ヘブル11章17~22節 「死を乗り越える信仰」

ヘブル人への手紙11章から学んでいます。ここには昔、信仰によって生きた人たちのことが紹介されています。前回は、アブラハムの信仰から学びましたが、今回は、アブラハムとその子イサク、そして孫のヤコブの信仰から学びたいと思います。きょうのタイトルは、「死を乗り越える信仰」です。

 

この世に生きている人は、だれでも皆死にます。そういう意味で、人間は皆、死によって限定されていると言えます。ですから、死の問題が解決されていなければ、いつも死におびやかされていて、死んだらすべてはおしまいだという思いに捕らわれていて、本当の意味での自由がないのです。そういうわけで、死の問題を解決しておくことは、極めて重要なことであると言えるでしょう。いったいどうしたら、人はこの死の問題を解決することができるのでしょうか。今日は、信仰によってこれを乗り越えた人たちのことを学びたいと思います。

 

Ⅰ.死を乗り越えたアブラハム(17-19)

 

まず、17~19節をご覧ください。ここにはアブラハムの信仰について書かれてあります。

「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」

 

これは、創世記22章に記されてあるアブラハムの生涯における最大の試練であった出来事です。それは、彼の最愛の子イサクを、神にささげるということでした。アブラハムにとってそれが特別に大きな試練であったのは、この命令が、以前神が語られた約束と矛盾するように思われたことでした。以前神は、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われましたが、ここでは、そのイサクをささげよ、というのです。それでは、いったいどのようにして神が約束されたことが実現するというのでしょうか。無理です。この子をささげてしまったらあの約束さえも反故にされてしまいます。それに、たとえ神によって与えられた命令であったとしても、その人を殺してまで神にささげよというのは普通ではありません。というのは、創世記9章6節には、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」とあるからです。そういうことを神があえてするようにと言われたとしたら、それはいったいどういうことなのかと悩んでしまいます。それなのに、神はイサクを完全に焼き尽くすいけにえとして、殺して、ささげるようにと言われたのです。その箇所を開いて確かめてみましょう。

 

創世記22章を開いてください。2節には、「神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に連れて行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「全焼のいけにえ」とは、新共同訳聖書では「焼き尽くす献げ物」と訳されていますが、その名の通り煙になるまで焼き尽くすささげ物のことです。ヘブル語は「オーラー」と言いますが、もともとの意味は「上る」でした。それは、自分を神にささげ尽くす、献身を表明するささげ物だったのです。ですから、ここで神はアブラハムに、確かに彼の愛するひとり子を殺して、灰になるまで焼き尽くすようにと命じられたのです。

 

いったいなぜ神はこのようなことをアブラハムに命じられたのでしょうか。1節を見ると、「神はアブラハムを試練に会わせられた」とあります。これはテストだったんですね。ここには試練とありますが、試練とはテストのことです。私たちにもいろいろなテストがありますが、どうしても外せないテスト、それが信仰のテストです。どのような時でも神に従うかどうかのテストであり、そのことを通して信仰を磨き、称賛と光栄と名誉に至らしめるものなのです。ですから、ヤコブは、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊いと言っているのです。そのために神はアブラハムを試されたのです。

 

そのテストに対してアブラハムはどのように応答したでしょうか。信仰によって、アブラハムは試練を受けた時、喜んでイサクをささげました。それがこの創世記22章3節以降に記されてあることです。3節には、「翌朝早く」とありますが、まず、彼はすぐに従いました。もちろん、彼とて血も涙もある人間です。どうして悩み苦しむことなしに、そのようなことができたでしょうか。相当悩んだはずです。しかし、聖書は彼がどんなに悩んだかということについては一切触れずに、彼がすぐに従ったことを強調しています。それは彼が全く悩まなかったということではなく、そうした悩みの中あっても神に従ったことを強調したかったからです。

 

いったい彼はなぜそのような中でも神に従うことができたのでしょうか。それは、「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」たからです。それは、創世記22章4、5節を見るとわかります。

「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。」

日本語では少しわかりづらいのですが、ここには、「私と子どもはあそに行き、礼拝をして、戻って来る」とありますが、原文では、「私たちは、戻ってくる」となっています。英語ではわかりやすく、はっきりと「We」という言葉が使われています。「We will worship and then we will come back to you」です。

私たちとはもちろんアブラハムとイサクのことです。イサクをささげてしまったらイサクはもういないのですから「私たち」というのは変です。「私は」となるはずですが、「私たちは戻ってくる」と言ったのは、アブラハムの中にたとえイサクを全焼のいけにえとしてささげても、イサクを連れて戻って来るという確信があったからです。死んでしまった人間がどうやって戻って来るというのでしょうか。よみがえるしかありません。まさか幽霊になって戻ってくるわけにはいかないでしょう。つまり、アブラハムは、たとえイサクを全焼のいけにえとしてささげたとしても、神はそのイサクを灰の中からでもよみがえらせることができると信じていたのです。つまり、神には矛盾はないのです。矛盾しているかのように思われる二つの神の御言葉が、このような神の奇跡的な御業によって解決されていくのです。アブラハムはそういう信仰を持っていました。これが信仰であり、彼の信仰がいかに大きなものであったかがわかります。

 

ところで、へブル人への手紙を見ると、「これは型です」とあります。いったい何の型だったのでしょう。それはイエス・キリストです。アブラハムが愛するひとり子を全焼のいけにえとしてささげようとしたモリヤの山は、その二千年後に神の愛するひとり子イエス・キリストが、十字架で全人類の罪を取り除くために全焼のいけにえとしてささげらたゴルゴタの丘があった場所でした。すなわち、これはやがて神のひとり子が私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ、全焼のいけにえとして神にささげられることの型だったのです。創世記22章の出来事が映画の予告編みたいなものならば、本編はイエス・キリストであったわけです。

 

この「モリヤ」という地名は、「神は先を見られる」という意味があります。神は先を見ておられる方です。神はそこでどんなことが起こるのかを十分承知の上で、それを十分踏まえたうえで、この出来事を用意しておられたのです。これはその型だったのです。すなわち、神はイエスを私たちの罪の身代わりとして十字架で死なせましたが、それで終わりではなく、このイエスを死からよみがえらせました。そして、このイエスを信じる者に永遠のいのち、死んでも生きるいのちを与えてくださるということを示していたのです。アブラハムは、その信仰によって、死者の中からイサクを取り戻しましたが、私たちもイエスを信じることによって、死者の中から取り戻されるのです。神を信じる者はもはや、死に支配されることはありません。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。信仰によって、私たちは、私たちのいのちも死もつかさどっておられる神によって、死の恐れから全く解放していただくことができるのです。

 

ヘブル2章14、15節にはこのようにあります。

「そこで、子どもたちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになられました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

イエス様が死なれたのは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた私たちを解放するためだったのです。そのために、イエス様は死んでよみがえられました。この先のことを見ることができる人にとって、死は全く問題ではないのです。なぜなら、そのような人にとって死は終わりではないからです。死んでもよみがえるからです。神はその先を見ておられます。いのちも死も支配しておられる主は、あなたを死から取り戻すことができる方なのです。この信仰によって、あなたも死の恐怖から解放されるのです。

 

Ⅱ.信仰によって祝福したイサク(20)

 

次に、20節をご覧ください。ここには、「信仰によって、イサクは未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。」とあります。どういうことでしょうか。子どもを祝福することは、信仰によらなければできないということです。この出来事は創世記27章にありますので、ここも開いて確認したいと思います。

 

1節には、「イサクは年をとり、視力が衰えてみえなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に、「息子よ」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます」と答えた。」とあります。いったい何のためにイサクはエサウを呼び寄せたのでしょうか。彼を祝福するためです。そこでイサクは、彼のために獲物をしとめて、彼の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て食べさせてくれるようにと言いました。するとそれを聞いていた妻のリベカが双子の弟ヤコブに、「いま私は、あなたのお父さんが、あなたの兄エサウにこう言っているのを聞きました。」と言って、兄のエサウになりすまして、その祝福を奪うのです。結局、イサクは兄のエサウではなく、弟のヤコブを祝福しました。エサウに対しては別の形で祝福したのです。

 

このことからわかることは、人間はどんなに年をとってもやれることがあるということです。その中でも最も重要なことは、子供や孫を祝福するということです。これは親や祖父母にとって最も重要な信仰の働きの一つではないでしょうか。というのは、ここには、信仰によって、イサクはヤコブとエサウを祝福したとあるからです。これは、信仰によらないとできないことなのです。ではいイサクはどのようにヤコブとエサウを祝福したでしょうか。創世記27章を開いて確認していきましょう。

 

まず26、27節を見ると、「父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ」と言ったので、ヤコブは近づいて、彼に口づけした。」(26、27)とあります。

イサクはまずヤコブに口づけしました。日本人の習慣には、親が子どもをギュと抱きしめたり、触れ合うというかじゃれ合うという習慣はあまりありません。まして口づけするということはほとんどないでしょう。でもイサクはヤコブに、近づいて、口づけしてくれと言って、口づけしました。その国、その国によって文化や習慣は違いますが、それがどのような形であれ子供を祝福する時の大切な原則の一つは、親密な愛情を伝達するということです。忙しいから子どもと遊べないとか、忙しいから代わりに何かを買い与えることによってその穴埋めをしようとすると、結局のところ、祝福を失ってしまうことになるのです。時にはじゃれ合ってみたり、ギュと抱きしめたり、スキンシップでも何でもいいですが、十分に時間を取って過ごすことによって子どもの心は落ち着き、愛情を身に着けていくことができるのです。

 

第二に、創世記27章27節には、「ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福した。」とあります。どういうことでしょうか。着物のかおりをかいで祝福するとは・・・。これは、健全な評価を伝達してあげることです。あなたのかおりはこれだと言ってあげることです。そこがお前のいいところだと言ってあげることですね。子どもは親がどう考えているのかを聞きたいのです。これは「臭いな、最後に風呂に入ったのはいつだ?」と聞くことではありません。正しい評価をしてあげることです。大抵の場合、親は子供がいないところで子どものことを話しますが、しかし、親同士で話し合うだけでなく、子供に向き合うことも必要です。子どもと向き合って、子どもの目をしっかりと見て、直接伝えてあげることも必要なのです。しかも子どもの悪いところではなく、良いところを見てです。とかく親は子供の悪いところばかり見がちです。あらさがしが得意なのです。弱いところばかり、足りないところばかり見て「まったくうちの子は・・・」と言ってしまう。しかし、子供には可能性があることを伝えてあげなければなりません。正しい評価を伝えてあげる必要があるのです。特に、子供に何ができたかということよりも、子どもの品性をほめてやるべきです。たとえば、あなたはこんなひどい状況の中でもよく忍耐をもって接することができたねとか、あの子が水溜りで転んだとき、「大丈夫? 」と声をかけて助けてあげたね、偉いよ・・といったことです。

 

第三に、創世記27章28節と29節には、「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。国民の民はお前に仕え、・・・」とあります。ここでイサクはヤコブの将来について預言しています。子どもは将来のことを知りたがっています。自分は何のために生きているのか、そのために何をしたらいいのかといった人生の指針を求めているのです。ですから、おまえの生きる目的はこれだ、と示してあげなければなりません。

ここでイサクはヤコブが将来農業の分野で成功をおさめ、多くの人たちの指導者になることを預言して祝福していますが、そのように具体的に祝福することはできなくても、その方向性は示してあげることができます。「あなたが生まれたのは神を喜び、神の栄光のためよ。あなたは、神に愛されているの。だから、そのために用いられるように備えていこうね。」というように、その将来が、神の栄光のためであること、そしてそれがどのような道であっても、そのためには努力を惜しまないで祈り、一生懸命に努力しようと励ましてあげなければなりません。

 

子供に将来を伝えていくことは、決して自分のエゴを押し付けることでも、自分ができなかったことを子供によって実現してもらおうとすることでもありません。子どもの個性と資質をじっくりとみて、主のみこころは何かを祈り求めながら、その子の将来のためにできることをしてあげることです。

 

救世軍の創始者であるウイリアム・ブースは、そのお母さんがいつもこういうのを聞いて大きくなったと言われています。「ビル、世界はあなたを待っているよ。早く大きくなり、立派な人になって、世界のために働く人になってちょうだい。」それを聞いてかどうかわかりませんが、ウイリアム・ブースは、世界中の貧しい人たちのために活躍するようになりました。

 

第四に、創世記27章37節を見ると、イサクがエサウにこのように言っています。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で、彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」

イサクは、実の息子であるヤコブにだまされるというショッキングな経験をしました。もう何の祝福も残っていません。でもイサクはエサウに、私は、おまえのために、いったい何ができようか、と言っています。ヤコブにあざむかれても、何をされても、エサウに対する態度を変えませんでした。何があっても、最後まで、見捨てない、見離さないことは親にとってとても大切なことです。何があってもこどもの側に立ってあげること、何があっても子供の味方であり続けること、継続的にこどもをサポートしてあげること、最後まで子供のサイドに立ち続けること、これほど大きな励ましはありません。

 

でも、こどもは大きくなってしまったのでもう遅いと思っておられるあなた、大丈夫です。そんなあなたにもやることは残されているのです。そうです、こどもでは失敗したかもしれませんが、まだ孫がいますから、子供だけでなく孫に対してそのように接してあげたいものです。

 

イサクは、信仰によって、未来のことについて、ヤコブとエサウを祝福しました。年をとって、視力が衰え、目がかすむようになっても、まだやることがあります。信仰によって、イサクがヤコブとエサウを祝福したように、私たちも子供たちを、孫たちを、家族を、教会を祝福しなければなりません。もう年を取って、肉体的にも、精神的にも限界ですから、少し自由に生きさせてもいます、ではなくて、信仰によって子どもたちを祝福し続けていく働きが残されているのです。

 

Ⅲ.たとえ死の間際でも(21-22)

 

それは、ヨセフを見てもわかります。21節、22節にはこうあります。

「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。」

 

イサウはエサウを祝福しようとしましたが、ヤコブを祝福しました。神に選ばれたのはエサウではなくヤコブでした。そのヤコブが晩年、死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福したとあります。これは創世記48章に記されてある出来事ですが、エジプトに下って行ったヤコブは、そこで十七年生きて、百四十七年の生涯を閉じます。その死の間際に、ヤコブはヨセフのふたりの息子マナセとエフライム、つまりヤコブの孫たちですが、信仰によって祝福しました。そのことを、ここでは、自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝した、と言われています。杖とは神の権威の象徴です。つまり、彼は自分の知恵や力によってではなく、神の権威、神の力により頼んで祝福したのです。すっかり年をとって、もう肉体的にも、精神的にもボロボロどころか、死の間際でもそうしたのです。皆さん、私たちは年をとっても、いや死の間際であってもすることがあるのです。それは子供たちのために、孫たちのために祝福するということです。死の間際に、自分の生涯を振り返り、その恵みを数えて感謝することもすばらしいことですが、もっとすばらしいことは、死の間際でも、わが子を、孫を祝福することです。

 

どうしたら、そんな死に方ができるのでしょうか。ここでは、信仰によって、と言われています。皆が皆、そのように死んで行けるわけではありません。それは信仰によらなければできません。もう死が近づいたから、もうこんなに年をとったからとあきらめないでください。年をとっても大丈夫です。もうすぐ死ぬからと言っても悲観する必要はありません。あなたは信仰によって、祝福することができるのです。死の間際にあっても、まだ成すべきことがあるのです。

 

また、ヨセフも臨終のとき、イスラエルの子孫の脱出を語り、自分の骨について指図しました。そんなのどうでもいいじゃないですか。自分が死んだら、自分の骨をどうしようが、家族がどこに行こうが、残された家族決めればいいことです。それなのにヨセフは、イスラエルの子孫の脱出と、自分の骨について指図したのです。なぜでしようか。主がそのようにするようにと仰せられたからです。ヨセフは臨終のとき、何もできないと思えるような時でも、信仰によって、そのように言ったのです。

 

皆さん、私たちも年をとって、もう死が近づいて、人間的には何もできないと思うような時があるかもしれませんが、悲観することは全くありません。信仰によって生きる人にとっては、死ぬことさえも益なのですから。生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。死はもはやクリスチャンを支配することはできません。私たちも信仰を強められ、昔、生きた信仰者たちのように、信仰の殿堂入りを果たせるような生き方を目指したいと思います。

ヘブル11章8~16節 「神の約束に生きた人」

ヘブル人への手紙11章から、「信仰」について学んでいます。知者は、信仰とは何ぞやということを述べた後で、信仰に生きた人たちを紹介しています。前回はアベルとエノクとノアについて見てきましたが、きょうは、信仰の父と称されているアブラハムの信仰から学びたいと思います。

 

Ⅰ.みことばに従う信仰(8-10)

 

まず、8-10節をご覧ください。8節をお読みします。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

ここにはアブラハム生涯について紹介されていますが、アブラハムの生涯について聖書が最初に告げているのは、彼の信仰についてであります。最近「自分史」を書く人々が増えてきておりますが、普通、自分史を書く時は、自分の生い立ちから始めるものですが、アブラハムの場合は自分の誕生からではなく、信仰から始まっているのは注目に値します。「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」

 

先ほども申し上げましたが、アブラハムは信仰の父と称されている人ですが、いつ、どのようにしてそのように呼ばれるようになったのかは定かではありません。しかし、ここにそのように呼ばれるようになったゆえんがあると思います。それは、彼が神から相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けた時、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行ったという点です。これはアブラハムがカルデヤのウルを出て、カランという地にいた時のことです。神はアブラハムにこう言われました。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものをわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1~3)

 

これはアブラハムについて語るとき、とても有名な箇所です。アブラハムはカルデヤのウルというところに住んでいましたがそこから出てハランというところに住み着いていました。しかし、彼が75歳の時、神様から、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい。」との召しを受けたのですが、彼はそこで得たすべての財産と、そこで加えられた人々を伴って、神が示される地、カナンに向かって出発しました。当時は部族社会で、部族の人数によってその勢力の優劣が判断された時代です。したがって故郷と父の家は、アブラハムにとっては家族を守る一種の砦(とりで)のようなものであり、そこから出ることは大変危険で、不安要素が多い選択でした。しかし、アブラハムは神から召しを受けたとき、その命令に従って出て行ったのです。ということは、どういうことかというと、彼にとって神の命令は絶対だったということです。

 

しかもここには、「どこに行くのかを知らないで、出て行きました」とあります。これは、行く先を知らないでということではなく、それがどういう所であるのかをよくわからないのに、という意味です。彼は神が示される地がどのような所かをよく知らないのに、出て行ったのです。

 

ここに、信仰とは何かということがよく教えられているのではいかと思います。つまり、信仰とは、人間の常識で行動することではなく、神の御言葉に従うことであるということです。多くの信仰者が信仰生活においてよく失敗するのは、神の言葉よりも自分の思いや常識を優先させてしまうところにあります。よくこのように言うのを聞くことがあるでしょう。「確かに聖書にはそう書いてあるけれども、現実はそうはいかないよね・・・」とか、「頭ではわかっているけどさ、そんなの無理に決まっているじゃない・・・」それは言い換えれば、聖書にはそう書いてあるけれども、実際の生活では無理だということです。現実の生活では、神様は働くことができないと言っているのです。つまり、信仰がないのです。頭ではわかっていても、それを実際の生活の中で働かせることができないのです。実際の生活においては神様よりも自分の考えの方が確かになるのです。もしからし種ほどの信仰があれば、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言えば、そうなるのです、とイエス様は言われました。問題は神様にはできないということではなく、私たちが信じられないということです。

 

これから先どうなっていくのかがわからないというのは不安なことですが、わかってから行動するというのは、信仰ではありません。信仰とは、これから先どうなるのかがわからなくても、神が行けと言われれば行くし、行くなと言われるなら行かないことです。つまり、自分の知識や経験を元にして造られた常識よりも、神が持っておられる知識の方がはるかに完全であると確信して従うことなのです。それこそ、信仰によって生きた人の根底にある考え方です。ですから、信仰によって生きるということは、危なっかしいものであるどころか、これ以上確かなものはないのです。いつまでも変わらない神の言葉に従って生きるのだから、これほど確かなものはないのです。アブラハムは、神から約束の地に行けとの命令を受けたとき、それに従い、そこがどういう所なのかわからなくても出て行きました。

 

さあ、神の約束に従って出て行ったアブラハムはどうなったでしょうか。9節を見ると、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」とあります。あれっとぉもぃませんか。神の約束を信じて出て来たのに約束の地を所有することができるどころか、その地に天幕を張って住まなければなりませんでした。何ということでしょう。神が祝福するというのでそれに従って出て来たのに、定住することさえかなわなかったのです。ほら、見なさい、やっぱり無理じゃないですか・・・。考えてみると、これはおかしなことです。神が与えると約束された地に来たのであれば、どうしてその地に定住者として住むことができなかったのでしょうか。確かに、創世記を見てみると、12章では、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者にしようとは仰せられましたが、土地のことについては、それほどはっきれと言及されてはいませんでした。土地についてはっきりと言われているのは、その後アブラハムがエジプトに下り、そこから再び約束の地に戻ってからのことです。創世記13章14~17節にこうあります。

「ロトがアブラハムと別れて後、主はアブラハムに仰せられた。さあ、目を上げて、あなたがいるところから北と南、東と西を見渡しなさい。私は、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることが出来よう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

 

ここにはっきりと、「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と言われているのですから、アブラハムはその地に定住することができたのです。しかし、それなのに彼は定住しませんでした。なぜでしょうか。それは10節にあるように、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都は神によって建てられた天の都です。アブラハムはこのように揺らぐことのない天の都を待ち望んでいたので、そのような天幕生活にも耐えることができたのです。

 

ある人たちはここから、クリスチャンは自分の土地とか家を持つべきではないと考える人たちがいます。アブラハムだって天の都を待ち望んでいたので、天幕生活をしたのだから、クリスチャンもそうすべきであって、一生涯借家生活をすべきだと言う人たちがいるのです。そういう生き方が決して悪いというわけではありませんが、それを他の人にまで強制し、そうでない人は信仰によって生きていないと言うのは、あまりにも極端な解釈だと言わざるをえません。確かにアブラハムやイサクやヤコブは、土地を取得したり、家を建てたりしないで、天幕生活をしていましたが、それは、家を建ててはならないということではないのです。現にイスラエルも、エジプトを出てからは約束の地に入り、その土地を自分たちのものとして所有しました。そして、そこに石造りの立派な家を建てて住んだからです。そして、そういう生き方をした人も、信仰の人として、後にその名前が出てくるからです。たとえば、ダビデはそうでしょう。彼は信仰の王様でしたが、立派な王宮を建てるようにと神様から命じられ、その子ソロモンが完成させました。ですから、この箇所からだけ、借家住まいこそ信仰的であるというのは、かなり偏った考え方だと言えるのです。

 

土地を持っていても、家を持っていてもいいのです。問題は、そこをあたかも永遠の住まいででもあるかのように思って生きることです。どんなに立派な家であっても、またどんなにみすぼらしい家であっても、また持ち家であっても借家であっても、私たちの永遠の住まいはこの地上にあるのではなく、天にあるのだということが一番重要なのであって、そのような考え方を持って生きていくのなら、それは信仰によって生きているのだということが言えるのです。

 

私たちの本当の住まいは天にあります。ここではそれを、「都」と呼んでいますが、それは神によって設計され、建設されたのですから、確かな住まいなのです。世界的に有名な建築家でも欠陥住宅を造ることがありますが、神が造られたものは完璧です。私は以前福島で会堂建設をしたことがあります。大きな立派な会堂です。その会堂を建設する際、私は一つのことだけ建築屋さんに頼んだことがあるのです。それは、絶対雨漏れしない建物を作ってくださいということでした、というのは、それまで私が住んでいた牧師館は雨漏れがしてひどかったのです。ですから、どうせ新しく造るなら絶対雨漏れだけはしんい建物にしてほしいと思ったのです。ところがです。できて数か月後に雨漏れがしたのです。新しく作ったばかりなのにどうして雨漏れがするのかと不思議に思ったというか、がっかりしましたが、人間がすることは、必ずどこかに欠陥があるのです。しかし、神が設計し、神が建設してくださった建物には欠陥はありません。それこそ、私たちが目指す所であります。

 

この世にあって、外国人のように天幕生活をしたということは、ある意味でいろいろな不便さや不都合さや困難があったということを意味しています。つまり、クリスチャンが旅人のようにこの地上で生活をしていこうとすれば、そこには必ず困難が伴うということです。しかし、それに耐えることができるのは、私たちの確かな住まいが天に用意されていることを知っているからです。その確かな住まいのことを、ここでは、「堅い基礎の上に建てられた都」と言っています。それは決して揺らぐことのない土台の上に建てられた住まいです。地震などによって壊れてしまうようなこの地上の住まいとは違い、この天にある住まいはどんなことがあっても決して壊れることがない確固たる住まいです。この地上において堅固な家に住もうと思えば、それこそかなりの資金が必要でしょう。けれども、この天にある確かな住まいは、そうした資金など全く必要なく、ただ信仰によって持つことができるのです。

 

アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。それは、必ずしも彼が望んでいたような安易な生活ではなかったかもしれませんが、彼にとってそんなことは全く問題ではありませんでした。状況がどうであれ、彼にとって神の命令は絶対でした。彼は自分の人生の方向と目標を立てるとき、自分の思いを捨てて、神の選択と意思に完全に従ったのです。これが信仰です。アブラハムが信仰の父と称されるゆえんは、ここにあります。それは神に従っていけば楽な生活をすることができるということではなく、でも、どんなことがあっても神が助け、守り、導いてくださるという信仰だったのです。

 

あなたはいかがですか。神様があなたに与えておられる召しは何ですか。もしそれが神からの召しであるなら、たとえどこに行くのかを知らなくても、たとえそこにどんなことが待ち構えているのかがわからなくてもこれに従うこと、それが信仰なのです。

 

Ⅱ.不可能を可能にする信仰(11-12)

 

次に11節と12節をご覧ください。ここには、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」とあります。

 

ここには年老いたサラのことが語られています。サラが神から約束の子を授かると言われた時に、彼女は子供を宿すために必要なことが止まっていたので、それは人間的には考えられないことでしたでしたが、最後まで神の約束を信じ、子を宿す力が与えられました。どのくらい年老いていたのかというと、何と89歳になっていました。彼女が89歳の時、三人の使いが彼女のところに現れて、こういうのです。「あなたに子どもが授かります」そんなこと言われても本気に信じる人は信じないでしょう。サラも同様に信じることはできませんでした。それで心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(創世記18:12)それは彼女の不信仰による笑いでした。

 

しかし、その後、彼女は信じました。たとえ自分の年を過ぎた身であっても、神は約束したことを守られる真実な方であり、それを成就する力があると堅く信じて、疑いませんでした。なぜそのように言えるのかというと、このヘブル人への手紙でそう言っているからです。そして、その言葉のとおり、その一年後に約束の子イサクが生まれました。彼女は最初は信じられなくて笑いましたが、最後は、その笑いは喜びの笑いに変わりました。それは彼女が信仰によって、神には約束してくださった方は真実な方なので、必ずそうなると信じたからです。

 

それはアブラハムも同じでした。ローマ人への手紙4章19節を見ると、「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」とあります。だから、それが彼の義とみなされたのです。

アブラハムも初めは信じられませんでした。そして笑って、心の中で言いました。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」(創世記17:17)しかし、その後彼が100歳になったとき、彼は神を信じ、不信仰によって神を疑うようなことはせず、反対にますます信仰が強くなって、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じました。そのようにして、彼はイサクを得たのです。これは一つの型でした。それは、信仰によって義と認められるということです。アブラハムは、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたので、それが彼の義とみなされましたが、それは彼のためだけでなく、私たちのためでもありました。つまり、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。その信仰とは、神は死んだ人をもよみがえらせることができるという信仰です。つまり、神は不可能を可能にする方であるという信仰であります。その信仰のゆえに、12節にあるように、アブラハムから天の星のように、また海辺の砂のように、数えきれない多くの子孫が生まれたのです。

 

宗教改革者のマルチン・ルターは、「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが陥りやすい過ちの一つは、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能の力を認めないのです。しかし、神様はこの天地万物をお言葉によって創造された方であり、私たちに命を与えてくださった全能者です。神にとって、不可能なことは一つもありません。ですから、たとえ私たちには考えられないことであっても、神にはどんなことでもできると信じ、神の約束を待ち望む者でありたいと思います。

 

Ⅲ.天の故郷にあこがれる信仰(13-16)

 

第三に、アブラハムの信仰は、天の故郷にあこがれる信仰でした。13~16節をご覧ください。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」

 

アブラハムとサラ、またイサクとヤコブの生涯を見ると、彼らに共通していたことは、彼らは約束のものを手に入れることはできなくとも、はるかにそれを見て喜び、この地上ではほんのしばらく過ごす旅人にすぎないことを自覚していたことです。それは、彼らが天の故郷を慕い求めていたからです。もしこれがこの地上の故郷のことであったなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。しかし、彼らは、さらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれていたので、なれない文化と習慣の中で、天幕生活を続けることができたのです。この地上での生活において嫌なことがあっても、じっと耐えることができました。このようにさらにすぐれた故郷、天の故郷にあこがれ、それを一点に見つめて離さない人は、この地上でどんなことがあっても感謝をもって生きられるのです。

 

昨年、寺山邦夫兄が天に召されましたが、その証には、76歳の8月11日に、医師から「胃癌と肝臓癌です。肝臓の周りにも腹水がたまっています」と告知されとき、一度も落ち込まなかったと言います。一度も落ち込むことなく、日々平安で、冗談を言いながら、笑いながら過ごすことができました。嘘でしょうと思われる方もいるかもしれませんが、そういう方は後で寺山姉にお聞きになられたらいいと思います。これは本当で、私がご自宅を訪問して一緒に祈った時も、満面の笑顔で、「もうすぐ天国に行けると思うとうれしくて・・」とおっしゃっておられました。どちらが病気なのかがわからないくらい、元気に見えました。いったいどうしてか?証にはこう綴られています。「永遠の命をイエス様から戴いて、主の御元に行くと分かっているからです。」死んでも永遠の命を頂いて、イエス様のもとに行くことができるということを、確信して疑わなかったからです。寺山兄は天の故郷にあこがれていたのです。

そこで「じゃ、祈りましょう」と祈っているとき、私がふと目を開けてみると、寺山兄は両手を手にあげ、涙を流しながら、「主よ。」と祈っておられました。それは決して悲しみの涙ではなかったはずです。これまでずっと慕い求めてきた天の御国、イエス様のもとにもうすぐ行くというその状況の中で、ご自分の思いのたけをすべて主に注いで祈っておられたからだと思います。私は、そんな寺山兄の姿を見て、「ああ、寺山さんは本当に天国を信じているんだぁ」と思わされました。

 

皆さん、この地上での歩みには実に様々なことがありますが、それは、神の永遠の目から見たらほんの点にすぎないのです。そのほんのわずかな期間に執着し、本当に大切なものを見失っているとしたら、それほど残念なことはありません。信仰によって生きる人は、この世ではなく永遠の御国に臨みを抱きます。世の財産や成功に執着するのではなく、御国の喜びと栄光に目を向けるなら、あらゆる試練を乗り越え、聖なる望みを実現するようになるのです。アブラハムやイサクやヤコブは、絶えず天の故郷を目指して進みました。足は地を踏んでいても、目はいつも天に向いていました。地上の富や栄光に執着せず、やがて帰るべき「さらにすぐれた故郷を見上げました。この世に心を奪われるより神に集中するとき、神の御国の相続者となれるのです。

 

16節には、「それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥じとなさいませんでした。」とあります。これは、本当に慰め深い言葉ではないでしょうか。信仰をもって生きる人を、神はこのように評価してくださるからです。

私たちは、これまで何度も何度も主に背き、主に怒りを抱かせるようなことをしてきたにもかかわらず、主を見上げ、主の御言葉を信じて生きて行こうとする人の神と呼ばれることを、神は恥じとはされないのです。

 

アブラハムも主の御心に背き、失敗をしました。約束の地カナンに入った時にききんに見舞われると、神の約束の地を離れ、さっさとエジプトに逃げて行ってしまいました。エジプトでは自分の妻サラを自分の妹であると偽り、自己保身的なことをしました。またゲラルでも懲りることなく同じ失敗を繰り返しました。サラを自分の妹だと偽ってアビメレクという王に召し入れたのです。

それにもかかわらず、彼らの生き方の根幹には、神の約束への御言葉への信仰がありました。だから、神は彼らの神と呼ばれることを、少しも恥じとされなかったのです。それは私たちも同じです。私たちも失敗を繰り返すような弱い者ですが、それでも、その生き方の根幹に神の約束の御言葉への信仰があれば、それでいいのです。神は私たちの神と呼ばれることを恥じとはされません。このことは、あなたにとっても大きな、慰めではないでしょうか。

申命記20章

 きょうは、申命記20章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 1.恐れてはならない(1-9

 

「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。」

 

ここには、イスラエルが約束の地に入ってから現実に直面する一つの問題、すなわち、戦いについて言及されています。イスラエルが入って行こうとしている地は、彼らがエジプトで奴隷としている間に多くの民が住み着いていたので、そこに入りその地を所有しようとすれば、戦いは避けられませんでした。そこで、そのような戦争が起こったとき、彼らがどのように戦いに臨まなければならないのかが語られています。

 

それはまず、「あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。」ということでした。なぜなら、彼らをエジプトの地から導き上られた彼らの神、主が、彼らとともにおられるからです。エジプトで430年もの間奴隷として捕らえられ、苦役に服していた彼らにとってその中から救い出されることは人間的には全く考えられないことでした。しかし、全能の主が彼らとともにおられたので、彼らはその中から救い出され、約束の地へと導かれたのです。主が共におられるなら何も恐れることはありません。

 

私たちの問題は、すぐに恐れてしまうことです。仕事がうまくいかないので、このままでは倒れてしまうのではないか、職場をリストラになったが、この先どうやって生活していったらいいのだろう、職場や家庭、友達との関係に問題が生じたが、これから先どうなってしまうのだろう、最近、起きると半身がしびれるが、もしかしたら脳に腫瘍でもあるのではないか、そのように恐れるのです。戦いにおいて恐れは禁物です。恐れがあれば戦う前にすでに勝敗は決していると言ってもいいでしょう。ではどうしたら恐れに勝利することができるのでしょうか。

 

2節から4節までをご覧ください。「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。うろたえてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」

ここでモーセは、イスラエルの兵士の士気を高めるために、彼らの目を主に向けさせました。向かってくる敵を見ておびえるのではなく、主を見て、主が自分たちのために戦ってくださることを信じて、勇敢に戦いなさい、というのです。

 

少し前に青年や学生たちとネヘミヤ記から学びましたが、ネヘミヤも同じでした。エルサレムの城壁再建に取り組むもそれに批判的であったホロン人サヌバラテとかアモン人トビヤといった者たちが、非常に憤慨して工事を妨げようとしました。しかし、イスラエルの民に働く気があったので工事は順調に進み、その高さの半分まで継ぎ合わされました。

すると反対者たちは非常に怒り、混乱を起こそうと陰謀を企てました。するとイスラエルの民はみな意気消沈してこう言いました。「荷を担う者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」(ネヘミヤ4:10)これは言い換えるとこういうことです。「もう体力の限界にきているというのに問題だらけだ。これでは城壁を築くことはできない・・・」つまり、彼らは意気消沈したのです。これこそ敵の思うつぼでした。やる気を失わせたのです。

そこでネヘミヤが取った行動は、彼らの目を神に向けさせることでした。ネヘミヤはおもだった人々や、代表者たち、およびその他の人々にこう言いました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(ネヘミヤ4:14)すると彼らは奮起され、片手で仕事をし、片手に投げやりを堅く握って工事を進めたので、わずか52日間で城壁工事を完成させることができたのです。

 

ここでも同じです。イスラエルが敵と戦うために出て行くとき、あなたよりも馬や戦車や多くの軍勢を見て、とても自分たちの力では戦えないと恐れてしまうこともあるかもしれない。しかし、彼らを恐れてはいけません。うろたえてはならないのです。あなたが敵と戦って勝利を得させてくださるのはあなたがたの神であり、その神があなたがたとともにおられるのだから。問題はどのように戦うのかではなく、だれが戦うのかです。私たちと戦ってくださるのは主であり、この主がともにおられることを覚えて、恐れたり、うろたえたり、おじけたりしてはならないのです。

 

5節から9節までをご覧ください。ここには、彼らが戦いに出て行くとき、つかさたちはこれらのことを民に告げるようにと言われています。これはどういうことでしょうか。これは自分の生活のことで心配事がある人は、戦いに行ってはならないということです。なぜなら、戦友たちの士気が下がってしまうからです。新しい家を買った者は、その家のことが気になって戦いに影響をきたします。ぶどう畑にたくさんぶどうの実が結ばれていたら、そのぶどうのことが気になって戦いに集中することができません。婚約している人は、彼女のことが気になってしょうがないため、戦うことができません。そして、悪いことにそうしたことが同じように戦っている兵士の士気を下げてしまうのです。

 

主イエスはこのように言われました。「さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。『私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。』すると、イエスは彼に言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」(ルカ9:57-62

 

主の弟子となるということは、主だけに思いを集中して従うということであり、他のことで思い煩わないということです。そうでないと、戦友の心までもくじけてしまうことになるからです。主の弟子として生きていく上には多くの戦いが生じますが、それがどのような戦いであっても共通して言えることは、恐れてはならないということです。なぜなら、主がともにおられ、主が勝利を得させてくださるからです。

 

2.聖絶しなさい(10-18

 

 次に10節から18節までをご覧ください。

 

「町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

 

ここでモーセは、どのように約束の地を攻略するかを語っています。そして、イスラエルが町を攻略しようと、その町に近づいたときには、まず降伏を勧めなければなりませんでした。そして、降伏に同意して敵が門を開くなら、その中にいる者は、みな、イスラエルのために、苦役に服しました。しかし、もし、敵が降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲して戦い、その町の男をみな、剣の刃で打たなければなりません。しかし、女、子ども、家畜、またその町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ることができました。それを利用することができたのです。ここで女や子どもを殺さなかったというのは人道的な理由からであると考えられます。イスラエルの敵は彼らに襲い掛かってくる者たちであって、その妻や娘たち、子どもたちではないからです。そのような者たちは、ある意味でイスラエルのために仕えることができたからです。

 

しかし、16節をご覧ください。主が相続地として与えようとしておられる次の国々、すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の町々では、必ず聖絶しなければなりませんでした。なぜてしょうか。18節にその理由が記されてあります。「それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。」

この場合の主に対する罪とは、異教の神々を拝む偶像礼拝の罪であり、主が忌みきらうべき異教的風習に生きることです。そのようにして、主に対して罪を犯すことがないように、必ず聖絶しなければなりませんでした。

 

「聖絶」とは、聖なる神の名のもとに敵を攻撃することですが、このような言葉を聞くと、多くの人は、「なぜ愛の神が、人々を殺すような戦争をするように命じられるのか。」という疑問を持ちます。イエスは、「敵をも愛しなさい」と言われたではないか・・・」と。その疑問に対する答えがここにあります。それは、一般的に言われている聖絶のとらえ方が間違っていることに起因しています。ここで言われていることは、もし彼らが主に対して罪を犯すようなものがあるなら、それを徹底的に取り除くべきであって決して妥協してはならないということであって、むやみやたらに異教徒と戦って彼らを滅ぼすことではないということです。つまり、ここで教えられていることは、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことなのです。

 

Ⅰペテロ211節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。クリスチャンはこの世、この社会でどのように生きていけばいいのか、どのように振舞うべきなのか、それは、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」ということです。この肉の欲を避けるというのは、肉体の欲望を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。この「肉」というのは、人間が持つあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の性質のことを指しています。すなわち、たましいに戦いを挑む肉の欲とは、人間の中にある罪そのもののことなのです。人間は様々な欲望を持ちますが、そのような罪の支配を避けることこそが肉の欲を避けるということです。この世の中で生きている私たちには、たましいに戦いを挑む肉の欲が次から次へと襲ってきます。そのような中で「たましいに戦いを挑む肉の欲」を避け、「立派に生活する」ことが求められているのです。欲望に負けることなく清い生活に励むことを目指すならこの世の生活から遠ざかって、自分たちと同じような考えを持つ人たちだけで閉鎖的な集団を形成する方が楽かもしれません。けれどもペテロは、そうではなくて、「異教徒の間で立派に生活しなさい。」と勧めています。それは、努力して自分の力で倫理的な、清い「立派な生活を行うこと」ではなく、主イエス・キリストによって目に見える事柄やこの世における幸福よりももっと大事なことを見つめて生きることです。

 

パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとは言われていません。殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖別という意味であり、その戦いこそが聖戦であり、聖絶なのです。

 

3.木を倒してはならない(19-20

 

 最後に、19節と20節を見て終わりたいと思います。

 

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。」

 

どういうことでしょうか。これは面白い教えです。彼らが町を攻め取るため包囲するときに、そこにある木をむやみに切り倒してはならないとうのです。どういうことかいうと、その町を攻略するのに何の益にもならないことをしてはならないということです。よく戦闘状態にあると興奮してしまい、やらなくてもいいことまでやってしまうのです。この場合は、木を切り倒してしまうということです。しかし、戦争だけでも荒廃をもたらすというのに、それ以上のことを行ったらどうなってしまうでしょうか。何もなくなってしまいます。まさか野の木が包囲から逃げ出すわけがないので、そうした無駄なことはしないようにという戒めなのです。そこには、人間の中にある過酷さを戒め、自然に対する優しさに配慮するようにという神の意図が表れています。

 

けれどもさらに面白いのは、実を結ばない木は切り倒してもよい、という命令です。神さまは非常に実際的な方であることがここで分かります。イエス様も、一度、実を結ばない木をのろわれて、枯らしてしまわれたことがありました。イエス様がベタニヤにおられたとき、お腹をすかして、いちじくの木に実がなっていないか見ておられたら、葉ばっかりで、全く実がないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」(マルコ11:12-25)と言われました。すると、翌朝、その木が根まで枯れていました。それは、外見ばかりで中身のない律法学者たちに対する警告だったわけですが、ここでも同じです。イスラエルは、外見では神を信じているようでも、もし中身がなければ切り倒されてしまうのです。

これは、私たちクリスチャンにも言えることです。イエスさまは、「わたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・だれでも、わたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。」(ヨハネ15:5-6と言われました。神に対して実を結ぶことが、私たちに求められていることなのです。