Ⅰペテロ2章4~8節 「霊の家に築き上げられなさい」

きょうは、「霊の家に築き上げられなさい」というタイトルでお話しします。前回の箇所でペテロは、神の恵みによって救われたクリスチャンは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と勧めました。それによって成長し、救いを得るためです。今回のところでペテロは、そのように霊の乳であるみことばによって救われて、成長したクリスチャンはどうあるべきなのかを語っています。それは、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげなさいということです。

 

霊の家とは何でしょうか。それは神の教会のことです。パウロはコリント人への手紙第一3章16節で、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と言っています。神の御霊が宿っている私たちのからだが神の神殿であり、そのような人たちが集められ、築き上げられているのが教会です。教会は建物のことではなくキリストのからだであり、このキリストのからだである教会に築き上げられ、霊のいけにえをささげることが求められているのです。

 

Ⅰ.生ける石(4)

 

まず4節をご覧ください。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

 

「主のもとに来なさい。」という勧めは、何か唐突な感じがします。新共同訳では、4節の冒頭に「この」ということばがついていて、「この主のもとに来なさい。」となっています。これは3節で言われていた「主がいつくしみ深い方であることを味わっているので」、この主のもとに来なさいということになります。しかし、英語の聖書には、霊の家に築き上げられるために、生ける石である主のもとに来なさい、とあります。つまり、真理のみことばによって新しく生まれたクリスチャンは、みことばの乳を慕い求めることによって成長し、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるために主のもとに来なさいということなのです。

 

旧約時代は、だれもが主のもとに来ることはできませんでした。そのためには祭司の仲介が必要だったのです。しかし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じることによって、この救いを受け入れる人はだれでも主のもとに来ることができるようになりました。

 

なぜでしょうか。なぜなら、主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。どういうことでしょうか。キリストは人々を罪から救うためにこの世に来られましたが、人々はこの方を自分たちが期待していたメシヤ像とは違うと、十字架につけて死なせてしまいました。しかし、神はこの捨てられた石を礎の石として霊の家を築き上げられたのです。7節にあるように、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。

 

この「礎の石」とは、建物全体を支えるかなめの石のことです。パレスチナの家は石造りになっていて石を積み上げる方法で建築されていましたが、そのアーチ型の天井のてっぺんに入れる最後の石はとても重要な石で、その石がピッタリとはまるかどうかで、建物全体が強さが決まったのです。この石こそ建物全体のかなめとなったのです。英語の聖書には「Capstone」と訳されています。

 

それに対して6節の「礎石」は、「礎の石」という点では同じですが、これは建物全体を支える土台の四隅に据えられたかしら石のことです。英語では「Cornerstone」と訳されています。このコーナーストーンの上に建物の柱と壁が結び付けられて建物全体を支えていたので、これがどのような石なのかによって建物全体の強さが決まったのです。そういう意味では7節の「礎の石」と6節の「礎石」はどちらも建物全体を支えるかなめの石であったという点では同じです。それなのに、この石は、人には捨てられたのです。なぜでしょうか。それを見抜けなかった建築家の見立てが間違っていたからです。判断を誤ったのです。

 

イエスさまはそのことをぶどう園と農夫のたとえで説明されました。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、旅に出かけました。収穫の季節になったので、ぶどう園の主人は収穫の分け前を受け取ろうと、農夫たちのところへしもべを遣わしましたが、彼らはそのしもべをつかまえて袋たたきにすると、何も持たせないで送り帰しました。それで主人は、私の愛する息子ならきっと敬ってくれるだろう、と最後にその息子を遣わしましたが、農夫たちは、「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)と言って、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまいました。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。イエスはその話の中でこう言われました。

「では、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。」(ルカ20:17)

まさにこれは農夫たちの見立て違いだったのです。彼らはしもべたちを侮辱し、跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園を自分のものにすることができると思いました。しかし、それは完全な見立て違い、判断ミスだったのです。

 

時として、私たちもこのような間違いを犯してしまうことがあります。この石こそ私たちの人生の土台であり、キリストの教会の礎石、かなめの石なのに、そうでないものを土台に据えてしまうことがあります。イエス・キリストこそ教会の礎石であり、また、私たちの人生のコーナーストーンなのです。どんなに立派なものを建て上げようとしても、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは確かな人生とは言えないし、何らかの災害などがあった時にはもろくも崩れてしまうことになります。イエス・キリストがコーナーストーンです。この方を礎石として、この方の上に人生を築き上げるなら、どんなことがあってもびくともすることはありません。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」のです。あなたの人生はどんな石の上に建てられていますか。

 

使徒パウロもエペソ人への手紙2章20~22節のところで、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にあって聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。キリスト・イエスが礎石です。霊の建物である教会は、この方にあって組み合わされ、結び合わされて、成長していくのです。

 

ですから、何を教会の土台に据えるのか、何を私たちの人生の土台に据えるのはとても重要なことなのです。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように立てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。」(Ⅰコリント3:10-11)

 

私たちは皆、人生という家を築いています。それをどのように築き上げて行くはとても重要なことです。しかし、もっとも重要なことは、何の上にそれを築き上げていくのかということです。パウロが賢い建築家のように土台を据えたと言っているように、私たちも賢い建築家のように、人生の土台を据えたいと思います。

 

いったいなぜこのキリストの上に築き上げられなければならないのでしょうか。それは、主は人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。ペテロはこの手紙の中で「生ける」ということばを好んで用いています。1章3節では「生ける望み」と言い、1章23節では「生けるみことば」と言っています。そしてここでは、「生ける石」と言っているのです。いったいペテロはここで何を言いたかったのでしょうか。それは、この石がいのちを与える石であるということです。死んでいる石ではない、いのちを与える石なのです。それはイエス・キリストが死からよみがえられ、今も生きておられる方であるからです。ですから、この方に信頼する者は失望させられることはありません。私たちは弱くても、彼は強い方であり、今も生きて私たちにいのちと力を注ぎ続けておられる方だからです。

 

この「生ける石」は英語で「リビングストーン」と言いますが、そこから家名を取ったスコットランドの宣教師で、探検家でもあったリビングストーンは、アフリカで60年の生涯を終えました。しかし、彼が召された1873年以降も、彼が与えた影響は今に至るまでアフリカの大地に生き続けています。ザンビアの南部には、彼の名にちなんで「リビングストーン」という名前の都市があるほどです。このように、キリストは生ける石として今も生きておられ、私たちの人生に大きく働いているのです。

 

「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」これが私たちの人生の、私たちの教会のかなめの石です。あなたはどのような土台の上に人生を築いておられますか。この生ける石の上に私たちの人生も築き上げていきましょう。

 

Ⅱ.霊の家に築き上げられる(5a)

 

第二のことは、キリストが生ける石であるというだけでなく、私たちも生ける石として、霊の家に築き上げられなければならないということです。5節をご覧ください。ここに、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

「あなたがた」というのは、すべてのクリスチャンのことを指しています。これはローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ペテロはそうした彼らに対して、「あなたがたも」と言っているのです。私だけでなく、あなたがたも、この石の上に築き上げられなさい・・と。

 

ペテロが石となってキリストの上に築き上げられることについては、マタイの福音書16章に語られていました。一行がピリポ・カイザリヤにいたとき、イエスが弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねると、今度は弟子たちに、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われると、ペテロは弟子たちを代表してこう言いました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

すると、イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:17-18)

 

ペテロというのは「岩」とか、「石」という意味です。「あなたは岩です、石です。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたのです。「この岩」とはペテロのことではなくイエスさまご自身のことです。その岩であられるイエスさまの上に、石であるペテロを用いてご自身の教会を建てるというのです。

イエスさまがなぜ彼をペテロと呼ばれたのかはわかりません。しかし、彼はその名前で呼ばれることをどれほど光栄に思ったことでしょう。どんなに小さな石でも、キリストという大きな岩の上に建てられた霊の家を築き上げていくために用いられていることを誇りと思ったに違いありません。

 

それはペテロだけでなく他の弟子たちも同じです。彼らは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている土台の一部とされました。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで立て上げられているのではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さな石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、堅さも、様々なものが必要なのです。ですから、ペテロはここで、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」と言っているのです。私もイエスによって教会の土台石にされたように、あなたがたも、主の招きに応じて、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい、と呼びかけているのです。

 

これは明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)という小説家の「昼寝の夢」という小説に出てくる一節です。ある日旅人が天国へ行った夢を見ました。天国の中央に新しき都エルサレムがあって、その石垣には昔から歴史上人類に貢献してきた有名な作家の名前がずらりと刻まれていました。ダンテ、ミルトン、シェークスピア、テニスン、トルストイ、ドストエフスキー等の栄光の石でした。彼は驚きながらも自分の石はどこにあるのかと一生懸命探しました。大きい石から小さな石まで探して行くうちに、ほんの小指の先ほどの小さな石に「徳冨蘆花」と刻んであるのを発見しました。彼は怒りました。怒りのあまり、大石と大石との間にはさまれた、その小さな自分の石を取り出そうとすると、突然、大音響と共にその壮大な天国の都が崩れかけました。その瞬間、彼は恐ろしさのために目が覚めた」というのです。つまり、天国全体にとっては無くてならない存在だということを悟らされたのです。私たちはそれぞれ小さな石であるかもしれませんが、霊の家を築き上げていくための大切な材料の一つであることを覚え、共に霊の家を築いていくものでありたいと思うのです。

 

ところで、いったいどのようにして築いていったらいいのでしょうか。幸いなことに、ここには、霊の家を築き上げなさいとは言われていないで、霊の家に築き上げられなさいと受け身で言われています。どういうことでしょうか。それは、建て上げてくださるのはイエス様であるということです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛のうちに立てられるのです。」(エペソ4:16)

どんな建物でもそうですが、どんなに立派な柱があっても、断熱性の高いペアガラスにしても、無垢のフローリングにしても、それだけでは意味がありません。それが組み合わされて、結び合わされて、すばらしい建物となるのです。それを建て上げてくださるのがイエス様なのです。だから、私たちはそんなに頑張らなくてもいいのです。私たちは生ける石として自分を主に差し出すだけでいいのです。そうすれば、主が建て上げてくださるのです。

 

今回もアメリカから4名のチームが来日してくださり、明日からのさくらでのサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプで奉仕してくれることになりました。どうなるかわかりません。わかりませんが、大きな梁や無垢材のフローリング、ペアガラスどころかトリプルガラスのサッシも用意されました。こうした一つ一つの材料を主に差し出すとき、主が建て上げてくださると信じましょう。

 

Ⅲ.聖なる祭司として(5b)

 

第三のことは、私たちが、霊の家に築き上げられるのは何のためか、その目的です。それは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるためであるということです。つまり、聖なる祭司として神と人に仕えることです。5節の後半をご覧ください。ここには、「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。

 

祭司というのは、神に仕える仕事です。もう少し正確に言うと、神の御前に人々の罪を担ってとりなす者です。ですから、イエス・キリストは私たちの大祭司であると言われているのです。そして、ここには私たちは聖なる祭司であると言われています。マルチン・ルターは、ここから「万人祭司説」を唱えました。クリスチャンはみな祭司であるという教理です。彼が宗教改革を行ったのは1517年ごろですが、それまでは聖職者と平信徒という区別がありました。罪の赦しを祈ることも、聖書の説き明かしをすることも、それはもっぱら聖職者の仕事であって、平信徒にはできないと考えられていたのです。しかし、マルチン・ルターはその区別を取っ払いました。信仰者はみな祭司であると主張したのです。それは、信仰者は互いに対して小さなキリストになることができるということを意味しています。

 

ですから、私たちは互いの罪を負い合い、互いのために祈り合い、とりなし合うことができます。互いのために聖書を説き明かし、互いに励まし合うことができるのです。私たちは互いに聖なる祭司、小さなキリストなのです。その私たちに求められているのは何でしょうか。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるということです。

 

ユダヤ教の神殿では、目に見えるいけにえがささげられました。しかし、霊の家である教会では、目に見えない霊のいけにえをささげます。では、イエス・キリストを通してささげる霊のいけにえとはどのようなどのようないけにえでしょうか。

詩篇50篇14節には、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」とあります。ここには、「感謝のいけにえ」とあります。神に感謝をささげること、それが一つの例のいけにえなのです。

また、詩篇51篇17節には、「神へのいけにえは、砕かれたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた悔いた心です。神はそれをさげすまれません。

また、詩篇141篇2節には、「私の祈りが、御前への香として。私が手を上げることが、夕べのささげものとして立ち上りますように。」とあります。これは祈りのことです。神への祈りが神への喜ばれる霊のいけにえであると言われているのです。

さらに、ヘブル人への手紙13章15、16節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」善を行うことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。賛美のいけにえ、さらには、善を行うことや持ち物を人に分け与えることも、神に喜ばれるいけにえです。

さらに、ローマ人への手紙15章16節を見ると、ここには、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とあります。パウロがここで言っている祭司としての務めというのは、言うまでもなく伝道のことです。自分は伝道をもって、祭司の務めを果たして、キリストの福音を証し、人々に宣べ伝えること、それが神へのいけにえであると言っているのです。

 

こうやってみると、神に喜ばれるいけにえとは、私たちの生活のすべてであると言うことができます。ですから、パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように言っているのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「あなたがたのからだを」というのは、あなたがたの存在とか、あなたがたのすべてということです。それをささげなさいというのです。それこそ、神が喜ばれる霊のいけにえ、霊的な礼拝なのです。

 

生ける石であるキリストのもとに来て、生ける石として、霊の家に築き上げられた私たちは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなければなりません。あなたのベクトルはどこを向いていますか。あなたは、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていますか。あなたのからだを、あなたの存在のすべてを神に受け入れられる、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝なのです。私たちはいったい何のために救われたのか、その目的を知っているかどうかは、私たちの信仰の歩みに大きな影響を及ぼします。私たちが救われたのは霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるためであるということをはっきりと知っている人は、この地上での生涯を神と人のために喜んでささげることができるようになるのです。

 

最後に一つのお話しをして終わりたいと思います。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太を並べ、少し動かしてはまたそれを並べるというようにして、長い坂道を上っていきました。そこにとおりかかった旅人が、「そんな大きな石を運んで、どうするのかね。」と聞きました。すると一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男が、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですよ。これはその石なんです。さあ、もうひとがんばりだ。」

 

皆さん、どちらの男がその日の仕事に満足できたと思いますか。自分がしていることの目的を知っていた人です。私たちも、神が私たちを贖って、霊の家に築き上げられたていることの目的を知り、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ霊のいけにえをささげる者でありたいと思います。

ヨシュア記6章

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

主の奇跡的なみわざによってヨルダン川を渡ったイスラエルはまず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。そして、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にしたひとりの人がいて、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく準備をしました。そして、いよいよ約束の地カナンの占領が始まっていきます。

その最初の取り組みは、エリコを攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、この町はパレスチナの主要都市であっただけでなく、パレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですからこのエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

しかし、1節を見ると、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」とあります。この町の周囲には高い城壁が巡らされており、だれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にして、おそらくヨシュアは不安と恐れの中でしばしたたずんでいたのではないかと思います。

そのような時に、主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」ここで注目したいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡したと、完了形で言われていることです。すなわち、いまだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれが未だ起こっていないことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくとき、まず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要なのです。

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡したのでしょうか。3節から5節までをご覧ください。「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」

ここで主は大変不思議なことをヨシュアに言われました。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ、というのです。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、町の周囲を一度回り、六日間、そのようにし、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならないというのです。そして、祭司たちが吹くその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。そうすれば、城壁が崩れ落ちるので、崩れ落ちたら、民はおのおのまっすぐに上っていかなければならない、というのです。これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ主なる神はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利してくださるということを示すためでした。

イザヤ55章8,9節には、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たちの思いと神の思いとは決定的に異なります。私たちがどんなに愚かな知恵をしぼって、ああでもない、こうでもないと思い悩んでも、複雑な迷路に落ち込み、果てには不信仰の中に落ち込んでいくだけですが、しかし、人間の知恵をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神のみわざが現されるのです。

ですから、たとえそれが私たちには理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特にここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神のみわざとしてなされるということです。

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6節と7節をご覧ください。「そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」

ヨシュアは信仰によってそれを主の御声として受け止め、その御声に従いました。また、イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦闘の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主の御声に聞き従ったのです。

8節から11節までをご覧ください。

「ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。」

10節に注目してください。ここには、「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりません。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きを妨げてしまうことがあるからです。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的ではないかと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主の御声に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちは力を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らないことが大切です。

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

次に、12節から21節までをご覧ください。

「翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。」

イスラエルの民はその次の日も、町を一度回って宿営に帰り、六日間、同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望と期待に喜び勇んで行進していたかもしれません。しかし、それが二日、三日とむだに見えるような行進が続く中で、次第に疲れていったのではないでしょうか。しかし、彼らが疲労困憊し、夢や希望が潰えてしまったような時に、神は勝利の合図を送られました。角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちました。これが神の時なのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御声を発せられるのです。

モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されたのです。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

「聖絶」するとはどういうことでしょうか。「聖絶する」という言葉はヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)で、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということなのです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いだったのです。

それは神の民であるクリスチャンにも求められていることです。パウロは、コリント人への第二の手紙6章17、18節で、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」と言っています。神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。私たちはこの世に生きているので、この世と関わりを持たないで生きていくことはできません。ここでパウロが言っているのは、この世に生きていながらもこの世から分離して、神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗性と戦う必要性があるのです。世俗性とは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来ては神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

最後に、22節から終わりまでをみたいと思います。

「ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家に共にいた者たちは、助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することができたのです(マタイ1:5)。

こうして、旧約においても、神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの世代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

私たちも遊女ラハブのように救われるべき素性や行ないなどないような者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。

Ⅰペテロ2章1~3節 「乳飲み子のように」

きょうは、ペテロ第一の手紙2章1節3節までのみことばから、「乳飲み子のように」というタイトルでお話しします。

 

乳飲み子は不思議なもので、誰からも教えられていなくても必死になってお母さんのおっぱいを求めます。特にお腹が空いている時などは大泣きをしながら訴えます。そして、おっぱいを口にあててもらうと、一心不乱に飲み始めるのです。その吸う力には驚かされます。ひとたび口にくわえたら、どんなことがあっても離しません。娘がまだ乳飲み子だったころ、それがどのくらい強いかをみようとそのほっぺに人差し指を当てて引き離してみたことがありますが、それは相当の力でした。ちょっとやそっとでは口から離すことはありませんでした。ここには、そんな乳飲み子のように、霊の乳飲み子である私たちも、神のことばである聖書を一生懸命に慕い求めるようにと教えられています。

 

Ⅰ.捨てるべきもの(1)

 

まず1節をご覧ください。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

ここには、「ですから」という言葉で始まっています。それは、前の箇所とのつながりで語られているということです。前回のところでペテロはどんなことを語ってきたのでしょうか。22節には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。そして、そのようなたましいの救いはどのようにしてもたらされたのですか。23節にはこうありましたね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わるこのない、神のことばによるのです。」この世の種はみな朽ち果ててしまいますが、私たちが新しく生まれたのは朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない神のことばによるのです。「ですから・・」です。

 

この事実に基づいてペテロは、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と言っているのです。ここには神の言葉によって新しく生まれた者はどうあるべきなのかの前に、そのような者が捨てるべきものは何かを述べています。それは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。この「捨てて」と訳された言葉は、「脱ぎ捨てて」という意味の言葉です。真理のことば、神のことばによって新しく生まれた者は、泥まみれの汚い衣服を脱ぐように、ふさわしくない古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

それはまず「すべての悪意」です。ペテロはここで、すべての悪意を捨てるようにと言っています。悪意とは何でしょうか。悪意とは、他人に害を加えようとする悪い心のことです。そのことが恨みやねたみ、敵意や不平不満など、あらゆる悪へと広がっていきます。イエス様はマルコの福音書7章20節で、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)内側にあるものが外側に表れます。その内側にある悪の根こそ悪意であり、そこからすべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口といったものが出てくるのです。

 

このような悪意があるとどうなるでしょうか。当然、互いに愛し合うことができなくなってしまいます。ですから、悪意というのは教会の交わりを損なわせる原因となのです。ですから、ペテロはここで互いに愛し合うためにはまず、すべての悪意を捨てなければならないと勧めているのです。

 

真理のことばによって新しく生まれたクリスチャンが捨てなければならない二番目のものは、「すべてのごまかし」です。ごまかしと訳された言葉は、釣り針にえさをつけるという言葉から来ています。釣り人はどうやって魚を釣るのでしょうか。釣り針にえさをつけて、「これはおいしいですよ。どうぞパクリと食べてください」とだまして釣ります。そのように他人をだますこと、それがごまかしです。最初の人アダムとエバが罪に陥ったのも、悪魔の巧妙なごまかしによりました。「神さまは、ほんとうに食べてはならないと言われたのですか。」と疑いを起こさせると、「あなたが食べても死にませんよ」と神のことばを否定し、「あなたが食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言ってだましたのです。そのようにもっともらしく見せかけて人をだますこと、それがごまかしです。こうしたごまかしは自分の信用を失うばかりか、人との信頼関係をも壊します。ですから、このようなごまかしを捨てなければなりません。

 

次に、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは役者を演じることです。役者は自分でない自分を演じます。本当の自分を隠して他人を演じるのです。よくテレビのドラマなどを見ていると、よくできるなぁと感心させられます。最近見たドラマに「小さな巨人」という番組がありましたが、その役者さんはものすごい迫力でしたね。ちょっとやりすぎじゃないかと思うくらいの演技力でした。役者は自分の心とはかけ離れた顔で、真の感情とは全く異なった言葉でその人になりきるのです。テレビのドラマは一つの作品なのでいいのですが、そうした偽善が私たちの日常生活で行われると相手に対して壁を作ってしまい、親しい交わりができなくしてしまいます。ですからここでは「いろいろな」とあるのです。そのいろいろな偽善を捨てなければなりません。

 

クリスチャンが捨てなければならないもう一つのものは、ねたみです。ねたみとは、相手が成功したり祝福されているのを見てうらやんだり、苦い思いを持つことです。ねたみはクリスチャンになってもなかなか抜けない性質の一つです。キリストの弟子たちですら、だれが一番偉いかと最後まで議論していたほどです。しかし、こうした性質は互いに愛し合うことを妨げ、良い人間関係を築き上げていくことを破壊してしまいます。

 

最後にクリスチャンが捨てるべきものとしてペテロが挙げているのは、すべての悪口です。悪口とはだれかのことを引き下げて話すこと、その人を非難中傷することです。そういう人はたいてい人と話すとき、「あの人はすごいよね」という会話になったとき、「まあ、確かにそうだけど、でもね、本当はね、こうなんだよ、ああなんだよ」と、その人をどうにか引き下げようとする思いが働きます。それは、大抵の場合、心の中のねたみが原因となっています。こうした悪口やうわさ話はだれもがあとになって悔やみ、悪いということを認めているものの、同時にほとんどすべての人が楽しむものでもあるのです。しかし、まず陰口や悪口ほど問題を引き起こし、相手の心を痛めさせ、兄弟愛やクリスチャンの一致を破壊するものはありません。それゆえに、ペテロはここで悪口を捨て去るようにと勧めているのです。

 

そしてこれらの言葉に「すべて」とか「いろいろな」いう言葉が付けられていることに着目してください。つまり、どんな種類のものでもいけないということです。生ける、いつまでも変わることのない神のことばによって新しく生まれたクリスチャンはまず、こうした古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

Ⅱ.みことばの乳を慕い求めなさい(2)

 

では、霊的に新しく生まれたクリスチャンが積極的に求めていかなければならないものは何でしょうか。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

ここから教えられることは、私たちはまだ最終的な救いに達していないということです。確かに神の恵みにより、イエス・キリストを信じたことでたましいの救いをいただくことができましたが、それは救いが完成したということではなく、私たちの中に救いが始められ、その救いの中に置かれているということなのです。ですから、パウロはピリピ人への手紙の中で、「自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧めているのです。私たちは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を信じたことで完全に救われました。しかし、一方では、その救いというのは私たちの一生をかけて完成されていくものでもあるのです。神が真理のみことばによって始めてくださった救いの業を、私たちが聖霊の恵みに信頼することによって達成していくという面があるのです。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます。神は私たちに働いて救われたいという思いを与え、その救いの種を植え付けてくださいました。しかし、それはまだほんの始まりにすぎません。その救いの芽を大きく育てていかなければならないのです。いったいどうしたら成長していくことができるのでしょうか。

 

ペテロはここで、そのためには「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」と言っています。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

なぜなら、それは何の混じりけのない「純粋な」神のことばだからです。私たちが日ごろ食べている食物にはいろいろな添加物が混じり込んでいて、何が本物なのかわかりにくくなっています。そのため混ぜ物をした方がおいしく感じてしまうことがあります。今はそういう時代です。純粋なみことばに、いろいろな物を混ぜた方がおいしいと感じてしまうのです。いつの時代でも、福音宣教においては、こうした人の口に合うように何らかの混ぜ物をしようとする試みがなされてきました。しかし、神のことばは純粋で、ピュアなものです。この純粋なみことばの乳によってこそ、私たちの信仰は養われていくのです。

 

私たちの教会では聖書通読を重んじています。毎週の礼拝と個人の礼拝、デボーションを大切にしていきたいと願っています。それは、この神のみことばが私たちを救い、成長させてくれると信じているからです。毎日、少しずつでもこのみことばの乳を飲んでください。そうすれば、この純粋なみことばの乳によって私たちの考え方や、生活が変えられていくのです。このみことばの乳を慕い求め、毎日飲む習慣を身に着けていただきたいものです。ではどのようにこれを求めたらいいのでしょうか。

 

ここには、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。皆さんも、生まれたばかりの乳飲み子がお母さんのおっぱいを吸うのを見たことがありますか。それは必死というか、ものすごい勢いで飲みます。まだ目が見えない時から、お母さんのおっぱいを探し当て、すごい勢いで飲むのです。まだ他のことは何もできないのに、あの小さな体のどこに、そんな力があるのかと不思議に思うほどです。まるでそのことに生死がかかっているかのようです。周りで見ている者にとっては、そんなにあわてなくても大丈夫よ、と声をかけてあげたくなるほどです。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返します。おっぱいを飲んでやっと寝たかと思うと、またすぐにおっぱいが欲しいと泣き叫びます。すると、またしても変わらぬ勢いでゴクゴクと飲み始めるのですから驚いてしまいます。それは元気な証拠ですから、親にとっては嬉しいことですが、そのあまりの頻繁さに、夜中に何度も起こされて「もう勘弁してよ!まだ飲むの?」と思ったことがある母親も多いのではないでしょうか。

 

このたとえによってペテロはどんなことを言いたかったのでしょうか。それはこの乳飲み子のように、生まれたばかりのクリスチャンもみことばの乳を慕い求めるようにということです。乳飲み子は母乳が与えるのをじっと待ってはいません。母親がそれを口に流し込んでくれたら飲みますよ、という態度ではなく、ミルクが欲しいという思いを体全体で表し、かつありったけの声を出して、必死に求めます。そしてそれが与えられると一生懸命に、ただそのことだけに集中して飲み続けるのです。私たちのみことばに対する態度はどうでしょうか。赤ちゃんがこのようにお乳を飲まなかったら、それはその体のどこかがおかしいということです。どのようにお乳を飲むかによって、健康なのか、あるいは不健康なのかがわかるのです。であれば、私たちのみことばに対する姿勢によって、私たちの霊的健康の度合いも知ることができます。私たちは、純粋な、みことばの乳によって、与えられたいのちが養われ、それを成長させ、救いのゴールに向かって力強く前進して行くことができるのです。

 

詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。鹿が谷川の流れを慕い喘ぐという表現はどこかのどかで、美しい情景が思い浮かべますが、実際はそのようなイメージとはほど遠く、飲み水を求めて谷川の水を激しく慕い求める鹿の姿が描かれているのです。パレスチナには雨季と乾季があって、乾季にはまったくと言ってよいほど雨が降らないため、多くの川は干上がってしまいます。そのような中で鹿にとっての唯一の水源は、谷川を流れる水溜りのような水だったのです。その水を求めて鹿は、もはや川とは呼べないような谷川の水を、激しくむさぼり飲んだのです。

 

生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求める姿と、鹿が谷川の流れを慕い求める姿に共通していることはどんことでしょうか。どちらも必死であるということです。そのようにクリスチャンも、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会へ出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう?聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、彼女は40キロも離れたバラの町まで歩いて行くことを決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちにやると約束したものなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ牧師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴えました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

 

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めましょう。

 

Ⅲ.主のいつくしみを味わっている(3)

 

第三のことは、なぜそのようにみことばを慕い求めるのか、その理由です。3節をご覧ください。ペテロはその理由をこのように言っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

 

どういうことでしょうか。ペテロはここで、「あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知っているのだから、このようにすべきである。」と言っているのです。このようにというのは、みことばの乳を慕い求めることです。私たちがみことばを求めるのはどうしてなのかというと、みことばによって、主の恵み深い方であることを、すでに味わい知っているからなのです。

 

私たちはみことばによって何を味わったのでしょうか。私たちが味わったのはまず救いの恵みです。パウロが言っているように、私たちの救いは、自分の力ではどうすることもできませんでした。変わりたいけれど変われない、止めたいけど止められない、したいけどできない、ほんとうにみじめな人間でした。しかし、自分にはできないことを神はしてくださいました。神はキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架で死んでくださることによって、この罪を処罰してくださいました。ですから、私たちはこのキリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されたのです。私たちはこの救いの恵みを味わいました。罪が赦されるというほど大きな喜びはありません。私たちは、この罪の赦し、永遠のいのち、救いの喜びを味わったのです。

 

しかし、私たちが味わったのは救いの喜びだけではありません。私たちが日々この地上で生きていく上でも、多くの恵みを受けています。神の恵みは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。

哀歌3章22~23節には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。

イスラエルが荒野を旅した時も、神は天からのパンをもって日々彼らを養ってくださいました。何日も前のパンではなく、その日、その日に必要なだけのフレッシュなパンです。それは朝毎に新しい恵みなのです。同じように、神は天からのマナをもって、私たちの糧を与えてくださいました。私たちには霊的な必要や物質的な必要ばかりでなく、肉体的や精神的なものも含めいろいろな必要がありますが、神はそうしたすべての必要も満たしてくださいました。祈りがかなえられるということもそうです。これまで何度も自分の力ではどうすることもできないということがありましが、不思議に神が助けてくださり、その道を開いてくださいました。治るはずじゃない病気が治ったり、受かるはずじゃなかった大学に受かったり、通るはずじゃなかった試験に通ったりといったことがたくさんありました。それはたまたまそうなったのではなく、そこに神が働いてそのようにしてくださったのです。すべては神の恵みなんです。私たちはそうした神の恵みを味わったのです。危険から守られるのもそうです。皆さんもこれまで何度かヒヤッとした経験をされたことがあるのではないでしょうか。あと1秒遅かったら、もしあの電車に乗っていたら、ということがありました。しかし、神はそうした危険からも守ってくださいました。いろいろな祝福もありました。入学や就職、結婚や出産、家族が守られたこと、住まい、健康など、私たちは当たり前だと思っていますが、実はそうではなく、これらすべて神の恵み、神の祝福なのです。私たちが受けるに値するから受けたのではなく、神の恵みによって与えられたのです。私たちはすでに、その主の恵みを味わっているのです。主がそれほどいつくしみ深い方であることを味わっているのですから、私たちは悪いものを捨て、私たちにとって良いもの、私たちのたましいを救い、成長させてくれるもの、神のみことばを慕い求めなければならないのです。

 

詩篇34篇8節には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。主のすばらしさを味わい、これを見つめる人はなぜ幸いなのでしょうか。なぜなら、その人は主に身を避けるようになるからです。

 

あなたはこの恵みを味わっているのです。そして、その恵みは尽きることがありません。ですから、さらにこの恵みを味わいましょう。それは純粋な、みことばの乳によってもたらされます。生まれたばかりの乳飲み子のように、このみことばの乳を慕い求めようではありませんか。それによってあなたは成長し、救いを得ることができるのです。

Ⅰペテロ1章22~25節 「互いに熱く愛し合う」

きょうは、互いに熱く愛し合うというテーマでお話します。たましいの救いのすばらしさ、偉大さについて語ってきたペテロは、13節のところから、そのようなすばらしい救いをいただいた者はどのように歩まなければならないのかについて三つのことを勧めました。第一に、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさいということ、第二に、15節にあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさいということ、そして第三に、17節にあるように、この地上にとどまっているしばらくの間の時を、神を恐れかしこんで過ごしなさいというのです。では、そのためにはどうすればいいのでしょうか。

そのためには前回お話ししたように、そのためにどれほど尊い代価が支払われたのか、どれほど神に愛されているのかを知らなければなりません。それを知れば知るほど、神の恵みの大きさ、すばらしさがわかり、心から神を恐れて生きることができるようになるからです。

それでは、他の人に対してはどうあるべきでしょうか。ペテロはここであらゆる行いに対して聖なるものとされなさいと命じた後で、人との関わりにおいてどうあるべきなのかを教えています。それは、互いに心から熱く愛し合うということです。

Ⅰ.互いに熱く愛し合いなさい(22)

まず22節をご覧ください。

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」

互いに愛し合うことは聖書の中心的な教えであって、イエス様ご自身も命じておられることです。たとえば、ヨハネの福音書13章34節には、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」とあります。これはイエス様の命令であり、新しい戒めです。それは、イエス様が私たちを愛したように、私たちも互いに愛し合わなければならないということでした。

また、マタイの福音書22章37~40節には、「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という律法の専門家の質問に対して、イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが題意の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:37~40)と答えられました。つまり、神を愛し、隣人を愛することが、聖書の中のたいせつな戒めであり、聖書全体が命じている中心的なことであると言われたのです。

しかし、ここには単に兄弟を愛しなさいというのではなく、互いに心から熱く愛し合いなさい、と言われています。どういうことなのでしょうか。「心から」と訳された言葉は、下の欄外の説明にもあるように、「きよい心から」という意味の言葉です。おそらくその前にある「偽りのない兄弟愛」という言葉と対照しての「きよい心からの兄弟愛」ということなのでしょう。偽りのない兄弟愛とは、偽善的でないとか、見せかけでない、うわべのものでない、真実の愛という意味です。

使徒ヨハネは、この愛についてこう言っています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(Ⅰヨハネ3:18)それは、ことばや口先だけではない、行いと真実をもった愛です。ヤコブは、国外に散っていたクリスチャンに宛てて、次のように書き送りました。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです。」(ヤコブ2:15-17)

この行いと真実をもった愛について教えてくれる実際にあった一つの話を紹介したいと思います。それは、ジョー&メイ・レムケというご夫妻に起こった驚くべき愛の物語です。

1952年、奥さんのメイはレスリーという六ヶ月の男の赤ん坊の世話を頼まれました。このときメイは52歳で、体力的には少し衰えを感じていが、レスリーは生まれつき脳に異常があり、言語障害と記憶障害を抱えており、その上早産のため網膜に問題があり、生後1ヶ月で眼球を摘出したことで、産みの母親は彼を育てることを放棄したため、「障害を持ったこの子を、助けたい」と引き取ることにしました。 メイはレスリーをわが子のように深い愛情で育てました。医者たちは、この赤坊は長くは生きられないと診断しましたが、メイは「この子を絶対に死なせない」と決心し、レスリーに大きな愛を注いだのです。そして、彼を普通の赤ん坊のように育て始めました。彼の頬の近くで大きな吸引音を出して、哺乳瓶から普通にミルクを飲めるように教えました。すぐに彼女はこの子の世話をするために仕事を止めました。彼女の友人たちは「あなたは自分の人生を無駄にしようとしている」と忠告してくれましたが、彼女はレスリーを育てることを止めませんでした。 生後、なんらかの成長がみられるまで、7年もの歳月がかかりました。その間、レスリーは言葉や動作、感情もありませんでした。事態は絶望的に見えました。しかし、メイは確信していました。「子どもは優しさと愛情があれば必ず治る。ずっと愛していく覚悟があれば大丈夫。私が信じている神様が、必ず助けて下さる。」 すると、12歳になってようやく立ち始め、15歳で歩くことができるようになりました。メイはレスリーのために祈り続けました。「愛する主よ、聖書には、神はすべての人間に才能を与えられた、と書かれています。どうか、この何もできなくて、ほとんど毎日横たわっているだけのこの男の子をあわれんでくださり、この子に与えられている才能を見出すことができますように助け下さい。」 メイはレスリーが、音楽に少し反応しているのを見逃しませんでした。そこで彼女は、夫のジョーと相談し、ピアノを購入し、ラジオやレコードを使ってあらゆる種類の音楽を聴かせました。レスリーは大きな関心を示している様子で何時間も音楽を聴いていました。

奇跡は、レスリーが16歳になったある日の朝早く起こりました。メイとジョーは突然鳴ったピアノの音で起こされました。すると、レスリーがピアノの前に座って、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を弾いていたのです。驚くことに、レスリーはそれまでにピアノのレッスンを受けたことはありませんでした。レスリーは突然才能を開花させたのです。それから彼は、クラシックやポップス、ジャズなど、非常に多くの曲を覚え、弾き語りも出来るようになりました。科学者たちは、どうしてそのような事が起こるのかは説明できないと言います。しかしメイは言います。「私には説明できます。これは神の与えた愛の奇跡です。心からの真実の愛に触れる時、人には不可能の扉を開き、才能を開花させることが出来るのです。」と。彼女の行いと真実をもった愛に、神が応えてくださったのです。

また、ここには「心から愛し合いなさい」というだけでなく、「熱く愛し合いなさい」、ともあります。熱く愛するとはどういうことでしょうか。ペテロの手紙を見るかぎり、随所にこのような表現があることがわかります。たとえば、13節には、「ひたすら待ち望みなさい」とありますし、また15節にも、「あらゆる行いにおいて」とあります。ある特定の行いにおいてというだけではなく、「あらゆる行いにおいて」です。そして、ここには「熱く」とあります。ただ愛し合うのではなく、熱く愛し合うようにというのです。これはどういう意味なのでしょうか。

「熱く」と訳された言葉は、本来「手足を伸ばす」という意味を持っています。よく「ストレッチ」という言葉を聞きますが、ストレッチとは、体のある筋肉を良好な状態にするために、その筋肉を引っ張って伸ばすことです。その張って伸ばすことから熱心という意味を持つようになりました。私たちの主イエスは、ゲッセマネの園で祈られたとき、「いよいよ切に祈られました」(ルカ22:44)。とあります。また、牢に入れられていたペテロのために、教会は神に熱心に祈り続けていました。(使徒12:5)そのように切に、熱心に、深く、全力で、愛さなければなりません。それは、神が求めておられる度合いがそれほど高いものであることを表わしています。その求めに応じて生きる者は、兄弟愛においても徹底して愛することが求められているのです。

Ⅱ.偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから(22)

いったいどうしたらそんなことができるのでしょうか。無理です。自分を愛してくれる人、自分によくしてくれる人ならともかく、そうでない人を愛するなんてとてもできません。それなのに、どうやって心から愛し合うことができるでしょう。もう一度22節を見てください。ここには、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」とあります。これが鍵です。どういうことでしょうか。

それは、私たちの生まれながらの力ではできないということです。生まれながの人間にあるのは、「目には目を、歯には歯を」です。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」です。しかし、真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになると、愛する力が与えられるのです。たとえ相手が自分の嫌なタイプや性格の人であっても、たとえ相手が自分にひどいことをするような人であっても愛することができるのです。なぜ?私たちは新しく生まれ変わったからです。真理のことばに従うことによってたましいが清められ、神の子としての性質をいただきました。偽りのない兄弟愛を抱くようになりました。ですから、愛することができるのです。

ヨハネ第一の手紙5章1節を見てください。そのことをヨハネはこう言っています。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」

イエスをキリストと信じる者はだれでも、神によって生まれた者です。そして、神によって新しく生まれたのであれば、生んでくださった神を愛します。そして、神を愛する者は、神が生んでくださった信仰の仲間である兄弟姉妹をも愛するようになるのです。これが神によって生まれた者の特徴なのです。

ですから、ペテロはここで「互いに熱く愛し合いなさい」と命じているのです。神は、私たちができないことは命じられません。できるからこそこのように命じているのです。どうしたらできるんですか。真理に従うことによって、たましいが清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから・・。

使徒ヨハネはこう言っています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:7-11)

この「愛」は、アガペーの愛です。アガペーの愛は与える愛であり、犠牲的な愛、無条件の愛です。それは、自分の感情や気分によって左右されるような愛ではありません。それは、神がそのひとり子をこの世に遣わし、この方を私たちの罪のために、十字架につけてくださることによって示してくださった愛です。こんなにいい加減で、どうしようもない私のために、キリストが十字架で死んでくださったのです。ここに神の愛が示されました。私たちが愛したからではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があるのです。神がこれほどまでに愛してくださったのなら、その神を信じて新しく生まれた私たちも互いに愛し合うべきです。自分が好きだとか嫌いだという感情は全く関係ありません。なぜなら、この愛は感情の愛ではなく、意志を持った愛だからです。好きでも、嫌いでも、愛することができます。それは愛するという意志の問題だからです。ペテロはここで、私たちの意志に訴えているのです。あなたの感情や気分がどうであれ、あなたが真理のことばに従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのなら、あなたは愛することを選び取って、それを実行することができるのです。

この手紙を書いたヨハネは兄弟ヤコブとともに「ボアネルゲ」という異名を持った人です。「ボアネルゲ」とは「雷の子」という意味です。彼の性格は雷のようでした。マルコの福音書9章38節を見ると、彼について、もう少し具体的に知ることができます。彼はイエス様の弟子であるという自負心が大変強い人でした。彼は弟子ではない人が、イエス様の名前で悪霊を追い出しているのを見ると、それをやめさせました。「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している人を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』」

すると、イエス様はこのようにおっしゃいました。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」(マルコ9:39-40)

ものすごい余裕を感じます。広い心で人をご覧になっていたイエス様とは対照的に、ヨハネの心は狭く、自分と同じ意見の人でなければ受け入れることができませんでした。自分だけが正しいのではないということを認め、他の人の主張も受け入れる心が、ヨハネには必要でした。

しかし、イエス様に出会った後、彼は変えられました。彼は多くの人を受け入れる「愛の人」となりました。イエス様に出会うなら、みんな変わります。その愛の広さ、深さ、大きさにふれるなら、私たちも愛の人に変えられるのです。

ある自由主義神学者が、ヨハネの福音書を書いたヨハネとヨハネの手紙を書いたヨハネは同じ人物ではない、と言いました。同じ人物であるはずがないというのです。文体や態度があまりにも違うからです。

しかし、同じ人物なのです。確かに、文体や態度は全く違うかもしれません。けれども一つ、その人たちが見逃していることがあります。それは、ヨハネがイエス・キリストによって全く変えられたという事実です。若いころのヨハネと、成熟した後のヨハネが同じ人物であるはずがありません。イエス様は人の心を、それほど変えられるお方なのです。私たちはこの点を忘れてはなりません。愛を受けた人だけが、人を愛することができるようになります。確かに、私たちもかつてはヨハネのようにいつもゴロゴロしているような者でしたが、イエス様に出会い、イエス様の愛にふれて、新しく生まれました。偽りのない兄弟愛を抱くようになったのです。ですから、互いに心から愛し合うことができるのです。私たちの中に神の愛が入ってくるなら、人を愛することができるようになるのです。

Ⅲ.神のことばに根差して(23-25)

最後に、23節から25節までをご覧ください。ペテロは、私たちが互いに愛し合うことができるのは、私たちが真理に従うことによって、たましいを清められ、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのであるからと述べました。では、いったいどのようにして新しく生まれたのでしょうか。23節には、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。

私たちはどのようにして新しく生まれたのでしょうか。私たちが新しく生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

ヨハネ福音書3章には、ニコデモという人がイエス様のもとを訪ねたことが記されています。このニコデモにイエスは、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできないと言われました。ところがニコデモには新しく生まれるということがどういうことなのか理解できませんでした。そこで、もう一度、お母さんのお腹の中に戻るなんて出来ないと答えました。するとイエス様は、このようにおつしゃいました。

「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

それは、朽ちる種というおおよそ人間的なものに由来するのではなく、神のことばという朽ちない種によってもたらされるものであるという意味です。肉によって生まれた者は肉でしかありません。しかし、御霊によって生まれた者は霊なのです。人が新しく生まれるためには神のみことばを聞き、それを信じて、心に受け入れなければなりません。その時、神の御霊、聖霊が働いて、新しく生まれさせてくださるのです。

きょうは、万希子さんがバプテスマを受けられました。バプテスマは、罪に対して死しんでいた私たちが、キリストとともに新しい人として生きることを表わしていますが、罪に対して死んでいた者が、どうやって自分を救うことができるのでしょうか。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者ですから、自分で自分を救うことなどできません。しかし、神は、彼女が通っている大学にクリスチャンの先生を備えていてくださり、その方との出会いを通して神のみことばを与え、イエス・キリストの十字架の救いを信じるように導いてくださいました。その神のみことばを通して、彼女は新しく生まれたのです。

私はもう何年も牧師をしていますが、最もよく受ける質問はこうです。「どうして私は変わることができないのでしょうか。変わりたい、本当に変わりたいと思っています。でも、どうしたら変われるのか分からない。私には変わる力がないのです。」

そうです、私たちには変わる力がないのです。私たちはいろいろなセミナーやインターネットで、自分を変えてくれるような情報を得、それを試したりしますが、二週間もしないうち最初の決意はどこかへ消えてしまい、すべてが元の木阿弥となってしまいます。以前と全然変わらないのです。自己啓発の本も読んでみますが、問題は、それは何をすべきかを教えてくれても、それを実行する力を与えてくれないということです。いったいどこにその力があるのでしょうか。

ここに、その力があります。それは、いつまでも変わることのない神のことばです。ヘブル人への手紙4章12節には、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)とあります。この神のことばは、「生ける」とあるように、生きていることばなのです。生きているということは、そこに“いのち”があることを意味しています。“いのち”があるということは、人を生かす力があるということです。罪によって死んでいた人をよみがえらせ、新しいいのちを与える力を持っているということです。この力こそ、私たちを新しく生まれさせ、私たちの人生を変える力にほかなりません。

1787年イギリス政府が南洋諸島の一つである、タヒチにパンの木の栽培のために100人ほどの人を送ったことがあります。その船の名前は「バウンティ号」でした。その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようで、彼らの心は高鳴りました。特に住民の女性たちはとても魅力的でした。すると彼らはしだいに堕落し始め、本国からの使命を忘れ、口やかましい船長に反抗し、反乱を起こしました。彼らは船長を縛り小舟に乗せ、海の中で死ぬように追い出したのでした。その後彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、ピトアケンという島に移り、住民の女性たちをもて遊ぶようになりました。そうなると、彼らの間にケンカが絶えなくなってしまいました。特に仲間の一人が熱帯植物のズースでお酒を作って飲むようになってからは、そのケンカはひどくなり、殺し合いが始まるようになりました。そして最後にたった一人だけが残りました。名前はジョン・アダムズと言います。その島には西洋人はいなくなりましたが、彼との間に生まれた混血の子どもたちが生まれ育ちました。

それから30年が過ぎ、近くを通りかかったアメリカの船がその島を発見し上陸してみると、そこに驚くべき光景を見ました。何とそこには礼拝堂が建てられ、ジョン・アダムズという老人が牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父のような存在でもありました。彼は、その島に何が起こったのかをこう説明してくれました。仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いをして死んでしまったある日、一人生き残ったジョンは、難破したバウンティ号に戻ってみると、そこで一冊の聖書を見つけたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていきました。聖書を読んでいると、彼の目にいつしか涙があふれ、止まらなくなってしまいました。そして、彼は悔い改めたのです。彼は新しく生まれ変わりました。神の人とされたのです。その後聖霊の導きによって、子どもたちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えました。するとその島は、まことのパラダイスになったのです。

神のことばは生きていて、力があります。それは、両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。この神のみことばを信じるなら、私たちは新しく生まれるだけでなく、神の人に、愛の人へと変えられていくのです。なぜなら、それは朽ちる種ではなく、朽ちない種からであり、いつまでも変わらない、神のことばであるからです。

ペテロはこの真理をイザヤ書のことばを引用してこう言っています。24節、25節です。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

「変わることがない」と訳されている言葉は、「保つ」とか「残る」という意味の言葉です。人はみな草のようにしおれ、花のようにすぐに散っていきますが、神のことばは、とこしえに変わることがありません。ずっと残るのです。永遠に生き続けるのです。これこそ、真に信頼できるものではないでしょうか。私たちに宣べ伝えられている福音のことばがこれです。

私たちは人間の知恵やこの世の栄光、力を見ると、あたかもそれが大木のように見え、そこに根を張って生きることが安全であるかのように思いがちですが、それは草であり、花にすぎません。朝にはきれいに咲かせても、夕べには枯れて散っていくはかないものにすぎないのです。私たちが信頼すべきものはそのようなものではありません。私たちが信頼すべきものは、朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない、神のことばなのです。この神のことばがあなたを新しく生まれさせ、あなたの人生を変えてくださいます。あなたも、神のみこころに従って、互いに心から熱く愛し合うことができるのです。