ヘブル6章13~20節 「神の約束は変わらない」

今日は、「神の約束は変わらない」というテーマでお話しします。きょうの箇所は6章13節からの箇所です。この手紙の著者は5章10節までのところまで話を進めてくる中で、11節から急に話を変えます。彼らの心がかたくなだったので、このまま話を進めていっても解き明かすことが困難だと判断した著者は、「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目ざして進もうではないか」と勧めるのです。そのテーマのまとめがきょうの箇所で、7章から再びメルキゼデクの話に戻るのです。このところで著者がいいたかったことは何かというと、神の約束は変わらないということです。

 

皆さんは、皆さんの人生の中に「確かなもの」を持っておられるでしょうか。「私の夫や妻は誠実で真面目な人だから大丈夫だわ。絶対に信頼できる」どうでしょうか。「私の会社は何かあったときに、絶対に自分を守ってくれる」どうでしょう。確かにそのようなものはあなたを守ってくれるかもしれませんが、絶対かどうかはわかりません。「それなら何も信じないわ。信じられるのは自分だけ」どうでしょう。それが一番危なかったりして・・・。私たちほどいい加減な者はないからです。すぐに心変わりしてしまうような不確かな者であることは、だれよりも自分自身が一番よく知っているはずです。たとえば、あのペテロでさえ、「今夜、鶏が泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエス様から言われたとき、「何を、ご冗談を。主よ、たとい、あなたと一緒に死ななければならないとしても、私は、決してあなたを知らないと申しません」と言ったのに、何と彼はその日のうちに三度も立て続けに、イエスを否んでしまいました。私たちが住んでいるこの世の中は、まことに不確かなものなのです。

 

では、この不確かな世の中にあって、本当に信頼できる確かなものはあるのでしょうか。あります。それが聖書であり、この世を造られた創造主なる神であり、神が約束してくださった救い主イエス・キリストです。聖書には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とありますが、神はいつまでも変わらない方です。イエス・キリストは、きのうもきょうもいつまでも、同じなのです。この天地が滅びようとも、神のみことばは決して変わることはありません。どんなに時代が変わっても、どんなに人の心が変わっても、決して変わらないもの、それが神なのです。この神こそ私たちが信頼することができる唯一の方です。私たちはここに希望を置いて、日々平安で確かな生活を送りたいと思います。きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。

 

Ⅰ.約束のものを得たアブラハム(13-15)

 

まず13節から15節までをご覧ください。

「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

ここに「アブラハム」という人物が出てきます。クリスチャンならだれでもわかるくらい有名な人ですが、なぜアブラハムなのでしょうか?

それは、この箇所のすぐ前の11節と12節のところで、こう言われていたからです。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心を示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

その信仰と忍耐によって約束のものを相続した一人の模範がアブラハムだったのです。彼は信仰と忍耐によって、最後まで神に信頼しました。その結果、神が約束したものを相続することができたのです。いったい彼はどのようにして神の約束のものを得たのでしょうか。

 

アブラハムはイスラエル民族の始祖です。イスラエル民族が始まった最初の人物ですね。イスラエルという民族がどのようにして始まったかご存知でしたか。実はこのアブラハムから始まりました。当時、彼はカルデヤのウルという所、今のイラクですけれども、そこに住んでいました。その時、神様からこう告げられたのです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12章1~3節)

 

これは簡単に言うと14節にある内容です。つまり、神はアブラハムを祝福し、彼の子孫を大いにふやすという約束です。

アブラハムがこの約束を受けた時、彼は75歳の時でした。しかし、彼にはなかなか子供が生まれませんでした。それで彼は神様にこう申し上げるのです。

「自分たちには子供が生まれそうもないので、あのダマスコのエリエゼルという忠実で信仰深いしもべがいますから、彼を跡継ぎにしましょう。」すると主は、「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」(創世記15:4)と言われました。そして彼を外に連れ出して、天の夜空を見させこう言いました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(同15:5)

それでアブラハムはまだ子供がいませんでしたが、主が言われたことを信じ、主はそのアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。

 

しかし、それから10年経ってもアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。あれから10年ということは、アブラハムはもう86歳になっていたということです。妻のサラも76歳になっていました。皆さん、どうですか。86歳と76歳ですよ。頑張って子供を産みましょうという歳ではありませんね。常識的に考えたら無理です。それでアブラハムはどうしたかとうと、サラの提案によって、彼女にはエジプトから連れて来ハガルという女奴隷がいたので、彼女によって子供を作り、その子供を跡継ぎにしようと考えたのです。なかなかのグッドアイデアです。常識的には無理なんだから、それに代わる方法はないかと考えた結果、そうだ、この手でいこう!となったのです。これが人間の考えることです。しかし、その結果はどうだったでしょうか。

 

サラの提案はすぐに受け入れられ早速実行に移され、アブラハムとハガルとの間に男の子が生まれました。「イシュマエル」です。このイシュマエルは今のアラブ民族の始祖です。中東におけるイスラエル民族とアラブ民族との戦いは今に始まったことではなく、実はこの時から始まっていたのです。これは神のご計画を人間の考えで達成しようとしたアブラハムの肉が招いた結果でした。皆さん、私たちの問題の原因はいつもここにあります。神の御思いよりも自分の思いが優先してしまうことです。結局、イシュマエルが生まれると女奴隷ハガルが主人サラを見下げるようになってしまったので、そこに大きな争いが引き起こされてしまいました。しかし、こうしたアブラハムの失敗にもかかわらず、神の約束とご計画が変わることはありませんでした。アブラハムが100歳、サラが90歳の時に、彼らに約束の子イサクが生まれたのです。それは実に神がアブラハムに約束した時から25年目が経っていました。それで、15節に戻ってください。

 

「こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。」

 

アブラハムはどのようにして約束のものを得たのでしょうか。ここには、「こうして」とあります。つまり、神の約束を聞き、それを信じ、そこに希望を持ち、忍耐して、最後までそれを待ち望んだことによってです。

 

このことをパウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。4章19~21節です。

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

アブラハムは百歳になって、人間的には不可能で、どうしようもない状況になっても、あきらめませんでした。彼の信仰は弱まるどころか、ますます強くなって、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたのです。「こうして」です。

 

この著者はいったいなぜこんなことを語っているのでしょうか。それはこの手紙の受取人である当時のユダヤ人クリスチャンが、イエスをメシアと信じたことでユダヤ人社会かに締め出され、相当の苦しみを受ける中で、中にはかつての生活に、キリストなしの律法の世界に藻道路とする人たちがいたからですつるしかし、そこには救いはありません。救いはイエス・キリストにあるのです。このイエスにしっかりと留まっていなければなりません。その最後まで忍耐してこの信仰にととまったのがアブラハムだったからです。

 

皆さん、歳をとると、歳とともに、このような信仰を持つことは難しくなることがあります。若いうちには「まだなんとか・・」という希望があっても、歳をとると、体力の衰えとともに、「ちょっと無理だ」とか、「大変だわ」と言って、あきらめてしまうのです。でもアブラハムは違いました。彼は百歳になって、もう自分のからだが死んだも同然であり、妻のサラも同様であることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。むしろ、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。皆さん、私たちもそうなりましょう。私たちが何歳になっても神の約束に信頼し、最後まで信仰と忍耐をもってこの希望を告白しようではありませんか。

 

Ⅱ.神の約束は変わらない(16-18)

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。それは、変えることのできない二つの事がらによって、・・神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません。・・前に置かれている望みを捕えるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。」

 

ここで語られているのは「誓い」についてです。よく私たちは「誓い」をしますね。たとえば、高校野球でも「選手宣誓」をします。「宣誓、私たちはスポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うことを誓います。」結婚式でもその中心は何かといったら、この「誓約」です。「・・兄弟、あなたは今、この方と結婚し、夫婦になろうとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信し、神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、留める時も、貧しき時も、いのちのち日の限り、堅く節操を守ることを誓いますか。」

すると新郎新婦が「はい、誓います」と答え、牧師が「この男女が夫婦であることを宣言します」と宣言するわけです。

 

しかも誓う時は自分よりもすぐれた者をさして誓います。たとえば、高校野球の時は大会会長の前で誓いますし、結婚式ではもちろん神の前で誓うわけです。でもいったいなぜわざわざ誓うのですか。約束しただけではだめなんですか?約束しただけでもいいんです。そもそも誓いというのは約束なんですから・・・。それならば、なぜわざわざ誓うのですか?それは、ここに書いてあるように確証のためです。今約束したことは本当です。今、約束したことは絶対に破りません。そういう意味で誓うのです。本来、約束は破るためにするのではなく、守るためにするものです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」であって、それ以外のなにものでもありません。しかし、それだけでは不十分なのです。その約束が本当なのかどうかを確かなものとするために誓いをするのです。その約束は確かです。誓ってそうします。皆さん、そう言われたらどうですか?「嘘つけ」なんて誰も言えません。誓いというのはそれだけ重いのです。一旦誓ったら、だれもとやかく言うことはできません。

 

なぜこんな話をしているのかというと、神の約束がどれほど確かなものであるかを示すためです。神は人間と違うわけですから、神は本来、誓いなどいりません。神は真実な方ですから、「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。「はい」が「いいえ」になることは絶対にありません。それは約束を破ることになりますから。神は決して約束を破ることはありません。だから常に「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」なのです。

 

ところが13節を見ると、「神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分を指して誓い、」とあります。ここで神が誓っておられるのです。神は真実な方ですから約束だけで十分であって誓う必要なんて全くないのに、ここで誓われたのです。なぜでしょうか。それは、その約束が絶対に変わらないことを示すためです。17節、「そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。」ご自分の計画が絶対に変わらないということを、この約束と誓いという二つの事柄をもって保証されたのであります。

 

ということはどういうことでしょうか。ということは、神の約束は絶対に変わらないということです。神のご計画はどんなことがあっても必ず実現するのです。このことが本当によく分かると、聖書の中に約束されている神の約束は確かに自分のものとなるのだということが分かります。信仰によって神の約束の御言葉を自分のものとして体験することがどんなに大きな祝福であるかがわかるのです。それはアブラハムだけでなく、今日の私たちにも全く同じことが言えるわけです。

 

多くの人は、目に見えるものこそ確かなものだと思っています。しかし、目に見えるものはやがて過ぎ去ってしまいます。

「人はみな草のようで、その栄は、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

このことが本当に分かると、変わりやすく不確かなこの世のものに捕われず、確かな永遠の神の御言葉に根を下ろして生きるようになると思います。

 

クリスチャンでない方にとっては、クリスチャンほど哀れな人たちはいないと思われるかもしれません。だって天国だとかつかみどころのないものを当てにしながら生きているからです。人間の知恵や常識からすれば、確かにつかみどころがないかもしれません。しかし、そのつかみどころがないものを、神が保証してくださっているのです。ですから、これ以上確かなものはないのです。ノンクリスチャンは自分の考えに自信をもっていかもしれません。しかし、そうした自信といったものがどれだけ確かなものであるかは、この震災が物語っているのではないでしょうか。あれからもうすぐ5年が経とうとしていますが、私たちはこのことから教訓を受けなければなりません。人間がどんなに知恵や知識をもってしても、そうしたものは大震災の時には何の役にも立たないということを。本当に必要なのは、私たちを守り、助けてくれるのは、神の約束の御言葉であって、それ以上に確かなものはないのです。

 

Ⅲ.神に錨を下ろして(19-20)

 

ですから、結論は、神に錨を下ろしてということです。19節と20節をご覧ください。

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」

 

ここには、この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たしとあります。錨というのは、船が港や沖合いに停泊する時、流れに流されないようにするためのものです。普通、鋼鉄の綱に付けられ、海底に下ろされますが、海底があまりにも深い場合には、海底まで届かなくても、動くことのない深海に沈めておきます。そうすると、どんなに海面が荒れて、波打っても、船は錨によって、しっかりと固定されているので、びくともとません。流されたり、ひっくり返ったりしないのです。イエス・キリストに対する希望はこの錨のようなもので、この方に錨を下ろすならば、決して揺れ動くことはありません。それは私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たすのです。どんなに世相が変わり、人の心が変わっても、神の中に信仰の錨を下ろしていれば、動くことのない平安な日々を歩むことができるのです。あなたの錨はどこに下ろされていますか。イエス・キリストに置かれていますか。もしイエスの上に置かれているなら安心です。なぜなら、イエス・キリストは岩なる方なので、この方につながっているなら、この方にとどまっているなら、あなたのたましいには、いつも安らぎがあるからです。この方は真実な方なので、その約束を最後まで守ってくださいます。

 

その約束とは何でしょうか。その約束とは、幕の内側に入るということです。これは天の至聖所のことです。神が臨在しておられるところ、天の御国のことです。必ずそこに入れていただけます。そのためにイエス様は私たちの先駆けとして、そこに入ってくださいました。天の聖所に入り、永遠にメルキデゼクの位に等しい大祭司となられたのです。

 

ですから、私たちの信仰が確かで不動なものであるのは、神の保証としての約束の御言葉とその誓いがあるからということと同時に、このようにイエス・キリストが私たちの先駆けとしてすでに天国に入っておられ、大祭司として私たちを助けようとしておられるからだということがわかります。それゆえ、神の臨在の中で歩む者には、恐れも悩みも思い煩いもありません。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することができるのです。そこに、いつまでも変わらないイエス様がともにおられるからです。イエス・キリストは、昨日もきょうもいつまでも同じです。このイエス様が共にいてくださるなら、どんなことがあっても、あなたは揺るがされることはないのです。

 

ダビデはこのように言いました。

「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、わたしはゆるぐことはない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せになりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:8-11)

 

おそらくこれは、ダビデがサウルから逃れているときの心境だったと思います。鳥が身の危険を感じたら山々に飛んでいくように、自分の身に命の危険を感じた彼は、遠くに逃げていけば良いのです。でもそのようにしなかった。なぜでしょう。なぜなら、彼は主ご自身に身を避けたからです。いつも自分の前に主を置きました。なぜなら、主が彼の右におられるなら、揺るぐことがないからです。主が彼とともにおられるなら、彼のたましいは喜び、楽しみ、安らぎます。主こそ彼の岩、彼の救い、彼のやぐらでした。彼のたましいは黙って、ただ神を待ち望んだのです。それゆえ彼は喜びに満ち、彼の右には、楽しみがとこしえにありました。これが私たちの信仰です。あなたの錨はどこにおろしているでしょうか。

 

昔からクリスチャンは迫害の時、自分たちがクリスチャンであることのしるしとして、魚の模様や錨の模様を描きました。ことにローマ帝国下で迫害に耐えてきたクリスチャンは、ローマにある地下墳墓で集会を持っていました。これはカタコンベと言って、今日でも残っています。地下に二層にも三層にもなっていて、所々に有力者たちが葬られたのではないかと思われる広場のような所があります。広場といってもせいぜい一坪か二坪の小さな所ですが、そういうところの壁に魚や錨が描かれているのです。いったいなぜそんな絵が描かれているのでしょうか。

魚はギリシャ語でイクスースと言いますが、これは、「神の子、救い主イエス・キリスト」というギリシャ語の頭文字を綴った単語です。それがイクスースになるからです。では錨はなぜかというと、そこに十字架があることからもわかるように、イエス・キリストに錨を下ろしているという彼らの信仰が表われているからです。

 

あなたの錨はどこに下ろされていますか。もしそれがイエス・キリストに、いつまでも変わらない神の約束に下ろしているなら、あなたのたましいも安全で、どんなことがあっても揺るがされることはないのです。神の約束はどんなことがあっても変わらないからです。

申命記10章

先週は、イスラエルの民がどれほどうなじのこわい民であるか、しかし、それにもかかわらず主はモーセのとりなしの祈りに答えて、彼らをその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出されたことを学びました。きょうの箇所はその続きです。まず1節から5節までをご覧ください。

 

1.二枚の石の板(1-5

 

「そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。」

 

「そのとき」とは、97節から21節までにある内容のことです。モーセは、主がイスラエルと結ばれた契約の板を受けるために、シナイ山に上って行ったのに、そのとき山のふもとではどんなことが行われていましたか?モーセがなかなか戻って来ないのを見て、自分たちに先立って行く神を造ろうと、金の子牛の像を作り、それを拝んでいたのです。モーセは山から下りて来たときびっくりして、これはいったいどういうことかと問い詰めるも、あまりのショックと憤りに、持っていた二枚の石の板を投げつけ、それを砕いてしまったのです。モーセは必死のとりなしをして、彼らを赦してくれるようにと懇願しました。すると主は、彼らはいつも主にそむき逆らってきた民でしたが、彼らを赦し、神の所有の民としての身分を保ってくださいました。そのときです。

 

そのとき、主は、前のような二枚の石の板を切って作り、もう一度主のもとに、山の上に登れと言われました。どういうことでしょうか。それは、主が与えてくださる契約のやり直しです。モーセは先の石の板を粉々に砕きましたが、それはイスラエルの民が神の契約をことごとく破ったことを表していました。しかし、今、もう一度前のように二枚の石の板を切って、神の前に出るようにと言われたのです。すなわち、主は再び彼らと関係を修復してくださるというのです。

 

そして4節に注目してください。ここには、主が、その二枚の石の板に直接書き記されたとあります。主が直接書きしるされたという箇所は他の聖書の箇所にはありません。Ⅱペテロ1:21を見ると、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とあるように、預言は人間の意志によってもたらされたものではないにしても、それは聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったものを書き記したものです。このように神が直接書いたものではありません。けれども、それが主が直接書かれたものであっても、あるいは人を通してであっても、主が聖霊によってその著者を動かして、その著者が書いていることを知らなければいけません。

 

2.えり分けられたレビ部族(6-9

 

「イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。」

 

 モーセはここで挿入的にこの言葉を入れています。その内容は、アロンが死んでその子エルアザルが彼に代わって祭司に任じられたこと、彼らはそこから旅立ってヨテバテに進んだということです。 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされました。

 

 どういうことでしょうか?神に仕える祭司の働きが重要であることが述べられているのです。イスラエルの民には、祭司の仲介の働きがあって初めて主の前に出ることができ、主に仕えることができるということです。イスラエルの民は、そのままでは決して神の前に立つことはできませんでした。あくまでも祭司の働きによって、主の祝福と恵みが民に分け与えられるのです。レビ人たちはそのために特別に神によってえり分けられた民なのです。このレビ人をないがしろにしてはならないということです。彼らには主の相続地が与えられていませんでした。主が彼らの相続地であったからです。それゆえに、このレビ人は民に代わる代表としてえり分けられ、民のためにとりなしをするようにと特別に選ばれたのです。このレビ人という仲介者をないがしろにしてはならないのです。

 

 それは今日でいうなら、イエス・キリストご自身のことです。私たちは自分たちの行いによって主の前にできることはできません。あくまでも、神の大祭司イエスのとりなしによってのみ神の近くに行くことができるのです。そのイエスの仲介なしに、自分たちの思いと判断によって進んで行ってはならないということです。私たちの中にはキリストがおられます。この方こそが私たちの仲介者であり、和解者であられます。この方にあって私たちは初めて平和と恵みと愛を互いに体験することができます。私たちはこのキリストと共に十字架につけられたのです。この方の血の注ぎかけがあるので、私たちはしっかりと立つことができるのです。

 

 3.神があなたに求めておられること(10-22

 

「私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることであ。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。る。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい民であってはならない。あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。のである。あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」

 

主はモーセに二枚の石の板とともに、「民の先頭に立って進め。」と命じられました。そうすれば、主が彼らを約束の地に入れ、その地を占領することができる・・・と。これは徹頭徹尾主の戦いなんですね。主が勝利を与えてくださいます。私たちの力がそうするのではありません。私たちはうなじのこわい民であり、主のみこころにかなわない者ですが、あわれみ豊かな神は、私たちの罪を赦し、ご自分の御心に歩もうとするものを助けて、約束の地に入れてくださるというのです。

 

ここでモーセは一つの結論を述べています。それは、主があなたがたに求めておられることは何かということです。それは、それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることです。主が求めておられることはあれも、これも守り行うということではなく、「ただ」です。ただ、神を畏れ、神のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くして、精神を尽くして、あなたの神である主に仕え、主に従うことです。

 

私たちはどちらかというと、「ただ」というよりも、「あれもして」「これもして」神のためにいろいろなことをして、神を喜ばせることが、主のお喜びになられることではないかと思うのですが、聖書はそのようには教えていません。主が求めておられることは「ただ」なのです。主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。

ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(6:6-8)」

 

なぜなら、主が私たちを愛されたのは私たちが何かをしたからではなく、私たちが正しい者だからでもありません。ただ愛されたからでした。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛されたのです。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれました。私たちには何も正しいものはないのです。むしろ悪ばかりがあるのです。だから、正しさをすべて主に求めて生きていかねばならないのです。主を恐れて、自分の悟りに頼らず、主の道に歩み、主を愛して、主に仕えなければならないのです。私たちのうちに義はなく、むしろキリストのうちにあります。自分の義ではなく、キリストの義を仰がなければならないのです。

 

16節には、「心の包皮を切り捨てなさい」とあります。これは心の割礼を行いなさいということです。割礼とは、神の民のしるしですが、どんなに外見で割礼を施しても中身が無ければ意味がありません。大切なのは心の包皮を切り捨てるということ、心の割礼を受けるということです。では、心の包皮を切り捨てるとはどういうことでしょうか。それは神のみ言葉に対して心を開き、みことばを素直に受け入れる従順な者になることです。どんなに体に割礼を受けていても、神のみことばに心を閉ざし、みことばに対して鈍感であるなら、つまりうなじがこわければ何の意味もありません。

 

なぜでしょうか。17節から22節までのところにその理由が記されてあります。なぜなら、あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力があり、恐ろしい神、かたよって愛することをなく、わいろをとらず、在留異国人を愛される方だからです。神はただ外見で神の民であるというしるしを見て満足される方なのではなく、そのように社会的立場の弱者に対して配慮を求められる方だからです。

 

主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたがたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行われました。彼らの先祖たちは七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされました。

 

このことを見てください。それは決して人間ができることではありません。主は大いにる方であって、大いに賛美されるべき方であります。その方にふさわしいことは私たちが何か良いことをして自分を誇ったりするようなことではなく、この神の御心を知り、この方を心を尽くしてほめたたえ、感謝をもって仕えることなのです。つまり、あなたの心がいつもこの方と一つとなり、この方のみこころに歩むことなのです。

 

この一年がそのような年となりますように。もうすぐさくら市での開拓伝道も始まりますが、主が私たちに求めておられることは何でしょうか。それは私たちが一生懸命に伝道することよりも、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、主の命じるすべてのことを守り行うことなのです。そこに神の豊かな祝福と栄光が現されるのです。

ヘブル6章1~12節 「成熟を目ざして進もうⅡ」

今日のテーマは「成熟を目ざして進もうⅡ」です。実際には先週の午後にもこのテーマに関する学びがありましたので、3回目の学びとなります。このヘブル書の著者は、キリストこそ偉大な大祭司であり、メルキデゼクの位に等しい大祭司であるということをお話してきましたが、途中で話すのを止めてしまいました。なぜなら、彼らにはそのことについて聞く力がなかったからです。耳が鈍くなっていたので、話しても理解することが困難になっていたのです。耳が鈍くなっていると言っても、耳が聞こえづらくなったということではありません。心の耳がふさがっていたということです。だから、どんなに霊的な事柄を話しても理解することは困難だったのです。彼らに必要だったのは、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらうことでした。

 

そこで少しテーマを変えて、霊的にもっと敏感になりましょう、心を開いて神のことばを素直に聞きましょう、と言ったのです。生まれたばかりの乳飲み子のように純粋なみことばの乳を慕い求めることは大切なことですが、いつまでも乳ばかりではなく、少しずつ堅い食べ物も食べられるようにしなければなりません。そうすれば、義の教えに通じることができます。経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人になることができるのです。

 

聖書を見ると、私たちの心には三つの段階があることがわかります。第一に「幼心」です。パウロはコリントの教会への手紙の中でこのように言っています。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」(Ⅰコリント3:1-2)

ここには、「キリストにある幼子」とありますね。ですから、私たちの中には幼子があるのです。これは救われたばかりの人のことです。聖書のことがあまりよくわからないけど、これからイエス様のような人になろうという人ですね。

 

それから第二に「大人」です。Ⅰコリント14:20には、「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。」とあります。

 

そして第三に「親心」です。Ⅱコリント12:14にあります。「今、私はあなたがたのところに行こうとして、三度目の用意ができています。しかし、あなたがたに負担はかけません。私が求めているのは、あなた方の持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のためにたくわえる必要はなく、親が子のためにたくわえるべきです。」

 

私たちの中にはいつもこのような親心、大人心、子供心があって、このような心がいつも交錯しながら親心へと成長していくのです。こうした親心となった成長したクリスチャンが増えていくとき、教会は成長したキリストのからだとなっていくのです。

 

すでに結婚している若い婦人の方が、このことに目覚め、実家に帰った時のことです。それまでは羽を伸ばし、好きなことをして、実家を休み場のようにしか考えていなかったことに気付かされたのです。そして悔い改めの親心で自分の両親に接してみようと決心しました。

「お母さん、仕事なかなか大変でしょう」と、母親の心に耳を傾けたとき、お母さんの心は大きく開かれ、それまでしゃべってくれたことのないようなことまで、どんどん打ち明けてくれるようになりました。そして近くの教会の集会に誘うと、快く応じてくれたというのです。

 

だれでも人と対話をするとき、まず自分の話を聞いてほしい、わかってほしいと思うでしょう。これは幼心の衝動です。自分のことを聞いてほしいと思うことが悪いというわけではありません。しかし、そのとき「まず相手の話を聞いてあげよう」という親心があれば、相手に励ましや慰めが流れて行くことは確かです。

 

あるとき、他の教会で行われた修養会に招かれてお話したことがあります。そのとき、その教会のピアニストに「どんな心で奉仕されているんですか」と尋ねると、その方がこう答えられました。「そうですね。司会者がやりやすいように、会衆が歌いやすいように、全体に心を砕いて奏楽しています。」よく訓練された教会だなぁと、とても感心させられました。特に音楽の奉仕は目立ちやすいものです。芸術家は自分を音楽によって表現すると聞いたことがありますが、しかし、それが時々教会に問題を引き起こすことがあります。なぜなら、教会でいちばん大切なことは自分を表現することではなく、自分を罪から救ってくださった神をほめたたえ、神の栄光を現すことだからです。ですから、そうした幼心から親心に成長していくことによって教会の徳を高めることができるようになり、神の栄光を現すことができるようになるのです。

 

また、こうした親心が主に向かうとき、それは「主の御心を尋ね求める」という姿勢になります。これまではいつも、「主よ、こうしてください。」「ああしてください」と、自分たちの必要が満たされるようにというだけの祈りだったのが、「主よ、あなたの御心は何ですか。」「あなたが私に願っておられるみとはどんなことですか」と、神の御心を求める教会へと変えられていくのです。

 

ではそうした親心が成長し、クリスチャンとして成熟した者になるためにはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.成熟を目ざして進もう(1-3)

 

まず1節から3節までをご覧ください。

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。」

 

ここは「ですから、私たちは、キリストにつていての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」とあります。「ですから」というのは、この前で語られてきたことを受けてのことです。この前ではどんなことが語られてきたかというと、大祭司であられる私たちの主イエスについては、話すべきことがたくさんありますが、今のあなたがたは耳が鈍くなっているので、説き明かすことは困難です、ということでした。どんなにすばらしい神の教えも、それを聞く人の心がふさがっていると、聞いても理解することができないからです。「ですから」です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。たとえば、死んだ行いからの回心、神に対する信仰、きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう、というのです。

 

これはどういうことかというと、ここでヘブル書の著者は、キリストについての初歩の教えとして六つのことを挙げているのです。

まず死んだ行いからの回心と神に対する信仰です。これは悔い改めと神に対する信仰についての教えです。現代訳では「死から命への方向転換、神信仰」と訳されています。死から命への方向転換ですから、これはまさに悔い改めて神を信じることについての教えです。

次はきよめの洗いについての教えと手を置く儀式です。ユダヤ教にはきよめの洗いの儀式がたくさんありました。その中にはイエスの御名による水のバプテスマも含まれています。また手を置く儀式ですが、これは按手のことを指しています。手を置いて祈り、祝福し、また任命したりしました。

そしてもう一つのことは死者の復活ととこしえのさばきなどの基礎的なことです。これはクリスチャンが死んでも生きるということ、この死者の復活の教えととこしえのさばきなど、終わりの日に関する教えのことです。

 

これらのことを見てもわかるように、これらのことは私たちクリスチャンにとってどれもとても重要な教えです。ヨハネ20章31節には聖書が書かれた目的が記されてありますが、それは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである、とあります。ですからねこれらのことはまさに、聖書が書かれて目的そのものであるわけです。これらのことは私たちの信仰の中心的な事柄であり、どんなに強調してもしすぎることがない重要な教えなのです。

 

それなのに、そうしたキリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか、というのです。なぜてじょうか。神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。すなわち、それが神の御心であるからです。神の御心は、私たちが救われた状態にずっと留まっているだけでなく、これらことを土台にしてさらに信仰の成熟を目ざして進むことなのです。

 

レビ記11章45節には次のようにあります。

「わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから、あなたがたは聖なるものとなりなさい。わたしが聖であるから。」

主がイスラエルをエジプトから救い出されたのは何のためだったのでしょうか。それは彼らの神となるためでした。神は聖なる方なので、彼らも聖でなければならない。「聖」というのは、選び別けられるという意味ですが、神のものになるということです。つまり、神のようになることです。彼らはそのためにエジプトから連れ出されたのはそのためでした。同じように私たちが救われたのも、それが救われて良かったという私たちのためだけではなく、私たちを救ってくださった神のようになるためだったのです。

 

Ⅱペテロ3章18節にはこうあります。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」これは、「恵みと知識において成長し続けなさい」という意味です。(現在命令形は継続を表しているから)イエス様を信じて救われた人は、ああ良かった!これでもう天国に行けるから安心だわと、そこに留まっているだけでなく、その主であり救い主の恵みと知識において成長していかなければなりません。それを求めていかなければならないのです。

 

「成長しなさいと言われても無理ですよ。どこまで行ったってきりがないじゃないですか」確かに、クリスチャンの成長にはきりがありませんが、しかし、一つの目標が定められているのです。それは何かというと、イエス様のようになることです。イエス様のようになるということがクリスチャンの目標であり、成熟したクリスチャンの姿なのです。

 

エペソ4章12節から13節にはこうあります。

「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致に達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

ここには、「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とあります。すなわち、イエス様のようになることが私たちクリスチャンの目標なのです。それは私たちの努力によってではなくキリストの恵み、聖霊の恵みによって成し遂げられていくものですが、同時に、私たちにもそのための訓練が求められているのです。それはⅠテモテ4:7に、「敬虔のために自分を鍛錬しなさい」とあることからもわかります。「敬虔」とは、信仰とか、霊的なことのためという意味です。そのためには訓練が必要なのです。何もしないで体の健康を保つことができないように、霊的な健康のためにも訓練が必要なのです。そのための時間と労力をかける必要があるのです。それがイエス・キリストの恵みと知識において成長するということです。

 

Ⅱ.成長がなければ後退(4-8)

 

で第二のことは4節から8節までに書いてあることですが、もし成熟を目ざして進むことをしなかったらどうなってしまうのかということです。クリスチャンが成熟を目ざして進まなかったら霊的に成長することができないだけではありません。それだけでなく、信仰そのものからも離れてしまう危険があるのです。すなわち、成長なければ後退してしまうというのです。まず4節から6節までをご覧ください。

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」

 

ここは難解な聖書箇所です。ここには、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落してしまうならとありますから、これはクリスチャンになり、すばらしい霊的体験をした人が堕落して信仰を捨ててしまうなら、ということでしょう。そういう人はどうなってしまうのでしょうか。ここには、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。」とあります。つまり、そういう人は救われることはないということです。

 

いったいこれはどういうことでしょう?というのは、聖書には、私たちがイエス様を信じれば、御霊によって新しく生まれ変わり、永遠のいのちを得ることが約束されています。たとえば、ヨハネの福音書6章47には、こう約束されてあります。

「まことに、まことに、あなたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」

また、イエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)イエス様を信じる人は死んでも生きるのです。

何とすばらしい約束でしょうか。そして、そのように約束された主は、次のようにも約束されました。

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:28)

ここには、イエス様は永遠のいのちを与えるというだけでなく、だれもイエス様の手から彼らを奪い去るようなことはないと、言われたのです。もう嫌になったからと、神が途中で見捨てるようなことはなさいません。もう何度言ってもわからないんだからと、あきらめてしまうことはないのです。その救いは最後までちゃんと保証されているのです。1年保証とか、3年保証とか、最長10年保証とかありますが、そうじゃない。神の救いの保証は永遠です。永遠の保証です。ですから、皆さん安心してください。「ああ、よかった」永遠に保障されているんですから。どんなことがあっても見放されたり、見捨てられたりすることはありません。神は最後まで私たちを守ってくださいます。それが私たちの救いです。それなのに、ここには、一度堕落してしまうと、そういう人をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできないとあるのです。あたかも、一度堕落してしまったら、もう二度と赦されることがないような、一度ひどい罪を犯してしまったら、神の救いは無効にされもう立ち戻ることはできないというふうにも読めます。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

 

まず、最初に申し上げておきたいことは、これは一度救いに導かれたクリスチャンが罪を犯してしまったらもう二度と赦されないということではないということです。また、堕落して信仰から離れてしまったらもう悔い改める余地がないということではないのです。なぜなら、Ⅰヨハネ1:9にはこうあるからです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。それが私たちの神です。ここには、「すべての悪から」とありますから、どんな悪からも、です。神が私たちを赦してくださるのは私たちが正しいからではなく、また、私たちがいい人だからでもなく、ただ私たちを愛してくださったからです。それを何というかというと、「一方的な愛」と言います。神が一方的に愛してくださいました。だから、私たちが悔い改めるなら、神は無条件で赦してくださるのです。

 

あの放蕩息子の話を覚えているでしょう。父親の財産の半分をもらって遠い国に旅立った弟息子は、そこで贅沢三昧の暮らしをして、とうとうお金を使い果たしたあげく、食べるにも困り果ててしまいました。それで彼はある人のところに身を寄せたところ、彼はそこで豚の世話をするようになりました。お腹がすいてお腹がすいて、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思った彼は、はっと我に返るのです。父のところにいた時には、パンの有り余っている雇人が大ぜいいたではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。そうだ。父のところに、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯ししまた。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」

するとどうでしょう。彼が自分の乳のもとに行ったとき、家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。」

すねと父親は、しもべたちに言って、一番良い着物を持って来て、着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛を引いてほふりなさい。食べて祝おうではないか、と言ったのです。

この父親は息子に何一つ言いませんでした。むしろ、息子が返ってきたことを喜び、温かく迎え入れました。なぜですか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったからです。この父親は息子が返ってきただけで喜びました。これが私たちの神です。私たちの神は、私たちが悔い改めて神のもとに帰ってくることを望んでおられます。そうするだけで、心から喜こんでくださいます。私たちに要求なさることは他に何一つないのです。

 

それはイエス様の弟子であったペテロのことを考えてもわかります。彼はイエスの弟子たちの代表と言っても過言ではありません。しかし、そのペテロが何とイエス様を裏切ってしまいました。彼は、ここに書いてあるように、天からの賜物を味わい、すばらしい神のみことばを味わったにもかかわらず、イエス様が十字架に架けられる直前、三度も主を否み、主を見捨てて逃げてしまいました。けれども彼はイエスが復活された後に悔い改めることができ、そして初代教会においては、第一の指導者となることができました。彼は、ある意味で堕落しましたが、もう一度悔い改めることができました。だからここで言っていることは、イエス様を信じた人が大きな罪を犯してしまったらもう二度と赦されることはないとか、堕落して信仰から離れてしまったら、もう悔い改める余地がないということではないのです。ではここで言われていることはどういうことなのでしょうか?

 

このことを正しく理解するためには、これが誰に対して書かれた手紙なのかをもう一度思い出していただきたいのです。これはヘブル人への手紙とあるように、ユダヤ人クリスチャンに書かれた手紙でした。彼らはユダヤ人でありながらもイエスがメシヤ、神の子、救い主と信じた人たちです。ユダヤ人は旧約聖書を信じていましたから、そのユダヤ人がイエスをメシヤと信じることは簡単なことではありませんでした。あのパウロでさえ信じることができなくて、逆にそういう人たちを迫害していたくらいですから、それは並大抵のことではありませんでした。しかも当時はユダヤ人社会でしたから、そうした中でキリスト教に回心するということはユダヤ人社会から締め出され、食糧の調達さえもままならない状態でした。

そうした情況の中で、中にはその苦しみに耐えきれずユダヤ教に逆戻りする人たちもいのです。ユダヤ教に逆戻りするということはどういうことかというと、イエスはキリスト、救い主であるという信仰を捨てるということです。ですからここに、「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば」とあるのです。

また2章3節から4節には、「私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」と書かれてあるのです。

 

つまり、これは、イエス様を愛しているはずなのに罪を犯してしまったとか、信じているはずなのに信仰から離れてしまったという程度のことではなく、救い主そのものを信じないという背教を意味していたのです。イエス様は、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。」(マタイ12:31)と言われましたが、御霊に逆らう冒涜こそ、この救い主を信じないこと、救い主を受け入れないこと、キリストの十字架をないがしろにすることなのです。人はどんな罪でも赦されますが、イエス様を信じない罪だけは赦されないのです。そして、もし一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、堕落するなら、すなわち、キリストを救い主として信じながらも、その後で信仰を捨てるなら、そこには神の救いはもはや残されていないのです。神は決して私たちを途中で見捨てたり、見離したりはしませんが、私たちの方で捨ててしまうことがある。それが赦されないことなのです。

 

イスカリオテ・ユダの問題はここにありました。彼はイエスさまとともに生活をし、主の恵みのみことばを聞き、その不思議なわざを見て、後に来る世の力も知らされていたのに、銀貨30枚でイエス様を引き渡しました。それでも悔い改めてイエスを救い主として信じたなら彼は赦されたのに、彼はそうしませんでした。彼は、悔い改めず、外に出て首をくくって滅びました。それがペテロとユダの大きな違いです。確かにペテロも大きな罪を犯しましたが、それでも彼の心は開かれていたので悔い改めイエスさまのもとに戻ることができましたが、ユダの心は開かれていなかったので、かたくなだったので、ふさがれていたので、悔い改めることができませんでした。その違いです。

 

そしてここではそのことを私たちにも警告しています。確かに私たちも罪を犯すことがあります。時には弱くなって信仰から離れてしまうこともありますが、問題は、あなたの心はどうかということです。悔い改めようという心もない、神のみことばよりも自分の思いを優先したい、イエスがキリスト救い主であるかどうかなんて関係ないといった心なら、そこには救いは残されていないのです。霊的に成熟するどころか逆に後退してしまい、ついには信仰を失ってしまうことになるのです。

 

イエスはこう言われます。「わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)とどうぞイエスの声を聞いて戸を開けてください。もしあなたが戸を開けるなら、イエス様は、あなたのところに入ってあなたとともに食事をしてくださいます。食事をするというのは親しい交わりを表しています。イエス様があなたの心の中に来てくださるのです。すべてはあなたが心の戸を開けるかどうかにかかっているのです。イエス様は今もあなたの心の戸をたたいていらっしゃいます。あなたはその声を聞いてどのように応答されますか。どうかあなたもキリストにある神の救いを受け入れてください。

 

7節と8節をご覧ください。ここには、その神の祝福とのろいがたとえで語られています。

「土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。」

 

あなたは有用な作物を生じていますか、それとも、いばらやあざみを生えさせているでしょうか。もしあなたが、あなたの上にしばしば降る雨をいっぱい吸い込むなら、すなわち、神の恵みと希望に支えられて生きるなら、有用な作物を生じますが、その希望を拒み、神の恵みをないがしろにするなら、無用な作物を生じさせ、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまうことになります。イエスさまは、「わたしがぶどうの木で、あなたがたは枝です」と言われましたが、私たちはぶどうの木であるイエス様につながっていることによってのみ多くの実を結ぶことができます。枝だけで実を結ぶことはできません。

 

Ⅲ.あきらめないで、最後まで(9-12)

 

第三のことは、あきらめないで、最後までということです。ところで、この手紙の著者は、次のように言って、読者たちを励ましています。9節と10節です。

「だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も使えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

 

ここで、この手紙の著者はこの手紙の読者のすべてが霊的赤ん坊であるのではないことを、「あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。」という言葉で表しています。現代訳では、「あなたがたが救いにふさわしい良い実を結んでいる。」と訳しています。

 

その良い実とは何でしょうか。それは具体的に言うなら「愛の業」です。彼らがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛」のことです。神は正しい方であって、彼らの行いを、特に、聖徒たちに示したあの愛をお忘れになられません。それこそ、主イエスが弟子たちに教えられた新しい戒めの実践だからです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)

 

これは非常に重要なことです。これが出来なくなると、どこかに未成熟な特徴が表われてくるからです。確かに、クリスチャン同士であっても、愛によって仕え合うということは、それほどやさしいことではありません。自分と気の合う人とならやさしいことですが、すべての人がそうであるわけではありません。そうでない人に仕えるということは、生まれながらの私たちでは到底できることではないのです。「なぜあんな人に仕えなければならないのか」「あんな人に仕えなければならないくらいなら、クリスチャンを辞めた方がましだ」という思いすら湧いてこないとも限りません。それが悪魔の働き掛けなのです。生まれながらの私たちの性質は、なるべく苦労しない道、安易な道を求めます。しかし、神は私たちが霊的に大きく成長し、クリスチャンとして成熟するように、必ずそこに困難な問題を置かれるのです。だからそれを避けてはいけません。悪魔は私たちにいろいろな知恵を与えて、それを避けようとさせますが、でもその手に乗ってはいけないのです。神は愛する子をむち打たれるということを思い出してください。神が私たちにそのような問題を置かれるのはむしろ私たちを愛しておられるからであって、私たちがクリスチャンとして霊的に成熟することを求めておられるからなのです。どんな訓練でも、それを受けている時は、嬉しいよりはむしろ辛く、苦しいのですが、後でわかることは、そうした訓練を受けた人は、必ず神の御心にかなった生活ができるようになるということです。そのことがわかると、信仰生活に必要な訓練として、喜んで困難にぶつかっていくことができるようになります。

 

この手紙の読者は、そういう愛の実を結んでいました。植物でも若木のうちは実を結ぶことはできません。「桃、栗三年、柿八年」言われますが、桃や栗のように比較的早く実を結ぶ木でも三年はかかるものです。柿になると、なんと八年もたたないと実を成らせることはできません。これは別に年月のことを言っているのではありません。木でも実が成るようになるには若木ではだめだということです。人間でも大人にならないと子供を産むことはできません。それは霊的赤ん坊も同様で、霊的に成熟していなと実を結ぶことはできないのです。しかし、この手紙の読者は、この愛の実を結んでいました。神はそれを決して見過ごしにはならず、ずっと心に留めておられました。神がご覧になっていてくださるだけで、もう十分ではないでしょうか。だれが見ていても、だれが評価してくれなくても、神がご覧になり、神が評価してくださっているというだけで、私たちは満足です。

 

大切なのは、それを一回だけすればよいということではなく、ずっと続けることです。それが最後に書かれてあることです。11節と12節をご覧ください。

「そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。」

 

「切望する」というのは、強く願うということです。ここで著者は何を切望しているのでしょうか。それは、彼らが同じ熱心さを示して、最後まで、この希望について十分な確信を持ち続けてくれることです。信仰生活において大切なことは、救われたことだけで満足し、そこに安住するのではなく、それを最後まで持ち続けることです。すなわち、熱心に信仰生活に励むことです。そうでないと後退してしまうからです。

 

私たちは、前進しなくても、そこに留まっていたら、少なくても後退はしないだろうと思っているかもしれませんが、そうではありません。前進しなければ後退があるだけで、バッグスライドしてしまいます。ですから、私たちは常に前進していかなければならないのです。しかし、それは歯を食いしばってするものと違って、前進していけばいくほど信仰の醍醐味を味わうことができますし、そのすばらしさは天国のすばらしさに一歩も二歩も近づくことができるすばらしさです。天国のすばらしさがもっとよく分かってきます。ですから、私たちも約束を相続したあの熱心なクリスチャンに見習って、熱心に信仰生活に励みましょう。今からでも決して遅くはありません。成熟を目ざして共に進もうではありませんか。

ヘブル5章11~14節 「成熟を目ざして進もうⅠ」

ハレルヤ!きょうも、神のみことばから共に恵みを分かち合いたいと思います。きょうのみことばは、ヘブル人への手紙5章11節から14節までのみことばです。

このへブル書の著者は、前回のまでのところで、キリストがいかに偉大な大祭司であられるかを語ってきました。それはメルキデゼクの位に等しい大祭司であるということでした。メルキデゼクについては7章で詳しく学ぶのでここではあまり触れませんが、大祭司アロンとは比較にならないほど偉大な大祭司であることが語られました。そのキリストが、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは神の御子であられる方なのに、そのお受けになられた多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされました。それゆえに結論は何かというと、彼に従うすべての人に対して、とこしえの救いを与える者となられたということでした。ハレルヤ!何とすばらしいことでしょう。何とすばらしい救い主を私たちは持っているのでしょう。辛いとき、困った時、あなたはどこに救いを求めますか。キリストはあなたの救い主です。あなたをとこしえに救うことがおできになるのです。本当に感謝ですね。

 

ところで、きょうの箇所を見ると、話の内容がガラッと変わります。11節、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」

 

どういうことでしょうか。これを聞いていた読者の中に何のことを言っているのかさっぱりわからなかった人たちがいたのです。私たちもよくあるでしょう。牧師さんが一生懸命お説教していても、何を言っていることがさっぱりわからないということが・・。ただ言葉だけが頭の中を駆け巡っているだけということがあるのです。ピンとこない。安心してください。それは皆さんだけではありせん。当時の人たちも同じでした。言っていることがわかりませんでした。当時の人たちは旧約聖書のことについてはある程度知っていましたが、そういう人たちでさえわからなかったというのですから、私たちがわかなくないのも自然なことです。だから、聖書の話を聞いてもわからないとがっかりしないでください。忍耐して聞き続けていくうちに必ずわかるようになりますから。そもそも聖書が難しいというのはその内容が難しいということもありますが、それよりもそれがどういうことなのかを体験するのが難しいのです。

 

きょうはそのために必要なことを三つお話したいと思います。きょうはそのパートⅠです。このテーマは6章12節まで続きますから、これを二回に分けて学びたいと思います。そしてきょうは午後から「信仰生活ステッ・アップ」という学びもありますから、このテーマについては全部で3回に分けて学びたいと思います。

 

Ⅰ.耳が鈍くなっている(11)

 

まず11節をご覧ください。ここには、「この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。」とあります。

 

「この方について」とは、まことの大祭司であられるイエス・キリストについてということです。「この方について」この手紙の著者は話すべきことがたくさんありますが、それを説き明かすこと、説明することは困難だと言っていす。なぜなら、彼らの耳が鈍くなっていたからです。耳が鈍くなっているとはどういうことでしょうか。年をとればおのずと耳が聞こえづらくなるものですが、ここで言っていることはそうした耳が聞こえづらくなったということではなく、霊的な面での鈍くなっているとうことです。若い時にはみことばを聞いて素直に信じることができたのに、だんだん年をとるうちに聞けなくなっているというのです。若い時は耳が柔らかく、音楽でも、英語の発音でも、微妙な音の違いを聞き分けることができたのに、年をとるにつれていつしか耳が硬くなって、聞き分けることが困難になる、つまり、鈍くなるということがあるのです。

 

私はよく娘に、「お父さん、ピアノの音だけど、調律してもらった方がいいと思うよ。ずいぶん狂ってる。」と言われることがあります。「へぇ、どこが狂ってるの?ちゃんと出てるじゃない。」と言うのですが、どうも違うらしいのです。私にはその微妙な音を聞き分けることができません。

 

私の家では小さい時からこどもには英語で話しました。とは言っても家内だけですが・・。私もこどもにはできるだけ英語で話せるようになってほしいと思って始めは英語で話していたのですが、ある時アメリカから家内の両親が来日して、二番目の娘の英語の発音を聞いてびっくりしました。娘の発音が私の発音にそっくりだったからです。それはまずいと、それ以来私は家の中では英語を話すことは止めました。私にとっては正しく発音しているつもりなのですが、家内が聞くと全然違うらしいのです。しかし、小さな子供の耳ってすごいんですね。それをちゃんと聞き分けることができます。耳が柔らかいからです。微妙な音の違いを聞き分けることができるのです。

 

ところで、この「耳が鈍くなっている」という言葉ですが、これは「怠慢な」とか、「鈍い」という意味の「ノースロイ」という言葉が使われていて、意味は「心がふさがっている」という意味です。ですから、現代訳では、「あなたがたの心がふさがってしまっている」と訳されているのです。つまり、この「あなたがたの耳が鈍くなっているというのは、歳をとって耳が硬くなっているということではなく、折角イエス様を信じて救われたのに、そのすばらしいイエス様を求めるよりも他のことで心が一杯になっていることです。

イエス様は種まきのたとえを話されました。ある人が種を巻きました。蒔いていると、ある種は道ばたに、また別の種は土の薄い岩地に、また別の種はいばらの中に、もう一つの種は良い地に落ちました。それぞれの場所に落ちた種はどうなったでしょうか。道ばたに落ちた種は、鳥が来て食べてしまいました。土の薄い岩地に落ちた種はどうでしょう。土が深くなかったので、すぐに芽を出しましたが、日が上ると、焼けて枯れてしまいました。根が張っていなかったからです。ではいばらの中に落ちた種はどうなったでしょうか。いばらの中に落ちた種は芽を出し、順調に生長していきましたが、あるところまで生長していくといばらが伸びてふさいでしまったので、それ以上は伸びることができませんでした。しかし、良い地に落ちた種は生長し、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだのです。

 

耳が鈍いというのは、ここで言われている良い地以外の地に蒔かれた種のことです。種は同じでも、それがどこに蒔かれるかによってその結果が全く違ってくるのです。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、そういう人はほんとうに多くの実び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。しかし、御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って生きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また、岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうのです。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいや富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結びません。つまり、確かにみことばを聞きますが、どのような心で聞くかが重要なのです。折角、みことばを聞いても自分には関係ない話だと思うなら、折角聞いたみことばも鳥が来て食べてしまうことになるでしょう。また、最初はいい話だなぁと思って聞いていても、それがどういうことなのかを悟ろうとしないと、生活の中に迫害や困難がやってくると、枯れてしまうことになります。また、これはすばらしい話だと信じても、この世の心づかいや富の惑わしがみことばをふさぐと、実を結ぶことができません。実を結ぶ種は良い地に蒔かれた種です。良い地に蒔かれるとは、みことばを聞くとそれを受け入れ、悟り、このみことばに生きるのです。

 

ここが肝心です。どの畑も確かにみことばを聞くのです。しかし、その聞き方によって結果が違うということです。みことばを聞いても悟らないと、実を結ぶことはできません。神の御国のすばらしさを味わうことができないのです。

 

イエス様はおもしろい話をされました。それは、天の御国は、畑に隠された宝のようなものだという話です。その宝を見つけた人はどうするでしょうか。皆さんだったらどうしますか。その人は大喜びで家に帰り、持ち物全部を売り払ってその畑を買います。なぜなら、その宝にはそれほどの価値があることを知っているからです。まあ、俗的な言い方になるかもしれませんが、皆さんの隣の土地が売りに出されていて、そこに数億円もする金塊が埋まっていることがわかったら、そこがたとえかなり高額な土地であっても、何とかしてその土地を買い求めるでしょう。それは何倍もの価値があるからです。神の国にはそれほどの価値があるのです。あなたは聖書にそれほどの価値を見出しているでしょうか。イエス・キリストにあるすばらしいいのちにその価値を見出しておられるでしょうか。もしかすると他のサークル活動の一部であるかのようにとらえてはいないでしょうか。あなたがどのように受け入れるかによってその結果が決まります。どうか鈍くならないでください。この霊的世界のすばらしさにしっかりと目を留めていただきたいのです。そして、良い地に蒔かれた種のように、何倍もの実を結んでいただきたいのです。

 

新聖歌428番には、「キリストには代えられ」という賛美歌があります。

「キリストには変えられません。世の宝もまた富も この御方でわたしに代わって死んだゆえです。世の楽しみを去れ 世の誉れを行け

キリストには変えられません。世の何物も」

作詞家のRHEA F.MILLER は、どんな気持ちでこれを書いたのでしょう。きっと、キリストに優る恵みはないという思いで書いたかもしれません。その恵みの数々を活の中で味わっていたのだと思います。

 

それは私たちも同じです。確かなことは、あなたも神のみことばを聞いたということです。確かに聞いたのです。しかし、そのみことばにどのように応答するかはあなたの信仰の決断にかかっているのです。どうか鈍くならないでください。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。とパウロは言いました。私たちもそう告白しましょう。私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。主よ、私の心はあなたに向かっています。あなたの仰せになられることをみな行いたいと願います。主よ、あなたのうちに私をかくまってくださいと、柔らかな心で日々主に心を向ける者でありたいと願わされます。

 

Ⅱ.乳ばかり飲んでいる(12-13)

 

次に12節と13節をご覧ください。霊的幼子の第二の特長は、乳ばかり飲んでいるということです。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。」

 

ここでのキーワードは乳です。聖書には、神のみことばを乳飲み子のようにして飲むように勧められています。たとえば、Ⅰペテロ2:2には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。救われたばかりのクリスチャンには、この純粋な、みことばの乳を慕い求めることは大切なことです。それによって成長し、救いを得ることができるからです。救われたばかりのクリスチャンがみことばの乳を飲まなかったらどうなってしまうでしょうか。栄養失調になって病気になってしまいます。ひどい場合は死に至ることもあります。それだけ、生まれたばかりの乳飲み子にとってみことばの乳を慕い求めることは重要なことなのです。また、お乳ばかりでなく手厚い世話も必要です。毎日おむつを交換したり、お風呂にいれて体を洗ってあげます。風邪などひかないようにお部屋もできるだけ適切な温度を保ちます。赤ちゃんが成長していくためにはこうしたお世話がどうしても必要なのです。

 

しかし、どうでしょう。もし20年経っても同じ状態だったとしたら、それは悲劇ではないでしょうか。もちろん身体に障害があってそのような生活を余儀なくされているというケースもありますが、一般的な成人は牛乳も飲みますが、バランスのとれた食事をとり、栄養の管理に努めます。もしそうしなかったとしたら、それは成人とは言えません。幼子なのです。

それは霊的にも同じで、クリスチャンも生まれたばかりの時にはミルクを飲んでたくさん栄養を受けますが、大人になるにつれてミルクばかりではなく堅い食べ物も食べて、健康な身体を維持するように努めます。

 

パウロは、コリントにいるクリスチャンに対して、彼らは霊的赤ん坊だと言いました。

「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。」(Ⅰコリント3:1-2)

 

なぜパウロはそのように言ったのでしょうか。なぜなら、彼らの間にねたみや争いがあったからです。なぜねたみや争いがあったのかというと、彼らが肉に属していたからです。ねたみや争いがあるとしたら、それは肉に属している証拠でした。それは、ノンクリスチャンと少しも変わりません。そういう人はもう何年も信仰に歩んでいても、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があったのです。キリストを信じて何年経つてもねたみや争いがあるというのはどうしてでしょうか。それは御霊に属しているからではなく、肉に属しているからです。それは知識の問題ではなく信仰の問題です。ここではそれを、「義の教えに通じていないと」と言っています。義の教えに通じていないのです。確かにイエス・キリストが救い主であることを知り、この方を自分の人生の主として受け入れたにもかかわらず、その神に自分を明け渡すことができないのです。まだ自分が中心で、神のことばに生きることができません。それが肉に属すると言われている人のことです。だから、ねたみや争いが生じるのです。いつまでも肉に属しているかのような歩みをするのです。

 

それはねたみや争いに限らず、たとえば、なかなか神に信頼することができないというのも同じです。いつも不安で、思い煩いから解放されないとか、すぐに人を傷つけるようなことを言ってしまったり、やったりしてしまう。私たちは不完全な者ですから、キリストを信じてもすぐにそのようなことをしてしまう弱さがありますが、ここで言う弱さとは本質的に違います。肉に属しているのか、それとも御霊に属しているのかということです。自分の思い通りにいかないとすぐに不平不満をぶちまけてしまうこともあります。みことばに生きることができないのです。そういう人は義の教えに通じてはいないのです。

 

この義の教えに通じていないというのは、現代訳を見ると、「神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができない」と訳しています。神の御心についてのすばらしい教えを味わうことができないのです。聖書の中には神のすばらしい約束がたくさんあります。それなのに、そのすばらしい教えを体験することができないというのです。義の教えに通じていないからです。自分はもう何でもわかっていると誤解しているため、学ぶ必要はないし、どんなに聞いても、「あっ、それは前に聞いたことがある」とか、「あ、私はちゃんとやっている」というレベルに留まるため、それ以上、神の恵みを味わうことができないのです。

 

その体験というのは、いつも信仰によります。この書の11章には、信仰によって生きた人たちの証が紹介されていますが、その特徴は何かというと、信仰によって生きたということです。信仰について聞いたのではありません。信仰を体験したのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(ヘブル11:7)

まだ全く雨が降らなかった時代、ノアは神から箱舟を作るようにと言われたとき、彼はそのことばに従って箱舟を作りました。神からそのように警告を受けたからです。だから、彼は神を畏れかしこんで、自分と家族のために箱舟を作り、その中に入って救われたのです。周りの人たちから見たらバカじゃないかと思われたでしょう。当時は天気予報があったかどうかわかりませんが、雨が降る気配は全くありませんでした。降ったとしてもそんなに大きな船を作っていったい何になるというのでしょう。でもノアは箱舟を作りました。なぜでしょうか。暇だったから・・。違います。ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、それを信じたからです。

 

皆さん、信仰とはこれです。信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(11:1)見えるものを信じることはだれにでもできます。大切なことは、まだ見ていないものを信じることです。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものだからです。ノアはまだ見ていませんでしたが、神の言われたことばを信じたのです。それが信仰です。

 

ですから、信仰とは知識ではなくて体験なのです。もちろん、知識も大切ですが、そこに留まっているだけではだめなのです。神の御心を知ったら、それを行わなければなりません。それが信仰です。そこで私たちは神の御心についての教えを味わうことができるのです。そこにはワクワクするような神の不思議と恵みが溢れているのです。それを体験することができるのです。

 

もうすぐさくら市でも開拓がはじまりますが、ワクワクしますね。なぜなら、そこで神がどのようなことをしてくださるのかがとても楽しみだからです。いったいそこでどんなことが起こるのかわかりません。でも神様は必ずすばらしいことをしてくださいます。なぜなら、わたしたちはそう信じているからです。そう信じているから一歩踏み出したわけです。その信仰に主が答えてくださらないわけがありません。私たちはそこで必ず神の御業を味わうことができるのです。

 

かつて福島で教会堂建設に携わったときのことですが、教会堂を建てたくても土地が高くて広い土地を確保するのは困難でした。どうしようかと祈りながら、当時、まだ娘が小学校と幼稚園に通っていた時でしたが、毎朝市内の学校に送って行った後で、すぐ近くにあった信夫山の小高い丘に登り祈りました。「主よ。助けてください。ご存知のように、私たちには何もありません。でも小さな会堂は一杯になりもっと広い場所が必要です。主よ。どうか道を開いてください。」と祈っていたら、創世記26章のみことばが与えられたのです。

「イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い地を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(創世記26:22)

「レホボテ」とは「広々とした所」という意味です。イサクは何度も井戸を掘りましたが、掘るたびにその地の住人と争いが起こったため、別の所に移動しなければなりませんでした。しかし、彼が三度目に掘った井戸は争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。彼らがその地で増え広がるようにと、神は彼らに広い土地を与えてくださったのです。

私はこの箇所を呼んたとき、これは私たちに対する主の約束だと信じました。そして「レホボテ」「レホボテ」と叫びながらその場を何度も飛び跳ねたのを覚えています。それは人間的には全く考えられない事でした。けれども、神にとって不可能なことは一つもありません。そして神はその約束のとおりに、私たちに広い土地を与えてくださったのです。私にとって最もすばらしい経験は、この神の御心についての教えを味わうことができたことです。もし私たちが信仰をもって受け止めるなら、私たちはいつでもこのすばらしい神の御心を体験することができるのです。そして、神がどのような方なのかを体験を通してはっきりと知ることができるのです。

 

もうすぐさくら市での働きも始まりますが、これは何かというと、私たちがこのすばらしい神の恵みを体験し、神の御名の栄光をほめたたえる機会であるということです。水を汲む者は知っていた。イエス様が最初の奇跡としてカナの婚礼で水をぶどう酒に変えた時の奇跡です。だれがその恵みを体験したのでしょうか。水を汲む者は知っていたのです。ただ神のみことばに従って、神の御心を行う人は、このすばらしい神の御業を体験することができるのです。

 

Ⅲ.良い物と悪い物とを見分けることができない(14)

 

霊的幼子の第三の特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていないということです。14節をご覧ください。

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」

 

霊的に成熟している人のもう一つの特長は、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されているということです。神のみことばは、ある意味で「堅い書物」だと言えるでしょう。一度読んでみて、「ああ、そういうことか」とすぐに理解できるほど易しい書物ではありません。特に、このヘブル人への手紙のように旧約聖書の背景をよく理解していない人にとってはチンプンカンプンかもしれません。そして、このような箇所を学ぶには忍耐も求められます。しかし、よく祈り、深く瞑想し、何度も何度も口のなかで噛みながら、咀嚼するなら、必ず理解できるようになり、霊的に成熟した者となることができるのです。そして、そのようにして霊的に養われますと、いつの間にか、「経験によって良い物と悪い物を見分ける感覚」が訓練されるのです。何が神のみこころで、何がそうでないのかを、識別できるようになるのです。ここにはイエス・キリストが偉大な大祭司であり、とこしえの救いを与える方であるということが、感動をもって伝わってくるのです。そのような成熟した者になることができたら、どんなに感謝なことでしょう。そのためにも私たちは、いつも成熟を目指して進まなければなりません。自分はもうわかっているから大丈夫だと思うことが問題です。そういう人こそ、耳が鈍くなっているからです。義の教えに通じていません。

 

たとえば、このようなみことばがあります。皆さんもよく知っているみことばです。それは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)です。

 

どうですか?これは易しい言葉です。だれでも理解できるでしょう。でも、いざこのみことばを実行しようと思ったらどうでしょうか。「いつも喜んでいなさい」とか、「絶えず祈りなさい。」「すべてのことについて感謝しなさい」と言われても、うれしい時には喜び、感謝できる事があれば感謝することができても、いつも、どんなことも喜び、感謝できるかというと、なかなかできるものではありません。そう思うと、自分がいかに霊的成熟を遂げていない者であるかがわかります。それなのに自分は成熟していると思っていることが問題なのです。だから私たちは主にこう申し上げましょう。

 

「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)

 

これは悪霊にとりつかれていた息子をいやしてもらおうとイエス様のところにやって来た父親が、イエス様に向かって発した言葉です。彼はイエス様を信じているつもりだったのに、信じていたからこそイエス様のもとにやって来たのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言ったのです。彼の信仰とその言葉にはある種のギャップがありました。イエス様は彼を助けることができると信じていたはずなのに、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで助けてください。」と言ってしまいました。これは私たちの信仰に似ているのではないでしょうか。ついつい本音が出てしまったのです。口では信じていると言っていても、心の中では「無理だろうな」「できるはずがない」と思っているのです。経験によって良い物と悪い物とを見分ける訓練がされていないのです。すなわち、神の御心についてのすばらしい教えを本当の意味で味わっていないのです。なのに、私はもうわかっていると思いこんでいるのです。

 

わかっているようでわかっていない。私たちはそんな弱い者なのです。だから、今からでも遅くはありません。私は神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるほど幼い者なのだと認めて、謙虚に学び初めてください。

きょうはこの後で信仰生活ステップ・アップという学び会もあります。いきいきした信仰生活のために必要な3つのことを学ぼうと思っています。これにもぜひ出席してください。通り一遍等にこれらのことをするというのではなく、霊的成長に必要なこととして、もう一度誠心誠意これらのことから始めてみてはいかがでしょうか。霊的成長に近道はありません。コツコツと毎日やっていれば必ず成長し、成熟したクリスチャンになっていくでしょう。そのとき、すばらしい神の御心に関するすばらしい教えを本当の意味で味わい知ることができるのです。