レビ記17章

このレビ記は、大きく分けると二つに分けられます。前半部分は1章から16章までのところで、ここには、神に近づくにはどうしたらいいかについて書かれてあります。そして、聖なる神に近づくためには、罪を贖ういけにえが求められました。いけにえをもってのみ近づくことができるのです。そのことについてのさまざまな規定が記されてありました。

そして後半部分はというと、この17章から始まります。17章から終わりまでのところに、今度に神に近づけられた者はどのように歩まなければならないのか、が語られます。つまり、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」という言葉の具体的な生き方が示されるわけです。

そしてきょうの部分は、その導入部分となります。イスラエルは神のものとされたわけですから、彼らはこの世の汚れから離れなければなりません。どのようにして、この世の汚れから離れることができるでしょうか。

1.  たった一つの唯一の道(1-9)

まず、1-7節までを見ていきましょう。「ついではモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。が命じて仰せられたことは次のとおりである。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、の幕屋の前にへのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、に持って来て、への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にあるの祭壇に注ぎかけ、その脂肪をへのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。」

これはどういうことでしょうか?私たちはこれまで神に近づくためには、牛や羊、またやぎといった動物をいけにえとしてささげなければならないということを見てきました。にもかかわらず、ここでは、そうした牛や羊ややぎを主の幕屋の前に、主へささげものとしてささげない場合、つまり、これらの家畜を祭壇に持ってくるのではなく、それ以外のところに持っていく場合、その人は罰せられる、と言われています。なぜこのように命じられているのでしょうか。5節、6節をご覧ください。それは、彼らがそうしたいけにえを主のもとに持って来るため、主への和解のいけにえとして、それらを主にささげるためです。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするためです。

いったい、そうしたいけにえを主のもとに持っていかないというようなケースがあったのでしょうか。ありました。彼らは自分勝手に動物をほふり、そして偶像礼拝をしていたのです。7節に、「彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。」とあります。やぎの偶像と淫行をしていたというのは偶像礼拝のことです。彼らは主にいけにえをささげるためではなく、自分たちが偶像礼拝をするために勝手に動物をほふっていたのです。しかし、いけにえは主への和解のいけにえとして、主のもとに持って来なければなりませでした。主にささげなければならないのです。5節には、そのことが強調されています。「主に持って来て、主への和解のいけにえとして、主への祭壇に注ぎかけ、主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため・・・」と、何回も何回も、主ご自身にお会いするためにいけにえを持って来ることが強調されているのです。イスラエルは自分がよかれという方法によって神を礼拝するのではなく、神がお定めになった方法によってのみ、神に近づくことができるのであって、神を自分に合わせようとするのではなく、自分が神に合わせるようにしなければならないのです。

このようなことは、私たちにもあるのではないでしょうか。自分では神に従っているようでも、結局のところ、自分が神となっている場合があります。自分が神に会わせているのではなく、自分の考えの信仰、自分勝手な歩みになっている時があるのです。そうではなく、あくまでも私たちが神に合わせなければなりません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです(ローマ12:2)。それは、礼拝も同じです。私たちに与えられている礼拝も、一つしかありません。それは、イエス・キリストを通してささげられなければならないということです。イエス・キリストを通してしてなされた救いのみわざを認め、これを受け入れ、この方を礼拝することです。イエスさまは、「わたしは道です。真理です。命です。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われました。祭壇はまさに、主が私たちの罪のために血を流され、死なれたところです。この方を通してでなければ、私たちは決して礼拝を行うことはできないし、したとしても、自分勝手な、独りよがりの礼拝になってしまいます。教会は、ただ一つの目的であるイエス・キリストとその救いのみわざを思い出し、この方を通して神を礼拝しなければならないのです。

それは、和解のいけにえだけではありません。8節と9節を見ると、和解のいけにえだけでなく、全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげる場合も同じであることが語られています。それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られます。つまり、簡単にいうと地獄に行くということです。主イエス以外に神に近づこうとするならば、どのような宗教的な行為を行ったとしても、その人は滅ぼされることになってしまうのです。私たちが救われ、神に近づく唯一の道は、主イエス・キリスト以外にはないのです。

2.  血を食べてはならない(10-13)

次に10節から16節までをご覧ください。10節には、「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔を背け、その者をその民の間から断つ。」とあります。異邦人の中には動物の血を食べたり、飲んだりする習慣がありました。しかし、神の民であるイスラエル人はどんな血でも食べることが禁じられました。なぜでしょうか?11節を見てください。ここには、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」とあります。つまり、その第一の理由は、肉のいのちは血の中にあるからです。血はいのちを表すものであり、いのちの源であるからです。

第二の理由は、血はいのちであって、人間のいのちを贖う手段として用いられるものだからです。ヘブル9:22には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。特に贖いに関しては、「祭壇の上で」なされるとき、神は動物の血を、人のいのちとして認められるのです。人はそのいのちを贖われなければならない罪人です。ですから、その罪を贖うために用いられる血を食べてはならないのです。つまり、血は、神との交わりのためにのみ用いられるものだからであって、祭壇に注がれ、神と民とを一つにするための贖いのために用いられるものだからなのです。3:17と7:26にも、脂肪とともに血を食べることの禁止が教えられていたのです。

この尊いいのちが犠牲となって私たちが神に受け入れられるようになるということは、いかに偉大なことであるかがわかると思います。ものすごく大きな代償が支払われて私たちの罪が贖われるのです。動物がほふられたとき、神はその動物を粗末に扱われていたのではなく、むしろ高価で尊いものと考えておられ、そのいのちがほふられることを何よりも悲しんでおられたのは神ご自身であられました。けれども、私たちをご自分のみもとに引き寄せるために、そのことを切に願っておられた主は、動物が血を流すことを選ばれたのです。しかし、神は動物ではなく、ご自身のひとり子のいのちを犠牲にされました。いのちはみな尊いのですが、御子のいのちほどに高価で貴いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることによって、私たちの罪が完全に贖われるために、あえてそのようにされたのです。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Iペテロ1:18-19)

それゆえに、神はイスラエル人に、だれでも血を食べてはならない、と命じられたのです。血を食べるということは、いのちを取るということに他なりません。また、血による贖いをないがしろにすることになるのです。ヘブル10:29-30には、御子の血をないがしろにすることについて、次のように警告されています。

「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。」

ですから、血を食べるということは主の血を踏みつけ、ないがしろにすることなのです。私たちが、ことさらに罪を犯し続けることによって、主の血をないがしろにすることがあります。また、自分の行いか功績かによって救われようとして、主の血をないがしろにすることがあるのです。その一方でイエス様は、ご自分の肉を食べ、ご自分を血を飲むようにと言われました。ヨハネ6:53-56です。

「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」

私たちが食べ、私たちが飲まなければならないのは、主の肉であり、主の血潮です。まさに聖餐式にあずかるというのは、このことを表しているのです。聖餐式とは主ご自身の血を飲み、肉を食べることであり、キリストのいのちにあずかることなのです。ですから、血を食べてはならないと言われたことの意味は、主のいのちにあって生きるべきであるということであり、主の血とからだに対して罪を犯してはならないということなのです。

彼らの中の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を捕らえるなら、その者はその血を注ぎだし、それを土でおおわなければなりませんでした。

3.自然に死んだものを食べるなら(14-16)

でも、自然に死んだものとか、野獣にひき殺されたものについてはどうでしょうか。生きた獣はいのちがあるので、その血はいのちであることが分かります。しかし、死んだ獣の場合はどうなるのでしょうか。血を注ぎ出しても、もともと死んでいる獣を食べるときは、その人は汚れます。罪に問われることはありませんが、汚れるのです。ですから、水を浴びなければなりません。その衣服を洗わず、その身に水を浴びなければ、その者は自分の咎を負わなければならないのです。血によってきよめられているのですが、水の洗いがなければ、罪ある者となってしまうのです。これはどういうことかというと、私たちは主の血潮によってきよめられた者ですが、みことばによる水の洗いがなければ、罪ある者となっしまうということです。つまり、主イエスの血によってきよめられた者でも、日々の歩みの中で汚れてしまうことがあれば、みことばを読み、それを心に蓄え、聖霊の促しに答えて悔い改めることがなければ、咎を負ってしまうことになるということです。Iヨハネ1:9には、

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

とあります。私たちの日々の歩みにおいては、この悔い改めを通して、聖霊の洗いを受けなければなりません。日々のきよめが必要なのです。イエス様の尊い血によって罪から救い出された私たちは、その血によって歩み続けること。それが求められているのです。これが、神が私たちのきよめのために求めておられる道なのです。

レビ記16章

きょうはレビ記16章全体から学びたいと思います。ここには、イスラエルの例祭の一つである「贖罪の日」の規定について記されてあります。例祭とは毎年恒例として行われているお祭りのことです。イスラエルには七つの例祭がありますが、その一つがこの「贖罪の日」です。これはヘブル語で「ヨム・キプール」と言います。「ヨム」とは「日」のこと、「キプール」とは「贖罪」という意味です。この贖罪の日は祭日ではありますが祝日ではありません。普通祭日というと何かをお祝いするというイメージがありますが、この贖罪の日はそれとは逆で、苦しみを体験する日です。29節には「身を戒めなければならない」とありますが、身を戒めるとは断食のこと。祭日に断食することなどありませんが、この贖罪の日には断食します。具体的には五つの自己否定をもって苦しみを体験すると言われています。(1.飲み食いをしない。2.風呂に入らない。風呂は体に心地よいことなので、そうした心地よい事を避けるという意味で。3.体に油を塗らない。4.革靴やサンダルを履かない。贅沢品を避けるという意味で。5.夫婦関係を持たない。そのため部屋のカーテンはオープンにし、寝室にはろうそくの明かりを灯した。)それは、私たちの罪をきよめるために、神が贖いをしてくださったから。そのことを覚えて身を戒めるのである。

1.  垂れ幕の内側の聖所に入って(1~2節)

それではまず第一に、1~10節までにあるいけにえの準備について見ていきたい。1節と2をご覧いただきたい。

「1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らがに近づいてそのために死んで後、はモーセに告げられた。
2 はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

アロンのふたりの子の死とは、レビ記10章で起こったアロンのふたりの子ナダブとアビブの死のことである。彼らは異なった火をささげたために神に打たれて死んだ。異なった火をささげたとはどういうことか?2節をみると、ここに「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。」とあることから、おそらく、この二人の息子は、大祭司である父親のアロンしかできないことを、自分たちの手でやろうとしたのではないかと考えられる。大祭司アロンにしかできないこととは、垂れ幕の内側の聖所に入ることである。それは至聖所のことで、ここには大祭司が年に一度、この贖罪の日にしか入ることができなかったのに、彼らはその至聖所に勝手に入って行った。いったいなぜ彼らはこんな勝手なことをしたのか?それは自分たちに栄光が帰されることを求めたからだである。10章3節には、「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す」とあるが、その栄光を自分によって現したいと思ったのであろう。おそらく、この二人は、主の前から火が出てきたことを見てこれはすばらしいと思い、自分たちもそれをまねて、火を出してみせようと思ったのだろう。自分によって、そうした偉大なことができると思ったのだ。彼らは自分たちに栄光が帰せられることを求めたのである。しかし、それは罪である。栄光は主のものであって、祭司はその主に仕える者にすぎない。したがって、祭司の務めは主の栄光を現わすことである。自分の栄光ではない。主に栄光が帰せられることを求めなければならない。なのに、彼らは自分たちの栄光を求めたので、神のさばきの火が彼らを焼き尽くしたのである。

これは主に仕える祭司が注意しなければならないことである。祭司は主の栄光が現されるために、命じられたとおりに仕えなければならない。この務めに慣れてくると、いつしか自分の栄光を求めようとする誘惑が生じる。しかし、祭司は自分の栄光などどうでもいいことであって、ただ神に栄光が帰せられることを求めていかなければならない。そのために必要なことは、かってな時に垂れ幕の内側に入り、「贖いのふた」の前に行ってはならないということ。そこに行くことができるのは大祭司だけであり、しかも年に一度贖罪の日だけに限られていた。そこで大祭司は主と会見する。どこで会うのかということが2節にある。「贖いのふた」の上の雲の中に現れる。このような特権は大祭司のみに許されている。しかもその大祭司でさえも、そのためにちゃんと備えていなければ死ぬこともある。

このようなことを申し上げると恐ろしい感じもするが、しかし私たちは恐れる必要はない。なぜなら、私たちはもうすでにこの至聖所の中にいるのだから。まことの大祭司であられるイエス・キリストが贖罪のみわざを成し遂げてくださったので、そのみわざを信じることによって、私たちは大胆にこのこの垂れ幕の内側の聖所に入ることができるようになった。このことがヘブル人への手紙9章11~12節に記されてある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

この箇所を見ると、この幕屋というのは天国の模型であったことがわかる。実体は天国である。そしてこの贖罪の日になされることは大祭司が至聖所に入って、罪の贖いをすること。その大祭司とはイエス・キリストを現していた。キリストは偉大な大祭司として父なる神が座しておられるまことの至聖所に入り、罪の贖いをされた。しかもやぎや小羊といった動物の血によってではなく、ご自分の血を携えていかれた。やぎや小羊の血でさえも人々の罪をきよめることができるとするならば、神の子であられるキリストの流された血はどんなにか私たちの良心をきよめることができるだろう。完全にきよめることができる。私たちはこのキリストの血によってきよめられたので、大胆に至聖所の神の前に出ることができるようになった。それゆえ私たちはこのイスラエルの大祭司と同じ特権に与っている。いや、それ以上の特権に与っている。それ以上のというのは、イスラエルの大祭司は年に一度しか入ることが許されていなかったが、私たちはいつでも、どこでも、神の前に入っていくことが許されている。これはほんとうに大きな特権ではないだろうか。

2.  聖所に入るために(3~10)

次に、3~10節までを見ていただきたい。ここには、大祭司はどのようにして聖所に入らなければならなかったのかが記されてある。その準備についてである。

「3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、
4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。
5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
7 二頭のやぎを取り、それをの前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじはのため、一つのくじはアザゼルのためとする。
9 アロンは、のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

彼はまず、自分と自分の家族のために贖いをしなければならなかった。そのために必要であったのが若い雄牛であり、また全焼のいけにえとしての雄羊であった。それをいけにえとして携えて行かなければならなかった。その後で、イスラエルのためのいけにえをささげる。なぜなら、彼はこれから至聖所に入って行かなければならなかったから。彼自身に罪があれば、滅ぼされてしまうことになる。民のために罪の贖いをするためには、まず自分自身が全き者として神の前に出なければならなかったのである。

このことはと゜んなことを表していたのかというと、キリストの罪なき姿である。偉大な大祭司であられたキリストが、神と人との仲介者であられる主が他の人々の罪の贖いをするためには、キリスト自身の中に罪があってはならなかった。もし罪があれば自分自身のために血を流さなければならないということになり、私たちに代わって罪を贖うことができないことになる。それゆえ、キリストは聖霊によって身ごもり、処女マリヤからお生まれになられた。それは、キリストはアダムが犯した罪の性質を受け継いでおられないということであり、初めから罪の性質を持っていなかったことを示している。キリストは私たちと同じような肉体を持ってお生まれになられ、あらゆる誘惑を受けられたが、けれども罪は犯されなかった。それゆえ彼は私たちの罪を贖うことがおできになられたのである。

次に大祭司は衣服を着替えた。いつもの栄光と美を現していたエポデを脱ぎ捨てた。その代わりに亜麻布を身にまとった。長服も、飾り帯も、かぶり物もすべて亜麻布であった。いったいなぜ衣服を着替えなければならなかったのか。それは、イエスが天におられた栄光をかなぐり捨てて、私たちと同じような肉体を取られて卑しくなられたことを意味していたから。ピリピ2章6~8節には、「6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」とある。

そして次に、イスラエルの民のために罪の贖いをする。そのために必要なのは二頭のやぎ。一頭はいつものようにほふり、その血をアロンが至聖所に携えていく。しかしもう一頭は、生きたままにしておく。これはあとで荒野に放たれる。これは罪が赦されることだけを意味しているのではなく、荒野に放たれたやぎによって、罪が取り除かれたことを表すため。キリストが行われた贖罪は、私たちの罪を大目に見るということではなく、私たちの罪が全くないようにみなすということ。罪は覆われたのではなく、全く取り除かれ、どこかに追いやられ、吹き飛んで行ったということ。このアザゼルのやぎは、そのことを表していた。

3.  贖罪(11~19)

次に11~19節を見ていただきたい。ここには、実際に罪の贖いがどのように行われたのかが記されてある。11~14節にはこうある。

「11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。
12 の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
13 その香をの前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。
14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。」

いけにえは、外庭の青銅の祭壇でほふられた。そこにあった炭火を火皿に入れ、かおりの高い香を取って聖所に入る。そしてその香を炭火に入れて焚き、煙にして垂れ幕の内側、すなわち、至聖所に入る。これは何を表しているかというと、彼自身の罪が祭壇で贖われたことを祈りをもって、神に伝える行為である。

それから彼は雄牛の血を取り、指で「贖いのふた」の東側に振りかけ、また指で七たびその血を「贖いのふた」の前に振りかける。これが「血によるきよめ」である。この「贖いのふた」はギリシャ語では「なだめの備え物」と訳されている。神の怒りのすべてがそこで完全になだめられる、ということ。この贖いのふたの前で血が振りかけられたというのは、私たちの罪に対する神の怒りが、この血にあって完全に贖われたということを意味している。

「15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。
17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。
18 の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。
19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。」

アロンは、今度はイスラエルの民のためにも、同じように罪の贖いをする。彼は、罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を至聖所に持って行き、雄牛の血をしたようにこの血もする。すなわち、贖いのふたの上と前に振りかける。それだけでなく彼は、イスラエル人の汚れと、そのそむきの罪のために、聖所の贖いもする。残りの血は、外庭にある祭壇の角に塗り、祭壇の上にも振りかけられた。このようにして、イスラエルの罪の贖いが成し遂げられた。

このようにして大祭司アロンは自分の罪とイスラエルの民の罪の贖いをした。そして、これと同じように、私たちの大祭司であられるキリストも同じようにして罪を贖う。しかし、違うことは、こうした雄牛ややぎの血が彼らの罪を贖うことができたのならば、神の血によって成された贖いはどれだけ私たちの罪をきよめることができるかということである。完全にきよめることができるということだ。

先程もみたが、ヘブル人への手紙9章11~14節にはこのようにある。

「11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

ここでのポイントは、もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることか、ということ。キリストの血は、私たちの罪を完全に贖い、その良心を完全にきよめることができるのである。

4.  アザゼルのやぎ(20~28)

さて、それではもう一匹のやぎについて見ていこう。すなわち、生きているアザゼルのやぎである。20~28節にこうある。

「20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪があっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
22 そのやぎは、かれらのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く、彼はそのやぎを荒野に放つ。
23 アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。
24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。
25 罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。
26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。
27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。」

20節の「生きているやぎ」とはアザゼルのこと。アロンは生きているそのやぎの頭の上に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、それがどんな罪であっても、これを全部その上に告白して、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。

これはいったいどういうことか?このヤギは英語で「スケープゴート」と言う。民衆の不平や憎悪を他にそらすための身代わりとして使われる言葉である。すべてのイスラエルの罪を背負って荒野に放たれることからそのように使われているのだと考えられる。けれどもヘブル語の「アザエル」というのは身代わりというよりも「出て行く」とか「追放される」、「取り除く」という意味がある。イスラエルのすべての罪を背負い、出ていくという意味。このやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へと出て行く。罪が遠くに追いやられたのである。もう戻ってくることはない。完全に追いやられる。つまり、主が贖罪の日に意図していたことはただ単に罪を覆い隠すということではなく、罪を取り除くこと。永遠の贖い(ヘブル9:12)のことである。キリストが成された贖いはこの永遠の贖いである。キリストがただ一度、血を流されたことによって、過去、現在、未来のすべての罪が贖われた。

「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」(イザヤ43:25)

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:34)

私たちの過去の罪が赦されただけではない。私たちの一切の罪が赦された。あなたの罪は一切ない。取り除かれた。もちろん、私たちはまた罪を犯す。けれども、そのことによって神と私たちの関係は変わらない。ただ、神の赦しを、悔い改めをもって受け入れるにしか過ぎないのである。

それから大祭司は会見の天幕に入り、以前身につけていた大祭司の装束を身につけた。それはキリストが死の中にとどまっているのではなく、よみがえられたことを表している。よみがえられただけでなく、天に昇られた。その栄光の姿、神の栄光を再び受けられる。アザエルのやぎを放った者はその汚れを負ったため、宿営に入るには水の洗いをする。それはアザエルだけではない。罪のためのいけにえの雄牛ややぎの、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものも、宿営の外で火で焼かなければならなかった。

5.  全き安息(29~34)

最後に29~34節を見て終わりたい。29節には、第七の月の十日には、「身を戒めなければならない」とある。これは普通、断食と解釈される。断食とは、罪を悔い改める、その嘆きを表している。なぜ身を戒めなければならないのか。なぜなら、この日に、彼らの罪がきよめられるために、贖いがなされたからである。であればうれしいはずなのになぜ嘆きなのか?それは、そのために彼らは自分たちがヤーウェなる神、イエス・キリストを突き刺したことを知るからです。(ゼカリヤ12:10)

そして、この日は全き安息の日となる。なぜ?なぜなら、キリストが一切の罪を取り除いてくださった、贖いの完成を示しているから。キリストは永遠の贖いを成し遂げてくださったので、もうこれ以上、私たちが救われるためにしなければならないことは何もない。すでに贖いは完成した。これ以上、なにもすることはない。私たちにできることは、そのような贖いを成し遂げてくださった主のみわざに感謝し、賛美すること。そして、喜んで主に仕えること。自分の義を達成するためにこれらのことを行うのではなく、すでに達成されたから行う。そして、大胆に恵みの御座に近づくことができるのである。ヘブル4章16節には、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とある。神様は私たちに、おりにかなった助けを与えようとしておられる。そのために、私たちは恵みの御座に近づかなければならない。私たちにはそれができる。なぜなら、まことの大祭司であられるイエスが、罪の贖いを成し遂げてくださったから。だから、「こんな自分なんて」とか、「全く罪に汚れた自分は」などと言って縮こまるのではなく、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づかなければならない。

レビ記15章

きょうはレビ記15章から学びたいと思います。私たちはこれまで、汚れたものときよいものとの区別について学んできました。それは食物の規定から始まり、出産によって出てくる血による汚れ、さらにツァラアトによる汚れと続きました。そしてこの15章には、男女の漏出物について教えられています。

 

1.  漏出物がある場合(1-12)

まず1節から12節までをご覧ください。2節には、「だれでも、隠しどころに漏出物がある場合、その漏出物は汚れている。」とあります。この隠しどころにある漏出物は何でしょうか?16節には「精を漏らした時には・・・」とありますから、これは精液の漏出とは区別されたものであることがわかります。

新共同訳聖書ではここを、「もし、尿道による炎症による漏出があるならば、その人は汚れている。漏出による汚れは以下のとおりである。尿道から膿が出ている場合と尿道にたまっている場合、以上が汚れである。」と訳して、性病の一種である淋病(りんびょう)の症状と似ていることから、この病気のことではないかと考えているようです。淋病とは「淋」という字からもわかるように、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現していますが、それと同じように、尿道の強い炎症のために尿の勢いが低下し、排尿がポタポタと漏れていた症状を現しているのではないかというのです。創造訳聖書ではこれを「男性の性器から病的な漏出がある場合は・・」と訳し、病的な漏出のことだと考えています。

問題は「隠しどころ」です。これは男性の性器、生殖器のことを表していて、このあとに出てくる女性の生理のことも含めて、そうした「隠しどころ」から漏出したもののカテゴリーの一つとしてとらえたるのがいいと思います。

このような隠しどころから漏出を病む人はどうなるのでしょうか。すべて汚れます。そしてそれは、その病にかかっている人だけでなく、それに触れる人に伝染します。その例が12節まで続きます。まず5節には、「また、だれでもその床に触れる者は自分の衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れる。」とあります。その人が寝た床はすべて汚れているので、それに触れた人は自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は6節です。その人がすわった物の上にすわる物も汚れました。その人も自分の衣服を洗い、水を浴びなければなりませんでした。

次は7節です。「また、漏出を病む人の隠しどころにさわる者」、すなわち、性器にさわる人も汚れます。新共同訳では「漏出にある人に直接触れた人」となっています。その人が寝た床、すわったところに触れただけで汚れるわけですから、その人にさわっただけで汚れるのはわかります。

8節には、その漏出を病む者が、きよい人につばをかけるなら、その人は汚れるとあります。果たしてつばをかけるというようなことがあるのでしょうか。もしかすると嫌がらせ言われ、それが嫌でつばをかるというようなことがあったのかもしれません。

9節には、漏出を病む人が乗った鞍はみな汚れるとあります。ですから、病人が乗ったろばの鞍は取り替えなければなりませんでした。

そして10節には、どんな物であれ、その者の下にあった物にさわる者はみな、汚れるとあります。それらの物を運ぶ者も汚れるので、その衣服を洗わなければなりませんでした。

11節には、漏出を病む者が、水で手を洗わずに、だれかにさわるなら、その人は汚れるとあります。隠しどころだけでなく、手で触れただけで汚れるのです。

また12節には、漏出を病む人がさわった土の器も汚れるとあります。その器はこわされなければなりませんでした。木の器は、水で洗います。

このように漏出物によって汚れることがないように、徹底的に教えられているのです。でもいったいなぜ、主はそこまで言われるのでしょうか。女の出産の汚れについてもそうでしたが、ツァラアトの時もそうでした。でもこの性器から出てくる漏出物などだれも読みたくないでしょう。なのに主はわざわざそのことによる汚れについて語っておられるのです。なぜでしょうか?それは、私たちがどれほど汚れたものであるのかを示すためです。主はそれをこの漏出物によって明らかにしておられるのです。

マタイの福音書15章18-20節にはこうあります。「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。」

また、パウロはローマ人への手紙7:18で、「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」と告白しています。またイザヤ書のみことばを引用してこのようにも行っています。ローマ3:10-18です。「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

また、エレミヤもこう言いました。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(17:9)」

これが私たち人間の姿なのです。聖書はまさにそうした人間の赤裸々な姿を描いているのです。「聖書」というくらいですから、よっぽど聖いことが書かれてあるのかと思えば、こうした性器からの漏出物とか、生理のこと、あるいはカインがアベルを殺したとか、ノアの時代の人々がかなり乱れていたこと、バベルの塔の時代には高ぶって神に反抗していたことなど、本当にひどい人間の姿が描かれています。それは、人間とはこういうものだということをはっきりと示すためです。

2.漏出からきよくなるとき(13-15)

次に13~15節をご覧ください。ここには、漏出を病む者がその漏出からきよくなったらどうしたらいいかが記されてあります。その人は自分のきよめのために清めの機関として七日を経て、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びなければなりませんでした湧き水を浴びるとは新鮮な水を浴びるということでしょう。そうするときよくなります。

そして八日目には、自分のために、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取り、それを主の前、会見の天幕の入口のところに来て、祭司に渡しました。祭司はそれを取り、一羽を罪のためのいけにえとし、他のもう一羽を全焼のためのいけにえとしてささげ、その漏出物のために、主の前で贖いをしました。

これはイエス・キリストの十字架の贖いと御霊のきよめを表しています。彼は自分のきよめのために七日を数え、自分の衣服を洗い、自分のからだに湧き水を浴びました。この湧き水、新鮮な水こそ御霊のことです。古きは過ぎ去ってすべては新しくなりました。イエス・キリストの十字架の血によって贖われた人は、御霊のきよめによって新しい人を着たのです。その人はきよいのです。全く新しい人になりました。

3.精の漏出があったならば(16-18)

次に16~18節までをご覧ください。ここには「もし人に、精の漏出があったときはどうしたらいいかが教えられています。精を漏らすというのは、精液を漏らすということです。その人は全身に水を浴びなければなりませんでした。また、精液のついた衣服と皮はすべて、水で洗わなければなりませんでした。男が女と寝て交わったなら、ふたり共水を浴びなければなりませんでした。

精液が漏れた時の規定は淋病のようなきびしいものではありませんが、それでも汚れるので、水であらわなければなりませんでした。おそらくこれは、隠しどころの漏出という点で、私たちが汚れた者であるということを教えようとしていたものと思われます。

4.女に漏出がある場合(19-24)

次に19~24節までをご覧ください。ここには、「女に漏出があって、その漏出物がからだの血であるならば、彼女は七日間、月のさわりの状態になる。だれでも彼女に触れる者は、夕方まで汚れる。」(19)

この女の漏出とは何のことでしょうか。新共同訳聖書には、「女性の生理が始まったならば、七日間は月経の期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」とあります。つまり、女性の生理のことです。この期間は汚れます。これは生理そのものが汚れているということではなく、その生理が表している人間の汚れのことです。ですから、このところからその人に触れると汚れるということはないので安心してください。

そして、この漏出物は男性の漏出物と同じように、その汚れが移ると言われています。20節には、その女の月のさわりのときに使った寝床が汚れると言われています。また21節には、その女の床に触れる者も汚れます。その人は衣服洗い、水を浴びなければなりませんでした。また22節には、何であれ、その女のすわった物に触れる者はみな汚れるので、その衣服を洗い、水を浴びなければならないとあります。また24節には、もし男がその女と寝るなら、その女のさわりが彼に移り、彼も七日間汚れると言われています。

ということは、男性よりも女性の方が汚れているということなのでしょうか。そうではありません。神は私たちの心が汚れているということを教えるためにこの生理の話をされたにすぎないのであって、男性よりも女性の方が汚れているということではないのです。

ではこの生理の話の中で神が伝えたかった真意とは何だったのでしょうか。それは七日間汚れるということです。生理による出血は長く続きます。同じように、私たちが悪い思いを長く持ち続けると、それは人々に伝染していくのです。自分だけでなく他の人をも汚すことになります。「一生感謝」という本の2/26に、「あるユダヤ人の母の日課」という内容で次のようにありました。

教養のない平凡なユダヤ人母親がいた。ところがこの母親は、子どもを実に立派に育てた。その秘訣は何かと人々が聞いたところ、母親は、ただ三つのことだけを教えたと答えた。

1つ目、「どんな境遇であれ、すべてのことについて感謝すること。小さなことでも大きなことでも感謝する人になりなさい。困難に遭っても恨んだり不平を言ったりせず、ただ感謝しなさい。いつも感謝しなさい。」すなわち、感謝を習慣化させたのである。

2つ目は、「恨み事を言う人と付き合うな。」恨み事や不平は影響を受けるからだ。成功する人生を生きたいのなら、文句を言う人と付き合ってはいけないということだ。

3つ目は、「感謝する人親しくなりなさい。感謝する人といっしょにいなさい。」

このように、感謝にまつわる三つの教訓をもって故どもたちを立派に育てたのです。恨み事や不平、感謝は他の人に大きな影響を与えます。恨み事や不平は悪い影響を、感謝は逆に良い影響を与えるのです。

ですから、私たちが悪い思いを持ったなら、すぐにそれを主に告白し、悔い改めて、きよめてもらうようにしなければなりません。そうしないと、その影響が広がって他の人にも害を及ぼしてしまうことになるからです。ですから、この生理の話はそのように長い期間の汚れを示しているのです。

5.月のさわりではない血の漏出(25-33)

最後に、25~33節までを見て終わりたいと思います。ここには、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは、月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合について教えられています。生理の時は七日間だけ汚れ、他の人から隔離されて暮らさなければなりませんが、長い日数にわたって血の漏出があるというのは、そういう状態がずっと続くことを意味しています。七日間でも大変なのに、そうした状態がずっと続くというのは絶え難い苦しみではないかと思います。これは霊的にはどういうことを表しているかというと、ほんとうに汚れてしまっている人、自分自身を滅ぼそうとしている人に当てはまるでしょう。しかし、罪が増し加わるところには、恵みも満ち溢れます。ローマ人への手紙5章20節をご覧ください。ここには、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」とあります。主のあわれみは尽きることはありません。罪が増し加わるところには、恵みもまた満ちあふれるのです。

ここで長血をわずらった女の話を見ていきましょう。マルコの福音書5章25~34節にあります。この女はこのレビ記の規定によって人々に決して触れてはいけない女でした。けれども彼女は、「イエスの着物にさわることができれば、きっと直る」と考え、群衆の中に紛れ込み、イエスの着物にさわりました。イエスはこのことに気付かれ、「だれがわたしにさわったのか」と言われました。それを聞いたこの女は恐ろしくなりました。律法では他の人を汚すことであり、イエスを汚すことになるからです。そこで彼女は、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けました。するとイエス様は驚くべきことを言われました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」何と希望と慰めに満ちたことばでしょう。彼女がイエス様を汚したのではなく、イエス様が彼女をきよめられました。彼女はイエス様に触れることによって、救われたのです。

私たちも同じです。私たちのあふれでる悪い思い、汚れ、そうしたものがイエス様を汚すのではなく、逆にイエス様に触れることによってきよめられるのです。私たちが罪、汚れからきよめられるには、このイエス様に触れていただくことによってのみなのです。イエス様に触れていただくことによって、私たちのすべての汚れがきよめられ、きよい良心を保ち続けることができるのです。

28~30節には、きよめられ時の儀式について書かれています。それは隠しどころに漏出がある人が清められるときと同じ儀式です。八日目は新しい始まり。主が死からよみがえられたように、私たちも主のいのちによって新しい歩みをすることができるのです。