申命記30章

 

 きょうは、申命記30章から学びます。

 

 Ⅰ.あなたを再び集める(1-10

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

前章でモーセは、イスラエルの民と新たな契約を結びました。それは、ホレブで結ばれた契約とは別のものです。それは、彼らが約束の地に入って行ってから神の民としてどうあるべきなのかが示された新しい契約であり、その契約に従う者には祝福を与え、従わない者にはのろいをもたらすというものでした。しかもそれは彼らの行いによるのではない、神の真実とあわれみによってもたらされる恵みの契約です。そして、その祝福とのろいが彼らに臨み、彼らがすべての国に散らされた時、それらのことを心に留め、彼らの神、主に立ち返る時、どのようなことが起こるのかがここで語られています。3節から5節までを覧ください。

 

「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

主は何とあわれみに富んでおられる方でしょうか。たとえ神のみことばに従わずに罪を犯し、神のさばきとのろいを受けることがあっても、それで終わりではありません。その罪を悔い改め、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、主は彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれみ、すべての国々の民の中から、彼らを再び集めるというのです。そして、彼らが所有していた地に彼らを連れて行き、その地を所有させ、彼らを栄えさせ、その先祖たちよりもその数を多くさせるというのです。

 

私たちはまだこの預言の完全な成就を見てはいませんが、これまでのイスラエルの歴史の中でいくつかその成就を見ています。たとえば、イスラエルはB.C.587年にバビロンによって捕えられましたが、その70年後にカナンの地に帰還しています。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ多くのユダヤ人が全世界に離散しましたが、1900年代になりシオニズム運動といって、全世界に散ら連れていたユダヤ人がイスラエルに帰還しました。そしてついに19485月に、イスラエル共和国が建国されたのです。1900年もの間国を失い流浪していた民族が再び国を興すといった話を聞いたことがありません。けれども、イスラエルはそれを成し遂げました。それはいにしえの昔、旧約聖書にこのように預言されていたからです。それが成就したのです。それはこの預言の成就の一部なのです。

 

それでは、ユダヤ人がみな主に立ち返ったのかと言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分たちのメシヤであると信じておらず、神の救いを受け入れていないからです。しかし聖書を見ると、このイスラエルの民もやがてイエスをメシヤとして受け入れるようになるとあります。それはイエスが再臨される時であり、その時彼らは患難の中を通って、初めて自分たちが槍を突き刺した方がキリストであったことを知り、胸を打って悔い改めるのです。ですから、大患難の時には、イエスが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。この時代に多くのユダヤ人がイスラエルに集まっていることはその預言に向かって大きく前進している証拠であるといえるのです。そして、彼らが悔い改めるとき、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章に書かれてある預言の成就です。

 

6節から10節までをご覧ください。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

「心を包む皮を切り捨てる」というのは、心の割礼のことです。イスラエル人にとって割礼は、彼らが神の民であることのしるしでした。しかし、どんなに肉体に割礼を受けていても、神のみ教えに歩まなければ何の意味もありません。彼らが割礼を受けたのは彼らが神の民であって、神の教えに歩むためだったのです。しかし、彼らはその神との契約を守ることができませんでした。ですから、大事なことは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)心に割礼を受けることです。イスラエルが神のみこころに歩めなかったのは心を包む皮を切り捨てられていなかったからです。そこで主は、その心を包む皮を切り捨てると言われたのです。その時彼らは、心を尽くし、精神を尽くして、彼らの神、主を愛し、それで彼らは生きるようになります。そして、イスラエルを迫害したイスラエルの敵にのろいを下されます。まさに、アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。

 

一方、イスラエルはどうなるかというと、8節にあるように、再び、主の御声に聞き従い、主のすべての命令を行なうようになります。心に割礼を受けるからです。心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができるようになるのです。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。

 「あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

こうして、イスラエルは、神との契約を破り、神の命じられたことに従わなかったことで神ののろいを受けますが、主はそんな彼らを再び栄えさせます。それは彼らが心に割礼を受けて、神に立ち返り、心を尽くして、精神を尽くして、主の御声に従うようになるからです。

 

それは、私たちも同じです。私たちも主の御声に従わないで罪を犯し、主のさばきとのろいを受けるようなことがありますが、悔い改めて、主に立ち返り、心を尽くして、主により頼むなら、主は再び私たちを回復させ、その祝福の中へと入れてくださるのです。失敗してもそれで終わりではありません。そのためには私たちは心に割礼を受けること、神の聖霊によって、かたくなな心を砕いていただきたいと思います。

 

Ⅱ.みことばは、あなたのごく近くにある(11-14


 次に、11節から14節までをご覧ください。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

 

ここでモーセは、主の命令とおきてとを守ることについて、それは彼らにとって難しすぎることはないと断言しています。それは遠くかけ離れたものではないからです。それは天に上って取ってこなければ聞くことができないものではありません。また、海のかなたに渡って取って来なければ聞くことができないものでもないのです。それは、あなたのごく身近にあり、あなたの口に、あなたの心にあるのです。ですから、いつでも聞いて行うことができるのです。

 

パウロはローマ人への手紙106節から10節までのところでこの箇所を引用し、信仰による義について語っています。すなわち、私たちが救われるためには天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとかということではなく、信仰のことばを受け入れるということ、すなわち、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるのです。なぜなら、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。そのためにどこか遠く行くことも、天に上る必要もありません。神の救いのみことばはあなたのすぐ近くにあり、あなたの心にあるからです。

 

Ⅲ.あなたはいのちを選びなさい(15-20

 

最後に15節から20節までをご覧ください。

「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 

いのちか死か、幸いかわざわいか、どちらを選ぶのかという二者選択です。もし彼らが主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るなら祝福され、反対に、それに聞き従わず、ほかの神々を拝み、それに使えるなら、必ず滅びうせます。彼らが入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできません。だから、あなたはいのちを選びなさい、というのです。

 

どちらを選ぶのは大切なことです。それは、私たちの選択にゆだねられています。そして、私たちはいのちを選ばなければなりません。しかし、私たちはそれでものろいを選択してしまいます。いのちをえらばなければならないということをわかっていても、自分の欲に負けて誘惑されてしまうのです。ですから、私たちの肉の力ではこうした選択する力さえありません。私たちの心は罪に支配されているからです。しかし、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくれました。神はご自身の真理のみことばによって私たちを新しく産ませさせてくださいました。その御霊によって、肉に勝利することができます。そして、いのちを選ぶことができるのです。(ヤコブ1:18

 

ここでモーセは、「天と地とを、証人に立てる。」と言っています。確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。この神の御前で、私たちは、「私と私の家とは、主に仕える」と宣言しましょう。その中で、神のみことばを行い、いのちを得る者でありたいと思います。

ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。

申命記29章

きょうは、申命記29章から学びます。モーセは28章で神の契約を守る者に与えられる祝福と、神の契約を破る者にもたらされる呪いがどのようなものなのかを語りました。しかも呪いに関する記述の方がずっと長いのです。祝福の6倍ものスペースを割いて語られました。聞いているだけで気が重くなりそうです。しかし、幸いなことは、神の呪いを受けても致し方ないような私たちのために、神の御子であるキリストが身代わりとなって呪いを受けてくださったということです。それゆえに、私たちはこの方にあって神の祝福の中に入れられました。ですから、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従わなければなりません。 

 1.新たな契約(1-15 

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」 

まず1節から8節までをご覧ください。モーセは今、ヨルダン川の東側にいます。そこでこれまでの過去を振り返りながら、イスラエルが約束の地に入って行った後にどうあるべきなのかをこくこくと語るのです。1節には、「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」とあります。ここでモーセは、かつてホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、新たな契約を結ばせようとしています。それはあのホレブでの契約とは別の新しい契約というよりも、あのホレブで結ばれた契約に追加しての契約といった方がよいでしょう。彼らが約束の地に入ってからどうあるべきなのかを語り、その神の命令に従うようにと結ばれる契約なのです。 

まずモーセは2節と3節で、以前イスラエルがエジプトにいた時のことを思い起こさせています。そこで神がどのような力ある御業を成してくださったのかを確認したうえで、それにもかかわらず神に従わなかったイスラエルの不信仰を取り上げているのです。いったい何が問題だったのでしょうか。4節にその原因が記されてあります。それは、「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」ということです。彼らは見てはいても見えず、聞いてはいても聞こえなかったので、神の真理を悟ることができなかったのです。それは今日に至るまで、ずっと同じです。 

イエスはそのたとえの中で、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。それは聞いてはいても実際のところは聞いていないからです。聞き方が重要です。御霊によって聞き、御霊によってわきまえるのでなければ、神の真理のことばを本当に理解することはできません。

パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14-15ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるように祈らなければいけません。 

しかし、それにもかかわらず、神はそのような彼らを滅ぼすようなことはなさいませんでした。5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが着ていた着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。すなわち、ここで結ぶ契約は彼らの真実さのゆえに結ばれるものではなく、神の真実に基づいた恵みとあわれみによっ結ばれるものなのです。 

6節には、「あなたがたはパンを食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。」とあります。どういうことでしょうか。パンやぶどう酒は祝福の象徴ですが、そのようなものは彼らには必要なかったということです。なぜなら、神ご自身が彼らの祝福だからです。そのようなものは確かに神からの祝福であるのには違いありませんが、その祝福によって心が高ぶって、神などいらないということにもなりかねません。ですから、神は彼らにパンも強いぶどう酒も与えませんでしたが、そのことが返って、彼らが主を知ることにつながりました。その代わりにマナを与えられることによって、彼らは、人はパンによって生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていることを確信することができました。私たちはとかく自分の目に悪いことが起こったり、何か欠けたものがあるときに主により頼みます。このことが、主を知っていくことの訓練になるのです。 

また、イスラエルの民がこのヨルダン川の東側にやって来たとき、そこにはヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグが出てきましたが、イスラエルの民は彼らを打ち破ることができました。そして彼らの国を取り、それを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、与えることができました。 

何という神の御業でしょう。彼らが神の契約を守り、行うなら、彼らは栄え、彼らが想像していた以上の祝福を受けることになるのです。そのことを前提に今、主はイスラエルと新しい契約を結ばれるのです。それは人の従順によってではなく、神の真実に基づいた契約です。 

それでは、その契約を見ていきましょう。9節から15節までをご覧ください。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」 

ここには何度も「きょう」ということばが繰り返されています。きょう、いったい何が起こるのでしょうか。モーセはここで「きょう」と言って、契約が今、結ばれることを宣言しています。それはイスラエルの長老たち、つかさたちといった指導者たちだけでなく、イスラエルのすべての人々、彼らの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで、すべての人を含んでいます。何の差別なく、全ての人がこの契約の中に含まれているのです。すべての人がこの契約を結ばなければなりません。神は決して呪うために契約を結ばれるのではありません。そうではなく、祝福するために契約を結ばれるのです。そのためには神の契約を守らなければなりません。 

この契約の中に入れられているという自覚を持っているかどうかというこがとても重要です。そうでなければここにある契約はただの絵に描いた餅でしかないからです。この契約の中に自分たちも入れられていると自覚しているから、そのような行動が生まれてまるわけです。 

それは私たちも同じで、私たちもこの契約の中に加えられた神の民であるという自覚がなければ、喜んで神のことばに従って生きていくことはできません。昔神はスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出されたように、私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって罪の中から解放してくださったことを思うとき、感謝と喜びをもって心から神に仕えていきたいと思うようになります。 

2.のろいの誓いのことば(16-21 

次に16節から21節までをご覧ください。

「事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。」 

ここでモーセは、イスラエル人がエジプトに住んでいた過去と、今いるモアブの地までどのように導かれてきたのか、また、彼らの中にある憎むべき偶像を見たことを思い起こさせています。モーセは、個人であっても、家族であっても、部族であっても、その心が神から離れないように、また、そのような偶像に走ることによって毒草や、苦よもぎを生じる根を、イスラエルの中に生じないように、念を押して注意しています。というのは、このモーセの警告を聞いても、19節にあるように、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、そこに激しい神のさばきが降るからです。 

この19節の釈義は困難です。「潤ったものも渇いたものも」とは何を指しているのか、だれのことばなのかで意味が全く変わるからです。ほとんどの注解書は、これを前節で取り上げられている偶像崇拝者のことばとしてとらえていますが、そうすると前後の文脈の意味が全く通じなくなってしまいます。英語の聖書では、これを神が語られたことばとして解釈しているため、前後の文脈とも合致しとてもわかりやすい訳となっています。すなわち、「こののろいの誓いのことばを聞きながら『私は自分のかたくなな心に従っても大丈夫であろう。』」と自分自身を祝福する者があるなら、神は潤ったものも渇いたものと共に滅ぼし尽くす。」ということです。主はそのような者を決して赦そうとはなさいません。そのような者には激しい主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去ってしまいます。 

3.わざわいを下される(22-29 

次に、22節から29節をご覧ください。

「後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」

 

神との契約を守らない時、神は、その地にわざわいを下されます。後の時代、イスラエルの子孫や、遠くから来る外国人は、その地の災害と主がその地に起こされた病気を見て、こういうでしょう。「その全土は、・・・硫黄と塩によって焼土となり、種も蒔けず、目も出さず、草一本も生えなくなっており、主の怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」と。また、すべての外国人はこういうでしょう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」それは25節から28節にあるように、それは彼らの父祖の神が、彼らをエジプトの地から連れ出され、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、ほかの神々に行って仕え、それらを拝んだからである・・と。それで、主の怒りが、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされたからである・・と。 

このようにして見ると、神を捨て、偶像に走る者に対して、神がどれほどの大きな怒りで彼らをこの地から根こそぎにされるかがわかります。そして、それは当時のイスラエルに限らず、この書の契約の中に入れられている私たちも同じです。そして、私たちも自分ではどうすることもできない弱さを抱えた者であることを知ります。 

パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24と嘆いていますが、それは私たちも同じです。しかし、私たちは、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたからです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためです。 

何とすばらしい約束でしょうか。肉においては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じ、キリストの御霊によって生きるとき、その律法の要求を完全に行うことができるからです。ですから、私たちはこのキリストにとどまり、キリストの恵みに信頼して、神のみこころに歩めるように祈り求めていきたいと思います。神は砕かれた、悔いた心をさげすまれません。神の前にへりくだって、キリストの十字架の恵みに歩ませていただきたいと思います。 

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
 
まだ書き記されていないみことばは、隠されたみことばであり、それは、主のものですが、書き記されたみことば、すなわち、啓示されたみことばは、私たちと子孫のものであります。そのみことばに対して、私たちに責任があるのです。ですから、まだ明らかにされていないことは主にゆだね、既に現わされたことば、すなわち真理の書である聖書のみことばを学び、そのみことばに堅く立って生きる者でなければなりません。そのように歩む者を、神が豊かに祝福してくださるのです。

ヤコブの手紙1章5~11節 「知恵を求める」

きょうは、ヤコブの手紙1章5節から15節のところから、「知恵を求める」というタイトルでお話しします。このヤコブとはイエスさまの異父兄弟のヤコブです。彼は迫害で国外に散っていたユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。どのように励ましたのかというと、前回の箇所で学んだように、さまざまな試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい、と勧めることによってです。だれも試練を喜ぶ人はいません。それは普通の感情で言えば辛く悲しいものなのです。それなのになぜヤコブは試練を喜ぶように、しかも、この上もない喜びと思いなさいと言ったのでしょうか。それは、試練には目的があったからです。その一つは、試練がためされると忍耐が生じるということです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、なぜなぜ買ってまで苦労をするのかというと、この忍耐が養われるからです。しかし、試練によって信仰がためされている人は苦労を買う必要がありません。すでに与えられているからです。忍耐は試練によって養われるのです。もう一つの目的は、信仰によって生じた忍耐を働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な人になるということでした。つまり、試練を通して信仰が成熟する、大人のクリスチャンになるということです。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と言ったのです。

 

きょうのところには、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧められています。これは前回のところで語られた試練を喜ぶということと無関係ではありません。つまり、さまざまな試練にあうとき、それをこの上もない喜びと思うためには知恵が必要であるということです。知恵とは何でしょうか。知恵とは、与えられた情報や知識を自分の生活の中に具体的に適応する能力のことです。しかし、この知恵とは人間的な知恵のことではなく、神からの知恵のことです。というのは、ここでヤコブは「知恵に欠けた人がいるなら、神に願いなさい」と言っているからです。なぜ知恵なのでしょうか。試練の中において、問題解決のための力や恵み、救出を願わないで、どうして知恵を求めるようにと言っているのでしょうか。それは、成熟したキリスト者となるために、神が成長の機会として試練を与えておられることを理解し、それに適切に応答するためには知恵が必要だからです。

たとえば、先日私が乗っている車が故障しました。車屋さんで見てもらったどうもオルタネーターという発電機が古くなったのが原因で、それを交換すれば問題ないということでした。しかし、この前はセルモーターが故障して交換して、今回はオルタネーターが壊れたということは、他にも悪い箇所が出てくることが考えられるので、そちらの方が心配だということでした。そういえば、夏になるとオーバーヒートの赤いランプがつくんですよと言うと、それはエンジンが確実にやられているということでしょうね。となると、交換してもどのくらい乗られるかわかりません、と言われました。オルタネーターだけの問題ならそれを交換するだけで済みますが、交換してもまた別の箇所に問題が生じるとしたら修理代がもったいなくなります。私としてはできるだけ部品を交換して乗りたいと思っているので、「でもお金がないから部品を交換してもらえますか。乗れるだけ乗りますから。」と言おうかと思いましたが、もうちょっと様子を見てからにしようと、「もうちょっと待ってもらえますか。家内と相談してからご返事したいと思います。どうせこれから年末年始に入るので整備もできないと思いますし。」と言って帰宅してみると、つばの週にはエンジンから焼いているようなにおいがして、今にも車が爆発でもしそうな大きな音がでたので、「ああ、これは無理だ」とはっきりしたので、交換することにしました。

私たちの日々の生活の中にはこういうことがたくさんあります。いったいどうしたらいいかと悩むことが多いのです。車の部品を交換した方がいいのか、買い替えた方がいいのか、やるべきなのか、それともやめるべきことは何か、行くべきなのか、留まるべきか、話すべきか、黙っているべきか・・・本当に悩みます。そのような時に必要なのがこの知恵なのです。人は例外なくさまざまな試練に会います。ちょうど車のエンジンがかからないように仕事でもエンジンがかからない時があります。人間関係でもさまざまなトラブルが起こります。車のブレーキがきかないように自分自身のブレーキがきかないことがあります。感情のコントロールをすることが難しい時があるのです。また予期しない事が突如として起こったりします。そのような時、自分の知識や経験ではどうしたらいいかわからないことがあるのです。そのような時に必要なのが、この神の知恵なのです。きょうは、この知恵を求めることについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に願いなさい(5)

 

まず第一に、神に願いなさいということです。5節をご覧ください。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

今までは自分の知恵や知識、経験で大丈夫だったかもしれませんが、しかし、それがきかなくなったとき、どうしたらいいかわからないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と言っています。なぜなら、その知恵は上から来るからです。ローマ16章27節には、神は知恵に満ちた方だとあります。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

神はこの天と地を造られた創造者です。その知恵と力をもってすべてのものを造られました。そして、神は今も知恵と力をもって万物を保持しておられます。神の知恵は私たちの知恵よりも優れていて、私たちが思う以上、考える以上の最善の道を持っておられます。私たちが試練に会い、どうしたらいいかわからず、八方塞がりになったとき、神に知恵を与えてくださるように願わなければなりませな。そうすれば、与えてくださいます。

Ⅰコリント10章13節には、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。神は耐えることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

1980年にアメリカの化学メーカー3M社から、糊付き付箋紙ポトスイット(Post-it) が販売されましたが、それがどのようにして発明されたかご存知ですか。それは失敗作から生まれた偶然の産物だったと言われています。この研究所に勤めていた研究員のスペンサーさんは、強力な接着剤を開発しようと研究していたのですがなかなかうまくいかず、失敗ばかりを繰り返していました。その研究の中でよくくっ付くけれどもすぐに剥がれてしまう奇妙な接着剤ができたのです。何かに使えそうだけれども何に使えるかがわからない、しかも、本来の目的であった強力な接着剤を作れないでいたのでとても苦しい状態でした。それから5年くらいした後、いつものように教会に行って聖歌隊として讃美歌のページをめくると、目印にしていたしおりがサッと落ちました。その瞬間彼の頭に「これだ!!」とひらめきました。よくくっつくがすぐに剥がれるものが役に立つものがここにあったと付箋紙を思い出したのです。今ではどこの家でも、どのオフィスでも使われて重宝していますが、このような失敗から新しい発見が生まれたのです。

それは試練も同じです。試練そのものは辛く悲しいように思われますが、そこから教えられることがたくさんあります。神は試練とともに脱出の道を備えておられるのです。ですから、試練に会ってもあきらめないで、その試練の目的は何か、神はそこから何を教えようとしているのかを求めなければなりません。そのためには知恵を求めることが大事なのです。

ヤコブはここで、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」と言っています。神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。あの人は特別で、自分はそうではないとか、神はあの人の祈りは聞かれるが、私の祈りは聞いてくださらないということはありません。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。なぜなら、神は私たちに神の御子を与えてくださったからです。ローマ8章32節にはこうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ありません。最愛のひとり子を与えてくださったのであれば、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないわけがあるでしょう。子どもが魚をくださいというのに、ちょっと格好が似ているからと、魚の代わりに蛇を与えるような親がいるでしょうか。卵をくださいというのに、さそりを与えるような親がいるでしょうか。してみると、私たちは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。であれば、なおのこと、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を、知恵を与えてくださらないことがあるでしょうか。ないです。求めるなら、与えられるのです。ですから、どうぞ神に求めてください。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)すばらしい約束ですね。求めるなら受けるのです。ですから、キリストの名によって父なる神に求めてください。そうすれば受けるのです。

皆さんはどうでしょうか。今どのような試練の中にあるでしょうか。どのような苦しみがあるでしょう。どうしたらいいかわからない、八方塞がりの状態ですか。そうであればどうぞ祈ってください。どうしたらいいのか、何が神のみこころなのか、祈ってください。そうすれば、きっと与えられます。自分でも思いもつかなかったような知恵が与えられます。それは意外とシンプルなことかもしれません。気付いていないことかもしれない。でも神はそんな気づきを与えてくださるでしょう。

Ⅱ.信じて願いなさい(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

もし、知恵に欠けた人がいて、その人が神に願うなら、神はその知恵を与えてくださいます。しかし、そこには一つの条件があります。それは、少しも疑わずに、信じて願うということです。「信じます、お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理だよな、どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたらそれは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。信じるとは疑わないことです。そこには疑う余地がありません。

ヘブル11章6節をご覧ください。そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。」とあります。ここで神に近づく者に求められていることは何でしょうか。それは、神がおられるということと、神を求める者には報いてくださるということを信じることです。そうでなければ神に近づくことはできません。ですから、神に近づく者には、信仰が求められているのです。

イエスさまはこう言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22)

ただ信じるのでなく、疑わずに信じることが大切です。そうすれば、山も動きます。私たちの人生にはいろいろな山があります。この問題はどうしても動かないと思える山があります。しかし、心の中で信じて疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると主は言われました。

皆さん、私たちの祈りが聞かれるには、心の中で疑わずに信じることが重要です。「主よ、信じます。」これだけです。「主よ、信じます。でも、これは考えられないことです。」とか、「主よ、信じます。しかし、あまり期待はしていません。」というのでは、主も答えようがありません。どっちなの?信じているの、信じていないの、はっきりしてちょうだいと言われそうです。信じますと言った後で、「しかし」とか「もし」ということばがつくと、すぐに疑いが生じてきます。さっきまで信じていたのに、すぐに疑いが始まるのです。そういう人は何に似ているでしょうか。そういう人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。波は何に左右されるかというと、風ですね。風が吹くと揺れ動きます。強風になると大波になります。

私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は何に左右されるでしょうか。状況です。状況が安定していると私たちの心も落ち着いていますが、状況が悪くなったとたんに、私たちの心も揺さぶられます。問題が大きくなればなるほど、私たちの心も大きく揺れるのです。私たちは目に見えることによって右往左往してしまうのです。しかし、信仰は見えるものではなく、見えないものに目を留めます。なぜなら、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)だからどんなに状況が悪くても信仰によって歩むなら、心が安定するのです。しかし、信じていても「でも」とか「もし」という疑いがあると、不安定な心になってしまいます。それは二心のある人で、そのような人の歩みは、当然不安定なものとなります。

あるとき、イエスさまのもとに、悪霊につかれた息子を連れて父親が助けを求めてやって来ました。この息子に霊がとりつくと、所かまわず彼を押し倒し、あわを吹いたり、歯ぎしりしたりするので、どうしたらいいかわからず弟子たちのところに連れて来たのですが、弟子たちにはこの霊を追い出すことができませんでした。すると、イエスは彼らの不信仰を嘆かれ、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねると、父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、イエスさまはこう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)するとこの父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って、息子から悪霊を追い出していただきました。

私たちもすぐに疑って、「もしおできになるなら」と言ってしまう者ですが、「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って、少しも疑わないで信じる者でありたいと思います。油断すると人はすぐに不信仰に陥ってしまいます。それが人の性(さが)というか、生まれつきの性質なのです。状況が悪くなればなるほど、疑いしか出てきません。しかし、そのような時こそ信仰を働かせ、信じて願い求める者でありたいと思います。

Ⅲ.神に望みを置いて(9-11)

最後に9節から11節までを見て終わりたいと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

ここには、貧しい境遇にある人は、自分の高い身分を誇るように、また、逆に、富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持つようにと勧められています。これはどういうことでしょうか。

この手紙は迫害によって国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは迫害や試練によって家や財産を失い、貧しくなっていました。それは経済的な貧しさだけでなく、社会的にも身分が低くされることも含まれていました。しかし、そのような貧しさの中にいても、自分の価値を低くみる必要はありません。なぜなら、そのような人たちは、神によって高い身分にされているのですからです。すなわち、人の価値は家柄や社会的な地位や物質的な豊かさによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる霊的資源によって決まるのです。イエス様を信じて神の国に入れられているのであれば、神の子としての特権が与えられているのですから、最高の身分が与えられているということであって、それを誇ればいいのです。逆に、どんなに富んでいたとしても、この特権を受けていなければ永遠に失われた者なのであって、それは最も悲しいことであり、哀れです。なぜなら、富んでいる人は、草の花ようにすぐに過ぎ去ってしまうからです。太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまうのです。すると、その鼻は落ち、美しい姿は滅びてしまいます。そのことを、イザヤはこう言っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

皆さん、人は草です。その栄光は野の花のようなんです。すぐにしぼんでしまいます。すぐに枯れてしまう。どんなにきれいに咲き誇っていたとしても、やがて滅びてしまいます。それほどはかないものなのです。そんなはかないものでどんなに誇ったところで、それがいったい何になるというのでしょうか。やがてすぐに消え去ってしまいます。しかし、主のことばはとこしえに堅く立ちます。そこに目を留めることができなければ、人生はほんとうに空しいものなのです。

パウロはテモテにこのように書き送りました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならないと実に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

これが神の知恵です。このような正しい価値観は、神の知恵によらなければ持つことはできません。神様を信じるまでは物質的な豊かさこそ人生の豊かさであるかのように思い込んでいましたが、イエス・キリストを通して永遠のいのちがあることを知った時、人生の豊かさはそうした物やお金の豊かさにあるのではなく、ただ神に信頼し、神に望みを置くことによってもたらされる霊的資産いかんによってはかられるものであることがわかりました。それは神の知恵によるのです。ですから、この神の知恵を持つということが私たちの人生にとってどれほど重要であるかがおわかりかと思います。

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、試練によって貧しい境遇になったかもしれない。しかし、低くされるということは謙遜にされるということであり、謙遜にされることによって、人の価値が何なのかがはっきりわかるようになりました。ですから、試練は感謝なのです。試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさいと言われているのです。そのためには、神の知恵が必要です。神の知恵によって、そのことにハッと気づかされるのですから・・。

 

あなたは何に信頼を置いていますか。あなたが信頼を置いているものは、本当に頼りになるものでしょうか。私たちが信頼しなければならないのは神ご自身です。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。ここに望みを置いて歩んでまいりましょう。そのために、神の知恵が与えられるように、少しも疑わずに、信じて願い求めましょう。

ヤコブの手紙1章1~4節 「さまざまな試練に会うときは」

あけましておめでとうございます。新しい年をどのような思いで始められたでしょうか。この新しい年も主のみこころに歩めるように、みことばから共に学んでいきたいと思います。きょうからヤコブの手紙に入ります。それでは早速見ていきましょう。

 

Ⅰ.この上もない喜びと思いなさい(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

この手紙を書いたのは、ヤコブです。ここには、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とあります。聖書には「ヤコブ」という名前の人が四人出てきます。一人はゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスの弟子で、ヨハネの兄弟でしたが、サマリヤの人たちがイエスさまを受け入れないと、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったことから、「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付けられました。このヤコブではありません。他にイエスの弟子でアルパヨの子ヤコブ(ルカ6:15)という人がいますが、彼でもあません。もう一人、イエスの弟子でユダという人がいますが、彼をイスカリオテ・ユダと区別するために「ヤコブの子ユダ」(ルカ6:16)と紹介していますが、このヤコブでもありません。ということは、このヤコブというのは、イエスの実の兄弟ヤコブのことです。兄弟といっても、イエスさまは聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、このヤコブはマリヤが結婚してヨセフとの間に生まれた子どもでしたので、異父兄弟ということになります。彼は初めイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)が、イエスさまが復活されてから彼に直接現われてくださったことで、イエスさまを信じ、キリストの弟子となりました。そして教会の指導者の一人として重んじられるようになり、使徒の働き15章に出てくる第一回エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けなければ救われないのか、という議題において、最終的な決定を下しました。ガラテヤ書2章9節でパウロは、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」と言っているように、彼はエルサレム教会の柱として重んじられていたことがわかります。

 

それほど重んじられていた人物であるならよほど偉い人だったのではないかと思われますが、彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。彼はイエスの異父兄弟でしたから、自分を「神の子イエス・キリストの実の兄弟であったヤコブより」と紹介することもできました。あるいは、「エルサレム教会の初代牧師です」ということもできたはずです。それなのに彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と言ったのです。なぜでしょうか。それは彼がキリストに対して正しい理解を持っていたからです。確かに彼は主イエスの実の兄弟だったかもしれない。約30年の間同じ家で生活し、一番近くで人間イエスをつぶさに見て来たかもしれません。しかし、このイエスがどのような方であるのかをはっきり知ったのは、イエスさまが復活して彼に直接現われてくださったことによってでした。それまでは信じられなかった。イエスがどのような方であるのかを全く理解していませんでした。イエスさまが直接彼に現れてくださったことによって、イエスが初めてわかった。そして、復活されたイエスは神であるということ、それは父なる神と等しいお方であるということです。

 

イエスさまは、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。また、「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14:9)と言われました。でも、それがどういうことなのかがさっぱりわからず、この人は気が狂っていると思っていたのに、イエスが復活されたことでこれまでイエスさまが語っておられたことが自分の中で全部つながったのです。そして、この方はまことに神であったということがわかったのです。この方は神と等しい方であり、この方こそ救い主であるということがわかったのです。そして、この方がどのような方であるかがわかったとき、彼は確かにイエスさまとは異父兄弟であり、エルサレム教会の柱として重んじられていた者ですが、そんな自分の立場とか、環境などといったことは何の関係もない、ただのしもべにすぎないということを自覚することができたのです。この「しもべ」という言葉は、ギリシャ語で「デューロス」という言葉ですが、それは奴隷、しかも最も低い奴隷のことを意味しています。彼は、キリストがすべての人を救う救い主であると理解したことで、自分はその方に仕えるしもべにすぎないと思ったのです。

 

このヤコブが、国外に散っている十二の部族に書き送っています。この国外に散っている十二部族とは、ユダヤ人クリスチャンたちのことを指しています。初代教会の時代、神のことばが、ますます広がって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常に増えて行くと、多くのユダヤ教の祭司までもが次々に信仰に入りました。これはまずいとユダヤ教の指導者たちがいろいろと議論をふっかけてくるのですが、弟子たちは知恵と御霊によって語っていたので、また、それに伴う数々の不思議なわざやしるしも行ったので、全く太刀打ちすることができませんでした。そのような中で最初の殉教者が出ました。それがステパノです。ユダヤ教の指導者たちは民衆をそそのかし、彼がモーセと神を汚すことを聞いたと言わせて、石打ちにしたのです。それでエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:2)。散らされた人たちはみな、みことばを宣べながら、巡り歩きました(使徒8:4)。このようにしてユダヤ人クリスチャンたちは国外へと散らされて行ったのです。そして、彼らは行く先々でも激しい迫害に会い、苦難を余儀なくされました。それはこれまで学んできたヘブル人への手紙でも見たとおりです。そこでヤコブは、迫害によって国外に散っているユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書き送ることにしたのです。この手紙はペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙と合わせて「公同書簡」と呼ばれていますが、その時代の人々ばかりでなく、今の時代に生きている私たちクリスチャンたちに対する励ましでもあるのです。

 

その国外に散っている十二の部族に宛てて、ヤコブは何と言って励ましているでしょうか。2節をご覧ください。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

「私の兄弟たち」という言葉は、「愛する兄弟たち」「兄弟たち」という言葉と合わせ、ヤコブが好んで使っている言葉です。この手紙の中に19回も使われています。恐らく彼は、このように言うことで、主にある兄弟として、自分も同じ立場にあるということを伝えたかったのではないかと思います。私たちも自分と同じ立場にある人から言われると、「ああ、私だけじゃないんだ」「自分と同じようにみんな辛い経験をしているんだ」という気持ちになって慰められることがあります。しかし、彼はそのように呼びかけて彼らに同情を示すだけでなく、彼らが前に向かってしっかりと進んで行くことができるように、具体的な励ましも語っています。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

ここでヤコブは、「もしさまざまな試練にあうときは」と言わないで、「さまざまな試練に会うときは」と言っています。それは、クリスチャンは必ず試練に会うということを前提に、そのようなときはどうしたら良いのかを述べているのです。信仰を持ったら苦難に会わないということはありません。問題が全く起こらないということはないのです。それは、非常に聞こえはいいですが現実的ではありません。聖書が教えていることは、「試練に会うときは」です。しかもその試練というのは一つや二つの試練ではなく、「さまざまな試練」と言われています。仕事や勉強がうまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。人間関係はどうでしょうか。平和な時もあれば、誤解されたり、裏切られたり、争ったりすることもあります。健康でもそうです。体調が良くて快適に過ごせる時もあれば、病気やガンにかかったりすることもある。また交通事故に会ったり、階段から落ちてケガをすることもあります。愛する人と死別するということもあります。長く生きれば生きるほどいろいろな苦難や問題に会うのです。これが、私たちが生きているという現実なのではないでしょうか。キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。パウロも「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いました。

私たちはこうして新年最初の日を迎えていますが、本当にすがすがしい気分になります。すべてが新しい。今年こそ日記を書くぞと思いますが、三日も過ぎればすっかり忘れます。新鮮な思いを脅かすような試練が襲ってくるのです。

 

それでは、こうしたさまざまな試練に会うとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブはこのように言っています。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」何か書き間違ったのではないかと思うような内容です。試練に会うとき、私たちは辛く、悲しく思います。心が折れて落胆します。人生が終わってしまったのではないかと思う人もいます。ある人は、神がいるならどうしてこんな辛い目、苦しい目に遭わせるのか。神は私を愛していないのか、私がどうなっても構わないというのかと思う人もいるかもしれません。試練は、それほど辛く悲しく思われるものなのです。それなのにヤコブはここで「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言いました。いったいどうしてでしょうか。

 

Ⅱ.信仰がためされると忍耐が生じる(3)

 

3節をご覧ください。「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」どういうことでしょうか。これは、クリスチャンがこうしたさまざまな試練に会うのには目的があるということです。その目的とは何かというと、信仰がためされると忍耐が生じるということです。

 

ある若い牧師が年配の牧師に言いました。「先生。忍耐が身に着くように、私のために祈ってください。」

するとその年配の牧師が彼のためにこう祈りました。「神さま。どうかこの人に病気を与えてください。人間関係の問題も。あ、そうです、それだけでなく経済的にも困難を与えてください。貧しさを通ることができますように。ありとあらゆる苦しみを与えてください・・・。」

すると、その若い牧師が言いました。「先生、そうじゃなくて、私が祈ってほしいのは忍耐が身に着くようにということです。」

するとその年配の牧師が言いました。「忍耐は試練を通して身に着くものなんだよ。」

何とも含蓄のある言葉ではないでしょうか。長く生きた人の経験からにじみでてくる知恵です。忍耐は試練を通して養われ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるのです。

 

皆さん、大人と子どもの違いは何ですか。それは忍耐できるか、できないかということです。子どもは忍耐することができませんが、大人はできます。こうして毎週忍耐して私の話を聞いてくれていますが、大人だなぁと思います。その忍耐をいったいどうやって身につけることができるのでしょうか。試練です。信仰がためされることによってです。

 

忍耐という時にすぐに思いつくのは、旧約聖書に出てくるヨブです。このヤコブ5章10節、11節には、「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によってかたった預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるということです。」とあります。ヨブは忍耐の人でした。彼がどのように忍耐したのか、その結末はどうだったのかをよく見るようにと言っています。ヨブはどのように忍耐したのでしょうか。

 

彼は神の祝福によってあらゆる面で豊かさを受けた人でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。七人の息子と三人の娘がおり、羊は七千頭、らくだは三千頭、牛五百くびき、ろば五百頭を所有し、非常に多くのしもべを持っていました。それで彼は東の人々の中で一番の大富豪でした。ところがある日、サタンが神のところにやって来て、こう言いました。「神さま。ヨブはあなたを信じているように見えますけどあればうわべだけです。彼があなたを信じているのはあなたが彼を祝福しておられるからで、もし試練に会ったらたちまちあなたを信じなくなるでしょう。だすから、どうぞ彼の財産を打ってください。そうしたら、彼はあなたをのろうに違いありません。」

「いや、ヨブはそのような人ではない。彼は心からわたしを信じている。だから、わたしを呪うようなことは絶対にない。」

「だったら神様、私に試させてください。」

「では、彼のすべての無持ち物をおまえの手に任せよう」ということで、サタンはまず彼の財産を奪います。しかし、サタンは財産だけでは足りないと、今度は子どもたちも奪っていきます。ヨブは当然嘆き、悲しみ、着物を引き裂きながらも、神の前にひれ伏して、こう言いました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。するとサタンは、今度は悪性の腫物でヨブの全身を打ちます。足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物ができて、もう体中かゆくて、かゆくてしょうがなく、土器のかけらで自分の身をかくほどで、体中が傷だらけになってしまいました。それを見た彼の妻はこう言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ひどい妻ですね。こういう時こそ助けてほしいのに、神をのろって死になさいなんて、とんでもないことを言います。それでなくともさまざまな試練で苦しいのに、こうした妻のことばはどれほど彼を打ちのめしたかと思うのですが、それでも彼はこういうのです。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ2:10)

そう言って、彼はそのようになっても、罪を犯すようなことをしませんでした。

すると、今度は友達がその様子を見て最初は同情的だったのですが、だんだんヨブにこんなに試練が襲いかかるのは、ヨブに何か問題があるからた、と言います。だれでも考えることですが、このような考え方はもっと自分を苦しめることになります。

しかし、それでもヨブは忍耐して神に従うと、最後に神ご自身が来られて彼に語りました。するとヨブは主に答えて言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:5-6)

ヨブは自分がなぜこうなったのかわかりませんでした。最後まで分からなかった。なぜわからなかったのかというと、今まではうわさでしか神のことを聞いていなかったからです。しかし、今は違います。今はこの目で神を見ました。この耳で神のことばを聞きました。ヨブは、様々な試練を通して忍耐を学び、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを体験を通して知ったのでした。

すると神は、ヨブを祝福しました。主はヨブの祈りを受け入れられ、彼の所有物も二倍に増やされました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福してくださったのです。

聖書は、このヨブの結末を見て、主が彼にしたことがどういうことだったのかを見なさいというのです。耐え忍んだ人は幸いなのです。

 

それは私たちの人生も同じです。いろいろな問題が起こります。さまざまな試練に会います。聖書には、イエスさまを信じたら試練がなくなるとは書いてありません。もし試練に会うならではなく、会うと言っているのです。いろいろなことが起こってきます。でも、神がヨブにした結末を見て、忍耐するようにと励ましているのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。このことからもわかるように、神が私たちに試練を与えるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちがそれを通って忍耐を身に着け、完全な者となること、つまり、私たちの信仰の成長のためなのです。試練に会うことで私たちは自分の弱さを知ります。それまでは、自分は何でもできると思っています。しかし、試練に会うことで、自分にはどうすることもできないことがたくさんあるということを知るのです。その時私たちは何に信頼したら一番幸せなのかを学ぶことができます。そして神に信頼し始めるのです。問題の解決のために祈り始めます。そして、神からの解決を得ようと神のことばである聖書を開き始めるのです。もっと神に近づこうとします。そうすることで神は、私たちを霊的に強くしてくださるのです。

 

Ⅲ.完全な者となります(4)

 

最後に、その試練の結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

試練の目的は信仰が試される時、その信仰が本物であるかどうかを証明することでした。信仰が本物だから救われるのではありません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってです。あなたがイエスさまを自分の罪からの救い主、人生の主として信じたのであれば、あなたは救われるのです。だんだん救われるのではありません。信じたその瞬間に救われます。死んだらすぐに天国行きです。そこで神の国を相続するのです。この事実は変わりません。もしあなたがイエスを信じたのであれば、あなたはもう救われているのです。そして、だれも父の手からあなたを奪い去る者はありません。神はその保証として御霊を与えてくださいました。エペソ1章14節にそのように約束されてあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」ですから、神の御霊、聖霊を受けているなら、必ず御国を受け継ぐのです。そして救われている者は、この神の聖霊によってどんな試練に会っても耐え忍ぶことができるのです。なぜなら、忍耐は御霊の実であるからです。忍耐は生まれながらの人にはありません。でもキリストを信じるなら、忍耐する力が生まれてきます。私たちは弱く、自分の力では忍耐することができませんが、私たちの内側におられる聖霊の力によって忍耐する力を与えてくださるのです。

 

その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になることができます。ここにある「完全な者」とは全く罪のない人になるということではありません。完璧な人になるということでもありません。ここで言われている完全な者になるというのは、成熟した者という意味です。言い換えるならば、それは大人のクリスチャンになるということです。皆さん、私たちはどうしたら成熟した大人のクリスチャンになれるのでしょうか。信仰がためされることによって生じた忍耐を完全に働かせることによってです。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になるのです。

 

それはちょうどスポーツマンのようです。スポーツマンは練習量が多いと「嫌だな」と思うものですが、コーチの言うことを信じて忍耐しながら練習に励むことによって、以前の自分よりもはるかに強くなっていることがわかると、勝利を得る厳しい道に自分がしだいにふさわしい者になっていくと確信できるのでうれしくなります。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンも信仰がためされることによって忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、自分が救いにふさわしい者であることがわかり、自分の信仰が強められていることを実感できるので喜びに溢れます。サタンは人を最悪に落とすために誘惑しますが、神は人から最善を引き出すために試練を与えるのです。ですから、ペテロが言っているように、信仰の試練は、火を通して精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの表れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるのです。

 

イエスさまは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10~12)と言われました。

ヤコブの教えは、イエスさまが教えられたことがベースになっています。イエス様は、義のために迫害されている者は幸いだ、と教えられました。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。そのことによって、その人が天の御国の民にふさわしい人であることがわかります。だから、喜びなさいと言われたのです。いや、喜び踊りなさいと言われました。

皆さんは喜んでいますか。喜び踊っていますか。皆さんが試練に会うとき、皆さんは天の御国が与えられていることを知ることができます。神の子とされ、神の国の相続人とされていることをはっきりと知ることができるのです。すばらしいことではありませんか。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思わなければなりません。

 

パウロは、ローマ書の中でこう言っています。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3-5)

 

すばらしい約束ですね。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。試練の目的は信仰をためすだけでなく、私たちの信仰の成長のためでもあるということ、大人のクリスチャンにするためでもあるのです。

 

ですから、私たちもどんな試練に会っても、主に信頼して前進していきましょう。この新しい一年の歩みの中でもさまざまな試練に会うでしょう。そのとき私たちはどうすべきでしようか。それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、私たちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせましょう。そうすれば、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となることができます。この一年が信仰の成長を遂げる年となりますように。さまざまな試練に会う時、それをこの上もない喜びと思うことができますように。主イエスの御名によって祈ります。