ヘブル6章13~20節 「神の約束は変わらない」

今日は、「神の約束は変わらない」というテーマでお話しします。きょうの箇所は6章13節からの箇所です。この手紙の著者は5章10節までのところまで話を進めてくる中で、11節から急に話を変えます。彼らの心がかたくなだったので、このまま話を進めていっても解き明かすことが困難だと判断した著者は、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目ざして進もうではないか」と勧めるのです。そのテーマのまとめがきょうの箇所で、7章から再びメルキゼデクの話に戻るのです。このところで著者がいいたかったことは何かというと、神の約束は変わらないということです。

 

皆さんは、皆さんの人生の中に「確かなもの」を持っておられるでしょうか。「私の夫や妻は誠実で真面目な人だから大丈夫だわ。絶対に信頼できる」どうでしょうか。「私の会社は何かあったときに、絶対に自分を守ってくれる」どうでしょう。確かにそのようなものはあなたを守ってくれるかもしれませんが、絶対かどうかはわかりません。「それなら何も信じないわ。信じられるのは自分だけ」どうでしょう。それが一番危なかったりして・・・。私たちほどいい加減な者はないからです。すぐに心変わりしてしまうような不確かな者であることは、だれよりも自分自身が一番よく知っているはずです。たとえば、あのペテロでさえ、「今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエス様から言われたとき、「何を、ご冗談を。主よ、たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、私は、決してあなたを知らないと申しません」と言ったのに、何と彼はその日のうちに三度も立て続けに、イエスを否んでしまいました。私たちが住んでいるこの世の中は、まことに不確かなものなのです。

 

では、この不確かな世の中にあって、本当に信頼できる確かなものはあるのでしょうか。あります。それが聖書であり、この世を造られた創造主なる神であり、神が約束してくださった救い主イエス・キリストです。聖書には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とありますが、神はいつまでも変わらない方です。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも、同じなのです。この天地が滅びようとも、神のみことばは決して変わることはありません。どんなに時代が変わっても、どんなに人の心が変わっても、決して変わらないもの、それが神なのです。この神こそ私たちが信頼することができる唯一の方です。私たちはここに希望を置いて、日々平安で確かな生活を送りたいと思います。きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.約束のものを得たアブラハム(13-15)

 

まず13節から15節までをご覧ください。

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

ここに「アブラハム」という人物が出てきます。クリスチャンならだれでもわかるくらい有名な人ですが、なぜアブラハムなのでしょうか?

それは、この箇所のすぐ前の11節と12節のところで、こう言われていたからです。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心を示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

その信仰と忍耐によって約束のものを相続した一人の模範がアブラハムだったのです。彼は信仰と忍耐によって、最後まで神に信頼しました。その結果、神が約束したものを相続することができたのです。いったい彼はどのようにして神の約束のものを得たのでしょうか。

 

アブラハムはイスラエル民族の始祖です。イスラエル民族が始まった最初の人物ですね。イスラエルという民族がどのようにして始まったかご存知でしたか。実はこのアブラハムから始まりました。当時、彼はカルデヤのウルという所、今のイラクですけれども、そこに住んでいました。その時、神様からこう告げられたのです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)

 

これは簡単に言うと14節にある内容です。つまり、神はアブラハムを祝福し、彼の子孫を大いにふやすという約束です。

アブラハムがこの約束を受けた時、彼は75歳の時でした。しかし、彼にはなかなか子供が生まれませんでした。それで彼は神様にこう申し上げるのです。

「自分たちには子供が生まれそうもないので、あのダマスコのエリエゼルという忠実で信仰深いしもべがいますから、彼を跡継ぎにしましょう。」すると主は、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)と言われました。そして彼を外に連れ出して、天の夜空を見させこう言いました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)

それでアブラハムはまだ子供がいませんでしたが、主が言われたことを信じ、主はそのアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

 

しかし、それから10年経ってもアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。あれから10年ということは、アブラハムはもう86歳になっていたということです。妻のサラも76歳になっていました。皆さん、どうですか。86歳と76歳ですよ。頑張って子供を産みましょうという歳ではありませんね。常識的に考えたら無理です。それでアブラハムはどうしたかとうと、サラの提案によって、彼女にはエジプトから連れて来ハガルという女奴隷がいたので、彼女によって子供を作り、その子供を跡継ぎにしようと考えたのです。なかなかのグッドアイデアです。常識的には無理なんだから、それに代わる方法はないかと考えた結果、そうだ、この手でいこう!となったのです。これが人間の考えることです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。

 

サラの提案はすぐに受け入れられ早速実行に移され、アブラハムとハガルとの間に男の子が生まれました。「イシュマエル」です。このイシュマエルは今のアラブ民族の始祖です。中東におけるイスラエル民族とアラブ民族との戦いは今に始まったことではなく、実はこの時から始まっていたのです。これは神のご計画を人間の考えで達成しようとしたアブラハムの肉が招いた結果でした。皆さん、私たちの問題の原因はいつもここにあります。神の御思いよりも自分の思いが優先してしまうことです。結局、イシュマエルが生まれると女奴隷ハガルが主人サラを見下げるようになってしまったので、そこに大きな争いが引き起こされてしまいました。しかし、こうしたアブラハムの失敗にもかかわらず、神の約束とご計画が変わることはありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、彼らに約束の子イサクが生まれたのです。それは実に神がアブラハムに約束した時から25年目が経っていました。それで、15節に戻ってください。

 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

アブラハムはどのようにして約束のものを得たのでしょうか。ここには、「こうして」とあります。つまり、神の約束を聞き、それを信じ、そこに希望を持ち、忍耐して、最後までそれを待ち望んだことによってです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。4章19~21節です。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

アブラハムは百歳になって、人間的には不可能で、どうしようもない状況になっても、あきらめませんでした。彼の信仰は弱まるどころか、ますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたのです。「こうして」です。

 

この著者はいったいなぜこんなことを語っているのでしょうか。それはこの手紙の受取人である当時のユダヤ人クリスチャンが、イエスをメシアと信じたことでユダヤ人社会かに締め出され、相当の苦しみを受ける中で、中にはかつての生活に、キリストなしの律法の世界に藻道路とする人たちがいたからですつるしかし、そこには救いはありません。救いはイエス・キリストにあるのです。このイエスにしっかりと留まっていなければなりません。その最後まで忍耐してこの信仰にととまったのがアブラハムだったからです。

 

皆さん、歳をとると、歳とともに、このような信仰を持つことは難しくなることがあります。若いうちには「まだなんとか・・」という希望があっても、歳をとると、体力の衰えとともに、「ちょっと無理だ」とか、「大変だわ」と言って、あきらめてしまうのです。でもアブラハムは違いました。彼は百歳になって、もう自分のからだが死んだも同然であり、妻のサラも同様であることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。むしろ、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。皆さん、私たちもそうなりましょう。私たちが何歳になっても神の約束に信頼し、最後まで信仰と忍耐をもってこの希望を告白しようではありませんか。

 

Ⅱ.神の約束は変わらない(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」

 

ここで語られているのは「誓い」についてです。よく私たちは「誓い」をしますね。たとえば、高校野球でも「選手宣誓」をします。「宣誓、私たちはスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います。」結婚式でもその中心は何かといったら、この「誓約」です。「・・兄弟、あなたは今、この方と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信し、神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、留める時も、貧しき時も、いのちのち日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

すると新郎新婦が「はい、誓います」と答え、牧師が「この男女が夫婦であることを宣言します」と宣言するわけです。

 

しかも誓う時は自分よりもすぐれた者をさして誓います。たとえば、高校野球の時は大会会長の前で誓いますし、結婚式ではもちろん神の前で誓うわけです。でもいったいなぜわざわざ誓うのですか。約束しただけではだめなんですか?約束しただけでもいいんです。そもそも誓いというのは約束なんですから・・・。それならば、なぜわざわざ誓うのですか?それは、ここに書いてあるように確証のためです。今約束したことは本当です。今、約束したことは絶対に破りません。そういう意味で誓うのです。本来、約束は破るためにするのではなく、守るためにするものです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外のなにものでもありません。しかし、それだけでは不十分なのです。その約束が本当なのかどうかを確かなものとするために誓いをするのです。その約束は確かです。誓ってそうします。皆さん、そう言われたらどうですか?「嘘つけ」なんて誰も言えません。誓いというのはそれだけ重いのです。一旦誓ったら、だれもとやかく言うことはできません。

 

なぜこんな話をしているのかというと、神の約束がどれほど確かなものであるかを示すためです。神は人間と違うわけですから、神は本来、誓いなどいりません。神は真実な方ですから、「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。「はい」が「いいえ」になることは絶対にありません。それは約束を破ることになりますから。神は決して約束を破ることはありません。だから常に「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。

 

ところが13節を見ると、「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分を指して誓い、」とあります。ここで神が誓っておられるのです。神は真実な方ですから約束だけで十分であって誓う必要なんて全くないのに、ここで誓われたのです。なぜでしょうか。それは、その約束が絶対に変わらないことを示すためです。17節、「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」ご自分の計画が絶対に変わらないということを、この約束と誓いという二つの事柄をもって保証されたのであります。

 

ということはどういうことでしょうか。ということは、神の約束は絶対に変わらないということです。神のご計画はどんなことがあっても必ず実現するのです。このことが本当によく分かると、聖書の中に約束されている神の約束は確かに自分のものとなるのだということが分かります。信仰によって神の約束の御言葉を自分のものとして体験することがどんなに大きな祝福であるかがわかるのです。それはアブラハムだけでなく、今日の私たちにも全く同じことが言えるわけです。

 

多くの人は、目に見えるものこそ確かなものだと思っています。しかし、目に見えるものはやがて過ぎ去ってしまいます。

「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

このことが本当に分かると、変わりやすく不確かなこの世のものに捕われず、確かな永遠の神の御言葉に根を下ろして生きるようになると思います。

 

クリスチャンでない方にとっては、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと思われるかもしれません。だって天国だとかつかみどころのないものを当てにしながら生きているからです。人間の知恵や常識からすれば、確かにつかみどころがないかもしれません。しかし、そのつかみどころがないものを、神が保証してくださっているのです。ですから、これ以上確かなものはないのです。ノンクリスチャンは自分の考えに自信をもっていかもしれません。しかし、そうした自信といったものがどれだけ確かなものであるかは、この震災が物語っているのではないでしょうか。あれからもうすぐ5年が経とうとしていますが、私たちはこのことから教訓を受けなければなりません。人間がどんなに知恵や知識をもってしても、そうしたものは大震災の時には何の役にも立たないということを。本当に必要なのは、私たちを守り、助けてくれるのは、神の約束の御言葉であって、それ以上に確かなものはないのです。

 

Ⅲ.神に錨を下ろして(19-20)

 

ですから、結論は、神に錨を下ろしてということです。19節と20節をご覧ください。

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

 

ここには、この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たしとあります。錨というのは、船が港や沖合いに停泊する時、流れに流されないようにするためのものです。普通、鋼鉄の綱に付けられ、海底に下ろされますが、海底があまりにも深い場合には、海底まで届かなくても、動くことのない深海に沈めておきます。そうすると、どんなに海面が荒れて、波打っても、船は錨によって、しっかりと固定されているので、びくともとません。流されたり、ひっくり返ったりしないのです。イエス・キリストに対する希望はこの錨のようなもので、この方に錨を下ろすならば、決して揺れ動くことはありません。それは私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たすのです。どんなに世相が変わり、人の心が変わっても、神の中に信仰の錨を下ろしていれば、動くことのない平安な日々を歩むことができるのです。あなたの錨はどこに下ろされていますか。イエス・キリストに置かれていますか。もしイエスの上に置かれているなら安心です。なぜなら、イエス・キリストは岩なる方なので、この方につながっているなら、この方にとどまっているなら、あなたのたましいには、いつも安らぎがあるからです。この方は真実な方なので、その約束を最後まで守ってくださいます。

 

その約束とは何でしょうか。その約束とは、幕の内側に入るということです。これは天の至聖所のことです。神が臨在しておられるところ、天の御国のことです。必ずそこに入れていただけます。そのためにイエス様は私たちの先駆けとして、そこに入ってくださいました。天の聖所に入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられたのです。

 

ですから、私たちの信仰が確かで不動なものであるのは、神の保証としての約束の御言葉とその誓いがあるからということと同時に、このようにイエス・キリストが私たちの先駆けとしてすでに天国に入っておられ、大祭司として私たちを助けようとしておられるからだということがわかります。それゆえ、神の臨在の中で歩む者には、恐れも悩みも思い煩いもありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。そこに、いつまでも変わらないイエス様がともにおられるからです。イエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも同じです。このイエス様が共にいてくださるなら、どんなことがあっても、あなたは揺るがされることはないのです。

 

ダビデはこのように言いました。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、わたしはゆるぐことはない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)

 

おそらくこれは、ダビデがサウルから逃れているときの心境だったと思います。鳥が身の危険を感じたら山々に飛んでいくように、自分の身に命の危険を感じた彼は、遠くに逃げていけば良いのです。でもそのようにしなかった。なぜでしょう。なぜなら、彼は主ご自身に身を避けたからです。いつも自分の前に主を置きました。なぜなら、主が彼の右におられるなら、揺るぐことがないからです。主が彼とともにおられるなら、彼のたましいは喜び、楽しみ、安らぎます。主こそ彼の岩、彼の救い、彼のやぐらでした。彼のたましいは黙って、ただ神を待ち望んだのです。それゆえ彼は喜びに満ち、彼の右には、楽しみがとこしえにありました。これが私たちの信仰です。あなたの錨はどこにおろしているでしょうか。

 

昔からクリスチャンは迫害の時、自分たちがクリスチャンであることのしるしとして、魚の模様や錨の模様を描きました。ことにローマ帝国下で迫害に耐えてきたクリスチャンは、ローマにある地下墳墓で集会を持っていました。これはカタコンベと言って、今日でも残っています。地下に二層にも三層にもなっていて、所々に有力者たちが葬られたのではないかと思われる広場のような所があります。広場といってもせいぜい一坪か二坪の小さな所ですが、そういうところの壁に魚や錨が描かれているのです。いったいなぜそんな絵が描かれているのでしょうか。

魚はギリシャ語でイクスースと言いますが、これは、「神の子、救い主イエス・キリスト」というギリシャ語の頭文字を綴った単語です。それがイクスースになるからです。では錨はなぜかというと、そこに十字架があることからもわかるように、イエス・キリストに錨を下ろしているという彼らの信仰が表われているからです。

 

あなたの錨はどこに下ろされていますか。もしそれがイエス・キリストに、いつまでも変わらない神の約束に下ろしているなら、あなたのたましいも安全で、どんなことがあっても揺るがされることはないのです。神の約束はどんなことがあっても変わらないからです。

申命記10章

先週は、イスラエルの民がどれほどうなじのこわい民であるか、しかし、それにもかかわらず主はモーセのとりなしの祈りに答えて、彼らをその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出されたことを学びました。きょうの箇所はその続きです。まず1節から5節までをご覧ください。

 

1.二枚の石の板(1-5

 

「そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。」

 

「そのとき」とは、97節から21節までにある内容のことです。モーセは、主がイスラエルと結ばれた契約の板を受けるために、シナイ山に上って行ったのに、そのとき山のふもとではどんなことが行われていましたか?モーセがなかなか戻って来ないのを見て、自分たちに先立って行く神を造ろうと、金の子牛の像を作り、それを拝んでいたのです。モーセは山から下りて来たときびっくりして、これはいったいどういうことかと問い詰めるも、あまりのショックと憤りに、持っていた二枚の石の板を投げつけ、それを砕いてしまったのです。モーセは必死のとりなしをして、彼らを赦してくれるようにと懇願しました。すると主は、彼らはいつも主にそむき逆らってきた民でしたが、彼らを赦し、神の所有の民としての身分を保ってくださいました。そのときです。

 

そのとき、主は、前のような二枚の石の板を切って作り、もう一度主のもとに、山の上に登れと言われました。どういうことでしょうか。それは、主が与えてくださる契約のやり直しです。モーセは先の石の板を粉々に砕きましたが、それはイスラエルの民が神の契約をことごとく破ったことを表していました。しかし、今、もう一度前のように二枚の石の板を切って、神の前に出るようにと言われたのです。すなわち、主は再び彼らと関係を修復してくださるというのです。

 

そして4節に注目してください。ここには、主が、その二枚の石の板に直接書き記されたとあります。主が直接書きしるされたという箇所は他の聖書の箇所にはありません。Ⅱペテロ1:21を見ると、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあるように、預言は人間の意志によってもたらされたものではないにしても、それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものを書き記したものです。このように神が直接書いたものではありません。けれども、それが主が直接書かれたものであっても、あるいは人を通してであっても、主が聖霊によってその著者を動かして、その著者が書いていることを知らなければいけません。

 

2.えり分けられたレビ部族(6-9

 

「イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。」

 

 モーセはここで挿入的にこの言葉を入れています。その内容は、アロンが死んでその子エルアザルが彼に代わって祭司に任じられたこと、彼らはそこから旅立ってヨテバテに進んだということです。 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされました。

 

 どういうことでしょうか?神に仕える祭司の働きが重要であることが述べられているのです。イスラエルの民には、祭司の仲介の働きがあって初めて主の前に出ることができ、主に仕えることができるということです。イスラエルの民は、そのままでは決して神の前に立つことはできませんでした。あくまでも祭司の働きによって、主の祝福と恵みが民に分け与えられるのです。レビ人たちはそのために特別に神によってえり分けられた民なのです。このレビ人をないがしろにしてはならないということです。彼らには主の相続地が与えられていませんでした。主が彼らの相続地であったからです。それゆえに、このレビ人は民に代わる代表としてえり分けられ、民のためにとりなしをするようにと特別に選ばれたのです。このレビ人という仲介者をないがしろにしてはならないのです。

 

 それは今日でいうなら、イエス・キリストご自身のことです。私たちは自分たちの行いによって主の前にできることはできません。あくまでも、神の大祭司イエスのとりなしによってのみ神の近くに行くことができるのです。そのイエスの仲介なしに、自分たちの思いと判断によって進んで行ってはならないということです。私たちの中にはキリストがおられます。この方こそが私たちの仲介者であり、和解者であられます。この方にあって私たちは初めて平和と恵みと愛を互いに体験することができます。私たちはこのキリストと共に十字架につけられたのです。この方の血の注ぎかけがあるので、私たちはしっかりと立つことができるのです。

 

 3.神があなたに求めておられること(10-22

 

「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることであ。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。る。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい民であってはならない。あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。のである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

 

主はモーセに二枚の石の板とともに、「民の先頭に立って進め。」と命じられました。そうすれば、主が彼らを約束の地に入れ、その地を占領することができる・・・と。これは徹頭徹尾主の戦いなんですね。主が勝利を与えてくださいます。私たちの力がそうするのではありません。私たちはうなじのこわい民であり、主のみこころにかなわない者ですが、あわれみ豊かな神は、私たちの罪を赦し、ご自分の御心に歩もうとするものを助けて、約束の地に入れてくださるというのです。

 

ここでモーセは一つの結論を述べています。それは、主があなたがたに求めておられることは何かということです。それは、それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることです。主が求めておられることはあれも、これも守り行うということではなく、「ただ」です。ただ、神を畏れ、神のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主に仕え、主に従うことです。

 

私たちはどちらかというと、「ただ」というよりも、「あれもして」「これもして」神のためにいろいろなことをして、神を喜ばせることが、主のお喜びになられることではないかと思うのですが、聖書はそのようには教えていません。主が求めておられることは「ただ」なのです。主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。

ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(6:6-8)」

 

なぜなら、主が私たちを愛されたのは私たちが何かをしたからではなく、私たちが正しい者だからでもありません。ただ愛されたからでした。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛されたのです。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれました。私たちには何も正しいものはないのです。むしろ悪ばかりがあるのです。だから、正しさをすべて主に求めて生きていかねばならないのです。主を恐れて、自分の悟りに頼らず、主の道に歩み、主を愛して、主に仕えなければならないのです。私たちのうちに義はなく、むしろキリストのうちにあります。自分の義ではなく、キリストの義を仰がなければならないのです。

 

16節には、「心の包皮を切り捨てなさい」とあります。これは心の割礼を行いなさいということです。割礼とは、神の民のしるしですが、どんなに外見で割礼を施しても中身が無ければ意味がありません。大切なのは心の包皮を切り捨てるということ、心の割礼を受けるということです。では、心の包皮を切り捨てるとはどういうことでしょうか。それは神のみ言葉に対して心を開き、みことばを素直に受け入れる従順な者になることです。どんなに体に割礼を受けていても、神のみことばに心を閉ざし、みことばに対して鈍感であるなら、つまりうなじがこわければ何の意味もありません。

 

なぜでしょうか。17節から22節までのところにその理由が記されてあります。なぜなら、あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力があり、恐ろしい神、かたよって愛することをなく、わいろをとらず、在留異国人を愛される方だからです。神はただ外見で神の民であるというしるしを見て満足される方なのではなく、そのように社会的立場の弱者に対して配慮を求められる方だからです。

 

主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたがたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行われました。彼らの先祖たちは七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされました。

 

このことを見てください。それは決して人間ができることではありません。主は大いにる方であって、大いに賛美されるべき方であります。その方にふさわしいことは私たちが何か良いことをして自分を誇ったりするようなことではなく、この神の御心を知り、この方を心を尽くしてほめたたえ、感謝をもって仕えることなのです。つまり、あなたの心がいつもこの方と一つとなり、この方のみこころに歩むことなのです。

 

この一年がそのような年となりますように。もうすぐさくら市での開拓伝道も始まりますが、主が私たちに求めておられることは何でしょうか。それは私たちが一生懸命に伝道することよりも、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の命じるすべてのことを守り行うことなのです。そこに神の豊かな祝福と栄光が現されるのです。

ヘブル6章1~12節 「成熟を目ざして進もうⅡ」

今日のテーマは「成熟を目ざして進もうⅡ」です。実際には先週の午後にもこのテーマに関する学びがありましたので、3回目の学びとなります。このヘブル書の著者は、キリストこそ偉大な大祭司であり、メルキデゼクの位に等しい大祭司であるということをお話してきましたが、途中で話すのを止めてしまいました。なぜなら、彼らにはそのことについて聞く力がなかったからです。耳が鈍くなっていたので、話しても理解することが困難になっていたのです。耳が鈍くなっていると言っても、耳が聞こえづらくなったということではありません。心の耳がふさがっていたということです。だから、どんなに霊的な事柄を話しても理解することは困難だったのです。彼らに必要だったのは、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらうことでした。

 

そこで少しテーマを変えて、霊的にもっと敏感になりましょう、心を開いて神のことばを素直に聞きましょう、と言ったのです。生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めることは大切なことですが、いつまでも乳ばかりではなく、少しずつ堅い食べ物も食べられるようにしなければなりません。そうすれば、義の教えに通じることができます。経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人になることができるのです。

 

聖書を見ると、私たちの心には三つの段階があることがわかります。第一に「幼心」です。パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように言っています。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(Ⅰコリント3:1-2)

ここには、「キリストにある幼子」とありますね。ですから、私たちの中には幼子があるのです。これは救われたばかりの人のことです。聖書のことがあまりよくわからないけど、これからイエス様のような人になろうという人ですね。

 

それから第二に「大人」です。Ⅰコリント14:20には、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」とあります。

 

そして第三に「親心」です。Ⅱコリント12:14にあります。「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなた方の持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」

 

私たちの中にはいつもこのような親心、大人心、子供心があって、このような心がいつも交錯しながら親心へと成長していくのです。こうした親心となった成長したクリスチャンが増えていくとき、教会は成長したキリストのからだとなっていくのです。

 

すでに結婚している若い婦人の方が、このことに目覚め、実家に帰った時のことです。それまでは羽を伸ばし、好きなことをして、実家を休み場のようにしか考えていなかったことに気付かされたのです。そして悔い改めの親心で自分の両親に接してみようと決心しました。

「お母さん、仕事なかなか大変でしょう」と、母親の心に耳を傾けたとき、お母さんの心は大きく開かれ、それまでしゃべってくれたことのないようなことまで、どんどん打ち明けてくれるようになりました。そして近くの教会の集会に誘うと、快く応じてくれたというのです。

 

だれでも人と対話をするとき、まず自分の話を聞いてほしい、わかってほしいと思うでしょう。これは幼心の衝動です。自分のことを聞いてほしいと思うことが悪いというわけではありません。しかし、そのとき「まず相手の話を聞いてあげよう」という親心があれば、相手に励ましや慰めが流れて行くことは確かです。

 

あるとき、他の教会で行われた修養会に招かれてお話したことがあります。そのとき、その教会のピアニストに「どんな心で奉仕されているんですか」と尋ねると、その方がこう答えられました。「そうですね。司会者がやりやすいように、会衆が歌いやすいように、全体に心を砕いて奏楽しています。」よく訓練された教会だなぁと、とても感心させられました。特に音楽の奉仕は目立ちやすいものです。芸術家は自分を音楽によって表現すると聞いたことがありますが、しかし、それが時々教会に問題を引き起こすことがあります。なぜなら、教会でいちばん大切なことは自分を表現することではなく、自分を罪から救ってくださった神をほめたたえ、神の栄光を現すことだからです。ですから、そうした幼心から親心に成長していくことによって教会の徳を高めることができるようになり、神の栄光を現すことができるようになるのです。

 

また、こうした親心が主に向かうとき、それは「主の御心を尋ね求める」という姿勢になります。これまではいつも、「主よ、こうしてください。」「ああしてください」と、自分たちの必要が満たされるようにというだけの祈りだったのが、「主よ、あなたの御心は何ですか。」「あなたが私に願っておられるみとはどんなことですか」と、神の御心を求める教会へと変えられていくのです。

 

ではそうした親心が成長し、クリスチャンとして成熟した者になるためにはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.成熟を目ざして進もう(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」

 

ここは「ですから、私たちは、キリストにつていての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。「ですから」というのは、この前で語られてきたことを受けてのことです。この前ではどんなことが語られてきたかというと、大祭司であられる私たちの主イエスについては、話すべきことがたくさんありますが、今のあなたがたは耳が鈍くなっているので、説き明かすことは困難です、ということでした。どんなにすばらしい神の教えも、それを聞く人の心がふさがっていると、聞いても理解することができないからです。「ですから」です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。たとえば、死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、というのです。

 

これはどういうことかというと、ここでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えとして六つのことを挙げているのです。

まず死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めと神に対する信仰についての教えです。現代訳では「死から命への方向転換、神信仰」と訳されています。死から命への方向転換ですから、これはまさに悔い改めて神を信じることについての教えです。

次はきよめの洗いについての教えと手を置く儀式です。ユダヤ教にはきよめの洗いの儀式がたくさんありました。その中にはイエスの御名による水のバプテスマも含まれています。また手を置く儀式ですが、これは按手のことを指しています。手を置いて祈り、祝福し、また任命したりしました。

そしてもう一つのことは死者の復活ととこしえのさばきなどの基礎的なことです。これはクリスチャンが死んでも生きるということ、この死者の復活の教えととこしえのさばきなど、終わりの日に関する教えのことです。

 

これらのことを見てもわかるように、これらのことは私たちクリスチャンにとってどれもとても重要な教えです。ヨハネ20章31節には聖書が書かれた目的が記されてありますが、それは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである、とあります。ですからねこれらのことはまさに、聖書が書かれて目的そのものであるわけです。これらのことは私たちの信仰の中心的な事柄であり、どんなに強調してもしすぎることがない重要な教えなのです。

 

それなのに、そうしたキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。なぜてじょうか。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。すなわち、それが神の御心であるからです。神の御心は、私たちが救われた状態にずっと留まっているだけでなく、これらことを土台にしてさらに信仰の成熟を目ざして進むことなのです。

 

レビ記11章45節には次のようにあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから、あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるから。」

主がイスラエルをエジプトから救い出されたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らの神となるためでした。神は聖なる方なので、彼らも聖でなければならない。「聖」というのは、選び別けられるという意味ですが、神のものになるということです。つまり、神のようになることです。彼らはそのためにエジプトから連れ出されたのはそのためでした。同じように私たちが救われたのも、それが救われて良かったという私たちのためだけではなく、私たちを救ってくださった神のようになるためだったのです。

 

Ⅱペテロ3章18節にはこうあります。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」これは、「恵みと知識において成長し続けなさい」という意味です。(現在命令形は継続を表しているから)イエス様を信じて救われた人は、ああ良かった!これでもう天国に行けるから安心だわと、そこに留まっているだけでなく、その主であり救い主の恵みと知識において成長していかなければなりません。それを求めていかなければならないのです。

 

「成長しなさいと言われても無理ですよ。どこまで行ったってきりがないじゃないですか」確かに、クリスチャンの成長にはきりがありませんが、しかし、一つの目標が定められているのです。それは何かというと、イエス様のようになることです。イエス様のようになるということがクリスチャンの目標であり、成熟したクリスチャンの姿なのです。

 

エペソ4章12節から13節にはこうあります。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

ここには、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあります。すなわち、イエス様のようになることが私たちクリスチャンの目標なのです。それは私たちの努力によってではなくキリストの恵み、聖霊の恵みによって成し遂げられていくものですが、同時に、私たちにもそのための訓練が求められているのです。それはⅠテモテ4:7に、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあることからもわかります。「敬虔」とは、信仰とか、霊的なことのためという意味です。そのためには訓練が必要なのです。何もしないで体の健康を保つことができないように、霊的な健康のためにも訓練が必要なのです。そのための時間と労力をかける必要があるのです。それがイエス・キリストの恵みと知識において成長するということです。

 

Ⅱ.成長がなければ後退(4-8)

 

で第二のことは4節から8節までに書いてあることですが、もし成熟を目ざして進むことをしなかったらどうなってしまうのかということです。クリスチャンが成熟を目ざして進まなかったら霊的に成長することができないだけではありません。それだけでなく、信仰そのものからも離れてしまう危険があるのです。すなわち、成長なければ後退してしまうというのです。まず4節から6節までをご覧ください。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

 

ここは難解な聖書箇所です。ここには、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまうならとありますから、これはクリスチャンになり、すばらしい霊的体験をした人が堕落して信仰を捨ててしまうなら、ということでしょう。そういう人はどうなってしまうのでしょうか。ここには、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」とあります。つまり、そういう人は救われることはないということです。

 

いったいこれはどういうことでしょう?というのは、聖書には、私たちがイエス様を信じれば、御霊によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを得ることが約束されています。たとえば、ヨハネの福音書6章47には、こう約束されてあります。

「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

また、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)イエス様を信じる人は死んでも生きるのです。

何とすばらしい約束でしょうか。そして、そのように約束された主は、次のようにも約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

ここには、イエス様は永遠のいのちを与えるというだけでなく、だれもイエス様の手から彼らを奪い去るようなことはないと、言われたのです。もう嫌になったからと、神が途中で見捨てるようなことはなさいません。もう何度言ってもわからないんだからと、あきらめてしまうことはないのです。その救いは最後までちゃんと保証されているのです。1年保証とか、3年保証とか、最長10年保証とかありますが、そうじゃない。神の救いの保証は永遠です。永遠の保証です。ですから、皆さん安心してください。「ああ、よかった」永遠に保障されているんですから。どんなことがあっても見放されたり、見捨てられたりすることはありません。神は最後まで私たちを守ってくださいます。それが私たちの救いです。それなのに、ここには、一度堕落してしまうと、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないとあるのです。あたかも、一度堕落してしまったら、もう二度と赦されることがないような、一度ひどい罪を犯してしまったら、神の救いは無効にされもう立ち戻ることはできないというふうにも読めます。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

まず、最初に申し上げておきたいことは、これは一度救いに導かれたクリスチャンが罪を犯してしまったらもう二度と赦されないということではないということです。また、堕落して信仰から離れてしまったらもう悔い改める余地がないということではないのです。なぜなら、Ⅰヨハネ1:9にはこうあるからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それが私たちの神です。ここには、「すべての悪から」とありますから、どんな悪からも、です。神が私たちを赦してくださるのは私たちが正しいからではなく、また、私たちがいい人だからでもなく、ただ私たちを愛してくださったからです。それを何というかというと、「一方的な愛」と言います。神が一方的に愛してくださいました。だから、私たちが悔い改めるなら、神は無条件で赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子の話を覚えているでしょう。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った弟息子は、そこで贅沢三昧の暮らしをして、とうとうお金を使い果たしたあげく、食べるにも困り果ててしまいました。それで彼はある人のところに身を寄せたところ、彼はそこで豚の世話をするようになりました。お腹がすいてお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思った彼は、はっと我に返るのです。父のところにいた時には、パンの有り余っている雇人が大ぜいいたではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父のところに、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯ししまた。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」

するとどうでしょう。彼が自分の乳のもとに行ったとき、家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

すねと父親は、しもべたちに言って、一番良い着物を持って来て、着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛を引いてほふりなさい。食べて祝おうではないか、と言ったのです。

この父親は息子に何一つ言いませんでした。むしろ、息子が返ってきたことを喜び、温かく迎え入れました。なぜですか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。この父親は息子が返ってきただけで喜びました。これが私たちの神です。私たちの神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰ってくることを望んでおられます。そうするだけで、心から喜こんでくださいます。私たちに要求なさることは他に何一つないのです。

 

それはイエス様の弟子であったペテロのことを考えてもわかります。彼はイエスの弟子たちの代表と言っても過言ではありません。しかし、そのペテロが何とイエス様を裏切ってしまいました。彼は、ここに書いてあるように、天からの賜物を味わい、すばらしい神のみことばを味わったにもかかわらず、イエス様が十字架に架けられる直前、三度も主を否み、主を見捨てて逃げてしまいました。けれども彼はイエスが復活された後に悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となることができました。彼は、ある意味で堕落しましたが、もう一度悔い改めることができました。だからここで言っていることは、イエス様を信じた人が大きな罪を犯してしまったらもう二度と赦されることはないとか、堕落して信仰から離れてしまったら、もう悔い改める余地がないということではないのです。ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか?

 

このことを正しく理解するためには、これが誰に対して書かれた手紙なのかをもう一度思い出していただきたいのです。これはヘブル人への手紙とあるように、ユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙でした。彼らはユダヤ人でありながらもイエスがメシヤ、神の子、救い主と信じた人たちです。ユダヤ人は旧約聖書を信じていましたから、そのユダヤ人がイエスをメシヤと信じることは簡単なことではありませんでした。あのパウロでさえ信じることができなくて、逆にそういう人たちを迫害していたくらいですから、それは並大抵のことではありませんでした。しかも当時はユダヤ人社会でしたから、そうした中でキリスト教に回心するということはユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならない状態でした。

そうした情況の中で、中にはその苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいのです。ユダヤ教に逆戻りするということはどういうことかというと、イエスはキリスト、救い主であるという信仰を捨てるということです。ですからここに、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば」とあるのです。

また2章3節から4節には、「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と書かれてあるのです。

 

つまり、これは、イエス様を愛しているはずなのに罪を犯してしまったとか、信じているはずなのに信仰から離れてしまったという程度のことではなく、救い主そのものを信じないという背教を意味していたのです。イエス様は、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)と言われましたが、御霊に逆らう冒涜こそ、この救い主を信じないこと、救い主を受け入れないこと、キリストの十字架をないがしろにすることなのです。人はどんな罪でも赦されますが、イエス様を信じない罪だけは赦されないのです。そして、もし一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落するなら、すなわち、キリストを救い主として信じながらも、その後で信仰を捨てるなら、そこには神の救いはもはや残されていないのです。神は決して私たちを途中で見捨てたり、見離したりはしませんが、私たちの方で捨ててしまうことがある。それが赦されないことなのです。

 

イスカリオテ・ユダの問題はここにありました。彼はイエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされていたのに、銀貨30枚でイエス様を引き渡しました。それでも悔い改めてイエスを救い主として信じたなら彼は赦されたのに、彼はそうしませんでした。彼は、悔い改めず、外に出て首をくくって滅びました。それがペテロとユダの大きな違いです。確かにペテロも大きな罪を犯しましたが、それでも彼の心は開かれていたので悔い改めイエスさまのもとに戻ることができましたが、ユダの心は開かれていなかったので、かたくなだったので、ふさがれていたので、悔い改めることができませんでした。その違いです。

 

そしてここではそのことを私たちにも警告しています。確かに私たちも罪を犯すことがあります。時には弱くなって信仰から離れてしまうこともありますが、問題は、あなたの心はどうかということです。悔い改めようという心もない、神のみことばよりも自分の思いを優先したい、イエスがキリスト救い主であるかどうかなんて関係ないといった心なら、そこには救いは残されていないのです。霊的に成熟するどころか逆に後退してしまい、ついには信仰を失ってしまうことになるのです。

 

イエスはこう言われます。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とどうぞイエスの声を聞いて戸を開けてください。もしあなたが戸を開けるなら、イエス様は、あなたのところに入ってあなたとともに食事をしてくださいます。食事をするというのは親しい交わりを表しています。イエス様があなたの心の中に来てくださるのです。すべてはあなたが心の戸を開けるかどうかにかかっているのです。イエス様は今もあなたの心の戸をたたいていらっしゃいます。あなたはその声を聞いてどのように応答されますか。どうかあなたもキリストにある神の救いを受け入れてください。

 

7節と8節をご覧ください。ここには、その神の祝福とのろいがたとえで語られています。

「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」

 

あなたは有用な作物を生じていますか、それとも、いばらやあざみを生えさせているでしょうか。もしあなたが、あなたの上にしばしば降る雨をいっぱい吸い込むなら、すなわち、神の恵みと希望に支えられて生きるなら、有用な作物を生じますが、その希望を拒み、神の恵みをないがしろにするなら、無用な作物を生じさせ、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことになります。イエスさまは、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたが、私たちはぶどうの木であるイエス様につながっていることによってのみ多くの実を結ぶことができます。枝だけで実を結ぶことはできません。

 

Ⅲ.あきらめないで、最後まで(9-12)

 

第三のことは、あきらめないで、最後までということです。ところで、この手紙の著者は、次のように言って、読者たちを励ましています。9節と10節です。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も使えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

 

ここで、この手紙の著者はこの手紙の読者のすべてが霊的赤ん坊であるのではないことを、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」という言葉で表しています。現代訳では、「あなたがたが救いにふさわしい良い実を結んでいる。」と訳しています。

 

その良い実とは何でしょうか。それは具体的に言うなら「愛の業」です。彼らがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」のことです。神は正しい方であって、彼らの行いを、特に、聖徒たちに示したあの愛をお忘れになられません。それこそ、主イエスが弟子たちに教えられた新しい戒めの実践だからです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 

これは非常に重要なことです。これが出来なくなると、どこかに未成熟な特徴が表われてくるからです。確かに、クリスチャン同士であっても、愛によって仕え合うということは、それほどやさしいことではありません。自分と気の合う人とならやさしいことですが、すべての人がそうであるわけではありません。そうでない人に仕えるということは、生まれながらの私たちでは到底できることではないのです。「なぜあんな人に仕えなければならないのか」「あんな人に仕えなければならないくらいなら、クリスチャンを辞めた方がましだ」という思いすら湧いてこないとも限りません。それが悪魔の働き掛けなのです。生まれながらの私たちの性質は、なるべく苦労しない道、安易な道を求めます。しかし、神は私たちが霊的に大きく成長し、クリスチャンとして成熟するように、必ずそこに困難な問題を置かれるのです。だからそれを避けてはいけません。悪魔は私たちにいろいろな知恵を与えて、それを避けようとさせますが、でもその手に乗ってはいけないのです。神は愛する子をむち打たれるということを思い出してください。神が私たちにそのような問題を置かれるのはむしろ私たちを愛しておられるからであって、私たちがクリスチャンとして霊的に成熟することを求めておられるからなのです。どんな訓練でも、それを受けている時は、嬉しいよりはむしろ辛く、苦しいのですが、後でわかることは、そうした訓練を受けた人は、必ず神の御心にかなった生活ができるようになるということです。そのことがわかると、信仰生活に必要な訓練として、喜んで困難にぶつかっていくことができるようになります。

 

この手紙の読者は、そういう愛の実を結んでいました。植物でも若木のうちは実を結ぶことはできません。「桃、栗三年、柿八年」言われますが、桃や栗のように比較的早く実を結ぶ木でも三年はかかるものです。柿になると、なんと八年もたたないと実を成らせることはできません。これは別に年月のことを言っているのではありません。木でも実が成るようになるには若木ではだめだということです。人間でも大人にならないと子供を産むことはできません。それは霊的赤ん坊も同様で、霊的に成熟していなと実を結ぶことはできないのです。しかし、この手紙の読者は、この愛の実を結んでいました。神はそれを決して見過ごしにはならず、ずっと心に留めておられました。神がご覧になっていてくださるだけで、もう十分ではないでしょうか。だれが見ていても、だれが評価してくれなくても、神がご覧になり、神が評価してくださっているというだけで、私たちは満足です。

 

大切なのは、それを一回だけすればよいということではなく、ずっと続けることです。それが最後に書かれてあることです。11節と12節をご覧ください。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

 

「切望する」というのは、強く願うということです。ここで著者は何を切望しているのでしょうか。それは、彼らが同じ熱心さを示して、最後まで、この希望について十分な確信を持ち続けてくれることです。信仰生活において大切なことは、救われたことだけで満足し、そこに安住するのではなく、それを最後まで持ち続けることです。すなわち、熱心に信仰生活に励むことです。そうでないと後退してしまうからです。

 

私たちは、前進しなくても、そこに留まっていたら、少なくても後退はしないだろうと思っているかもしれませんが、そうではありません。前進しなければ後退があるだけで、バッグスライドしてしまいます。ですから、私たちは常に前進していかなければならないのです。しかし、それは歯を食いしばってするものと違って、前進していけばいくほど信仰の醍醐味を味わうことができますし、そのすばらしさは天国のすばらしさに一歩も二歩も近づくことができるすばらしさです。天国のすばらしさがもっとよく分かってきます。ですから、私たちも約束を相続したあの熱心なクリスチャンに見習って、熱心に信仰生活に励みましょう。今からでも決して遅くはありません。成熟を目ざして共に進もうではありませんか。

ヘブル5章11~14節 「成熟を目ざして進もうⅠ」

ハレルヤ!きょうも、神のみことばから共に恵みを分かち合いたいと思います。きょうのみことばは、ヘブル人への手紙5章11節から14節までのみことばです。

このへブル書の著者は、前回のまでのところで、キリストがいかに偉大な大祭司であられるかを語ってきました。それはメルキデゼクの位に等しい大祭司であるということでした。メルキデゼクについては7章で詳しく学ぶのでここではあまり触れませんが、大祭司アロンとは比較にならないほど偉大な大祭司であることが語られました。そのキリストが、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは神の御子であられる方なのに、そのお受けになられた多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされました。それゆえに結論は何かというと、彼に従うすべての人に対して、とこしえの救いを与える者となられたということでした。ハレルヤ!何とすばらしいことでしょう。何とすばらしい救い主を私たちは持っているのでしょう。辛いとき、困った時、あなたはどこに救いを求めますか。キリストはあなたの救い主です。あなたをとこしえに救うことがおできになるのです。本当に感謝ですね。

 

ところで、きょうの箇所を見ると、話の内容がガラッと変わります。11節、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」

 

どういうことでしょうか。これを聞いていた読者の中に何のことを言っているのかさっぱりわからなかった人たちがいたのです。私たちもよくあるでしょう。牧師さんが一生懸命お説教していても、何を言っていることがさっぱりわからないということが・・。ただ言葉だけが頭の中を駆け巡っているだけということがあるのです。ピンとこない。安心してください。それは皆さんだけではありせん。当時の人たちも同じでした。言っていることがわかりませんでした。当時の人たちは旧約聖書のことについてはある程度知っていましたが、そういう人たちでさえわからなかったというのですから、私たちがわかなくないのも自然なことです。だから、聖書の話を聞いてもわからないとがっかりしないでください。忍耐して聞き続けていくうちに必ずわかるようになりますから。そもそも聖書が難しいというのはその内容が難しいということもありますが、それよりもそれがどういうことなのかを体験するのが難しいのです。

 

きょうはそのために必要なことを三つお話したいと思います。きょうはそのパートⅠです。このテーマは6章12節まで続きますから、これを二回に分けて学びたいと思います。そしてきょうは午後から「信仰生活ステッ・アップ」という学びもありますから、このテーマについては全部で3回に分けて学びたいと思います。

 

Ⅰ.耳が鈍くなっている(11)

 

まず11節をご覧ください。ここには、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」とあります。

 

「この方について」とは、まことの大祭司であられるイエス・キリストについてということです。「この方について」この手紙の著者は話すべきことがたくさんありますが、それを説き明かすこと、説明することは困難だと言っていす。なぜなら、彼らの耳が鈍くなっていたからです。耳が鈍くなっているとはどういうことでしょうか。年をとればおのずと耳が聞こえづらくなるものですが、ここで言っていることはそうした耳が聞こえづらくなったということではなく、霊的な面での鈍くなっているとうことです。若い時にはみことばを聞いて素直に信じることができたのに、だんだん年をとるうちに聞けなくなっているというのです。若い時は耳が柔らかく、音楽でも、英語の発音でも、微妙な音の違いを聞き分けることができたのに、年をとるにつれていつしか耳が硬くなって、聞き分けることが困難になる、つまり、鈍くなるということがあるのです。

 

私はよく娘に、「お父さん、ピアノの音だけど、調律してもらった方がいいと思うよ。ずいぶん狂ってる。」と言われることがあります。「へぇ、どこが狂ってるの?ちゃんと出てるじゃない。」と言うのですが、どうも違うらしいのです。私にはその微妙な音を聞き分けることができません。

 

私の家では小さい時からこどもには英語で話しました。とは言っても家内だけですが・・。私もこどもにはできるだけ英語で話せるようになってほしいと思って始めは英語で話していたのですが、ある時アメリカから家内の両親が来日して、二番目の娘の英語の発音を聞いてびっくりしました。娘の発音が私の発音にそっくりだったからです。それはまずいと、それ以来私は家の中では英語を話すことは止めました。私にとっては正しく発音しているつもりなのですが、家内が聞くと全然違うらしいのです。しかし、小さな子供の耳ってすごいんですね。それをちゃんと聞き分けることができます。耳が柔らかいからです。微妙な音の違いを聞き分けることができるのです。

 

ところで、この「耳が鈍くなっている」という言葉ですが、これは「怠慢な」とか、「鈍い」という意味の「ノースロイ」という言葉が使われていて、意味は「心がふさがっている」という意味です。ですから、現代訳では、「あなたがたの心がふさがってしまっている」と訳されているのです。つまり、この「あなたがたの耳が鈍くなっているというのは、歳をとって耳が硬くなっているということではなく、折角イエス様を信じて救われたのに、そのすばらしいイエス様を求めるよりも他のことで心が一杯になっていることです。

イエス様は種まきのたとえを話されました。ある人が種を巻きました。蒔いていると、ある種は道ばたに、また別の種は土の薄い岩地に、また別の種はいばらの中に、もう一つの種は良い地に落ちました。それぞれの場所に落ちた種はどうなったでしょうか。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。土の薄い岩地に落ちた種はどうでしょう。土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて枯れてしまいました。根が張っていなかったからです。ではいばらの中に落ちた種はどうなったでしょうか。いばらの中に落ちた種は芽を出し、順調に生長していきましたが、あるところまで生長していくといばらが伸びてふさいでしまったので、それ以上は伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は生長し、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだのです。

 

耳が鈍いというのは、ここで言われている良い地以外の地に蒔かれた種のことです。種は同じでも、それがどこに蒔かれるかによってその結果が全く違ってくるのです。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、そういう人はほんとうに多くの実び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。しかし、御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って生きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また、岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうのです。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいや富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結びません。つまり、確かにみことばを聞きますが、どのような心で聞くかが重要なのです。折角、みことばを聞いても自分には関係ない話だと思うなら、折角聞いたみことばも鳥が来て食べてしまうことになるでしょう。また、最初はいい話だなぁと思って聞いていても、それがどういうことなのかを悟ろうとしないと、生活の中に迫害や困難がやってくると、枯れてしまうことになります。また、これはすばらしい話だと信じても、この世の心づかいや富の惑わしがみことばをふさぐと、実を結ぶことができません。実を結ぶ種は良い地に蒔かれた種です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞くとそれを受け入れ、悟り、このみことばに生きるのです。

 

ここが肝心です。どの畑も確かにみことばを聞くのです。しかし、その聞き方によって結果が違うということです。みことばを聞いても悟らないと、実を結ぶことはできません。神の御国のすばらしさを味わうことができないのです。

 

イエス様はおもしろい話をされました。それは、天の御国は、畑に隠された宝のようなものだという話です。その宝を見つけた人はどうするでしょうか。皆さんだったらどうしますか。その人は大喜びで家に帰り、持ち物全部を売り払ってその畑を買います。なぜなら、その宝にはそれほどの価値があることを知っているからです。まあ、俗的な言い方になるかもしれませんが、皆さんの隣の土地が売りに出されていて、そこに数億円もする金塊が埋まっていることがわかったら、そこがたとえかなり高額な土地であっても、何とかしてその土地を買い求めるでしょう。それは何倍もの価値があるからです。神の国にはそれほどの価値があるのです。あなたは聖書にそれほどの価値を見出しているでしょうか。イエス・キリストにあるすばらしいいのちにその価値を見出しておられるでしょうか。もしかすると他のサークル活動の一部であるかのようにとらえてはいないでしょうか。あなたがどのように受け入れるかによってその結果が決まります。どうか鈍くならないでください。この霊的世界のすばらしさにしっかりと目を留めていただきたいのです。そして、良い地に蒔かれた種のように、何倍もの実を結んでいただきたいのです。

 

新聖歌428番には、「キリストには代えられ」という賛美歌があります。

「キリストには変えられません。世の宝もまた富も この御方でわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみを去れ 世の誉れを行け

キリストには変えられません。世の何物も」

作詞家のRHEA F.MILLER は、どんな気持ちでこれを書いたのでしょう。きっと、キリストに優る恵みはないという思いで書いたかもしれません。その恵みの数々を活の中で味わっていたのだと思います。

 

それは私たちも同じです。確かなことは、あなたも神のみことばを聞いたということです。確かに聞いたのです。しかし、そのみことばにどのように応答するかはあなたの信仰の決断にかかっているのです。どうか鈍くならないでください。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。とパウロは言いました。私たちもそう告白しましょう。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。主よ、私の心はあなたに向かっています。あなたの仰せになられることをみな行いたいと願います。主よ、あなたのうちに私をかくまってくださいと、柔らかな心で日々主に心を向ける者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.乳ばかり飲んでいる(12-13)

 

次に12節と13節をご覧ください。霊的幼子の第二の特長は、乳ばかり飲んでいるということです。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

 

ここでのキーワードは乳です。聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして飲むように勧められています。たとえば、Ⅰペテロ2:2には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。救われたばかりのクリスチャンには、この純粋な、みことばの乳を慕い求めることは大切なことです。それによって成長し、救いを得ることができるからです。救われたばかりのクリスチャンがみことばの乳を飲まなかったらどうなってしまうでしょうか。栄養失調になって病気になってしまいます。ひどい場合は死に至ることもあります。それだけ、生まれたばかりの乳飲み子にとってみことばの乳を慕い求めることは重要なことなのです。また、お乳ばかりでなく手厚い世話も必要です。毎日おむつを交換したり、お風呂にいれて体を洗ってあげます。風邪などひかないようにお部屋もできるだけ適切な温度を保ちます。赤ちゃんが成長していくためにはこうしたお世話がどうしても必要なのです。

 

しかし、どうでしょう。もし20年経っても同じ状態だったとしたら、それは悲劇ではないでしょうか。もちろん身体に障害があってそのような生活を余儀なくされているというケースもありますが、一般的な成人は牛乳も飲みますが、バランスのとれた食事をとり、栄養の管理に努めます。もしそうしなかったとしたら、それは成人とは言えません。幼子なのです。

それは霊的にも同じで、クリスチャンも生まれたばかりの時にはミルクを飲んでたくさん栄養を受けますが、大人になるにつれてミルクばかりではなく堅い食べ物も食べて、健康な身体を維持するように努めます。

 

パウロは、コリントにいるクリスチャンに対して、彼らは霊的赤ん坊だと言いました。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(Ⅰコリント3:1-2)

 

なぜパウロはそのように言ったのでしょうか。なぜなら、彼らの間にねたみや争いがあったからです。なぜねたみや争いがあったのかというと、彼らが肉に属していたからです。ねたみや争いがあるとしたら、それは肉に属している証拠でした。それは、ノンクリスチャンと少しも変わりません。そういう人はもう何年も信仰に歩んでいても、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があったのです。キリストを信じて何年経つてもねたみや争いがあるというのはどうしてでしょうか。それは御霊に属しているからではなく、肉に属しているからです。それは知識の問題ではなく信仰の問題です。ここではそれを、「義の教えに通じていないと」と言っています。義の教えに通じていないのです。確かにイエス・キリストが救い主であることを知り、この方を自分の人生の主として受け入れたにもかかわらず、その神に自分を明け渡すことができないのです。まだ自分が中心で、神のことばに生きることができません。それが肉に属すると言われている人のことです。だから、ねたみや争いが生じるのです。いつまでも肉に属しているかのような歩みをするのです。

 

それはねたみや争いに限らず、たとえば、なかなか神に信頼することができないというのも同じです。いつも不安で、思い煩いから解放されないとか、すぐに人を傷つけるようなことを言ってしまったり、やったりしてしまう。私たちは不完全な者ですから、キリストを信じてもすぐにそのようなことをしてしまう弱さがありますが、ここで言う弱さとは本質的に違います。肉に属しているのか、それとも御霊に属しているのかということです。自分の思い通りにいかないとすぐに不平不満をぶちまけてしまうこともあります。みことばに生きることができないのです。そういう人は義の教えに通じてはいないのです。

 

この義の教えに通じていないというのは、現代訳を見ると、「神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができない」と訳しています。神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができないのです。聖書の中には神のすばらしい約束がたくさんあります。それなのに、そのすばらしい教えを体験することができないというのです。義の教えに通じていないからです。自分はもう何でもわかっていると誤解しているため、学ぶ必要はないし、どんなに聞いても、「あっ、それは前に聞いたことがある」とか、「あ、私はちゃんとやっている」というレベルに留まるため、それ以上、神の恵みを味わうことができないのです。

 

その体験というのは、いつも信仰によります。この書の11章には、信仰によって生きた人たちの証が紹介されていますが、その特徴は何かというと、信仰によって生きたということです。信仰について聞いたのではありません。信仰を体験したのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル11:7)

まだ全く雨が降らなかった時代、ノアは神から箱舟を作るようにと言われたとき、彼はそのことばに従って箱舟を作りました。神からそのように警告を受けたからです。だから、彼は神を畏れかしこんで、自分と家族のために箱舟を作り、その中に入って救われたのです。周りの人たちから見たらバカじゃないかと思われたでしょう。当時は天気予報があったかどうかわかりませんが、雨が降る気配は全くありませんでした。降ったとしてもそんなに大きな船を作っていったい何になるというのでしょう。でもノアは箱舟を作りました。なぜでしょうか。暇だったから・・。違います。ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、それを信じたからです。

 

皆さん、信仰とはこれです。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)見えるものを信じることはだれにでもできます。大切なことは、まだ見ていないものを信じることです。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだからです。ノアはまだ見ていませんでしたが、神の言われたことばを信じたのです。それが信仰です。

 

ですから、信仰とは知識ではなくて体験なのです。もちろん、知識も大切ですが、そこに留まっているだけではだめなのです。神の御心を知ったら、それを行わなければなりません。それが信仰です。そこで私たちは神の御心についての教えを味わうことができるのです。そこにはワクワクするような神の不思議と恵みが溢れているのです。それを体験することができるのです。

 

もうすぐさくら市でも開拓がはじまりますが、ワクワクしますね。なぜなら、そこで神がどのようなことをしてくださるのかがとても楽しみだからです。いったいそこでどんなことが起こるのかわかりません。でも神様は必ずすばらしいことをしてくださいます。なぜなら、わたしたちはそう信じているからです。そう信じているから一歩踏み出したわけです。その信仰に主が答えてくださらないわけがありません。私たちはそこで必ず神の御業を味わうことができるのです。

 

かつて福島で教会堂建設に携わったときのことですが、教会堂を建てたくても土地が高くて広い土地を確保するのは困難でした。どうしようかと祈りながら、当時、まだ娘が小学校と幼稚園に通っていた時でしたが、毎朝市内の学校に送って行った後で、すぐ近くにあった信夫山の小高い丘に登り祈りました。「主よ。助けてください。ご存知のように、私たちには何もありません。でも小さな会堂は一杯になりもっと広い場所が必要です。主よ。どうか道を開いてください。」と祈っていたら、創世記26章のみことばが与えられたのです。

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い地を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(創世記26:22)

「レホボテ」とは「広々とした所」という意味です。イサクは何度も井戸を掘りましたが、掘るたびにその地の住人と争いが起こったため、別の所に移動しなければなりませんでした。しかし、彼が三度目に掘った井戸は争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。彼らがその地で増え広がるようにと、神は彼らに広い土地を与えてくださったのです。

私はこの箇所を呼んたとき、これは私たちに対する主の約束だと信じました。そして「レホボテ」「レホボテ」と叫びながらその場を何度も飛び跳ねたのを覚えています。それは人間的には全く考えられない事でした。けれども、神にとって不可能なことは一つもありません。そして神はその約束のとおりに、私たちに広い土地を与えてくださったのです。私にとって最もすばらしい経験は、この神の御心についての教えを味わうことができたことです。もし私たちが信仰をもって受け止めるなら、私たちはいつでもこのすばらしい神の御心を体験することができるのです。そして、神がどのような方なのかを体験を通してはっきりと知ることができるのです。

 

もうすぐさくら市での働きも始まりますが、これは何かというと、私たちがこのすばらしい神の恵みを体験し、神の御名の栄光をほめたたえる機会であるということです。水を汲む者は知っていた。イエス様が最初の奇跡としてカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた時の奇跡です。だれがその恵みを体験したのでしょうか。水を汲む者は知っていたのです。ただ神のみことばに従って、神の御心を行う人は、このすばらしい神の御業を体験することができるのです。

 

Ⅲ.良い物と悪い物とを見分けることができない(14)

 

霊的幼子の第三の特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていないということです。14節をご覧ください。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

 

霊的に成熟している人のもう一つの特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されているということです。神のみことばは、ある意味で「堅い書物」だと言えるでしょう。一度読んでみて、「ああ、そういうことか」とすぐに理解できるほど易しい書物ではありません。特に、このヘブル人への手紙のように旧約聖書の背景をよく理解していない人にとってはチンプンカンプンかもしれません。そして、このような箇所を学ぶには忍耐も求められます。しかし、よく祈り、深く瞑想し、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼するなら、必ず理解できるようになり、霊的に成熟した者となることができるのです。そして、そのようにして霊的に養われますと、いつの間にか、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されるのです。何が神のみこころで、何がそうでないのかを、識別できるようになるのです。ここにはイエス・キリストが偉大な大祭司であり、とこしえの救いを与える方であるということが、感動をもって伝わってくるのです。そのような成熟した者になることができたら、どんなに感謝なことでしょう。そのためにも私たちは、いつも成熟を目指して進まなければなりません。自分はもうわかっているから大丈夫だと思うことが問題です。そういう人こそ、耳が鈍くなっているからです。義の教えに通じていません。

 

たとえば、このようなみことばがあります。皆さんもよく知っているみことばです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)です。

 

どうですか?これは易しい言葉です。だれでも理解できるでしょう。でも、いざこのみことばを実行しようと思ったらどうでしょうか。「いつも喜んでいなさい」とか、「絶えず祈りなさい。」「すべてのことについて感謝しなさい」と言われても、うれしい時には喜び、感謝できる事があれば感謝することができても、いつも、どんなことも喜び、感謝できるかというと、なかなかできるものではありません。そう思うと、自分がいかに霊的成熟を遂げていない者であるかがわかります。それなのに自分は成熟していると思っていることが問題なのです。だから私たちは主にこう申し上げましょう。

 

「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

これは悪霊にとりつかれていた息子をいやしてもらおうとイエス様のところにやって来た父親が、イエス様に向かって発した言葉です。彼はイエス様を信じているつもりだったのに、信じていたからこそイエス様のもとにやって来たのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言ったのです。彼の信仰とその言葉にはある種のギャップがありました。イエス様は彼を助けることができると信じていたはずなのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで助けてください。」と言ってしまいました。これは私たちの信仰に似ているのではないでしょうか。ついつい本音が出てしまったのです。口では信じていると言っていても、心の中では「無理だろうな」「できるはずがない」と思っているのです。経験によって良い物と悪い物とを見分ける訓練がされていないのです。すなわち、神の御心についてのすばらしい教えを本当の意味で味わっていないのです。なのに、私はもうわかっていると思いこんでいるのです。

 

わかっているようでわかっていない。私たちはそんな弱い者なのです。だから、今からでも遅くはありません。私は神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるほど幼い者なのだと認めて、謙虚に学び初めてください。

きょうはこの後で信仰生活ステップ・アップという学び会もあります。いきいきした信仰生活のために必要な3つのことを学ぼうと思っています。これにもぜひ出席してください。通り一遍等にこれらのことをするというのではなく、霊的成長に必要なこととして、もう一度誠心誠意これらのことから始めてみてはいかがでしょうか。霊的成長に近道はありません。コツコツと毎日やっていれば必ず成長し、成熟したクリスチャンになっていくでしょう。そのとき、すばらしい神の御心に関するすばらしい教えを本当の意味で味わい知ることができるのです。

申命記9章

きょうは、申命記章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.主が敵を追い払われたのは・・・(1-6

 

「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」

 

ここにも「聞きなさい」とか、「知りなさい」という言葉が繰り返して出てきています。彼らは何を聞かなければならないでしょうか。それは主が彼らの前に進み、摘を根絶やしにされるということです。それは彼らが強いから、彼らが正しいからではありません。それは主がアブラハム、イサク、ヤコブに訳されたからであり、その約束を果たされるためです。それは主が約束されたことを果たされる真実な方だからなのです。

このことを考えると、私たちはとても安心感が与えられます。これがもし自分たちの正しさのゆえであったとしたら、そうでなかったとしたらたちどころに滅ぼされてしまうことになります。しかし、それは私たちとは全く関係なく、ただ主が正しい方なので、主がそのように約束された方なので、その約束に従ってその地の住人を追い払ってくださるのです。

それゆえに6節には再び、「知りなさい」と出てきます。主は、私たちが正しいということで、この良い地を与えてくださるのではなく、むしろ、私たちはうなじのこわい民であるにもかかわらず、主はそのようなことをしてくださるのです。

いったい私たちはどれほどうなじがこわい民なのかを見ていきましょう。続く7節から21節までに、そのことについて記されてあります。

 

2.主に逆らい続けてきたイスラエル(7-21

 

「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。」」

 

ここには、イスラエルがいかに主に逆らい通しであったかが示されています。彼らはホレブで主を怒らせました。いたいホレブでどんなことがあったのでしょうか。せっかく主がモーセを通して二枚の石の板、契約を与えてくださったというのに、彼らは堕落して、自分たちのために鋳物の像を作ってしまったのです。12節を見ると、「早くもそれて」とありますが、彼らはなぜそんなにも早くそれてしまったのでしょうか。人はみな目に見えるものに弱いんですね。少しでも状況が不利になるとすぐに不安になってしまうのです。実際に導いてくれる対象がほしいのです。そういう弱さがあるのです。

 

それはホレブでの出来事だけではありません。22節には、「あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。」とあります。タブエラではどんなことがあったでしょうか。これは民数記11章に記録されてある内容ですが、ホレブの山を出るとすぐに、彼らのうちのちのある者たちが激しい欲望にかられ、モーセにつぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい」と。「エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎも、にんにくも。」なのに今はこのマナを見るだけだ・・・。それはモーセにとってとても苦しいことでした。あまりにも苦しかったので、自分一人で背負うことができず、民の長老たちの中から七十人を集め、モーセをサポートしなければなりませんでした。そして主は、そのようにつぶやいたイスラエルに対して、主は肉をくださるが、一日や二日ではない。十日も、二十日も、一か月もであって、ついには彼らの花から出て来て、吐き気を催すほどになる、と言われたのです。そして、彼らがキプロテ・ハタアワまでやって来た時には、主はうずらの大群を運んできたので食べることができたのですが、彼らの歯と歯の間にあるうちに激しい疫病が起こり、彼らはそれで死に絶えたのです。

 

マサでの出来事というのは、エジプトを出てすぐのことです。彼らはエジプトを出てすぐシナイの荒野に導かれたのですが、そこには飲み水がありませんでした。レフィデムに宿営したときのことです。それで彼らは主を試み、つぶやいて言いました。「自分たちをエジプトから連れ出したのは、自分死セブンたちを渇きで死なせるためですか。」人は苦しくなるとすぐにこのようにつぶやいてしまいます。主を信じることができないのです。それでモーセはどうしたかというとあの杖をもってホレブの岩の上に上り、そこで岩を打つと、岩から水が流れ出たのです。その岩とはだれでしょう。コリントを見ると、その岩こそイエス・キリストであったとあります。つまり、イスラエルの四十年の荒野の旅は、主イエスを信じた後の私たちの信仰の旅でもあるのです。そこには多くの苦しみがあります。試みが起こります。しかし、イスラエルが岩からほとばしる水を飲んだように、私たちも岩であるキリストから飲み続けることができるのです。モーセはそのところをマサ、またメリバを名付けました。それは彼らが主と争い、主を試みたからです。彼らはそれほどまでに主に境続けたのです。

 

そして、23節にはカデシュ・バルネヤでの出来事が記録されています。忘れられない出来事です。彼らはそこから偵察隊を遣わしてかの地を探らせたのに彼らは主のみことばにそむいて上っていかなかったので、その後38年間も荒野をさまようことになってしまいました。当然、二十歳以上の男子はみな荒野て滅んでしまうことになりました。彼らか主を信じなかったので、神のさはぎを招いてしまいました。

 

3.神の慰め(25-29

 

「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」

 

しかし、主はそれでもイスラエルを滅ぼそうとはなさいませんでした。ここでモーセはイスラエルの民がほぼされないように祈っています。彼はどのように祈ったでしょうか。

代位に彼は、イスラエルは主が力強い御手を持ってエジプトから連れ出された民であるということ、第二に、確かにイスラエルはうなじのこわい民ではあるけれども、主はその彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約をされた神であるということ、そして第三は、もし主がイスラエルを滅ぼすというようなことがあるとしら、その地の住人の物笑いとなり、無全く証にならないということ、そして第四に、彼らがどんなに不忠実な民であっても、神によって贖われた神の民、神の所有の民であり、その大いなる力と述べられた腕とをもって連れ出された民であるということです。

 

つまり、神がイスラエルを救われるのはイスラエルが何か良い民であり、特別な民だからなのではなく、主ご自身の栄光のためであるということです。うしたモーセのとりなしにゆえに、彼らは神のさばきを免れ、約束の地まで導かれました。それは彼らが正しい民だからではなく、何か特別な能力があったからでもなく、神が彼らを愛されたから、彼らを愛してご自分の所有の民とされたからなのです。

 

こうした神の特別の愛の中に私たちも置かれているのです。モーセがイスラエルの民のためにとりなして祈ったように、私たちもまだ救われていない神の民のためにとりなし、祈る者でありたいと願わされます。

申命記8章

きょうは、申命記8章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.試みられる神(1-10

 

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。次から、これから入る約束の地の姿について書かれています。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」

 

 モーセは何回も何回も、主がイスラエルに命じるすべての命令を守り行うようにと命じます。なぜでしょうか。そのために主は、イスラエルが荒野を歩んだ全行程を思い出させています。そこには多くの苦しみ、試みがありました。荒野ですから食べ物や飲み物がありませんでした。それはまさに死活問題であったわけですが、いったいなぜそのような苦しみがあったのでしょうか。それは、彼らが主の命令を守るかどうか、彼らの心のうちにあるものが何であるのかを知るためでした。

 

 主は私たちを試みる時があります。いったいそれは何のためかというと、そのような苦しみの中にあっても主に拠り頼むなら、主が助け導いてくださることを知るためでした。3節には、『それは、無人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』とありますが、まさにそのためだったのです。

 

 ヤコブ書12節から4節には次のようにあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

私たちに試練があるのは、私たちの成長のためなのです。その試練がためされて忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、成長を遂げた、完全な人になることができまるからです。だから、ヤコブは、「さまざまな試練に遭うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのです。確かに、できるなら試練を避けたいと思うものですが、しかし、その試練を通して学び、それを乗り越えることによって、本当の意味で成長を遂げることができるということを思うとき、それはむしろ喜ばしいものでもあるのです。かわいい子には旅をさせよ、ということばがありますが、主は、人がその子を訓練するように、私たちを訓練されるということを、私たちは知らなければなりません。そのような苦しみにある時こそ信仰を働かせ、全能の神に拠り頼まなければならないのです。イスラエルの荒野での四十年は、まさにそれを文字通り経験する時であり、このことを学ぶ学びの場であったのです。

 

 そして、イスラエルが入って行こうとしている地は良い地です。そこには、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地です。小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の血です。十分に食べることができ、何一つ足りないものがない地です。そのような地に導いてくださるからなのです。何という希望でしょう。このような地へ導き入れられるということを知るなら、目の前にどんな大きな試練があっても乗り越えられるのではないでしょうか。私たちは目の前の問題を見るのではなく、その先にある希望に目を留めなければなりません。

 

Ⅱ.主を忘れることがないように(11-18

 

次に11節から18節までをご覧ください。

 

「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

ここでモーセは、イスラエルの民に向かって注意を促しています。それは、彼らに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、彼らの神、主を忘れることがないように、気を付けなさい、ということです。いつそのようなことが起こりやすいのでしょうか。12節にあるように、「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて済、牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、所有物が増し加わる時です。その時心が高ぶり、主を忘れてしまいがちなのです。そのような時、愚かにも人間は、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだと言うようになるのです。

 

しかし、主が彼らを祝福し、彼らをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、あの恐ろしい荒野を通らせた際に、堅い岩から水を流れ出させて飲ませ、天からマナを降らせて食べさせたのはいったい何のためだったのかというと、彼らを苦しめ、彼らを試み、ついには、彼らをしあわせにするためだったのです。主は彼らを祝福したいと願っておられますが、それは、彼らの心が高ぶって、自分の手のわざを誇るためではなく、主に感謝し、主をほめたたえるためだったのです。しかし、そうしたしあわせがもたらされると、あたかもそれを自分で手に入れたかのように錯覚してしまうのは彼らだけのことではなく、私たちも同じです。のど元過ぎれば熱さ忘れるということわざがあるように、あの苦しみの中にいた時は主に助けを求めても、そこから解放されるとすぐに主を忘れてしまうというのは、昔も今も変わらない人間の愚かな性質でもあるのです。ですから、私たちは、いつも主を忘れないようにしなければなりません。18節でモーセは、「あなたの神、主を心に据えなさい。」と言っていますが、主を心に末なければならないのです。

 

もう一つのことは、主が彼らに富を築き上げる力を与えられるのは、彼らの先祖たちに誓った契約を果たされるためであるということです。つまり、主は、イスラエルが何か良いものを持っているから祝福されたのではなく、あくまでも契約を履行されるために祝福されるということです。この理解はとても大事です。主はご自分が約束されたことは、必ず成就してくださいます。契約に違反するようなことは決してなさらないのです。私たちの主は契約を果たされる真実な神なのです。

 

その真実のゆえに、主は私たちの罪を赦され、神の子どもとしてくださいました。神が私たちをご自分の子としてくださったのは私たちが良い人間だからではなく、ましてや特別な能力があるからでもなく、そのように約束してくださったからなのです。それが時至って成し遂げられました。イエス・キリストを通してです。神は私たちをこよなく愛し、私たちを罪から救うためにメシヤを遣わしてくださると約束してくださり、このメシヤを信じる者を罪に定めないと約束してくださったので、その約束のゆえに、私たちは赦されているのです。私たちはこの契約の中に入れられているのです。ですから、どんなことがあっても、私たちを罪に定めることはできません。(ローマ8:31-39

 

Ⅲ.万が一、主を忘れるようなことがある場合(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わります。ここには、もし主を忘れるようなことがある場合どうなるかが語られています。

 

「あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。」

 

人が自分の力で、自分の手でこのようなことをしたのだと思い始めると、主を忘れるようになるだけでなく、ほかの神々に仕え、これらを拝むようになると言われています。この場合の神々とは必ずしも手でこしらえた偶像だけでなく、神以外のものを神とすることを指しています。まことの神から離れれば、それに代わる何かに捕われてしまうのは当然のことだと言えます。それゆえ、いのちある神との交わりが阻害されてしまうのです。

 

そのようなことになればどうなるかというと、必ず滅びることになってしまいます。主に従い、主のおきてと、主の定めを守るなら、そこにいのちと祝福が溢れますが、反対に心が高ぶり、主から離れてしまうなら、滅びを招くことになってしまうのです。

 

このイスラエルに対する戒めは、教会に対しても言えることです。黙示録には、豊かになったラオデキヤの教会に対して、主はこのようなことばを書き送りました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分のありのままの姿を知らなければいけません。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18

 

ですから、私たちは金も、衣も、目薬も、主イエスからいただかなければなりません。イエス様からいただいて、真理を悟らせていただきながら、神に喜ばれる道を歩まなければならないのです。それが心に主を据えるということです。どんな時でも主を忘れることがないように、いつも心に主を据えて歩む物でありたいと願わされます。

ヘブル5章5~10節 「とこしえに救いを与える方」

きょうは、イエス・キリストこそとこしえの救いを与えることができる方であるということをお話したいと思います。まず5節と6節をご覧ください。

 

Ⅰ.神によって立てられたイエス(5-6)

 

5節には、「同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』と言われた方が、それをお与えになったのです。」とあります。「同様に」というのは、その前のところで語られてきたことを受けてのことあります。その前のところ、すなわち、5章1節から4節までのところには、大祭司はどのようにして選ばれるのかについて3つのことが語られていました。すなわち、第一に、大祭司は人々の中から選ばれなければならないということでした。なぜでしょうか。なぜなら、大祭司は人々に代わって神にとりなしをする人ですから、その人々の気持ちを十分理解できる人でなければその務めを十分果たすことはできないわけです。

 

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、人々の弱さを十分身にまとっていなければならないということでした。自分自身も弱さを身にまとっているからこそ、人の痛みを十分理解し、そのために心から祈ることができるわけです。私は新年早々胆嚢摘出手術で一週間入院しましたが、中にはとても喜んでくださる方がおられまして、その喜びというのは「ざまあみろ」とか、「あっすっきりした」といった気持からでなく、どうも私は人からは強い人間に見られているようで、そんな私が一週間も入院したものですから、これで牧師も人の痛みが少しはわかったに違いないといった安堵心からのようでした。しかし、幸い、あれから大分自分の体をいたわるようになったためか、以前よりもぐっと調子がよくなった感じがします。こんなに調子がよくなるなら、もっと早く手術を受けていればよかったなぁと思っているほどです。

それから大祭司のもう一つの条件は何だったかというと、大祭司は自分でなりたくてもなれるわけではなく、神に召されて受けるのですということです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、神によって召され、神よってそのように立てられたからこそその立場に着いておられるということです。

 

それは、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』という言葉からもわかります。これはいったい、だれが、だれに言った言葉なのでしょうか?これは旧約聖書の詩篇2篇7節の言葉からの引用です。このヘブル人への手紙の中には、この聖句が何回も何回も引用されています。それはイエスさまが、父なる神から、「あなたは、わたしの子」と呼ばれている、つまりイエスさまが神の独り子であることの宣言なのです。イエスさまは、旧約聖書の昔から神とともにおられたひとり子の神であり、人類を罪から救うために神によって遣わされたメシヤ、救い主であることとの証言なのです。イエス様はその辺のちょっとした偉大な人を超えた神のメシヤ、救い主なのです。そのことを表しているのがこの聖句です。

 

ここには、「きょう、わたしがあなたを生んだ。」ことばがありますが、エホバの証人の方はこの言葉が大好きで、「ほら、みろ。キリストは神によって生まれたと書いてあるではないか。神であるなら生まれるはずがないじゃないか、キリストはその神によって生まれた子にすぎないのだ」と言われるのですが、ここではそういうことを言っているのではありません。この「生んだ」という言葉は、神様がイエス様を「オギャー」と産んだということではなく、第一のものになるとか、初穂になるという意味なのです。つまり、イエスさまが死者の中からよみがえられたことによって、イエスが神の御子であられることが公に示されたのです。もしイエスが死んで復活しなかったらどうでしょうか。それは私たちと何ら変わらない人間の一人にすぎないということになります。確かに偉大なことを教え、すばらしい奇跡を行ったかもしれませんが、所詮、それまでのことです。しかし、キリストは死者の中からよみがえられたので、彼が神の子であることがはっきりと証明されたのです。つまり、これはキリストが神の子、メシヤ、救い主であることの照明でもあるのです。イエスは神の子であり、全く罪のない方であり、私たちの罪を完全に贖い、私たちを神のみもとに導くことができる方なのです。

 

それゆえに、このイエスについて別の箇所でこう言われているのです。6節、

『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。』」

 

「メルキデゼクの位に等しい祭司」であることについては7章のところに詳しく出てくるのでそこで取り上げたいと思いますが、ここではただ一つのことだけを申し上げたいのです。このメルキデゼクという人物はエルサレムの王であり、祭司でもあった人で、アブラハムの時代にいた人物であるということです。大祭司というのはアロンの時代に初めてその職に任じられたわけですから、それよりもずっと先の時代の人であったということです。つまり、このメルキデゼクという人はアロンよりもすぐれた大祭司であり、ちょっと不思議な大祭司であったということです。そして、ここでは神の子イエスがメルキデゼクの位に等しい大祭司であると言われているのです。ここには、彼は「とこしえに」祭司であると言われていることから、キリストはそのような類な大祭司であるということがわかります。つまり、キリストは、私の罪も、あなたの罪も、完全にあがなうことがおできになられる方であって、そのために神によって立てられた方なのです。

 

このような方がいたら、あなたも助けを求めたいと思いませんか。人間は一見強そうでも、ちょっとしたことですぐに右往左往するような弱い者でしかありません。きょうは何でもなくても明日はどうなるかさえわからない不確かな者なのです。しかし、人間を超えた確かな神、メルキデゼクの位に等しい大祭司に支えられながら生きれらるということはどんなに幸いなことでしょう。私たちにはこのような支えが必要なのです。あなたは、それをどのように持っておられるでしょうか。

 

Ⅱ.涙をもって祈られたイエス(7)

 

次に7節をご覧ください。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」

 

どういうことでしょうか。大祭司であるためのもう一つの条件は、人々を思いやることができるということでした。まさに、ここにはそうした大祭司イエスの姿が描かれているのです。4章15節にも、「私たちの弱さに同情することがおできになられるのです。どのようにおできになられるのでしょうか。ここには、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。

 

確かにイエス様の生涯をみると、それは祈りの生涯でした。しかしその中でも、死を目前にしたゲッセマネでの祈りは、私たちの想像をはるかに超える激しい祈りでした。イエスは十字架の死を前にして、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)と三度も祈られました。それはこけまでひと時も離れたことがなかった父と離れることの苦しみを表していたからです。ルカは「汗が血のしずくのように地におちた。」と記録しています(同22:44)。それほど激しい祈りの葛藤でした。

しかし、それはゲッセマネの園での祈りだけではありません。というのは、ここに「キリストは人としてこの世におられたとき」とあるからです。この原文を直訳すると、「キリストは、ご自分の肉の日々において」となります。つまり、これはイエス様の地上生活の中のある特定の日のことを指しているのではなく、イエス様がこの地上で生活をしておられた間中のことなのです。ですから、イエス様はゲッセマネの園での祈りだけでなく、いつも涙を流して叫び続けておられたのです。あなたのために涙をもって祈っておられるのです。

 

一体どこのだれがこの私のために、あなたのために、涙を流して祈ってくれたでしょうか。イエス様以外にはおられません。主イエス様以外に、あなたのために涙を流して祈ってくれる方はいないのです。しかも、イエス様はいつもそのように祈っていてくださいます。この地上におられた時だけでなく、天におられる今も、父なる神に私たちのためにとりなしていてくださるのです。なんという大きな恵みでしょうか。

 

旧約聖書にサムエルという預言者が登場しますが、彼はイスラエルが神制から王制に移行していく際に大きな貢献を果たした人物です。なぜ彼がそれほどの貢献を果たすことができたのでしょうか。その背後に母ハンナの涙の祈りがあったからです。ハンナは夫のエルカナに愛されていましたが、残念ながら、なかなか子どもが与えられませんでした。その当時、妻の最大の役目は跡継ぎを産むことでしたから、それが彼女にとってどれほど屈辱的なことだったかわかりません。しかも、夫のエルカナには、ペニンナというもう一人の妻がいて、彼女には何人かの子供が与えられていたので、そのことでペニンナからも辛く当たられ、ハンナの苦しみは更に増すばかりでした。とうとうハンナは、食事もできないほどに悲しみに暮れるようになりました。

そんなある日、ハンナは、夫エルカナと共に神殿に上り、そこで、子どもを授かることを願って熱心に祈りました。彼女は主に祈って、激しく泣いたとあります。

ハンナが主の前であまりにも長く祈っていたので、祭司のエリはそれを見て心配になりました。くちびるが動くだけで、その声が聞こえなかったからです。それで、もしかしたら酔っぱらっているのではないかと思ったのです。

「いいえ、祭司様。私は酔っぱらってなんていません。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、酒も飲んではおりません。私はただ主の前に心を注いで祈っていたのです。」

そのようにして与えられたのがサムエルです。そうした母の涙の祈りはサムエルが生まれた時だけではありませんでした。彼が成長し、やがて主のために用いられるようになってもずっと続きました。そうしたサムエルの働きの背後には、こうした母の涙の祈りがあったのです。

 

それはサムエルだけではありません。このキリスト教の歴史を振り返ると、偉大な働き人の背後にはいつもそうした涙の祈りがあったことがわかります。

たとえば、皆さんもよくご存知のアウグスティヌスもそうでした。アウグスティヌスは4世紀最大の教父といわれ、その思想と信仰は今でもローマ・カトリック教会でも、プロテスタントでも支持されています。そして最後はヒッポの監督にまでなりました。しかし、彼の若い時はそうではありませんでした。

アウグスティヌスは若い時に神から離れて享楽的な生活に浸り、熱心なキリスト教徒のお母さんモニカを悩ませました。また彼は当時の新興宗教であったマニ教にもはまるのです。どうしたらいいかわからず悩んだ母モニカは、彼が悔い改めて神のもとに帰るようにと祈りました。そしてある日、教会で祈っていたとき、その教会の神父がその様子を見て、こう言いました。

「子供は必ずあなたのところに帰ってきますよ、涙の子は滅びないと言いますから」

その言葉に慰められた母モニカは勇気を得て、いよいよ熱心に祈りました。しかし、その祈りが応えられたのはアウグスティヌスが32歳のときでした。彼がイタリアのミラノの庭園で木陰に身を寄せていたとき、隣の家の庭で遊んでいた子供たちの清らかな声が聞こえてきました。「取りて読め、取りて読め」。これを聞いたとき、彼は急いで部屋に入り聖書を手にして開いたところが、ローマ書13章12~14節の箇所でした。そこにはこうありました。

「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」

彼の心は震え、やがて静まり、そしてやがてほのかな光と平安が彼の心に差し込んできたのです。そしてキリスト教に入る決心をしたのです。これがアウグスティヌスの劇的回心のときでした。そして「神よ。わが魂は、あなたのもとで安らぎを得るまで揺れ動いています。」という後世に残る有名な言葉を残したのです。

そして34歳の復活祭の日に、アンブロシウスによって洗礼を受けたのでした。これをいちばん喜んだのは言うまでもなく母モニカでした。「涙の子は滅びない」という言葉が現実になったのです。しかし母モニカはそれから9日目に天に召されました。まさしく母モニカの一生は、アウグスティヌスの回心のために捧げられた生涯でした。

すばらしいですね。涙の子は滅びません。涙の祈りは答えられるのです。そして、私たちの主イエスは、私たちのためにいつも涙を流して祈っているのです。

 

ノアという賛美グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。  「聞こえてくる」 あきらめない。いつまでも イエス様の励まし 聞こえてくる 試練の中でも 喜びがある 苦しみの中でも 光がある ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く

 

私たちにはイエス様の涙の祈りがあります。イエス様はいつもあなたのために祈っています。あなたはそのように祈られているのです。よく「私なんで・・」という人がいますが、それは事実ではありません。そんなあなたでも祈られているのです。そのことをどうか忘れないでほしいと思います。そして、たとえ試練があっても、たとえ苦しみがあっても、あきらめずに進んでいこうではありませんか。

 

Ⅲ.完全な者とされたイエス(8-10)

 

ところで、涙をもって祈られたイエス様の祈りはどうなったでしょうか。7節を見ると、「その敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様が神の子であられるのなら、イエス様の祈りが答えられるというのは当たり前のことではないでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、この地上に生きる人間がいかに神の御心にかなった歩みをするのが難しいかを見ればわかります。しかし、イエス様の祈りは、その敬虔のゆえに聞き入れられました。現代訳には、「父である神を畏れかしこむ態度によって」と訳されています。父である神を畏れる態度とは、もう少し別の言葉で言うと、こういうことです。8節から10節をご覧ください。

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。」

 

キリストは本来、神の御子であられる方ですから、従順を学びというのは不思議なことです。こういう記述からエホバの証人の方は、「ほら、見てください。キリストは神の子ですが、神ではないということですよ。」と訳の分からないことを言うわけです。しかし、ここではそういうことを言っているのではありません。キリストが神に従うことを学ばれたのは、キリストが本来そのような性質を持っておられなかったからというのでのではなく、本来持っておられたにもかかわらず、なのです。それが神の「御子であられるのに」という言葉で表現されていることなのです。それなのに、ここでもう一度従順を学ばれたのは、それによってご自分の完全さを実証されるためであり、それゆえに、ご自分に従って来る人々に対して、とこしえの救い、永遠の救いを与える者となられるためだったのです。だから、このことはむしろキリストが本来そのような方であることを、むしろ強調している箇所でもあるのです。そのような方であるにもかかわらず、それをかなぐり捨てて、神に従われました。そのことを、ピリピ2章6~11節にはこう言われています。

 

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」

 

それは、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。イエスこそキリスト、救い主です。イエスは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 

皆さん、イエス・キリストこそ完全な救い主であられ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与えることがおできになるお方なのです。キリストはあなたも完全に救うことができるのです。この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。それゆえ、私たちはこの完全な大祭司であられるイエスの御名に拠り頼み、どこまでもイエスに従う者となろうではありませんか。

 

あなたは何に信頼しているでしょうか。どこに救いを求めておられるでしょう。あなたを助け、あなたにとこしえの救いを与えてくださる方は、あなたの罪を贖ってくださった救い主イエスです。このイエスから目を離さないようにしましょう。

 

先ほども申しげたように、私は先週まで一週間入院して胆石の治療にあたっていましたが、それは自分が想像していたよりも少し大変な手術でした。何が大変だったかというと、手術の前には浣腸して腸にあるものを全部出すのですが、それが看護ステーションの隣にある処置室でなされるのです。便の状態を確認しなければならないからとのことですが、全く慣れていないこともあって屈辱的に感じました。そして、手術中は全く何もわかりませんでしたが、終わってから尿に管がついていてあまり身動きできないんですね。動きたくても体中に管が巻き付いていて気になって眠れないのです。するとだんだん麻酔は切れてきますし、気持ちは悪くなるし、ああ、こんなにひどいのかと一瞬思ったほどです。時々見舞いに来てくれる永岡姉のお顔が天使のように見えるほど、ありがたく、また安心しました。

でも、私はこの手術に臨むあたり一つみことばが得られました。それは詩篇62篇621,2節のみことばです。

 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」

 

浣腸の時も、「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神

。神こそ、わが岩、わが救い。わがやぐら。私は決して揺るがされることはない。」と思う、不思議に平安が与えられるのでした。

 

皆さん、主こそあなたの救いです。あなたはっ決して揺るがされることはありません。この主に信頼して、この新しい年も前進させていただきましょう。

申命記7章

きょうは、申命記7章から学びます。モーセは、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。前回のところでは、親が子どもに教える内容とその理由を語りました。それは、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでした。なぜなら、主は彼らをエジプトから救い出された方であられるからです。それがイスラエルの根源にあることで、新約の時代に生きる私たちにとっては十字架と復活による罪の贖いを指しています。私たちを罪から贖ってくださった主に従うことを、自分の子、孫、そしてその子孫に語り告げなければならないのです。そして、きょうのところには、異邦人を追い払うことについて教えられています。

 

1.互いに縁を結んではならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。」

 

 イスラエルが、入って行って、所有しようとしている地には、多くの異邦の民がいます。ここにはその七つの民が列記されています。それはヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人です。これらの民はイスラエルよりも圧倒的に多く、強い民ですが、主が彼らを追い払ってくださるので恐れる必要はありません。何と力強い宣言でしょうか。この新しい一年が、力強い主の約束に守られてスタートできることを感謝します。

 

しかし、主がそのように先住民族を追い払われるとき、イスラエルの民が注意しなければならないことがありました。それは、主がそのように彼らを打つとき、彼らを聖絶しなければならないということです。彼らと何の契約も結んではならないし、容赦してはなりませんでした。

また、彼らと互いに縁を結んでもなりませんでした。それは具体的にどういうことかというと、彼らの娘をその地の息子に与えはならないし、その地の娘を彼らの息子にめとってはならないということです。なぜでしょうか?それは彼らの息子が主から離れることによってしまうからです。そうなれば、主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主はたちどころに彼らを根絶やしにしてしまわれます。ですから、彼らはその地の住民の祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければなりませんでした。

 

パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。」(Ⅱコリント6:14-15

 

これは、不信者との関わりを一切持ってはいけないということではありません。むしろ、神の愛を伝えていくために彼らと積極的に関わっていくべきです。けれども、そのことによって自分たちが立っているポイントを見失うことがないようにしなければなりません。光と闇とに全く交わりがないように、キリストと悪魔には何の交わりもないのです。度を越えた交わりは命取りとなってしまいます。それが不信者との結婚なのです。結婚は神が定めたもっとも親密な関係であるがゆえに、不信者と縁を結ぶなら、その根本が崩れてしまうことになります。つまり、まことの神から離れてしまうことになるのです。「いや、たとえ信仰が違っても別に問題はない」と言う人がいますが、本当でしょうか。そのようなことは決してありません。相手があなたに合わせているか、あなたが相手に合わせているかであって、最も深いところで一つになることはできないのです。それどころから、あなたは確かに信仰に歩んでいるようでも、もっと深く入っていこうものなら相手のことが気になってブレーキをかけてしまうことになるでしょう。つまり、同じ土俵に立てないのです。その結果、神との関係が弱くなってしまうか、離れてしまうことになってしまいます。

 

Ⅱ.主があなたがたを愛されたから(6-16

 

いったいなぜ主は異邦の民と縁を結ぶことについて、そんなに厳しく命じておられるのでしょうか。その理由が6節から16節までのところにあります。

 

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。」

 

異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが主の聖なる民だからです。「聖」というのはある一定の目的のために分離されるという意味です。彼らが分離されて、聖なる神のものとされたということです。それをここでは「ご自分の宝の民とされた」と言われています。神によって造られた民はこの地上に数多くあれども、主は、この地の面のすべての国々の民にうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされたのです。これはものすごいことです。この世界には何十億という人が住んでいますが、その中で私たちを神の民、宝の民としてくださったのです。それはどのくらいのパーセントの確率かというと、この日本では1パーセント以下の確率です。その中に私たちも入れさせていただきました。主の宝の民とされたのです。これはものすごいことではないでしょうか。ですから、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

いったいなぜ主はイスラエルをご自分の宝の民として選ばれたのでしょうか。7節からのところらその理由が記されてあります。それは彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。力があったからでもない。ただ愛されたからです。ん、どういうことですか?そういうことです。主がただ愛されたから・・・。つまり、私たちに何か選ばれる根拠があったからではなく、神が一方的にただ愛されたからです。これが聖書に描かれている神の選びです。つまり、神の選びは、神の一方的な主権的な選びなのです。

 

パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16

 

しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言ってユダヤ人を批判する人がいますが、そもそも選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちを選び、一方的に関わりを持たれ、一方的にご自身の御業を成してくださることです。私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されているのです。自分には愛されるような資格がないのに、にもかかわらず愛されることなのです。それが神の選びなのです。自分に愛される資格がないのに愛されるのは気持ちが悪いものですが、でもほっとします。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 

 彼らの神、主は、そのような方です。この主だけが神です。他に神はいません。そして、この神が彼らと結ばれた、おきてと定めがこれなのです。これというのは十戒であり、また、その中心である神だけを愛しなさいということです。それ以外のものが入ってきてはいけません。これは神の恵みの契約なのです。これを守り行うなら、主が彼らを愛し、祝福し、その恵みの契約を千代までも守られますが、主を憎む者には、主はたちどころに彼らを滅ぼされます。その祝福の内容が12節から16節まで書かれてあります。特に16節には、「彼らをあわれんではならない」とありますが、神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあることがわかります。私たちがどれほど立派に信仰に生きていても、たくさんの人々に福音を語っても、もしこの真理に立っていなければ、そこには力がありません。それがあなたへのわなとなることがあるからです。

 

Ⅲ.恐れてはならない(17-26

 

「あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。」

 

さて、イスラエルの民が約束の地に入って行くにあたり、そこには当然、恐れが生じます。敵は自分たちよりもはるかに多く、強いわけですから、どうやって彼らを追い払うことができるのでしょう。そのために主は、かつてエジプトでパロに対してなされたことを思い出させています。それと同じように、主は彼らが恐れているすべての国々対して成されます。だから彼らを恐れてはなりません。

 

ここでも、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられたという主の圧倒的な救いの御業がすべての勝利の原点にあります。それによって、「神はわたしたちとともにおられる」ことが現実のものとなり、何も恐れる必要がなくなったのです。私たちはキリストの御業によって罪から贖われたにもかかわらず、いつも恐れを抱きながら生きる者です。自分の肉の弱さのゆえに、いつも罪に打ち負かされてしまう弱さがあります。そのことでいつもおびえているような者ですが、しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、私たちのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働くのです。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 

しかし、それはすぐにということではありません。22節には、「徐々にあなたの前から追い払われる」とありますが、私たちの肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されていくものなのです。ですから、たとえ今はそうでなくても、このキリストのいのちをいただいている者として、やがて完成へと導かれていくことを信じて、ここに希望を置きたいと思うのです。

 

25節と26節には、聖絶のものを欲しがったり、それを家に持ち込んではならないと教えられています。聖絶されたものを自分のところも持ち込むというのは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こすこととを意味しています。そのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(Ⅱペテロ2:20)。ですから、そのようなことがないように注意しなければなりません。

 

 このように、主は私たちをご自分の宝の民としてくださいました。それは私たちかに何か愛される資格があったからではなく、主がただ愛されたからでした。私たちに求められていることは、この主が与えてくださった定めとおきてを守り、心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主を愛することです。それがすべてです。主はそのような者を祝福してくださいます。何も恐れてはなりません。なぜなら、全能の主があなたとともにおられるからです。私たちに必要なことは、ただこの主を愛し、主と共に歩むことなのです。この新しい一年がそのような一年でありますように。

ヘブル5章1~4節 「聖なる祭司として生きる」

 新年おめでとうございます。この新しい一年も、皆さまの上に主の恵みと祝福を祈ります。この新年の礼拝に私たちに与えられているみことばは、ヘブル人への手紙5章1節からの4節までのみことばであります。このみことばから、聖なる祭司として生きるというタイトルでお話したいと思います。

 

 このヘブル書の手紙は4章14節から「大祭司」をテーマに話が展開されています。大祭司とは神と人との仲介者のことで、人々に代わって神にとりなしをする人のことです。私たちの主イエスはこの偉大な大祭司であるということが、10章の終わりまで続きます。いわばこのヘブル書の中心的な主題の一つでもあるわけです。なぜ大祭司なのか?それは、大祭司こそ旧約聖書において人々の罪を贖う働きをした人物だったからです。その大祭司と比較して、キリストはもっとすぐれた偉大な大祭司であるということを、ここで証明しようとしているのです。なぜかというと、この手紙はユダヤ教から回心したクリスチャンに宛てて書かれましたが、彼らはイエスをキリスト、救い主として信じることができたのは良かったけれども、そのことでかつてのユダヤ教の人たちから激しい迫害を受けたとき、「こんなはずじゃなかった」「こんなことなら信じなければよかった」と、以前の生活に戻ろうとする人たちがいたからです。そういう人たちに対して、イエス・キリストがいかに優れた方であるかを証明することで、この福音にしっかりととどまるようにと励まそうとしたのです。そして、前回の箇所では、このキリストがいかに偉大な大祭司であるかが述べられましたが、きょうの箇所には、その大祭司になるためにはどのような資格が必要なのか、その資格について駆られています。

 

 Ⅰ.人々の中から選ばれた者(1)

 

 まず1節をご覧ください。

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえをささげるためです。」

 

 ここには、大祭司はみな、人々の中から選ばれ、とあります。大祭司であるための第一の条件は、人々の中から選ばれた者でなければならないということです。あたり前じゃないですか、他にどこから選ばれるというのでしょうか?しかし、このあたり前のことが重要なのです。すなわち、大祭司は人々の中から選ばれなければならないのであって、それ以外の者ではだめなのです。なぜでしょうか。それは、大祭司は人々に代わって神に仕える者、神にとりなす者ですから、人々の気持ちを十分理解することができなければならなかったからです。人でなければ人の気持ちを理解することはできません。人以外のもの、例えば今年は猿年だそうですが、どんなに去るが人間のような顔をしていても、猿では人人の気持ちを理解することはできません。人以外のものは人の気持ちを理解することはできないのです。ですから、大祭司は人々の中から選ばれなければならなかったのです。

 

それは最初の大祭司としてアロンが選ばれたことからもわかります。出エジプト記28章1節を見ると、イスラエルの最初の大祭司はモーセではなく、モーセの兄アロンでした。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせなさい。」

 いったいなぜモーセではなかったのでしょうか。それはアロンがお兄さんだったからではありません。モーセよりもアロンの方が大祭司としてふさわしい人物だったからなのです。どのようにふさわしい人物だったかというと、アロンはイスラエルの人々の中で生まれ育ったので、イスラエルの人々の気持ちをよく理解することができました。しかし、モーセは違います。モーセはアロンと同じ両親の下で生まれましたが、モーセが生まれたときエジプトの王パロはイスラエルが多産なのを見て、いざ戦いになった時に、敵側について自分たちと戦うのではないかと恐れ、生まれたばかりの男の赤ちゃん殺すように命じていたので、本当は殺される運命にありました。しかし、モーセのお母さんはそんな惨いことなどできなとずっとかくしていたのですが隠し切れなくなったので、ある日パピルス製のかごに入れナイル川の岸の葦の茂みの中に置いたのです。するとどうでしょう。何とパロの娘が水浴びに来ていて見つけたので、彼はパロの娘に引き取られ、王女の息子として王宮で育てられたのです。

 

 ですから、モーセは確かにアロンと同じ両親の下に生まれましたが、イスラエルの民の生活からは離れて育ったので、彼らの気持ちをよく理解することができませんでした。彼らの気持ちを理解することができたのは彼らの中で生まれ育ち、彼らの気持ちを十分理解することができたアロンだったのです。だからアロンが大祭司として任命されたのです。モーセはイスラエルの偉大な指導者でしたが、大祭司になることはできませんでした。

 

それは、私たちの大祭司であられるイエス様も同じです。ヨハネの福音書1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。ことばであるイエスさまが人として生まれてくださいました。なぜでしょうか。私たちと同じようになるためです。私たちの間に住み、私たちの悩みを知り、私たちの弱さを十分理解するためです。

 

ヘブル4章15節にはこうあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちの大祭司であられるイエス様は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。なぜなら、私たちと同じようになられたからです。私たちと同じように試みに会われました。私たちと同じように胎児としてお母さんのお腹の中に宿り、赤ちゃんとして生まれ、幼児としても、少年としても、青年としても、大人としても歩まれました。イエス様は私たちが通るすべてのライフステージを通られたのです。だから、私たちの弱さに同情することができるのです。それが人々の中から選ばれなければならないという意味です。イエスは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれたので、あなたのことを十分思いやることができるだけでなく、あなたに代わって神にとりなしをすることがおできになるのです。

 

 Ⅱ.人々を思いやることができる者(2-3)

 

 大祭司になるための第二の条件は、人々を思いやることができるということです。2節と3節をご覧ください。

「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」

 

 大祭司は、自分自身も弱さをまとっています。決して完全なわけではありません。もう絶対に罪を犯さない者になったというわけではないのです。しかし、そのような弱さを身にまとっているからこそ、そうした弱さのゆえに、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。

 

 この無知で迷っている人々とは誰のことでしょうか。それはイエスを知らない人々のこと、つまり、ノンクリスチャンたちのことを指しています。なぜなら、ローマ1章21節に、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とあるからです。神を神としてあがめることをしないと、不平や不満で満たされるので、だんだん暗くなっていきます。感謝することができません。これが神を知らない人たちの特徴です。

 

それは、救われる前の私たちの姿でもあります。私たちもみな、かつては罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。15,16,17と、私の人生暗かった・・・のです。どうすりゃいいのかわからない、夢は夜開く・・でした。だからこそ、そうした人の気持ちをよく理解することができるのです。

 

ところで、この「思いやる」という言葉ですが、これは単に「相手の身になって思いやる」ということだけでなく、相手の怒りなどの激しい感情をやわらげるという意味で使われています。詳訳聖書といってもう少し詳しく訳された聖書があるのですが、それによると、「やさしく(忍耐深く)取り扱う」と訳されています。つまり大祭司は、まだイエスを知らない人たちの激しい怒りの感情をやわらげて、彼らを柔和に取り扱うことが求められているのです。ノンクリスチャンに対して激怒したり、ブチ切れてはいけません。むしろ、柔和で、穏やかな心で、やさしく、忍耐深くなければならないのです。それは自分自身も弱さをまとっているからです。自分自身も弱さをまとっているので、その弱さのゆえに、そのように無知で迷っている人々に対してもやさしく、忍耐強く接していかなければならないのです。

 

しかし、それは無知で迷っている人々に対してだけでなく、クリスチャンに対しても言えることです。ガラテヤ6章1~4節にはこうあります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。」

 

 これはクリスチャンに宛てて言われていることです。兄弟たちよ、もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。私たちは教会の中に肉的な人がいるとついついさばきたくなる傾向があります。しかしそうではなく、柔和な心でその人を正してあげなければなりません。なぜなら、自分自身にも弱さがあるからです。そのようにさばきたくなるのは、その人がある一つの事実を見失っているからなのです。すなわち、自分自身も弱さをまとっているということです。自分自身もその人と何ら変わらない弱い人間であるという自覚です。自分も同じような境遇に置かれていたら、きっと同じようなことをしたに違いないと思うと、そのように人をさばくことなんてできなくなるはずです。むしろ、柔和な心でその人を正してあげるようになるでしょう。

 

 実は、私は昨日から入院しておりまして、きょうは病院から外泊許可をいただいてここに立っています。以前から懸念されていた胆石の治療で、この正月の時期は一番時間的に余裕があると思い、明日、手術を受けることになっています。結婚して32年間一度も入院したことがなく、周囲からはいかにも元気そうに見られている私が入院することは、少し恥ずかしいこともあってあまり人には言いたくないと思っていたのですが、実際に入院してみてわかったことは、自分の本当に弱い人間なんだなぁということです。そういう弱さを抱えているということです。このように病気になって入院してみて、病気で苦しんでいる人たちの気持ちがよく理解できるようになったような気がします。それは霊的にも同じで、私たちは決して完全な者ではなく、自分自身も弱さを身にまとっているので、同じような弱さを持っている人々を思いやることができるのです。神の祭司としてその務めを果たしていくために、私たちいつもこのような謙虚な気持ちを忘れない者でありたいと思います。

 

  Ⅲ.神に召された者(4)

 

 大祭司であるための第三の条件は、神に召された者であるということです。4節をご覧ください。

「まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。」

 

イスラエルの最初の大祭司アロンは、自己推薦をして大祭司になったのではありません。また、自分でなりたくてなったのでもないのです。神がアロンを選び、彼を任命したのです。そうです、大祭司は神によって任命された人しかなることはできないのです。同様に、私たちが祭司として立てられたのも私たちがそうしたいからではなく、神によってそのように召されたからなのです。私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。教会に来ていれば自動的に救われるのかというとそうではなく、神が聖霊を通してその人に働いてくださり、その人が受け入れることができるようにと心を開かせてくださったので信じることができたのです。自分で信じようとがんばったから信じることができたわけではないのです。救いは神の一方的な恵みによるのです。それが私たちの救いないのです。イエスさまはこう言われました。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

 

あなたがたがイエス様を選んだのではありません。イエス様があなたがたを選び、任命したのです。それはあなたがたが行って、実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。私たちは、永遠の神のご計画によって救われるようにと、神によって召された者なのです。そのようにして神の祭司となったのです。

 

私はよく、「牧師として一番大切だと思うことは何ですか」と聞かれることがありますが、そのとき迷わず答えることは、それは「召し」であるということです。召しといっても食べる飯ではありません。そのように選ばれた者であるということ、そのように召された者であるということです。

それが牧師としての自分の働きを根底から支えているものです。そうでなかったら、どうやって続けることができるでしょうか。できません。自分もそうですが、多くの牧師が悩むことは、自分は牧師には向いていないのではないかということです。でも自分が牧師に向いているかどうなんて関係ないのです。大切なのは、そのように召されているかどうかであって、そのように召されているのであれば、召してくださった方に対して忠実に仕えて行くこと、それが求められているのではないでしょうか。

 

それは牧師に限らず、すべてのクリスチャンに言えることです。あなたがそうなりたいかなりたくないかと関係なく、主がそのようにて召してくださいました。であれば、その召してくださった方に対して忠実に仕えていくことが求められているのではないでしょうか。

 

さて、これまで大祭司の条件について見てきましたが、最後に、この大祭司とはいったいだれのことを指しているのかを考えていみたいと思います。Ⅰペテロ2章9節をご覧ください。ここには、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。ここには、私たちクリスチャンはみな神の祭司であると言われています。それは、私たちを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、私たちが宣べ伝えるためです。私たちにはそのような務めがゆだねられているのです。私たちは神の祭司として人々のために祈り、とりなしていかなければなりません。まだ救われていない人たちを、神へのいけにえとしてささげていかなければならないのです。そのような者として、私たちは人々の中から選ばれ、無知な迷っている人々を十分に思いやり、神によってこの務めに任じられているという自覚をもって、この務めを全うさせていただきたいと願うものであります。この務めを全うする神の祭司である私たちの上に、神の助けと励ましが豊かにありますように。

申命記6章

きょうは、申命記6章から学びます。モーセは前の章から、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。6章はその続きです。

 

1.聞きなさい。イスラエル(1-9

 

まず、1節から9節までをご覧ください。

「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 

イスラエルが約束の地を所有してから、そこで、主が命令したおきてと定めと行うのは、彼らが一生の間、主を恐れて生き、長く生きることができるためです。それは彼らだけではありません。モーセも、また彼らの子も孫も、であります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちに新しい啓示として語られることはなく、すでにモーセに与えられた神の律法によって生きることです。彼らはこれを子々孫々に伝えていかなければなりませんでした。

 

それは私たちも同じです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、祈りをしていました(使徒2:42)。彼らは使徒たちによって教えられた教え、それは元々主によって教えられたことでありますが、それを堅く守らなければなりませんでした。

 

パウロ自身も手紙の中でこう言っています。「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15彼らはパウロのことば、使徒たちの教えを堅く守ることが求められたのです。ですから、私たちはこの使徒たちの教えに従っている者であり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちなのです。何か新しい啓示が与えられたとか、今まで聞いたことがない魅力的な教えを聞いたというような、当時のアテネの人たちのように、新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、そのような新しいものはありません。聖書は既に完結しているのです。私たちはそこから神の真理を再発見し、その喜びの中で生きていかなければならないのです。私たちの役割は、ただ、神が語られた真理を継承させていくことだけです。

 

では、神が語られた真理とは何でしょうか。神のおきてと定めとは何でしょうか。4節と5節をご覧ください。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

この「聞きなさい」という言葉は申命記においてのキーワードであるということはお話しました。これは、「シェマ」と呼ばれているもので、ユダヤ人の信仰の柱になっている御言葉です。それは、主はただひとりであるということ、そしてこの主を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するということです。

 

まず、「主は私たちの神。主はただひとりである。」ということですが、これは、ユダヤ人が迫害されても、殺されても、決してゆずらなかった信仰です。唯一神の信仰ですね。主はただひとりであるということです。しかし、私たちが信じている神は一つは一つですが、その一つの神は三つの人格を持っておられる神であって、それが一つである神、三位一体の神です。それが聖書全体を貫いている教えです。それは、たとえば創世記11節や、126節をみればわかります。ではこの箇所はどうなのでしょうか。実は、ここも同じなのです。「主は私たちの神」の「神」は「エロヒーム」という複数形が使われているのです。そして、「ただひとり」という言葉も「エカド」という言葉ですが、これは複合単数形が使われているのです。複合単数形というのは、例えば「一本の手」と言うときに、手には5本の指がありますが、複合的に一つにされているわけです。そのような時に使われるのが複合単数形です。それは創世記1章1節と同じです。「初めに、神が天と地を創造された。」の「神」は複数形ですが、「創造された」は複合単数形です。ここと同じです。複数なのですが単数であめことを表しているわけです。つまり、これも三位一体を表していることばなのです。

 

次に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉ですが、これは、前回学んだ十戒の要約です。イエス様は、ある律法の専門家から、律法の中で、大切ないましめはどれですか、と質問されたとき、この戒めを語られました(マタイ22:38)。もし主を愛するなら、主のおきてと定めに喜んで応答したいと思うでしょう。それはもう戒めではありません。愛と恵みの言葉以外の何ものでもありません。だから、神を愛すること、これが第一の戒めであり、

律法全体の要約なのです。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという第二の戒めも大切です。律法全体と預言者とが、この二つにかかっているのです。

 

 それゆえ、私たちはこの主が命じる命令を心に刻まなければなりません。また、子どもたちによく教え、家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、これを唱えなければなりません。このことばを忘れないように、手に結び付け、記章として額の上に置かなければなりません。また、家の門柱と門に書きしるさなければならないのです。ユダヤ人は、これを文字通り実践しました。ですから、皆さんもご覧になられたことがあるでしょう。ユダヤ人の額にマッチ箱ほどの大きさの箱をくくりつけている写真を・・。それはこの箇所を忘れないようにと、額の上に置いたのです。

 

 これは、パウロのことばでいえば、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ことです。(コロサイ3:16。イスラエル人はそれを忘れないようにあらゆることをしました。特に、彼らは、外側で主のみことばを刻みましたが、私たちはこれを、心に住まわせなければならないのです。エレミヤ31:3には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあります。また、使徒ヨハネは、「あなたがたの場合、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。」(Ⅰヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、形式的にみことばを刻む必要はありません。聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。しかし、こうしたことのためにもみことばを心に刻むという努力は求められているのです。それが聖霊の油を注がれているクリスチャンのあり方なのです。

 

 2.あなたは気を付けて(10-19

 

次に10節から19節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」

 

次にモーセは、イスラエルが約束の地に入って行ったときに、陥りやすい過ちについて語っています。それは何でしょうか。12節をご覧ください。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」ということです。彼らが約束の地に入っていくとき、そこで多くの祝福を受けます。すべての良い物で満たされるのです。そのような祝福にあずかることはすばらしいことですが、そこに一つの危険もあるのです。それは、主を忘れてしまうということです。自分がどのようなところから救われてここまで来たのかを忘れ、あたかもそれを自分の力で成し得たかのような錯覚を抱き、自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしやすいのです。そのような危険性があります。

 

かつて日本にも多くの救われた人たちがいました。フランシスコ・ザビエルが最初に日本にキリスト教を宣教したとき、明治維新によって新しい国が作られたとき、そして、戦後、敗戦の貧しさと苦しみの中で人々が真の幸福とは何か、人生の目的は何なのかを求めて教会にやって来た時です。ある教会の記録によると人々は波が押し寄せるかのように教会にやって来たとあります。どの教会も人、人、人で満ちあふれていました。入り切れないほどの人がやって来たのです。

ところが、高度経済成長を経て日本が豊かになると、今度は波が引くように、教会から人々が去って行ったとあります。いったい何が問題だったのでしょうか。いろいろな問題が複雑に絡み合っているためこれが問題だとは言い切れないところはありますが、その一つの要因がこれなのです。豊かになった。もう神に頼る必要がなくなったのです。人はどちらかというと物質的に豊かになると、それに反比例して霊的に貧しくなってしまいます。神への飢え渇きが起こりづらくなるのです。別に神に頼らなくてもやっていける、わざわざ教会に行く必要を感じないのです。それはまさに主がラオデキヤの教会に書き送ったことではないでしょうか。

 

黙示録3:14-22のところで、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らないラオデキヤの教会の人たちに、主は、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、厚いか、冷たいかであってほしいというのです。なまぬるいものは吐き出すとまで言うのです。

 

これはいつの時代でも同じです。人は豊かになると主を忘れてしまうという過ちに陥りやすくなるのです。だから、気を付けなければなりません。あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなければならないのです。ただ主を恐れなければなりません。主に仕え、御名によって誓わなければならないのです。ほかの神々、神以外のものに仕えてはなりません。

 

なぜですか?なぜなら、主は、ねたむ神であられるからです。主を忘れ、主以外のものに走っていくなら、主はあなたをねたみ、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の表から根絶やしにされるのです。何ですか、ねたむというのは?皆さん、私たちの神はねたむ神なのです。それはちょうど夫婦のようです。夫婦であれば、一方が他の対象に向かっていけばねたみます。それは愛しているからです。相手がどうでもよければそのような感情は起こらないでしょうが、愛によって結ばれた夫婦ならば、それは当然にして起こってくる感情なんのです。神とイスラエルの関係も同じです。神は彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されたお方で、神の民とされたのです。にもかかわらず、彼らが別の神に走って行くことがあるとしたら、そこには当然妬みが起こるのではないでしょうか。それはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちも主の愛によって罪という奴隷から救われました。主イエスの十字架の贖いによって買い戻されました。私たちは主のものなのです。そんな私たちが主から離れることがあるとしたら、どれほど主が悲しまれることでしょうか。

 

だから、主が命じられた教えとさとしを忠実に守らなければならないのです。彼らがマサで主を試みたように、主を試みてはならないのです。マサで試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らしてしまうからです。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。

 

3.あなたの息子が尋ねるとき(20-25

 

次に20節から25節までをご覧ください。

「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

 

ここでモーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんで?」。昨日も孫が泊まりました、その話が止まりませんでした。「グランパ、これ何?」「あれは?」次から次に質問が出てきます。そして、もう大きくなると、おそらくこういう質問が出てくるでしょう。「主が命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか・・?」そのとき、どう答えたらいいのでしょうか。

 

そして、そのときにはまず、イスラエルの先祖がどういう状態であったかを話さなければなりません。すなわち、彼らはエジプトで奴隷の状態であったということです。しかし、そのような状態から、主が力強い御手をもって、彼らをエジプトから連れ出されました。どのような御手があったのでしょうか。主は彼らの目の前で、エジプトに対して、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ってくださいました。そのようにして、彼らを先祖たちに誓われた地へと導いてくださったのです。それは、私たちがこのおきてを守り、いつまでも主を恐れるためです。そして、今日のように、いつまでも自分たちが幸せに、生きるためなのです。だから、主が命じられた命令を守り行うことは、私たちの義となるのです。イスラエルにとって出エジプトが、彼らの新しい生活の出発点であったのです。そして、それをいつまでも忘れないために、彼らは過ぎ越しの祭りを行います。ただ口伝で伝えるだけではありません。それがどのようなものであったのかを、いつも体験として覚えようと努めたのです。

 

それは私たちも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。そのことを忘れないように聖餐式を行うのです。そして、それをただ忘れないというだけでなく、私たちにはさらにこれを宣べ伝えていくという使命がゆだねられています。その起点となるのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業なのです。自分たちがいかに罪の中にあえいでいた者であったのか、しかし、そのような中から神が救い出してくださいました。圧倒的なしるしと不思議をもって導き出してくださいました。そのことを伝えていかなければならないのです。

 

きょうは今年最後の祈祷会なりましたが、この一年の終わりもキリストの十字架の贖いの恵みにとどまり、新しい年もこの恵みで始まっていく者でありたいと思います。