ヨシュア記5章

きょうはヨシュア記5章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.割礼をせよ(1-9)

 

まず1節から9節までをご覧ください。

「ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

イスラエルの神、主が、ヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞くと、ヨルダン川のこちら側、すなわち西のほうにいたエモリ人のすべての王たちや、カナン人のすべての王たちの心はしなえ、もはや戦う勇気をなくしてしまいました。したがって、もしこの時イスラエルが一挙にカナンの地に攻め込んでいれば、たちまちの内にその地を占領することができたと思われます。しかし、主はすぐに攻め込むようにとは命じないで、ある一つのことを命じられました。それは、「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」(2)ということです。いったいなぜ主はこのように命じたのでしょうか。

 

割礼というのは古代からユダヤ人の間で行われていた儀式です。その由来はアブラハムの時代にまで遡ります。創世記17章10節には、アブラハムとその子孫が世々守るべきものとして神から与えられた契約で、男子の性器を包んでいる皮を切り捨てるというものでした。それは、彼らが主の民であるということのしるしでした。彼らは生まれて八日目に、この割礼を受けなければなりませんでした。それにしても、いったいなぜ神はこのような時にこの割礼を施すようにと命じられたのでしょうか。

 

4節以降にその理由が記されてあります。つまり、エジプトから出て来たイスラエルの民のうち、戦士たちはみな、エジプトを出て後、途中、荒野で死んでしまい、その出て来た民は、すべて割礼を受けていましたが、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからです。これからカナンの地を占領するにあたり彼らまずしなければならなかったことは、この割礼を受けることでした。なぜなら、それは神が命じておられたことであり、神の民として神への献身を表していたからです。そして、そのように神に献身し、全面的に神に信頼することによってこそカナンの地での戦いに勝利することができるからです。それはある意味でバプテスマの象徴であったとも言えます。バプテスマは自分に死んで、キリストのいのち、神のいのちに生きることです。信仰の戦いにおいて最も重要なことは、このことです。それは言い換えるなら、自らを神に明け渡し、神に献身するということです。そうすれば、神が戦って勝利してくださるのです。

 

また、あのギデオンが10万人にものぼるミデアン人との戦いに勝利を収めたのは、わずか三百人の勇士たちによるものでした。当初は3万2千人の戦士がいましたが、主は、あなたといっしょにいる民は多すぎるから、恐れ、おののく者はみな帰らせるようにと言うと、2万2千人が帰って行き、1万人が残りました。10万人に対して1万人ですから、絶対的に不利な状況です。それなのに主は、これでも多すぎるから、彼らを水の所へ連れて行き、そこで犬がなめるように、舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者は去らせ、ただ口に手を当てて水をなめた者だけを残しておくようにと言うと、たったの三百人しかいなかったのです。10万人のミデアン人に対してたったの三百人です。人間的に見るならば、全く話にならない戦いです。勝利する確率など全く無いに等しい戦いでした。しかし、この最後に残った三百人は神に全く献身した人々、神に全く身をゆだねた人々でした。ゆえに、主はこの三百人を用いてイスラエルに働かれ、ミデアンの大軍に勝利することができたのです(士師記7章)。

 

このことからわかることは、私たちの信仰の戦いにおいて重要なことは数の多さではなく、そこに神に全く献身した人たちがどれだけいるかということです。主はヨシュアにカナンとの戦いを始めるにあたり、イスラエルの人々にまず割礼を行うように命じ、神に献身することを要求されました。同じように主は、私たちが神に全く献身することを要求しておられます。私たちは主のもの、主の牧場の羊であることを覚えながら、主に自らを明け渡し、その生涯を主にささげるなら、主が私たちの生涯にも偉大な御業を成してくださいます。

 

ところで、主の命令に従いヨシュアがイスラエルの民に割礼を施すと、主は何と言われたでしょうか。9節をご覧ください。

「すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」

 

「エジプトのそしり」とは何でしょうか。「そしり」とは、悪口とか陰口、非難、恥といった意味です。口語訳では「はずかしめ」と訳しています。ですから、ここでは「エジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた」とあるので、かつてイスラエルがエジプトにいた時の奴隷の状態、そのはずかしめを取り除いたということになります。コロサイ2章10-12には、神はキリストにあって、人手によらない割礼、心の割礼を受けたクリスチャンのすべての罪を赦し、私たちを責め立てている債務証書を取り除けられた、とあります。ですから、ここでもイスラエルの民が割礼を受けることによって、かつての罪の奴隷としてのそしりが取り除かれ、神のものとされたということが確認されたのです。彼らの立場がそのようにころがされたという意味です。ですから、その所の名は、「ギルガル」、意味は「ころがす」となったのです。

 

Ⅱ.過越のいけにえ(10-12)

 

次に、10節から12節までをご覧ください。

「イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。」

 

イスラエル人は、ギルガルに宿営していたとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえをささげました。荒野にいたときには一度も行なわれませんでしたが、今ここでその過越を祝っています。なぜ過越のいけにえをささげたのでしょうか。

 

過越のいけにえとは、かつてイスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念して行うものです。エジプトからイスラエルをなかなか出て行かせなかったパロに対して、神は最後の災いとしてエジプト中の初子という初子をみな滅ぼされると言われました。ただ傷のない小羊をほふってその血を取り、それを家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はそのさばきを過ぎ越すと言われたのです。そのようにしてイスラエルの民は、神の裁きから逃れることができたのです。

 

あれから四十年、彼らが荒野にいる間は、この過越のいけにえがささげられませんでした。しかし今、カナンの地を占領しに出て行くにあたり、この過越の祭りを行うようにと命じられたのです。それは、イスラエルにとって四十年の試練の旅が終わり、再び神との契約が確立されたことを表わしていました。つまり、エジプトを出た後の荒野での放浪の旅の期間が正式に終わり、エジプトのそしりが完全に取り除かれたことを意味していたのです。一つの時代が終わり、新しい時代が始まりました。荒野は終わり、約束の地が訪れたのです。

 

この小羊の血は、キリストの十字架の血を指し示していました。かつてイスラエルを神のさばきから救い出した小羊の血は、これから進む約束の地においても彼らの救いと力になります。今礼拝ではⅠペテロから学んでいますが、今週の聖書箇所にこの小羊の血による贖いについてこう記されてありました。

「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18-19)

この小羊の血による贖いこそ、キリストの再臨のときにもたらされる恵みをひたすら待ち望む力となり、あらゆる行いにおいて聖なるものとされる原動力となり、この地上にしばらくとどまっている間の時を、神を恐れかしこんで過ごす動機になるのです。この小羊の血こそ私たちをすべての罪から救い出す力であり、この先の歩みにおいても勝利をもたらす秘訣なのです。私たちを罪からきよめるのは、これまでだけでなくこれからも、ずっと、この小羊の血なのです。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(Ⅰヨハネ1:7)

この救いのすばらしさを知り、その恵みに生きる人こそ、献身へと促されていくのではないでしょうか。

 

さて11節を見ると、その過越しのいけにえをささげた翌日、その地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた、とあります。すると、それを食べた翌日から、マナの降ることがやみ、イスラエル人には、もうマナはありませんでした。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べました。どういうことでしょうか。

 

マナは彼らがヨルダン川を渡る直前までずっと降っていました。これは神の奇蹟です。彼らは荒野で食べるものがありませんでしたが、神は彼らを養うために天からマナを降らし、彼らの必要を満たしてくださいました。けれども今、約束の地において収穫した物を食べることができるようになったので、マナは必要なくなったのです。これからは、彼らが主体的に自分の手で糧を得ていかなければなりませんでした。

 

これは神の恵みによって救われたクリスチャンの歩みにも言えることです。クリスチャンは、神の一方的な恵みによって救われました。その恵みは尽きることがありません。その恵みはとこしえまで続きます。しかし、そのような恵みを受けた者はおのずと行動に変化が現われるのです。これまでは愛されることしか考えられ中吸った者が愛する者へ、受けることしか考えられなかった者から与える者へと変えられていくのです。自分の必要が満たされることはうれしいことですが、それよりも、自分を用いて主が御業を成してくださることに喜びを見出していくようになるのです。

 

しかし、これはあくまでも約束の地に入れられた者がこれまでの神の恵みに溢れて成すことであって、そうせねばならないと、外側から強制されてすることではありません。見た目では同じでも、その動機がどこから来ているかによって、全く違う結果となってしまうことがあります。私たちの信仰生活も強いられてではなく、内側から感謝に溢れて、心から、神に向かってしたいものです。すべては神の恵みによるのです。

 

Ⅲ.足のはきものを脱げ(13-15)

 

最後に、13節から終わりまでをみたいと思います。

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの見方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。」

 

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていました。抜き身の剣とは、神の強い力や勢いを象徴する剣のことです。この抜き身の剣を持つ人が、ヨシュアの前方に立っていたのです。おそらくヨシュアはエリコの城壁を目の前にして、どのようにしてその堅固な城壁を落とすことができるだろうかと悩んでいたものと思います。その時、主が抜き身の剣を手に持ち、彼の前に現われたのです。

 

ヨシュアはその時、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵ですか。」と言いました。するとその人はそれには一切答えないで、「わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」と答えました。つまり、主ご自身が戦ってくださるということであり、彼はその将軍であるというのです。

 

ヨシュアにとってはどれほど大きな励ましであったことかと思います。私たちも、このような高くそびえ立つ城壁を前にすると、そこにどんなに偉大な神の約束があってもすぐに怯えてしまうものですが、そのような時でも主が共にいて戦ってくださるのです。私たちの戦いは私たちの力によるのではなく、主が共にいて戦ってくださる主の戦いなのです。いや、主が先だって進んで行かれ、その戦いを進めてくださいます。それゆえに、私たちは弱り果ててはならないし、意気消沈してはなりません。主が戦ってくださるのであれば、必ず勝利してくださるのですから、その勝利を確信して進んでいかなければなりません。そのために必要なことは何でしょうか。

 

ヨシュアが、「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」と言うと、その主の軍の将はヨシュアにこう言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにしました。これはどういう意味でしょうか。

 

これはかつて、あのホレブの山で、主がモーセに対して語られた言葉と同じ言葉です。足のくつを脱ぐということは、その当時、奴隷になることを意味していました。奴隷は主人の前ではくつを脱がなければなりませんでした。したがって、くつを脱げということは「奴隷になりなさい」ということであり、神のしもべでありなさいということを示していたのです。言い換えるならば、それは主のしもべとして完全に自分を明け渡して主に従いなさい、ということです。そうすれば、たとえ目の前にどんな困難が立ちはだかろうとも、主が勝利を与えてくださるのです。

 

私たちはイエス・キリストの十字架によって救われ、その血による贖いをいただいているにもかかわらず、いつも敗北感を味わっています。いったい何が問題なのでしょうか。足のくつをぬいでいないことです。主に従っていないのです。いつも自分が優先になり、自分の思いで突っ走っています。これではどんなに主が働きたくても働くことができません。主の前で足のくつを脱がなければなりません。自分の思いに従ってはなりません。私たちは足のくつを脱ぎましょう。主のしもべとなり、主にすべてを明け渡しましょう。そうすれば、主が必ず勝利してくださるのです。

Ⅰペテロ1章18~21節 「キリストの贖い」

きょうは「キリストの贖い」というテーマでお話します。これまでペテロは神の救いの偉大さ、すばらしさについて語ってきました。それは永遠の昔から神によって計画されていたことであり、最初の人アダムが罪を犯した時から、預言者たちを通して預言されていたことです。それが時至ってイエス・キリストによって実現しました。そして、聖霊によって福音を語った人々を通して当時の人々、そして、私たちにも告げ知らされました。それは御使いもはっきりと見たいと思うほどすばらしいものです。ですから、そのような救いを受けた者は、イエス・キリストの現われのときにもたらされる救いの完成をひたすら待ち望むことが求められます。いったいどうしたら神を恐れて生きることができるでしょうか。

そこでペテロはここで贖いについて語ります。そのためにどれだけ尊い犠牲が払われたかを知れば、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになります。

Ⅰ.キリストの血による贖い(18-19)

 

まず18節と19節をご覧ください。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

贖いとは何でしょうか。贖いとは、奴隷の状態にあった人を、お金を払って自由にすることです。あるいは、捕らえられていた人を、保釈金を払って解放することです。また、誘拐された人を、身代金を支払って取り戻すことを言います。聖書は、私たちは皆、罪の奴隷であったと教えています。そのような状態から解放するために神は代価を払ってくださいました。それが贖いです。

ある少年が、小さなおもちゃのボートを作りました。木材をカットし、型枠を作り、それを船底にボンドでくっつけました。帆柱を立て、マストを張って、やっとの思いで完成させて、それを湖に浮かべました。それはとてもいい出来で、大満足でした。ところが、突風が吹いてきて、湖に浮かんでいたボートが沖の方に流されてしまいました。せっかく作ったばかりだというのに、どこに行ってしまったのかわからなくなりました。しかし、数日後、この少年が街の中を歩いていると、おもちゃ屋の前をとおりかかったとき、そこに自分の作った船が置いてあることに気付きました。彼は急いで店の中に入ると店の人に、「これボクの船だよ、ボクが作ったんだ」というと、店の人は、「それは違う。これはね、ある人から買ったんだ。欲しければ売ってやるよ。そうすればキミのものさ。」それで少年は家に戻り貯金箱を割って、それまで貯めていたお金とありったけのお金を持って再び店に行きました。そしてお金を払って買い戻したのです。

これが贖いです。神は、ご自身から遠く離れて罪の奴隷となっていた私たちを買い戻すために代価を支払ってくださいました。どのような代価でしょうか。ここには、「あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。

当時、銀や金は最も価値あるものの一つでしたが、たとえそれがどんなに価値があっても、それらは朽ちるものであり、一時的なものでしかありません。永遠に続くものではないのです。ここでペテロは、あなたがたが贖い出されたのはそのような朽ちるものによってではないと言っているのです。では何によって贖いだされたのでしょうか。19節には、「傷もなく汚れることもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」とあります。キリストの、尊い血によったのです。

ペテロは出エジプトの出来事を思い起こしていたのではないかと思います。かつてイスラエルの民は四百年の間、エジプトの奴隷として過ごしていました。そんな過酷な状態の中で主に助けを求めると主はモーセを遣わし、彼らを救い出してくださいました。しかし、エジプトの王がなかなか彼らを行かせようとしなかったので、神はエジプトに十の災いを下されました。その最後のわざわいは、エジプト中の初子という初子を打つというものでした。ただ傷のない小羊をほふり、その血を取って、家のかもいと二本の門柱に塗れば、神はその血を見てさばきを通り越すと言われたのです。そのさばきから免れる唯一の道は小羊をほふり、その血を塗るということだったのです。

ここで問題なのは、その身代わりとなった小羊とはどのようなものであったかということです。ここには、「傷もなく汚れもない小羊」とあります。それは全く罪がなかったことを表わしています。しかし、罪のない人などひとりもいません。人間であるということは罪を持っているということなのですから、罪のない人間などいないのです。罪がないとしたらそれは神だけであって、その神が人となってくださる以外に方法はありません。そこで神はそのひとり子をこの世に遣わし、その血によって罪の贖いを成し遂げてくださったのです。それがイエス・キリストの十字架です。ですから、バプテスマのヨハネはこの方についてこう証言したのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)

イエス・キリストこそ、私たちの罪を取り除くことができるまことの神であり、私たちの罪を取り除く神の小羊だったのです。本来ならば、私たちは自分の罪のために神にさばかれて永遠に神から切り離されなければならなかったのに、神はそんな私たちをあわれんでくださいました。神は私たちをさばくことをしないで救う方法を考えてくださったのです。そのためには代価が支払われなければなりませんでした。それが神の子イエス・キリストの尊い血だったのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

この血によって、私たちは罪の赦し、永遠のいのちを受けました。ですから、いつこの肉体が滅んでも、いつ死んだとしても、神の国に、天国に入れていただけるのです。これはすばらしい特権ではないでしょうか。あなたは、この特権を受けているでしょうか。あなたの罪は赦されていますか。私たちはいつも過去を振り返って、なぜあんなことをしたんだろう、こんなことをしたと後悔しながら生きています。人生をもう一度リセットすることができるものならそうしたいと思っていてもできません。しかし、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪はすべて赦され、永遠のいのちが与えられるのです。しかも、ただです。そのために多くのお金を支払ったり、もっと教育を積まなければならないとか、そのために何か修行しなければならないということはありません。それはすべて神の恵みによるのです。よく教会で何かの催しをするとき、「入場無料です。お気軽にお越しください。」とチラシに書きますが、「無料です」というと、何だか安っぽいイメージがありますが、そういう意味ではありません。それはこの世の金銀のすべてを支払っても買うことができないほど価値があるもので、そのためには、神のひとり子のいのちが支払われたのです。それほど価値があるものなのですが、それをただで受けるのです。

それは言い換えると、あなたが神の前にどれほど価値があるかを意味しています。神はあなたを買い戻すために、ご自分のいのちを支払ってくださいました。それほどあなたは価値があるのです。イザヤ書43章4節で、神はこう言っておられます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

私たちは自分では価値ある者だなんて思えません。何か優れた能力を持っているわけではありませんし、すばらしい経歴を持っているわけでもありません。いったい何のために存在しているのかさえわからなくなる小さな者です。しかし、神はそんな者を、「あなたは高価で尊い」と言ってくださる。だれか他の人の目でそう見えるかからではなく、神の目で、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している、と言ってくださるのです。それは決して口先だけのことではありません。なぜなら、そのために最も高価な代価を支払ってくださったからです。神は私たちをそれほど価値あるものと見ておられるのです。私たちの罪を赦すのは、イエス・キリストの血以外にはありません。神の子の尊い血によって私たちは罪から贖われ、神のものとされたのです。

Ⅱ.世の始まる前から定められていた贖いの御業(20)

次に20節をご覧ください。それでは、このキリストの血による贖いは、いつ定められたのでしょうか。「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」

「世が始まる前から」とは、この世界が創造される前からということです。神はこの救いの計画を最初の人アダムとエバが創られる以前から、この世界の基が置かれる前からあらかじめ定めておられたのです。どういうことでしょうか。これは罪の贖いですから、この世界に罪が入って来た時から計画されたことではないのですか?違うんです。私たちはしばしば、神が創造したこの世界が罪に汚れてしまったのでイエス・キリストによってこの世界を救い出すように考えることがありますが、そうではなく、世界が創造されるずっと前からあらかじめ定められていたことだったのです。神は創造者であられると同様、永遠の贖い主であられるのです。そのことが、エペソ1章3節から5節までにこうあります。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにゆって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」

私たちがイエス・キリストにあって神の子としていただくことは、あらかじめ定められていた神のご計画であり、その計画は世界の基の置かれる前からのものだったことがわかります。ですから、最初の人アダムが罪を犯したとき、「こんなはずじゃなかった」と、神は驚かなかったのです。そのようなことがあることを始めから知っておられました。知っておられたうえであえて彼に選択権を与えられたのです。それは彼が自分の意志で神を愛し、神に従うようになるためです。自分の意志で自由に選ぶことができないとしたら、それは本物の愛ではありません。ロボットのように、「わ・た・し・は、この・人・が・好き・で・す」みたいになってしまいます。自分の意志で選んでこそ心から愛することができるわけで、神はそのようにされたのです。

しかし、そこには常に危険が伴うのも事実です。心から神を愛することもできますが、失敗して神の命令に背くこともありますから・・。でも神は人間に自由意志を与え自発的に愛することができるようにされました。そして、そのことをあらかじめ知っておられた神は、ずっと昔から救いの計画を持っておられたのです。そして、最初の人アダムが失敗したときすぐに、あらかじめ定めておられ救いの計画を実行されました。それは創世記3章15節にあるように、女の子孫から救い主を遣わすということでした。メシヤ、キリスト、救い主が来て、贖いの代価として自分のいのちを与えるということだったのです。

それが、「この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」終わりの時とは、イエス・キリストの現われとともに始まりました。ユダヤ人はこの終わりの時をこの先の未来のことと考えていましたが、使徒たちはこの終わりの時はすでにキリストとともに始まったと考えていました。彼らは終わりの日に聖霊が注がれると理解していて、ペンテコステの時にそれが成就したと考えていたのです。永遠の初めからおられた方が、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。それが今から二千年前の受肉という出来事です。神が人となって生まれたクリスマスの出来事です。

ヨハネは、このことをこう言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。ひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)目に見えない神が、目に見える形で現われてくださいました。ことばが人となって来てくださいました。この方は栄光に満ちておられました。それはひとり子としての栄光です。私たちはこの栄光を見たのです。それはひとり子としての栄光であり、私たちの救い主イエス・キリストです。

いったいこの方は何のために来られたのでしょうか。ここに、「あなたがたのために」とあります。イエス様はあなたのために来られました。あなたを罪から救ってくださるために、あなたを罪から贖うために来てくださったのです。そのことが、ガラテヤ書4章4~5節では次のように言われています。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、この結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」このために来てくださったのです。神の律法によってはだれも義と認められることはありません。そのような者を贖うために、この方が律法の下にある者となって、私たちの刑罰を代わりに十字架で受けてくださいました。それゆえ私たちはその律法から解放され、子としての身分を受けることができたのです。

ですから、十字架の上でキリストはこのように叫ばれたのです。「完了した。」(ヨハネ19:30)あなたが罪のために支払わなければならない代価は完了しました。完済しました。住宅ローン等で苦労しておられる方も多いかと思いますが、結構厳しいですよね。精神的にズッシリきます。全部支払いが終わったらどんなに楽になるかと思います。イエス様は私たちの罪のために支払わなければならない債務を完済してくださいました。あなたの救いは完成したのです。この罪の贖いを信じるものは、だれでも罪が赦され、神の子とされるのです。

Ⅲ.キリストをよみがえらせた神(21)

第三のことは、この贖いの保証です。それは神がこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったということです。21節をご覧ください。「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

ペテロはここで、キリストがよみがえられたことを強調しています。なぜでしょうか。キリストの贖いがどれほどすばらしいものであったのかを語ればそれで十分だったのではないでしょうか。いいえ、そうではありません。もし罪の贖いの代価がどれほどすばらしいものであったとしても、キリストがよみがえらなかったとしたら、その罪の贖いは不完全なものであったということになります。支払い不足ということになるのです。私が払っておきますと言っておきながら、お金が足りませんでしたということにもなりかねないのです。なぜなら、それで十分であったのかどうかを知ることができないからです。死んだだけであればすべてが終わりであって、本当にそれが完全な贖いであったかどうかを知ることなどできないからです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そのことによって、この罪の贖いが完全であったことを証明してくださったのです。バークレーという注解者のことばで言うと、「キリストの勝利を論じないで、キリストの犠牲を語る人はほとんどいない。」(聖書注解シリーズ14、P246)のです。ペテロはこの復活の証人でした。キリストが復活したということは、この贖いが完全であったということの証明でもあったのです。ですから、ペテロは復活の主イエスと出会い、自分のいのちをかけて本気でキリストを伝えたのです。「本当です!キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。この十字架は私たちの罪を贖うための完全な代価であって、永遠の昔から神が定めておられたことだったんです。このイエスを救い主と信じるなら、あなたも救われます。なぜなら、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせてくださったからです。本当です、本当です。」と、本気になって伝えたのです。私たちの信仰と希望は、このキリストをよみがえらせてくださった神にかかっています。イエスの十字架での死によって、私たちは罪の奴隷と死の束縛から解き放たれました。そして、イエスがその死からよみがえられたことによって、イエスご自身と同じいのち、永遠のいのちにあずかるものとされたのです。

ペテロはここで、「あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。」と言っています。「私は、神様を信じています」という人はたくさんいます。しかし、問題はその神がどのような神であるかということです。いわしの頭も信心からで、私たちは何でも神にしてしまう傾向があります。信じる者は救われる、何でもいいから信じることが大切だというのです。でも人が考えた宗教を信じても、そこに本当の救いはありません。そのような宗教は私たちの罪を贖うことはできないからです。私たちの罪を贖うことができるのは、人なって来られた神イエス・キリストだけです。キリストが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、三日目によみがえり、それが本当であるということを証明してくださいました。ですから、このイエスを信じるものは誰でも救われるのです。このキリストによらなければ罪の赦しはありませんし、神に近づくこともできません。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。ですから、私たちの信仰と希望は、このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった神にかかっているのです。そしてこの希望は、絶対に失望に終わることはありません。これは生ける望みなのです。この望みを知れば知るほど、私たちに今どんな困難にあっても、それを乗り越える力が与えられます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるので、栄に満ちた喜びに踊ることができるからです。

皆さんはいかがですか。皆さんは、どこに望みを置いておられますか。このイエスを死者の中からよみがえらせてくださった主こそ、私たちの希望です。この方はご自分のひとり子の血という代価を払って、私たちを罪の中から贖い出してくださいました。それほどまでに愛してくださいました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」のです。この贖いに感謝して、キリストをよみがえらせてくださった神に信頼して、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みましょう。神を恐れて歩ませていただきましょう。

Ⅰペテロ1章13~17節 「救いの恵みに生かされて」

きょうは「救いの恵みに生かされて」というタイトルでお話しします。13節には、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けての勧めなり、結論です。これまでペテロは救い素晴らしさについて語ってきました。それはある日ふって沸いたような話ではなく永遠の昔から神によって定められていたものであり、最初の人アダムが罪に陥ってからは、多くの預言者によって預言されたいたことです。そして今や、それがキリストによって表されました。永遠の救いの御業がイエス・キリストによって成し遂げられたのです。そして、天から送られた聖霊によって福音を語った人々を通して、新約時代の人々ばかりか、今の私たちにも告げ知らされたのです。ですから、このような救いを受けている者はどのように歩むべきなのかが勧められているのです。 きょうは、このような救いを受けているクリスチャンの歩みについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.救いの恵みをひたすら待ち望みなさい(13)

まず第一に、救いの恵みを受けた者は、この恵みをひたすら待ち望みなさい、ということです。13節をご覧ください。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しない者が受けることです。ここでは「たましいの救い」のことを言っています。この救いは、神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによってもたらされました。それは私たちの行いによって勝ち得たものではなく、神に一方的な恵みによるものです。この恵みを、待ち望みなさいというのです。

ちょっと待ってください。私たちは既に神の恵みによって救われたのであればどうして再び待ち望まなければならないのでしょうか。確かに、私たちは神の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、その死の中からよみがえられたことによって新しく生まれ変わったことによって、生ける希望を持つようになりました。けれども、この救いはまだ完成していないのです。この救いが完成するのは、私たちのからだが贖われ、朽ちないからだ、栄光のからだに復活する時です。それはイエス・キリストが再び来られる時にもたらされるものです。ですからここに、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みとあるのです。キリストが再び来られるとき、私たちのからだもよみがえり、栄光のからだをいただき、いつまでも主とともに生きるようになるのです。これが、救いの完成の時です。そのときもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

皆さんは、いかがでしょうか。その救いが完成する時を待ち望んでいるでしょうか。「私は毎日忙しくて、そんなこと考えている暇などないの」と、目先のことに振り回されてはいないでしょうか。しかし、そのときもたらされる恵みのすばらしさを知ったら、それがいかに愚かな考えであったかがわかります。それは何にも変えがたい喜び、栄光の輝きです。私たちはそれを待ち望まなければなりません。

どのように待ち望めばいいのでしょうか。ここには三つのことが勧められています。第一に、「心を引き締めて」ということです。心を引き締めるとはどういうことでしょうか。口語訳では、「心の腰に帯を締め」と訳しています。「腰に帯を締める」とは面白い表現ですね。当時ユダヤ人が着ていた服は一枚の布をかぶったようなものだったので、そのままでは服が邪魔になって仕事になりませんでした。そこでいざという時にすぐに身動きできるように、着物の腰に帯を締め、裾をまくりあげて整えたのです。

かつてイスラエルがエジプトを出て行くにあたり、過越の祭りが制定されましたが、それを食べる時、腰の帯を引き締め、足に靴をはき、手に杖を持ち、急いで食べるようにと命じられました。なぜなら、時間がなかったからです。急いでエジプトを出なければなりませんでした。すぐに動けるように腰には帯を締め、足には靴を履き、手には杖を持たなければならなかったのです。そんな恰好で食べていたら、「あなたは落ち着きがないですね」と言われそうですが、いつでも旅立てるように準備してかなければなりませんでした。同じように、イエス様が来られ、神の怒りから私たちを救ってくださるのですから、しっかりと心を引き締め、イエス様がいつ来てもいいように備えていなければなりません。

パウロはエペソ人への手紙6章の中で、悪魔の策略に対して立ち向かうことができるため、神のすべての武具を身に着けるようにと言っていますが、その最初に出てくるのが帯を締めるということです。「ではしっかり立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」(エペソ6:14)とあります。悪魔の策略に対して立ち向かうためには、まず真理の帯を締めることが必要なのです。これがないと動けません。

ヨハネの福音書8章32節には、「真理はあなたがたを自由にする」とあります。神の真理によって自由になりなさい、神の真理によって準備を整えておきなさいということです。人の考えやこの世の考えでは不自由になってしまいます。そうした考えに縛られて身動きできなくなってしまうのです。しかし、真理はあなたがたを自由にします。この真理の帯を締めなければなりません。

皆さんはどうでしょうか。どのような帯を締めていますか。この世の凝り固まった考えという帯をしていませんか。そうではなく、真理の帯を締めなければなりません。

第二に、身を慎まなければなりません。身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、待ち望まなければなりません。「身を慎む」とはどういうことでしょうか。この「身を慎む」と訳された言葉は、「しらふである」とか、「お酒に酔っていない」という意味です。お酒を飲むとどうなりますか。大抵の場合、酔っぱらって無感覚になり、判断力が鈍ります。その結果、自分を制御することができなくなってしまいます。よく酒を飲んで泥酔し、自分がやったことを全然覚えていないというニュースを聞きますが、何をしているのかがわからなくなってしまうのです。ですから、身を慎むとは、いつも冷静でありなさい、用心深く、慎重でありなさいということなのです。私たちは問題が起こるとすぐに心を騒がせ、慌てふためく者ですが、そのような時でも冷静であるように、また、この世の情報に振り回され惑わされるような時があっても、そうした情報に酔うことなく、用心深く、慎重でなければなりません。

ペテロはこの「身を慎み」という言葉を、この手紙の中で他に2回用いています。4章7節と5章8節です。4章7節には、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え、身を慎みなさい。」とあります。また、5章8節では、「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。世の終わりが近くなると、いろいろな情報が錯綜し、何が真理なのかわからなくなって惑わされてしまうことがあります。そのような時こそ祈りのために、心を整え、身を慎まなければなりません。また、私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。その悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩きまわっています。ですから、その悪魔に立ち向かうために、目を覚ましていなければなりません。今どんなことが起こっているのかを悟り、身を慎み、慎重に歩まなければならないのです。これをペテロが言っていることころがおもしろいですね。彼は以前、イエス様を三度も否定しました。

「あなたはあのナザレ人と一緒にいたでしょう。」

「知らない。全然知らない。何の話かな。」

と、何も考えないで反応しました。身を慎んでいませんでした。その結果、彼は失敗してしまいました。私たちも身を慎んでいないと、ペテロのように、悪魔の策略に陥ってしまいます。心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストの現われを待ち望まなければなりません。

第三に、ひたすら待ち望まなければなりません。ここに、「ひたすら待ち望みなさい」とあります。ひたすら待ち望むとはどういうことでしょうか。この「ひたすら」と訳された言葉は、「完全に」とか、「全面的に」という意味です。やがて再び来られる主を、少しも揺らぐことなく、待ち望みなさいということです。ここに希望を置きなさいということなのです。

皆さん、イエス・キリストが再び戻って来られるということよりも良い知らせはありません。それはお金が儲かることよりも、宝くじが当たることよりも、不治の病がいやされることよりも、事業に成功することよりも、商売が繁盛するよりも、何よりも良いことです。なぜなら、死んでも新しいからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるからです。この世の人にはそれがありません。彼らはただ死を待っているだけです。この世でどんなに繁盛しても、死んだら灰となってすべてが終わってしまいます。ただ死んで朽ちていくだけなのです。それはあまりにも空しいではないでしょうか。

しかし、私たちは違います。この地上では何の報いも受けないような者でも、イエス・キリストを信じてたましいの救いをいただき、神の子とされたので、やがてイエス・キリストが迎えに来てくださいます。たとえ死んで灰になっても、やがて復活の新しいからだをいただき、イエス様と同じ姿となって、天において永遠に生きることができるのです。これほどの希望はほかにありません。この望みを捨ててはなりません。この望みは失望に終わることはありません。失望に終わることがない希望、それこそ本当の希望です。この希望をひたすら待ち望まなければならないのです。それが神の恵みによって、イエス・キリストを信じた者として、この世にあってあるべき姿なのです。

Ⅱ.聖なる者とされなさい(14-16)

第二のことは、聖なる者とされなさいということです。14節から16節までをご覧ください。

「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

神の恵みによって救われた者にとって必要な第二のことは、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさいということです。聖なる者とされるとは、神のために聖別されたとか、分離された、分けられたという意味です。イエス様はヨハネの福音書17章14節から17節のところで、弟子たちのためにこう祈られました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪いものから守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

私たちは真理のことば、福音を聞いてイエス・キリストを信じ、罪から救われました。それでこの世から分離されました。この世に生きていますが、もはや私たちはこの世に属しているのではなく、神に属する者とされたのです。そして、神に属する者とされた者は、キリストを信じる以前の行いと、その行いが変えられます。私たちが救われるためには行いは関係ありません。イエス様を信じる信仰だけで救われます。しかし、本当に信じたのなら、信じて救われたのなら、その行いが以前とは変えられるのです。皆さんどうでしょうか。キリストを信じる以前と今とではずいぶん変わったなぁと思いませんか。

私は18歳で信仰を持ちました。それ以前はごく普通の高校生というか、よく授業をさぼって、部室や近くの喫茶店で時間をつぶしていました。朝ごはんを食べてもすぐにおなかが空くので、授業をさぼってそういうところで弁当を食べていたのです。朝から晩までバスケットボールに明け暮れ、バスケットボールのために学校に行っているようなものでした。ですから、高校3年生になって部活動が終わったときは何もすることがなくなって、毎晩友達の家に行って遊びほうけていました。まあいい加減というとか、何か満足するものを求めていたんじゃないかなぁと思いますが、その満足がわからなくて、何をしても心の深いところではいつも虚しさを感じていました。しかし、知り合いに誘われて教会に行きイエス様を信じて変えられました。

「だれても、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

イエス様を信じたら、もっと聖書のことを知りたいと思うようになり、一生懸命聖書を読むようになりました。それまでは本を読むという習慣がほとんどなく、ギデオン協会からもらった聖書を大切に本棚にしまっておくだけでしたが、もっとイエス様のことを知りたいと思うようになってむさぼるように読むようになりました。そして、私の人生の中心にイエス様がいてくださるのがわかりイエス様中心の生活へと変えられていきました。よくBeforeとAfterと比較されることがあります。それ以前とそれ以後がどのように変わったのを比較するわけですが、私はイエス様を信じて全く変えられました。今でもこんなにひどい人間なのですから、以前どれほどひどかったかを想像することができるでしょう。神は、そんな者を全く変えてくださいました。イエス様を自分の罪からの救い主として信じた瞬間から、神の御霊がキリストに似た者に変えてくださったのです。

では、キリストを信じた者はどのように変えられるのでしょうか。その特徴は何でしょうか。ペテロはここで、「従順な子どもになり」と言っています。イエス・キリストを信じて神の子どもとなった者は、神に対して従順な子どもになります。これがクリスチャンの特徴の一つです。神のことばに聞き、そして神に、キリストに従います。しかし、信じていない人はどうでしょうか。信じていないわけですから、従いません。聞いても従いたくありません。いや、従えないのです。生まれながら人は神に対して不従順です。パウロはそのことをエペソ2章3節でこのように言っています。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」

私たちもそうでした。以前は神に対して不従順でした。なぜですか。無知だったからです。ペテロはここで、「以前あなたがたが無知であったときのさまざま欲望に従わず」と言っています。何に対して無知だったのでしょうか。神について無知でした。まことの神がただおひとりであることを知りませんでした。いろいろな神々がいると思っていました。それは人が作ったものであることを知っていたのに、本気でそのようなものを拝んでいたのです。そして、まことの神が天地の創造主であり、自分たちをお造りになられた方であるということも知りませんでした。そして、その神が私を愛していることも知りませんでした。霊的に無知だったので、さまざまな欲望に従い、自分の好き勝手に歩み、もやりたい放題でした。これが以前の生活です。

しかし、今はどうですか。今は真理を知りました。イエス・キリストを信じて新しく生まれ変わりました。神の子どもとされました。神の子どもの特徴は何ですか。従順です。ですから、今は以前のような不従順な子どものようなさまざまな欲望に従って歩むのではなく、15節にあるように、聖なる方にならって、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。私たちを救ってくださったのは聖なる方、神ご自身です。それは私たちが従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者となるためです。どうしたらあらゆる行いにおいて聖なる者とされるのでしょうか。あなたがたを召してくださった聖なる方にならうことによってです。エペソ5章1節には、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。」とあります。神にならう者となりなさい。私たちの模範は、神ご自身です。私たちが神にならうなら、だれでも神のように変えられます。

いったいなぜ私たちはあらゆる行いにおいて聖なる者とされる必要があるのでしょうか。16節にはこうあります。「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

まだ子供たちが小さかったとき家族でアメリカに行きました。そのころは家内の両親も元気だったわけですが、おじいちゃんの姿を見て、「あっ」というのです。「どうしたの」と尋ねると、「マミー、グランパーそっくり」と言うのです。その歩く姿が父親そっくりだというのです。どれどれとよく見てみると本当に似ているのです。DNAというのは受け継ぐんだなぁと思いましたが、ただDNAを受け継いでいれば似るというわけではありません。一緒にいて関わりがないと、全然似てないということもあるのです。一緒にいて関わっていると、どんな人でも似てくるのです。

私は時々だれかから「奥様にそっくりですね」と言われることがあります。私は日本人で、家内はアメリカ人ですよ。私はうさぎで家内は亀のような性格ですから、似ても似つかわしいと思いますが、どうも似ているらしいのです。本当かなぁと思ってよく考えてみると、確かに考え方において似ているなぁと思いました。先日結婚34周年を迎えましたが、ずっと長い間一緒にいると、考え方が似てくるのです。だから、誰と一緒にいるか、だれと関わるのかということはとても重要なことなのです。子どもが親に似せられるのは親との関わりを持っているからであって、その親がどういう人であるかは子どもの将来にとってとても大きな影響を与えることになるのです。そして、私たちは神の子どもとされました。神の子どもとされたのであれば、当然神のようになるはずです。神はどのような方ですか。神は聖なる方です。ですから、私たちも聖なる者でなければならないのです。

ペテロは、それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」と言っています。聖書にそう書いてあるので、そうでなければならないと言っているのです。どこに書いてあるのでしょうか。レビ記です。レビ記は、奴隷から救われたイスラエルの民が約束の地においてどのように生きるべきかを教えています。以前彼らは奴隷でした。でも彼らはそこから救い出されました。ですから、彼らは新しい約束の地に行ったときどのように生きるべきかを知る必要がありました。その基準が書かれてあるのがレビ記です。神が約束してくださった地はとても潤った土地でした。ところがそこに住んでいる人たちは神を知らない邪悪な人たちでした。ですから神は彼らを追い払うように、そして、彼らの生き方をまねないように、以前の生き方をしないで、新しい生き方をするように勧める必要があったのです。それはあらゆる行いにおいて聖く生きるということでした。なぜなら、神は聖なる方ですから、神の民であるイスラエルもそうでなければならなかったからです。

同じように、私たちも以前は罪の奴隷として生きていましたが、神のあわれみによってイエス・キリストを信じてその罪から救われました。その救われた者にとって必要なことは従順な子どもとなり、以前無知であったときのあらゆる欲望に従って生きることではなく、私たちを召してくださった聖なる方にならって生きることです。その方は聖なる方なのですから、私たちも聖でなければならないのです。私たちがあらゆる行いにおいて聖くされること、それが神のみこころなのであって、イエス・キリストに似た者とされること、それが私たちのゴールなのです。

Ⅲ.神を恐れかしこんで(18)

第三のことは、神を恐れかしこんで生きるということです。18節をご覧ください。

「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」

キリストの恵みによって救われた人の人生は、神を畏れかしこんで生きる人生です。この「神を恐れかしこむ」というのは、神を恐れの対象としてブルブル震えながら生きるということではありません。神を恐れかしむというのは、神が常に自分の前におられると信じ、この神を意識して生きるということです。自分の前にいつも神がおられるので、そのことを意識して話し、行動し、その瞬間、瞬間を生きるのです。

なぜクリスチャンはそのようにして生きなければならないのでしょうか。それは、人をそれぞれのわざに従ってさばかれる方を父と呼んでいるからです。神はそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方です。昔から、地震、雷、火事、おやじと言われてきました。父親はそれほど威厳がある存在だったのです。しかし、今ではそれが薄れてきました。父親を父親として敬う子どもが少なくなってきました。その結果、家庭の中にいろいろな問題が起こるようになったのです。それは神に対しても同じで、神を恐れない人は悪に走るようになります。それはたとえキリストを信じていてもそうです。神を信じていると言っても健全に恐れていないと、未信者のような行動をとってしまうことになるのです。

いったい私たちの父はどのような方なのでしょうか。ここには、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方とあります。私たちの神は、私たちの行いに応じて公平にさばかれる方です。これは私たちの行いによって救われるということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じたことで救われています。もう罪のさばきはありません。イエス・キリストを信じた者はみな永遠のいのちを受けます。しかし、信じた者がみな同じ報いを受けるのかというとそうではなく、その行いに応じて報いが違うのです。

ローマ人への手紙2章6,7節にはこうあります。「神は、ひとひとりに、その人の行いにしたがって報いをお与えになります。忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下さるのです。」

また、Ⅱコリント5章10節には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。

私たちがこの地上で行ったことに応じて、神様は正しく評価してくださるのです。ですから、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。ペテロはここで、「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を」と言っています。私たちは、いつまでもこの地上に住んでいるのではありません。この地上の時はしばらくの間にすぎません。やがてこの地上でのいのちを終えて永遠の住まいへと帰って行きます。イエス・キリストを信じたのであれば神の国に入れられますが、そうでなければ神のいない所に入れられます。あなたはどこで永遠を過ごしたいですか。イエス・キリストを信じて神とともに永遠に過ごしたいと思いませんか。そして、そこで主イエスが戻ってこられることを待ち望むのです。その時、私たちが待ち望んでいたものが現実のものとなります。私たちのからだも復活し、朽ちないからだ、栄光のからだとなって、いつまでも主と共に過ごすようになるのです。ですから、私たちのこの地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごさなければなりません。

私たちは、神の恵みによって生ける望みを持つようになりました。ですから、私たちは心を引き締め、身を慎み、主が戻って来られるときにあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。従順な子どもとなり、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなければなりません。それは、神が聖であられるからです。ですから、私たちも聖でなければなりません。そして、主は正しくさばかれる方なのですから、その主を恐れかしこんで良い業に励みましょう。そして、やがて神から豊かな恵みを受けることを待ち望み、日々主に信頼して歩ませていただきましょう。

ヨシュア記4章

きょうはヨシュア記4章から学びたいと思います。

 

Ⅰ.恵みの記念石(1-7)

 

まず1節から7節までをご覧ください。

「民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」

圧倒的な神の御業によってイスラエルの民がヨルダン川を渡り終えたとき、主はヨシュアに、民の中から12人、部族ごとにひとりずつを選び、ヨルダン川の真ん中で、祭司たちが立ったその場所から12の石を取り、彼らが泊まる宿営地に据えるようにと命じました。せっかくヨルダン川を渡りきったのに、なぜ再びヨルダン川に戻って石を取って来なければならなかったのでしょうか。また、なぜそれを宿営地に据えなければならなかったのでしょうか。

6節を見ると、その理由が記されてあります。つまり、それはしるしとなるためでした。後になって、彼らの子どもたちが、「これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか」と聞くとき、主がヨルダン川の水をせきとめられたということのしるしである、と答えなければなりませんでした。それは実にこのヨルダン川渡河の奇跡が、生きて働かれる主の御業によるものであることの証拠として、後世の人たちの信仰の励ましとなるためのしるしだったのです。言うならば、それはイスラエルの後世の人たちに対する教訓として立てられたものだったのです。

昔から、「ユダヤ人はどうして優秀な民族なのか」という問いがありますが、その一つの理由はここにあると思います。すなわち、ユダヤ人は、過去の体験から教訓をしっかりと受け継ぐ民族であるということです。ユダヤ人の生活の中にも他の民族と同じように多くの祭りがありますが、他の祭りと違うことは、ただ単に祭りによって浮かれ、はしゃぎ、興奮して、喜んでいるのではなく、その祭りに込められている歴史的教訓から学んでいることです。それは良いこと、勝利の体験ばかりでなく、悪いこと、失敗の体験からも、それらの事柄を通して得た教訓を、その祭りの中に託し儀式化しているのです。

たとえば、過越しの祭りはその一つです。その祭りの期間中は、どこに行っても「種なしパン」が出されます。それはこの種なしパンに大きな意味があるからです。それはイスラエル民族の屈辱と解放を記念しているものなのです。昔イスラエルがエジプトで奴隷であったとき、主は彼らの嘆きを聞かれモーセという人物を立ててそこから解放してくださいました。その脱出の際、時間がなかったので、パンを膨らませる余裕がなく、仕方なく種なしパンを食べたのです。そしてその後、過越しの祭りの際にはその時のことを忘れないために、何百年も何千年もそのことを繰り返して祝ってきたのです。彼らはその種なしパンを食べる度に、あの出エジプトにおいてイスラエルの民族が受けた屈辱と、そこから解放してくださった神の恵みを、ずっと思い起こしてきたのです。

この記念の石塚も同じです。主がヨルダン川をせきとめイスラエルの民を渡らせてくださったことをいつまでも覚え、そのすばらしい主の力を思い出し、その恵みにしっかりととどまっているために、主はわざわざヨルダン川に戻らせて12の石を取らせて、それを記念碑としたのです。

それは私たちにも必要なことではないでしょうか。私たちもこのような感謝の記念碑を立てなければなりません。主がなしてくださったその恵みの数々を思い起こし一つ一つを心に刻まなければならないのです。私たちはともすると神の恵みに対して、それが当たり前であるかのように、口では感謝といいながら、ぬくぬくとその中で生きていることがあるのではないでしょうか。かつてあの時に、あのようにすごい恵みと祝福を与えてくださったのに、そればかりか様々に起こる困難に対しても、その都度乗り越える力を与え、平安をあえてくださったのに、それらすべてを過去のもとしてしまい、何の感謝もせず、むしろブツブツと不平不満をもらし、あるいはそれらを自分自身の業績のように思って生きていることがあるのではないでしょうか。

詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とあります。ほめたたえられるべき方がどのような方であるかを思い出すことが、その後の歩みの力となります。神がどのような方をあるかを知ればしるほど、神の恵みがどれほど大きいかを知れば知るほど、この神の恵みにとどまるようになるのです。

主イエスは、十字架にかかられる前夜、弟子たちと食事をした後、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのためのわたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(Ⅰコリント11:23-25)それは、私たちのために救いを成し遂げてくださった主の恵みを覚え、その主と一つになるために主がするようにと命じられたことでした。これを行うことによって、主の成してくださったことを覚え、心に深く刻むことができます。それは聖餐だけではありません。私たちは主の恵みを具体的な形にして感謝を表すことによって主の恵みにとどまり、それが次に進ませる力となるのです。

Ⅱ.信仰によって(8-18)

次に、8節から18節までをご覧ください。

「イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。・・ ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。・・箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。民がすべて渡り終わったとき、主の箱が渡った。祭司たちは民の先頭に立ち、ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだ。いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。主がヨシュアに、「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。」

イスラエルの民は、ヨシュアが命じたとおりに、ヨルダン川の真ん中から12の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えました。ところで、9節を見ると、8節を補足する形での挿入のように、・・線で括られています。つまり、ヨルダン川の真ん中から取って宿営地に運び、そこに据えた石がどこから拾ってきたのかを説明しているかのようになっていますが、原文では・・     線がないばかりか、同じことの繰り返しではないのです。

口語訳や新共同訳では、川底から運び出して川岸に設置した12の石とは別に、川底にも12の石を立てた、と読むことができます。多くの訳がそのように訳しています。けれども、川の中に石を立てるというのは、川の水が増したときに見えなくなるため、記念としては意味がありません。新聖書注解によると、「川の水で流されないような大きな石が、ヨルダン川の中に据えられて、ヨシュアとその世代の記憶がまだ生々しい頃に、河岸からそれを見ることができたのである。真ん中でも、必ずしも川の流れが激しい場所と解釈する必要はない。」(新聖書注解、旧約2 P51)と注解しています。けれども、仮に一時的に川岸から見ることができたとしても長い年月のうちにはその石も崩れて見えなくなってしまうでしょう。そのような理由で、この記述は合理的でないため、書き違いであると考えられてきました。また、川の中に石を立てることは神の命令になかったことからも、そのようなことをヨシュアが命じるはずがないと考えられてきたのです。

けれども、このような合理的な理由からだけでヘブル語本文を解釈することは極めて危険であり、人間的に判断してしまう恐れがあります。もちろん、ヘブル語によくある表現で、「ヨシュアは据えた」という句を補う形で、「祭司たちが立っていた場所の下にあった十二の石を」と理解することも可能なので、原文をそのまま受け入れるとしても、そこには依然として、二つの可能性が残るのは事実です。したがって、ここではどちらが正しいのかという判断はそのまま残しながら、もし、口語訳のように、宿営地とヨルダン川の川底の二か所に石塚が建てられたとすると、それはどういうことなのかを考えて行きたいと思うのです。

すると、そこにとても興味深い意義が浮かびあがってきます。それは、確かに川の真ん中に作られた石塚は川が再び流れ出したあとでは、何の証拠にもならないかのように見えますが、たとえ形が見えなくても、確かにヨルダン川を渡り、そのしるしとして川底に石塚を立てたということを信じることができたということです。私は先日、近くにある前方後円墳の遺跡を見に行きました。遺跡というのは、古い時代に建てられた建物とか、お墓、歴史的事件があったなんらかの痕跡が残されている場所のことで、それを見ると過去の人々の営みが見えてきます。しかし、そのほとんどは、「えっ、こんなところにあるの」と思われるような人目につかない閑散な場所であります。私が見に行った遺跡もそうで、そこには説明が書かれた立て看板があるだけで、どこから上って行けばたどりつくのかさえもわからない場所でした。つまり、こうした遺跡は見えるとか、見えないというのはそれほど問題ではないのです。問題は、実際ここに数百年前に人々が住んでいて、誰なのかはわからないけれども葬られたという事実があるということなのです。ですから、そこにたたずんでいるだけで、昔の人のそうした思いや生活ぶりがよみがえってくるのです。

ヨシュアがヨルダン川の川底に記念の石塚を立てたのも同じではないでしょうか。それが見えるか、見えないかということではなく、実際にヨルダン川の川岸に立った時、かつてここでイスラエルの先祖たちが神の御業を体験し、そこを渡ることができたということを思い起こし、彼らに働いておられる神の大いなる力を信じることができたのです。見えるだけでなく、見えない所にも記念の石塚を立てるほどものすごい神の奇跡を体験したんだということを後世の人たちも感じることができるために、わざわざ川底にも石を据えてその記念としたのです。ですから、見えなくもいいのです。見えなくても、そのことが聖書に書き記されることによって、その思いがひしひしと伝わってくるのです。

それから、そこにはもう一つの重要な意義があります。それは、このヨルダン川の川底に立てられた石塚は、キリストとともに十字架につけられたことの象徴であったということです。パウロはコリント人への手紙第一10章1節と2節で、「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、」と言っています。つまり、かつてモーセが紅海を通ったのはモーセにつくバプテスマであったのならば、ヨシュアがヨルダン川を通ったのはヨシュアにつくバプテスマであったということです。ヨシュアとはだれのことでしょうか。「ヨシュア」とはギリシャ語で「イエス」です。ですから、これはイエスにつくバプテスマのひな型だったのです。

「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

このようにして見ると、ヨルダン川の川底に作られた石塚はキリストとともに十字架につけられた自分の姿の象徴であり、宿営地に作られた記念の石塚は、キリストとともに生きる新しいいのちの象徴だったと言えます。本来であれば、川の流れの中で滅ぼされていたかもしれない自分の代わりにキリストが死んでくださったというだけでなく、その身代わりによって新しいいのちに生かされるようになりました。この十字架と復活による救いの恵みを、この二つの石塚は表していたのです。

さて、民がすべて渡り終わった時、主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真ん中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地にあがったとき、ヨルダン川の水はもとのところに返って、以前のように、その岸いっぱいになりました。その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなるとされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れました。それはヨシュアが大いなる者とされ、次なる戦いにとって大きな出来事であったことがわかります。そのポイントはいったい何だったのでしょうか。信仰です。モーセが主によって与えられた約束を、ヨシュアが信仰によってその実現に向かっているのです。それがカナンの地の征服において現われていきます。信仰こそ、神の約束を実現してく手段であり、大いなる者とされる秘訣であることがわかります。

Ⅲ.信仰の継承(19-24)

最後に、19節から終わりまでをみたいと思います。

「民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。」

イスラエルはヨルダン川から上がると、エリコの東の境にあるギルガルに宿営しました。そこはカナン侵略の、いわば作戦軍事基地になっていった場所です。そこからイスラエルの民はカナン人との戦いを開始していきました。それほど重要な場所だったのです。戦いに勝つこともあれば、負けることもありました。しかし、とにかくギルガルに戻ってきた時には、この記念碑を見て、奮起したのです。父なる神はあのヨルダン川をせきとめて、その真ん中を渡らせてくださった全能者である。そのことを再確認し、思い起こして、勇気をいただいて、再び戦いへと出て行ったのです。ギルガルは、私たちが帰る場所なのです。そこに帰って静まり、神の偉大さを思い起こし、勇気と力をいただいて、再び戦いへと出て行く場所です。そうです、それが十字架のキリストなのです。私たちはいつも十字架のキリストのもとに帰り、そこから慰めと励まし、勇気と力をいただいて、再びこの世の中に出て行くことができるのです。私たちの中で絶えずギルガルに戻ることが必要なのです。

それは私たちだけではありません。子どもたちにも言えることです。後になって、あなたの子どもたちがその父たちに、「これらの石はどういうものなのですか」と聞くなら、「イスラエルはヨルダン川のかわいた土の上渡ったのだと言わなければなりません。それは、地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、彼らがいつも彼らの神、主を恐れるためです。

私たちの子どもたちは主を恐れているでしょうか。この世の流れにどっぷりと浸かり、神ではなく別のことを恐れながら生きています。それは子どもたちだけでなく、私たち自身もそうです。地のすべての民が、主の御手が力強いことを知り、この主を恐れるために、その偉大さを教えていかなければなりません。

パウロはテモテに、「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」(Ⅱテモテ2:2)と言いましたが、そのためには、他にも教える力のある忠実な人が起こされるように祈らなければなりません。これが私たちに託された使命です。そのためには、まず私たちが信仰に生き、神の恵みの豊かさを体験する必要があります。この世はそれとは全く反対の方向に流れていても、「私と私の家とは、主に仕える。」(ヨシュア24:15)とヨシュアが告白したように、私たちもそのように告白しながら歩んでいきたいものです。

Ⅰペテロ1章10~12節 「この救いについて」

きょうは、「この救いについて」というタイトルでお話しします。この手紙は、キリストの弟子であったペテロから迫害によって国外に散って寄留していたクリスチャンを励ますために書かれました。彼らは激しい迫害の中にあっても大いに喜んでいました。なぜなら、救いの喜びがあったからです。神の大きなあわれみによってすべての罪が赦され、生ける望みが与えられました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされました。また、今も、神の御力によって守られています。このことを思うと喜びがありました。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければなとりませんが、やがて大きな栄光を受けることを思うと喜ぶことができました。彼らはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いまも見てはいなくても信じており、栄えに満ちた喜びに踊っていました。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ていたからです。このように、救いの喜びとはどんな状況にあっても左右されることがない喜びです。「どうして私の人生にはこんなことばかり起こるの」と思うような中にあっても、喜び踊ることができるのです。

 

きょうのところでペテロは、この救いのすばらしさ、救いの偉大さについて教えています。聖書のテーマは救いです。救いは、聖書全体を貫くテーマであり、神様の全歴史の中で実現される事実です。それは天においても地においても最大の関心ごとなのです。きょうはこの救いがどのようにもたらされたのかを三つのポイントでお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.預言者たちを通して語られた救い(10-12a)

 

まず10節から12節前半までをご覧ください。

「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。彼らは、それらのことが自分ちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるの啓示を受けました。」

 

「この救いについては」とは、この前の段落でペテロが語ったイエス・キリストによる神の救いのことです。それは今、現に受けているものであり、終わりのときに完成するようにと用意されているものです。この救いについては、ここでペテロが突然語っているかのように見えますがそうではなく、ずっと昔から、旧約聖書の預言者たちにも啓示されていたことであり、彼らが熱心に尋ね、細かく調べていたものです。預言者たちは、この救いの奥義を注意深く調べました。父なる神があらかじめ立てられた救いのご計画が、いつ、どのような形で実現するのかを熱心に調べていたのです。聖書の言う救いとは、ある日突然だれかによって考えられた話ではなく、最初の人アダムとエバが罪に陥った瞬間から神によって計画され、定められていたものなのです。

 

よく本屋さんに行くと、「あなたの問題は解決する」とか、「あなた自身があなたを救う」といった類の本が置かれていますが、それらのものが本当にあなたを救うことができるでしょうか。それらのものは一時的ないやしを与えてくれるかもしれませんが、根本的な解決を与えてはくれません。なぜなら、私たちにとっての根本的な問題は罪ですからその罪を解決しない限り、そこにはほんとうの救いはないからです。どんなに良い人間になろうとしても、どんなに道徳、教育を積んでも、罪の問題が解決されない限り救いはないのです。エレミヤ17章9節には、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」とあります。人の心は何よりも陰険で、直りません。そんな人間が一生懸命努力したところで、自分を救うことはできないのです。一時的に直ったかのように見えても、次の瞬間にはまた元の状態に戻ってしまいます。いや、もっとひどい状態になってしまうことも少なくありません。人はだれもこの罪から救う力を持っていないし、自分で自分を救うことはできないのです。しかし、まことの神は私たちを罪から救うことができます。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできるのです。いったい神はどのように救ってくださるのでしょうか。

 

10節を見ると、「あなたがたに対する恵みについて」とあります。これは神の恵みによるのです。それは私たちの行いによってではなく、一方的な神に恵みによるものなのです。どうしてこれが恵みだと言えるのでしょうか。最初の人であったアダムとエバが罪に陥った時のことを思い出してください。彼らは神が食べてはならないと命じておいた木から取って食べた時、神との交わりが断たれてしまいました。聖書はこれを死と言っています。その死が人類に入り、死が全人類を支配するようになりました。しかし、あわれみ豊かな神はアダムが罪を犯した瞬間に、そのすぐ後に、人類をその罪から救う約束を与えられました。

 

「わたしは、おまえと女の子孫との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)

 

やがて女の子孫から救い主を遣わし、サタンの頭を踏み砕き、決定的な勝利をもたらされる、救いを成就してくださると約束してくださったのです。これは恵みではないでしょうか。一方的に自分たちの過ちによって罪に陥ったにもかかわらず、そのような人を救うために、神がその御業を行ってくださるというのですから・・・。

 

そのために選ばれたのがアブラハムでした。アブラハムは、神を信じて義と認められました(創世記15:6)。そして神はこのアブラハムの子孫から救い主を遣わし、地上のすべての民族は彼によって祝福されると約束してくださいました。このように神の救いのご計画は、最初は抽象的なものでしたが次第に具体的になっていきます。そして、さまざまな預言者たちを通して、これがどのようなものなのかを具体的に啓示されたのです。

 

モーセはその預言者のひとりでした。彼は神に代わってイスラエルの民に語りました。そして、彼らをエジプトの奴隷から救い出されました。それはやがて来られるメシヤ、救い主がどのような方であるかを示すためでした。それはモーセがイスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出したように、やがてメシヤが来て、私たちを罪から救ってくださるというものでした。これが神の初めからの救いのご計画だったのです。このことがモーセ五書から始まってマラキ書に至る旧約聖書の中に預言されています。

 

たとえば、メシヤはアブラハム、イサク、ヤコブの子孫としてユダ族から生まれるということが創世記49章10節にあります。また、処女から生まれるということ(イザヤ7:14)、そして生まれる場所はベツレヘムであることも書かれてあります(ミカ5:2)。その働きは異邦人のガリラヤから始まります(イザヤ9:1)。そしてメシヤが来られると、盲人が見えるようになり、耳の聞こえない者は聞こえるようになります。足のなえた人は鹿のようにとびはね、口のきけない者は話すようになります(イザヤ35:5)。多くの病人がいやされ、貧しい者に良い知らせが伝えられます(イザヤ61:1)。しかし彼は友に裏切られ(詩篇49:7)、銀貨30枚で売られます(ゼカリヤ11:12)。そして、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれます。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされます(イザヤ53:5)。彼はそのようにして地から絶たれ、富む者たち、金持ちたちの墓に葬られるのです(イザヤ53:9)。けれども、彼はその死からよみがえられます(詩篇16:10)。神は彼のたましいをよみに捨ておくことはなさらないからです。

 

そして、それが文字通りイエス・キリストによって成就しました。キリストはユダヤのベツレヘムで生まれました。アブラハムの子孫としてユダ族から出ました。それはまだマリヤがヨセフと結婚する前のことでした。マリヤはまだ男の人を知らなかったのに、聖霊によってみごもりました。そしてキリストが30歳になられた時、異邦人のガリラヤに行き神の福音を宣べて言われました。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

また、会堂に入り、預言者イザヤの書を手渡され、そこに書いてあることを朗読されると、このように言って話し始められました。

「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。」(ルカ4:21)

そこには、「わたしの上に主の御霊がおられる。主が貧しい人々に福音を伝えるようにとわたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいだけられている人々を自由にし、主の恵みの敏を告げ知らせるために。」と書かれてありました。そのみことばが、きょう、あなたがたが聞いたとおりに実現した、と宣言したのです。

また、キリストはそのとおりに弟子のひとりイスカリオテ・ユダに裏切られ、銀貨30枚で売られ、十字架につけられて死なれました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。旧約聖書の預言はことごとく、このイエスによって成就したのです。それは、このイエスが、旧約聖書が預言していたあのメシヤ、救い主であられるからです。

 

このように神は、まずこの救いを預言者たちを通して語られました。彼らはその救いの恵みがどのように実現するのかを、預言したのです。そして、それがいつ、どのようにして起こるのかを熱心に調べました。それは彼らにとって最大の関心事だったのです。私たちも熱心に聖書を調べています。2004年に教会がスタートしてから13年になりますが、新約聖書のほとんどを学びました。残っているのはこのペテロの手紙、とハネの手紙、ユダの手紙、コリントの手紙だけとなりました。旧約聖書もイザヤ書を細かく調べました。そして今も祈祷会で1章ずつ学び続けています。このように旧約聖書と新約聖書の両方を学ぶことで、神の救いの恵みがどれほどすばらしいものであるかがわかるようになるのです。

 

ところで、11節を見ると、このように聖書を調べることを可能とし、その全行程を誤りなく導いたのが何であったかがわかります。それは「自分たちのうちにおられるキリストの御霊」でした。キリストの御霊とは神の御霊、聖霊のことです。旧約の預言者たちは自分の意志によって語ったのではなく、キリストの御霊、神の聖霊によって語り、それを巻物に書いたのです。Ⅱペテロ1:21には、「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」とありますが、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、神の意志によって、聖霊によって動かされた人たちが、神からのことばを語った、神のことばなのです。

 

いったい彼らは何を預言したのでしょうか。ここには、「キリストの苦難とそれに続く栄光」とあります。彼らは、キリストの苦難とそれに続く栄光について預言しました。キリストの苦難とは十字架のことですね。また栄光とは復活と昇天のことです。彼らは来るべきメシヤは苦難を受けるということ、そして、その後で栄光を受けるということを前もって預言したのです。もっとも、彼らはそのように預言したもののそれがどういうことなのかはさっぱりわかりませんでした。彼らはただ神から示されたことを語り、そのまま書いただけで、それがどういう意味なのかまでは理解していなかったのです。だから、それはだれのことで、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

 

それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも聖書をよく調べないと神が語っておられることを間違って理解し、信仰の誤解を生むことがあります。

たとえば、あのバプテスマのヨハネはそうでした。彼は旧約最後の預言者であり、来るべきメシヤの先に遣わされた者として、主が通られる道をまっすぐにするために神によって遣わされた人物でした。しかし、ヘロデ・アンティパスに捕らえられると、自分の弟子をイエスのもとに遣わしてこう言いました。

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」(ルカ7:19)

ヨハネはなぜこのように言ったのでしょうか。メシヤが来ているのであればこんなことが許されるはずがないと思っていたからです。その圧倒的な力によって自分たちを敵から救い出してくださるはずだ。それなのになぜこのようなことが許されるのか。おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか、そう言ったのです。

それに対するイエスの答えはこうでした。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラートに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:22-23)

私たちは、自分の思うようにいかないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまいます。どちらかというと私たちは、自分の置かれた状況に流されやすいのです。どんなに信仰があってもちょっとした苦難に会うと、本当にあなたは救い主なんですか、と疑いを抱いてしまいます。それが長く続くようものなら、「信じても、信じなくても何も変わらないじゃないですか。だったら別に信じなくたって構わないじゃないですか」と投げやりになってしまうことも少なくありません。しかし、「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」そのためには旧約と新約の両方から、神の救いについての預言と成就を熱心に、細かく調べることが求められます。そうでないと、ヨハネのようにイエス様につまずいてしまうことになるのです。

 

旧約の預言者たちはこの恵みについて熱心に尋ね、細かく調べました。それが彼らの最大の関心ごとでした。そして、彼らはある一つの結論を見出しました。それは12節前半に書かれてあります。つまり、「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるという啓示を受けました。」ということです。つまり、その預言は自分たちのためではなく、将来そのようなことが起こるという啓示を受けたということです。それは彼らが熱心に預言を調べていたからです。それがいつ、だれのことを指して言われているのかを調べている中ではっきりと示されたのです。

 

Ⅱ.使徒たちを通して語られた救い(12b)

 

第二に、この救いについては、12節の真ん中にあるように、「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされ」た、ということです。どういうことでしょうか。この救いの恵みは、預言者たちを通して語られましたが、今や、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語って人々を通して、はっきりと告げ知られたということです。「天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々」とは、キリストの十字架と復活を宣教した人々のこと、使徒たちのことです。旧約の時代は聖霊によって動かされた人たちによって神のことばが語られましたが、しかし今や、十字架と復活を目の当たりにした使徒たちによって、来るべきメシヤがだれなのかが明らかにされました。そうです、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていたあのメシヤ、救い主であるということです。もっともキリストの弟子たちでさえも、そのことをよく理解していませんでした。彼らはキリストの苦難とそれに続く栄光について目が覆われていたからです。他のユダヤ人たちと同じように、メシヤが来たら自分たちをローマの支配から救い出し、この地上に神の国を樹立してくれるものと思っていたのです。メシヤの栄光だけがクローズアップされていて、すぐに栄光に入るものと期待していたのです。ですから、イエスにつき従って行ったものの、イエスが捕らえられると散り散りになって逃げて行ってしまったのです。そしてイエス様が十字架に付けられると、完全に望みを失ってしまいました。そのことについては、イエス様があらかじめ彼らに繰り返し、繰り返して語っていたにもかかわらずです。

 

エマオの途上の弟子たちに主が現われてくださった出来事(ルカ24:13~35)は、聖書全体のキリストを理解し、このキリストを受け入れるにあたって、極めて重要なことを教えています。彼らは復活の主イエスがともに歩いておられたのに、それがイエスだということがわかりませんでした。

それはふたりの目がさえぎられていたからです。彼らは、ナザレ人イエスについて話し始めます。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある方でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡しても死刑に定め、十字架につけたのです。しかし、私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが朝早く墓に行ってみると、イエスのからだが見当たらないというのです。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちは、イエスは生きておられると告げたというのです。それで仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言うとおりで、イエスのからだはなかったというのです。

するとイエス様は何と言われたでしょうか「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてのを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けてから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25-26)

そして、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされたのです。しかし、解き明かされたからと言ってもすぐに、メシヤの受難とそれに続く栄光について分かったのではありません。その後、食事の席で、イエス様がパンを裂いて渡したとき、生ける主との出会いの中で、ふたりの目が開かれ、それがイエスだとわかったのです。もっとも、イエスが道々話しておられたときも、また聖書を説明してくださっていた時も、彼らの心は燃えていました。目がさえぎられていて、イエスだとわからなかった状態から、目が開け、イエスだと分かった状態へと変えたのは、復活のイエス様ご自身でした。イエス様は、聖書を開くと共に、弟子たちの心を開いて、聖書を理解できるようにしてくださるのです。

 

心に疑いを抱いた弟子たちに現われたイエスは、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(同24:44)と言われ、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開かれました。エマオの途上の弟子たちを含め、弟子たちに決定的な復活の信仰を与えたのは、このキリストの御業、聖霊の御業だったのです。

 

私たちもこの弟子たちのように聖書を学んでいても目がさえぎられていてなかなか聖書に書いてあることを理解できない者ですが、それでも、聖書を開く時心を開いて悟らせてくださるご聖霊に信頼し、キリストの苦難とそれに続く栄光について、しっかりと受け止めたいと思います。

 

さて、そんな弟子たちではありましたが、目が開かれてキリストが復活したことを確信すると、キリストの証人として、あらゆる国の人々のところへ遣わされて行きます。そのためには、父が約束してくださったものを待ちなければなりませんでした。それは神の聖霊です。彼らは、いと高き所から力を帰せられるまでは、都にとどまっていなければなりませんでした。

そして、五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていたとき、突然、天から聖霊が降り、ひとりひとりの上にとどまりました。これがペンテコステです。きょうはペンテコステの日です。神が約束の聖霊を送ってくださったことを記念する日です。それはこのイエスが救い主であって、聖書に書いてあるとおりに救いの御業を成し遂げて、神の栄光に入られたことのしるしでもあるのです。するとペテロは大胆に福音を語りました。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

(使徒4:12)

すると、多くの人がキリストを信じ、その日、三千人ほどが弟子に加えられました。どうしてペテロはそんなに大胆になれたのでしょうか。それは、この恵みについて理解したからです。この救いの事実を知れば知るほど大胆になることができます。知れば知るほど確信を持つことができるのです。ペテロの大胆さは強い確信からくるものでした。そしてその確信は自分の確信というだけでなく、聖霊の力によるものだったのです。ペテロは十字架の苦難を見ました。そして、復活の目撃者でもありました。キリストの苦難とそれに続く栄光を見たのです。旧約の預言者たちは、メシヤの苦難とそれに続く栄光を預言しましたが、メシヤがだれであるかはわかりませんでした。しかし今や、それが明らかになりました。イエス・キリストこそあの約束のメシヤであることがわかったのです。どんなに大きな感動だったことでしょう。そして天から送られた聖霊によって大胆に福音を語った人々を通して、この救いが私たちにも告げ知らされたのです。

 

皆さん、福音はだれかの考えによって作られた話ではなく、神からのメッセージです。それは神が私たちを罪から救うために立てておられた恵みの計画なのです。それは苦難を受けてから栄光に入るという信じられない救いの御業です。そして、キリストは、その聖書が示すとおりに、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、また、葬られ、また、聖書が示すとおりに、三日目によみがえられました。そうです、このイエス・キリストこそ、旧約聖書で預言していた約束の救い主なのです。ですから、このイエス・キリストを信じる者はだれでも救われるのです。この「だれでも」というのがすごいですね。それがユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、男であっても、女であっても、お金があっても、なくても、失敗しても、しなくても、この福音は、救いを得させる神の力なのです。この福音、神がしてくださった事実を告げ知らせるとき、そこに聖霊が働いて救ってくださるのです。この福音に力があるからです。使徒たちもこれを忠実に伝えました。それで私たちにも届いたのです。私たちもこの福音を信じて救われました。その人は上手に説明できなかったかもしれません。たどたどしいことばで、何を言っているのかわからないような話だったかもしれません。でも聖霊が働いて、もっと聞きたいという思いが与えられて教会に行くようになりました。そして、イエスさまが救い主だとわかったので信じたのです。中には誘ってくれた友達がいつの間にか消えてしまうというケースもあります。あとの者が先になり、先の者があとになるということもあります。でもそのような中にも神の働きがあり、福音が理解できるようになるのです。あなたはどうでしょうか。この良い知らせを受け取られたでしょうか。どうぞ受け取ってください。そうすれば、あなたも今日救われるのです。

 

Ⅲ.御使いも見たいと願っていること(12c)

 

第三のことは、それは御使いも見たいと願っていることであるということです。12節の後半をご覧ください。ここには、「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることです。」とあります。どういうことでしょうか。その救いがどんなにすばらしいものであり、それがどのように実現していくのかを、御使いたちもはっきりと見たいと願っているということです。つまり、この救いは、御使いたちも見たいと思っているほど豊かなものであるということです。神は、この福音の宣教の業を天使たちに任すことをよしとされず、聖霊の注ぎを受けた人々にゆだねられたので、御使いたちはちょっと寂しく感じているのです。「ああ、自分たちも見たいなあ」「その業に関わりたいなぁ」と思っているのです。この救いはそれほどすばらしいものだということです。

 

ルカ15章10節には、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。御使いには罪がないので、私たちのように救われて喜びに溢れることはありませんが、その救われた人を見ると、そこにも喜びが溢れるのです。人が救われるということは、それほど大きな喜びなのです。

 

私は20歳の時、家内と青年たちの聖書研究会を始めました。それは毎週金曜日の夜にやっていたので「フライデーナイト」と呼ばれていましたが、若い青年が7~8人集まっていました。聖書研究会が始まって1年くらいが経った頃、そこに参加していた一人の女性がイエス様を信じました。その方は市内のデパートに勤めていたので、毎週私の仕事が終わってから職場に迎えに行き、終わったら自宅まで送って行っていましたが、車から降りようとしたとき彼女がこう言われたのです。

「私、イエス様信じたいんですが、信じたらいろいろ束縛されるんじゃないかと思うと心配で決心できないんです。」

そこで、私は何というべきか心の中で祈りながら、「そうだよね、でも天の神様がちゃんと守ってくださるから大丈夫。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。とあるから、すべてを主にゆだねたら。信じよう。」と言うと、「そうですね、そうします。イエス様信じます」と言って、その場でイエス様を信じるお祈りをされたのです。本当にびっくりしました。信じるように聖書を学んでいるのに、ほんとうに信じたいという人がいることにびっくりしたのです。びっくりしたと同時に、うれしくて、うれしくて、たまりませんでした。今でもあの時の感情を覚えているほどです。人が救われるってほんとうにすごいことなんだなぁと思わされて、できるだけ多くの人にこの福音を伝えていきたいと思わされました。それは御使いたちもみたいと願っているほどの喜びなのです。

 

神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられます。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。それは私たちの行いによってではなく、神の恵みによるのです。この恵みについては、旧約の預言者たちが語り、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らはそれを見たいと切に願いましたが見ることができませんでした。それは、自分たちのためではなく、やがてもたらされるための啓示だったのです。

しかし今や、それが明らかにされました。イエス・キリストによって、その恵みが実現したのです。それらのことは、天から送られた聖霊によって、あなたがたに福音を語った人々によって告げ知らされました。それは御使いたちにとっても最大の関心事でした。

 

あなたはこの救いを受けておられるでしょうか。あなたにとっての最大の関心ごとは何でしょうか。この救いについては旧約の預言者たちも、新約の使徒たちも、また、この福音をずっと告げ知らせて来た人たちにとって、いや天の御使いにとっても、最大の関心ごとでした。であれば、私たちにとっても最大の関心ごとではないでしょうか。この救いについて、私たちも熱心に調べ、この恵みの大きさ、豊かさに感動しながら、これを告げ知らせていく者でありたいと思います。福音は、私たちを救う神の力です。この福音があなたにも届けられました。今度はあなたがこれを届けていく番です。あなたがこの恵みを語るなら、そこに聖霊が働いて、すばらしい神の救いの御業が現われます。このすばらしい福音に生き、福音を告げ知らせて行く者とされましょう。