申命記6章

きょうは、申命記6章から学びます。モーセは前の章から、イスラエルが約束の地に渡って行って、そこで彼らが行うためのおきてと定めを語っています。6章はその続きです。

 

1.聞きなさい。イスラエル(1-9

 

まず、1節から9節までをご覧ください。

「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 

イスラエルが約束の地を所有してから、そこで、主が命令したおきてと定めと行うのは、彼らが一生の間、主を恐れて生き、長く生きることができるためです。それは彼らだけではありません。モーセも、また彼らの子も孫も、であります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちに新しい啓示として語られることはなく、すでにモーセに与えられた神の律法によって生きることです。彼らはこれを子々孫々に伝えていかなければなりませんでした。

 

それは私たちも同じです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、祈りをしていました(使徒2:42)。彼らは使徒たちによって教えられた教え、それは元々主によって教えられたことでありますが、それを堅く守らなければなりませんでした。

 

パウロ自身も手紙の中でこう言っています。「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」(Ⅱテサロニケ2:15彼らはパウロのことば、使徒たちの教えを堅く守ることが求められたのです。ですから、私たちはこの使徒たちの教えに従っている者であり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちなのです。何か新しい啓示が与えられたとか、今まで聞いたことがない魅力的な教えを聞いたというような、当時のアテネの人たちのように、新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、そのような新しいものはありません。聖書は既に完結しているのです。私たちはそこから神の真理を再発見し、その喜びの中で生きていかなければならないのです。私たちの役割は、ただ、神が語られた真理を継承させていくことだけです。

 

では、神が語られた真理とは何でしょうか。神のおきてと定めとは何でしょうか。4節と5節をご覧ください。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

この「聞きなさい」という言葉は申命記においてのキーワードであるということはお話しました。これは、「シェマ」と呼ばれているもので、ユダヤ人の信仰の柱になっている御言葉です。それは、主はただひとりであるということ、そしてこの主を心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛するということです。

 

まず、「主は私たちの神。主はただひとりである。」ということですが、これは、ユダヤ人が迫害されても、殺されても、決してゆずらなかった信仰です。唯一神の信仰ですね。主はただひとりであるということです。しかし、私たちが信じている神は一つは一つですが、その一つの神は三つの人格を持っておられる神であって、それが一つである神、三位一体の神です。それが聖書全体を貫いている教えです。それは、たとえば創世記11節や、126節をみればわかります。ではこの箇所はどうなのでしょうか。実は、ここも同じなのです。「主は私たちの神」の「神」は「エロヒーム」という複数形が使われているのです。そして、「ただひとり」という言葉も「エカド」という言葉ですが、これは複合単数形が使われているのです。複合単数形というのは、例えば「一本の手」と言うときに、手には5本の指がありますが、複合的に一つにされているわけです。そのような時に使われるのが複合単数形です。それは創世記1章1節と同じです。「初めに、神が天と地を創造された。」の「神」は複数形ですが、「創造された」は複合単数形です。ここと同じです。複数なのですが単数であめことを表しているわけです。つまり、これも三位一体を表していることばなのです。

 

次に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉ですが、これは、前回学んだ十戒の要約です。イエス様は、ある律法の専門家から、律法の中で、大切ないましめはどれですか、と質問されたとき、この戒めを語られました(マタイ22:38)。もし主を愛するなら、主のおきてと定めに喜んで応答したいと思うでしょう。それはもう戒めではありません。愛と恵みの言葉以外の何ものでもありません。だから、神を愛すること、これが第一の戒めであり、

律法全体の要約なのです。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するという第二の戒めも大切です。律法全体と預言者とが、この二つにかかっているのです。

 

 それゆえ、私たちはこの主が命じる命令を心に刻まなければなりません。また、子どもたちによく教え、家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、これを唱えなければなりません。このことばを忘れないように、手に結び付け、記章として額の上に置かなければなりません。また、家の門柱と門に書きしるさなければならないのです。ユダヤ人は、これを文字通り実践しました。ですから、皆さんもご覧になられたことがあるでしょう。ユダヤ人の額にマッチ箱ほどの大きさの箱をくくりつけている写真を・・。それはこの箇所を忘れないようにと、額の上に置いたのです。

 

 これは、パウロのことばでいえば、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」ことです。(コロサイ3:16。イスラエル人はそれを忘れないようにあらゆることをしました。特に、彼らは、外側で主のみことばを刻みましたが、私たちはこれを、心に住まわせなければならないのです。エレミヤ31:3には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」とあります。また、使徒ヨハネは、「あなたがたの場合、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。」(Ⅰヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、形式的にみことばを刻む必要はありません。聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。しかし、こうしたことのためにもみことばを心に刻むという努力は求められているのです。それが聖霊の油を注がれているクリスチャンのあり方なのです。

 

 2.あなたは気を付けて(10-19

 

次に10節から19節までをご覧ください。

「あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。」

 

次にモーセは、イスラエルが約束の地に入って行ったときに、陥りやすい過ちについて語っています。それは何でしょうか。12節をご覧ください。それは、「あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい」ということです。彼らが約束の地に入っていくとき、そこで多くの祝福を受けます。すべての良い物で満たされるのです。そのような祝福にあずかることはすばらしいことですが、そこに一つの危険もあるのです。それは、主を忘れてしまうということです。自分がどのようなところから救われてここまで来たのかを忘れ、あたかもそれを自分の力で成し得たかのような錯覚を抱き、自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしやすいのです。そのような危険性があります。

 

かつて日本にも多くの救われた人たちがいました。フランシスコ・ザビエルが最初に日本にキリスト教を宣教したとき、明治維新によって新しい国が作られたとき、そして、戦後、敗戦の貧しさと苦しみの中で人々が真の幸福とは何か、人生の目的は何なのかを求めて教会にやって来た時です。ある教会の記録によると人々は波が押し寄せるかのように教会にやって来たとあります。どの教会も人、人、人で満ちあふれていました。入り切れないほどの人がやって来たのです。

ところが、高度経済成長を経て日本が豊かになると、今度は波が引くように、教会から人々が去って行ったとあります。いったい何が問題だったのでしょうか。いろいろな問題が複雑に絡み合っているためこれが問題だとは言い切れないところはありますが、その一つの要因がこれなのです。豊かになった。もう神に頼る必要がなくなったのです。人はどちらかというと物質的に豊かになると、それに反比例して霊的に貧しくなってしまいます。神への飢え渇きが起こりづらくなるのです。別に神に頼らなくてもやっていける、わざわざ教会に行く必要を感じないのです。それはまさに主がラオデキヤの教会に書き送ったことではないでしょうか。

 

黙示録3:14-22のところで、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らないラオデキヤの教会の人たちに、主は、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。熱くもなく、冷たくもない信仰ではなく、厚いか、冷たいかであってほしいというのです。なまぬるいものは吐き出すとまで言うのです。

 

これはいつの時代でも同じです。人は豊かになると主を忘れてしまうという過ちに陥りやすくなるのです。だから、気を付けなければなりません。あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなければならないのです。ただ主を恐れなければなりません。主に仕え、御名によって誓わなければならないのです。ほかの神々、神以外のものに仕えてはなりません。

 

なぜですか?なぜなら、主は、ねたむ神であられるからです。主を忘れ、主以外のものに走っていくなら、主はあなたをねたみ、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の表から根絶やしにされるのです。何ですか、ねたむというのは?皆さん、私たちの神はねたむ神なのです。それはちょうど夫婦のようです。夫婦であれば、一方が他の対象に向かっていけばねたみます。それは愛しているからです。相手がどうでもよければそのような感情は起こらないでしょうが、愛によって結ばれた夫婦ならば、それは当然にして起こってくる感情なんのです。神とイスラエルの関係も同じです。神は彼らをエジプトの奴隷の中から救い出されたお方で、神の民とされたのです。にもかかわらず、彼らが別の神に走って行くことがあるとしたら、そこには当然妬みが起こるのではないでしょうか。それはイスラエルだけでなく、私たちにも言えることです。私たちも主の愛によって罪という奴隷から救われました。主イエスの十字架の贖いによって買い戻されました。私たちは主のものなのです。そんな私たちが主から離れることがあるとしたら、どれほど主が悲しまれることでしょうか。

 

だから、主が命じられた教えとさとしを忠実に守らなければならないのです。彼らがマサで主を試みたように、主を試みてはならないのです。マサで試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らしてしまうからです。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。

 

3.あなたの息子が尋ねるとき(20-25

 

次に20節から25節までをご覧ください。

「後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

 

ここでモーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんで?」。昨日も孫が泊まりました、その話が止まりませんでした。「グランパ、これ何?」「あれは?」次から次に質問が出てきます。そして、もう大きくなると、おそらくこういう質問が出てくるでしょう。「主が命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか・・?」そのとき、どう答えたらいいのでしょうか。

 

そして、そのときにはまず、イスラエルの先祖がどういう状態であったかを話さなければなりません。すなわち、彼らはエジプトで奴隷の状態であったということです。しかし、そのような状態から、主が力強い御手をもって、彼らをエジプトから連れ出されました。どのような御手があったのでしょうか。主は彼らの目の前で、エジプトに対して、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ってくださいました。そのようにして、彼らを先祖たちに誓われた地へと導いてくださったのです。それは、私たちがこのおきてを守り、いつまでも主を恐れるためです。そして、今日のように、いつまでも自分たちが幸せに、生きるためなのです。だから、主が命じられた命令を守り行うことは、私たちの義となるのです。イスラエルにとって出エジプトが、彼らの新しい生活の出発点であったのです。そして、それをいつまでも忘れないために、彼らは過ぎ越しの祭りを行います。ただ口伝で伝えるだけではありません。それがどのようなものであったのかを、いつも体験として覚えようと努めたのです。

 

それは私たちも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。そのことを忘れないように聖餐式を行うのです。そして、それをただ忘れないというだけでなく、私たちにはさらにこれを宣べ伝えていくという使命がゆだねられています。その起点となるのがイエス・キリストの十字架の贖いであり、十字架と復活によって成し遂げられた救いの御業なのです。自分たちがいかに罪の中にあえいでいた者であったのか、しかし、そのような中から神が救い出してくださいました。圧倒的なしるしと不思議をもって導き出してくださいました。そのことを伝えていかなければならないのです。

 

きょうは今年最後の祈祷会なりましたが、この一年の終わりもキリストの十字架の贖いの恵みにとどまり、新しい年もこの恵みで始まっていく者でありたいと思います。

申命記5章

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

きょうは、申命記5章から学びます。 モーセはこれまで、エジプトから出てモアブの地に至るまでの経緯を話しましたが、ここからは具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-5

 

まず、1節から5節までをご覧ください。

「さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。」

 

モーセは再び、イスラエルの民を集めて語ります。「聞きなさい」ということばは、この申命記のキーワードの一つです。それだけ重要な内容であるということです。「きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。」と。その内容は、かつて彼らがホレブにいたとき、そこで神と結ばれた契約についてです。主はあの山で、火の中から彼らと顔と顔とを合わせて語られました。これは、主がイスラエルに個人的に語られたということです。主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができるのです。

 

2.主のおきてと定め(6-21

 

次に6節から21節までをご覧ください。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

 

モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、主がイスラエルをエジプト贖い出されたお方であるという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、エジプトから救われ、贖われた者だから、その贖ってくださった方の命令として行うのです。だから、罪が贖われた者でなければ、本当の意味で神の律法を行うことはできません。この戒めのベースにあるのは愛なのです。

 

先日、近藤先生ご夫妻とお話している中で、よくクリスチャンが日曜日教会に行かなければならないのは束縛されるようで嫌だということを聞くけれども、自分はそういうことがなかったので、そういう人の気持ちが理解できないとおっしゃっておられました。神に罪が救われた喜びで日曜日は教会に行きたくて、行きたくてしょうがなかったというのです。それはここで言っていることです。これから語られる戒めは決していやいやながら、強制されてするのではなく、主によって罪が贖われた者だから喜んで応答したいのです。

 

では、その内容を見ていきましょう。まず神の律法の第一の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」です。主のみを神とし、他のものを神としてはいけないということです。これは単に木や石で作った神を神としてはいけないというだけでなく、神以外のものを神の位置に置いてはいけないということを意味しています。神以外に自分の仕事や家庭を、神以外に自分自身を置いてはいけないのです。それらを拝んでもなりません。仕えてもなりません。ただ神だけを礼拝し、神にだけ仕えなければならないのです。

 

12節から15節までには、安息日を守るように言われています。安息日とは、主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたので、この日を聖なる日とするように定められたものです。ところが、申命記には、スラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手をもって、彼らを導き出されたので、そのことを覚えるために、この日を安息日として守るようにと定められています。つまり、モーセは今、新しい世代のイスラエルに、主がエジプトから導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 

 ここに、安息日とは何なのか、その意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成し、七日目に休まれました。これは創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、これは主の救いのみわざの完成です。主は救いのみわざを終えられたので、安息されたのです。つまり、救いのみわざからの安息です。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義なのです。それは主イエスによってもたらされた安息を指し示しています。主イエスは十字架の上で、「テテレスタイ」(完了した)と言われました。また三日目に死人の中からよみがえられたことによって、全人類を罪から救い出す神のみわざが完成したのです。ですから、私たちはこの主イエスのみわざの中に憩うことができるのです。つまり、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって真の安息を持つことができるのです。であれば、この安息日の規定はもはや律法ではありません。私たちを罪から贖い出して救いのみわざを成し遂げてくださった主の中に安息を得ているという喜びをもって、主の日に集まることは当然のことではないでしょうか。

 

そして次に、あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。と続きます。

ここで出エジプト記の記述と若干違う点は、最後の「隣人の妻を欲しがってはならない」です。出エジプト記には「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きますが、ここには、あなたの隣人の妻をとあって、家のことに関する記述はありません。いったいなぜでしょうか。おそらく、この後の7章に異邦人の妻のことが語られているので、そのことを意識していたからでしょう。イスラエルが約束の地に入ったときには、その地の住民を聖絶しなければなりませんでした。彼らと縁を結んではならなかったのです。それゆえ、イスラエルの隣人の妻を欲しがってはならなかったのです。ですから、この隣人の妻というのは単に隣人の妻というだけでなく、異邦人の妻のことも含んで語られていたのです。

 

3.主の御声を聞き続ける(22-27

 

次に22節から27節までをご覧ください。

「これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」 

 

これらの戒めを、主はあのホレブの山で、火と雲と暗やみの中から、イスラエル全会衆に、大きな声で語られました。そして、それを二枚の石の板に書いて、モーセに授けられました。イスラエルの部族のすべてのかしらと長老たちとは、それを聞いてモーセのところに来て言いました。「私たちは火の中から御声を聞きました。」と。主の御声を聞いてもなお生きているとは考えられないことでしたが、彼らはそのようにして主と顔と顔とを合わせて、主の御声を聞いたにもかかわらず、滅ぼされることはありませんでした。これはすごいことです。天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることなど、あまりにも信じがたいことだったのです。それで彼らは、主がモーセに告げられることばはみな聞いて、行いますと言いました。

 

28節から33節までです。

「主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。」

 

主は、イスラエルの決意をとても喜ばれました。そして、彼らの心がいつもこのようであって、いつまでも、主を恐れ、主のすべての命令を守るように、と仰せになられました。この時だけでなく、いつもこのようであるように、いつまでもこのようであるようにというのが、主の願いだったのです。私たちはある時主の御声を聞いて「アーメン」と言って従いますが、しばらく経つとその気持ちがいつしか失せてしまい、自分の思いが優先してしまうことがあります。そうではなくて、いつも、いつまでも、主に聞き従わなければなりません。そのためにはどうしたらいいのでしょうか。主の御声を聞き続けることです。主と顔と顔とを合わせてその御声を聞き、主をおそれることが求められます。そのことによってイスラエルは主との結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに主と関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。私たちの信仰生活の土台は、この主との生ける結びつき以外にはないのです。

 

あのザアカイもそうでした。主がエリコの町にやって来られたとき、ザアカイはいちじく桑の木に登りました。そのザアカイに向かってイエスは御顔を向け、個人的に語られました。主がホレブでイスラエルに対してなされたようにです。すると彼は、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(ルカ19:1-10)。いったいなぜ彼はそのように言ったのでしょうか。それは、彼がイエスの御声を聞き、イエスの聖さにふれて、自分の汚れが明らかになり、悔い改めたからです。彼はイエスと個人的な関係を持つことができたのです。そして、このように主と個人的な関係を持つとき、私たちは変えられていきます。聖なる主にお会いすることは恐れも伴いますが、そのような個人的な主との関係が、私たちをご自身へと近づけていくのです。

 

しかしモ―セに対して主は、「あなたは、わたしとともにここにとどまれ。」と言われました。この十戒の他にもイスラエルに教えなければならない、おきてと定めとを告げるためです。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じなければなりません。なぜでしょうか。それは彼らが生き、しあわせになるためです。私たちは主のおきとさだめを守ることが、そこから右にも左にもそれないで、その道を歩み続けることが、私たちの幸せとなり、私たちが生きる道でもあるのです。

ヘブル4章14~16節 「私たちの大祭司イエス」

 

 きょうは、ヘブル4章14節から16節までのみことばから、「私たちの大祭司イエス」というタイトルでお話したいと思います。

 

 「大祭司」というのは私たち日本人にはあまり馴染みのない言葉ですが、旧約聖書を信じていたユダヤ人たちにはよく知られていたことでした。それは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、そのままでは神に近づくことができなかったからです。神は聖なる、聖なる、聖なる方なので、その神に近づこうものなら、たちまちのうちに滅ぼされてしまったわけです。それで神はそういうことがないように、ご自分に近づく方法をお定めになられました。それが大祭司を建てるということだったのです。大祭司が年に一度動物をほふり、その血を携えて幕屋と呼ばれる所に入って行き、だれも近づくことができない、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

 ここでは、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでずっとこの大祭司の話が続きます。いわばこれはこのヘブル書の中心的な内容であると言えます。いったいなぜ大祭司の話が出てくるのでしょうか。旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。それが私たちの主イエス・キリストです。

この手紙はユダヤ教からキリスト教に回心した人たちに宛てて書かれました。キリスト教に回心したのはよかったけれども、それによって度重なる迫害を受けて、中には元の教え、旧約聖書の律法に逆戻りしようという人たちもいました。そこでこの手紙の著者は、旧約聖書の大祭司であるアロンとまことの大祭司であるイエスとを比較することによって、イエスがどれほど偉大な大祭司であるのかを証明し、このイエスにしっかりとどまるようにと勧めるのです。いったいイエスはどのように偉大な大祭司なのでしょうか。

 

 Ⅰ.もろもろの天を通られた大祭司(14)

 

 まず14節をご覧ください。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

 

 ここには、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、とあります。私たちの大祭司であられるイエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司です。では、この「もろもろの天を通られた」とはどういう意味でしょうか。

 

ユダヤ人は、天には三つの層があると考えていました。すなわち、第一の天、第二の天、そして第三の天です。まず、第一の天というのは、私たちの肉眼で見ることができる天のことで、そこには雲あり、太陽の光が輝いています。また、鳥が飛び交っています。いわゆる大気圏と呼ばれてものです。

第二の天は、その大気圏を出た宇宙のことです。そこには太陽があり、月があり、多くの星々があります。旧約聖書に出てくるソロモン王は、壮大な神の宮を建てようとしていたとき、「天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(Ⅱ歴代誌2:6)と言いましたが、この「天の天」というのがこの第二の天のことでしょう。神が造られたすべての世界のことです。

 そして第三の天というのは、神が住んでおられる所、神の国のことです。Ⅱコリント12章2節のところでパウロは、「第三の天にまで引き上げられました」と言っていますが、それはこの神が住み給う所、天国のことでした。

 だから、ある人はもろもろの天を通られたというのは、こうした天を通られたという意味ではないかと考えているのです。

 

 しかし、ある人たちはこの天を文字通りの天のことではなく、自然界に対する超自然界のことを指しているのではないかと考えています。すなわち、悪魔の試みを含むあらゆる経験をされたということを意味ではないかというのです。それは、15節のところに、「罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあるからです。

 

 しかし、このもろもろの天を通られたということがどういうことであるにせよ、重要なことは、このもろもろの天を通ってどこへ行かれたのかということです。キリストはもろもろの天を通られ、神の御住まいであられる天に昇り、その右の座に着座されました。着座するというのは働きが完成したことを表しています。もう終わったのです。人類の罪に対する神の救いのみわざは、このイエスによって成し遂げられました。イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、三日目によみがえれ、四十日間この地上でご自身のお姿を現されて後に、天にある神の御座に着座されたことによって完成したのです。ですからもろもろの天を通られたというのは、この救いのみわざを成し遂げて神の右の座に着かれたことを表しているのです。

 

ローマ8章34節には、このようにあります。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

 

主イエスは、私たちの罪の贖いを成し遂げて神の右の座に着き、そこで私たちのためにとりなしていてくださるのです。「とりなす」とは「なかだちをする」とか、「仲介する」ということですが、たとえだれかがあなたを罪に定めようとする人がいたとしても、あなたが罪に定められることが絶対にありません。なぜなら、キリストが神の右の座にいて、とりなしてくださるからです。あなたの罪の贖いは、イエス様が十字架で死んで、三日目によみがえられたことで、完全に成し遂げられたのです。

 

 でも、この地上の大祭司、アロンの家系の大祭司はどうかというと、そうではありません。ユダヤ教では今でも年に一度、大贖罪日と呼ばれる日に大祭司が動物の血を携えて聖所の中に入って行き、そこでイスラエルの罪の贖いが繰り返して行われています。それはいつまで経っても終わることがありません。永遠に繰り返されているのです。

 

 しかし、イエスによる贖いは完了しました。なぜなら、イエスはやぎや子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたからです。もう罪の贖いは必要なくなりました。主イエスの十字架の血によって、私たちと神との間を隔てていた壁は取り除かれたのです。そして、大胆に、神の御座に地区づくことができるようになりました。これはすごい恵みです。

 

マタイの福音書27章51節を見ると、イエスさまが十字架にかかって死なれ、息を引き取られたとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたとありますが、それは、神と人との関係を隔てていた罪の幕が取り除かれたということです。イエスさまの血によって、イエスさまが私たちの罪に身代わりとなって十字架で死んでくださったので、その隔ての壁が完全に取り除かれたのです。ですから、このイエスさまを信じる人はだれでも、いつでも、どこでも、自由に、大胆に、神のもとに行くことができるようになったのです。これがもろもろの天を通られたという意味です。

 

 ですから、このイエスを信じる者はだれでも救われるのです。あなたがキリストを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されます。過去に犯した罪ばかりでなく、現在の罪も、未来の罪も、すべて赦されるのです。なぜなら、聖書には「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)とあるからです。これはものすごい恵みではないでしょうか。

 

 先日、大久保茂美姉のバプテスマ式を行いました。いろいろな事で不安を抱え夜も眠れない苦しみの中でイエス様に助けを求めて教会に来られました。そして、キリストの罪の赦しを信じたとき、心に平安が与えられたと言います。イエス様が平安を与えてくださいました。それは罪の赦しから来る平安です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところへ来なさい。」と言われるイエス様の招きに応答して、イエス様の十字架の贖いを信じたことで、大久保さんのすべての罪がゆるされ、神にゆだねて祈ることができるようになったのです。何という恵みでしょうか。

 

 昔、アメリカにチャールズ・フィニー(Charles Grandison Finney、1792年1875年)という伝道者がいました。彼は「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれた人ですが、彼がある町で伝道していたとき、人相の悪い男が彼のところにやって来て、「今晩、わしの店まで来てくれ」と言ったので行ってみると、その男は突然ピストルを取り出してこう言いました。「昨晩あんたが言ったことは本当か」「どんなことを言いましたか。」と言うと、「キリストの血がすべての罪から聖めるっていうことさ。」するとフィニーは、「それは私のことばではなく、神のおことばです。本当です。」と答えると、彼は自分の身の上話を始めました。

「実は、この酒場にある秘密のギャンブル場で、おれは多くの男から最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「はい、すべての罪はキリストの血によってきよめられると書いてあります。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいるが、わしはこの16年間全く家族を顧みず、妻をののしり続けてきた。この前は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、大やけどを負わせてしまったんだが、こんな男でも神は赦してくれるというのか。」

 するとフィニーは立ち上がり、その男の手を握ってこう言いました。

「これまで聞いたこともないような恐ろしい話を聞きましたが、聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

 するとその男は、「それを聞いて安心した」と言って自分の家に帰って行きました。

 彼は自分の部屋に幼い娘を呼び寄せて、ひざの上に乗せると、「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起ったのかと部屋の中をのぞいている奥さんの頬に、涙が伝わり落ちました。彼は妻を呼んで言いました。

「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」

そして彼は酒場を閉め、その町に大きな恩恵をもたらす者になったのです。

 

皆さん、すばらしい知らせではないですか。キリストの血は、どんな罪でも赦し、聖め、私たちを神と和解させてくれます。キリストの愛はどんな人でもその人を内側から変え、神の平安で満たしてくださるのです。あなたもこの平安をほしいと思いませんか。イエスさまはもろもろの天を通って神の右の座に着かれました。あなたもこのイエスを信じるなら、罪の赦しと永遠のいのちを受けることができます。イエスは、もろもろの天を通られた偉大な大祭司なのです。

 

 Ⅱ.私たちの弱さに同情してくださる大祭司(15)

 

 次に15節をご覧ください。一緒に読みましょう。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

 

 ここには、私たちの大祭司についてもう一つのことが言われています。それは、私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではない、ということです。私たちが苦しむとき、その苦しみを十分に理解し、同情することがおできになられます。それはもう他人事ではありません。自分の痛み、自分の苦しみ、自分の悲しみとして、共に負ってくださるのです。

 

聖書に「良きサマリヤ人」の話があります。彼は、旅の途中、強盗に襲われ死にそうになっていた人を見ると、かわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋につれて行き、介抱してやりました。次の日、彼はデナリ硬貨を二つ取り出し、宿屋の主人に渡して言いました。「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

このサマリや人はなぜこのようなことができたのでしょうか。それは、この傷つき、苦しんでいた人の隣人になったからです。彼は傷つき、苦しんでいた人を見たとき、とても他人事には思えませんでした。それを自分のことのように感じたのです。だから彼はそのような行動をとることができたのです。

 

それはイエス様も同じです。イエス様は罪によって苦しみ、傷ついている私たちを見たとき、それを自分の苦しみとして理解することができました。なぜなら、イエス様は私たちと同じような肉体を持って来られ、私たちが経験するすべての苦しみ、いやそれ以上の十字架の苦しみに会われたからです。先週はクリスマスでしたが、クリスマスのすばらしいことは、ことばが人となってくださったということです。神は高いところにいて、そこから救おうとされたのではなく、私たちと同じ姿をとって生まれてくださいました。私たちが経験するすべての苦しみを経験されたのです。

 

先日のアンビリバボーで、理由もなくたった一人の息子を殺された市瀬朝一さんという方の、人生をかけた壮絶な敵討ちが紹介されました。その敵討ちとは息子を殺した犯人を殺すことではなく、同じように家族を殺された人たちを経済的に救うべく、犯罪被害者の保障に関する法律を作るということでした。その働きは、朝市さんが過労で失明するという壮絶な戦いでしたが、奥様に助けられながら運動を続け、ついに国を動かすことに成功し、息子さんが殺されてから12年後の1977年にその法案が成立したのです。それは朝市さんが亡くなってから三日後のことでした。いったいそれほどまでに朝市さんの心を動かしたものは何だったのでしょうか。それは、朝市さんが朝市さんと同じように愛する家族を失った人たちの悲しみに触れて、経済的に困窮している人たちの現実を知ったからでした。朝市さんは自分の息子が殺されたことで、同じような苦しみにある人たちのことを十分思いやることができたのです。

 

 確かに、私たちは痛みを経験してはじめて人の痛みを理解することができます。貧しさを経験してはじめて人の貧しさを理解し、同情することができます。しかし、私たちはひとりで、すべての痛みや苦しみを経験することはできません。したがって、すべての人を理解することは不可能なのです。しかし、私たちの大祭司は、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われました。ですから、私たちの弱さを十分すぎるほど理解することができ、また同情することができるのです。そればかりではありません。私たちの大祭司は、そうした弱さや試みから助け出すことができる方です。

 

 Ⅲ.おりにかなった助けを与えてくださる大祭司(16)

 

 第三のことは、だから、大胆に恵みの御座に近づこうということです。16節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

 

 旧約聖書の時代には、だれもが神に近づけるというわけではありませんでした。近づくことができなかたのです。神に近づこうものならば、たちまちにして滅ぼされてしまいました。神に近づくことが許されたのは神に選ばれた大祭司だけで、しかもそれは一年に一度だけのことでした。しかも大祭司にも罪があったので、彼が神の前に出る時にはまず自分自身と家族のためにいけにえをささげなければならないという、念入りさが求められました。

 

 けれども、今は違います。今は神の御子イエス・キリストが完全ないけにえとして十字架で死んでくださり、私たちのすべての罪を贖ってくださったので、大胆に神に近づくことができるようになりました。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができるのです。

 

 この「大胆に」という言葉は、1955年版の口語訳聖書では「少しもはばかることなく」と訳されています。「はばかることなく」というのは「遠慮しないで」とか、「ためらわないで」ということです。遠慮しないで、ためらわないで、大胆に恵みの御座に近づこうではないかというのです。

 

 しかし、どうでしょうか。実際にははばかってしまいます。躊躇して、遠慮して、なかなか神のもとに行こうとしません。なぜでしょうか。その理由の一つは、こんな罪深い者が神のもとに近づくなんておこがましいと思っているからです。自分の罪がそんなに簡単に赦されるはずがないと思っているのです。それが悪魔、サタンの常套手段でもあります。悪魔は偽善者であり、告発者なので、絶えず私たちを訴えてきます。あなたはあんな罪、こんな罪を犯したではないか、その罪がそんなに簡単に赦されるとでも思っているのか、あなたのようなひどい人間が神様に愛される資格があるとでも思っているのか、あなたが神に祈る資格があるとでもいうのか・・。そうやって責めてくるわけです。告発者ですから。そうやって責められると、大抵の場合は、「そうだ、私の罪は大きくてそんなに簡単に赦されるはずがない」と思ってしまいます。そして、神に近づくことにブレーキをかけてしまうのです。

 

またこのような自分自身の弱さとは別に、それにつけ入るサタンの働きもあります。ちょっと前にテツ&トモという漫才コンビが歌う「なんでだろう」という歌がブームになりました。なんでブームになったのかというと、その歌に共感できる人が多いからです。確かに私たちの人生には、「なんでだろう」というようなことがよく起こるのです。その理由がわからなくて、神が信じられなくなってしまったというケースも少なくありません。要するに、そこには自分の力を超えた力が働いているのです。

 

しかし、そうした弱さや破れというものを感じながらも、なおイエスさまの恵み深さにすがりついていくことが、私たちの信仰なのです。何の闇もなく、破れもないところを行くのではなく、そうした弱さを抱えながらも、そうした愚かさを持ちながらも、そんな不十分な者として、とても信仰者だなんて思えないような者でありながらも、なおこのような者をあわれみ、恵み、おりにかなった助けを与えてくださるイエスさまにすがりつくこと、それが私たちの信仰なのです。

 

それはイエス・キリストがあの十字架で、私たちのあらゆる恐れ、あらゆる不幸、あらゆる悲しみの根源である罪と死に打ち勝ってくださったからです。そのようにして私たちと神とを結び付けてくださいました。私たちは、このような偉大な大祭司を持っているのです。それだから、私たちは自分の弱さの中に留まり続けるのではなく、そこから一歩踏み出して、神様に近づくことができるのです。苦しい時は「神様、助けてください」と叫び求めることができるのです。今も天で大祭司であられるイエス・キリストが、私たちの信仰を支え、導いておられるのです。あなたのために祈り続けておられるのです。

 

 あなたはどんなことで弱さを覚えておられますか。子どもたちのこと、夫婦のこと、人間関係のこと、仕事のこと、学校のこと、将来のこと、いろいろと思い煩うことがあると思いますが、どうかそれを自分の中にためておかないで、いつでも、どこでも、おりにかなった助けを受けるために、主イエスのもとに、その恵みの御座に近づいていこうではありませんか。

申命記4章

きょうは、申命記4章から学びます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。

「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」

 

「申命記」というタイトルの意味は、第二の律法で、神が語られたことを繰り返して述べるということでした。なぜなら、それはとても重要な内容だからです。ここでモーセは、「聞きなさい」という言葉を何度も繰り返して語り、それを強調しています。1節には、「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは生き、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えようとしておられる地を所有することができるからです。その神の命じることばには、つけ加えてはならないし、また、減らしてはなりません。主が命じる命令を、守らなければなりません。

 

その命令を守らなかったことで起こった悲劇がここに取り上げられています。それはバアル・ペオルでの出来事です。これは民数記25章に記されてある内容ですが、イスラエルがモアブの草原に宿営していたとき、バラムの陰謀によってモアブの娘たちがそこに送り込まれると、この娘たちとみだらなことをしただけでなく、彼女たちの神々であったバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りがイスラエルに対して燃やされ、それに関わった多くの者たちが殺されたのです。この神罰で死んだ者は二万四千人であったとあります(民数記25:9)。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らが主の命令に従わなかったことです。主の命令に背いて、偶像を拝んでしまいました。それで主は彼らを根絶やしにされたのです。しかし、それはあの時だけのことではありません。その主はきょうも生きておられるのです。彼らは、これから入って行って、所有しようとしているその地で、主の命令を守り行わなければなりません。そのことで、その地の住民に、彼らの知恵と悟りを示し、これらすべてのおきてを聞く彼らが、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うようになるためです。

 

このようなイスラエルの偉大さは、神の二つの特質にかかっていることでした。一つは、彼らが呼ばわるとき、主は、いつも近くにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 

これはほんとうに偉大なことではないでしょうか。私たちの主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる方です。主イエスはこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主がともにおられるということほど大きな祝福はありません。主が共におられるならば、私たちは何も恐れることがないからです。なぜなら、主は全能者であって、すべての問題に勝利してくださる方だからです。

また、このような正しいおきてと定めが与えられていることも大きな祝福です。情報過多の時代にあって多くの情報が錯そうする中で人々は何を信じたらいいかわからずに迷っています。そのような中にあって、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言って導いてくださる方がおられるということは、本当に感謝なことなのです。

 

2.十分に気をつけなさい(9-40)

 

次に9節から40節までを見ていきたいと思います。まず、14節までをご覧ください。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。」

 

モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。それは二枚の石の板に書き記された十のことば、十戒のことです。それを一生の間心から離れないようにするばかりでなく、それらを、自分たちの子どもや孫たちに知らせるようにと言われました。それは彼らが所有しようとしている地で、それらを行うためです。

 

 次に15節から24節までをご覧ください。

「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(20-24)

 

ここに繰り返して「気をつけなさい」と言われています。何を、気をつけなければならないのでしょうか。偶像崇拝です。イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても根本的な問題は何かというと、偶像礼拝なのです。偶像とは何でしょうか。神以外のものを神とすることです。人はそれを肩地にするのですが、それが偶像です。自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて、満足できるものがほしい、と願うのです。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れなければなりません。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取らなければならないのです。神を主としていくことが、私たちの務めであるからです。それゆえ、十戒の第一の戒めは何かというと、「あなたには、わたしのほかに、ほかの偶像があってはならない。」ということでした。自分のために、偶像を造ってはならないし、それらを拝んではなりません。私たちに求められていることは、神を神としていくことであり、自分の思い、自分のイメージではなく、神の命令に聞き従うことなのです。

 

 次にモーセは、偶像を造ったり、拝んだりするようなことがあった場合どうなるかについて語っています。25節から31節までです。

「あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 

どういうことでしょうか。偶像を拝むようなことがあれば、主は彼らを国々の民の中に散らされます。その土地から追いやられるのです。異邦の民の中で、異邦人と同じように生きなければならないのです。しかし、あわれみ深い主は、そこから主に立ち返るようにしてくださいます。主は決して彼らを捨てず、彼らを滅ぼさず、彼らの先祖たちに誓った契約を忘れないのです。なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。30節には「後の日」とありますが、これは終わりの時のことです。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。神は、ご自分の立てた契約のゆえに、彼らがこの地に戻ることができるようにしてくださいます。

 

この預言のとおり、1948年5月に、全世界に離散していたユダヤ人がここに戻り、イスラエル共和国を樹立しました。二千年もの間離散としていた民が再び集まって国を再建するということは考えられません。しかし、神はそれを行ってくださいました。神はご自分の語られたことを必ず成就してくださる方であることを知ることができます。この「終わりの日」とは、まさに現代のことを指しているのです。

 

次に32節から40節までをご覧ください。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」  どういうことでしょうか。モーセはここで、神がイスラエルをいかに愛しておられるのかを語っています。イスラエルはこれまで、主の偉大なみわざをずっと見てきました。それはたとえば、火の中から語られる神の声であったり、エジプトにおいて彼らのためになされた力強いみわざであったりです。いったいなぜ主は彼らのこのような偉大なみわざを見せられたのでしょうか。それは35節にあるように、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。彼らがこのことを心に留めることによって、彼らが入っていく約束の地において、彼らが長く生き続けるためだったのです。

 

 それは私たちも同じです。主は私たちの人生においても数々のみわざを成してくださいました。それはいったい何のためなのかというと、これからの歩みにおいて、主こそ神であることを知り、その神に信頼して生きるためです。それなのに、私たちは神のみわざを心に留めることをしないので、すぐに忘れてしまうので、人間的になってしまいます。神が与えてくださった地で私たちが長く生き続けるためには、私たちは主の偉大さを思い起こし、信仰によって生きなければならないのです。

 

3.これがイスラエル人の前に置かれたみことば(41-49) 「それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」

 

それからモーセは、ヨルダン川の東側に三つの町を取り分けました。

 

のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。

こののがれの町は何を表していたのかというと、キリストの贖いでした。彼らは聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。血を流したことに対しては贖いが求められたからです。そして、大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものでした。この大祭司こそイエス・キリストを示すものでした。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができたのです。

 

こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかが語られました。これがモーセをとおしてイスラエル人の前に置かれたみおしえです。このように、主との生きた交わりは、その場の雰囲気や自分の思いや感情とは全く関係なく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけなのです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていたことだったのです。