ヤコブ2章14~26節 「生きた信仰」

きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.死んだ信仰(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 

このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。

 

ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。

 

ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。

 

確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。

「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)

パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。

 

Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)

 

次に、18節と19節をご覧ください。

「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。

 

多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。

 

これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。

 

そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。

 

しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。

 

しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。

 

前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。

 

「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。

 

Ⅲ.生きた信仰(20-26)

 

次に、20節から26節までをご覧ください。

「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

 

信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。

 

ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。

 

しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。

 

しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。

 

22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。

 

ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。

 

そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」

 

彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。

 

25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。

 

結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。

 

皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)

そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。

申命記31章

 きょうは、申命記31章から学びます。

 

 Ⅰ.新しい指導者ヨシュア(1-13

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

モーセは、神がイスラエル人と結ばせた新しい契約のことばを宣言しました。それは、彼らの神、主を愛し、主の御声に従うならいのちと祝福をもたらし、もし、彼らが心をそむけて、主の御声に聞き従わず、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、死とのろいをもたらすというものでした。

 

それからモーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて言いました。2節です。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」

「出入りができない」とは戦いができないという意味です。なぜでしょうか。神によって、このヨルダン川を渡ることができないと言われたからです。どうして主はモーセに、ヨルダン川を渡ることができないと言われたのでしょうか。それは彼が百二十歳という高齢になって体力がなくなったからではありません(34:7)。それは、過去において、あのメリバで水を求めたイスラエルの民に対して彼が怒りをあらわにし、神が岩を打ちなさい(一度)と命じたのにもかかわらず、二度も打ってしまい、神を聖なる者としなかったからです。(民数記20:1-13)彼は怒りのゆえに、神のみことばに正確に従わず、自分の思いのままに走ってしまいました。それで彼は約束の地に入れないと宣言されたのです。

このようなことが私たちにもよくあります。自分の感情に流され神のみことばからずれてしまうことが・・・。そういうことがないように注意しなければなりません。

 

しかし、たとえ、モーセがカナンの地に入って行くことができなくても、神が彼らの先に渡って行かれ、エモリ人の王シホンやオグになさったように、カナン人を滅ぼしてくださいます。それゆえ、彼らを恐れてはなりません。6節のみことばをご一緒に読みましょう。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

本当に力強い言葉です。あなたが今、恐れていることはどんなことですか。不安に思っていることはどんなことでしょうか。それがどのようなことであっても恐れてはなりません。おののいてはなりません。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進んでくださるからです。

 

7節と8節をご覧ください。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の前で、同じように言って、彼を激励しています。モーセはいなくなりますが、神の計画はヨシュアという新しい指導者が立てられ、彼をとおして成し遂げられていくのです。

 

次に9節から13節までを見てください。

「モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 

モーセは、律法を記録して、それをレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちに授けました。ここで言うみおしえが、モーセ五書全部を指すのか、申命記の核心的な内容を意味しているのかは明らかではありません。しかし、一つだけ明らかなことは、この中には神との契約締結に必要な内容が全部含まれていることです。そしてモーセは、彼らがカナンの地に入って行ったら、七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、主を礼拝するためにやって来る時に、このみおしえの書を読んで聞かせなければなりませんでした。

 

仮庵の祭りは、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出すために行いました。そしてそれはまた、主イエスが地上に来てくださり、「仮庵となられた」ことを喜ぶものでした。それによって神と人との和解をもたらされたからです。

そしてそれはまた、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもありました。救いの完成のひな型でもあったのです。それはキリストの再臨によってもたらされる千年王国を指し示すものでもあったのです。

 

ですから、仮庵の祭りは、エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことの記念から始まり、この地上に住まわれ神との和解をもたらしてくださったキリストと、やがて千年王国が到来する喜び、そのすべてがつながっている喜びの祭りなのです。その祭りにおいて、このみおしえが読まれなければなりませんでした。それは、12節にあるように、男も女も、子どもも、彼らの町囲みの中にいる在留異国人もみな、このみおしえを読んで聞いて学び、彼らの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためです。

 

私たちはどれほどこのみおしえを聞いて学んでいるでしょうか。このみおしえを喜び、これを守り行い、主を恐れているでしょうか。私たちは新年度も聖書通読に力を入れますが、それはまさにこのためであることを覚え、喜んで聞き従っていく者でありたいと思います。

 

Ⅱ.主のあかし(14-23


 次に、14節から18節までをご覧ください。

「それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。」

 

ヨシュアを新しい指導者として立てたモーセは、ヨシュアとともに会見の天幕に立ちました。すると主は会見の天幕の雲の柱のうちに現れて仰せられました。それはイスラエルの民が外国の神々を慕って淫行(偶像崇拝)をしようとしていること、そしてそのようにして神と結んだ契約を破るなら、神の怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼし尽くすというものでした。これはイスラエルの民の偶像崇拝を未然に防止するための神の警告でした。その日、イスラエルの民は、「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからだ。」と言うようになりますが、それは反対です。神がおられるから、そのようなことが起こるのです。時として私たちも同じようなことを言ってしまうことがありますが、注意したいものですね。それは神がいないからではなく、神がおられるから、神がおられるから、そのようなことが起こるのだということを。

 

19節から22節までをご覧ください。

「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。」

 

神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。それはイスラエル人に対する主のあかしです。彼らが約束の地に入り、そこで食べて満ち足り、肥え太り、ほかの神々のほうに向かい、神との契約を破り、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかるとき、それがこうした理由からだということを彼らが知るためです。

 

それにしても、モーセの死の直前の最後の仕事は歌を書き記すことでしたが、その歌はのろいがもたらされたことを思い起こさせるための歌でした。何とも悲しいことでしょう。しかし、私たちには、人にいのちを与えるところの務めが与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

23節をご覧ください。

「ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

最後に神は、カナンの地に入るヨシュアに対して、もう一度「強く荒れ。雄々しくあれ」と言って、励ましています。

 

Ⅲ.あなた道を主にゆだねよ(24-30

 

最後に24節から30節までを見て終わりたいと思います。

「モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」

 

モーセは、そのみおしえの書を書き終えると、契約の箱のそばに置くようにとレビ人たちに命じました。なぜでしょうか。それは、それが神との契約であったからです。そのようになさったのは、イスラエルの民がかたくなで、うなじのこわい民であることを神が知っておられたからです。神は、16節のところで既に、イスラエルの民が、モーセの死後に、神を捨てることを語られました。モーセもエジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで、いやというほど、経験して、よく知っていました。ですから、モーセは最後に、彼らが堕落することと、道から反れて主を怒らせるようになることを預言しているのです。

 

これはイスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもこれまでもそうでしたが、いつも主の道から反れて自分勝手に歩みやすいものです。いつも堕落して、神の道から離れてしまうのです。ひどいことに、そのことにすら気付かないことが多いのです。ですから、いつも自分の感情や思いではなく、主のみおしえに歩まなければなりません。

 

パイロットが飛行訓練学校で訓練を受けるとき、教官はつねにこう強調するそうです。「操縦席についたら、決して自分の感覚を信じるな。特に悪天候の中で飛行するときや高度が上昇するとき、それに空中で航路からそれてしまったときは、なおさらだ。そのときは計器を信じるんだ。」

あるパイロットが訓練を終えて実際の飛行をしていました。彼は飛行感覚については自信がありました。訓練によって飛行感覚を身に着けていたからです。ある日、飛行中に思わしくない天候にあい、前後の見境もつかないほどの深い霧の中に閉じ込められてしまいました。彼は自分の飛行知識のすべてをかき集めましたが、次第に五里霧中に陥ってしまいました。方向さえもわからなくなってしまったのです。そのとき、飛行学校で教官が言っていた言葉を思い出しました。

「計器を見ろ。計器を信じてそれに従え。」

自分の感覚と計器の表示はまるで違っていました。しかしこのパイロットは計器を見ながら方向と高度を把握し、落ち着いて操縦したので、すぐにその状況を抜け出すことができました。

私たちの人生にも、悪天候に見舞われることがあります。そんなとき、自分の知識と自分の感覚は問題解決の役には立ちません。かえってそのような慣れた経験が、その問題をさらに深みにはまり込ませてしまうことがあります。

私たちの人生の計器は私たちではありません。私たちの人生の正しい計器は、神のみことばなのです。今あなたが困難な悪天候に見舞われているなら、過去の経験を思い起こす前に、他の人たちの意見を聞く前に、奥まった部屋に入り、計器の数値を示してくださる神に祈り求めてください。そして、そのまま従ってください。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を 認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6

ヤコブの手紙2章1~13節 「人をえこひいきしてはいけません」

きょうは、「人をえこひいきしてはいけません」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。神はそのために真理のみことばによって、私たちを新しくお生みになりました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。大切なのはその真理のみことばを聞くだけでなく、それを実行することです。そのみことばの実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。

 

この「えこひいきする」ということばは、顔を持ち上げるという意味のことばから来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節には、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」とあります。ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が公義であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。いったいなぜ人をえこひいきしてはいけないのでしょうか。ヤコブはきょうの箇所でその三つの理由を述べています。

 

Ⅰ.栄光の主イエスを信じる信仰を持っているのですから(1-4)

 

第一の理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。1節から4節までをご覧ください。1節にはこうあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光の主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は昔、神の幕屋に宿り(出エジプト40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネ1:14)。そして今日、彼を信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、彼を信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました(Ⅰコリント6:19-20)。クリスチャンとはそのような者なのです。神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、物質、あるいは富の栄光といったものは色あせてしまいます。もはやりっぱな服装であるとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか、お金持ちであるかどうかといったことはどうでもいいことであり、そういうことで人を差別してはいけないのです。

 

2節から4節までをご覧ください。

「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

ここでヤコブは、えこひいきとはどういうことなのかを具体的な例を取り上げて説明しています。「あなたがたの会堂に」とあるのは、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことを表わしています。そこにはいろいろな人々がやって来るわけですが、たとえばそこに二種類の人がやって来たとします。お金持ちと貧乏人です。お金持ちは金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時は、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたようです。そのためある人は、中指を除いた全部の指に指輪をはめ、それでもあきたらずに中には一本の指に二つも三つも指輪をはめていた人もいたそうです。彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのです。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいました。そのようにすることによって、自分を少しでもよく見せようとしていたのです。

 

一方で、貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物とてないので、みすぼらしい身なりをし、宝石などで飾ることもできません。そのような二種類の人がやって来た時、果たしてあなたはどのような態度をするのかというのです。

 

もしあなたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。でなければ、私の足元にすわりなさい」と言うとすれば、あなたは人を差別しているのであって、悪い考えで人をさばく者になっているのです。

 

この描写は、決して誇張されたものではありませんでした。というのは、初期の礼拝式文書の中に次のような教訓があったからです。

「もしりっぱな着物をきた男か女が入って来たなら、その人がその地区の人であろうと他の地区からやって来た人であろうと、兄弟であり長老であるあなたは、その人にへつらってはならない。もしあなたが神のことばを語り、あるいは聞き、あるいは読んでいるなら、その人たちに座席を与えようとしてみことばの奉仕を中止してはならない。ただ静かにしているがよい。というのは、兄弟たちが多分接待してくれるからである。もし彼らに座席がないなら、兄弟姉妹の中の愛に富んだ人が立って、彼らに座席を提供するであろう。もし自分の地区か他の地区の貧しい男か女が入って来て座席がなければ、長老であるあなたは、たとえあなたが土間に座らなければならないとしても、心からその人のために座席を作ってやるべきだ。人の尊敬を得るためではなく、神から見られるためである。」

 

こういう教訓があったのです。そしてここでは礼拝指導者が、富んでいる人が入ってきた時に礼拝を中止して、特別席を設けるように指図することがないように注意するようにということが暗に示されています。

 

初代教会には、こうした社会的な問題があったことは否めません。主人が自分の奴隷の隣に座ったり、主人が礼拝に到着したら、その礼拝で自分の奴隷が礼拝の指導をしていたり、礼典の司式者であるということがあったからです。そういうことがあれば非常に具合が悪いということは、容易に想像することができたからです。単に生きている道具にすぎないと思われていた奴隷と主人とのギャップは、今では想像することができないほど大きかったに違いありません。さらに圧倒的に貧しく、賤しい人々で満ちていた当時の教会の中に富んだ人が回心者として加えられることは、大きな誘惑であったに違いありません。

 

けれども、たとえ現実的にそのような問題があったとしても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所でした。なぜなら、教会は栄光の主イエス・キリストが臨在しておられるところであり、この方の前には格付けや身分や名声といった一切の差別がないからです。この方を信じて生きる者にとって、そうしたものは一切色あせてしまうからです。自分の罪と汚れの大きさをみるならさばかれても致し方ないような者が救われたのでありますから、そこにあるのはただ神の恵みだけなのです。この神の卓越した栄光の前には、人の功績や価値の差別といったものは何もないのです。

 

にもかかわらず「自分たちの間で差別を設ける」ならば、その人は栄光の主イエス・キリストを信じているというよりも、この世の富に足を取られているのであり、二心のある人なのです。そういう人は、その歩む道のすべてに安定を欠いているのです。そのような人に求められていることは、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持つことであり、このキリストの目とキリストの心を持つことです。私たちはいつでも、人を栄光の主イエス・キリストを通して見て、判断し、受け入れるべきなのです。

 

Ⅱ.神の選びからくる兄弟愛の実践(5-7)

 

第二のことは、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。5節から7節までをご覧ください。

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

なぜ貧しい人を軽蔑してはいけないのでしょうか。それは、神がこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を相続する者とされたからです。

 

イエス様がナザレで最初の説教をした時、それは次のようなものでした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

イエスが遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝えるためでした。イエスは絶えず貧しい人々に特別な伝言をもたらしてきたのです。

 

また、イエスの山上の説教の第一番目の祝福は何だったかというと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)というものでした。イエス様の目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは、富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりももっと富を求めるようになります。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です 。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われましたが、それはそういう意味です。決して富んでいる人には救いが必要ないということではなく、富んでいる人が砕かれて、主の救いを求めることは難しいということです。

 

しかし一方で、それは神の計画であったともいえるのです。そのように神が弱い者たちや取るに足りない者たちを選んでくださることによって、有る者を無い者のようにしようされたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「兄弟たち、あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)

 

これは本当に不思議なことです。神はこの世の知恵ある者や力ある者ではなく、普通の人、いや無に等しいような者を選ばれたのです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない。」と言いましたが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

 

それなのに、こうした貧しい人たちをないがしろにするようなことがあるとしたら、それは全く神のみこころにかなったことではないと言えます。むしろ、あなたがたをしいたげるのは、そのように富んだ人たちなのです。イエス様のたとえ話の中に、七を七十倍するまで赦しなさいという教えがありました。1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借りのある人に対して首を絞め、「借金を返せ」と言い、その借金を返すまで、彼を牢屋にぶち込みました。(マタイ18:23-35)。当時はそういうことが実際にありました。そして、そのようなことをするのはこうした富んだ人たちなのに、どうしてあなたはそのような人たちにへつらい、貧しい人たちを軽蔑するようなことをするのか、とヤコブは言うのです。

 

Ⅲ.最高の律法(8-13)

 

ですから、第三のことは、そのように人をえこひいきすることは神の律法にかなっていないということです。8節から13節までをご覧ください。まず8節と9節をお読みします。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは実を犯しており、律方によって違反者として責められます。」

 

どういうことでしょうか。ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を勧めています。その律法とは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節のみことばですが、イエス様はこれを最高の律法と言われました。なぜなら、律法のすべては、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの二つの戒めに要約することができるからです。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。これが最高の律法です。それなのに、もし人をえこひいきするということがあれば、この律法に違反することになります。そうであれば、罪を犯していることになり、律法の違反者として責められることになるのです。なぜなら、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。10節と11節をご覧ください。ここには、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」とあります。

 

私たちは、どちらかというと、不品行とか殺人、嘘、不正といった罪は大きな罪のように感じますが、人をえこひいきすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神様の目ではどれも同じ罪であり、特に、この人をえこひいきすることは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

どういうことでしょうか。貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれるようになるということです。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)と言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも図られるからです。」(マタイ7:2)それと同じように、もし私たちが人をあわれむなら、やがてあわれみを受けることになります。しかし、これほどのあわれみを受けていながらあわれみを示すことがなければ、その人に対するさばきは、あわれみのないさばきとなって自分に返ってくるのです。

 

タスカーという聖書注解者はこう言っています。「義とされた罪人によって地上に示されるあわれみこそ、彼にとって、いつの日か最後の審判のとげがすでに抜き去られていることを知る、その確信の確かな土台である。」

 

このように、神のあわれみを受けた者として、人をえこひいきするのではなく、だれに対しても優しく、親切にしなければなりません。イエスは、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。神がえこひいきも偏愛もされないのなら、私たちも神と同じ高い水準の愛をもって人を愛するべきです。人を軽蔑することは、神のかたちに似せて造られた人を虐待し、神が愛されそのためにキリストが十字架で死なれた人を傷つけることになるのです。さまざまな形の人種差別や偏見は、何千年もの間、人類の疫病として存在してきましたが、このままではいけないのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っていますが、私たちはキリスト・イエスにあって一つとされたのですから、そうした偏見や差別を捨て、一つとなることを求めていかなければなりません。

 

先週、アメリカのトランプ大統領がイスラム教国の七か国からの渡航者を一時的に入国禁止にする大統領令に署名して世界中が大混乱しましたが、皆さんはこれをどのように受け止められたでしょうか。これは、テロリストをアメリカ国内に入国させいないようにするための措置ですが、すべてのイスラム教徒が過激派なわけではありませんし、イスラム教徒をそのような目で見ることは間違っています。また、難民をはじめすべての人を受け入れるようにと命じている聖書の教えにも反しています。そうした偏見や差別を捨てて、キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合い、受け入れ合わなければならないのです。

 

しかし、それはトランプ大統領だけの問題ではありません。それは、私たちの問題でもあるのです。アメリカではこれまで多くの難民や移民を受け入れてきた結果こうした問題と取り組まなければならない事情がありますが、日本ではそもそもこうした難民を受け入れて来なかったという事実があるのです。昨年、日本に難民申請があったのは7,586件ですが、難民認定者として認められたのはわずか27人にすぎませんでした。一昨年はわずか11人、その前の年は6人です。あまりにも少なすぎます。このような状況で、どうやってトランプ大統領を批判することができるでしょうか。私たちももっと真剣に考えなければなりません。隣人を愛することや、こうした人たちへの偏見を捨てて、受け入れることを・・。

 

1月26日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー」は、1968年のメキシコ五輪・男子200メートルで銀メダルを獲得したオーストラリア人・ピーター・ノーマンにスポットをあてた番組でした。  このメキシコ五輪が開催された1968年は、アメリカ黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求める抗議運動が継続し、ベトナム戦争の反対運動が起こっていた時代でした。

男子200メートルでは、2人のアメリカ黒人選手が金と銅メダルを獲得。そしてオーストラリア白人選手のピーター・ノーマンが銀メダリストとして表彰台に上がりました。すると、金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスが、アメリカの国歌が流れ星条旗が掲揚される間、壇上で頭を下げ、黒手袋をはめた拳を突き上げたのです。これはブラックパワーサリュートといって、黒人差別に抗議する行為ですが、これが波紋を呼び、トミーとジョンは、長い間アメリカスポーツ界から追放。黒手袋をはめた拳を突き上げませんでしたが、ピーター・ノーマンも、抗議運動に同調したということで批判され、地元のオーストラリアからも除け者扱いされ、4年後の1972年に開催されるミュンヘン五輪にあたってピーターは、予選会で3位の好成績を残したにもかかわらず代表にも選ばれませんでした。その後彼は、競技生活を引退し、引退後は体育の教師や肉屋などの職を転々としました。

結局ピーターは2006年、心臓発作でこの世を去りましたが、最後まで国から受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま亡くなってしまったのです。ピーターの葬儀ではアメリカからトミーとジョンがやって来て棺を担ぎました。オーストラリアでは無視された存在になっていても、彼らは決してピーターのことを忘れず、2人はピーターの棺に付添ったのでした。

そして、2012年、オーストラリア政府は、ピーターに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかった国の過ちと、ピーターの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかった」と謝罪したのです。ピーター・ノーマンは、たった1人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した手本になったのです。

 

現代ではブラックパワーサリュート事件は存在しないかもしれませんが、しかし、私たちの心の中にはまだ人をえこひいきする壁が残っているのではないでしょうか。私たちはついつい人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人をえこひいきすることなく、だれに対しても親切にし、心の優しい人になることを求めていきたいと思います。