Ⅰペテロ2章11~12節 「異邦人の中でりっぱにふるまう」

 きょうは、「異邦人の中でりっぱにふるまう」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はペテロから迫害によってポント、ガラテヤ、カパドニヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。ペテロは迫害で散らされた先々で肩身の狭いような生活を余儀なくされていた彼らを励ますためにこの手紙を書きました。どのようにして励ましたのかというと、彼らにもたらされた恵みがどれほど栄光に富んだものであるかを思い起こさせることによってです。そこでペテロは前の箇所で、彼らは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民であると言いました。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。その事実に基づいてそのような身分を受けた彼らが、その置かれた状況の中でどのように生きるべきかを、具体的に勧めるのです。それは、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまう」ということです。たとえクリスチャンが少ない異邦人ばかりの社会の中にあっても、立派に生活するようにと勧めるのです。りっぱにふるまうとはどういうことでしょうか。なぜそのように生きることが必要なのでしょうか。

Ⅰ.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(11)

まず11節をご覧ください。ペテロはここで、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」と言っています。

ペテロはまず異教社会に住むクリスチャンが、その中でりっぱにふるまうために、消極的な面から勧めています。それは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけるということです。

肉の欲を遠ざけるとは、禁欲主義でありなさい、ということではありません。私たちが生来持っている食欲や睡眠欲といった基本的な欲求をはじめ、楽をしたいとか、快楽を味わいたい、認められたいといった欲を禁じているわけではないのです。そうではなく、そうした欲に支配されることがないようにということなのです。この世にどっぷりと浸かり、欲に支配されると、それがたましいに戦いを挑むことがあるからです。

創世記にロトという人物が出てきます。ロトはアブラハムのおいで、アブラハムと共に、故郷を出て神様の示す地へ行きました。ところが、このアブラハムの家族とロトの家族との間に争いが起こります。彼らが持っていた持ち物が多すぎたので、いっしょに住むことができなかったのです。そこで、アブラハムがロトに言いました。
「どうか私とあなたとの間に、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるのだから、私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8-9)
そこで、ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見回すと、そこは主の園のように潤っていたので、ロトはその地を選び取って、そこに天幕を張ることにしました。しかし、そこはソドムとゴモラという悪に満ちた町のそばにあって、とても危険に満ちたところでした。けれどもロトはそんなことはおかまいなしに、さっさと移動して行きました。

その後、ロトとその家族について、聖書にはしばらく何も語られていません。次にロトについて記されてあるのは創世記19章ですが、そこには、なんとロトの家族がソドムの町のど真ん中に住んでいるのです。二人の娘は、ソドムの男性と結婚していました。それはまさに、神様がソドムの町を滅ぼされる直前のことでした。最初はソドムとゴモラの近くに住んでも大丈夫だろうと思っているうちに、いつの間にか、その真ん中に住んでいるということがあるのです。

20世紀のイギリスに、キリスト教を世俗から守った第一人者にC・S・ルイスという人がいます。彼は映画「ナルニア国物語」の著者でもありますので、キリスト教を知らない人でも、彼の名前は知っていると思います。C・S・ルイスは、オックスフォード大学で中世の文学を教えていましたが、徹底した無神論者でした。その彼がキリスト教に回心して、キリスト教を現在の様々な出来事から守る第一人者となりました。ものすごく多くの本を書いていますが、その中に、「悪魔からの手紙」というのがあります。「悪魔からの手紙」というのは、悪魔の親分が悪魔の子分に、どのように仕事をしたら良いかをいろいろ指導している内容が記されてあります。その一節を、そのまま読んでみたいと思います。
 「どだい物質主義が真理かどうかなどと人間に考えさせてはいけない。ただ、「物質主義は、力強くて、ハッキリしていて、これからの世を背負う生き方」とでも考えさせておきなさい。
覚えておくがよい、人間とは我々みたいに完全に霊的な存在ではないのだ。人間は眠くもなり、腹も空く。人間は洋服も着、様々なアクセサリーを身に付ける。おそらくおまえには想像もつかないだろうが、奴らはいつも日常の出来事に奴隷のように振り回されている。それが人間だぞ。それを十分に利用しなさい。おまえの作戦はこうだ。人間がこの世の先の出来事だとか、人生の意義だとか、永遠者の存在だとか、そんなことを考え始めたとき、すぐさま、そいつの注意を、そんな目に見えないものから、物質的な現実的な、目の前にあるものへと移してしまうのだ。
 人間は、着るもの、食べもの、そうした手で掴めるものに弱い。そうだ、この世界を彼らに向けて「現実世界」と呼ばせようではないか。「現実世界」という響きは、いかにもしっかりとしている。どうせ彼らは、「現実とは何なのか」、そんなことを尋ねて来るわけがない。人間は現実世界に弱い。
 俺の管轄にあった一人の男の例を挙げておこう。そいつはロンドンの大英博物館でよく研究していた無神論者だった。ある日、そいつの考えが間違った方向へと進んで行くではないか。なんと、そいつは死、生命、神、そんなことを考え始めていた。覗いてみると、なんと敵の(キリストの)手先が彼のそばでささやいているのだ。俺の20年に亘る労苦が水の泡になるところだった。そのとき、もしも彼を理論で説得しようとしていたなら、俺の負けであった。しかし、俺様もそんな「愚か者」じゃない。すぐさま、彼の中のもっとも俺様が支配しているところを捉えて、そしてこう言ってやった。「そろそろ、ランチの時間だよ」
 勿論、敵もさることながら、すぐさま「この問題はランチよりも大事だ」とささやいたが、ここがベテランの俺様の腕のみせどころだ。すかさず「大事であることはごもっとも。事実、この問題は、ランチの前の疲れた頭で考えるには、大事すぎる」とそう付け加えておいた。
 そして、「こんな大事な問題、ランチの後でじっくりと考えた方がいいんじゃないか」と付け加える頃には、彼はもう出口の方に足を踏み出していた。
 一旦、外へ出たら、この戦いは俺様のもんだった。道行く人の雑然とした働きぶりをとっくりと見させ、73番のバスが彼のそばを通り抜け、5分としないうちに彼を確信に導くことができた。
 俺はこのとき学んだよ。たとえ人が一人になっても、本をめくって考え事をしていたとしても、そんなときにどんなおかしな考えが人間の頭をかすめようとも、町に転がっている「現実生活」というものの臭いをたっぷりとかがせてやれば、たちまち霊的考えの雲は吹き飛んでしまう。」

 こういう内容です。悪魔は私たちの弱みを見事につかんでいます。自分の霊的なきよさ、この世にあって旅人として遣わされていることの大切さ、自分が神の国の市民であること、自分がいただいた罪の赦し、神の子どもとされた喜び、そんなものは、現実生活というものによって一瞬にして吹き飛んでしまうのです。勉強したの?と言われれば、あ、勉強の方が大事だと思ってしまいますし、夏休みの宿題終わったの?と言えば、宿題の事で頭がいっぱいになるでしょう。テレビの宣伝じゃないですけれども、借金のことを考え始めたら全部借金になってしまいます。現実生活というのは、それだけ力があるのです。そうしたたましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければなりません。

それは、キリスト教が禁欲主義を推奨しているということではありません。あれはだめ、これもだめ、だぶんだめ、きっとだめ、と何でも禁じているわけではないのです。もっと積極的に、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするのです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
ただ神の栄光を現すためにしているはずのことが、いつの間にかそこからズレてその欲に支配されてしまい、そこにどっぷりと浸かってしまうこともあるので、注意が必要なのです。

たとえば、仕事はどうでしょうか。仕事は大切なものであり、私たちが生きていく上で必要不可欠なものです。しかし、良かれ思って始めた仕事が、やがてその仕事の虜になり、日曜日も礼拝に行けなくなり、だんだん教会から遠ざかって行くことがあるとしたら、それは「たましいに戦いをいどむ肉の欲」となるのです。

ここでは、その「肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。「遠ざけなさい」とは「遠ざけ続けなさい」という意味があります。クリスチャンは肉の欲に支配されるのではなく、肉の欲を遠ざけなければなりません。悪習慣や肉の欲といった内面的な戦いにおいては、これくらいなら大丈夫だという態度が多くの場合みじめな結果となってしまいます。一番確実な勝利の道はそれらのものを「避ける」ことだと、経験豊かなべテロは勧めているのです。

いったいなぜ肉の欲を遠ざけなければならないのでしょうか。ここには、「旅人であり寄留者であるあなたがたは」とあります。ペテロがここで「旅人であり寄留者であるあなたがたは」と語っていることには深い意味があります。人生は旅であり、この世は仮の住まいなのだ、という考え方は、一生涯をテントで生活したアブラハムの信仰からきています。

ヘブル人の手紙には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・・これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:8~10,13)とあります。

アブラハムは、約束された地に他国人のように住み、天幕生活をしました。なぜでしょうか。なぜなら、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。ですから、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎えていました。そして、この地上では旅人であり寄留者であることを告白し、そのように生活したのです。旅人や寄留者ですから、この地上のものに固執する必要がなかったのです。

それは私たちの模範でもあります。私たちはイエス・キリストを信じたことで天国の市民となりました。私たちの国籍は天にあるのです。この地上の住まいは仮の宿にすぎません。それなのにこれが終の棲家であるかのように、そこに執着して生きるとしたら、どんなに空しいことでしょうか。物欲に囚われない、名誉欲にも駆られない、世の煩いに縛られないという生き方こそ信仰者のあるべき姿です。もちろん、ペテロは、私たちに対して世捨て人のような、あるいは仙人のような生き方を勧めているわけではありません。しかし、自分たちが天国の市民であるという自覚は、肉欲を遠ざける大きな動機になるはずです。私たちはもう一度どのような者とされたのかを深く考え、神の所有とされた民として、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければならないのです。

Ⅱ.異邦人の中にあって、りっぱにふるまう(12)

次に12節の前半をご覧ください。ここには、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」とあります。

「異邦人の中にあって」という言葉は、ユダヤ人と対比した異邦人という意味ではなく、クリスチャンではない、という意味の「異邦人」のことです。いわゆる、神を知らない人々、不信者のことです。この頃のクリスチャンは圧倒的に少数派でしたので、社会生活においては、こうした人たちに取り囲まれて生きていました。ですから、生活の全てが異教的な習慣に従ってなされていたのです。商売もいわゆるごまかしが横行し、酒の付き合いも今の日本と変わらないくらい一般的でした。そんな中で、「聖い生活」を保つこと、貫くことはなかなか容易なことではありませんでした。

それは現代のこの国に生きる私たちも同じです。クリスチャン人口が全体の0.4%と圧倒的に少ない社会の中で生きることは、容易なことではありません。どこか隠れるようにして信仰を保とうとしたり、できるだけこの世との関わりを断ち、この世に触れないように生きようとすることがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、この世にどっぷりと浸かり、この世に流されながら生きた方がどんなに楽かと思うこともあるかもしれません。しかし、ペテロはそうした社会の中にあってそこから逃れるのではなく、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうのでもなく、その真っただ中にあってりっぱにふるまいなさいというのです。

この「りっぱに」と訳された言葉は「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」を意味しています。内的な美しさが外的にもあらわれる行為は、異教社会に住む者にとって必要なことであり、大切なことであったのです。そうすれば、彼らは、何かのことで彼らを悪人呼ばわりしていても、彼らのそのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

今年1月召された前ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書いてベストセラーになりました。三十代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学の学長に任ぜられ、心乱れることも多かった彼女に、一人の宣教師が短い英語の詩を手渡してくれました。その中には、「Bloom where God has planted you.」(神が植えたところで咲きなさい)と書かれてありました。「咲くということは、仕方がないとあきらめるのではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と続いたその詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、下へ下へと根を降ろすのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

この本を読んで思うことは、私たちの幸せは置かれた状況とは全く関係がないということです。どんな境遇でも、その置かれたところで花を咲かせることができるのです。ここでペテロは異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい、と言っていますが、確かに異邦人の中に置かれるということは楽なことではないかもしれません。誤解や偏見、無理解といったこともあるでしょう。肩身の狭いような思いをすることもあるかもしれない。しかし、そのような中にあってもりっぱにふるまうことができる。その場所で花を咲かせることができるのです。神様が私たちをそこへ置いてくださったと信じるなら、必ずそこでりっぱにふるまうことができるのです。

下村湖人(しもむらこじん)の名作に「次郎物語」があります。戦争中に、次郎と兄さんが、おじさんの徹太郎という、学校の先生をしているその家に疎開をするんです。ある日、3人が山に登って山の中腹で腰を下ろして、おにぎりを食べていますと、目の前に大きな岩が二つ、真ん中に松の木が、その岩の裂け目から根を張って生きているのを見ます。よく見ると、明らかに松の木が大きな岩を二つに割ったように生えているのです。
 おじさんの徹太郎は、その松の木を見て、いのちの力に感動してこう言うんですね。「強い。松の木は強い。でも強いのは松の木ばかりじゃないんだよ。いのちのあるものは、みんな強いんだよ」
そう言うと、徹太郎は次郎に向かって、「でもな」と話しを続けます。「でもな、卑怯ないのちは役に立たんぞ。卑怯ないのちというのは、自分の境遇を喜ぶことができない。」「たとえば、あの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂け目に落ち込んだとする。種には何の責任もない。種はそういう境遇に巡り合わされたとする。一日で岩を割ることはできない。でもそこにじっと我慢して、その境遇を嘆くのではなく、恨むのでもなく、そこで気持ちよく努力すれば、やがていのちの種は大きな岩を二つに割ることもできる。」
その話を聞いて、次郎はハッとさせられるんですね。それまで次郎は疎開先で「僕はなんでこんなところに住んでいるんだろう。この土地の人々、この土地の子どもたちとは馴染むことができない」といつも不平不満を言っていたからです。しかし、そうした境遇を嘆くのではなく、あるいは恨むのでもなく、そこに神様が置いてくださったのだと受け止めて、その置かれたところで精一杯努力したら、きっとあの松の木のように岩を二つに割ることもできるのです。神さまはそのようにして旅人であり、寄留者であるあなたを導いてくださるのです。

あなたの置かれているところはどんなところですか。あなたはそれをどのように受け止めておられますか。だれも自分の境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。異邦人の中にあって、りっぱにふるまうことができるのです。それはあなたが置かれたその所が、神によって運ばれた所だと、信仰によってしっかりと受け止めることから始まるのです。

Ⅲ.神をほめたたえるようになる(12b)

第三のことは、その結果です。異邦人の中にあって、りっぱにふるまった結果、どのようなことになるのでしょうか。12節の後半をご覧ください。ここには、「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とあります。

この手紙が書かれた当時、キリスト者を「悪人呼ばわり」する者がいました。 聖餐式のことを聞きかじって、キリスト者を「人の肉を食い、人の血を飲む者たちだ」と言ったり、教会は神の家族であり、信者は互いに兄弟姉妹だというと、「道徳的に乱れた人々」だと罵(ののし)る者たちがいたのです。このような中傷にもかかわらず、ペテロは「りっぱにふるまいなさい」と勧めるのです。それは今の時代でも同じです。キリスト教に対する無理解から、宗教はどの宗教も同じだと、宗教を持つことを極端に毛嫌いする世の中です。ただでさえ悪人呼ばわりされるのがクリスチャンですから、場の雰囲気に合わなければその場にいる人たちから煙たがられたり、みんなと調子を合わせないということで、仲間はずれされることもあるでしょう。しかし、クリスチャンのりっぱなふるまいを見ることによって、長い目で見ると、やっぱり信用できるのはクリスチャンだということがわかり、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

この「おとずれの日」というのは、キリストの再臨の時、世の終わりの裁きの日のことだと考えられます。しかし、この個所の場合は、「神に逆らっていた者が恵みの中に入れられる日」と理解するのがよいと思われます。それまで神に敵対していた人に神がおとずれてくださり、神を信じ、神をほめたたえるようになる、そういう日が来る、というのです。これは慰めであり、励ましではないでしょうか。今はわからなくとも、やがいおとずれの日に、そのような人たちも神を信じ、ハレルヤ!と言って神をほめたたえるようになるとしたら、それほど大きな喜びはありません。なぜなら、私たちはそのために召されているのですから。

この「見て」と訳された言葉ですが、これは、「じっと見つめる」という意味です。ちょっとした目には、変わったやつだ、と爪はじきにされるかもしれません。しかし、私たちの行いをじっと見つめる人は、その中に神の恵みと力を感じるようになるのです。
イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、その一人です。十字架に付けられたイエス様の姿を見て、「この方はまことに神の子であった」(マタイ27:54)と言いました。また、インドで牧師を監視するために担当させられた秘密警察官が長い「監視」の末に、この男の信じているイエス様は本物だと言ってバプテスマを受けた話を聞いたことがあります。彼らはたとえ今クリスチャンを悪者呼ばわりしていても、おとずれの日に、クリスチャンのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

ですから、皆さん、今の現実だけを見て落ち込んでいてはなりません。やがてその日が来ることを覚え、この現実の世界の問題で頭をいっぱいにするのではなく、現実の世界から離れて、週に一度神の前に出て、神の前にひれ伏し、伏し拝みながら、自分がどのような者であり、自分が今どこにいるのかを確認しながら、やがておとずれの日にもたらされるすばらしい栄光を仰ぎ見ながら、人生の最終目標である天国を目指して進んでいかなければならないのです。

確かにこの道は楽な道ではないかもしれません。険しい坂道を何度も上り下りするような道かもしれない。しかし、あなたは神から恵みを受けたのです。以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのような者として、この人生の旅を神とともに歩んでいこうではありませんか。