使徒の働き8章14~25節 「神の前に正しい心」

 きょうは「神の前に正しい心」というタイトルでお話したいと思います。ピリポによって、魔術師シモンの働きよりも、さらに力のあるめざましい働きが行われると、サマリヤの人たちは、ぞくぞくとピリポの宣べ伝えたキリストを信じるようになりました。すると驚いたのはエルサレムにあった教会です。エルサレムいた使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わしました。そこで一つの問題が生じます。ペテロとヨハネが行って、人々が聖霊を受けるように祈ると、彼らは聖霊を受けたのです。驚いたのは、あの魔術師シモンであります。もっともこの時には彼自身も信じてバプテスマを受けクリスチャンになっていたはずでしたが、彼はその様子を見て、使徒たちのところにお金を持ってやって来て、自分にもそのような権威を与えてほしいと言いました。それを聞いたペテロは次のように言って彼を叱責しました。20,21節です。

「あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについて何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。」

 彼の心は神の前に正しくありませんでした。金で神の賜物を手に入れようとしたからです。実はこのところから、教会において聖なる権能や職務などを、金銭などによって売買することを「シモニア」と呼ばれるようになりました。これは、腐敗した中世のローマ・カトリック教会によく見られましたが、注意しないと、私たちの中にもこの「シモニア」が入ってこないとも限りません。私たちはここでシモンが陥った間違いを注意深く学びながら、同じような過ちに陥らないように注意しなければなりません。いったいシモンが犯した過ちとはどんなことだったのでしょうか。

 きょうはそのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、聖霊はどのようにして与えられるのかということについてです。第二のことは、シモンの過ちです。彼は神の賜物である聖霊を、お金で手に入れようとしました。第三のことは、だから悔い改めて祈りなさいということです。そうすれば、心に抱いた思いも赦されるからです。

 Ⅰ.一方的な神の恵み

まず第一のことは、聖霊はどのようにして与えられるのかについてです。14~17節までをご覧ください。

「さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」

 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人たちが神のことばを受け入れたということを聞くと、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わしました。おそらく視察のためだったのでしょう。このころはまだ、教会の全責任を使徒たちが負っていたので、信徒たちの伝道によって救われた人々を教え、訓練するために、彼らが遣わされたのだと思います。特にこのサマリヤという地方は、歴史的に特別な事情に置かれていた所でした。昔アッシリヤという国に侵略されたとき、サマリヤの人たちはアッシリヤ人と混血となってしまったために、ユダヤ人から蔑視され、交わりを持ってませんでした。そのサマリヤの人たちが主イエスを信じたということですから、使徒たちも黙って見ているわけにはいなかったのでしょう。彼らが出かけて行って、確かにサマリヤの人たちも救われたということを確認して、ユダヤの教会もサマリヤの教会も、キリストにあって一つであるということを示す必要があったのだと思います。

 ところで、ペテロとヨハネが遣わされて彼らのところへ行ってみると、サマリヤの人たちはバプテスマを受けていただけで、まだだれにも聖霊が下っていませんでした。そこでペテロとヨハネが聖霊を受けるようにと彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けたのです。なぜ彼らが聖霊を受けたのかということが分かったのかというと、おそろらく、聖霊を受けた人々の中には、あのペンテコステの日のような外的なしるしが起こったからでしょう。

 それにしても不思議です。彼らは既にピリポの伝道によって神のことばである福音を信じていたにもかかわらず、まだ聖霊を受けていなかったのです。聖霊を受けるとはインマヌエルなる神がともにいてくださることの保証であって、救われているということなはずです。ですから、彼らがピリポによって主イエスを信じて受け入れた時に、聖霊を受けるはずなのです。なぜなら、Iコリント12:3には、

「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません。」

とありますし、同じIコリント12:13にも、

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

とあるからです。主イエスを信じるということは、一つの御霊によってバプテスマを受けるということです。ですから主イエスを信じた人の中には神の御霊が住んでおられるということです。なのに、サマリヤの人たちにはまだその御霊が下っていたなかったのです。

 このところからある人たちは、第二の恵みとしての聖霊のバプテスマを主張する人たちがいます。すなわち、イエス様を信じただけでは聖霊を受けることは出来ず、イエス様を信じた後にさらなる恵みとして聖霊を受けるのだ・・・と。その時にはこの時と同じような外的なしるしである異言が伴うのだ・・・と。しかし、そうでしょうか。

 このようなことは使徒の働きの中にはもう一度だけ出てきます。19:1~7です。パウロがエペソに来たとき、そこで幾人かの弟子たちに会ったとき、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊が与えられることは聞きもしませんでした」と答えたので、「じゃ、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと、「ヨハネのバプテスマです」と答えたので、パウロは、そのことについて説明し、主イエスの御名によってバプテスマを授け、彼らの上に手を置くと、彼らに聖霊が臨まれたのです。

 いったいこれはどういうことなのでしょうか。信徒であったピリポが伝道して彼からバプテスマを受けたときには聖霊を受けることが出来ず、エルサレムからペテロとヨハネがやって来て、彼らの上に手を置いて祈ったら聖霊が与えられたというのは、聖霊というお方は、そのように信徒の手によって与えられるものではなく、使徒たちによらなければ、使徒たちに祈ってもらわなければ与えられないということなのでしょうか。

 そうではありません。その証拠に、他の箇所には、聖霊は特に手を置かなくても下っておられるからです。たとえば、ペンテコステの時には、だれも手を置かなくても、一同に聖霊が下りましたし(2:4)、また、この後でペテロがコルネリオに説教している最中にも、突然彼に聖霊が下りました(10:44)。ですから、このように使徒たちがわざわざ手を置かなくても、聖霊は下るのです。ではいったいなぜ、ピリポの時には聖霊が下らず、ペテロとヨハネがエルサレムからやって来た時に下られたのでしょうか。

 わかりません。それは全くと言って良いほどの神様の主権的な働きであり、私たちの理屈や考えを超えたものです。しかし、あえて大胆に想像することが許されるとしたなら、この「サマリヤ」という特殊な場所と関係があったのではないではないかと思います。すなわち、先ほども申し上げたように、歴史的に忌み嫌われていたサマリヤの人たちが主イエスを受け入れたということで、サマリヤの教会とエルサレムの教会の二つの教会は別々の教会ではなく、一つの教会であるということを示すためではなかったかということです。ですから、わざわざエルサレムの教会からペテロとヨハネがサマリヤまでやって来たときに、聖霊は下られたのです。それまでずっと待っていたのではないでしょうか。そうした特別な事情の下に、ピリポがサマリヤで伝道し、多くの人々が主イエスを信じても、聖霊はまだ下られなかったのです。

 シモンのあやまちの一つは、この聖霊に対する誤解でした。そのように聖霊は、三位一体の神ご自身であって、信じる人々の中に一方的な恵みとして自由に働かれる方なのに、教会のある特別な資格を持った人の権威によってもたらされるものだと考えたのです。しかし、だれひとり人の信仰を支配したり、まして神の聖霊の受け渡しや差し止めをする権威を持っている人などは、いないのです。私たちの信仰の成長も、御霊の恵みも、ただ「神の賜物」として賜るものなのです。「賜物」とか「賜る」ということばは一般的にあまり使うことがなく昔のことばのようですが、それは、「いただいたもの」「ちょうだいしたもの」という意味です。プレゼントのことです。私たちが何かをしたからではなく、何もしなくても、一方的な恵みとして、神から与えられるものなのです。ですから私たちは、何か特別な資格や権能といったものを求めていくのではなく、ただ神の恵みをひとりひとりが求めていかなければならないのです。

 Ⅱ.小さなことをコツコツと

第二に、それをみていたシモンが、お金でその権能を買おうとした態度についてです。18~21節までをご覧ください。

「使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、『私が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられるように、この権威を私にも下さい』と言った。ペテロは彼に向かって言った。『あなたの金は、あなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。あなたは、このことについて何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです。』」

 使徒たちが手を置くと、御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、自分が手を置いた者がだれでも聖霊を受けられることができるように、その権威を自分にも与えてくださいと頼みました。彼はそうした権能を、お金で買えると思いました。一体なぜ彼はそのように考えたのでしょうか。それはまず、先にお話したように、聖霊に対する間違った考えがあったからです。聖霊は神からの一方的な恵みによって与えられるものなのに、人間的に手に入れることができると考えた。その手段がお金だったのでしょう。しかし、そればかりでなく、彼が使徒たちのところにお金を持ってきて、自分にもその権威が与えられるようにとお願いしたのは、これまでの彼の生き方と非常に関係があったからです。すなわち、日々の小さな努力や信仰の取り組みをしないで、地位や名誉といったものを一挙に手に入れようとする思いです。彼はキリスト教に入信するまで、小さな者から大きな者に至るまで、この人こそ、大能と呼ばれる神の力だと、もてはやされていた人です。ですから彼が、普通のクリスチャンが持っていない、いや、洗礼を授けてくれたピリポ先生でさえ持っていない権威を、ペテロ大先生から手に入れることができたらと思ったのも、無理もありません。彼は今までずっと人々からあがめられてきたし、これからもいつも、人のトップを走って行きたいわけですから。

 人の上に立ちたいとか、人の先に立ちたいという思い自体は、必ずしも悪いことではありません。聖書にも、「競技場で走っている人たちは、みな走っても、賞を受けられるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい」(Iコリント9:24)とか、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い人のようになりなさい。また、治める人は仕える者のようでありなさい」(ルカ22:26)ともあります。さらに、「人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである」(Iテモテ3:1)ともあります。このように上に立ちたいとか、監督の職につきたいと思うこと自体はすばらしいことであり、私たちすべてに求められている聖なる意欲でもあるのです。問題は、それをどのようにして達成していくかです。イエス様が言われたことは、「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようでありなさい」とか「治める人は使える人のようでありなさい」と教えられました。またパウロも、「監督の職につきたいと思う」ことはすばらしいことだが、監督は「自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、」「また信者になったばかりの人であってはいけません」とあります。(Iテモテ3:2,6)高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。ですから、一番偉くなるのは、時間をかけ、慎み深く、人に仕え続けることによってなのであって、ところがシモンは、これを一挙に手に入れようとしました。その手段がお金であったり、魔術であったりだったわけです。彼のまちがいは、そのように人がこつこつとじみに働いて到達する地位とか名誉といったものを、一挙に手にいれようとしたインスタント成功法を求めたことでした。

 しかし、それはシモンだけではないでしょう。ややもするとそうした過ちは、私たちの中にも入り込まないとも限りません。私たちの中にはこのシモンのようにお金で聖職を買おうといった大それた罪は見受けられないかもしれませんが、手っ取り早く効果を上げようという思いが巧妙に入り込んでくることがあるのではないでしょうか。たとえば、毎日こつこつと聖書を読んだり、お祈りをしたりといったデボーションを守ったり、集会を重んじるために懸命な努力をしたり、普段の生活の中で証しをしていくということをしないで、人が驚くような何かをいつも求めて走り回っているということはないでしょうか。リバイバルを求めるということはすばらしいことですが、そうしたリバイバルは、私たちの普段のこうした地道な努力や働きの結果としてもたらされるものなのであって、こうした基本的なことをなおざりにして、その代わりに人が驚くような何かを求める心は非常に危険です。こうした小さなことに取り組むことは一見やさしいことのように見えますが、実は続けていくのはなかなか容易なことではありません。しかし、そうした一つ一つの小さな取り組みを、コツコツと行っていくのなら、やがてそれは大きな働きとなって現れてくることでしょう。「塵(ちり)も積もれば山となるです。私たちはこうした日々の、小さな働きを、地味なようですが、コツコツと積み重ねていく歩みを心掛けていきたいものです。

  Ⅲ.悔い改めて祈りなさい

ですから、このシモンの誤りの根源は何かというと、彼が「心」を忘れたことです。ですからペテロは、21節のところで、「あなたの心が神の前に正しくないからです」と言いました。シモンがそうした使徒たちのような権威にあずかることができなかったのは彼が使徒ではなかったからではありません。彼の心が神の前に正しくないからだったのです。それが彼の根本的な問題だったのです。では、どうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて祈りなさいということです。22~24節をご覧ください。

「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。あなたがたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいることが、私にはよくわかっています。シモンは答えて言った。『あなたがたの言われた事が何も私に起こらないように、私のために主に祈ってください。」

 ペテロはここで彼に対して、「あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」と叱責しています。「胆汁」とは、肝臓で作られ一時胆嚢内に蓄えられ、総胆管を経て十二指腸に注がれる消火液のことです。これは非常に苦いそうですが、聖書ではこれを、偶像礼拝したイスラエルに対する呪いの結果を説明するために使われたことばです。(申29:17,18)ですからここでペテロは、シモンがまだ神の恵みの賜物を、以前の魔術師時代と同じ商取引の対象のように見る心があるのをみて、そのように叱責したのです。神の聖霊を自分の力で操ることができるかのように錯覚し、日々の地道な努力もしないで、お金でその力を得ようとした彼の思いは、まさに苦い胆汁でした。であれば、その悪事を悔い改めて、主に祈らなければなりません。神の御霊も、救いの恵みも、自分の手で買い取ることができるかのようなうぬぼれた高ぶった思いを悔い改め、ただ主の御前にへりくだった者とならなければなりません。もし、今私たちが受けているもののすべてが、本当に神から受けた恵みの賜物だと受け止め、それを感謝して生きるなら、シモニアのような罪はなくなることでしょう。

 おもしろいことに、ここでペテロは「あるいは」ということば使っています。「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」と。普通ペテロはこのような言い方をしません。彼は、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」と明言します。なのにここでは「あるいは」「かもしれません」というような曖昧な言い方をしています。いったいどういうことなのでしょうか。その悪事を悔い改めても、神は赦してくださらないということもあるのでしょうか。いいえ、ありません。悔い改めるなら、神は必ず赦してくださいます。ペテロがここで「あるいは」と言ったのは、シモンがまだ心から悔い改めていなかったからです。おもしろいことに、24節のところでシモンが、「私のためにも祈ってください」と言ったことばは、かつてエジプトの王パロがモーセに要請した時ときに言ったことばと非常によく似ています。(出8:8,28,9:28,10:17)しかし、やがてパロは心を翻し、再び心をかたくなにしたのでした。おそらくペテロはそうしたかたくなな心をこのシモンの中にみたのでしょう。だから、「あるいは」とか「もしかしたら」と言ったのです。しかし、心から悔い改めて、主に立ち返るなら、たとえそれが胆汁のように苦々しい罪であっても、主はその罪を赦し、雪のように白くしてくださるのです。

 その後シモンがどうなったかについては、聖書には何も記されてありません。
しかし、彼の歩みを通して私たちは、神の賜物である聖霊や、その権威についてはとうていお金では買うことができない絶大な価値のあるものだということを覚え、そのことに感謝し、それを私たちが一方的に与えられていることのゆえに、ただで賜っているのだといったへりくだりの心を、いつも見失うことがないように歩んでまいりたいと思います。それこそ神の御前に正しい心であり、神が私たちに求めておられることなのです。