出エジプト記10章

出エジプト記10章から学びます。まず、1節から11節までをご覧ください。まず6節までをお読みします。

 

Ⅰ.息子や孫に語って聞かせるため(1-6)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行け。わたしは彼とその家臣たちの心を硬くした。それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る。」モーセとアロンはファラオのところに行き、彼に向かって言った。「ヘブル人の神、主はこう言われます。『いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが、わたしの民を去らせることを拒むなら、見よ、わたしは明日、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れてあなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くし、 あなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。これは、あなたの先祖も、またその先祖も、彼らがこの土地にあった日から今日に至るまで、見たことがないものである。』」こうして彼は身を翻してファラオのもとから出て行った。」

 

第8の災いです。それはいなごをエジプトに送るというものです。1匹や2匹のいなごではありません。それは地の面をおおい、地が見えなくなるほどの量のいなごです。先の雹の害を免れた植物も、このいなごの大群によって食い尽くされます。それは野に生えている草木だけでなく、ファラオの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちるようになります。それは、エジプトがこれまで見たことがないようなものです。

 

この災いが下る警告が与えられる前に、主はモーセにこの災いがもたらされる目的を語ります。1節と2節です。「それは、わたしが、これらのしるしを彼らの中で行うためである。また、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのこと、わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためである。こうしてあなたがたは、わたしが主であることを知る」ためです。これまでは、イスラエルの神、主のような方が地のどこにもいないことを、エジプト人が知るようになるためでしたが、ここには新たな目的が加えられています。それは、主がエジプトに対して行われたことをイスラエル人が息子や娘に語って聞かせるためです。

 

これはとても大切なことです。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで何十年、何百年経った後も彼らの霊的指導者たちは、この出来事を語って聞かせました。彼らの神がどれほど偉大な方であるのかは、かつてエジプトに430年もの間囚えられていた彼らの先祖たちをそこから解放してくださった方であるということによって示してきたのです。いわばそれは、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷の状態から解放してくださりご自分の所有とされた主が自分たちの神である、ということです。何百年も後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなにし、災いを起こされたのです。

 

それは私たちも同じです。主は私たちが神の民であることを思い起こさせるために、一つのことを行うようにと命じられました。何でしょうか。それは聖餐式です。それは主が私たちを罪の奴隷から解放するために十字架で死んでくださったことを覚えるためです。パウロはこう言っています。

「すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)

私たちがどんなことをしても自分の力では成し得なかったことを主が成し遂げてくださいました。主は私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、血を流し、肉を割かれることによって、救いの御業を成し遂げてくださいました。このことを思い起こすために聖餐式を行うのです。私たちは主が私たちの罪を赦すために成し遂げられたこの十字架の御業を、私たちの息子や娘、孫たちに語って聞かせなければなりません。

 

モーセを通して語られた主の警告に対して、ファラオはどのように応答したでしょうか。7節から11節をご覧ください。

「家臣たちはファラオに言った。「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。モーセとアロンはファラオのところに連れ戻された。ファラオは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」モーセは答えた。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」ファラオは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの妻子を行かせるようなときには、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。だが、見ろ。悪意がおまえたちの顔に表れている。 そうはさせない。さあ、壮年の男子だけが行って、主に仕えよ。それが、おまえたちが求めていることではないか。」こうして彼らはファラオの前から追い出された。」

 

モーセを通して語られた主のことばに対して、決してファラオに反対することのない家臣たちが、必死になってファラオに訴えています。

「この男は、いつまで私たちを陥れるのでしょうか。この者たちを去らせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだお分かりにならないのですか。」

家臣たちは、これまでの教訓から学んでいました。このままではエジプトが滅んでしまうという危機感を抱いていたのです。

 

それでファラオはどうしたかというと、モーセとアロンを連れ戻して言いました。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、行くのはだれとだれか。」(8)ファラオもこのままではだめだと思い少しずつ譲歩し始めます。ここでは、行くのはいいが、だれが行くのか、と言っています。もちろん全員です。「若い者も年寄りも一緒に行きます。息子たちも娘たちも、羊の群れも牛の群れも一緒に行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(9)

 

するとファラオは、何と言いましたか。「悪いがおまえたちの顔に表れている。」と言って、子どもや祭司たちが行くことを許しませんでした。ただ壮年の男子だけが行って、主に仕えるようにと言ったのです。これはどういうことでしょうか。主の影響力が妻子たちまで及ぶことがないように、必死になって抵抗しているのです。このようなことがよくあります。未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」といった圧力をかけられたりすることがあります。けれども、自分だけでなく自分の息子や娘たちも主に従うことがみこころなのです。

 

Ⅱ.いなごの大群(12-20)
それで第8番目の災いが下ります。12節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の害を免れたすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を伸ばした。主は終日終夜、その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。これは、かつてなく、この後もないほどおびただしいいなごの大群だった。それらが全地の表面をおおったので、地は暗くなり、いなごは地の草と、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くした。エジプト全土で、木や野の草に少しの緑も残らなかった。」

 

それで主はモーセに、「あなたの手をエジプトの地の上に伸ばし、いなごの大群がエジプトの地を襲うようにせよ」と言われました。

すると、主は終日終夜、その上に東風を吹かせたので、朝になると東風がいなごの大群を運んで来ました。そして、エジプト全土を襲い、雹の害を免れた木の実をすべて食い尽くしたので、エジプト全土で、木や野の草に少しも緑が残りませんでした。

 

するとファラオは急いでモーセとアロンを呼んで言いました。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して過ちを犯した。どうか今、もう一度だけ私の罪を見逃してくれ。おまえたちの神、主に、こんな死だけは取り去ってくれるよう祈ってくれ。」(16)

これはどういうことですか?ここでも、これまでのパターンが繰り返されています。このような災害を見たファラオは悔い改めているように見えます。ここでは、「もう一度だけ私の罪を見逃してくれ」と言っていますが、これまで何度見逃してきたでしょうか。9:27にも「今度は私が間違っていた」と言いながら、小麦と裸麦が打ち倒されていないのを見ると、また心を頑なにしました。ここでも彼は同じことを繰り返しています。

 

するとモーセはファラオのところから出て、主に祈ります。すると主は風向きを変え、今度は非常に強い、海からの風、すなわち西からの風に変えていなごを吹き上げさせ、エジプト全土に一匹のいなごも残らないようにされました。しかし、主はファラオの心を再び頑なにされたので、彼はイスラエルの子らを去らせませんでした。いったいなぜここまで頑なになるのでしょうか。それは主がなされたことです。主がファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエルを行かせなかったのです。それはイスラエルの神、主の力を彼らに示すためでした。主の力がエジプト人だけでなく、イスラエルの民に対して、そして全世界に対し示されるためだったのです

 

Ⅲ.闇(21-29)

 

それで主はどのようにされたでしょうか。それで主は次の災いを下されます。それは闇の災いです。21節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。ファラオはモーセを呼んで言った。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が、いけにえと全焼のささげ物を直接私たちに下さって、私たちが、自分たちの神、主にいけにえを献げられるようにしなければなりません。私たちの家畜も私たちと一緒に行きます。ひづめ一つ残すことはできません。私たちの神、主に仕えるために、家畜の中から選ばなければならないからです。しかも、あちらに着くまでは、どれをもって主に仕えるべきか分からないのです。」しかし、主がファラオの心を頑なにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。ファラオは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。」」

 

第9番目の災いです。今度は何の警告もなく、一方的にさばきを宣言されました。それは、「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」というものでした。それでモーセが手を天に向けて伸ばすと、エジプト全土が三日間、真っ暗になりました。光は神が創造されたものの中で一番初めに造られたものです。その光がないというのは、人間の生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれると、数時間で精神的におかしくなってしまうと言われています。あの3.11の後でしばらく計画停電がありました。夜でも電気が使えないのです。それで電池式のランタンとか蝋燭で対応しなければなりませんでしたが、でんきが使えないとパニックになってしまいます。その苦しみをエジプト人はそれを三日間、味わいました。しかし、イスラエルの子らのいたところには光がありました。

 

するとファラオはどうしたでしょうか。彼はモーセを呼んでこう言いました。「行け。主に仕えるがよい。ただ、おまえたちの羊と牛は残しておけ。妻子はおまえたちと一緒に行ってもよい。」(24)

今度は、妻子は連れて行ってもよいが羊と牛は残しておくようにと言いました。ここに新たな妥協案が示されました。ファラオがこのように言ったのは、自分たちの羊や牛が、すでに死んでしまったからです。ですから、イスラエルが牛や羊までも連れて行ったら、エジプトには何も残らないことになってしまいます。それはできないと、ファラオは頑なに牛と羊だけは残しておくようにと言ったのです。

 

するとモーセはその申し出を拒否しました。なぜなら、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えるべきかわからないからです。あちらとは荒野のことです。そこで神から律法が与えられることで、どの家畜を主にささげたら良いかが示されます。それまではわかりません。だから、全部連れて行くと言ったのです。

 

それを聞いたファラオの心は再び頑なになりました。それでファラオは彼らを去らせようとはしませんでした。交渉が決裂したのです。そして、お互いに顔を合わせないようにしました。これ以降、両者が顔を合わせることは二度とありません。それでファラオは暗闇の中を歩むことになります。もっと恐ろしいさばきが彼を襲うことになります。これだけでも気が狂いそうになるのに、もっと恐ろしいさばきが彼らを襲うことになります。

 

このように神に背を向けるなら、暗闇の中を歩むようになります。しかし、神に従うなら、いかなる闇の中にあっても、光の中を歩むようになります。それは主の栄光の輝きです。イザヤ書60:1-3には、「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」とあります。それは主イエス・キリストに従う者にもたらされる光です。主イエスはこう宣言されました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)

主イエスは世の光です。イエス様に従う者は、決して闇の中を歩むことがありません。いのちの光を持つのです。あなたは闇の中を歩んでいませんか。世の光であられるイエス様を信じて、光の中を歩む者となりましょう。

出エジプト記9章

出エジプト記9章から学びます。まず、1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.第5番目の災い:重い疫病(1-7)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。

しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない。』」

また、主は時を定めて言われた。「明日、主がこの地でこのことを行う。」主は翌日そのようにされた。エジプトの家畜はことごとく死んだが、イスラエルの子らの家畜は一頭も死ななかった。ファラオは使いを送った。すると見よ、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもファラオの心は硬く、民を去らせなかった。」

 

これまでエジプトに対する四つの災いを見てきましたが、きょうは第5、第6、第7番目の災いを見ていきたいと思います。いまお読みしたところには、5番目の災いについて記されてあります。それはエジプトにいる家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に、重い疫病が起こるということです。3節には、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上にとありますが、エジプトでは、馬、牛、雄牛などは神聖な動物とされ、礼拝の対象になっていました。こうした家畜の上に疫病が起こるというのです。しかし、主はイスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別するので、イスラエルの子らの家畜は一頭も死なない、と言われました。また、主は「時」を定めておられました。それは「明日」です。「明日、この地でこのことを行う」と。

 

その結果はどうだったでしょうか。主が言われたとおり、主は翌日そのようにされました。エジプトの家畜はことごとく死にましたが、イスラエルの家畜は一頭も死にませんでした。主がそのように区別してくださったからです。それは、テサロニケ第一5章9節にあるとおりです。

「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」(Ⅰテサロニケ5:9)

この「御怒り」とは神のさばきのことです。このさばきは、いのちの書に名が書き記されていない人が火の池に投げ込まれる最後のさばきのことではなく、キリストが再び来られる時にこの地上に下る大患難によるさばきのことです。これはその文脈で語られていることからわかります。神のさばきは突如として人々に襲いかかりますが、クリスチャンを襲うことはありません。なぜなら、クリスチャンは光であられるイエスを信じたことによって、光の子ども、昼の子どもとされたからです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)

ですから、クリスチャンがさばきに会うことはありません。主がそのように区別してくださったからです。私たちがイエス様を救い主と信じたことで、神はゴシェンにいる神の民イスラエルのように区別してくださったのです。それゆえ、私たちの上に神のさばきが下るということはありません。

 

エジプトの王ファラオは、イスラエルの民がどうなったのかが気になったようで、使いを送って調査させました。すると、イスラエルの家畜は一頭も死んでいませんでした。であれば、怖くなってイスラエルの民を行かせたかというとそうではなく、逆に、彼の心は硬くなって、民を行かせませんでした。

 

Ⅱ.第6の災い:うみの出る腫物の害(8-12)

 

それで主はどうされたでしょうか。それで主は第6の災いを下します。それはうみの出る腫物の害です。8節から12節までをご覧ください。

「主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らは、かまどのすすを取ってファラオの前に立ち、モーセはそれを天に向けてまき散らした。すると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなった。呪法師たちは、腫れもののためにモーセの前に立てなかった。腫れものが呪法師たちとすべてのエジプト人にできたからである。しかし、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」

 

第6の災いです。この第6の災いの特徴は、第3の災いと同様に警告がないことです。主がファラオに対して何の警告なしに、わざわいが下ることを宣言します。それはうみの出る腫物の害です。

主はモーセとアロンに仰せられました。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはファラオの前で、それを天に向けてまき散らせ。それはエジプト全土にわたって、ほこりとなり、エジプト全土で人と家畜に付き、うみの出る腫れものとなる。」それで彼らがそのとおりにすると、それは人と家畜に付き、うみの出る腫物となりました。エジプトの呪法師たちは、その腫物のためにモーセの前に立つことができませんでした。これは、エジプトで癒しの神として信じられていた偶像に対するさばきです。エジプトには、疫病を支配する神「セクメット」、癒しの神として信じられていた「セラピス」、そして、薬の神として信じられていた「イムホテプ」といった偶像がありましたが、これらの偶像の神々は、エジプト人をうみの出る腫物から守ることができませんでした。

それでも、主はファラオの心を頑なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れませんでした。

今回の災いのもう一つの特徴は、かまどのすすがうみの出る腫物となったという点です。この「かまど」とは、レンガを焼くかまどのことです。それはエジプトにいたイスラエル人たちがレンガを焼く作業をするために使っていたものでした。それはイスラエル人にとって苦難の象徴でもありました。エジプトは、そのイスラエル人を苦しめたかまどのすすによって災いを受けたのです。それはまさに、「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:3)とあるとおりです。アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。あなたにとってのアブラハムとはだれでしょうか。それは神によって選ばれ、神によって立てられた神の器ではないでしょうか。その神の器をのろうのではなく祝福する。それはあなたの祝福となってかえってくるのです。

 

Ⅲ.第7の災い: 雹の害(20-32)
次に第7の災いを見ていきましょう。13節から35節までですが、まず26節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。今度、わたしは、あなた自身とあなたの家臣と民に、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるためである。実に今でも、わたしが手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。しかし、このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。あなたはなお、わたしの民に向かっておごり高ぶり、彼らを去らせようとしない。見よ。明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。さあ今、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させよ。野に残されて家に連れ戻されなかった人や家畜はみな、雹に打たれて死ぬ。』」

ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。そこで主はモーセに言われた。「あなたの手を天に向けて伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人にも家畜にも、またエジプトの地のすべての野の草の上にも、雹が降る。」モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主は雷と雹を送ったので、火が地に向かって走った。こうして主はエジプトの地に雹を降らせた。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡った。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打った。またその雹は、あらゆる野の草も打った。野の木もことごとく打ち砕いた。ただ、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 

第7の災いは雹の害によるさばきです。まずこの災いの前に、モーセを通して警告が与えられています。「主はモーセに言われた。『明日の朝早く、ファラオの前に立ち、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。』」

この災いの目的は何でしょうか。それは、「わたしのような者が地のどこにもいないことを、あなたが知るようになるため」です。災いのは内容は何ですか。「明日の今ごろ、わたしは、国が始まってから今に至るまで、エジプトになかったような非常に激しい雹を降らせる。」ということです。エジプトは最古の歴史を持つ国ですから、国が始まってから今に至るまでなかったようなというのは、人類の歴史上これまでなかったようなということです。だから、使いを送って、あなたの家畜と、野にいるあなたのすべてのものを避難させるように・・と。

 

それに対して、エジプト人はどのように応答したでしょうか。20-21節をご覧ください。「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちと家畜をそのまま野に残しておいた。」

不思議なことに、ファラオの家臣たちの中に主のことばを恐れた者とそうでなかったもの、つまり、主のことばに心を留めなかった者という2種類の人たちがいました。主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に非難させましたが、主のことばを心に留めなかったものは、しもべや家畜たちをそのまま野に残しておきました。

 

その結果どうなったでしょうか。モーセが杖を天に向けて伸ばすと、主が雷と雹を送ったので、火が地に向かって走り、エジプトの地に雹が降りました。雹が降り、火が雹のただ中をひらめき渡りました。それは、エジプトの地で国が始まって以来どこにもなかったような、きわめて激しいものでした。それで、エジプトの人から家畜に至るまで、野にいるすべてのものを打ちました。しかし、イスラエルの子らが住むゴシェンの地には、雹は降りませんでした。主がイスラエルの民とエジプト人を区別されたからです。

 

ここで注目したいことは、エジプト人の中にも主のことばを恐れた人々がいたということです。彼らは主のことばに従ったので、災害から守られました。主のみことばを聞いてどのように応答するかが重要です。主は、種まきのたとえでこのように教えてくださいました。

ある人が種を蒔いたら四種類の土地に落ちました。それは道ばた、岩地、いばら、良い地です。それはその人の心を表していました。その人が実を結ぶかどうかは、その人が主のことばをどのように受け止めるのかによって決まります。良い地に落ちた種だけが多くの実を結ばせます。あなたはどのような心で主のことばを受け止めていますか。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7)とあります。私たちも主を恐れ、主のことばに従う者となりましょう。

 

さて、雹の災いを受けてファラオはどうしたでしょうか。27節と28節をご覧ください。

「ファラオは人を遣わしてモーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを去らせよう。おまえたちはもう、とどまっていてはならない。」」

よっぽどひどい災害だったのでしょう。ファラオは、「今度は私が間違っていた。主が正しく、私と私の民が悪かった。」と言っています。そして、「主に祈ってくれ。私はおまえたちを去らせよう。」と言いました。これはファラオが悔い改めたということではありません。ただ苦しみから解き放たれたいというだけです。苦しみから解き放たれたいという思いだけでは、救いを得ることはできません。

 

それに対するモーセの回答は、「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を差し伸べましょう。そうすれば、雷はやみ、雹はもう降らなくなります。」というものでした。しかし、それでもファラオとファラオの家臣たちはまだ、神である主を恐れていないと言いました。それはどうしてでしょうか。31節と32節をご覧ください。

「亜麻と大麦は打ち倒されていた。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし、小麦と裸麦は打ち倒されていなかった。これらは実るのが遅いからである。」

どういうことでしょうか。大麦が穂を出し、亜麻がつぼみをつけるのは、大体1月から2月にかけてのことです。また、小麦と裸麦が実をつけるのは、4月から5月にかけてのことです。つまり、この雹の災害は2月から3月にかけて起こったと考えられます。大麦と亜麻は雹で打ち倒されましたが、小麦と裸麦は打ち倒されていませんでした。そのことを知ったファラオと彼の家臣たちは心を頑なにし、イスラエルの子らを行かせませんでした。

 

神は、人をへりくだらせるために、その人の力を弱くされることがあります。ある人は病気になったり、ある人は事業が失敗したりと、自分だけでは生きることができない状況に陥ることがありますが、それは私たちが主の御前にへりくだるために、主が与えてくださるものです。しかし、そうした弱さの中にあっても小麦と裸麦が残されていることがわかると、自分の中にまだやっていける力や可能性が少しでもあると思い、この時のファラオのように頑なになってしまうことがあるのです。主がエジプトのすべてを打たなかったのはエジプトに対するあわれみであったのに、それを自分たちはまだやっていけると思う判断材料にしてしまったのです。

 

しかし、それは主がモーセを通して言われたとおりでした。つまり、これほど激しい災いがあってもファラオが頑なになったのは、イスラエルの神、主のような方がどこにもいないことを、彼が知るようになるためでした。モーセが手を伸ばせば、今すぐにでも彼と彼の民を疫病で打って、この地から消し去ることなど実に簡単なことなのにそのようにされなかったのは、「わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に示すため」(16)だったのです。つまり、エジプトに主とはどのような方であるかを示すため、いや、エジプト人に限らず全地に主の名を知らしめるためだったのです。このことによって、現代に生きる私たちも、主がどれほど偉大なお方であり、主のように大いなる方はほかにはいないということを確信することができます。ファラオの頑な心は、そのために用いられたのでした。私たちは、このようにして示された主の御業を通して、主がどれほど偉大な方であるのかを知り、この方に信頼する者とさせていただきましょう。

出エジプト記8章

出エジプト記8章から学びます。まず1節から15節までをご覧ください。4節までをお読みします。

 

Ⅰ.第二の災い:蛙の害(1-15)

 

「主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」(1-4)

イスラエルをエジプトから去らせるようにとの主のことばを拒んだファラオに、主はすべてのナイ

ル川の水を血に変えるという災いを下しました。それによってナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなりました。それでもファラオの心は頑なになり、モーセとアロンの言うことを聞き入れませんでした。それは、初めからわかっていたことです。ファラオはどんなに偉大な主の力を見ても、イスラエルの子らをその地から去らせようとしません。それは主がファラオの心を頑なにし、主がエジプトの地でしるしと不思議を行うことによって、主こそ神であることをファラオが知るようになるためです。

 

そこで主は第二の災いをもたらします。それは蛙の害です。この蛙の災いが、ナイル川が血になる災いと異なるのは、この災いがファラオの家の中にまで入り込むということです。寝室にも、かまどにも入り込むので、ベッドで寝るときもぐちゃ、こね鉢でこねる時も蛙を一緒にぐちゃぐちゃにすりつぶしてしまうのです。1匹2匹だったらかわいいものですが、至る所が蛙ですから気持ち悪いですね。特にエジプでは蛙は礼拝の対象でしたから、その蛙に打たれるということは屈辱的なことでした。

 

5節から7節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。」

 

アロンが持っていた杖を川の上や水路の上、池の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおいました。するとエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行いました。しかし、彼らは蛙を増やすことはできても、それを取り除くことはできませんでした。

 

するとファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言いました。8節です。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」

ファラオは、何とかしてこの苦しみから解放されることを願いました。それで、自分たちのところから蛙を取り除くように、主に祈れ、とモーセとアロンに言いました。そうすれば、イスラエルの民を去らせる・・・と。それでモーセはファラオに迫ります。10節です。「いつが良いですか」

「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」(9)  するとファラオは「明日」と言いました。なぜ「今」ではなかったのでしょうか。そんなに苦しいのであれば「今すぐに取り除いてほしい」と願うのが普通かと思いますが、ファラオは「明日」と言いました。もしかしたら明日になれば事態が解消されていると思ったのかもしれません。あるいは、このような儀式を行うためには、それくらいの時間がかかるものと思ったのかもしれません。

 

それでモーセは、「あなたのことばどおりになりますように」と言いました。「それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。」(10)これがこの災いの目的です。それはファラオが、イスラエルの神、主のような方はほかにいないということを知るためです。ファラオは、あの手この手を尽くしてイスラエルを行かせることを拒みますが、それはそのことによって主が力強い御業を行い、主こそ神であるということをファラオが知るためだったのです。

 

するとモーセが主に叫んだので、蛙はエジプト中の家と畑から死に絶えました。モーセがファラオに約束したとおりです。主はモーセを通して約束されたように、モーセの祈りに答えてこの問題解決してくださいました。

ところが、ファラオは一息つけると思うと、手のひらをひるがえして、彼らの言うことを聞き入れませんでした。主が言われたとおりです。何という頑なさでしょうか。ファラオにはこうしたずる賢さがありました。いつがよいかというと「明日」と言い、祈りが応えられて一息すると心を頑なにするという不従順が見られます。

 

しかし、それは何もこのファラオだけのことではなく、私たちにも同じではないでしょうか。「今日」ではなく「明日」と言ってみたり、一息つくと元の状態に戻ってしまうということがあります。

「「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように」と言われているとおりです。」(へブル3:15)

今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはなりません。心を頑なにしないで、従順に主の御声に聞き従う者でありたいと思います。主のような神は、ほかにはいないからです。

 

Ⅱ.第三のわざわい:ブヨの害(16-19)

 

次に16節から19節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

 

それで主はモーセ言われました。16節です。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」」

それでモーセとアロンがそのようにすると、エジプト全土でブヨが人や家畜に付きました。「ブヨ」という言葉は、へブル語では「種々の害虫」のことです。何か特定の昆虫というよりも、雑多な害虫が現れたのでしょう。

 

この時もエジプトの呪法師たちがブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしましたが、できませんでした。それで彼らは何と言ったかと言うと、「これは神の指です」と言いました。つまり、自分たちの能力をはるかに超えているということです。このように叫ぶことによって、それが神によって行われたわざであることを暴露したのです。しかし、それでもファラオは、彼らの言うことを聞き入れませんでした。

 

Ⅲ.第四のわざわい: あぶの群れ(20-32)
それで主は第四のわざわいをエジプトに下します。それは「あぶの群れ」です。20節から24節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。」

「アブ」というのは、「サシバエ」という蝿の一種だと考えられています。この「サシバエ」が家畜や人の体を刺すと、とにかく痛いんだそうです。動物たちは始終頭を振り、尻尾を振り、刺される痛みのためか時に身をブルッと震わせます。これは彼らが強いストレスを感じているサインです。ですから、こんなのに刺されたらたまったもんじゃありません。これがエジプト全土に満ちるというのです。

 

しかし、今回はこれまでと違う点が一つだけありました。それは、イスラエルの民がとどまっていたゴシェンの地にはいないようにするということです。つまり、主はイスラエルの民とエジプトの民を区別して、贖いをする、ということです。そのようにして主は、ご自身の民であるイスラエルを特別に扱われるのです。それはファラオが、その地のただ中にあって主こそ神であるということを知るためです。

 

この区別して、贖いを置くというのは、区別して、救いを置くという意味です。この表現は、あのノアの方舟のことを思い起させます。あの箱舟の扉が閉ざされた瞬間に、舟の中の人々と外の人々とが区別されました。その扉を通って箱舟に入るかどうかが、中の人と外の人とを区別したのです。その扉こそイエス・キリストです。キリストはこう言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)

つまり、イエス・キリストこそ神の民とそうでない民とを区別して、ご自身の民を贖われる方であるということです。その中間はありません。救い主イエス・キリストを信じるのか、信じないのかが、主の贖いに与るかどうかの区別となるのです。

 

そうでないと、神のさばきを受けることになります。24節をご覧ください。おびただしいうアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入ったので、エジプト全土がアブの群れによって荒れ果ててしまいました。

 

それで、ファラオはどうしたでしょうか。25節をご覧ください。ファラオはモーセを呼び出してこう言いました。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」

どういうことでしょうか?主の命令は、イスラエルの民をエジプトから去らせということでしたが、ファラオは、「この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」と言っています。これはファラオの妥協案です。彼らがいけにえを献げるのはいいだろう。でもこの国から出て行ってはいけない。この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げればいいじゃないか、と言ったのです。

 

それに対してモーセは、「それはふさわしいことではない」(26)と断ります。なぜなら、イスラエル人はエジプト人の忌み嫌うものをいけにえとして献げることになるからです。それは何ですか?羊です。エジプト人は羊を忌み嫌っていました。その羊を献げたらどうなるでしょう。それを見たエジプト人たちに石で打ち殺されてしまうでしょう。だから、イスラエルの民は主が言われたとおり、荒野に三日の道のりを行って、主にいけにえを献げなければなりません。

 

するとファラオはどうしましたか?28節をご覧ください。「ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」」

どういうことでしょうか?「ただ、決して遠くへ行ってはならない」とは。ここでファラオはさらなる譲歩案を提示しているのです。それは、イスラエルが荒野に出て行って、主にいけにえを献げてもよいが、決して遠くへは行くな!ということです。そして、自分のために祈ってくれ!というものでした。つまり、エジプトの支配が届かない所には行ってはならないという意味です。あくまでも自分たちの手の届くところに置いておきたいのです。これが悪魔の常套手段です。

 

悪魔は私たちが信仰を持つことを許しても、あまり遠くに行かないようにと働きかけてきます。仮に神を信じたとしても、自分たちの手の中にあれば、いずれ戻ってくることになるからです。だからあまり遠くに行ってほしくありません。これまでのようにできるだけこの世にどっぷりと浸かっていてほしい。教会に行って、洗礼を受けてもいいけれども、できるだけ今のままでいるようにと圧迫してくるのです。つまり、自由にさせているようで自由ではないのです。私たちがイエス様を信じて罪から解放され、全く自由にされたはずなのにそうではないように感じるのは、このような悪魔の働きがあるからなのです。

 

また28節を見ると、「私のためにも祈ってくれ」と、いかにも敬虔であるかのように装っています。これがこの世が取る姿です。彼らはいいことなら何でもやってもらいたいのです。たとえ自分たちが信じていない神でも、自分に都合のいいように祈ってもらいたいのです。ピリピ3:19に、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。」とあるように、あくまでも彼らの神は彼らの欲望なのです。

 

それでモーセは言いました。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」

モーセはファラオの言うことを受け入れ、明日、アブがファラオとその家臣から離れるように祈ることを約束します。だから、ファラオはイスラエルの民がいけにえをささげることを阻んで、再び欺くことがないようにと釘を指しました。そして、ファラオのもとから出ていくと、モーセはファラオに約束したとおり、主に祈りました。本来であれば、エジプトがアブによってもっと苦しめばいいのに・・と思うところでしょうが、彼はそうした自分の感情に流されることなく、エジプト人のためにとりなしの祈りをしたのです。

 

すると主はモーセの祈りを聞かれ、モーセが祈ったとおり、翌日には、アブが一匹も残らないようにされました。しかし、ファラオはまたも心を頑なにし、民を去らせませんでした。何という優柔不断さでしょうか。主に祈ってくれ!と言ったかと思えば、やっぱり行かせない!と、いつも気持ちがコロコロと変わっています。こういうのを「二心」と言います。こういう人はその歩むすべてにおいて安定を欠いた人です。ヤコブはこう言っています。

「 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。」(ヤコブ1:6-8)

 

皆さんはどうでしょうか。少しも疑わないで、信じて祈っているでしょうか。それとも、信じていても疑うようなことをして、安定感のない信仰生活を送ってはいないでしょうか。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはありません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)いつも信仰に歩めるように、神の助けを求めましょう。

出エジプト記7章

出エジプト記7章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

Ⅰ.バロの心をかたくなにされた主(1-7)
「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。あなたはわたしの命じることを、ことごとく告げなければならない。あなたの兄アロンはファラオに、イスラエルの子らをその地から去らせるようにと告げなければならない。わたしはファラオの心を頑なにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で数多く行う。しかし、ファラオはあなたがたの言うことを聞き入れない。そこで、わたしはエジプトに手を下し、大いなるさばきによって、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの子らをエジプトの地から導き出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエルの子らを彼らのただ中から導き出すとき、エジプトは、わたしが主であることを知る。」そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。 彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」

モーセの前には多くの障害が立ちはだかっていました。彼は民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。それでも主はモーセを見放しませんでした。何度も躊躇するモーセに対して、忍耐深く語りかけられます。1節をご覧ください。

「主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。あなたの兄アロンがあなたの預言者となる。」

モーセを神の代理人とするということです。そしてアロンは、モーセの言ったことを伝えるモーセの代弁者です。モーセがは神が命じることを、ことごとくファラオに告げなければなりませんでした。それは、イスラエルの子らをその地から去らせるようにということです。

 

けれども、主はファラオの心を頑なにされるので、ファラオは彼のことばを受け入れません。これは不思議なことです。イスラエルをエジプトから連れ出そうとしているのに、ファラオの心を頑なにするというのはどういうことでしょうか。それは、主がファラオの心を頑なにするというよりも、いくら説得しても頑なであり続けるファラオの心を知っておられた主が、その頑な心を用いて、エジプトの地でしるしと不思議を行い、イスラエル人をエジプトから連れ出されるということです。それは、「エジプトは、わたしが主であることを知る」ようになるためです。つまり、エジプトの奴隷であったイスラエルの神の方が、彼らの神々よりも強いということを示そうとしておられたのです。

 

それに対してモーセとアロンはどうしたでしょうか。6節です。「そこでモーセとアロンはそのように行った。主が彼らに命じられたとおりに行った。」

これまでは、なかなか主に従うことができませんでした。「そんなこと言ったって・・」といつも否定的にしか応答することができなかったのに、ここでは素直に従っています。どうしてでしょうか。それは彼らが主の計画をはっきりと知ったからです。

これは、私たちクリスチャンも同じです。もし私たちが信仰の落ち込みから解放されたいと願うなら、自分自身に焦点を合わせるのではなく、神のことばに焦点を合わせなければなりません。そして、神が命じられるとおりに行なわなければならないのです。わかったら行動するのではなく、行動すればわかるようになるのです。私たちは自分が納得するまで行動しないと、自分の思いや考えを優先させることがありますが、そのような姿勢ではいつまでも神に従うことはできません。神のことばに従わないなら、神の力や恵みを体験することはできないのです。神のことばを信じて従うこと、それが私たちに求められています。

 

「彼らがファラオに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。」彼らの年齢をどのように考えたらよいでしょうか。これからのしるしと不思議は、何と80歳と83歳の二人の老人に与えられました。これはどういうことかというと、このイスラエルの出エジプトの出来事は人間の力ではなく、神の力によって成されるということです。

アメリカの大衆伝道者D・L・ムーディーは、モーセの人生の最初の40年間は、ファラオの宮殿で自分がそれ相応の人間であることを学び、次の40年間は、ミディアンの荒野で自分が何者でもないことを学んだ。そして最後の40年間は、神が無力な者を用いてみわざを行う方であることを学んだ、と言っています。つまり、モーセにとって80歳というのは、自分の知識と経験が最高潮に達した時であったということです。神にとって用いやすい状態になりました。これまでの80年は、そのための準備の時でした。皆さんは今、人生のどのあたりを歩んでいるでしょうか。どの段階にあっても、神のご計画の中を歩むことが重要ですね。

 

Ⅱ.杖が蛇に(8-13)

 

次に、8節から13節までをご覧ください。

「また主はモーセとアロンに言われた。「ファラオがあなたがたに『おまえたちの不思議を行え』と言ったら、あなたはアロンに『その杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言え。それは蛇になる。」モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行った。アロンは自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げた。すると、それは蛇になった。そこで、ファラオも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらエジプトの呪法師たちもまた、彼らの秘術を使って同じことをした。彼らがそれぞれ自分の杖を投げると、それは蛇になった。しかし、アロンの杖は彼らの杖を?み込んだ。それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」

モーセとアロンはファラオのところに行き、主が命じられたとおりに行いました。それはファラオとその家臣たちの前に自分たちが持っていた杖を投げるということです。すると、それは蛇になりました。それで、ファラオもエジプトの知恵のある者と呪術者を呼び寄せて同じことをさせると、彼らもまた、杖を蛇に変えることができました。彼らは蛇使いであって、催眠術や奇術によって、蛇やワニなどを一時的に硬直状態にすることができたのでしょう。それは、単なる「マジック」というよりは、悪魔的なものだと考えられます。悪魔もそのような奇跡を行って人々を驚かし、人々の心を捉えることができるのです。しかし、アロンの杖が彼らの杖を呑み込んでしまいました。それは、神の力がサタンの力よりも勝っていたことを表しています。同じようなことができても、神の力は圧倒的な力があるのです。  「それでもファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。」(13)

この出来事を目撃しても、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れませんでした。けれども、そのことでモーセとアロンは動揺したり、落ち込んだりしていませんでした。なぜでしょうか。彼らの目が主に向けられていたからです。彼らは、主が言われたとおりに行いました。私たちも、自分に向けられている目と心を自分ではなく主と主のことばに向けるべきです。そうすれば、目の前にどんな障害があっても、それを乗り越えることができるのです。

 

Ⅲ.ナイル川を血に(14-25)

 

それでモーセはどうしたてしょうか。14節から18節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「ファラオの心は硬く、民を去らせることを拒んでいる。あなたは朝、ファラオのところへ行け。見よ、彼は水辺に出て来る。あなたはナイル川の岸に立って、彼を迎えよ。そして、蛇に変わったその杖を手に取り、 彼に言え。『ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ、と。しかし、ご覧ください。あなたは今までお聞きになりませんでした。主はこう言われます。あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知る、と。ご覧ください。私は手に持っている杖でナイル川の水を打ちます。すると、水は血に変わり、

7:18 ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むのに耐えられなくなります。』」

 

それで、彼らはどうしたでしょうか。15節をご覧ください。「見よ、彼は水辺に出て来る」というのは、彼が礼拝のために出て来るということです。ナイル川を拝みに出て来るのです。エジプトでは、肥沃な土地をもたらしこの国に潤いをもたらしているナイル川を、神として拝んでいました。そのナイル川の岸に立ってファラオを迎え、蛇に変わったその杖を手に取って、「ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして言われました。わたしの民を去らせ、彼らが荒野でわたしに仕えるようにせよ」と言え、と言うのです。そのことによって、主がエジプトにさばきを下すからです。それによって彼らが、主こそ神であるということを知るため(17)です。

 

その災いは、ナイル川の水が血に変わるという災いでした。するとナイル川の水は地に変わり、ナイル川の魚は死に、臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むことができなくなります。彼らが神として拝んでいたナイル川がこのようになることは、エジプトの神々の敗北を表していました。そうして彼らは、イスラエルの神、主がとのように偉大な神であるのかを知るようになるのです。これがこれから始まる10の災いの最初の災いでした。

 

次に、19節から21節までをご覧ください。 「主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、

その川、水路、池、すべての貯水池の上に伸ばしなさい。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになる。』」モーセとアロンは主が命じられたとおりに行った。モーセはファラオとその家臣たちの目の前で杖を上げ、ナイル川の水を打った。すると、ナイル川の水はすべて血に変わった。ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなり、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。エジプト全土にわたって血があった。」

 

ここで主は、その杖をナイル川だけでなく、エジプト中の水という水に伸ばすようにと命じられました。そうすれば、それらは血となり、エジプト全土で木の器や石の器にも血があるようになります。すると、ナイル川の水はすべて血に変わりました。こんなことがあるのでしょうか。このナイルの水が血に変わるなんて考えられません。それである人たちは、これは実際に血に変わったのではなく、血のように赤くなったのにちがいないと考えます。赤潮ですね。ヨエル2章31節に「月は血に変わる」という表現があるので、ここでもナイル川が地のように赤くなったということだ、と言うのです。しかし、水が血に変わったというのは、成分が透明な水とは違ったものになったことは確かです。なぜなら、すべての魚が死んだし、川が臭くなりました。そして、水も飲めなくなりました。これらのことは、明らかにただ水が赤くなったというのではなく、血地になったということです。それは神の超自然的なしるしであったのです。

 

その結果、どうなったでしょうか。22節から25節です。

「しかし、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。ファラオは身を翻して自分の家に入り、このことにも心を向けなかった。全エジプトは飲み水を求めて、ナイル川の周辺を掘った。ナイル川の水が飲めなかったからである。主がナイル川を打たれてから七日が満ちた。」  ところが、エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをしました。それでファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れようとしませんでした。けれども、なぜエジプトの呪法師たちはこれを水に変えられなかったのでしょうか。水を赤くすることができるなら、透明にすることもできたはずです。それなのに彼らにはできませんでした。それでエジプト全土は飲み水を求めて、ナイル川周辺に井戸を求めて掘らなければならなかったのです。

 

すると、ファラオはどうしたでしょうか。彼は身を翻して自分の家に入り、このことに心を向けませんでした。これは、国家の指導者としては、あまりにも無責任な態度です。彼は一般庶民のように水に困ることはなかったでしょうが、一般のエジプト人は、生きていくために水が必要だったので必死でした。彼らは井戸を掘らなければなりませんでした。それが7日間も続いたのです。それでエジプト人たちは苦しみました。それなのに彼はそのことに全く心を向けなかったのです。何とひどい王でしょう。

 

でも、私たちの神は、そのような方ではありません。私たちの神は、私たちが苦しみの中から主に呼び求めると、答えてくださる方です。詩篇55:16,17には、「私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。」とあります。

また、エレミヤ書33章3節には、「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」とあります。

私たちの神は、私たちの叫びを聞き、助けの手を差し伸べてくださいます。このような神は、ほかにはいません。主こそ神であり、私たちをすべての苦しみから救ってくださる方なのです。ですから、私たちは、この方に信頼し、この方に助けを求めて叫ぼうでありませんか。主はあなたに心を向けてくださっておられるからです。

出エジプト記6章

神の命令に従いファラオのもとに行って神のことばを伝えたモーセでしたが、そこで激しい抵抗に会い、イスラエルの立場は以前よりももっとひどいものになってしまいました。イスラエルの民のリーダーたちからそれを告げられた時、モーセは神に祈って言いました。「主よ。なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。」(5:22)

きょうの箇所には、そのことに対する主の励ましが語られています。

Ⅰ.わたしは主である(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。4節までをお読みします。

「主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」

 

1節には、「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」とあります。ここで主は、「わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」と言われました。今はまだわからないが、今に分かるようになります。つまり、モーセに欠けていたのは、今しばしの忍耐でした。それまで彼は、もう少し忍耐しなければならなかったのです。なぜなら、「彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出す」からです。いったいどのようにしてそれが起こるのでしょうか。

 

2節以降には、そのことについて語られています。2節には、「わたしは主である。」とあります。これは、3章14節のところで、主が「わたしは、『わたしはある』という者である。」と言われたことと関係があります。それは、他の何にも依存せず、それだけで存在することができる方、自存の神であるという意味です。つまり、すべての存在の根源者であられるということであり、いかなる限界もない全能の神であることを表しています。加えてこの「主」(ヤハウェ)は、神が契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方、常に信頼できる方であることを表しています。神はモーセに、ご自身がそのような方であると啓示してくださったのです。

 

それは、アブラハム、イサク、ヤコブに現われてくださった時とは違います。アブラハム、イサクヤコブに現われてくださった時には「全能の神」として現れてくださいました。それは「エル・シャダイ」という御名でした。神がすべての必要を満たす神であるという意味です。しかし今は「主」と言う名前で現れてくださいました。名は体を表わします。イスラエルの民はこの主の御名の意味を体験的に知っていたわけではありませんでしたが、出エジプトの体験を通して、その意味を深く知るようになります。主は、イスラエルの民に、カナンの地を与えると約束されました。その契約に基づいて、彼らをエジプトから解放されるのです。

 

5節には、「今わたしは、エジプトが奴隷として仕えさせているイスラエルの子らの嘆きを聞き、わたしの契約を思い起こした。」とあります。この「思い起こした」とは、今まで忘れていたイスラエル人との契約を思い出したということではありません。いよいよ行動を起こす時が来たという意味です。

このことは、モーセにとって大きな励ましとなりました。というのは、それまで彼はこの神の偉大さを知らなかったからです。ですから、自分の身に何か困難なことがあるとすぐに、「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。」と嘆いていたのです。しかし、大切なのは「なぜ」ではなく、「だれ」です。イスラエルの神はどのような方であるかということです。イスラエルの神は「主」であるということです。主は契約を守る方であり、いつまでも変わることのない方です。常に信頼できる方であることです。彼は、この偉大な方に目を留めるべきでした。「自分」ではなく、「神」に、神の偉大さに焦点を合わせるべきだったのです。私たちはいかに「自分」が中心となっているでしょうか。自分を中心に見たり、考えたりしています。しかし、それではすぐに落ち込んだり、がっかりすることになってしまいます。主を見なければなりません。主は必ず契約を守られる方であることを心に刻みたいと思います。私たちの信仰の視点が自分から神に向けられるとき、私たちは体験的に神を知るようになるのです。そして、神を体験的に知れば知るほど、そこにどのような問題があっても神に信頼し、神をほめたたえることができるようになるのです。

 

それゆえ、モーセはイスラエルの子らにこう言わなければなりませんでした。6節から8節です。

「わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。」 (6-8)

 

モーセがイスラエルの子らに告げなければならなかったことは、次の三つのことでした。第一に、主はイスラエルをエジプトの苦役から救い出し、大いなるさばきによって贖われ

るということです。(6)「大いなるさばき」とは、エジプトに下されようとしていた10の

災いのことを指しています。エジプトの奴隷となっていたイスラエルを救うために、神はそ

の腕を伸ばし、大いなるさばきをもって彼らを贖われるというのです。

 

第二のことは、「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。」(7)ということです。イスラエル人は、主の圧倒的な御業によってエジプトから贖い出され、シナイ山のふもとで、主と契約を交わすことによって、主の民となり、主は彼らの神となられます。「わたしはあなたがたの神である」というのは、何という祝福でしょうか。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(Ⅰペテロ2:9)とあります。私たちも異邦人の中から召し出され、神の所有とされた民です。神の民とされたことを感謝しましょう。

 

三つ目のことは、「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。」という約束です。神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地、すなわち、カナンの地に彼らを導き、その地を彼らに与えると約束されました。なぜなら、それは彼らの父祖たちに与えると誓われた地であるからです。この約束は、後にヨシュアの時代に実現します。

 

これら三つのことは必ず実現します。なぜなら、「わたしは主である。」からです。これら

3つの約束が、この「わたしは主である」という宣言で始まり、「わたしは主である」という宣言で結ばれています。すなわち、これらの約束は必ず実現するということです。なぜなら、「わたしは主である」からです。主は契約を守られる方です。ですから、これは必ず実現することなのです。このように、主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いでしょうか。私たちも現状を見たらとても信じられないようなことでも、主を見て、主が語られたことは必ず実現すると信じて、その実現を待ち望みましょう。

 

Ⅱ.失意に陥る時(9-13)

 

それに対してイスラエルの民はどのように応答したでしょうか。9節をご覧ください。

「モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。」

 

モーセはそのようにイスラエルの民に語りましたが、イスラエルの民は、モーセの言うことを聞くことができませんでした。なぜでしょうか、ここには、「失意と激しい労働のために」とあります。彼らはモーセのことばに一度は希望を持ちましたが裏切られる結果となり、失望落胆したのです。また、激しい労働のために、考える暇さえありませんでした。

 

すると、そんなモーセに主がこう告げられました。「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」これは、失意の中にいるイスラエルの民はそのままにしておいて、あなたは、エジプトの王ファラオに所へ行き、イスラエルの民をエジプトから去らせるように告げよ、ということです。

 

すると、モーセは主の前に訴えました。11節、「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

これはモーセがシナイ山のふもとで召命を受けた時と同じです(3:1~4:13)。そういう状態に戻ってしまったのです。私たちも信仰が逆戻りすることがあります。せっかく信仰が順調に成長しているかのようでも、このように落ち込み、逆戻りすることがあります。そういう時は決まって主を見ているのではなく、その状況を見ています。また、人間的に自分を見て、無力感にとらわれています。つまり、神様から心が離れているのです。ここでモーセは「私は口べたなのです。」と言っています。だからこそ、神様は彼にアロンを備えてくだったのではないでしょうか。それなのに彼は、アロンが彼の代弁者であることさえも忘れていました。主はそんなモーセとアロンに、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられました。

 

主の前には多くの障害が立ちはだかっていました。民は、救いようもないほど落胆し、不信仰に陥っていましたし、モーセとアロンは、民を説得することに失敗し、全く自身を失っていました。そして、エジプトの王ファラオは、イスラエルに対して以前にも増して敵意を抱くようになっていました。

しかし、神はブルドーザーのようにあらゆる障害物を取り除き、目的を達成するために前進されます。私たちが信じている神は、すべてを可能にされるお方です。自分が置かれている環境や直面している問題から目を離し、この全能の神を見上げましょう。

 

Ⅲ.モーセの系図(14-30)

 

「彼らの一族のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はハノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナンの女から生まれたシャウルで、これらがシメオン族である。家系にしたがって記すと、レビの子の名は次のとおり。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビが生きた年月は百三十七年であった。ゲルションの子は、氏族ごとに言うと、リブニとシムイである。ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテが生きた年月は百三十三年であった。メラリの子はマフリとムシである。これらが、彼らの家系によるレビ人の諸氏族である。アムラムは自分の叔母ヨケベデを妻にした。彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムが生きた年月は百三十七年であった。イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にし、彼女はアロンにナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらがコラ人の諸氏族である。アロンの子エルアザルは、プティエルの娘の一人を妻とし、彼女はピネハスを産んだ。これらがレビ人の諸氏族の、一族のかしらたちである。このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」

 

ここには、突然モーセの系図が出てきます。なぜ系図が出てくるのでしょうか。それは、26節と27節に導くためです。「このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。」つまり、このモーセとアロンがどこから出た者たちなのかを紹介するために、ここに系図を挿入しているのです。ですから、この系図は全てを記していません。ヤコブの12人の息子たちの記述も、ルベン、シメオン、レビまでで終わっています。それは、モーセとアロンがイスラエルの系図のどこに位置しているのを示せば十分だったからです。そして、モーセとアロンはヤコブの息子のうちレビから始まっています。そのレビには三人の息子がいました。ゲルション、ケハテ、メラリです。そして、その中のケハテ族の中からモーセとアロンは出ました。

 

ということは、どういうことかというと、彼らはアブラハム契約の中から出てきたということです。アブラハム契約の中からというのは、神の啓示を受け取った民の中からということです。それと全く関係ないところから出てくることはありません。それはメシヤの誕生にしても同じです。メシヤは旧約聖書の預言と全く関係のないところから出て来たのではなく、旧約聖書に預言されてあるとおり、アブラハムの子孫として生まれ、その契約を成就する形として来られました。つまり、こうした系図は過去と現在を結ぶ連結器のような役割を果たしているのです。どんなにすばらしい聖句でも、歴史的な流れなり、聖書全体のテキストを無視して取り出されたものは、本来の意図からはほど遠いものとなります。神様は歴史を通してご自身を啓示されました。ですから私たちは、こうした歴史的文脈をしっかりと押さえながら聖書のことばを読んでいなかければなりません。

 

28節から30節までをご覧ください。「主がエジプトの地でモーセに語られたときに、主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 

この箇所は、モーセとアロンの系図が挿入される前の文脈に戻っています。すなわち、12節に戻っています。モーセは主のことばをイスラエルの民に告げましたが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでモーセは意気消沈し、かつてホレブの山で召命を受けた当時の否定的な状態に戻ってしまったのです。つまり、モーセが期待していたことと現実との間に大きなギャップがありました。それが、モーセが信仰の危機に陥った最大の要因でした。何が問題だったのでしょうか。モーセが期待していたことと神の計画には大きな隔たりがあったということです。私たちも同じようなことを経験することがあります。自分が祈っているように事が進まないと、神のみこころが分からなくなってしまい、すぐに不平や不満を抱くようになってしまうことがあります。しかし、神の思いは、天が地よりも高いように高いのです。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

大切なことは、このことを認め、すべてを神にゆだねることです。自分自身に神のみこころを合わせるのではなく、神のみこころに自分自身を合わせ、神の計画に従った信仰生活を送れるように、祈りましょう。

出エジプト記5章

きょうは出エジプト記5章から学びたいと思います。モーセは、ホレブの山でアロンに会うと、エジプトにいるイスラエル人のところにやって来ました。そして、アロンが、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の前でしるしを行うと、民は信じました。そこで、モーセとアロンは、主に命じられたとおりエジプトの王ファラオのところに行き、イスラエルをエジプトから出て行かせるように言います。

1.もっと不利な状況に(1-9)

まず、1節から9節までをご覧ください。                                                                                                            「その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」

いよいよモーセとアロンが、ファラオのところに行きます。彼らはファラオのところに行き、「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と言いました。これはファラオに対する最低限の要求です。荒野で祭りを行えるように行かせてくれなければ、イスラエルをエジプトから去らせることは絶対にしません。神がイスラエルの民を救い出す理由は、礼拝する民を作るためでした。「祭り」とは「礼拝」のことです。「礼拝」は「祭り」でもあります。私たちの礼拝は、祭りとなっているでしょうか。

それに対してパロは何と言ったでしょうか。「主とはいったい何者か」、「私は主を知らない」と言いました。そして、イスラエルを行かせないと言いました。パロは生けるまことの神に対しても恐れを持っていませんでした。自分がどの神よりも偉大で、力があると思っていたのです。だから、「主とは何者か」とか、「なぜ自分がその神の命令に従わないのか」という傲慢な態度を取ったのです。それは、神を信じようしない現代人の姿ではないでしょうか。詩篇10篇4節にはこうあります。「 悪しき者は高慢を顔に表し神を求めません。「神はいない。」これが彼らの思いのすべてです。」神の存在と、その権威を認めない心、これが現代人の姿です。

するとモーセとアロンは言いました。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」

これは不思議な内容です。イスラエルを行かせなければ主がエジプトを打たれるのではなく、イスラエルを打たれるというのですから。それは、イスラエルが打たれれば、ファラオの奴隷であり、財産が失われてしまうという警告でした。

それに対するファラオの反応は、「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」(5)というものでした。ファラオは、イスラエルの民が仕事を止めているという報告を受けていたようです。でも、ファラオは彼らの言うことに全く聞く耳を立てませんでした。むしろ、苦役に戻るようにと命じました。そればかりではありません。6~9節を見ると、ファラオは、イスラエル人の労役を重くしたことがわかります。すなわち、イスラエルの民の監督たちとかしらたちに命じて、れんがを作るための藁を自分で集めに行くようにさせ、その量はこれまでと同じにしたのです。もっと過酷な労働を課したということです。それまではエジプト人が集めた藁を使ってれんがを作っていましたが、その藁も自分で集め、作る量はこれまでと同じというのですから。ファラオは、彼らに重労働を課せば、偽りの言葉に関心を持たなくなるだろうと思ったのでしょう。 

ここには、神の国と神の敵が対決する時に、神の民が苦しむという原則が見られます。主の働きが始まるとき、その働きとは反対の動きが起こるのです。神の働きに対して、敵である悪魔が反対するからです。それは主の勝利が決まるまで続きます。それによって、主の民が苦しむことがあるのです。

このようなことが、私たちクリスチャンにも起こります。私たちは、暗闇の力から救い出され、愛する御子のご支配の中に移された(コロサイ1:13)ので、神の敵から苦しめられることがあるのです。自分の問題が解決するのを期待して信仰を持つ人が多くいます。しかし、信じた瞬間に、光と闇との戦いの中に入れられるのでなかなか期待したような状況にならないばかりか、かえって苦しい状況になるため、多くの人たちが失望し、信仰から離れて行きます。クリスチャンの経験するジレンマは、神様の約束は与えられていてもそれが成就しない時に感じるものです。戦いはあります。でも、信じ続けましょう。神の約束は必ず実現するからです。

2.神の民の対応(10-21)

それでイスラエルの民はどのような態度を取ったでしょうか。10節から21節までをご覧ください。「そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」」

「民を使う監督と人夫がしらたち」とは、エジプト人の監督たちのことです。彼らは出て言き、ファラオが言ったことを、民に伝えました。するとイスラエルの子ら(イスラエルの民のかしらたち)は、ファラオに訴えました。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」彼らは、れんがの生産量が落ちているのは、エジプト人の監督たちの責任であると訴えたのです。

それに対するファラオの回答は、予想外のものでした。17,18節、「ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」それで、イスラエルの子らは気付きました。このような命令を出していたのはエジプト人の監督や人夫がしらたちではなく、ファラオ自身によるものであったことを・・。彼らは、「これは悪いことになった」と思いました。

すると、彼らはどうしたでしょうか。20節と21節をご覧ください。彼らがファラオのところから出て来たとき、彼らを出迎えるために来ていたモーセとアロンにこう言いました。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」つまり、パロがこのような過酷な労働をイスラエル人に強いるのは、モーセとアロンが余計なことを言ってくれたためだと、彼らを責めたのです。モーセとアロンが「解放の約束」を語り始めたばかりに、状況はますます悪くなってしまった。これなら、以前のままの方が良かった、というのです。

ここにイスラエルの民のかしらたちと、モーセやアロンとの考え方に根本的な違いがあったことがわかります。それは、彼らを真に幸福にするものは何であるかという理解の違いです。民のかしらたちは、できるだけ苦しまないことが幸せであると考えていたのに対して、モーセとアロンは、この状態から解放されない限り真の幸福はない、と考えていました。そのことによってイスラエルの民がもっと苛酷な労働が強いられることになりましたが、そのことなしに真の救いはないと考えていたのです。

一般的に人は、今が楽しければよれで良いと考えます。しかし、一時的に苦しむことがあっても根本的な原因を解決しないかぎり、真の救いも幸福もありません。それは、病気の治療と同じです。おできができたとき、いつでも軟膏をはっておくことが最善の治療ではありません。時には痛くても手術をして、悪いうみを出し尽くしてしまわなければなりません。そのような根本的な解決のためには一時的に痛みが伴うことがあります。そして、そのような痛みをもたらす存在を、時として人は恨み、歓迎しない傾向にあるのです。モーセとアロンもそうでした。彼らは根本的な解決を願ってそれを実行に移そうとした瞬間、そうした同胞たちの誤解と、激しい反対に直面したのです。

3.モーセの祈り(22-23)

そこでモーセはどうしたでしょうか。22節と23節です。「それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」」

これはどういうことでしょうか。「主のもとに戻り」というのはシナイ山に戻りということではなく、祈りの中において主に戻ったということです。彼は自分の窮状を主に訴えました。このモーセの祈りには、彼の落胆ぶりが見られます。

これは、私たちクリスチャンもよく味わうものです。なぜこのような苦痛を味わうことになるのでしょうか。その理由は、神がどのように働かれるのを人間の側で決めてしまうからです。イスラエル人たちの人夫かしらたちが落ち込んだのは、神を自分の思い通りに動かそうとしたからです。むしろ彼らは、新たな苦難の中で神がどのように働かれるのを待ち望むべきでした。私たちもまた、神を自分の思い通りに動かそうとしていることはないでしょうか。神はご自身の計画に従って働いておられます。私たちはそれを待ち望まなければならないのです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

神のご計画に従って召してくださった私たちのために、神が働いて最善を成してくださると信じましょう。それが私たちの思いと遠く離れたものであっても、神は完全な計画を持っておられますから、すべてを神にゆだねて、その計画が成されることを待ち望みたいと思います。

出エジプト記4章

きょうは、出エジプト記4章から学びます。まず1~17節までをご覧ください。9節までをお読みします。

 

Ⅰ.今、行け(1-17)

 

「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」主は彼に言われた。「あなたが手に持っているものは何か。」彼は答えた。「杖です。」すると言われた。「それを地に投げよ。」彼はそれを地に投げた。すると、それは蛇になった。モーセはそれから身を引いた。主はモーセに言われた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」 彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは手の中で杖になった。 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを、彼らが信じるためである。」主はまた、彼に言われた。「手を懐に入れよ。」彼は手を懐に入れた。そして出した。なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになっていた。また主は言われた。「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」そこで彼はもう一度、手を懐に入れた。そして懐から出した。なんと、それは再び自分の肉のようになっていた。 「たとえ彼らがあなたを信じず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。もしも彼らがこの二つのしるしを両方とも信じず、あなたの声に聞き従わないなら、ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。あなたがナイル川から汲んだその水は、乾いた地面の上で血となる。」

 

神は、エジプトにいるイスラエルの民を救うためにモーセを遣わそうと召されました。しかし、モーセはいろいろと言い訳をしてそれを断ろうとします。その一つは、「私は、いったい何者なのでしょう。」(3:11)ということでした。自分にはそんな資格はないということでした。エジプトの王子の立場だったらいざ知らず、一介の羊飼いにすぎない自分にはそんな資格などないというものでした。

二つ目の言い訳は、3章13節にありますが、仮にエジプトにいるイスラエルの民のところへ行っても、彼らは自分を認めてくれないだろうというものでした。

「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょう。」(3:13)

つまり、自分には信頼がないということです。しかし、主は、その時は「わたしはある」という者が私をあなたがたのところへ遣わされたと言え、と言われましたが、モーセはその重い腰を上げることができませんでした。

そして、ここに来て彼は、三つ目の言い訳をしています。それは、自分には力がないということです。1節には、「モーセは答えた。「ですが、彼らは私の言うことを信じず、私の声に耳を傾けないでしょう。むしろ、『主はあなたに現れなかった』と言うでしょう。」とあります。なぜモーセはここまで否定的になっているのでしょうか。それは40年前の失敗の記憶から解放されていなかったからです。過去の失敗の記憶に支配されていると、なかなか新しいことに取り組むことができなくなります。モーセが経験していた束縛は、神のことばを否定してしまうほど強いものでした。神は、「彼らはあなたの声に聞き従う。」(3:18)と約束されましたが、その約束さえ信じられないほどだったのです。

 

そのような疑い深いモーセに、神は三つのしるしを与えます。一つは、杖が蛇になるというものでした。主は、「あなたの手に持っているものは何か」と言われました。モーセが「杖です。」と答えると、「それを地に投げよ。」と命じられました。すると、それが蛇になりました。それでモーセは、それから身を引きました。身をひいたというのは、それが本当に蛇になったということです。すると主はモーセに、「手を伸ばして、その尾をつかめ。」と言われた。それで彼が手を伸ばしてそれを握ると、それは彼の手の中で杖になりました。このことは何を表しているのかというと、主はご自分の意のままに何でもできる方であるということです。特に、この蛇はコブラのことですが、これはエジプトの王パロの権威を象徴していました。すなわち、主はパロの権威よりもはるかに偉大であるということを示していたのです。

 

次に、主はモーセに、「手を懐に入れよ。」と言われました。それで彼が手を懐に入れると、なんと、彼の手はツァラアトに冒され、雪のようになってしました。そして再び主が「あなたの手をもう一度懐に入れよ。」と言われたのでそのようにすると、彼の手は元どおりになりました。当時、「ツァラート」は不治の病とされていました。その病をいやすことができる神は、偉大な方です。たとえ彼らが最初のしるしを信じることができなくても、このしるしは信じるでしょう。

 

しかし、彼らがたとえこの二つのしるしの両方とも信じず、モーセの声に聞き従わないなら、もう一つのしるしを行うようにと言われました。それは、「ナイル川の水を汲んで、乾いた地面に注ぎなさい。」(9)というものです。その水は、乾いた地面で血となるというのです。エジプト人にとって、ナイルはいのちの守り神です。そのナイル川の水を血に変えるというのは、モーセの神がエジプトの神よりも偉大であるということを示していました。

 

これだけのしるしが与えられたのであれば、モーセにとってもどれほど心強かったことかと思います。しかし、それでも彼はまだ言い訳を続けます。それは口が重いということでした。10~17節をご覧ください。

「モーセは主に言った。「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」主は彼に言われた。「人に口をつけたのはだれか。だれが口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか。今、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教える。」 すると彼は言った。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう言われた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼が雄弁であることをよく知っている。見よ、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぶだろう。彼に語り、彼の口にことばを置け。わたしはあなたの口とともにあり、また彼の口とともにあって、あなたがたがなすべきことを教える。彼があなたに代わって民に語る。彼があなたにとって口となり、あなたは彼にとって神の代わりとなる。また、あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」」

 

「ああ、わが主よ、私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」これはどういうことでしょうか。これはモーセの最後の言い訳です。でも、こんなのは言い訳になりません。なぜなら、人に口をつけたのは主であられるからです。主が人に口をつけたのであれば、主はその口を用いてくださいます。主がモーセの口とともにあっ、語るべきことを教えると言いましたが、それでも彼の答えはノーでした。「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください。」と言いました。彼はどこまでも否定的でした。こういう人と話していると本当に疲れます。だれにでも、ある程度の恐れや不安はあります。でも何を言っても従おうとしないというのは、最初からやる気がなかったのです。

 

すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がりました。そして、彼の兄アロンを用いると言われました。すなわち、主がモーセに語ったことをアロンに伝え、その語られたことばをモーセに代わってアロンが民に語るというのです。「わたしは彼が雄弁であることをよく知っている」。新改訳第三版では「わたしは彼がよく話すことを知っている」と訳されています。モーセの兄アロンはよく話人でした。口から先に生まれて来たような人でした。彼が口を開くと説得力があるのです。でも神が選ばれたのは弟のモーセでした。ですから神はモーセを通して語られますが、それを民に伝えるのはアロンです。モーセは神のことばをアロンに伝え、アロンはモーセに代わって民に語るのです。アロンがモーセにとって口となり、モーセは彼にとって神の代わりとなるというのです。

 

それでモーセは、ようやく重い腰をあげ神に与えられた使命のために立ちあがります。しかし、その後の出エジプト記の展開をみると、モーセが「私は口が重く、下が重いのです」というのは最初だけで、後になると、彼が直接イスラエルの民に語っているのがわかります。しかも大胆に・・。彼は口べたどころか、饒舌なのです。彼が「私は口べたです」と言ったのは、単に彼がエジプトに行きたくなかったからなのか、自分の弱点を誇張していたのかわかりませんが、そのようなことが私たちもあるのではないでしょうか。私たちも自分に与えられている賜物を過小評価するあまり、いろいろな理由をつけて主に従おうとしないということがあります。できない理由を考えるのではなく、できる理由を考え、いろいろと経験をする中で、どのように主に用いていただけるのかを祈り求めていきたいものです。

 

Ⅱ.エジプトの地へ(18-22)

 

いろいろと言い訳をし、神の召しを断ろうとしたモーセでしたが、ついに神の御声に促されエジプトに向かう決心をします。18節から20節までをご覧ください。

「そこでモーセは行って、しゅうとイテロのもとに帰り、彼に言った。「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」イテロはモーセに言った。「安心して行きなさい。」主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った。」

 

そこでモーセはしゅうとイテロのもとに行き、「どうか私をエジプトにいる同胞のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか、見させてください。」と言いました。ここでモーセは、主の計画の全貌を語っていません。主がエジプトにいる同胞を救うために自分を召されたということにも触れていません。どうしてでしょうか。おそらく、そのことを説明してもイテロには理解ができなかったからでしょう。主が燃える柴の中に現れたとか、杖を投げたら蛇になったとか、手を懐に入れたらツァラートになったと言って説明しても、なかなか分かってもらえるものではありません。そこで彼はエジプトにいる同胞がまだ生きているかどうか、見させてください、と言ったのです。イテロはそれを承諾しました。そして、「安心して行きなさい」と言って、モーセを送り出しました。

 

すると主は、モーセがまだミディアンにいる時に彼に仰せられました。「さあ、エジプトに帰れ。あなたのいのちを取ろうとしていた者は、みな死んだ。」これは、今がその時だということです。なぜモーセのいのちを取ろうとしていた者たちがみな死んだ時が「その時」なのでしょうか。それは、モーセの心から恐れが取り除かれる時だからです。主はそのようにして彼を励ましてくださったのです。そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行きました。手には神の杖を持っていました。この杖は、かつては単なる羊飼いの杖でしたが、今は神の杖となりました。モーセは、この杖で数々のしるしを行うことになります。

 

あなたは神の杖を持っていますか。私たちにとっての神の杖は神のことばである聖書であり、キリストの福音です。信仰を持った瞬間から、聖書は単なる本から「神の本」になるのです。私たちは何も持っていないようでも、すべてを持っています。自分の手にあるものは何かを再確認しなければなりません。

 

21節から23節までをご覧ください。

「主はモーセに言われた。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。しかし、わたしが彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせない。そのとき、あなたはファラオに言わなければならない。主はこう言われる。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」」

 

モーセがエジプトに帰ることを決心すると、主はモーセに言われました。「あなたがエジプトに帰ったら、わたしがあなたの手に授けたすべての不思議を心に留め、それをファラオの前で行え。」これは、これから先にエジプトで起こる事柄です。神に従うと決断してその一歩を踏み出すと、その次が見えてきます。いったいその先に何があるのでしょうか。

まず、モーセは神から与えられた不思議をエジプトの王ファラオの前で行わなければなりません。しかし、主は彼の心を頑なにするので、彼は民を去らせません。その時モーセはファラオにこう言わなければなりません。

「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。」

主はここで、イスラエルを「わたしの子、わたしの長子である」と言われました。イスラエルは神の子であり、神の長子です。これは神とイスラエルの特別な関係を表しています。その関係とは、アブラハム契約に基づく親子関係です。神はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、その子孫であるイスラエルの民を特別に扱われるのです。神はイスラエルを通して全人類を救うというご計画を持っておられました。神の長子、神の初子を苦しめる者は、自らの初子が苦しめることになります。イスラエルを苦しめたエジプトは、やがてその初子という初子は人から家畜に至るまで、すべて殺されることになります。

 

そして、それは神の民であるイスラエルだけではなく、私たちクリスチャンにも言えることです。神は私たちクリスチャンを「神の子」としてくださいました。ヨハネ1章12節には、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」とあります。だれでもキリストを信じ、キリストを受け入れる者は神の子どもです。神との特別な関係に入れていただけるのです。ファラオは心を頑なにするのでなかなかイスラエルの民を行かせようとしませんが、しかし、それはファラオをさらに苦しめるための神のご計画でもありました。同じように、敵である悪魔は、私たちを罪の束縛からなかなか行かせようとしませんが、それは悪魔がさらに苦しむためであって、私たちを苦しめるためではありません。私たちは神の子として神に特別に愛されている者であることをしっかりと覚え、神の時を忍耐して待ち望みましょう。

 

Ⅲ.血の花婿(24-31)

 

最後に24節から31節までを見て終わりたいと思います。24節から26節をご覧ください。

「さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた。そのとき、ツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて言った。「まことに、あなたは私には血の花婿です。」すると、主はモーセを放された。彼女はそのとき、割礼のゆえに「血の花婿」と言ったのである。」

 

ここに不思議な出来事が記されてあります。モーセがエジプトに向かう途中、ある場所で一夜を明かすことになりましたが、その時主がモーセ会い、彼を殺そうとしたのです。どういうことでしょうか。モーセが致命的な病にかかり、死にそうになるのです。しかも、それは主から出たことでした。それを見た妻のツィポラは火打石を取って、自分の息子の包皮を切り取り、モーセの両足に付けて、「まことに、あなたは私には血の花嫁です。」と言うと、主はモーセを解放されました。いったいなぜ神はモーセを殺そうとしたのでしょうか。また、そのことと割礼を施していないことに、どういう関係があったのでしょうか。

 

この出来事が意味していることは明白です。それは、神は割礼を重んじておられるということです。「割礼」とは、神の民のしるしです。神がアブラハムと契約を結ばれた時、イスラエルのすべての男子は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。(創世記17:12)しかしモーセは、2番目の息子に割礼を施していませんでした。なぜなのか、その理由はわかりません。もしかすると、妻のツィポラが嫌ったのかもしれません。この時ツィポラが「まことに、あなたは私には血の花婿です。」と言ったのは、そういう背景があったからと思われます。ですから、もしモーセがアブラハム契約に違反したままでエジプトに下るなら、彼には出エジプトとしてのリーダーとしての資格がないということになります。それで、ツィポラがすかさず息子の包皮を切り取って、モーセの両足につけたのです。するとモーセはその瀕死の状態から解放されました。この後、妻のツィポラと2人の息子はミディアンに送り返されたようです。次にツィポラが登場には18章2節になってからです。割礼を嫌ったツィポラは、神がエジプトで行われる大いなる奇跡の目撃者になれなかったのです。

 

このことからわかることは、人は、神が用意された方法によらなければ救われないということです。それがどんなに自分にとって受け入れられないような事柄であっても、また、自分がどのように思おうと、神が命じられたことを行わなければなりません。そうでないと、神の救いに与れないばかりか、神の祝福に与ることもできないのです。その神の用意された方法とは、イエス・キリストの十字架でした。イエス・キリストは、アブラハム契約の成就としてこの世に来られ、十字架で自らのいのちをささげることによって救いの道を開いてくださいました。十字架以外に人が救われる道はないのです。このイエスを信じることはが、神と新しい契約を結ぶことです。その時、私たちの心に聖霊による割礼が施されます。新約の時代には肉の割礼が重要なのではなく、この心の割礼が重要です。心に割礼を受けているかどうかが問われているのです。

 

パウロはこの真理をガラテヤ6章14~16節でこのように言っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

あなたはどのような基準にしたがって進んでいますか。この基準にしたがって進む人々こそ神のイスラエルです。そのような人々の上にこそ、平安とあわれみがあるのです。

 

最後に27節から31節を見て終わります。

「さて、主はアロンに言われた。「荒野に行って、モーセに会え。」彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。モーセは、自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、彼に命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。それからモーセとアロンは行って、イスラエルの子らの長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行った。民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」

 

一方、主はアロンに現われて言われました。「荒野に行って、モーセに会え。」すると彼は行って、神の山ホレブでモーセに会いました。実に40年ぶりの再会です。モーセはこれまでの経緯をすべてアロンに告げまた。そして、二人が行ってイスラエルの長老たちをみな集めると、主がモーセに語られたことばをみなアロンが民に語り、民の前でしるしを行いました。すると、民は主が言われたとおり信じました。イスラエルの民はモーセが主から遣わされた人として認めたのです。主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて主を礼拝しました。主は決して彼らをお見捨てになりませんでした。400年という長い間苦しんできましたが、主が顧みてくださる時が来たのです。主は、あなたのことも忘れてはおられません。必ず顧みてくださいます。そして、その解決のために手を差し伸べてくださいます。それを待ち望みましょう。

出エジプト記3章

きょうは、出エジプト記3章から学びます。まず1~6節までをご覧ください。

 

Ⅰ.燃える柴(1-6)

 

「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。モーセは思った。「近寄って、この大いなる光景を見よう。なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。彼は「はい、ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。」

 

モーセがミディアンの荒野に導かれて40年が経っていました。モーセは、ファラオの娘の子としてエジプトの宮廷で育ちましたが、イスラエル人を救おうと思いエジプト人を殺したことによって、エジプトから逃げミディアン人の地に来ました。その時、ここに書かれているイテロに出会い、その娘の一人チッポラと結婚したことで、イテロの羊を飼う仕事をしながら40年を過ごしていたのです。エジプトから逃げてきたのが40歳ですから、既に80歳になっていました。イスラエル人たちをエジプトから救い出すための計画は、完全に頓挫したかのように見えていました。しかし、神の側ではそうではなく、彼らを救い出すための計画は着々と進められていました。その最大の準備は、指導者であるモーセを訓練し、そのために彼を召し出すことでした。

 

1節をご覧ください。ここに、「モーセは、ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。」とあります。しゅうとの「イテロ」は、2章では「レウエル」という名前で登場していました(2:18)。意味は「神の友」です。「イテロ」というのはタイトルで、「レウエル」が固有名詞です。モーセは、彼のしゅうとイテロの羊を飼っていました。この「飼っていた」というのは「常に飼っていた」ということで、彼がこれを仕事としていたことです。このような荒野での羊飼いとしての経験が、後に二百万人とも言われるイスラエルの民をエジプトから救い出し、40年にもわたる荒野での生活を送る際に生かされることになります。本当に神の成さることに無駄なことはありません。ミディアンの荒野で羊を飼いながら神について思い巡らし、エジプトにいる同胞イスラエル人のことを考えたりしながら、その時を待っていたのです。

 

ある日のことです。彼は羊の群れを追って、神の山ホレブにやって来ました。「ホレブ」とは山脈で、シナイ山はその山脈にある一つの山です。しかし、聖書の中に「ホレブ」とある時、それは「シナイ山」のことを指していると考えて差し支えありません。彼はそこで後に十戒を受けることになります。そこには豊かな緑があったのでしょう。シナイ半島は乾燥した地域ですが、家畜を飼う程度の草木は育ちます。あちこちに生えていた柴は、羊ややぎの餌になりました。その柴の茂みが燃えているのを見ました。空気が乾燥しているので、柴が自然に燃えるというのは決して珍しいことではありませんでした。しかし、彼が見たのは火で燃えているのに燃え尽きない柴でした。それは、エジプトで苦しめられていたイスラエルの民がその圧迫の中にあっても、滅びてしまうことがないことを表していました。それは今日に至るまでのイスラエルの姿でもあります。また、それはクリスチャンの姿でもあります。キリストの教会も、燃える柴の性質が与えられています。どんなに迫害されても滅びることはありません。むしろ、その中で成長し続けてきました。

 

その燃える柴の中に主の使いが現れました。旧約聖書で「主の使い」という言葉が出てくる時は、受肉前のキリストを指しています。ですから、この主の使いは4節で「主」(ヤハウェ)とあり、また「神」(エロヒム)と呼ばれています。ですから、主の使いが燃える柴の中に現れたというのは、主の臨在を象徴していました。

モーセは、柴が燃えているのに、その柴が燃え尽きていなかったのを見て、なぜ燃え尽きないのだろうと、近寄って、その大いなる光景を見ようと思いました。すると主は、モーセが横切って見に来るのをご覧になり、柴の中から彼の名を呼ばれました。彼が「はい、ここにおります。」と答えると、神は仰せられました。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」  どういうことでしょうか。この「聖なる」という言葉の本来の意味は、分離されているということです。それはこの世と分離されているということです。神はこの世とは全く分離しており、決して交わることのない方です。それが「聖」であるということなのです。ですから、汚れたままで近づくことはできませんでした。履き物を脱がなければならなかったのです。神に近づく者は聖でなければならないということです。なぜなら、神は聖なる方だからです。このことは聖書の中に何回も繰り返して言われています。たとえば、レビ記11章45節にこうあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」」

ここには、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない、とあります。同様の教えがⅠペテロ1章13~16節にもあります。また、Ⅱコリント6章14~18節にも、「それゆえ、彼らから出て生き、彼らから離れよ。主は言われる。汚れたものに触れてはならない。そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、あなたがたの父となり、あなたがはわたしの息子、娘となる。」とあります。

ですから、「あなたの履き物を脱げ」というのは、この世の汚れから離れ、神に全く献身することを表していました。聖なる神の前に自分自身を完全に明け渡すようにという意味です。このように神に近づくためには、まず自分自身を神に明け渡さなければなりません。

 

また、ここには「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とあります。これはどういうことかというと、神は契約の神であるということです。そして、モーセの先祖と交わされた契約を決して忘れず、それを忠実に行われる方であるという意味です。神はかつてアブラハム、イサク、ヤコブと契約したとおりに、彼らを約束の地に導かれると言われました。それは人間的には不可能なことです。しかし、神にはどんなことでもできます。神は契約の神であり、約束されたことを必ず実現される方なのです。そして、その契約を果たすために、神は今モーセに現われてくださったのです。

 

それに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは顔を隠しました。神を仰ぎ見ることを恐れたからです。なぜでしょうか。以前の彼であれば堂々と立ちあがったことでしょう。しかし、彼はミディアンに逃れ、その荒野での長きにわたる生活の中で、そうした自信を全く失っていました。

Ⅱ.モーセの召命(7-12)

 

次に7節から12節までをご覧ください。

「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、追い立てる者たちの前での彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、その地から、広く良い地、乳と蜜の流れる地に、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる場所に、彼らを導き上るためである。今、見よ、イスラエルの子らの叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプト人が彼らを虐げている有様を見た。今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」 モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」」

 

主は、エジプトにいるイスラエルの民ことを決して忘れておられませんでした。むしろ、その悩みを見、彼らの叫びを聞き、痛みを知っておられました。そして彼らの叫びが主に届いたとき、主は彼らを救うためにその御業を始められました。モーセを彼らの所へ遣わし、彼らをエジプトから連れ出すようにと命じられたのです。

それに対してモーセは何と言ったでしょうか。11節をご覧ください。

「モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」  これはどういうことでしょうか。モーセはここで、神の召命に対して断っています。それはなぜかというと、ここに、「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」とあります。つまり、自分にはその資格がないということでした。エジプトの王子であった時はいざ知らず、今は無名の羊飼いです。ファラオは最高の権威を持って、軍隊を率いています。杖1本しか持っていない自分に、いったい何にができるというのでしょう。たとえエジプトに行ったとしても、イスラエル人が私を受け入れてくれるはずがありません。40年前でさえ自分を拒否した人がいるのです。行っても無駄なことです。そのような思いが、モーセの頭の中を巡ったのです。

 

それに対する神の回答はどんなものだったでしょうか。12節をご覧ください。「神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」

ミディアンの荒野における40年間の生活は、確かにモーセのプライドが砕かれ、自分にできること

は何もないということを知るために大切な時でした。しかし、彼はまだ学んでいないことがありました。それは、神がともにいるなら、自分にその資格があるかどうかは関係ないということです。「これが、あなたがたのためのしるしである。」とは、神がともにいるというしるしのことです。そのしるしは何でしょうか。それは、「あなたがこの民をエジプトから導きだすとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない」ということです。つまり、神の山ホレブで神を礼拝するようになるということです。神の山ホレブは、エジプトからカナンの地への途上にはありません。しかし、イスラエルの民はこのシナイ山で神を礼拝するようになるというのです。

 

あれっ?しるしとは、証拠としての奇跡のことです。ここでは「神がともにいる」ということの証拠としての奇跡であるはずなのですが、そのしるしは、イスラエルがエジプトを出てカナンに向かう時に与えられるというのは不思議です。神がともにいるというしるしがあってこそ信仰によって行動ができるのですから、このように後で示されるのではしるしになりません。

実は、これは「歴史的しるし」と呼ばれるものです。目の前に起こるいやしや不思議だけがしるしなのではありません。神の存在を証明する最大のしるしは、歴史そのものです。特に、イスラエルの歴史を学ぶなら、そこにある確かな神のしるしを見て、まだ起こっていないことも、必ず起こると確信できるようになります。ですから、モーセはまだしるしを見てはいませんでしたが、歴史の中でこのしるしが与えられた時に、もっと深く神の臨在を確信するようになったでしょう。

 

Ⅲ.わたしはあるというものである(13-22)

 

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。案の定、13節を見ると、彼はまた自分にはできないという言い訳を並べます。

「モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」」

 

モーセの次の言い訳は何でしょうか。それは、たとえ自分がイスラエルの民のところへ行っても、イスラエルの民は受け入れてくれないだろう、というものでした。「あなたがたの父祖の神が、あなたがたのものに私を遣わされた」と言えば、彼らは、「その名は何か」と聞くでしょう。そのとき、自分は彼らに何と答えたらいいのか、というのです。

おそらく彼の中には、かつての出来事がトラウマになっていたのではないかと思います。同胞へブル人が言い争っていたときその仲裁に入った彼は、仲間の一人から「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」(2:14)と言われました。だから、またエジプトに行って彼らを連れ出すと言ったら、彼らから何と言われるかわからないというのです。その時に問題になるのが、「その名は何か」ということです。イスラエルの民は、いつも神に叫んでいたので、神のことを知っていました。彼らは、神は働きの段階に応じて新しい御名を啓示されると思っていました。ですから、イスラエルをエジプトから救い出してくれる神の名は何かと聞かれたら何と答えたらいのかと尋ねているのです。

 

14節をご覧ください。「神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」」

何ですか、「わたしはある」という者である・・とは。これは神の本質を啓示する御名です。これは、神は存在の根源であり、他の何ものにも依存せず存在している自存の神であるということ、よって、いかなる限界もない神であるということです。その方があなたを遣わすというのです。

モーセがこの神のご性質について本当によく知るのならば、もはや何も恐れるものはないはずです。なぜなら、この方は創造主であり、すべてのものの存在の根源であられるからです。ローマ8章31節には「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とありますが、だれも敵対することなどできません。

 

この「わたしはある」という名前ですが、これはイエス・キリストに対して用いられたことばでもあります。イエス様は「わたしはある」という主の御名を、いろいろな形で示されました。「わたしはいのちである。」「わたしは光である。」「わたしは救いである。」「わたしは道である。」というようにです。そして、ユダヤ人には、「アブラハムが生まれる前から、わたしはある。」と答えられました(ヨハネ8:58)。永遠に存在されている方としての主(ヤハウェ)の御名を、ユダヤ人の前でお使いになられたのです。そして、これが永遠にわたる主なる神の御名です。「わたしはある」という主なる神が、モーセを遣わされるのです。

 

次に、主はモーセがエジプトに行ってどのような手順でそれを行ったら良いかを、事細かに説明されました。16~18節をご覧ください。

「行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。だからわたしは、あなたがたをエジプトでの苦しみから解放して、カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地へ、乳と蜜の流れる地へ導き上ると言ったのである」と。』彼らはあなたの声に聞き従う。あなたはイスラエルの長老たちと一緒にエジプトの王のところに行き、彼にこう言え。『ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。』」

モーセはまず、エジプトにいるイスラエルの長老たちの所へ行き、主がこれから何をなさろうとしているのかを告げなければなりませんでした。彼らは、モーセの声に聞き従うでしょう。そしたら、今度は彼らと一緒にエジプトの王ファラオのもとに行き、「ヘブル人の神、主が私たちにお会いくださいました。今、どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。」と言わなければなりませんでした。これは最低限の要求です。もしこれに応じないなら、何を提案しても無駄です。

 

さて、それに対してエジプトの王はどうするでしょう。主なる神はそのことも事前に知ってモーセに告げます。そして、それに対してどのように対処したら良いかを知らせるのです。19~22節です。

「しかし、エジプトの王は強いられなければあなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。その後で、彼はあなたがたを去らせる。わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたが出て行くとき、何も持たずに出て行くことはない。女はみな、近所の女、および自分の家に身を寄せている女に、銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなさい。こうしてあなたがたは、エジプト人からはぎ取りなさい。」

事はそう簡単には進みません。モーセがイスラエルの民の長老たちと一緒にエジプトの王のところへ行き、自分たちを行かせよと要求しても、エジプトの王はそう易々と行かせるようなことはしません。そこで神はご自分の手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打ちます。その後で、彼はイスラエルを行かせるようにするのです。そればかりではありません。彼らがエジプトを出て行く時には、何も持たずに出て行ってはならないと命じました。すなわち、近所の女や身を寄せている女から銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求め、それを、自分の息子や娘の身に着けさせなければなりませんでした。どうしてこのようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、そのようにしてはぎ取った財産で、後に幕屋を建設するためです。そのために必要になります。神は、その後のこともすべてご存知であられ、そのための備えをしておられたのです。

私たちの神は大いなる神です。「わたしはある」というお方です。その神を見上げて、この方からいつも新しい力をいただきましょう。

出エジプト記2章

きょうは、出エジプト記2章から学びます。前回は、ヨセフのことを知らない新しいエジプトの王ファラオが、イスラエルの民が増え広がるのを恐れ、彼らに過酷な労働をさせたことを学びました。しかし、苦しめられれば苦しめられるほど、イスラエルの民はますます増え広がったので、どうにも手に負えませんでした。そこで彼は、ヘブル人の助産婦に、ヘブル人の女に分娩させるとき、もしも男の子なら殺すようにと命じましたが、神を恐れていた助産婦たちは、たとえファラオにそのように命じられてもそれに従わず、ただ神に従いました。殺さないで残しておいたのです。そこでファラオは、すべての民にこのように命じました。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 

  1. 奇しい神のみわざ(1-10)

 

まず、1節から3節までをご覧ください。

「さて、レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいいのを見て、三か月間その子を隠しておいた。しかし、それ以上隠しきれなくなり、その子のためにパピルスのかごを取り、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイル川の岸の葦の茂みの中に置いた。」(1-3)

 

レビの家のある人が結婚すると、妻は身ごもって男の子を産みました。その子の両親の名は、父がアムラム、母がヨケベデです(出エジプト6:20)。彼らは、この子をナイル川に投げ込まなければなりませんでしたが、できませんでした。それで、彼らはその子を三か月間隠しておきました。ヘブル11章23節には、それが信仰によってなされたと言われています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。」(ヘブル11:23)ここには、彼らがその子を隠したのはただかわいいという理由だけでなく、王の命令を恐れなかったからである、とあります。つまり、それは信仰によることだったのです。彼らは王の命令を恐れなかったのです。このように、信仰とは人を恐れないことで、神だけを恐れることです。そして、このように神を恐れて生きる人には、不思議な神のみわざが現れます。3節をご覧ください。

 

しかし、三か月が経った頃、もう隠しきれなくなると、その子をパピルス製のかごに入れ、それに瀝青と樹脂を塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置きました。赤ちゃんの泣き声が外に聞こえるのでもう隠しきれなくなったのでしょう。瀝青と樹脂を塗ったのは防水加工をするためです。防水加工をして水がかごの中に入らないようにして、それをナイル川の岸の葦の茂みの中に入れたのです。なぜそんなことをしたのでしょうか?そんなことをしたからといっていったい何が期待できるというのでしょうか。何も期待などできません。でも、もしかしたら、情け深い人の手によって救われるかもしれないと思ったのでしょう。いずれにせよ、彼女はすべてを神の御手にゆだね、ナイルの茂みに置いたのです。ここに彼女のバランスのとれた信仰を学ぶことができます。隠せる間は努力して隠しました。しかし、自分の限界を超えた事柄については、神の摂理にゆだねたのです。

 

するとどうなったでしょうか。4~10節までをご覧ください。

「その子の姉は、その子がどうなるかと思って、離れたところに立っていた。すると、ファラオの娘が水浴びをしようとナイルに下りて来た。侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みの中にそのかごがあるのを見つけ、召使いの女を遣わして取って来させた。それを開けて、見ると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をかわいそうに思い、言った。「これはヘブル人の子どもです。」その子の姉はファラオの娘に言った。「私が行って、あなた様にヘブル人の中から乳母を一人呼んで参りましょうか。あなた様に代わって、その子に乳を飲ませるために。」ファラオの娘が「行って来ておくれ」と言ったので、少女は行き、その子の母を呼んで来た。ファラオの娘は母親に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私が賃金を払いましょう。」それで彼女はその子を引き取って、乳を飲ませた。その子が大きくなったとき、母はその子をファラオの娘のもとに連れて行き、その子は王女の息子になった。王女はその子をモーセと名づけた。彼女は「水の中から、私がこの子を引き出したから」と言った。」

 

その子には姉がいました。15章20節を見ると、ミリアムという名の女性です。後に女預言者となります。モーセが生まれたとき、彼女は13歳でした。お母さんから、弟がどうなるか見て来てくれと頼まれたのでしょう。彼女は、離れたところから見ていました。すると、なんとファラオの娘が水浴びをしようとナイル川に下りて来ました。このファラオの娘は、トトメスⅠ世の娘ハトシェプストという人がではないかと考えられています。それにしても、その子がナイルに流されたちょうどその時に、彼女が水浴びをしようとナイルに下りてきたというのはものすごいタイミングです。その確率はあり得ないほど低いものですが、それは決して偶然ではありません。神がそのように導いていてくださったのです。人の目には一見偶然のように思える事柄の中にも、神が働いておられるのです。

 

ファラオの娘は、葦の茂みの中からそのかごを見つけると、召使いを遣わして取って来させました。そして、そのかごを開けて、中を見ると、そこに男の赤ちゃんが泣いていました。彼女はその子をかわいそうに思い、「これはきっとへブル人の子どもです。」と言いました。へブル人とエジプト人の割礼の方法が異なっていたので、それがへブル人の子どもであることがすぐにわかったのです。

 

すると、それを離れたところから見ていたその子の姉がファラオの娘に近づき、こう言いました。「あなた様に代わって、その子に乳をのませるために、私が行って、へブル人の中から乳母を呼んで参りましょうか。」これもすごいタイミングですよね。その子の姉がその様子を見ていなかったら、このように言うことはではなかったでしょう。でも離れた所からずっと見ていたので、「今だ」という時に、このように言うことができたのです。

すると、ファラオの娘が、「行って来ておくれ」と言ったので、彼女は行き、その子の母親を呼んで来ました。それで、その子の母親は息子を取り戻せただけでなく、賃金までもらって乳を飲ませることができたのです。こうしてモーセは、ファラオの娘の特別な保護のもと、実の母親の手によって、公然と育てることが許されました。こんなことってありますか?本当に不思議なことです。その子は、このような不思議な神の御手によって大きく成長していきました。その子の名は「モーセ」です。モーセが大きくなったとき母親は彼をファラオの娘のもとに連れて行き、その子はファラオの息子になりました。これはどういうことでしょうか?これは、彼がエジプトの王女の息子としてエジプトで最高の学問を身につけることができたということです。それは彼が後にイスラエルをエジプトから解放するために大きく用いられたことになります。皮肉にもエジプトの王子として受けた教育が、後にエジプトからイスラエルを解放するために用いられることになるのです。

そればかりではありません。彼がへブル人の実の母親の元で育てられたことで、彼はへブル人としての自覚を失いませんでした。彼が実母によって育てられた期間は彼が5歳くらいになるまでであったろうと思われますが、この時期にへブル人としての自覚とイスラエルの神についての概念を、しっかり確立することができたのです。

ここに幼児教育の重要性を見ることができます。その時期にどのような環境の中で育つかは、その人のその後の人格形成と信仰の形成に大きな影響をもたらします。鮭が生まれたところに戻るように、人は幼い頃に受けた環境に戻ります。「モーセ」という名前は、「引き出された者」という意味です。彼は水の中から引き出されただけでなく、後にイスラエルをエジプトから引き出すために用いられる人物になるのです。

 

2.ミディアンの地に逃れたモーセ(11-15)

 

次に、11節から15節までをご覧ください。

「こうして日がたち、モーセは大人になった。彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た。そして、自分の同胞であるヘブル人の一人を、一人のエジプト人が打っているのを見た。彼はあたりを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めた。次の日、また外に出てみると、見よ、二人のヘブル人が争っていた。モーセは、悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言った。彼は言った。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知られたのだと思った。ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜した。しかし、モーセはファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に着き、井戸の傍らに座った。」

 

こうして日がたち、モーセが大人になった頃、一つの事件が起こります。彼が同胞のところに行ってみると、彼らが苦役に服しているのを見ました。そして、自分の同胞を一人のエジプト人が打っているのを見ると、彼はあたりを見回し、そこにだれもいないのを確認して、そのエジプト人を殺し、砂の中に埋めたのです。なぜ彼はこんなことをしたのでしょうか。彼はへブル人としての自覚を失っていませんでした。ですから、同胞のへブル人が苦しめられているのを見た時、黙っていられなかったのです。使徒7章23節には、「モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。」とあります。彼にはもともとそのようなタイプの人間でした。しかも、それが同胞のへブル人であったので、何とか助けてやりたいと思ったのでしょう。

しかし、ここに一つの誤解がありました。彼は自分がエジプトで高い地位についている者だから彼らを救い出すことができると思っていたことです。しかし、救ってくださるのはあくまでも神であって彼ではありません。そのことが次の事件で明らかになります。

 

次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っていました。そこで彼は悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言うと、その人はこう言いました。「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」彼は、神が自分をへブル人の解放者として選んでいると思っていたのに、同胞のへブル人はそのように認めていまいばかりか、彼がエジプト人を殺したことをファラオに密告したのです。それでモーセはファラオが自分を殺そうとしているのを知り、ファラオのもとから逃れ、ミディアンの地に行ったのです。

 

このことについて、ステパノはこのように言っています。使徒7章23~29節です。

「モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。そして、同胞の一人が虐待されているのを見て、その人をかばい、エジプト人を打ち殺して、ひどい目にあっていた人のために仕返しをしました。モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。 翌日、モーセは同胞たちが争っているところに現れ、和解させようとして言いました。『あなたがたは兄弟だ。どうして互いに傷つけ合うのか。』すると、隣人を傷つけていた者が、モーセを押しのけながら言いました。『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。昨日エジプト人を殺したように、私も殺すつもりか。』このことばを聞いたモーセは逃げて、ミディアンの地で寄留者となり、そこで男の子を二人もうけました。」

 

モーセは、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしていることをみんなが理解していると思っていましたが、実際はそうではありませんでした。むしろ、そのことに反発していたのです。その表れが、あの同胞の「だれがおまえを・・・」という言葉だったのです。彼は、自分の手によって神が同胞に救いを与えてくれると思い、また皆もそのことを理解してくれるものと思っていましたが、実際はそのように思っていたのは自分だけでした。このようなことがよくありますね。みんなもそう思っていると思っていたら全然違っていたということが。全くの誤解です。そもそも自分の力では無理なのです。イエス様は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)と言われましたが、私たちは、イエス様を離れては何もすることができないのです。それなに、自分の力で何とかしなければならないと思ってしまったことが、彼の大きな間違いだったのです。

 

それで彼はミディアンの地へと逃れて行くわけですが、それは、彼がこのことを学ぶために必要な期間でした。それは四十年にわたる神による準備と訓練の時でしたが、この霊的訓練の時を経て、彼は本当の意味で神に用いられ器となっていきます。それは、神の方法によって彼らを救い出すことはできないということです。

 

私たちはここから学ばなければなりません。神の時、神の方法によらなければ、いかに信仰的な行為であっても、真の祝福をもたらすものとはならないということです。自分にとって神の時はいつなのか、神の方法とはどのようなものなのかを黙想してみましょう。

 

3.ミディアンの地で(16-25)

 

ミディアンの地に逃れたモーセはどうなったでしょうか。16節から23節までをご覧ください。

「さて、ミディアンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちは父の羊の群れに水を飲ませに来て、水を汲み、水ぶねに満たしていた。そのとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。するとモーセは立ち上がって、娘たちを助けてやり、羊の群れに水を飲ませた。彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうして今日はこんなに早く帰って来たのか。」娘たちは答えた。「一人のエジプト人が、私たちを羊飼いたちの手から助けてくれました。そのうえ、その人は私たちのために水汲みまでして、羊の群れに飲ませてくれました。」父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」モーセは心を決めて、この人のところに住むことにした。そこで、その人は娘のツィポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。モーセはその子をゲルショムと名づけた。「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。」

 

このミディアンの地がどこなのかは正確にはわかりません。おそらくシナイ半島の南東地域だと思われます。ミディアン人の祭司ですが、彼の名はレウエル(2:18)、またはイテロと言います(3:1)。ミディアン人は、アブラハムの子どもの一人です。サラが亡くなった後、アブラハムはケトラというもうひとりの妻をめとりましたが、その間に産まれたのがミディアンです(創世記25:2)。ですから、ミディアン人はイスラエル人と血のつながりを持っていたのではないかと考えられます。そして、「レウエル」とは、「神の友」とか、「神の羊飼い」という意味です。古代のセムの神「エル」に仕えていたことを示しています。ですから、彼はまことの神を礼拝していた祭司だったのでしょう。そういうところに神はモーセを導かれましたというのも、また不思議なことです。

 

モーセは、そこの井戸のかたわらに腰を下ろしていました。するとそこへミディアン人の祭司の娘たちが、羊に水をやるためにやって来ました。ところが、他の羊飼いたちがやって来て、彼女たちを追い払いました。せっかく汲み上げた水を彼女たちから取り上げて、自分たちの羊に飲ませようとしていたのです。そこでモーセは彼女たちを助けてやり、彼女たちの羊の群れに水を飲ませてやりました。この小さな親切が、この地の祭司であったレウエルとその家族に近づけさせることになります。

娘たちが家に帰ってから、このことを父に告げると、父は、「その人はどこにいるのか。どうして、その人を置いてきてしまったのか。食事を差し上げたいので、その人を呼んで来なさい。」と言ったので、モーセは心を決めて、この人のところに住むようにしました.ただ住むようになっただけではありません。ツィポラという娘を嫁としてもらいました。そして、子供も生まれると、その子の名前を「ゲルショム」と名付けました。それは、「私は異国にいる寄留者だ。」という意味です。これはどういうことかというと、このように名づけることによって、彼は自分がミディアン人ではなくヘブル人であることを証していたのです。

 

こうしてモーセは、ミディアン人の地に住むことになりました。80歳になるまで、40年間、この地で羊飼いをすることになるのです。モーセは「神の友」レウエルのもとで、エジプトでは得られなかった内面の修行を積むことになるのです。彼は同胞からも、約束の地からも遠く離れて生活せざるを得ませんでしたが、そのような所で彼は、主のみこころに全く従うことを学んだのです。

 

23節から25節までをご覧ください。

「それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの子らをご覧になった。神は彼らをみこころに留められた。」

 

それから何年もたって、エジプトの王が死にました。彼はイスラエル人をひどく苦しめました。彼らが重い労働にうめき、泣き叫んだとき、その叫びが神に届きました。神は彼らの嘆きを聞かれると、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。そして、神は彼らをみこころを留められました。

 

ここにすばらしい約束があります。イスラエル人はヤコブを通して神から語られてからずっと、400年以上も神からの語りかけを受けていませんでした。神の祝福どころか、ひどい苦しみの中に置かれていました。もう神から見捨てられたのではないかと思っていたでしょうか。しかし、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らがうめき、泣き叫ぶその声を聞いておられたのです。そして、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を決して忘れておられませんでした。そして、神は先祖たちに与えられた約束を、この世代のイスラエル人によって実現しようとされたのです。そうです、イスラエルを約束の地に再び連れ上るという約束です(創世記45:3-4)。

 

私たちにも、同じです。神は私たちに永遠のいのちを約束してくださいました。私たちはその約束を待ち望み、それが実現するのを期待しています。けれども、この世ではその約束とは反対の、うめきや苦しみの中で叫ばずにはいられない状況に置かれるがあります。敵である悪魔がほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜しながら、歩き回っているのです。その中で私たちは「神は本当におられるんですか」と疑ったたり、嘆いたりしますが、神は私たちの嘆きを聞き、みこころに留めておられるのです。そして、その約束の実現のために、今も働いておられるのです。

 

このエジプトでのイスラエルの叫びは、この世におけるキリスト者の叫びでもあります。しかし、神は私たちの叫びを聞き、私たちをみこころに留めておられます。イスラエルをエジプトから救い出したように、私たちを罪から救ってくださいます。それがイエス・キリストです。神はこのキリストによって私たちとともにいてくださいます。私たちの嘆きと叫びを聞き、そこから救ってくださいます。この神の約束を信じ、神に力を与えていただきながら、与えられた信仰の道を歩ませていただきましょう。

出エジプト記1章

今日から、出エジプト記を学んでいきたいと思います。きょうは、1章から学びます。

Ⅰ.エジプトで増え広がったイスラエル(1-7)

まず、1節から7節までをご覧ください。

「さて、ヤコブとともに、それぞれ自分の家族を連れてエジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブの腰から生まれ出た者の総数は七十名であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。それから、ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。」

この出エジプト記の原題は、へブル語では「ウェエーレ・シェモース」となっています。意味は、「さて、名は次のとおりである。」です。つまり、この1節の初めの言葉が、そのまま表題になっているのです。これを書いたモーセは、創世記と出エジプト記を別々の話としてではなく、創世記の続きとして書いたということす。それは、私たちが創世記で学んだ、ヤコブの家族がエジプトに下ってきた所から始まります。

ヤコブとともに、エジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は、「ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。」です。その総数は、全部で七十名でした。それから、ヨセフも兄弟たちも、またその時代の人々もみな死にました。ヤコブがエジプトに下ってから四百年くらい経っていたのです。その頃、イスラエルはどのようになっていたのでしょうか。

7節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは多くの子を生んで、群れ広がり、増えて非常に強くなった。こうしてその地は彼らで満ちた。」とあります。

神は、ヨセフがいなくなった後も、イスラエルとの約束を守ってくださいました。イスラエルがカナンの地を出てエジプトに下られる時、神はヤコブに何と仰せられたでしょうか。創世記46章3-4節にはこうあります。

「すると神は仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民とする。このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る。そしてヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれるだろう。」

この約束のとおり、神は、ヤコブがエジプトに下った後もずっと彼らを守り、彼らをその地で大いなる国民としてくださいました。この約束は、もともとヤコブの父イサクに、そしてイサクの父アブラハムに約束されていたことです。神はアブラハムに、「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。」(創世記12:1-2)と約束してくださいました。

ヤコブも、ヨセフも、自分たちが生きている間、子沢山に恵まれました。けれども、彼らがいなくなったら神の時代が過ぎ去ったのかというと、そうではなく、神は続けて生きて働いておられました。

私たちはとかく自分の頭の中で時代を区分して考えがちです。アブラハムの時代は神が働いておられたが今は時代は違うとか、キリストの時代は宗教の時代だったが、今は違う、というようにです。しかし時代がどんなに変わっても、神の約束は決して変わることはありません。神はいつの時代も働いておられ、その約束を果たしてくださるのです。

Ⅱ.エジプトの王パロの恐怖(8-14)

次に、8節から14節までをご覧ください。10節までをお読みします。

「やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」」

「やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった」とあります。ヨセフの時代のエジプトの王は、イスラエルの家族に対して非常によくしてくれました。ヨセフのゆえにエジプト全土が祝福されているのを見て、彼をエジプトの第二の地位にまで就けました。それは、神が彼と共におられることをよく知っていたからです。

ところが、ヨセフのことを知らない新しい王が起こると、彼はエジプトの民に言いました。「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」新しい王にとってイスラエルの存在は、脅威でしかなかったのです。この新しい王とは、エジプト史上最大の帝国を築いたと言われているトトメス1世(Thutmose III,在位:紀元前1504-B.C.1450)です。この王がモーセの命を狙っていた王です。そして、その後の王が、出エジプトの時のパロアメンホテプ2世(Amenhotep II, 在位:紀元前1453年-1419年)です。

この時期、エジプトは絶頂期を迎えていましたが、それは少なからず、へブル人の働きによるものでした。それでパロは、彼らにイスラエルに出て行ってもらいたくないという思惑があったのです。エジプトの王は、それは神が彼らと共におられるからであることを知りませんでした。神が、彼らのゆえに、エジプト全体を祝福してくださったことを知らなかったのです。そこでパロ(ファラオ)はどうしたでしょうか?

「そこで、彼らを重い労役で苦しめようと、彼らの上に役務の監督を任命した。また、ファラオのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになった。」(11-12)

ピトムとラメセスは、かつてパロがヨセフを通してヤコブの家族に与えた、ナイル下流東部にあるゴシェンの地の中にあります。しかし、苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので、人々はイスラエルの子らに恐怖を抱くようになりました。

これは神を信じる人々の恵みです。これがキリストを信じて歩む私たちクリスチャンの姿でもあります。私たちは、イエス・キリストを信じこの方についていく決断をしたときから、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔の攻撃を受けます。キリストの教会がいのちを持ち始めると、必ずその働きを止めさせようとする動きが起こるのです。しかし、どんなに反対や迫害が起こっても、教会はかえって強められ、神の御業が大きく前進するのです。それは使徒の働きを見ればわかります。また、現在も、中国の地下教会の成長を見ても明らかです

私は2年前に中国に行き、家の教会に起こっている神の働きを実際に見る機会がありましたが、中国は新たな指導者のもとで家の教会ばかりでなく、政府公認教会の十字架も破壊されたりと、当局からの締め付けが年々厳しくなっています。そのような中でもクリスチャンは減少していくところか、ますます増え広がっているのです。彼らは口をそろえてこう言います。「それはむしろ神の恵みです」と。聖書にそう書いてある・・と。神の働きは、人々の反対によって阻まれるものではありません。むしろ、迫害されればされるほど、ますます成長するのです。ある人はこう言いました、「殉教者は教会の種である」。

300年前にフランスの哲学者で、啓蒙思想家であったヴォルテールは、理神論の立場から教会を批判し、その人生の多くの時間をキリスト教批判に注ぎ、「50年後にはキリスト教を抹消する」と言いましたが、何と、彼の家が聖書を印刷する場所になりました。

それは、ヨセフの生涯も同じでした。彼は兄たちの陰謀でエジプトに売られて行きましたが、そのことによっても、ますます彼は祝福されて行き、やがてエジプトの第二位の地位に就くことができたばかりか、かつて見た夢の実現を見るのです。

それで、エジプト人は、イスラエルをどうしたでしょうか。「それでエジプト人は、イスラエルの子らに過酷な労働を課し、漆喰やれんが作りの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、彼らに課す過酷なすべての労働で、彼らの生活を苦しいものにした。」(13-14)

神の働きに対して、さらに反対を強めました。しかし、そのことによって、彼らは呪いを受けることになります。なぜなら、神は、アブラハムを祝福する者を祝福し、アブラハムをのろう者をのろわれるからです。

Ⅲ.パロの命令(15-22)

それで、パロはどうしたでしょうか。15節から22節までをご覧ください。「 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに命じた。一人の名はシフラ、もう一人の名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはしないで、男の子を生かしておいた。そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼んで言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」助産婦たちはファラオに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違います。彼女たちは元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」神はこの助産婦たちに良くしてくださった。そのため、この民は増えて非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。ファラオは自分のすべての民に次のように命じた。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」」

パロは、初めはイスラエル人を何とか自分の手中で取り扱おうという程度の悪意でしたが、自分の手に負えないことが分かると、ヘブル人の助産婦たちに、もし男の子が生まれてきたら殺し、女の子なら、生かしておくように、と命じました。しかし、助産婦たちは神を恐れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておきました。

すばらしいですね、ここに「神を恐れ」とあります。私たちは、他の誰にも見られていなくても、一般には「これは行っても良いよ」と言われたとしても、「これはしてはいけないことではないか。」という良心があります。助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王の命令には従いませんでした。

そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言いました。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」すると、助産婦たちはこのようにパロに答えました。「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違います。彼女たちは元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

これが本当のことかどうかは分かりません。もしかすると、わざとゆっくり行くようにし、病室に行ってみたらもう赤ちゃんが生まれていた、というようにしていたのかもしれません。しかし、神はこのことで、この助産婦たちによくしてくださいました。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなったのです。

すると、パロはすべてのエジプトの民にこう命じました。「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」(1:22)

ついにパロは、狂気の沙汰になってしまいました。この「すべての民」とはエジプト人のことです。この箇所は、ヘブル人もエジプト人も男の子はすべてナイル川に投げ込まれなければいけない、という意味にも取れますが、そうではなく、エジプト国民すべてに対して、ヘブル人の男の子を見つけたらナイル川に投げ込みなさい、という命令です。つまり、これまでは五人組のような監視制度を設けたということです。互いに監視して、連帯責任とし、通告しなければ罰するようにしたのです。

けれども、出エジプト記の話を先に進めると、パロはエジプト軍と共に紅海の水の中で溺れ死ぬ運命を辿ります。イスラエルの民を水の中で殺すという呪いを与えたので、自分たちが水の中で溺れ死ぬことになってしまいました。まさに、「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」(創世記12:3)です。わたしはという呪いを受けたのです。

ここから、神の「贖い」の計画が始まっていきます。私たちは、創世記において、神の祝福の約束について学びました。神がアダムとともにおられた、あの祝福を私たちが受けることができるという約束です。そのために、神はアブラハムを召し出し、彼の子孫からこの祝福を与えるように計画を立てられたのです。

 

その約束は、イサク、ヤコブに引き継がれました。けれども、ヤコブの時代に彼の家族は、ヨセフのいるエジプトへと下って行きました。その祝福は、カナンの地を所有して多くの子孫が与えられるというものでしたが、彼らはエジプトに下って行かなければなりませんでした。

 

しかし、それは一つの大きな神のご計画が実現されるためでもあったのです。それは、彼に苦難を与えるためでした。神はただ単にイスラエルを祝福されるのではなく、まず彼らが苦しむのを許され、その苦しみから彼らを救い出し、その後で彼らを祝福されるというものだったのです。

 

でも、なぜ、神はそのようなことをわざわざされたのでしょうか。イザヤ書43章10節には、神はイスラエルに、「あなたがたは、わたしの証人」であると言われました。私たちがイスラエルを見るとき、神がどのような方であるか、また、神が何をなされるのかがわかります。アダムの子孫である人間は、神から引き離され、のろいの下にいましたが、神は、女の子孫から出るキリストによって人類を救い出し、ご自分の祝福に置かれようとされたのです。

 

これが、神の贖いの計画です。それゆえ、神の証人であるイスラエルは、まず苦しみを受けなければなりません。それは彼らがそれによって滅んでしまうためではなく、罪の中に苦しんでいる人をどのように救ってくださるのかを知るためでした。

私たちが、出エジプト記を通してイスラエルのたどった道を読むとき、神がどのように私たちを贖われるかを見ることができるのです。