使徒の働き16章19~34節 「主イエスを信じなさい」

 きょうは「主イエスを信じなさい」というテーマでお話したいと思います。ピリピの町で、占いの霊につかれた女奴隷に、パウロがイエス・キリストの御名によって出て行くようにと命じると、その霊は出て行きました。女は助け出されたのです。ところが、そのことでもうける望がなくなった主人たちは、パウロとシラスを訴えて、彼らを投獄してしまいました。しかし、投獄されたパウロとシラスが、真夜中に神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こり、獄舎のとびらが開き、みなの鎖が解けてしまいました。その時に交わされた看守とパウロたちとのことばのやりとりは、とても興味のあるものです。それは、聖書の中でも最も有名な、キリスト教求道の問いと答えが記されてあるからです。それは、次のような言葉でした。29~32節をご覧ください。

「看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」

 きょうは、この看守とパウロたちの言葉のやりとりを中心に、救われるためには何をしなければならないのかについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、真夜中に牢獄でささげられた賛美と祈りです。クリスチャンは、どんなに状況が暗く、険しくとも、神に祈り、賛美できるという特権が与えられているのです。第二のことは、救われるためには何をしなければならないのか。そのためには、主イエスを信じなければなりません。そして第三のことは、全家族そろって神を信じることの幸いと喜びについてです。

 Ⅰ.真夜中の賛美と祈り(19-26)

 まず第一に、牢獄の中でささげられた賛美と祈りについて見ていきたいと思います。19~26節までご覧ください。

「彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。」(19節)

 パウロが、占いの霊につかれていた女奴隷から、主イエスの御名によってその霊を追い出すと、もうけるのぞみがなくなった主人たちが、パウロとシラスを捕らえ、役人たちに訴えました。福音を伝えていると、形は違っても、必ずこのような抵抗に遭います。生まれながら罪人である人間は、結局のところ自分のことしか考えられないので、最終的には、自分の利益のことばかりに捕らわれているからです。こうした利己的な人間の自己中心を打ち砕いて、自分を愛するように他の人をも愛することができるまともな人間に造り変えるのが福音です。しかし、そのように利己主義に凝り固まっている人ほど、なかなか福音を好もうとしないのも事実です。ここに登場する主人たちもそうでした。彼らは、パウロたちが占いの霊につかれていた女奴隷から、占いの霊を追い出すと、この女が占うことができなくなってしまったことを知って、パウロたちに敵意を持つようになりました。何ということでしょう。ひとりの女が悪霊から解放されて助け出されたというのに、それを喜ぶどころか、そのことで文句を言うとは・・・。彼らにしてみたら、自分たちの商売道具をぶちこわされたと見たのです。ここでルカが使っている「もうける望みがなくなったのを見て」ということばには★印がついていますが、下の欄外注を見ますと、それは「もうける望みが去った」とか、「出て行った」という意味のことばであることがわかります。占いの霊がこの女から出て行くと、もうける望みも出て行ったというのです。この辺にはルカならではのシャレが見られます。彼はお医者でしたが、機転の効くシャレたお医者さんでした。しかし、彼らにはシャレにはなりませんでした。もうカンカンになって怒りパウロとシラスを長官たちに訴えたのです。「彼らは、ローマである自分たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝している」ということで・・。群衆もふたりに反対して立ったので、長官はふたりをむちで打って牢に入れ、看守に厳重に番をするようにと命じました。

 このような全く理不尽なやり方に、パウロとシラスはどれほど悔しい思いがあったことでしょう。これから先のことを考えると、一抹の不安がなかったわけではありません。しかし、彼らはつぶやきませんでした。また自己弁護もしようとしませんでした。そのような背中の痛みと足かせによる不自由な状態の中で、彼らは何をしたでしょうか。25節をご覧ください。

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」

 何と彼らは神に祈り、賛美の歌を歌っていたのです。この後で大地震が起こり、獄舎のとびらが全部開くという奇跡が起こりますが、そうした奇跡以上に、このような状況の中で祈ったり賛美したりできるということこそ、まさに奇跡です。普通だったら聖霊の導きによってマケドニヤにやって来たのだからものすごい神の御業があるだろうという期待もあったでしょうが、そうでない現実に直面して、言いしれぬ悔しさや不平、文句を言ってもおかくしもなかったでしょう。しかし、彼らは文句や不平の代わりに賛美と感謝をささげたのです。どうして彼らは賛美と祈りをささげることができたのでしょうか。神を信頼していたからです。たとえどのような状況に置かれようとも、神がすべてを働かせて益としてくださると信じていたからです。おそらく彼らはこのように祈ったに違いありません。

「天のお父さま。私たちは今、このようなひどいめに遭っています。なぜ私たちがこのようなめに遭わなければならないのか、今はわかりません。これからどうなっていくのかもわかりません。しかし、あなたは完全なご計画を持っておられます。あなたが私たちをここに導いてくださった以上、そこには私たちの知らない何らかのあなたのご計画があると信じます。どうかあなたのみこころをなしてください。主の御名によって信じてお祈りいたします。アーメン。」

 このように、彼らの祈りが神への信頼と服従に基づいている限り、祈りは自然と賛美に変わっていくのです。この世の歌は調子のいいときには歌うことができるかもしれません。心がうれしくてルンルンしているような時には、「ふん、ふん、ふんふふ、ふふふふん・・・」のように鼻歌も出てくるでしょうが、いったん調子が悪くなりますと、もはや出てくることはありません。「なんで」「どうしてなの」といった嘆きばかりが出てきます。しかし、賛美は違います。賛美は人生の逆境においても歌うことができる歌なのです。いやそうした逆境の中でこそ歌える歌です。ゴスペル、黒人霊歌はそのよい例でしょう。人間のように扱われず、獣同然に扱われていた苦しみのどん底の中で、彼らは神に歌うことができたのです。それは魂の歌であり、人をその深いところから生かす歌なのです。人生の悲しみの中にあっても、あるいは、彼らを奴隷のようにこき使う使用人たちによっても、彼らの魂を鎖で結びつけておくことはできませんでした。彼らは歌によって神を賛美し、魂の自由を得ていたのです。それはこの牢に閉じこめられ、鎖につながれていたパウロとシラスも同じでした。どのような堅固な牢でも、キリストにあって抱いている彼らの喜びを閉じこめておくことはできませんでした。一筋の光も入らない暗やみの中にいても、彼らの心はやみに閉ざされることはありませんでした。彼らの祈りと賛美は、牢獄を天の礼拝の場に変えたのです。彼らの心に与えられていた光は、「真夜中」のやみを突き破って牢を照らしたのです。のろいと不平の声だけがこだましていたであろう獄舎に神を賛美する喜びの声が響いてきた時、他の囚人たちはそれに静かに聞き入っていました。環境や状況に支配されるのではなく、逆にそれを支配し、変えてしまう力、それがクリスチャンに与えられている特権です。クリスチャンには、そのような喜びが与えられ、それを深く味わうことができるのです。パウロはローマ8章35~39節
節のところで、次のように言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

 だれも私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。何も私たちを絶望の淵に落とすことはできないのです。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者になることができるからです。

 仙台の鈴木という牧師先生が昨年、9日間モンゴルに行った時の話をうかがいました。そこで神の恵みについてお話すると、16歳になった若い少年が、鈴木先生に「どうしたらいい父親になれるか」と質問したというのです。まだ16歳なのにどうしてこんな質問するのだろうと思っていたら、この少年は、生まれてすぐに父親を病気で亡くし、女手一つで育ててくれた母親も、つい2週間前に亡くなったばかりで、父親とはとういう存在なのかがわからなかったからでした。しかし、そんな天涯孤独な彼の中に、天の父の愛が注がれました。自分には地上には父親はいないけど、天のお父さんのことがわかるから、どうしたらいい父親になれるかがわかる、そう言ったというのです。

 皆さん、だれも、何も、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。たとえ牢獄の暗闇の中あっても、イエス・キリストを信じて生きる人には、いつでも神の愛が注がれているからです。私たちは魂の深いところに悲しみや苦しみを祈りと賛美に変える力が与えられているのです。そのことを覚えて、どんなときでも天を見上げて祈り賛美する者でありたいと思います。

 Ⅱ.主イエスを信じなさい(27-32)

第二に、救われるためにしなければならないことについて見ていきましょう。パウロとシラスが神に祈り賛美の歌を歌っていると、突然、大地震が起こり、獄舎の土台が揺れ動いたかと思ったら、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。これを見た看守は、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとしました。当時のローマの法律では、囚人を逃してしまった場合、看守はその責任を取って、その囚人が負うべき刑を身代わりに負わなければならなかったからです。ですから、死刑を受けるくらいなら、自殺した方がいいと思ったのでしょう。剣を脱いで自殺しようとしたのです。

 それを見たパウロは大声で、「自害してはならない。私たちはみなここにいる」と叫びました。とびらが開いて、鎖が解けても、そこにいただれも逃げなかったというのは驚くべきことです。おそらくパウロとシラスの態度を見ていた他の囚人たちも、そこには何か不思議な力が働いていると思ったのでしょう。看守は、持っていた明かりで獄内を照らしてみると、鎖がはずれて逃亡できるはずの囚人たちが一人も逃げようとせず、みんなそこにいるのを見て驚き、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏し、ふたりを外に出してこう言いました。

「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」

 この「先生がた」ということばは、直訳すると「主たちよ」ということばです。それはこの看守のパウロとシラスに対する最大の尊敬を表す呼びかけでした。看守にとって、パウロたちはもはや囚人ではなく、尊敬すべき「先生」たちでした。囚人たちの脱獄したいという思いをとどまらせることのできるこの二人の伝道者の中に、何か侵しがたい神的なものを感じていたのでしょう。救いへの真剣な求めは、それを語る者への尊敬と信頼から始まるということがわかります。
 
 ところで、このとき看守はパウロとシラスに、「救われるためには、何をしなければなりませんか」と尋ねました。このとき看守が考えていた救いとはいったいどんな救いだったのでしょうか。金魚すくい、どじょうすくい、とすくいにもいろいろありますが、このときこの看守が思っていたどんな救いだったのでしょうか。

 榊原康夫という先生は、その注解書の中で、この「救い」は人間のたましいが味わう最も激しい急転直下のどんでん返しの中で、日常生活の平凡な心には思いもよらないたましいの奥底を、一瞬、のぞき見ることがありますが、そうしたたましいの深みで味わう救いのこと、つまり、たましいの救いという宗教的な意味での救いであったと言っています(「使徒の働き」p171)。しかし、果たしてそうなのでしょうか。結果的にはそのたましいの救いへとつながっていくのですが、この時点ではまだそこまで考えられなかったのではないでしょうか。とにかくとびらが開いて、鎖がはずれてしまったという事態に対して、いったい自分はどうしたらいいのか、どうしたらその問題から救われるのかという域から出ていなかったのではないでしょうか。

 確かに人は予期せぬ出来事に遭遇するとき、そのようなたましいの深みにおいて救いを求めることがあります。たとえば、クリスチャン新聞福音版の5月号に、こんなことが記されてあります。
 何年も前のことですが、河原の中州でディキャンプをしていたグループが鉄砲水に流され、何人もの方が亡くなるという痛ましい事故がありました。川の上での短期間の集中豪雨は、キャンパーたちにとってはそれほど気にするような雨ではありませんでしたが、急峻(きゅうしゅん)な山に降った大量の雨は細く浅い穏やかな川の姿を一変させます。ちょっと水かさが増してきたかと思ったらあっという間に濁流が押し寄せて、中州にいた人たちを飲み込んでしまったのです。
こういう良きせぬ出来事に遭遇するとき人は、たましいの深いところにおいて救いを求めるものです。
 あるいは、ここ最近の世界的な不況で経済の危機に陥った方々も、同じような救いを求めることがあります。アメリカの大手自動車メーカーに勤め引退し、企業年金で悠々自適な生活を送っていた人が突然年金をカットされ路頭に迷うという報道がありました。その人は「つぶれる企業がいくらあってもまさか自分の会社がそのような事態になるとは考えてもみませんでした。そういう出来事に遭遇するとき、たましいの深いところで救いを求めることがあるのです。

 この看守が発した「救われるためには何をしなければなりませんか」の「救い」とは、こういう意味で発したものだったのではないかと思います。それに対してパウロとシラスは何と言ったでしょうか。31節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。

「ふたりは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

 ここでパウロとシラスが言ったことは、彼らが日頃から確信していたことです。
それは、主イエスを信じるなら、救われるということです。確かに、この看守が求めていたものは、たましいの深みにおける救いでしたが、それでもまだ漠然としたものでした。そうした看守にパウロとシラスが示したものは、そうした漠然とした救いではなく、主イエス・キリストを信じることによってもたらされるところのたましいの救いでした。そうした予期せぬ出来事からどのように救われるかということだけでなく、それらすべての不幸の原因である罪からの救いを示したのです。そして、その救いの道は「主イエスを信じる」ことでした。そうすれば、救われるのです。確かに現実の問題は複雑です。主イエス・キリストを信じたぐらいで、解決されそうには思えないでしょう。あの看守にも、きっと多くの問題があったに違いありません。だれにも言えない悩み、だれにも理解してもらえない苦しみがあったはずです。しかし、そうした個々の複雑きわまりない問題の根本的な解決は、主イエスを信じることにしかないのです。

 では主イエスを信じるとはどういうことなのでしょうか。中には主イエスを信じても問題が一向に解決しないと言われる方がおられます。主イエスを信じても何の役にも立たないというのです。ほんとうにそうなのでしょうか。そうではありません。主イエスを信じれば、救われるのです。その救いは私たちの罪からの救い、たましいの救いですが、同時にそれは、私たちが抱える具体的な一つ一つの問題の解決にも及ぶのです。もし、そうでないとしたら、その信仰自体に問題があるのです。では「主イエスを信じる」とはどういうことなのでしょうか。

 それは主イエスにすべてをゆだねることです。パウロが看守に「主イエスを信じなさい」と言った「主イエス」ということばは、「主イエスの上に」という表現で、イエス様の上に自分を乗せること、主にわが身のすべてをあずけてしまうことを意味しています。私たちがだれかを信用するときには、いつでも、ある種の冒険と決断を要します。だれかと結婚を約束したり、大きな商取引をしたりするときには、相手を信頼して自分を任せるという一面がありますが、そのように主イエスを信用して、すべてを任せればいいのです。この場合、信頼する相手の人が、どういう人であるかがとても重要になってきます。信頼するに足るすばらしい人だからこそわが身をゆだねることができわけですが、そうでなかったら大変なことになってしまいます。幸いイエス・キリストには、そのように信頼に価するだけの十分な値打ちがありまから、安心してすべてをゆだねることができるわけです。

 なのに、イエスを信じますと決断しても、イエスにすべてをゆだねていなかったとしたら、ほんとうの意味での救いを体験することはできません。どんなに畳の上でスキーを習っても、ほんとうに雪の斜面で身をスキーに任せて滑らなければ、スキーのおもしろさを味わうことはできないように、また、どんなに水泳の仕方を習っても、足を離して水に身を任せなければ、泳ぐことはできないように、私たちが救われるためには、イエス・キリストの上にわが身を任せなければならないのです。まずキリスト教を全部勉強して、キリスト教のよさがわかったらクリスチャンになってもいいと言われる方がおられますが、そういう気持ちではなかなかキリスト教の救いを体験することができません。救われるためには、主イエスを信じなければならないのです。主イエスを信じたら、救われます。信じたら、救いがわかるようになるのです。そして、その救いが目の前に置かれたさまざまな問題にも勝利していく力をもたらすのです。どんなに予期せぬ出来事が襲ってきても流されることなく、しっかりと立っていることができるのです。それは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

 Ⅲ.家族そろって神を信じることの幸いと喜び(33-34)

最後に、このキリスト教信仰問答の中で、この看守がどうなったかを見て終わりたいと思います。33,34節をご覧ください。

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われますというパウロのことばに、看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗いました。そして、そのあとですぐに、彼とその家族の者が全部がバプテスマを受けました。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。パウロが言ったとおり、主イエスを信じたことで、彼と、彼の家族の者全部が救われたのです。

 パウロが語ったように、この看守が主イエスを信じたことで、彼も、彼の家族も救われたのです。ところで、このように見てみると、家族の中のだれかが信じると、その家の者全部が自動的に救われるかのような印象を受けますが、ここではそのようなことが言われているのでしょうか。そうではありません。もともとこの箇所の訳は曖昧だと言われています。ここには「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」とありますが、もともとはそのようにはなっていません。もともとの文は「主イエスを信じなさい。そうすれば救われます。あなたも、あなたの家族も」です。尾山令仁先生が訳された現代訳聖書ではそのように正しく訳しています。だれであろうと、信じれば救われるということです。しかし、信じなければ救われません。家族の中のだれかが救われれば、あと放っておいも自然に救われるということではないのです。ですから32節を見ると、この看守もその家族の者全部とともに主のことばを聞きました。そして、彼とその家の者全部がバプテスマを受けたのです。そうして、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだのでした。しかし、このように家族の中のだれかが救われることは、その救いの影響が家族全体にまで及んでいくものであることも表しています。

 このことは、私たちの信仰のあり方にチャレンジを与えてくれます。すなわち、私たちの信仰は、本来、一本釣りではなく、地引き網のように家族ごとに救われるといった宗教でもあるということです。ですから、私たちは自分の救いだけでなく、自分の家族全部がイエス様を信じて救われるように祈り求めていかなければなりません。

 私の母は、1991年に信仰に導かれその年の7月に受洗の恵みに預かりました。前から母にもイエス様を信じてほしいと思っていろいろと働きかけていたのですが、どうやって導いていったらよいのかわかりませんでした。しかも開拓したばかりの教会には若い人たちしかいなかったので、そこに誘うこともできないでいました。ところが、そのために祈っていたころ教会で行われた特別伝道集会に、ある兄弟のお母さんが来られたのです。同じくらいの年齢で同じような境遇で育った二人が溶け合うのに、そんなに時間はかかりませんでした。二人はすぐに親しくなって定期的に聖書を学ぶようになり、やがて信仰告白に導かれそろって受洗しました。それまでは、まさか母が教会に来たり、イエス様を信じるようになるとは思いませんでした。私が教会に行き始めた高校3年生の頃、教会に行こうと家を出た時、「どこに行くの?」というから「教会だよ」と言うと、「あんまり深入りしらんなよ」と言った母です。「大丈夫。深入りしないから」と言って安心させた私も、その頃は牧師になっていました。息子が牧師になったら本人も深入りしたというわけです。その母の口癖は、「私は小学校5年生までしか出てないから」でした。小学校5年生までしかいってない者が、聖書なんて読んでもわからないということなのでしょう。しかし、聖書は頭で理解するものではなく心で読むものです。聖霊によって理解できるようになるのです。2年半ほど前に召されるまでの17年間、ほんとうによく祈り、立派に仕えてくれました。その母が洗礼式のとき、私は涙が止まりませんでした。息子に導かれて信仰に入るにはどんなにか抵抗もあっただろうに、毛を刈られる羊のように黙って素直に従い信じる姿に、感動して胸が熱くなったからです。何の取り柄もないような母でしたが、素直に従う信仰を教えられたような気がします。

 その年の秋に、父親も信仰に導かれました。父親を導くのも悩みました。昔の人で、キリスト教にはほど遠い人だったからです。その割には大安、吉日などを気にしてはその類の本をいつも見ているという人でした。「いい、父ちゃん。イエス様はね」というと、すぐに眠り込んでしまうので話にならないのです。聞いてもわからないと思ったのでしょう。まず本など読んだことのない人です。いつも山に行って蛇とか狸とかを捕まえて食べていた人ですから、活字には全く関心を示しませんでした。そういう父を導くには、「聖書にこう書いてある」方式ではだめなのです。羽鳥明先生や本田弘慈先生タイプの情に訴えるお話がいいんじゃないかと思い、そうしたお話のテープを聴かせることにしました。当時、本田弘慈先生がマルコの福音書からお話しているテープがあったのでそれを持って行って一緒に聴いてみたら、これまたいいお話をされるのです。父も聞きながら「ん、いい話だ」と言うじゃありませんか。「いいよね。じゃ父ちゃんもイエス様信じる?」と言うと、「ん、ん」と濁すのです。あまりにもはっきりしないので、「信じるの?信じないの?どっちなの?」と催促することもありました。それがいい話でもさっぱり頭には入っていないんですね。でも信仰というのはおもしろいもので頭に入っているかどうかではなく、聖霊が働かれるかどうかで決まるのです。ある日もいつもと同じようにカセットテープレコーダーを持って家に行き一緒にマルコの福音書から本田弘慈先生のお話を聴いていたら、「ん、いい話だ」と言うじゃありませんか。またかと思いましたが、一応、「んだない。いいない。じゃ父ちゃんも信じっかい」と聴くと、「うん」と言のです。びっくりしました。信じるようにと祈っていても、ほんとうに信じると驚くものです。しかし、真実な神は私の乏しい祈りにも答えてくださり、父を救ってくださいましたのです。
 後で、どうして父がその時に信仰に導かれたのかがわかりました。その二日後に心筋梗塞で倒れ病院に運ぶと、翌朝、父は天に召されました。父が信仰に導かれるまで、神様がずっと待っていてくださったんだなぁと思いました。それは私だけでなく、母にとっても大きな慰めでした。私たちは親子で信仰に導かれたことを心から喜びました。

 主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。救われるために必要なのは、ただ主イエスを信じるだけなのです。救われるために必要なことは聖書を勉強することではありません。勉強することも大切なことですが、もっと大切なことは信じることです。人となられた神の子キリストが、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえって、その救いの道を完成してくださいました。その救いを信じて、受け入れるかどうかなのです。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」(ヨハネ6:47)

 皆さんは、この主イエスを信じて救われていますか。もしまだ信じていない方がおられましたら、どうかこの朝、主イエス・キリストを信じてください。また、皆さんの家族の中でまだ救われていない方がおられますか。その方も神事なら救われるのです。そのために祈り求めていきましょう。そして、この看守のように全家族が救われたことを心から喜ぶものでありたいと思います。