使徒の働き21章17~40節 「すべては福音のために」

きょうは「すべては福音のために」というタイトルでお話したいと思います。いま読んでいただいた聖書の箇所は、第三次伝道旅行を終えたパウロがエルサレムへ上って行ったときに起こった出来事が記されてあります。エルサレムに上って行ったパウロの身にいったいどんなことがあったのでしょうか。なわめと苦しみです。パウロはここで捕らえられ、裁判にかけられ、そしてローマへと護送されて行くわけですが、その受難物語が、ここから使徒の働きの終わりまで続きます。これを書いたルカは、その様子を描くのに実に全体の四分の一のスペースを割いています。ペンテコステの日に、聖霊降臨をもって始まった「使徒の働き」は、ダマスコ郊外においてパウロが救われたことによってその働きが拡大され、やがてエルサレムで逮捕され、ローマに送られ獄中生活もって結ばれていくのです。ですから、このエルサレムでの出来事は、使徒の働き全体の中では起承転結の「転」に当たる箇所で、ここから一気に最後の結びへとつながっていくわけです。きょうは、そのエルサレムでパウロが捕えられた出来事から、すべては福音のために生きたパウロの姿から三つのことをお話したい思います。第一のことは、クリスチャンの自由についてです。パウロはだれに対しても自由でしたが、より多くの人を獲得するためにすべての人の奴隷となりました。第二のことは、そこに神の助けがあるということ、そして第三のことは、いつでも、どんな時でも福音を宣べ伝えるということについてです。

Ⅰ.より多くの人を獲得するために(17-26)

まず第一にクリスチャンの自由について見ていきましょう。21章17~26節までをご覧ください。

パウロ一行がエルサレムに着くと、教会の兄弟たちは喜んで彼らを迎え入れました。そして翌日には、エルサレム教会の牧師であったヤコブのところへ行きますと、そこに集まっていた教会の長老たちが集まっている中で、パウロを通して神が異邦人の間でなされたすばらしいみわざを報告しました。もちろんこの時に、マケドニヤの諸教会から与った献金も手渡したことでしょう。その報告を聞いた長老たちはみな神をほめたたえました。教会は一つです。たとえそれが自分たちの手によって成されたことでなくとも、同じ主がほかの人たちの手を通して成されたみわざを喜び、感謝したのです。このようにほかの人たちを通して成された主のみわざを共に喜ぶ思いは大切なことです。

ところが、そうでない人たちもいました。ユダヤ主義者と呼ばれていた人たちです。この人たちはユダヤ人でありながら信仰に入った人たちで、律法に熱心な人たちでした。この人たちは、数から見たら必ずしも多くはありませんでしたが、律法に熱心であったがゆえに、パウロに対してあからさまに反対し、攻撃してきたのです。というのは、彼らは主イエスを信じるだけでは救われず、律法も守らなければ救われないと考えていたからです。21節にあるとおりです。

「ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。」

ユダヤ人で信仰に入ったすべての人がそうであったわけではありません。その中のある人たちだけですが、彼らは律法に熱心であったがゆえに、そうした過去の古い習慣から抜け出すことができなかったばかりか、全体が見えずに、自分の考えという殻に閉じこもっていたのです。

このようなことは意外と私たちにもあるのではないでしょうか。熱心であるがゆえに周りが見えなくなってしまうのです。特に、その道のことをよく学び、修得した人は、自分の判断が正しいものだと思い込んでしまい、状況を正しく見ることが出来なくなってしまう傾向にあります。

ところで、ここで起こってきた問題というのは、すでにアンテオケ教会でも起こっていて、そのことについてはすでに解決していたはずです。15章1節を見ると、ユダヤから下って来た人たちが、アンテオケの兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなかだは救われない」と言ったことで大混乱になり、結局パウロとバルナバがエルサレムに行き、使徒たちや長老たちとこの問題について検討したのです。いわゆるエルサレム会議です。そこで決まったことはどういうことであったかというと、神は異邦人にも同じ聖霊を与え、何の差別もつけずに、彼らを信仰によってきよめてくださったのだから、律法のくびきを負わせるようなことをさせて彼らを悩ましてはいけないということでした。人が救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によるのであって、律法の行いによるのではありません。ただそうした人たちにも配慮するという観点から、偶像に備えられた物と不品行と絞め殺した物は避けるようにしましょうということになったのです。ところが、そのようにすでに解決したはずの問題が、エルサレムで再び問題になったのです。しかもパウロがそのようなことを教えているというのです。これはまったくのデマです。確かに彼は、異邦人が救われるためには割礼は必要ないと説き、エルサレムの指導者たちにも認められていましたが、だからといってユダヤ人たちに割礼をするなとか、律法の慣習に従って歩んではならないとは一言も言いませんでした。彼が言っていたのは、救いはイエス・キリストにあるということ。ただイエス様を救い主として信じるなら、あなたは救われるということなのです。イエス様こそ救い主であり、この方を信じて受け入れるならば救われるということこそ信仰の本質であり、パウロが強調していたことでした。

そこで、これが根も葉もないデマであることを知っていたエルサレムの指導者たちは、次のような提案をしました。23~25節です。

「ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に誓願を立てている者が四人います。この人たちを連れて、あなたも彼らといっしょに身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、みなにわかるでしょう。信仰に入った異邦人に関しては、偶像の神に供えた肉と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けるべきであると決定しましたので、私たちはすでに手紙を書きました。」

ここに記されてある「誓願」が何の誓願なのかはっきりわかりませんが、おそらく、ナジル人の誓願のことだと思います。これは以前も出ていましたが、最も短くて30日間、酒を断ち、死体から遠ざかり、汚れた食べ物を避け、頭にはかみそりをあてません。そして誓願の期間が終わると、神様の前で髪を切り、和解のいけにえをささげ、それから自由の身になるというものでした。もしその人たちの費用を出してやれば、パウロたちも律法をちゃんと守って正しく歩んでいることが、みんなにわかるに違いないというのです。

さあ、そのような提案に対してパウロは、どのように応答したでしょうか。26節です。

「そこで、パウロはその人たちを引き連れ、翌日、ともに身を清めて宮に入り、清めの期間が終わって、ひとりひとりのために供え物をささげる日時を告げた。」

パウロはすぐにその提案に賛成し、さっそくその翌日に神殿に行き、誓願のためにいっしょに身をきよめ、頭をそる費用を出してやりました。そして、それは見事に功を奏しました。そして、七日間が過ぎるまで何事もなかったのです。しかし、ここで問題になるのは、救われるためには律法を守るといった善いわざは必要なく、ただイエス・キリストを信じる信仰だけでいいのだと教えていたパウロが、どうして誓願などに参加したのかということです。つまり、パウロは首尾一貫した行動をとらなかったのではないかという疑問です。果たしてパウロの行動は、そのようなものだったのでしょうか。彼が常日頃から言っていたことと矛盾したことを行ったのでしょうか。

そうではありません。パウロは確かに、人が救われるのは律法を守ることによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってであり、神が恵みによって救ってくださるのだと主張していました。そして彼は、そのためにいのちをかけてきたのです。しかし、ユダヤ人が昔からの慣習に従っていることについては、少しも反対しませんでした。なぜでしょうか?彼らがつまずかないためです。彼らも救われてほしいと思っていたからです。パウロは譲ることのできない福音の本質に関わることでは、一歩も譲歩しませんでしたが、事が中心的なことではなく、いわばどうでもいいようなことについては、喜んで譲ったのです。Ⅰコリント6章12節を開いてみましょう。

「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」

皆さん、クリスチャンはすべてのことが許されています。自由です。その自由をいったいどのように用いたらいいのか。パウロはこう言うのです。弱い人たちのつまずきにならないように制限する。皆さん、これが愛ではないでしょうか。自分には何をする自由も与えられているけれども、その自由をすべての人の益のために用いたのです。そして、パウロはこのように言いました。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、―私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが―律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」(Ⅰコリント9:19~23)

これがパウロの精神でした。人々が救われるために、ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようになりました。福音の中心点は決して譲りませんでしたが、そうでないことについては、喜んで譲ったのです。そのような正しい福音の理解と、自己犠牲こそ成熟したクリスチャンのあかしではないでしょうか。

ファッションモデルにとって一番重要なのは減量だと言われています。しかし、17世紀から18世紀に描かれた絵画を見てみると、美女というのは細い人ではなく太った人でした。歴史が始まって以来、常に太っている人が美女だったのです。ところが、モデルという職業が現れた頃から考え方が変わってきました。やせている人が美女だと思われるようになったのです。どうしてだかわかりますか?ぽっちゃりした人が服を着ると、服ではなくその人に注目が行ってしまうからです。しかし、やせた人が服を着ると、人よりも服に視線が行くのです。そしてデザイナーの服が100%以上生きるわけです。それでモデルはみんなやせているのです。やせていることが美しいのではなく、やせることによって服が注目されるためです。

クリスチャンも同じではないでしょうか。私たちが生きているのは、キリストのすばらしさが現れるためです。生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。そのキリストが生きるためには、私たちもまた減量が必要です。その減量とは、いわゆる自己犠牲です。自分が好きなように生きるのではなく、キリストのすばらしさが現れるように、私たちは喜んで自分を否定するのです。それがパウロの生き方でした。パウロがユダヤ人にはユダヤ人のように生きたのは、一人でも多くの人が救われるためだったのです。私たちに必要なのは、このパウロのように生きることです。

ところで、このように譲歩することは妥協することではないのでしょうか。違います。パウロの譲歩は妥協とは違うのです。なぜそのように言えるのでしょうか。第一に、ここでパウロもエルサレムの指導者たちも、かつてエルサレム会議で決まったことを再確認しています。つまり、救いは律法の行いを守ることによってではなく信仰によるのだということです。25節の「私たちはすでに手紙を書きました」というのは、そのことを表しています。パウロは、エルサレム教会の立場というものが、この福音の理解にしっかりと立っていることを知っていたからこそ、安心して、神殿礼拝や誓願の儀式に加わったのであって、このようにキリスト教の根本的な教理が正しく受け止められている時にだけ、譲歩することができるのです。このことがはっきりしていなかったら、それは妥協することになってしまいます。しっかりとした福音の理解にとどまりながら、その状況をよく見極めて行動するなら、それは妥協ではなく譲歩なのです。

第二に、何のために譲歩するのかという目的、あるいは動機が重要です。パウロは、こうしたことにとてもセンセティブなユダヤ人をつまずかせないで何とか救いたいという思いから、あえて譲歩したのです。大切なのはそうした過去の習慣がどうのこうのということよりも、イエス・キリストを信じて救われることです。よく自分はこれこれができないから信じられないと言われる方がいらっしゃいますが、重要なことはそうした聖書の教えを守れるかどうかではありません。重要なことは信じることです。信じるなら、みことばに従えるような力が与えられるからです。仮に従えない事があったとしても、悔い改めてもう一度やり直すなら、従えないからと言って信じないよりも、神様は喜んでくださるのです。もちろん、最初から素直に信じ、みことばに従えるなら、それに越したことはありません。しかし、たとえそれができないからといって信じないというのでは本末転倒です。ですから、まず信じることです。そうすれば古い習慣や悪の道から離れることができるようになるのです。パウロが切に求めていたことは、彼らが救われることでした。そしてそのために妨げになっているものがあるとしたら、それをできるだけ取り除こうと思ったのです。この目的、あるいは動機が重要です。それが単にただ人のつまずきにならないためにというだけで、そこにキリストの福音が宣べ伝えられないということならば、結局それは自己満足にすぎず、妥協することになってしまいます。この違いを正しく理解する必要があるでしょう。

現代の教会にも時としてどうでもいいことのためにつまらない争いを引き起こすユダヤ主義者が入ってきたり、逆に、自分たちに都合がいいような解釈によってこの世と妥協してしまうという両極端な考えが入ってくることがありますが、私たちはこうした教えに警戒し、福音の正しい理解に立ちながら、ユダヤ人にはユダヤ人のようにという愛の心をもって、キリストの福音を宣べ伝えていく者でありたいと思うのです。

Ⅱ.そこに神の助けがある(27-36)

次にそこに神の助けがあるということを見ていきましょう。27~36節までをご覧ください。

「ところが、その七日がほとんど終わろうとしていたころ。アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群集をあおりたて、彼に手をかけて、こう叫んだ。「イスラエルの人々、手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています。」彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。そして、ただちに宮の門が閉じられた。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。千人隊長は近づいてパウロを捕らえ、二つの鎖につなぐように命じたうえ、パウロが何者なのか、何をしたのか、と尋ねた。しかし、群集がめいめい勝手なことを叫び続けたので、その騒がしさのために確かなことがわからなかった。そこで千人隊長は、パウロを兵営に連れて行くよう命令した。パウロが階段にさしかかったときには、群集の暴行を避けるために、兵士たちが彼をかつぎ上げなければならなかった。大ぜいの群集が「彼を除け」と叫びながら、ついて来たからである。」

さて、パウロが誓願の費用を出し、誓願をしていた四人の人たちといっしょに身をきよめて神殿に入りますと、それが功を奏し、ユダヤ主義者たちからの攻撃はありませんでした。ところが、予期せぬところから問題が起こってきました。それはユダヤ主義者たちからではなく、ユダヤ教徒たちによるものでした。ユダヤ主義者というのはあくまでもユダヤ人でありながらクリスチャンになった人たちのことで、かつてのユダヤ教の慣習、しきたりを重んじていた人たちですが、ユダヤ教徒というのはまだキリストを受け入れていない人たちです。そのユダヤ教徒からの問題です。彼らはパウロが宮の中にいるのを見ると、全群衆をあおりたて、彼を捕らえてしまいました。トロピモという異邦人を宮の中に連れ込んで、聖なる場所を汚していると思ったからです。それはかつてパウロがエペソにいたとき、このトロピモといっしょにいたのをユダヤ人たちが見ていて、そのパウロを見たとき、てっきりトロピモも一緒だと思ったのです。神殿は、神の民であるユダヤ人にとって非常に重要な所でした。それは、神が自分たちとともにいてくださることのしるしであり、そこに神がご臨在していると信じていたからです。ですから、だれでも中に入れるというわけではありませんでした。そこには「異邦人の庭」と呼ばれていたところがあり、異邦人はそこまでしか入ることが許されていませんでした。それ以上中に入るものなら、それは神聖な神の宮を汚す者として、裁かれなければなりませんでした。パウロはそこに異邦人トロピモを連れ込んだと思ったのです。

けれども、それはまったくの誤解でした。トロピモがいっしょにいたというだけで、彼らはパウロがトロピモまでも宮の中に連れ込んだと思ったのですから・・・。彼らは偏見に凝り固まっていました。そして、そのような偏見が誤解を生み、憶測が憶測を呼んで、パウロを罪人に仕立て上げてしまいました。そして、町中が大騒ぎとなり、大混乱に陥ってしまったのです。ほんとうに誤解や偏見といったことは恐ろしいものです。そのような見方に凝り固まってしまい、状況を正しく見つめることができなくなってしまうからです。

ところで、そのような事態に陥ったとき、どのように解決が図られたでしょうか。31節からのところを見てください。彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長のところに届けられると、彼らはただちに、兵士たちと百人隊長たちとを率いて、彼らのところに駆けつけました。すると人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめたのです。もしもローマ軍の到着が少しでも遅れていたら、パウロは彼らに殺されていたかもしれません。怒り狂っていた群衆は、パウロを殺そうと思っていたからです。しかし、監視をしていた兵隊の知らせで、そのことが千人に隊長のもとに届けられ、その迅速な対応によって、パウロは死を免れることができたのです。それは彼らがパウロのことを助けようと考えていたからではなく、そのような騒ぎを起こすと、自分たちの首が吹っ飛ぶかもしれないという恐れがあったからですが、しかし、この千人隊長のとった機敏な処置のおかげで、パウロはいのち拾いをすることができたのです。

神はご自身に信頼し、神のために生きようとしている人を安易に滅ぼすようなことはなさいません。神は必ずそのような所から助け出してくださるのです。神は命の危険の中にあったパウロを助けるために、この千人隊長を用いられたように、私たちを助けるために、人の目には意外と思えるようなことをもお用いになられるのです。それはパウロにはなお福音を宣べ伝えるという使命が残されていたからです。

Ⅲ.あらゆる機会に福音を宣べ伝える(37-40)

最後に、パウロの弁明を見て終わりたいと思います。千人隊長がやってくると、彼はパウロに近づいて彼を捕らえ、二つの鎖につなぐように命じると、群衆にパウロが何者なのか、何をしたいのかと尋ねましたが、群衆はてんでバラバラなことを叫びつづけたので、確かなことがわからず、パウロを兵営に連れていくことにしました。そして、兵士たちがパウロを兵営の中に連れ込もうとしたとき、パウロが千人隊長に、「一言お話してもよいでしょうか」と尋ねました。パウロがギリシャ語で話したことに驚いた隊長は、あなたはギリシャ語を知っているのか。以前暴動を起こして、四千人の刺客を荒野に引き連れて逃げたあのエジプト人ではないのか」と尋ねると、パウロが「いや違う。自分はタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です」と言うと、千人隊長はパウロが語ることを許したので、彼は階段の上に立ち、民衆に向かって手を振って、すっかり静かになったとき、ヘブル語で彼らに語りかけました。

それにしても、いまさっき大混乱に遭ったばかりです。そんなに危ない目に遭いながらも、パウロは絶望せず、「一言お話してもよろしいでしょうか」と、千人隊長に語りかけたのです。いったい何を話しかけたかったのでしょうか。あかしです。福音のあかしです。その詳しい内容は来週見たいと思いますが、パウロはそういう機会をも生かしてあかししたのです。なぜでしょうか。福音を伝えることが彼にとってもっとも重要なことだからです。人はその考えていることに従って行動すると言われています。福音を伝えることをもっとも重要だと考えている人は、どのような機会でもそのために用いようとしますし、そのための好機とするのです。

プロ野球セリーグのペナントレースたけなわの後半戦、中日ドラゴンズと阪神タイガース、そして読売ジャイアンツが熾烈な首位争いを展開していますが、その天王山とも言える9/23に行われた阪神と中日の試合で、阪神のマット・マートン選手が外国選手としては二人目となる200安打を達成し、勝利に貢献しました。そのお立ち台でマートン選手が、おめでとうございますというインタビューのことばに対して、「神様は、私の力です」と言いました。驚いてインターネットで確認したところ、彼は熱心なクリスチャンだったのです。
彼は、身につける野球道具に新約聖書エペソ人への手紙6章10,11節を記しています。それはこういうみことばです。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。」神のすべての武具で悪魔に立ち向かうように、神の大能の力によって強められているのです。またバットには祈りを込めてGod bless youとサインしています。
それは彼にとって野球選手であることが一番ではないからです。優先順位では神様が人生のナンバーワン、二番目が家族、ベースボール(仕事)その次だからです。この優先順位がどうであるかはとても重要なことです。それによってその人の生活が決まってしまうからです。マートン選手にとってベースボールよりも神様が第一なので、どんな時でも神様をあかしすることを忘れません。それは野球だけではありません。どの仕事、どの領域においても同じです。ですからサインする時も聖書のことばです。コリント人への手紙第一9章26節、「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」です。それは、走るとは、人生を通してキリストを示すことであり、続けて彼を求め続けること。また、賞というのは、永遠のいのちイエス・キリストだからです。そしてその向かうべき方向・ゴールもイエス・キリストです。イエス・キリストにある永遠のいのちを受けるために、その目標に向かって必死で走るという信仰を告白しているのです。それは彼にとってイエス・キリストが最も重要な方だからです。

パウロは福音を伝えることを最も重要だと考えていたので、あらゆる機会を生かしてそれを分かち合おうとしました。皆さんにとって最も大切なことは何でしょうか。私たちもパウロのように常に神を第一にし、神のために生きるものでありたいと思います。私たちが生かされているのはこの福音を宣べ伝えるためであることを覚え、いつでも、どんな時でも与えられた機会を用いてこの福音をあかししていく者でありたいと思います。