使徒の働き22章1~21節 「イエス・キリストをかなめとして」

きょうは、イエス・キリストを私たちの人生のかなめとしましょうというお話をしたいと思います。「かなめ」とは、ある物事の最も大切な部分、要点という意味です。扇子で言うと、骨を閉じ合わせるために、その末端に近い部分に穴をあけてはめ込む釘のことです。それがなかったらすべてがバラバラになってしまいまう重要な部分のことです。私たちの人生においてもこのかなめをかなめとしないと、的はずれな生き方になってしまいます。そのかなめとは何でしょうか。イエス・キリストです。すべてのかなめは、主イエス・キリストであって、この方を私たちの人生のあらゆる思いと行動の中心に据えなければなりません。

きょうは、このイエス・キリストをかなめとすることについて、三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ただ神に対して熱心なだけではだめです。その熱心が真の知識に基づいたものでなければなりません。第二のことは、神のみこころはどこにあるのかというと、イエス・キリストです。第三のことは、だからイエス・キリストをかなめとして歩みましょうということです。

I.神に対して熱心な者(1-5)

まず第一に、神に対して熱心なだけではだめだということを見ていきたいと思います。1~5節までですが、まず1~2節をご覧ください。

「兄弟たち、父たちよ。いま私が皆さんにしようとする弁明を聞いてください。 パウロがヘブル語で語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこでパウロは話し続けた。」

パウロは、ユダヤ人クリスチャンの手前、エルサレム神殿できよめの儀式に加わっている間に、ユダヤ人に捕らえられ、ローマ軍の兵営に連れて行かれようとしましたが、その時「一言お話してもよいでしょうか」と千人隊長に尋ねると、千人隊長がそれを許したので、ユダヤ人の民衆に向かって語りました。それがこの22章1~21節に記されてあることです。

パウロは、「兄弟たち、父たちよ。」と彼らに呼びかけると、自分の生い立ちから語り始めます。3~5節です。

「私はキリキヤのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで私たちの先祖の律法について厳粛な教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。私はこの道を迫害し、男も女も縛って牢に投じ、死にまでも至らせたのです。このことは、大祭司も、長老たちの全議会も証言してくれます。この人たちから、私は兄弟たちへあてた手紙までも受け取り、ダマスコへ向かって出発しました。そこにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰するためでした。」

まず彼は生まれからいうと、キリキヤのタルソで生まれたユダヤ人です。つまり、いま彼を打ちたたいた者たちと同じユダヤ人であるということです。このようにエルサレムから少し離れたところに住んでいたユダヤ人は「ディオスポラ」離散した民という意味ですが、そのように呼ばれていました。パウロはキリキヤのタルソで生まれたディアスポラのユダヤ人でした。

それから育ちはというと、律法学者ガマリエルの門下生で、律法について厳格な教育を受け、神に対して非常に熱心な者でした。どれだけ熱心であったかは、4,5節を見ればわかります。それはクリスチャンを迫害し、男も女も縛って投獄し、死にまでも至らせたほどです。それは大祭司も長老たちも証言してくれるほどのお墨付きのものでした。こうした彼の熱心さについては、知らぬ人がひとりもいないほどだったのです。

それにしてもなぜパウロはここまでも自分の過去をさらけ出したのでしょうか。それは一つには、このように弁明することによって、相手と自分との共通点を見いだし、心と心のコンタクトをはかろうとしたからだと思います。ですから彼は、当時の公用語であったラテン語やギリシャ語で語るのを避け、ヘブル語で語っているのです。これはたとえばフィリピンなどでの公用語は英語ですが、家族やごく親しい人たちの間ではタガログ語が使われているそうです。パウロがここでヘブル語で語っているというのは、ちょうどフィリピンの人が英語ではなくタガログ語で語っているようなものです。そのように語ることによって、相手の心が開かれ、救い主を受け入れやすいように道そなえをしたのです。まさにユダヤ人にはユダヤ人のようにです。

しかし、それだけではありません。パウロがこのように自分の生い立ちなど、回心前にどれだけ律法に熱心であったのかを語ったのは、6節から始まる彼の回心物語を彼らの心の中により鮮明に印象づける目的があったからなのです。すなわち、神への熱心さという点では彼らと同じようにキリスト教を迫害するほどでしたが、熱心さだけではだめだということです。そのような熱心がもろくも崩れる時があったのです。クリスチャンを迫害するためにダマスコに向かっていたときです。そのとき復活の主イエスに出会いました。そして、これまで正しいと思ってやってきたことが間違いであったということに気づかされたのです。先日、ある方とお話していたら、その方はかつて統一協会というキリスト教の異端のグループに所属していたそうです。しかし、ある時家族の協力の中、牧師の話を聞いていたとき、それまで正しいと思い込んでいたことが、間違いだったということに気づいたのです。それはまさに砂の城が一気に崩れ落ちるような経験だったと言っておられましたが、まさにパウロにとってそれは砂の城が一気に崩れ落ちるような経験でした。

ユダヤ人というのは、ほかの人種と比べると、非常に信心深い熱心な民です。それは中途半端ではありません。がゆえに、彼らがなし得ることももう人間のわざとは思えないほどすごいのです。しかし、そのようにまじめで、熱心で、信心深ければそれでいいのかというとそうではありません。問題は何を信じているかです。その信じていることを間違えるととんどてもない方向へ行ってしまうことになります。ユダヤ人たちの熱心というのは、自分が正しいと思った道についての熱心であって、決して神が何をするようにと決めておられるとか、神が何を喜ばれるのかといったみこころに基づいていたものではなかったのです。

ある宣教師が日本に来て、「日本人は非常に勤勉で、意欲的な国民なのに、驚きました」と言いました。確かに、あるアンケートによると、「今、あなたは、毎日非常に忙しいと感じていますか」という問いに対して、「非常に忙しい」と答えた人が圧倒的に多数でした。日本人は非常に忙しい民族なんです。では、暇な一日ができたら、のんびり休みますか。それとも何かせずにいられないと感じますか」と問うと、実に60~70%の人が、「何かせずにはいられないと答えているのです。私もその一人かなぁと思うのですが、これでは、結局、自分で忙しさを作り出していることになります。こういう人は勤勉、熱心、行動的だと評されますが、実のところ自分でわけもわからないままきりきり舞いをしていることがあるのです。その熱心が真の知識に基づいていないなら、それは的はずれな熱心だと言えるでしょう。わが道を行くのではなく主の道を行くのでなければ、正しい熱心も人生の生き甲斐も持てないのです。

Ⅱ.神のみこころイエス・キリスト(6-15)

では真の知識に基づいた熱心とは何なのでしょうか。主の道とはどのような道なのでしょうか。次に、その道がどのような道なのかについて見ていきたいと思います。6~16節までのところをご覧ください。まず6~8節に注目してみましょう。

「ところが、旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。私は地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか』という声を聞きました。そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』と言われました。」

パウロにとっては、キリスト教などというものは、最も神を冒涜する宗教だと思っていました。ナザレのイエスが自分が神の子だとか、救い主であると主張していたからです。彼にとってはナザレのイエスなどはただの人間にすぎないという前提がありました。それが神だの、キリストだのと主張するとしたら、それは神を冒涜することであり、放っておくことができなかったのです。まじめでしたから・・・。それでダマスコに行き、イエスを信じる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰しようとしたのです。

ところが、旅を続けて、ダマスコに近づいたとき、天からまばゆいばかりの光が彼の周りを照らしたかと思うと、そこから声が聞こえてきました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」そこで彼が「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、その方は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスだ」と言われたのです。どういうことでしょうか。

これはパウロやユダヤ教徒の前提が決定的に誤りであったことを示すものでした。彼らは、ナザレのイエスが神の子、キリスト、救い主であるはずがないし、そう言うのは神を冒涜する以外の何ものでもないと思っていましたが、パウロが迫害していたイエスこそ、実は主ご自身であられたのです。

旧約聖書の律法に熱心で、ガマリエルの門下生として聖書を学んでいたパウロが、どうしてこのことがわからなかったのでしょうか。パウロは、その理由を次のように言っています。ローマ人への手紙10章4節です。

「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」

この「終わり」とは、物事の完成とか目標を意味します。つまり、神の律法の目標はキリストだったのであり、この方が来られたとき、キリストは律法を完成し、終わらせたのです。なのに彼らは、この律法の完成であり、目標であったイエス・キリストを知らなかったのです。それはちょうど木を見て、森全体を見ていないのと同じです。それはアナニヤのことばによく表されています。14節です。

「彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。」
パウロが「先祖の律法について厳格な教育を受けて」きたと思っていたら、その先祖の神は、パウロにみこころを示されるとき、義なる方を見させ、その方の口を通して御声を聞かせようとお定めになられたというのです。この義なる方こそキリストであり、神のみこころだったのです。このことがわからなかった。この方が見えませんでした。

それはちょうど地図のようなものです。私たちが地図を広げるのは何のためかというと、どのように行ったら目的地にたどりつけるのかを知るためです。なのに、地図に書き込まれた数々の目印ばかりに気がとられ、肝心の行き先を忘れてしまったとしたら、地図を見ることに何の意味があるのでしょう。「あっ、ほんとうだ。ここにコンビニがある」とか、「ちょっと待てよ。これなんだろう。へぇ、ここにこんなパン屋さんがあるんだ。今度来てみよう。」、「へぇ、ここがみんなが言ってた公園か。何があるんだろう」とか言って、「ところで、どこに行くんだっけ」というのでは、地図の意味がないのです。律法というのは、人がそれに従って行動すべき地図のようなものです。ところが、その地図を大切にしていたのはよかったのですが、そこに書かれた数々の目印ばかりに気が取られてしまい、肝心の行き先を忘れていたのです。その行き先こそキリストでした。パウロはダマスコでアナニヤ会い、彼を通してこのことを聞いたとき、そのことがはっきりわかりました。自分が迫害していたナザレのイエスこそ神の子であり、神のみこころであるということ、そして、自分に与えられている使命はこのことの証人として、すべての人にあかしすることであるということが・・。

私たち日本人は、ユダヤ人のように旧約聖書(律法)をもっていなかったので、それはユダヤ人だけのことであるかのように思いがちですが、実は、そうではないのです。神が定められたこの義なる方からはずれ、ゴーイング・マイ・ウェイ式の生き方をしているとすれば、それは目的地を忘れて地図に集中する過ちを犯していたパウロと何ら変わりはありません。エレミヤ8章7,9節には、こうあるからです。

「空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。・・・知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕らえられる。見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。」

ここで何が言われているかというと、こうのとりも、山鳩も、つばめも、つるも、自分の帰る時を知っているというのです。どのように?その本性に刻まれた渡り鳥の本性によってです。それと同様に、私たち人間にもそのような本性があるのです。それはたとえば自然の法則であったり、善悪の判断や良心の呵責といったものです。人の行動に一定の秩序が保たれるのは、こうした律法、法則があるからなのです。人が人であるかぎりは、こうした法則は人間の本性に刻まれているのです。にもかかわらず、主の定めを知らないと言って、自己中心的な生き方をするとしたら、「彼らに何の知恵があろうか」何の知恵のない、全く愚かなことだと言えるのです。ですからそれはユダヤ人だけに言えることではなく、実は私たち日本人にも言えることなのです。神によって造られてた人間。神のかたちら造られた者として、神を知り、神を喜び、神に祈り、神と交わるように造られた者が、その神を神としないで、自己中心に生きているとしたら、それは律法の目的を忘れたユダヤ人と何ら変わりはないのです。全く知恵のない熱心であり、空回りした歩みになってしまいます。

昔、ダビデがイスラエルの王位に着く時、彼が使えた先の王であるサウル王が戦死しました。サウル王のひとりの家来は、倒れたサウル王の首を切り落として、ダビデのもとに走り、「あなたのライバルの首を取ってきた」とダビデに差し出したとき、ダビデはどうしたでしょうか。ダビデは、その主君サウルの首を、さもてがらのように名乗り出たその家来を殺しました。その理由は、サムエル記第二1章16節にあります。

「そのとき、ダビデは彼に言った。「おまえの血は、おまえの頭にふりかかれ。おまえ自身の口で、『私は主に油そそがれた方を殺した』と言って証言したからである。」

ダビデに言わせれば、この家来は、ただ、サウルとダビデと自分という人間的レベルの行動の法則を考えて、自分では良いことをしたと判断し、熱心に行動しましたが、「主に油を注がれた者」はだれかという神との垂直関係、行動の中心点を見失っていたのです。

私たちも、あれこれの宗教もなかなか良いことを考えるとか、一般の人たちもクリスチャンと大差なく、いやもっと立派なことをしてくれるとか、感心しがちですが、このメシヤという中心人物を見失っていては、いくら人間の法則に熱心でも、何にもなりません。イエス・キリストこそ律法の中心であり、神礼拝の目標です。この方を知ることこそ、人の行動と生活の全法則の焦点を合わせることになるのです。

Ⅲ.キリストをかなめとして(16-21)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、このキリストをかなめとしましょうということです。16~21節までをご覧ください。16節、

「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。』」

キリストを見失い、自己流に生きることによって、まったくピンぼけのように生きていたパウロに、アナニヤは、「なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」と言いました。罪とは「的はずれ」のことです。律法の中心、的であられるキリストからはずれていれば、イエス・キリストの御名を呼んでバプテスマを受け、その罪を洗い流さなければなりません。ピンぼけの人生を立て直し、自分のあらゆる思いと行動の中心を、私たちの罪をあがなうために天から下ってこられた主イエス・キリストに置かなければならないのです。この方を人生のかなめとしないで、私たちはどうやって的はずれでない生き方をすることができるでしょうか。これで良かれと思ってしていたことが、実は全然見当違いであったということがあるのです。実際パウロも、神に対して熱心な者でしたが、その熱心がキリスト抜きであったために、全然見当違いことをしていました。そうではなく、キリストをかなめとして、この方を中心として歩まなければなりません。その具体的な例が17節以降に記されてあります。

「こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、主を見たのです。主は言われました。『急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。』そこで私は答えました。『主よ。私がどの会堂ででも、あなたの信者を牢に入れたり、むち打ったりしていたことを、彼らはよく知っています。また、あなたの証人ステパノの血が流されたとき、私もその場にいて、それに賛成し、彼を殺した者たちの着物の番をしていたのです。』すると、主は私に、『行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす』と言われました。」

パウロがエルサレムに帰り、宮で祈っていたとき、夢ごこちになり、そこで主を見ました。その時に主が語られたのはこうです。「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。」アナニヤのことばに示されて自分の間違いに気づいたパウロは、そのことを率直に認め、悔い改めて、主をあかししました。そうすれば、ユダヤ人たちのみなが自分と同じように気づいて、自分の誤りに目が覚めるだろうと思ったのですが、しかし実際はそうではありませんでした。少なくても、主のお考えはそうではありませんでした。主のお考えは、「エルサレムを離れなさい」ということだったのです。彼らはそう簡単に自分の考えというものを変えることはないからです。むしろ、神のみこころは、彼が異邦人のところに出て行くということでした。

そうです。私たちは自分の考えで事を図り、決すべきではありません。パウロもかつてはそうでしたが、悔い改めて主イエス・キリストをその人生のかなめとした時、自分の考えから、主イエス・キリストに導かれる人生を選択するようになりました。私たちに求められていることは、イエス・キリストを人生のかなめとして生きることです。そうすれば、人の思いをはるかに超えたキリストの栄光に満たされることでしょう。

皆さんはいかがでしょうか。自分が、自分で、自分の思うようにと、自分を中心においていることはないでしょうか。それが人間的に正しいことのようでも、実はピントがずれているということもあるのです。「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」ピンぼけの人生を立て直し、自分のあらゆる思いと行動の中心を、このナザレの主イエス・キリストに置きましょう。確かな主の御声を聞いてそれに導かれながら歩んでいきたいと思います。それが主が喜んでくださる熱心なのです。