申命記9章

きょうは、申命記章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.主が敵を追い払われたのは・・・(1-6

 

「聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。」

 

ここにも「聞きなさい」とか、「知りなさい」という言葉が繰り返して出てきています。彼らは何を聞かなければならないでしょうか。それは主が彼らの前に進み、摘を根絶やしにされるということです。それは彼らが強いから、彼らが正しいからではありません。それは主がアブラハム、イサク、ヤコブに訳されたからであり、その約束を果たされるためです。それは主が約束されたことを果たされる真実な方だからなのです。

このことを考えると、私たちはとても安心感が与えられます。これがもし自分たちの正しさのゆえであったとしたら、そうでなかったとしたらたちどころに滅ぼされてしまうことになります。しかし、それは私たちとは全く関係なく、ただ主が正しい方なので、主がそのように約束された方なので、その約束に従ってその地の住人を追い払ってくださるのです。

それゆえに6節には再び、「知りなさい」と出てきます。主は、私たちが正しいということで、この良い地を与えてくださるのではなく、むしろ、私たちはうなじのこわい民であるにもかかわらず、主はそのようなことをしてくださるのです。

いったい私たちはどれほどうなじがこわい民なのかを見ていきましょう。続く7節から21節までに、そのことについて記されてあります。

 

2.主に逆らい続けてきたイスラエル(7-21

 

「あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。」」

 

ここには、イスラエルがいかに主に逆らい通しであったかが示されています。彼らはホレブで主を怒らせました。いたいホレブでどんなことがあったのでしょうか。せっかく主がモーセを通して二枚の石の板、契約を与えてくださったというのに、彼らは堕落して、自分たちのために鋳物の像を作ってしまったのです。12節を見ると、「早くもそれて」とありますが、彼らはなぜそんなにも早くそれてしまったのでしょうか。人はみな目に見えるものに弱いんですね。少しでも状況が不利になるとすぐに不安になってしまうのです。実際に導いてくれる対象がほしいのです。そういう弱さがあるのです。

 

それはホレブでの出来事だけではありません。22節には、「あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。」とあります。タブエラではどんなことがあったでしょうか。これは民数記11章に記録されてある内容ですが、ホレブの山を出るとすぐに、彼らのうちのちのある者たちが激しい欲望にかられ、モーセにつぶやいたのです。「ああ、肉が食べたい」と。「エジプトで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎも、にんにくも。」なのに今はこのマナを見るだけだ・・・。それはモーセにとってとても苦しいことでした。あまりにも苦しかったので、自分一人で背負うことができず、民の長老たちの中から七十人を集め、モーセをサポートしなければなりませんでした。そして主は、そのようにつぶやいたイスラエルに対して、主は肉をくださるが、一日や二日ではない。十日も、二十日も、一か月もであって、ついには彼らの花から出て来て、吐き気を催すほどになる、と言われたのです。そして、彼らがキプロテ・ハタアワまでやって来た時には、主はうずらの大群を運んできたので食べることができたのですが、彼らの歯と歯の間にあるうちに激しい疫病が起こり、彼らはそれで死に絶えたのです。

 

マサでの出来事というのは、エジプトを出てすぐのことです。彼らはエジプトを出てすぐシナイの荒野に導かれたのですが、そこには飲み水がありませんでした。レフィデムに宿営したときのことです。それで彼らは主を試み、つぶやいて言いました。「自分たちをエジプトから連れ出したのは、自分死セブンたちを渇きで死なせるためですか。」人は苦しくなるとすぐにこのようにつぶやいてしまいます。主を信じることができないのです。それでモーセはどうしたかというとあの杖をもってホレブの岩の上に上り、そこで岩を打つと、岩から水が流れ出たのです。その岩とはだれでしょう。コリントを見ると、その岩こそイエス・キリストであったとあります。つまり、イスラエルの四十年の荒野の旅は、主イエスを信じた後の私たちの信仰の旅でもあるのです。そこには多くの苦しみがあります。試みが起こります。しかし、イスラエルが岩からほとばしる水を飲んだように、私たちも岩であるキリストから飲み続けることができるのです。モーセはそのところをマサ、またメリバを名付けました。それは彼らが主と争い、主を試みたからです。彼らはそれほどまでに主に境続けたのです。

 

そして、23節にはカデシュ・バルネヤでの出来事が記録されています。忘れられない出来事です。彼らはそこから偵察隊を遣わしてかの地を探らせたのに彼らは主のみことばにそむいて上っていかなかったので、その後38年間も荒野をさまようことになってしまいました。当然、二十歳以上の男子はみな荒野て滅んでしまうことになりました。彼らか主を信じなかったので、神のさはぎを招いてしまいました。

 

3.神の慰め(25-29

 

「それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」

 

しかし、主はそれでもイスラエルを滅ぼそうとはなさいませんでした。ここでモーセはイスラエルの民がほぼされないように祈っています。彼はどのように祈ったでしょうか。

代位に彼は、イスラエルは主が力強い御手を持ってエジプトから連れ出された民であるということ、第二に、確かにイスラエルはうなじのこわい民ではあるけれども、主はその彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約をされた神であるということ、そして第三は、もし主がイスラエルを滅ぼすというようなことがあるとしら、その地の住人の物笑いとなり、無全く証にならないということ、そして第四に、彼らがどんなに不忠実な民であっても、神によって贖われた神の民、神の所有の民であり、その大いなる力と述べられた腕とをもって連れ出された民であるということです。

 

つまり、神がイスラエルを救われるのはイスラエルが何か良い民であり、特別な民だからなのではなく、主ご自身の栄光のためであるということです。うしたモーセのとりなしにゆえに、彼らは神のさばきを免れ、約束の地まで導かれました。それは彼らが正しい民だからではなく、何か特別な能力があったからでもなく、神が彼らを愛されたから、彼らを愛してご自分の所有の民とされたからなのです。

 

こうした神の特別の愛の中に私たちも置かれているのです。モーセがイスラエルの民のためにとりなして祈ったように、私たちもまだ救われていない神の民のためにとりなし、祈る者でありたいと願わされます。

申命記8章

きょうは、申命記8章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

1.試みられる神(1-10

 

「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。次から、これから入る約束の地の姿について書かれています。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。」

 

 モーセは何回も何回も、主がイスラエルに命じるすべての命令を守り行うようにと命じます。なぜでしょうか。そのために主は、イスラエルが荒野を歩んだ全行程を思い出させています。そこには多くの苦しみ、試みがありました。荒野ですから食べ物や飲み物がありませんでした。それはまさに死活問題であったわけですが、いったいなぜそのような苦しみがあったのでしょうか。それは、彼らが主の命令を守るかどうか、彼らの心のうちにあるものが何であるのかを知るためでした。

 

 主は私たちを試みる時があります。いったいそれは何のためかというと、そのような苦しみの中にあっても主に拠り頼むなら、主が助け導いてくださることを知るためでした。3節には、『それは、無人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。』とありますが、まさにそのためだったのです。

 

 ヤコブ書12節から4節には次のようにあります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に遭うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

私たちに試練があるのは、私たちの成長のためなのです。その試練がためされて忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、成長を遂げた、完全な人になることができまるからです。だから、ヤコブは、「さまざまな試練に遭うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい。」と言っているのです。確かに、できるなら試練を避けたいと思うものですが、しかし、その試練を通して学び、それを乗り越えることによって、本当の意味で成長を遂げることができるということを思うとき、それはむしろ喜ばしいものでもあるのです。かわいい子には旅をさせよ、ということばがありますが、主は、人がその子を訓練するように、私たちを訓練されるということを、私たちは知らなければなりません。そのような苦しみにある時こそ信仰を働かせ、全能の神に拠り頼まなければならないのです。イスラエルの荒野での四十年は、まさにそれを文字通り経験する時であり、このことを学ぶ学びの場であったのです。

 

 そして、イスラエルが入って行こうとしている地は良い地です。そこには、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地です。小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の血です。十分に食べることができ、何一つ足りないものがない地です。そのような地に導いてくださるからなのです。何という希望でしょう。このような地へ導き入れられるということを知るなら、目の前にどんな大きな試練があっても乗り越えられるのではないでしょうか。私たちは目の前の問題を見るのではなく、その先にある希望に目を留めなければなりません。

 

Ⅱ.主を忘れることがないように(11-18

 

次に11節から18節までをご覧ください。

 

「気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・ あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

ここでモーセは、イスラエルの民に向かって注意を促しています。それは、彼らに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、彼らの神、主を忘れることがないように、気を付けなさい、ということです。いつそのようなことが起こりやすいのでしょうか。12節にあるように、「あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて済、牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、所有物が増し加わる時です。その時心が高ぶり、主を忘れてしまいがちなのです。そのような時、愚かにも人間は、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだと言うようになるのです。

 

しかし、主が彼らを祝福し、彼らをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、あの恐ろしい荒野を通らせた際に、堅い岩から水を流れ出させて飲ませ、天からマナを降らせて食べさせたのはいったい何のためだったのかというと、彼らを苦しめ、彼らを試み、ついには、彼らをしあわせにするためだったのです。主は彼らを祝福したいと願っておられますが、それは、彼らの心が高ぶって、自分の手のわざを誇るためではなく、主に感謝し、主をほめたたえるためだったのです。しかし、そうしたしあわせがもたらされると、あたかもそれを自分で手に入れたかのように錯覚してしまうのは彼らだけのことではなく、私たちも同じです。のど元過ぎれば熱さ忘れるということわざがあるように、あの苦しみの中にいた時は主に助けを求めても、そこから解放されるとすぐに主を忘れてしまうというのは、昔も今も変わらない人間の愚かな性質でもあるのです。ですから、私たちは、いつも主を忘れないようにしなければなりません。18節でモーセは、「あなたの神、主を心に据えなさい。」と言っていますが、主を心に末なければならないのです。

 

もう一つのことは、主が彼らに富を築き上げる力を与えられるのは、彼らの先祖たちに誓った契約を果たされるためであるということです。つまり、主は、イスラエルが何か良いものを持っているから祝福されたのではなく、あくまでも契約を履行されるために祝福されるということです。この理解はとても大事です。主はご自分が約束されたことは、必ず成就してくださいます。契約に違反するようなことは決してなさらないのです。私たちの主は契約を果たされる真実な神なのです。

 

その真実のゆえに、主は私たちの罪を赦され、神の子どもとしてくださいました。神が私たちをご自分の子としてくださったのは私たちが良い人間だからではなく、ましてや特別な能力があるからでもなく、そのように約束してくださったからなのです。それが時至って成し遂げられました。イエス・キリストを通してです。神は私たちをこよなく愛し、私たちを罪から救うためにメシヤを遣わしてくださると約束してくださり、このメシヤを信じる者を罪に定めないと約束してくださったので、その約束のゆえに、私たちは赦されているのです。私たちはこの契約の中に入れられているのです。ですから、どんなことがあっても、私たちを罪に定めることはできません。(ローマ8:31-39

 

Ⅲ.万が一、主を忘れるようなことがある場合(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わります。ここには、もし主を忘れるようなことがある場合どうなるかが語られています。

 

「あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。」

 

人が自分の力で、自分の手でこのようなことをしたのだと思い始めると、主を忘れるようになるだけでなく、ほかの神々に仕え、これらを拝むようになると言われています。この場合の神々とは必ずしも手でこしらえた偶像だけでなく、神以外のものを神とすることを指しています。まことの神から離れれば、それに代わる何かに捕われてしまうのは当然のことだと言えます。それゆえ、いのちある神との交わりが阻害されてしまうのです。

 

そのようなことになればどうなるかというと、必ず滅びることになってしまいます。主に従い、主のおきてと、主の定めを守るなら、そこにいのちと祝福が溢れますが、反対に心が高ぶり、主から離れてしまうなら、滅びを招くことになってしまうのです。

 

このイスラエルに対する戒めは、教会に対しても言えることです。黙示録には、豊かになったラオデキヤの教会に対して、主はこのようなことばを書き送りました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分のありのままの姿を知らなければいけません。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18

 

ですから、私たちは金も、衣も、目薬も、主イエスからいただかなければなりません。イエス様からいただいて、真理を悟らせていただきながら、神に喜ばれる道を歩まなければならないのです。それが心に主を据えるということです。どんな時でも主を忘れることがないように、いつも心に主を据えて歩む物でありたいと願わされます。