きょうは、イザヤ書22章の後半部分からお話したいと思います。タイトルは「神のしもべとして」です。この22章は「幻の谷に対する宣告」、すなわちエルサレムに対するさばきの宣告が語られているところです。先週のところには、このエルサレムが神にではなく戦争の武器や水源の確保、城壁の補修といったこと、すなわち人間的なものに目をとめていたので、その罪を悔い改めることが勧められていました。
きょうのところにはシェブナとエルヤキムという二人のしもべが登場します。この二人のしもべを通して、幻の谷であったエルサレム、神の民であったイスラエルはいったいどうあるべきなのかが教えられています。すなわち、神のしもべとして、へりくだって、忠実に歩まなければならないということです。
Ⅰ.自分を高くする者は低くされる(15-19)
まず15節から19節までのところをご覧ください。「万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」 ここにはシェブナという人物が出てきます。ここには「宮廷をつかさどるあの執事シェブナ」とありますが、36章22節には「書記シェブナ」と書かれてあります。いずれにせよ、彼はユダの王ヒゼキヤの宮廷をつかさどっていました。そのシェブナにどんなことが言われたのでしょうか。16節、「あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」
どういうことでしょうか。彼は自分の栄誉を残そうとしていたということです。人は自分がどれだけ立派であったか、偉大であったかを示すためにこのように豪華な墓を作ったり、記念碑を作ったりするものです。今もエルサレムに行くとアブシャロムなど過去の指導者たちの墓があるそうです。シェブナも自分のために豪華な墓を建てようとしていました。アッシリヤに四方八方を囲まれ、今にも攻め込まれるという危機的状況にあっても、彼はそんな的外れなことをしていたのです。
そんなシェブナに対して、主は何と言われたでしょうか。17節から19節です。 「ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。」
「ますらお」とは何でしょうか。「ますらお」とは、強い人とか、勇士という意味です。一般的にはあまり使わないことばです。なぜシェブナのことを「ますらお」と呼んでいるのでしょうか。文語訳ではここを、「見よ、エホバはつよき人のなげうつ如くに汝をなげうち給わん」と訳しています。つまり、シェブナがますらおではないのです。主は、ますらおが遠くに投げるように、彼をわしづかみにして遠くに投げやるということです。柔道みたいですね。柔道の選手は、相手の襟元をギュとわしづみにし、内股や払い腰で遠くに投げ飛ばします。あるいは巴投げで遠くに投げ飛ばします。そのように主は、シェブナを遠くになげやるというのです。
また18節を見ると、「まりのように、くるくる丸めて、広い地に投げ捨てる」とあります。これはわかりやすいですね。ボールのようにくるくる丸めて、広い地で遠くに投げやるのです。そしてそこで死を迎えます。彼の最期は墓ではなく、広びろとした地でした。なぜでしょう。それは、彼が自分を高くしたからです。主イエスは、「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)と言われましたが、自分を高くする者は低くされるのです。
Ⅱ.忠実な神のしもべ(20-24)
次に20節から23節までを見たいと思います。20節と21節をご覧ください。「その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。」
ここにもう一人の人が出てきます。ヒルキヤの子エルヤキムです。イザヤ書36章3節を見ると、彼は宮内長官であったことがわかります。彼もユダの王ヒゼキヤに仕えていた人でした。21節の「あなた」とはシェブナのことです。シェブナの着ていた長服を彼に着せ、シェブナの飾り帯を彼に締め、彼の権威をエルヤキムにゆだねるというのです。シェブナに与えられていた権威や地位がこのエルヤキムに与えられるというのです。
いったいなぜでしょうか。20節を見ると、ここに「わたしのしもべ」とあります。そうです、彼は神のしもべとして自分に与えられた立場を忠実に貫いたからです。シェブナは自分を高くしたので低くされましたが、エルヤキムは神のしもべとしてその立場を貫いたので逆に高められたのです。エルヤキムは政府の要職にありながらも、高い地位にありながらも、神の御前にへりくだっていたのです。
マルコの福音書10章42節から45節までを開いてみましょう。 「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
これは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのところに来て、神の御国で自分たちを右大臣、左大臣にしてほしいと願い出たことに対して言われたことばです。この世では偉い人たちが人々の上に権威をふるうが、あなたがたの間では、神の御国ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい、と言われたのです。人々の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになるように。これが神の国の原則です。イエス様が来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。
かつてある教会に、長年事務畑で仕事をされたご婦人の方が退職され、定年後のご奉仕にと事務の奉仕(有給の事務員)をしておられました。都会の教会では、若いスタッフというところでしょうが、その教会は田舎にあったことから若い方もそれほどおらないこともあって、長年一般の企業で事務をされてきたこの方が仕えておられました。用事があって電話をかけるとよくその方が出られるのですが、何とも言えない穏やかさというか、おっとりとした感じの、味のある応対が、こちらの心をなごませてくれました。 ある日のことです。この方が一日の教会の仕事を終えて午後5時過ぎに電車で帰ったのはいいのですが、6時頃にまた電車に乗って教会に引き返して来ました。どうしたんだろうと思ったら、鍵をかけるのを忘れたのではないかと心配になって、戻ってきたというのです。 若い人ならてきばきと仕事をこなす姿も、見ていて気持ちがいいものですが、このように、ひたすら忠実に、一つ一つを主にささげるかのようになされる奉仕も味のあるものです。有給とはいうものの、このような奉仕は献身的な心がなければできないものです。
シェブナは自分の地位や立場を利用して自らに栄光を帰そうとして神に仕えませんでしたが、エルヤキムはそうではありませんでした。彼は神のしもべとして、自分に与えられた役割を忠実に行いました。一つ一つの働きを主に対してするように、心から仕えたのです。だから彼は用いられたのです。大切なのは、神のしもべとしての自覚をもって、与えられたことに対して忠実であることです。
マタイの福音書25章には、主人から五タラント、二タラント、一タラント預けられたしもべが、それをどのように管理したかの話があります。五タラントと二タラントを預かったしもべは、それぞれさらに五タラントと二タラントを儲けましたが、一タラント預けられたしもべは、それを土の中に隠しておきました。五タラントと二タラントを預けたしもべに対して、主人はこう言いました。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21,23)
興味深いのは、五タラント預かったしもべも、二タラント預かったしもべも、同じように主人からほめられていることです。主人がうれしいのは、どれだけ働いたかと言うことではなく、どれだけ忠実であったかということです。そして、その忠実さというのは、自分が神のしもべであるという自覚から生まれてくるのです。 ところで、22節をみると、このエルヤキムに与えられた栄光がどれほどすばらしいものであったかがわかります。ここには「わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。」 とあります。エルヤキムはダビデの家の鍵が与えられました。ダビデの家の鍵とは、王としての権威のことです。最終的な決定を下す権威が任せられました。彼が開くと閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はありません。それほどの権威が与えらたのです。
ところで、この箇所は黙示録3章7節に引用されているみことばです。主イエスはフィラデルフィヤにある教会に対して書き送った手紙の中で、ご自分のことを、『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」と言われました。主イエスは御国のかぎを持っておられる方です。主が開かれるとだれも閉じることはなく、主が閉ざされると、だれも開くことができません。主は御国のドアを閉じたり、開いたりする権威をもっておられる方なのです。それがどれほどの権威であるのかというと、その人の永遠を左右するほどの権威です。エルヤキムはそのキリストのひな型、象徴として描かれていたのです。彼にはそれほどの権威がゆだねられていたのです。
そのフィラデルフィアの教会に対して主イエスが言われたことはこうでした。3章8節です。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」 彼らにはだれも閉じることのない門が開かれていました。これは天の御国の門のことです。彼らには天国の門が開かれていたのです。なぜでしょうか。それは彼らが少しばかりの力しかありませんでしたが、主のことばを守り、主の名を否まなかったからです。つまり、彼らが主のことばに忠実であったからです。
皆さん、教会の真価は外観や人数ではありません。たとえ少数であっても、たとえ貧弱に見えても、そういうこととは関係なく、そこに真実の信仰があるかどうかなのです。主のことばを守るかどうか、それが信仰生活の基本であり、そしてそれはさらに、キリストの名を告白し、あかしすることによって、具体的に実証されるものなのです。仏教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、神道、さらにはいろいろな新興宗教が存在していますが、その中でキリスト教を信じているということではないのです。クリスチャンらしくふるまっているということでもありません。そこに主のことばに対する忠実な信仰があるかどうかです。フィラデルフィアの教会には、この主のことばに対する忠実な信仰があったのです。
先週、「地方伝道を考える」というシンポジウムでご奉仕させていただきましたが、そこに新潟県の佐渡で伝道しておられる牧師先生御夫妻が参加しておられました。16年前に佐渡で開拓伝道して以来、人口5~6万人が住んでいますがほんのわずかな人しか集まらず、毎週畳に説教しているような感じだとと言われます。そのような中で伝道することはどんなに大変なことかと思います。そんな中でこのシンポジウムに参加され、ここで主から慰めを与えられ、遣わされたところで忠実に奉仕しておられます。まさに日本のフィラデルフィアの教会ではないかと思わされました。
天国に行けば、何十万人、何百万人の人をこれまでキリストに導いたビリー・グラハムもいれば(まだビリー・グラハム師はご健在ですが)、たった一人の息子であるかもしれませんが、その息子をキリストにあって立派に育てあげた一人の母親も、同じような報いと称賛を主からいたたくのです。大切なのは、私たちが神のしもべとしてどれだけ忠実であったかどうかなのです。
23節をご覧ください。ここには「わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。」とあります。「彼」とはエルヤキムのことですが、同時にイエス・キリストのことも預言されています。というのは、22節のことばはキリストのことも指し示していたからです。そして、キリストを一つの釘として打ち込むというのは十字架のことを指していると言ってもいいでしょう。主は彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込まれるのです。この釘とは天幕を安全に固定するための釘のことです。天幕を安全に固定させるためには、堅い基盤に釘を打ち込まなければなりません。それによってダビデの家に持続的な繁栄と成功がもたらされるのです。その釘こそエルヤキムであり、イエス・キリストなのです。イエス・キリストの十字架こそ、神の家の礎であり、確かな基盤なのです。それは御国の栄光となるのです。それこそ私たちの人生の確かな基盤です。
あなたの人生のよりどころは何でしょうか。十字架こそ確かな場所に打ち込まれた釘なのです。あなたの人生がこの十字架の上に築き上げられるなら、それは栄光となり、多くの繁栄と安定をもたらすことになるのです。
Ⅲ.キリストを信じて(25) ですから第三のことは、キリストを信じましょう、ということです。25節をご覧ください。「その日、―万軍の主の御告げ―確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。」
ここは解釈が難しい箇所です。確かな場所に打ち込まれたはずの一つの釘が抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されるとはどういうことなのでしょうか。多くの注解書は、これはエルヤキムの腐敗のことが描かれていると解釈しています。さすがのエルヤキムも親戚縁者が押しかけ、あまりにも彼に依存するため、彼の政治を駄目にするような腐敗をもたらしたのであろうというのです。しかし、そういうことではありません。
ここに「その日」ということばがあります。「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということはこれまでも何度もお話してきましたが、それはイザヤの時代のことよりもずっと後のことが語られているわけです。では何を指しているのでしょうか。
ここに記されてある「確かな場所に打ち込まれたはずの釘」とは、ユダヤ人のことです。彼らは確かな場所に打ち込まれたはずの釘なのに、彼らは抜き取られ、折られてしまいました。なぜなら、聖書の中に約束されていたメシヤ、キリスト、救い主を受け入れなかったからです。確かな場所に打たれたはずのキリストを受け入れなかった。それで彼らは抜き取られ、折られてしまったのです。
ヨハネの福音書1章11節、12節をご覧ください。「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
キリストはご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れませんでした。確かな場所に打ち込まれた釘を拒絶したのです。それでその救いはどうなってしまったのかというと、彼らから取り去られ、異邦人にもたらされたのです。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には神の子としての特権が与えられたのです。ユダヤ人はイエスを救い主として受け入れなかったので、抜き取られ、折られて落ちました。この方こそ来るべきメシヤであり、私たちが信じて、受け入れるべきお方なのです。そうでないと、彼らと同じように、私たちもまた抜かれ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されてしまうことになるのです。
あなたはこの方を受け入れていますか。この方を信じて救われていますか。あなたが抜き取られることがないように、どうか目を大きく開いて、この方の救いを受け入れてください。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたキリストこそ、私とあなたの救い主なのです。信仰の勝利者であるイエスから目を離さないでください。この世は(サタン)は、あなたがキリストから目を背けるようにありとあらゆる手段を使って攻撃してきます。別に神様なんて信じなくても十分じゃないか、毎週教会なんて行かなくても問題なく生きていける、目に見えない神様を信じるよりも、インターネットでこの世の現実を知る方が重要だ・・・と。そうやってこの方を拒絶するようにし向けるのです。しかし、そこには救いはありません。確かな場所に打ち込まれた釘も、抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取り壊されるのです。十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを受け入れる人、その名を信じた人々には、神の子どもとしての特権が与えられます。それが神のしもべとしての原点なのであります。私たちはキリストのしもべとしてこの方を受け入れ、この方の恵みの中に生きる者でありたいと願わされます。この方を信じて歩む一人一人の上に、 神の栄光と祝福が豊にありますようにお祈りします。