使徒の働き10章1~33節 「聖霊による出会い」

 きょうは「聖霊による出会い」というタイトルでお話をしたいと思います。「人生は出会いで決まる」と言ったのはマルチン・ブーマーという人ですが、きょうのところにはまさに、救いの恵みがユダヤ人から異邦人へと及んでいくきっかけとなった大きな出会いが記されてあります。それはペテロと異邦人コルネリオとの出会いです。この10章1節から11章18節にかけてのところには、コルネリオというイタリア隊の百人隊長が救いに導かれたことが記されてあります。たったひとりの救いの物語にこれだけのスペースを割いて記録しているのは他に例がありません。それはこの出来事が、キリストの救いがユダヤ人から異邦人へと広がっていったことを記したこの使徒の働きの重要なテーマの始まり、きっかけとなった出来事だったからです。ルカはこの事件を書き記すことによって、福音が持っている意味、すなわち、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、どんな人でも、ただキリストを信じる信仰によって救われるという真理を伝えたかったのだと思います。そのきっかけとなったのがペテロと異邦人コルネリオとの出会いです。それはまさに聖霊による出会いでした。

 きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、御使いを通してコルネリオに語られたことばです。聖霊は彼に御使いを通して、これまで一度も会ったことのないペテロを招くために、ヨッパに人をやりなさいと語られました。第二のことは、ペテロに語られた主のことばです。主はペテロに夢を通してご自身のみこころを示されました。それは、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」ということでした。第三に、ペテロとコルネリオとの出会いです。二人の出会いはまさに聖霊による出会いでした。そのことによって人間には乗り越えることのできなかった隔ての壁を乗り越えることができ、神の国の天幕がいよいよ大きく広げられていく結果となりました。それが聖霊のなさる御業なのです。ですから私たちは古い価値観や民族的な伝統に縛られながら生きるのではなく、聖霊の導きに従いながら、神の国の広がりと豊かさを味わいながら、これを喜び、福音の持つ大きな祝福にあずかっていきたいと思うのです。

 Ⅰ.ヨッパに人をやって

まず第一に、異邦人コルネリオに語られた主のことばを見ていきましょう。1~8節までをご覧ください。1,2節には、この物語の主人公について簡単な紹介が記されてあります。

「さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という隊の百人隊長であった。彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、」

 カイザリヤとは、ユダヤ北方にある港町です。この町はその名が示す通り、ローマの皇帝カイザルの名にちなんで建てられた町です。そこにはローマの軍隊が駐留していましたが、それがイタリヤ隊という部隊です。これは600人によって構成されていたと言われていますが、その隊長がコルネリオでした。彼について聖書は、「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた」と報告しています。敬虔で、神を恐れる人という表現は、当時のある定まった表現で、それは異邦人でありながらユダヤ教に帰依し、律法を守り、会堂での礼拝や日々の祈りを重んじていた人を指すことばです。異邦人でも割礼という儀式を受けて正真正銘のユダヤ教徒になった人は「改宗者」と呼ばれましたが、そこまではいかなくとも、ユダヤ教に親しみを感じその教えを守りながら生きていた人を「敬虔な人」とか、「神を恐れて歩んでいた人」と呼んだのです。16章には紫布の商人ルデヤという女性のことが記されてありますが、彼女もまた「神を敬う」人でした(16:14,15)。また、18章に出てくるテテト・ユストという人も「神を敬う人」でした。このようにコルネリオも異邦人であり、ローマの軍人でありながらも、旧約聖書の教えに親しみ、神を恐れ敬う人であり、支配下にいるユダヤ人たちにあわれみを注ぎ、いつも神に祈っていた敬虔な人でした。しかも家族揃ってです。全家族とともに神を恐れかしこむという、実に敬虔深い人でした。

 そのコルネリオに、主が御使いを通して語りかけました。3節~6節です。
「ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、『コルネリオ』と呼んだ。彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、『主よ。何でしょうか』と答えた。すると御使いはこう言った。『あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。』」

 使徒の働きの中には、たびたび主が直接的に現れ語りかけ、そして次の行動へと促していくという場面がくり返されて記されてありますが、ここもそうです。ここで不思議なことは、御使いがコルネリオに「ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい」と言われたことです。このシモンという人がどういう人なのか、あるいは、いったいなぜ招かなければならないのかといった理由には一切触れず、ただ「ヨッパに人をやって、シモンを家に招きなさい」とだけ言ったのです。なぜでしょうか。招いてみればわかるからです。ぐだぐだといちいち説明しなくても、御霊が示されるとおりにするならば、後でわかるようになる。それが信仰であり、聖霊の時代に神が働かれる方法なのです。

 ところで、主の使いがそのように語ると、コルネリオはどのように応答したでしょうか。7,8節です。「御使いが彼にこう言って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。」コルネリオは即座に応答しました。ちょうどルカの福音書7章に登場しているカペナウムの百人隊長のようです。あの百人隊長もがイエス様に命じられたときそれにすぐに応答したように、彼もまたすぐに応答し、三人の使者をヨッパに滞在中していたペテロのもとへと遣わしたのです。

 Ⅱ.神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない

 次に、ペテロに示された主の幻を見ていきましょう。9、10節までをご覧ください。

「その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。」

 場面は変わってヨッパへと移ります。ヨッパはカイザリヤから南へ48キロほど下ったところにある町です。コルネリオが三人の使者をこのヨッパに遣わした翌日、彼らが町の近くまで来たころ、このヨッパの町にいたペテロは、祈りをするために屋上に上って行きましたが、彼はそこで非常な空腹を覚えたので食事をすることにしました。ところが、その食事の準備をしている途中で彼はすっかり夢心地になって眠ってしまったのです。祈っているとこういうことがよくあります。急にお腹が空いてくる。そこで食事をしようと準備していると、今度はすっかり夢心地になって眠りこけてしまうということが・・・。しかし神様は、そのような人間の空腹という現実までも用いて、ご自身の幻を見せてくださいました。それは、天から布のような物が吊り下ろされて来て、その中に、あらゆる種類の四つ足の動物、はうもの、および空の鳥などが入っているものでした。そして、彼にこういう声がありました。13節です。

「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」

 しかしペテロは、そのような促しに対して、「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありませんから」と言って拒みます。それは旧約聖書のレビ記に、地上の生き物の中に食べてよい物と食べてはならない物とが分けられてあり、その区別なしに食べてはならないと書かれてあったからです。(レビ11:4~23)ペテロは、その入れ物の中に汚れたものに属する動物が含まれていたので、断固としてそれを拒みました。ところが、そんなペテロに対して、主は次のように言われたのです。15節です。

「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

 このことばは、ペテロにとってどれほどショックであったかわかりません。しかし、これはペテロの誤った考えや偏見を打ち砕くための神の御声でした。確かに、吊り下ろされてきた動物の中には、モーセの律法によるならば汚れているとされた物も混ざっていました。また、彼の宗教感情からしても、それを食べることはできなかったでしょう。しかし、神ご自身がそれらをきよい物とされ、食べるようにと命じておられるのです。それでもまだ、神のみこころではなく自分の感情に固執しているとしたら、それは正しい信仰ではありません。これは異邦人に対して抱いていたペテロの民族感情、いや、ペテロだけではなくユダヤ人ならだれもが抱いていた感情でした。彼らはクリスチャンであっても、救いはユダヤ人に限られたものであって、異邦人にまで及ぶとは到底考えられなかったし、受け入れることのできることではありませんでした。がしかし神は、こう言われたのです。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」と。これは、神の救いがユダヤ人から異邦人へと広げられていくことを暗示していた幻だったのです。確かに旧約の時代には、救われるためには律法を守ることが必要でした。そして律法を持っていたのはユダヤ人しかいませんでしたから、救いはユダヤ人に限られたものと思われていたのです。しかし今や、イエス・キリストの到来によって始められたこの恵みの時代には、救いは律法によらず、ただ恵みによって、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされるのであり、救われるのはユダヤ人だけでなく、彼らが汚れた民と思っていた異邦人もみんなその中に招き入れられたおり、そうした新しい時代が訪れているのだということを、この幻は示していたのです。

 にもかかわらず、ペテロは、「主よ。それはできません」と答えました。ここには三度もそのようなことがあった後に、その入れ物が天に引き上げられたとあります。こういうことが三度もあったのです。
「さあ、ほふって食べなさい。」
「いやです。主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがないんですから。」
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
「ですが、だめな物はだめでございます。私には無理です」
「何を言ってるのかペテロ。あなたは本当に頑固だな。その名前が「ペテロ」と言われるくらい頑固だこと」
「いくら言われてもできないものはできません。無理です」

そんなやりとりでしょうか。いったいなぜペテロは「できない」と答えたのでしょうか。それは「今まで一度も、したことがなかった」からです。このように律法に縛られた生き方とは、過去に縛られた生き方なのです。そこからは何も新しいものは生まれてはきません。しかし今や、イエス・キリストにあって生きる者には、律法からの自由が与えられているのです。確かにかつてそういうことは考えられなかったことかもしれませんが、イエス・キリストに救われ、いのちの御霊をいただいている今、そうした生き方とは全く違う生き方、世界、考え方がもたらされてるのです。パウロはこのことをローマ人への手紙の中で、次のように言っています。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1,2)

 イエス・キリストを信じた人には、いのちの御霊が与えられます。そのいのちの御霊が、古い律法に縛られた罪と死の原理から解放し、自由と喜びと平安を与えてくださるのです。クリスチャンの生きる基準は何かというと、このいのちの御霊の原則であるというのです。

 チャールズ・シャルダンという有名な牧師の話です。あるとき彼が説教の準備をしていました。それは十字架の道を歩まれたイエス・キリストの生涯を説明しながら、私たちもその道を歩もうという内容のものでした。霊感溢れる説教原稿を書き進め、さあ仕上げだと思ったとき、そこに突然みすぼらしい姿をした人がやって来ました。この人は仕事を失って食べるのもなく生活に困窮していた人でした。「牧師先生、助けてください」と頼むと、チャールズ・シャルダンは突然かんしゃくを起こし「説教の準備で忙しい時に、なんで邪魔するの」と思い、その人を門前払いにしました。
 チャールズ・シャルダンは次の日に、用意した原稿で立派に説教しました。そのとき、また例の失業者が教会に現れて、自分の苦しみを訴えながら礼拝堂の入り口で倒れてしまいました。そして、何と彼はその数日後、息を引き取ってしまいました。
 シャルダンは強い衝撃を受けました。説教を準備し続けるのが良かったのか、それとも説教準備は放っておいて、彼を助けた方が正しかったのか。彼は胸を痛め、悔い改めました。「もしもイエス様だったらどうなさっただろうか。もう自分はこんな牧会をしてはいけない」と考え、新たに覚悟を決めました。それ以来、すべての状況の中で、「もしもイエス様ならどうなさるか」ということを、念頭に置いて生きるようになりました。そして自分だけでなく、すべての教会員たちにも同じ質問のもとに団結するようにと訴えました。その中で書かれたのが不朽の名著、「In his step」なのです。

 「イエス様ならどうなさるか」これこそ私たちが何かを判断していく基準です。それはもしかすると、これまで私たちが一度も経験したことがないようなことかもしれません。旧約聖書には「食べてはならない」とあるようなことかもしれない。私たちの習慣ではなかなか受け入れられないことかもしれません。しかし、大切なのは私たちの感情がどうであるかということではなく、イエス様ならどうされるのか、イエス・キリストにあるいのちの御霊が何と言っておられるかということです。

 ペテロにとっては、神の民としてのユダヤ民族という自覚とアイデンティティーを保って生きていくことは、たとえ彼がクリスチャンになったとしてもなお重要な意味を持つものでした。しかしあえてこう言わなければならないと思います。すなわち、たとえ旧約聖書の律法に生きることが自分自身の生まれながらのアイデンティティーであったとしても、クリスチャンになった今は、そのような古い自分や民族のアイデンティティーは根本的に乗り越えなければならいということです。大切なことは、福音によって生かされ、新しくされた者として生きることです。

 これは日本というこの国で生きている私たちにとっても同じではないでしょうか。自分の中に染みついるこれまでこれまで培われてきた価値観や宗教性、民族性といったものでも、福音によって必ず乗り越えられるのだという確信を持っていなければならないということです。確かに、この国でクリスチャンとして生きることはたやすいことではありません。特に家族の中で、職場の中で、地域社会の中で生きていくことは、いやが上にも日本人としてのアイデンティティーとクリスチャンとしてのアイデンティティーがぶつかりあうことを避けることはできません。生まれてから死ぬまでの人生の通過儀礼において、また、冠婚葬祭全般において、そして、子どものお宮参り、七五三、お葬式や法事、地域のお祭りや神社の寄付金等、あるいは、会社あげての神事への参列をはじめ、仏壇やお墓の問題、そういう一つ一つの事柄に於いて、私たちは絶えずチャレンジを受けるのです。しかしそういう時にこそ私たちは日本人であるという前提でクリスチャンとして生きるのではなく、その逆で、クリスチャンであるという前提の上でこの国で生きているのだという自覚を新たにしたいのです。つまり、日本人クリスチャンとしてではなく、クリスチャンとして、天に国籍を持つ者として、この地上の国でどう生きるのかということであります。そして、この地上にあっては「イエス様ならどうなさるのか」を考えながら、福音の力に励まされつつ、自由に、そして大胆に主を告白していく者でありたいと願うのです。

 Ⅲ.福音の持つ広がりと豊かさ

 最後に、ペテロが自分の価値観や考え方、感情といったものではなく、あくまでも主のみこころに従っていった結果どうなったかを見て終わりたいと思います。17~20節をご覧ください。

 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことかと思い巡らしていたとき、コルネリオから遣わされた三人の使者がペテロを訪ねます。そのとき御霊が彼に、このように言われました。20節です。

「さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

 やがて訪れるであろうペテロとコルネリオとの出会いの前にペテロが彼らと出会ったことは、まさに神のお取り扱いの中で聖霊によってもたらされた出会いでした。なぜなら、もしこれが当人同士のことであったなら決して出会うことがなかったであろう人たちだったからです。いや、仮に出会ったとしても、そこには互いに乗り越えることができなかったであろう壁があったからです。彼らの置かれていた状況は全く異なっていました。かたやキリスト教会ではそれなりに知られていた人物とはいえ、ユダヤ人やローマ側からすればガリラヤ湖の一漁師にすぎず、あの憎むべき十字架で死んだイエスの弟子であり、今やそのイエスを宣べ伝えて人々を惑わしている弟子たちのリーダー。一方、コルネリオはユダヤを支配するローマ帝国の百人隊長です。そこには何の接点も見いだせず、彼らの本来の生き方からすれば、一つの共通点も見いだすことが不可能であったといえるでしょう。しかし、そんなペテロに聖霊は「下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。」と促されたのです。聖霊はそのように全く交わを持たなかった両者を、ものの見事に引き合わせてくたせさったのです。

 この一連の出来事を読んで気づくことは、これらの出来事の主導権をとっておられたのは聖霊なる神ご自身であられたということです。ヨッパに人をやって、ペテロを自分の家に招きなさいとコルネリオに命じられたのも、また、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさいと命じられたのも、同じ御霊ご自身であられたということです。コルネリオがペテロに会って福音を聞きたいと願ったのでもなく、ペテロがコルネリオを救いに導こうと行動を起こしたのでもない。むしろこのすべての出来事の主人公は主ご自身であられたのです。彼らの背後にはそのような主の導きがあったのです。彼らはただそれに従っただけでした。しかし、その結果、ものすごいことが起こったのです。23~33節までをご覧ください。

 明くる日、ペテロは彼らといっしょに出かけ、「その翌日」(24節)カイザリヤのコルネリオのもとに到着しました。親族や親しい友人たちを呼び集めてペテロの到着を待っていたコルネリオは、ひれ伏して拝むほどの丁重さをもって迎えました。「お立ちなさい。私もひとりの人間です。」と言って彼らを起こすと、ペテロはその理由を彼らに尋ねます。28,29節です。

「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間にはいったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」

 そこでコルネリオは、やはり自分も神の幻と御告げを受けて、ペテロのもとに使者たちを遣わしたことを話すと、彼らは互いに、そこに不思議な、しかし確かな神の導きがあったことを悟ったのです。つまり、聖霊ご自身が人間には決して乗り越えることのできなかったユダヤ人と異邦人という隔ての壁を乗り越えさせ、神の国の天幕をいよいよ大きく広げてくださり、そこに人々を招き入れてくださる準備を整えてくださったということです。それはもしかすると私たちのこれまでの考え方や価値観といったものを揺るがすようなことだったかもしれません。「私にはできない。そんなことは今まで一度もしたことがない」というようなことと直面させられるかもしれません。けれども、聖霊がその壁を乗り越えさせてくださることによって神の国の天幕の四隅は押し広げられ、神の国がまた一歩前進していくことができるようになるのです。

 アメリカにウイロークリークという教会がありますが、その教会の牧師ビル・ハイベルズは、次のように言いました。

「教会が教会らしい時、この世のどんなものも教会に代えることはできない。」

「教会が教会らしい時」とはどんな時なのでしょうか。彼が牧会しているウイロークリーク教会は、毎週日曜日に開かれている伝道集会と、まだ一度も教会に来たことのない人々に伝道して成長している教会として有名ですが、実はそうした伝道集会によって成長したわけではないのです。その教会が多くの人々を救いに導くことができたのは、教会が聖書的に機能する共同体になろうと努力した結果でした。たとえば、その教会のリーダーシップには多くの有色人種の人々が含まれていますが、それは人種的な差別を無くそうと努めているからです。小グループはまるで家族のように互いに顧み、弱さを担い合いながら、互いの秘守義務を守りながら尊重しています。つまり、聖霊の導きに従って歩んだ結果だったのです。
 多くの人たちは、この教会が世俗的だと非難します。服装がカジュアルで、現代的な音楽やドラマ、先端技術を使っているので、そのように見えるからです。しかし、中味は違います。服装がカジュアルとか、音楽がどうのこうの、どういうやり方をしているかといったことは外側のことであって、中味は違うのです。中味は祈りとみことばによって導かれ、中和した共同体として生活できるように努力している。それゆえに多くの人たちがこの教会に惹かれて来ているのです。

 私たちは今、福音による自由の中に生かされています。あれをしてはならない、これをしてはならないといった律法の束縛から解放され、これまでの生活の中で染みついた古い自分の罪の性質や様々な習慣、古い価値観や民族的な伝統といったものから自由にされているのです。私たちに求められているのはただ、いのちの御霊に聞き従うことです。それゆえに「神がきよいと言った物をきよくないと言ってはないない」し、「さあ、ためらわずに行きなさい」と言われたら、そのみことばに従って行かなければならない。そのとき、聖霊が出会わせて下さる人々の元へと遣わされて行き、神の国の広がりと豊かさを味わらせていただきながら、これを喜び、福音の持つ大きな祝福にあずかっていくことができるのです。