きょうは「神を欺いてはならない」というタイトルでお話したいと思います。今お読みした聖書の箇所は、「ところが」という書き出しで始まっています。それは、これまで語られてきた内容を受けての「ところが」です。これまでのところにどんなことが書かれてあったかというと、初代教会の麗しい交わりについてでありました。彼らは、心と思いを一つにしていたので、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてのものを共有にしていたのです。中でもバルナバと呼ばれていたヨセフは、自分の持っていた畑を売って、その代金を使徒たちのところに持って来ました。それほどに神の愛に動かされていたからです。神が愛してやまない教会という枠組みの中で、その必要のために自分にできることは何なのかと考えてのことでした。「ところが」です。そうした美しい愛の共同体の中に、それを破壊するような出来事が起こりました。それがアナニヤとサッピラという夫婦の事件でした。彼らはバルナバの行為に刺激されたのか、自分たちの持ち物を売り払い、その代金の一部を使徒たちの足もとに置いたのですが、その一部を自分のために残していたのです。このことでペテロは彼にこう言いました。
「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのでか。」
確かに地所の代金を偽り、あたかもそれがすべてであったかのように装ったということは罪ですが、どうしてそれが聖霊を欺いたと言われるほどの罪だったのでしょうか。4節でペテロが言っているように、それはもともと彼らのものであり、売ってからも彼らの自由であったはずです。なのに聖霊を欺いたと言われなければならなかったのはいったいどうしてだったのでしょうか。
このことを正しく理解することは大切なことです。というのは、福音の理解に関わる問題だからです。神様はどこまでも愛と恵みの神です。その神が、どうしてここに記されてあるようなことをされたのでしょうか。私たちはみんな罪人です。罪を犯さないで生きていけるような人などだれもいません。だからこそ救い主イエス・キリストを信じたのです。そうした罪のゆえに、本来ならさばかれても仕方ないのに、あわれみ豊かな神は、その大きなあわれみのゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださると約束してくださったからです。イエス・キリストを救いと信じる信仰のゆえに、それを信じるすべての人の罪を赦してくださったはずなのです。なのに、ここではアナニヤとサッピラが厳粛な神のさばきを受けているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。
私たちは今朝、この聖書のみことばを通して、この問題の本質を理解しながら、では、私たちはどうあるべきなのかを学んでいきたいと思います。第一のことは、この問題の本質です。アナニヤとサッピラの問題は何だったのでしょうか。第二のことは、彼らの罪に対する神のさばきです。第三のことは、だから神を恐れてということです。私たちの信仰生活のすべてはこの一つで決まります。それは神を恐れて生きるかどうかです。私たちが神を恐れ、神とともに歩むなら、神が私たちを祝福してくださいます。
Ⅰ.アナニヤとサッピラの問題
まず最初に、アナニヤとサッピラの問題について見ていきましょう。いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。1~4節までをご覧ください。
「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』」
ここには、アナニヤとサッピラという夫婦が登場します。彼らはバルナバの行為に刺激されたのか、自分たちの持ち物を売ってそれを使徒たちのところに持ってきました。この持ち物というのは8節で「地所」と置き換えられていますから、おそらく不動産であっただろうと考えられています。彼らは、自分たちの土地を売り、その代金を使徒たちのところへ持ってきたわけです。なかなかできることではありません。初代教会においては、福音宣教のために、多くの必要がありました。それは、ただ単に、教会に貧しい人々がいたというだけでなく、長い歴史を持たない教会が、力強く宣教をしていこうとすれば、そこに多くの必要が生じてくるのは当然のことです。使徒たちのような献身者の生活を支えるためにも、あるいは、集会をするための場所を確保するためにも、多くの必要があったのです。それは初代教会だけではありません。いつの時代でも同じです。私たちも集会の場所のことでは祈り、話し合ってきました。教会が前進していく過程においては、そのような問題は必ず起こってくるのです。ですから、バルナバをはじめ多くの信者たちが、自分の土地や財産を売って献金をしてまで支えようとしたのです。まあ、そのようにできることも感謝なことですが・・。あとでしたいと思ってもできなくなる時がやって来るわけですから、できるときに精一杯するというのはすばらしいことです。
ところがです。彼らはその代金をささげる際に、その一部を自分たちのために残しておきました。そこでペテロが、「これがあなたの売った代金のすべてですか。」と尋ねると、アナニヤは「そうです」といかにもそれがすべてであるかのように偽ったので、ペテロは彼に次のように言いました。
「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のたちめに残しておいたのか。それはもともとあなたのためであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
そう言うと、アナニヤは息が絶えて、死んでしまったのです。どうしてこのことが聖霊を欺いたと言われるほどの大きな問題だったのでしょうか。もともとそれはアナニヤとサッピラ夫婦のものだったのではないですか。彼らが自分たちの土地を売って、その一部をささげたということはすばらしい信仰の行為のようにも見えます。確かに、彼らが偽ったことは問題ですが、だからと言って、聖霊を欺いたと言われるほどの罪だったのでしょうか。いったい彼らの問題とは何だったのでしょうか。
第一に、それは神のものを盗んだという点で、聖霊を欺く行為でした。どういうことかというと、確かにそれは彼らのものだったのですが、それを神にささげると決めた時点で、既に神のものであったのに、それを自分のものであるかのように取ってしまったのです。
4章34、35節を見ると、「彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じておのおのに分けられたからである。」とあります。初代教会では、このように地所や土地を売り、それを使徒たちのところに持ってくるということは、一般的に行われていた献金の姿でした。その一つの例がバルナバであり、もう一つの例がこのアナニヤとサッピラだったのです。彼らは同じように土地を売り、その代金を使徒たちの足もとに置きました。しかし、アナニヤとサッピラは、その代金の一部を自分たちのために残しておき、ある部分だけをささげたのです。それが彼らのものであったのなら問題はなかったでしょう。しかし、それは現金に換えられる前からすでに神様にささげられていた神のものだったのです。それをあたかも自分のものであるかのように思って取ってしまった。それが彼らの問題だったのです。
それは2節と3節に出てくる「残しておく」ということばからもわかります。このことばは、もともと「着服する」という意味で、新約聖書の中には他に1回しか使われていないことばです。その1回はテトス2章10節に出てきますが、そこではどのように訳されているかというと、「盗む」と訳されているのです。ですから、口語訳ではこれを「ごまかす」と訳したのです。彼らは、神にささげた神のものの一部を自分のために取っておき、いかにもすべてを神にささげたかのようにごまかしたのです。それが彼らの問題だったのです。ですから、ペテロは、彼らは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだと言ったわけです。もし彼らが、それを売って神様にささげようと言わないで、これは神様から与えられたものだから感謝していただこうと言ったのだったら、それほど問題ではなかったでょう。しかし、神にささげたものをまだ自分のものであるかのように思いその一部を取ったことで、神のものを盗むことになってしまったのです。あるいは、神から与えられているものをあたかも自分のものであるかのように思い込んでいたことで、ペテロは、聖霊を欺いたと断罪したのです。
この出来事を考えるとき、その昔、ヨシュアがエリコを攻撃したとき、すべてを聖絶せよと命じられたのにもかかわらず、イスラエルの一兵卒であったアカンがこっそりと自分のために金服晴れ着などを着服した話を思い出します。その事件はヨシュア記6章に記されてありますが、イスラエルがエリコの町を攻撃し、神がその町を自分たちに与えてくださったなら、その町と町中のすべてのものを、主のために聖絶するようにと命じたにもかかわらず、アカンが、聖絶のものに手を出し、そのいくらかを取ってしまったのです。それで主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がり、やがて彼らがアイと戦ったとき、こてんぱんにやられてしまうのです。いったいどうしてそんなことになったのかとイスラエルが神に祈ったとき、神様はこのアカンの罪を指摘されました。「そんなことをしたらアカン」と。それでアカンとその所有物の全部がアコルという谷で石打ちによって滅ぼされてしまったのです。なぜにそれほどのさばきを受けなければならなかったのでしょうか。聖絶のものに手を出したことです。神のものを盗んだからなのです。それは聖霊を欺く罪だったのです。
このアナニヤとサッピラの罪も同じです。彼らは、主にささげたものを着服したのです。それが問題でした。それはもともと彼らのものであり、売ってからも彼らのものであったはずです。しかし、それを神様にささげると言って誓った以上、神のものとなっていたのです。それを盗んだことが問題だったのです。
初代教会は決して献金を強要したり、強制したりはしませんでした。それでも教会では、自発的に多額の献金をささげる人々がどんどん現れていたのです。神の愛に生かされていたからです。滅ぼされても当然の者が生かされているのはただ神の恵み以外のなにものでもないと、感謝に溢れていたからです。そうした思いの中で、彼らは心と思いを一つにし、だれひとり自分の持ち物を自分のものだと言わず、すべてのものを共有にしていたのです。そのよい例がバルナバでした。彼は、教会にそれだけの必要があることを感じていたので、思い切ってささげました。アナニヤとサッピラも同じでした。彼らも初めはそうした純粋な動機から、自分たちのものをささげたいと思ったのです。しかし、彼らがそのように思ったとき、サタンが彼らの心を惑わしました。売却金の一部を自分たちのために取って置いても問題ないし、だれにも分かりはしないと誘惑してきたのです。その昔、アダムとエバがエデンの園にいたとき、ヘビを通してサタンが誘惑してきたようにです。「これで食べても死なない。いや、これを食べるそのとき、あなたの目は開かれ、あなたは神のようになるんですよ。」と。そして、本来神にささげるべきものを、自分のものとして着用したのです。
ですからそれは単に売上金の一部を着服したとか、その代金を偽ったとかといったことではないのです。そうではなく、もともと神にささげたものを自分のものにしようとし、神のものを盗んだという罪だったのです。そうやっていかにも自分が霊的であるかのように見せかけようとした。すなわち、人を欺いたのではなく、神を欺いた。それが彼らの問題だったのです。それは9節の「主の御霊を試みた」ということからもわかるでしょう。
それからもう一つのことは、彼らのそうした罪は、愛の共同体である教会を欺く罪でもありました。この箇所をみると、4章32~37節までのところと見事に対照になっているのがわかります。4章のところには、初代教会が心と思いを一つにして、だれひとり自分の持ち物を自分のものと言わないで、すべてのものを共有にしていました。せめて貧しい人がいないようにと、それぞれが心を砕いてささげている中で、説教者バルナバまでもが自分の畑を売って献金する必要があると判断してささげていたほどでした。なのにここに登場しているアナニヤとサッピラはそうではありませんでした。彼らは教会の人たちと心と思いを一つにしていたのではなく、夫婦で心を合わせていたのです。ですから見てください。2節には「妻も承知の上で」とありますが、これは「共謀して」という意味です。また、9節にも「心を合わせて」とあります。彼らは神の交わりである教会という枠組みの中で過ごしていたのではなく、自分たちの思いの中で動いていたのです。いわば彼らの罪は、心と思いを一つにしていなかったのです。教会の中に生活に困っている人がいてもそうしたことに心を閉ざし、心と思いを一つにしないで、そのような思いとは全く別の方向を向いていたこと、つまり、クリスチャンの新しいいのちに生きていなかったことが問題だったのです。ほとんど完璧に見えた教会の交わりにおいて、彼らの私利私欲、ごまかし、偽善といったものは、そうした教会の交わりを破壊するものであり、神を欺く行為であったのです。
Ⅱ.神のさばき
第二に、そうした彼らの罪に対する神のさばきを見たいと思います。5,6節をご覧ください。
「アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。青年たちは立って、彼を包み、運び出した。」
ペテロの指摘や叱責を聞いたアナニヤは、即、倒れて、息が耐えてしまいました。それにしても恐ろしいことです。このような神への欺きが、即、死刑ということになるならば、いったいどこに救いがあるというのでしょうか。これがすべてのクリスチャンにも適用されるとしたら、死刑にならないで生きられる人はひとりもいないでしょう。銀貨30枚で主イエスを裏切ったイスカリオテのユダでさえ、神は自らさばかれることをしませんでした。彼が悔い改めることを忍耐をもって待ち望みましたが、結局、彼はみずから首をつって死ぬことを選んだのです。ペテロの場合はどうでしょう。彼はキリストの予告にもかかわらず、3度も主を拒絶しました。「知らない」と。それはここに出てくるアナニヤとサッピラの比どころではありません。しかし、神はペテロを裁かれませんでした。彼にも悔い改めの機会を与え、回復に導かれたのです。このことについて聖書はいったい何と言ってるでしょうか。ガラテヤ6章1節には、
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和なここでその人を正してあげなさい。」また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」
とあります。これが福音の世界、恵みの世界です。あるとき、姦淫の現場で捕らえられた女性がイエス様のところに連れて来られたときも、イエス様は彼女を裁くことをせず、「あなたがたの中で、罪のない人からこの人に石を投げなさい」と言われました。すると、だれひとり彼女に石を投げる人はいませんでした。そこでイエス様は彼女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。これが福音の世界、恵みの世界です。ですから、現代の教会がこの恵みから離れ、ここでペテロが叱責したように、「どうしてあなたは神を欺いたのだ」と言ってさばくようなことがあるとしたら、それこと大きな問題なのです。ではいったいこれはどういうことなのでしょうか。
ある人はこれを、「みせしめ」の神罰として説明する人がいます。アカンの事件と同じように、罪に対する神の刑罰がどれほど恐ろしいものであるかを示すために下された「みせしめ」だったというのです。しかし、福音の光を通してみる限り、こうした「みせしめ」が行われるとは考えられません。なぜなら、「みせしめ」というのは平等を欠くことであって、不当な扱いをすることになるからです。神は、このようなことをなさないために、そのひとり子であられるイエス様をこの世に遣わされたのではありませんか。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。そういう意味では、「みせしめ」ならイエス様だけで良かったのです。ではこれはどういうことなのでしょうか。
岸義紘先生はその注解書の中で次のように言っておられます。「それにしても、この事件は難しい。夫婦そろって、たちどころにショック死してしまうとは、普通ではあり得ないことだ。しかもペテロにも青年たちにも、感情の動きがない。驚きもなく、慌てふためいた素振りもない。実に不気味である。動揺のかけらも見られないのだ。その上、家族にも親族にも教会全体にも知らせず、あたかも予定通りのできごとであったかのように冷静に対処し、即、埋葬して片付けてしまった。人間の血が通っていない不可解な事件、ナゾの記述である。いったい著者ルカの意図は何だったのか?この歴史の現実は、神学の通りに流れていかないことも起こり得る。」(P184)
岸先生は、これはもう神学を超えていると言ってるわけです。でも、そうでしょうか。尾山令仁先生の「使徒の働き」の注解書を見ると、尾山先生はこのところを次のように解説しておられます。「ここにまだ旧約的経綸の残存を見るのです。旧約における神の経綸は、救い主イエスがこの世に来られることによって終わり、新約の経綸に移ったはずなのですが、新約聖書がまだ完成していなかった当時は、こうした旧約的経綸が残っていたのです。」(p182)
おもしろいと思いませんか?何がおもしろいかというと、何を言ってるのかさっぱりわからないのがおもしろいのです。おそらく、尾山先生もこの箇所の解釈には苦労されたのではないかと思います。しかし、言ってることはこうです。すなわち、旧約聖書においてはそういうことが確かにあった。罪によって神を怒らせ、そのことで即、死に至るということがよくあったのです。創世記38章7,10節には、「ユダの長子エルは主を怒らせたので、主は彼を殺した」とあります。また、第二サムエル6章7節にも、ダビデが神の箱をバアラというところから自分の町に運ぼうとしたとき、ウザが神の箱に手を伸ばして、それを押さえたとき、牛がそれをひっくり返そうになりましたが、そのとき主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼はその場で打たれて死にました。そういうことが旧約聖書にはよく記されてあるのです。そして、そういう箇所を読むとき、私たちは神様って恐ろしい方だなぁという印象を受けるのです。しかし、新約聖書に入りますと、そうした世界から恵みの世界、赦しの世界へと入っていくわけです。神が私たちをどれほど愛しておられるのかが、キリストの十字架を通して示されるわけです。このアナニヤとサッピラの事件というのは、その旧約から新約へと移行する過渡期であって、まだ新約聖書が完成されていない時期だったので、その残存が見られるのだと言ったのです。
でもそういうことなのでしょうか。私は、どうして死ななければならないほどのさばきがここで行われたのかはわかりませんが、一つだけ確かなことがあります。それは5節の後半のことばです。ここには、
「これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。」
とあります。同じこと11節にも記してあります。「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。」この恐れというのは、怖いといった恐れのことではなく、聖い恐れです。神は生きておられるという厳粛な思いです。教会にはこの聖い恐れが必要でした。教会が調子よく進んでいきますと、いつしかこの聖い恐れというものを感じなくなってしまうことがあります。神を神とも思わなくなってしまうのです。そうなったらさまざまな腐敗や罪がはびこるようになって内側から崩壊することになってしまいます。なぜなら、教会はキリストのからだであり、神のいのちである聖霊の宮だからです。教会は神を恐れて生きる時のみ、大きく前進していくことができる。このアナニヤとサッピラの事件は、そうした罪の恐ろしさと、その罪がもたらす影響というものを示しながら、そういうこものを取り除いていく必要性を訴えていたのです。
Ⅲ.神を恐れて
ですから第三のことは、神を恐れて生きようということです。13~14節をご覧ください。
「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。」
教会が神を恐れ、厳粛な思いで歩んでいくと、この世の人たちはひとりもこの交わりに加わろうとしませんでしたが、彼らを尊敬していました。そればかりでなく、主を信じる人たちがふえていったのです。ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったのに、主を信じる人がふえていったというのは変な表現です。ある人たちは、これでは意味が通じないからと、この文章を書き換える作業をする人たちがいますが、その必要はありません。この「交わりに加わる」ということばは、「にかわ付けにされる」とか、「のり付けされる」という意味で、夫婦の結び付きなどを表すのに用いられることばですが、町の人たちは、この事件の後で、神のさばきの恐ろしさに、ちょっとやそっとの決心ではこの交わりに加わることはできないと思っていましたが、むしろ、教会が自分のえりを正そうとした真摯な姿に心が打たれ、彼らを尊敬し、その交わりに加えられていったということだからです。教会のこうした姿は、世間の人たちから見ても非常に魅力的で、彼らの尊敬と信頼を勝ち取り、さらに力強く前進していく要因の一つでもあったのです。
日本に初めてキリスト教が伝えられたとき、その数はかなりの数で、フロイスという歴史家によると、ここ数年で日本はキリスト教国になるのではないかと言われたほどです。それで豊臣秀吉、徳川家康の時代になって禁令となり、多くの人が殉教していくようになりましたが、それでもクリスチャンは少なくなるどころかますますふえて行きました。どうしてそんな迫害の中にも力強く前進していったのかというと、魅力があったからです。初代教会にはそうした魅力がありました。それは神を神として生きるところから生み出された魅力です。どんなことがあっても神に従っていくところからにじみでる魅力です。神のことばはいつまでも変わることのない真理です。このみことばに従うことが、すべての祝福の鍵なのです。
イスラエルの王で、伝道者ソロモンは、このように言いました。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)
結局のところ、これがすべてです。神を恐れ、神の命令を守ることです。そうすれば、主はその歩みを確かなものとし、祝福してくださいます。神を神とせず、神を欺きながら、利己的に生きようとするなら、そこにはいろいろな乱れが生じてくるでしょう。ですからソロモンは、結局のところ、神を恐れることがすべてだと言ったのです。私たちはただ神を恐れ、神のみこころに歩む者でありたいと思います。また、神が愛してやまない教会という枠組みの中で、心と思いを一つにして使えていく者でありたいと思うのです。