使徒の働き17章22~34節 「知られない神」

 きょうは「知られない神」というタイトルでお話したいと思います。ベレヤからアテネにやって来たはパウロは、そこに偶像がいっぱいあるのを見て憤り、会堂ではユダヤ人をはじめ神を敬う人たちと、また広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じて、イエスが救い主であることを宣べ伝えました。すると、耳新しいことを聞いたり、話したりして過ごしていたアテネの人たちは、その新しい教えがどんなものか知りたくて、パウロをアレオパゴスという評議場に連れて行き、そこで彼の教えを聞こうとしました。これが有名なパウロのアレオパゴスにおける説教です。これは純粋な異邦人に語られた伝道説教の一つの例として、とても参考になるものです。きょうはこのパウロの説教から「知られない神」というタイトルで、三つのことをお話したいと思います。

 第一のことは、神は知ることのできる方であるということ。第二のことは、その神とはどのような方かということ。そして第三のことは、だからこのまことの神を求め、まことの神を信じなさいということです。

 Ⅰ.知られない神に(22~23)

 まず第一に、パウロが語った説教の序論にあたる部分から見ていきましょう。22~23節をご覧ください。

「そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」

 「あなたの語ってるその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか」というアテネの人たちのリクエストに答えて、パウロはアレオパゴスの真ん中に立って言いました。この「アレオパゴス」とは、「軍隊の神アレスの丘」に由来し、古来から裁判の行われてきた場所で、アテネの主要な行政機関を含む評議所でした。今の日本で言えば国会みたいなところです。そこで彼は演説を始めたのです。その内容は、「アテネの人たち。あなたがたはあらゆる点から見て、宗教心にあつい方々だと見ております。」というものでした。ついこの前、このアテネの町が偶像でいっぱいなのを見て激しく憤ったパウロです。そのパウロが人々に語る前では、その憤りをあらわにしてけんか腰になったり、頭から彼らを偶像礼拝者だと切り捨てるようなことをせず、落ち着いた口調で、敬意を払いながら、穏やかに語り出すのです。「アテネの皆さん。皆さんは何て宗教心にあつい方々なのでしょう・・・」と。このような語り方は、通常、彼がユダヤ人たちに語る時のやり方とは違います。ユダヤ人に語る時には、まず旧約聖書から説き起こし、そこで預言されている救い主メシヤこそ、あなたがたが十字架につけて殺したあのナザレ人イエス・キリストです。ですから、その罪を悔い改めて、イエスを救い主として信じ受け入れよ、という論法ですが、今回は違います。なぜなら、そこで聞いている人たちはギリシャの人々、すなわち、異邦人だからです。彼らは旧約聖書についての予備知識を持っていませんでしたから、頭から旧約聖書のメシヤがどうのこうの言ってもわからないのです。そこでパウロが注目したのは、彼らのあつい宗教心でした。あついと言っても別に燃えてるわけではありませんよ。その熱心な宗教心です。

 ここで言われている宗教心とは、いわば人間であるならだれしもが持っている普遍的な心の有り様です。それがどんな宗教であるかにかかわらず、だれもが持っている信仰心のことです。ある人にとってはそれが神という形をとらず、ある哲学や価値観であったり、お金であったり、権力であったりしますが、しかしいずれもそれを動かしているのは人間に与えられた宗教心なのです。創世記1章26,27節には、

「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて、彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

とあります。神が人を造られた時、「神のかたち」に造られました。「神のかたち」とは、人間に与えられている理性や道徳性、そして宗教性のことです。つまり人間の自分自身を超えた存在に向かう心のことです。「お祈りする心」と言ってもいいでしょう。人はみんなそういう心を持っているのです。ですから、自分の好きなことをして、好きなものを食べて、好きなように生きて、それで満足できるかというとそうではないのです。私たちの存在を超えたお方、私たちを造られた方に向かい、手を合わせ、祈る、交わる、ということを通して、真の満足を得ることができるわけです。フランスの数学者・物理学者・哲学者・文学者・宗教家であったパスカル(Blaise Pascal 1623~1662)は、「私の心は、あなたの中で休む時まで揺れ動いています。」と言いましたが、私たちの心は、この神に向かい、神に祈り、神との交わりを通して、真の平安を得ることができるのです。それは私たちがこの「神のかたち」に造られているからです。そしてパウロはまさにアテネの人々のそうした宗教心に訴えたのです。

 そのきっかけは「知られない神に」と刻まれた祭壇でした。23節、パウロはアテネの町を歩いていると、彼らがこの「知られない神に」と刻まれた祭壇を拝んでいるのを見ました。この「知られない神に」という祭壇とは、昔、この町を襲った疫病から免れるために作られた祭壇です。古代ギリシャの作家であるディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertius)の「哲学者の生活」(Live of Philosphers)という著書の中で次のように説明しています。

「BC600年ごろ、恐ろしい疫病がアテネを襲った。町の指導者たちは、彼らの祀る数多くの神々のうちのいずれかが怒ってその疫病を起こしたのだと信じた。神々にいけにえをささげられたが、何の効力もなかった。そのときエピメニデスが立ち上がり、その原因は恐らくアテネの人々が知られない神を怒らせたために違いないと主張した。彼は、アテネに羊の群れを解き放ち、その羊が横たわるすべての場所で、そこで知られない神にいけにえをささげるよう命じた。そうして「知られない神」のための祭壇が至る所に築かれ、その神にいけにえがささげられた。すると疫病は治まった。」

 パウロがアテネを訪れたとき、その祭壇の一つがまだ立っていたのでしょう。人々はそれを熱心に拝んでいたのです。ギリシャ人たちはどんな神であろうとも、それに関心を示さないとその神を怒らせてしまうと考えました。こうした思いは、私たち日本人もよく抱くのではないでしょうか。神様という存在がどういうものなのかはわからないが、とにかくその怒りから免れるために何でもいいから必死に拝もうというわけです。ですから当時このアテネには三千にも及ぶ宗教施設があったと言われていますが、プラスして、このような「知られない神に」の祭壇があったわけです。まさに神々のラッシュアワーです。これはもう宗教心と呼ぶより、アテネの人たちの宗教的不安の現れであったと言えるでしょう。彼らは何でもいいから、とにかく神の怒りから免れるために拝もうとしていたのです。

 それに対してパウロは何と言ったでしょうか。そのように「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言いました。神は知られない方なのではなく、知りうる方だと言うのです。どうしたら知ることができるのでしょうか。
詩篇19篇1節には、「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」とあります。神が造られたこの大自然には、作者である神の指のあとと性格がにじみ出ています。しかし、それだけではおぼろげに見ているにすぎません。確かにこの自然を見るとき、そこにこれを造られた偉大な方がおられるということを感じますが、その自然を見ただけではこの方がどのような方なのかをはっきりと知ることはできません。自然を通して神を知ることは、私が老眼をかけて見るようなものです。色とか、雰囲気とかはある程度はわかるのですが、度が強すぎるためボケてよく見えません。この「知られない神」がどのような方なのかをはっきりと知るには、神がご自分のことを啓示されたイエス・キリストを見なければなりません。また、イエスについて啓示された聖書を見なければならないのです。聖書こそ神がこ自身について啓示された唯一の書であり、神がどのようなお方なのかがはっきりと知ることができるために、神が人類に与えてくださった最高の贈り物なのです。では神とはどのような方なのでしょうか。

 Ⅱ.知られない神を知る(24~31)

 24~31節までに注目したいと思います。ここにはこの「知られない神」がどのような方なのかについて三つの点で説明されています。まず24~25節です。

「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。」

 まず第一に、まことの神は「世界とその中にあるすべてのものをお造りになられた創造主なる神」です。すなわち、天地の主であられるということです。ですから何かの助けがなければ存在できないようなものではなく、また、鼻で息をしなければ生きていけないような存在ではなく、すべての人にいのちと息と万物をお与えになられた方です。この方についてイザヤはこのように言いました。

「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。」(42:5,6)

 また、同じイザヤ44章24節には次のようにあります。「あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。」

 さらに、45章18節でも次のように言われています。「天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」

 皆さん、まことの神は天地を造られ、これを引き延ばし、そこに住む者にいのちの息を与えられた方です。私たちの手を握り、私たちを守り、ご自身との契約の民としてくださる方なのです。この方が主です。ほかにはいません。まことの神は、この天地を創造され、それを堅く立て、人の住みかにし、これを形作られた方なのです。先週も紹介しましたが、ここに登場しているストア派の学者たちは汎神論といって、この世界、自然そのものが神であると唱えましたが、まことの神はそのような方ではないのです。まことの神は全世界を創造さた方であり、ほかのいかなるものにも依存することなく、神ご自身だけで存在することができる方なのです。したがって、天も、天の天もお入れすることのできない偉大な方です。ましてパルテノン神殿がどんなに荘厳であっても、この神をお入れすることなど決してできません。それほど偉大な方なのです。

 第二に、この創造主なる偉大な神は、私たち一人ひとりと関わりを持っておられます。26節をご覧ください。

「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」

 どういうことでしょうか。「時代」は、世界地図の色分けと、国境の変化で決まります。世界の歴史のどの時代にどの国が勢力を伸ばし、どの時代にどの文化が世界を風靡したかという歴史の流れも、実は神が支配しておられるのです。エピクロス派は、神は人間世界には煩わされない方で、我々とは全く無関係な存在だと説きましたが、いえいえ、神はそのような方ではありません。この歴史の始めからずっと人類の歴史に関わりをもっておられ、ご自身のご計画にしたがって導いておられるのです。それは旧約聖書のイスラエルの歴史を見ればわかるでしょう。神はこの世界を創造されただけでなく、今も歴史を通して導いておられる方であって、この時代に生きる私たち一人一人のささやかな人生の歩みにも、心を寄せ、関わっていてくださるのです。それはまさに28節でパウロが言っているとおりです。

「私たちは神の中に生き、動き、また存在しているのです。」「私たちもまたその子孫である。」

 これはギリシャの詩からの引用です。「私たちは神の中に生き、動き、存在している」というのは、B.C.600年ごろのクレタの詩人エピメニデス(Epimenides)の詩「Cretica」から引用したもので、もう一つもB.C.300年ごろのシチリ島の詩人、アトラス(Atatus)の「パエノメア」(Phaenomena)からの引用したものです。パウロはこのような詩を引用しながら、神は、私たちひとりひとりから遠く離れておられる方ではなく、ごく近くに、いや、私たちののただ中におられることを伝えたかったのです。皆さん、神は私たちから遠く離れた存在ではありません。まことの神はこの天地を造られた偉大な方であり、天の天も、入れることができない方ですが、その方は同時に、私たちのただ中におられるのであって、私たちはその神の中に生き、動き、存在しているのです。

 であれば、どんな結論になるのでしょうか。パウロの結論はこうです。29~30節をご覧ください。

「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」

 このように私たちは神によって造られた神の子、神の子孫であり、その神の中に生き、動き、存在しているのですから、その神を人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じもののように考えてはいけません。どこの世界に、迷子になった子どもが、近くにいる適当なおとなを父親と考える人がいるでしょうか。「いいや。この人を父親にでもしよう」なんて言いますか。そんなことしたら、父親にされた方も大変です。

 まだ娘が小さな頃に、室内プールに連れて行ったことがありました。途中、娘が「おしっこに行きたい」というので、「じゃ、早く行ってきて」と、私はプールサイドの椅子に座って待つことにしました。おしっこをしてプールに戻ってきた娘が何をするのか眺めていたら、この娘が突然、プールサイドから「お父さん」と言って中に飛び込んだのです。何を血迷ったのかと思い、急いで救助に向かったら、そのお父さんなる人物が私の身につけていた黒いスイミングキャップとゴーグルと全く同じものをつけていたのです。それで娘はお父さんだと思い込んでわけもわからないまま飛び込んだというわけです。それにしても、突然、「お父さん」と言って飛び込まれたその人も大変です。わけもわからないまま「いったい何が起こったのか」と思いながら、必死で救助しなければなりませんでした。

 ですから、大人ならだれでもいいというわけにはいきません。神のようなものなら何でもいいというわけにはいかないのです。このように天地を造られ、私たちを造られた方こそまことの神なのですから、この方を拝まなければならないのです。ではなぜギリシャの人たちはこの方を見いだすことができなかったのでしょうか。

 その第一の理由は、本気で求めていなかったことです。27節には「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです」とあります。もし探り求めるなら、見いだすこともあるのです。イエス様はこのように言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7~11)

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれるのです。皆さんは本気で求めていらっしゃいますか。本気で捜しておられるでしょうか。たたいておられますか。だれであっても求めるならば受け、捜す者は見いだし、たたく者には開かれるのです。

 「神に出会った科学者たち」という本がありますが、これは世界で超一流と言われている科学者たちが、どのように神を見いだしたかが紹介されたものです。その中にアインシュタインを超えた科学者と言われる原子物理学者、ランドール・J・フィスク博士の証しが紹介されています。
「私は長い間、真理を求めてきました。物理学を学んだのも、そこで真理に出会いたかったからです。神なんかいないという考えには、どうしても納得できませんでした。こんなにも美しい世界が、偶然の結果だとは信じられなかったからです。私自身が無意味な偶然以上の何者でもないという考えも、あり得ないと思いました。その当時、なぜだか分かりませんが、聖書を読んでイエス・キリストについて知りたいという飢え渇きが起こりました。論理的にも、歴史的にも、イエスの良い知らせは、ほぼ確実だと思われました。しかし、それだけでは、真理とは何かといことが分かるものではありません。ところが、Iコリント2:14の「生まれながらの人は、神のことがらを理解できず、御霊のことは御霊によってわきまえるもの」だとありました。
 聖書を読み進めていくと、それに応じて、私の心の中の何かが共鳴し、今読んでいることが本当だと告げるのです。私たちは、生まれながらの心と五感だけでは、神の真理の現実性を発見することはできません。神は私たちが自分の五感によって、神を発見してほしいとは望んでおられないのです。そうならばどうやって私たちは真理を発見することができるのでしょうか。神は私たちを愛しておられ、ご自分の真理を贈り物として与えようとしておられます。
 ある日、真理の現実性が、いかに力強く私を捕らえました。主をほめたたえ、礼拝するクリスチャンの集会に出たときのことです。私の魂の内側で、神の御霊が喜んでおられるのを感じました。私は突然、泣き出してしまいました。そのように深い、本当に美しい感動を味わったことがなかったからです。神が強く私に望んでくださったので、私はこの神を「私の天の父」と呼んでもよいのだと気づきました。神についての単なる知識にとどまらず、今や神が私の友として、分かるようになりました。宇宙において見ていた神の超越性は、今は私の身近なものとなりました。神の愛と臨在を深く味わっています。確かに神の偉大さは、その創造のみわざ、宇宙や自然界に見ることができます。しかし、その愛と臨在を見ないならば、最善のものを見失ってしまうということになります。私の今の願いは、もっと神を体験したいということです。
 あのダビデが詩篇の中で、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主のうるわしさを見、その宮で思いにふけるそのために。」
 素粒子物理学の世界は、私に創造者なる神を想像させましたが、イエス・キリストは、私の個人的な神として、私の側に愛に満ちた方として、いて下さるのです。」

 これは神を求めた科学者が、どうやって神を見いだしたのかの一つの証しですが、確かに神を探り求めるなら、見いだすことができるのです。では、探り求めていてもなかなか見いだすことができないとしたら、その原因はいったいどこにあるのでしょうか。それは、捜す方向が間違っていることです。30節には、

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

とあります。この「無知」は、神の自己紹介が足りないことに起因して起こるものではありません。そうではなく、当然知るべき神を知らずにいる人間の側に問題があるのです。神はこれまでそういう無知な時代を見過ごしてこられましたが、今は、どこてでもすべての人に悔い改めを命じておられます。なぜでしょうか。なぜなら、神はお立てになったひとりの人を通して、十字架と復活という救いのみわざを成し遂げ、信じるすべての人を義と認めようとしておられるからです。31節です。世界中のどこにでも十字架を立ててくださり、罪を悔い改めて、神に立ち返るようにと招いておられるというわけです。これを見なさいというわけです。

 皆さんは、『幸福の黄色いハンカチ』(松竹)という邦画をご存知でしょうか?妻が流産してしまったことでヤケになり繁華街で酒を飲んだ際に、絡んできたチンピラとケンカになりその相手を死なせてしまったことで網走刑務所に入っていた勇作が、その刑期を終えて出所した時の話です。彼は郵便局で一枚のはがきを買って妻にこう書き送りました。
「もし、まだ一人暮らしで俺を待っててくれているなら、目印に黄色いハンカチをぶら下げておいてくれ。もしなければ俺は引き返し、もう二度と夕張には現れないから」
 そして、バスは妻の待つ夕張へと進んでいくわけですが、勇作はもう外を見れませんでした。そこで同乗していた鉄也と朱美が代わりに見るわけですが、その光景にバスの中は騒然となりました。彼らの目に飛び込んで来たのは風にたなびく何十枚もの黄色いハンカチだったからです。それはこの妻の夫に対する愛のメッセージでした。

 神はこの黄色いハンカチのように、全世界に十字架を立ててくださり、これを見なさいと言われました。これを見なさい。ひとり子イエス・キリストを十字架にかけてまでつけて私たちを愛しておられる神が、あなたを待っておられるのだ・・・と。もしかすると、あなたも必死で神を求めておられたかもしれません。なのにその神を見いだすことができないでいたとしたら、それはその求める心が問題なのではなく、求める方向が間違っていたのです。宗教心にあついだけではだめなのです。どんなに神を求める宗教心があっても、その心がねじれていて、自分の力で神を見いだそうとしてもできないのです。どちらかというと人間は、絶えず神以外のものを神とする方向に向かっています。ですから、まことの神を見いだそうとしても、自分を中心とした、自分に都合の良い神を求める方向に傾いてしまうのです。まことの神を知るには、ご自身について記されたこの聖書を通して、そこに現された神のご性質を知ること以外に道はありません。そして、その聖書は、

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

と言っているのです。私とはだれでしょうか。そうです。イエス・キリストです。この方以外に道はありません。この方以外に真理もありません。したがって、この方以外にいのち、救いはないのです。このイエス・キリスト以外に、私たちが救われるべき名としては、人間に与えられていないからです。(使徒4:12)大切なのはどれだけ信じているかという量や深さではなく、何を信じているかという内容であり、中身です。

 今や、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられます。そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。ですから、私たちはこの方を信じなければなりません。ご存知のように「罪」とは的外れという意味です。方向が間違っているということです。その方向を軌道修正し、まことの神に向かうこと。これが悔い改めです。神は、今や、どこででもすべての人にこの悔い改めを命じておられます。神に立ち返れ。神を信ぜよ。神を恐れて、その命令を守れ。これがすべてなのです。

 Ⅲ.まことの神を求めよ(32~34)

 ですから第三のことは、まことの神を求めなさいということです。では、このようなパウロの説教を聞いたアテネの人たちは、どのように反応したでしょうか。32~34節のところに、パウロの話を聞いていた人たちが示した三通りの反応が記されてありますが、この三つの態度は、いつの時代でも人間が示す反応です。

 その一つは、あざ笑うという態度です。死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑いました。そんなことあり得るはずがないと頭から否定し、そういう人たちのことを愚かな人だと蔑(さげす)みました。こういう人たちは処女が身ごもったとか、死人が生き返ったということを非科学的だと思い込み、事実を調べようともしません。そして「そんなことは非科学的だから信じれない」と言ってあざ笑うのです。しかし、そのような先入観を持っていて何も調べようとしない方が非科学的ではないでしょうか。

 もう一つの反応は「このことについては、いずれまた聞くことにしよう」という態度です。こういう人たちは一応敬意は表すものの、そうした人たちとは深いかかわりをなるべく持たないようにするのです。いわゆる傍観者的な態度です。争いを嫌う私たち日本人に多いタイプです。このような人たちは福音を聞くと、「いや、私はそのようには思わない」ときっぱりと否定せずに、いろいろな言い訳をして逃れようとします。「子供に手がかかって忙しいの」とか、「定年退職して暇になったら」とか、「何か問題があったら相談するわ」とかと言うのです。こういう態度はいつになっても「いずれまた」という言い訳の材料が残るわけですから、結局いつになっても信じることができません。

 しかし、そのような中にあっても福音を信じて受け入れ、信仰に入った人たちもいたことを聖書は記しています。34節をご覧ください。

「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」

 そのように多くの人たちがあざ笑ったり、傍観者的な反応を見せる中でも、数は少なくても、パウロの語った福音を信じ、従う人たちもいました。アレオパゴスの裁判官デオヌシオという人や、ダマリスという女の人たちです。このデオヌシオという人は裁判官でしたから、事実と確証を識別することを専門にしていた人です。それほどの人が信じたということは、この福音にはそれほどの説得力があっということです。裁判官デオニシオが説得されるほどの力が、イエスの復活という確証にあったのです。ですから、問題は、イエスの復活という確証を聞き、それを受け入れるだけの心の備えがあったかどうかです。つまり、悔い改めの心が備えられていたかどうかなのです。

 このデオヌシオは、3世紀の教父で「教会史」を書いたしたエウセビオスによると、その後アテネ教会の初代監督となり、殉教したと伝えられています。またこのアテネの教会はほかにも、2世紀にはプブリオス、クアドラトス、アリステデス、アテナゴラスなどいった偉大な指導者を輩出し、4世紀にも、あの有名な神学者バシレウスやグレゴリウスなどを輩出しました。このような事実をみると、確かに信じた人たちはわずかだったかもしれませんが、その与えた影響には計り知れないものがあったことがわかります。

 私たちを取り巻んでいる状況はまさにアテネです。アレオパゴスでしょう。どんなに福音を語ってもそれに見向きもしない人がほとんどです。神の超自然的な救いをあざ笑う人たちや、「いずれまた聞こう」という人ばかりのように見えます。世の終わりが近づけば近づくほど、そうした傾向はますます大きくなっていくことでしょう。しかし、そうした中にも神を捜し求め、信仰に入る人たちもいたのです。神は「知られない神」ではなく、「知ることができる神」です。神を捜し求める者には、見いだすことができる方なのです。問題は、求めているかどうかです。また、正しい方向に向いているかどうかなのです。神は、イエス・キリストを通して、その義を現してくださいました。イエス・キリストが十字架で死なれることによって私たちの罪を贖い、三日目によみがえられたことで、その確証をしてくださいました。イエス・キリストを通して現された神こそまことの神であり、まことの救いです。あとは私たちが開かれた心をもって、神を求めるかどうかなのです。どうかこのまことの神に対して心を開いてください。この神を求め、この神を信じてください。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)「今」がその時なのです。