さは、そのことを聞いたとき、シロに集まって、ルベン族、ガド族、マナセの半部族と戦うために上って行こうとしましたがすぐに上って行ったのではなく、その事実関係を確かめることから始めたことです。彼らはまずその調査団をギレアデの地に派遣しました。その団長はピネハスという人物でしたが、彼は信仰的にも人格的にも大変優れた人物であって、常に神様のみこころを求めていた人でした。私たちは人のうわさ話によってすぐに翻弄されてしまいものですがこうして事実関係を調べ、事実関係をしっかりとつかむことは極めて重要なこととです。

 

そのピネハスを団長にイスラエルの10の部族からひとりずつ、全部で十人の族長とギルアデの地の彼らのところに出かけて行くと、彼らはルベン族、ガド族、マナセの半部族の人たちに、自分たちが危惧していたことを告げました。それはイスラエルの神に対して不信の罪を犯すことであり、主に反逆していることだと。なぜこのことが不信の罪を犯すことなのでしょうか。なぜなら、レビ記17章8節、9にこう書いてあるからです。

「イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。」

シロにおける主の幕屋の祭壇以外のところでいけにえをささげるなら、その人は断ち切られる、つまり神にさばかれる、ということです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝すべきであって、どこで礼拝するかは関係ありません。しかし、神は礼拝する時と場所を定めておられるのです。それを無視し自分の気持ちや感情で好き勝手に礼拝をささげることは、神が喜ばれることではありません。そのようなことは不信の罪を犯すことであり、主に反逆することなのです。そうなれば、彼らだけでなく、イスラエル全体に神罰が下ることになるというのです。

 

彼らはそのようなことをかつて経験していました。17節をご覧ください。ここに、「ペオルで犯した不義」とあります。なんですか、ペオルで犯した不義とは?これはイスラエルの民が荒野で放浪していた時に、モアブの地のペオルで、バアル礼拝を始めたことを指しています。(民数記25:1-9)彼らは偽りの預言者バラムの策略によってモアブの娘たちとみだらな行為をしたことで彼らが慕っていたバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りガイスラエルに対して燃え上がり、偶像礼拝に陥った者たち2万4千人が神罰で死にました。それと同じことにならないように、主に反逆してはならないと言ったのです。

 

そればかりではありません。20節には、ゼラフの子アカンが、聖絶のもののことで罪を犯し(ヨシュア7:1)、イスラエルの全会衆の上に神の怒りが下ったことを示し、それが彼だけでなくイスラエル全体に影響を及ぼしたように、自分たちにも影響が及ぶことを懸念しています。

 

それなのに、ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、なぜこのように大きな祭壇を築いたのでしょうか。21節から29節までをご覧ください。ここで彼ららがなぜそのようにしたのか理由が記されてあります。

 

「すると、ルベン族、ガド族、およびマナセの半部族は、イスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。「神の神、主。神の神、主は、これをご存じです。イスラエルもこれを知るように。もしこれが主への反逆や、不信の罪をもってなされたのなら、きょう、あなたは私たちを救わないでください。」私たちが祭壇を築いたことが、主に従うことをやめることであり、また、それはその上で全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげるためであり、あるいはまた、その上で和解のいけにえをささげるためであったのなら、主ご自身が私たちを責めてくださるように。しかし、事実、私たちがこのことをしたのは、次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが私たちの子らに次のように言うかもしれないと思いました。「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか。主はヨルダン川を、私たちとあなたがた、ルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主の中に分け前を持っていない。」こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。それで、私たちは言いました。「さあ、私たちは自分たちのために、祭壇を築こう。全焼のいけにえのためではなく、またほかのいけにえのためでもない。ただ私たちとあなたがたとの間、また私たちの後の世代との間の証拠とし、私たちが、全焼のいけにえとほかのいけにえと和解のいけにえをささげて、主の前で、主の奉仕をするためである。こうすれば、後になって、あなたがたの子らは私たちの子らに、『あなたがたは主の中に分け前を持っていない。』とは言わないであろう。」また私たちは考えました。後になって、もし私たち、また私たちの子孫に、そのようなことが言われたとしても、そのとき、私たちはこう言うことができる。「私たちの先祖が造った主の祭壇の型を見よ。これは全焼のいけにえのためでもなく、またほかのいけにえのためでもなく、これは私たちとあなたがたとの間の証拠なのだ。」私たちが、主の幕屋の前にある私たちの神、主の祭壇のほかに、全焼のいけにえや、穀物のささげ物や、他のいけにえをささげる祭壇を築いて、きょう、主に反逆し、主に従うことをやめるなど、絶対にそんなことはありません。」

 

彼らが大きな祭壇を築いたのは、あることを恐れたからです。それは、後になって、ヨルダン川の西側の子孫たちが東側の子孫たちに対して、「あなたがたと、イスラエルの神、主と何の関係があるのか」と言って、主を恐れることをやめさせるかもしれないと思ったからです。つまり、彼らが祭壇を築いたのは、ヨルダンの東側に住んでいるために、将来自分たちの子孫がイスラエルの同胞であることを忘れ去られ、除外されるかもしれないという恐れからであり、そういうことがないように、イスラエル民族の一員であるという連帯のしるしを示そうと思ったからだったのです。だから、この祭壇は自分たちがヨルダンの西側のイスラエル民族と一つであることの象徴であって、決してそこでシロの祭壇と同様の宗教儀式を行うためではありませんでした。東側の人たちにとっては自分たちが善意で良いことだと思ってしたことが、思いもかけず、西側の人々の誤解を受け、危うく戦いに発展するところでした。

 

私たちも、時として、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあります。善意や好意でよかれと思ってしたことが、かえって仇となり悪い結果を生じさせてしまう場合があるのです。その根底にはやはり彼らの中に少なからずうしろめたさがあったことは否めません。彼らが住んでいたヨルダンの東側は放牧地として最適の地でした。多くの家畜を飼っていた彼らにとって、その地は都合のよい場所であり、是が非でも手に入れたい場所でした。一方、ヨルダンの西側のカナンの地は、山間部が多く放牧には適していませんでした。そこで彼らはモーセに頼み込み、半ば奪い取るようにしてその地を受けたのです。つまり、彼らは自分たちの勝手な願い、肉的な願望によって、神に従うよりも、自分たちの願いを優先したことで、その後ろめたさが不安を呼び起こし、もしかしたら自分たちはイスラエルの選民からも除外されるのではないかという恐れを抱いていたのです。

 

私たちも自分の肉的な思いから自分を優先してしまい、その結果、不安と恐れにさいなまれることがありますが、忘れてならないことは、主なる神はそのような失敗をも益に変えてくださるということです。主の十字架の出来事がそのことを物語っています。神のひとり子が十字架で死なれるという出来事は、この人類の歴史の中で最悪の出来事でした。しかし、神はその最悪の出来事を通して、人類に救いをもたらしてくださいました。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のために、神はすべてのことを働かせて益としてくださるのです。(ローマ8:28)

 

ですから、私たちは自らの罪のゆえに、また弱さのゆえに、時として間違った行動を起こし、誤った選択をし、そんな中で翻弄されて悩み苦しむことがありますが、この十字架のみもとに行く時に、神はそのすべてのことを働かせて益としてくださるのです。確かに、私たちの肉的な選択や人間的な決断は、苦しみをもたらすことがありますが、しかし、神はそれだけで終わらないで、やがて大きな祝福へと変えてくださるのです。だから、全く善意でしたことが思わぬ悲劇をもたらすことがあっても、神はそれさえも益に変えてくださると信じて、神に信頼して歩み続けることが大切なのです。

 

Ⅲ.神をほめたたえたイスラエル(30-34)

 

「祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。そしてエルアザルの子の祭司ピネハスは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族に言った。「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」こうして、エルアザルの子の祭司ピネハスと族長たちは、ギルアデのルベン族およびガド族から別れて、カナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告した。そこで、イスラエル人は、これに満足した。それでイスラエル人は、神をほめたたえ、ルベン族とガド族の住んでいる地に攻め上って、これを滅ぼそうとは、もはや言わなかった。それでルベン族とガド族は、その祭壇を「まことにこれは、私たちの間で、主が神であるという証拠だ。」と呼んだ。」

 

祭司ピネハス、および会衆の上に立つ族長たち、すなわち彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちは、ルベン族、ガド族、およびマナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足しました。そして、彼らにこう言いました。

「きょう、私たちは、主が私たちの中におられるということを知った。あなたがたが主に対してこの罪を犯さなかったからである。あなたがたは、今、イスラエル人を、主の手から救い出したのだ。」(31)

主が私たちの中におられる、という言葉はいい言葉ですね。主を愛している者たちの間には、このような誤解や悲劇はよく起こります。意思伝達が上手くいかずに、そこに誤解が生じて互いに対峙したり、敵対したりすることさえあります。けれども、主がその中にいてくださり、主がその会話を導いてくださると信じて、愛と忍耐をもって和解することに努めていきたいものです。

 

こうして、ピネハスとその一行はカナンの地のイスラエル人のところに帰り、このことを報告しました。そこで、イスラエル人はこれに満足し、一つとなって神をほめたたえました。私たちのうちには、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派といった肉の思いがあるために、必ずこのような問題が生じますが、しかし、聖書に書かれてある方法で主にあって語るなら、悪魔に自分の思いをそそのかされることなく、必ず互いに理解し合うことができるだけでなく、そのことを通しても主に栄光を帰することができるのです。

Ⅱペテロ3章10~13節 「新しい天と新しい地」

ペテロの手紙からずっと学んできました。残すところ今回を含めて2回となりました。この第二の手紙でペテロは、教会の中に忍び込んで来た偽教師たちに気を付けるようにと警告してきました。彼らは、イエスが再びこの地上に戻ってくることを否定し、そのように信じている人たちをあざけっていました。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」と。しかし、彼らは見落としていました。かつてノアの時代に当時の世界が洪水によって滅ぼされたということを。それはかつてだけのことではありません。二度あることは三度あるで、もう一度滅ぼされる時がやって来ます。それが主の日です。今度はかつて水によって滅ぼされるということはありません。今の天と地は、同じみことばによって、火によって焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者のさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。なぜなら、神は私たちに対して忍耐深く、ひとりも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからです。しかし、その日は必ずやって来ます。そして神は、この天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。そこに私たちを迎え入れようと再び戻ってこられるのです。これが、私たちの人生のゴールでもあります。きょうのところでペテロは、この新しい天と新しい地とをどのように待ち望んだらよいのかを語っています。

 

Ⅰ.主の日がやって来る(10)

 

まず10節をご覧ください。

「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」

 

主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。子供の頃と今とでは時間的な感覚が違うように、主と私たちとでは時間的な感覚が全く違います。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、私たちに対して忍耐深くあられます。私たちの、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。9節の「その約束」とは何でしょうか。それは、主が再び来られるという約束です。4節には、「キリストの来臨の約束」とあります。ここに出てくる「主の日」とは、その日のことを指して言われています。キリストは今から二千年前に私たちの罪を贖い、私たちを罪から救うために、旧約聖書の預言のとおりにこの世に来てくださいましたが、そのキリストは、やがて、再び来られると約束されました。使徒1:11には、こう書かれてあります。

「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)

これはイエス様が天に上って行かれた時、それを見ていた弟子たちにふたりの天使が語ったことばです。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、あなたがたが今見たときと同じ有様で、またおいでになります。あなたがたが見たときと同じ有様とはどのような有様ですか。10節には、「雲に包まれて、見えなくなられた」とあります。それと同じ有様で戻って来られるのです。

 

この「主の日」がやって来ることについては、旧約聖書にも何度も預言されていました。たとえば、イザヤ書13章9~12節にはこうあります。

「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。」

主の日は来るのです。主が最初に来られた時は救いの喜びをもたらすためでしたが、再び来られる時は残酷な日です。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにされます。多くの人が死に絶えていくのです。その数があまりにも多いので、ここには純金よりもまれとし、オフィルよりも少なくするとあります。それほど大きな患難の時がやってくるのです。

 

それはイエス様ご自身も預言しておられたことです。マタイ24章29~30節には、世の終わりの前兆、その苦難に続いて、信じられないことが起こると言われたのです。

「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種類は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見るのです。」

何と太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。ペテロがここで言っていることと同じです。そんなことが起こるはずがないじゃないかと思う人もおられるでしょう。考えられないことです。有史以来、ノアの箱舟の話以外、そんな話を聞いたことがありません。でも必ず起こります。なぜなら、それはイエス様のお言葉だからです。イエス様は言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

このような日が必ずやって来ます。最近の異常気象を見ても、何だか変だなと感じている方も少なくないでしょう。

 

核戦争や気候変動、環境破壊などによって人類が滅亡する日までの残り時間を象徴する「終末時計」というものがありますが、それによると残り2分半だそうです。これは、米国の科学誌「Bulletin of the Atomic Scientists」が1947年から発表している人類滅亡までの残り時間を象徴的に時計の針で表したものですが、時刻0時0分が人類滅亡のときとされています。その日が刻一刻と近づいています。これまでは、気候変動や一部の国々で核配備が相次いだ2015年に「終末まで残り3分」という数値が設定されていました。今年、「残り2分」にした理由は、世界規模でサイバー攻撃が横行していることや、北朝鮮による核実験、シリアやウクライナ情勢の悪化、世界各地でのナショナリズムの台頭、気候変動による地球温暖化など多岐にわたります。いずれにしも、一般の科学者たちも、その日が近づいていると感じているのです。しかし、その日は科学者たちが考えているものよりもはるかに恐ろしい日です。それは神のさばきがもたらされる日だからです。

 

いったいその日はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「盗人のようにやって来ます」とあります。みなさん、盗人はどのようにしてやって来ますか?盗人は予期しないときにやって来ます。来るということがわかっていたらちゃんと用心するでしょう。家中のドアというドアの鍵をしっかりかけて、夜中でも日中のように光るセンサーを取り付けたり、防犯ブザー、防犯カメラを取り付けたりして用心します。しかし、泥棒はいつやってくるかわかりません。突然やって来ます。まさかと思うようなときにやって来るのです。

 

イエス様を信じないに人にとってはまさにそのとおりです。まさかと思うような時に、突然襲いかかるのです。しかし、主を信じる私たちにとっては、盗人のように襲うことはありません。なぜなら、その日が突然やってくるということを知っているからです。いつも聖書を読んで、いつ来てもいいように、目を覚まして用心しているからです。パウロはそのことをⅠテサロニケ5章1~9節のところでこのように言っています。

「兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」

 

主の日は、人々が「安全だ。平和だ。」と言っているそのようなときに、突如として襲いかかります。その日は、これまでにないほどの苦難の日です。しかし、キリストを信じた者にとっては救いの日です。なぜなら、キリストを信じないものには神のさばきが下りますが、キリストを信じた者はさばきに会うことがないからです。そのさばきが下る前に天に引き上げられるのです。そのさばきとは永遠の滅びのことではなく、この主の日に襲いかかるさばきのことです。神は、私たちがこの御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになりました。だから、このさばきに会うことはありません。その前に天に引き上げられます。これを空中携挙と言います。昔、古い世界が洪水で滅ぼされる前にエノクが天に引き上げられたように、私たちも天に引き上げられるのです。

 

どのように引き上げられるのかについてパウロは、Ⅰテサロニケ4章16~17節でこう言っています。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。そりからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに空中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」

まずキリストにあって死んだ人が初めによみがえります。次に生き残っている私たちです。パウロは主が再臨する時まで生きていると思っていたのでしょう。ここで「次に、生き残っている私たち」と言っています。その私たちがたちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられて、空中で主と会うのです。そのとき、地上では大混乱が起こります。それは旧約聖書も、新約聖書も予め告げていた大患難です。

 

「レフト・ビハインド」という映画をご覧になられました。これは、この大患難の様子を描いたものです。ジャンボジェット機の機長をつとめるレイフォード・スティールが、フライト中に操縦室を出ると、そこにはおびえた様子の乗務員ハティーがいました。彼女は突如として機内に起こった異常を語ります。乗っていた多くの乗客が、身につけていたものを残して消えてしまったのです。しかもこの現象は、機内に限らず全世界で起こっていました。宇宙人よる誘拐説など諸説が入り混じる中、それは聖書の黙示録の予言が成就したのだと見抜いた人々もいました。その一人が、ブルース・バーンズという牧師です。彼は牧師でしたが携挙されませんでした。本当に信じていなかったんですね。しかし彼はこの事で自らの信仰を見つめ直し、人々にキリストを信じるよう説くようになりました。一方、妻と息子を携挙で失った機長はブルースと出会い、信仰に生きるようになります。やがて反抗的であった娘も回心し、それ以外でも様々な人々が集い、信仰に目覚めていくというストーリーです。機長らは来るべき患難時代(トリビュレーション)に備え、「トリビュレーション・フォース」を結成しますが、その患難時代を通らなければならないわけです。しかし、キリストを信じた者はその前に天に引き上げられるのでさばきに会うことがないのです。ですから、確かに今は恵みの時、救いの日です。この救いの扉が開かれている間に、救いの箱舟に入らなければなりません。やがて後ろの戸が閉じられる時がやってくるからです。

 

10節をもう一度ご覧ください。ここには、「その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」とあります。

天とは大気圏を含む太陽や月、星などのすべてのもののを指しています。また、天の万象とは、すべての物質を構成しているもろもろの要素、素粒子、原子、分子、電子などのことです。新改訳聖書には米印があって、下の欄外注の説明に「諸原素」とありますが、そうした諸々の原素のことです。そのようなものが焼けてくずれ去るのです。古い世界は水で滅ぼされましたが、今の天と地は7節にあるように、火によって滅ぼされるためにとっておかれているのです。これはペテロが言っていることではなく、神のことばであり聖書が、繰り返して語っていることです。

 

たとえば、イザヤ書13章13節には、「それゆえ、私は天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。」とあります。

また、同じイザヤ書34章4節には、「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」とあります。天の万象はそのように枯れ落ちます。

また黙示録20章11節には、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」とあります。この天地は滅びるのです。しかし、神のことばはとこしえまでも堅く立ちます。決して滅びることはありません。私たちが真に信頼すべきものは、この神のみことばではないでしょうか。この神のことばである聖書が語ることに耳を傾け、イエス・キリストを救い主として受け入れて、その日に備えておくこと、それが私たちに求められていることなのです。

 

Ⅱ.聖い生き方をする敬虔な人に(11-12)

 

では、この「主の日」にどのように備えておいたらいいのでしょうか。11節と12節をご覧ください。ここでペテロは、その主の日に対してどのように備えておけばよいかを述べています。まず11節です。

「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」

 

このように、これらのものはみな、くずれ落ちていきます。何も残りません。地と地のいろいろなわざは焼き尽くされてしまうのです。このようなものに執着した人生はどんなに空しいことでしょう。それは一時的な満足は与えても、永続する満足は与えてくれません。これさえあればと手に入れることができても、すぐに飽きてしまいます。車でも、家具でも、電化製品でも、楽しいのはそれを手に入れるまで、手に入れると、すぐに飽きてしまいます。こうしたものは真の満足は与えてくれません。これらのものはみな、崩れ落ちてしまいます。消え去ってしまいます。では、私たちは何を求めて生きていったらいいのでしょうか。それが聖い生き方をする敬虔な人です。

 

「聖い」ということばは、聖書では「分離された」とか「区別された」という意味があります。神のために分離された人のことです。これまでは自分のために生きていましたが、そうした自分のための生きていた生き方から神のために、神に喜ばれる生き方をすることです。ペテロは第一の手紙の中でもこのように勧めました。

「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」(Ⅰペテロ1:13-15)

「あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。」これが聖い人です。以前は主を知りませんでした。本当の恵みとは何であるかがわからなかったんです。だからこの地上のものすべてでした。それを持つことが幸せだと思っていました。しかし、神の恵みを知り、何が最も大切なものであるかを悟り、すべてのものは過ぎ去っていくということを知って、私たちの関心事はこの地上の事ではなく、天の事柄に向けられるようになりました。いつもそこを見上げて歩むようになったのです。

 

ですから、私たちは以前の無知であったときのさまざまな欲望に従って生きるのではなく、あらゆる行いにおいて聖められ、神に喜ばれるような生き方を求めるようになったのです。これが敬虔な人です。敬虔な人というのは、イエス様が歩まれたように歩む人のことです。キリストは自分の栄誉を求めず、父なる神の栄光を求め、神に従って歩まれました。まさにキリストのご生涯は、神の栄光を求める生涯でした。同じように、ペテロはここで、イエス様が歩まれたように、イエス様のように生きていくことを勧めているのです。不思議なことに、イエス様から目を離すと、この地上のこと、毎日の生活のことでいっぱいになってしまいます。ですから、イエス様から目を離さないようにしなければなりません。キリストの心を心とし、キリストのことばを心に豊かに宿らせなければなりません。キリストから目を離さなければ、キリストのように変えられていき、聖い生き方をする敬虔な人になるのです。

 

12節をご覧ください。「そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、その日が来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。」

 

この解釈は難解です。ここには、「その日が来るのを早めなければなりません」とあります。どういう意味でしょうか。その日とは主の日のことであり、主が再び戻って来られる日のことです。それはだれも知りません。それは神だけが知っておられることであって、私たちの知り得る領域ではないからです。それなのに、その日を早めなければならないというのはどういうことなのでしょうか。おそらくペテロはここで、その日を熱心に待ち望むという意味で使っているのでしょう。その日は主を信じない者にとってはさばきの日ですが、主を信じる者らとってはいつまでも主とともにいるようになるという約束が実現するすばらしい日であるからです。

 

神の愛、神の恵みを知った人、キリストのすばらしさを知った人は、この神の国がどんなにすばらしいところであるかを知った人は、それを熱心に待ち望むようになります。イエス様に早く会いたいと思うようになるはずです。決して今の生活が苦しいからではなく、イエス様がすばらしい方なので、早くこの方と会いたいと思うからです。ちょうど、好きな人がいると、その人と会いたいと思うのと同じです。もうすぐY兄とN姉の結婚式がありますが、Y兄はもう待てないという感じです。早く結婚したくて・・。「あら、そんな時もあったわね」と過去を想起しているあなた、その気持ちが大切なのです。そういう相手がいれば、その人と会いたいと思うだけでなく、その人と会うのにふさわしい者になろうと努めるでしょう。できるだけ身を清めようとします。暴飲暴食を慎みます。それまでは豚のようにどんどん食べていたのに、結婚が決まったとたんに食べるのを控えたり、今まで適当に化粧していたのにエステに通ったりして、できるだけ身を整えます。それはキリストの花嫁として、キリストと結婚する私たちも同じです。早くその日が来てほしいと、熱心にそのことを待ち望むようになるのです。ただ熱心に待ち望むだけではなく、そのために喜んで身をきよめようとします。それが聖い生き方をする敬虔な人なのです。

 

キリストを知らない時はそうではありませんでした。いつも適当に、自分自身を汚してしていました。自分の手足を不義の器としてささげ、やりたい放題でした。しかし、イエス・キリストを知ったので、キリストが再び戻ってくるということを知ったので、これを不義のためではなく義のために、強制されてではなく喜んでささげるようになりました。以前のような不義の行いをやめて、神の義を行いたいと願うようになりました。そればかりか、神はすべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるので、そのために、少しでもお役に立てるような生き方をしたいと願うようになりました。まだまだ失敗ばかりで、完全な者にはほど遠い者ですが、そのような者になりたいと願うようになったのです。なぜなら、イエス様を知ったからです。イエス様が再び来られる時にもたらされる栄光がどれほどすばらしいものであるかを知ったからです。だから、その日が来るのを待ち望み、それをただひたすら熱心に求めなければなりません。

 

Ⅲ.新しい天と新しい地(13)

 

最後に、13節をご覧ください。

「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

 

今の天と地は滅びます。これらのものはみな、くずれ落ちるのです。これらのものは神が造られたもので、神はお造りになったすべてのものを見られたとき、「それは非常に良かった」と言われました。しかし、最初の人アダムとエバが罪を犯したことで、この自然界全体に罪の影響が及んでしまいました。それで神は、すべての悪を滅ぼすと言われたのです。

 

しかし、滅ぼすことが目的なのではありません。神はこの古い天と地に代わる新しい天と新しい地とを用意しておられます。これが神の約束です。この神の約束に従って、新しい天と新しい地を用意しておられるのです。それはどのようなところでしょうか。ここには、「正義の住む新しい天と新しい地」とあります。ここには正義が住みます。正義とは何ですか。正義とは神ご自身のことです。神は義なる方です。その神が住まわれるところ、それが新しい天と新しい地です。それは古い天と地のように滅びてしまうものではありません。それは永遠に続く世界です。そのような天と地を用意しておられる。これが永遠の神の約束です。

 

イザヤ書65章17節には、「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」とあります。

また、66章22節には、「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように。主の御告げ。あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」とあります。それはいつまでも続く世界なのです。

また黙示録21章1~5節には、この新しい天と新しい地についてこのように言われています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」」

 

これが神の約束です。神は、罪によって汚れたこの天と地に代わる新しい天と新しい地をもたらされます。神は、このことを必ずしてくださいます。なぜなら、神は真実な方だからです。真実とは、約束したことを実行するということです。約束してもそれが反故にするとしたら、それは真実とは言えません。しかし、神は真実な方ですから、約束されたことをそのとおりにしてくださいます。ですから、この約束も必ずそのとおりになるのです。この神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地に住むようになるのです。

 

いったいどうしたらこの新しい天と新しい地に住むことができるのでしょうか。そのためには神の義であられるイエス様を信じて、新しく生まれなければなりません。自分でどんなにいい人間だと思っていても、どんなに努力しても、どんなに良いことをしても、完全になることはできないからです。神は全く聖い完全な方なので、私たちがどんなに自分ではいい人間だと思っていても、それだけでは入ることはできないのです。考えてみてください。もし、ここに透き通ったグラスがあり、透き通ったおいしい水があっても、ほんのわずか、塵のようなネズミの糞が入っていたら飲むことができますか。同じように、仮にあなたが99.9パーセント正しくても、残りの0.1パーセントがけがれていたら、神に受け入れられないのです。しかし、イエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったので、あなたがこのイエス様を信じるなら神の子どもとさせていただくことができ、この新しい天と地に入れていただくことができるのです。

 

あなたはどうでしょうか。イエスを信じて義と認められましたか。すべての罪が赦されていますか。どうか神の義、神の救いであられるイエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたもすべての罪が赦され、神の御前に義と認めていただくことができるのです。

この天地は滅びます。これらのものはみな、消えて行きます。しかし、神は新しい天と新しい地を用意してくださいます。イエス・キリストを信じる者はみなこの新しい天と新しい地で神とともに永遠に住むようになるのです。これが、私たちが待ち望んでいる天の故郷です。ここからイエス・キリストがもうすぐ迎えに来られます。その時、あなたは天に引き上げられ、イエス様と会い、いつまでもいるようになるのです。イエス様がいつ来られてもいいように、そのためによく備えておきましょう。イエス様を信じ、イエス様が再び来られるのを熱心に待ち望みましょう。それが新しい天と新しい地を待ち望むクリスチャンの姿なのです。

ヨシュア記21章

きょうは、ヨシュア記21章から学びます。

Ⅰ.執り成すことの大切さ(1-7)

まず1~7節までをご覧ください。「21:1 レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、そしてイスラエルの人々の部族の、一族のかしらたちのところに近寄って来て、21:2 カナンの地のシロで彼らに告げた。「【主】は、住む町と家畜の放牧地を私たちに与えるよう、モーセを通して命じられました。」21:3 イスラエルの子らは【主】の命により、自分たちの相続地から次の町々とその放牧地をレビ人に与えた。21:4 ケハテ人諸氏族のためにくじが引かれた。ユダ部族、シメオン部族、ベニヤミン部族から、くじによって十三の町がレビ人の祭司アロンの子らのものになった。21:5 エフライム部族の諸氏族、ダン部族、マナセの半部族から、くじによって十の町が、残りのケハテ族のものになった。21:6 イッサカル部族の諸氏族、アシェル部族、ナフタリ部族、バシャンのマナセの半部族から、くじによって十三の町がゲルション族のものになった。21:7 ルベン部族、ガド部族、ゼブルン部族から、十二の町がメラリ人の諸氏族のものになった。」

「そのとき」とは、ヨシュアが主の命令に従ってイスラエル人に「のがれの町」を定めるようにと命じたときのことです。そのとき、レビ人の一族のかしらたちが祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、ある一つの願い事をしました。その願いというのは、自分たちの住む居住地と家畜を飼うための放牧地を与えてほしいということでした。この要求は民数記35章において、すでにモーセがレビ人たちに与えていた要求に基づくものでした。レビ人はかつてイスラエルが荒野を放浪していた時に、イスラエルの民が不信仰に陥り、金の子牛を作って偶像礼拝した時でもモーセの命令を守り、またモーセに従って決して偶像礼拝に走らなかった民です。その結果、神はこのレビ人を祝福し、祭司をはじめとした聖なる仕事に携わるように選ばれました。それ故レビ人は聖なる部族なのです。したがってこの部族は神から直接に養われるべく相続地を持っていませんでしたが、イスラエルの民への相続地の分割が終わった時に自分たちの居住地と放牧地を与えてほしいと申し出たのです。

このレビ族には大きく分けて、三つの部族がありました。ゲルション族、コハテ族、メラリ族です。これは彼らの父祖レビの三人の子供の名前に由来します。長男がゲルションであり、次男がコハテ、そして三男がメラリでした。これらの三つの氏族に対する領地の分割を見ていくと、6節にゲルション族は13の町を与えられ、コハテ族には23の町が(4-5)、そしてメラリ族には12の町が与えられました(7)。

ところで、レビの長男はゲルションなのに、このゲルションよりも次男のコハテ族の方が先に、しかも多くの領地が与えられていることに気づきます。ゲルションが13の町、メラリ族には12の町しか与えられなかったのに、コハテ族には23もの町が与えられているのです。いったいどうしてコハテ族の方が優遇されたのでしょうか。

その理由については、4節に少しだけ説明されています。それは、彼らがアロンの子孫であったからです。しかし、アロンの子孫であるからというだけで、なぜこのように優遇されたのでしょうか。実はアロンの弟モーセもまたコハテ族であるのに、そのモーセについては何も言及されておらず、ただアロンの子孫であることが強調されているのです。旧約聖書を見るとモーセこそイスラエルをエジプトから救い出し、約束の地に導いた偉大な預言者です。アロンはいつもそのモーセの陰に隠れていてあまり目立たない人物でした。それどころか、アロンは指導者として相応しくない優柔不断な面もありました。そうです、モーセがシナイ山に登り、なかなか降りて来なかった時に、待ちくたびれた民が偶像礼拝に走っていったのにそれを止められなかったばかりか、自分が先頭に立ってそれを導きました。アロンにはそうした弱さがあり目立たない人物であったのに、ここにはモーセのことについては何も触れられておらずただ祭司アロンの出身氏族であったことだけが述べられているのです。これはどういうことでしょうか。それはこのアロンが祭司であったがゆえです。アロンは決して偉大な人物ではありませんでしたが、祭司であったというこのただ1点において、コハテ族が優遇されたのです。いったいこのことはどんなことでしょうか。

そもそも祭司とは何でしょうか。旧約聖書には預言者という人物が出てきます。預言者は神の言葉を語り、民はその言葉を聞いて悔い改めるわけです。それに対して祭司はあまりぱっとしません。むしろ地味で、日常的な人物が祭司です。また祭司は預言者のように民の罪を指摘して悔い改めを迫るということはしません。むしろ神と民との間に立って犠牲をささげ、民のためにとりなして祈るのです。祭司は預言者のような激しさや厳しさはありませんが、にもかかわらず、罪深く弱い私たち人間にとっては、不可欠な仲保者としての役割を持つのです。

コハテ族はこの祭司職であったアロンの直系であったがゆえに、特別に重んじられたのです。そして、この祭司一族は単に居住地を多く受けたというだけでなく、イスラエル12部族によってささげられた生産物の十分の一の、そのまた十分の一を得ることが許されたのです。このアロンの一族は極一握りであったことを考えると、いかに彼らが優遇されていたかがわかります。それは、彼らが神と民との間に立って、それを執り成す務めがゆだねられていたからです。

このことから、執り成すという働きが、私たち人間にとっても、きわめて重要な意味を持っていることがわかります。Ⅰペテロ2章9節には、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」とあります。クリスチャンにはみな、この祭司の務めがゆだねられているのです。私たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるために、神とこの世の人々を執り成すという務めです。とりわけ牧師には、この務めがゆだねられています。牧師には神の言葉を語るという預言者的な側面もありますが、基本的には、神の祭司としてとりなす者でなければなりません。カトリック教会や聖公会では牧師を司祭と呼ぶのは興味深いことだと思います。祭司としての務めを司る者という意味があるのでしょう。それは牧師も同じであり、すべてのクリスチャンにも言えることです。私たちはみな司祭(祭司)なのです。そのすばらしい務めをゆだねられた者として、これを全うしていかなければなりません。

聖書には、イエス・キリストのことが祭司と呼ばれています。へブル人への手紙の中には、「私たちの大祭司」とあります。イエス様は預言的な務めもされましたが、それ以上に大祭司として、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでくださいました。ご自分の身も心もすべて犠牲にしてささげ、私たちのためにとりなしてくださったのです。そればかりか、この大祭司であられるイエス様は、今もなお天で私たちのためにとりなしておられます。そのとりなしのゆえに、私たちのすべての罪は赦され、立ち上がり、生きることができるのです。このことのゆえに、私たちも他者のためにとりなす者となっていきたいと思います。ただ口先だけでなく、行動をもって、人々のためにとりなしの業に励もうではありませんか。

Ⅱ.イスラエルの居住地とのがれの町(8-42)

次に、8~42節までをご覧ください。「21:8 イスラエルの子らは、【主】がモーセを通して命じられたとおりに、次の町々とその放牧地をくじによってレビ人に与えた。21:9 ユダ部族、シメオン部族からは次に名を挙げる町を与えた。21:10 これらは、レビ族に属するケハテ人諸氏族の一つ、アロンの子らのものになった。最初のくじが彼らに当たったからである。21:11 彼らにはユダの山地にあるキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンとその周囲の放牧地を与えた。アルバはアナクの父である。21:12 しかし、この町の畑と村々はエフンネの子カレブに、その所有地として与えた。21:13 祭司アロンの子らに与えられたのは、殺人者の逃れの町ヘブロンとその放牧地、リブナとその放牧地、21:14 ヤティルとその放牧地、エシュテモアとその放牧地、21:15 ホロンとその放牧地、デビルとその放牧地、21:16 アインとその放牧地、ユタとその放牧地、ベテ・シェメシュとその放牧地。これら二部族から与えられた九つの町である。21:17 またベニヤミン部族の中からのギブオンとその放牧地、ゲバとその放牧地、21:18 アナトテとその放牧地、アルモンとその放牧地の四つの町である。21:19 アロンの子らである祭司たちの町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:20 レビ人であるケハテ人諸氏族に属する、ケハテ人の残りには、エフライム部族から、くじによって次の町々が与えられた。21:21 彼らに与えられたのは、エフライムの山地にある殺人者の逃れの町シェケムとその放牧地、ゲゼルとその放牧地、21:22 キブツァイムとその放牧地、ベテ・ホロンとその放牧地の四つの町。21:23 またダン部族からエルテケとその放牧地、ギベトンとその放牧地、21:24 アヤロンとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の四つの町。21:25 またマナセの半部族からタアナクとその放牧地、ガテ・リンモンとその放牧地の二つの町。21:26 残りのケハテ族の諸氏族には、全部で十の町とその放牧地が与えられた。21:27 レビ人の諸氏族の一つゲルション族に与えられたのは、マナセの半部族から、殺人者の逃れの町バシャンのゴランとその放牧地、ベエシュテラとその放牧地の二つの町。21:28 またイッサカル部族からキシュヨンとその放牧地、ダベラテとその放牧地、21:29 ヤルムテとその放牧地、エン・ガニムとその放牧地の四つの町。21:30 またアシェル部族からミシュアルとその放牧地、アブドンとその放牧地、21:31 ヘルカテとその放牧地、レホブとその放牧地の四つの町。21:32 またナフタリ部族から、殺人者の逃れの町であるガリラヤのケデシュとその放牧地、ハモテ・ドルとその放牧地、カルタンとその放牧地の三つの町。21:33 ゲルション人の諸氏族の町は、全部で十三の町とその放牧地である。21:34 レビ人の残りのメラリ人諸氏族に与えられたのは、ゼブルン部族から、ヨクネアムとその放牧地、カルタとその放牧地、21:35 またディムナとその放牧地、ナハラルとその放牧地の四つの町。21:36 またルベン部族からベツェルとその放牧地、ヤハツとその放牧地、21:37 ケデモテとその放牧地、メファアテとその放牧地の四つの町。21:38 ガド部族から殺人者の逃れの町、ギルアデのラモテとその放牧地、マハナイムとその放牧地、21:39 ヘシュボンとその放牧地、ヤゼルとその放牧地、これら四つの町すべて。21:40 これらの町はすべて、レビ人の諸氏族の残りの、メラリ族の諸氏族のものであり、くじによって与えられた十二の町である。21:41 イスラエルの子らの所有地の中で、レビ人の町は全部で四十八の町とその放牧地である。21:42 これらの町はそれぞれその周囲に放牧地があった。これらの町はすべてそうであった。」

ここには、1~7節までの記述を受けて、レビ族に対する居住地と放牧地がくじによって与えられたことが列挙されています。彼らの町は一つのところに集まっておらず、それぞれの部族の相続地にまんべんなく散らばっていることがわかります。これを地図で見ると、のがれの町と同じように、イスラエルの土地全体に、広がっているのを見ることができます。また、20章において定められたあの6つののがれの町が、彼らの居住地に置かれていたこともわかります。このことは何を表しているのでしょうか。イスラエル全体に、レビ人たちの霊的奉仕の影響が、まんべんなく広がっていたということです。レビ人たちの霊的奉仕とは何でしょうか。それは、神に仕え、神と人との間の仲介者として、とりなしをすることです。言い換えるならば、彼らの役割は、人々にもう一度やりなおす機会を与えることであり、そのために励ましを与え立ち直らせていくことです。これは単に聖職者であるレビ人だけにゆだねられた務めではなく、私たちの教会にもゆだねられている務めでもあります。イエス・キリストはご自身のからだを通して贖いの御業を成し遂げられました。そしてこの世を罪から救い、この世のさまざまな束縛から解放し、また癒されました。教会はキリストの体としてこのキリストの贖いの御業を継承し、この地上において実現していくという役割が与えられているのです。罪を犯した者、失敗した者、悪魔の手にある者たちをもう一度引き上げて、やり直しさせていくという務めがゆだねられているのです。

Ⅲ.神の約束は一つもたがわずみな実現する(43-45)

最後に、43~45節をご覧ください。「21:43 【主】は、イスラエルの父祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられた。彼らはそれを占領し、そこに住んだ。21:44 【主】は、彼らの父祖たちに誓ったように、周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。すべての敵の中にも、一人として彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。【主】はすべての敵を彼らの手に渡された。21:45 【主】がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。」

レビ族に対する居住地並びに放牧地の割り当てが成され、これを以って、イスラエルの12部族すべての相続地の割り当てが完了しました。それはかつて主がイスラエルの家に約束されたことであり、主はその約束したとおりのことをしてくださいました。主は、イスラエルに約束したすべての良いことを、一つもたがわずみな実現したのです。これだけを見ると、何もかもめでたし、めでたしであるかのようなイメージがありますが、この後の士師記を見ると、イスラエルのパレスチナの占領は必ずしもこれで終わったわけではなかったことがわかります。イスラエルのカナン人に対する戦いは継続して行われていて、戦いに次ぐ戦いの連続なのです。特に士師記3章を見ると、占領すべき地がまだたくさんあったことが明記されています。ということは、この箇所は、事実に反する記述をしているということなのでしょうか。

そうではありません。確かに、まだ占領すべき地はたくさん残っていましたが、神の側から見ればすべては完了していたということです。つまり、これは事実的描写ではなく、信仰的描写なのです。実際にはまだそうではなくとも、信仰的にはもうすでに完了していたのです。主なる神の側においては、この時点において一切合切その通りに成ったのです。このように、信仰とは実に、この神の側での完成を受け取り、その上で私たちが最大限の努力を成していくことであるということがわかります。時としてそのように努力していく時、事が成就するどころかむしろ逆の方向に進んでいくような場面に遭遇することがあります。神が約束を反故にされたのではないかと思えるような事態に対して、私たちはなぜこうなってしまったのか、主は確かにみことばを通して私に語ってくださったはずではないか、あれはただの思い違いであったのかと悩むことがあります。時にはそのことで不信仰に陥ってしまうことさえあります。実はこの時が肝心です。神は約束してくださったことを必ず実現されますが、時としてそれとはまったく逆の事態に遭遇することがあるのは、それが本当に神のみこころなのかどうかを吟味するためであり、むしろ、そのことをバネにして、さらに大きく飛躍するためでもあるのです。丁度、私たちがジャンプをする前に、一旦、屈むようなものであって、大きくジャンプをしようとすればするほど、身を低くしなければならないのと同じです。

ですから、そうした見せかけの困難に騙されてはならないのです。主が約束されたことは、決して変わることなく、事態がまったく違う方向へ向かって進んでいるように見える場合にも、必ず実現するのです。逆風はより素晴らしい成就に至るために通るべき試練なのです。

大切なのは、神はみことばを通して私たちにどんなことを約束してくださったかということであり、それは必ず実現すると信じることです。困難があるのは、神の御力は私たちが考えているよりもはるかに大きく、高く、広いということを示すためであり、私たちの信仰を取り扱ってくださるためであって、神の側ではもうすでにみな実現していることなのです。主がイスラエルに約束されたすべての良いことは一つもたがわず、みな実現したように、神があなたの人生に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずみな実現するのです。私たちの目ではそれとは逆に進んでいる現実を見て落ち込むことがありますが、神の目をもって物事をとらえ、一つもたがわず、みな実現したことを信じて前進させていただきましょう。

Ⅱペテロ3章1~9節 「忍耐深くあられる神」

きょうは、Ⅱペテロ3章前半の箇所から「忍耐深くあられる神」というタイトルでお話します。2章のところでペテロは、教会に忍び込んでいた偽教師たちに気をつけるようにと、彼らの特徴について述べました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定することさえ、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていただけでなく、敬虔な人たち、これは主に従っていたクリスチャンたちのことですが、そういう人たちをも誘惑し、滅びと破滅に導いていました。彼らは理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるので、動物が滅ぼされるように滅ぼされるのです。ですからペテロは、こうした偽教師たちには気をつけるようにと警告したのです。

 

きょうの箇所でペテロは、その偽教師たちが否定していたキリストの再臨について教えています。聖書は至るところで、キリストが再び来られると約束しています。それは私たちクリスチャンの希望でもあります。なぜなら、キリストが再臨される時すべての悪がさばかれ、この地上に本当の平和が訪れるからです。その時、すべての悲しみ、嘆き、叫び、苦しみ、痛み、罪から解放され、本当の自由と平和、喜びがもたらされます。ですから、私たちの真の希望はキリストの再臨にあるのです。

 

しかし、それを否定する者たちがいました。そうです、あの偽教師たちです。彼らはキリストの再臨なんてあるはずがないじゃないかと言って、あからさまに否定していたのです。そこでペテロは彼らの間違いを明らかにするとともに、聖書の約束に堅く立ち続けるようにと読者を励ますのです。

 

Ⅰ.思い起こして(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「愛する人たち。いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語っ た、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせるためなのです。」

 

ここにペテロがこの手紙を書き送った目的が書かれてあります。それは、これら手紙によって記憶を呼びさまさせ、彼らの純真な心を奮い立たせることです。「純真な心」とは、誠実な心のことです。正直で、真実で、うそ偽りのない心のことであります。ペテロはこの2勝において、教会の中に偽教師たちが現れて選民をも惑わすようになると警告しました。そして、多くの者が彼らについて行き、その身に滅びを招くよなことをしていた現実を見て、惑わされないようにと警告しました。そのために必要なことは何でしょうか。ここにあるように、思い起させることです。記憶を呼びさまさせて、彼らの純真な心を奮い立たせることです。私たちが惑わされてしまう大きな原因の一つは、忘れてしまうことにあります。人間はすぐに忘れてしまいます。昨日何を食べたかも覚えていません。神の恵みを忘れてしまうことで簡単に偽りの教えに惑わされてしまいます。ですからペテロはここで、そのことを何回も何回も繰り返して伝えることで、彼らに思い起こさせようとしているのです。

 

ペテロは何を思い起こさせているでしょうか。2節をご覧ください。ここには、「聖なる預言者たちによって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とあります。「聖なる預言者たちが前もって語ったみことば」とは、旧約聖書のことです。神は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られました。しかし、彼らは自分たちの考えを語ったのではなく神からのことばを語りました。それゆえに彼らは本物の預言者であり、聖なる預言者でした。

 

また、ここには「あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令」とありますが、これは新約聖書のことを指しています。旧約聖書は罪に陥った人類を救うために神が救い主を遣わすという約束が預言されていますが、その預言のとおりに救い主が来られたことを証言したもの、それが新約聖書です。それはナザレのイエスによって実現しました。その救い主の良い知らせはまずイエスご自身によって宣べ伝えられました。イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

そして、多くの病人をいやされ、悪霊を追い出し、さまざまな問題で苦しんでいた人を解放してあげました。そして、旧約聖書の示すとおりに私たちの罪を負い、私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれました。しかし、三日目に神はこのイエスを死からよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。この方こそ旧約聖書で約束されていた救い主、メシヤ、キリストであられるからです。神はこの方を通して救いの御業を成し遂げてくださいました。それゆえ、このイエスを自分の罪からの救い主と信じるなら、だれでも救われるのです。これが良い知らせ、福音です。

 

そしてイエス様は12人の使徒たちを選び、全世界に行ってこの福音を宣べ伝えるようにと命じられました。その命令に従い、使徒たちは出て行ってイエス様が命じたすべてのことを教えました。彼らは自分たちの教えを語ったのではなく、イエス様が教えたことをそのまま教えました。つまり、このイエスが救い主であられるということ、そして、このイエスを信じる者は、だれでも罪の赦しが与えられるということです。そして、もう一つのこと、それは、このイエスは再び戻ってこられるということでした。それは旧約聖書にも書かれてあったことです。旧約聖書にも書いてあり、主イエスご自身も教えられ、使徒たちもそのように教えました。それは聖書の一貫した教えなのです。それなのに、彼らの中にはこのキリストの再臨を否定する者たちがいました。それでペテロは、聖なる預言者によって前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちが語った、主であり救い主である方の命令、つまり、聖書は再臨について何と教えているのかを思い起こさせるために、これらの手紙を書いたのです。

 

私たちも忘れてしまうことがあります。もう耳にたこができるほど何回も聞いているはずなのに、いざ人から指摘されると、「あれ、何だったけなぁ」と忘れてしまい、自分の思いに走ってしまうことがあるのです。ですから、私たちは「もう何度も聞いて知っている」と高を括るのではなく、神のことばである聖書は何と言っているのかということをいつも思い起こさなければなりません。

 

Ⅱ.あざける者ども(3-7)

 

次に3節から7節までをご覧ください。3,4節をお読みします。

「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけ り、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこに あるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

ペテロはまず第一に、次のことを知っておきなさいと言っています。それは、終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うことです。「キリストの再臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

どういうことでしょうか?「終わりの日」とは、世の終わりの日のことです。それはキリストがこの地上に来られた時に始まり、再び戻って来られるときまでのことです。その終わりの日が近くなると、キリストの再臨のことをあざける者どもがやって来て言うのです。「そんなのあるはずがないじゃないか。回りを見てごらん。何も変わりがない。ずっと昔から同じじゃないか。何もかわりゃしない。」しかも、それが彼らの中から、教会の中から起こってくるというのです。教会の中に滅びをもたらす異端がひそかに持ち込まれるのです。その一つがキリストの再臨を否定することです。キリストの再臨は聖書の教えであって、クリスチャンの希望です。キリストの再臨を知り、それを待ち望むことでクリスチャンは力が与えられます。どんなに苦しくても、もうすぐ主が戻ってこられると信じていることで慰めが与えられ、励まされるのです。パウロはテサロニケの教会に書き送った手紙の中でこの再臨について述べ、「こういうわけだから、このことばを互いに慰め合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)と言いました。クリスチャンにとっていったい何が慰めのことばなのでしょうか「このことば」です。主が再び戻って来られるということばです。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。」(Ⅰテサロニケ4:16-17)

これが私たちにとって慰めのことばです。もうすぐ主が来られます。そのとき、私たちは霊のからだ、栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これまでのすべての苦しみから解き放たれ、永遠の栄光の中へと入れられるのです。このことばです。

 

しかし、このようなことを語ると、中には「何をたわごとを言って・・」とそれを否定する人たちが起こってくるのです。「そんなことあるはずないじゃないか、昔も今も変わらないし、ずっと同じだ。」と。「見てごらん。何も変わっていないじゃないか」

するとクリスチャンも日々の生活でいっぱいになっていますから、現実に心を奪われて、こうしたあざける者たちに惑われ「や~めた!」となってしまうのです。主のために生きるなんてバカバカしい。そして、だんだん真理から離れていくようになるのです。本当に私たちはこの「現実」という二文字に弱いですね。どんなに信仰を持っていても、現実という二文字の前に、簡単に主から離れてしまう弱さがあるのです。そして、主が戻ってこられることを期待しなくなると、霊的にだんだん弱くなってしまいます。霊的に眠った状態になるのです。何もしなくなります。ただ自分のことだけにとらわれ、この地上のことしか考えられなくなってしまうのです。これがサタンの常套手段なのです。

 

このように、終わりの日が近くなると、あざける者たちがやって来て、キリストが再臨するという教えをあからさまに否定し、人々の関心をこの地上のことだけに向けさせて、希望を奪っていくのです。

 

5節と6節をご覧ください。しかし、彼らがこのように言い張るのは、次のことを見落としているからです。すなわち、「天は古い昔からあり、地は神のことばによって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びましたが、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」どういうことでしょうか?

 

あざける者たちは、昔も、今も、何も変わっていない、創造の初めからずっと同じだと言っていますが、そうじゃない、というのです。彼らは見落としているのか、故意に忘れようとしているのかわかりませんが、ある事実を見落としています。それは、神によって造られた当時の世界は、洪水によって滅ぼされたということです。何のことを言っているんですか。そうです、ノアの箱舟のことです。神はノアの時代に、古い時代を洪水によって滅ぼされました。このことを忘れているというのです。いや、わざと忘れたかのようにして、それを認めようとしないのです。なぜなら、認めると都合が悪いからです。それを認めてしまうと、聖書が預言しているとおりに、将来においても同じように神のさばきがあるということを認めざるを得ないことになるからです。だったら最初から認めればいいのに、認めないで自分たちに都合がいいように主張するので、結局、こうした矛盾が生じ事実を隠すようなことになるのです。

 

つまり、ペテロはここで今の天地は最初のものとは同じでないと言っているのです。かつてノアの時代に当時の世界が洪水で滅びたように、今の天地も、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきの日まで、保たれているのです。昔の世界は水によって滅ぼされましたが、今の天地が水で滅ぼされることはありません。なぜなら、ノアの洪水の時に神は、ノアとその家族に、もはや洪水で滅ぼすことはしないと約束されたからです。その約束のしるしが虹です。神は虹の架け橋をかけて、もう水によっては、この地を滅ぼさないと約束されました。ですから、水によって滅ぼされることはありません。しかし、火によって滅ぼされます。今の天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

だから、あざける者どもはキリストの再臨はないと言っていますが、あるのです。その日には火によってすべての悪がさばかれることになります。しかし、神を信じる者たちはさばかれません。なぜなら、キリストが代わりにさばかれ、私たちの悪を取り除いてくださったからです。キリストを信じる者はさばかれることはありません。むしろ、キリストの贖いによって罪が聖められたので、神がとともにいてくださるようになったのです。これこそ私たちの希望であり、慰めです。この希望があるからこそ、私たちはこの地上にさまざまな問題や苦しみがあっても、耐える力が与えられるのです。

 

Ⅲ.忍耐深くあられる神(8-9)

 

ですから、第三に、この一事を見落としてはいけません。この一事とは何でしょうか。8節と9節をご覧ください。8節には、「すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」とあります。

どういうことですか。皆さんは、子供の頃と今とでは時間的な感覚が全然違うように思いませんか。子供の頃は一年がとても長く感じられました。このままずっと子供のままでいるんじゃないかと錯覚を覚えたほどです。しかし、大人になると一日があっという間に終わってしまいます。ついこの前新年が始まったばかりかと思ったら、もう3月でよ。6分の1が終わったんですよ。早いと思いませんか。二十歳の頃は四十のじっさんになるにはまだまだだと思っていたのに、いつの間にか四十なんてとっくり通り過ぎ、人生の4分の3を終えようとしているのです。本当にあっという間です。

 

大人と子供の物事を見る感覚や時間の感覚が全く違うように、私たちと神様との時間の感覚は違います。私たちにとって千年は永遠であるかのような長さですが、神様にとっては一日のように過ぎ去ります。詩篇90篇4節には、「まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。」とあるとおりです。神にとって千年は夜回りのひとときにすきません。神は永遠ですから、時間的な枠がないのです。

 

いったいペテロはここで何を言いたいのでしょうか。そうです、キリストの再臨をあざ笑う者たちは、キリストは二千年も前から再び来ると言っているのに来たためしがないじゃないかと言っているが、私たちにとって千年のような時の長さも、神にとってはわずか一日のようでしかない、夜回りのひとときのようでしかないということです。つまり、神はある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないということです。また、そのことを忘れてしまったのでもありません。神様には神様の時があるのです。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)とあるとおりです。

 

ではなぜ神はその約束を遅らせておられるのでしょうか?9節をご一緒にお読みしましょう。

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

なるほど、主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではないのです。主がその約束を遅らせているのは私たちのためなのです。つまり、神は私たち人間がひとりも滅びることを願わず、すべての人が悔い改めて救われることを望んでおられるからなのです。そのために神は忍耐しておられるのです。

神はいつくしみ深く、あわれみ深い方、怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(詩篇86:15)しかし、いつまでもというわけではありません。悪に対して正しいさばきを行われるときがやってきます。後ろの戸が閉じられる時が必ずやって来るのです。しかし、今は恵みの時、今は救いの日です。今はその戸が開かれています。神が忍耐して待っておられるからです。神は、ひとりも滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるからです。一部の人だけではありません。すべての人です。すべての人が救われることを望んでおられるのです。すごいですね。神の愛と忍耐は・・。

 

エゼキエル書33章10~11節をご覧ください。

「人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」

悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。これが神の願いです。イスラエルの人々の中には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいました。もう自分は滅びるしかないのだ、と絶望していました。そんな彼らに対して主は、「なぜ絶望しているのか。わたしは決して悪者の死を喜ばない」と言われました。かえって、悔い改めて、生きることを喜ぶと、言われるのです。だから、悔い改めて、悪の道から立ち返りなさい。イスラエルの家よ、なぜあなたがたは死のうとするのか。神が願っておられることは生きることです。悔い改めて、神に立ち返ることなのです。

 

そのために神は愛するひとり子をこの世に与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神はあなたを愛しておられます。と同時に、神は義なる方でもあられます。罪に対してはさばきを下さなければなりません。神はその日を定めておられます。それが終わりの日です。主が再びこの地上に来られるときです。二千年前は私たちを救うために来てくださいましたが、再び来られる時は、この地上のすべての悪をさばくために来られます。その日がなぜ遅れているのでしょうか。それはあなたのためです。ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。かえって忍耐深くあられるからであって、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからなのです。この方を救い主として信じる者は、だれでも救われるのです。

 

あなたはどうですか。この神の救いを受け取られたでしょうか。そのような確信を持っておられますか。もしまだという方がおられたら、どうぞしっかりと受け取ってください。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じてください。そうすれば、あなたのすべての罪は赦されます。人生の土台がぐらぐらと揺れ動いている方がおられますか。その方はどうぞ神のことばにしっかりと立ってください。もしあなたの感情に立つなら、すぐに平安が奪われることになるでしょう。しかし、神のことばはいつまでも変わることがありません。このみことばの上にあなたの人生の土台をしっかりと置いてください。そして、キリストの恵みの中にとどまり続けましょう。もうすぐ主が戻ってこられるからです。確かに、今は恵の時、今は救いの日なのです。

Ⅱペテロ2章10~22節 「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」

きょうは、第二ペテロ2章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは、「豚は身を洗って、また泥の中にころがる」です。前回の箇所でペテロは、偽教師に気をつけなさいと警告しました。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込みます。そして、多くの者が彼らの好色にならい、真理の道から離れるようにします。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもって多くの者を食い物にするのです。だから偽預言者には気をつけなければなりません。今日はその続きです。

 

2つの絵を比べて違いを探す間違いゲームがあります。ぱっと見た感じは同じでも、よく見ると色とか、向きとか、違いを発見することができます。同じように、偽教師たちはぱっと見た感じでは同じようでも、よく見ると違いがあることが分かります。何が違うのでしょうか。今日のところでペテロは、その違いを明らかにしています。

 

Ⅰ.理性のない動物と同じ(10-16)

 

まず10節から16節までのところに注目してください。10節には、「汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。」とあります。

 

ペテロはここで、そうした偽教師たちの特徴として、彼らは大胆不敵で、尊大な者たちだと言っています。大胆不敵とは、敵を敵とも思わないということ、また、尊大な者とは、高ぶって偉そうにすること、傲慢な態度をとる人たちのことです。彼らは、大胆不敵で尊大な者たちです。また、栄誉ある人たちをそしって、恐れることがありません。この「栄誉ある人たち」とは、りっぱな人たちのことを指して言われているかのようですが、11節との関係で読むと、悪霊たちのことを指して言われていることがわかります。というのは、11節には「それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしって訴えることはしません。」とあるからです。この「彼ら」とはだれのことかというと、悪霊のことです。

ユダの手紙1:9をご覧ください。ここには、「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことをせず、『主があなたを戒めてくださるように』と言いました。」とあります。

御使いのかしらミカエルは、人間よりも、悪魔よりもはるかに力のある存在なのに、そんな御使いでさえ悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をそしるようなことを言わず、ただ「主があなたを戒めてくださるように」といっただけでした。それなのに、この偽教師たちは、天使のかしらミカエルさえもさばくことをしなかった悪魔たちをそしって、恐れることがなかったのです。実に大胆不敵です。尊大な者たちです。

 

12節と13節を見ると、ここには、彼らは理性のない動物と同じだと言われています。皆さん、人間と動物の違う点は何でしょうか。人間と動物の大きな違いは、人間には理性がありますが動物にはないという点です。動物は本能だけで生きています。ただ食べるためだけに生きているのです。私はよく、「あなたは何のために生きていますか」と尋ねることがありますが、意外と多くの人が、「はい、私は食うために生きています」と答えます。食うためだけに生きているとしたら、動物と同じなのです。人間はただ食うために生きているのではなく、これはどういうことなのかと考え、してもいいこと、してはいけないことをわきまえながら生きています。理性があるからです。その理性がなくなったら動物とあまり変わりません。私はよく家内から、「あなたは豚のように食べる」と言われます。何ですか、豚のように食べるとは・・・?とにかく美味しいものをみたら、それしか考えられないということでしょう。ろくに話もしないで食べることだけに集中します。それが豚のように見えるのでしょう。「もう少しゆっくり食べて」と言うのです。食べることしか考えられなければ、それは理性のない動物と同じです。まさにこの偽教師たちは、理性のない動物のようでした。その結果、動物が滅ぼされるように滅ぼされてしまうことになるのです。この滅びとは永遠の滅びのことです。

 

いったいなぜそのような滅びを身に招くようなことをしていたのでしょうか。その理由が13節にあります。

「彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちからの飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。」

 

「不義」とは罪のこと、悪事のことです。彼らは自分のやった悪事の報いとして大きな損害を受けるのです。彼らはどんな悪事を働いていたのでしょうか?ここには昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えているとあります。別にお酒を飲むことが悪いのではありません。ここで問題にしているのは、昼のうちから飲み騒いでいたことです。昼のうちから飲み騒ぐというのは、それしか考えていないということだからです。普通お酒は夜飲むものでしょう。それなのに昼間から飲んでいました。その結果理性を失い、自分をコントロールすることができなくなっていたのです。エペソ5:18には、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。」とあります。なぜ酒によってはいけないのでしょうか。そこには放蕩があるからです。酒を飲んで酔っ払い、自分の一生を棒に振ってしまったという話はあとを絶ちません。酒に飲まれるこで、そこにどれほどの弊害が生まれてくるかわかりません。そんなお酒を朝から飲んで騒いでいるとしたら、百害あって一利なしです。

 

しかし、彼らはただ昼間から飲み騒いでいただけではありませでした。何とそのお酒を教会にまで持ち込んで飲み騒いでいました。ここに、「あなたがたといっしょに宴会に連なるとき」とありますが、これは教会の愛餐会や食事会のことを指しています。というのは、この「あなたがた」とは、小アジア地方に散らされていたクリスチャンたちのこと、教会のことを指しているからです。教会の食事会までお酒を持ち込んで騒いでいるなんて考えられません。お酒を買いに教会の前のコンビニに来て救われたという方はおられますが、お酒をもって教会に来たという人は今まで見たことがありません。彼らにとってどこで飲むかも関係ありませんでした。何とも大胆不敵、神を恐れない、しみや傷のようなものたちでした。

 

それだけではありません。14節をご覧ください。ここには、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」とあります。

彼らの罪の大きさは、自分自身がそのような悪を行っていたというだけでなく、心の定まらない者たちを誘惑し、滅びをもたらしていた点です。心の定まらない人というのは信仰が不安定な人たちのことです。いつもあっちに行ったり、こっちに行ったりしてフラフラしています。神の言葉ではなく人の言葉に左右され、いやしや奇跡といった現象に振り回されているのです。そういう人がターゲットにされます。彼らの心は欲に目がありません。彼らはのろいの子なのです。

 

「のろいの子」とはかなり厳しいことばです。いったいどうしてペテロはここまで言い切っているのでしょうか。それは、彼らがそのような不義を行って自分たちに滅びを招いていただけでなく、純粋な信仰を持っていた他の人々をも誘惑して滅びに導いていたからです。ペテロがこれほどまで強い言葉で非難しているのはそのためです。子どもが危険に遭っているのを見て黙っている親はいません。同じようにペテロは霊的な親として、こうした偽預言者によって滅びの道に巻き込まれないように彼らを責め、その違いを明らかにしているのです。

 

15節をご覧ください。彼らは正しい道を捨ててさまよっています。正しい道とは真理の道、イエス・キリストを信じる信仰の道です。その道を捨ててさまよっていました。ちょうど不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。皆さんは、バラムのことをご存知でしょうか。バラムについては、民数記22章から25章までのところに詳しく記されてありますので、後で読んでいただきたいと思いますが、簡単に言うと、彼はモアブの王バラクにイスラエルを呪うようにと雇われたのに祝福してしまった預言者です。これだけ聞いたら、「なんだ、いい預言者じゃないか」と思われるかもしれませんが、ここに不義の報酬を愛したとあるように、陰では不義の報酬を愛するような貪欲な者でした。

彼がイスラエルを祝福したのは、神によって自分の罪がとがめられたからです。つまり、ものをいうことのないろばが、人間の声でものを言ったことで、その狂った振る舞いがはばまれたからです。それで彼はイスラエルをのろうことをせず、逆に祝福したのです。

 

ここまでは良かったのです。しかし、その後が悪かった。彼は不義の報酬を愛しました。自分の国に帰って行くふりをして、実はあのバラク王のところに戻って来てこう言いました。

「私はイスラエルを呪うことはできないけれども、神が彼らを呪う方法を知っています。もし聞きたいなら、あの報酬を私にください。そうすれば教えてあげますよ。」

それでバラクがお金を差し出すと、バラムは教えました。「イスラエルの男たちのところに神を信じない異邦人の女たちを送り込み、彼らを誘惑するんですよ。そうすればあの女たちが拝んでいる神を拝むようになるでしょう。そうすれば、神がお怒りになって、彼らを呪うことになります。」

それで、バラクは、シティムにとどまっていたイスラエル人のところにモアブの女たちを送ると、案の定、バラムの言ったとおり、イスラエル人はモアブの女たちとみだらなことをして、彼女たちが拝んでいたバアル・ペオルを拝むようになりました。それで神は怒られ、その日、二万四千人が神罰で死んだのです。

 

つまり、バラムは表面では真面目な預言者を装いながら、陰では不義の報酬を愛したのです。彼は正しい道を捨ててさまよいました。お金のためにイスラエルをそそのかし、堕落させて、神の道から遠ざけたのです。それと同じように、ここに出てくる偽教師たちも、バラムのやり方に従い正しい道を捨ててさまよっていました。彼らはお金のために自分自身がさまよっただけでなく、人々を惑わせ、そそのかして、神の愛から引き離そうとしていたのです。

 

なぜ偽教師に注意しなければならないのでしょうか。それは彼らだけでなく、純粋な神の民をも惑わし、彼らを滅びに導くからです。だから偽教師たちには気を付けなければなりません。私たちはこの違いを見て、彼らのだましごとにかからないように十分気をつけなければなりません。

 

Ⅱ.罪の奴隷(17-19)

 

次に17節から19節までをご覧ください。いったいなぜ彼らはそのような不義を行うのでしょうか。その理由がここに記されてあります。それはもともと罪の奴隷だからです。

「この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。」

 

「この人たち」とは、偽教師たちのことです。彼らは、水のない泉であり、突風に吹き払われる霧です。どういうことですか?水のない泉とか、突風に吹き払われる霧とは。水は私たちのいのちに欠かせないものです。泉があるのにその水がないというのは、ただの見せかけにすぎないということです。また彼らは、突風に吹き払われる霧です。突風が吹くとすぐに霧が晴れてしまいます。つまり、そこには何の実態もないということです。彼らはあるかのように見せかけるだけで、何も与えることができません。一時的に人々を興奮させることはできるかもしれませんが、渇いた心を満たすことは決してできないのです。私たちの渇いた心を満たすことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス様はこう言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)

イエス・キリストは、あなたに生ける水を与えることができます。だれでも、イエス様のもとに行くなら、その人の心の奥底から流れる生ける水が流れ出るようになります。しかし、彼らにはできません。彼らは水のない泉、突風に吹き払われる霧にすぎないからです。

 

18節には、「彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、」とあります。

「大言壮語」とは、自分の力以上のことを言って人々をそそのかすことです。大きなことを言います。夢を語って期待を持たせ、誤った生き方をするだけでなく、そこからのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑するのです。それはちょうど肉欲と好色というえさをひっかけて魚を釣るようなものです。「あなたのやりたいことをしなさい。神が祝福してくださいます。」

何とも聞こえがいいですね。あなたのやりたいようにしなさい。とても魅力的な言葉ですが、もしこの言葉に従って生きたら、破滅の人生を送ることになります。というのは、罪からくる報酬は死だからです。私たちが本当に人間らしく生きることができるのは、私たちの人生を、私たちを造られた神によってしっかりと握りしめられることによってです。ちょうど人の手にしっかりと握られた凧が空高く飛ぶように、神の手にしっかり握られてこそ、本当に自由に飛ぶことができるのです。その糸が切れてしまったら、どこへ飛んで行ってしまうかわかりません。

 

それなのに彼らは、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷となっていました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らはその征服者、肉欲と好色の奴隷、罪の奴隷だったからです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。しかし、神に征服されれば、神の奴隷となり、主イエスにある永遠のいのちに至ります。

 

このことをパウロはローマ6:20~23でこのように言っています。

「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行きつく所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行きつく所は永遠のいのちです。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。」

 

あなたはどちらの奴隷ですか。罪の奴隷ですか、それとも神の奴隷ですか。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となります。罪に征服されるなら罪の奴隷に、神に征服されるなら神の奴隷になります。そして、その行き着く所は全く違います。罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。どうか彼らの甘い罠にひっかからないようにしてください。彼らはあなたの肉欲と好色を利用して、自由を約束するかもしれませんが、その行き着くところは永遠の滅びなのです。イエス・キリストによって罪から解放された者として、いつも神に支配されて歩みましょう。

 

Ⅲ.終わりの状態(20-22)

 

最後に20節から22節までを見て終わりたいと思います。ここまでは偽教師の終わりの状態が描かれています。

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。」

 

「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」とは、イエス様を信じたことによって罪から救われたということです。イエス様を信じて罪から救われた後で、再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなる、と言われています。ここは非常に難解な箇所です。というのは、一度救われた人でもその救いを失うことがあるかのように書かれてあるからです。しかも、そのような人たちの状態は、初めの状態よりももっと悪いものになるというのです。イエス様を信じて救われた人が、その救いを失うということがあるのでしょうか?ありません。なぜなら、イエス様はヨハネ10章28節で次のように約束しておられるからです。

「私は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去ることはありません。」

また、使徒ヨハネはこう言っています。

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(Ⅰヨハネ4:4)

 

ですから、イエス・キリストを信じて救われた人がその救いを失うことは絶対にありません。悪魔の誘惑によって罪の影響を受けることはありますが、その救いを失うことはないのです。では、ここに「イエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて制服されるなら」とはどういうことでしょうか。

 

これは、イエス・キリストを信じているようであっても、ほんとうに信じていなければ、という意味です。ほんとうに信じたのであれば、だれも主イエスの手から私たちを奪い去ることはできません。でもそうでなければ、このようなことが起こってくるのです。ではほんとうに信じるとはどういうことでしょうか?みんなイエス様を信じているんじゃないですか。確かに口では信じるといいました。でも心から信じるというのは口で告白する以上のことです。つまり、本当に信じるというのは、イエス様を自分の人生の主とすることです。イエス様と人格的な関係を持っているかどうかということなのです。イエス様を信じますといくら口で告白しても、そのイエス様に従うのではなければ、あるいは、従いたいと願っていなければ、それはイエス様を主とするということではないのです。その人にとって信じているのは自分自身であって、イエス様ではないのです。しかし、イエス様を信じるというのは、自分ではなくイエス様に従うことです。神を愛するとは、神の命令を守ることだからです。ですから、外側では信じているように見えても、内側はその限りではないというケースが起こってくるのです。イエス様を主としていなければ、結局のところ自分の欲に従うことになり、信仰から離れてしまうことになりかねません。そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなるのです。そのような人は最初から救われていなかったのです。救われていなければ神を愛することはできません。神を愛する人は神の命令を守ります。完全に守れる人などいませんが、少なくともそうしたいという願いはあるはずです。完全な人はいませんが、失敗しても悔い改めて、主に立ち返り、もう一度主に従いたいと思うようになるのです。

 

その良い例がペテロです。彼はイエス様を裏切るという大罪を犯しました。鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと否定したのです。でも、彼は悔い改めました。自分の弱さを知り、自分の力ではどうすることもではないことを悟り、完全に砕かれて、主の御前に悔い改めたのです。そして、彼は立ち直って、最後まで主に従いました。彼はイエス様を否定し、失敗もおかしましたが、でも、イエス様に従いたいと願っていたのです。イエス様を信じていたからです。

 

一方、イスカリオテのユダは違います。彼もペテロのようにイエス様を裏切りました。銀貨30枚でイエス様を売り渡してしまいました。しかし、悔い改めることをしなかったので、彼は結局、首をつって死んでしまいました。なぜ悔い改めなかったのでしょうか。彼はイエス様を信じていなかったからです。

 

ペテロもユダも同じように罪を犯しました。立ち直れないような罪を犯しましたが、ペテロは赦され、ユダは赦されませんでした。その違いはイエス様を本当に信じていたかどうかという点です。本当に信じている人は悔い改めて、イエス様に立ち返ります。どんなに罪を犯しても主に立ち返り、悔い改めて、もう一度やり直します。それは外側から見た目ではわかりません。また、今の状態で判断することもできません。それはただイエス様だけが知っておられることです。ただ一つだけはっきりしていることは、本当に信じている人はどんなことがあっても主から離れることなく、主の命令に従うということです。しかし、そうでない人は、義の道を知っていてもそれに従いません。なぜなら、元々汚れているからです。そのような人は、22節にあるように、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざのとおりです。

 

「犬は自分の吐いた物に戻る」とは、箴言26:11からの引用です。これは自分の愚かさを繰り返すという意味です。また、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とは一般に知られていたことわざでした。当時、犬と豚は汚れた動物として知られていました。犬は吐いた物や汚い物を食べました。また、豚はどんなにきれいに身体を洗っても、またすぐにどろの中にころがってしまいます。偽預言者は犬であり、豚です。彼らは汚れたことを繰り返していました。なぜでしょうか?それは、彼らの内側が汚れていたからです。元々汚れていたので汚れたことを繰り返すのです。ですからどんなに外側をきれいにしても、すぐにまたどろの中に戻ってしまいます。彼らはのろいの子であり、滅びの子です。イエス様を信じていなかったからです。イエス様信じて罪赦された人には、神の子どもとしての特権が与えられます。神の子であれば、神の子にふさわしくなっていきます。以前はどろの中にいましたが、そのどろが洗われて少しずつ聖くされていくのです。

 

あの放蕩息子はそうです。彼は泥沼の中にいました。放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしまい、食べるにも困り果て、豚の食べるいなごまめで腹を満たしたいと思うほどでした。しかし、はっと我に返って時、彼は父のことを思い出しました。そして、父の元に帰る決心しました。すると、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って、走り寄り、彼を抱き、口づけしました。そして、一番良い着物を着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせてこう言いました。「食べて祝おうじゃないか。この息子は死んでいたのが生き返ったのだから。」死んでいたのが生き返りました。以前は泥の中で死んでいたのに、その泥が洗われて新しくなりました。神の子として新しく生まれ変わったのです。

 

しかし、この偽教師たちは、犬や豚のようでした。いつも自分が吐いた物に戻りました。どんなに外側を洗ってもすぐにまた泥の中にころがりました。なぜでしょうか。内側が聖められていなかったからです。彼らは最初からそうでした。そして歩いことに、純粋にイエス様を信じて歩んでいる人たちさえも惑わし、その中に引きずり込もうとしていたのです。

 

だからペテロは、そのような偽教師たちには気をつけていなさいと、厳しく警告したのです。世の終わりが近くなると、そうした偽教師がはびこるようになります。今はそういう時代です。いかにも正しい教えであるかのように装いながらも、真理にそむくようなことを教えて、人々を滅びに導くようなことをしています。私たちもそうした異端に惑わされることがないように注意しましょう。彼らはひそかに滅びをもたらします。まさかという方法で持ち込むのです。あの有名な牧師が言っているのだから間違いがないとか、あの本に書かれていたから間違いないとか、全く吟味しないで信じてしまうのです。危ないです。私たちが惑わされためには神の御言葉にしっかり立たなければなりません。神の御言葉は人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものだからです。それはイエス様が再び来られるまで、私たちの足元を照らすともしびです。これに目を留めているとよいのです。絶えず神の言葉に目を留めて、ウォーリーを探せではありませんが、聖書の教えと違う偽教師たちの教えを見分け、神の真理に堅く立ち続ける者でありたいと思います。

ヨシュア記20章

きょうは、ヨシュア記20章から「逃れの町」について学びたいと思います。まず、20章全体をお読みしたいと思います。

「20:1 【主】はヨシュアに告げられた。
20:2 「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
20:3 意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
20:4 人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
20:5 たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
20:6 その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」

イスラエルのそれぞれの部族にくじによる相続地の割り当てを行うと、主はヨシュアに逃れの町を定めるように言われました。逃れの町とは、あやまって人を殺した者が、そこに逃げ込むことができるためのもので、その町々は、彼らが血の復讐をする者からのがれる場所となりました。この逃れの町については、民数記35章において既にモーセを通してイスラエルの民に語られていました。(民数記35:10-11)  ヨシュアはカナンの地に入った後で各部族に相続地を分割すると、それを実行したのです。

3節には、「意図せずに誤って人を殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。」とあります。この逃れの町は、あやまって、知らずに人を殺した者が、血の復讐をする者から逃れるために設けられたものです。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出エジプト21:12)とありますが、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合はその限りではありませんでした(出エジプト21:13)。逃れの町にのがれることができたのです。

では、どうやって故意による殺人と誤って人を殺した場合、すなわち不慮の事故によるものなのかを判別することができるのでしょうか。民数記35章22~29節には、そのことが詳しく述べられています。
「35:22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
35:23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、35:24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
35:26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、
35:27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。
35:28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
35:29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。」

つまり、動機と手段によって判断されるということです。すなわち、相手に対して「憎しみ」「悪意」「敵意」といった思いがなかったかどうか、そのためにどのような道具が用いられたのか、人を殺せるほどの道具であったかどうかということです。がなかったかどうかです。それが、殺してしまったのであれば、それは彼が意図して行ったことではなく誤って殺してしまったということであって、この逃れの町に逃れることができました。

4節には、「人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。」とあります。逃げてきた人の切羽詰った様子が窺えます。一刻も早く町の中に入らなければ、殺されてしまうかもしれなかったからです。ユダヤ教の言い伝えによると、この逃れの町までの道は整備がしっかりと施されており、「こちらが逃れの町」という標識があったほどです。それほど早く逃げ込むことができるように保護されていました。彼らがこれらの町に逃げ込む場合、その者は、その町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べると、長老たちは、自分たちの町に彼らを受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼とともに住みました。もしそれが嘘だったら、たとえのがれの町に入ったとしても、殺されなければなりませんでした。

しかし、それが本当に誤って起きたものであれば、たとい、血の復讐をするものがその者を追ってきても、殺人者をその手に渡してはなりませんでした。その者は会衆の前に立って正しいさばきを受けるまで、その町に住まなければならなかったのです。つまり、公正な裁判を受けるまでしっかりと保護されなければならなかったのです。あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければなりませんでした。それから後に彼は、自分の町、自分の家に帰って行くことができました。すなわち自由の身になることができたということです。なぜ、大祭司が死ぬまでその町に住まなければならなかったのでしょうか。

それは、この大祭司がイエス・キリストのことを指し示していたからです。へブル4章15節には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とありますが、この大祭司が死ぬまでとは、イエス・キリストが十字架で死ぬまでのことを示していました。大祭司が死ねば、逃れの町に逃れた殺人者は自由になり、自分の家に帰ることかできたように、真の大祭司であられるイエス・キリストが十字架で死ぬなら、すべての人の罪が赦され、罪から解放されて自由になることができました。キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったからです。

多くの人は問題を抱えると、環境を変え、場所を変えれば、やり直すことができると考えますが、それは無駄なことです。あるいは、どこか遠くの別の場所に行けばもう一度人生をやり直すことができると考えますが、そのようなことをしても状況を変えることはできません。なぜなら、これは霊的なことだからです。主イエスはニコデモとの会話の中で、「まことに、まことに、あなたがたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。どうしたら人は神の国を見ることができるのでしょうか。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。これがすべての解決です。神の国を見ることがでるなら、神が共にいてくださるなら、私たちのすべての問題は解決します。そのためには罪が赦されなければなりません。罪が赦されて新しく生まれなければならないのです。私たちのその罪を贖ってくれる唯一の道が、キリストの十字架の死であり、この他にはありません。それゆえ、私たちはこの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければなりません。そして、その御前にへりくだって悔い改めなければならないのです。そうすれば、私たちは主イエスの贖いのゆえにすべての罪が聖められ、悪魔の力から解放されて、全く新しく生まれ変わるのです。

この十字架の贖いこそ、私たちが罪から解放され、失敗と挫折の中からもう一度立ち上がる道であり、その力の源なのです。多くの人はそのことを知らないので、環境を変え場所を変えればやり直すことができると考えますが、いくらそのようにしてもこの罪の縄目から解放されることはできません。そんなことをしてもこの罪から抜け出すことはできないのです。私たちを罪から贖い、新しく生まれるためには、主イエスの十字架の贖いを受け入れ、この方を救い主として信じなければならないのです。そうです、この大祭司こそ、主イエス・キリストそのものを指示していたのです。
詩篇46篇1節には、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」とあります。本来であれば、罪のために私たちが殺されなければいけないのに、主が避け所となって救ってくださるのです。これが、逃れ町が示していたことだったのです。

私たちは、ここに逃れれば絶対に安心だというところがあります。それがイエス・キリストです。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」イエス・キリストにあるものは罪に定められることはありません。イエス・キリストにあるものは、ちょうど逃れの町の中にいる者が復讐者によって殺されることのないように、決して罪に定められることはありません。もしあなたが過去に犯した罪があるなら、あるいは、現在も肉の弱さによって犯している罪があるなら、このイエス・キリスト、逃れの町に逃れてください。そこで悔い改めて、キリストにある新しい人生を始めてください。あなたにもこの逃れの町が用意されてあるのです。

次に7節から9節までをご覧ください。

「20:7 彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
20:8 ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
20:9 これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。」

それで彼らは、ヨルダン川の向こう側と、こちら側にそれぞれ三つの町をのがれの町に当てました。それはかつてモーセが命じたように距離を測ってすべての相続地の中で均等に置かれました。それは何のためかというと、9節にあるように、あやまって人を殺したものが、そこに逃げ込むためです。会衆の前に立たないうちに、血の復讐をするものの手によって死ぬことがないように、すべての人にとってできるだけ近いところにのがれの町を置きました。つまり、神は相続地の中でだれもがすぐに逃げ込むことができるようにと配慮してくださったのです。神はそれほどまでにあやまって罪を犯した者を救うことを願っておられるのです。神は私たちをさばくことを良しとし常にその眼をさばきに向けておられるのではありません。神は私たちを愛し、赦すことに向けておられことがわかります。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかを神は知っておられ、深く理解しておられるからです。ですから、私たちはその度に悩み、落ち込むものですが、その度にこの逃れの町に逃げ込み、神の赦しと力をいただかなければなりません。

へブル人への手紙4章15~16節には、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵をいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは、私たち人間の弱さに同情できない方ではありません。私たちを思いやることができます。なぜなら、ご自身があらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解してくださいます。だから安心して、喜んで恵みの御座に近づかなければなりません。
時として私たちはこのような試練に会うとき、「神がおられるならどうしてこんな苦しみに会わせるのだ」と、神を呪い、信仰から離れてしまうことさえありますが、そんな私たちのためにこそ逃れ町が用意されておられるということを知り、そこに身を寄せなければなりません。そして、私たちを完全に理解してくださる主のあわれみと恵をいただいて、立ち上がらせていただきたいと思うのです。聖書を見ると、そのようにして人生をやり直した多くの聖徒たちのことが記されてあります。

たとえば、パウロはどうでしょう。彼は非の打ちどころがないほどのパリサイ人で、正義感に燃え、それ故クリスチャンを迫害し、牢に投げ込み、殺害していきました。しかしダマスコに向かう途中で、復活のキリストと出会い、数年に及ぶアラビヤでの悔い改めの期間を経て、やがて世界的なキリスト教の指導者として用いられていきました。パウロはキリストによって新しい人生をやり直した人物の典型です。パウロはこのように言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ペテロもそうです。彼もまた、主イエスを三度も否むという大きな過ちを犯しましたが、主の前に悔い改めて立ち直りました。そして、イエス様のあの言葉にあるように、イエス様のとりなしによって立ち直った彼は、兄弟たちを力づけてやる者へとなりました。パウロのように、ペテロのように、イエス・キリストは人々が立ち直り、やりなおすことを願っておられるのです。

旧約聖書における最高の指導者の一人であるモーセもそうです。彼は民族愛に燃え、ある日エジプト人を撃ち殺し、それがばれるのを恐れてミデヤンの地へのがれました。しかし、40年の荒野での空白期間を経て、神はモーセをイスラエルの解放者として召されました。モーセもまた、失敗してもやり直した人物です。

またイスラエルの最大の王であったダビデは、バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その罪をもみ消そうと夫エリヤを戦場の最前線に送り込ませて殺しました。彼は道徳的に失敗し、家庭的にも失敗し、子供たちの反逆にも遭いましたが、その度に悔い改めて神の恵みにすがりました。その結果彼はその罪を許していただき、再びやりなおすことができたのです。

このように聖書は繰り返し人生をやり直した人物にスポットを当てています。神が用いられる人とは失敗やあやまちを犯さない人ではなく、そうした失敗やあやまちを犯しても悔い改めて神のあわれみにすがる人のことであり、そのようにして人生をやりなおした人なのです。その失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いていかれたのです。

まとめてみると、この逃れの町が示していることはこれです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
これは、主イエスの宣教の第一声です。それは、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。これは、イエスを信じて、もう一度やり直しなさい、ということです。逃れの町であられるイエスの下に逃れるなら、あなたももう一度やり直すことができる。これが福音です。神の福音は私たちを立ち直らせることができます。あなたも悔い改めて、主イエスを信じてください。主イエスにあって、あなたも必ずやりなおすことができるのです。

創世記2章

きょうは、創世記2章から学びます。

 

Ⅰ.神の安息(1-7)

 

まず1~7節をご覧ください。

「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」

 

神は、六日間で天地創造の御業を完成されると、七日目になさっていたすべてのわざを休まれました。これは、神が人間のように疲れたからということではありません。イザヤ書40:28には、「主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。」とあります。神は疲れることなく、たゆむことがない方です。ですから、この休まれたというのは、いわゆる人間の休息とは違います。神が休まれたというのは、その創造の御業を完成されたので、その活動を停止されたということです。その一切のわざを完成されたので、それをご覧になられて満足されたのです。ですから、神が休まれたというのは、ご自身の天地創造の御業に対して満足されたということなのです。

 

それが3節の「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」ということばからもわかります。「聖」であるとは、「他のものから分離して、神のものになる」という意味です。たとえば、聖書は聖なる書物です。それは、他の書物とは区別された、神の書物です。したがって、「この日を聖であるとされた。」というのは、他の日と区別されて神の日とされたということなのです。つまり、天地創造の目的は人間を創造されたことで終わらず、その創造された人間が神を喜び、神を礼拝することによって、神の栄光を現すことであったのです。

 

次に4節から7節までをご覧ください。これは天と地が創造されたときの経緯です。特に、1章27節には「神は人をご自身のかたちとして創造された。」とありますが、その詳しい叙述がなされているのです。いったい人はどのように造られたのでしょうか。7節には、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。

神である主はまず土地のちりで人を形造りました。ですから、人間の肉体にある17の主成分のほとんどは、土にある主成分と同じなのです。それは、私たちの肉体が土のちりからできているからです。皆さんは土のちりです。このことを思うと、とかく傲慢になりがちな私たちにへりくだることを教えられ、高ぶりに陥らないようにとの教訓が示されているように感じます。この「形造る」ということばは、原語で「アサー」という言葉が使われています。夜ではなく「アサー」です。創世記1章の「創造された」という言葉は「バラ―」という言葉で、使い分けされています。この「アサー」という言葉は、陶器師が物を造る時に用いられる言葉です。この言葉は、エレミヤ書18章6節の言葉を連想させます。「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」つまり、私たちは造り主なる神の手の中に自由に練り上げられる存在であるということです。このことからも、造り主なる神の前にへりくだって歩むことの大切さを教えられます。

 

しかし、人は土のちりで形造られただけでなく、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きものとなりました。この「息」は、原語のヘブル語では「ルアッハ」という言葉で、「霊」と訳されています。つまり、神は霊ですから、人間にも霊を与えられたのです。1章27節の「神は人をご自身のかたちとして創造された」の「ご自身のかたち」とは、この「霊」のことを示しています。人間には、動物と違って、この霊が与えられています。神に対する思いや永遠を慕う思いが与えられているのです。伝道者の書3章11節には、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」とあります。自分はどこから来たのか、そしてどこにいるのか、自分が死んでからどこへ行くのか、そうした思いが私たちに与えられています。それは、人間が霊的な存在だからです。だから私たちは、神を礼拝し、神に祈ることによって、真の平安と満足を得ることができるのです。

 

Ⅱ.エデンの園(8-17)

 

次に8節から18節までをご覧ください。

「神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 

神である主は東の方エデンに園を設け、そこに人を置かれました。そこには、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木が生えていました。神は、人間が食べるために必要なものをすべて用意しておられたのです。人は汗を流し、苦労して働かずして、食物を得ることができました。

また、この園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木がありました。いのちの木とはいのちを与える気のことです。それは神ご自身の存在を現わしていました。なぜなら、命を与えることができるのは神だからです。ですから、このエデンの園は、神の楽園(パラダイス)だったのです。神の楽園、神の国の本質は何かというと、そこに神がおられるところです。エデンの園の中央には、神が住んでおられました。その神と交わり、神とともに生きることこそ、神によって造られた人間にとっての最高の喜びだったのです。

 

もう一つ、園の中央には、善悪の知識の木が生えていました。善悪の知識の木とは何でしょうか。16-17節には、「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。

 

これは、取って食べてはならないと神が命じられた木です。それを取って食べる時、あなたは必ず死にます。これは人間には限界があることを示しています。人間は何でもできるのではありません。何をしてもいいわけではないのです。することが許されていることと許されていないことがあります。越えてはならない一線があるのです。そして、人間に許されていないことは、自分で善悪を判断することです。なぜなら、善悪を判断することは神がなさることだからです。その神の指示を仰がないで自分で判断するということは自分が神のようになろうとすることであり、人には許されていないことだったのです。ですから、それを食べるようなことがあれば、必ず死ぬのです。ここでの死は、神との関係が断たれることを意味します。神は人が生きるためにふさわしい最高の環境を備えてくださったのに、その中心である神との関係が断たれることによってそこから追放され、すべての祝福を失うことになってしまうのです。

 

であれば、なぜ神はわざわざこのような木を園の中央に置かれたのでしょうか。この木から取って食べるということがわかっていたのならば、最初から置かない方が良かったのではないでしょうか。そうではありません。神は人をロボットとして造られたのではなく、自由意志を持つ者として造られました。心から神に信頼して生きるようにと造られたのです。ですから、この善悪を知る知識の木は、神によって造られた人間が神に信頼して生きるために備えられたのであり、その善悪を知る木から取って食べることは、神以外の何ものも信頼すべきではないことを示すためのものだったのです。また、この善悪を知る知識の木は、そのような中で、人間が創造者のみこころに忠実に従うかどうかをためすためのものだったのです。このような木の存在を通して、人間がより成長し、道徳的にも円熟していくことを、神は願っておられたのです。

 

10節から14節までをご覧ください。このエデンの園の中央にはいのちの木があっただけでなく、この園を潤すために四つの川が流れていました。第一の川の名前はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。第二の川の名前はギホンで、それはクシュの全土を巡って流れます。第三の川の名前はティグリスで、それはアシュルの東を流れます。第四の川はユーフラテス川です。この川は人にいのちと潤いを与える川です。預言者エゼキエルは、その水の中にいる魚は生き生きとし、そのほとりに生えている果樹は、新しい実を結び続けます、と言っています。(エゼキエル47:1-12)それは、世の終わりに現われる天の御国の描写でした。黙示録22章1節には、神によってもたらされる新しい天と新しい地の真ん中に神と小羊との御座があり、都の大通りの中央を流れていた、とあります。それはいのちの水の川で、その川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができました。また、その木の葉は諸国の民をいやした、とあります。(黙示録22:1-2)

 

したがって、ここに書かれているエデンの園は、人間が生きるための最適な場所であり、神は終わりの時に罪によって堕落したこの世界を再び新しくしてくださるということの象徴としての神の啓示でもあったのです。

 

Ⅲ.結婚の奥義(18-25)

 

最後に18節から25節までをご覧ください。

「その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

 

ここには、1章27節の「神は人ご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」という御言葉の詳しい説明が記されてあります。神は天地万物をお造りになられたとき、造られたすべてのものをご覧になられ、「それは非常に良かった」(1:31)と仰せになられましたが、どこを見ても人(アダム)にふさわしい助け手はいませんでした。神の霊が与えられた人間と交わることができるものは、ほかにいなかったのです。人格をもった者は、他に人格をもった者と交わりをもたずにはいられません。もちろん、神が造られたものは、みな彼を楽しませてくれましたが、彼の助け手として、彼と真に交われるものはありませんでした。

 

そこで神は、「人が、ひとりでいるのは良くない。」と仰せになられ、彼のためにふさわしい助け手を造ろうとされたのです。この「ふさわしい」とはどういう意味でしょうか。それはただ単に「孤独」や「多忙」を補うという意味での「ふさわしい」存在というのではなく、人間の使命を達成するにあたりかけがいのない必要な相手としてふさわしいということであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも一つになれるという点でふさわしい助け手であったのです。単に孤独や寂しさを補うだけの助け手であれば他の男でも良かったわけですが、男では満たすことのできない存在、つまり女が必要だったのです。

 

それでは、なぜ神は人間を最初から男と女に造らなかったのでしょうか。神はまず男を造り、その後で女を造られました。それは男と女の結合(結婚)は、本来ふたりの男女の結合なのではなく、もともとひとりであったふたりの男女がそのもとの姿にかえることだからです。男と女というふたつの人格が一個の人格として歩むことなのです。

 

アダムは、神が造られたあらゆる動物に名前を付ける特権が与えられました。彼が生き物につける名はみな、そのとおりとなりました。いったい何のために彼は動物に名前をつけたのでしょうか。それは単に名前をつけたということ以上に、その動物たちの性質を見たということです。何のために?自分にふさわしい助け手はどのようなものなのかを考えさせたのでしょう。しかし、彼はふさわしい助け手は見つけることができませんでした。

 

それで神はどうされましたか?神はかれに深い眠りを下されたので、彼は眠りました。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれました。これはどういうことでしょうか。神は妻となるべき女を造られた時、夫となるべき男にまさる者としては造られなかったということです。男から、そのあばら骨を取って造られました。それはアダムと同質の存在であるということ、またアダムをもとにして造られたということです。決して男の頭から作りませんでした。また神は夫が妻を踏みつけるようにと、足元からも作られませんでした。妻は夫の助け手となるべく男のあばら骨から(わき)造られたのです。妻は夫の良き友、愛すべき者、保護すべき者、夫を助ける者として、夫のわきから造られたのです。したがって、夫は妻を愛し、妻は夫に従うのは自然です。本来そのように創られたからです。

 

女が造られたことで、いよいよアダムの結婚生活が始まろうとしていました。神である主によって導かれ、自分の前に現われた女性を見た時、アダムの心はどんなに興奮したことでしょう。それは23節を見るとわかります。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

これはアダムの心にあった率直な表現です。「私の骨からの骨、私の肉からの肉。」すごい表現です。自分の肉親でさえこのようには言えません。まさにアダムにとってエバはこのように言える存在であり、これが結婚の原点であると言えます。アダムは彼女を「女」と名づけました。男から取られたからです。女とはこのような意味で男から取られたもの、妻は夫から取られたものなのです。ここに結婚の奥義があります。それゆえ、結婚は、神が計画し、神が成立させてくれるものです。アダムとエバはすべてを神にゆだね、神に従ったことで、結果としてこのような喜びと感謝に満たされたのです。

 

「それゆえ男はその父母から離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」これは神が啓示された結婚観です。結婚とは何でしょうか。それは父母を離れ、妻と結び合い、ふたりが一体となることです。

 

この「父母から離れ」とは、父母から独立することを意味しています。男も女も両親から独立しなければ結婚することはできません。しかし、独立するとはもう両親とは関係を持たないとか、親の言うことを聞かないということではありません。あるいは、親の面倒を見ないということでもないのです。それはまず精神的に独立することを意味しています。親に依存したままでは結婚しても、それでは結婚したとは言えません。自分が主体的にひとりで物事を考えることができて初めて結婚が成り立つのです。

 

また、「妻と結び合い」とは、霊的、精神的、肉体的に一つとなることを意味しています。この「結び合い」ということばはとても強い言葉で「糊付けすること」を表しています。糊付けしたものを剥がそうとするとどうなるでしょうか。ビリビリに敗れてしまいます。それほど強く結びついているからです。ここでも同じように、夫と妻の結び合いは、切り離すことのできないほど強力なものなのです。

 

離婚の第一の理由で最も多いのは「性格の違い」です。しかし、性格が一致するわけがありません。もしこれが結婚の条件であれば、その条件がなくなったときに結婚は破綻してしまうことになります。しかし、夫と妻の結び付というものはそのようなものによって破られてしまうものでありません。どんなことがあっても切り離されないほどの強い結び付なのです。ですから、結婚にとって最も重要なことは、神への献身であるということです。結婚の相手がどんな人であろうとも、それは神が自分のところに導いてくださった相手であると認め、どんなことがあっても神に従うという神への献身が求められるのです。

 

そして、もう一つ、ここには「二人は一体となる」です。英語では”one flesh”、「一つの肉となる」と訳されています。つまり、夫婦は一つの体になるのですが、その体にはそれぞれの人格があります。神が唯一であられるのに父、子、聖霊がおられるように、夫婦も結婚においてふたりが一人になるのでする

 

このように、結婚は神が制定された幸福な制度です。だから罪が入ってくるまでは、人間において結婚のみが正常な男女の営みであって、いわゆるホモセクチャルなどの在り方はこの教えから逸脱していると言えます。それは罪が入ってきたことによって混乱した人類の状態の一つなのです。

 

このように、神が定めた結婚の結果、ふたりはどのようになったでしょうか。ここには、「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。ここで意味していることは、彼らは互いに隠すものが何一つなかったと言うことです。神の前に出ても、そしてお互いの間にも、隠し立てすることが何もなかったのです。私たちの結婚においても、すべてを透明にして相手に自分のことを正直に打ち明かす透明な関係を築いていきたいと思います。

Ⅱペテロ2章1~9節 「偽教師たちに気をつけなさい」

きょうは、「偽教師たちに気をつけなさい」というタイトルでお話しします。この手紙は第一の手紙と同様、キリストの弟子であったペテロから、迫害によって小アジヤに散らされていたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。これは、彼の生涯における最後の手紙となりました。第一の手紙では、教会の外側からの迫害があっても神の恵み覚え、その恵みの中にしっかりと立っているようにと勧めましたが、この第二の手紙では、そうした教会の外側からの問題だけでなく教会の内側からの問題、すなわち、教会の中に忍び込んでいた偽教師たちに惑わされないようにと警告しています。

 

Ⅰ.偽教師たちが現われる(1a)

 

まず1節をご覧ください。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。」

 

「しかし」というのは、この前で語られてきたことの関わりを示しています。それと比較してどうかということです。この前で語られていたことは、預言とはどのようなものであるかということです。つまり、預言とは決して人間の考えや意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものであるということです。彼らは自分の考えを語ったのではありません。聖霊に動かされて、神からのことばを語りました。神がこのように語りなさいと言われたことを、そのまま語ったのです。それは神から出たものであり、それゆえに、彼らは神のことばを語ったのです。これが神の預言です。

 

「しかし」です。しかし、それに対してそうでない預言者もいました。彼らは神のことばを語っているようでも、実際には神のことばではなく自分の考えを語っていました。神のことばを語っていれば必ずしもそれが本物だとは限りません。それは今に始ったことではなく、ずっと昔から、旧約の時代からイスラエルの中に出ていました。

 

たとえば、エレミヤ書28章にはハナヌヤという預言者が出てきますが、彼はこの偽預言者でした。神が廃ってもいないのに、あたかも神が語っているかのように語ったのです。彼は祭司たちとすべての民の前で、「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。」と言って、二年のうちに、万軍の主が、バビロンの王のくびきを砕き、ユダのすべての捕囚の民をエルサレムに帰らせる、と預言しました。そしてエレミヤの首にかけてあった木のかせを取り除くと預言したのです。この木のかせというのは、神のわざわいと呪いの象徴です。イスラエルの民は神に背き、自分勝手な道に歩んだので、自らにそのわざわいと受けることになりましたが、その打ち砕くと言ったのです。大体、偽預言者は悪いことはいいません。その人にとって受け入れられることしかいいません。そうでないと去って行かれますから。

 

しかし、その時、エレミヤに次のような主のことばがありました。

「行って、ハナヌヤに次のように言え。「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせをつくることになる。まことに、イスラエルの神は、万軍の主は、こう仰せられる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカデネザルに仕えさせる。それで彼らは彼に仕える。野の獣まで、わたしは彼に与えた。」(エレミヤ28:13-14)

どういうことかというと、神は木のかせを砕くどころかもっと強力な鉄のかせをはめるというのです。ハナヌヤは、イスラエルの民にとって聞こえがいいように神の平安を預言しましたが、神のみこころは、むしろイスラエルが悔い改めることだったのです。それなのにハナヌヤは神のことばではなく、自分の考えを語りました。なぜでしょうか。人に気に入られたかったからです。イスラエルの民に聞こえがいいことを語りたかった。神のことばを語る者にとって、こうした誘惑はいつでも起こるものです。しかし、神の預言者は自分の考えを語るのではなく、神からのことばを語らなければなりません。

 

そのハナヌヤに対して、エレミヤは言いました。

「ハナヌヤ。聞きなさい。主はあなたを遣わさなかった。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。それゆえ、主はこう仰せられる。「見よ。わたしはあなたを地の表から追い出す。ことし、あなたは死ぬ。主への反逆をそそのかしたからだ。」(エレミヤ28:15-16)

 

そのことばのとおり、ハナヌヤはその年の第七の月に死にました。恐ろしいですね。神が語っていないのにあたかも語ったかのように言うとしたら、神はそのような偽りの預言者を厳しく罰せられるのです。なぜなら、そのように語ることで自らに滅びを招くだけでなく、それに聞き従う人たちをも滅びに導くことになるからです。ですから、神のことばを語るということはとても重いことなのです。神のことばを語る者として襟を正される思いです。

 

しかし、本物の預言者は自分の考えではなく、神からのことばを語ります。たとえそれが人に気に入られなくても、それを聞いている人にとって聞き触りがよくなくとも、神のことばとして語るのです。なぜなら、それは1:19にあるように、暗やみを照らす確かなともしびだからです。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

神のことばは私たちを正しい道に導きます。なぜなら、神のことばは、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。だからどんなに気に入られなくても、どんなに聞き触りがよくなくても、神のことばに目を留めていなければなりません。そうでないと惑わされてしまうことになってしまいます。

 

ここでペテロは、イスラエルにそうしたにせ預言者が出たように、あなたがたの中にも、偽教師が現われると警告しています。そういう教師がペテロの時代もいました。これからも出てきます。それはいつの時代でも起こることなのです。イエス様もこのような偽教師が現われることを予め語っておられました。マタイ7:15をご覧ください。ここには、「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」(マタイ7:15)とあります。

こうした偽教師は、あのグリムの童話にある「狼と七匹の子山羊」のように、羊のなりをしてやって来ても、その中身は貪欲な狼です。いくらチョークの粉を食べてお母さんのような声を出しても、いくら小麦粉を足に塗って真っ白くしても、内側は貪欲な狼なのです。ドアの隙間から白い足を見て油断して戸開けると、呑み込まれてしまうことになります。

 

パウロも同じように警告しました。使徒20:29です。パウロはエペソの長老たちに告別の説教した時、その中で次のように言いました。

「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがたの中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:29-31)

ここでは、そうした狂暴な狼が外から入り込んで来るというだけでなく、内側からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こると言っています。だから、目を覚ましていなさい、と警告したのです。

 

そして、ペテロも警告しています。イスラエルの中にそうした偽預言者が出ました。そして今、あなたがたの中にも偽教師がいます。これからも出てきます。彼らはいろいろな曲がったことを語ってはあなたがたを惑わそうとしますが、そういう者たちには気をつけなさいと、警告していたのです。

 

最近、預言カフェに行ったという人の話を聞きました。預言カフェとは、お茶を飲みながら神様の預言を伝えてもらえるという変わったコンセプトになっています。1杯数百円のコーヒーを頼めば、だれでも預言が聞けるというのです。コーヒーを飲んでいるところに預言者だという女性が現われて一方的に神のことばを語るのです。たとえば、「あなたが大きな夢を抱いて、それに向かっていることを(神は)知っていて、応援しますと言っています。

ただ、いま目の前にあることを、たまたまこれを知ったから、やろうと決めたから「やらなくちゃ」とがむしゃらになっている。でもそれは結果が出るまでに半年1年と時間がかかりそうな事。やめるというのではなく、今「これしかない」と思っていることをいったん横に置いて、少しそのことばかり考えているのを離れて、やりやすいことから2つ3つ始めてみる。

それから、「これがいいんじゃないか」と、自分の考えだけで必死に進んでるんだけど、そうじゃなくて説明書を手に入れる。やり方を分かっている人に話を聞いて、やり方を理解した上で取り組んだほうがいい。その出会いがあるように、私はサポートしていきますよ(と神は言っています)」

といった具合にです。

その時自分が悩んでいることや迷っていることにピッタリあてはまることを言ってくれるので、とても癒されるというか、ホッとするのです。しかも、「と神はいっています」というので、本当に神が言っておられるのではないかと錯覚してしまうのです。

 

危ないです。それはここでペテロが警告していることです。神が言ってもいないのに、神の名を使ってあたかも神が語ったかのように思わせるのは、昔も今も変わらない偽預言者の常套手段です。そういう偽りの預言、偽りの教えに惑わされないように気を付けなければなりません。

 

Ⅱ.偽教師たちの特徴(1b-3a)

 

いったいどうしたらいいのでしょうか。そのような偽教師の教えに惑わされないためには、そうした偽教師たちがどのような者なのか、その特徴を知らなければなりません。ペテロはここで、偽教師たちの三つの特徴を取り上げています。1節後半から3節の前半までをご覧ください。

まず第一に、彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むということです。1節の後半に、「彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかに滅びを招いています。」とあります。

 

「異端」とは「誤った教え」とか「偽りの教え」という意味です。キリスト教を名乗ってはいても、実質は違うことを教えます。聖書の教えではなく、聖書の教えを利用して自分の考えを語るのです。彼らの関心は神ではなく、この地上のことだけです。そして、自分を買い取ってくださった主を否定するようなことさえするのです。「買い取る」とは贖いのことを指します。その贖いを否定するのですから、救いを失ってしまうことになります。この異端の最大の特徴は、自分を贖って下さった主を否定するということです。そしてキリストを知らない、贖い主を知らないという事は罪が残るということなので、永遠の滅びに至ることになってしまいます。何年も教会に行き続けたのに、こうした異端に惑わされてしまうことになったら本当に悲しいことです。

 

2004年に「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)という本が出版されました。2006年には映画にもなりましたが、これは、イエス・キリストが、マグダラのマリヤと結婚したという想定のもと、イエスの死後、マリヤは子供たちを連れて逃れ、やがて古代の異教の信仰の聖なる女性のシンボルになったというものです。これを書いたダン・ブラウンは、この本に出てくる芸術作品、建築、資料、謎の儀式がみな正確なものであるかのように思わせ信じさせようとしていますが、これらはフィクションです。それなのに、この本が世界的な旋風を巻き起こしたのは、悲しいことに、神のみことばに対して無知な人が少なくなく、更に悪いことに、神の言葉を信じないでそれに従わない言い訳を必死に探している人が多いからなのです。

 

このような教えが、教会の中に広がって来ています。それはこれからもっと広がって行くでしょう。「キリストはインチキだった」とか、「十字架の贖い、復活などはあり得ない」などと、まさに「自分たちを買い取ってくださった主を否定」するようなことを言って、人々を滅びへと導くのです。

 

しかも悪いことに、彼らはそれをひそかに持ち込みます。「私は偽預言者です。これはあくまでも私の考えですが、私はあまり聖書に関心はないんです。私の関心はあくまでも皆さんの悩みを聞いて、皆さんを励ますことです。天国とか地獄とか、そんなことはどうでもいいんです。」なんて言うのであればすぐに「あっ、あれは偽教師だ」とわかるのですが、聖書のことばを用いて神はこう仰せられるというので、それを見分けるのが難しいのです。

 

冬が近くなる頃、いつも福島の教会の姉妹がりんごを送ってくださいますが、何年か前に届かない時がありました。というか、時期的に少し早かったんですね。家内からアップルパイを作るからりんごを買って来て、と頼まれたので、近くのスーパーで4個で498円のリンゴを買いました。それは青森産の真っ赤なりんごで、とても美味しそうでした。ところがそれをケーキに入れようと切ってみたところ、その内の1個が腐っていたのです。どうするのかなぁと思って見ていたら、腐ったところを取り除いて使える部分だけを使ってアップルパイを作りました。どれがいいりんごなのは切ってみないとわかりません。表面的にはどれも真っ赤で美味しそうに見えても、切ってみると中にはこのようなものが入りこんでいることがあるのです。

後日、スーパーに言って、「すみません。この前買ったりんごですが、中に腐ったものがありました」というと、スーパーのご主人が、「そうでしたか、それは大変申し訳ないことをしました。確かにりんごは外からは見分けが付かないので、そういうものが入り込んでいることがわからないんですよ。すぐに新しいものとお取替えします」と言って、1個おまけに2個くださいました。

 

異端も同じです。切ってみるまでわかりません。表面的には同じように見えても、切ってみるまではそれがどのようなものなのかわからないのです。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、あたかもそれが正しい教えであるかのように見せかけますが、中身は自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招くようなことをするのです。だから、そうした偽りの教えに騙されることがないように注意し、いつも本物に触れていることが大切です。聖書をよく学び、聖書の正しい教えを持っていることが必要なのです。

 

偽教師を見分ける第二の方法は、それを教える者がどういう者であるかをよく見ることです。2節をご覧ください。ここには、「そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道からそしりを受けるのです。」とあります。どういうことでしょうか。何が正しい教えであり、何が間違った教えなのかを見分けることは困難ですが、それでも、それを見分ける方法があるというのです。それは何でしょうか?それを教えている者がどういう者であるかをよく見ることです。ここには、「多くの者が彼らの好色にならい」とあります。どんなに正しい教えをしているようでも、それを教えている人が道徳的に堕落しているとしたら、それは偽物だと判断することができます。

 

イエス様は、マタイ12:33~35でこう言われました。

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木のよしあしはその実によって知られるからです。まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

木の善し悪しは、その実によって知られます。もし木がよければよい実を結びますが、悪ければ悪い実を結びます。どんなに正しいことを言っていても、もし悪い実を結んでいるのであれば、それは悪い木であると判断することができるのです。

 

パウロは、エペソ4:19で、「道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行いをむさぼるようになっています。」と言っています。それは神のいのちから遠く離れているため、道徳的に無感覚となっているからです。であれば、結果的に、そのような者から出てくる行いも肉的なものとなります。

 

ペテロは、第一の手紙の中で、「あなたがたは、異邦人がしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像崇拝にふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(Ⅰペテロ4:3)と言っています。もう十分なのです。それは神を知らない人たちがふけっていたものであって、神を知った今、キリストによって罪が贖われた人には、そのような行いは必要ありません。もう十分なのです。イエス・キリストを信じて新しい者にされたのですから、そういう人は、昼間らしい、正しい生き方をしようと努めるのです。

 

それなのに、こうした生活を続け、彼らの好色にならうなら、真理の道がそしられることになります。どういうことでしょうか?それは、不信者から、「だからキリスト教は変なんだよな」とか「そこが違うよ、キリスト教!」と言われるようになるということです。つまり、全く証になりません。そして、人々が真理から離れて行ってしまうことになるのです。ここには「多くの者が」とあります。怖いですね、多くの者がそのようになるのです。そういえばイエス様もそのように言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

そこから入って行く者が多いのです。そことはどこですか?広い門です。滅びの門です。そこから入って行く者が多いのです。しかし、いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。そこから入って行かないように注意しましょう。

 

偽教師の特徴の第三は、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にするということです。3節の前半をご覧ください。

「また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。」

彼らは貪欲です。貪欲であるとは、今持っているもので満足できず、もっと欲しいとむさぼるということです。

 

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろい結果が出ました。調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もっとほしい」と回答したのです。人間の欲望は止まるところを知らないということです。どんなに持っていても、「もう少しほしい」という思いがあるのです。

 

これは生まれながらの人間の性質です。生まれながらの人間はどんなに物があっても満足することができません。もっと欲しいとむさぼるのです。特にお金や持ち物に対して貪欲です。だから聖書はこう言っているのです。

「衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分たちを刺し通しました。」(Ⅰテモテ6:8-10)

 

金銭自体が問題なのではありません。金銭を愛することが問題なのです。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。これは、働き人が報酬を受けることを言っているのではありません。働き人が報酬を受けるのは当然だと、聖書にはっきり教えられています(Ⅰテモテ5:17-18)。ここで言われていることはお金そのものが目的となることであり、貪欲であることです。そしてそのために作り事のことばをもって人々を食い物にすることです。彼らはお金集めを目的として人々が聞きたいことだけを語るのです。

 

「作り事のことば」とは、インチキであるということです。だれかれかまわず、このようなインチキに引っかからせようとしてやって来ます。「食い物にします」の原語の意味は、「商品として売り買いする」です。ですから、ここにも贖いという概念が含まれているのです。このインチキに引っかかると、私たちの罪がせっかく贖われたのに食い物にされてしまいますから、そういうことがないようによくよく注意し、見極めるようにしなければなりません。

 

Ⅲ.偽教師たちへのさばき(3b)

 

それでは、こうした預言者はどのようになるのでしょうか。第三に、その結果です。3節後半をご覧ください。

「彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」

 

偽教師は、今は繁栄しているように見えても必ず滅びに至り、さばかれることになります。どのようにさばかれるのでしょうか。ペテロはここで、昔行われたいくつかの例をあげて説明しています。

一つ目の例は、罪を犯した御使いたちに対するさばきです。4節をご覧ください。

「神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。」

これは天使たちの堕落と、彼に対するさばきです。イザヤ書14:12~15には、堕落した天使に対する神のさばきが次のようにあります。

「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」

これが悪の起源とされています。いったい悪魔はどこから来たのでしょうか。神が造られたものはすべて良いものばかりだったのであれば、いったいどこから悪が来たのでしようか。ここです。この「明けの明星」とはヘブル語で「ヘーレル」、ラテン語で「ルシファー」です。意味は「輝く者」です。ですから、この明けの明星とは輝く天使でした。天使たちの最高位に位置していた天使長、それがルシファーです。このルシファーが堕落しました。心の中で、「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」と言って神に反逆したのです。それで神は彼をよみに落とし、穴の底に落としました。それが悪魔、サタンとなったのです。神さまが造られたものはすべて良かったのですが、神は天使を人間と同じように自由意志を持つものとして造られました。そして、ルシファーは何を血迷ったのか天に上り、いと高き方のようになろうと高ぶってしまいました。それで神はこの天使をさばき、よみに落とされたのです。どんなに輝いていても、どんなに繁栄していても、神に背く者は、このようにさばかれるのです。

 

二つ目の例は、ノアの時代の不敬虔な世界に対するさばきです。5節をご覧ください。ここには、「また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。」とあります。

ノアの時代、人々の心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められました。そして、人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまですべて、地の面から消し去ろうと言われました。40日40夜雨を降らせ、不敬虔な世界を洪水で滅ぼされたのです。しかし、神とともに歩んだノアとその家族を保護し、箱舟によって救われました。ノアは人々に、もうすぐ洪水が来るから、あなたがたも悔い改めて箱舟の中に入りなさいと警告しましたが、その言葉を受け入れる人はだれもいませんでした。結局、ノアとその家族以外はすべて神に滅ぼされてしまいました。

 

三つ目の例は、ソドムとゴモラに対する神のさばきです。6節から9節までをご覧ください。

「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。」

ソドムとゴモラは、アブラハムの甥のロトが住んでいた町です。そこは主の園のように潤っていたので、ロトはアブラハムと別れて住むようになった時その地に住むことを選択しました。しかし、そこに住んでいたの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人でした。ここに「無節操な者たちの好色なふるまい」とありますが、いわゆるホモセクシュアル、同性愛が堂々と行なわれていたのです。ロトの家に来た二人の御使いに対して、その町の住人は、「彼らをよく知りたいのだ」とロトに詰め寄りました。神はそうしたソドムとゴモラを火と硫黄で滅ぼし、それ以後の不敬虔な者たちへのみせしめとされたのです。

 

しかし、ロトはというと、そうした神のさばきから救われました。なぜなら、ここに「義人ロト」とあるように、彼はそうしたソドムの近くに住みながらも、心が神から離れなかったからです。というのは、ロトは彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見たり聞いたりしても、それに流されることなく、日々その正しい心を痛めていたからです。

 

私たちも今、ある意味でソドムのような町に住んでいます。しかし、そうした不法な行いを見たり、聞いたりして、日々心を痛め、神から離れることがなければ、ロトのように神のさばきから救い出されます。なぜなら、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです。そして、そのために神はご自身のひとり子を与えてくださいました。それが救い主イエス・キリストです。この方によって救われるようにと、神は救いの道を用意してくださいました。それが十字架の贖いでした。そこには大きな犠牲が伴いましたが神はそれほどまでに私たちを愛してくださり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。これほど大きな恵みが他にあるでしょうか。ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように注意すべきです。もしそのようにして滅びに向かわせることがあったら、神はきびしくさばかれるのです。

 

偽預言者が出ることは避けられません。でも、惑わされないように注意しなければなりません。偽預言者たち、偽教師たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとします。彼らはひそかに異端を持ち込むのでなかなか見分けができないのです。しかし、彼らの最後は滅びです。彼らはいのちに導くのではなく、滅びをもたらします。だから、気をつけてください。あなたがたの中にも偽教師が現われます。世の終わりが近くなると、ますますこうした傾向が強くなります。ですから、惑わされないように注意しましょう。彼らが言っていることをよく聞いてください。彼らは、神は言っていると言いながら、自分の考えを言っていませんか。自分のことを言い当てることに不思議な力を感じていませんか。貪欲に、作り事のことばをもって、あなたを食い物にしていませんか。惑わされないようにしましょう。真理のみことばである聖書に堅くたって、動かされないようにしましょう。この真理のみことばが、あなたを救いへと導いてくれるからです。

 

 

 

 

ヨシュア記19章

きょうはヨシュア記19章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.シメオン部族の相続地(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。彼らの相続地は、ベエル・シェバ、シェバ、モラダ、ハツァル・シュアル、バラ、エツェム、エルトラデ、ベトル、ホルマ、ツィケラグ、ベテ・マルカボテ、ハツァル・スサ、ベテ・レバオテ、シャルヘンで、十三の町と、それらに属する村々。アイン、リモン、エテル、アシャン。四つの町と、それらに属する村々。および、これらの町々の周囲にあって、バアラテ・ベエル、南のラマまでのすべての村々であった。これがシメオン部族の諸氏族の相続地であった。シメオン族の相続地は、ユダ族の割り当て地から取られた。それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」

 

まだ自分たちの相続地が割り当てられていなかった七つの部族に対してヨシュアは、「あなたがたはいつまで先延ばしているのか。」(18:3)と叱咤激励し、彼らが具体的な行動を起こすことができるように部族ごとに三人の者を選び出し、その地を行き巡るように彼らを送り出し、具体的に相続地のことを書き記させることによってその重い腰を起こさせ、行動へと駆り立てました。何よりも彼らには全能の神がともにおられました。そのことを思い起こさせるためにそれまでギルガルにあった会見の天幕をカナンの地の真ん中、シロに移しました。そして、その最初のくじがベニヤミン族に当たり、その割り当て地が彼らに与えられました。

 

この19章には残りの六つの部族に対する相続地が割り当てについて記されてあります。まずシメオン部族に対する相続地の分配です。シメオン族に対する相続地の分配で特筆すべきことは、彼らの相続地はユダ族の割り当て地から取られたということです。いわばユダ族から借用したかのような形で割り当てられたのです。9節にはその理由がこのように記されてあります。「それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎたので、シメオン族は彼らの相続地の中に割り当て地を持ったのである。」どういうことでしょうか。ユダ族には広すぎたのでシメオン族には借地しか与えられなかったというのは理解ができません。

 

二つのことが考えられます。一つは、シメオン族は相続地が与えられても、それを勝ち取っていくだけの気力というか、気概がなかったのではないかということです。以前にも述べたように、イスラエルの各部族は相続地が与えられたとは言っても、その地には先住民がいたわけですから、それを自分たちの領土にするためにはそうした先住民と戦い、勝ち取らなければなりませんでした。けれども、シメオン族は臆病であったがためにそのような戦いを回避したので、結局、ユダ族の領土を間借りするようなことになってしまったのではないかということです。

 

もう一つのことは、シメオン族は極めて激情的な性格であったがゆえに神の祝福に与ることができず、それ故に領土も与えられなかったということです。

シメオン族の始祖シメオンについては、創世記34章にある一つの出来事が記されてあります。それは妹ディナがその土地の族長ヒビ人ハモルの子シェケムに汚された時、シェケムだけでなく、その一族郎党全員を虐殺したという出来事です。ヒビ人たちはディナに行った行為を大変後悔し、自分たちはシメオンと同じヤハウェの神を信じてもよいと申し出たにもかかわらず、彼らが割礼を受けてその傷が痛んでいるとき、レビと一緒に剣ですべての男子を殺しました。彼らは妹ディナを遊女のように扱ったヒビ人を決して赦すことができなかったのです。

 

その出来事は後々までも尾を引き、創世記49:5~7には、ヤコブはシメオンの将来について次のように預言しました。

「シメオンとレビとは兄弟、彼らの剣は暴虐の道具。わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。わが心よ。彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りにまかせて人を殺し、ほしいままに牛の足の筋を切ったから。のろわれよ。彼らの激しい怒りと、彼らのはなはだしい憤りとは。私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」

これはヤコブの預言的遺言ですが、これによるとシメオンとレビはその激しい性格のゆえに呪われるということでした。しかしレビ族は、やがてイスラエルの民が金の子牛を作って礼拝するという罪を犯したとき、兄弟に逆らっても主に身をささげたことで、その呪いから外されることになります。(出エジプト32:25-29)しかしシメオン族は、あのヤコブの預言のごとく呪われていくことになるのです。怒りや憤りを抑えることができないと、災いや呪いをもたらすことになるのです。

 

詩篇37:8-9には、「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。」とあります。

またヤコブ書1:19-20にも、「愛する兄弟たち。 あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るには おそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものでは ありません。」とあります。

人の怒りは、神の義を実現するものではありません。それは大きな損失をもたらすことになります。ですから、私たちはキリストの十字架の道を思い起こし、聖霊の助けをいただいて、怒りを制御することを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.ゼブルン部族への相続地(10-16)

 

次に10節から16節までをご覧ください。

「第三番目のくじは、ゼブルン族の諸氏族のために引かれた。彼らの相続地となる地域はサリデに及び、その境界線は、西のほう、マルアラに上り、ダベシェテに達し、ヨクネアムの東にある川に達した。また、サリデのほう、東のほう日の上る方に戻り、キスロテ・タボルの地境に至り、ダベラテに出て、ヤフィアに上る。そこから東のほう、ガテ・ヘフェルとエテ・カツィンに進み、ネアのほうに折れてリモンに出る。その境界線は、そこを北のほう、ハナトンに回り、その終わりはエフタ・エルの谷であった。そしてカタテ、ナハラル、シムロン、イデアラ、ベツレヘムなど十二の町と、それらに属する村々であった。これは、ゼブルン族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ここにはゼブルン族への相続地について記されてあります。ゼブルン族が獲得した地域は、巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、マナセ族の北にありますが、彼らの獲得した地域は小さいながらも、ほぼ長方形をした肥沃な地でした。

ヤコブの預言的遺言では、「ゼブルンは海辺に住み、その側面はシドンにまで至る。」(創世記49:13)とありますが、実際に海辺に住んだのはアシェルであり、その側面もツロを越えることはありませんでした。神のみこころにかなう祈りのみが聞かれるということなのでしょうか。

 

このゼプルンについて、後にイザヤは、「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンとナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」(イザヤ9:1)と預言しました。ここにはナザレという村があり、やがて救い主イエス・キリストが公に姿を現わされるまで、ここで成長していくことになります。そういう意味で、このゼブルンとナフタリの地は光栄を受けることになるのです。

 

「ゼブルン」は「ザーバル」というヘブル語に由来しますが、意味は「進む」です。それは彼らの性格をよく表していました。士師4章には、イスラエルがカナンの将軍ヤビンの将軍シセラとの天下分け目の戦いについて記されてありますが、この戦いにおいて極めて勇猛果敢に戦ったのがゼブルン族でした。イスラエル12部族の内の半分はこの戦いは勝ち目がないと思ったのか、兵を出しませんでしたが、残りの半分が兵を出し、その中でもこのゼブルン族の兵士は、死を恐れず、命を捨てて戦いました。このようにゼブルン族は極めて前向きで積極的な勇気ある部族だったのです。

 

これは私たちの人生にとっても大切なことです。生まれながらの人間は、そのまま放っておけば必然的に後ろ向きになり、否定的になっていきます。それほどに、私たちの周りには否定的で悲観的な事柄であふれているからです。新聞を読んでも、テレビを観ても、また周囲の人々が語る言葉を聞いても、積極的な言葉や前向きなことばよりも、否定的で後ろ向きな言葉で満ちています。ですから、そのままでいれば、自然に否定的になっていかざるを得ません。

 

しかし、神は私たちを罪から贖ってくださいました。私たちも「ゼブルン」のように、前に進んで行けるように、神が根本的な問題を取り除いてくださいました。異邦人のガリラヤも光栄を受けたのです。ですから私たちもゼブルンのように、信仰によって前に進んでいく者でなければなりません。

 

Ⅲ.イッサカル族への相続地(17-23)

 

次はイッサカル族への相続地です。17節から23節までをご覧ください。

「第四番目のくじは、イッサカル、すなわちイッサカル族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、イズレエル、ケスロテ、シュネム、ハファライム、シオン、アナハラテ、ラビテ、キシュヨン、エベツ、レメテ、エン・ガニム、エン・ハダ、ベテ・パツェツ。その境界線は、タボルに達し、それからシャハツィマと、ベテ・シェメシュに向かい、その境界線の終わりはヨルダン川であった。十六の町と、それらに属する村々であった。これが、イッサカル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

次はイッサカル族への相続地です。彼らに与えられた相続地は狭くはありましたが、ガリラヤ湖の南西部に位置するイズレエル平原と呼ばれる大きな平原の東部にありました。創世記49:14のヤコブの預言には、「イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す」(創世記49:14)とあります。この「二つの鞍袋」とは何かは難解なことばとされてきましたが、これが土地の相続についての預言だとすれば、イッサカルがマナセの二つの相続地に挟まれるような形で、この地を相続地として得るという預言だったのではないかと思われます。

 

この地は、古来重要な戦いの拠点でした。また、エジプトからレバノンに抜ける通商道路が通っていた重要な貿易の拠点でもありました。それゆえ、この地は狭くはあっても戦略的に見るならば極めて重要な場所であったと言えます。イッサカル族はこの領地を得たのです。それはイッサカル族が極めて謙遜であり、柔和であり、しかも忠実な部族であったからです。たとえば、それはイッサカル族の弟分にあたるゼブルンに対する態度を見てもわかります。ゼブルンは弟であるにもかかわらず、イッサカルに優先して相続地の割り当てを受けましたが、イッサカルはそのことで怒ったりせず、その優先権を弟に渡しました。なぜなら、ゼブルンの性格を知っていたからです。ゼブルンは前向きで積極的であり、リーダーへシップがあることを認めたのです。しかも、そのことですねたりせずに、弟ゼブルンを愛し、互いの共通の聖所を自分の領土のタボル山に建てました。こうした彼らの冷静で、慎重で、柔和で、謙遜、そして忠実さのゆえに、こうした重要な地を受けることになったのです。

 

「イッサカル」ということばは、「神が恵みを示してくださるように」という意味です。霊性で、慎重で、謙遜で、忠実なところに、神は恵みを施してくださいます。私たちもこのイッサカル族のような者でありたいと願わされます。

 

Ⅳ.アシェル族への相続地(24-31)

 

次は、アシェル族への相続地です。24節から31節までをご覧ください。

「第五番目のくじは、アシェル部族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘルカテ、ハリ、ベテン、アクシャフ、アラメレク、アムアデ、ミシュアルで、西のほう、カルメルとシホル・リブナテに達する。また、日の上る方、ベテ・ダゴンに戻り、ゼブルンに達し、北のほう、エフタ・エルの谷、ベテ・ハエメク、ネイエルを経て、左のほう、カブルに出て、エブロン、レホブ、ハモン、カナを経て、大シドンに至る。その境界線は、ラマのほうに戻り、城壁のある町ツロに至る。またその境界線は、ホサのほうに戻り、その終わりは海であった。それに、マハレブ、アクジブ、アコ、アフェク、レホブなど、二十二の町と、それらに属する村々であった。これがアシェル部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

「アシェル」という名前の意味は、「幸い」です。そのことばのごとく、彼の始祖が父ヤコブから受けた遺言的預言では、「アシェルは、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作りだす。」(創世記49:20)とあります。また、神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばには、「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」(申命記33:24-25)とあります。その預言のとおり、彼らは、イスラエルの北部に位置する地中海沿岸の平野で、極めて肥えた良い土地が与えられました。

 

しかし、士師記を見ると、必ずしもそうではなかったことがわかります。彼らは地中海沿岸沿いの平野部どころか、むしろ山間部に閉じ込められ、カナン人の圧迫に悩まされ続けながら、やがては歴史の中へ消えていくことになりました。なぜでしょうか。それは彼らの姿勢にありました。士師5:17を見ると、「アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。」とあります。すなわち、イスラエルとカナン人の連合軍の天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度でその兵を動かさなかったのです。あんなにすばらしい約束が与えられていたのに、その約束に対して力の限り応答せず優柔不断な態度であったため、その約束を受けることができなかったのです。

 

それは私たちにも言えることです。神は私たちに「幸い」を約束してくださいました。それなのに、主が成せと命じられたことに対して全力で応答していくのでなければ、それは成就することはないのです。

 

Ⅴ.ナフタリ族への相続地(32-39)

 

次にナフタリ族への相続地を観たいと思います。32節から39節までをご覧ください。

「第六番目のくじは、ナフタリ人、すなわちナフタリ族の諸氏族に当たった。彼らの地域は、ヘレフとツァアナニムの樫の木のところから、アダミ・ハネケブ、ヤブネエルを経てラクムまでで、終わりはヨルダン川であった。その境界線は、西のほう、アズノテ・タボルに戻り、そこからフコクに出る。南はゼブルンに達し、西はアシェルに達し、日の上る方はヨルダン川に達する。その城壁のある町々は、ツィディム、ツェル、ハマテ、ラカテ、キネレテ、アダマ、ラマ、ハツォル、ケデシュ、エデレイ、エン・ハツォル、イルオン、ミグダル・エル、ホレム、ベテ・アナテ、ベテ・シェメシュなど十九の町と、それらに属する村々であった。これが、ナフタリ部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ナフタリ族はガリラヤ湖の南西の平野部が与えられました。その地は豊かに越えたと地でした。それはヤコブとモーセに与えられた預言の成就でもありました。創世記49:21には、「ナフタリは放たれた雌鹿で、美しく子鹿を産む。」とあります。この「美しく子鹿を産む」ということばは、欄外の注釈にもあるように、「美しいことばを出す」という意味です。どういう意味でしょうか。それは将来メシヤがこの地から出て美しいことばを出すということの預言でもありました。事実、そのことばのとおり主イエスはこのナフタリの地から宣教の第一歩を踏み出されました。マタイ4:12-17をご覧ください。

「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。 暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」」

主イエスの宣教は、このナフタリとゼブルンの間にあったカペナウムから開始されました。ここから美しいことば、神の国の福音が宣教されたのです。

 

さらに申命記33:21には、「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」とあります。ずばりナフタリの領土の豊かさが預言されていました。このようにモーセが語り、ヤコブが語ったごとく、ナフタリは極めて豊かで肥沃な土地を手にすることができました。しかしながら、やがてこのナフタリ族は多くの多民族からの侵略を受け、その影響の中で混合民族を形成していくことになります。そして、遂には「異邦人のガリラヤ」と他のユダヤ人から蔑視され、歴史の中からその姿を消していくことになるのです。

 

いったいなぜそのようになってしまったのでしょうか。士師1:33に、その理由が記されています。「ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。」すなわち、ナフタリ族は追い出すべきカナン人を追い出さなかったからです。「ナフタリ」ということばは、「争い」という意味です。彼らは戦いを大変好んでいた民族です。それなのに追い出しませんでした。それは、異教や偶像崇拝に対して曖昧な態度をとったからです。モーセの命令はカナン人を追い出すことでした。それはイスラエルの民が他の民族に対して、差別的で冷酷であったからではありません。それはイスラエル民が偶像と交わることから守られるためです。それなのに彼らは偶像に対して曖昧な態度をとることで、その命令を守られなかったのです。それゆえに、ここにあるようなナフタリの曖昧な態度は、信仰的には極めて悪いものでした。その結果、彼らは折角与えられた神の祝福を喪失し、滅びていくことになったのです。

 

私たちはこのナフタリがたどった運命を他山の石としなければなりません。特に、私たち日本のクリスチャンはナフタリを反面教師にすべきです。クリスチャンは他者に対して、寛容であることが望ましく、それは大切なことです。むやみに他者の弱さや罪を暴き立て、裁くようなことがあってはなりません。しかし、時としてこうした神の命令には曖昧な態度を捨て、毅然とした態度で臨まなければなれません。こうした曖昧な態度がもたらす弊害は、私たちが考えていること以上に大きなものがあるからです。

 

Ⅵ.ダン族への相続(40-48)

 

最後に、ダン族への相続地です。40節から48節までをご覧ください。

「第七番目のくじは、ダン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地となる地域は、ツォルア、エシュタオル、イル・シェメシュ、シャアラビン、アヤロン、イテラ、エロン、ティムナ、エクロン、エルテケ、ギベトン、バアラテ、エフデ、ベネ・ベラク、ガテ・リモン、メ・ハヤルコン、ラコン、およびヤフォの近くの地境であった。ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。これがダン部族の諸氏族の相続地で、その町々と、それらに属する村々であった。」

 

ダン族にはパレスチナ中部にある地中海沿岸の土地が与えられました。しかしそれだけでなく、47節を見ると、彼らは上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ、とあります。与えられた地が狭かったので、さらに領土を広げるためにそこから北上し、パレスチナの最北端、ガリラヤ湖の北に当たる地を責めて、その所を勝ち取ったのです。最初は小さな領域でしたが、積極的に領地を広げようと前進して行ったのです。この記録から、ダン族というのは、実に積極的な部族であったことがわかります。創世記49章のヤコブの預言や、申命記33章のモーセの預言でも、ダン族が積極的な民であることが言及されています。

 

しかし、士師記5:17のデボラの歌を見ると、必ずしもそうでなかったことがわかります。そこには、「なぜダンは舟にとどまったのか」とあります。つまり、彼らは戦いに出て行かなかったのです。カナン人の連合軍との天下分け目の戦いにおいて、日和見的な態度をとったのです。とすると、ここに記されてあるダン族の勇敢な姿はどういうことなのでしょうか。

 

ここには、ダン族が上って行ったのは、さらに領土を広げるためであったかのように書かれてありますが、必ずしもそうではありませんでした。確かに彼らに与えられたのはパレスチナ中部の地中海沿岸の狭い土地でしたが、そこには強力なペリシテ人が住んでいたのです。そのためペリシテ人に圧迫されたダン族は、仕方なく北へ逃走し、誰も行こうとしないパレスチナの北の果てに住むようになったのです。そのことは士師記1:34を見るとわかります。そこには、「エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。」とあります。何とダン族は勇敢な民どころか、狭い自分の土地さえも守ることができませんでした。そして終われに追われて、遂にはパレスチナの最北端にまで逃れて行ったのです。そればかりか、彼らはパレスチナにはびこっていた偶像崇拝に陥り、堕落して、黙示録7章にある終末の回復のリストからも外されていったのです。いったいこれはどういうことでしょうか。片や勇猛果敢な姿が描かれ、片や弱くて臆病な姿が描かれているのです。どちらが本当のダンの姿なのでしょうか。どちらも本当のダン族の姿でした。

 

このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。ある時には信仰が強められ、自分でも信じられないくらい神の力に満ち溢れたかと思うと、次の瞬間には周りの状況をなかなか受け入れられず、極端に弱くなってしまうことがあります。あの神の預言者エリヤでさえ、バアルとアシェラの預言者と戦い神の圧倒的な力によって勝利したかと思ったら、次の瞬間にはイゼベルのことばに恐れ、「神さま、どうか私のいのちを取ってください。」というほど弱くなりました。そうした二面性が、私たちの中にあります。だったら、いつも信仰によって勇敢であるにはどうしたらいいのでしょうか。

 

それは神とともに歩むことです。いつも聖霊に満たされて、神の力を頂くことです。あのサムソンはどうでしたか。彼の力の源は長く伸びた髪の毛でした。ナジル人として生まれた彼は、生涯、頭にかみそりをあてませんでした。それは神の霊が彼とともにおられることを表していました。しかし、デリラによってその秘密を洩らすと彼の髪の毛はさっと切り落とされ、神の力が彼から去って行きました。

 

それは私たちも同じです。私たちがいつも神の力によって勇敢に前進していくためには、神の聖霊に満たされていなければなりません。神の命令を守り、神のみこころに歩むとき、神はご自身の聖霊で満たしてくださいます。私たちはダン族のように時として弱くなってしまう器であるということをわきまえて、いつも聖霊に満たされることを求めていきたいと思います。

 

Ⅶ.ヨシュアが求めた町(49-51)

 

最後に49節から51節までを見て終わりたいと思います。

「この地について地域ごとに、相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼らの間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。彼らは主の命令により、ヨシュアが求めた町、すなわちエフライムの山地にあるティムナテ・セラフを彼に与えた。彼はその町を建てて、そこに住んだ。これらは、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、およびイスラエル人の部族の一族のかしらたちが、シロにおいて会見の天幕の入口、主の前で、くじによって割り当てた相続地であった。こうして彼らは、この地の割り当てを終わった。」

 

ここには、イスラエルの全部族に対する割り当てが終わってからのことが記されてあります。各部族への割り当てが終わったとき、イスラエルの民はヨシュアに対して、どの町でも自分の好きな街を一つとるようにと言いました。それは、ヨシュアのこれまでの指導者としての功労に感謝を表すためです。イスラエルの民はその犠牲と功績の大きさを決して忘れることなく、これに最大限に報いようとしたのです。

 

それに対してヨシュアは、どんな土地を求めたでしょうか。ここには、エフライムの山地にあるティムナテ・セラフを求めたとあります。このティムナテ・セラフとは「太陽の部分」という意味で、太陽礼拝、すなわち偶像崇拝が盛んにおこなわれていたところです。いったいなぜ彼はそんなところを求めたのでしょうか。

 

ここにヨシュアの開拓者精神を観ます。この時彼は80歳を超えていました。年齢から行っても功績から言っても、もう隠居してもいい年であったはずです。それなのに彼はそのようにはせず、新しい挑戦を開始しようとしたのです。あえて困難な道を選んで、新しい第三の人生をスタートさせたのです。

 

私たち人間は老いていくと段々からだが弱り思考力も鈍くなるので、周囲もあまり期待しなくなります。そこでつい後ろ向きになり、消極的になりがちですが、また過去を振り返り、それで満足しがちですが、そうではなく、いつでも開拓者の精神をもって進んでいきたいものです。特にこの日本ではまだまだ獲得していない地がたくさんあります。そうした地を獲得していくためには、むしろ、人生のある程度のことを成し終えた老人のパワーが求められるのではないでしょうか。それは私たちには死を越えた永遠のいのちが与えられたという根源的な希望が与えられているからです。

Ⅱペテロ1章16~21節 「さらに確かな預言のみことば」

前回は、1章12節から15節までの箇所から、「いつも思い起こして」というタイトルでお話ししました。覚えていらっしゃいますか。私たちは、聞いてもすぐに忘れてしまいます。今聞いたかと思ったら、すぐにどこかへ飛んで行ってしまいます。昔、「とんで、とんで、とんで・・」という歌がありましたが、ほんとうにどこかに飛んで行ってしまいます。だから、いつも思い起こして、神の恵みにとどまるようにと励まして、奮い立たせることが、自分に与えられた努め、使命だと、ペテロは語ったのです。

 

きょうの箇所は、その続きです。タイトルは、「さらに確かな預言のみことば」です。ペテロはなぜこんなことを言っているのでしょうか。なぜなら、彼の話というのはうまく考え出した作り話ではなく、実際にそれを目撃した体験者であるからです。体験者は語るのです。

 

Ⅰ.キリストの威光の目撃者(16-18)

 

まず16節から18節までをご覧ください。

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」

 

どういうことでしょうか?「私たちは」とは、ペテロをはじめとしたキリストの弟子たちのことです。正確に言えば、変貌山でキリストの御姿が変わったのを見たペテロとヤコブとヨハネのことです。ここに、「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」とあるからです。

 

「主イエス・キリストの力と来臨」とは、キリストの再臨のことです。ペテロは第一の手紙で、キリストが再臨することを繰り返し教えました。たとえば、1:7や1:13、2:12、4:7、5:4等です。特に1:13では、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」と勧めています。「イエス・キリストの現われ」とは、イエス・キリストの再臨のことです。その再臨に備えて、心を引き締め、身を慎むようにと勧めたのです。

また4:7でも、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」とあります。「万物の終わり」とはキリストの再臨の時を指します。キリストの再臨に備えて、心を整え、身を慎むようにと勧めました。

 

それは何もペテロが考え出した作り話ではありません。それは主イエスご自身も教えられたことですが、正しいことです。真実な教えです。なぜそれが真実だと言えるのでしょうか。なぜなら、ペテロはそのキリストの威光の目撃者だからです。キリストの神としての栄光を目撃した者だからです。

 

ちょっと待ってください。キリストの神としての栄光の目撃者だとは言っても、それはまだ起きていないことではないのですか?それは世の終わりに起こることであって、ペテロは実際には見ていないはずです。それなのに、どうして彼は、自分たちがキリストの威光の目撃者だと言っているのでしょうか。はい、確かにキリストの再臨は見ていません。しかし、キリストが再臨させる時のご威光は見ました。どこで?あの高い山で、です。あの山はヘルモン山だと言われていますが、その山にイエス様に上った時、目の当たりにしたのです。ヤコブとヨハネも一緒でした。私だけではありません。彼らも一緒でした。そこでイエス様の御姿が変わったのです。その顔は太陽のように輝き、まぶしくて、見ることができないほどでした。そして着ていた御衣は光のように白く輝きました。それは世のさらし屋、クリーニング屋ではとてもできないほどの白さでした。それは何を表していたのかというと、キリストの神としての栄光の輝きでした。ですから、自分たちは実際にキリストの再臨を見てはいませんが、キリストが再臨される時の栄光を見たのです。だから、キリストが再臨するというのは本当のことなのです。それを見たんですから・・。

 

それだけではありません。天から父なる神の御声を聞きました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」ペテロはその御声を自分の耳で聞いたのです。人から聞いたのではありません。自分で聞いたのです。それはペテロだけではありません。ヤコブもヨハネも一緒です。「私」ではなく、「私たち」です。私だけ見たり、聞いたりしたというのであれば気が狂ったと言われてもしょうがないですが、私だけではありません。ヤコブとヨハネも一緒に目撃し、一緒に聞きました。ということはどういうことかいうと、それは事実であるということです。

 

ここでペテロは何を言いたいのでしょうか。当時教会の中にはにせ預言者たちが忍び込んでいました。そして、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでは人々を惑わしていましたが、彼らはペテロの教えを聞いたとき、「そんなの関係ない」と言ったのです。「ありっこない。嘘だ」と否定したのです。「キリストが再臨するなんてありえない、そんなのはペテロがうまく考え出した作り話だ」と非難したのです。ですからペテロはそれが真実であるということを証明するために、これが本当の話であるということを、自分たちが実際に敬虔した事実として語っているのです。

 

しかし、キリストの再臨はこれから後に起こることであって、だれも経験したことがない話です。それなのに、これが真実な教えだということをどうやって証明することができるのでしょうか。確かにキリストが再臨するのをだれも見たことがありません。でもその再臨の主の栄光を前もって見たというのであれば話は別です。キリストの再臨はこれからまだ先のことであり、だれも見たことがありませんが、その再臨の姿を前もって見ることができたとしたら、間違いなくキリストは再び来られるということになるのではないでしょうか。ですから、このヘルモン山でのキリストの威光を目撃したということは、キリストが再び来られることの威光を目撃したということと同じことなのです。

 

それはイエス様が言われたことです。マタイ16:27,28節をご覧ください。ここには、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」とあります。

これはイエス様が語られたことですが、イエス様は、父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来るとき、おのおのその行いに応じて報いをなさいますが、ここに立っている人々の中には、イエス様が再臨するまで、決して死を味わわない人々がいる、というのです。どういうことですか?それまで死を味わわない人がいるわけがありません。それは世の終わりのことなのですから・・・。

 

それは、このヘルモン山での出来事を指して言われたのです。つまり、ヘルモン山でのキリストのご威光は、再臨の主イエスのご威光だったのです。マタイ17:1には、「それから六日たって」とありますが、この出来事はイエスが言われたことの証明であり、やがて来られるキリストの御姿だったのです。ですから、キリストはまだ再臨していなくとも、あの山上でその御姿を目撃したということは、あの父なる神の御声を聞いたということは、まさに、キリストの再臨を目撃したということと同じことなのです。そのように考えると、16:28のイエス様の言われたことばの意味が分かってきます。このあとペテロとヨハネとヤコブの三人は、イエス様といっしょに高い山に登って行き、それを体験しました。人の子が御国とともに来るのを見たのです。それまでは死を味わうことはありません。彼らは死ぬ前に、キリストが再び来られるのを見たのです。

 

ペテロがこの手紙の中で言いたかったのはこのことだったのです。彼はキリストが再臨することを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話なのではなく、彼が実際に見て、実際に聞いて体験したことでした。彼らは聖なる山で、主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 

皆さん、聖書は作り話とかでっち上げのようなものではなく、実際に体験した者たちの証言がまとめられたものです。ペテロはキリストの威光の目撃者としてこの手紙を書いたのです。ですから、彼の証言は真実で確かなものです。私たちは今、実際に見たり聞いたりすることはできませんが、神はこのように実際にキリストの威光を目撃した人たちを通してご自身を啓示してくださいました。このような人たちは「使徒」と呼ばれています。使徒とは、イエス・キリストの復活の証人であり、また主イエスと生前ともにいた人たちです。彼らが実際に見て、聞いて、触れて、体験したことが証言としてまとめたもの、それが、私たちが今手にしている聖書です。特に彼らは、十字架と復活の御業を実際に目撃して書いたのです。

 

使徒ヨハネはこのことを次のように証言しています。

「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現われた永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ1:1-2)

ヨハネは、このいのちは、初めからあったものであり、目で見たものであり、じっと見て、また手でさわったものだと言っています。彼はそれを見たので、その証をし、この永遠のいのちについて私たちに伝えているのです。

 

ですから、聖書は実際にあったことです。間違いのない真理なのです。私たちに必要なのは、この神の啓示の書である聖書に聞くことです。私たちは聞いたので知ることができました。そして知ったので信じることができました。さらに深く主イエスを知るためにはどうしたらいいのでしょうか。この神のことばである聖書をよく知ることです。ここから離れては神を知ることはできません。私たちは彼らが実際に見たり聞いたりしたことを通して、さらにもっと深く、もっと正しく主イエスを知ることができるのです。

 

皆さんは何を見ていますか。何を聞いておられますか。偽りの教えを聞いてはいけません。それは聞こえがいいかもしれませんが、あなたを滅びと恐怖に陥れるだけのわなです。私たちが見なければならないのは、私たちが聞かなければならないのは、この神のことばです。私たちがどう思うかではなく、実際にキリストのことばを聞き、キリストの栄光を目撃したキリストの弟子たちが語った証言、聖書のことばなのです。

 

Ⅱ.さらに確かな預言のみことば(19)

 

次に19節をご覧ください。

「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」

 

ペテロはここで、驚くべきことを言っています。それは、「さらに確かな預言のみことばを持っている」ということです。ペテロは超自然的なすばらしい体験をしました。キリストの神としての栄光を目撃しました。さらに天から父なる神の御声を聞きました。それはうまく考え出した作り話ではなく、彼が自分の目で見、自分の耳で聞いたことです。彼だけでなく、他の弟子たちも一緒に目撃しました。ですから、彼らの証言は真実で確かなものです。しかしペテロはここで、それよりもさらに確かなものを持っているというのです。普通は、自分が目撃したことほど確かなものはありません。裁判においても証人の証言が有効であるように、ペテロの証言も非常に確かなものです。しかし、それよりもさらに確かなものがあります。いったいそれは何でしょうか。それは確かな預言のみことばです。

 

預言のみことばとは、旧約聖書のことです。旧約聖書は創世記からマラキ書まで、全部で39巻あります。それはメシヤ、救い主、キリストが来られることの預言です。キリストとは「油注がれた者」という意味ですが、罪に陥った人間を救うために神が遣わされた救い主のことです。最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から、神はこの救い主を遣わすことを約束されました。創世記3:15には、「わたしは、おまえと女との間に、またおまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」とあります。これは、アダムとエバが罪に陥った直後に語られた神の救いのことばなので、原始福音と呼ばれています。これはキリストの十字架と復活によって死の力を持つ悪魔を滅ぼすという預言です。神はまず女の子孫から救い主を遣わすという約束をお与えになりました。そして創世記12章になると、その救い主はアブラハムの子孫から遣わされると示されました。

 

その後神は、神の預言者たちを通して、キリストについての預言をお与えになりました。それは実に三百か所以上、間接的なものも含めると四百か所以上になります。これらを全部開くことは大変でできませんので、その中のいくつかを見たいと思いますが、たとえばⅡサムエル7:12-13にはこうあります。

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

「あなた」とはダビデのことです。ダビデが死んで眠りについてから、彼の身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国をとこしえに確立されると言いました。これはダビデの子ソロモンのことではありません。ここに「とこしえまでも堅く立てる」とあるように、これは王の王であられるキリストが来られる時のことを預言して言われたのです。キリストはダビデ王の子孫から生まれるということでする

 

そのとおり、キリストはダビデの子孫からお生まれになられました。そのことが新約聖書マタイ1:1にあります。

「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」

ですから、新約聖書は系図から始まっているのです。神が約束された救い主は、アブラハムの子孫、ダビデの子孫から来られると預言されましたとおりに救お生まれになられたことを証明するためです。

 

その他にも、救い主は処女にみごもるとか(イザヤ7:14)、ユダヤのベツレヘムで生まれること(ミカ5:2)、その働きはガリラヤから始まり(イザヤ9:1)、このキリストが来られたときにどのような奇跡をなさるのか(イザヤ35:5)、また、キリストはろばの子によってエルサレムに入場されるということも預言されています(ゼカリヤ9:9)。同じゼカリヤ11:13には、銀30枚で売られるということまで預言されています。さらにキリストは苦難を受けるということがイザヤ書53章にあります。そればかりではありません。キリストは死人の中からよみがえることもちゃんと預言されていました。詩篇16:10-11です。

「まことに、あなたは、わたしのたましいをよみに捨てておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:10-11)

キリストは私たちの罪のために死なれたわけですがそこに捨ておかず、神はキリストを三日目によみがえらせてくださいました。その他にも、このメシヤ、救い主に関する預言はたくさんあります。そしてそのすべての預言がキリストによって成就しました。中にはこれから成就するものもあります。キリストが再臨されることなどはその一つです。しかし、キリスト、救い主、メシヤが来られることについて語られた預言のことばは、ことごとく成就しました。それは、この方が旧約聖書で預言されていたあの救い主であるということを示しているのです。

 

皆さん、どうして聖書は確かなものなのであると言えるのでしょうか。それはこの預言が100%成就したからです。神がご自分の預言者たちを通して語られたことが、すべてそのとおりに実現しました。旧約聖書の預言のとおりに、神が約束された救い主キリストが来られました。すべて聖書が預言したとおり成就したのです。この方がまことの神であり救い主であられるイエス・キリストなのです。

 

この手紙を書いたペテロは、このキリストの神としての栄光を目撃しました。直接父なる神の声を聞きました。すばらしい体験をしました。しかし、こうした自分のすばらしい体験よりもさらに確かなものがあります。それが預言のみことばです。なぜこの預言のみことばはペテロの体験よりも確かなものだと言えるのでしょうか。それはこの預言のみことばはすべて成就したからです。ですからペテロは19節の最後のところでこう言っているのです。「それに目を留めているとよいのです」。

 

「夜明け」とは、キリストが再び戻って来られる日のことです。「明けの明星」とはキリストのことです。暗い所とはこの世のことです。この世は暗やみです。神から離れているので真っ暗です。どのように生きていったらいいのか、皆、道に迷っています。本当の希望を知りません。そのような暗やみの中に必要なのは何でしょうか。光です。ともしびが必要です。このともしびこそ神のことばです。詩篇119:105にこう書かれてあります。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

 

神のことばは、この世の暗やみを照らす光なのです。暗やみの中にともしびがあれば、つまずくことがありません。光があれば道に迷うこともありません。ともしびがあれば目的地へ導いてくれます。今は暗やみですが、もうすぐ夜明けがやって来ます。夜明けには太陽が上ります。夜明けの前は真っ暗になります。最も暗いとき、最も寒いとき、それが夜が明ける時です。しかしそのあとに太陽が上ると、すべてを照らします。キリストが再び戻って来られる前に真っ暗になりますが、そのあとに、すべてを照らすまことの光が上ってくるのです。

 

私たちは今、暗やみの中にいますが、神はその暗やみの中にあっても私たちの足元を照らすともしびを与えてくださいました。それが聖書です。それはさらに確かな預言のみことばです。このみことばに照らされるなら、決してつまずくことはありません。夜明けとなって、明けの明星が上るまでは、真っ暗闇ですが、そのような真っ暗闇の中にあっても、それを照らすともしびに目を留めるなら、あなたは決してつまずくことはありません。この預言のことばに目を留めようではありませんか。

 

Ⅲ.神からのことば(20-21)

 

最後に、20,21節を見て終わります。

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

 

ここでペテロは、神のことばについてまず知らなければならないことは何かを教えています。それは、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。どういうことでしょうか。

 

これは大きく二つの解釈があります。一つは、私たちが聖書をどのように解釈するかという意味です。そのように解釈すると、ここは、自分に都合のいいように勝手な解釈をしてはいけない、ということになります。

 

もう一つの解釈は、ここではおそらくこの意味で使われていると思われますが、聖書の預言は、預言者たちの私的解釈ではないということ、つまり、彼らの考えではないということです。すなわち、私たちが聖書をどのように解釈するのかということではなくて、その聖書の預言はどこから来たのかという出どころ、起源のことを言っているという解釈です。恐らく、そういうことでしょう。英語の聖書ではこう訳しています。

「Above all ,you must understand that no prophecy of Scripture came about by the prophets own interpretation.」(NIV)

これはこういう意味になります。「あなたは理解しなければなりません。聖書の預言は、預言者たちの解釈から出たものではないということを・・。」つまり、どこから来たのかということです。そして、それは預言者たちの解釈や考えから来たものではないということです。彼らが自分で勝手に考えて、自分の考えを語ったのではないということです。

 

新改訳聖書改訂版では、ここをとてもよく訳しています。「聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきない。」と訳していますが、この「勝手に解釈するものではないということばに※がついていて、別訳として、「預言者自身の解釈ではない」と説明しています。このように訳している他の日本語の聖書は、創造主訳聖書です。創造主訳聖書では、「聖書に記されている預言はすべて、預言者が自分勝手に語ったものではない。」と訳しています。これがここでペテロが言いたかったことです。私たちがどう解釈するかということではなく、この聖書の預言はどこから来たのかということです。それは預言者たちが自分勝手に語ったものではありません。

 

では、この聖書の預言はどこから来たのでしょうか。21節をご一緒に読みましょう。

「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」

それは決して人間の意志によってもたらされたのではありません。それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。創世記から黙示録まで、聖書は全部で66巻ありますが、1,600年以上かけて、40人以上の人たちによって書かれましたが、それは決して人間の意志から出てものではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものなのです。「聖霊によって動かされた」とは、聖霊によって運ばれたとか、聖霊によってもたらされたという意味です。ちょうど海に浮かんだヨットのようなものです。ヨットはどのようにして目的地に行くのでしょうか。風です。風を受けて、風に運ばれて動いて行きます。それと同じように、預言は、聖霊の風を受けて、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。ですから、聖書は神によって書かれた神のことばなのです。

 

Ⅱテモテ3:16には、「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」とあります。皆さん、聖書とは何でしょうか。聖書は神のことばです。聖書はすべて神の霊感によって書かれました。神の霊感とは神の息という意味です。聖書は神の息がかけられたものなのです。すなわち、人間のインスピレーションとか、思い付きによって書かれたものではないのです。聖書はすべて神の霊感、神のいぶき、神によって語られた神のことばなのです。それは、預言者たちが意識を失って、ロボットのように勝手に筆が動いたということではありません。「か・み・は、こ・う・い・わ・れ・た・。」と機械的に書かれたのでもないのです。彼らはみな聖霊に動かされて神のことばを受け止め、そのことばを語り、書き止めたのです。

 

ですから、聖書は誤りのない神のことばであり、完全なものです。もしこれが人の考えによって書かれたものであればどうでしょうか。危ないです。これは「7つの習慣」という本から学んだ人生を本当の幸福へと導く成功哲学です。これは40か国以上の言語に翻訳され、全世界で2,000万部を越えるベストセラーになった本で、「人生のOSである」と言われているほどの本なんです。だから信頼するに値します!「そうですか、ところでそれはどこから来たんですか。」「はい、スティーブン・R・コヴィーという有名な哲学者が書きました。」「そうですか、でもどんなに有名な哲学者でも危ないですよ。」Ⅰペテロ1:24-25にはこうあります。

「人はみな草の花のようで、その栄えは、みな草のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

人から出たものは変わります。それは時代によって、国によって、場所によってその価値観も違ってきます。しかし、神は永遠の神です。真実な方です。いつまでも変わることがありません。ですから、この世の暗やみを照らす光として最も信頼できるもの、もっと確かなものなのです。それが聖書です。

 

あなたは何に信頼していますか。何に心を留めておられるでしょうか。あなたが心を留め、あなたが信頼すべきものは、この聖書のことばです。さらに確かな預言のことばなのです。私たちはこのさらに確かな預言のみことば、聖書に目を留め、神に信頼して歩ませていただきましょう。

 

最後に詩篇18:30-32を読んでこのみことばを閉じたいと思います。

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。」