申命記15章

今日は申命記15章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、12章からはその具体的なことが教えられています。この15章では、貧しい人、負債のある人、また奴隷に対して、どうあるべきかが語られます。

 

1.負債のある人に対して(1-11

 

まず1節から11節までをご覧ください。ここには、負債のある人たちに対してどうあるべきかが語られています。そして1節には、「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。」とあります。どのように免除したらいいのでしょうか。2節には、「貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。」とあります。これは主の命令です。外国人に対しては取り立てることはできますが、同胞であるイスラエル人に対しては、貸しているものを免除しなければなりません。なぜでしょうか。4節をご覧ください。なぜなら、そうすることによって、イスラエルの民の中に貧しい者がなくなるからです。こうすることによって、自分が損をするどころか、主が彼らを豊かに祝福してくださいるのです。

 

これはいったいどういうことでしょうか。これを新約聖書の光に照らしてみると、罪の赦しについて語られていることがわかります。負債を負っているということが、罪を犯したことにおいて語られているからです。もちろん、新約聖書においても、貧しい人に対する施しが勧められていますが、もっと中心的に教えられているのは、罪を犯すことにともなう負債なのです。兄弟があなたに対して罪を犯したなら、あなたはその兄弟の罪を赦してあげなければならないということです。そうすれば、あなたは祝福を受けるのです。

 

マタイ72135節には、もし兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきかが教えられていますが、主は、七を七十倍するまで赦しなさい、と言われました。もし、心から兄弟を赦さなければ、天の父は、その人を獄吏に引き渡すと言っています。それは、自分自身の罪が主に赦していただいたのにもかかわらず、同じように負債のある兄弟を赦してやらなかったからです。すなわち、このように教えられている背景にあるのは、神の深いあわれみなのです。神があなたを赦してくださったのだから、あなたがたも互いに赦し合わなければならないのです。それができないとしたら、その人は自分がいかに罪深いのかを知らないのであって、その罪を赦していただいたという恵みさえもわからないのです。赦していただいたからこそ、互いに赦し合うことができるのであって、それができないということは、本当の意味で赦されてはいないのです。主が赦してくださったように、互いに赦し合うとき、主は、必ずその人を祝福してくださるのです。それがどのくらいの祝福なのかは、5節と6節に期されてあります。彼らがそのように兄弟の負債を免除するなら、彼らは多くの国々に貸すが、借りることはありません。また彼らは多くの国々を支配しますが、支配されることはないのです。

 

7節から11節までをご覧ください。ここには、貧しい兄弟に対して、心を閉ざしてはならない。またその手を閉じてはならないとあります。心に邪念を抱き、第七年目が来た、すなわち、免除の年が来たと言って、貧しい兄弟に物惜しみして、何も与えないというようなことがないように気を付けなければなりません。進んでその手を開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならないのです。心に未練をもってはなりません。このことのために、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからです。別にそれはお金だけのことではありません。私たちの生き方そのものなのです。このみことばに従って、私たちが心を開き、手を開いて、惜しみなく与えるなら、主は必ず祝福してくださるのです。

 

今回のさくらの会堂建設を通して、私はそのことをとても強く示されました。昨年の夏にアメリカに行ったとき、ある結婚してまだ23年しか経っていない若い夫婦の家に泊めてもらいました。彼らとは以前から知っていましたが、それほど親しくしているわけではありませんでした。しかし、私たちが教会を訪問したとき、私たちのためにその家を開放してくれただけでなく、あとで、結構多額の献金をしてくれました。こんなに献金して大丈夫だろうかと心配したほどです。

すると、私たちが帰国してから彼からメールがあり、こんなことが書いてありました。私たちのためにささげることができたことを感謝しています。そして、主は本当に忠実な方です。あの後で会社の上司からオフィスに来るようにと言われたので行ってみると、「君はよく仕事をしていて、成績もいいので、ボーナスをあげる」と言われました。それが何と私たちに献金した額とちょうど同じ額だったのです。彼はそれを聞いて、本当に主はすばらしいとほめたたえましたが、そうした彼らの生き方を、主が祝福してくださったのでした。

 

それから1月末にどうして足りない時に、私たちは祈っていました。このままでは会堂も立ちませんから、主よ、私たちをあわれんでください。必要を満たしてくださいと祈っていたのです。すると、ある方からメールがあって、彼のために、わざわざ本を送ってくれてありがとう。実は、少し前に兄弟がなくなってその遺産を相続したことで自分の借金を全部支払うことができました。残りはさくらの会堂のためにささげますと言って、送ってくださったのです。それが、私たちが必要と祈っていた金額とちょうど同じだったのです。うそみたいなホントの話です。

「あれっ」私たちは彼のために何をしたかなぁと振り返ってみたら、私たちがアメリカに行ったとき、彼の妻のお母さんが日本人で、どのように伝道したらいいかわからないので教えてほしいと言われたので、三浦綾子さんの本を読むといいと思うとアドバイスしました。そして帰国後、私は彼のことを思い出し、アマゾンで三浦綾子さんの本を3冊注文して送ったのでした。まさか、そんなことで献金してくれるなんて思ってもいませんでした。でも、その手を開き、その心を開いて、貧しい人に施すなら、神は豊かなに祝福してくださるのです。

実は、これには続きがありまして、献堂式のニュースレターを送ったところ、そのお母さんが行っているかどうかはっきりわかりませんが、二人の孫がローリングヒルズ日本人教会に行くようになったととても喜んでいました。これは奇跡だ!、これは奇跡だ!・・と。そうです、それは奇跡です。それは彼が心を開いて惜しみなく施したので、主はそのような彼の祈りに答えてくださったのです。

ですから、これはお金だけのことではないのです。私たちの信仰、私たちの生き方が問われているのです。私たちの心を開き、その手を開いて、惜しみなく施すなら、惜しみなく赦すなら、主は必ず祝福してくださるのです。それは主が私たちを赦し、ご自身の尊いいのちを与えてくださったからです。

 

2.ヘブル人の奴隷の解放(12-18

 

次に12節から18節までをご覧ください。ここには、ヘブル人の奴隷を解放するように命じられています。12節には、「もし、あなたの同胞、ヘブル人の男あるいは女が、あなたのところに売られてきて六年間あなたに仕えたなら、七年目にはあなたは彼を自由の身にしてやらなければならない。」とあります。しかも、「彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。あなたの神、主があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。」(13-14なぜでしょうか?その理由が15節に書いてあります。それは、彼らがエジプトの地で奴隷であったことを彼らが思い出し、そうした状態から解放されたことを覚えるためです。これはいったいどういうことでしょうか。

 

この奴隷であったとか贖い出されたということも、新約聖書においては罪との関係で語られていることがわかります。最初の人が悪魔の誘惑に陥って罪を犯して以来、人は悪魔の奴隷となってしまったということ、そしてその罪の支配下の中にいると、聖書では教えています。罪を犯さなければならないという、罪の奴隷となっているのです。しかし、キリストが十字架につけられ、よみがえられたゆえに、キリストに結びつけられた私たちも、罪に対して死に、キリストに対して生きる者とされました。ですから、もはや罪に従う必要はなくなり、罪から自由にされたのです。ですから、私たちは、罪を赦された者だけではなく、罪の力からも解放された者なのです。

 

 私たちが聖なる民として生きるときに、このことはとても重要なことです。私たちは互いに赦し合わなければなりません。罪の赦しがなければならないのです。また、罪の力に支配されることなく、御霊によって支配されていなければなりません。霊的に、罪の負い目を持っていたり、罪の支配下にあってはならないのです。確かに罪を犯さずには生きていくことはできませんが、だからといって罪を犯そうというのではなく、御霊の力によって、罪から自由にされていなければならないのです。それが神の民の特徴であり、この世とは異なる、この世とは分離された、クリスチャンの姿でもあるのです。

 

3.牛と羊の初子について(19-23

 

次に19節から終わりまでをご覧ください。こうして、奴隷を解放しなければいけないという教えに続いて、牛と羊の初子はどうしたらよいかが教えられています。19節と20節には、「あなたの牛の群れや羊の群れに生まれた雄の初子はみな、あなたの神、主にささげなければならない。牛の初子を使って働いてはならない。羊の初子の毛を刈ってはならない。主が選ぶ場所で、あなたは家族とともに、毎年、あなたの神、主の前で、それを食べなければならない。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

神は常に、「初めのもの」をご自分にささげるようにと命じておられます。アベルは、初子の子羊を主にささげ、それが受け入れられました。そして出エジプト記で、ここにあるように、家畜の初子は、主のものであると宣言されています。レビ人は、これら初子の代わりに取られたものであると、民数記には書かれています。収穫も初物を主におささげします。なぜ初めのものかというと、それはもっとも大切なもの、優先されるものだからです。彼らが主を自分たちの神としているかどうかの指標は、彼らのものの中で初めのものを主におささげしているかどうかで測られます。口ではどんなに、「私は主を愛しています」と言っても、残りものを主にささげるのであれば、その言葉には真実さがありません。なぜなら、第一のものを第一にしていないからです。

 

私の家はもともとキリスト教ではなく仏教なはずですが、どういうわけか、給料を初めてもらったときに母は、「いいがい。初物は神にささげんだよ。」と言いました。別にささげても、ささげなくてもどうでもいいんじゃないかと思いましたが、言われるままにしました。それは、神を神として敬うことの表れだったんだなぁと、あとで思うようになりました。だから、初物を神にささげるという行為は、自分の最も大事なものを主にささげることでもあるのです。それが命じられているのです。なぜでしょうか。

 

なぜなら、主は最も大切なものを私たちにおささげになったからです。それはご自分のひとり子イエス・キリストです。キリストは、コロサイ書1章15節から読みますと、万物の前におられた初めの方であり、この方によってすべてが造られ、この方のためにすべての物が造られました。また、死者の復活においても、この方が初めであり、すべてのことにおいて「初め」の方、長子であられる方なのです。その方をささげてくださいました。キリストは神にとって初物なのです。

 

だからここに、牛の初子を働かせたり、羊の初子の毛を刈ってはならないと命じられているのです。また、この初子をもって礼拝し、家族とともに食べなさいと命じられているのです。この初物こそまさに神の御子イエス・キリストだからです。このお方をないがしろにせず、礼拝の対象にしていきなさい、という意味なのです。私たちがこの方を教会のかしらとし、この方と交わりを持つことが、もっとも大切なことなのです。余ったものではだめです。自分の思いや、自分の考えを最初にありきではだめなのです。まず神の御子をもって礼拝し、この方を仰がなければなりません。これが、私たちが神の民、聖なる国民であるゆえんです。キリストを礼拝しているのか、そうでないかによって、人が聖なるものかそうでないかが区別されます。ですから、私たちの間に、罪の赦しがあり、罪の力からの解放があり、そして主イエス・キリストが礼拝されている、中心になっていることが、教会の姿であり、聖なる民であると言うことができるのです。

 

21節をご覧ください。初物に欠陥があってはなりませんでした。これは、神に受け入れられるささげものは完全でなければいけないという意味です。すなわち、神の御子イエス・キリストだけが、罪の供え物として完全な方なのです。私たちはこの方にあって罪の赦しをいただき、互いに赦し合うことができます。この方にあって罪の奴隷から解放されました。この方にあって、自ら進んでしもべとなることができます。この方だけが神の初物であり、完全な神のいけにえなのです。私たちはこのイエス・キリストにあって、イエス・キリストを中心として生きるとき、神に喜ばれた歩みがまっとうできるのです。

ヘブル8章1~13節 「新しい契約」

きょうは、ヘブル人への手紙8章から学びます。タイトルは、「新しい契約」です。聖書では「契約」ということをとても重んじています。私たちの持っている聖書も「旧約聖書」と「新約聖書」という神との契約から成り立っています。しかし、きょうの箇所に出てくる「初めの契約」とか「古い契約」というのは旧約聖書のことではありませんから、注意が必要です。きょうの箇所に出てくる「古い契約」とは9節に、「それは、わたしが彼らの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。」とあるように、彼らがエジプトから導き出された後にあのシナイ山で結んだ契約のことであり、律法のことです。それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまう性質を持っていますが、新しい契約はそのようなものとは違います。新しい契約は、たとえ私たちが神との契約を守ることができなくとも、イエス・キリストを信じることによって、そのすべての罪が赦され、救われるというものです。これが福音です。良い知らせです。なぜこれが良い知らせなのかというと、私たちの行いとは全く関係なく神の一方的な恵みによって救われるからです。ですから、この新しい契約というのは、私たちと神様との根本的な関係の変革を意味するとても重要な内容なのです。きょうは、この新しい契約について三つのポイントでお話したいと思います。

まずこの契約の仲介者であられるイエス・キリストについてです。第二のことは、古い契約とはどのようなものかということ、そして第三のことは、では新しい契約とはどのようなものかについてです。

 

Ⅰ.さらにすぐれた契約の仲介者(1-6)

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」

 

「以上述べたこと」とは7章で語られていたことで、イエス・キリストはメルキデゼクに等しい大祭司であるということです。どういう点で等しかったのでしょうか。まず、「メルキデゼク」という名前の意味ですが、これは「義の王」という意味でした。義、救い与えることができる方、救い主という意味です。そして、彼はサレムの王でしたね。サレムというのはエルサレムのことで、それは「平和の神」という意味でした。だから、メルキデゼクは義なる方であり、私たちに救いをもたらすことができる方です。そして、その結果として、私たちの心に真の平和を与えることができる方です。そればかりではありません。彼には母もなく、系図もありませんでした。その生涯の初めもなく、いのちの終わりもありませんでした。本当はメルキデゼクには母もいて、系図もあって、その生涯の初めも、終わりもありました。でもそれを書く必要がなかったのです。なぜなら、このメルキデゼクという人物はイエス・キリストのひな型だったからです。イエス・キリストがどういう方であるのかを表していたからです。一般の祭司ならイスラエル12部族の中のレビ族から選ばれましたがイエスはユダ族の出身ですから、キリストはそうした一般の祭司とは次元の違うもっとすぐれた祭司なのです。また、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえりました。そして、天に昇られ、神の右の座に着座されたのです。ですから、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのであります。

 

これが7章で語られていた要点です。すなわち、私たちの大祭司であられるキリストは天におられる大能者の右の座に着座された方であり、人間が設けたのではない、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方なのです。主が設けられた真実の幕屋とは天国のことです。皆さん、これが天国の姿です。天国では大能者である神の右の座に神の子であるキリストが座って仕えておられるというのです。この「仕えておられる」という言葉は「レイトゥールゴス」というギリシャ語で、「礼拝の務めをする」という意味です。10章11節には「礼拝の務めをなし」と訳されています。昔、イスラエルの祭司たちが幕屋である聖所で礼拝の務めをしていたように、キリストは天国で大祭司としてまことの礼拝の務めをしておられるのです。私たちは時々、天国ってどういうところかなぁとか、天国に行ったら何をするんだろうと想像することがありますが、ここにはっきりと天国がどういう所なのか、そこでどんなことをするのかが書かれてあります。つまり、天国は礼拝が行われているのです。しかも私たちが毎週日曜日に行っているような1時間そこそこの礼拝ではなく、いつも、いつまでも、ずっと続く礼拝です。いくらすばらしい礼拝でもそんなに長かったら疲れるんじゃないですか?と思う人もおられるかもしれませんが、天国での礼拝は疲れるどころかもっと喜びと平安に満ち溢れます。なぜなら、そこに神がおられるからです。神に造られた人間にとって最もすばらしいこと神とともにいるときです。天国では永遠に神が共におられます。だから疲れることも、たゆむこともないのです。人間のすることは、必ず初めがあって終わりがあり、いくらすばらしい行事でも長すぎれば疲れてしまいますが、この天における礼拝はそういうものではありません。それは、私たちがこの地上でもよく体験していることでもあります。一人で主の前に祈っているときや、何千、何万人の人たちと賛美する時に、もう何もいらないと思うような思いになることがあります。

 

私は数年前にアメリカコロラド州にあるコロラドスプリングにある大きな教会に行ったとき、そこには五千人くらいでしょうか、もっといたかもしれません。大勢人たちが声を合わせて賛美している中にいたとき、震えるほど感動したのを覚えています。たった五千人でもそうなのですから、万の幾万倍もの人たちが一緒に礼拝したら、それはどんなにすばらしい礼拝かと思います。もうそこから離れたいと思えないくらいの感動で心が満たされるのではないでしょうか。でもそれはこの天国の礼拝の前味にすぎません。天国ではもっとすばらしい礼拝がいつもささげられているのです。

 

使徒ヨハネはこの天国の様子を神の聖霊によって啓示が与えられ、このように語っています。黙示録5章11~14節です。

「また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」

そこでは、天と地と、地の下と、海の上のすべての被造物が、神と、小羊、これはキリストのことですが、「賛美と栄光と力がとこしえにあるように。」というと、四つの生き物がアーメン、アーメンと何度も言い、長老たちはひれ伏して拝んでいました。そこにはあらゆる国々の、あらゆる時代の、万の幾万倍というクリスチャンたちが声を合わせて主を賛美しているのです。もう感動で震えることでしょう。そこから離れたいなんて思うこともないのです。そのためにキリストは大祭司として、とりなしの祈りをささげておられるのです。これが天国です。

 

そのことから教えられることは、礼拝ということがどんなに大切であるかということです。私たちは礼拝をどれだけ重要なものと位置づけているでしょうか。もちろん、それは日曜日に持たれている礼拝ばかりでなく、個人礼拝ともいうべき毎日のディヴーションを含めてのことです。そして何よりも私たちが毎日、この主を礼拝するという姿勢で生きることの重要性です。礼拝というのは何よりも神中心であり、神をあがめるわけですから、毎日の生活において、私たちがどれだけ神を意識して生活しているかが問われていると言うことができるでしょう。

 

このように言うと、中には、「牧師はいいですよ。毎日神様のことだけを考えて生活しているわけですから。でも我々のように毎日この世にどっぷりと浸かっているものにとって、神様のことを考えていたら仕事になりませんよ。」と言う方がおられます。本当にそうでしょうか。逆です。もしあなたが神の前にひれ伏し、神を礼拝するなら、神から恵みを受けることができるのです。それなのに、もし信仰というものをこのように二元論的に捉えてしまうなら、せっかくのすばらしい神の恵みや力を体験することができなくなってしまいます。ただ頭だけの、ただ知識だけの信仰にとどまってしまうわけです。しかし、私たちはみなこの地上においては世俗的なものの中に生きていますが、その生きる力は決してこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、つまり、この天国から来るのです。もう一度言います。私たちの生きる力はこの世のものから来るのではなく、永遠の神の国、天国から来るのです。ですから、神の国とその義とを第一にしなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものは与えられます。この神の力によらないで、自分の力、自分の考え、自分の思いで生きるなら、あなたはいつまでも失敗したり、敗北したりするでしょう。しかし、そのようにならないようにいつも祈っていて下さる方がいます。それが主イエス・キリストです。キリストは永遠に祭司の務めをしておられるからです。ですから、この方を無視して、勝利ある人生を歩もうと思ったら、それは全く意味のないことであり、何の力もありません。イエス様を通して神を礼拝することによって、私たちには計り知れない神の恵みと力が与えられるのです。それが6節で言われていることです。

 

あなたは何を拠りどころとして生きておられますか。天の神を仰ぎ、この神を礼拝して、神の力を求めておられますか。それとも、この地上のものに振り回されてはいないでしょうか。「天の神ご自身が私たちを成功させてくださる。」とみことばにあります。この神を礼拝し、この神から力をいただいて、日々歩ませていただきたいものです。

 

Ⅱ.初めの契約(7-9)

 

次に、7節から9節をご覧ください。ここにはなぜイエス・キリストなのかということが述べられています。そしてそれは、あの初めの契約に欠けがあったからです。もし欠けがなかったら後のものは必要なかったのです。あの初めの契約とは何でしょうか。それは先ほども述べたように、イスラエルがエジプトから解放された後にシナイ山で与えられた律法のことです。あの律法には欠けがあったんです。どういう点で欠けがあったのかというと、それを守らなければ契約は成立しないということです。なぜなら、それは一種の双務契約のようなもので、一方がその契約に違反すれば、たちどころに反故になってしまうという性質のものだったからです。でもどうでしょう。彼らはそれを守ることができたかというとそうではなく、どんなに守ろうと努力しても守ることができませんでした。それは彼らが罪人であったからです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。人はみな罪人であり、神の律法を守り行うことなどできないのです。それはローマ3章10節以下のところにこのように書かれてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10-12)

 

それならば、なぜ神は彼らとそんな契約を結ばれたのでしょうか。それは、このような律法を与えることによって、自分たちはそれを守ることができない罪人であるということを悟らせるためでした。つまり罪を自覚させるためだったのです。このことがわからないと救いがわかりません。神の恵みがどういうものかがわかりません。ですから、神は最初からそのことをご存じで、預言者を通して新しい契約を結ぶということを語っておられたのです。それが8節と9節のことばです。ここに引用されているのは旧約聖書にあるエレミヤの預言です。ここで主は預言者エレミヤを通して、主がイスラエルと新しい契約を結ぶ日が来ると言われました。それはかつて彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだあのシナイ契約のようなものではありません。そのような契約を結んでも、彼らは守ることができないので何の意味もないからです。ただ自分は神の律法を守ることができないという罪責感に悩むだけです。でも必要なのは、その罪が赦されることです。ではどうしたら罪が赦されるのでしょうか。そのために神が与えてくださったのが新しい契約です。

 

Ⅲ.新しい契約(10-13)

 

10節から13節をご覧ください。ここには、この新しい契約がどのようなものなのかが三つの点で説明されています。

 

第一に、それは神の律法が私たちの心に書き記されるということです。10節にはこうあります。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。」彼らの心に律法を書きつけるとはどういうことでしょうか。モーセが神の律法をイスラエルの民に語ったとき、その教えは石の板に書きしるされました。イスラエル人はこの石の板に刻まれた神のみことばを自分の行いによって守ろうとしましたが、それを守ろうとすればするほど守れない自分にジレンマを抱えていました。

 

しかし、新しい契約は違います。新しい契約は、私たちがキリストを信じることによって、私たちの罪がキリストの血によって聖められ、神の御霊が注がれるというものです。イエス・キリストを信じることで、神ご自身の聖霊が私たちの内に入ってくださるのです。それでこの聖霊が私たちのうちにとどまっておられ、聖霊が私たちに語りかけてくださるのです。そして、この聖霊によって神のみことばを悟り、それを行うことができるようになるのです。これが神の律法を彼らの心に書きつけるということです。ですから、人はこの新しい心が与えられることによって救われるのです。それは救い主イエスを信じる信仰によってなのです。

 

昨日、さくらでオープン記念のコンサートが行われました。ものすごい感動でした。何が感動したかって、蜷川さんの全身から溢れる魂の演奏にです。いったいどこからそんな力が出てくるんだろうと思っていたら、ご自身が救われた時の証をしてくださいました。高校の音楽科、音大を出てフランスへ留学したのですが、自分がどんなに一生懸命に演奏しても全然先生に認めてもらえないのです。どうしてだろうと悩んでいた時、ある方から一枚のトラクトをもらうのです。そこにはイエス・キリストが私のために十字架にかかって死なれたこと、三日目によみがえられたこと、そして天に昇り神の右の座に着かれ、今も生きてとりなしておられることが書かれてありました。そして、教会に行って話をきくうちに、自分から音楽を取ったら何があるんだろう、いったい何のために音楽をしているんだろうと考えていくうちに、それは自分のために十字架に死んでくださり、自分の罪を取り除いてくださった神様のためだということがわかるんですね。それが、彼女が演奏をする目的であり土台になったのです。それが昨日の演奏に表われていたんですね。昨日は20~30人の新来者がおられましたがが、本当にみんな感動していました。その中にコリーナ矢板というところの山奥から来られた方かせおられましたが、「もうお話を聞いていてとても感動しました。私、一人なんです。親戚もだれもいなくて孤独なんです。いるのは2匹のねこちゃんだけで、チラシを見てきょうは楽しみにしていたのですが、ほんとうに良かったです。」と言われ、きょうの礼拝にも来ますと言って、帰って行かれました。

 

これが私たちの信仰です。これまでは石の上に刻まれた律法に捉われて生きてきたのですが、イエス様を信じたら、イエス様を信じて聖霊が与えられたら、この神の聖霊の恵みと力によって生きるようになったのです。それは心の奥底からあふれ出る喜びです。

 

第二に、新しい契約はすべての人が神を知るようになるということです。11節には、「また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、「主を知れ」ということは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。」

とあります。どういう意味でしょうか。彼らは自分の隣人に、また、それぞれその同胞に、「主を知れ」と言って、教えることは無くなるということです。なぜなら、どんな人でも、神を知るようになるからです。

 

私は牧師として、こうして毎週みことばを語らせていただいておりますが、人々に神を知ってもらうということは本当に難しいことだなぁと感じることがあります。神についての知識をただ伝えるだけであれば、それほど難しくないかもしれませんが、本当に神を知るということは知識ではないからです。それはたとえば、毎週礼拝に出席し、信仰生活に熱心に励んでいるような人でも、ちょっとした生活上の問題や何らかの躓きによって信仰から離れてしまったり、「神がいるなら、なんで自分がこんな苦しい目に遭わなければならないのか」と言ってつぶやいたり、嘆いたりすることからもわかります。本当に神を知っているなら、そのようなことはないからです。もちろんそれは人間の弱さから来ているのは確かですが、根本的な原因は神をどれだけ知っているかということなのです。

 

しかし、神が人に新しい心を与えてくださると、小さい者から大きい者まで、みんな神を知るようになります。そして神がその人の心を新しくしてくださり、神のみこころに歩み、自分で何かを一生懸命にしようとするよりも、神の御業を期待するようになるのです。

 

新しい契約の第三の特徴は、罪を拭い去ってくださるということです。12節には、「なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」とあります。完全な罪の赦しの宣言です。罪を思い出さない、と主は言われます。皆さんの中で、過去の罪で思い悩んでいる方はいますか。主はその罪を赦してくださいます。赦してくださるというだけではありません。ここには、彼らの罪を思い出さない、とあります。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが十字架につけられとき、あなたのすべての罪を身代わりとなって負ってくださったからです。その十字架の死によって、信じる人々の罪を赦してくださいました。あなたがイエス様をあなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの過去罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて赦されているのです。初めの契約ではそうではありませんでした。いつも罪が思い出されました。年に一度、贖罪の日があって、たくさんの動物がいけにえとしてささげられ、その動物の犠牲によって罪が赦されました。しかし、またすぐに罪を犯してしまうのです。ですから、いつも罪が思い出されました。そして、毎年、毎年、罪が赦されるための動物がいけにえとしてささげられていたのです。

 

しかし、キリストはあなたの身代わりとして十字架で死んでくださいました。やぎや羊の血が人々の罪を聖めることができるなら、まして神の子であるキリストの血はどんなにか人々の罪を聖めることができることでしょう。そうです。あなたがイエス様を救い主と信じるなら、その罪はもう二度と思い出されないのです。

 

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という韓国の映画が放映されました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」

この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないで苦しんでいた夫にこの若い妻が赦しのメッセージを語るのです。この作品を製作した監督はクリスチャンで、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのでしょう。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

神様はそのひとり子をこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。あなたがイエス様を信じるなら、あなたがたとえ神との契約を守れないようなものでも、守れなくてすぐに罪を犯してしまうような弱い者でも、神はあなたを赦してくださるのです。これが新しい契約、神の福音です。新しい契約の大きな特徴はここにあります。最初に言いましたが、古い契約はいわば双務契約だと言いましたが、新しい契約は双務契約ではなく、神の愛と真実に基づく一方的な祝福の約束なのです。これは遺言と同じで、一方的なもので、双方の合意に基づくものではありません。しかも、それを受ける人にとって不利になるものは無効ですから、有利になるものだけが有効となります。キリストは十字架で死なれることによって有利どころかすばらしい祝福の約束、罪からの救いを与えてくださいました。それはキリストが十字架で流された血によって署名捺印された遺言状なのです。だから信じる人はその遺言状の通りに救われ、罪が赦され、永遠のいのちを得ることができるのです。

 

ですから、もう律法を守らなければというあの古い契約に戻らないようにしましょう。また天国に行くためにもっと善いことをして、天国への階段を上っていこうなどという考えを捨てて、神の恵みによって用意されたキリストの十字架の死と復活を通して成し遂げられたキリストの救いを受け入れ、今も生きておられるキリストの恵みによって生きる者でありたいと思います。

 

皆さんはどうですか。この神の恵みから離れ、いつしか律法という古い契約に戻っていることはないでしょうか。自分の思い、自分の考えが優先されて、そこに逆戻りしていることはないでしょうか。キリストの十字架以外にあなたを救うことができるものは何もないのです。

申命記14章

今日は申命記14章から学び思います。申命記は英語でDEUTERONOMYと言いますが、「二度語る」という意味です。神はモーセを通して、これから約束の地に入るイスラエルに対して彼らが守るべき教えと定めを二度語るのです。いいえ、何度でも繰り返して語っています。それはなぜでしょうか。私たちはすぐに忘れやすい存在だからですね。だから、忘れないように、こうして何度もなんども語っているわけです。そしてその中心は何だったかというと、6章4-5節にあったように、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神であると主を愛しなさい、ということでした。それが11章まで語られて、12章からは、それを妨げる要因にどんなものがあるのかを具体的に語っています。12章はついて、主が選ばれた場所で礼拝をささげるようにと勧められていました。主が選ばれし場所には主の御名が置かれているからです。ですから、主を愛し、主を礼拝する者は、主の御名が置かれている場所に集まって共に主を礼拝することが求めてられているのです。人数が問題なのではありません。主は、二人でも、三人でも、私の名によって集まるところに私はいると言われました。二人でも、三人でも、主の名が置かれた所、当時、それは主の幕屋でしたが、そこで礼拝をささげなければなりませんでした。

そして前回の13章には、彼らは、自分たちのうちから他の神々に仕えるようにそそのかす者があったらどうしたらよいかということが教えられていました。そして、そのような者がいたら、必ず処罰しなければならないということが教えられていました。それがたとえあなたの兄弟、しまい

娘、愛妻、無二の親友であってもです。あるいは、その町の者全員がそうなってもです。その場合はその町とそこにいるすべてのものを剣の刃で聖絶しなければならないとありました。なぜなら、彼らは主によってエジプトの奴隷の状態から救われた者であり、主に従うこと、主を愛することが、彼らの祝福だからです。そうでなければ祝福はないからです。だから、自分たちにとってどうかということてはなく、主にとってどうか、主にとって良いことで、正しいとこであるならば、その主の教えに従って生きなければならない、ということが語られてきたのです。ですから、きょうの14章も、主を愛するという戒めの中で、語られている命令なのです。

 

1.死人のために自分の身に傷つけてはならない(1-2)

 

まず1節と2節をご覧ください。

「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。」

 

死人のために自分の身に傷をつけたり、額をそり上げたりというようなことが、異教的な風習として行われていたようです。自分の息子、娘の死を前に悲しみをこらえきれない親の気持ちはわかります。それで命を絶つ人もいるくらいです。ですから、死者のために体を傷つけるという気持ちがわからないわけではありませんが、そのようにしてはいけません。なぜなら、彼らは、主の聖なる民とされたからです。主は彼らを地の面のすべての国々の民のうちから、彼らを選んでご自分の宝の民とされました。その神に従わなければならないからです。悲しみは悲しみとしてしっかりと受け止めつつ、死もいのちも支配しておられる全能の神にゆだねなければならないのです。

 

2.忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない(3-20)

 

次に3節から20節までをごらんください。

「あなたは忌みきらうべきものを、いっさい食べてはならない。あなたがたが食べることのできる獣は、牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろじか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊。および、ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものは、すべて食べることができる。反芻するもの、または、ひづめの分かれたもののうち、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは、食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていない。それは、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないから、あなたがたには汚れたものである。その肉を食べてはならない。またその死体にも触れてはならない。すべて水の中にいるもののうち、次のものをあなたがたは食べることができる。すべて、ひれとうろこのあるものは食べることができる。ひれとうろこのないものは何も食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。すべて、きよい鳥は食べることができる。食べてならないものは、はげわし、はげたか、黒はげたか、黒とび、はやぶさ、とびの類、烏の類全部、だちょう、よたか、かもめ、たかの類、ふくろう、みみずく、白ふくろう、ペリカン、野がん、う、こうのとり、さぎの類、やつがしら、こうもり。羽があって群生するものは、すべてあなたがたには汚れたものである。羽のあるきよいものはどれも食べることができる。あなたがたは自然に死んだものを、いっさい食べてはならない。あなたの町囲みのうちにいる在留異国人にそれを与えて、彼がそれを食べるのはよい。あるいは、外国人に売りなさい。あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。」

 

ここには食べることができるものとそうでないものの区別が記されてあります。食べて良いものはどのようなものでしょうか。牛、羊、やぎ、死か、かもしか、野やぎ、くじか、おおじか、野羊、およびひづめが分かれて、反芻するものです。つまり、足の裏がふくらんでいるもので、例えば、犬や猫は足の裏がふくらんでいますが、ひづめがないため食べることはできません。また、反芻しない動物とは、肉食動物のことです。反芻するのは、草食動物だけです。しかし、反芻するもの、あるいはひづめが分かれているものでも、次のものは、食べてはいけないとされていました。すなわち、らくだです。これは反芻しますが、そのひづめが分かれていないので、汚れたものとされていました。また、岩だぬき、野うさぎ、豚です。これは、ひづめが分かれており、ひづめが完全に割れたものですが、反芻しないので、汚れたものとされました。

 

それでは、ここで言わんとしていることはどういうことなのでしょうか。というのは、イエスさまは、すべての動物はきよい、と言われたからです。また、神はペテロに、「神がきよいと言われたものを、きよくないから食べないと言ってはならない」と言われました。イエスは律法の目的であり、それを成就された方ですから、私たちはイエス様のことばに従わなければなりません。つまり、神がきよいとされたものをきよくないと言ってはならないということです。それは水の中にいるものも、空を飛ぶものも同じです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

このように地上の動物の中で食べてよいものと汚れているもの、また、水の中の生き物の中で食べてよいものと汚れたもの、空中を飛ぶものの中で食べてよいものと汚れているものの区別を見ると、なぜ神がそのように言われたかがわかります。それは衛生的な理由もありますが、それ以上にもっと大切な霊的な意味があったからです。それはこの3つに分類された動物について、汚れた動物の共通点を探してみるとわかります。

 

第一に、地上の動物は肉食が汚れているとされている点でん。そして、空の鳥では猛禽類(肉食)が、汚れています。なぜでしょうか?人のいのちは血にあるからです。ですから、神は初めに人を創造されたとき、人も含め、この地上のすべての動物は草食動物だったのです。つまり、神は、どの動物も肉を食べないように創造されたのです。実は、イエスさまが再臨されてからの千年王国においても、熊やライオンが草を食べると預言されています(イザヤ11:6-7)。だから、これが理想の状態なのですが、人が肉を食べるようになったのはノアの洪水後のことです。しかし、そこには一つだけ条件がついていて、それは、「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。」(創世9:4)ということでした。これは、律法において定められたことですが、たとえ動物を食べるときにも、いのちを尊重しなければならないということです。したがって、神は生き物のいのちをとても大切にされており、ご自分のかたちに造られた人のいのちは、何ものにもまさって尊いものであるということです。

 

ですから、イスラエル人が肉食動物を食べないのは、神が人間や生き物を大切にしているように、自分たちもいのちを大切にしていることの現われなのです。もっと広い意味でいえば人を大切にするということでもあるでしょう。神を畏れかしこんで、人を自分よりも優れたものとみなし、慎み深く生きることでもあります。高ぶったり、無慈悲になったり、そしったり、陰口を言ったりするというのは、それは相手を傷をつけることであり、いわば「血を流す」ことでもあるのです。私たちの社会ではそうしたことが日常茶判事に起こっていますが、でもクリスチャンの間ではそうであってはなりません。そのように相手を食い物にし、相手の心を突き刺すような価値観を持ってはいけません。それを汚れたものとみなし、忌み嫌わなければならないのです。

 

第二のことは、これらの動物はすべて地上に、あるいは水に、直接、接していることです。どういうことかというと、地上の動物で、ひづめが割れているものがきよいとされたのは、足が直接、地面に接していないものです。それに対して、足の裏のふくらみで歩くものは、地面に接しているので汚れているとされました。同様に、水の中の生き物でうろこやひれがないものは、直接水に接するので汚れているとされました。あるいは、水底に接しているものもそうです。四つ足の這うものは、もちろん地面に接していますが、はね足のある者は、基本的に地の上ではねているだけで、這うことはないので、汚れてはいません。つまり、汚れているかどうかは、地に属しているかどうかで区別されているのです。

 

コロサイ人への手紙3章には、こうあります。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。…ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」(3:1-2,5)不品行、汚れ、情欲は地に属するものです。そうではなく、クリスチャンは天にあるものを求めなければなりません。

 

また、ヤコブはこう言っています。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。…しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(ヤコブ3:14-17)

 

ねたみや敵対心は地に属しているが、純真、平和、寛容、温順は上からの知恵です。ですから、私たちは、何が汚れているかを見分け、そこから袂(たもと)を断つという決断を、常に行なっていかなければならないのです。パウロは、こう言っています。

 

「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14~18)

 

あなたはどこに属していますか。この地上でしょうか、それとも天でしょうか?私たちは、神の一方的な恵みによってこの世から救い出された者、神の民、聖なる者です。ですから、この世に属するものではなく神に属するものとして、自らを聖別しなければなりません。彼らの中から出て行かなければならないのです。食べてよいきよい動物と汚れた動物の区別の規定が意味していたのは、まさにこのことだったのです。

 

また、ここに「子やぎを、その母の乳で煮てはならない」とあります。これはどういう意味でしょうか。肉と乳製品を一緒に食べてはならないということです。だからユダヤ人はハンバーガーを食べますが、チーズバーガーは食べません。肉と乳製品が一緒だからです。厳格なユダヤ教徒の家では肉料理用の鍋と、乳製品用の料理用の鍋が分けられているそうです。厳格なユダヤ人だとそこまでいつちゃんうんですね。

 

しかし、これはそういう意味ではありません。これは、子やぎをその母の乳で煮て食べると多産になるという異教的な習慣があって、そうした異教の習慣と関わりを持つことがないようにという意味です。実際に、イシュタロテとか、アシュタロテ、バアルといった偶像崇拝においてはこのようなことが行われていました。こうした異教的な習慣ではなく、ただ神の教えと守り、神を愛し、心を尽くして、神に従わなければならないことが言われているのです。

 

3.十分の一をささげる(22-29)

 

最後に22節から29節までを見て終わりたいと思います。

「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。あなたは、そこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、羊、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

 

ここには、収穫の十分の一を毎年主にささげるようにと勧められています。なぜでしょうか。それは、彼らが、いつも、彼らの神、主を恐れることを学ぶためです。私たちは自分の大切だと思っていることに時間とお金を費やします。その中で主こそ私たちを罪から救い出してくださった方であり、私たちにとって第一のお方であることを認め、この方を敬い、この方に従っていくことのしるしとして十分の一をささげるのです。ですから、これは決して義務でも、義理でもなく、神がなしてくださったことへの感謝の表われであり、この方によって生かされていることを示す信仰の表明なのです。もしそれが遠くて持っていくことが大変であれば、それをお金に代えてささげることができました。

 

いったいなぜイスラエルに、このようなことが求められていたのでしょうか。それは主への感謝というのはもちろんですが、そのことを通して主と交わりを持つためです。主は何も欠けたところがなく、私たちのささげ物を必要とされていません。神が、これらのささげ物を通して望まれているのは、私たちの「交わり」なのです。つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい、と言われた、あの命令に従い、神を愛することを求めておられるのです。ささげものはそのための手段にすぎません。その本質は神ご自身を喜ぶことです。私たちはとかく、自分の信仰を霊的、精神的なものだから、このようなささげものは特に必要ではないと考えがちですが、その信仰が本物であれば、喜んで自分を神にささげるようになるのです。時間も、お金もすべてを。私たちはよく霊的な事柄について口で語ることができても、実際の生活の中で、たとえば自分の収入や時間を主におささげしていなければ、それはただ表面的な信仰にすぎないと言えます。このように自分の生活に密着したところにまで、主がおられることを認め、このような実際の事柄について、自分をささげることによって、その信仰が本当に主に喜ばれる生きたものとなるのです。ある意味でこれは神との深い交わりの表われでもあるのです。

 

またここには、あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない、とあります。彼らには相続地の割り当てがなかったからです。彼らは主への奉仕に専念するために、その収入となるべき相続地が与えられていませんでした。ですから、他のイスラエル人たちが支えなければならなかったのです。これは新約聖書にも貫かれている教えであり、福音の働きに専念している者たちを、その他の人たちが支えるべきであることが命じられていますが、神の群れがこのみことばに聞き従うなら、どれだけ祝福されるでしょう。そして、教会は10組のクリスチャンがいればこれはそれほど難しいことではないはずです。

 

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。とあります。それは彼らのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、彼らの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるためです。神は、貧しい者、小さい者にあわれみを施すことを求めておられます。イエス様は、「この小さい者にしたのは、わたしにしたのである。」と言われました。また、「あなたがたも、この子どものようでなければ、神の国に入ることはてきません。」と言われました。この社会の中で貧しい者たち、小さい者たち、弱い者たちを心から受け入れ、彼らのために何ができめかを考えて取り組まなければなりません。なぜなら、そうするなら、「あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」

ヘブル7章1~10節「こんなに偉大な祭司」

きょうはヘブル書7章から、「こんなに偉大な祭司」というテーマでお話します。もちろん、この祭司とはイエス・キリストのことです。ですから、イエス・キリストはどんなに偉大な祭司なのかということについてお話したいと思うのです。

「祭司」という言葉は私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、

ユダヤ人にとってはだれでもよく知っている言葉でした。そして、とても重要な立場にある存在だったのです。なぜなら、祭司こそ自分たちが神に近づき、神の前に出るためにどうしても必要な存在だったからです。それは神と人との仲介者です。それが祭司でした。そしてここでは、イエス・キリストこそその祭司であることが語られているのです。

 

実は、このテーマについて5章で取り上げられていました。5章6節には詩篇の言葉を引用して、イエス・キリストについて、「あなたは、とこしえに、メルキデゼクの位に等しい祭司である。」と語られましたが、しかし、彼らの耳が鈍くなっていたので、説き明かすことができませんでした。彼らというのはユダヤ人クリスチャンのことです。ユダヤ教からキリスト教に回心したクリスチャンたちのことです。彼らはいろいろな事情でキリストを捨てて、かつての律法中心の生活に戻ろうとしていたので、著者は最後までこの信仰にとどまっているようにと励ますためにこの手紙を書いていたのですが、どうもその耳が鈍くなっていたのです。心が閉ざされていたわけです。

そこでこのヘブル書の著者は、ちょっとその前に・・・と、「キリストの成熟」ということについて語りました。それが5章11節から6章の終わりまでの箇所です。私たちがイエス・キリストを信じるだけで救われたということはすごい恵みです。今までは死んだらどうなるのか、毎日生きていてもその意味がわからない、だから生きる喜びや力なども沸いてこなかったのに、イエス様を信じたことで罪が赦され、神の子とされ、死んでも生きる永遠のいのちが与えられました。そればかりか、神の聖霊が心に宿ったことで、神との交じりが与えられました。それで確かに人生にはいろいろな問題はありますが、しかし、その中にあっても平安と希望を持って生きることができるようになったのです。前回の箇所には、それは「錨の役を果たし」とありましたね。これは希望の錨です。どんな嵐があってもびくともしない希望の錨です。こんなにすばらしい救いは世界中どこをさがしてもありません。これはほんとうにすばらしい恵みです。しかし、この恵みをもっと深く味わうためには、いつまでもキリストについての初歩の教えに留まっているのではなく、それをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、と励ましてきたのです。

 

そして、ここからまた祭司の話に戻ります。これが10章まで続くのです。イエス・キリストがどんなに偉大な方であるのかということが、祭司の話を通して説明しようとしているのです。きょうはここからキリストがどんなに偉大な祭司であるのかということを、三つのポイントでお話したいと思います。

 

Ⅰ.義と平和の王(1-2)

 

第一に、キリストは義と平和の王です。1節と2節をご覧ください。

「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」

 

ここに「メルキゼデク」という人物が出てきます。この人物については5章にも出ていましたが、キリストのひな型として描かれています。メルキデゼクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、イエス・キリストもそのような方であるということです。どのような点でキリストはメルキゼデクのようだったのでしょうか。

 

ここには、「このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが」とあります。サレムとはエルサレムのことです。意味は2節に出てきますが「平和」という意味です。「エル」は神という意味ですから、エルサレムというのは平和の神という意味になります。しかし、彼はただエルサレムの王というだけでなく、すぐれた高い祭司でした。

 

旧約聖書には、王であり、かつ祭司であったというのはこのメルキゼデク以外にはいません。ダビデ王は王であり、預言者でもありましたが祭司ではありませんでした。アロンは逆に祭司でしたが、王ではありませんでした。王であり、また祭司であったのはこのメルキゼデクだけなのです。

 

そればかりではありません。ここには、「アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えました」とも紹介されています。彼はアブラハムの時代に生きていた祭司で、アブラハムが王たちを打ち破って帰って来たとき出迎え、彼を祝福しました。これは創世記14章に書かれてある出来事ですが、アブラハムがカルデヤのウルから神が示してくださったカナンの地に来てから、神が彼を祝福してくださったので、彼は多くの家畜、財産を持つようになりました。するとそこに一つの問題が生じるのです。家畜があまりにも多くなってしまったので場所が狭くなり、甥のロトのしもべたちとの間にいさかいが生じるようになったのです。仕方なく彼らは別々の所に住むようになりました。甥のロトが選んだのはヨルダンの低地でとても潤った土地でした。ソドムという町です。ところが、ある時四人の王たちの連合軍が襲って来て、その町を略奪したのです。そこにはロトとその家族、財産も含まれていました。

それを聞いたアブラハムはどうしたかというと、318人のしもべを引き連れて敵を追跡して打ち破り、ロトとその財産、またロトの家族を取り戻しました。アブラハムが王たちを打ち破ったというのはその出来事のことです。その時アブラハムを出迎え、彼を祝福したのがこのメルキゼデクなでした。

彼らついては、それ以後全く出てきません。ダビデが詩篇の中で、「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」と、やはりキリストがメルキゼデクの位に等しい大祭司であると言及されている以外は、他には出てこないのです。颯(はやて)のように現れて、颯(はやて)のように去って行く月光仮面のような存在です。ところで、皆さんは「颯」という言葉の意味をご存知でしたか。颯というのは風が立つと書きますが、風が吹いてくる音を表しているそうです。そのきびきびとした様子から「颯爽」という言葉が出たようですけれども、いづれにしても、このメルキゼテクはサッと現れてサッと去って行く風のような存在であったわけです。なぜそのような人のことがこんなに大きく取り上げられているのでしょうか。それは神のメシヤが彼のような方であったからです。どういう点で彼のような存在なのでしょうか。

 

2節をご覧ください。ここには、「まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」まず彼の名前を見てくださいというのです。彼の名前は「メルキゼデク」ですが、その意味は「義の王」です。メルキゼデクという名前は、「メルク」と言葉と「ツァデク」という言葉が合わさった名前ですが、「メルク」は王という意味で、「ツァデク」は義という意味です。ですからメルキゼデクという名前は、正義の王という意味になります。それから、先ほども申し上げたように、彼はサレムの王でした。サレムとはエルサレムのこと、意味は「平和」でしたね。その王でもありましたから、平和の王でもあったわけです。つまり、メルキゼデクは私たちに義(救い)を与える王であり、平和を与える王であるということです。これが私たちの主イエス・キリストです。

 

ゼカリヤ9章9節にこうあります。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」

 

これはやがて来られるメシヤについての預言ですが、やがてあなたのところに来られる王はどのような方でしょうか。この方は正しい方で、救いを与える方です。また、この方は柔和な方、へりくだった方、平和の方で、ろばに乗って来られる方です。しかも、雌ろばの子のろばにです。力強く、颯爽と走り、敵と戦うために用いられる馬ではなく、雌ろばの子のろばといったらもっともか弱い動物の代表でしょう。私たちの救い主はそのようなろばに乗ってこられる方なのです。そして、この預言のとおりに、イエス様が十字架にかかるために最後にエルサレムに入場した時には、ろばに乗って入られました。群集は、「ホザナ、祝福あれ、主の名によって来られる方に‼」と大歓声で迎えましたが、その数日後には、「十字架につけろ、十字架につけろ」という罵声に変わるんですね。人の心はいつもころころ変わるから心というそうですが、しかし、あなたのところにやって来られる救い主は違います。あなたのところに来られる王はあなたに救いを与える方であり、あなたにほんとうの平安を与えてくださる方です。

 

キリストを知るまではほんとうの平安がありませんでした。いつも不安で、何かに怯えているような者でした。楽しいことがあれば喜べても、次の瞬間にはすぐに吹っ飛んでしまうような、吹けば飛ぶような、表面的な喜びでした。どんなに美味しいものを食べても、どんなにいい仕事をしていても、何をしても、心の深い部分で得られるような平安ではありませんでした。しかし、キリストが来られ、私たちの罪、私たちの咎の身代わりとして十字架で死なれ、三日目によみがえってくださったことによって、彼を信じるすべての人に神の救いが、神の平安が与えられたのです。

 

ローマ人への手紙5章1節にはこうあります。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」

イエス・キリストを信じて罪赦された人は、神との平和を持っています。持つかもしれないとか、たぶん持つでしょうと言っているのではないのです。神との平和を持っているのです。イエス・キリストによってこの救いと平和が与えられるのです。それは、環境の変化によって崩れるようなこの世の平安ではなく、何事が起ころうとも微動だにしない超自然的な心の平安です。

 

クリスチャン作家の三浦綾子さんは、直腸ガンの手術を受ける前日のもようを綴っておられます。心臓病もあるので、ひょっとすると術中に召されるかもしれないと思い、遺書を書くことになりました。ところがその時、人知を超えた不思議な平安に包まれ、死の恐れから全く解放されたそうです。イエス・キリストによって与えられる平安はこういう平安です。

 

イエスさまを信じたけど、まだ平安があって・・・・という方はおられますか?心配しないでください。私たちがこの地上にいる限り決して問題が絶えることはないので、そうした問題の渦の中に巻き込まれることがありますが、それでも私たちはこの神との平安が与えられているのです。そして今は祈りによってこれを体験することができます。どんなに心騒ぐことがあっても、心静めて祈るとき、あなたの心に住んでおられる聖霊によって、この神の愛と平安があなたの心を満たしてくださるのです。

ピリピ4章6節と7節にこうあります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

 

何とすばらしい約束でしょう。クリスチャンでも悩むことがありますが、問題で心騒ぐこともありますが、それでも祈りによって神の平安を持ち続けることができるのです。キリストは私たちと神との架け橋となってくださいました。ですから、いつでも、どんな時でも、この主を信頼して祈り神の救いと、神の平和を受けようではありませんか。

 

Ⅱ.永遠の祭司(3)

 

第二に、キリストは永遠の祭司です。3節をご覧ください。

「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」

 

これはどういうことでしょうか。ここにはメルキゼデクのもう一つの不思議が記されてあります。それは父もなく、母もなく、系図もないという点です。人間であれば父がいたでしょう。母もいたはずです。まあ、いたけど捨てられたということはあったかもしれませんが、ここには父もなく、母もなく、系図もないとあるのは、彼が一般の祭司とは決定的に違う祭司であったということなのです。

一般の祭司なら父がないとか、母がない、系図がないということはあり得ないことでした。なぜなら、律法によれば、祭司はレビ族から出ることが決まっていたからです。他の部族の者が祭司になることはできませんでした。それがはっきりと記されていたのが系図です。その系図がないということは、彼は一般の祭司とは別の次元の祭司だったということなのです。ではどういう次元の祭司だったのでしょうか。すぐれて高い神の祭司です。律法を超えていたのです。彼はアブラハムの時代の人物であり、律法はそれから600年も後に与えられたものですから、そもそも彼の時代には神の律法がありませんでした。そうした律法とは別の、律法よりもはるかにすぐれた祭司がこのメルキゼデクだったのです。

 

そればかりではありません。ここには、「その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司として留まっているのです。」とあります。どういうことでしょうか。メルキゼデクも実在した人であった以上、誕生もし、死にもしたでしょう。それなのに、ここにはそうした記録が全く記されていないのです。それは彼が誕生しなかったとか、死ななかったということではなく、そういうことについて書く必要がなかったということです。なぜなら、彼は神の御子イエス・キリストのひな型として描かれていたからです。つまり、キリストは永遠に、いつまでも、祭司としてとどまっておられる方であるということです。

祭司は普通、死ぬとその働きは終わり次の祭司に引き継がれますが、キリストは死んで終わりませんでした。キリストは死んで三日目によみがえり、天に昇られ、神の右の座に着座されました。そして、今も生きて、私たちのためにとりなしていてくださるのです。キリストは永遠に生きておられる神の祭司なのです。

 

ローマ8章34節には、「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」とあります。

私たちはイエスさまを信じてからもいろいろなことがありますね。家庭の中で、職場の人間関係、この社会の人たちとの関係、教会での人間関係もそうです。突然、小石が飛んできて車のフロントガラスが割れるとか、考えられないことまで起こります。いろいろな問題の中で自分の無力さを感じたり、弱さを感じることもあるでしょう。心が萎えてしまうこともあります。しかし、どんな患難や苦難があっても、何もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、私たちのために死んでくださった方、いや、よみがえられた主イエスが、天で私たちのために今もとりなしていてくださるからです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。だから私たちはこの方によっていつも希望を持って歩むことができるのです。

 

皆さんが辛く、苦しいと感じるとき、どうか思い出してください。皆さんは決して一人ではないということを。イエス様が皆さんとともにいてくださいます。皆さんが倒れないようにととりなしていてくださいます。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、恵みの御座に、イエス・キリストのもとに近づこうではありませんか。

 

Ⅲ.偉大な祭司(4-10)

 

第三に、キリストは偉大な祭司です。4節から10節までをご覧ください。4節には、「その人がどんなに偉大であるかを、よく考えてごらんなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたのです。」とあります。メルキゼデクが偉大な人物であったということは、アブラハムが彼に一番良い戦利品の十分の一を与えたことからわかります。アブラハムといったらユダヤ人の始祖です。彼によってユダヤ民族が始まりました。ですから、ユダヤ人にとってアブラハムは民族の父であり、信仰の父でもあるわけです。そのアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたということは、しかも自分の持っていた戦利品の中から一番良いものをささげたということは、それだけメルキゼデクと言う人物が偉大な者であったということです。

 

ところで、ここには十分の一とか、レビ族といった言葉が出てきますが、これは何のことかというと、イスラエルの民が約束の地に入ったとき、それぞれ12の部族に領地が与えられましたが、レビ族には与えられませんでした。なせなら、彼らの仕事は神に仕え、イスラエルの人々のために祈ることだったからです。そのために12部族のうち1つの部族がその働きに専念したのです。どれだけの人がいたでしょう。かなり大勢の人たちがこの仕事に当たっていたことでしょう。それで、レビ族は領地を持たず、農作物などの収入もなかったので、そのレビ族を支えるために他のイスラエル11の部族がそれぞれ収入の十分の一をささげ物として持って来てささげ、彼らの生活を支えたのです。それほどイスラエルは神に仕えるということを極めて重大な働きと考え、この神を中心に生きていたのです。

しかし、きょうの箇所を見ると、そのイスラエルの始祖であったアブラハムがメルキゼデクに十分の一をささげたとあります。そしてレビ族はそのアブラハムの孫の子どもたちですから、アブラハムがささげたということは彼ら自身もささげたということになるのです。なぜなら、その時点ではまだ彼らは生まれてはいませんでしたが、すでにアブラハムの腰の中にいたからです。ですから、イスラエルの民から十分の一を受ける立場のレビ族でさえもささげたということは、いったいこのメルキゼデクはどんな人物なのか・・・となるわけです。少なくともレビ系の祭司よりも優れていたことがわかります。

 

そればかりではありません。6節と7節を見てください。ここには、レビ系の系図にないはずのメルキゼデクが、神の約束を受けたアブラハムを祝福したのです。いうまでもなく、下位の者が上位の者から祝福されるのです。ということは、ここでアブラハムがメルキゼデクから祝福されたということは、アブラハムよりもメルキゼデクの方が上位の者であったということを意味しているのです。

 

皆さん、祝福するというのは、その祝福がそこにあることを宣言するわけです。よく手紙などに、「あなたのご健康を祈っています」と書いてありながらも、実際には一度も祈ったことがないというのとは全く違います。祝福するというのは、その祝福がそこにあるということの宣言なのです。この礼拝の最後にも祝祷がありますが、それもただの形式ではありません。そこに神の祝福があるという宣言なのであって、とても重いことなのです。私たちは神の祝福がなければ生きることができません。神の祝福があるからこそ、まともに生きることができるのです。私たちは自分の力で頑張って生きているようですが、実際には自分の力というのは微々たるもので、すべては神の祝福によって支えられているのです。私たちがこうやって毎週、週の初めに礼拝のために教会に集まって来るのはその神に近づき、神からの祝福を頂くためです。私たちを罪から救ってくださった主の尊い恵みを覚え、その神に感謝して、その神を礼拝して、その神が私たちを祝福して下さるようにと祈るために集まっているのです。だから神の祝福がなかったら何も始まらないのです。

 

もうすぐさくら市での開拓がはじまりますが、そこでも神の祝福がなかったら何も始まりません。3/12には教会の案内が約4万枚さくら市を中心に新聞折り込みされます。オープニングのコンサートやさまざまなイベントも用意されています。でも、神の祝福がなかったら何の意味もありません。ですから、今度の開所式と献堂式で一番重要なことは何かというと、この神の祝福を求めて祈ることです。どれだけ立派な式をやるかとか、どれだけいいものを提供するかとか、どんなに親切にもてなすかとかといったことではなく、そこに神の祝福があるように、神がさくら市での働きを祝福して多くの人たちを救いに導き、その人たちを通してさらに福音が広がっていき、やがてその地域全体に神の福音が満たされ、神の祝福が満ち溢れるようにと祈るためにするのです。このことをぜひ忘れないで、その奉仕に臨みたいと思うのです。足りないところも多々あるでしょう。うまくいかないことも多いかと思いますが、この神の祝福の祈りの中に、ぜひあなたにも加わっていただきたいのです。

当日は米沢から千田次郎先生が来て記念メッセージをしてくださいます。そこで先生がどんなメッセージをしてくださるかはわかりませんが、私にとって感謝なことは先生がわざわざ来てくださって、神の祝福を祈ってくださるということです。それが一番重要なことだからです。

ちなみに、千田先生は私がまだ20代の時からずっと私たちのために祈って支えてくださっている先生です。この教会の開所式の時にも来てくださいました。その時、私はどれほど慰められ、励まされたかと思うのです。私からみたら先生はメルキゼデクのような人です。そんな先生が来て祈ってくださるということは、どんなに幸いなことでしょうか。ぜひこの中に皆さんも加わって、この神の祝福を共に祈ろうではありませんか。

 

アブラハムはメルキゼデクに十分の一をささげ、このメルキゼデクによって祝福されました。レビ系の祭司のトップといってもいいでしょうアブラハムよりもはるかにすぐれた祭司、それがメルキゼデクでした。そして、これはイエス・キリストのひな型だということを申し上げましたが、ですから、イエス・キリストは旧約聖書の中に出てくるレビ系の祭司よりもはるかにすぐれた方なのです。

 

キリストはあなたのためにこの世に来られ、ご自分の命を犠牲にして、永遠の贖いを成し遂げてくださいました。そして、今も生きてあなたのためにとりなしをしておられます。あなたの祝福を祈っておられます。あなたにどんなことがあろうとも、あなたが倒れることがないようにいつも支えていてくだいます。こんなにすばらしい救い主が他にあるでしょうか。いません。あなたの救い主は、あなたのためにご自分の命さえも捨ててあなたを愛してくださったイエス・キリストだけなのです。この方がいつもあなたとともにいて、あなたを助け、あなたを励まし、あなたを守ってくださいます。このイエスから目を離さないで、しっかりととどまっていましょう。キリストはこんなに偉大な祭司なのです。

申命記13章

今日は申命記13章から学びたいと思います。イスラエルの民はエジプトを出て約40年間荒野をさまよいましたが、ようやく約束の地の入り口まで導かれました。ここからヨルダン川を渡って約束の地に入ります。そこでモーセは、イスラエルが約束に地に入るにあたり、そこでどうあるべきかをくどいと思われるくらい何回も語るわけですが、5章から11章までにはその原則的なことを、つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよということでしたが、前の章からはそのことについてのもっと具体的なことが教えられています。

 

1.預言者、夢見る者(1-5

「あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現われ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない。その預言者、あるいは、夢見る者は殺されなければならない。その者は、あなたがたをエジプトの国から連れ出し、奴隷の家から贖い出された、あなたがたの神、主に、あなたがたを反逆させようとそそのかし、あなたの神、主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとするからである。あなたがたのうちからこの悪を除き去りなさい。」

 

まず1節から5節までをご覧ください。12章の終わりのところには、彼らが約束の地に入って行ったら、その地の偶像を粉々にするようにというだけでなく、その偶像がどんなものかと興味をもって「私もそうしてみよう」などということがないように、わなにかけられないように注意しなさいとありました。けれともここでは、その地の偶像ではなく、自分たちの中から偶像へと誘い込もうとする悪しき働きに注意するようにと警告されています。それは何かというと、「預言者」と「夢見る者」の存在です。預言者とは、神のことばを語る者ですが、神のことばではなく自分のことば、自分の思い、自分の考えを語る者が出て来て人々を惑わすというのです。それを何というかというと「偽預言者」と言います。あるいは、「夢見る者」とも言われます。彼らは神が語ってもいないことを勝手に語り、人々を神の道から惑わすようなことをするわけです。そんな話に惑われるなんてバカじゃないかと思うかもしれませんが、彼らは羊の身なりをしてやってくる狼なので、なかなかその正体に気付きにくいのです。特に、何かのしるしや不思議を示すので、人々は「この人はほんとうの預言者だ」とだまされてしまうのです。それだけ人は見えるものに弱いんですね。何だか特別な力があるかのように感じてしまいます。何を言っているかわからない聖書を学ぶより、目に見える不思議なことや、心にぐっとくるものを求めがちなのです。そして、ヤハウェなるまことの神ではなく、他の神々へと、他の道へと、偶像礼拝へと人々を導こうとするのです。

 

それは神の教会の中でも同じです。偽預言者や偽教師が現れては超自然的なことや顕著な働きをして、人々を神のみこころから遠ざけてしまうのです。とはどちらかというと魅力的なことに心が奪われやすいですから、どうしてもそっちの方に傾きやすいのです。しかし、ここが勝負です。なんらしるしもないただ神様を信じ続けることは忍耐が試されますが、そのときこそ、自分が本当に主を愛しているかどうかがわかるのです。たとえ自分の思いとは違っても、たとえ他の人が自分と違うことをしていても、それでも神のみこころは何かを判別し、そこに立ち続けていかなければなりません。心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならないのです。

 

5節には、そのような者たちに対する厳しい処罰が記されてあります。なぜそんなに厳しく言われているのでしょうか。なぜなら、これがイスラエルのいのちにかかわることだからです。彼らが神からそれて別の神に向かうなら、彼らは滅んでしまうからです。

 

そういう意味では、このことは私たちも注意しなければなりません。私たちは偶像を拝むということはしないかもしれませんが、本当の神以外のものを神にしてしまうこと、すなわち、そういう意味での偶像があるのではないでしょうか。聖書が何と言っているかというよりも、あの人はこう言ったとか、この本にはこう書いてあったとか、自分はこう思うと言って、神の道からそれていることがあるのです。自分でも気づかないうちに・・・。これがキリスト教だと思いこんでいることがあります。気を付けたいものです。

 

2.家族が誘っても(6-11

 

次に節から11節までをご覧ください。

「あなたと母を同じくするあなたの兄弟、あるいはあなたの息子、娘、またはあなたの愛妻、またはあなたの無二の親友が、ひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう。」と言うかもしれない。これは、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった神々で、地の果てから果てまで、あなたの近くにいる、あるいはあなたから遠く離れている、あなたがたの回りの国々の民の神である。あなたは、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはならない。このような者にあわれみをかけたり、同情したり、彼をかばったりしてはならない。必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、まず、あなたが彼に手を下し、その後、民がみな、その手を下すようにしなさい。彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。イスラエルはみな、聞いて恐れ、重ねてこのような悪を、あなたがたのうちで行なわないであろう。」

 

今度は、家族の者たち、あるいは非常に身近な者が、あなたを他の神々へと誘い込むときの場合にはどうしたらいいかということです。たとえあなたの家族や無二の親友があなたを誘っても、そういう者に同意したり、耳を貸したりしてはいけないとあります。あわれみをかけてもなりません。同情してもだめです。その人をかばったりすることもゆるされません。なんとここには、必ず殺されなければならないとあります。まずあなたが手を下し、その後で、民がみな、その手を下すようにしなければなりません。えっ、そこまでしなければならないんですか。本当に驚きを隠せません。いったいどうしてそこまでしなければならないのでしょうか。その理由が10節にあります。「彼は、エジプトの地、奴隷の家からあなたを連れ出したあなたの神、主から、あなたを迷い出させようとしたからである。」

すなわち、主はその家族をエジプトの地、奴隷の家から解放してくださった神だからです。いわば家族の家族と言ってもいいでしょう。今日家族がこうして幸せに暮らせるのは、それは主が彼らをエジプトの奴隷の家から解放してくださったからです。その救い主を捨てるようなことがあるとしたら、それこそ家族をないがしろにすることであって、ゆるされることではありません。

 

イエスさまは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37と言われました。これは家族がどうでもいいということでなく、優先順序の問題です。キリストよりも家族を愛する者はキリストの弟子にふさわしいものではありません。家族以外にも、私たちは教会や仕事、趣味といった生活していく上で欠かすことができない大切なことがたくさんありますが、その中にあっても神を第一としなければならないのです。ではその他のことはどうでもいいということではなく、どれも大切なことでありますが、時によっては家族よりも仕事を、仕事よりも教会を、教会よりも家族を優先にしなければならないことがありますが、どんなことがあっても神を第一とし、家族や仕事よりももっと強く、もっと堅く、もって熱く、結びついたものでなければならないのです。その中にはたとえ家族といえども入り込むことはてきないのです。

 

3.町の住民を惑わせたら(12-18

 

最後に12節から18節までをご覧ください。

「もし、あなたの神、主があなたに与えて住まわせる町の一つで、よこしまな者たちが、あなたがたのうちから出て、「さあ、あなたがたの知らなかったほかの神々に仕えよう。」と言って、町の住民を迷わせたと聞いたなら、あなたは、調べ、探り、よく問いたださなければならない。もし、そのような忌みきらうべきことがあなたがたのうちで行なわれたことが、事実で確かなら、あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすこの聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。いけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永久に廃墟となり、再建されることはない。あなたは、必ずあなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるすべての主の命令を守り、あなたの神、主が正しいと見られることを行なわなければならない。」

 

ここには、イスラエルの民がその町のすべての住人をそそのかした場合どうしたらよいかを語っています。をあげています。その町全体が偶像崇拝に陥ってしまたケースです。その場合は、まずよく調べ、探り、問いたださなければなりませんが、そのようなことが実際に行われていたとしたら、その町の住民のすべてを剣の刃で打たなければなりません。その町とそこにいるすべての物、その家畜もです。徹底的にそれを取り除かなければならないというのです。

 

 いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。一つの理由は、それは、主がイスラエルをエジプトの奴隷の状態から救い出された方だからです。今のイスラエルがあるのは、彼らを救ってくださった主のおかげです。それなのに主を捨てて他の神々に走るようなことがあるとしたら、どれほど主は悲しまれることでしょう。

 

 もう一つの理由は。そのようにしなければイスラエルに祝福はないからです。1126-28には、主は彼らの前に、祝福とのろいを置くと言われました。主に従うなら祝福を、従わなければのろいを置くと言われたのです。ですから、彼らが他の神々に走るなら、そこにはのろいしかありません。そののろいを受けることがないように、聖絶しなければならないのです。この主がともにおられるということが、イスラエルにとっての祝福の源であり、最高の喜びです。その主を捨てて、他の神々に走って行くようなことがあるとしたら、そこには滅び以外の何ものもありません。そうしたものは一切、取り除かなければならないのです。主との密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、というのです。

 

 それは、イエス・キリストによって罪が贖わられた私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちにとっての幸せと成功、祝福のかぎはイエス・キリストであって、この方を離れては何の実を結ぶこともできません。私たちが豊かな実を結ぶのはただ主につながっている時だけであって、それがなかったらそこには滅び以外の何ものもないのです。そうした要因は取り除かなければなりません。そして、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、神を愛さなければならないのです。

 

今度のさくらチャペルの開所式で、「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)を賛美します。私はこの賛美が好きです。天地が滅びようとも 変わらず、赦しと恵みの中で 主は私たちを神の子としてくださいました。そしてとこしえに変わらない愛で私たちを包んでいてくださいました。この主だけに心を向け、この主だけを見上げて歩みたいと思うのです。


「尽きせぬ愛をあなたに」(Just Let Me Say)

 

尽きせぬ愛をあなたに 恵み憐れみうけ、
麗しいあなたのみもとで 御顔拝させよ

天地が滅びようとも わが言葉は変わらず
ただ主よ 愛します わが友 救い主

さやかなみ声聞かせよ やさしく我を呼ぶ
拝させよ 栄光と力 御霊の炎を

荒野が園になるまで わが心は求める
ただ主よ 従います わが友 救い主

せつなき心われに あつく燃ゆる思い
とこしえに変わらぬ主の愛 ついにわれは知る

赦しと恵みの中で 神の子とされた身を
ただ主よ 感謝します わが友 救い主

 

この主の愛と恵みから迷い出ることがなにいように、心を尽くして主だけを愛しましょう。

申命記12章

今日は申命記12章から学びたいと思います。ここには、5章から11章までに語られた原則的なことを、具体的な場面に適用させています。つまり、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛するにはどうしたらいいかということについて教えられているわけです。これは26章まで続きますが、きょうは、その最初の部分を見ていきたいと思います。

 

1.主がしてくださったあなたがたの手のわざを喜びなさい(1-7

 

「これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。あなたがたの神、主に対して、このようにしてはならない。ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。」

 

まず第一のことは、偶像を打ち砕くことです。2節には、「それをことごとく必ず破壊しなければならない」とか、3節には、神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい、とあります。ただ、主が選んだ場所を尋ね、そこにささげものを携え、主が祝福してくださった彼らの手のわざを喜び楽しまなければなりません。

 

主ご自分の住まいとして御名を置くために、彼らの全部族のうちから選ぶ場所とはどこですか。これは聖なる所、主の幕屋です。そこには主が住んでおられます。そこに行かなければなりません。

 

どのように?6節をご覧ください。ここには、「あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。」とあります。これは主へのささげものを表しています。全焼のいけにえは主への献身を、また収穫物の十分の一をささげるとありますが、これはすべてが主のものであり、主の恵みによって与えられたことへの感謝のしるしです。そして奉納物とは幕屋の奉仕に必要なものを指しています。誓願のささげ物は、何か自分が志を立てて、一つのことを、責任を持って行なうことを示すささげものです。すなわち、これらはすべて主への感謝のささげものです。しかもここには、進んでささげるささげ物とあります。ささげ物で大切なことは、人に言われたからささげるのではなく、自ら進んでささげること、神への自発的な応答としてささげることなのです。牛や羊は初子をささげるようにと言われています。これは「初物」のことですね。それは最上のささげものを意味しています。余った物とか、無残ったものをささげるのではなく、初物を取っておき、それを喜んで主にさささげることに意味があるのです。主イエスはレプタ銅貨2枚をささげたやもめは、他のだれよりも多く献金をしたとありますが、それは彼女のささげものに、このような要素が含まれていたからです。

 

2.主が選ぶ場所で(8-14

 

次に8節から14節までをご覧ください。「あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。あなたがたがまだ、あなたの神、主のあなたに与えようとしておられる相続の安住地に行っていないからである。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。あなたがたは、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。また、あなたがたの町囲みのうちにいるレビ人とも、そうしなさい。レビ人にはあなたがたにあるような相続地の割り当てがないからである。全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。」

 

ここでも、同じことが教えられています。彼らが約束の地に入ったら、主が御名を住まわせる場所へ、主が命じられるものを持って行かなければならない、とあります。しかし、その前、モーセはここでとても大切なことを語っています。それは、イスラエルは、「おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。」ということです。自分が良かれと思っていることをしている。神が言われることではなく、自分の思いと、自分の考えで、正しいだろうと判断して生きているのです。それは彼らがまだ主が彼らに与えようとしている地に行っていないからである。もし彼らがヨルダン川を渡り、主が与えてくだる地に入ったなら、そうであってはいけません。かって気ままな場所で全焼のいけにえをささげてはいけないのです。自分勝手な考えで、自分の思いで礼拝をささげてはいけないのです。神を信じ、神に従って生きる人は自分が正しいと思うかどうかではなく、神が正しいと思っておられるかどうか、神が願っておられることは何かを知り、それに従って行動しなければなりません。たとえそれが自分の頭で理解できないことであっても神がそう言われるから従う、これが信仰者の生きる基準なのです。

 

10節には、彼らが約束の地に入ることができたらどうすべきかが教えられています。11節を見ると、御名を住まわせる場所へ、主が命じられる物をもって行かなければならないと言われています。御名を住まわせるために選ばれた場所とはどこでしょうか。それは神が臨在しておられるところ、つまり、神の幕屋です。なぜ神の幕屋に行かなければならないのでしょうか。それは私たちの信仰は個人的なものではないからです。ある意味で一人一人の神との関係が最も重要ですが、かといって一人で神を礼拝するだけが望ましいことではありません。むしろ、神のみこころを知れば知るほど、そこには「互いに」ということがどれほど重要であるかがわかります。主イエスも、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と言われました。私たちは、いつでも、どこでも、主を礼拝することができますが、そのように主を礼拝する人は、主の御名において集まるところで礼拝をささげることがいかに重要であるかに気付くはずなのです。また、もし共に集まって礼拝することがなければ、すなわち、ここに書かれてあるように、「おのおのが自分で正しいと見えることを行っているならば、自分では主を礼拝しているようなつもりでも、実は自分が正しいと思うようなことをしているにしかすぎないのです。それは悪い意味での個人主義です。私たち互いに集まって、主イエス・キリストを礼拝することによって、互いに責任関係が生まれてくるのです。互いに集まり、互いに祈り、互いに仕え合い、互いに交わることによって、自分が正しいと思うことではなく、主が正しいと思われていることは何かを求めることができるのです。「鉄が鉄を研ぐ」という御言葉がありますが、主にあって集まるところにこそ、自分の思いが、自分勝手なものから主へのものへときよめられていくのです。

 

そのことは13節でも言われています。ここには、「かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい」とあります。かって気ままな場所で礼拝するというのは、自分勝手な礼拝、という意味です。自分に都合が良い時に、都合が場所で、都合がいい方法で礼拝をささげるというのはかって気ままな礼拝と言えるでしょう。神をあがめているようで、実はあくまでも自分が中心の礼拝です。自分の好きな方法で礼拝をささげようとするところに偶像が生まれます。自分だけの世界、自分だけの宮ができ、そこに祭司を雇うという、士師記に出て来るミカのようになるのです。(士師記17章)主はこれを忌み嫌われます。そうではなく、私たちは主のみこころを聞いていかなければなりません。それぞれおのおのが正しいと思うことではなく、主が語っておられることを共に聞き、共に受けとめ、共に果たしていく者でなければなりません。それを聞いていくのが一人一人に課せられている使命なのです。そして、それは普通教会の指導者に与えられ、牧師が主によって導かれることによって教会が導かれていきます。ですから、牧師の役割はとても重要です。主のみこころは何かをいつも聞いていかなければならないからです。

 

3.血は食べてはならない(15-19

 

「しかしあなたの神、主があなたに賜わった祝福にしたがって、いつでも自分の欲するとき、あなたのどの町囲みのうちでも、獣をほふってその肉を食べることができる。汚れた人も、きよい人も、かもしかや、鹿と同じように、それを食べることができる。ただし、血は食べてはならない。それを地面に水のように注ぎ出さなければならない。あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一、あるいは牛や羊の初子、または、あなたが誓うすべての誓願のささげ物や進んでささげるささげ物、あるいは、あなたの奉納物を、あなたの町囲みのうちで食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ぶ場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みのうちにいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい。あなたは一生、あなたの地で、レビ人をないがしろにしないように気をつけなさい。」


ここでは肉を食べることについて語られています。彼らがささげた家畜、牛や羊以外のきよい動

物は、すべて食べることができました。しかし、ただし、血は食べてはなりませんでした。それは地面に水のように注ぎ出さなければならなかったのです。なぜでしょうか。レビ記17:11にその理由が記されてあります。それは、「肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」

 

 これはどういうことでしょうか。ここには、なぜ血を食べてはならないのかというと、人のいのちは血の中にあるからです。だから、その血をもって贖いが行なわれるのです。旧約聖書ではそのために動物の血が流されました。その血が犠牲にされることによって、人々の罪の身代わりとなって死ぬことによって、人々の罪が赦されたのです。まして、動物ではない、神のひとり子の血によって罪が贖われたとしたら、その罪はどんなに清められることでしょう。私たちはイエス様の血によって完全な罪の赦しを受けることができたのです。いのちはみな尊いものですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Ⅰペテロ1:18-19)」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。それゆえに主は、「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。と言われたのです。

 

17節から19節までのところにはおもしろいことが命じられています。ここでは、神へのささげものでない獣は、どこでも食べることができましたが、神へのささげものに関する食事、聖なる食事は、主が選ばれる一つの場所でしか食べることができませんでした。そして、それは息子、娘、男奴隷、女奴隷、レビ人と共に食べなければならなかったのです。特にここではレビ人とともにとか、レビ人をないがしろにしてはならないとあるので、これはレビ人に相続財産として与えられるべき分のことが語られているものと思われます。レビ人をないがしろにしてはならない。十分の一をもって、主の聖なるもの、牛や羊の初子などを、主のささげものとしてささげ、それをレビ人たちが受け、食べたのでしょう。それをみんなで喜ぶ。それがイスラエルが約束の地に行って行うべきことだったのです。

 

4..主が良いとみられること(20-28

 

「あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい。」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。かもしかや、鹿を食べるように、それを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行なわなければならない。ただし、あなたがささげようとする聖なるものと誓願のささげ物とは、主の選ぶ場所へ携えて行かなければならない。あなたの全焼のいけにえはその肉と血とを、あなたの神、主の祭壇の上にささげなさい。あなたの、ほかのいけにえの血は、あなたの神、主の祭壇の上に注ぎ出さなければならない。その肉は食べてよい。気をつけて、私が命じるこれらのすべてのことばに聞き従いなさい。それは、あなたの神、主がよいと見、正しいと見られることをあなたが行ない、あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである。」

 

主が良いとみられることが続きます。これまでの荒野の旅とは異なり、広大な土地にイスラエルの民は住みます。幕屋や神殿があるところに行くには何日もかけなければいけない人々も出て来ます。ゆえに、食べたいものはそこで食べることができます。

 けれども、血を食べてはいけないことが強く戒められています。23節に、「血はいのちだからである」とあります。血を食べることは命を奪うことになります。命は神にのみに属しているものであり、他の何ものも奪うことはできません。したがってこのいのちの象徴である血を食べないことによって、それは自分が主のものであり、主の定めに従っていることを表していたのです。

 

もしこれを現代のクリスチャンに当てはめるならどうなるでしょうか。互いにキリストにあって一人ひとりの命を大切にする、ということでしょう。相手をキリストにあって配慮し、祈り、仕え、キリストがその人のために死なれたことを認めることです。言い換えれば、キリストの贖いをないがしろにしない、キリストの贖いに生きる、キリストのみこころに従って生きるということでしょう。

 

5.わなにかけられないように(29-32

 

「あなたが、はいって行って、所有しようとしている国々を、あなたの神、主が、あなたの前から断ち滅ぼし、あなたがそれらを所有して、その地に住むようになったら、よく気をつけ、彼らがあなたの前から根絶やしにされて後に、彼らにならって、わなにかけられないようにしなさい。彼らの神々を求めて、「これらの異邦の民は、どのように神々に仕えたのだろう。私もそうしてみよう。」と言わないようにしなさい。あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行ない、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。12:32 あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行なわなければならない。これにつけ加えてはならない。減らしてはならない。」

 

ここには、彼らが約束の地に入って行ったときに、気を付けなければならないことが記されてあります。それは、わなにかけられないように、ということです。そこにはどんなわながあったのでしょうか。彼らの神々を求めて、この地の異邦の民はどんな神々に仕えていたのだろうか、自分もそうしてみようと、思うことです。

 

こんなことがあるのでしょうか。あるのです。サタンは私たちの心の隙間を狙って、いつも戦いを挑んできます。心に余裕ができたそのとき、これまで考えもしなかったことをしてみたいと思うことが起こるのです。その一つがこれでしょう。この地の住民はどんな神を拝んでいたのかを知ろうとしているうちに、いつしか自分がそれを拝んでいるということがあります。私たちが主かせら目をそらした瞬間、全く別の神があなたの心を支配してしまうことがあるのです。どんなに長く信仰生活を送っていても・・・。しかも、とても恐ろしいと思うことは、そのことになかなか気づかないということです。ヘブル書にはあなたの耳が鈍くなってとありますが、あなたの心に覆いかかるため、そのことにすら全く気付けないのです。ですから、みことばの学びはとても重要です。そうした私たちの心を主に向けさせ、主のみこころは何であるかを示してくださるからです。主が命じるすべてのことを守り行いなさい、とあったも、その命令がわからなければ、どうして主に従うことができるでしょうか。それこそおのおのの信仰、自分勝手な信仰になってしまいます。そういうことがないように、主が明治らておられることは何かを学び、従順な心、聖霊の助けによってこの道を進んでいかなければなりません。それが、私たちがほんとうの意味で祝福を受ける道なのです。

申命記11章

今日は申命記11章から学びたいと思います。まず1節から7節までをご覧ください。

 

1.主の偉大さ(1-7)

 

「あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。」

 

モーセは今、約束の地に入って行こうとしているイスラエルに、これまでの過去の歴史を振り返りながら、神の定めとおきてを語っています。「申命記」というタイトルの意味は、「繰り返して語る」です。ですからモーセは、神の民であるイスラエルにとって必要なことを繰り返し、繰り返し語っているわけですが、その中心は何かというと、10章12,13節でしたね。つまり、心を尽くして、神を愛することです。ただ、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして神を愛すること、これこそ、神が彼らに求めておられることであり、彼らが約束の地に入ってからも守り行わなければならない中心的なことでした。

 

そして、この11章でも、モーセはそのことをイスラエルの民に繰り返して語ります。1節です。なぜでしょう。2節7節までのところに、その理由が語られています。それは主が偉大な方であり、主こそ神であられるからです。ここではその主の偉大な出来事のいくつかのことが取り上げられています。まず3節と4節には、主が彼らをエジプトから連れ出されたこと、そして5節には、彼らがここに来るまで、主が荒野でなされた数々の御業です。食べ物がないといえば空からマナを降らせ、水がないと言えば岩から水をほとばしり出させました。肉を食べたいと言えばうずらの大群を運んできました。また、そこには大きくて、強い敵がたくさん立ちはだかりましたが、主はそうした敵も打ち破り、40年の荒野の旅を守ってくださいました。それは一言で言えば、8章4節にあるように、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」ということです。

そればかりではありません。6節には、荒野であった一つの恐ろしい出来事が書かれてあります。それはルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対して、主が成されたことです。それは、彼らがモーセに反抗し、「あなたがただけが特別なのではない」と逆らったため、地が割れて、生きたままそこに突き落とされたという出来事です。ほんとうに主は生きておられる偉大な方なのです。そして、これは彼らの先祖たちの時代に起こったことではなく、彼らの時代に起こった出来事でした。そのとき彼らはまだ幼い子供か10代であったため、こうしてまだ生き残ってはいましたが、確かに彼らもそうした主の数々の出来事を見たのです。主はそのように偉大な方なのです。彼らはそのことを知らなければなりません。

 

2.天の雨に潤されて(8-25)

 

次に8節から25節までを見たいと思いますが、15節までをご覧ください。

「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

ここでも繰り返して、モーセを通して語られる主の命令を守るようにと勧められています。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは強くなり、その地を所有することができるからです。また、主が先祖たちに誓ったとおり、その地で長生きすることができるからです。というのは、彼らが入っていこうとしている地は、彼らが出て来たエジプトの地のようではないからです。そこでは野菜でも何でも自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で育てなければなりませんでしたが、彼らが入って行こうとしている地には天の雨で潤っているからです。そこでは主が、絶えずその上に目を留めていてくださいます。エジプトは肥沃な地であり、イスラエルよりも何倍も豊かな地でした。そのエジプトでは自分で種を蒔き、自分で水をやり、自分の力で何とかしならなかったのに、約束の地ではその必要が全くないのです。何が違うのでしょうか。そこに主がおられることです。そこに主の目があります。主が共におられるので、主が祝福してくださるのです。

 

これはまさにこの世界と信仰の世界、霊的世界の違いではないでしょうか。この社会は自力の世界です。自分の知恵と、自分の力で一生懸命耕やかさなければなりません。しかし、それとは違う世界があります。それは信仰の世界であり、そこには主の恵みが満ち溢れています。主ご自身が働いてくださいます。そこには天の雨が潤っています。その雨が豊かな収穫をもたらしてくくれるのです。13節と14節をご一緒に読みたいと思います。

 

「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 

もし主が命じる命令に従うなら、主が季節にしたがって、先の雨と後の雨を与えてくださいます。先の雨とは秋の雨のことで、10月後半から12月の前半まで降る雨のことです。これは夏の干ばつで固くなった地を柔らかくするために降る雨で、この時期に大麦と小麦の種蒔きがなされるので、土地が豊かに潤されるためにとても大切な雨となります。ヘブル語では「ヨーレー」(יוֹרֶה)といって、旧約聖書に3回使われています。(申命11:14、エレミヤ5:24, 24)。

それに対して後の雨は春の雨のことで、3月から4月の収穫の前に降る大切な雨です。この雨が大麦や小麦などの農作物や牧草のために必要な雨とされています。ヘブル語では「マルコ―シュ」(מַלְקוֹשׁ)と言って、旧約聖書では8回使われています。(申命11:14、ヨブ29:23、箴言16:15、エレ3:3/5:24、ホセア6:3、ヨエル2:23、ゼカリヤ10:1) これらはみな季節にかなって降る「祝福の雨」(エゼキエル34:26)です。です。

 

ヨエル 2章23節には、「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。」とあります。これはペンテコステと、この世の終わりに降る大いなるリバイバルの預言ではないかと言われています。初めの雨(秋の雨)」はすでに二千年前のペンテコステに降りました。しかし大収穫の「後の雨」である(春の雨)」はまだです。これが降るときは第二のペンテコステということができます。大艱難時代の終わり頃に、第二のペンテコステによってイスラエルの民は民族的に覚醒して救われ、その後にキリストの再臨がなされて千年王国がやってきます。その前には、すでに主にあるクリスチャンたちは空中に携挙されていますが、ユダヤ人の民族的救いの実現なしには異邦人クリスチャンの救いの完成もないのですから、無関心でいることはできません。私たちもまたこの後の雨のために祈らなければなりません。

 

しかし、ここではこの初めの雨と後の雨、神の祝福の雨を注ぐと言われています。私たちは世の終わりの前にもそのような神の祝福を受けるのです。もし、私たちが、神が命じる命令に、よく聞き従って、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛するならば・・・。

 

だから聖書はこう告げるのです。16節と17節をご覧ください。

「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。」

 

だから、気をつけなければなりません。私たちの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがないように。そんなことあるはずないじゃないですか・・・。しかし、人の心はコロコロ変わるから心というそうです。豊かになると人はすぐに高ぶり、横道にそれてしまうのです。ほかの神々に仕えるようになります。これは必ずしも偶像崇拝のことではなく、まことの神以外のものを神とすることを指しています。時には、自分が神になってしまうこともあります。自分の力がこれをしたのだ・・・と。しかし、そのように心が迷い、横道にそれてしまうとどうなるでしょうか。主が天を無度差してしまわれます。その結果、雨が降らず、その地は産物を出さず、すぐに滅びてしまうことになってしまいます。だからそういうことがないように注意しなければなりません。どのように注意したらいいのでしょうか。

 

18節から25節までをご覧ください。

「あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。」

 

ここには、このことばをあなたの心とたましいに刻み付け、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい、とあります。どういうことでしょうか。このみことばから離れることがないように、しっかりと心に刻み付けるようにということです。そればかりではありません。それをあなたの子供たちにも教えなければなりません。そして、いつもこれを唱えるように、門と門柱に書き記すようにというのです。もうみことば漬けですね。なぜここまでしなければならないのでしょうか。それはあなたがたの子孫の引かずが、天が地を覆う日数のように長くなるため、すなわち、長く生きるためです。これは後の雨の後にもたらされる千年王国で実現することになります。

 

そればかりではありません。もしこのようにして主にすがるなら、たとえ敵があなたがたよりも大きくて、強くても、主が彼らをあなたの目の前から追い払われ、その地を占領することができるからです。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。信じますか。信じましょう。あなたがたの足の裏で踏むところは、ことごとくあなたがたのものとなる。この教会の土地も、そのようにして与えられます。私たちではなく、ただ主が、そのことをしてくださると信じて、私たちはただ主よりすがり、ことごとく足の裏で踏んでいかなければなりません。

 

3.祝福とのろい(26-32)

 

最後に、26節から32節までをご覧ください。

「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。」

 

ここで主はイスラエルの前に、祝福とのろいを置くと言われました。もし、主の命令に従うなら祝福を、逆に、もし、主の命令に聞き従わず、主の命じる道から離れ、他の神々に従って行くのなら、のろいを与えるというのです。まさに二者択一です。私たちは、どちらかというとこの立場をあいまいにします。あまり熱心にならず、またあまり不熱心にもならず、その中間くらいがちょうどいいのではないかと思うのです。けれども、信仰に中立というのはありません。従うのか、従わないのか、のどちらかなのです。信じて命を持つか、あるいはそのままでいて神の裁きを受けているかのどちらかです。

 

しかし、ぜひ誤解しないでください。私たちは主に従うとは言っても従うことなどできない汚れた者なのです。だからこそ、キリストが呪われた者となって、私たちののろいを受けてくださったのです。そしてこのキリストを信じる信仰によって、私たちは神の祝福に預かることができるようになりました。だから、私たちはみんな従えない者なのですが、神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって義と認めていただいたのです。だから従えば祝福であり、従わなければのろいであるということではなく、もともとのろいを受けなければならなかった者を、神がその呪いを代わりに受けてくださったがゆえに、祝福された者としてくださった。それなのであれば、私たちには中途半端な態度は逆に赦されないのではないでしょうか。ご自分のいのちを捨てて私たちを救ってくださった主に対してふさわしい応答は、ローマ12:1-2にあるように、私たち自身を神にささげることであって、神が命゛知ることに対して全身全霊をもって応えていくことなのではないでしょうか。それが神が私たちに求めておられることなのです。

ヘブル6章13~20節 「神の約束は変わらない」

今日は、「神の約束は変わらない」というテーマでお話しします。きょうの箇所は6章13節からの箇所です。この手紙の著者は5章10節までのところまで話を進めてくる中で、11節から急に話を変えます。彼らの心がかたくなだったので、このまま話を進めていっても解き明かすことが困難だと判断した著者は、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目ざして進もうではないか」と勧めるのです。そのテーマのまとめがきょうの箇所で、7章から再びメルキゼデクの話に戻るのです。このところで著者がいいたかったことは何かというと、神の約束は変わらないということです。

 

皆さんは、皆さんの人生の中に「確かなもの」を持っておられるでしょうか。「私の夫や妻は誠実で真面目な人だから大丈夫だわ。絶対に信頼できる」どうでしょうか。「私の会社は何かあったときに、絶対に自分を守ってくれる」どうでしょう。確かにそのようなものはあなたを守ってくれるかもしれませんが、絶対かどうかはわかりません。「それなら何も信じないわ。信じられるのは自分だけ」どうでしょう。それが一番危なかったりして・・・。私たちほどいい加減な者はないからです。すぐに心変わりしてしまうような不確かな者であることは、だれよりも自分自身が一番よく知っているはずです。たとえば、あのペテロでさえ、「今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエス様から言われたとき、「何を、ご冗談を。主よ、たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、私は、決してあなたを知らないと申しません」と言ったのに、何と彼はその日のうちに三度も立て続けに、イエスを否んでしまいました。私たちが住んでいるこの世の中は、まことに不確かなものなのです。

 

では、この不確かな世の中にあって、本当に信頼できる確かなものはあるのでしょうか。あります。それが聖書であり、この世を造られた創造主なる神であり、神が約束してくださった救い主イエス・キリストです。聖書には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とありますが、神はいつまでも変わらない方です。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも、同じなのです。この天地が滅びようとも、神のみことばは決して変わることはありません。どんなに時代が変わっても、どんなに人の心が変わっても、決して変わらないもの、それが神なのです。この神こそ私たちが信頼することができる唯一の方です。私たちはここに希望を置いて、日々平安で確かな生活を送りたいと思います。きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.約束のものを得たアブラハム(13-15)

 

まず13節から15節までをご覧ください。

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

ここに「アブラハム」という人物が出てきます。クリスチャンならだれでもわかるくらい有名な人ですが、なぜアブラハムなのでしょうか?

それは、この箇所のすぐ前の11節と12節のところで、こう言われていたからです。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心を示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

その信仰と忍耐によって約束のものを相続した一人の模範がアブラハムだったのです。彼は信仰と忍耐によって、最後まで神に信頼しました。その結果、神が約束したものを相続することができたのです。いったい彼はどのようにして神の約束のものを得たのでしょうか。

 

アブラハムはイスラエル民族の始祖です。イスラエル民族が始まった最初の人物ですね。イスラエルという民族がどのようにして始まったかご存知でしたか。実はこのアブラハムから始まりました。当時、彼はカルデヤのウルという所、今のイラクですけれども、そこに住んでいました。その時、神様からこう告げられたのです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)

 

これは簡単に言うと14節にある内容です。つまり、神はアブラハムを祝福し、彼の子孫を大いにふやすという約束です。

アブラハムがこの約束を受けた時、彼は75歳の時でした。しかし、彼にはなかなか子供が生まれませんでした。それで彼は神様にこう申し上げるのです。

「自分たちには子供が生まれそうもないので、あのダマスコのエリエゼルという忠実で信仰深いしもべがいますから、彼を跡継ぎにしましょう。」すると主は、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)と言われました。そして彼を外に連れ出して、天の夜空を見させこう言いました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)

それでアブラハムはまだ子供がいませんでしたが、主が言われたことを信じ、主はそのアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

 

しかし、それから10年経ってもアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。あれから10年ということは、アブラハムはもう86歳になっていたということです。妻のサラも76歳になっていました。皆さん、どうですか。86歳と76歳ですよ。頑張って子供を産みましょうという歳ではありませんね。常識的に考えたら無理です。それでアブラハムはどうしたかとうと、サラの提案によって、彼女にはエジプトから連れて来ハガルという女奴隷がいたので、彼女によって子供を作り、その子供を跡継ぎにしようと考えたのです。なかなかのグッドアイデアです。常識的には無理なんだから、それに代わる方法はないかと考えた結果、そうだ、この手でいこう!となったのです。これが人間の考えることです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。

 

サラの提案はすぐに受け入れられ早速実行に移され、アブラハムとハガルとの間に男の子が生まれました。「イシュマエル」です。このイシュマエルは今のアラブ民族の始祖です。中東におけるイスラエル民族とアラブ民族との戦いは今に始まったことではなく、実はこの時から始まっていたのです。これは神のご計画を人間の考えで達成しようとしたアブラハムの肉が招いた結果でした。皆さん、私たちの問題の原因はいつもここにあります。神の御思いよりも自分の思いが優先してしまうことです。結局、イシュマエルが生まれると女奴隷ハガルが主人サラを見下げるようになってしまったので、そこに大きな争いが引き起こされてしまいました。しかし、こうしたアブラハムの失敗にもかかわらず、神の約束とご計画が変わることはありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、彼らに約束の子イサクが生まれたのです。それは実に神がアブラハムに約束した時から25年目が経っていました。それで、15節に戻ってください。

 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

アブラハムはどのようにして約束のものを得たのでしょうか。ここには、「こうして」とあります。つまり、神の約束を聞き、それを信じ、そこに希望を持ち、忍耐して、最後までそれを待ち望んだことによってです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。4章19~21節です。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

アブラハムは百歳になって、人間的には不可能で、どうしようもない状況になっても、あきらめませんでした。彼の信仰は弱まるどころか、ますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたのです。「こうして」です。

 

この著者はいったいなぜこんなことを語っているのでしょうか。それはこの手紙の受取人である当時のユダヤ人クリスチャンが、イエスをメシアと信じたことでユダヤ人社会かに締め出され、相当の苦しみを受ける中で、中にはかつての生活に、キリストなしの律法の世界に藻道路とする人たちがいたからですつるしかし、そこには救いはありません。救いはイエス・キリストにあるのです。このイエスにしっかりと留まっていなければなりません。その最後まで忍耐してこの信仰にととまったのがアブラハムだったからです。

 

皆さん、歳をとると、歳とともに、このような信仰を持つことは難しくなることがあります。若いうちには「まだなんとか・・」という希望があっても、歳をとると、体力の衰えとともに、「ちょっと無理だ」とか、「大変だわ」と言って、あきらめてしまうのです。でもアブラハムは違いました。彼は百歳になって、もう自分のからだが死んだも同然であり、妻のサラも同様であることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。むしろ、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。皆さん、私たちもそうなりましょう。私たちが何歳になっても神の約束に信頼し、最後まで信仰と忍耐をもってこの希望を告白しようではありませんか。

 

Ⅱ.神の約束は変わらない(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」

 

ここで語られているのは「誓い」についてです。よく私たちは「誓い」をしますね。たとえば、高校野球でも「選手宣誓」をします。「宣誓、私たちはスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います。」結婚式でもその中心は何かといったら、この「誓約」です。「・・兄弟、あなたは今、この方と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信し、神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、留める時も、貧しき時も、いのちのち日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

すると新郎新婦が「はい、誓います」と答え、牧師が「この男女が夫婦であることを宣言します」と宣言するわけです。

 

しかも誓う時は自分よりもすぐれた者をさして誓います。たとえば、高校野球の時は大会会長の前で誓いますし、結婚式ではもちろん神の前で誓うわけです。でもいったいなぜわざわざ誓うのですか。約束しただけではだめなんですか?約束しただけでもいいんです。そもそも誓いというのは約束なんですから・・・。それならば、なぜわざわざ誓うのですか?それは、ここに書いてあるように確証のためです。今約束したことは本当です。今、約束したことは絶対に破りません。そういう意味で誓うのです。本来、約束は破るためにするのではなく、守るためにするものです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外のなにものでもありません。しかし、それだけでは不十分なのです。その約束が本当なのかどうかを確かなものとするために誓いをするのです。その約束は確かです。誓ってそうします。皆さん、そう言われたらどうですか?「嘘つけ」なんて誰も言えません。誓いというのはそれだけ重いのです。一旦誓ったら、だれもとやかく言うことはできません。

 

なぜこんな話をしているのかというと、神の約束がどれほど確かなものであるかを示すためです。神は人間と違うわけですから、神は本来、誓いなどいりません。神は真実な方ですから、「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。「はい」が「いいえ」になることは絶対にありません。それは約束を破ることになりますから。神は決して約束を破ることはありません。だから常に「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。

 

ところが13節を見ると、「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分を指して誓い、」とあります。ここで神が誓っておられるのです。神は真実な方ですから約束だけで十分であって誓う必要なんて全くないのに、ここで誓われたのです。なぜでしょうか。それは、その約束が絶対に変わらないことを示すためです。17節、「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」ご自分の計画が絶対に変わらないということを、この約束と誓いという二つの事柄をもって保証されたのであります。

 

ということはどういうことでしょうか。ということは、神の約束は絶対に変わらないということです。神のご計画はどんなことがあっても必ず実現するのです。このことが本当によく分かると、聖書の中に約束されている神の約束は確かに自分のものとなるのだということが分かります。信仰によって神の約束の御言葉を自分のものとして体験することがどんなに大きな祝福であるかがわかるのです。それはアブラハムだけでなく、今日の私たちにも全く同じことが言えるわけです。

 

多くの人は、目に見えるものこそ確かなものだと思っています。しかし、目に見えるものはやがて過ぎ去ってしまいます。

「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

このことが本当に分かると、変わりやすく不確かなこの世のものに捕われず、確かな永遠の神の御言葉に根を下ろして生きるようになると思います。

 

クリスチャンでない方にとっては、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと思われるかもしれません。だって天国だとかつかみどころのないものを当てにしながら生きているからです。人間の知恵や常識からすれば、確かにつかみどころがないかもしれません。しかし、そのつかみどころがないものを、神が保証してくださっているのです。ですから、これ以上確かなものはないのです。ノンクリスチャンは自分の考えに自信をもっていかもしれません。しかし、そうした自信といったものがどれだけ確かなものであるかは、この震災が物語っているのではないでしょうか。あれからもうすぐ5年が経とうとしていますが、私たちはこのことから教訓を受けなければなりません。人間がどんなに知恵や知識をもってしても、そうしたものは大震災の時には何の役にも立たないということを。本当に必要なのは、私たちを守り、助けてくれるのは、神の約束の御言葉であって、それ以上に確かなものはないのです。

 

Ⅲ.神に錨を下ろして(19-20)

 

ですから、結論は、神に錨を下ろしてということです。19節と20節をご覧ください。

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

 

ここには、この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たしとあります。錨というのは、船が港や沖合いに停泊する時、流れに流されないようにするためのものです。普通、鋼鉄の綱に付けられ、海底に下ろされますが、海底があまりにも深い場合には、海底まで届かなくても、動くことのない深海に沈めておきます。そうすると、どんなに海面が荒れて、波打っても、船は錨によって、しっかりと固定されているので、びくともとません。流されたり、ひっくり返ったりしないのです。イエス・キリストに対する希望はこの錨のようなもので、この方に錨を下ろすならば、決して揺れ動くことはありません。それは私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たすのです。どんなに世相が変わり、人の心が変わっても、神の中に信仰の錨を下ろしていれば、動くことのない平安な日々を歩むことができるのです。あなたの錨はどこに下ろされていますか。イエス・キリストに置かれていますか。もしイエスの上に置かれているなら安心です。なぜなら、イエス・キリストは岩なる方なので、この方につながっているなら、この方にとどまっているなら、あなたのたましいには、いつも安らぎがあるからです。この方は真実な方なので、その約束を最後まで守ってくださいます。

 

その約束とは何でしょうか。その約束とは、幕の内側に入るということです。これは天の至聖所のことです。神が臨在しておられるところ、天の御国のことです。必ずそこに入れていただけます。そのためにイエス様は私たちの先駆けとして、そこに入ってくださいました。天の聖所に入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられたのです。

 

ですから、私たちの信仰が確かで不動なものであるのは、神の保証としての約束の御言葉とその誓いがあるからということと同時に、このようにイエス・キリストが私たちの先駆けとしてすでに天国に入っておられ、大祭司として私たちを助けようとしておられるからだということがわかります。それゆえ、神の臨在の中で歩む者には、恐れも悩みも思い煩いもありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。そこに、いつまでも変わらないイエス様がともにおられるからです。イエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも同じです。このイエス様が共にいてくださるなら、どんなことがあっても、あなたは揺るがされることはないのです。

 

ダビデはこのように言いました。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、わたしはゆるぐことはない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)

 

おそらくこれは、ダビデがサウルから逃れているときの心境だったと思います。鳥が身の危険を感じたら山々に飛んでいくように、自分の身に命の危険を感じた彼は、遠くに逃げていけば良いのです。でもそのようにしなかった。なぜでしょう。なぜなら、彼は主ご自身に身を避けたからです。いつも自分の前に主を置きました。なぜなら、主が彼の右におられるなら、揺るぐことがないからです。主が彼とともにおられるなら、彼のたましいは喜び、楽しみ、安らぎます。主こそ彼の岩、彼の救い、彼のやぐらでした。彼のたましいは黙って、ただ神を待ち望んだのです。それゆえ彼は喜びに満ち、彼の右には、楽しみがとこしえにありました。これが私たちの信仰です。あなたの錨はどこにおろしているでしょうか。

 

昔からクリスチャンは迫害の時、自分たちがクリスチャンであることのしるしとして、魚の模様や錨の模様を描きました。ことにローマ帝国下で迫害に耐えてきたクリスチャンは、ローマにある地下墳墓で集会を持っていました。これはカタコンベと言って、今日でも残っています。地下に二層にも三層にもなっていて、所々に有力者たちが葬られたのではないかと思われる広場のような所があります。広場といってもせいぜい一坪か二坪の小さな所ですが、そういうところの壁に魚や錨が描かれているのです。いったいなぜそんな絵が描かれているのでしょうか。

魚はギリシャ語でイクスースと言いますが、これは、「神の子、救い主イエス・キリスト」というギリシャ語の頭文字を綴った単語です。それがイクスースになるからです。では錨はなぜかというと、そこに十字架があることからもわかるように、イエス・キリストに錨を下ろしているという彼らの信仰が表われているからです。

 

あなたの錨はどこに下ろされていますか。もしそれがイエス・キリストに、いつまでも変わらない神の約束に下ろしているなら、あなたのたましいも安全で、どんなことがあっても揺るがされることはないのです。神の約束はどんなことがあっても変わらないからです。

申命記10章

先週は、イスラエルの民がどれほどうなじのこわい民であるか、しかし、それにもかかわらず主はモーセのとりなしの祈りに答えて、彼らをその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出されたことを学びました。きょうの箇所はその続きです。まず1節から5節までをご覧ください。

 

1.二枚の石の板(1-5

 

「そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。」

 

「そのとき」とは、97節から21節までにある内容のことです。モーセは、主がイスラエルと結ばれた契約の板を受けるために、シナイ山に上って行ったのに、そのとき山のふもとではどんなことが行われていましたか?モーセがなかなか戻って来ないのを見て、自分たちに先立って行く神を造ろうと、金の子牛の像を作り、それを拝んでいたのです。モーセは山から下りて来たときびっくりして、これはいったいどういうことかと問い詰めるも、あまりのショックと憤りに、持っていた二枚の石の板を投げつけ、それを砕いてしまったのです。モーセは必死のとりなしをして、彼らを赦してくれるようにと懇願しました。すると主は、彼らはいつも主にそむき逆らってきた民でしたが、彼らを赦し、神の所有の民としての身分を保ってくださいました。そのときです。

 

そのとき、主は、前のような二枚の石の板を切って作り、もう一度主のもとに、山の上に登れと言われました。どういうことでしょうか。それは、主が与えてくださる契約のやり直しです。モーセは先の石の板を粉々に砕きましたが、それはイスラエルの民が神の契約をことごとく破ったことを表していました。しかし、今、もう一度前のように二枚の石の板を切って、神の前に出るようにと言われたのです。すなわち、主は再び彼らと関係を修復してくださるというのです。

 

そして4節に注目してください。ここには、主が、その二枚の石の板に直接書き記されたとあります。主が直接書きしるされたという箇所は他の聖書の箇所にはありません。Ⅱペテロ1:21を見ると、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあるように、預言は人間の意志によってもたらされたものではないにしても、それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものを書き記したものです。このように神が直接書いたものではありません。けれども、それが主が直接書かれたものであっても、あるいは人を通してであっても、主が聖霊によってその著者を動かして、その著者が書いていることを知らなければいけません。

 

2.えり分けられたレビ部族(6-9

 

「イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。」

 

 モーセはここで挿入的にこの言葉を入れています。その内容は、アロンが死んでその子エルアザルが彼に代わって祭司に任じられたこと、彼らはそこから旅立ってヨテバテに進んだということです。 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされました。

 

 どういうことでしょうか?神に仕える祭司の働きが重要であることが述べられているのです。イスラエルの民には、祭司の仲介の働きがあって初めて主の前に出ることができ、主に仕えることができるということです。イスラエルの民は、そのままでは決して神の前に立つことはできませんでした。あくまでも祭司の働きによって、主の祝福と恵みが民に分け与えられるのです。レビ人たちはそのために特別に神によってえり分けられた民なのです。このレビ人をないがしろにしてはならないということです。彼らには主の相続地が与えられていませんでした。主が彼らの相続地であったからです。それゆえに、このレビ人は民に代わる代表としてえり分けられ、民のためにとりなしをするようにと特別に選ばれたのです。このレビ人という仲介者をないがしろにしてはならないのです。

 

 それは今日でいうなら、イエス・キリストご自身のことです。私たちは自分たちの行いによって主の前にできることはできません。あくまでも、神の大祭司イエスのとりなしによってのみ神の近くに行くことができるのです。そのイエスの仲介なしに、自分たちの思いと判断によって進んで行ってはならないということです。私たちの中にはキリストがおられます。この方こそが私たちの仲介者であり、和解者であられます。この方にあって私たちは初めて平和と恵みと愛を互いに体験することができます。私たちはこのキリストと共に十字架につけられたのです。この方の血の注ぎかけがあるので、私たちはしっかりと立つことができるのです。

 

 3.神があなたに求めておられること(10-22

 

「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることであ。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。る。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい民であってはならない。あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。のである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

 

主はモーセに二枚の石の板とともに、「民の先頭に立って進め。」と命じられました。そうすれば、主が彼らを約束の地に入れ、その地を占領することができる・・・と。これは徹頭徹尾主の戦いなんですね。主が勝利を与えてくださいます。私たちの力がそうするのではありません。私たちはうなじのこわい民であり、主のみこころにかなわない者ですが、あわれみ豊かな神は、私たちの罪を赦し、ご自分の御心に歩もうとするものを助けて、約束の地に入れてくださるというのです。

 

ここでモーセは一つの結論を述べています。それは、主があなたがたに求めておられることは何かということです。それは、それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることです。主が求めておられることはあれも、これも守り行うということではなく、「ただ」です。ただ、神を畏れ、神のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主に仕え、主に従うことです。

 

私たちはどちらかというと、「ただ」というよりも、「あれもして」「これもして」神のためにいろいろなことをして、神を喜ばせることが、主のお喜びになられることではないかと思うのですが、聖書はそのようには教えていません。主が求めておられることは「ただ」なのです。主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。

ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(6:6-8)」

 

なぜなら、主が私たちを愛されたのは私たちが何かをしたからではなく、私たちが正しい者だからでもありません。ただ愛されたからでした。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛されたのです。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれました。私たちには何も正しいものはないのです。むしろ悪ばかりがあるのです。だから、正しさをすべて主に求めて生きていかねばならないのです。主を恐れて、自分の悟りに頼らず、主の道に歩み、主を愛して、主に仕えなければならないのです。私たちのうちに義はなく、むしろキリストのうちにあります。自分の義ではなく、キリストの義を仰がなければならないのです。

 

16節には、「心の包皮を切り捨てなさい」とあります。これは心の割礼を行いなさいということです。割礼とは、神の民のしるしですが、どんなに外見で割礼を施しても中身が無ければ意味がありません。大切なのは心の包皮を切り捨てるということ、心の割礼を受けるということです。では、心の包皮を切り捨てるとはどういうことでしょうか。それは神のみ言葉に対して心を開き、みことばを素直に受け入れる従順な者になることです。どんなに体に割礼を受けていても、神のみことばに心を閉ざし、みことばに対して鈍感であるなら、つまりうなじがこわければ何の意味もありません。

 

なぜでしょうか。17節から22節までのところにその理由が記されてあります。なぜなら、あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力があり、恐ろしい神、かたよって愛することをなく、わいろをとらず、在留異国人を愛される方だからです。神はただ外見で神の民であるというしるしを見て満足される方なのではなく、そのように社会的立場の弱者に対して配慮を求められる方だからです。

 

主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたがたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行われました。彼らの先祖たちは七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされました。

 

このことを見てください。それは決して人間ができることではありません。主は大いにる方であって、大いに賛美されるべき方であります。その方にふさわしいことは私たちが何か良いことをして自分を誇ったりするようなことではなく、この神の御心を知り、この方を心を尽くしてほめたたえ、感謝をもって仕えることなのです。つまり、あなたの心がいつもこの方と一つとなり、この方のみこころに歩むことなのです。

 

この一年がそのような年となりますように。もうすぐさくら市での開拓伝道も始まりますが、主が私たちに求めておられることは何でしょうか。それは私たちが一生懸命に伝道することよりも、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の命じるすべてのことを守り行うことなのです。そこに神の豊かな祝福と栄光が現されるのです。

ヘブル6章1~12節 「成熟を目ざして進もうⅡ」

今日のテーマは「成熟を目ざして進もうⅡ」です。実際には先週の午後にもこのテーマに関する学びがありましたので、3回目の学びとなります。このヘブル書の著者は、キリストこそ偉大な大祭司であり、メルキデゼクの位に等しい大祭司であるということをお話してきましたが、途中で話すのを止めてしまいました。なぜなら、彼らにはそのことについて聞く力がなかったからです。耳が鈍くなっていたので、話しても理解することが困難になっていたのです。耳が鈍くなっていると言っても、耳が聞こえづらくなったということではありません。心の耳がふさがっていたということです。だから、どんなに霊的な事柄を話しても理解することは困難だったのです。彼らに必要だったのは、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらうことでした。

 

そこで少しテーマを変えて、霊的にもっと敏感になりましょう、心を開いて神のことばを素直に聞きましょう、と言ったのです。生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めることは大切なことですが、いつまでも乳ばかりではなく、少しずつ堅い食べ物も食べられるようにしなければなりません。そうすれば、義の教えに通じることができます。経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人になることができるのです。

 

聖書を見ると、私たちの心には三つの段階があることがわかります。第一に「幼心」です。パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように言っています。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(Ⅰコリント3:1-2)

ここには、「キリストにある幼子」とありますね。ですから、私たちの中には幼子があるのです。これは救われたばかりの人のことです。聖書のことがあまりよくわからないけど、これからイエス様のような人になろうという人ですね。

 

それから第二に「大人」です。Ⅰコリント14:20には、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」とあります。

 

そして第三に「親心」です。Ⅱコリント12:14にあります。「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなた方の持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」

 

私たちの中にはいつもこのような親心、大人心、子供心があって、このような心がいつも交錯しながら親心へと成長していくのです。こうした親心となった成長したクリスチャンが増えていくとき、教会は成長したキリストのからだとなっていくのです。

 

すでに結婚している若い婦人の方が、このことに目覚め、実家に帰った時のことです。それまでは羽を伸ばし、好きなことをして、実家を休み場のようにしか考えていなかったことに気付かされたのです。そして悔い改めの親心で自分の両親に接してみようと決心しました。

「お母さん、仕事なかなか大変でしょう」と、母親の心に耳を傾けたとき、お母さんの心は大きく開かれ、それまでしゃべってくれたことのないようなことまで、どんどん打ち明けてくれるようになりました。そして近くの教会の集会に誘うと、快く応じてくれたというのです。

 

だれでも人と対話をするとき、まず自分の話を聞いてほしい、わかってほしいと思うでしょう。これは幼心の衝動です。自分のことを聞いてほしいと思うことが悪いというわけではありません。しかし、そのとき「まず相手の話を聞いてあげよう」という親心があれば、相手に励ましや慰めが流れて行くことは確かです。

 

あるとき、他の教会で行われた修養会に招かれてお話したことがあります。そのとき、その教会のピアニストに「どんな心で奉仕されているんですか」と尋ねると、その方がこう答えられました。「そうですね。司会者がやりやすいように、会衆が歌いやすいように、全体に心を砕いて奏楽しています。」よく訓練された教会だなぁと、とても感心させられました。特に音楽の奉仕は目立ちやすいものです。芸術家は自分を音楽によって表現すると聞いたことがありますが、しかし、それが時々教会に問題を引き起こすことがあります。なぜなら、教会でいちばん大切なことは自分を表現することではなく、自分を罪から救ってくださった神をほめたたえ、神の栄光を現すことだからです。ですから、そうした幼心から親心に成長していくことによって教会の徳を高めることができるようになり、神の栄光を現すことができるようになるのです。

 

また、こうした親心が主に向かうとき、それは「主の御心を尋ね求める」という姿勢になります。これまではいつも、「主よ、こうしてください。」「ああしてください」と、自分たちの必要が満たされるようにというだけの祈りだったのが、「主よ、あなたの御心は何ですか。」「あなたが私に願っておられるみとはどんなことですか」と、神の御心を求める教会へと変えられていくのです。

 

ではそうした親心が成長し、クリスチャンとして成熟した者になるためにはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.成熟を目ざして進もう(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」

 

ここは「ですから、私たちは、キリストにつていての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。「ですから」というのは、この前で語られてきたことを受けてのことです。この前ではどんなことが語られてきたかというと、大祭司であられる私たちの主イエスについては、話すべきことがたくさんありますが、今のあなたがたは耳が鈍くなっているので、説き明かすことは困難です、ということでした。どんなにすばらしい神の教えも、それを聞く人の心がふさがっていると、聞いても理解することができないからです。「ですから」です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。たとえば、死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、というのです。

 

これはどういうことかというと、ここでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えとして六つのことを挙げているのです。

まず死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めと神に対する信仰についての教えです。現代訳では「死から命への方向転換、神信仰」と訳されています。死から命への方向転換ですから、これはまさに悔い改めて神を信じることについての教えです。

次はきよめの洗いについての教えと手を置く儀式です。ユダヤ教にはきよめの洗いの儀式がたくさんありました。その中にはイエスの御名による水のバプテスマも含まれています。また手を置く儀式ですが、これは按手のことを指しています。手を置いて祈り、祝福し、また任命したりしました。

そしてもう一つのことは死者の復活ととこしえのさばきなどの基礎的なことです。これはクリスチャンが死んでも生きるということ、この死者の復活の教えととこしえのさばきなど、終わりの日に関する教えのことです。

 

これらのことを見てもわかるように、これらのことは私たちクリスチャンにとってどれもとても重要な教えです。ヨハネ20章31節には聖書が書かれた目的が記されてありますが、それは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである、とあります。ですからねこれらのことはまさに、聖書が書かれて目的そのものであるわけです。これらのことは私たちの信仰の中心的な事柄であり、どんなに強調してもしすぎることがない重要な教えなのです。

 

それなのに、そうしたキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。なぜてじょうか。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。すなわち、それが神の御心であるからです。神の御心は、私たちが救われた状態にずっと留まっているだけでなく、これらことを土台にしてさらに信仰の成熟を目ざして進むことなのです。

 

レビ記11章45節には次のようにあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから、あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるから。」

主がイスラエルをエジプトから救い出されたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らの神となるためでした。神は聖なる方なので、彼らも聖でなければならない。「聖」というのは、選び別けられるという意味ですが、神のものになるということです。つまり、神のようになることです。彼らはそのためにエジプトから連れ出されたのはそのためでした。同じように私たちが救われたのも、それが救われて良かったという私たちのためだけではなく、私たちを救ってくださった神のようになるためだったのです。

 

Ⅱペテロ3章18節にはこうあります。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」これは、「恵みと知識において成長し続けなさい」という意味です。(現在命令形は継続を表しているから)イエス様を信じて救われた人は、ああ良かった!これでもう天国に行けるから安心だわと、そこに留まっているだけでなく、その主であり救い主の恵みと知識において成長していかなければなりません。それを求めていかなければならないのです。

 

「成長しなさいと言われても無理ですよ。どこまで行ったってきりがないじゃないですか」確かに、クリスチャンの成長にはきりがありませんが、しかし、一つの目標が定められているのです。それは何かというと、イエス様のようになることです。イエス様のようになるということがクリスチャンの目標であり、成熟したクリスチャンの姿なのです。

 

エペソ4章12節から13節にはこうあります。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

ここには、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあります。すなわち、イエス様のようになることが私たちクリスチャンの目標なのです。それは私たちの努力によってではなくキリストの恵み、聖霊の恵みによって成し遂げられていくものですが、同時に、私たちにもそのための訓練が求められているのです。それはⅠテモテ4:7に、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあることからもわかります。「敬虔」とは、信仰とか、霊的なことのためという意味です。そのためには訓練が必要なのです。何もしないで体の健康を保つことができないように、霊的な健康のためにも訓練が必要なのです。そのための時間と労力をかける必要があるのです。それがイエス・キリストの恵みと知識において成長するということです。

 

Ⅱ.成長がなければ後退(4-8)

 

で第二のことは4節から8節までに書いてあることですが、もし成熟を目ざして進むことをしなかったらどうなってしまうのかということです。クリスチャンが成熟を目ざして進まなかったら霊的に成長することができないだけではありません。それだけでなく、信仰そのものからも離れてしまう危険があるのです。すなわち、成長なければ後退してしまうというのです。まず4節から6節までをご覧ください。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

 

ここは難解な聖書箇所です。ここには、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまうならとありますから、これはクリスチャンになり、すばらしい霊的体験をした人が堕落して信仰を捨ててしまうなら、ということでしょう。そういう人はどうなってしまうのでしょうか。ここには、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」とあります。つまり、そういう人は救われることはないということです。

 

いったいこれはどういうことでしょう?というのは、聖書には、私たちがイエス様を信じれば、御霊によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを得ることが約束されています。たとえば、ヨハネの福音書6章47には、こう約束されてあります。

「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

また、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)イエス様を信じる人は死んでも生きるのです。

何とすばらしい約束でしょうか。そして、そのように約束された主は、次のようにも約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

ここには、イエス様は永遠のいのちを与えるというだけでなく、だれもイエス様の手から彼らを奪い去るようなことはないと、言われたのです。もう嫌になったからと、神が途中で見捨てるようなことはなさいません。もう何度言ってもわからないんだからと、あきらめてしまうことはないのです。その救いは最後までちゃんと保証されているのです。1年保証とか、3年保証とか、最長10年保証とかありますが、そうじゃない。神の救いの保証は永遠です。永遠の保証です。ですから、皆さん安心してください。「ああ、よかった」永遠に保障されているんですから。どんなことがあっても見放されたり、見捨てられたりすることはありません。神は最後まで私たちを守ってくださいます。それが私たちの救いです。それなのに、ここには、一度堕落してしまうと、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないとあるのです。あたかも、一度堕落してしまったら、もう二度と赦されることがないような、一度ひどい罪を犯してしまったら、神の救いは無効にされもう立ち戻ることはできないというふうにも読めます。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

まず、最初に申し上げておきたいことは、これは一度救いに導かれたクリスチャンが罪を犯してしまったらもう二度と赦されないということではないということです。また、堕落して信仰から離れてしまったらもう悔い改める余地がないということではないのです。なぜなら、Ⅰヨハネ1:9にはこうあるからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それが私たちの神です。ここには、「すべての悪から」とありますから、どんな悪からも、です。神が私たちを赦してくださるのは私たちが正しいからではなく、また、私たちがいい人だからでもなく、ただ私たちを愛してくださったからです。それを何というかというと、「一方的な愛」と言います。神が一方的に愛してくださいました。だから、私たちが悔い改めるなら、神は無条件で赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子の話を覚えているでしょう。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った弟息子は、そこで贅沢三昧の暮らしをして、とうとうお金を使い果たしたあげく、食べるにも困り果ててしまいました。それで彼はある人のところに身を寄せたところ、彼はそこで豚の世話をするようになりました。お腹がすいてお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思った彼は、はっと我に返るのです。父のところにいた時には、パンの有り余っている雇人が大ぜいいたではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父のところに、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯ししまた。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」

するとどうでしょう。彼が自分の乳のもとに行ったとき、家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

すねと父親は、しもべたちに言って、一番良い着物を持って来て、着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛を引いてほふりなさい。食べて祝おうではないか、と言ったのです。

この父親は息子に何一つ言いませんでした。むしろ、息子が返ってきたことを喜び、温かく迎え入れました。なぜですか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。この父親は息子が返ってきただけで喜びました。これが私たちの神です。私たちの神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰ってくることを望んでおられます。そうするだけで、心から喜こんでくださいます。私たちに要求なさることは他に何一つないのです。

 

それはイエス様の弟子であったペテロのことを考えてもわかります。彼はイエスの弟子たちの代表と言っても過言ではありません。しかし、そのペテロが何とイエス様を裏切ってしまいました。彼は、ここに書いてあるように、天からの賜物を味わい、すばらしい神のみことばを味わったにもかかわらず、イエス様が十字架に架けられる直前、三度も主を否み、主を見捨てて逃げてしまいました。けれども彼はイエスが復活された後に悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となることができました。彼は、ある意味で堕落しましたが、もう一度悔い改めることができました。だからここで言っていることは、イエス様を信じた人が大きな罪を犯してしまったらもう二度と赦されることはないとか、堕落して信仰から離れてしまったら、もう悔い改める余地がないということではないのです。ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか?

 

このことを正しく理解するためには、これが誰に対して書かれた手紙なのかをもう一度思い出していただきたいのです。これはヘブル人への手紙とあるように、ユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙でした。彼らはユダヤ人でありながらもイエスがメシヤ、神の子、救い主と信じた人たちです。ユダヤ人は旧約聖書を信じていましたから、そのユダヤ人がイエスをメシヤと信じることは簡単なことではありませんでした。あのパウロでさえ信じることができなくて、逆にそういう人たちを迫害していたくらいですから、それは並大抵のことではありませんでした。しかも当時はユダヤ人社会でしたから、そうした中でキリスト教に回心するということはユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならない状態でした。

そうした情況の中で、中にはその苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいのです。ユダヤ教に逆戻りするということはどういうことかというと、イエスはキリスト、救い主であるという信仰を捨てるということです。ですからここに、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば」とあるのです。

また2章3節から4節には、「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と書かれてあるのです。

 

つまり、これは、イエス様を愛しているはずなのに罪を犯してしまったとか、信じているはずなのに信仰から離れてしまったという程度のことではなく、救い主そのものを信じないという背教を意味していたのです。イエス様は、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)と言われましたが、御霊に逆らう冒涜こそ、この救い主を信じないこと、救い主を受け入れないこと、キリストの十字架をないがしろにすることなのです。人はどんな罪でも赦されますが、イエス様を信じない罪だけは赦されないのです。そして、もし一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落するなら、すなわち、キリストを救い主として信じながらも、その後で信仰を捨てるなら、そこには神の救いはもはや残されていないのです。神は決して私たちを途中で見捨てたり、見離したりはしませんが、私たちの方で捨ててしまうことがある。それが赦されないことなのです。

 

イスカリオテ・ユダの問題はここにありました。彼はイエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされていたのに、銀貨30枚でイエス様を引き渡しました。それでも悔い改めてイエスを救い主として信じたなら彼は赦されたのに、彼はそうしませんでした。彼は、悔い改めず、外に出て首をくくって滅びました。それがペテロとユダの大きな違いです。確かにペテロも大きな罪を犯しましたが、それでも彼の心は開かれていたので悔い改めイエスさまのもとに戻ることができましたが、ユダの心は開かれていなかったので、かたくなだったので、ふさがれていたので、悔い改めることができませんでした。その違いです。

 

そしてここではそのことを私たちにも警告しています。確かに私たちも罪を犯すことがあります。時には弱くなって信仰から離れてしまうこともありますが、問題は、あなたの心はどうかということです。悔い改めようという心もない、神のみことばよりも自分の思いを優先したい、イエスがキリスト救い主であるかどうかなんて関係ないといった心なら、そこには救いは残されていないのです。霊的に成熟するどころか逆に後退してしまい、ついには信仰を失ってしまうことになるのです。

 

イエスはこう言われます。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とどうぞイエスの声を聞いて戸を開けてください。もしあなたが戸を開けるなら、イエス様は、あなたのところに入ってあなたとともに食事をしてくださいます。食事をするというのは親しい交わりを表しています。イエス様があなたの心の中に来てくださるのです。すべてはあなたが心の戸を開けるかどうかにかかっているのです。イエス様は今もあなたの心の戸をたたいていらっしゃいます。あなたはその声を聞いてどのように応答されますか。どうかあなたもキリストにある神の救いを受け入れてください。

 

7節と8節をご覧ください。ここには、その神の祝福とのろいがたとえで語られています。

「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」

 

あなたは有用な作物を生じていますか、それとも、いばらやあざみを生えさせているでしょうか。もしあなたが、あなたの上にしばしば降る雨をいっぱい吸い込むなら、すなわち、神の恵みと希望に支えられて生きるなら、有用な作物を生じますが、その希望を拒み、神の恵みをないがしろにするなら、無用な作物を生じさせ、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことになります。イエスさまは、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたが、私たちはぶどうの木であるイエス様につながっていることによってのみ多くの実を結ぶことができます。枝だけで実を結ぶことはできません。

 

Ⅲ.あきらめないで、最後まで(9-12)

 

第三のことは、あきらめないで、最後までということです。ところで、この手紙の著者は、次のように言って、読者たちを励ましています。9節と10節です。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も使えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

 

ここで、この手紙の著者はこの手紙の読者のすべてが霊的赤ん坊であるのではないことを、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」という言葉で表しています。現代訳では、「あなたがたが救いにふさわしい良い実を結んでいる。」と訳しています。

 

その良い実とは何でしょうか。それは具体的に言うなら「愛の業」です。彼らがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」のことです。神は正しい方であって、彼らの行いを、特に、聖徒たちに示したあの愛をお忘れになられません。それこそ、主イエスが弟子たちに教えられた新しい戒めの実践だからです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 

これは非常に重要なことです。これが出来なくなると、どこかに未成熟な特徴が表われてくるからです。確かに、クリスチャン同士であっても、愛によって仕え合うということは、それほどやさしいことではありません。自分と気の合う人とならやさしいことですが、すべての人がそうであるわけではありません。そうでない人に仕えるということは、生まれながらの私たちでは到底できることではないのです。「なぜあんな人に仕えなければならないのか」「あんな人に仕えなければならないくらいなら、クリスチャンを辞めた方がましだ」という思いすら湧いてこないとも限りません。それが悪魔の働き掛けなのです。生まれながらの私たちの性質は、なるべく苦労しない道、安易な道を求めます。しかし、神は私たちが霊的に大きく成長し、クリスチャンとして成熟するように、必ずそこに困難な問題を置かれるのです。だからそれを避けてはいけません。悪魔は私たちにいろいろな知恵を与えて、それを避けようとさせますが、でもその手に乗ってはいけないのです。神は愛する子をむち打たれるということを思い出してください。神が私たちにそのような問題を置かれるのはむしろ私たちを愛しておられるからであって、私たちがクリスチャンとして霊的に成熟することを求めておられるからなのです。どんな訓練でも、それを受けている時は、嬉しいよりはむしろ辛く、苦しいのですが、後でわかることは、そうした訓練を受けた人は、必ず神の御心にかなった生活ができるようになるということです。そのことがわかると、信仰生活に必要な訓練として、喜んで困難にぶつかっていくことができるようになります。

 

この手紙の読者は、そういう愛の実を結んでいました。植物でも若木のうちは実を結ぶことはできません。「桃、栗三年、柿八年」言われますが、桃や栗のように比較的早く実を結ぶ木でも三年はかかるものです。柿になると、なんと八年もたたないと実を成らせることはできません。これは別に年月のことを言っているのではありません。木でも実が成るようになるには若木ではだめだということです。人間でも大人にならないと子供を産むことはできません。それは霊的赤ん坊も同様で、霊的に成熟していなと実を結ぶことはできないのです。しかし、この手紙の読者は、この愛の実を結んでいました。神はそれを決して見過ごしにはならず、ずっと心に留めておられました。神がご覧になっていてくださるだけで、もう十分ではないでしょうか。だれが見ていても、だれが評価してくれなくても、神がご覧になり、神が評価してくださっているというだけで、私たちは満足です。

 

大切なのは、それを一回だけすればよいということではなく、ずっと続けることです。それが最後に書かれてあることです。11節と12節をご覧ください。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

 

「切望する」というのは、強く願うということです。ここで著者は何を切望しているのでしょうか。それは、彼らが同じ熱心さを示して、最後まで、この希望について十分な確信を持ち続けてくれることです。信仰生活において大切なことは、救われたことだけで満足し、そこに安住するのではなく、それを最後まで持ち続けることです。すなわち、熱心に信仰生活に励むことです。そうでないと後退してしまうからです。

 

私たちは、前進しなくても、そこに留まっていたら、少なくても後退はしないだろうと思っているかもしれませんが、そうではありません。前進しなければ後退があるだけで、バッグスライドしてしまいます。ですから、私たちは常に前進していかなければならないのです。しかし、それは歯を食いしばってするものと違って、前進していけばいくほど信仰の醍醐味を味わうことができますし、そのすばらしさは天国のすばらしさに一歩も二歩も近づくことができるすばらしさです。天国のすばらしさがもっとよく分かってきます。ですから、私たちも約束を相続したあの熱心なクリスチャンに見習って、熱心に信仰生活に励みましょう。今からでも決して遅くはありません。成熟を目ざして共に進もうではありませんか。