ヘブル11章4~7節 「信仰によって生きた人」

きょうは、「信仰によって生きた人」というタイトルでお話します。これまで述べてきたことを受け、このヘブル人への手紙の著者は、前回のところで、信仰とは何かについて語りました。つまり、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。信仰によって、私たちは、この世界が目に見えるものによって造られたのではなく、目に見えないもの、つまり神のことばによって造られたということを悟るのです。

そこで、きょうの箇所では、昔の人々がどのように信仰に生きたのかという実例を取り上げ、信仰によって生きるとはどういうことなのかをさらに説明していきます。きょうはその中から三人の人を取り上げてお話したいと思います。それは、アベルとエノクとノアです。

 

Ⅰ.信仰によって神にいけにえをささげたアベル(4)

 

まず、4節をご覧ください。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

 

まず、最初に紹介されているのはアベルです。アベルは最初の人アダムとエバの子どもで、二人息子の弟です。ここには、信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得た、とあります。どういうことでしょうか。

 

この話は創世記4章に記されてありますので、そこを開いて確認したいと思います。1節から7節です。

「人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」そこで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:1~7)

 

ここには、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者になりましたが、ある時期になった時、彼らは神にささげ物をささげるためにやって来た、とあります。「ある時期」というのは、収穫の時期のことだと思われます。自分たちが一生懸命に働いて得たその収穫の一部を神にささげるためにやって来たのでしょう。そして、カインは土を耕す者でしたので、その作物の中から主へのささげ物を、一方のアベルは、羊を飼う者だったので、その羊の中から主にささげ物を持ってきました。しかし、主はアベルとそのささげ物には目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。なぜでしょうか。アベルは正しく行ったのに対して、カインはそうではなかったからです。どういう点でアベルは正しくて、カインは正しくなかったのでしょうか。それはささげ物をささげ姿勢です。アベルは羊を飼う者となり、その中から主へのささげ物を持ってきましたが、ただ持って来たというのではなく、羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。同じ新改訳聖書でも第二版では、「それも最良のものを、それも自分自身の手で、もって来た。」とあります。つまり、彼は心からささげたのです。それに対してカインはというと、「地の作物から主へのささげ物を持って来た。」とあるだけで、それがどのようなものであったのかについては触れられていません。というとこは、アベルのように最良のもので、自分自身の手で持って来たものではなかったということです。アベルのように心から神にささげたのではなく、一種の儀式として形式的にささげたのです。

 

ここに彼らの信仰がよく表れていると思います。彼らは神の存在を信じ、神にささげ物をささげたという点ではどちらも同じで、宗教的であったと言えますが、しかし、宗教的であるということと信仰的であるということは必ずしも同じことではありません。神を礼拝し、神にささげ物をささげても、それが必ずしも、信仰的であるとは言えないのです。確かに二人とも神を礼拝していましたが信仰的であったのはカインではなく、アベルの方でした。そのささげ物によって、そのことが証明されたのです。

 

アベルが信仰によって生きていたことが証明されたのが、彼のささげ物をささげる姿勢、つまり礼拝の姿勢であったということは注目に値することです。というのは、礼拝の姿勢というものは、日ごろの生き方がそこに表れるのであって、いつも信仰に生きている人は、礼拝をする時もそのような姿勢になりますが、適当に信仰生活をしている人は、どんなに熱心に礼拝しているようでも、それは心から神を礼拝しているとは言えず、ただ形式的に礼拝しているにすぎません。そのような礼拝においては少しも神とお出会いすることができず、その結果、神に喜ばれる者に変えていただくことはできないのです。

 

しかし、ここでアベルが信仰によって神にいけにえをささげたというのは、そうした彼の礼拝の姿勢が正しかったというだけではなく、彼が神の方法によっていけにえをささげたからでもあります。その方法とは何でしょうか。それは、彼は羊をほふり、その血を注ぎ出して、神にささげたという点です。「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからです。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)とあるからです。いのちとして贖いをするのは血です。これがささげ物をささげる時の神の方法でした。アベルは自分が罪人で、自分の力ではその罪を贖うことができないということを知っていたので、神が示された方法でいけにえをささげたのです。けれども、カインはそうではありませんでした。彼は自分の方法によっていけにえをささげました。それは、彼が自分の育てた作物の中からささげ物を持って来たということではありません。神は地を耕して育てた作物を好まれないということはないのです。彼が正しくなかったのは、彼が神に喜ばれる方法によって神を礼拝したのではなく、あくまでも自分の考えで、自分のやり方で、神に受け入れられようとしたことです。それが問題だったのです。だから、神は彼のささげものを退けられたのです。

 

それはアダムとエバが罪を犯したとき、いちじくの葉をつづり合わせたもので自分たちの腰のおおいを作ったのと同じです。そんなものはすぐに枯れて何の役にも立たないのに、彼らはそのようにすれば何とか自分たちの裸をおおうことができると考えました。しかし、いちじくの葉はすぐに枯れてしまったのでしょう。神は、彼らの罪をおおうために、皮の衣を作り、それを彼らに着せてくださいました。(創世記3:21)なぜ、皮の衣だったのでしょうか。皮の衣によらなければ、罪をおおうことができなかったからです。神は動物をほふり、その皮を剥ぎ取って、彼らに着せてくださったのです。それが神の方法でした。そうでなければ、神に受け入れられることはできなかったのです。

 

そして、これはやがて来られる神の小羊イエス・キリストを指し示していました。人はイエス・キリストによらなければ、だれも神に近づくことはできません。私たちは、だれか困っている人がいたら助けてあげたり、貧しい人がいれば施しをしたり、優しく、親切に生きれば神に受け入れられるのではないかと考えますが、そのような方法によっては神に受け入れられることはできません。確かにそのような業は善いことですが、そうしたことによって自分の罪を消すことはできないのです。私たちの罪は、ただ神が私たちのために用意してくださった小羊の血によってのみ赦されるのであって、それ以外の何をもってしても赦されることはありません。

 

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

「信仰によって」とはそういうことです。アベルは、神の方法とはどのようなものなのかを知っていて、そのようにささげました。信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得たのです。

 

私たちも信仰によって、神にささげ物をささげましょう。あくまでも自分の思いや考えに従うのではなく、神のことばを聞き、神のみこころは何かを知り、それに従うものでありたいと思うのです。それが信仰なのです。

 

Ⅱ.神に喜ばれていたエノク(5-6)

 

次に5節と6節をご覧ください。ここには、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。

 

信仰によって生きた人として次に取り上げられているのは、エノクです。エノクという人物は、創世記5章に記されているアダムの子孫の中に登場する人物です。そこにはアダムの系図が記録されていますが、それらは皆決まった形で紹介されています。すなわち、「・・の生涯は○○であった。こうして彼は死んだ。」です。たとえば、5節には、「アダムはは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」とあります。8節にはその子セツについて書かれてありますが、それも、「セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。また、11節にはエノシュについて書かれてありますが、それも同じです。全員が同じように記録されていますが、エノクだけはそうではありません。24節を見ると、「神が彼を取り去られたので、彼はいなくなった。」とあります。神が彼を取り去られたので、彼はいなくなったとはどういうことなのか?ヘブル書にはそのことを次のように説明しています。「エノクは死を見ることがないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。」とあります。エノクが取り去られたのは、死を見ることがないように、神に取り去られたというのです。この箇所からほとんどの人は、らエノクは死を経験することなく天に引き上げられたのだと考えていますが、ある人たちは、いや、アダムが罪を犯したことで死が全人類に入って来たのだから、エノクと言えども死なずに天国に行ったのは考えられない、と言う人もいます。しかし、このヘブル人への手紙を見る限り、彼がいなくなったのは、彼が死を見る事がないように天に移されたとあるので、彼は死を経験しないで引き上げられたのだろうと思います。しかし真相はどうであろうと、確かなことは、彼の地上での生涯はそれで終わったということです。

 

創世記5章の系図を見ると、ほとんどの人が九百歳ぐらいまで生きたのに対して、エノクは三百六十五歳しか生きませんでした。彼は意外に短命であったことから、彼の一生は不幸な一生だったのではないかと考える人もいますが、そうではありません。確かに彼の生涯は当時の一般的な人たちと比べたら短いものでしたが、それは死を見ることがないように天に移された幸いな生涯だったのです。人の一生はその長さで測られるものではありません。人の一生の善し悪しは、その人がどのような生涯を送ったのかという中身で測られるものです。それが神とともに歩んだ生涯であるなら、たとえそれがどんなに短いものであっても、幸いな徹宵だったと言えるのです。エノクの一生は三百六十五年という短いものでしたが、それは神とともに生き歩み、神に喜ばれたものであることがあかしされるすばらしい一生だったのです。

 

それでは、彼はどのような点で神に喜ばれていたのでしょうか。それは、彼が信仰によって生きていたという点です。エノクが生きていた時代は、ノアの時代と同じように、人々の心が悪いことばかりに傾いているような時代でした。その中でも彼は、神がおられることを信じていました。神がおられることを信じていたので罪から離れた歩みをしていたばかりでなく、常に神を求めて生きていました。彼は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じていたのです。

 

God is not Deadという映画をみました。 日本語のタイトルでは「神は死んだか」というタイトルです。あるクリスチャンの大学生が大学の授業で哲学のクラスを受けるのですが、その授業を始める前に教授が生徒たちに「神はいない」と紙に書くよう に強制し、書かなければ単位をあげないというのです。単位が取れないことを危惧した生徒たちは言われるままに書いて提出するものの、納得できないジョシュだけは拒否します。それなら神の存在を証明するように、もしできなかったら落第だと告げられました。ジョッシュは悩みながらも必至で神が存在しているという説明を試みるも、それはかなりハードなことでした。しかし、彼は最後に教授にこう言うのです。「あなたが神を憎んでいるということ。それこそ神が存在している一番大きな事実です。もし神がいなかったら、どうして神を憎むということなどあるでしょうか。」それは大きなかけでもありました。もし証明できなければ大きなリスクを負ってしまうことになりますが、逆に、もしそれを証明することができたら、それこそ多くの人たちにとっての証となります。彼は神の存在を疑いませんでした。神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であるということを信じたのです。

 

あなたはどうですか。この地上の歩みにおいて、エノクのように、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じているでしょうか。エノクは天に引き上げられましたが、今日も、キリストのうちにある者は、主が天から再び戻って来られるとき、空中に引き上げられるという約束が与えられています。その成就が限りなく近いことをつくづく感じます。それはもしかしたら、私たちが生きている時代に実現するかもしれません。そうすれば、私たちはエノクが経験したように、死を見ることなく天に移されるかもしれません。仮にそれが、私たちが死んだ後であっても、その一生は主とともに生きたすばらしい一生であったと証されることでしょう。そのような生涯を共に歩ませていただきたいものです。

 

Ⅲ.信仰によって箱舟を作ったノア(7)

 

信仰によって生きた人として三人目に取り上げられているのは、ノアです。7節にはこうあります。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」

 

ノアが生きていた時代がどのような時代であったかは、創世記6章に記されてあります。6章11節、12節を見ると、「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。」とあります。しかし、ノアは、主の心にかなっていました。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人でした。つまり、彼は、いつも神とともに歩んだのです。

 

そこで、神はノアに対して、間もなく世界中の人々を滅ぼす洪水を起こされると言われました。しかし、ノアとその家族の者たちは救うので、大きな船を作るようにと命じられたのです。その船は、長さ百五十メートル、幅二十五メートル、高さ十五メートルの箱舟で、一万トン級の大きな船でした。彼はそれまでそんな大洪水を経験したことがなければ、船を作ったこともありませんでした。そんな一万トン級の船を作るということにでもなれば、この先何年かかるか、全くわかりません。気の遠くなるような話です。しかし彼はその御言葉を信じて受け入れたのです。今日のようにチェーンソーがあったわけではありません。どのようにして大木を切り倒したのでしょうか。ノアと三人の息子の四人だけで造ったとしても、おそらく百二十年はかかったでしょう。創世記6章3節には、「それで人の齢は、百二十年にしよう。」とありますが、これは人の寿命が百二十年に定められたというだけでなく、その日から大洪水が起こるまでの年数であったとも考えられます。それは気の遠くなるような大仕事でした。しかし、ノアは信仰によってそれに挑戦したのです。すなわち、ノアはたとえ常識では考えられないようなことでも、主によって命じられたことであれば、それをそのとおりに受け止めて実行したのです。それが信仰です。来る日も来る日も、彼らは山へ行き、何日もかかって木を伐採しました。それを見ていた回りの人たちは、どんなにバカにし、嘲笑ったことでしょう。「ノアもとうとう気が狂っちゃったんじゃないの」と思ったことでしょう。

 

皆さんさんだったらどうですか。全く雨が降らない時代に、神がこの地上のものを滅ぼすので、あなたは箱舟を造りなさいと言われて、「はいよ」と言って造るでしょうか。最近私は、一年前の母の日に娘が家内に贈ってきた小物入れのラックを組み立てました。それを組み立てるのに要した時間は約30分です。たった30分なのになかなか組み立てられませんでした。組み立てる気がなかったからです。だから、それを組み立てるのに一年もかかってしまいました。まして、ノアに与えられたプロジェクトは

120年もかかる大仕事でした。どんなに暇でも造る気にはなれないでしょう。

しかし、ノアにとって神のことばは絶対でした。彼は、神によって語られたことは必ず起こると信じていました。つまり、大洪水は必ず起こると信じていたのです。しかも、それは世の罪をさばくための神のさばきとしての大洪水です。ですから、創世記6章22節には、ノアは箱舟を作り、その中に入って救われるようにと神から言われた時、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあるのです。たとえ自分の常識の枠の中に納まらないことであっても、神の御言葉に従うのが信仰であり、それが神に喜ばれる道なのです。

 

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神のみもとに来る人はだれでも、神が存在することと、神を求める人には必ず報いてくださる方であるということを信じなければなりません。アベルやノアやエノクのような生き方こそ、神のみもとに来る人です。彼らは神が存在すること、つまり神が生きておられるということと、神に求めることには必ず答えてくださる方であるということを信じました。つまり、神は生きて働いておられる方であると信じ、そのことばに従ったのです。

 

私たちもそうありたいですね。聖書には天国があると書いてあるけど本当かなと疑ってみたり、信じようとしないのではなく、神の約束の言葉は必ず実現すると信じて、その言葉に自分の人生をかける者でありたいと思います。それが信仰です。義人は信仰によって生きる。神はそのような人を喜んでくださるのです。

申命記19章

きょうは、申命記19章から学びます。まず1節から7節までをご覧ください。

 

 1.のがれの町の制定(1-7

 

「あなたの神、主が、あなたに与えようとしておられる地の国々を、あなたの神、主が断ち滅ぼし、あなたがそれらを占領し、それらの町々や家々に住むようになったときに、あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられるその地に、三つの町を取り分けなければならない。あなたは距離を測定し、あなたの神、主があなたに受け継がせる地域を三つに区分しなければならない。殺人者はだれでも、そこにのがれることができる。殺人者がそこにのがれて生きることができる場合は次のとおり。知らずに隣人を殺し、以前からその人を憎んでいなかった場合である。たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだ場合、その者はこれらの町の一つにのがれて生きることができる。血の復讐をする者が、憤りの心に燃え、その殺人者を追いかけ、道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、死刑に当たらない。だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ。」と言ったのである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地を占領しそれらの町々や家々に住むようになったとき、その地に三つの町をとりわけなければならない、とあります。何のためでしょうか。殺人者がのがれることができるためです。つまり、ここにはのがれの町が制定されているのです。のがれの町とは何でしょうか。これはすでに民数記35章で学んだように、知らずに人を殺してしまった者が、のがれることができるように定められた町です。知らずに人を殺してしまった場合とはここに一つの事例が紹介されているように、たとえば、木を切るため隣人といっしょに森にはいり、木を切るために斧を手にして振り上げたところ、その頭が柄から抜け、それが隣人に当たってその人が死んだような場合です。このような場合、彼は故意に人を殺したわけではないので、殺された人の家族などが憤りに燃えその殺人者を追いかけ打ち殺すことがないように、のがれの町を用意されたのです。もしそれが故意の殺人であったならその者は必ず殺されなければなりませんでしたが、そうでなかったら、その人が殺されることがないように守らなければならなかったのです。なぜなら、殺された者の家族なり、親しい人が、それが故意によるものであろうとなかろうと関係なく、怒りと憎しみが燃え上がり復讐するようになるからです。そういうことがないように神はこれを定められたのです。

 

2.憎しみからの殺人(8-14

 

 次に8節から14節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主が、あなたの先祖たちに誓われたとおり、あなたの領土を広げ、先祖たちに与えると約束された地を、ことごとくあなたに与えられたなら、・・私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令をあなたが守り行ない、あなたの神、主を愛し、いつまでもその道を歩むなら・・そのとき、この三つの町に、さらに三つの町を追加しなさい。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地で、罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないためである。しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければならない。彼は死ななければならない。彼をあわれんではならない。罪のない者の血を流す罪は、イスラエルから除き去りなさい。それはあなたのためになる。あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。」

 

8節からの教えは、主が、イスラエルの先祖たちに与えると約束された地を、ことごとく彼らに与えられてからのことです。7節には、「だから私はあなたに命じて、「三つの町を取り分けよ」と言ったのである。」とありますので、これはヨルダン川の東側、もうすでに彼らが獲得し、ルベン人とガド人、そしてマナセ半部族が相続していた地でのことでした。それと同じように、これから入って行って、占領すべき地においても同じように三つののがれの町を設けるようにと命じています。なぜでしょうか。それは、「罪のない者の血が流されることがなく、また、あなたが血の罪を負うことがないため」です。

 

しかし、もし人が自分の隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかり、彼を打って、死なせ、これらの町の一つにのがれるようなことがあれば、彼の町の長老たちは、人をやって彼をそこから引き出し、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。彼は死ななければならなりませんでした。故意に人を殺してしまった場合は、殺してしまった者は、死をもって報いなければならなかったのです。たとえ彼が逃れの町に入っても、そこから引きずり出して、血の復讐をする者の手に渡さなければなりませんでした。

 

なぜでしょうか。それは殺人者への憎しみのためではありません。神の正義のゆえです。神は義なる方であり、その正義のゆえに、人を殺してしまった者に対してはその死をもって報いなければならないのです。この正義によるさばきと、憎しみのよる復讐とは、まったく別物であり、区別しなければなりません。新約聖書において、たとえば、ヤコブの手紙の中には次のように記されてあります。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(1:20私たちが怒って行なったことは、神の正義を実現するものではありません。たとえば、日本において、死刑制度の是非がよく問われますが、それは被害者の家族の感情から主張されることが多いですが、そのような動機によって、人をさばいてはいけません。人はあくまでも、神の正義のゆえに、また神の秩序のゆえにさばかれなければならないのです。ここでは明らかに自分の隣人を憎み、計画的に人を殺しとあるので、情状酌量の余地はありません。そういう人は死ななければなりませんでした。そのようにしてイスラエルから悪を取り除かなければなりませんでした。それがあなたのためになったからです。そのような悪を取り除くことによって、それがパン種のようにイスラエル全体に広がることを防いだからです。もしこれを野放しにしたら、憎しみの連鎖がイスラエル全体に広がり、まったく神の秩序が保てなくなるでしょう。このようにして悪を取り除くことによって、彼らは神の正義をしっかりと保つことができたのです。

 

3.偽りの証言(15-21

 

 次に15節から21節までをご覧ください。

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。もし、ある人に不正な証言をするために悪意のある証人が立ったときには、相争うこの二組の者は、主の前に、その時の祭司たちとさばきつかさたちの前に立たなければならない。さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。ほかの人々も聞いて恐れ、このような悪を、あなたがたのうちで再び行なわないであろう。あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

17章で学んだように、どんな咎でも、どんな罪でも、すべての人が犯した罪は、ひとりの証人によって立証されてはなりませんでした。必ずふたりか三人の証言によって、そのことが立証されなければなりませんでした。もしその証言が食い違った場合は、どうしたら良いのでしょうか。そのような時には、相争うこの二組の者が主の前に出て、祭司たちとさばきつかさたちの前に立ち、調査をされなければなりませんでした。そして、偽りの証言者は、厳しく罰せられなければなりませんでした。彼にあわれみをかけてはなりませんでした。ここでこの有名なことばが出てきます。「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」

 

これがさばきをするときの基準です。加害者が、その与えた害と等しいものを刑罰として受ける、という原則です。目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足です。そしていのちにはいのちです。それ以上のものを要求することはできませんでした。人間は往々にして目を取られたら憎しみのあまり耳も、鼻も、手も、足も、いのちも奪おうとします。しかし、目には目なのです。そして、歯には歯です。それ以上は赦されていません。

 

しかし、イエス様はこう言われました。「目には目で、歯には歯で、と言われるのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打たれたら、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39どういう意味でしょうか?

これは、復讐に生きるのではなく、神の愛と神の義に生きるようにということです。それは人間の思いをはるかに超えた基準です。しかし、神の愛によって贖われた者は、その大いなる神のあわれみを経験した者として、この神の愛に生きることができる。それが神の民の生き方であり、そのように導くものが神のみことばとご聖霊の力なのです。

 

ところで、こののがれの町については、すでに民数記でも語られていましたが、それが指し示していたのは何だったのでしょうか。それは、イエス・キリストによる赦しです。民数記35:25-28には、次のようにありました。

「会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 

それは、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、やがて彼が、自分の所有地に帰ることができるようにするためでした。いつ自分の所有地に帰ることができたのでしょうか。それは大祭司が死んでからです。それまではそこにとどまっていなければなりませんでした。誤ってその境界から出てはなりませんでした。出るようなことがあれば、殺されても何も文句を言うことはできませんでした。ずっとそこにとどまり、やがて大祭司が死ねば、自分の所有地に戻ることができたのです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うのに十分なものだったからです。

 

つまりこののがれの町は、イエス・キリストを指し示していたのです。私たちは故意によってであっても、偶発的であっても、罪を犯す者でありますが、しかし、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来た者たちが罪によって失われた約束を受けるに足る者となり、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。このすばらしい神の恵みに感謝して、この恵みにしっかりととどまり続ける者でありたいと思います。

ヘブル11章1~3節 「信仰とは」

きょうは、へブル人への手紙11章前半の箇所から、「信仰とは」というタイトルでお話します。このヘブル書の著者は10章18節まで述べてきたことを受けて、三つのことを勧めました。それは、全き信仰をもって、真心から神に近づこうということ、そして、動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではないかということ、そして、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではないかということです。それは一言で言えば、義人は信仰によって生きるということです。キリストの血によって救われた者は、信仰によって生きなければなりません。恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者でなければならないのです。

そこで、それに続く今回の箇所には、それでは信仰とは何ですかというテーマを取り上げ、信仰によって生きた人を紹介しながら、信仰によって生きるとはどういうことなのかが述べられています。

 

Ⅰ.信仰とは(1)

 

まず、1節をご覧ください。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」

 

ここで著者は初めに、信仰とは何であるかを説明しています。そして、信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものであると言っています。どういうことでしょうか?それはまず、「望んでいる事がらを保証する」ことです。「望んでいる事がら」というのは、自分が望んでいることではありません。それはこれまでも何度か出てきましたが、神ご自身、あるいはキリストご自身のこと、そして、神によってもたらされる天における報いことを意味していることがわかります。たとえば、 10章35節には、「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。」とありますが、それは信仰によって歩んだ人が天において受ける報いのことを指していることがわかります。天において受ける大きな報い、それこそ私たちの希望なのです。そしてその希望を保証するもの、それが信仰なのです。ですから、信仰とは無闇やたらに信じる盲信とは違い、確かな証拠があって、それを認識することにほかなりません。

 

この「保証する」という言葉は、「下から立たせる」という意味があります。たとえば、建物を建築する際には契約書を交わしますが、その条項など、物事を成り立たせるための根拠や実体のことです。建物はそれによって成り立っているわけです。したがって、信仰が望んでいる事がらの実体であるというのは、この天における報いは信仰をとおして成り立つものであり、信仰がなければまったく成り立たないものである、という意味です。信仰の反対語は疑いとか恐れですが、私たちが、神がおられること、また神が約束してくださっていることを、疑いながら聞いているとしたら、あるいは、そんなことを信じたら人に変に思われるのではないかという恐れを抱いているとしたら、それは私たちを支える希望ではなくなってしまいます。すなわち、天の希望は、信仰があってのみ、生きて働くものなのです。

 

次に、ここには、目に見えないものを確信させるものです、とあります。どういうことでしょうか?創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現だと思います。私たちが希望として持っている事がらは、みな目に見えないものです。たとえば、神とか、キリストとか、そして天にあるものはみな、物理的に見ることはできません。それらは科学的に検証することもできません。しかし、私たちはやがてこの地上での生活を終えた後、天国へ行くことができると確信しています。それはどのようにしてかというと、信仰によってです。それをしっかりとつかむことができる手こそ信仰にほかなりません。

 

なぜそのように確信することができるのかというと、それは、私たち信じる側に何らかの根拠があるからではなく、信じている対象である神が確かな方であられるからです。科学的に物事を認識しようとする人は、目で見て、耳で聞いて、手で触れて確かめますが、信仰という目で見る人は、肉眼で見ることができないものでも、そこに確かな証拠を見ることができるのです。それは神の確かさです。それは、神が私たちを救ってくださったということによってわかります。なぜなら、神はそのためにひとり子さえも犠牲にして、本来、私たちが受けなければならない罪の身代わりとして十字架で死んでくださったほどに私たちを愛してくださった方だからです。その方が私たちのために約束してくださるのが、この聖書ですから、そこには確かな証拠があると言えるのです。将来起こることは目で見ることはできませんが、神が約束してくださったこの聖書によって確かなものとしてつかむことができるのです。

 

したがって、「信仰」とは、自分が願っているものを何回も自分に言い聞かせて、それがかなえられるようにと神に押し付けることではなく、神が言われたこと、また神が願っておられることを、そのまま自分の心に受け入れて、なんの疑いもせず、そのとおりになると確信することなのです。

 

そして、そのような信仰をもって生きるということがどれほど確かな生き方であるかは、その結果をみれば明らかです。この自然界とか、この世の現象しか信じない人は、今見ているものとか、手でさわることができるもの、あるいは耳で聞こえるものしか確かなものと思っていませんから、将来起こる事や超自然的な事については、何もわからないのです。ですから、そういう人は、いつも将来のことについて不安があり、思い煩わなければなりません。将来、何があるかなんてたれにもわからないのですから、いくら将来のことについて計画を立てても、自分にとって不都合なことはその中には入れていないので、いざそういうことが起こると、どうしていいかわからなってしまうのです。たとえば、何歳の時に大病するかとか、何歳になったら失業するかとか、何歳の時に家族の間に大きな問題が起こってくるかといったことは全くわかりません。わからないのですから、考えようがないわけです。ところが、私たちの人生には思いがけないことが起こってくるものです。

ある人が人生には三つの坂があると言いました。一つは上り坂、もう一つは下り坂、そして三つ目の坂はまさかです。そのまさかということが起こってくることがあるのです。そして、あわてふためくことになるわけです。そのような時に備えて、ある人は生命保険に入っていたり、損害保険に入っているから大丈夫だという人がいますが、そうしたものが心の問題までケアしてくれるでしょうか。

それでは、どんなことが起こっても大丈夫だという心備えはどのようにして出来るかというと、それこそ信仰によってなのです。私たちがこの地上での生活をしていく時、突然にして大きな問題が起こってくることがありますが、そのような時に、自分の知恵や力ではどうしようもないということが分かっていても、なおこの地上の何かを頼りにしていたのでは、生きる根底が揺らいでしまっている以上、どうしようもありません。ところが、信仰を持つということは、この有限の世界、相対の世界、自然界というものを越えた永遠で、無限で、絶対で、超自然の世界である神の国の確かさに立って生きるということですから、その人を生かす力は過ぎ行くこの世からではなく、動くことのない永遠の世界から来るということです。ですから、どんなことが起こっても、揺らぐことはないのです。

 

あなたはこの手を持っていますか。将来に起こることを確かなものとしてつかむ手です。どうかそのような手を持ってください。そして、どんなことがあっても揺り動かされることがない確かな人生を歩もうではありませんか。

 

Ⅱ.信仰によって称賛される(2)

 

次に2節をご覧ください。ここには、「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」とあります。

 

「昔の人々」とはだれのことでしょうか。これは神を信じて生きた昔の人々、つまり、旧約聖書の中で信仰に生きた人たちのことです。具体的にはこの後に列挙されています。4節にはアベルという人物のことが、5節にはエノク、7節にはノア、8節以降はアブラハム、20節にはイサク、21節ではヤコブ、23節にはモーセ、30節ではヨシュア、31節にはラハブ、そして32節には、「これ以上、何を言いましょうか。」と、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと続きます。これらの人々については次回から少しずつ見ていきたいと思いますが、ここではその総括として、次のように言われています。

「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。」

 

「称賛」という言葉は、下の説明には※がついていて、直訳で「あかしを得たのです」とあります。信仰によって生きる人は、彼らがいかに生きたのかというあかしを残したということです。それほど良い評判を得ました。その良い評判とは、まず何よりも神からの良い評判であり、それはまた、人々からの良い評判でもありました。それは今日でも同じで、信仰によって生きる人は神からも、人からも良い評判を得るのです。

 

なぜ信仰に生きる人はこのような称賛を受けるのでしょうか。なぜなら、神によって生きる人は神のようになるからです。キリストにあって生きる人はキリストのようになるはずだからです。この世のように自分中心の生き方ではなく、キリストのように他の人のことを考え、自分を犠牲にしてまで他の人のために生きるので、多くの人の心を引き付けるのです。

 

ルカの福音書10章27節には、黄金律と呼ばれている聖書の言葉があります。それは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(ルカ10:27)という言葉です。

ある人がエルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われ、半殺しにされました。そこにたまたま、祭司がひとり、通りかかりましたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

次にレビ人がそこを通りかかり、彼を見ましたが、同じように反対側を通り過ぎて行きました。

ところが、サマリヤ人といってそこに倒れている人と敵対関係にあった人がそこに来合わせると、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。そして、翌日、彼はデナリ硬貨と言って1デナリは1日分の給料に相当しますから約5,000円くらいでしょうか、それを2枚取り出して、宿屋の主人に渡してこう言いました。「この人を介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」

さて、この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったでしょうか。その人にあわれみをかけてやった人です。

そこでイエス様はこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)

 

これが神を信じて生きる人の生き方です。キリストはそれを文字通りなされました。私たちのために自らの命を捨てて、十字架で死んでくださることによって、神の愛を明らかにしてくださいました。そのような人が人々から尊敬され、称賛を受けるのは当然のことです。

 

あの3.11の後で宮城県の沿岸地方や岩手県の三陸地方にいち早く入り復旧作業をしたのは、サマリタンパースというクリスチャンの団体でした。彼らは特に津波で流されたり、壊れた家屋を直したりするのを手伝いました。するとその地の住民はその愛の心と行動に感動し、彼らが働きを終えて帰国する時、教会にやって来て心からの感謝を表しました。それは、彼らが自分を犠牲にしても人々に仕える生き方の中に本物の愛を感じ取ったからです。キリストを信じ、キリストのように生きる人に人々の心は引き付けられ、称賛されるのです。

 

それならどうして多くの人たちがイエス様を信じないのでしょうか。そこには二つの理由が考えられます。一つは、多くの人たちは聖書の神を知らないからです。聖書の神がどんなにすばらしい方であるかがわかったら、そのような神を信じたいと思うはずです。しかし、日本人の多くは、さわらぬ神にたたりなしで、逆に宗教には関わらない方が良いと思っているために、こんなにすばらしい神様のことがわからないのです。

もう一つの理由は、イエス様を信じたらからといってすぐにキリストにある成人として成長していくかというとそうではなく、そのためには時間がかかるのです。そのためには自分をキリストに明け渡し、自分の心をキリストによって支配していただくように願い求め、それを日々の生活の中に適用していくという訓練が求められます。そのためには時間がかかるのです。しかし、どんなに時間がかかってもキリストのようになることを祈り求めるなら、必ずそのように変えられ、その信仰によって神からも、人からも、良い評判を得るようになるのです。

 

Ⅲ.神のことばを信じることから(3)

 

最後に、3節をご覧ください。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

 

どういうことでしょうか?ここには、神が天地を創造された時、どのようにしてそれを成されたかが語られています。そして、それは神のことばによってです。神が「光よ。あれ。」と仰せられると、そのようになりました。この世界のすべてのものは、神の御言葉一つによって造られました。ということはどういうことかというと、この世界のすべてのものは、何も無いところから神が創造されたということです。目に見えるものはすべて、見えないものからできているのです。

 

このように神が創造者であられるということは、私たち人間を含めすべてのものが神の支え無しには生きていけない存在であるということを意味しています。このことが本当に分かれば、私たちはもっと神を恐れ、神に信頼して生きるようになるのではないでしょうか。

 

イエス様は、こう言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、これらのもの、これらのものとは衣食住のことを指していますが、これらのものはすべて与えられるのです。

 

皆さん、私たちは優先するべきものを間違えてはいけません。何を食べるか、何を飲むか、何を着るかといったものは異邦人、つまり神を知らない人たちが切に求めているものです。しかし、天の神様は私たちがそれらのものを必要としている事をよく知っていらっしゃいます。だから神の国とその義とをまず第一に求めなければならないのです。イエス様は、その順序を間違えてはならないと教えて下さったのです。

 

もしかすると私たちは、この神の国の一員とされているということの意義をあまり深く認識していないかもしれません。「ああ、救われて良かった。天国に行けるようになった。」とそれを将来のことに限定してしまい、現在この地上にあっても神の恵みと力に与れるようにして下さっているということにそれほど気付いていないのかもしれません。しかし、神の国はあなたがたのただ中に来ました。私たちはこの神のご支配の中に生かされているのです。それはものすごい恵みであり、祝福なのです。しかし、そのことを知らなければ、何も出来ません。

 

アメリカでの話ですが、ある農家の方がいまして、土地がやせていて少しも儲からないので、ある日「あなたの土地を掘削させて下さい。」という人が訪問した時、「あそこは肥料をやっても何も育たないやせ衰えた土地だからどうぞ勝手にやって下さい」と言いました。日も経ずしてそこからは巨大な油が出てきたのです。一日にして、彼は億万長者になってしまいました。ずっと前からその祝福は与えられていたのですが、彼らはそれを知らなかったのです。だから貧しい生活に甘んじなければなりませんでした。

 

もしかしたら私たちもそのようなことがあるのではないでしょうか。神の国のすばらしい恵みと祝福を受けていてもそれを小さく考えてしまい、限定してしまっている為に、その恵みを十分に味わえないでいるということがあるのではないでしょうか。折角神様を知ったのですから、この神の国の豊かさに与っていく者でありたいと思います。本当に多くの方が悩み苦しみの中にあってもなお喜ぶ事が出来るそういうクリスチャンにならせていただく事が大切なのではないでしょうか。「どうしてクリスチャンの人たちってあのように平安でいられるのでしょうね?」と言われる者にならせていただきたいですね。

 

それは、神の国とその義とを第一に求めることから始まります。その順序を間違えてはなりません。もし私たちが心から神様にお従いするなら、そこはまさしく神の国となるのです。信じるという事はそこに従うという意味も含まれているのです。神様に心から「お従いします」という心の中において歩む人たちの中には神の国がそこに現われていきます。そして、そこには色々な形で神様の奇蹟が現れてくるのです。

 

キリストの弟子であったシモン・ペテロはどうだったでしょうか。彼はガリラヤ湖の漁師でした。ですから、ガリラヤ湖の事でしたら何でも知っていました。どこが浅くて、どこが深いか、いつ、どこに網を下ろせば魚をとることができるか。でも彼らは一晩中網を下ろしても一匹の魚も取れませんでした。その時イエス様が、「船の右側に網を下ろしてみなさい。」と言われました。皆さんならどうしますか?イエス様とはいえ、漁に関してはペテロの方がプロです。でもペテロはその時、「夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばとおりに、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5:)と言って網をおろしました。するとたくさんの魚が入り、網が破れそうになっただけでなく、二そうとも沈みそうになりました。これ神の御力です。

 

「また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1章19節)

 

信じる者に働く神のすぐれた力が、あなたの内にも宿っています。イエス様を信じたことで神の国があなたのところにも来たのですから、あなたにもこの力が宿っているのです。問題はあなたがそのことを知って、信じるかどうかです。神様の御言葉に信頼し、その御言葉に従うかどうかという事なのです。

 

信仰はこの神の言葉を信じることから始まります。あなたが信仰に立つなら、神様はそこに御業をなされます。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。どうか、将来起こることをつかむ手をもって神の約束をしっかりと握りしめてください。

申命記18章

きょうは、申命記18章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。

 

1.主ご自身が、彼らの相続地(1-8)

 

「レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。祭司たちが民から、牛でも羊でも、いけにえをささげる者から、受けるべきものは次のとおりである。その人は、肩と両方の頬と胃とを祭司に与える。あなたの穀物や、新しいぶどう酒や、油などの初物、羊の毛の初物も彼に与えなければならない。彼とその子孫が、いつまでも、主の御名によって奉仕に立つために、あなたの神、主が、あなたの全部族の中から、彼を選ばれたのである。もし、ひとりのレビ人が、自分の住んでいたイスラエルのうちのどの町囲みのうちからでも出て、主の選ぶ場所に行きたいなら、望むままに行くことができる。彼は、その所で主の前に仕えている自分の同族レビ人と全く同じように、彼の神、主の御名によって奉仕することができる。彼の分け前は、相続財産を売った分は別として、彼らが食べる分け前と同じである。」

 

ここには、イスラエルの民が約束の地に着いてから、祭司たちの生活に対してどのように責任を果たさなければならないか、そして、祭司とレビ族は、イスラエルといっしょに相続地の割り当てを受けてはならない、とあります。彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはなりませんでした。なぜでしょうか。 それは主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地であったからです。これはどういうことでしょうか。

 

詩篇16章5節と6節のところで、ダビデは「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。 」と告白しています。信仰者にとっての最高の分け前は、この地上的な分け前ではなく、永遠の分け前である主ご自身です。その神とのかかわりの中でいのちを掘り起こすべく務めがゆだねられているということはすばらしい特権なのです。そうした彼らの生活がちゃんと守られ支えられるように、イスラエルのそれぞれの部族から十分の一のささげものを受けて養われていました。さらに祭司はレビ人によってささげられた十分の一のものをもって養われていたのです。神の国とその義を第一にするなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。

 

そればかりではありません。3節を見ると、祭司は、いけにえの肉の上質の部分、またぶどう酒や油の初物、羊の毛の初物など、上等な部分が割り当てられたことがわかります。最も良いものを受けたのです。

 

いったいなぜ彼らはそれだけ手厚く支えられたのでしょうか。それは、彼とその子孫が、いつまでも主の御名によって奉仕に立つことができるためでした。つまり、彼らの奉仕によって神のことばと福音宣教の働きが続けられていくためです。神のことばこそが最高の宝であり、このみことばに仕えるために全部族が一体となって彼らの生活を支えたのです。

 

2.忌みきらうべきならわしをまねてはならない(9-13)

 

次に9節から13節までをご覧ください。

 

「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地にはいったとき、あなたはその異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねてはならない。あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」

 

イスラエルの民はこれから約束の地に入って行きますが、彼らがその地に入って行くとき、その地の住民の忌みきらうべきならわしをまねてはいけません。そこにはもう、これまでイスラエルを導いてきたモーセはいません。彼らが拠り頼むべき神のことばを聞くことができなくなるときそれをどのようにして補うのかというと、その地の住民が拠り所としている占い師やまじない、呪術に伺いを立てることによってです。それは私たちも同じで、私たちも霊的にダウンしていると、神のことばではなく、人のことばや人のアドバイス、人の考え、また占いのようなものに頼りたくなってしまいます。けれども、そうであってはいけません、主に対して全き者でなければならないのです。なぜでしょうか。それは、これらのことを行う者をみな、主が忌みきらわれるからです。私たちは、私たちの中からこれらのものを追い払わなければなりません。

 

3.私のようなひとりの預言者(14-22)

 

次に14節から22節をご覧ください。前の箇所では、彼らが約束の地に入って行くとき、その地の住民たちの忌みきらうべきならわしをまねてはならないと言いましたが、ここには、それではモーセがいなくなってしまたらどのようにして神のことばを聞くことができるかが書かれてあります。それは15節にあるように、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる」ので、彼に聞き従わなければならないということです。「私のようなひとりの預言者」とは、いったいだれのことでしょうか。

 

イスラエルの歴史においてモーセの次のイスラエルの指導者、モーセの後継者はヨシュアでした。神はヨシュアをとおしてご自身のみことばを語り、イスラエルの民を導かれました。そしてその後士師たちの時代にも預言者としての働きをした者があり、最後の士師であったサムエルの時代には預言者学校のようなものがありました。そして王国時代にも預言者たちが存在し、その活動を活発化していきます。その代表がエリヤとエリシャでした。王も祭司もだれも神の律法を教えない暗黒の中で、神はエリヤとエリシャを立てて、神のことばを人々に語らせたのです。そうすることで、神に背くイスラエルを霊的に改革し、彼らを滅びから救おうとされたのです。

 

ですから、モーセのようなひとりの預言者とは、歴史的に言えばモーセの後継者であるヨシュアのことのように考えられますが、ここではヨシュア以上の、いや、ヨシュアが指し示していた完全な預言者のこと、そうです、それはイエス・キリストのことでした。というのは、確かにヨシュアはモーセの後継者でしたが、モーセのような預言者ではなかったからです。ヨシュアは他の預言者同様、夢や幻で神のみこころを知りましたが、モーセはそれとは違い直接神と語りました。あるとき、モーセの姉のミリヤムが彼をねたんで彼を訴えましたが、そのとき主は彼女とアロンとモーセを、ご自分の前に連れて来られて、こう言われました。

「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数12:6-8)

ですから、モーセのような預言者はほかにはいないのです。そのような預言者とは、究極の預言者であり、預言者の完成である第二のモーセとしてのイエス・キリストを指し示していたのです。

 

このモーセのようなひとりの預言者は、後の時代、特に自分たちの背信によって自分たちが滅びた後には、メシヤ的大預言者として考えられるようになりました。ですから、人々は自分たちを滅びから救い出してくれるひとりの預言者の劇的な出現を待ち望むようになっていたのです。それでイエス様が来られたときに、しばしば「あの預言者」と呼ばれるようになったのです。(ヨハネ1:21,6:14,7:40)つまりイエス・キリストこそ預言者の中の真の預言者であり、預言者たちが預言した「預言」そのもの、すなわち、神のことばそのものであったのです。

 

ヨハネによる福音書1章1節には、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と証言されています。イエスこそ神のことばであり、神そのものだったのです。また、ヨハネ1章17節には、「というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」とあります。モーセが律法を与えましたが、神の恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました。イエス様は神を見たとか、神からことばを受けたというだけでなく、神そのものであり、神のことばをもっておられた方だったのです。イエスを見た者は父を見たのです。(ヨハネ14:9)私は今、多くのことばをもって神を説明していますが、でも、直接、神が来られたら、そんな無駄なことは必要ありません。神が直接語り、見せて、教えてくださるからです。それが神の子イエス・キリストだったのです。

 

モーセの時代にはモーセという預言者が立てられ、その預言者のことばを通して人々は神のことばを聞きました。それは、神がシナイ山に現れた時のように、雷鳴とともに神が現れたら、人々は恐怖に打たれて神のことばを聞くことができなかったからです。それで神は預言者なる人物を立ててご自身のことばを語らせましたが、その立てられた人が必ずしも忠実にみことばを語ったかというとそうではなく、その結果、滅びを招いてしまうことがありました。ですから、神は最終的に直接この世に来られ、私たちの間に住まわれて、ご自身のことばを語ってくださいました。私たちはこの生ける神のみことばであられるイエス様によっていのちを得ることができます。だからこの方のことばを聞かなければならないのです。

 

ここには、神に遣わされていないのに、自分が預言者だと自称している者も出る、とあります。そのような預言者は死ななければなりません。いったいどうやってそれを見分けるかができるのでしょうか。それは、その預言者が主の名によって語ってもそのことが起こらず実現しないなら、それは主が語られたことばではないということです。

 

その点、イエス様のことばはことごとく成就しました。イエス様が言われたことばは、何一つ実現しないで、地面に落ちることはありませんでした。このことばこそ、私たちが聞かなければならないことばなのです。モーセのような預言者、それは来るべきメシヤ、イエス・キリストことだったのです。