ヨシュア記18章

きょうはヨシュア記18章から学びたいと思います。

Ⅰ.新たな拠点シロ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「18:1 イスラエルの子らの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕を建てた。この地は彼らに服していたが、18:2 イスラエルの子らの中に、相続地を割り当てられていない七部族が残っていた。」

16章、17章には、エフライム族とマナセ族、すなわちヨセフ族に与えられた相続地の割り当てについて記されてありました。この18章には、まだ相続地を割り当てられていない7つの部族の相続について記されてあります。1節には、イスラエルの全会衆はシロに集まり、そこに会見の天幕が建てられたとあります。これまでイスラエルのカナン侵略の拠点はギルガルでした。その拠点をシロに移したのです。なぜでしょうか。会見の幕屋とは、その中に契約の箱が置かれてあり、神ご自身が自らを現わされる所です。それはイスラエルの民にとって最も重要な所でした。というのは、イスラエルは単なる民族主義的な共同体ではなく、創造主なる神を中心とした宗教的共同体であったからです。そのシンボルとしての幕屋をシロに建てたというのは、そこがイスラエルの中心となることを意味していました。シロはエフライムの土地にあり、イスラエルのほぼ真ん中に位置していました。そこに幕屋を建てたのは、1節に「この地は彼らによって征服されていた」とあるように、イスラエルのカナン侵攻がある程度区切りがついたからです。それで、約束の地の端にあったエリコの隣にあったギルガルから、全体の中心であったシロに本拠地を移したのです。そしてそこに12部族の中心となるべく会見の幕屋を建てることで、さらに一致団結して神の約束の実現に向かっていこうとしたのです。

Ⅱ.七つの部族への相続地の割り当て(3-10)

次に、3~10節までをご覧ください。「18:3 ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、【主】があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。18:4 部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。18:5 彼ら自身でそれを七つの割り当て地に分割しなさい。ユダは南にある自分の地域にとどまり、ヨセフの家は北にある自分の地域にとどまる。18:6 あなたがたはその地の七つの割り当て地を書き記し、私のところに持って来なさい。私はここで、私たちの神、【主】の前で、あなたがたのためにくじを引こう。18:7 しかし、レビ人はあなたがたの間に割り当て地を持たない。【主】の祭司として仕えることが彼らへのゆずりだからである。ガドとルベンと、マナセの半部族は、ヨルダンの川向こう、東の方で自分たちの相続地を受けている。【主】のしもべモーセが彼らに与えたものである。」18:8 その人たちは立って出て行った。その際ヨシュアは、その地について書き記すために出て行く者たちに命じた。「さあ、あなたがたはその地を行き巡り、その地について書き記し、私のところに帰って来なさい。ここシロで、【主】の前で、私はあなたがたのためにくじを引こう。」18:9 その人たちは行って、その地を巡り、それぞれの町を七つの割り当て地に分けて書物に書き記し、シロの宿営にいるヨシュアのもとに来た。18:10 ヨシュアはシロで、すなわち【主】の前で、彼らのためにくじを引いた。ヨシュアはそこで、彼らへの割り当てにしたがって、その地をイスラエルの子らに分割した。」

ところが、2節を見ると、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない部族が7つ残っていました。7つの部族というのは、ヨルダン川の東側の地を相続したガド族とルベン族とマナセの半部族に、ヨルダン川の西側で既に相続したユダ族とエフライム族、マナセの半部族の5つの部族を除いた7つの部族です。彼らは自分たちの割り当て地を受け取っていましたが、その地に進んで行くのをためらっていたのです。彼らはこれまでヨシュアの指導の下勇敢に戦って来たのに、なぜ自分たちの相続地を受け取る段階になって与えられた地を占領しに行くのをためらっていたのでしょうか。確かに、カナンの地を相続することは彼らにとっては待ち望んでいた夢でしたが、現実的には色々と困難がありました。前回のところでも、ヨセフ族がヨシュアのところにやって来て、「谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」(17:16)と言ったように、敵の数の多さや装備を見て恐れ、なかなか出て行けなかったのでしょう。今すぐやらなくてもしばらくは大丈夫、カナンの地の主なところは手に入れたのでしばらくは様子を見ようと、主から与えられた使命に対して踏み出すのを先延ばしにしていたのです。

そんな7つの部族に対して、ヨシュアはこう言いました。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのですか。」(3)神はすでにこの地を彼らに与えておられるのになぜその命令に従い取り組もうとしなかったのでしょうか。それは彼らが無力だったからではありません。あるいは遠慮深かったからでもありません。それは、彼らに全能の神により頼む信仰がなかったからです。生きて働いておられる主を正しい目をもって見上げていなかったので、目の前にある課題を否定的にばかりとらえ、その歩みが止まっていたのです。それはあのヨセフ族の言い訳と同じです。ヨセフ族もヨシュアのところに来てこう言い訳しました。「山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」(17:18)

その地は、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えた地です。つまり、その地は神の一方的な恵みによって与えられた地なのです。そのような恵みを受けた者として神が私たちに求めておられることは、神が共にいて働いてくださることを信じて従うことです。神に信頼して神の御業に取り組まなければなりません。神の恵みによって救われた私たちは、神とともに働く者であり、神の御業を行い神の使命を果たしていかなければならないのです。

いったいどのように取り組んで行ったらいいのでしょうか。4節をみると、ヨシュアは「部族ごとに三人の者を出しなさい。私は彼らを送り出そう。彼らが立ち上がってその地を行き巡り、自分たちの相続地にしたがってその地について書き記し、私のところに戻って来るためである。」と言っています。7つの部族から3人ずつを選び出しまだ割り当てられていない地を行き巡らせ、彼らにその相続地のことを書き記してもらい、それをヨシュアのところに持って来らせます。そしてその地を7つの割り当て地に分割し、主の前でくじを引きます。

ここには、何回も繰り返して、それを書き記すようにと命じられています。(4、6、8、9)何回も繰り返して書かれているということは、それだけ重要なことであるということです。それは彼らを信仰による行動へと突き動かすためでした。たらたらして手足の動きが止まっている彼らにもう一度約束の地を見て来させ、そこにどんな町々があるのか、改めて主が約束して下さっているものを細かく調べさせることによって、本来自分たちが取り組むべき仕事に着手できるように駆り立てるためだったのです。そのためには、彼らが獲得しようとしている地がどのような所で、そのためには誰と戦わなければならないのかということを具体的に書き記す必要がありました。そのようにすることで、より行動に移すことができるからです。彼らはその地を行き巡りそれを7つの割り当て地に分割しそれを実際に書き記すことによって、神に信頼して出て行く勇気が与えられたのです。

私たちはどうでしょうか。この7部族のように主は素晴らしい祝福を用意しておられるのに適当なところで満足し、信仰の歩みをストップしていることはないでしょうか。確かに主に従う生活には戦いがあります。イスラエルの行く先にもなお敵がいましたし、他の課題もありました。しかしそこで問われていることはその困難さを人間的に計算して難しそうだからやめようというのではなく、主に信頼する者を主は必ず助けて下さると信頼して、どのような中でも御言葉に従うことを何よりも大切にして進み行くことなのです。何よりも心に留めたいことは、1節でみたように、主は私たちのただ中にいることを覚えることです。主はご自身の約束のとおりに、私たちをこの地に導いてくださいました。そして、私たちとともにいると約束してくださいました。この主に信頼して、主が導いてくださる地がどのような所なのかを行き巡り、それを心に刻みたいと思います。主に従う歩みには常に困難はあるでしょうが、しかし、共にいて下さる主が、その歩みを助け、それを乗り越えることができるように導いて下さいます。その主により頼んで、困難も乗り越えさせて頂いて、主が用意下さっている祝福を十分に受け取り、主の御名があがめられるような歩みを続けていきたいものです。

Ⅲ.ベニヤミン族の割り当て地(11-28)

次に、11~28節までをご覧ください。「18:11 ベニヤミン部族の諸氏族のくじが引かれた。くじで当たった彼らの地域はユダ族とヨセフ族の間にあった。18:12 北側の境界線はヨルダン川から始まる。その境界線はエリコの北の傾斜地に上り、西の方へ山地を上る。その終わりはベテ・アベンの荒野である。18:13 さらに境界線はそこからルズに向かい、ルズの南の傾斜地を過ぎる。ルズはベテルである。それから境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルを下る。18:14 さらに境界線は折れ、西側を、ベテ・ホロンの南向かいの山から南へ回る。その終わりはユダ族の町キルヤテ・バアル、すなわちキルヤテ・エアリムである。これが西側である。18:15 南側はキルヤテ・エアリムの外れを起点とする。その境界線は西に出て、メ・ネフトアハの泉に出る。18:16 さらに境界線は、レファイムの谷間にあるベン・ヒノムの谷を北から見下ろす山の外れへ下り、ヒノムの谷をエブスの南の傾斜地に下り、エン・ロゲルを下り、18:17 北の方に折れ、エン・シェメシュに出て、アドミムの坂の反対側にあるゲリロテに出て、ルベンの子ボハンの石に下り、18:18 アラバに面する傾斜地を北へ進み、アラバに下る。18:19 そして境界線はベテ・ホグラの傾斜地を北へ進む。境界線の終わりは塩の海の北の入江、ヨルダン川の南端である。これが南の境界である。18:20 ヨルダン川が東側の境界線である。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地であり、その周囲の境界線である。18:21 ベニヤミン部族の諸氏族の町々はエリコ、ベテ・ホグラ、エメク・ケツィツ、18:22 ベテ・ハ・アラバ、ツェマライム、ベテル、18:23 アビム、パラ、オフラ、18:24 ケファル・ハ・アンモニ、オフニ、ゲバ。十二の町とその村々。18:25 ギブオン、ラマ、ベエロテ、18:26 ミツパ、ケフィラ、モツァ、18:27 レケム、イルペエル、タルアラ、18:28 ツェラ、エレフ、エブスすなわちエルサレム、ギブア、キルヤテ。十四の町とその村々。これがベニヤミン族の諸氏族の相続地である。」

11節以降は、その7つの部族の内、まずベニヤミン族の割り当て地について記しています。11節にあるように、彼らの地域は、南はユダ族、北はヨセフ族(マナセ族)の間の地域でした。その境界線は、12~20節に記されてあります。そして、そこにある町々が21節から記されています。前半の21~24節は東側の町々で、全部で12の町と、それに属する村落です。25~28節は西側の町々で、全部で 14の町と、それに属する村落です。

こうやってみると、ベニヤミン族に与えられたのは極めて小さな領土でした。それは、ベニヤミン族がイスラエルの12部族の中でも、最も小さな部族であったことによります。彼らはその人数、部族の小ささによって、ほんのわずかの領地しか与えられなかったのです。しかし、この割り当てられた領土をみると、そこには重要な場所が含まれていることに気付きます。13節を見ると、「そこから境界線は、ルズに向かい、ルズの南のほうの傾斜地に進む。ルズはベテルである。さらに、境界線は、下ベテ・ホロンの南にある山の近くのアテロテ・アダルに下る。」とあります。

この「ベテル」とは「神の家」という意味です。これはあのヤコブの物語と関連していることに気付きます。ヤコブが兄エサウから逃れて叔父のラバンの所へ行く途中、ある町に来ました。彼はそこで石を枕にして寝ますが、不思議な光景を見ました。それは天から地にはしごがかけられていて、神の天使が上がったり、下がったりしているというものでした。彼は夢ら目が冷めたとき、いかなる孤独の中にあっても、主は自分とともにいてくださるということを知り、そこに祭壇を築いて、その祭壇に「神の家」、すなわち、ベテルと名付けたのです。(創世記28章)

このようにベニヤミン族は小さくあまり力のない部族でしたが、ヤコブ以来、人々がその所に来て、祈りと賛美をささげる聖なる場所「ベテル」を、自分の領地に取り込んでいたのです。つまり、ベニヤミン族に与えられた領地は小さかったけれども、重要な場所をしっかりと押さえ、自分たちのものとしていたのです。エルサレムもそうです。彼らはエブス(エルサレム)も自分たちの領土に取り込みました。

このように要所を押さえるというベニヤミン族の姿勢は、その後もずっと続きました。たとえば、B.C.931年に、イスラエルが北と南に分かれて戦争した時には、当時主導権を握っていたユダ族に対して不満を抱いていた他のイスラエル10部族が挑んだ戦いでしたが、12部族の中で最も小さかったベニヤミン族はユダ族とそれ以外の10部族の間に立ちながらも、結局ユダ族に付いたのです。1対10ですから、力の差は歴然です。しかも、大義名分も十部族にありました。にもかかわらず、彼らはユダ族に付いたのです。その結果、どうなったかというと、やがて北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされ、その10部族は、世界中に散り散りになり「失われた10部族」と言われるようになりました。要するに、この10部族は歴史のかなたに消えて行くことになるのです。そして、パレスチナには、ユダ族とベニヤミン族の2部族だけが残ることになります。やがてこの2つの部族もバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れて行かれますが、しかし、70年の捕囚の期間の後で再びエルサレムに帰還し、もう一度イスラエルを再興していくのです。そして彼らは以後「ユダヤ人」と呼ばれるようになりました。それはユダ族に由来しているからです。ベニヤミン族もやがてこのユダ族に吸収されていきますが、しかし部族としては、その名を遺すことになるのです。

このベニヤミン族の生き方は、私たちに大切なことを教えてくれます。つまり、私たちにとって重要なことは、自分にどれだけ力があるかとか、どれだけ有利な条件の中にいるかということではなく、たとえ小さく弱い存在であっても、「要所を押さえていく生き方」が肝心だということです。

では、私たちの人生における要所とは何でしょうか。それは聖書に示されているように、神への信仰です。なぜなら、人はそのように神に造られているからです。私たちにとって真実な神への信仰を持つかどうかということは、極めて重要な事柄なのです。私たちの人生を不幸にするさまざまな原因がありますが、その根本的な原因は罪です。しかし、神はイエス・キリストを通してその罪から解放してくださいました。この十字架の贖いの御業を信じる私たちは、人生の要所を得ているのです。この要所を押さえているのなら、たとえそれがどんなに小さな領土でも、何も恐れることはありません。ただ神を見上げ、神に従って生きる人生こそ、私たちにとって最も重要なことなのです。この要所を押さえて、私たちも充実した人生を送らせていただきたいと願うものです。

創世記1章

 きょうからご一緒に創世記を学んでいきましょう。「創世記」というタイトルは、「始まり」という意味です。創世記は神以外のすべての始まりについて私たちに知らせてくれます。つまり、天地万物の始まり(1:1-25)、人の始まり(1:26-2:25)、人類の罪の始まり(3:1-7)、神の救いの始まり(3:8-24)、家族の始まり(4:1-15)、文明の始まり(4:16-9:29)、世界の諸国民と言語の始まり(11-12)、イスラエル民族の始まり(12-50)についてです。
 それでは、早速、聖書の第1ページから開いていきましょう。

 Ⅰ.天地万物の始まり(1-31)

 まず1~5節をご覧ください。
「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」

あなたは、この天地がどのようにして始まったのかを考えたことがありますか。いくら考えても答えが出ないので、いつしか考えることすらしなくなったという人も少なくないかと思います。宇宙と人間の起源が、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まり、今日のような世界ができたと唱える進化論を、全く疑うことなく受け入れるようになってしまいました。しかし、本当に宇宙はそうしたものから進化してきたのでしょうか。もしそうであるなら、次の質問にどのように答えるのでしょうか。
①もしも、宇宙が「何か」から始まったのだとしたら、その「何か」はいったいどこから来たのでしょうか。
②もしそであるなら、物質の中から、人間のような感情や愛情といったものが生まれてくるでしょうか。
③もしも、進化論が事実であるとすれば、すべては偶然であり、私たちの人生や宇宙には何の意味もないことになります。
進化論は、一つの仮説にすぎず、すでに証明された事実ではありません。ではいったいこの宇宙はどのようにして始まったのでしょうか。

1-2節を見ると、「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあります。宇宙の初めは何もありませんでした。ただ神だけが存在し、神がこの天と地を創造されたのです。このことから、真の神とはどのような方であるかがわかります。それは永遠から永遠まで存在しておられ、この天と地を造られた創造主であられるということです。人間の手で造られたものは神ではありません。神は創造者であって、無から有を創造することができる方なのです。

その神が最初に造られたものは何でしょうか。3節には、神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」とあります。この光とは何の光のことでしょうか。というのは、14~16節の第四日の創造の記録に、太陽や月、そして星々が造られた、とあるからです。ですから、ここでいう光は、そのような星を光源とする物理的な光ではないことがわかります。それでは、この光とは何なのかと問われても、正直な話わかりません。いろいろな説明がなされています。それは「時間的な秩序だ」という人がいれば、それは「エネルギーのことだ」という人もいます。「太陽の光だが地球に到達するまでには時間がかかるのだ」という人もいます。「いのちの光だ」という人もいます。また、「神の御業を白日のもとにさらす光だ」という人もいます。どれもなるほどとは思いますが、聖書的な根拠に曖昧さが残ります。結局、この光が何であるかは分かりません。おそらくそれは太陽の光でも、人造の光でもなく、私たちの心の闇を照らす光のことでしょう。あるいは、そうした光のすべての源といってもいいかもしれません。私たちには、太陽の光や人造の光をもってしても照らすことができない闇があります。そのような闇に神が「光あれ」と仰せられたのです。この神の言葉が、闇の中に光をもたらしました。この光に照らされて歩む人はどんなに幸いなことでしょうか。

次に6~8節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」

神が第二日目に創造されたものは何でしょうか。それは「大空」です。神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別されました。これはどういうことかというと、水と水の間に空間が出来たということです。空の下に水があるだけではなく、空の上にも水がありました。もしかしたら、地球のオゾン層のように、地球のまわりに水の層があったのかもしれません。現在はその層は存在していません。なぜなら、ノアの時代にその水が地上に降ったからです。こうして、ただ光があるところから、空が造り出されました。

三日目には造られたものは何でしょうか。9~13節をご覧ください。
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。
神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第三日。」
神が三日目に造られたのは、海と地です。神は、水しかなかったところを海と陸とに分け、陸地に植物を生えさせました。ここに、「種を生じる草」とか、「種のある実」とあります。これは、植物に自己繁殖する能力を備えられたということです。また、「おのおのその種類にしたがって」とあります。植物はおのおのその種類にしたがって造られました。ひとつの種から、別の種に進化するということはありません。植物がなぜか魚になって、魚がいつのまにか陸に這い上がって、それがわにのような爬虫類となり、それが巡り巡って猿になり、猿が進化して人間になった、ということはないのです。植物や動物は、おのおのその種類にしたがって造られたのです。

四日目に造られたものは何でしょうか。14~19節をご覧ください。
「神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のためにあれ。また天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」そのようになった。
神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた。夕があり、朝があった。第四日。」

四日目に造られたのは太陽と月と星です。神は二つの大きな光る物を造られました。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さい方の光ものには夜をつかさどらせました。また星を造られました。神は第一日日に「光」を創造されましたが、その光が集められて保持しておく物として、こうした星を造られたのでしょう。

この大田原市は、環境省が行う「星空継続観察」において、過去に4度日本一に輝きました。自宅から見る星空は回りが明るすぎてそれほどきれいには見えませんが、車で20分ほど離れた「ふれあいの丘」から見る夜空は、恵まれた自然環境のもとでとてもきれいに見えます。しかし、「ふれあいの丘」まで行かなくとも、夜空に輝く星を見てどれほど感動したことでしょうか。それは単に夜空がきれいだからということではなく、果てしない宇宙の広がりを思うとき、神の創造の偉大さを感じるからです。ヨブ記26:7には、「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」とあります。何もそれは地球だけでなく、すべての星に言えることです。その星の数は何と、一つの銀河に数千億個もあると言われています。その銀河が数千億個もあるわけですから、宇宙には「数千億個×数千億個」の星が存在しているのです。まさに海の砂のようです。それだけの数の星が何もない空間に掛けられているということを考えると、宇宙の広がりに圧倒されます。このような宇宙が存在していることを思うとき、そこには神が存在しているとしか言いようがありません。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)のです。

第五日目に造られたものは何でしょうか?20~23節までをご覧ください。
「神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神はそれを見て良しとされた。神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日。」

第五日目に造られたものは、魚類と鳥類でした。神は、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造されました。

第六日目はどうでしょうか。24~31節をご覧ください。
「神は仰せられた。「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。神は、種類にしたがって野の獣を、種類にしたがって家畜を、種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神はそれを見て良しとされた。神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

第六日目に造られたのは何でしょうか。第六日目に造られたのは家畜や、はうもの、野の獣です。そして、人を造られました。神は六日間で天と地と、その中の生き物のすべてを創造されました。

このように見てくると、神の創造の御業に、何か特徴があることにお気づきでしょうか。そうです、神はその種類にしたがって、すべての生き物を創造されました。したがって、宇宙と人間の起源は、水、火、土、空気、原始、アメーバのようなものから始まったのではなく、神がその種類にしたがって創造されたのです。そして、その神の創造の目的は何だったのでしょうか。それは人間です。なぜなら、神は人を最初に造られたのではなく、すべてのものを造られた後で最後に造られたからです。もし最初に造られたとしたらどうでしょうか。生きていくことができなかったでしょう。しかし、神は人がちゃんと生きていくことができるように、人に必要なすべてのものを事前に備えてくださったのです。それはちょうど赤ちゃんが産まれる時に親が生まれてくる赤ちゃんが生命を維持していくために必要なすべての環境を整えるようなものです。神にとって人はそれだけ重要な、創造の目的なり、中心だったのです。

 Ⅱ.神のかたちに造られた人(26-27)

 では、神はどのように人を造られたのでしょうか。26節と27節をご覧ください。ここには、「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」とあります。

 神は、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と仰せになられました。「われわれのかたち」とはどういうことでしょうか。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神はわれわれのように目や鼻や耳を、手や足といった肉体をもっておられるということではありません。神のかたちとは、神の性質や特徴のことを指しています。その特徴とは何でしょうか。それは「霊」です。神はわれわれが神と交わることができるように、霊を持つものとして造ってくださいました。これは他の動物には無いものです。人だけが神と交わることができるように、霊を与えてくださいました。これが人格の最も中心にあるもので、われわれはこの霊をもって神を慕い求め、神に祈り、神と交わるのです。これはいわば手を合わせる部分と言ってもいいでしょう。どうして人は手を合わせるのでしょうか。それが創造主なる真の神であるかどうかは別として、人はすべて、どの時代の人でも、何らかを神として拝むように造られたからです。

 娘がまだ小さいころ、青森の三内丸山遺跡を見学に行ったことがあります。三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡ですが、その集落の真ん中に櫓(やぐら)が組まれてありました。「いったい何のために櫓が組まれたのか」と思いガイドさんの説明を聞いていたら、それは神を祭るためであったというのです。ずっと昔の日本人も、その生活の中心は神を祭ることだったということを知った時、それは当然と言えば当然だと思いました。なぜなら、人はそのように創られたからです。人は単に肉体と精神を持っているだけでなく、その中心に霊魂を持つものとして造られ、この霊魂を通して神を仰ぎ、神と交わるように造られたのです。

 よく東京の超高層ビルの屋上に鳥居があるのを見ます。現代の建築の技術を結集してつくられた超高層ビルなのに、なぜその屋上に鳥居があるのか。それは、どんなに建築技術が進歩しても、それだけでは解決できないものがあるからです。それは人知を超えた神の存在です。人の思いを超えた神の守りがあるようにという祈りから置かれているのではないでしょうか。それは、人がそのようなものとして造られているからです。世界中のどの民族でも、またどの時代でも、みな神を恐れ、神を敬い、神に祈って生きてきました。木や石で作られたものを神として拝む気持ちもわかります。それは罪によって真の神がわからないために、自分で神を作って拝んでいるからです。しかし、それもまたわれわれが神のかたちに造られているということの証明でもあります。人は、造り主である神に向かい、神と交わり、神のいのちに満たされてこそ、真の幸福を味わうことができるのであって、それが満たされるまでは、どんなに物質的に満たされていても、真の満足を得ることはできないのです。

 Ⅲ.神の栄光と喜びのため(31)

 では、神はいったい何のために人を造られたのでしょうか。言い換えると、人はいったい何のために生きているのでしょうか。皆さんは考えたことがありますか。皆さんはいったい何のために生きているのでしょうか。この聖書の箇所にはそのことについて二つのことが教えられています。

 第一のことは、支配するためです。28節をご覧ください。
「神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
 神は人をご自身のかたちに創造すると、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と言われました。神はこの地上のすべての生き物を支配するようにと、人を創造されました。詩篇8:5-6には、このことを別の表現で次のように言及されています。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」
 これが神のかたちに造られた人類に対する神の命令です。人間は神の代理者として、被造物を管理するようにという使命がゆだねられたのです。それは、人は神に信頼された者であるということです。だから、人には考える力、この世界を形作る能力が与えられたのです。また、文化を創造することもできます。人は特別な被造物なのです。そして、特別な使命がゆだねられたのです。

 第二のことは、これが人の造られた主な目的ですが、それは、造り主である神を喜び、永遠に神をほめたたえることです。31節には、神はお造りになったすべてのものをご覧になられたとき、「それは非常に良かった」と言われました。「なぜこんなものを造ってしまったんだろう」と悲しみませんでした。「非常に良かった」と言って、喜んでくださったのです。それは言い換えると、われわれ人間は、このように喜んでくださる神のために生き、存在しているということです。もし、私たちが何のために生きているのかがわからなかったらどうでしょうか。人生はほんとうに空しいものになってしまいます。何のために生きているかがわからなければ、生きる力や喜びは生まれてこないのです。

 ある中学校の女子生徒が、担任の教師の所に行ってこう質問しました。「先生。私たちはいったい何のために勉強するのでしょうか。」この生徒は勉強していてもその意味がわからず、空しい思いを抱いて先生に質問したのです。しかし、その教師の答えはこうでした。「バカ!そんなことを考える暇があったら勉強しなさい!」でも、何のために勉強しているのかがわからなかったら、どこからその力が出てくるでしょう。どこからも出てきません。いったい何のために生きているのか、何のために勉強しているのかがわかって、初めて力が生まれてきます。人生の目的を知っているということは、私たちの人生にとって最も大切なことなのです。今、若い青少年が、人生の意味がわからなくて悩んでいます。その結果ひきこりや、不登校といった社会問題が起こっています。彼らにとって最も大切なことはどうしたらひきこもりから解放されるかということではなく、何のために生きているのか、その意味を知ることです。そのことがわかったらどれほど生きる喜びと希望、力が与えられることでしょう。

 あなたは何のために生きていますか?多くの人は「生きるために生きている」とか、「食うために生きている」というようなピントがズレたような答えをします。それだけこの問いに対して答えを持っている人は少ないのです。しかし、聖書はその問に対して明快な答えを与えてくれます。それは、神のためです。神の栄光のためです。永遠に神を喜ぶためです。なぜなら、人は神のかたちに創られたからです。このことがわかったら、私たちの人生がどんなに意味あるものとなるでしょう。

 ところで、神の栄光のために生きるとはどういうことでしょうか。それは神のために何か特別なことをすることではありません。神の喜びのために生きるとは、神に造られた者として神の御前に、神を信じて生きるということです。そうすれば、きっと神が自分に与えられた賜物を見い出すことでしょう。その賜物を用いて、心から神に仕えて生きることです。

 神はお造りになられたすべての者をご覧になられたとき、「非常に良かった」と言われました。神はあなたをご覧になられた時、何と言わるでしょう。「非常に良かった」と言って喜んでくださるような、そんな人生を歩ませていただきましょう。それこそ、私たちが造られた目的なのですから。

Ⅱペテロ1章12~15節 「いつも思い出して」

 今日はⅡペテロ1章12節から15節までのみことばから、「いつも思い起こして」というタイトルでお話したいと思います。

 Ⅰ.いつも思い起こして(12)

 まず12節をご覧ください。
「ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」

「ですから」とは、これまでペテロが語ってきたことを受けてのことです。ペテロはこれまでどんなことを語ってきたのでしょうか。それは救いの恵みと救いの確信に関することです。すなわち、私たちが救われたのは一方的な神の恵みであるということ、そしてその恵みを信じる信仰によってであるということ、また、そのように主イエスを信じたことで、主イエスの神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのものを私たちに与えてくださったということです。いのちとは永遠いのちのことです。敬虔とは信じた人の生き方とか考え方、価値観のことです。イエス様を信じたことで私たちに神のいのちがもたらされ、そのいのちは、私たちの人生に豊かな恵みと力をもたらしました。それまではこの世の欲によって滅びていくような者でしたが、イエス様を信じたことで、この世の欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者とされたのです。

そればかりでなく、その救いの恵みに応答しあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えることによって、豊かな実を結ぶ者となりました。このことを忘れなければ、つまずくことなど決してありません。私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。これらのことです。

これらのことを、この手紙の受取人たちは知らなかったのでしょうか。いいえ、知っていました。ここには、「すでにこれらのことを知っており」とあります。すでに知っていたというだけでなく、その真理に堅く立っていました。それなのに、なぜペテロはこれらのことを語る必要があったのでしょうか。

ここには、「とはいえ」とあります。彼らはすでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っていましたが、とはいえ、あえて言いたかったのです。なぜなら、いつも思い起こしてほしかったからです。「私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。」とあります。神がしてくださったすばらしい救いの御業、すでに救われて神のご性質にあずかっているということを忘れないように、いつもこれらのことを思い起こさせたかったのです。なぜでしょうか。人はすぐに忘れてしまうからです。

人は本当に忘れやすいものです。皆さんは昨日の夕食に何を食べたか覚えていますか?ほとんど覚えていないでしょう。料理を作られた方は覚えているかもしれませんが、食べるだけの人であればすぐに忘れてしまいます。
私は学生の頃一生懸命英語の単語を覚えました。豆カードの表に英語の単語を書き、裏にその意味を書いて、何回も繰り返して記憶させるのです。ところが、30分もしないうちに半分くらいは忘れてしまいます。それでも何度も繰り返して完璧に覚えても、翌朝にはすっかりさ忘れているのです。

最近とても困るのは人の名前を忘れてしまうことですね。「あれっ、あの人の名前は何だっけなぁ」なかなか思い出せません。先日もスーパーキッズの時間に2階でお母さんたちのための聖書の学びをしましたが、そこにいつも参加している一人のお母さんの名前を度忘れしてしまいました。ちょうど学びに入る前だったので、別のお母さんがキッチンでケーキを切っていたので、その方の所に行って小声で、「あの方、何というお名前でしたっけ?」と聞いたら、「どの方ですか、あの方は舩山さんです。」と教えてくれました。それで、問題なく学びを進めることができたので助かりました。

先日も、注文した本がなかなか届かないので仙台のバイブルショップに電話して、「ちゃんとやってもらいますか?」と言おうと思ったら、その電話に出られた方が、「大橋先生、覚えていらっしゃいますか。佐藤です。佐藤康子です。福島にいたときお世話になりました。」と言われましたが、一瞬「あれっ、だれだろう」と頭が真っ白になりましたが、昔のことは意外と覚えているんですね。その方のお顔を鮮明に覚えていて、思い出すことができました。もう30年も前に短大の学生さんとしていらしていた方です。かなり昔のことでしたが、よく覚えていました。でも話の中で「平井さんはどこにいるんですか?」と聞かれたのです。「平井さんですか、彼女は結婚して今山形にいますよ」と答えられたところまでは良かったのですが、結婚して苗字が何となったか度忘れしてしまったのです。「彼女は今結婚して、あれっ何だっけな、ええと、ちょっと待って、ああ、なかなか思い出せない。まあ、とにかく結婚して元気にしています。」という会話になってしまいました。そして、受話器を置いたとたん思い出したのです。「あっ、思い出した、早坂さんだ!」こういうことってよくあるでしょう。すぐに忘れてしまいます。

神の救いについてはどうでしょうか。私たちは自分が救われていることをどれだけはっきりと覚えているでしょうか。忘れてしまうと、ただ忘れるというだけでなく、元の生活に逆戻りしてしまいます。救われているはずなのに、いや、救われているのですが、でも元に戻ったようになってしまうのです。

それはイスラエルの民も同じでした。彼らはエジプトから救い出された後、神の民としてどうあるべきなのかを聞いても、すぐに忘れてしまいました。それで約束の地を前にして、モーセはもう一度彼らに神のおきてを語りました。それが「申命記」です。「申命記」というタイトルは英語では「Deuteronomy」と言いますが、これは「再び語る」とか「もう一度語る」という意味です。どうしてもう一度語る必要あったのでしょうか。それは彼らが忘れないためです。神様は彼らが忘れやすい者であるということをちゃんと知っていました。その時は聞いているかのようですが、全然聞いていません。右から入ったかと思うと、すぐに左の方に抜けて行ってしまいます。だから、忘れないようにともう一度語ったのです。

その申命記の中で、主がモーセを通して繰り返し、繰り返し語ったことは次のことでした。ちょっと開いてみたいと思います。6章4節から12節までをご覧ください。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。・・私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:4-12)

このように、モーセの最後のメッセージは、主を愛するようにということでした。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさいということを心に刻み、これを忘れないようにしなさい、ということだったのです。しかし、彼らが約束の地に入るとすっかり忘れてしまいました。そして敵に征服され、ついには国が分裂するという悲劇を招きました。

それはイスラエルだけではありません。すべてのクリスチャンに言えることです。黙示録2章と3章にはアジヤにある七つの教会に書き送られた手紙が書かれてあります。この七つの教会は、この地上のすべての教会のひな型です。それらの教会は現在どのようになっているかというと、すべてイスラム教の寺院に化しているのです。なぜでしょうか。忘れてしまったからです。
たとえば、2章4節にはエペソにある教会に、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたのかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」(黙示録2:4-5)と書き送られましたが、彼らは初めの愛から離れてしまいました。初めは熱心でした。心から主を愛していました。しかし豊かになると、初めの愛から離れてしまったのです。だから主はここで、どこから落ちたかを思い出して、悔い改めて、初めの行いをしなさいと言われたのです。

また、サルデスの教会には、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされてはいるが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」(黙示録3:1-3)と書き送られました。彼らは、はたから見たら熱心な人たちでした。いろいろな活動をしていました。しかし、霊的には眠ったような教会で、ただ形式的に、義務感から礼拝しているような教会でした。ですから主はここで、「だから、あなたがたはどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」と言われたのです。

「思い出しなさい」。思い出すことは大切なことです。私たちも主を忘れてしまうと、自分の罪が赦されているのを忘れてしまうと、昔のむなしい生活に逆戻りしてしまいます。ですから、ペテロはここで、あなたがたはすでにこれらのことを知っており、その真理に堅く立っている人たちですが、とはいえ、私たちはこういう弱さを持っているので、いつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとしているのです、と言っているのです。

きょうは、この後で聖餐式を行いますが、なぜ聖餐式を行うのでしょうか。忘れないためです。主イエスは言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」(ルカ22:19)私たちのために主はどんなことをしてくださったのか、そのために主は十字架にかかって死んでくださいました。そのことを忘れないで心に刻むために、行うのです。どうか忘れないでください。そうすれば、決してつまずくことはありません。そして、あらゆる恵みがますます加えられ、イエス・キリストのご性質へと変えられていくでしょう。

Ⅱ.奮い立たせるために(13)

「私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」

「地上の幕屋」とは、肉体のことを指しています。ペテロは自分のこの地上の肉体を指して「幕屋」と言ったのです。ペテロは生きている間、自分がすべきことが何かを知っていました。それは、これらのことを思い起こさせることによって、人々を奮い立たせることです。これが、自分が生きている間、自分がなすべき務めであると思っていたのです。

もともと彼は漁師でしたが、そんな彼を主は召してくださいました。しかし荒々しく、直情的な彼は、いろいろなことで失敗もしました。彼の最大の失敗は、鶏が鳴く前に三度、イエス様を否むことでした。「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)とは言ったものの、いざイエス様が捕らえられると、彼はイエス様が言われたとおりに、イエス様を否んでしまいました。彼はどれほど悲しかったでしょうか。聖書には、ペテロは、鶏が鳴いたときイエス様が言われたあのことばを思い出し、外に出て激しく泣いた、とあります。しかし、イエス様はそんな彼のために祈ってくださいました。信仰がなくならないように祈ってくださったのです。なぜでしょうか。それは、彼が立ち直ったら、同じように落ち込んでいる人たちを励ましてあげるためです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)
ペテロはこのことばを心に留め、繰り返して周りの人たちを励まし続けてきました。救われたことを思い起こすように、自分がどこから救われたのか、主を裏切った自分が主のあわれみによってまた再び立ち上がらせていただき、その恵みを忘れないように、いつも主のことばを思い起こすように、そう言って彼は人々をずっと励まし続けてきたのです。

それは私たちにも同じです。私たちもペテロ同様失敗しては落ち込み、なかなか立ち上がれないでいるような者です。しかし、朱はそんな私たちのために祈ってくださいました。それは、私たちも立ちあがったら兄弟たちを励ましてあげるためです。不思議なことに、信仰が落ち込んでいる時は、他の人はだれも自分のような経験なんてしたことがないだろうと思って孤独になりがちです。そのような時、いつもそばにいて話を聞いてくれる人がいたら、そして励ましてくれる人がいたら、どんなに慰められることかと思います。

ペテロは、それが自分の生涯において自分がなすべきことだと受け止めていました。それはペテロだけでなく私たちにも求められているのではないでしょうか。神は、私たちがペテロのように信仰で悩み、苦しみ、失敗し、落ち込んでいる人たちを励ますために、用いようとしておられるのです。

Ⅲ.クリスチャンの努め(14-15)

ペテロはなぜそのように思っていたのでしょうか。14節にその理由が記されてあります。「それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」

ペテロは、人々の信仰を励ますこと、人々を奮い立たせることが、自分に与えられている使命だということをよく理解していました。それは、彼が自分の死が間近に迫っているのを知っていたからです。幕屋とは先ほども申し上げたように「テント」のことです。キャンプの時テントを張って一時的に寝泊りすますが、キャンプが終わるとテントをたたんで家に帰ります。それと同じように、私たちのたましいはこの肉体というテントに一時的に住みますが、やがて肉体を去るときがやって来ます。その時私たちのたましいは永遠の住まいである天のふるさとに帰ります。そしてイエス様が再び地上に来られるとき、もはや古いからだではなく新しいからだ、栄光のからだをいただいて、永遠に主とともに生きるようになるのです。それはもうテントのような一時的なものではありません。決して滅びることのないからだ、天国というマンションに住むようになるのです。このことをパウロはこのように言っています。
「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Ⅱコリント5:1)
私たちの住まいである地上の幕屋、地上の建物が壊れても、神が下さる建物があります。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。

ペテロは、自分がこの幕屋を脱ぎ捨てるとき、すなわち、死が間近に迫っているのを知っていました。ですから彼は、自分がこの地上で何をなすべきかを覚え、そこに専念したのです。

それはパウロも同じ多です。パウロも自分の死が近づいたとき、このように言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
すばらしいみことばです。私の墓石にも書いてもらいたいみことばです。「走るべき道のりを走り終え」このようにペテロも、パウロも、栄冠を受けたるために、走るべき道のりを走り終えました。彼らは自分たちのゴールを知っていたのです。ゴールを知らないような走り方ではなく、ゴールを知っていて、ゴールに向かって走っていたのです。だから、途中いろいろなことがあってもそれを乗り越えることができました。このように自分のゴールを知っているということは大切なことです。

あなたの人生のゴールは何でしょうか。あなたは今そこに向かって走っておられるでしょうか。私たちのゴールはこの地上にはありません。私たちのゴールは神の国です。このゴールを知っている人は、たとえ死を間近にしても何の恐れもありません。また、このゴールを持っている人はどんな苦難の中にあっても生きる希望があるので前進することができるのです。今生かされていることに感謝して、今自分にできることを熱心にやろうと奮闘するのです。

そればかりではありません。15節をご覧ください。ここには、「また、私が去った後に、あなたがたがいつでもこれらのことを思い起こさせるよう、私は努めたいのです。」とあります。
「私が去った後に」というのは、ペテロが死んだ後にということです。この「去る」という言葉は英語の「exodus」、つまり「出国」のことです。これは「出エジプト記」の書名にもなっている言葉です。同じ言葉がルカ9:31で、イエス・キリストの死、最期を表すために使われています。つまり、聖書は、「死は」終わりではなく、むしろ新しい場所への出発、出国として教えているのです。この世では悩みや苦しみ、叫び、死がありますが、神の国では死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ペテロはこの後で自分が捕らえられて処刑されるということを知っていましたが、このことを覚えて喜んでいたのです。そしてそれだけでなく、残されている人たちのことを考え、彼らを励まそうと、自分が去った後もそのことを思い起こせるように、努めていたのです。すごいですね。生きている間だけでなく、死んでからも、残された人たちが励まされるような生き方をしようと努めていたとは。彼は自分が死んだ後で自分のことを思い出してほしいなんて思いませんでした。残された人たちが励まされるようにと願っていたのです。

いったいどうしたら残された人たちが励ましを受けることができるのでしょうか。彼らがいつもこれらのことを思い起こすことによってです。これらのことって何ですか。それは彼がこれまで語ってきた救いのすばらしさです。イエス様を救い主と信じたことで、永遠のいのちと敬虔に関するすべてのものが与えられました。また、キリストのご性質にあずかる者ともされました。イエス様を信じたことで、すべてのものが与えられました。何という恵みでしょう。このことを彼らがいつでも思い起こせるように努めたのです。

皆さんはどうでしょうか。死んだらどうしようとか、病気になったらどうしよう、ちゃんと食べていけるだろうかと不安になってはいませんか。ペテロはここで、自分はもうすぐ幕屋を脱ぎ捨てる時が近くなっていることを知っている。でも行先は天国ですから何の心配もありません。心配なのは、残された人たちがどうやって励ましを受けるかということであって、そのためには、いつでもこれらのことを思い出してほしい。思い起こせるようにと努めたいと願っていました。

これは神が私たちにも望んでおられることです。私たちはこの先どうなるかということを心配するよりも、残された人たちがこの信仰にしっかりと立っていることができるようにと努めることです。そのためには、彼らがいつもでもこのことを思い起こせるように、私たちがただ口で言うというだけでなく、その神の恵みの中を実際に生きるということです。私たちがこの世を去る時に、「ああ、おじいちゃんは走るべき行程を走り終えた。神の恵みって本当にすばらしい!主よ、感謝します。」と残された人たちが言えるような生き方を、私たちも努めたいと思うのです。

ヨシュア記17章

きょうはヨシュア記17章から学びたいと思います。

 Ⅰ.戦士マキル(1-2)

 まず1節から2節をご覧ください。
「マナセ部族が、くじで割り当てられた地は次のとおりである。マナセはヨセフの長子であった。マナセの長子で、ギルアデの父であるマキルは戦士であったので、ギルアデとバシャンが彼のものとなった。さらにそれはマナセ族のほかの諸氏族、アビエゼル族、ヘレク族、アスリエル族、シェケム族、ヘフェル族、シェミダ族のものになった。これらは、ヨセフの子マナセの男子の子孫の諸氏族である。」

16章ではエフライム族が受けた相続地について記されてありましたが、この17章にはマナセ族に割り当てられた相続地について記されてあります。マナセはヨセフの長男でしたが、先に相続地を受けたのは弟のエフライムでした。それは創世記48:19にあるように、「弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう」と語ったイスラエルの預言の成就でもありました。

1節には、マナセの長男であるマキルという人物が、ギルアデとバシャンという二つの土地を獲得したことが書かれてあります。その地はくじによって割り当てられましたが、「彼は戦士であったので」とあるように、戦ってその地を獲得しました。つまり、イスラエルの相続地というのは自動的に与えられたというのではなく、その地を確保できる自由が与えられたに過ぎないということだったのです。そこには先住民族が住んでいたわけですから、いくら神がこの地を与えるとは言っても、それは棚ぼた式にもたらされるものではなく、自分たちの努力によって獲得していかなければならなかったのです。マキルは戦士だったので、自分に割り当てられた相続地を獲得していきました。

ここに、「信仰」とはいかなるものであるかが教えられています。つまり、私たちは神の恵みにより、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救い、驚くほどの祝福を与えられましたが、そのような約束を与えられた者は、自らの手でそれをしっかりと掴まなければならないということです。ちょうど今週の日曜日の礼拝でⅡペテロ1:5~11までを学びましたが、そこには、「あらゆる努力をして、信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:5-7)とありました。また、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。」(同1:10)とありました。救いは一方的な神の恵みであり、私たちの行いによるのではありません。しかし、そのように一方的な神の恵みによって救われた者は、その恵みに応答してますます実を結ぶ者となるように熱心に求めていかなければなりません。信仰を持つというのは、決してあなた任せになるということではありません。自分は何もしなくても、神様がみんなやってくれるのだというのではなく、みんなやってくれた神の驚くべき恵みに感謝して、キリストのご性質にあずかるためにあらゆる努力をしなければならないのです。その時神の聖霊が働いてくたさいます。神が与えてくださった祝福を、自分たちの最大限の力をもって応答し、神の約束と命令を遂行していくことなのです。

Ⅱ.ツェロフハデの娘たち(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。
「ところが、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデには、娘だけで息子がなかった。その娘たちの名は、マフラ、ノア、ホグラ、ミルカ、ティルツァであった。彼女たちは、祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、族長たちとの前に進み出て、「私たちの親類の間で、私たちにも相続地を与えるように、主はモーセに命じられました。」と言ったので、ヨシュアは主の命令で、彼女たちの父の兄弟たちの間で、彼女たちに相続地を与えた。こうして、マナセはヨルダン川の向こう側のギルアデとバシャンの地のほかに、なお十の割り当て地があてがわれた。マナセの娘たちが、彼の息子たちの間に、相続地を受けたからである。ギルアデの地は、マナセのほかの子孫のものとなった。」

ここには、マナセの子マキルの子ギルアデの子ヘフェルの子ツェロフハデの娘たちのことが記されてあります。マナセから見たら曾曾曾孫に当たります。この娘たちが、相続地を受けるために、祭司エルアザルとヨシュアのもとに来て、自分たちにも相続地を与えるようにと懇願しました。なぜこんなことをしたのでしょうか。当時の女性は、戦前の日本と同じように財産を受け継ぐ権利はなく、その資格を持っていなかったからです。彼らはその権利を主張したのです。しかも彼らはマナセから数えたら曾曾曾孫です。そのような意味からもこのように懇願することは極めて異例のことであり、考えられないことでした。がしかし、彼女たちは大胆にも願い出て、その結果、驚くべきことに相続地を得ることができました。しかも、あの戦士マキルでさえその武力を行使してやっと二つの相続地を獲得したというのに、彼らには何の努力もなしに、十の割り当て地が与えられたのです。これはどういうことなのでしょうか。

このツェロフハデの娘たちのことについては、以前、民数記で学びました。民数記27章です。そこには、このツェロフハデの娘たちがモーセのところにやって来て、男の子がいないという理由で相続地が与えられないのはおかしいと、自分たちにも与えてほしいと訴えたところ、モーセはそれを主の前に持って行き祈りました。すると主は、「彼女たちの言い分は正しい」と、彼女たちにも相続地を与えるようにと命じられたばかりか、もし子どもに男子がいない時にはその娘に相続地を渡すように、また娘もいない時には父の兄弟たちに、兄弟もいなければ、彼の氏族の中で最も近い血族に継がせるというおきてを作るようにと命じたのです。それは、このツェロフハデの娘たちの訴えがきっかけとなってできたおきてでした。

ここで彼女たちが大祭司エルアザルとヨシュアのところに来て、自分たちにも相続地を与えてほしいと懇願したのは、この出来事が根拠になっています。つまり彼女たちは、主がそのように約束されたので、それを自分たちのものとしたいと願い出たのです。確かに、彼女たちは男子ではありませんでした。しかし、そうした障害にも関わらず主の前に出て、主のみこころを求め大胆に願い出たのです。私たちの神は、このようにみこころを求めて大胆に願う者の祈りを聞いてくださるのです。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)と言われました。どのような人が受け、見つけ出し、開かれるのでしょうか。求め続け、捜し続け、たたき続ける人です。そのような人は与えられ、見つけ出し、開かれるのです。

イエス様はそのことを教えるために、不正な裁判官のたとえを話されました。ルカの福音書18章です。一人の不正な裁判官がいました。彼は神を恐れず人を人とも思わない人でした。そんな彼のところにひとりのやもめがやって来て、「どうか、私のために裁きを行って、私を守ってください。」と懇願しました。しかし、彼はその訴えを無視しました。それでも、このやもめが毎日やって来ては、「どうか私を訴える者をさばいてください」と叫び続けたので、彼は神を恐れず、人を人とも思わない裁判官でしたが、あまりにもうるさいので、さばきをつけてやることにしました。神はこのようなお方だというのです。だとしたら、私たちもあつかましいと思われるほど執拗に求め続けていくのなら、神は心を動かしてくださるのではないか、と言われたのです。

しかし、このツェロフハデの娘たちは、ただ執拗に訴えたのではありませんでした。彼女たちは神の約束のことばに信頼して訴えたのです。4節を見ると、「主はモーセに命じられました」とあります。それはかつてモーセを通して命じられたことなので、その神の約束を握りしめて訴えたのです。「神さま、あなたはこのように約束してくださったではありませんか。ですから、どうかこれを実現してください。」と、迫ったのです。そして、ヨシュアはこの約束を知った時、彼女たちは受ける資格のない者たちでしたが、その約束のごとく彼らに与えたのです。ですから、大切なのは自分たちが執拗に祈ればいいということよりも、それが神の約束であることを確信して祈ることです。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

Ⅲ.マナセ族の失敗(7-13)

次に7節から13節までをご覧ください。
「マナセの境界線は、アシェルからシェケムに面したミクメタテに向かい、その境界線は、さらに南に行って、エン・タプアハの住民のところに至った。タプアハの地は、マナセのものであったが、マナセの境界に近いタプアハは、エフライム族のものであった。またその境界線は、カナ川に下り、川の南に向かった。そこの町々は、マナセの町々の中にあって、エフライムのものであった。マナセの境界線は、川の北で、その終わりは海であった。その南は、エフライムのもの、北はマナセのものであった。海がその境界となった。マナセは、北はアシェルに、東はイッサカルに達していた。またマナセには、イッサカルとアシェルの中に、ベテ・シェアンとそれに属する村落、イブレアムとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、エン・ドルの住民とそれに属する村落、タナクの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落があった。この第三番目は高地であった。しかしマナセ族は、これらの町々を占領することができなかった。カナン人はこの土地に住みとおした。イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」

ここには、マナセ族が受けた相続地の地域がリストアップされています。しかし、何度も述べてきたように、相続地が与えられたとは言っても、そこにはまだカナン人が住んでおり、このカナン人と戦って獲得しなければ、それを自分たちの土地にすることはできませんでした。かくしてマナセ族はカナン人の原住民と戦い、次々とその地を占領していきました。しかし、12節を見ると、マナセの子孫は、これらの町々を取ることができなかったので、カナン人は長くこの地に住みとおしました。つまり、実際にはかなり多くの地を占領できずにいたのです。けれども、長い戦いの時を経て、彼らは次第に力をつけて強くなって行くと、やがて、完全にカナン人を征服するに至りました。13節には、「イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。」とあります。どういうことでしょうか。彼らは戦いに勝って、やっとその地を占領することができました。しかし、占領した時、彼らはカナン人をどのように熱かったかというと、カナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことはしませんでした。なぜでしょうか。その地を占領したならば、その地の住人を追い払うか、あるいは聖絶するようにというのが、主の命令であったはずです。それなのに彼らはそのようにしませんでした。カナン人に苦役を課したが、追い払ってしまうまでしなかったのです。どうしてでしょうか。

ある学者は、ここはイスラエルの人道主義の表れだと評価します。長い間定住地を持っていなかったイスラエルの民にとって、その厳しい生活を顧みる時に、カナン人たちに対して、自分たちが歩んできたと同じ運命を担わせるにはあなりに忍びなかったのだと言うのです。苦難が私たちにもたらす大切な意味の一つは、自らが経験した苦労や苦悩によって、他者への思いやりを持つことができることだというのです。

しかし、そうではありません。ここでマナセ族が強くなってもその地に住むカナン人を追い払わなかったのは、彼らが神の命令を割り引いて従い、妥協してしまったからです。苦役を課していれば、追い払わなくてもいいだろうと、それでも自分たちは神に従っていると思い込んでいたのです。しかし、神の命令は聖絶することでした。その地の住人を追い払い、その地の偶像を完全に破壊し、その地において神の民として聖く生きることだったのです。それなのに、彼らはカナン人に苦役を課しましたが、彼らを追い払ってしまうことをしませんでした。

その結果、イスラエルがどうなったかを、私たちはイスラエルの歴史を通して見ることができます。彼らは自分たちの目で良いと思われるようなことをしたので、後になってそのカナン人からの攻撃によって苦しみ、その苦しみの中から叫ぶことで、神はさばきつかさ(士師)を送りイスラエルを救い出されました。そうやってイスラエルが神に従い、安定し、豊かになると、彼らは再び神を忘れて自分勝手に行動し、自らそのさばきを招くことになってしまうのです。その結果、国が二つに分裂し、北も南も諸外国によって攻撃されてしまいます。ほんの小さなほころびが、大きな滅亡を招くことになったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。自分では神に従っていると思っていても、ただそのように思い込んでいるだけで、この時のイスラエル人のように徹底的に神に従っているのでなければ、実際には従っていないことになるのです。それは信仰の敗北を招くことになってしまいます。99%従っていても1%従っていなければ、従っているとは言えません。誰も完全に主に従うことなどできませんが、その中にあってこうしてみことばに教えられながら、ご聖霊の助けをいただいて、神のみこころにかなった者となるように努めていきたいと思います。

Ⅳ.信仰の目で見る(14-18)

最後に14節から18節までを見て終わりたいと思います。
「ヨセフ族はヨシュアに告げて言った。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

ヨセフ族の子孫エフライム族とマナセ族に対する土地の分配が終わると、そのヨセフ族がヨシュアのところに来てこう言いました。「主が今まで私を祝福されたので、私は数の多い民になりました。あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらなかったのですか。」
これはどういうことかというと、自分たちは主が祝福してくださったので、こんなに数の多い民となったのに、なぜただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのか、ということです。つまり、彼らは、これでは不十分だと、ヨシュアに不満を訴えたのです。何ということでしょう。彼らが与えられたのはカナンの地の中心部分の最良の地でした。しかも最も広大な土地が与えられたのです。しかも、それは彼らが何かをしたからではなく、彼らの先祖ヨセフの遺徳のゆえです。どれほど感謝してもしきれないはずなのに、彼らは深く感謝したかというとそうではなく、逆に不満タラタラ訴えました。

以前、日本人の意識調査の中で、色々な収入のレベルの人たちに、それぞれ収入に関するアンケートを行ったところ、おもしろいことに調査に応じたすべての収入のレベルの人が、「今よりも、もう少し収入がほしい」と回答しました。人間の欲望は止まるところを知らないようで、「満足です」というよりも「もう少しほしい」と思っているのです。
このヨセフの子孫たちもまた、この調査結果にあるように、神の恵みによって与えられた土地なのに、これでは足りない、もっと欲しいと言いました。

それに対してヨセフは何と言ったでしようか。16節には、「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」とあります。だっだ自分たちで上って行って、山地を切り開いたらいいじゃないか、と言いました。

するとヨセフ族が言いました。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
なるほど、彼らがヨシュアに不満を漏らすのもわかります。確かに彼らが受けた相続地は良い地でありその領地は最も広くても、そのほとんどが山岳地帯であり、しかもそこには強い敵が住んでいたので、その領地を自分たちのものとするには、極めて困難だったのです。山岳地帯であり、住むのに適さず、しかも強力な敵がいたので、「この地を与える」と言われても、実際に彼らが使用できる土地、支配することができた土地はほんの僅かしかありませんでした。そこで彼らは、「もっと別の領地を、もっと広い地を・・」と願い出たのです。

彼らの気持ちはわかります。けれども、カナンの地であればどこにでもカナン人は住んでいたはずであって、それはマナセとエフライムだけではなく、他のどの部族も同じことでした。そのカナン人と戦って与えられた相続地を自分たちのものにしなければならなかったのです。それなのに彼らは、そうした問題点を見つけてはヨシュアに文句を言い、自分で切り開くということをしませんでした。むしろ彼らはその広い土地が与えられていることを喜び、感謝して、敵と戦ってその地を自分のものにしなければならなかったのです。彼らに欠けていたのは、こうした信仰であり、開拓者精神だったのです。

それは日本の教会にも言えます。確かに地方での伝道は困難を極めます。人口が減少しているというだけでなく、因習との戦いもあります。都会で伝道すればどんなに楽かという同労者の声をどれほど聞いたことでしょう。けれども、都会には都会の悩みもあります。都会で一定の土地を確保しようとしたらどれほど大変なことでしょう。しかし、地方では都会と比べてそれほど困難ではありません。都会ではできないようなダイナミックな伝道ができるのです。要するにどこで伝道しているかということではなく、どこで伝道しても、どこに遣わされても、自分たちに与えられている使命を確認して、その置かれた地で咲くことなのです。

それに対してヨシュアはどのように答えたでしょうか。17節と18節をご覧ください。ここには、「するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

まずヨセフの子孫たちが訴えた、自分たちは数が多い民であるので、山地は自分たちが住むのには十分ではないということに対しては、何を言っているんですか、数が多いということはそれだけ力があるということですから、その力で山地を切り開いていくべきではないか、と言いました。
また、ヨセフの子孫たちが、自分たちが住んでいる所にはカナン人がいて、彼らは鉄の戦車を持っていて強い、と言うと、敵が強いということ、鉄の戦車を持っているということは、神の全能の力が働く余地があるということだから、その神に信頼して、その信仰によって敵を打ち破ることができる、と言いました。
このように、ヨシュアから見るとヨセフの子孫たちが挙げた不利な条件は、むしろ有利な条件だったことがわかります。ヨシュアは不利と思われる状況の中に有利な条件を見出して、それを神のみこころを行っていく力へと転換していったのです。神を信じるということはこういうことです。信仰を持つとはこういうことなのです。

私たちもこの世の目で見れば不利だと思える条件を信仰の目で見て、それを有利な条件へと転換し主の力に支えられながら、大胆に神のみこころを行う者とさせていただこうではありませんか。

Ⅱペテロ1章5~11節 「救いを確かなものとしなさい」

  きょうは、ペテロの手紙第二1章5節から11節まで箇所から、「救いを確かなものとしなさい」というタイトルでお話しします。この手紙はペテロによって書かれた彼の生涯の最後の手紙です。既に見てきたように、第一の手紙では迫害によって苦しんでいた人たちを励ますために書かれましたが、この第二の手紙は、同じ読者ですが、教会の内側にいた偽教師たちの攻撃に対してどのように対処したらよいかを教えるために書かれました。彼らは聖書の教えを曲げ、教会の人たちを混乱させていました。そんな偽りの教えに惑わされないために何が必要なのか、それは正しい知識です。

 ですからペテロは、前回の箇所で救いに関する正しい知識を教えました。その中でもベースになるのが救いに関する教えです。悪魔が最初に攻撃してくるのは、救いに関することだからです。パウロはエペソ書の中で、「救いのかぶとをかぶり」と言いました。それは頭を守るようなもので、しっかりとかぶとをかぶっていないと、致命的な傷を負ってしまうことになります。

きょうのところでペテロは、そのようにして救われた私たちが、その救いを確かなものとすること、すなわち、救いの確信を持つことについて教えています。

 Ⅰ.キリスト者の7つの性質(5-7)

 まず5節から7節までをご覧ください。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」

 「こういうわけですから」とは、これまで彼が語ってきたことを受けてのことです。ペテロは、私たちが主イエスを知ることによって、いのちと敬虔に関するすべてのものが与えられたと述べました。この約束のゆえに、世にある欲によって滅びていくような者であったのにもかかわらずそこからも免れさせてくださり、イエス・キリストのご性質にあずかる者とされたのです。

「こういうわけですから、あなたがたはあらゆる努力をして」それは、一方的な神の恵みによるものでした。しかしそれは、私たちはもう何もしなくてもいい、ということではありません。「こういうわけですから、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」
あらゆる努力して救われなさい、ということではありません。私たちはすでにイエス・キリストを信じる信仰によって救われました。行いによるのではありません。神の恵みのゆえに、信じただけで救われました。救いは神の賜物であって、私たちの努力や行いとは全く関係ありません。救われた後で、努力して良い行いをしないと救いを失ってしまうということでもありません。恵みによって始められた救いの御業は、恵みによって貫かれ、恵みによって完成します。神は、そのために必要な一切のことをしてくださいました。

ではペテロはなぜここで「あらゆる努力をして」と言っているのでしょうか。努力するとは「勤勉である」とか、「熱心である」、「励む」、「奮闘する」という意味があります。たとえば、皆さんが親から1,000坪の畑をもらったとしましょう。畑だけでなく作物の収穫に必要な一切のもの、種とか、肥料とか、農機具とかもすべてです。あとはあなたが働いて、収穫を楽しむだけです。もうすべてあなたのものです。ただし収穫するためには働かなければなりません。そのためには勤勉でなければなりません。だから、聖書には、勤勉で、怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい、とあるのです。もし怠けて何もしなければ、畑を無駄にしてしまうことになります。せっかく良い土地が与えられたのに、そこには雑草しか生えてないとしたら、何ともったいないことでしょう。私たちの救いも同じです。神は私たちにすべてのものを与えてくださいました。永遠のいのちが与えられました。そして、イエス・キリストの神のご性質にあずかる者としてくださいました。しかし、それは自動的にもたらされるというのではありません。私たちが豊かな実を結ぶためには、神と共に働かなければならないのです。神が既にしてくださったことに従って、私たちが熱心にそれに応答するとき、神の御霊なる聖霊が働いて、私たちを神が望んでおられる者に変えてくださるのです。多くの実を結ばせてくださるのです。

ペテロはここで、私たちが実を結ぶべき7つの性質を述べています。それは徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛です。この7つの性質の土台となるのは何ですか?信仰です。ここでの信仰とは救いの信仰です。私たちはキリストを信じる信仰によって救われました。すべての罪は赦され、義とされ、新しく生まれ、神の子とされました。その始まりは、イエス・キリストを信じたことによってです。そして信じた人にはみな、神の子としての性質が与えられました。ですから、イエス・キリストのご性質、神のご性質へと変えられていくのです。しかし、それはほっといておいて自動的にそうなっていくというのではありません。それは、私たちがあらゆる努力をして、熱心に、追い求めなければならないことなのです。

私たちが追い求めるべき7つの性質、それはまず徳です。信仰には徳をとあります。徳とは何でしょうか。徳とは、優れた道徳のことです。信仰は優れた道徳を生み出します。その力も与えます。キリストを信じる前は、不道徳でした。しかし、信じた後は少しずつですが、モラルが向上していきます。今まで平気でしていたことができなくなります。なぜできなくなるのでしょうか。キリストを知ったからです。イエス・キリストは最高の徳を持っておられました。イエス様はその言葉にも、行いにも、全く完全な方でした。私たちはこの方を知ったので、この方を信じたので、この方と一つになったので、変えられました。イエス・キリストを知ればしるほど、親しくなればなるほど、そのようになっていくのです。友達もそうですよね。悪い友達といればその人の悪い影響を受けることになります。逆に、いい友達といればその良い影響を受けるようになります。私たちは以前イエス様を知りませんでしたが、イエス様を知ったので、イエス様のようになっていくのです。

次は何でしょうか。次は知識です。徳には知識を加えなさい、とあります。優れた徳を持つためには知識が必要です。何が良いことなのか、何が悪いことなのかを知らなければ、優れた徳を行うことはできません。徳には識別力が求められるのです。偽りの知識は私たちを偽りの道へと導きますが、正しい知識、真の知識は、良い行いへと導きます。では真の知識とは何でしょうか。それは神のみことばです。神のことばは真理です。詩篇119:130には、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とあります。ですから、私たちが熱心に神のことばを学ぶなら、真の知識を知り、良い行いへと導かれていくのです。

そして、知識には自制を加えます。信仰はすぐれた徳を生み出します。優れた徳のためには真の知識が必要です。でも知っていても自制しなければ、ブレーキをかけることができなければ、愚かな結果を招くことになります。そのためには自分の肉の欲を自制しなければなりません。この「自制」という言葉はアスリートに使われた言葉です。アスリートは賞を得るために自分のからだを鞭打ってでも従わせます。同じように、私たちも神からの賞を得るために誘惑に負けないように自制しなければなりません。Ⅰコリント9章でパウロはこう言っています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせています。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(Ⅰコリント9:24-27)

そして、自制には忍耐を加えます。忍耐とはただ何もしないで辛抱するということではありません。忍耐とは積極的に、勇敢に、試練に立ち向かうことです。どんなに苦しくてもあきらめません。最後まで戦い続けます。ではどうしたら忍耐を身に着けることができるのでしょうか?それは試練を通ることによってです。パウロはローマ5:3でこう言っています。
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」(ローマ5:3-4)
患難が忍耐を生み出します。パウロには多くの患難がありましたが、彼はその患難を喜んでいると言いました。なぜでしょうか。なぜなら、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っていたからです。

最近、80歳を超えた一人の姉妹とお話ししていました。信仰をもって25年になるというその方は、謙遜で、柔和で、穏やかな方です。がしかし、内側には主に対して燃えるような愛を持っておられる方で、礼拝や祈祷会を休まないのはもちろんこと、機会があれば積極的にご友人を教会に誘っておられます。どうしたらそんなにりっぱな信仰者になれるのと思いながら話を聞いていたらわかりました。それはその方が試練の数々を通られたからです。60を過ぎてご主人を病気で天に送るとご主人の後を継ぎ、女手一つで砂利屋の社長として7年間切り盛りし、その後ご家庭に降りかかる数々の試練を乗り越えたことで、その品性が磨かれたのです。できれば試練は避けて通りたいものですが、その試練を通して忍耐が与えられ、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出したのです。

ヘブル10:36にはこうあります。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」もしあなたがいま試練の中にあるなら感謝です。それは、この忍耐が生み出される時でもあるからです。

この忍耐に敬虔を加えなければなりません。敬虔とは、神を恐れ敬って生活することです。神を礼拝すること、キリストのように生きることです。実際の生活の中で神を意識して生活すること、信仰を働かせることです。実際の生活と信仰とを切り分けて考えるのではありません。実際の生活の中で信仰によって生きることです。教会に来る時は神を賛美し、神を礼拝し、神のことばを聞いて、神に集中しますが、家に帰ると「あれっ、さっき牧師が言っていたことって何だったけ?」と忘れてしまうのではなく、いつもそのことを思い巡らし、心に留めて生きることです。

時々週の半ば頃に、「先生、実は今週こんなことがあって悩んでいたんですが、礼拝で語られたあのみことばを思い出して祈っていたら、平安が与えられました。感謝します。」ということを聞くことがあります。礼拝で聞いたあのみことばをずっと心に留めて生活しているということに、とても励まされることがあります。まさに敬虔に生きるとはそういうことです。いつも神を意識して生きるのです。家に帰っても神を意識してください。主があなたとともにおられます。学校や職場でも神を意識してください。私たちが主を認めて、主を意識して生きるなら、主もまたそこにいてくださいます。そうすれば、当然、悪いことはできません。
私たちはよく子どもたちに「悪いことはするなよ」と言いますが、実際はそのように言うよりも、「いつもイエス様のことを思っていなさい」言った方がよっぽど効果があります。なぜなら、イエス様のことをいつも思っているなら悪いことはできなくなるからです。それは大人も同じです。主イエスをよく知ることです。主イエスを知れば、当然悪から離れ、神に喜ばれる生活をするようになります。完全にではありませんが、良い業に励むようになるのです。ですから、敬虔なクリスチャンというのはいつも神を恐れ敬い、神を喜び、神とともに生きる人のことなのです。

パウロはⅠテモテの中で、「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」(Ⅰテモテ4:7-8)と言っています。肉体を鍛えるということはとても大切です。特に年を重ねていくと、体が堅くなって動かなくなっていきます。ですから、ウォーキングをしたり、筋トレをしたりといったことが重要になってくるわけで、それを怠るとすぐに結果に表れます。ですから、肉体の鍛錬は有益だと教えているわけですが、しかし、それ以上に、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてにおいて有益です。私たちがこの敬虔を鍛錬していけばいくほど今の生活において有益ですが、将来においても有益のです。それは永遠に益となることだと言うのです。忍耐に敬虔を加える。私たちも敬虔のために自分を鍛錬しましょう。

さらにペテロはここで敬虔には兄弟愛を加えなさいと言っています。兄弟愛とは友情の愛です。信仰の仲間を愛することです。Ⅰヨハネ4:20~21にこう書かれてあります。
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目の見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(Ⅰヨハネ4:20-21)
キリストの命令は何でしたか。それは、「互いに愛し合いなさい」ということでした。イエス様はこう言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
兄弟愛、すなわち、私たちが互いに愛し合うなら、私たちがキリストの弟子であることを信仰のない人たちも認めるようになるのです。

最後に、兄弟愛に愛を加えなさいとあります。愛とは神の愛のことです。アガペーの愛、犠牲的な愛、意志の愛です。好き嫌いは関係ありません。自分の好みといったことも関係ありません。意志で愛します。犠牲的な愛、本物の愛です。神は愛です。どのようにして神は愛だとわかったのでしょうか。神の愛を知ったからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛されました。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。問題は、その「世」とは、どのような世であったかということです。その「世」は神に背を向け、神に敵対している世でした。にもかかわらず、神は私たちに対する愛を示してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちのために、なだめの供え物としての御子をお遣わしになりました。ここに神の愛が示されたのです。その神の愛を知りました。その愛を知った時、その愛に応答して、神を愛する者になりました。そして、神を愛するだけでなく同じ信仰の仲間である兄弟を愛するようになります。さらにその愛は広がりを見せて隣人を、そしてすべての人を愛するようになりました。また神を愛する者は、神の言葉に従って生活するようになります。神の言葉に従って生活をするので敬虔な人となり、試練の中でも忍耐をします。そして誘惑に遭っても自制し、真の知識に従って賢く、優れた行いをするようになるのです。その土台は何でしょうか。信仰です。主イエスを知ったことです。すべては主イエスを知ったことから始まりました。主イエスを知って、永遠のいのちが与えられたことから始まりました。永遠のいのちが与えられ、敬虔に関するすべてのこと、その思いや考え方、そして人生のすべてが変えられました。ですから、今度は私たちがあらゆる努力をしてこれらのものを加えるなら、聖霊の助けによって、イエス・キリストの性質に変えられるのです。

Ⅱ.実を結ぶ者とそうでない者(8-9)

「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」

聖書は、イエス・キリストを信じた者はみな、例外なく、多くの実を結ぶと約束しています。これが神の約束の一つです。神はたくさんの約束を、聖書を通してなさっています。その一つが多くの実を結ぶことです。イエス様はヨハネによる福音書15章において、ぶどうの木のたとえを話されました。それは、イエス様がぶどうの木であり、私たちが枝であるということです。そして、人がわたしにとどまり、わたしがその人にとどまるなら、その人は多くの実を結びます。キリストを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。私たちがキリストにとどまっているなら、そしてキリストも私たちの中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結ぶのです。これは神の約束です。これは自然界の真理であって、霊的にも言えることです。もし多くの実を結んでいないとしたら、何かが間違っているのです。どこかおかしいのです。ですから、自分を点検する必要があります。

ペテロは、この実を結んでいる人とそうでない人を比較しています。9節には、「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」とあります。

信じた者にはみな神の性質が与えられていて、その性質はキリストのように変えられていくわけですが、その一方でこれらの性質を備えていない人がいます。ペテロはこれらの人は、近視眼であり、盲目であると言っています。近視の人は遠くのものがはっきり見えません。盲目だと完全に見ることができません。私たちは、キリストを信じる前は盲目でした。神について何も知りませんでした。霊的に完全な盲目だったわけです。ですから不道徳だったわけです。その基準を知りませんでした。自分のやりたいこと、それが基準でした。自分のやりたい放題のことをしていたのです。誘惑がきたら喜んでそれについて行き、罪を楽しむようなことをしていました。また横柄で、人を見ては蔑み、神を敬うということなどは全くありませんでした。しかし今は違います。今はキリストを知って、神の愛を知って、神を愛するようになりました。隣人を愛するようになりました。神に喜ばれるような生活をしたいと願い、良い行いに励もうと努力するようになりました。なぜですか?主イエス知ったからです。聖書を通して真理であられる主イエスを知ったからです。そしてこの方を知れば知るほど、友達から影響を受けるように、この方からもっと大きな影響を受けて、この方の性質にどんどん変えられて行って、豊かな実を結ぶようになったのです。枝が木についていれば実を結ぶのと同じです。

しかし、この方から離れてしまうと、枝が木から離れると実を結ばないように、実を結ばなくなるのです。ですから、元の生活へと後戻りしていきます。不道徳になります。善悪の判断がつきません。否、知っていても、自分から誘惑の方に向かっていきます。そして自分の欲望に従って罪を楽しみ、罪を犯して、結果、楽しいのかというとそうではなく、みじめになるのです。みじめだとわかりながらも、良いことをする力がありません。木から離れているからです。木から離れ、いのちから離れているので、何の力もないのです。それを繰り返していると、自分は救われていないのではないかと思うようになります。神は私を愛していない。神に見捨てられてしまったと思ったりもするわけです。その人はどういう人だとペテロは言っていますか?その人は、自分の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。救われたはずなのに、救われているのに、救われていないかのように、救われたことをすっかり忘れているのです。それを思い出すことができません。自分の過去がどうだったのか、救われた時どうだったのか、キリストが救ってくださった時のことを思い出すことができない。忘れてしまった。その人が本当にキリストを知っているかどうかは実をみるとわかります。キリストにとどまる人は多くの実を結びます。しかし、キリストから離れてしまっている人は、実を結ぶことができません。

Ⅲ.救われたことを確かなものとしなさい(10-11)

ですから結論は何かというと、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、ということです。10節と11節をご覧ください。
「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。」

「ですから」とは、実を結ばないのは、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったので、ということです。キリストのご性質にあずかれないのは、自分の罪がきよめられたということを忘れていることが原因なのです。ですから、ペテロはここで、ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい、と述べているのです。召されたことと、選ばれたことと、いうのは同じことを指しています。それは私たちが救われたことです。神が私たちを救いに召してくださいました。神が救いに選んでくださいました。私たちが選んだのではありません。神が選び、神が任命してくださいました。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです。その救われたことを確かなものとしなさいと言うのです。

皆さんはどうでしょうか。自分が救われたという確信を持っているでしょうか。ある人は、「いや、ある時は救われているような気がするんだけれども、そうでない時もあります」と言います。またある人は、「いや、そんなの死んでみないとわかんね~と言う人がいます。そのような状態ではどんな不安のことかと思います。なぜなら、私たちが安心して生活できるのは将来に対する保証があるからです。それがなかったら不安になります。老後の生活をする時は老後の生活を計算して大丈夫だという確信があるから安心して過ごせるんでしょ。それがなければ、安心して過ごせません。それは永遠のいのちも同じです。死んでみないとわからないというのでは不安になります。ですから、救いの保証なり、確信を持つということは、私たちが安心して生きるためにどうしても必要なことなのです。ではどうしたら救いの確信を持つことができるのでしょうか。

そのためには二つのことが必要です。まず、いつまでも変わることのない神のことばです。神のことばは何と言っているかということです。もし私たちの救いが感情によるのであれば今日のように天気のいい日は救われていると思っても、吹雪のような荒れた日になれば、一気にその気分は吹っ飛んでしまうでしょう。こうして礼拝で賛賛美しているとし気持ちよくて救われたような気がしますが、ここから帰る途中車を運転していて、追い越されたりすると、「クソッ」と思って、「ああ、やっぱり私は救われていないんじゃないだろうか」と思ったりします。このように感情をあてにしていたら、上がったり下がったりして安定感がありません。

それでは私たちの信仰の経験はどうでしょうか。こんなすばらしい体験をした、こんな奇跡を体験した、いやしを体験したから、だから私は救われている。どうでしょうか。こうした体験そのものはすばらしいものですが、そうした体験も救いを保証するものにはなりません。なぜなら、そういう体験をしなければ、自分は救われていないのではないかと思ってしまうからです。ですから、感情も、体験も、私たちに確かな救いの保証を与えるものではありません。では何が私たちに救いの確信を与えてくれるのでしょうか。神のことばです。神のことばは永遠に変わることがありません。この神のことばが何と言っているか、聖書に何と書いてあるかです。たとえば、ヨハネ1:12にはこうあります。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)
キリストを信じた人々、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権が与えられました。ですから、もしあなたがイエス・キリストを信じているのなら、あなたは神の子としての特権を持っています。
また、ローマ10:9-10にはこう書かれてあります。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:910)
どうしたら救われるのですか。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。あなたはこのことを聞いたでしょうか。知ったでしょうか。そしてそのことを信じたでしょうか。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主であると信じたでしょうか。「はい、信じました」とはっきりと告白できるのであれば、あなたはもう救われています。神の子とされたのです。そして本当に救われたのであれば、救いを失うことはありません。イエス様はヨハネ10:28でこう言われました。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」
キリストの手から誰も奪い去るようなことはできません。さらにイエス様はこう言われました。
「わたしに彼らを御与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:29)
このような確かな保証が私たちに与えられているのです。これが神のことばである聖書が私たちに約束していることです。ですから、この神の言葉にしっかりと立ってください。聖書にあるその約束のことばをどうか握ってください。何か電撃的に、雷が落ちて、あなたの内側ですごい体験をした、このことばはすごく響いたという感覚で受け取る必要はありません。聖書を読んでいて、そのみことばを、あなたの心にしっかりととどめるということです。神のことばがこう約束しているから、私はイエス・キリストを信じました。私の罪からの救い主として信じました。イエス様、どうぞ私の心の内に来てください。あなたこそ私の救い主、主です。このことをあなたが自分の意志で受け取ったなら、あなたは救われるのです。神のことばがそう約束しているので、聖書にそう書かれてあるので、そう確信できるのです。これが私たちの救いの確信です。神のことばによってその確信が与えられます。そのことばをしっかりと握ることです。

それから、救いの確信を持つためにもう一つ大切なことがあります。10節をご覧ください。ここでペテロは、「これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません」と言っています。どういうことでしょうか。私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰だけです。行いによるのではありません。それなのにここでは、「これらのことを行っていれば」とあります。これは救われるためには行いが必要だということではなく、生きた信仰には行いが伴うということです。行いの伴わない信仰は、それだけでは死んだものです。救われるためには信じるだけで十分です。しかし、救われたのならば、当然そこには行いが伴ってくるのです。ペテロはここでそのことを言っているのです。では「これらのこと」とはどのようなことでしょうか。それは先ほど5節から7節までのところで見てきた7つの性質のことです。まず主イエスを知ることでした。信仰がベースです。すべては信仰からスタートします。信仰はすべての土台でした。そして信仰には徳を加え、徳には知識、知識には自制、自制には忍耐、忍耐には敬虔、経験には兄弟愛、兄弟愛には愛を加えることです。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。こうした性質はもう既に与えられています。私たちがイエス・キリストを信じた時に、そうした性質が与えられたのです。これはすべて神が成してくださったことです。今度はこれを私たちがする時です。あらゆる努力をして、熱心に励むことです。そうすれば神の子としての7つの性質の実を見ることができるでしょう。こどもが生まれると「ああ、この子が生まれて立派に成長したな」ということがわかりますが、神の子として生まれたならば、当然その性質があるわけですから、その性質が実っていくことによって、「ああ、本当に新しく生まれたんだ」ということがわかるようになります。個人差はありますが、みな成長して行って、自分も変わっていくのがだんだんわかるようになります。私たちの回りもその実を見ることができます。実を見て、確かにイエス様を知っていることがわかります。神の子であるのがわかるのです。それは人に見せるためではなく、その行いによって自分の正しさを証明するためでもなく、心から主を愛する者としてこれらを行うとき、「ああ、私は救われている」ということを実感することができるのです。

これらのことを完全に行うことが救いの保証になるのではありません。そこは気を付けてください。そうでないと、私は完全にできていないから、救いの確信がありません、ということになってしまいます。だから、そういうことではありません。完全に行うことができる人などだれもいないのですから。私たちはそこを目指して走っているのですから。完全になるのは、イエス様と再び会う時です。それまでは私たちは欠けがたくさんありながらも、主の御姿に変えられようと、ひたすら主を追い求めているわけです。パウロはそのことをピリピ3章でこう言っています。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捉えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどとは考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたすら前に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。ですから、聖人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。」(ピリピ3:12-14)

パウロは、もし、あなたがたどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます、と言っています。どのように考えるかはとても重要なのです。このように考えるなら、すなわち、神はイエス・キリストを信じることによって、私たちを救ってくださったということ、それは聖書のみことばを通して、その約束をしっかり握っていることによってもたらされるものですが、同時に、「これらのことを行っているなら」とあるように、同時に、救われたのであれば、その恵みに感謝して、これらのことを行っていくという面も重要なのです。それは救われるためではなく、本当に神が自分を救ってくださったという確信を持つために、そして、この神の御名をほめたたえ、この神の栄光のために生きるために、どうしても求められていることなのです。私たちは今年、神の約束のみことばをしっかりと握りながら、これらのことを行うということを追い求め、キリストのご性質に与る者でありたいと思います。

Ⅱペテロ1章1~4節 「主イエスを知ること」

 新年あけましておめでとうございます。この新しい年は、ペテロの第二の手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。きょうのメッセージのタイトルは、「主イエスを知ること」です。

 Ⅰ.主イエスを知ることによって(1-2)

 まず1節と2節をご覧ください。1節には、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」とあります。

この手紙は、イエス・キリストの弟子であったペテロから、同じ信仰を受けたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ここにはだれに宛てて書かれたかはありませんが、これはペテロの第一の手紙と同様、迫害で小アジヤに散らされていたクリスチャンに宛てて書かれたものです。なぜなら、3章1節に「愛する人たち、いま私がこの第二の手紙をあなたがたに書き送るのは、これらの手紙により、記憶を呼びさまさせて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです。」とあるからです。ペテロがこのように書いているのは、先の手紙の存在を前提にしているからです。ここには、「これらの手紙により、記憶を呼び先させて、あなたがたの純真な心を奮い立たせるためなのです」とりあます。これが、この手紙が書かれた目的です。ペテロは先に書いた第一の手紙で迫害で苦しんでいたクリスチャンたちに与えられた永遠のいのちの希望を示すことによって、この恵みに堅く立っているようにと励ましましたが、この第二の手紙では、その記憶を呼び覚まさせて彼らの心を奮い立たせようとしたのです。ですから、ペテロの第一の手紙が希望と励ましの手紙だとすれば、この第二の手紙は、心を奮い立たせる手紙だと言えます。

この手紙はペテロの生涯における最後の手紙となりました。先に書かれた第一の手紙のすぐ後に書かれたものだと言われています。先に書かれた手紙は、ローマ皇帝ネロの迫害が厳しさを増そうとしていたA.D.63~64年頃でしたので、あれから3年くらいが経ったA.D.66~67年頃に書かれたものだと推測されます。この後すぐに、彼は迫害によって殉教します。ですから、これは彼の遺言ともいえる手紙です。この最後の手紙で彼はどんなことを勧めているのでしょうか。

この手紙の冒頭で、彼は自分のことを、「イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから」と言っています。これは第一の手紙にはなかった呼び方です。第一の手紙では自分のことをどのように呼んでいたかというと、「イエス・キリストの使徒」と呼びました。しかし、ここでは「使徒」の前に「しもべであり」という言葉が付け加えられています。このしもべという言葉は、原語では「デゥーロス」という語ですが、これはローマ時代の下級奴隷のことを指す言葉です。「奴隷」には、権利も自由も認められず主人の支配の下に、完全な服従が求められていました。つまり、ペテロはこのように記すことによって、自分がイエス・キリストの言葉に全面的にひれ伏し、服従している者であることを表そうとしていたのです。いったいなぜ彼は自分のことをそのように呼んだのでしょうか。それは、ただ隷属的に服従が求められているからというのではなく、このイエスのしもべであることがどれほど光栄なことであり、それに伴って与えられる恵みがどれほど豊かなものであるのかを見据えていたからでしょう。それは2節に、「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」とあることからもわかります。神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安で豊かにされます。

 ペテロはこのことを、「私たちの神であるイエス・キリスト」という言葉を何度も繰り返すことによって強調しています。このイエス・キリストはどのような方なのか、イエス・キリストは神であり救い主なるお方です。これがペテロの信仰であり、ペテロが強調したかったことです。皆さん、私たちの主イエスはどのようなお方ですか?イエス様は神のひとり子であられ、私たちの罪を救うために人間となられました。33年間にわたり、神の力あるわざをなされ、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。そして、天に昇られ、神の右の座に着かれました。キリストは今も生きていてとりなしておられます。イエス・キリストは私たちの神であり救い主です。ペテロはいつもこのように言っていました。それが「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」という言葉です。

同じような表現がこの手紙の中に何度も繰り返して出てきます。たとえば、1:11には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っていますし、2:20でも「主であり救い主であるイエス・キリスト」と言っています。3章でも同じように、2節で、「主であり救い主である方の命令」とあり、最後の3:18でも「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」と言っています。このようにペテロは繰り返し、繰り返し、イエス・キリストは「私たちの神であり救い主である」と告白しているのです。それは彼が、キリストは神であり救い主であるということを強調したかったからです。

これが神のことばである聖書が私たちに教えていることです。イエス・キリストは神であり救い主です。半分神であり、半分救い主であるということではありません。キリストは100%神であり、100%人となって来られた救い主であるということです。神は霊ですから私たちの目で見ることができません。ですから、父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのです。それが人となって来られた神イエス・キリストです。キリストは神であられる方なのに、私たちを罪から救うために人となって来られたのです。ですから、ローマ9:5には「このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(ローマ9:5)とあるのです。またテトス2:13にも、「祝福された望み、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:13)とあるのです。

このように聖書は、イエス・キリストは神であり救い主であるとはっきりと教えています。これを否定する人は聖書の教えを否定する人です。聖書が教える神は三位一体の神であって、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つで一つの神です。三つで一つというのは人間の頭ではなかなか理解できません。また、説明することもできません。どんなに分かりやすく説明しようとしても限界があるからです。しかし、聖書がそのように言っているのであれば、それをそのまま受け入れること、それが信仰です。聖書が教えていることを否定したり、曲げたりするのは、神を否定することになるのです。

先日、教会の近くに住んでおられる一人の婦人から電話がありました。数年前に離婚したものの、病弱で、とても孤独なので、離婚した前の夫を呼び寄せて一緒に住んでいるのですが、とても寂しいのです。そしたら、近くに住む方から「あら、内にいらっしゃいませんか。毎週聖書の学びをしているのですが、聖書から慰めと励ましをいただき、一緒に学んでいる仲間ともお話ができるので、とても楽しいですよ。私も以前同じような孤独を敬虔したことがあるのですが、聖書を学んだら癒されました」と言われたのですが、行っても大丈夫でしょうか、というものでした。
確かに孤独から解放されるのなら行ってみたいという気持ちはあるのですが話を聞いていると「ん」と思うことがあるというのです。「どういう点でそう思うのですか」と尋ねると、「どうもイエスの父は大工のヨセフであって、父なる神ではないと云うのです。」「もしかすると、それはエホバの証人というグループではありませんか。エホバの証人の方は聖書から学んでいるとはいうものの、イエスは神でないと言うんですよ。神に近い人間だと言われます。神であるのと、神に近い人間とでは全然違います。それは天と地ほどの違いがあるんです。神を人というのですから、神を冒涜することにもなります。」と伝えると、
「そうですよね、何かおかしいからネットでイエスの父を調べてみたら、神だと書いてあったので、それを人間のヨセフだと言うのはおかしいと思ったんです。実はもう亡くなったのですが父と母も教会に行っておりましてクリスチャンでした。二人とも「教会に行きなさい」とは言わなかったのですが、何となくイエス様は神様だと言っていたので、ちょっと変だと思ったのです。父も亡くなる三日前に病床で洗礼を受けてクリスチャンになったのでキリスト教式でお葬式をしましたが、とても慰められました。やっぱりキリストは人間だという教会には行かない方がいいですね。」
「はい、キリスト教は宗派によって考え方に違いがありますが、一つだけ共通していることは、イエス様は神様だと信じていることです。そういう教会に行った方がいいと思います。」というと、「はい、そうします。また、ご連絡したいと思います」と言って電話を切られました。
皆さん、イエス・キリストは神であり救い主であられます。救い主だけど神ではないというのは間違いなのです。完全な神であり完全な救い主であるというのが聖書の一貫した教えであり、ペテロが強く信じていたことなのです。

そしてペテロは、この「イエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ」と言っています。どういうことでしょうか?それは、私たちの信仰は私たちの義によって与えられたものではなく、キリストの義によって与えられたものであるということです。それがペテロの信仰であり、この手紙の受取人であったクリスチャンの信仰でした。ここではそれが「尊い」と言われているのは、それが自分自身から出たものではなく、神の恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によって一方的に与えられた神からの賜物であるからです。
そのことについてパウロはこう言っています。「あなたがたが救われたのは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)
 つまり私たちの救いとは、私たちの義によってではなく、一方的な神ご自身の義、神の恵みによるものであるということです。私たちは皆、生まれながらに罪人あって、神のさばきを受けなければならない者でしたが、あわれみ豊かな神さまは、罪過と罪との中に死んでいた私たちを生かしてくださいました。神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。キリストがその罪のために十字架にかかって死なれ、その罪を贖ってくださいました。それだけではありません。キリストは三日目にその死からよみがえられました。それはこのキリストを信じる者が罪の赦しと永遠のいのちを受けるためです。ですから、私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです。これがペテロの信仰だったのです。この手紙の受取人であった人たちも同じ信仰を持っていました。神の恵みによって、イエス・キリストを信じるだけでもたらされる尊い信仰を受けていたのです。

この主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされます。私たちは以前、神がどのような方であるかを知りませんでした。それは神について聞いたことがなかったからです。しかし今、この聖書を通して、神がどのような方であるかを知りました。神は聖書を通してご自身を啓示してくださいました。神がご自身を現してくださらない限り、私たちがどんなに神を求めても神を見出すことはできませんが、聖書を通してご自身を現してくださったので、神を知ることができるようになったのです。ですから、聖書を通してまことの神がどういう方であり、イエス・キリストを通してどのようなことをしてくださったのかを知ることができました。このイエスを知ることによって、恵みと平安が豊かにされました。

しかし、この「知る」というのはただ知的に知るということではありません。それ以上のことです。つまり、「知る」というのは体験的に知るということです。神の言葉である聖書を通して、個人的に親しくキリストを知ることです。そして祈りを通してキリストは今も生きて働いておられる方であることを知ることができます。さらに信仰の仲間である教会の交わりを通して、キリストの愛の深さ、広さを知ることができます。キリストを個人的に深く知れば知るほど、神の恵みをさらに深く理解することができます。ですから、キリストを個人的に深く知るためには、時間を取ってキリストと深く交わらなければなりません。

私たちの人間関係もそうでしょう。互いに会えば会うほど、会う回数が増えれば増えるほど、互いをよく知ることができます。最初は外見だけを見て、「この人どういう人だろう」と思いますが、会えば会うほどその人がどういう人であるかを知るようになり、もっと親近感が生まれてきます。逆に、その人を知れば知るほど嫌になるという場合もありますが・・。しかし、それもその人と親しくなったからわかることであって、親しくならなければ何も知ることができません。家族であれば毎日会っているので、良いところも悪いところもひっくるめて、その人がどういう人であるかがわかります。イエス様との交わりも同じです。主イエスを知れば知るほど、イエス様のすばらしさ、イエス様の愛と力を知るようになるので、神の恵みと平安に満ち溢れるようになるのです。主イエスを知ることが、恵みと平安が増し加えられるための近道であり、霊的に成長するための秘訣なのです。私たちは今年、この主イエスを知ることによって、恵みと平安でますます豊かにされていきたいと思います。

 Ⅱ.いのちと敬虔に関するすべてのことを与える(3)

 なぜ主イエスを知ることによって、恵みと平安が、ますます豊かにされるのでしょうか。その理由が3節に記されてあります。
「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」

 なかなか回りくどい言い方ですが、簡単に言うと、この方を知ったことによって、主イエスの神としての御力が私たちに与えられたからです。ここでは、この方がどのような方であるのかということと、この方を知ったことで、どのような力が与えられたのかの説明が加えられています。

まず、この方は、ご自身の栄光と徳によって私たちをお召しになった方です。ヘブル1:3には、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、」(ヘブル1:3)とあります。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現われです。ペテロは、このキリストの神としての輝きを、あのヘルモン山で目撃しました。そのお姿は、非常に白く光り輝き、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時、天からの声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(マルコ9:7)それは父なる神の御声でした。それは神の栄光としての輝きだったのです。

また主イエスご自身も、「わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ14:9)と言われました。これは、弟子のピリポがイエス様に、「私たちに神を見せてください。そうすれば満足します。」と言ったことに対して、イエス様が言われた言葉です。それに対してイエス様は、「わたしを見た者は父を見たのです」と言われました。神は目に見ることができない方ですが、その神を見える形で示してくださったのがイエス・キリストです。この主イエスの中に、神の栄光の輝き、神の本質の現われが完全に見られます。このイエスを見る者は、父を見るのです。

 またペテロはここで「徳」とも言っています。これは、キリストの神としてのご性質のこと、また、力のことです。Ⅰペテロ2:22でペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。」(Ⅰペテロ2:22)と言いました。これはイエス様が全く聖い方であり、道徳的にも立派な方であったことを表しています。キリストは何一つ罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。キリストは言葉においても、行いにおいても、完全な方だったのです。ペテロはそのことを知っていました。あらゆる病をいやし、悪霊を追い出し、力あるわざをなさいました。キリストは神としての栄光をお持ちであっただけでなく、その行いにも、ことばにも、思いにも、また力においても、すべてにおいてすぐれたお方、この方が私たちの主イエス・キリストなのです。

このことを、パウロはこう言っています。「このキリストのうちに、知恵の知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3)また、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)
いまだかつて神を見た者はいません。しかし、その見えない神が見える形で降りて来てくださいました。それが神の子、救い主イエス・キリストです。この方は神の栄光に満ちた方でした。そしてその徳、性質もまさにすぐれたお方でした。

この方があなたを召してくださいました。「召してくださった」とは「呼んでくださった」ということです。イエス様はあなたを呼んでくださいました。イエス様はすべての人を招いておられます。「すへて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)有名なマタイの福音書11:28のみことばですね。そのようにキリストはすべての人を招いておられておられます。そのように、あなたことも招いてくださいました。あなたのことを呼んで、召してくださいました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちをご自身のもとに引き寄せてくださいました。神が私たちを引き寄せてくださらない限り、だれも神の許に行くことはできません。しかし、神はあなたを呼んでくださったので、神のもとに行くことができたのです。そして、聖書を通してキリストが神であり救い主であることを知ることができました。聖書によってキリストの神としての栄光と、神としてのご性質を知ったので、信じることができたのです。何も聞かないで信じたのではなく、聞いて、調べて、本当だとわかったので、信じたのです。

そのように信じたことで、そのようにして私たちを召してくださった方を知ったことによって、主イエスの、神のとしての御力が与えられました。3節の後半の所に、「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えてくれるからです。」とあります。

「いのち」というのは神のいのち、永遠のいのちのことです。私たちはイエス・キリストを信じる以前は、このいのちを持っていませんでした。すなわち、神のいのちがなかったわけです。いのちはありましたがそれはこの地上の肉体のいのちであって、やがて滅んでいくものでした。しかし、今はキリストを信じて神のいのちが与えられました。神が永遠なる方なので、私たちもこの神とともに永遠に生きるいのちが与えられたのです。どのように与えられたのでしょうか。知ったことによってです。何を知ったのでしょうか。イエス・キリストは神であり、救い主であるということです。イエス・キリストが私の罪からの救い主、主ですと信じ、口で告白して救われました。その瞬間にこのいのちが与えられ、キリストの神としての力があなたの内側に、私の内側に働いたのです。内側に与えられたいのちは、外側に表れていきます。今までは道徳的にも無感覚で、人が見ているか、いないかということを基準で生きたいたような者が、このいのちが与えられたことで、私たちの人生にあふれたようになりました。それがここにある「敬虔」ということです。

「敬虔」とは、他の訳では「信心」(新共同訳、口語訳)と訳しています。これは原語では「ユーセベイア」という語で、神を信じて生きる人の実践的な生活のことを意味しています。つまり、イエス・キリストを信じて生きる人の歩み、その生き方のことです。

ですから、キリストを知ったのであれば、本当に信じたのであれば、本当に救われたのであれば、それはその人の内側にある神のいのちが外側に溢れて出るようになり、その人の生活が変えられていくのです。「私は罪を悔い改めて、イエス様を信じました。イエス様を信じて神の子とされました。新しく生まれ変わりました。」とイエス様を信じ、イエス様を人生の主とするとき、まずあなたの心と思いが変えられ、次にことばが変えられ、やがて行動が変えられ、生活全体が変えられていくのです。なぜ変わっていくのでしょうか。知ったからです。イエス・キリストを知ったので、イエス・キリストの神としてのいのちがあなたの内側に働いて、その神のいのちが外側に溢れて行き、内側にある栄光が外側全体にあふれ出るのです。すごいですね。ですから、主イエスを知るということはものすごいことなのです。イエス様を信じたのにちっとも変わらないという人がいるとしたら、その信仰のどこかがおかしいのです。確かにイエス様を信じて救われているかもしれませんが、まだイエス様にあなたの人生の主導権を渡していないのかもしれません。イエス様が願っておられることよりも、自分が考える信仰生活をしている場合が少なくありません。もしあなたが主イエスを知っているなら、その神としての御力が、いのちと敬虔に関するすべてのことを与えてくださるので、その神のいのちがあなたの生活において表れるようになるのです。ですから、大切なのは主イエスを知ることなのです。

 Ⅲ.すばらしい約束(4)

最後に4節を見て終わりたいと思います。「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、主イエスを知るその目的が記されてあります。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。その約束とはどのようなものでしょうか。それは永遠のいのち、救いのことです。すべての罪が赦され、神の子とされました。永遠のいのちが与えら、神の国の相続人とされました。それは将来においてだけのことではありません。このいのちは今も私たちとともにあり、私たちを守り、導き、助け、日々の生活の中で必要なすべてのものを備え、満たしてくださいます。神はそのようなすばらしい約束を与えてくださいました。いったい何のためにこのような約束を与えてくださったのでしょうか。その後のところでペテロはこう言っています。「それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びから免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」

ここには、神がこのようなすばらしい約束を与えてくださったのは、キリストを信じたあなたが、私が、神のご性質にあずかる者となるためである、とあります。キリストを信じた者はみな永遠のいのちが与えられるだけでなく、キリストと同じ性質に変えられると約束されています。これが、神が私たちを救ってくださった目的です。以前はそうではありませんでした。キリストのご性質どころか、肉の性質に満ちていました。しかし今はキリストを知ったので、キリストと同じご性質にあずかるものとなったのです。キリストはどのような方ですか。キリストは愛です。キリストが愛であられたように、私たちも神を愛し、人々を愛する者へと変えられます。またキリストは聖いお方でした。ことばにも、行いにも、罪のない方でした。私たちは多くの点で失敗します。言わなくてもいいようなことを言ってしまったり、やらなければいいことをやってしまったり、あまりにもいいかげん自分の姿に嫌気がさしてしまうこともあります。しかし、キリストを知れば知るほど、キリストと親しくなればなるほど、私たちの内側が変えられますから、当然思いが変えられ、言葉が変えられ、行いが変えられ、あらゆる面で聖くされていくのです。これが、私たちが救われた目的です。

いったいどうしたらそのようなご性質にあずかる者となるのでしょうか。それは主イエスを知ることによってです。主イエスを信じて、主イエスとともに歩むことによってです。その前に、キリストと個人的に出会わなければなりません。私はこの方を自分の罪からの救い主であると信じていますと、口先でけではなくて、また知識としてだけなく、本当に心から自分の罪からの救い主、人生の主として受け入れ、この方と親しく交わるなら、あなたもこのようなご性質にあずかることができるのです。そういう意味で主イエスを知っているかどうかなのです。

あなたは主イエスを知っていますか?「はい、知っています」という方は、どのように知っているでしょうか。「あ、何となくです」というのは、本当に知っているということにはなりません。イエス様はぶどうの木と枝のたとえの中でこのように言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(同15:7)
つまり、主イエスを知るということは、主イエスにとどまることであって、主イエスにとどまるということは、主イエスのみことばにとどまることです。そういう人は多くの実を結ぶのです。
あなたはキリストのみことばにとどまっているでしょうか。自分ではとどまっているようでも、実際はそうでない場合もあります。キリストのみことばよりも、自分の都合を優先して行動していることが何と多いことでしょう。どうぞキリストのことばにとどまってください。そしてキリストと親しく交わってください。そこで人格的な関わりを持ってください。そうすれば、変えられない人などひとりもいません。神はそのために私たちを救ってくださったのですから。どうか礼拝を休まないでください。もし礼拝に来なければ、どこでみことばを聞くことができるでしょうか。もしかしたら、インターネットで聞くこともできるでしょう。確かに知識では聞くことができるでしょう。でももしあなたが本当に神のことばを聞きたいと思うなら、神を礼拝する場に出てこなければなりません。なぜなら、そこに神が臨在しておられるからです。その神の臨在に触れて初めてみことばを知るという経験ができます。そしてそれがそれぞれの個人の礼拝、ディボーションの力となるのです。信仰は聞くことから始まり、聞くことは、イエス・キリストのみことばによるのです。そのイエス・キリストのみことばを聞いて、主イエスと深く交わってください。そうすれば、主がご自身と同じご性質にあずからせてくださることでしょう。私たちは自分の力で自分を変えることはできません。それは神の一方的な恵みとあわれみによって神がなしてくださる御業なのです。あなたが主イエスを知り、あなたの人生を主イエスにゆだねることによって、あなたも神のご性質にあずかることができるのです。

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。この新しい年が、このような一年となりますように。イエス・キリストの恵みと知識において成長することができますように。このことを求めてご一緒に歩んでまいりましょう。

ヨシュア記16章

きょうはヨシュア記16章から学びたいと思います。

 Ⅰ.ヨセフ族の相続地(1-4)

 まず1節から4節までをご覧ください。
「ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、東、エリコのあたりのヨルダン川、すなわちエリコの水から荒野に出、エリコから山地を上ってベテルに至り、ベテルからルズに出て、アルキ人の領土アタロテに進み、西のほう、ヤフレテ人の領土に下り、下ベテ・ホロンの地境、さらにゲゼルに至り、その終わりは海であった。こうして、ヨセフ族、マナセとエフライムは、彼らの相続地を受けた。」

15章から、イスラエルのそれぞれの部族への相続地の分割が始まりました。最初に分割の恵みに与ったのはユダ族でした。長男がルベン、次男がシメオン、三男がレビ、そして四番目がユダです。その四番目であった彼らがどうして最初に土地の分割に与ることができたのでしょうか?長男のルベンは、父ヤコブのそばめ、ビルハと寝たことで、長男としての特権を失ってしまいました。二男のシメオンと三男のレビも、妹のディナがヒビ人のシェケムという男に辱められたことに怒り、彼らと親戚関係を結ぶと偽って彼らを虐殺してしまいました。ですから、その次のユダが最初に相続地の分割に与ることができたのです。しかし、それは兄たちに問題があったからというだけでなく、ユダ族はそれにふさわしい部族でもあったからです。彼らは信仰の勇者カレブに代表されるような、信仰の大胆さと勇気を持っていました。それゆえ、主は彼らを祝福し、彼らが最初に土地の相続に与るようにしてくださったのです。

ユダ族の次に相続地の分割に与ったのはヨセフ族でした。ヨセフ族が、くじで割り当てられた地の境界線は、1節から4節までに記されてある土地でした。これは彼らが相続した土地の南側の境界線です。それは聖書の巻末にある地図を見ていただくとわかりますが、ちょうどカナンの地の中央部に当たります。それは最も良い地であり、しかも、最も広大な地でした。ユダ族は最初に相続地の分割に与るという特権が与えられましたが、ヨセフ族には二倍の分け前、マナセ族とエフライム族の二部族に相続地が与えられました。彼らは他のどの部族にもまさって大きな祝福を受けました。いったいなぜ彼らはそれほど大きな祝福を受けたのでしょうか。それは先祖ヨセフの功績のゆえです。マナセとエフライムの先祖ヨセフは真実なる生涯を送ったので、その祝福は彼のみならず、彼の子孫にまでもたらされることになったのです。

 創世記に登場するヨセフは、どのような点で真実な生涯を送ったのでしょうか。彼は、その生涯の中で苦難や悲運の中にあっても尚、神に対して怒ったり、不信仰に陥ったりしませんでした。彼は兄たちの策略によりエジプトに売られていきましたが、それでも一切呟いたりせず、常に主なる神を信頼し続け、徹底的に神に従いました。彼には従順という徳が豊かに備わっていました。彼の前半の半生は奴隷としての人生でしたが、それでも決して神を呪ったり、人を恨んだりしませんでした。いつも主の御心は何かを求め、主とともに歩みました。また、様々な誘惑にも決して屈しませんでした。しかも、自分を陥れた人々を訴えたりすることもせず、常に真実であり続けたのです。ある時は濡れ衣を着せられ、囚人としての人生を歩まなければなりませんでしたが、そのような絶望的な状況の中でも常に神を賛美し、真実であり続けました。これはすごいですよね。最近冤罪で刑務所に20年以上も服役していた人の再審が認められ、逆転無罪判決を受けた人のニュースを見ましたが、刑務所にいる間はもちろんですが、刑務所から出てからもそれがトラウマになってなかなかうまく社会に適応できなくて苦しんでおられました。そう簡単に赦せることではありません。しかし、彼は自分をひどい目に会わせ、苦しい目に会せた人たちを赦し、自分をエジプトに売り飛ばした兄たちをも救い出したのです。
 
 このようなヨセフの生涯の中に、愛と赦しという徳が見事に現われているのを見ます。このヨセフの高尚な生涯は、遂に彼自身をエジプトの「国のつかさ」すなわち総理大臣にまで上りつめらせただけでなく、その子孫に対する遺徳となって、祝福と繁栄をもたらしていったのです。このヨセフに見られるように、ひとりの人が神を信じ心から神に仕えて生きるなら、その徳はその人ばかりでなくその子孫に受け継がれ豊かな祝福と繁栄をもたらしていくのです。この新年のスタートにあたり、私たちはもう一度信仰に歩むことの尊さというものを覚えたいと思います。

 ところで、このヨセフの生涯は、だれの生涯を表していたのでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストも徹底的に父なる神に従い、その全生涯に渡って愛と赦しに徹せられました。キリストは、神であられる方なのに、神であるという考えを捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして仕える者の姿を取り、実に十字架の死にまでも従われました。キリストの十字架の贖いは、その総括として成された御業だったのです。イエス・キリストの十字架は、従順のしるしであり、真実のしるしであり、そして愛と赦しのしるしでした。ヨセフの生涯は、このキリストの生涯のひな型だったのです。

であれば、このヨセフの子孫がどのような祝福と繁栄を受けたかを知るとき、キリストの子孫である私たちが、どのような祝福と繁栄を受けるかを知ることができます。その子孫マナセとエフライムが最良の地、しかも最大の地を受け継いだように、最高の祝福を受けることになるのです。

同志社大学の創設者、新島襄については、日本で広く知られています。上州安中藩に生まれた彼は、若い頃聖書と出会い、キリスト教の感化を受け、西洋のキリスト教社会への非常な憧れから、密かにアメリカへ渡ったと言われています。しかし良く調べてみると、実際はそうではなかったようです。彼が初めてキリスト教信仰に触れたのはアメリカに渡ってからのことで、それまではキリスト教には触れていませんでした。ではどうして密かに出国したのか。それは、ある時、酒が入って酔っぱらい、仲間と喧嘩をして、その相手を殺傷してしまったからです。その追求が怖くて、そこから逃れるために密出国したのです。その逃亡先のアメリカでキリスト教信仰に触れて入信し、帰国後彼は日本の教育にキリスト教信仰を取り入れることで救いをもたらしたいという志と情熱を抱きました。そして、帰国後京都に同志社大学を設立したのです。彼の眉間には、深い刀の傷跡が残っていましたが、それは喧嘩によって相手を殺した時に、同時に彼が受けた傷なのです。言うならば、新島襄は決して聖人君子ではなく、むしろ卑怯者、臆病者と言われてもしかたがないような人物だったのです。しかしそんな彼がキリストを信じたことで全く変えられ、同志社大学を設立したばかりでなく、彼の門下からは、次世代を担う大変優れた指導者が多く輩出されていきました。一人の人がキリストと出会って救われることで、その人が天の御国を相続するという祝福を受けたばかりか、その祝福は後代にまで大きな影響をもたらしていったのです。キリストを信じて神の子どもとされるということは、このように大きな祝福なのです。それは恵みの高嶺、その頂きを手に入れるということなのです。

それならばなぜ、同じキリストを信じていながら、あるクリスチャンは恵まれ、あるクリスチャンはそうでないということが起こってくるのでしょうか。ここで言うところの恵まれるということは、決して裕福な生活を送っているとか、何かすばらしい業績を残したかといったことではなく、神との関係における豊かさのことです。それは信仰のあり方に問題があるからです。主イエスがどのような方であるのかを本当の意味で理解していないからなのです。

それはルカの福音書15章には有名な放蕩息子の話を見るとわかります。放蕩三昧をして帰って来た弟息子を父親は赦し、盛大な祝宴を設けて彼の帰宅を喜びました。一方、兄の方はこつこつと一生懸命に働き、少しも間違ったことはしない模範的人間でした。しかし、その兄は家に帰って弟のために宴会が設けられているのを見て、嫉妬し、ひがみ、祝宴の場に入ろうとせず、父親に文句を言いました。「私は何年もあなたに仕えてきたのに、ただの一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友達と楽しむために子ヤギ一匹もくださったことはありませんでした。それなのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました。」
 すると父親は彼に言いました。「子よ、あなたはいつも私と一緒にいるではないか。私のものは全部あなたのものだ。しかし、この息子は、死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

この譬え話が教えているころは、父なる神は私たちに最高の祝福を与えようとされるけれども、しかしそれは、私たちが人間的に立派だからではなく、また優れた業績を残したからでもなく、ただ神の恵みによって、イエス・キリストを主と信じたからです。その祝福は神の恵みにより、無条件でもたらされたのです。父なる神とは実にそのようなお方なのです。注意しないと、信じ方を間違えると、私たちもこの兄のようになってしまいます。兄は、自分自身の中に救いの根拠を作ろうとしました。この兄は律法主義的な信仰者の典型です。律法主義的なクリスチャンとは品行方正な生き方をし、真面目であり、物事に一生懸命取り組みますが、しかし、その努力の結果を自分の業の結果として、自分の内に救いの根拠を作ろうとするのです。しかし、そのように努力をすればするほど、私たちの内側が重くなってしまいます。そして逆に、神の祝福を手に入れることができなくなってしまうのです。

今日本の相撲界は揺れに揺れています。日馬富士の暴行問題から、日本相撲協会のあり方まで問われることになってしまいました。そこには「相撲道」とはどのようなものかという誤解があるように思います。相撲界は数年前から外国の力士たちも受け入れるようになりました。今その大半をモンゴルの力士たちが占めています。実に4人の横綱のうち3人がモンゴル出身です。その力士たちに日本の相撲道がわからないからと、それを何とか教えてやらなければならないと、考えている親方もいます。それに対して、モンゴルから来日した元横綱朝青龍が、「もういいじゃないですか。この問題をいつまでも長く引きずらないで、みんなで仲良くすればいいと思いますよ。だって相撲界は一つの家族なんだから。相撲協会も、親方も、力士も、ファンもみんなファミリー、そういう近い関係を築き上げることが大切だと思いますよ。」と言いました。
私はそれを聞いていて、なるほどと思いました。だれが加害者で、だが被害者だということではなく、みんな家族であり、仲間だという意識を持ち、みんな仲良くやっていくことが大切だというのは、相撲界だけでなくすべての業界に言えることではないかと思ったのです。あまりにも「相撲道」を追求しすぎると、見えるものまで見えなくなってしまうこともあります。そのような考えは祝福を失うことになってしまいます。そうでなくて、私たちはみなこの放蕩息子のようにどうしようもない者であったにもかかわらず、神の恵みによって、一方的に救っていただいたことを喜び、感謝するなら、必ずそれが外側に溢れるようになるのではないでしょうか。ですから、信仰において最も重要なことはこの主イエスの救いを知ることです。知るというのは単に頭で知るということ以上のことです。それは体験的に知るということです。本当に主イエスを知るなら、そこに神のいのちが満ち溢れ、それが外側にも現われるようになるからです。

私たちは、そのように自分自身の力によって救いの根拠を得て、救われようとするのではなく、イエス・キリストの十字架を信じる信仰によってのみ、ただ一方的な神の恵みによってのみ、救われることに徹し、ただひたすら感謝して歩みたいものです。そして、この神の恩寵に心を開き、ゆだねていきたいと思うのです。その信仰に生きるなら、私たちはイエス・キリストの子どもとされ、キリストの豊かな祝福に与ることができるばかりか、その祝福を子孫へと継承していくことができるのです。私たちはヨセフの子孫として、イエス・キリストの子孫として、最上で、最高の祝福を受け継ぐ者となったことを感謝したいと思います。

Ⅱ.エフライム族の地域(5-9)

次に5節から9節までをご覧ください。ここにはエフライム族が受けた相続地が記されてあります。「エフライム族の諸氏族の地域は、次のとおりである。彼らの相続地の東の境界線は、アテロテ・アダルから上ベテ・ホロンに至り、」

エフライムは、ヨセフの二人の子どもの弟の方です。生まれた順で言えばマナセ、エフライムとなりますが、弟のエフライム族から先に相続地が分割されています。どうしてでしょうか?これは、創世記48章の出来事と関係しています。ヤコブは年老いて病気になった時、ヨセフの子を祝福するために呼び寄せました。ヨセフはその際、父ヤコブの右手が長男マナセの上に来るように子供たちを配置しましたが、ヤコブは手を交差させて、弟のエフライムの上に置きました。ヨセフはあわてて父の右手を長男の上に移そうとしましたが、ヤコブは「わかっている、わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」(創世記48:19)と言いました。どういうことでしょうか。聖書には弟が兄に勝るという記事が結構あります。カインとアベル、エサウとヤコブ、放蕩息子の話もそうです。そういう箇所が読まれると、神は兄ではなく弟を愛し、特別に選んでおられるのかと思いますが、そういうことではありません。ここで兄が弟に仕えるというのは、神は人間のしきたりや考え方に縛られないお方であるということです。言い換えると、神の私たちに対する取り扱いは、ただ一方的な神の恵みによるということです。人間の社会の中では長男が後継ぎとして大事にされ、重く見られるのが普通です。しかし、そのように長男がいつも特別な立場に置かれるとしたらどうなってしまうでしょうか。おそらく、シラス知らずのうちに高慢になってしまうでしょう。自分が祝福されるのは当然であると思い込み、感謝もせず、自分と自分の立場を誇るようになります。しかし聖書はしばしば兄よりも弟をより祝福します。それは神の祝福はただ恵みによるものであることを教えるためであって、兄がへりくだって歩むためなのです。神は無に等しい者、何の功績もない者を、恵みによって祝福して下さるのです。このメッセージを真に理解するなら、どんな人でも望みを持つことができます。私たちがどういう立場にあろうと、どんな卑しい者であっても、神は恵みによって祝福してくださるからです。大切なのは、私たちがどんな立場であってもただこの恵みに感謝し、へりくだって歩むことです。

さて、エフライムが受けた相続地については、5節から8節までに記されてあります。1~4節にあるヨセフ族全体の境界線が、そのままエフライム族の南の境界線となります。エフライム族の残りの境界線が5節から記されます。5節は今見た1~4節の要約です。6~8節が北側の境界線となっています。

Ⅲ.エフライム族の失敗(10)

最後に10節を見て終わりたいと思います。このエフライムの相続地を記すにあたり、10節に、ヨシュアは特筆すべきことを書きました。それは、「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。」ということです。

エフライムの諸氏族は、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいました。彼らはエフライムに服する奴隷となったのです。これはどういうことでしょうか。これまで何回も見てきたように、モーセによる神の命令はカナンに住む人たちを聖絶することでした。容赦してはなりません。それは、彼らがその地の偶像に心を奪われて罪を犯すことがないための神の配慮でもありました。それなのに彼らは聖絶しませんでした。なぜでしょうか。カナン人を奴隷とすることで彼らを征服していると思ったからです。それで十分だと思った。それで主に従っていると思ったのです。しかし、どんなに追い払っていると思っても聖絶しなければ、神に従っているとは言えません。妥協は許されません。

それは、今日に生きる私たちにとっては、私たちの魂に戦いを挑む肉の欲との戦いのことです。Ⅰペテロ2章11節には、「愛する人たち、あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。」とあります。これがこの地上での生活を旅人として生きるクリスチャンに求められていることです。旅人であり寄留者である私たちは、この世でどのように生きていけばいいのでしょうか。どのように振舞うべきなのでしょうか。ここには、「たましい戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」とあります。この肉の欲を避けるというのは、肉の欲を抑えて、禁欲的な生活をしなさいということではありません。そうした肉の欲を殺してしまいなさいということです。なぜなら、この肉の欲とはあれこれの欲望のことを言っているのではなく、堕落した人間の罪の本質のことを言っているからです。それはイエス・キリストを信じたことで、私たちの古い罪の性質が十字架につけられたからです。死んでしまったのであれば、再び何かをするということはありません。
パウロは、「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)と言いました。偶像礼拝は何も、目に見える偶像だけではありません。地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。これらのものこそ、たましいに戦いを挑む肉の欲なのです。ここでは、そうしたものに対して殺してしまいなさいと言われています。うまく共栄共存しなさいとか、支配しなさいというのではなく、殺してしまいなさい、と言われているのです。それらと分離しなければなりません。それが聖絶ということです。

私たちは自分たちの肉の問題を完全に支配していると思っているかもしれませんが、もし奴隷にしているだけであれば、聖絶しているとは言えません。それはこのイスラエル人と同じです。やがてその小さなほころびから信仰の敗北を招くことになってしまいます。そういうことがないように、ここまで従っていれば十分だろうというのではなく、主が命じていることに徹底的に従うことが求められているのです。このように徹底的に主に従うことで、この新しい一年が主の勝利と祝福に満たされた年となるように祈ります。