エレミヤ24章1~10節「二かごのいちじく」

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エレミヤ書24章に入ります。今日は、「二かごのいちじく」というタイトルでお話します。いちじくはイスラエルを代表する木で、その葉と実を含め、聖書によく登場します。エレミヤはある時、主の神殿の前で、このいちじくの幻を見せられるのです。それは、二かごに盛られたいちじくでした。主はその幻を通して、当時のユダの民に大切な真理を語ろうとされたのです。それは、主のみこころに従う者を、主は初なりのいちじくのようにするということです。反対に、主のみこころに従わない者は、腐って、非常に悪いいちじくのようにするということです。

Ⅰ.エレミヤが見た幻(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」」

それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エコンヤ(エホヤキン)と、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のことです。バビロン捕囚は、計3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年です。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。二回目はB.C.597年です。この時、エゼキエルもバビロンに捕え移されます。そして三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。この24章の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコンヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムに連れて行かれました。詳しいことはⅡ列王記24章に記されてありますが、かなり大がかりな捕囚だったようです。何といっても、この時ユダの王エコンヤ(エホヤキン)と、彼の母、彼の妻たち、その宦官たち、この国の主だった人々が、捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて行かれたというのは大きかったと思います。それでネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのゼデキヤをエホヤキンの代わりに王としたのです。そのゼデキヤはやがてネブカデネザルに反逆してクーデターを起こしますが失敗し、目をえぐり取られて殺されるという悲惨な結果を招くことになります。

ですから、この24章の出来事は、第二回目のバビロン捕囚直後の出来事なのです。その時、何がありましたか。主がエレミヤに一つの幻を示されました。それは、主の神殿の前に、二つのかごのいちじくが置かれてあったというものです。
  一つのかごにあったのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようでした。初なりのいちじくというのは、とっても美味しくて、貴重で、高価ないちじくという意味です。イスラエルでは、いちじくは年2回に分けて収穫されます。1回は6月頃で、もう1回は8~9月頃です。ここには初なりのいちじくとありますから、6月頃に収穫されるいちじくのことです。これは本当に良いいちじくで、美味しく、非常に高価で貴重なものでした。

もう一つのかごにあったのは、非常に悪いいちじくでした。悪いというのは腐っていてという意味です。もう腐っていてとても食べられるものではありませんでした。これは2回目に収穫されるいちじくのことではなく、収穫されないでそのままいちじくの木に残されていたものです。収穫されてないでそのままにしておくとどうなるかというと、完熟して地面に落ちてしまいます。いちじくは繊細で傷みやすい果物なので、そのままにしておくとあっという間に腐ってしまうのです。ここで言われている非常に悪いいちじくとは、そのようないちじくのことです。それは非常に悪いもので、もう食べられなくなっていました。非常に対照的ないちじくが、二つのかごに盛ってありました。エレミヤはそのような幻を見たのです。いったいこれは何を表していたのでしょうか。

Ⅱ.良いいちじく(4-7)

まず良いいちじくから見ていきましょう。4~7節をご覧ください。「4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」

主はこう言われました。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」(5)
  「カルデア人」とは「バビロン人」のことです。ですから、ユダの捕囚の民とはバビロン捕囚となった民のことを指しています。その民を良いいちじくのようにしよう、良いものであると見なそうというのです。つまり良いいちじくとは、バビロンへ捕え移された捕囚の民のことを表していたのです。これは不思議なことです。なぜなら、彼らはバビロンによって侵略され、みじめにも降伏して、捕虜となっていたからです。どう見たってみじめです。それなのに主は、そんな者を良いいちじくのように、初なりのいちじくのように見なそうと言われたのです。ちょっとピンときません。合点がいかないという方もおられるでしょう。いったいどうしてそれが良いいちじくなのか。逆じゃないですか。敵に敗れ、捕虜として連れて行かれ、奴隷として生きなければならないとしたら、それこそ腐ったいちじくのようなものです。かつては良かったかもしれません。しかし、今は地面に落ちて腐ってしまい、とても食べることなどできなくなった悪いいちじくのようです。イメージとしてはこっちの方がピッタリくると思います。でも、神はそうじゃないとおっしゃられました。バビロン捕囚として連れて行かれたユダの民こそ良いいちじくであると言われたのです。これは人間的な物の見方、考え方と全く逆です。

聖書を読んでいるとこういうことが往々にしてあります。たとえば、イエス様は山上の説教の冒頭でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)不思議なことばですね。心が豊かな者、心が満ちている者は幸いですというのならわかりやすいのですが、心の貧しい者は幸いですと言われたのです。それは勿論心の卑しい人とか心の狭い人のことではありません。神様の前に自分の霊的貧しさを知っている人、すなわち、自分の心の貧しさを正直に認め、心が砕かれた人のことを指しています。神様が忌み嫌われるリストが聖書の中にあるのですが、その一番最初に来るのが高ぶる者、すなわち、傲慢さや高慢さです。自分の傲慢さを認めることは勇気が必要です。しかし、それを認めてへりくだる者にこそ、神様は本当の幸いを与えてくださるということなのですが、このように説明されると「あっ、そういうことですね」とわかりやすいのですが、そうでないと「えっ」と首をかしげたくなります。このように聖書の中には、神様の驚くべき物の捉え方というか考え方、価値観が、いたるところに記されてあるのです。
  ここもそうです。敵の攻撃に敗れ、捕虜として、捕囚の民として連れて行かれたら不幸なはずなのに、神の目ではそういう人が幸いであって、良いいちじくのようだ、というのです。いったいどうしてそれが良いいちじくのようなのでしょうか。

第一に、それが神のみこころだったからです。5節にこうあります。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」
  確かに彼らは神に背き、悔い改めなかったので、バビロンに捕え移されるという懲らしめを受けることになりましたが、神のご計画はそれで終わりませんでした。そのことを通して彼らをもっと良いものにしようと考えておられたのです。そのことは、既に21:8-10で語られていたことでした。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。「10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──【主】のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
  ここで主は彼らの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。いのちの道とは、捕囚の民としてバビロンに行くことです。逆に死の道とは、エルサレムにとどまることでした。最後まで徹底抗戦してバビロンと戦い、エルサレムに留まることです。一見最後までとどまって戦った方がいのちの道のようですが、そうではなく、それは死の道を選択することでした。なぜなら、彼らがバビロンの捕虜として連れて行かれることが神のみこころだったからです。神のみこころに従うことがいのちの道です。逆に従わないことが死の道です。彼らが神のことばに従わなかったので神はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめようとされたのです。それが神のみこころだったのです。まさにヘブル12:11にある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」で言われていることです。」
  神のみこころは彼らを滅ぼすことではなく、彼らを良いものにすることだったのです。そのためには訓練が必要でした。それがバビロン捕囚だったのです。それは神からの訓練、神からの懲らしめだったのです。その懲らしめを通して神は彼らを良いものにしようとされたのです。それは彼らにとっては喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思えることでしたが、しかし後になると、これによって鍛えられた人たちに、義という平安の実を結ばせることになるのです。
  これが神のご計画でした。ですからバビロンによって捕囚の民として連れて行かれることは悲惨なようですが、実際はその逆で、そのことによって彼らは鍛えられ、もっと良いものにされたのです。初なりのいちじくのように。

第二のことは、彼らがバビロンに捕え移されても、それで終わりではなかったからです。主はやがて彼らを約束の地に帰らせ、その国を永遠に確立すると約束されました。6節にこうあります。「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。」(6)
  何とすばらしい約束でしょうか。ここで主は彼らを幸せにしようと彼らに目をかけると言われました。どういうことでしょうか。彼らを幸せにするために懲らしめを与えるということです。そうです。バビロン捕囚は、彼らに対する神の懲らしめだったのです。彼らを痛めつけるために懲らしめるのではありません。彼らを幸せにするために、彼らを良いものにするための懲らしめです。その幸せとは何というと、彼らをこの地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、飢えて、引き抜くことはないということです。すなわち、イスラエルは永遠に堅く立てられるということです。そのためにはこのバビロン捕囚が必要だったのです。これは、彼らがバビロンに連れて行かれてから70年後にそこから解放されるということを通して実現しますが、そればかりではなく、世の終わりにおいて全面的に成就することになります。事実、今でもこれが実現しています。世界中に散らされたユダヤ人が、約束の地に戻って来ているのです。1948年にはイスラエルが国として独立しました。そういう神様の深いご計画があったのです。

第三に、このバビロン捕囚という出来事を通して、神様は彼らに主こそ神であるということを知る心を与えるからです。彼らが心を尽くして主に立ち返るためです。7節にこうあります。「わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
  これもすばらしい約束です。私たちが主を知ることができるのは、主が、ご自身を知る心を与えくださるからです。そうでなければ、主を知ることはできません。というのは、この「知る」という語は単に頭で知るということ以上のことだからです。これはヘブル語で「ヤダー」という語であることは何度も言っていますが、これは深く知るという意味です。単に知識で知るという以上のことで、人格的に知るということです。それは主がそのような心を与えてくださって初めてできることです。そしてこの神を知ることこそ、永遠のいのちそのものなのです。

ヨハネ17:3をご覧ください。ここにはこうあります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
  皆さん、永遠のいのちとは何ですか。ここには、永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです、とあります。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠のいのちです。ですから、主を知る心をいただくということは、永遠のいのちをいただくということ、すなわち、救いをいただくということなのです。神との回復をいただくということ、神の子としていただくということです。失われていた神との関係を回復し、神との親しい交わりの中にいれていただくことなのです。

Ⅰヨハネ5:20にはこうあります。「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
  イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです。私たちはどうやってそれを知ることができたのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが来て、真実な方を知る理解力を与えてくださることによってです。自分の力で知ることはできません。自分の力で永遠のいのちを獲得することはできないのです。神がこの心を与えてくれない限り知ることはできません。逆に言うと、どんなに聖書がわからない人でも、神様がこの心を与えてくださるならだれでも知ることができます。だれでも救われるのです。だから、聖書の教える救いは神の恵みでしかないわけです。
  それを、自らの罪の結果バビロン捕囚という憂き目にあった彼らに与えられたのです。彼らにはそんな資格はありませんでした。自分の力では主を知ることなんて全くできなかったのに、バビロン捕囚という出来事を通して彼らにその心が与えられたのです。それは恵みではないでしょうか。

このように、絶望的に見えるバビロン捕囚は、かえって主に目をかけられ、信仰が立て直されるきっかけとなったのです。人の目には悪く見えても、捕囚という試練、懲らしめは主から見ると「良いいちじく」なのです。それはまさしくイザヤ書55:8~9で言われていることです。ご一緒に読みましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

当時、大部分の人は、幸いなのはエルサレムに残った人たちであると思ったことでしょう。しかし、神の思いは異なっていました。神の思いは全く逆だったのです。神のみこころは、神のことばを信じて、バビロンの捕囚の民としてエルサレムからカルデア人の地、すなわちバビロンに捕え移されることだったのです。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。であれば、私たちがどう思うか、どう考えるかということではなく、神の思いは何なのかを知り、それに従うことこそ幸いな道であり、良いいちじくとなるということがわかります。

それは私たちにも言えることです。一見、悪いと思える出来事が良き導きのきっかけとなる場合があります。逆に、見せかけの平安や幸せが、悲劇につながることもあるのです。ですから、私たちは目先の結果に揺さぶられることなく、「すべてのことを働かせて益としてくださる主」に信頼し、主のみこころに歩まなければなりません。

Ⅲ.悪いいちじく(8-10)

最後に、悪いいちじくを見て終わりたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」」

ここには悪くて食べられない、悪いいちじくについて言及されています。それは南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤをはじめとする、エルサレムに残った人たちのことを指しています。ゼデキヤについては先ほども述べたように、エホンヤ(エホヤキン)がバビロンに連れて行かれた後、バビロンの王ネブカデネザルによって擁立された王です。彼が南ユダ最後の王となります。彼は本来バビロンのパペット、操り人形にすぎませんでしたが、後にバビロンに反旗を翻しクーデターを起こしました。しかしその結果、ネブカドネツァルに殺されることになります。目の前で息子が虐殺され、その目をえぐり取られたのです。ですから、彼が最後に見たものは、息子が虐殺されるというシーンでした。何とも惨めな死に方です。その前にバビロンに捕えられ、幽閉されたエコンヤ、エホヤキンとは大違いです。いったいなぜ彼はこんな惨めに死んで行ったのでしょうか。神のみこころに従わなかったからです。神のみこころは、彼らがバビロン捕囚として懲らしめを受けることだったのに、それをしなかったからです。

一方、その前にバビロンに連れて行かれたエコンヤはどうなったでしょうか。22:30では、彼は「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ、とのろいを宣告されたにもかかわらず、バビロンに移されてから37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から呼び出され、優しいことばをかけられ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされます。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも主の前で食事をすることが許されたのです。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されました(Ⅰ列王記25:27-30)。

  いったいこの差はどこから生じたのでしょうか。それは、神のみこころに従ったかどうかという一点です。エコンヤも決して敬虔な王ではありませんでした。でもバビロン捕囚に素直に従ったので、彼は後に良いいちじくに、良いものに変えられたのです。そして、このエコンヤの子孫にイエスの養父ヨセフが生まれることになります。エコンヤの息子たちは王位に就くことはありませんでしたが、でも彼らはバビロン捕囚によって殺されることなく、投獄されましたが最後は良い目に遭いました。一生奴隷のように扱われて、獣のように鎖につながれて惨めに檻の中で死んで行ったのではなく、そこから出されて再び王宮に住むことが許されたのです。大どんでん返しが起こったのです。なぜでしょうか。それは6節にあるように、主が彼を幸せにしようと、良いものにしようと目をかけてくださったからです。彼は悔しいけれども従いました。納得いかなかったけれども従いました。神の希望の約束があったから。その先が見えていたからです。

皆さん、神のみこころは物事が順調に行くこととは限りません。神のみこころは、目の前の困難に常に勝利し続けるということとは限りません。神のみこころは、時に敗北したかのように見えることもあり得るのです。でも神のみこころなら、それが勝利につながるという大どんでん返しが起こり得るのです。

ですから、結論はこれです。Ⅰペテロ5:5~7を開いてください。ご一緒に読みましょう。「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます。神のみこころはバビロンに捕虜として連れて行かれることなのに、そんなの嫌だと、自分たちの知恵と力で最後まで抵抗した人たちは腐って食べられない悪いいちじくになってしまいました。一方、へりくだる者には恵みを与えてくださいます。バビロン捕囚は、神が繰り返し警告しておられたことなのに、それを受け入れないで自分勝手に歩んだ結果がこれ。今さらジタバタしても無駄なこと。むしろ、このバビロン捕囚を招いてしまった自分たちの罪を嘆き、本当に神に申し訳ないことをしてしまった。この屈辱を、この悔しさを、この涙を、この苦しみを、この悲しみを、この痛みを甘んじて受けよう。これがへりくだる者の姿です。そして、このようにへりくだる者に、神は恵みを与えてくださいます。彼らを幸せにしようと彼らに目をかけてくださり、良いいちじくに、初なりの最高のいちじくにしてくださるのです。

ですから、私たちに求められていることは、神の力強い御手の下にへりくだることです。そうすれば、ちょうど良い時に神が高くしてくださいます。たとえあなたが承服できなくても、たとえあなたが納得できなくても、たとえ屈辱的な扱いを受けたとしても、たとえすべてを失うことがあったとしても、たとえどんな悲しみに落ちようと、主は良いものにしてくださるという約束を信じて、力強い神の御手の下にへりくだらなければならないのです。多くの場合、納得がいかないと神に従がおうとしません。すべてを失うのは嫌です。でもそれが神のみこころなら、たとえ納得できなくても、たとえ理解することができなくても、たとえ悔しくても、それでも従わなければならないのです。その向こうに希望があるからです。

皆さん、私たちの前には常に二者択一の選択が置かれています。いのちの道を選ぶか死の道を選ぶか、初なりの非常に良いいちじくになるかそれとも、腐って食べられない悪いいちじくになるのかです。バビロンに降伏することは大変屈辱的なことのようですが、それが神のみこころならやがて良いいちじくとなるのです。なぜなら、主があなたを幸せにしようとあなたに目をかけておられるからです。この力強い主の御手の下にへりくだり、主のみこころに従いましょう。あなたにも初なりの良いいちじくのように、良いものであると見なしていただこうではありませんか。

エレミヤ23章23~40節「真の預言者とにせ預言者を見分ける」

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今回は、前回に続いて、どうしたら真の預言者とにせ預言者とを見分けることができるか、というテーマです。真の預言者とにせ預言者とでは、どのような違いがあるのでしょうか。どうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。どちらも、自分は主から遣わされた預言者だと主張しています。どちらも主の御名によって預言しています。ですから、外見上それを見分けるのはなかなか困難です。いったいどうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。これは、何も昔の話ではなく、極めて現代的なテーマでもあります。今日の箇所から、真の預言者の特徴を見ていきたいと思います。

Ⅰ.麦と藁(わら)のたとえ(23-29)

まず、23~24節をご覧ください。「23 わたしは近くにいれば、神なのか。─【主】のことば─遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。─【主】のことば─天にも地にも、わたしは満ちているではないか。─【主】のことば。」

にせ預言者たちの特徴の一つは、物理的に近い偶像の存在は認めても、どこにでもおられる真の神の存在を認めることができなかったということです。ですから、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられると考えていたのです。最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したとき、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そのとき神である主は、人に呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」神である主は彼らがどこにいるのかわからなかったのでしょうか。いいえ、彼らがどんなに身を隠しても、彼らがどこにいるのかをちゃんと知っていました。その上で「あなたはどこにいるのか」と尋ねられたのです。そこはあなたのいるところではない。あなたがいるところはここだと。どんなに隠れたところに身を隠しても、神の目からのがれることはできません。なぜなら、神はどこにでもおられるからです。神はあらゆるところにおられます。ダビデは、詩篇139篇でこう言っています。「7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。8 たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも10 そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)
  たとえ天に上っても、主はそこにおられます。たとえよみに床をもうけても、そこにも主はおられます。たとえ海の果てに住んでも、主はそこにもおられます。主はどこにでもおられるのです。ですから、たとえ隠れ場に身を隠したとしても、神の目から隠れることはできません。神はすべてをお見通しなのです。それなのに彼らは、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられるのではないかと考えていました。神は、近くにいても、遠くにいても神です。神は、天にも地にも満ちておられます。彼らはそれを認めることができませんでした。それがにせ預言者の特徴の一つです。彼らは神の存在を認めていませんでした。神を恐れていなかったのです。

次に、25~28節をご覧ください。「25 わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。26 いつまで、あの預言者たちの心に偽りの預言があるのか。心の偽りごとを語る預言者たちのうちに。27 彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいるのか。28 夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦は藁と何の関わりがあるだろうか。─【主】のことば─」

にせ預言者たちの特徴の第二のことは、自分たちの見た夢をあたかも神から与えられた啓示であるかのように語るということです。25節には、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。」とあります。ここで特徴的なのは、「私は夢を見た。夢を見た」と、夢を見たということばが繰り返されていることです。どうして彼らはこのように繰り返して言っていたのでしょうか。それを強調したかったからです。このように強調することによって、あたかもそれが本当であるかのように訴えるためです。
  確かに神は夢や幻を通しても語られることがあります。たとえば、創世記28章にはヤコブが夢を見たことが記されてあります。それは天から地に向かって一つのはしごがかけられていたという夢でした。そして、そのはしごの上を神の御使いが上り下りしていました。これは、ヨハネ1:51を見ると、天から地に向けて架け橋となられたイエス・キリストのことを示していました。このように、確かに神は夢を通しても語られることもありますが、だからと言って、夢を見たらそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。伝道者の書5:3には「仕事が多いと夢を見る」とあります。仕事が多いと夢を見るようになります。あれもしなければならない、これもしなければならないということが多くなると、神経が高ぶって寝つきが悪くなり、夢を見ることが多くなるというのです。でもそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。それなのに、にせ預言者たちは、あたかもそれが神から与えられた啓示であるかのように語っていたのです。するとどうなりますか。27節をご覧ください。ここには「彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように」とあるように、かえって神から離れてしまうことになるのです。主につながるどころか、主から離れさせてしまうことになるのです。信仰から離れてしまうことになります。コロサイ2:18には、「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(新改訳第3版)とあります。「かしら」とはイエス・キリストのことです。彼らは夢や幻を見ることによって、かしらであるキリストに堅く結びつくことをしませんでした。かえって、キリストから離れてしまうことになってしまいました。

いったい何が問題だったのでしょうか。神のことばをベースにしていなかったことです。だから、やたらと自分たちの見た夢を強調していたのです。夢そのものが悪いのではありません。私もよく夢を見ます。「いつでもゆ~めを♪いつでもゆ~めを♪」夢を見ることは別に悪いことではないのです。問題は見た夢がすべて神からの啓示であると断言することです。ですから、夢と神からの啓示というものは分けて考えなければなりません。夢を見たらそれがすべて神の啓示であるというのではなく、本当にそれが神からのものなのかどうかを、神のことばによって吟味しなければならないのです。そうでないと、夢とか、幻とか、神のことば以外で受けたものをすべて神の啓示にしてしまう誤りを犯してしまうことになります。夢を見た預言者は夢を語ればいいでしょう。でも、神のことばを受けた預言者は、神のことばを語ります。これが真の預言者とにせ預言者の違いです。

そのことが、麦と(わら)のたとえでわかりやすく表現されています。28節をご覧ください。ここに「麦は藁と何の関わりがあるだろうか。」とあります。どういうことでしょうか。麦は栄養のある部分です。藁は、脱穀する時に出てくる殻のことですね。そこには栄養はありません。神の言葉は麦であり、夢は殻でしかないということです。神のことばは力となり、栄養となり、それによって生きることができますが、夢はただの幻であり、中身がないということです。栄養もありません。従って、それによって生きることはできません。真の預言者とそのメッセージは麦ですが、にせ預言者とそのメッセージは藁です。にせ預言者のメッセージは、人に何の益ももたらさないのです。

同じことが、火と金槌のたえによって表現されています。29節をご覧ください。ここには「わたしのことばは火のようではないか─【主】のことば─。岩を砕く金槌のようではないか。」とあります。神のことばが火にたとえられています。どういう点で神のことばは火のようなのでしょうか。不純物を焼き尽くすという点においてです。私たちの心に隠された汚れを焼き尽くして清めます。

ここには、さらに神のことばが岩を砕く金槌のようだともあります。どういうことでしょうか。どんなに堅いものでも粉々に砕くことができるということです。皆さんはダイヤモンドを持っていますか。ダイヤモンドは鉱物の中でも一番堅いものだと言われていますが、でもこの金槌で叩いたらどうなるでしょうか。あまりお勧めしませんが、もし皆さんがダイヤモンドを持っているなら、試してみるといいと思います。粉々に砕けますから。神のことばは金槌のようで、どんな堅いものでも粉々に砕くことができるのです。あなたの心もそうです。あなたの心がどんなに頑なでも、神のことばはそれを砕くことができます。神は砕かれた心、砕かれた悔いた心を求めておられます。私たちの頑な心も砕いていただきましょう。

このように、真の預言者のメッセージは麦のようであり、また火のようであり、金槌のようです。それは真に人を生かします。それは力があり、人を励まし、人を満たします。でも、にせ預言者のメッセージは中身のない藁のようです。いかにも神のことばであるかのように見せかけますが、それはただ聞く人の耳に心地よいだけで、何の役にも立ちません。ただの空しい話にすぎないのです。

Ⅱ.神のことばを利用するにせ預言者(30-32) 

真の預言者と偽りの預言者をどうやったら見分けることができるでしょうか。もう一つのポイントは、にせ預言者は神のことばを利用して、あたかもそれが主から与えられたものであるかのように語るということです。30~32節をご覧ください。「30 それゆえ、見よ─【主】のことば─。わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる。31 見よ。わたしは─【主】のことば─自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる。32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる─【主】のことば─。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない─【主】のことば。」

彼らは神のことばを利用して、いかにもそれが神のことばであるかのように語ります。32節には、「彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている」とあります。この「自慢話」と訳された言葉は、新共同訳で「気まぐれ」と訳されています。彼らは気まぐれで話をしていました。聖書が何を言っているかなど関係ありません。ただ自分が言いたいことを、聖書を利用して語るだけでした。その結果、民の心はカラカラに渇いてしまいました。アモス書8:1にこうあります。「見よ、その時代が来る。─【神】である主のことば─そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。」(アモス8:1)
  皆さん、飢饉といってもいろいろな飢饉があります。でもこの飢饉は、パンに飢える飢饉ではありません。水に渇く飢饉でもありません。みことばを聞くことの飢饉です。神のみことばが語られないと、私たちの心がカラカラに渇いてしまうのです。皆さんも、そういう経験がおありでしょう。講壇からみことばが語られない。牧師の経験談とか自慢話など、気まぐれな話は語られても、肝心な神のみことばが語られないので渇いてしまったということが。そういう意味では、毎週講壇から語られる説教がどれほど重要であるかがわかるかと思います。私もあまり他の牧師の説教を聞くことがありませんが、聞いていて感動する時というのは、その牧師がよく準備して、神のことばを神のことばとして語っている時です。神様ってすごいなぁと改めて教えられ、主をほめたたえます。どんなに楽しいお話でも、どんなに含蓄のあることばでも、神のことばを利用して自分の言いたいことを語るような説教はあまり心が動かされません。皆さんはいかがでしょうか。

主なる神さまもそのようにおっしゃっておられます。30節と31節と32節には繰り返して、そのようなにせ預言者に対して「わたしは彼らの敵となる」と、主は語っておられます。神が敵となることが一番恐ろしいことです。でも、もし神のことばを盗んで自分たちの教えに勝手に利用するようなことがあるとしたら、あるいは、講壇から神のことばではなく、偽りのことばや自慢話といった気まぐれで語られるようなことがあるとしたら、神が敵となられます。

あなたは、どのようにして真の預言者とにせ預言者を見分けていますか。ある人たちは、夢で見た内容、たとえば死後の世界とか、天国と地獄のことなどを書物に現わし、あたかもそれが福音の真理であるかのように語っています。しかし、それをそのまま信じてはいけません。最終的な権威は、聖書にあるので、聖書に照らして吟味しなければならないのです。

Ⅲ.主の宣告とは何か(33-40)

次に、33~40節をご覧ください。「33 この民、あるいは預言者か祭司が、『【主】の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに言え。『あなたが、宣告とは何かと言うので、わたしはあなたがたを捨てる─【主】のことば。』34 預言者でも、祭司でも、民でも、【主】の宣告と言う者があれば、わたしはその者とその家を罰する。」35 あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。36 しかし、【主】の宣告ということを二度と述べてはならない。その宣告自体がそれを言う人自身のことばであり、あなたがたが、生ける神、万軍の【主】、私たちの神のことばを曲げることになるからだ。37 「あの預言者たちにこう言え。『【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか。38 もし、あなたがたが【主】の宣告と言うなら、それに対して、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたに、【主】の宣告と言うなと言い送ったのに、あなたがたは【主】の宣告というこのことばを使っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、40 永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

33節の「あなたに」とはエレミヤのことです。ユダの民、あるいは預言者や祭司が、エレミヤに「主の宣告とは何か」と尋ねたら、エレミヤは彼らにこう言わなければなりませんでした。「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる─主のことば。」どういうことでしょうか。

この「宣告」ということばには※が付いていますが、下の欄外の説明を見ると、ヘブル語で「マサ」。「重荷」とも訳す、とあります。そして「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる」にも※があって、下の説明には、七十人訳による別役「あなたがたが重荷だ。わたしはなたがたを・・・・」とあります。つまり、この「宣告」と訳された言葉は「重荷」という意味もあるわけです。神様はそれを用いて、もしこの民、あるいは預言者や祭司が「主の宣告とは何か」とあなたに尋ねたら、エレミヤよ、あなたこう言いなさい。「あなたがたが重荷だ」と。

これは語呂合わせというか、神様のダジャレです。神様はダジャレを使うので私も時々ダジャレを使いますが、こんなに高度なダジャレは使えません。謎かけみたいですね。「主の宣告とかけまして重荷とときます。そのこころは、マサにそれが「マサ」です」ちょっと意味不明でしょうか。神様のような謎かけはできないですね。あまりにも高度です。そうです、これは高度な語呂合わせ、ダジャレなんです。ご自分の伝えたいことを明確に伝えるなんて、マサに御業です。神のことばを利用しながら、主の宣告、マサは何かというのに対して、マサに、それが彼らのマサになっていくのです。重荷となっていくというのです。すごいですね。まさかあの有名な牧師が語っていたことが聖書に逸脱しているとは思わなかった・・・。まさかあのベストセラーに書いてあることが非聖書的だなんて思わなかった・・・。てっきり主の宣告だと思っていたのに、でも気付いてみたらそれが重荷となっていくのです。

マタイ11:28~30に、イエス様の有名なことばがあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
  すばらしい約束ですね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」主があなたを休ませてあげます。主は心優しくへりくだっているから、あなたがたも主のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」「くびき」というのは、2頭の牛とか馬の首の後ろにかける横木のことですね。それは自由を束縛するものです。そのくびきを負って、主から学びなさいというのです。そうすれば、たましいに安らぎが来るからです。主のことばは私たちを束縛するどころか、私たちを自由にします。それは決して重荷とはならないのです。神のことばをベースにして働くなら、必ずあなたも休ませていただくことができます。リフレッシュして力を受けることができるのです。でも神のことばをベースにしなければ、自分の考えとか、自分の思いで突っ走ろうとすると、だんだん疲れて来て、もうその重荷に耐えることかできなくなってしまいます。にせ預言者たちの宣告がこれでした。彼らの宣告は神のことばをベースにしていなかったので、くびきをさらに重くしていたのです。

35節をご覧ください。「あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。」
  これがこの箇所のまとめとなります。これが最も重要なことです。主は何と答えられたか。主は何と言われたかということです。その預言者が何と言おうと、その有名な牧師が何と言おうと、そのベストセラー本に何と書いてあろうと関係ありません。主はどう答えられたか、主は何と語られたかが重要です。それを聞かなければなりません。それを主のことば、聖書のことばによって検証しなければならないのです。鵜呑みにしてはいけないのです。

使徒の働き17章には、ベレヤの教会について紹介されています。ベレヤの人たちは非常に熱心にみことばを受け入れ、果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べました。新約聖書の半分以上を書いたパウロ先生のメッセージを鵜呑みにしないで、パウロ先生が語ったみことばが果たしてそのとおりであるかどうかと、毎日聖書を調べたのです。そんな彼らのことをパウロは良い人だと称賛しました。非常に熱心にみことばを聞いていたというだけでなく、その聞いたみことばが本当にそのとおりかどうか調べていたからです。吟味していたからです。

逆に、吟味しない人はわきまえのない人です。箴言14:15にはこうあります。「浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。」浅はかな人は、何でも鵜呑みにします。いくら聖書を熱心に読んでも、いくらあちこちのセミナーに行っても、いろいろなメッセンジャーのことばを聞いても、聖書によって吟味しなければただのわきまえのない人になってしまいます。主は何と答えられたか、主は何と言われたかを、問わなければなりません。吟味しなければならないのです。

そのように問うなら、にせ預言者たちは沈黙せざるをえません。なぜなら、彼らの預言はにせものであることが明らかになるからです。それでも、彼らが「主の宣告」ということがあるとしたらどうなるでしょうか。39節と40節です。「それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」
   「全く忘れる」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないということです。イエス様が、終わりの時に偽預言者について、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われている箇所がありますが、彼らが主の名によって預言をして、悪霊を追い出しても、「全然知らない」と言われるのです。

主に反抗するなら、私たちは「主の重荷」となって、主に捨てられてしまうことになります。しかし、主に信頼するなら、逆に、主が私たちの重荷を担いでくださいます。先ほど引用したマタイ11:28にはこうありましたね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
  また、詩篇55:22にはこうあります。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(新改訳第3版)
  また、詩篇68:19にはこうあります。「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」
  皆さん、私たちは主の重荷となるのではなく、重荷を主に下ろさなければなりません。すべてを主にゆだねなければならないのです。あなたの重荷は何ですか。あなたの心配事は何でしょうか。それを主にゆだねなければなりません。あなたのすべての重荷を主にゆだねるなら、主はあなたのことを心配してくださいます。主があなたに真の休息を与えてくださいます。それは真の預言者のことば、神のことばを聞き、そこに生きることによってもたらされるものなのです。

エレミヤ23章9~22節「預言者たちについて」

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前回は、23章1~8節からお話しました。そこにはユダの民の回復の希望が語られていました。ユダの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、神はそこに「残りの者」を残しておかれ、70年にわたる期間の後に元の場所に帰らせてくださるという預言です。勿論、これはバビロンからの帰還だけでなく世の終わりにおける回復の預言でもあます。世の終わりになると神は、世界中に散らされているユダヤ人を再び約束の地に帰らせてくださいます。それが現代にもつながっているということを思うと、聖書の預言は本当に凄いなぁと改めて感じさせられます。神様はご自分が語られたことを必ず成就してくださるのですから。

今日の箇所はその続きです。9節には、「預言者たちについて」とあります。この「預言者たち」とは、にせ預言者たちのことです。ここで神はにせ預言者たちに対するさばきを語られるのです。なぜにせ預言者について語られるのでしょうか。私たちは、その前のところでイスラエルの残りの者について学びましたが、彼らはバビロンへと散らされた人たちでした。なぜ彼らはバビロンに連れて行かれたのでしょうか。なぜなら、牧者たちがちゃんと牧場の群れを養っていなかったからです。彼らは神の牧場の群れを滅ぼし散らしていたのです。1節にあるとおりです。この「牧者たち」というのは、具体的には南ユダ王国の王たちのことでした。彼らは、牧場の群れを牧さなければならないのに滅ぼし散らしていました。いわばにせの牧者だったのです。ここではそれに対応して、牧者ではなく預言者のことが取り上げられているのです。にせ牧者ならぬ、にせ預言者です。彼らは神が語ってほしことではなく、民が聞きたいこと、民の耳さわりの良いことを語っていました。その結果、ユダはどうなってしまいましたか。南ユダは滅ぼされてしまうことになりました。ですから、この預言のことばをどう受け止めるかということは、とても重要なことなのです。それは国の将来を決めることになります。今日の箇所には、そのにせ預言者に対して、私たちはどのように対処したら良いかが教えられています。

Ⅰ.酔いどれのようになったエレミヤ(9-14)

まず、9~14節をご覧ください。9~10節をお読みします。「9 預言者たちについて──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。【主】と、主の聖なることばのために。10 地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる。彼らの走る道は悪で、その力は正しくないことに使われる。」

「私の心」とはエレミヤの心のことです。にせ預言者たちのことで彼の心はうち砕かれ、彼の骨は震えました。このにせ預言者たちの甘いことばにユダの民がすっかり魅了され、惑わされていたからです。その民がエレミヤを嫌い除け者にしていました。なぜなら、彼のことばが厳しかったからです。エレミヤが語ることばが真理のことばだったからです。彼のことばは民の心にグサッと突き刺さりました。神のことば、真理のことばは、人の心に突き刺さります。でも、にせ預言者たちのことばは心に突き刺さるどころか、それは実に耳さわりの良いことばでした。「あなたはそのままいいんですよ」「心配する必要なんてない」「あなたはありのままで愛されているんだから」と、包み込むようなというか、安心感を与えるようなことばを語っていたのです。そのにせ預言者たちのことばにマインドコントロールされたユダの民は、エレミヤが語ることばに耳を貸しませんでした。耳さわりの悪かったからです。そんなことばは聞きたくない。エレミヤはすっかり嫌われ、孤独を体験していたのです。そのエレミヤの嘆きがこれです。
 「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。」
  エレミヤはすっかり打ちひしがれてしまいました。酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになりました。もう立っているのがやっとです。まともに歩くことができませんでした。酔っぱらってフラフラした状態になりました。これは文字通り酒に酔っていたということではなく、自分の力では歩けないほど弱りきっていたということです。「主と、主の聖なることば」のことを考えると、あまりにも逸脱したにせ偽預言者たちのことばに、立っていることができないほどのショックと憤りで満たされたのです。

その結果、南ユダはどうなったでしょうか。姦通する者で満ちるようになりました。主に背き、偶像を拝む者でいっぱいになったのです。また、地はのろわれて乾ききり、作物は実らなくなってしまいました。人々は悪に走り、その力は正しくないことに使われるようになりました。すなわち、不正な力により頼むようになったのです。

11~14節をご覧ください。「11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──【主】のことば──12 それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──13 サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。14 エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」」

「預言者」とか「祭司」とは、霊的リーダーたちのことです。彼らもすっかり汚れていました。「わたしの家」とは神の家のことです。つまり、エルサレムの神殿のことを指しています。その神の家である神殿の中にも悪が横行していました。教会も神の家と呼ばれています。世の終わりになると、その神の家である教会にも悪が横行すると言われています。Ⅱペテロ2章1節にこうあります。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」
  「御民の中には」とはイスラエルの中にもということですが、イスラエルの中ににせ預言者が出たように、教会にも偽教師が現れるようになります。神の教会の中にもにせ教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。何と自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くようになるというのです。異端というエホバの証人とかモルモン教をイメージするかもしれませんが、ここではそうした異端のことではなく、ここに「あなたがたの中にも」とあるように教会のことを指して言われているのです。教会の中にそうした偽教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。

その原因を作ったのが2種類のにせ預言者たちでした。それはサマリアの預言者たちとエルサレムの預言者たちです。「サマリアの預言者たち」とは、北王国イスラエルの預言者たちのことです。この時北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされていました。彼らはバアルによって預言し、イスラエルの民を惑わしました。その結果、アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。しかし、さらに悪いのがエルサレムの預言者たちでした。「エルサレムの預言者たち」とは、南ユダの預言者たちのことです。北王国の預言者たちはバアルの名によって預言しましたが、南ユダの預言者たちは主の御名によって預言していましたが、主が語っていないことを語っていたからです。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせませんでした。 悪を行う者を糾弾するどころか、むしろ、それに加担しそれを助長するようなことをしたのです。

その結果、どうなったでしょうか。12節です。「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──」
  それゆえ、彼らは暗闇の滑りやすい道のように、そこで転び、倒れてしまうことになります。これがこの後で起こるバビロン捕囚のことです。B.C.586年に起こります。南ユダ王国、エルサレムもバビロンによって完全に滅ぼされてしまうことになるのです。

どのような分野でも指導者には大きな責任が伴います。一握りの権力者たちの誤った判断が、国を戦争と破滅に導き、社長の甘い経営判断が、企業を倒産に追い込みます。また、医者の誤った判断が、患者の命を危険にさらします。同じように、預言者や祭司といった霊的指導者の誤った指導が、国全体に混乱と破滅をもたらすことになるのです。 

ところで、ここに、「主のことば」ということばが何回も繰り返して使われているのにお気づきになられたでしょうか。実にこの23章だけで17回も使われています。1節、2節、4節、5節、7節、11節、12節、そして23節、24節に2回も使われています。そして28節、29節、30節、31節、32節に2回、33節です。なぜこんなにも繰り返して使われているのでしょうか。それは、そこに主の御名で語る者が大勢いたからです。神の御名を利用して語る偽預言者が大勢いたので、真の預言者であるエレミヤは、そうじゃない、これが主のことばであると強調しているのです。たとえそれが耳さわりの悪いことばであっても、これが主のことばだ!と。そして主のことばに従うなら祝福があり、そうでなければのろいがもたらされることになります。主のことばに従わないなら、そこはソドムとゴモラのようになってしまいます。これが主のことばです。エレミヤはそれを強調しているのです。私たちはとかく耳さわりの良いことばには心を開きますが、そうでないことば、たとえば、警告とか忠告といったことばには心を閉ざしてしまう傾向があります。しかし、この主のことばをしっかりと聞かなければなりません。そうでないとかつての北王国や南ユダ王国のようになってしまいます。

Ⅱ.預言を吟味する (15-17)

次に、15~17節をご覧ください。 「15 それゆえ、万軍の【主】は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」16 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは【主】の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」」

それゆえ、万軍の主はにせ預言者たちに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。これは神のさばきです。「苦よもぎ」は麻酔薬としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものなのです。つまり、彼らが神のみことばを捨て自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。なぜなら、不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからです。それだけ預言者が語ることばの影響は大きいということです。

16節には、そうした偽預言者たちのことばを聞くなと言われています。なぜなら、彼らはあなたがたを空しいものにしようとしているからです。口語訳と新共同訳聖書では、これを「あなたがたに、むなしい望みをいだかせ、」と訳しています。それは空しい望み、空しい希望です。希望があるかのようでも、そこには実体がありません。ただの気休めのことばにすぎないのです。たとえば、彼らは神を侮る者に対してさえ「主はあなたがたに平安があると告げられた」としきりに言っていました。また、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない」とか言っていました。神を侮る者に平安があるでしょうか。頑なな心のままに歩む者にわざわいは来ないのでしょうか。いいえ、主はそんなことをおっしゃっておられません。それは主の御口から出たことではなく、単に自分の心の幻を語っているにすぎませんでした。どうして彼らはこのようなことを語ったのでしょうか。聞こえがいいからです。聞く人に喜んでもらえるからです。聞く人が嫌がることは避けようとします。でも真の預言者は聞く人が喜ぶかどうかよりも、その人が主にある真の幸福を得るために滅びから救い出すメッセージを語るのです。でも、偽りの預言者たちはそうではありません。彼らは主の御口から出たことではなく、自分の心の幻を語るのです。自分の心に浮かんだことやアイディアですね。そういうことを語るのです。

皆さんは聞いたことがありますか。「預言カフェ」というのを。よくマスコミでも取り上げられています。この預言カフェに行くと預言してもらえるのです。私たちから見たらただの占いにすぎませんが、それが正当なプロテスタントの教会のブランチでやっているので、しかもそこには牧師もいるので、神からの導きを受けることができると、みんな安心して出かけて行くのです。あなたは今、どうしたらいいか判断に迷っていませんか。だったら個人預言をしてやりますから予約してください。費用は一切かかりません。但し、席上献金があります。預言をしてもらって感謝したいなら、感謝のいけにえとして献金してくださいというのです。

いったいそれが神からのことばであるかどうかをどうやって判断することができるのでしょうか。それは聖書によってです。それが主の御口によって語られたことばであるかどうかは、神のことばである聖書によって吟味されなければなりません。それが聖書のことばと一致していなければ、それは単なるひとりごとか、その人の心に宿ったただの思い付きにすぎません。いずれにせよ、それが本当に神から出たものなのかどうかは、聖書に照らし合わせて吟味しなければならないのです。それが私たちクリスチャンに与えられた役割であり、責任です。鵜呑みにしてはいけません。

こうした預言には、大きく分けて三つの要素があります。それは神から来たものなのか、それとも人から来たものか、あるいは、自分の思いでしゃべっているのに、あたかもそれが神からきたかのように錯覚して大胆に語っているかの三つです。Ⅰヨハネ4章1節にこう勧められています。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」
  霊だからと言ってすべて信じてはいけません。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。にせ預言者がたくさん世に出て来ているからです。
  また、Ⅰテサロニケ5章20~21節にもこうあります。「預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」
  皆さん、預言を軽んじてはいけません。預言とは、神のことばを預かることです。ですから、とても重いことです。ただし、すべてを吟味しなければなりません。すべてを吟味して、良いものを見分けて、本当に良いものをしっかり保たなければなりません。堅く守らなければならないのです。ちゃんと検証するように、ちゃんと吟味するようにということです。もしそれが本当に神からきているものであるならば、必ず神のことばと一致しているはずです。神のことばである聖書は聖霊によって書かれてあるので、それが神の霊、聖霊から来ているならば、必ず聖書の裏付けがあるからです。それは聖書のここに書いてあるから神から来た預言だと証明することができるのです。でも聖書に書いていなければ、あるいは、聖書に書いてあることに反しているならば、それは神からきたものだということはできません。それは偽りの預言です。

いずれにせよ、それがどこからきているのかをしっかり吟味しなければなりません。そしてその際の基準になるのが神のことばです。もしそれが神から出たことであるならば、絶対に聖書に反することはありません。聖書に矛盾するようなことは聖霊は絶対にしないからです。みことばと聖霊は切っても切り離せない関係があります。だからパウロはこう言ったのです。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)
  キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。実に聖霊に満たされるとはみことばに満たされることです。みことばに満たされたら聖霊に満たされます。そうすれば知恵を尽くして互いに教え、戒め、詩と賛美の歌をもって、感謝をもって心から神に向かって歌うことができます。あなたは空しい希望を抱かせられることはありません。空しいものに振り回されることはないのです。

Ⅲ.主との親しい交わりに加わる(18-22)

ですから、第三のことは、主との交わりを大切にしましょう、ということです。18~22節をご覧ください。「18 しかし、だれが、【主】との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。20 【主】の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る。21 「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。」

18節に、「だれが、主との親しい交わりに加わり」とありますが、新改訳第3版、並びに口語訳、新共同訳では「主の会議」と訳しています。「だれが、主との会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」ということです。にせ預言者たちの問題はここにありました。この主との親しい交わりに加わっていなかったことです。そこで、主のことばを見聞きしませんでした。
  皆さん、天でも会議があるのを知っていましたか。それは王である神が玉座に着いて、その左右に天の万軍が集まっている会議です。たとえば、Ⅰ列王記22:19~23にその様子が描かれています。そこにはイスラエルの王アハブが約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきかどうかを尋ねるのですが、イスラエルの預言者たちは皆アハブ王の顔色を見て彼が喜ぶことしか告げなかったので、おかしいと思った南ユダの王ヨシャファテは、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言うと、ミカヤという預言者が連れて来られました。でもアハブ王は彼があまりすぎではありませんでした。というのは、彼はアハブについて良いことは預言しないで、いつも悪いことばかり預言していたからです。いわゆる、目の上のたんこぶみたいな存在だったわけです。でも、まあそう言わないでミカヤの言うことも聞いてみましょうと、彼の見た幻を聞くと、彼はこの天上での会議で見聞きしたことを告げるのです。それは、悪霊が偽預言者を用いてアハブを惑わすというものでした。この時預言者ミカヤは天上で行われていたこの会議に参加していたので、そこで主が語られることを見聞きしたのです。
  でも、エレミヤの時代の預言者たちはこの会議に参加していなかったので、主のことばを見聞きしていませんでした。だから、彼らは主が語っておられることがどういうことなのかを知らなかったのです。

22節をご覧ください。もしこの主との親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、主の民に主のことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから、立ち返らせることができたでしょう。でも、そうでなかったので、彼らは預言者としての役割を果たすことができませんでした。

皆さん、これが最も大切なことです。もし私たちも主との親しい交わりに加わっていなかったら、主のことばではなく自分のことば、自分の心の幻を語ってしまうことになります。イエス様は朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。なぜでしょうか。この会議に加わるためです。父なる神と親しい交わりを持つためです。
  詩篇143篇8節にはこうあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
  この詩篇の作者は、「私はあなたに信頼して祈っていますから」と言っています。彼は、神と交わり、神に期待して祈っていたのです。また、「行くべき道を示してください」と言っています。自分の道、自分の思いではなく、神に信頼し、神の道が示されることを求めて祈りました。このような人に神のみこころが示されないわけがありません。神との親しい交わりに加わり、その中で神のことばを聞き、神に信頼して祈るなら、確かに神はご自身のみこころを示してくださるのです。

すべてのクリスチャンに、福音を伝えるという責任が与えられています。そのために最も重要なことは何かというと、どのように福音を伝えるかということではなく、この主との親しい交わりに加わるということです。そこでみことばに耳を傾け、御霊の声を聞くことを学ぶことです。どんなに不評を買っても、神のことばを真っ直ぐに伝えなければなりません。

 パウロは、若き伝道者テモテにこう書き送りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-5)
  世の終わりが近くなると、人々は健全な教えに耳を傾けなくなったり、自分に都合がいいようなことばを聞こうと、自分の好みにしたがって教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります。けれどもそれに屈してはいけません。みことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと、パウロはテモテに命じたのです。そのためには、私たちがいつも主の会議に連なること、主との親しい交わりに加わり、主との親しい交わりの中で、主のことばを聞かなければなりません。

最近、アメリカのカリフォルニア沿岸のモントレーという浜に、ペリカンの天国があったという話を読みました。漁師たちは網にかかった小さな魚をその浜に捨てていたので、それがペリカンのえさになり、大量のペリカンが集まっていたのです。そこにいたペリカンたちは、何の苦労もなくえさが食べられるので、魚を捕まえる方法を徐々に忘れていきました。しかし、いつからか漁師たちが捨てた小さな魚が商業用に利用されるようになると、えさにしていた魚がなくなってしまいました。しかし、ペリカンたちは相変わらず、捨てられた魚を求めて浜をさまよいました。時間が経つと、ペリカンは1羽、2羽と死に始めました。そこで漁師たちはペリカンたちを助けるために、別の場所にいる自らえさを探すことができるペリカンを連れて来て、放しました。新しくやってきたペリカンは、海に放たれると上手にえさを取り始めました。この姿を見たモントレーのペリカンも必死に飛び回って、えさを取り始めたのです。

このペリカンの話は、誰かが投げてくれたえさに慣れてしまい、自らたましいの糧を求めようとしない、今日の私たちの姿を物語っています。キリスト教は、みことばの宗教、聖書の宗教であるともいえます。モントレーのペリカンのように、1週間に1度投げてもらえるみことばを食べることに満足していないか、自分自身を振り返ってみなければなりません。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(コロサイ3:16)主との親しい交わりに加わる、これが真の預言かにせ預言かを吟味するために必要なことであり、真理のみことばをまっすぐに解き明かすために必要な鍵なのです。

Ⅱ列王記14章

 今日は、Ⅱ列王記14章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヨアシュの子アマツヤ(1-14)

まず、1~7節をご覧ください。「1 イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレム出身であった。3 彼は【主】の目にかなうことを行った。ただし、彼の父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりに行った。4 すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。5 王国が彼の手によって強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを打ち殺した。6 しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。【主】はその中でこう命じておられた。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。7 アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」

舞台は再び北イスラエルから南ユダに移ります。イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となりました。ここには、イスラエルの王エホアハズの子のヨアシュと、ユダの王ヨアシュの子アマツヤと、ヨアシュという同名の王が北と南の王の名前に出てくるので混乱しないように注意が必要です。ここでは、南ユダの王ヨアシュの子のアマツヤのことが記録されています。彼は25歳で王となり、29年間南ユダを治めました。彼は父のヨアシュ同様主の目にかなうことを行いましたが、彼の父祖ダビデのようではありませんでした。どのようにダビデのようではなかったのかというと、高き所を取り除かなかったという点においてです。この「高き所」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼は心を尽くして主を愛し主に仕えていましたが、高き所を取り除かなかったので、その結果、民は主を礼拝しながらも、依然として偶像礼拝を続けていたのです。

彼は王になってからその影響力が強くなると、自分の父であるヨアシュ王を討った家来たちを打ち殺しましたが、その子どもたちは殺しませんでした。通常なら、このような場合その子どもたちまで殺害するのが一般的ですが、彼はそのようにしませんでした。なぜなら、モーセの律法の書にこう記してあったからです。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。」
  アマツヤは、この神のことばに従ったのです。たとえそれが一般的な習慣であったとしても、あくまでも主の前に正しく生きようとしていたのです。私たちも、あくまでも主のことばに基づいて、主の前に正しく生きることを選び取らなければなりません。

7節をご覧ください。アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討ってセラを取り、その場所を「ヨクテエル」と呼びました。この時アマツヤは大勝利を収めましたが、Ⅱ歴代誌25:14を見ると、残念ながら、この時アマツヤはエドム人を討ち破って帰って来る時セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏拝、これに香をたいたとあります。アマツヤはなぜこんなことをしたのでしょうか。エドムに勝利したことが、その大きな要因の一つでした。成功している時こそ主への信頼と謙遜を学ぶ必要があるのに、彼は高ぶってしまったのです。

次に、8~14節をご覧ください。「8 そのときアマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに使者を送って言った。「さあ、直接、対決しようではないか。」9 イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに人を遣わして言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。10 あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」11 しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。12 ユダはイスラエルに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰った。13 イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤをベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムにやって来た。そして、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊した。14 彼は、【主】の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰った。」

今度は、北イスラエルの王ヨアシュが登場します。エドムに勝利したユダの王アマツヤは、父ヨアシュがそうであったように高ぶっていました。彼は北イスラエルの王ヨアシュに使いを送り、「さあ、直接、対決しようではないか。」と言いました。彼は、こともあろうに、北イスラエルに戦いを挑んだのです。なぜ彼はこんなことをしたのでしょうか。13章を見るとわかりますが、当時北王国は、アラムのハザエルに苦しめられていました(Ⅱ列王13:22)。ですから、エドムに勝利したアマツヤは、今だったら北イスラエルに容易に勝てると思ったのです。

それに対してヨアシュは何と応答しましたか。彼は、こう言いました。9~10節をご覧ください。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」と言いました。

「あざみ」も「杉」も、レバノンでは有名です。この「あざみ」はアマツヤのことを、「レバノンの杉」はヨアシュを象徴しています。つまり、あざみであるアマツヤがレバノンの杉であるヨアシュに、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と身分不相応な要求をしたら、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじってしまいました。あざみはそれほど弱い存在にすぎないということです。それなのに、あざみは高ぶって戦いを挑もうとしているのはおかしいというのです。そんなことは止めて家にとどまった方がいい。なぜ、そんなことをして、あえてわざわいを引き起こし、ユダとともに倒れようとするのか。ここでヨアシュは、アマツヤに戦いを思いとどまるように勧告したのです。

しかし、アマツヤはそれを聞き入れませんでした。それでイスラエルの王ヨアシュは攻め上り、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決することになりました。その結果、ユダの王アマツヤはイスラエルの王ヨアシュに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰りました。ヨアシュはアマツヤをベテ・シェメシュで捕らえエルサレムにやって来ると、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊しました。そればかりではなく、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、および人質を奪い取りました。

いったい何が問題だったのでしょうか。アマツヤが高ぶったことです。彼の高慢が、南ユダを破滅に導きました。北イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤにちゃんと警告していました。誇ってもよいが、自分の家にとどまっているようにと。なぜ、あえてわざわいを引き起こすようなことをするのか。そんなことをすれば、あなたとともにユダもともに倒れてしまうことになると。それが実現したのです。

しかし、Ⅱ歴代誌25:20を見ると、この時アマツヤがヨアシュの忠告を受け入れなかったのは、神から出たことであった、と言われています。彼らがエドムの神々を求めたので、彼らを敵の手に渡すためです。つまり、アマツヤが敗北した最も大きな理由は、彼らが神に背いて偶像を求めことだったのです。神との関係が正しくなかったことが、その最大の原因だったのです。目に見える出来事の根底には、見には見えない霊的な要因があるということです。その根本的な要素が「神との関係」です。神との関係が正されることこそ、私たちの現実の生活が祝福される秘訣なのです。


Ⅱ.アマツヤの業績(15-22)

次に、15~22節をご覧ください。「15 ヨアシュが行ったその他の事柄、その功績、ユダの王アマツヤと戦った戦績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。16 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。彼の子ヤロブアムが代わって王となった。17 ユダの王ヨアシュの子アマツヤは、イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの死後、なお十五年生きた。18 アマツヤについてのその他の事柄、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。19 エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。20 彼らは彼を馬に乗せて運んだ。彼はエルサレムで先祖とともに、ダビデの町に葬られた。21 ユダの民はみな、当時十六歳であったアザルヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。22 彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

ここには、北王国イスラエルのヨアシュ王の死に関することが記録されてあります。彼の死については13:13で既に言及されていたので、これが二度目の言及となります。彼は先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られました。そして、彼の子ヤロブアムが変わって王になりました。これはヤロブアム2世のことです。

一方、ユダの王アマツヤはどうなったかというと、彼はヨアシュとの戦いに敗れ北王国イスラエルの捕虜となっていましたが、北イスラエルの王ヨアシュが死んだ時に解放され、南ユダへの帰還が許されました。そしてヨアシュの死後、なお15年生きながらえましたが、彼の最期は実にあわれなものでした。19節にこうあります。「エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。」

アマツヤは、エルサレムの城壁が壊され財宝が奪い取られた後、国民の信頼を失ってしまいました。そして、父と同じように謀反によって殺されてしまいます。彼はラキシュに逃れましたが、人々はラキシュまで彼を追って来て、彼を殺しました。主よりも偶像に頼ることを選んだアマツヤは、愚かな人生を歩んだのです。

彼の後に南王国の王となったのがアザルヤです。アザルヤはウジヤとも呼ばれます。ウジヤの方が有名ですね。彼は父アザルヤが捕虜としてイスラエルに連れて行かれた年に16歳で王になりました。そして、アマツヤが死んだ年に単独の王となりました。彼についての特徴的な言及が22節にあります。「彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

「エイラト」とは、紅海に隣接している町で、ソロモンの時に貿易港として用いられていた町です。その「エイラト」が、アザルヤ(ウジヤ)によってユダに復帰したのです。

アマツヤという悪王の後に、アザルヤ(ウジヤ)という善王が登場するのは不思議なことです。ここに神の恵みとあわれみを思わずにはいられません。神は、アブラハムと結んだ契約のゆえに、また、ダビデと結んだ契約のゆえに、南ユダを守られたのです。イスラエルの神、主は、実に契約を守られる忠実な方なのです。

Ⅲ.北王国ヨアシュの子ヤロブアム(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。「23 ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリアで四十一年間、王であった。24 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった。25 彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、【主】がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 【主】はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。28 ヤロブアムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が戦いであげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。29 ヤロブアムは、彼の先祖たち、イスラエルの王たちとともに眠り、その子ゼカリヤが代わって王となった。」

イスラエルの王ヨアシュの死後、彼の子でヤロブアムが王となり、サマリアで41年間治めました。彼は北イスラエルの初代の王と同名ですが、彼とは何の関係もありません。しかし、彼は初代の王ヤロブアムと同じように主の目に悪であることを行い、ヤロブアムのすべての罪から離れませんでした。

「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(26)

彼はレボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復しました。「レボ・ハマテ」とは、ガリラヤ湖の北東240キロの地点にあり、「アラバの海」とは死海のことですから、相当広い範囲を回復したことになります。

ここで重要なのは、これが預言者ヨナによって預言されていたことであったという点です。ヨナ書にはこの預言の記録がありません。でも大切なのは、ヨナが活動していた時期がこのヤロブアム2世の治世と重なるという点です。これがわかると、ヨナ書を読む時の時代背景がわかります。ヨナの奉仕によってアッシリアの首都ニネべの人たちは悔い改めましたが、それからわずか50~60年後に、このアッシリアが北イスラエルを滅ぼし、捕囚の民として連れて行くのです。これは本当に驚くべきことです。

26節には、なぜヤロブアム2世が登場したのかその理由が記されてあります。それは、イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主がご覧になられたからです。だれもイスラエルを助ける者がいませんでした。この時イスラエルはアラムの王ハザエルの侵攻によって苦しんでいました。その苦しみが頂点に達したとき、主はヤロブアム2世を送り、彼らを助けようとされたのです。主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとはしなかったのです。イスラエルがどんなに主に背き、主の目に悪であることを行っても、彼らを消し去ることを望まれていなかったのです。それは、ローマ書11章にて、イスラエルに対する神の賜物と召命は変わることがない、と書かれてあるとおりです。それで、主はまずヨアシュを送りイスラエルを助け、次にヤロブアム2世を送って彼らを救おうとされたのです。イスラエルもユダも最終的には滅ぼされてしまいますが、それが彼らの最後ではありません。聖書には、さらにそこからの回復が約束されています。これもまた主の憐れみによるものです。

本当に主は憐れみ深い方です。それは私たちに対しても同じです。主は私たちを救おうと今も憐れんでおられます。私たちが罪を犯したから終わりなのではなく、そこから回復できるように私たちのために救い主イエス・キリストを送ってくださいました。私たちが悔い改めて神の救いを受け入れるなら、私たちが私たちにも回復の希望があるのです。

「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」(詩篇50:15)

私たちも神の憐れみに拠りすがりましょう。苦難の日に主を呼び求めましょう。そうすれば、主は私たちを助け出してくださいます。私たちの救いは、この神の憐れみと神の救いの約束の確かさに基礎を置いているのです。