使徒の働き13章44~52節 「永遠のいのちに定められていた人たち」

 きょうは、「永遠のいのちに定められていた人たち」というタイトルでお話をしたいと思います。44節には、「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た」とあります。ピシデヤのアンテオケでパウロは、「信じる者はみな、この方によって罪から解放されるのです」(13:39)と説教すると、それを聞いた多くの人たちが感銘を受けました。そして、次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きにやって来たのです。しかし、だからといってすべての人が信じたかというとそうではありませんでした。中にはそれに反対した人たちもいました。それはいつの時代も同じです。そこには対照的な二種類の人たちがいるのです。すなわち、みことばを聞いて受け入れ、それを信じる人たちと、そうでない人たちです。それはこう言うこともできるでしょう。永遠のいのちに定められていた人たちとそうでない人たちです。聖書には、人が主イエスを信じて救われることは、永遠の昔から定められていたことであると記されてあります(エペソ1:4,5)が、しかし、それはある人たちが考えているような宿命論や決定論的なものとは違うのです。すなわち、ある人は最初から救われるように選ばれていたり、あるいは滅びるように選ばれていたということではないのです。

 これは歴史上、神学的にも大きな論争がありました。16世紀にフランスに生まれたジョン・カルヴァンという神学者は、この神の絶対的な主権というものを強調し、同時に人間の全的堕落を唱え、ゆえに人間は神を信じることさえもできず、救いはただ神の一方的な恵み、これを「不可抗的恩恵」と言いますが、そのように神は無条件に人を救いに選んでくださったと主張しました。しかし、このカルヴァンの主張はあまりにも極端すぎたため、それに異議を唱える人が出てきました。それがアルミニウスという人です。この人は、カルヴァン同様、人間の全的堕落、全的無能力の教理を受け入れていましたが、だからといって人間に信じる意志がないのかというとそうではなく、少なくとも神の呼びかけ、救いへの招きに応答する能力はあると主張したのです。この救いの教理については、それぞれの教派によって多少の温度差がありますが、大切なのは、聖書では何と言ってるかということです。

 きょうは、このことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、いつまでも神の恵みにとどまってということです。永遠のいのちに定められているかどうかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。それは、最後まで神の恵みにとどまっていたかどうかです。永遠のいのちに定められている人と、いつまでも神の恵みにとどっている人なのです。第二のことは、神のことばを喜び、賛美することです。永遠のいのちに定められている人の特徴は、神のみことばを喜び、賛美しているかどうか、みことばに生きようとしているかどうかでわかります。第三のことは、聖霊に満たされてということです。この世にあってはいろいろな困難があります。そのような中にあって人は、どのようにして信仰にとどまることができるのでしょうか。聖霊に満たされることによってです。聖霊に満たされ、神の力と助けによってこそ、私たちは信仰にとどまっていることができるのです。そういう人こそ、永遠のいのちに定められていた人たちだと言えます。

 Ⅰ.神の恵みにとどまって(44-47節)

では、このことをみことばから見ていきましょう。まず44~47節をご覧ください。このところを見ると、永遠のいのちにふさわしい人、永遠のいのちに定められている人とは、いつまでも神の恵みにとどまっている人であることがわかります。

「次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった。そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

 ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教は、そこに住む人たちにかなりの衝撃を与えました。43節には、それを聞いた多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来ましたし、次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来たほどです。しかし、一週間前にはあれほど感激して信じたはずのユダヤ人が、多くの群衆がパウロとバルナバのところに神のみことばを聞くために集まって来たのを見て態度を翻し、パウロの話に反対して口ぎたなくののしったのです。あれほど感激したはずの彼らが、どうして手のひらを返したかのように変わったしまったのでしょうか。それは、この群衆を見て、ねたみに燃えたからです。一週間前には、パウロの語った神のことば、すばらしい福音を聞いて信じた彼らが、異邦人たちがやって来て、信仰に入っていくのを見て、快く思わなかったのです。なぜでしょうか。彼らはいつも自分たちを中心に考えていたからです。救いについてもそうでした。異邦人が救われるためには彼らが割礼という儀式を受け、モーセの律法を守ることによって、すなわち、実質的にはユダヤ人になってからであると信じていました。つまり、異邦人が救われるにはまずユダヤ人になって、それから救われるという経路をたどったわけです。ところが、パウロが語った福音はそうではありませんでした。パウロが語った福音は、そうした経路をたどらずとも、イエスを救い主として信じるならだれでも救われるというものでした。異邦人が異邦人であるがままに救われるというのが福音の本質です。過去においてどんなに大きな過ちを犯しても、あるいは数え切れないほどの罪を犯した人でも、悔い改めて、ただイエス・キリストを救い主として信じるなら救われるということです。しかし、彼らにはそれがおもしろくなかった。自分よれも劣っていると思われていた異邦人が、自分たちを通り越して信仰に入って行くのを見て、心に穏やかならぬものを感じたのです。人間はどこまで罪深い者なのでしょうか。自分の思う通りにならないとこのようにねたみを持ち、そのねたみによって、一度は信じたはずの神の救いのメッセージさえも捨ててしまうということさえも起こりうるのです。いや、このように口ぎたなくののしって、反対に回るということさえある。ねたみというのは、本当に恐ろしいものです。

 そのような彼らに対して、パウロとバルナバは何といったでしょうか。46節です。パウロとバルナバは、はっきりとこう宣言しました。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。なぜなら、主は私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」

 神のことばは、「まず」ユダヤ人に語られなければなりませんでした。それから異邦人です。まずユダヤ人に語られ彼らがそれを受け入れることによって、今度は彼らを通して異邦人に語られなければなりませんでした。それが神の計画だったのです。しかし、ユダヤ人はそれを拒みました。ですから、パウロは「私たちは、これからは異邦人のほう向かいます」と言っているのです。なぜなら、旧約聖書にそのように書かれてあるからです。この47節のみことばは、イザヤ書42章6節と49章6節からの引用ですが、ここで言われていることは、「あなた」なるユダヤ人が異邦人の光として選ばれ、立てられたのは、彼らが地の果てまでも救いをもたらすためであったということです。実に「選民」というのは、自らが救われるために選ばれたというよりも、その救いを他の人に宣べ伝えるために選ばれた民なのです。

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(Iペテロ2:9)

 ユダヤ人は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、彼らをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝えるためでした。なのに、異邦人の救いをねたむということは、この神のみこころとは全く相容れないことで、ユダヤ人たちが神の恵みにとどまっていないことの歴然たる証拠だったのです。それは、46節のところでパウロとバルナバが語った「あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」ことなのです。

 私たちは、神の救いに選ばれていたかどうかということを論じるときに、どうもそれが宿命論や決定論であるかのように誤ってとらえてしまうことがあります。すなわち、私たちが救われていることは永遠の昔から定められていたことであって、そうでない人は救われることはないと考えてしまいがちです。しかし、このところで言われていることはそういうことではありません。ここで言われていることは、彼らが、自分自身で永遠のいのちにふさわしくない者と決めたということです。すなわち、永遠のいのちに定められていた人というのは神が定めておられたというよりも、自分自身に責任があったということです。もちろん、神はそのような決断を人間が下すということを永遠の昔から知っておられた上でそれを許されたことは確かです。だからこそパウロは、43節のところで、彼の話を聞いて信じた人たちに、「いつまでも神の恵みにとどまっているように」と勧めたのです。いつまでも神の恵みにとどまっている人こそ、まさに永遠のいのちに定められていた人たちなのです。いつまでも神の恵みにとどまっているという息の長い信仰のマラソン・レースを考えると、この波風の多い一生涯の中で、その恵みから落ちないで、最後まで信仰を全うした人こそ、全く選ばれた人だと言えるのではないでしょうか。永遠のいのちに選ばれ定められていたからこそ、信仰に踏みとどまることができたのだ・・というのが、おそらく、信仰を全うした人の抱く正直な実感ではないかと思います。そこから「選び」とか「予定」といったことが生まれてくるのは、むしろ当然のことなのです。そうした信仰者の姿をみるとき、「ああこの人も、神の救いに選ばれていた人だったんだ」と確信を持って言うことができるのです。

 やがてこの世の生涯を終えて天の御国に帰って行かれるその人に、私は牧師としてこう宣言できることは大きな恵みだと思っています。すなわち、この世にあってはいろいろなことがあっても、最後の最後まで神の恵みにとどまり、信仰を全うした兄弟姉妹に、「兄弟、姉妹、あなたはこの世で信仰の生涯を立派に全うしました。今、あなたは天の御国を継ぐのです。インマヌエルの神が、いつまでも共におられますように。」と。

 このように、いつまでも神の恵みにとどまっている人、どんなことがあっても最後まで信仰に歩んだ人こそ、そういう人こそ永遠のいのちに定められていた人だと言えるのです。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

 あのユダヤ人たちのように、一度は信じたものの、ねたみによって自分の態度を翻して信仰から離れてしまうのではなく、どんなことがあっても、信仰の創始者であり、完成者であられる主イエスから目を離さず、いつも神の恵みにとどまっている者でありたいものです。

 Ⅱ.神のことばを喜び、賛美する

 第二のことは、神のことばを喜び、賛美することです。48~49節をご覧ください。

「異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった。」

 このようにパウロとバルナバを通して語られた福音のメッセージに怒りとねたみを燃やすユダヤ人たちがいる一方で、その福音のメッセージを聞いて喜びに溢れた人たちがいたことを聖書は記しています。それは、異邦人たちです。彼らは主のことばを聞くとそれを喜び、賛美しました。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入ったのです。この「永遠のいのちに定められていた」ということばは、「自分自身を整えていた」とも訳せることばです。それは、永遠のいのちに定められている人とは同時に、そのために自分自身を整えていた人だと言えるでしょう。そういう人たちは、みな、信仰に入って行ったのです。

 では、どういう点で彼らは自分自身を整えていたのでしょうか。福音のメッセージを聞いてそれを喜び、賛美する人です。本物の信仰とは、主のみことばを喜び、賛美する信仰なのです。教会のすばらしさを喜んだり、牧師や説教者の能力をほめたたえたりするのではなく、主のみことばそのものを喜び、賛美する信仰です。どんなに激しい迫害の嵐が教会に吹き荒れても、そのために牧師が取り去られるようなことがあっても、あるいは、それぞれの人生の中に思いもよらない不幸が襲いかかるようなことがあったとしても、それでも神のみことばから離れず、みことばによって勝利する人です。みことばを喜び、賛美し、みことばによって生きる人なのです。 詩篇1:1~3には、

「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

 貧しい無名の画家がいました。さまざまなコンクールに何度も応募したが、いつも落選でした。しかしその人は、貧しくても画家への道をあきらめませんでした。彼の絵の題材はいつも農村の風景でした。それは故郷への恋しさと農村の人々への愛によるものでした。ある日、彼の友達が金持ちを連れて来て、こう言いました。「農村の風景を描くのもいいけれど、今どきそんな絵など売れないよ。これからはヌード画を描いてみてはどうだい。こちらの紳士がすべて買ってくれるそうだから。」彼はたき木を買うお金さえなかったので、毎日じぶんの作品をたき木の代わりに使うほどでした。
 一瞬、彼の心が揺れました。しかし彼は目を閉じて、しばらく祈った後で、このように言いました。「神様が喜ばないのでお断りします。芸術で尊いのは愛の心です。私が田舎の風景と農夫を好んで描くのは、彼らの偽りのない姿を愛しているからです」
 その無名の画家は自分の信仰と願いのままに絵を描き続けました。深い信仰から出てくる敬虔で厳粛な雰囲気の絵でした。愛する仕事への執念を捨てませんでした。その画家とは「晩鐘」や「落ち穂拾い」などを描いた有名なミレーでした。貧しい中にも正しい信仰を守る人は祝福されるのです。主の教えを喜び、昼も夜もその教えを口ずさむ人は、水路のそばに植わった木のように栄えるのです。

 Ⅲ.聖霊に満たされて(50-52節)

 第三のことは、聖霊に満たされてということです。50~52節をご覧ください。

「ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」

 神のみことばを喜び、信仰に入っていった人たちがいた一方で、そうでない人たちもいたことがここには記されてあります。ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出しました。追い出された二人はどうしたでしょうか。ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへと向かって行きました。足のちりを落とすとは、かつてイエス様が弟子たちを遣わされた時にも言われたことですが、それは、神を敬わない罪人たちの汚れから自分たちを清めることを象徴的に表していました。ここでパウロとバルナバが福音を拒否し、宣教師を排除しようとしたユダヤ人にそれをしたというのは、彼らが真にイスラエルを構成する者たちではなく、不信者と変わらない者たちであることを示すものでした。人々が福音を信じて受け入れ、その話をもっと聞きたいとか、みんなしっかりと神のみことばに聞き従っていたというのならまだしも、ののしりや迫害、果てには追放されるという出来事の中で、彼らはどんなにか辛い思いをしたかわかりません。しかし、聖書はそんな彼らの姿を次のように描いているのです。ご一緒に読んでみましょう。52節です。

「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」

 そんな中にあっても、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていたのです。たとえいっしょにみことばを聞いて信じた友が去って行ったとしても、どんなに激しい迫害の嵐が押し寄せても、度重なる苦難に直面しても、それでもなお喜んでいられるとしたら、それこそ、まことの信仰ではないでしょうか。いったいどうしたらそのように喜んでいることができたのでしょうか。聖霊によってです。彼らは聖霊に満たされていました。つまり、神が彼らの中に住み、彼らの心を支配しておられたということです。ここにすべての勝利の秘密が隠されています。つまり、彼らが神の恵みにとどまり、神のみことばを喜び、賛美することができたのは、実に、この聖霊によるものであったということです。どんな恵みにとどまっているようにと勧められても、また、永遠のいのちにふさわしく身を整えようと神のみことばを喜び、これを宣べ伝え努力しても、結局のところそれは自分の力でできることではありません。実は、これらいっさいのことは、神の聖霊がが私の心を支配し、助け、支えてくださることによってできるのです。神の聖霊が私の中に臨在し、この御霊によって生かされているからこそ、しっかりと立っていることができるのです。イエス様はこのように言われました。

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ14:16,17)

 この聖霊に満たされていることこそ、私たちが永遠のいのちに定められていることの最大の証拠なのです。はじめに紹介したカルヴァンの神学を継承する改革派神学という学派がありますが、その第一人者であられる榊原康雄という先生は、「『永遠の選び、あるいは予定、それは要するに、私の入信にも救いにも私は指一本ふれていません。すべては神の御手のわざでございます。神には失敗はございません。失敗はすべて人間の罪でございます。』という告白こそ、私どもの救いのすべてなのです。」と言っておられますが(「使徒の働き」p60)、こうした神の絶対的な主権を認めながら、その神の聖霊によって生かされていく。その中で神のみことばを喜び、賛美しつつ、いつまでも神の恵みにとどまっている。そういう人こそ永遠のいのちに定められていた人だと言えるのです。

 愛する皆さん、皆さんの人生にも多くの艱難があるでしょう。しかし、そうした艱難の狭間にあっても、喜びと聖霊に満たされながら歩んでいくことができるのです。なぜなら私たちは、その時々の置かれた状況に従って生きていくのではなく、どのような状況にあっても根本的に私たちを喜びの道に歩ませてくださる変わらない神のみことばに導かれ、聖霊に満たされて歩んでいくからです。そして、私たちの信仰生活とは、そのような状況を超えて進んで行かれる救い主イエス・キリストの後ろ姿を見つめながら進んでものだからです。この救い主イエス・キリストへの信頼こそが、この地上における私たちの歩みの勝利の秘訣なのです。

 最後に、今月の「リビングライフ」の中に、あのサーカスのトラやライオンはどうして火の中をくぐり抜けることができるのか、というジョン・ビョンウク牧師が書いたコラムを紹介して終わりたいと思います。トラやライオンのように毛の多い動物というのは本能的に火を嫌います。毛に火が付くと焼け死んでしまうからです。なのにどうして火の中を飛び越えることが出来るのか。ジョン・ビョンウク牧師は、それは何度も何度も訓練したからだと思っていましたが、実はそうではなかったのです。調教師の話によると、それは何度も訓練したからではなく、主人に対して信頼しているからだと言うのです。ですから、トラやライオンが火の中をくぐろうとする時には、必ず主人の目を見るらしいのです。たとえ本能的に拒否することであっても、主人に対する信頼のゆえに、飛び越えることができ。主人に対する信頼こそ、トラやライオンが火に向かって飛び越える力の源だったのです。

 それは私たちの信仰生活にも言えることです。私たちは世にあっては艱難があります。しかし、勇敢であることができる。それはすでに世に勝った主イエスが聖霊を通してともにいてくださるからです。これこそ私たちがこの世での信仰を全うしていくことができる秘訣です。どんな境遇にあってもこの聖霊に満たされて、その生涯の最後まで神の恵みにとどまっていることができますように。そのような人こそ永遠のいのちに定められている人なのです。