イザヤ2:1-22 レジュメ  

「鼻で息をする人間をたよりにするな」             N04

はじめに

イザヤ書には、イスラエルの神への反逆とそれに対する神のさばき、そして回復の約束というパターンが何度も繰り返して出てくる。きょうの箇所は回復の希望から語られている。

Ⅰ.主の光を歩もう(1-5) 

「終わりの日」とは、キリストが再臨した後にもたらされる千年王国のこと。その時、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。なぜ?そこにキリストが立たれるからである。キリストが再臨してシオンに立たれ、そこでご自分の道を、主のみことばを教えてくださる。ゆえに、多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。」と。私たちも主の山に上らなければならない。主の光に歩まなければならない。私たちにとっての最優先事項は、主のみおしえを聞いて、その小道を歩むことなのである。

Ⅱ.主だけが高められる(6-21)

この主の招きに対してイスラエルはどのように応答したか?彼らはペリシテのように占いに走り、金銀を求め、馬や戦車にたよった。それゆえに神は、彼らをさばかれる。主は彼らに激しいさばきを行われるので、彼らは岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになる。こうして高慢な者が低くされ、主おひとりだけが高められるのである。なぜこの世において神の栄光が見えづらくなっているのか?神にではなく占いに、富に、人間に、偶像にたよっているからである。こうしたことはみな人間の高慢から出ていることである。このような高慢を神は砕かれる。そういう時がやって来るのである。

.鼻で息をする人間をたよりにするな(22 

ではどうしたらいいのか?イザヤの結論はこうである。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」人間は本当にはかない。少しでも息を止めればすぐに死んでしまう。そのような人間をたよりにしてはならない。これは戦いである。私たちは人のことばを聞いて安心するところがあるからだ。特に日本人はそのような傾向が強い。神様のことばよりも人のことばを信頼してしまう。人に期待してしまうのである。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われると極端に落ち込んでしまうのである。しかし、大切なのは人が何を言っているかではなく、神のみことばは何と言っているかだ。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければならない。

かつて神様はモーセに、「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)と言われた。主は自存の神である。永遠から永遠まで他の何にも依存することなく存在し、万物を統べ治めておられる方である。この方だけが真にたよることができる方なのである。

 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは主のみおしえを求めて主の山に上っていますか?主のみことばを聞くことよりも、この世のことを優先して走り回ってはいませんか?

・「高慢な者は低くされ」とあります。あなたにとっての高慢はどのような点ですか?謙遜な心で兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者とみなしていますか?

・あなたは神だけにたよっていますか?それとも、鼻で息をする人間にたよってはいませんか?神だけにたよるためにあなたが克服しなければならないことは何ですか?

イザヤ1:21-31 レジュメ

「初めのようにされる神」                   N03

はじめに

イスラエルは、神に背を向けて離れ去ってしまった。その結果、彼らは、頭から足の先まですっかり弱り果てた。そんなイスラエルに神は、和解の道を示される。それは、彼らが悔い改めて、神に立ち返るなら、彼らの罪は赦され、雪のように白くなるという約束である。きょうの箇所には、神の回復のシナリオ(計画)が描かれている。

Ⅰ.遊女になった忠信の都(21-23) 

ここで神はイスラエル(エルサレム)を「忠信の都」と呼んでいる。「忠信」とは、まごころを尽くし、うそ偽りがないこと。イスラエルはもともと神にとって忠信の都であったのに、遊女となってしまった。神から与えられた契約に背き、不純になり、偶像に心を移すようになったのである。ちょうど銀がかなかすに、良い酒を水で割ったように・・。その結果彼らは、盗人の仲間となり、わいろを愛し、報酬を追い求めるようになってしまった。イエス様は、塩が塩気を無くしたら、何の役にも立たない、と言われた。(マタイ5:13)クリスチャンが召されるとは、キリストの花嫁として誠実であること。そうでないと目の前に置かれてものをだけを追い求めるようになってしまう。そしてそこから堕落と破滅と混乱が生じるようになる。だれも二人の主人に仕えることはできない。神にも仕え、富にも仕えることはできないのである。 

Ⅱ.忠信の都の回復(24-27)

そのような反逆を、神は必ず罰せられる。がしかし、そのように罰せられるのは彼らを滅ぼすためではない。彼らから不純物(かなかす、浮きかす)を取り除いて、彼らを回復させるためである。こうして彼らを初めのように、昔のようにする。これは終末に起こる大患難時代の預言である。この苦しみの中で彼らはかなかすが灰汁のように溶かされ、浮きかすが取り除かれる。つまり、不信仰が取り除かれ、主イエス・キリストを信じるようになるのである。同じように、私たちの人生にも試練が襲ってくることがあるが、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちを練りきよめるためである。神は私たちを愛し、私たちを救いたいので、このような試練を与えて警告しておられるのである。ゆえに、いまは、しばらく間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないこともあるが、これがやがてイエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉に至るためのものであることを信じて、耐え忍ぶ者でありたい。神様は真実な方なので、耐えることができないような試練には会わせない。むしろ耐えることができるように、試練とともに、脱出の道を備えておられるのである。 

.忠信の都となるために(28-30

ではどうしたらよいのか。だから悔い改めなければならない。悔い改めないと神のさばきが臨む。しぼんだ樫の木のように、水のない園のようになってしまう。神様は忠信の都を回復させようとしておられる。そのために私たちは悔い改めて、神に立ち返ることが求められているのである。悔い改める者は、正義によって贖われるからである。 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、キリストの花嫁として誠実に信仰を守っていますか?だれも、二人の主人に仕えることはできません。(マタイ6:24)あなたのもう一人の主人は何ですか?

・あなたから取り除かれなければならない不純物は何でしょうか?そのために神はどのような試練を与えておられますか?あなたは自分の人生のすべてにおいて、神様があなたのために働いておられることを認めていますか?

イザヤ1:10-20 レジュメ 

「雪のように白く」                     N02

はじめに

イザヤは、神に反逆を重ねるイスラエル(ユダ)に対して叱責のメッセージを語ることから始めた。それはすべての問題の根源が神との関係にあるからだ。しかし、叱責のメッセージだけではない。彼は、そのような罪を赦して余りあるほどの神の恵みについても語った。

Ⅰ.聞き従うことはいけにえにまさる(10-17) 

神はイスラエルを「ソドムの首領たち」とか、「ゴモラの民」と呼んだ。それほどに彼らの信仰は退廃していたからである。彼らは多くいけにえをささげていたが、それはただ形だけのものであった。神が求めていたものは信仰である。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Iサムエル15:22) 

Ⅱ.雪のように白く(18)

そんな形だけの信仰であったイスラエルだが、神は和解の道を提示された。それは悔い改めである。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くする。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにする。」人の心はどれほど罪深いものか。パウロはローマ人への手紙の中で詩篇のことばを引用して次のように語った。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある者はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益なものとなった。善を行う人はいない。ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。彼らのくちびるの下には、まむし毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(3:10-18)

それほど罪に汚れた人間であっても、もし悔い改めるなら、神はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる。(Iヨハネ1:9)これが福音である。 

.だから悔い改めて(19-20 

だから悔い改めなければならない。悔い改めて、救い主イエスを信じなければならないのである。もし悔い改めて主が喜ばれる道を歩むなら、主はその人を祝福してくださる。もし拒むなら、剣にのみこまれる。選択は二つに一つしかない。真ん中はない。すべては私たちの選択にかかっているのである。生まれながらの人間はなかなか神の前に出ようとしない。自分の力、自分の努力で間に合わせようとするのだ。しかし、人間の力では天まで届くことはない。ただ神が与えてくださった救い主イエスを信じることによってのみ、罪が赦されるのである。 

まとめ(自分に適用してみましょう!) 

・あなたは、神に聞き従う信仰がありますか?あなたが陥りやすい形式的な信仰の行いは何ですか。その原因を神との関係に見出していますか?

・神の前で悔い改めるべき罪がありますか?「雪のように白くする」という神の約束を受け入れていますか?

・ 犠牲が伴っても、従順の道、祝福の道を歩もうと決意していますか?

イザヤ1:1-9 レジュメ

「まず主に立ち返ることから」                                                        No1

はじめに

イザヤとは「主は救いである」という意味。イザヤはウジヤ王の死んだ年(B.C.739)~ヒゼキヤ王の統治期間が終わった年(B.C.687)までの53年間預言活動をした。危機的な状況にあっても真の救いは主であることを語った。

Ⅰ.神に背を向けたイスラエル(2-4) 

イザヤのメッセージは神の懲らしめから。神によってご自分の民として選ばれたイスラエルは、神に逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っているのに、イスラエルは知らなかった。悟らなかった。人生のすべての問題は、人生の究極的な目標である神から離れていることから起こる。まず神との関係の修復から始めていかなければならない。そうでないと、すべてが応急処置に終始してしまうことになる。 

Ⅱ.弱り果てたイスラエル(5-8)

神から離れてしまったイスラエルはどうなったか?頭も心臓も弱り果て、足の裏から頭のてっぺんまで病気になった。健全なところは何一つなく、すべてが傷と、打ち傷だらけになってしまった。しかもだれにも治療してもらえない。また他国の破滅にも似たように荒れ果ててしまった。あたかもぶどう畑の小屋のように、キュウリ畑の小屋のように・・。ちょっとでも雨風にさらされたらすぐに壊れてしまうビニールハウスのように、弱り果て、荒れ果ててしまった。 

.残されたイスラエル(9

そのような中にも主は、残りの者を残してくださった。彼らが完全に滅びるようにはされなかったのである。アッシリヤやバビロンといった国々はそうではなかった。彼らは神にさばかれて完全に破滅した。しかし、イスラエルはそうではなかった。残りの者を残しておられたのである。それは主のあわれみによる。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)大切なのは数ではなく信仰。私たちの中に神が認めてくれる信仰があるかどうか、神のみこころに従って歩んでいるかどうかである。どんなことがあっても神様の賜物と召命とは変わることはない。 

まとめ(自分に適用してみましょう!)

・あなたは今、神様とどのような関係にあるでしょうか。神様から離れてはいませんか?もし離れていたら悔い改めて、主に立ち返りましょう。

・主はラオデキヤの教会に、「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった。乏しいものは何もないと言って、実は自分はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)と言われました。あなたにとって乏しいものがあるとしたらどんなことでしょうか?

・ あなたの中に数に慰めを求めようとしていることはありませんか?大切なのは数ではなく神に認められる信仰があるかどうかです。あなたの信仰は神に認められる信仰でしょうか。どうしてそのように思いますか?