きょうは「祈りとみことばを第一に」というタイトルでお話をしたいと思います。きょうのところは「そのころ」ということばで書き出されています。使徒の働きにおいて「そのころ」ということばが用いられているのは、新しい段階に入っていくことが表されているときです。これまでのところでは1章15節に出てきましたが、そのときはユダに代わる新しい使徒が選ばれ、教会が組織を充実させながらペンテコステ、すなわち教会の誕生とその後の働きに備えていくときでした。きょうのところはどういう意味で新しい段階に入っていこうとしているのかというと、教会に起こったある問題とその解決を通して、そこに出てくる七人の名前をリストすることによって、その後の宣教の展開の導入にしていこうという意図があったものと思われます。すなわち、ステパノの殉教、ピリポのサマリヤ伝道、そして、アンテオケの改宗者ニコラオの名をここに記することによって後にアンテオケ教会からパウロとバルナバを宣教に使わすことを通して異邦人伝道、すなわち、世界宣教へとその働きが広がっていくことを前提に、その序論とすべき箇所がここだったのではないかということです。そのきっかけとなった問題とは、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤたちに苦情を申し立てたということです。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからです。教会は美しの門で生まれながらの足なえをいやしたことで外からの迫害を受けましたがそれを克服したとたかと思ったら、今度はアナニヤとサッピラの罪という内側からの問題に取り組まなければなりませんでした。そして、その問題も乗り越えると主を信じる者たちはますますふえ、エルサレム中に福音が広がっていきましたが、そのことで第二の迫害が起こります。それも神様の超自然的なみわざによって克服すると、今度はまた別の問題が起こってくるわけです。一難去ってまた一難です。教会はその創設期において迫害やトラブルに悩まされ、それを乗り越えて第二の段階に入ったらそれで問題が無くなり安定した平和な時を迎えられるのかというとそうではありません。教会がこの地上にある限り、問題は絶えないのです。しかし、教会に問題があること自体は問題ではありません。問題はそうした問題にどのように取り組んでいくかということです。なぜなら、そうした問題に取り組むところから多くの得難いものを見出し、さらに大きく成長していくことができるからです。きょうの箇所はまさにそのことを私たちに教えてくれるところです。
きょうはこの箇所から三つのことをお話したいと思います。まず第一に、問題の本質です。エルサレム教会に起こった問題とはどういう問題だったのかということです。第二のことは、その問題の解決です。教会は、第一のものを第一にすることによってその問題を解決していきました。第三のことは、その結果です。そのように取り組むことによって教会はますます成長しただけでなく、多くの祭司たちも次々に信仰に入っていきました。
Ⅰ.教会に対する苦情
まず第一に、教会の中に起こった問題そのものを見たいと思います。1,2節をご覧ください。
「そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。そこで、十二使徒たち全員を呼び集めてこう言った。『私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。』」
今回の問題は、弟子たちがふえるにつれて起こってきました。教会がわずかな人数の時には以心伝心で通じ合っていたことでも、人が増えるにつれてそういうわけにはいかなくなることがあります。今日でも、教会が少し大きくなっただけで、「あの頃は楽しくて良かったね」などと、小さくまとまっていた頃のことを懐かしんだりすることがあります。当時の教会はすでに何万人という会員を有していましたから、そうした意志の疎通がうまくいかなくなっても不思議ではありませんでした。しかし、それ以上に問題だったのは、そのように弟子たちが増えるにつれて、いろいろな人たちが教会の中に加わるようになったことです。ここには「ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた」とあります。「ギリシャ語を使うユダヤ人」というのは「ヘレニスト」という英語の語源になったギリシャ語で、ギリシャ風の人のことです。ここではへプル語を使うユダヤ人、つまりきっすいのヘブル人に対して、ギリシャ語を使う外国育ちのユダヤ人のことを指します。この人たちがギリシャ語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てたのです。なぜでしょうか。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。外国育ちのユダヤ人の多くは、年をとると、聖地エルサレムのおひざもとに葬られたいと願う人が多く、祖国に帰ってくる人がかなりおりましたが、こうした人々の多くは取り残される傾向がありました。というのは、もともとエルサレムに住んでいたユダヤ人ならば若い者たちといっしょに暮らしていましたから、身寄りがないということはほとんどなかったのですが、外国からやって来たユダヤ人の場合は、夫に先立たれた老妻が、身寄りのないやもめとして取り残されることがしばしばあったからです。そうしたことで、外国育ちのユダヤ人たちの側から、彼らのやもめたちが、毎日の生活の援助のことで、なおざりにされているという不満が起こったわけです。
彼らの中からこうした不満が起こってきたのも無理もありませんでした。というのは、当時の教会はすべてが使徒たち中心であったからです。たとえば、4章
35節を見ると、教会の献金は使徒たちの足もとに置かれていたとあります。
十二人の使徒たちだけで何万人にも及ぶ人たちの世話をしていくこと自体が無理です。ましてやもめたちというのは身寄りがないわけですから、毎日の配給があらゆる面で必要でした。これだけ増えた会衆の世話を、毎日、しかも十二人の使徒たちがするとしたら、なおざりにされる人たちが出てきても、当然のことです。
そして、そのような事態はもっと深刻な問題を引き起こしていました。それは彼らがそうしたやもめたちの世話であまりにも忙しく、彼らが本来しなければならなかった神のことばに仕えることがあと回しになっていたことです。これでは本末転倒です。そこで十二使徒は弟子たち全員を集め、「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。」と言いました。
このエルサレムに起こった今回の問題をみると、そこから二つのことがわかります。一つのことは、教会に起こる問題は、必ずしも、だれかの罪や悪というものに起因して起こるとは限らないということです。今回の問題は、あのアナニヤとサッピラの場合のように、だれかの罪のせいでというのとは本質的に違います。弟子たちが増えるにつれて、そこにいろいろな人たちが加えられたことによって生じた問題でした。だから教会は小さい方がいいんだということではありません。教会に多くの人が加えられ、ますます発展していくことはすばらしいことであり、神様のみこころですが、そうした中にも問題は起こってくるのです。つまり、問題というのは、いつでも、どこにでも必ず起こってくるものであるということです。「神が教会を建てるとき、そのかたわらに悪魔もチャペル(会堂)を造る」ということわざがありますが、悪魔は、いろいろな方法によって問題を起こしてくるわけで、悪魔が利用できない事柄など、この世にはありません。であれば私たちは、やたらにその問題の責任を追及したり、その問題によって動揺したりする必要はなく、むしろ問題の所在を明らかにし、それを信仰の視点でとらえながら的確に対処していけばいいのです。中には問題だ、問題だと、問題をことさら大きく騒ぎ立てる人がいますが、その必要はないということです。
もう一つのことは、このような問題に対する取り組みを通して、神様が新しいステージに私たちを導いておられることを信じなければならないということです。だれが考えることができたでしょうか。このような問題が生じたことでエルサレム教会が自分たちのあり方を見つめ直し、そこに七人の働き人を立てることによって、さらに大きく前進していくようになったということ・・・を。また、そこでステパノやピリポが立てられることによって、彼らの宣教がそのように導かれて行ったのです。
前にもお話したことがありますが、私たちの人生には多かれ少なかれこうした問題が起こるものです。いわばちょっとした穴が開くのです。そうした穴が開いたとき人はいったいどういう態度を取るかというと、だいたい次の三つの対応を取ります。第一に、それを見て嘆くか、第二に、できるだけそれを見ないようにする、いわゆる現実逃避ですね、それとも第三に、その穴が開かなければ決して開かれることのない新しい世界を見ていくかです。時として神様は、こうした問題を通して、私たちが新たな世界を見出していくための機会していることがあるのです。この場合はまさにそうでした。そういう意味では教会の中に、あるいは私たちの人生の中に問題が起こったてもそれを悲観的なとらえて嘆くのではなく、その問題への取り組みを通して、神様がさらに新しい世界へと導いておられるのだと信仰をもって受け止めていかなければなりません。
Ⅱ.祈りとみことばを第一に
さて、それでは使徒たちは、この問題に対してどのように対処していったでしょうか。次に、彼らの対処を見ていきたいと思います。3~6節までをご覧ください。
「『そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。』この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。」
こうした問題が起こったとき、使徒たちは、教会の人たちを全員集めて、次のような提案をしました。すなわち、彼らの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選び、彼らにこの仕事に当たらせるということです。これは教会に役員が立てられ、組織化されていった最初だと言われています。問題は、彼らはいったいなぜこのようなことをしたのかということです。それは4節に書いてありますように、使徒たちが「祈りとみことばの奉仕」に専念するためでした。彼らが神のことばをあと回しにし、食卓のことに仕えるのはよくないことだと判断したからです。教会に弟子たちがふえるにつれ、そうした人たちの世話で時間が取られることで、彼らが本来すべきであった神のみことばに仕えることがおろそかになるのはよくないと考えたのです。何だって愛がないと思われますか。そうではありません。彼らがそのような人を立て、そうした人たちにその働きをゆだねていくことによって、彼らが抱えていた問題を解決することができるようになった、すなわち、そうしたことで悩んでいた人たちの問題を解決できるようになったばかりか、使徒たちにとっても、そうした重荷から解放されて、神のことばに専念できるようになったわけですから、これはすばらしいことなのです。
かつてモーセがエジプトを出て神の山ホレブに宿営していたとき、しゅうとのイテロが彼らに会いに来たとき、モーセが朝から晩まで民の悩みを聞き、民をさばいている姿を見て心配して、彼にこう助言しました。
「あなたが民にしていることは、いったい何ですか。なぜあなたはひとりだけでさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」(出エジプト18:14)
「あなたのしていることは良くありません、あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられますように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところへ持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところへ持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷を担うのです。もしあなたがこのことを行えば、神があなたに命じられるのですが、あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」(同18:17~23)
地上のどの人よりも謙遜で、柔和であったモーセはこのしゅうとの助言を聞き入れ、すべて言われたとおりにしました。そうするこで彼は、自分の重荷を軽くして200万人とも言われた民を約束の地に向かって導くことができたのです。
「重荷を軽くする」ことは、教会が教会としての機能を果たし、もちこたえることかでき、平安のうちに前進していくために重要なポイントです。教会は牧師ひとりで戦う群れではなく、全員でその重荷を負いながら進んでいく群れです。教会はキリストのからだと言われていますが、それぞれの器官は違っても一つのからだとしてその機能を果たしながら成長していくものなのです。そういう意味で、使徒たちが何からかにまで自分たちだけでやろうせずに、こうして七人の執事を立てることによって重荷を分けたことは必要なことでした。
そして、何よりも良かったことは、そのように重荷を分け合うことによって、彼らが本来すべきことに専念することができるようになったことです。「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励む」ことができるようになったのです。彼らが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのはよくないからです。どうしてですか。なぜなら、祈りとみことば、すなわち、礼拝とみことばによる指導こそ教会の中心的なことだからです。皆さん、教会の中心は何でしょうか。教会の中心は、もちろんイエス・キリストです。ではそのイエス・キリストが中心であるとはどういうことなのでしょうか。それはこのイエス・キリストを救い主と信じ、キリストの教えに従うということです。それが私たちのいのちだからです。そしてその手段こそ礼拝とみことばの説教、指導なのです。
使徒の働き20章32節のところでパウロは、エペソの教会の長老たちと別れるとき、このように言いました。
「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖別された人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」
みことばには、教会を育て、神の国を継がせる力があるのです。なぜなら、みことばは神の意志、考えが記されたものだからです。ですから、私たちはこのみことばに従うことによってのみ神の意志に統率された神の教会になることができるのであって、人間的な方法によっては無理なのです。ただ神を礼拝し、神が教えてくださる方法によってのみ、神の教会が建て上げられていくわけです。教会がどんなに慈善事業を行っても、どんな大きな会堂を建てても、どんなに華々しいことを行っても、その中心的なことである礼拝とみことばを忘れてしまったら、それはもはや教会ではなくなってしまうのです。それは舵を失った船のようで、正しく進んでいくことができません。いのりとみことばこと教会にとって第一のことであり、中心的なことなのです。礼拝とみことばによる指導に専念できる人を確保できない教会は、残念ながら成長していくことはできません。あるいは、礼拝とみことばを指導する人が他のことであまりにも忙しく、教会でみことばを教えることがおろそかになったとしたら、教会はいのちを失ってしまうことになります。教会が教会としていのちに溢れたものであるためには、教会に礼拝と説教に専念できる人を確保することです。そのために教会が一丸となって取り組んでいく。それがこの教会の組織の目的だったのです。それは牧師だけが伝道し、あとの人たちは礼拝やその他の集会に主席していればそれでいいということを行っているのではありません。事実、ここに立てられたステパノにせよ、ピリポにせよ、あるいは他の5人にしてもそうだったでしょう。彼らは立派な伝道者でもありました。彼らも伝道に勤しみました。要するに、教会の中にみことばを高く掲げようという熱心と、みことばと礼拝のご用を第一に重んじるといった敬虔さがあるかどうかです。そうした思いが、万事につけて教会の動きを支配しているかどうかなのです。礼拝とみことばの奉仕という教会にとって中心的なことを第一にしていくことが、教会にとって重要なことです。
さて、そのために立てられた七人の人たちはどういう人だったでしょうか。3節にはその人たちの条件というか、資格が次のように記されてあります。すなわち、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」です。御霊に満ちた人というのは、キリストにその生活のすべてが支配されている人のことです。自分の生活や仕事のいっさいが、キリストのみこころのうちに導かれることを願い、そのように営まれている人のことでしょう。また、知恵に満ちた人というのは、ここに御霊に満ちたということと一緒になっていることからもわかるように、御霊に満たされた結果としての実のことです。それは知識がある人とは違います。どんなに知識があっても知恵のない人がいます。というのは、この知恵はキリストに従い、御霊に満たされることによってもたらされるものだからです。知識も大切ですが、知識よりも知恵が求められます。知識は人を高ぶらせてしまうこともあるからです。知恵はそういうことはありません。この後でステパノのことが紹介されていますが、彼はこの知恵に満ちていました。「信仰と聖霊に満ちた人」とか、「恵みと力とに満ちていた人」とあります。また、この働きにふさわしい人は、評判の良い人です。「評判の良い人」というのは、単に世間の聞こえがいい人という程度のことではありません。このことばはもともと「あかしされている」人を指します。教会の内でも外でも、りっぱにあかしされている人なのです。
つまり、ここに選ばれた七人の人というのは、配給の職務に優れた能力や素質があった人ではなく、御霊と知恵に満ちた人というのがその基準であったということです。それは、神の働きが、そうした人間の能力や資質にかかっているのではなく、聖霊に満たされているかどうかにかかっているからです。それは教会が人間の知恵や能力によって導かれていくものではなく、ただ神のみことばによる神の考え、意志といったものによって導かれていくものだからです。そういう意味でも教会は、常に祈りとみことばによって神のみこころを探っていこうとすること、それが最も重要なことなのです。
Ⅲ.こうして神のことばは
第三のことは、その結果です。7節をご覧ください。
「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。」
教会が第一のものを第一とし、使徒たちが祈りとみことばに専念できるようにした結果、神のことばはますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行きました。教会のわざは、何の理由なしに伸展していくものではありません。伸展しているのにはそれだけの理由があります。それが「こうして」ということばに表れています。すなわち、牧師が礼拝とみことばの奉仕に専念できるように、教会のひとりひとりがその役割を果たしていくという、教会本来のあり方が確立されていくならば、教会は伸展していくのです。
第一に、神のことばがますます広まって行きます。ここでは教会の勢力、教勢がどうこうということ以上に、「神のことば」が広まっていったという成果が強調されています。これは、使徒たちがもっぱら祈りとみことばの奉仕に励んだ結果と言えるでしょう。
第二に、弟子たちの数が非常にふえて行きました。特にここでは「エルサレムで」とありますが、エルサレムは当時伝道がもっとも難しい所でした。周囲からの反対は激しいし、彼らの失敗の何もかも知っている人たちでした。そのような伝道が最もしにくいところでそのような成果を上げたということは、それが本物の成長であり、高く評価されるものでした。
第三のことは、単に弟子たちの数が増えたというだけでなく、その中でも「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」ということは注目すべき点です。祭司たちというのは反キリスト教勢力の中心であったはずだからです。そういう人たちまでもが信仰に入っていったということは、福音のもたらす力というか、影響力というものがいっそう強いものになったということです。
このように、教会が礼拝とみことばの奉仕を第一に考え、そのために役員が立てられ、私たち一人一人が用いられていくとき、教会は必ず伸展していくのです。それは、伝道が最も困難だと思われていたエルサレムで弟子の数が非常に増えていっただけでなく、多くの祭司たちもが信仰に入るほどの勢いとなりました。神のみことばにはそれほどの力があるからです。私たちはこの原則に立ってまいりたいと思います。すなわち、礼拝とみことばに専念することです。こうして第一のものを第一とするとき、教会はいのちに溢れて力強く前進していくのです。また、教会にはできるだけトラブルや問題がない方がいいと考えがちですが、問題があるかないかということよりも、その問題に取り組む中で主が教え、導いておられるメッセージをしっかりと受け止めることによって、初代教会が強められて行ったように、まるで困難を跳び箱の踏み板のようにして飛躍していくものでありたいと思います。