ヤコブの手紙1章1~4節 「さまざまな試練に会うときは」

あけましておめでとうございます。新しい年をどのような思いで始められたでしょうか。この新しい年も主のみこころに歩めるように、みことばから共に学んでいきたいと思います。きょうからヤコブの手紙に入ります。それでは早速見ていきましょう。

 

Ⅰ.この上もない喜びと思いなさい(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

この手紙を書いたのは、ヤコブです。ここには、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とあります。聖書には「ヤコブ」という名前の人が四人出てきます。一人はゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスの弟子で、ヨハネの兄弟でしたが、サマリヤの人たちがイエスさまを受け入れないと、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったことから、「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付けられました。このヤコブではありません。他にイエスの弟子でアルパヨの子ヤコブ(ルカ6:15)という人がいますが、彼でもあません。もう一人、イエスの弟子でユダという人がいますが、彼をイスカリオテ・ユダと区別するために「ヤコブの子ユダ」(ルカ6:16)と紹介していますが、このヤコブでもありません。ということは、このヤコブというのは、イエスの実の兄弟ヤコブのことです。兄弟といっても、イエスさまは聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、このヤコブはマリヤが結婚してヨセフとの間に生まれた子どもでしたので、異父兄弟ということになります。彼は初めイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)が、イエスさまが復活されてから彼に直接現われてくださったことで、イエスさまを信じ、キリストの弟子となりました。そして教会の指導者の一人として重んじられるようになり、使徒の働き15章に出てくる第一回エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けなければ救われないのか、という議題において、最終的な決定を下しました。ガラテヤ書2章9節でパウロは、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」と言っているように、彼はエルサレム教会の柱として重んじられていたことがわかります。

 

それほど重んじられていた人物であるならよほど偉い人だったのではないかと思われますが、彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。彼はイエスの異父兄弟でしたから、自分を「神の子イエス・キリストの実の兄弟であったヤコブより」と紹介することもできました。あるいは、「エルサレム教会の初代牧師です」ということもできたはずです。それなのに彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と言ったのです。なぜでしょうか。それは彼がキリストに対して正しい理解を持っていたからです。確かに彼は主イエスの実の兄弟だったかもしれない。約30年の間同じ家で生活し、一番近くで人間イエスをつぶさに見て来たかもしれません。しかし、このイエスがどのような方であるのかをはっきり知ったのは、イエスさまが復活して彼に直接現われてくださったことによってでした。それまでは信じられなかった。イエスがどのような方であるのかを全く理解していませんでした。イエスさまが直接彼に現れてくださったことによって、イエスが初めてわかった。そして、復活されたイエスは神であるということ、それは父なる神と等しいお方であるということです。

 

イエスさまは、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。また、「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14:9)と言われました。でも、それがどういうことなのかがさっぱりわからず、この人は気が狂っていると思っていたのに、イエスが復活されたことでこれまでイエスさまが語っておられたことが自分の中で全部つながったのです。そして、この方はまことに神であったということがわかったのです。この方は神と等しい方であり、この方こそ救い主であるということがわかったのです。そして、この方がどのような方であるかがわかったとき、彼は確かにイエスさまとは異父兄弟であり、エルサレム教会の柱として重んじられていた者ですが、そんな自分の立場とか、環境などといったことは何の関係もない、ただのしもべにすぎないということを自覚することができたのです。この「しもべ」という言葉は、ギリシャ語で「デューロス」という言葉ですが、それは奴隷、しかも最も低い奴隷のことを意味しています。彼は、キリストがすべての人を救う救い主であると理解したことで、自分はその方に仕えるしもべにすぎないと思ったのです。

 

このヤコブが、国外に散っている十二の部族に書き送っています。この国外に散っている十二部族とは、ユダヤ人クリスチャンたちのことを指しています。初代教会の時代、神のことばが、ますます広がって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常に増えて行くと、多くのユダヤ教の祭司までもが次々に信仰に入りました。これはまずいとユダヤ教の指導者たちがいろいろと議論をふっかけてくるのですが、弟子たちは知恵と御霊によって語っていたので、また、それに伴う数々の不思議なわざやしるしも行ったので、全く太刀打ちすることができませんでした。そのような中で最初の殉教者が出ました。それがステパノです。ユダヤ教の指導者たちは民衆をそそのかし、彼がモーセと神を汚すことを聞いたと言わせて、石打ちにしたのです。それでエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:2)。散らされた人たちはみな、みことばを宣べながら、巡り歩きました(使徒8:4)。このようにしてユダヤ人クリスチャンたちは国外へと散らされて行ったのです。そして、彼らは行く先々でも激しい迫害に会い、苦難を余儀なくされました。それはこれまで学んできたヘブル人への手紙でも見たとおりです。そこでヤコブは、迫害によって国外に散っているユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書き送ることにしたのです。この手紙はペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙と合わせて「公同書簡」と呼ばれていますが、その時代の人々ばかりでなく、今の時代に生きている私たちクリスチャンたちに対する励ましでもあるのです。

 

その国外に散っている十二の部族に宛てて、ヤコブは何と言って励ましているでしょうか。2節をご覧ください。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

「私の兄弟たち」という言葉は、「愛する兄弟たち」「兄弟たち」という言葉と合わせ、ヤコブが好んで使っている言葉です。この手紙の中に19回も使われています。恐らく彼は、このように言うことで、主にある兄弟として、自分も同じ立場にあるということを伝えたかったのではないかと思います。私たちも自分と同じ立場にある人から言われると、「ああ、私だけじゃないんだ」「自分と同じようにみんな辛い経験をしているんだ」という気持ちになって慰められることがあります。しかし、彼はそのように呼びかけて彼らに同情を示すだけでなく、彼らが前に向かってしっかりと進んで行くことができるように、具体的な励ましも語っています。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

ここでヤコブは、「もしさまざまな試練にあうときは」と言わないで、「さまざまな試練に会うときは」と言っています。それは、クリスチャンは必ず試練に会うということを前提に、そのようなときはどうしたら良いのかを述べているのです。信仰を持ったら苦難に会わないということはありません。問題が全く起こらないということはないのです。それは、非常に聞こえはいいですが現実的ではありません。聖書が教えていることは、「試練に会うときは」です。しかもその試練というのは一つや二つの試練ではなく、「さまざまな試練」と言われています。仕事や勉強がうまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。人間関係はどうでしょうか。平和な時もあれば、誤解されたり、裏切られたり、争ったりすることもあります。健康でもそうです。体調が良くて快適に過ごせる時もあれば、病気やガンにかかったりすることもある。また交通事故に会ったり、階段から落ちてケガをすることもあります。愛する人と死別するということもあります。長く生きれば生きるほどいろいろな苦難や問題に会うのです。これが、私たちが生きているという現実なのではないでしょうか。キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。パウロも「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いました。

私たちはこうして新年最初の日を迎えていますが、本当にすがすがしい気分になります。すべてが新しい。今年こそ日記を書くぞと思いますが、三日も過ぎればすっかり忘れます。新鮮な思いを脅かすような試練が襲ってくるのです。

 

それでは、こうしたさまざまな試練に会うとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブはこのように言っています。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」何か書き間違ったのではないかと思うような内容です。試練に会うとき、私たちは辛く、悲しく思います。心が折れて落胆します。人生が終わってしまったのではないかと思う人もいます。ある人は、神がいるならどうしてこんな辛い目、苦しい目に遭わせるのか。神は私を愛していないのか、私がどうなっても構わないというのかと思う人もいるかもしれません。試練は、それほど辛く悲しく思われるものなのです。それなのにヤコブはここで「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言いました。いったいどうしてでしょうか。

 

Ⅱ.信仰がためされると忍耐が生じる(3)

 

3節をご覧ください。「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」どういうことでしょうか。これは、クリスチャンがこうしたさまざまな試練に会うのには目的があるということです。その目的とは何かというと、信仰がためされると忍耐が生じるということです。

 

ある若い牧師が年配の牧師に言いました。「先生。忍耐が身に着くように、私のために祈ってください。」

するとその年配の牧師が彼のためにこう祈りました。「神さま。どうかこの人に病気を与えてください。人間関係の問題も。あ、そうです、それだけでなく経済的にも困難を与えてください。貧しさを通ることができますように。ありとあらゆる苦しみを与えてください・・・。」

すると、その若い牧師が言いました。「先生、そうじゃなくて、私が祈ってほしいのは忍耐が身に着くようにということです。」

するとその年配の牧師が言いました。「忍耐は試練を通して身に着くものなんだよ。」

何とも含蓄のある言葉ではないでしょうか。長く生きた人の経験からにじみでてくる知恵です。忍耐は試練を通して養われ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるのです。

 

皆さん、大人と子どもの違いは何ですか。それは忍耐できるか、できないかということです。子どもは忍耐することができませんが、大人はできます。こうして毎週忍耐して私の話を聞いてくれていますが、大人だなぁと思います。その忍耐をいったいどうやって身につけることができるのでしょうか。試練です。信仰がためされることによってです。

 

忍耐という時にすぐに思いつくのは、旧約聖書に出てくるヨブです。このヤコブ5章10節、11節には、「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によってかたった預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるということです。」とあります。ヨブは忍耐の人でした。彼がどのように忍耐したのか、その結末はどうだったのかをよく見るようにと言っています。ヨブはどのように忍耐したのでしょうか。

 

彼は神の祝福によってあらゆる面で豊かさを受けた人でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。七人の息子と三人の娘がおり、羊は七千頭、らくだは三千頭、牛五百くびき、ろば五百頭を所有し、非常に多くのしもべを持っていました。それで彼は東の人々の中で一番の大富豪でした。ところがある日、サタンが神のところにやって来て、こう言いました。「神さま。ヨブはあなたを信じているように見えますけどあればうわべだけです。彼があなたを信じているのはあなたが彼を祝福しておられるからで、もし試練に会ったらたちまちあなたを信じなくなるでしょう。だすから、どうぞ彼の財産を打ってください。そうしたら、彼はあなたをのろうに違いありません。」

「いや、ヨブはそのような人ではない。彼は心からわたしを信じている。だから、わたしを呪うようなことは絶対にない。」

「だったら神様、私に試させてください。」

「では、彼のすべての無持ち物をおまえの手に任せよう」ということで、サタンはまず彼の財産を奪います。しかし、サタンは財産だけでは足りないと、今度は子どもたちも奪っていきます。ヨブは当然嘆き、悲しみ、着物を引き裂きながらも、神の前にひれ伏して、こう言いました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。するとサタンは、今度は悪性の腫物でヨブの全身を打ちます。足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物ができて、もう体中かゆくて、かゆくてしょうがなく、土器のかけらで自分の身をかくほどで、体中が傷だらけになってしまいました。それを見た彼の妻はこう言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ひどい妻ですね。こういう時こそ助けてほしいのに、神をのろって死になさいなんて、とんでもないことを言います。それでなくともさまざまな試練で苦しいのに、こうした妻のことばはどれほど彼を打ちのめしたかと思うのですが、それでも彼はこういうのです。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ2:10)

そう言って、彼はそのようになっても、罪を犯すようなことをしませんでした。

すると、今度は友達がその様子を見て最初は同情的だったのですが、だんだんヨブにこんなに試練が襲いかかるのは、ヨブに何か問題があるからた、と言います。だれでも考えることですが、このような考え方はもっと自分を苦しめることになります。

しかし、それでもヨブは忍耐して神に従うと、最後に神ご自身が来られて彼に語りました。するとヨブは主に答えて言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:5-6)

ヨブは自分がなぜこうなったのかわかりませんでした。最後まで分からなかった。なぜわからなかったのかというと、今まではうわさでしか神のことを聞いていなかったからです。しかし、今は違います。今はこの目で神を見ました。この耳で神のことばを聞きました。ヨブは、様々な試練を通して忍耐を学び、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを体験を通して知ったのでした。

すると神は、ヨブを祝福しました。主はヨブの祈りを受け入れられ、彼の所有物も二倍に増やされました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福してくださったのです。

聖書は、このヨブの結末を見て、主が彼にしたことがどういうことだったのかを見なさいというのです。耐え忍んだ人は幸いなのです。

 

それは私たちの人生も同じです。いろいろな問題が起こります。さまざまな試練に会います。聖書には、イエスさまを信じたら試練がなくなるとは書いてありません。もし試練に会うならではなく、会うと言っているのです。いろいろなことが起こってきます。でも、神がヨブにした結末を見て、忍耐するようにと励ましているのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。このことからもわかるように、神が私たちに試練を与えるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちがそれを通って忍耐を身に着け、完全な者となること、つまり、私たちの信仰の成長のためなのです。試練に会うことで私たちは自分の弱さを知ります。それまでは、自分は何でもできると思っています。しかし、試練に会うことで、自分にはどうすることもできないことがたくさんあるということを知るのです。その時私たちは何に信頼したら一番幸せなのかを学ぶことができます。そして神に信頼し始めるのです。問題の解決のために祈り始めます。そして、神からの解決を得ようと神のことばである聖書を開き始めるのです。もっと神に近づこうとします。そうすることで神は、私たちを霊的に強くしてくださるのです。

 

Ⅲ.完全な者となります(4)

 

最後に、その試練の結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

試練の目的は信仰が試される時、その信仰が本物であるかどうかを証明することでした。信仰が本物だから救われるのではありません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってです。あなたがイエスさまを自分の罪からの救い主、人生の主として信じたのであれば、あなたは救われるのです。だんだん救われるのではありません。信じたその瞬間に救われます。死んだらすぐに天国行きです。そこで神の国を相続するのです。この事実は変わりません。もしあなたがイエスを信じたのであれば、あなたはもう救われているのです。そして、だれも父の手からあなたを奪い去る者はありません。神はその保証として御霊を与えてくださいました。エペソ1章14節にそのように約束されてあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」ですから、神の御霊、聖霊を受けているなら、必ず御国を受け継ぐのです。そして救われている者は、この神の聖霊によってどんな試練に会っても耐え忍ぶことができるのです。なぜなら、忍耐は御霊の実であるからです。忍耐は生まれながらの人にはありません。でもキリストを信じるなら、忍耐する力が生まれてきます。私たちは弱く、自分の力では忍耐することができませんが、私たちの内側におられる聖霊の力によって忍耐する力を与えてくださるのです。

 

その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になることができます。ここにある「完全な者」とは全く罪のない人になるということではありません。完璧な人になるということでもありません。ここで言われている完全な者になるというのは、成熟した者という意味です。言い換えるならば、それは大人のクリスチャンになるということです。皆さん、私たちはどうしたら成熟した大人のクリスチャンになれるのでしょうか。信仰がためされることによって生じた忍耐を完全に働かせることによってです。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になるのです。

 

それはちょうどスポーツマンのようです。スポーツマンは練習量が多いと「嫌だな」と思うものですが、コーチの言うことを信じて忍耐しながら練習に励むことによって、以前の自分よりもはるかに強くなっていることがわかると、勝利を得る厳しい道に自分がしだいにふさわしい者になっていくと確信できるのでうれしくなります。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンも信仰がためされることによって忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、自分が救いにふさわしい者であることがわかり、自分の信仰が強められていることを実感できるので喜びに溢れます。サタンは人を最悪に落とすために誘惑しますが、神は人から最善を引き出すために試練を与えるのです。ですから、ペテロが言っているように、信仰の試練は、火を通して精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの表れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるのです。

 

イエスさまは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10~12)と言われました。

ヤコブの教えは、イエスさまが教えられたことがベースになっています。イエス様は、義のために迫害されている者は幸いだ、と教えられました。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。そのことによって、その人が天の御国の民にふさわしい人であることがわかります。だから、喜びなさいと言われたのです。いや、喜び踊りなさいと言われました。

皆さんは喜んでいますか。喜び踊っていますか。皆さんが試練に会うとき、皆さんは天の御国が与えられていることを知ることができます。神の子とされ、神の国の相続人とされていることをはっきりと知ることができるのです。すばらしいことではありませんか。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思わなければなりません。

 

パウロは、ローマ書の中でこう言っています。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3-5)

 

すばらしい約束ですね。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。試練の目的は信仰をためすだけでなく、私たちの信仰の成長のためでもあるということ、大人のクリスチャンにするためでもあるのです。

 

ですから、私たちもどんな試練に会っても、主に信頼して前進していきましょう。この新しい一年の歩みの中でもさまざまな試練に会うでしょう。そのとき私たちはどうすべきでしようか。それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、私たちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせましょう。そうすれば、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となることができます。この一年が信仰の成長を遂げる年となりますように。さまざまな試練に会う時、それをこの上もない喜びと思うことができますように。主イエスの御名によって祈ります。

マタイの福音書2章1~12節 「博士たちのクリスマス」

Merry Christmas!救い主イエス・キリストのご降誕を心からほめたたえます。今年は12月25日が日曜日なので、こうしてクリスマスを教会で礼拝をもって迎えられることをうれしく思います。

私は、教会附属の保育園に行っていましたので、クリスマスにはいつも聖書のお話しや降誕劇、「きよしこの夜」の讃美歌に親しんできました。とは言っても、私の家はいわゆるクリスチャン・ホームではなく、仏壇や神棚がある普通の家庭でしたので、クリスマスというと、ケーキ屋さんで働いていた叔父が毎年クリスマスイブの晩に持って来てくれるケーキを食べお祝いしました。クリスマスは多くの人がそれなりの仕方でお祝いをしますが、聖書の中のキリスト降誕のストーリーを知っている人は日本にはそれほど多くありません。12月25日がキリストの誕生日であったかどうかは別として、というか、実際のところは別の日ですが、一般的に世界中でクリスマスにキリストの降誕が祝われていることは事実です。

きょうは、東方から来た博士たちが、幼子イエスを拝みに来たストーリーから、私たちがクリスマスを迎える心構えについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.星に導かれた博士たち(1-3)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 

お気付きのように、イエス・キリストの誕生のストーリーには歴史的事実と超自然的な出来事が織り込まれています。ここには、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」とあります。これは歴史的な事実です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤを統治していた王でした。当時イスラエルはローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は、ヘロデにイスラエルの統治を委託していたのです。彼はローマとの協調関係を築きながら、エルサレム神殿の大改築をするなど、多くの建築物を残したことで有名です。また、猜疑心がとても強く身内を含む多くの人を抹殺しました。その時代にキリストは生まれました。これはまぎれもない歴史的な事実です。

 

一方、ここには、このヘロデ王の時代に、東方の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王が誕生したことを知り、その方を拝みに来たと告げています。この「博士」とはギリシャ語で「マゴス」という言葉で、天文学を研究していた学者たちか、あるいは、占星術、星占いをしていた者たちであったと考えられていますが、彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれてエルサレムのヘロデのところへやって来たのです。おそらく彼らは、旧約聖書のダニエル書や他の預言書からイスラエルに救い主が誕生することを知っていたのだと思いますが、その星に導かれてエルサレムにやって来たのです。これは何十年に一度見られるハレーすい星だったのではないかと考える学者もいますが、これを

科学的に解明するのには無理があります。なぜなら、このように星が導くということは考えられないことだからです。これは彼らをエルサレムまで導くために神が用いられた超自然的な星だったのです。

 

このようにキリストの誕生の経緯は、歴史的事実と超自然的な出来事といういわゆる横の糸と縦の糸によって見事に織り込まれているのです。ですから、この話を黙想する人たちに、今も不思議な感動を与えてくれるのです。そして、ここにいる私たちも、その不思議な星に導かれて、きょうここにいるのではないでしょうか。すなわち、博士たちが不思議な星に導かれてキリストに出会ったように、私たちも人それぞれその方法は違いますが、不思議な方法でキリストのもとに導かれているということです。

 

先ほども申し上げたように、私は教会附属の保育園に行ったことで、小さい頃から自然にイエス様のことを聞いていました。両親が共働きだったのでどこか私を見てくれるところがないかと探したところ、たまたまそれが教会の保育園だったのです。なぜ私を教会保育園に入れたのかとあとで母に訪ねたことがありますが、「なんでって、なんでだべね、わがんね。そごしがながったがらない」という返答でした。でも、私は、そこしかなかったからではなく、そこに不思議な神の導きがあったからだと思っています。なぜなら、そのようにして教会保育園に入れてもらったことで、キリスト教対する違和感が全くなかったというだけでなく、あこがれさえ抱いていたからです。神は超自然的な星に導かれて私を教会保育園に連れて来てくれたのでした。

 

同じように、皆さんがきょうここに導かれたのも、その背後に不思議な神の深いご計画と導きがあったからなのです。ある人はだれかに誘われて来たという方もおられます。ある方はたまたま何らかのイベントに参加したのがきっかけで来られたという方もおられると思います。それがどのようなきっかけであっても、あなたはきょう、不思議な神の導きによってここに来られたのです。

 

そのようにしてキリスト教に触れた私は、しばらく教会とは無縁の生活を送っていました。そんな私が再び教会に引き戻されたのは、一人の宣教師との出会いがきっかけでした。それは私が高校3年生の秋のことでした。私は高校時代バスケットボール部に所属していましたが、インターハイが終わるとそれまで打ち込んでいたものが無くなり、心にポッカリ穴があいた日々を過ごしていました。大学進学を目指していたのにその道が閉ざされたので就職することになりましたがすぐに大手の会社に就職が決まると、何もすることがなくなったのです。「そうだ、あの人に手紙を書こう」と、その夏交換留学生として来日したアメリカ人のことを思い出したのです。しかし、高校時代まったく勉強しなかった私は英語で手紙を書くことができなかったので、同じ町の高校に英語の教師として来日したばかりの宣教師の家を訪ねました。それが今の家内です。今の家内でとは言っても、他に家内はいませんが、とにかく彼女に英語の手紙を直してもらおうと言ったのです。すると家内は、片言の日本語で、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。私は特にやることもなかったので、また、キリスト教に対して違和感がありませんでしたし、社会勉強のつもりで行くことにしたのです。

 

すると、日曜学校の先生が温かく迎えてくださり、後で1枚のはがきをくださいました。「ああ、教会の人って優しいんだなぁ」と思って続けて行くようになると、その方が、「ちょうど良かった。今度のクリスマスに降誕劇をするので手伝ってもらえませんか。あなたは悪役です。」とお願いされました。それで私は、悪役で役者デビューをすることになりまはこんなことしているんだろう」という思いもありましたが、まあ他にやることもなかったし、キリスト教がどのようなものなのかを知りたいと思って教会に続きました。

 

そのような時でした。卒業式までもう少しという時、高校で一つの問題が起こりました。担任の先生から、もしかするとあなたは卒業できないかもしれないと言われた時、ここまで来て卒業できなかったらどうしようという思いで目の前が真っ暗になりました。その時、クリスマスのプレゼントに家内からもらった聖書をむさぼるようにして読んだのです。すると、第二コリント5章17節にこう書いてありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでもキリストを信じるならすべてが新しくなるという言葉を読んだとき、私はこれまでの人生をリセットして、新しい人生をスタートさせたいと強く思い、イエス様を私の罪からの救い主として信じ受け入れました。

 

本当に不思議ですね。もし教会の保育園に行っていなかったら、もし家内と出会っていなかったら、もしあの問題が起こっていなかったら、私はここにいなかったかもしれません。しかし、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たように、私も不思議な神の導きによってイエス様のもとにやってくることができました。

 

そんな彼らがイエスのもとに導かれたのは、聖書のみことばによってでした。5節と6節には、旧約聖書にある預言の言葉を通して彼らは救い主はベツレヘムで生まれたということを知り、幼子のイエスのもとへ行きました。私たちも不思議な出会いを通して教会に導かれ、その中で聖書のことばを通してキリストへの信仰へと導かれることがわかります。

 

あなたはいかがですか。神は今も不思議な方法によってあなたの人生をも導いておられます。いろいろな人との出会いや出来事を通して、あなたをイエスのもとへと導いておられるのです。あなたのスターは何ですか。あなたの星となってあなたを導いてくれた人は誰でしょうか。あなたも博士たちのようにその星を見て単純に喜び、その星に導かれるように、あなたの人生を神様にゆだねておられるでしょうか。

 

Ⅱ.この上もなく喜んだ博士たち(3-10)

 

次に、3節から10節までをご覧ください。3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れまどった。エルサレム中の人も同様であった。」とあります。

 

こうした博士たちの行動とは裏腹に、キリストの誕生を快く思わなかった人たちもいました。それはヘロデ王であり、エルサレム中の人々です。ここには、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とあります。そして、7節と8節にあるように、彼は、博士たちをだましその幼子の情報を得て、その子をなき者にしようとしました。いったいなぜヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。それは、自分の上に支配者がいることを望まなかったからです。彼はこの幼子が成長した時、自分の王としての立場や地位が奪われるのではないかと心配したのです。それは何もヘロデに限ったことではありません。それは、人の上に立つ立場にある人ならだれでも受ける誘惑でしょう。自分の立場や地位を守るという動機で、いろいろなことを言ったりやったりします。このヘロデ王はそれが特に強く、彼は五回も結婚していましたが最初の妻(ドリス)と二人の息子、二番目の妻(ミリヤム)と二人の息子をも抹殺して、自分の立場を守ろうとしました。当時、ヘロデよりも豚の方が安全だとささやかれたほどです。

 

一方ここには、「エルサレム中の人々も王と同様であった」とあります。ヘロデならばわかりますが、なぜエルサレム中の人々も王と同様に恐れたのでしょうか。それは、自分たちの現状が変わることを恐れたからです。人は自分の現状が変わることを極端に恐れます。それは新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならないと思うと、恐れを抱くのです。多くの場合変わりたいのに変われないのは、変わりたいという自分の考えよりも、これまでの現状を変えたくないという気持ちによってブレーキがかけられているからです。どんな状況であろうとも、誰にとっても、現状が自分の知り得る範囲での最も安全な領域であり、現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいるという思いがあるのです。このように、変化を恐れる気持ちは誰の中にもあります。

 

さらに、ここにはもう一つの種類の人たちが登場しています。それは民の祭司長たちと学者たちです。4節を見てください。

「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」

彼らは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかと問いただされたとき、「ユダヤのベツレヘムです。」と答えています。預言書にそう書かれてあったからです。この預言書というのは、今日の旧約聖書のことですが、そこにはキリストがユダヤのベツレヘムという町に生まれることが、前もって、預言されていたのです。言い換えれば、聖書の民と呼ばれていたユダヤ人には早くからキリスト誕生が預言されており、ほとんどの人がそのことを知っていたということです。それなのに、彼らはその知らせを耳にしても、ちっとも動こうとはしませんでした。なぜでしょうか。関心がなかったからです。聖書のみことばを知っていても、実際には信じていなかったのです。

 

このように、キリスト誕生の知らせを聞いても、人によって反応はさまざまでした。それは二千年前も今も変わらない事実です。しかしごく少数ですが、このキリストの誕生を感動的に体験した人たちもいました。それはこの博士たちです。9節、10節をご覧ください。

「彼らは終えの言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

キリスト降誕の知らせを耳にして、ヘロデやエルサレムの住民が不安を感じたのに対して、幼子のような純粋な心を持って、まっすぐにイエス様の生まれたところへと向かって行った東方の博士たちの姿は何と対照的でしょうか。彼らはこの上もなく喜びました。その喜びは、お金や物によって得られるものではない、幼子のような信仰からあふれ出る説明のできない感動的な喜びです。今日も、世界中で多くの人たちがこの喜びを体験しています。あなたもそのおひとりでしょうか。

 

Ⅲ.幼子を礼拝した博士たち(11-12)

 

最後に、幼子イエスのもとに導かれた彼らが何をしたかを見て終わりたいと思います。11節と12節をご覧ください。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

星に導かれて、そしてまた、聖書の預言の言葉に確信を得て、ついに幼子イエスのいるところまでやって来たのは、不思議なことに聖書に約束されていた神の民ではなく、異邦の民、東方の博士たちでした。彼らは母マリヤとともにおられる幼子を見ると、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 

黄金は言うまでもなくとても高価で貴重なものです。それは王にふさわしいものです。ここで博士たちが黄金をささげたというのは、キリストが王の王であることの信仰の告白でもありました。

そして乳香、乳香は香料の原料です。その色が乳白色の色であることから乳香と呼ばれていますが、その原料を焚いて香として、神にささげるのです。つまり、この乳香はキリストの神性を表していたのです。

そして、没薬ですが、没薬は、古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、強い殺菌力と芳香を兼ね備えたものです。没薬はキリストが十字架で、私たちの罪の身代わりとして死なれる贖い主であることを表していました。もちろん、博士たちはそんなつもりで持ってきたわけでなく、ただ高価な贈り物を贈っただけでしょうが、奇しくもそれが、この幼子が私たちの罪のために死なれる救い主であることを表していたのです。

 

彼らはこうしたささげ物をささげ、ひれふして拝みました。いったいなぜ彼らはこのようにしたのでしょうか。いったいなぜそんなに遠いところから、おそらく千数百キロはあったでしょう、今のように新幹線や飛行機があったわけでもなかったのに、そんなに遠い所から長い年月をかけてやって来たのでしょうか。相当の犠牲があったことと思いますが、なぜ彼らは、このような高価な贈り物をまでして、キリストを礼拝したのでしょうか。

 

それは彼らにそれだけの喜びがあったからです。その星が幼子のおられるところまで進んで来たとき、彼らはこの上もなく喜んだとあります。その喜びは、それだけのお金と時間を使っても惜しくないと思えるほどの喜びでした。その喜びが感謝となって内側からあふれ出て、礼拝となって表れたのです。

 

東方の博士たちと、ヘロデ大王やエルサレム中の人々、あるいはユダヤ教の宗教的指導者たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、救い主の誕生を心待ちにしていたか、そうでないかの違いです。自分にとって、救い主が意味のあるお方なのかそうでないかの違いと言ってもいいでしょう。
大切な人の誕生日なら、その日を喜んでお祝いするでしょう。別にどうでもいい人の誕生日なら、どうでもいいと思うはずです。敵の誕生日なら、呪いたくなるかもしれません。自分にとって大切な人が生まれたからこそ、博士たちはお祝いにやってきたのです。ここが最も重要なポイントです。  私たちにとって、イエス様はどのような方でしょうか。クリスマスがどういう日であるかは、私たちとイエス様との関係次第で決まります。あなたにとって、クリスマスはどういう日でしょうか。素敵なディナーでロマンチックな雰囲気を味わう日ですか?あるいは、特別なイベントで盛り上がる日でしょうか?それとも、どうでもいい日?むしろ疲れる、クルシミマス?こうしたこともいいですが、しかし最も大切なのは、クリスマスはイエス様に対する感謝と喜びにあふれる日であるということです。なぜなら、イエス様は私たちを罪ののろいから救ってくださったからです。勿論、東方の博士たちは、イエス様が自分たちを罪ののろいから救ってくれる救い主だとは思っていなかったでしょう。自分たちの先祖を救ってくれたユダヤ人への感謝の思いから、はるばる遠い東の国からやって来ただけかもしれません。けれども、私たちはこうした彼らの姿からクリスマスこそイエス様の誕生をお祝いし、この方をこの世に送ってくださった神に感謝して、ひれ伏して拝む時であるということを知ることができます。だからこそ、クリスマスを迎えるのに最もふさわしい迎え方は、心からの感謝をもってキリストに礼拝をささげる日であるということです。このクリスマスイエス様に対して、あふれる感謝を込めて礼拝しましょう。

 

 

 

 

ヨハネの福音書8章12節 「わたしは世の光です」

それでは、聖書からの励ましのメッセージです。今晩の聖書のみことばはヨハネの福音書8章12節です。

 

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

毎年、クリスマスの季節になりますと、シンガポールの観光名所、オーチャード・ロードは、光と色彩のワンダーランドに変わります。このライトアップの目的は、大勢の観光客に来てもらって、沿道の店でお金を使ってもらうことにあります。楽しい雰囲気、クリスマス・キャロルの歌声、大道芸などを目当てに、毎年、世界中から多くの人がやって来ます。

 

一方、最初のクリスマスのライトアップは、ネオンの光や色彩ではなく、天使たちの「主の栄光」の輝きでした。それを見たのは、観光客ではなく、野原にいた羊飼いたちです。まばゆいばかりの光に続いて、大勢の天使たちが現れると、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と賛美したのです(ルカ2:14)。

羊飼いたちは、御使いが語ったことを確かめようとベツレヘムに行きました(同2:15)。そして、それが本当だと分かると、「この幼子について告げられたことを知らせた」のです(同2:17)。

 

何という励ましでしょう。聖書は、救い主誕生の知らせはまっさきに羊飼いたちのところへもたらされたと告げています。羊飼いというと、今でこそのどかな雰囲気を感じさせますが、当時は、昼も夜も羊の番をしなければならない過酷な仕事でした。彼らのほとんどは雇われで、自分の主人の羊を代りに面倒みていたのです。給料は少ないし、羊を置いて礼拝にも行けず、裁判で証言することも許されていませんでした。いったい自分は何のために生きているのかがわからず空しく生きていたのです。しかし、そんな羊飼いたちのところに、最初のクリスマスの光が照ったのです。

 

これは私たちにとっても希望ではないでしょうか。私たちの人生にも、やみがあります。それはコンプレックスというやみであり、孤独や悲しみというやみであり、また、恐れや不安というやみ、怒りや憎しみというやみです。しかし、そのやみがどんなに深くても、神は私たちの心を照らすことができるのです。神はご自分のひとり子イエスを、あなたに与えてくださいました。そして、イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」神が私たちに与えてくださった愛の賜物(イエス)は、どんな暗やみにも光をもたらすのです。

 

「そうはいうけれども、ちっとも明るくないじゃないか」と思われる方もいるかもしれません。確かに世の中を見るとあまりいいことがありません。戦争は絶えないし、愛は冷え切っています。不景気だし、明るい話題があまり多くありません。私たちの生活を見ても懐は寒いし、体のあちこちが悪い、家族の心配もあるし、あんな問題、こんな問題と、複雑な悩みをたくさんかかえています。イエス様が世の光として来てくださったというなら、もっといいことがあってもいいんじゃないですか?世の中もっとパッと明るくなるはずなのに、なぜ明るくならないのですか、そう思わずにはいられません。けれども、光はやみの中に輝いているのです。あなたの真っ暗なやみの中で輝いているのです。

 

日本にもよくいらして、神様への讃美を歌っておられるレーナ・マリアさんという歌手の方がおられます。レーナ・マリアさんは生まれつき両手がなく、片足も短いまま成長しないというたいへん重い障害をもって生まれてきました。唯一健康な片足を、まるで手のように器用に使いこなし、なんでも自分でやり遂げてしまう凄い方なんですが、その方は自分の人生についてこんな風に言っておられます。

 

「神様が、もし私の体を癒そうと思われるならば、私は癒されると信じています。しかし、私はそれを望んだことがありません。最初は、人と違って一杯の水を飲むのも本当に苦労しましたが、そういう努力をすることによって随分忍耐強い性格になりましたし、水泳の選手としてパラリンピックに出ることもできました。また日本に来て歌うこともできるようになりました。他にもいろいろと楽しい経験があるのです。『主は私の羊飼い、私には乏しいことはない』という御言葉を本当にその通りだなと思っています。私はこの体を不幸だと思ったことがないのです。いい人生だと思っています」

 

レーナさんをこのように言わしめるものとはいたい何でしょうか。レーナさんは重い身体障害を持っておられますが、自分の人生に与えられている神様の愛を知っているのです。だから、「いい人生だ」と言える。つまり、レーナさんがこのように言えるのは、神の愛の賜物であるイエスの光を持っておられるからなのです。

 

楽な人生がいい人生と限りません。辛くてもいい人生があるのです。それは生きている意味を感じられる人生ではないでしょうか。三浦綾子さんの『光あるうちに』という本の中に、読者からの同じような悩みを書いた二つの手紙が紹介されています。  「わたしは三十歳の主婦です。近頃、私は生きるとは何か、と疑問を持つようになりました。朝起きて食事の用意をし、主人を送り出し、子供を幼稚園に送っていきます。そのあとは、掃除、洗濯、買い物、そして夕食の準備。ある時、わたしは思いました。十年後も、二十年後も、わたしは同じ毎日を繰り返しているのではないか、と。繰り返すだけで老いていく人生。そう思っただけで、わたしは生きていることが、これで良いのかと考えずにはいられませんでした」  「ぼくは高校三年生です。受験勉強に追われています。たぶん来年の今頃は、二流か三流の大学にのそのそ通っていることでしょう。そして四年過ぎると、また二、三流の会社に通っているにちがいありません。一生平社員か、うまくいっても課長止まりで、定年になるわけです。ぼくと結婚する女性は、どうせ、人がアッと驚くような美人でもなし、才女でもなし、平凡な家庭、退屈な家庭を作るでしょう。そして、ぼくに似た凡々たる子が二人か三人生まれて、ぼくと同じコースをたどるに違いありません。ぼくが定年を迎えると、もう、僕を邪魔者扱いにする子どもたちだと思います。こう考えてくると、生きていることが何なのか、わからなくなるのです」

 

高校三年生でよく考えるなぁと思います。二人とも、自分の人生が大切に思えなくなってしまったというのです。その理由として、人生の平凡さをあげています。でも、三浦綾子さんは、ご自身の体験をもって、こんな風に答えておられます。

 

結核を患い、脊髄カリエスを患い、13年間療養しました。ギブスベットに寝たまま、食事を作ってもらい、便をとってもらい、洗濯をしてもらい、医療費はかかる、心配はかける、治る見込みはない。自分は廃品同様の人間だ、死んだ方がましだと、つくづく考えました。ところが、クリスチャンになって人のために祈るようになり、また一人一人の友に思いを馳せてベットで仰向けになったままたどたどしくハガキを書いて送るようになりました。祈ることや、ハガキを書くことなど何でもないことのように思われますが、今まで自分の事ばかり考えて、自分が情けない、死にたいとばかり思っていた自分が、少しでも人のことを考えるようになったとき、自分が別人のようになった気がします。

 

実際、それ以来、たくさんの人が三浦さんを慕って病室に来るようになりました。つまり、平凡な毎日だから生きている意味がないのではなくて、自分のことしか考えていないから自分の人生が大切に思えないのだということに気が付いたのです。

 

来る日も来る日も、食事の支度と洗濯、掃除の繰り返しであってもいいのです。問題はいかなる気持ちでそれを繰り返すかということであって、家族が楽しく食事ができ、清潔な服を着ることができ、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭を作る。それがどんなに大切な仕事であるかと考えたら、自分のしていることが空しいとは思わないで、喜びをもって生きることができるはずだというのです。

 

こうして考えてみますと、イエス様の光に照らされるということは、明るくて楽しいことがたくさんあるという事とは限りません。どんなに自分が惨めに思えても、実は私は神様に愛されている者のだということを知ること、それが心にともし火を持つということなのです。どんなに小さな事しかできなくても、どんなに辛いことであっても、それが神様の与えてくださった私の仕事なのだということを知ること、それが命に輝きを持つと言うことなのであり、「光はやみの中に輝いている」ということの意味なのです。

 

三浦綾子さんは、結核の療養所で回心しイエス様を信じました。そして、ともに文学活動をしていた三浦光世さんと結婚し、同じ道を歩もうとしましたが、生活が苦しくなり、仕方なく二人で雑貨店を開きました。お客さんが多くなってきたとき、向かい側に同じように雑貨店が新しくできました。ところが、三浦さんのお店だけうまくいくので、ある日、光世さんが綾子さんにこう言いました。「あの家は学校に通う子どもたちもいて、いろいろとお金もかかるだろうに、商売がうまくいっていないようだから、私たちが少し助けてあげよう。」一体どういう意味かと綾子さんが尋ねると、光世さんは、「私たちの店の物を少し減らして、お客さんがその物がほしいと言ったら、あの店に行って買うように勧めてはどうだろう」と答えたそうです。

光世さんの言うとおりにすると、向かいの店も商売がうまくいくようになり、綾子さんたちは時間の余裕もできたので、そのおかげで彼女は、書き物を始めることができたのですが、ちょうど朝日新聞社が実施した「一千万円懸賞小説」の全国公募があったのでそれら応募すると、三浦綾子さんは入選を果たしたのです。その小説こそ「氷点」です。

 

イエス様は、この世の光として来てくださいました。暗やみが深ければ深いほど、その光は輝きをまします。そういえば、クリスマスが最も闇の長いこの冬至に定められたのは、イエス様こそ私たちの心の暗やみを照らしてくださる方であることを物語っているからです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」あなたの心がどんな暗やみであっても、世の光として来られたイエス・キリストを心にお迎えするなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。光はやみの中に輝いている。すべての人に与えられた神さまからの愛の贈り物を、あなたも受け取ってください。それはイエス・キリストによって与えられている恵みなのです。

ルカの福音書1章26~38節 「どうしてそのようなことが・・」

先週は、イエス・キリストの誕生の前にザカリヤとエリサベツという老夫婦に、イスラエルの民の心を整えるヨハネという人が生まれたことをお話ししまた。高齢といってももう腰が曲がるほどの老夫婦に子供が生まれるなんて考えられないことですが、神は彼らの祈りを聞かれ、その御業を成し遂げてくださいました。

 

しかし、きょうの箇所にはもっと驚くべき内容が記されてあります。それは、処女がみごもるということです。それはいと高き方、神の子であって、その神の子が処女マリヤから生まれるというのです。処女降誕が信じられない人は、もうここから先が読めなくなってしまいます。そういう人がいて当たり前です。そんなことがあるはずがないからです。しかし、聖書はそれでも隠すことなく、信じられない人がいることも十分承知の上で、あえて処女マリヤが神の子キリストをみごもったとハッキリ告げるのです。そして、別に狂信的でもなく、極めて常識的な人間でありながら、これをこのまま信じている人も少なくありません。私たちもその一人です。きょうも使徒信条を告白して、「主は、聖霊によりて宿り・・」と大胆に告白しました。考えてみると、人には説明できず、絶対にありえないような大変なことを、私たちは信じているわけです。いったいイエスはどのように処女マリヤから生まれてきたのでしょうか。

 

Ⅰ.どうしてそのようなことが・・(26-37)

 

まず、まず26節から35節までをご覧ください。その六か月目にとは、ザカリヤとエリサベツがみごもって六か月目にということです。御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。その名はマリヤといい、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。いいなずけとは、結婚の約束をした人という意味です。当時のユダヤの社会では結婚しているとみなされていましたが、まだ一緒に住んでいない状態のことを指していました。ですから、創造主訳聖書では、「すでに結婚していたが、また婚姻の時まで間があって、同棲はしていなかった。」と訳しているのです。そのマリヤのところに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。おめでとうって、何がおめでとうなのかと彼女がひどくとまどっていると、御使いは続けてこう言いました。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

マリヤは驚いてこう言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

ところで、これに似た質問を、先週見たザカリヤもしました。1章18節です。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私はもう年寄りですし、妻も年をとっています。」

これはザカリヤがヨハネの誕生を告げられたとき、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと言いたかったのです。ですから、子供が生まれるとしたら、何らかのしるしでも見せて下さるのですか、と尋ねたのです。ある人はこのザカリヤの質問は「疑い」の質問だったと説明しています。

 

しかし、マリヤの質問は違います。マリヤの質問は、「疑い」ではなく「驚き」の質問でした。そしてまだ男の人を知らないのに、どのようにしてそんなことが起こるのかと尋ねたのです。ですから、口語訳では、「どうして、そんなことがあり得ましょう」と訳しているのです。考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というニュアンスなのです。

 

確かにマリヤは敬虔なユダヤの女性です。それでも、御使いに、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。というのは、彼女はヨセフと結婚することが決まっていましたが、まだ正式に結婚したわけではなかったので、性的関係を持ったことがなかったからです。そのような者がどうして男の子を産むことなどできるでしょう。また、その生まれてくる男の子は聖なる方、いと高き神の子と言うではありませんか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は一瞬にしていろいろなことを考えたことと思います。

 

これに対して、神の答えはこうでした。35節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

その答えは、「聖霊があなたの上に臨み」でした。それは通常の方法によってではなく、聖霊によって、聖霊なる神の御業によるというのです。聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方が彼女をおおうことによってなされるのです。処女が身ごもるなど聞いたこともないし、全く考えられないことですが、神にとって不可能なことは一つもありません。神は、私たちには考えられないこともおできになるのです。処女が身ごもることもそうです。何もないところからおことば一つですべてのものを創造された主は、処女の胎にいのちを宿すこともおできになるのです。であれば、永遠で無限の神が時間と空間に制限されている人間になることなんて考えられないことですが、神にとってはできないことではないのです。大切なことは、それをどのように説明するかということではなく、神がそのような方法をとってくださったという事実をそのまま受け入れて信じることです。それが信仰なのです。そのために神が取られた方法が処女降誕だったのです。

 

そんなのおかしいと思う方もいるでしょう。でもこのようなことを私たちも経験しているのではないでしょうか。たとえば、今度の日曜日にさくらチャペルでKさんがバプテスマを受けられますが、人が新しく生まれることはその一つです。新しく生まれるとは心を入れ替えることとは違い、神のいのちである聖霊を受け入れ、神の子どもとして新しく生まれることです。それはどんなにその人が頑張って努力してもできることではありません。それはただ神の聖霊によらなければできないのです。イエスが、、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われたとおりです。それは御霊なる神の働きでしかないのです。それは、神を信じた人が主と同じ姿に変えられていくことも同じです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような神の働きを、私たちも経験しているのです。

であれば、神が、処女マリヤの胎に神の子を宿すことも考えられないことではないのです。ただそれが神の取られた方法であったということであって、私たちはその事実を受け入れなければならないのです。

 

Ⅱ.あなたのおことばどおりに(38)

 

それに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。38節をご覧ください。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

こうした神の救いのご計画が実現した背景には、聖なる神の働きがあっただけでなく、人間の側の信仰による応答がありました。この主の使いのことばに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

彼女は主のことばに対して、まず、自分が主のはしためにすぎないと認め、どうぞ、あなたのおことばどおりになるようにと、すべてを主にゆだねました。「はしため」とは奴隷のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。自分を捨てることができないからこそ、私たちはいつも心の中で葛藤するのではないでしょうか。しかし、彼女は自分が主のはしためにすぎないと言って、しもべに徹しました。ただ主のみこころが成し遂げられることを求め、主にすべてをゆだねたのです。

 

皆さん、どうですか、このマリヤの姿をご覧になってみて・・。このように言うことは彼女にとって大変だったはずです。なぜなら、もし彼女が妊娠したとしたら、ヨセフとの関係はだめになってしまうでしょう。彼女がいくら、「いや、これはね、聖霊が臨んでなされたことなのよ」と言っても、ヨセフには通じなかったでしょう。事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフがそのことを知ったとき、彼は彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。彼は受け入れられなかったのです。しかし、その後で主の使いが夢に現れて、それが聖霊によることであるとわかり、彼女を妻として迎えることができたのです。

 

それはヨセフだけの問題ではありません。律法ではこのような姦淫を行う者を石打にするようにと定められていました。そのことをたとえ近所の人たちに説明しても、とうてい理解してもらえなかったはずです。よって彼女が妊娠したということがわかれば、彼女は人々の面前で死刑にされてもおかしくなかったのです。ですから、マリヤがこのように主のことばを受け入れたというのは、命がけのことだったことがわかります。にもかかわらずマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、主にすべてをゆだねました。どうして彼女はそのように従うことができたのでしょうか。

 

それはみことばへの信仰があったからです。このことから教えられることは、本当の献身とは自分の思いから出たことではなく、神の御言葉への応答としてそれに従うことであるということです。つまり、マリヤは、神の恵みに対してジャストミートしたのです。神から投げかけられた恵みに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とジャストミートしました。聖書にはそう書いてあるけども現実的には難しいとか、私はそう思わないとか、私には私の考えがあるのといって、自分の思いを通そうとするのではなく、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とジャストミートしました。時々私たちは神のみことばよりも自分の思いが強すぎてボールの下をたたいてみたり、上をこすったりすることがあります。ひどい時には空振りすることもあります。しかし、大切なのはジャストミートすることです。神が言われることをそのとおりに受け入れること、それがジャストミートです。そのような人はマリヤのように主の恵みをいただくようになるのです。

 

Ⅲ.主によって語られたことを信じきった人(39-55)

 

最後に、そのように主のことばを信じきった人がどんなに幸いなのかを見て終わりたいと思います。45節をご覧ください。ここに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」とあります。

 

マリヤは、御使いが彼女から去って行くと、山地にあるユダの町へと急いで行きました。そして、ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつをすると、エリサベツは聖霊に満たされて大声で言いました。

「あなたは御名の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

ところで、この時いったいなぜマリヤがエリサベツの所へ行ったのかはわかりません。36節には、「あなたの親類エリサベツ」とあるので、彼女が親類であったことは確かですが、それ以上の理由はわかりません。おそらく、御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。」という言葉を聞いて、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思ったのでしょう。そして、彼女がエリサベツの家へ行くと、さすがエリサベツはマリヤの身に起こったことを理解できただけでなく、彼女が、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げたのです。やはり高齢でありながら主が願いを聞き、こどもを授けてくださった主の奇跡を経験していたので、マリヤの言うことをも受け入れることができたのでしょう。マリヤにとってもどれほど慰められたかわかりません。

 

そして、それを聞いたマリヤの口から、主への賛美が溢れました。46節から55節までをご覧ください。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

「喜びたたえる」とは、大喜びするという意味です。皆さんは大喜びしていますか。神は、自分の心を明け渡し、主のみことばに生きる人に、大きな喜びを与えてくださいます。クリスマス、それはすばらしい喜びの知らせですが、そのすばらしい喜びの知らせは、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人にもたらされるものなのです。

 

マリヤはそのことをこの賛美の中で次のように言っています。54節と55節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に、語られたとおりです。」

 

この言葉はとても意義深いものです。聖書の神は、約束の神です。アブラハムへの約束を忘れないで、アブラハムに語られた約束を果たしてくださいました。神はどれほど多くの約束を私たちに与えておられるでしょうか。その約束は、創世記の始めからたくさん記されてありますが、特にアブラハムからのものが重要です。なぜなら、神はアブラハムを選び、ご自分の民とし、彼の子孫から救い主を送ると約束されたからです。創世記12章1,2節には、次のようにあります。

「あなたは、あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

神はアブラハムから出るものを祝福すると約束されましたが、その約束は、たとえ神の民イスラエルが神から離れ、神のさばきによってバビロンに捕囚になるという状況でも変わりませんでした。エレミヤ書35章5~6節にはこうあります。

「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。」

これはイスラエルがバビロンの捕囚の民として連行された時に告げられました。そしてそのことばのとおり、そのダビデの子孫を通して、救い主を送ってくださったのです。それがイエス・キリストです。

 

何ということでしょう。このような神が他にいるでしょうか。いません。このように語られたことを成し遂げられる真実な神は他にはいません。私たちは不真実でも、神はいつも真実なのです。神は約束されたことを最後まで果たしてくださる。

 

ですから、私たちはこの約束の神を信じなければなりません。神があの堕落したイスラエルでさえ、なお捨てず、回復なさろうとされるのは、神が約束の神だからなのです。

 

しばしば、私たちは自分の思うようにならないといらいらしてみたり、人間関係がちょっとでもこじれたりすると、神から捨てられたのではないかと思ったり、罪を犯した場合や何か失敗したりすると、自分は呪われているのではないかとさえ思いがちですが、神は私たちを最後までお捨てにはならず、その約束を必ず実現してくださるのです。ですから、私たちは、この約束の神を信じなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

このみことばにしっかりと信仰の基礎を置き、主によって語られた約束は必ず実現すると信じきろうではありません。

 

今から二千年前、神の御子イエス・キリストはマリヤのお腹に宿りました。それは人間の理解をはるかに超えた神の御業であり、尊い神の約束によるものでした。その神の御業は、今も私たちのうちに行われます。私たちもマリヤのように神のことばを信仰によって受け入れ、神によって語られたことは必ず実現すると信じきるなら、あなたにも神の恵みが豊かに臨むのです。

ルカの福音書1章5~23節 「あなたの願いは聞かれた」

きょうはアドベント第三週です。もうすぐキリストの降誕を迎えますが、聖書はイエスの誕生の前にもうひとりの人の誕生のことを詳しく記しています。それはバプテスマのヨハネという人の誕生です。ヨハネとは「主は恵み深い」という意味です。きょうはこのヨハネの誕生の経緯を通して、主がいかに恵み深い方なのかをご一緒に見ていきましょう。

 

Ⅰ.神が働かれるとき(5-7)

 

まず、5節から7節までをご覧ください。ルカは、イエスの誕生に先駆けてヨハネの誕生から物語を書き始めています。時代は、ユダヤの王ヘロデの時です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤ全体を支配していた王でしたが、この王はとんでもない王で、ユダヤに別の王が生まれたと聞くと、それが霊的な王であることも知らずに、非常に恐れその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させたほどです。このようにヘロデの時代はイスラエルの歴史において最も悲劇的な時代でした。そのような時代にイエスが生まれたのです。そしてその六か月ほど前に、その先駆者であるヨハネが生まれました。その経緯はこうです。

 

ザカリヤは神に仕える祭司で、「アビヤの組」に所属していました。アビヤの組というのは、その昔ダビデが祭司を組織するためにそれを二十四組に編成したその組の一つで(Ⅰ歴代誌24:10)、祭司たちは、このような組織によってその務めを行っていたのです。

 

一方、妻のエリサベツもアロンの子孫でした。アロンの子孫ということは祭司の子孫ですから、彼らは同じアロンの子孫同志で結婚したことになります。そうすることによって、祭司職の尊厳さを保ち、その純潔さを汚さないようにと考えたのでしょう。

 

ルカは、この二人がどのような者であったのかその人となりを6節で次のように言っています。「ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた。」主のすべての戒めと定めとは神の御言葉のことです。彼らは御言葉をよく学び、御言葉に従って生きていたのです。

 

しかし、そんな二人ではありましたが、彼らにも問題がなかったわけではありません。エリサベツは不妊の女で、ふたりとも年をとっていましたが、子どもがありませんでした。「年をとっていた」の直訳は、「腰が曲がっていた」になります。もう腰は曲がり、髪の毛は白髪になっている状態でした。今でこそ、子どもがいなくてもあまり問題ではありませんが、当時のユダヤ人の社会では大変なことでした。ユダヤでは子どもに恵まれないのはその両親に何か責められるところがあるからだと考えられていたからです。ふたりは神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度無く踏み行っていたのに、普通の人たちに与えられるはずの子どもが与えられていなかったということで、どんなに辛い思いをしていたことかと思います。人に対して、どこか恥ずかしい思いがあったかもしれません。それで子どもが与えられるようにと熱心に神に祈ってきたのでした。

 

他の人以上に、熱心に神を信じ、神に仕えていながら普通の人には与えられている普通の恵みが与えられないことで、辛い思いをしている人は少なくありません。そこにも神のご計画があるとしたら、いったいそれはどんな計画なのでしょうか。しかし、そんなふたりを通して、人類の歴史を二分するイエス・キリストの道を備える神の器、バプテスマのヨハネが誕生したということを思うとき、確かにそこにも深い神のご計画があったことを知ることができます。神様はそのような状況のすべてを支配し、ご自身の栄光のために用いておられたのです。

ヨハネの福音書1章5節には、「光はやみの中に輝いている」とあります。まさに光はやみの中に輝いているのです。やみが暗くなればなれほど光は輝きを増します。私たちの周りがどうであろうと、また、私たち自身にどんなやみがあろうとも、光はそのやみの中で輝いているのです。どうかこのことを忘れないでください。どんなに神に祈っても答えられないような沈黙の時にも、光は輝いているのです。

 

ノートルダム清心女学院の渡辺和子さんは、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書かれましたが、それがどのような場所であっても、置かれた場所で咲くことが大切だと言っています。結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきますが、そんな時でも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。雨風が強い時、日照り続きでどうしても咲けない時には無理に咲こうとしなくてもいいのです。そういう時には、下へ下へと根を降ろし、次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるように備えればいいのです。神のなさることには全く無駄なことはなく、一つ一つのことが覚えられているのです。

 

まさにザカリヤとエリサベツ夫妻は、置かれた所で咲きました。「こんなはずじゃなかった」と思えるような現実の中でも、神を信じ、神の道に歩んだのです。

 

Ⅱ.祈りは聞かれた(8-17)

 

イエスの誕生より六か月先に生まれたヨハネは、イエスの道を備えるという使命をもって生まれてきました。その誕生の経緯はこうです。8節から17節までをご覧ください。

 

ザカリヤは祭司だったので、自分の組が当番に当たると、神殿に入ってその務めをしました。当時は、2万人くらいの祭司がいたので、組ごとに、順番に、神殿で奉仕をすることになっていましたが、それは年に2週間の周期で回ってきました。そして、神殿の奉仕においてだれが、何をするかはくじで決められていました。ザカリヤがくじを引いたところ、彼は神殿に入って香をたくことになりました。これは、とても名誉ある奉仕です。というのは、それは、民に代わって、神に祈りをささげることを象徴していたからです。ですから、ザカリヤが香をたく間、大ぜいの民もみな、外で祈っていました。実に、神の民は祈りの民です。神にささげられる最も大いなる奉仕は、神への祈りなのです。その祈りの中で、神はご自身を表してくださるからです。

 

ザカリヤの場合はどうだったでしょうか。11節をご覧ください。彼が神殿で祈っていたとき、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立ちました。この主の使いとは19節を見ると、「ガブリエル」という名の御使いであったことがわかります。「ガブリエル」とは「メッセンジャーボーイ」という意味で、神からのメッセージを伝える働きをする御使いのことです。この御使いが現われると、ザカリヤにこう言いました。

 

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、多くの人もその誕生を喜びます・・」(13節)

 

この時、いったい彼は何を恐れていたのでしょうか。どんなことで不安を覚えていたのでしょうか。恐らく自分の身に何が起こっているのかを理解することができず不安を覚えていたのでしょう。ザカリヤは神の御前に正しく、また非難されることのない者でしたが、それでも自分に何か落ち度があると思ったのかもしれません。そんなザカリヤに対して御使いはこのように言いました。

「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。」

 

皆さんの中で不安を覚えていらっしゃる方はいらっしゃいますか。恐怖に襲われている方はおられるでしょうか。そういう方はどうぞ安心ください。主があなたの願いを聞かれたのです。ザカリヤの願いとはどのようなものだったでしょうか。それは子どもが与えられることです。彼らは若い時から「子どもを下さい」、「子どもが欲しいです」と祈っていたにもかかわらず、与えられませんでした。1年経っても、2年経っても、何年経ってもエリサベツのお腹に子どもが身ごもることはありませんでした。でも彼らはあきらめずにずっと祈り続けていたのです。祈りは信仰の現われです。彼らは不信仰な世の中に生きていても、祈り続ける祈りの人でした。彼は一生涯一つの祈りの課題のためにずっと祈り続けていたのです。人間は本質的によく忘れるものです。もし、何も忘れないとしたら、過去の不幸な記憶やいやな記憶がいつもよみがえってストレスがたまって死んでしまうでしょう。だから忘れることもいいのです。なかなか名前を思い出せないという方も、心配しないでください。しかし、ザカリヤは一生涯忘れませんでした。彼は自分に子どもを与えてくださいとずっと祈り続けてきたのです。そして、神はその祈りを聞いてくださいました。「枯れた木に花が咲く」ということわざがありますが、この老夫婦が子どもを求めて祈った祈りが聞かれたのです。そして、その子は産まれる前から男の子であるとわかっており、名前もヨハネと決められていました。ヨハネとは、主は恵み深いです。まさに主は恵み深い方なのです。

 

こんなことが本当にあるのか、これは単なる昔話ではないか、と思われても仕方がないような話です。しかし、人には不可能に見えることであっても、神にはどんなことでもできます。神は全能者であられるからです。聖書の神こそ、いのちの源なる方であると信じている人にとっては、この話はそのまま受け取れるわけです。人には無理だ、不可能だと思えことが、現実となっている話は聖書に数多く記されてあります。そして、聖書以外にも、生きた信仰の証として多くのクリスチャンが体験していることでもあるのです。

 

19世紀にイギリスに生きたジョージ・ミュラーは、まだ救われていない人のために何年も祈り続けたと言われています。

1866年のことですが、彼がずっと祈ってきた人の中で6人の人が救われたそうです。そしてその中の一人の方のためには20年以上も祈り続けていました。その祈ってきた6人の人たちが、1866年の最初の六週間のうちに次から次にイエス様を信じて救われたのです。  また他にも、彼はまだ救われていない人のために祈っていました。健康な時でも、病の床に伏している時でも、旅をしている時でも祈り続けました。どんなに説教の依頼が山積みになっている時でも、この祈りを忘れたことは一日もなかったそうです。  すると、この5人のうち、一年半後に最初の人が救われ、次の人が救われたのは何と5年後のことだったそうです。そしてそのことを神に感謝し、さらに残る3人のために祈り続けると、さらに6年後に3人目の人が救われました。彼はそのことを心から神に感謝して賛美しながら、さらに残る2人が救われるために祈り続けましたが、この二人はなかなか霊的に頑固でイエス様を信じる気配がありませんでした。ミューラーが祈り始めてから36年が経っても、二人はまだ救われていませんでした。しかしミュラーは、「祈りの力」という本の中にこう書いているのです。「しかしそれでもなお私は神に望みを置いて祈り続けているのです。」  そして、その本を書いた後、残る2人の内の1人は、ミュラーの死の直前に救われ、最後の1人が救われたのは、何とミュラーの死後のことだったそうです。しかし、このようにして彼が祈った祈りはすべて答えられたのです。だからおそれることはありません。神はあなたの祈りを聞いてくださるからです。

 

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」

(Ⅰヨハネ5:14)

 

神様はあなたの願いも忘れることはありません。何事でも神のみこころにかなった願いをするなら、神は必ずその願いを聞いてくださるということ、それこそ、私たちの神に対する確信なのです。

 

ところで、このヨハネは何のために生まれてくるのかが14節から18節までに記されてあります。

「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるのです。男の子だけでなく、神に用いられるすぐれた器となります。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの子らを、彼の神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子に向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 

自分は何のためにこんな辛い思いをしなければならないのか。自分は何ために生まれてきたのか。そんなことを思ったことはありませんか。何のために、何のためにと、なぜ人はそのように問うのでしょうか。そういう疑問が沸いてくるのは、そこに何らかの理由があるからです。何らかの理由があるからこそ、そういう漠然とした思いが時折起こってくるのだと思います。

そして、ここで考えてみたいことは、このバプテスマのヨハネは何のために生まれてきたのかということです。彼はまだエリサベツのお腹にも宿っていない段階で、その性別のこと、名前のこと、その子はどういう使命をもって生まれてくるのかについて、かなり詳しく知らされていました。

皆さんはどうでしょう。皆さんが生まれることについて、どこまで自分の選択や意志決定があったでしょうか。自分はあの親から生まれよう、この親の方がいいと、いろいろ考えて親を選んで生まれてきた人はいません。どの国で生まれようか、あの国にしようか、この国にしようかと、国籍を自分で選ぶこともできませんでした。男に生まれよう、女に生まれようと、自分で決めた人もいないのです。

自分に関する極めて重要なそれらのことについて、すべては偶然であり、たまたまのことだったのでしょうか。とすれば、この人生にいったいどんな意味があるというのでしょう。この人生に意味や目的があると思っている人たちと、そうではなく、これは偶然のことであって、何の意味もないと思っている人たちとでは、その生き方に大きな違いが出てきます。

ヨハネの誕生から教えられることは、神は、生まれる前からヨハネのことを知っておられただけでなく、何のために生まれてくるのか、その人生の使命や目的についても知っておられたということです。これはすごいことだと思います。あなたや私の場合はどうでしょうか。そこにも神の使命や目的があるはずです。それを知っているなら、あなたの人生もただ何となくではなく、その使命や目的に向かって大きく前進していくのではないでしょうか。

 

ヨハネはイエスの半年ほど前に生まれましたが、彼にはイエスのために道を備えるという使命が与えられていました。そして、その使命を全うして、彼は死んでいきました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」と、彼はその使命を全うして死んでいったのです。彼にとって大切なのは自分ではなく、あの方でした。彼が指し示したお方、イエス・キリストだったのです。ですから、彼は衰えても、彼は殺されても、全く問題ではありませんでした。なぜなら、彼の人生の目的はイエス・キリストだったからです。何と幸いな生き方でしょうか。私たちは時として、自分自身に執着するあまり、自分の思うように物事が進まないと、イライラして人を呪ってみたり、悲観的になったりしがちですが、彼は自分の人生の使命をちゃんと知っていたので、その使命に生きることができたのです。

 

あなたも私も、自分の命やこの人生を自分の力と努力によって手に入れたわけではありません。もし、あなたの人生が誰かから与えられたものであるなら、与えてくださった方の側に何かの目的や計画があるのです。その目的や計画は、ひとりひとり違いますが、それがどのような目的であるにせよ、大切なのはキリストであることを覚え、ヨハネのような人生を全うさせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.その時が来れば実現する(18-23)

 

最後に、18節から23節までをご覧ください。主の宮で祈っていたザカリヤに主の使いが現われると、驚くようなメッセージを告げました。するとザカリヤは何と言ったでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」

 

どういうことでしょうか。ザカリヤは祈りの人でした。彼は神様が歴史の中で主権的に働いておられることを信じていました。しかし、彼は祈りが聞かれた時、あまりにもうれしかったのか、あるいは、よく考えてみたらそんなことが起こるはずがないと人間的になってしまったのか、信じられませんでした。子どもが生まれるのには、自分たち夫婦はもう年を取りすぎていると言っているのです。何ですか、今まで必至にそのために祈ってきたのに、いざ祈りがかなえられると、「うっそお」なんて言うのです。

 

たとえば、初代教会でもそういうことがありました。牢に捕らえられていたペテロのために教会は熱心に祈っていたのに、主の奇跡によって彼がそこから解放され、自分のために祈っていた仲間たちの所に行って戸をたたくと、ロダという女中が出て来て、「あなたはだれですか」と言うので、「ペテロです。」と答えると、「うそっ」なんて言って、戸を開けるのも忘れて、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることを仲間に知らせたのです。そのために祈っていたはずなのに。

 

主が言われることは、普通の常識からすれば、まったく非常識なことでした。主に仕えるザカリヤにとって、神のみことばを信じて受け取ることは、自分の長年身につけてきた知識や人生経験のすべてが否定されると思えるほどのことだったのです。

 

皆さん、信仰とはどういうことでしょうか。神を信じるといっても、そう簡単ではありません。けれども、学歴や家柄、年齢やお金の有る無しに関わらず、子供でも大人でも単純に神の言われることを信じるという、この信仰を持つことはできるのです。

 

ザカリヤは信じなかったので、これらのことが起こるまで、すなわち、ヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。それは、神のことばを信じなかったザカリヤに対する神のさばきでもあります。年老いた夫婦から子どもが生まれることについて私たちは信じられません。しかし、そのことについて神が約束しておられることばは信じなければなりません。それは私たちが主なる神を信じているからです。

 

信仰について学ぶ人には、この違いは重要です。聖書の信仰とは何でも疑わずに信じるということではありません。聖書を通して語られている神のみことばを信じることが求められているのです。神が語られたことばは、時が来れば、必ず実現するのです。

 

その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもっていました。この五ヶ月間の隠遁生活を通して神様は全能の方であるという結論に至り、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」  高齢出産と言っても、エリサベツほどの年で子どもを産んだ人がいるでしょうか。彼女は身ごもって五か月間、身を隠すかのようにしていました。これは本当に人の力ではないことは、ザカリヤとエリサベツ夫婦が一番わかっていたことでしょう。それだけにエリサベツは、主が自分のことを心にかけてくださった、長い年月の恥を取り去ってくださったと言ったのです。ほぼあきらめていた彼女にとって、それはどんなに大きな喜びとなり、慰めとなったことでしょう。

 

主なる神は、あなたのことも覚えておられます。ザカリヤという名前は、「主は覚えておられる」という意味です。何歳になっても、主は彼との約束を覚えておられたように、あなたのことも覚え、気にかけてくださっておられるのです。問題は、それが早いか、遅いかということであって、主のことばは、その時が来れば必ず実現します。やがてザカリヤは御使いが言われたとおり、その名は「ヨハネ」だと板に書き記した瞬間、元のようにしゃべることができましたが、そのとき彼は、「ああ、主はわたしのような者にも目を留めてくださった」と心から感謝することができたことでしょう。あなたにもそのように言える時が必ず訪れるのです。

申命記28章

申命記28章から学びます。まず1節から14節までをご覧ください。モーセは、27章において、イスラエルの12部族のうち6つの部族をイスラエルの民を祝福するためにゲリジム山に立たせて、残る6つの部族をイスラエルの民をのろうためにエバル山に立たせました。そして、どのような者が呪われるのかを述べた後で、ここから逆に、どのような者が祝福されるのかを語っています。

 

 1.あなたは祝福される(1-14

 

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」

 

まず1節から6節までをご覧ください。1節と2節には、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」とあります。ここには、神の祝福を受ける条件が述べられています。それは、「あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、」であり、また、「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので」ということです。主の命令に従うなら、主は、地のすべての国々の上に彼らを高く上げ(1)、彼らがどこにいても(3)祝福されます。それは彼らの子孫ばかりか、地の産物も、家畜も、すべてが祝福されるのです(4-5)。6節の「あなたは、入るときも祝福され、出て行く時も祝福される。」とは、日常の生活のどんな時においてもという意味です。いつも祝福されるのです。

 

次に7節から14節までをご覧ください。

「主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。」

 

引き続き、神の民が享受する祝福が述べられています。7節では、戦争における勝利が、8節では、すべての手のわざが祝福されるとあります。9節と13節では再び祝福の条件として、主の命令を守り、主の道を歩むなら、また、主の命令に聞き従い、それを守り行うなら・・・とあります。このように何度も繰り返して条件が述べられているのは、それがとても重要なことだからです。これを抜きに祝福はありません。しかし、これを守り行うなら、彼らが想像していた以上の祝福が彼らに臨むというのです。10節をご覧ください。あらゆる民族は、イスラエルの民には神の名がつけられているのを見て、恐れるようになるとあります。イスラエルは四国ほどの面積しかない小さな国ですが、世界に及ぼしている影響を考えると、まさしくこの預言が成就していると言えます。そして、イスラエルの民は、豊かな神の祝福の中で、多くの国々に貸すことはあっても、借りる必要がない豊かな民族となると述べられています。あなたもこのような祝福を受けたいと思いませんか。神のみことばに従うなら、あなたにもこのような祝福が臨むのです。

 

2.契約を破った時の呪い(15-48

 

次に、15節から48節までをご覧ください。まず15節から19節までをご覧ください。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。

 

もし、イスラエルが神の御声に聞き従わず、命令とおきてとを守らなければ、神ののろいが彼らに臨みます。その神ののろいとは、ちょうど祝福の時と対照的です。36節と1619節を比べてみてください。ちょうど対照的にのろいが臨むと言われています。

モーセは、神の律法が守られない場合、祝福の六倍も多いのろいの項目を列挙しています。すなわち、神の怒りが不従順なイスラエルの民の上に臨むのです。国家的なことであれ、個人的なことであれ、神の命令に従わなければ神ののろいを招くことになるのです。

 

次に、20節から24節をご覧ください。ここには、神に従わない者に対する多様な神ののろいが挙げられています。

「主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」

 

神ののろいはまず肉体的な病気として現れるということが、21節と22節前半で述べられています。ヨハネの福音書9章で、弟子たちが生まれつき目が見えない人がそのようにして生まれてきたのはだれの罪のせいかとイエスに問うたのは、このような背景があったからです。しかし、幸いなことは、たとえ罪の結果そのような病を受けても、主はそれをご自身の栄光に変えて下さるということを思うとき、たとえ病気になっても主に従うことの大切さを覚えます。そうすれば、罪のゆえに受けた不幸さえも、神の栄光が現される機会として用いられることがわかります。

 

人間の罪はこうした病気ばかりでなく、地の産物にも影響を及ぼします。22節の「水枯れ」と「立枯れ」とは、地の産物に現れる災害としての慣用句です(Ⅰ列王8:37、Ⅱ歴代6::28、アモス4:9、ハガイ2:17)。これらは砂漠から吹き込む熱くて乾いた東風の結果であり、反対に黒穂病とは、高温多湿の熱い気候によって腐る災害です。どちらにしても、地が産物を生産しなくなることを表しています。

 

次に25節から37節までをご覧ください。

「主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。あなたは、目に見ることで気を狂わされる。主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。

 

神の命令を守らない結果、戦争に敗北するのろいを受けます。彼らが神の命令を守った時に与えられた祝福は勝利でしたが、守らない時には正反対の結果がもたらされます。ここで言われている七つの道に逃げ去るとは、完全な敗走を意味しています。また、彼らの死体は葬式を執り行うことも出来ず、空の鳥と地の獣のえじきとなります。これは最も恥ずべき死を意味しています。27節の「エジプトの腫物と、はれもの」とは、エジプトでよく知られていたらい病ではないかと考えられています。28節には、「気を狂わせる」とか、「気を錯乱させる」とありますが、精神的におかしくなることを意味しています。結局のところ、盲人が暗やみで手探りするように、進むべき方向性を見失い、解決策がないまま、彷徨いながら生きることになるのです。

 

30節からは、人間が体験するのろいの項目が列挙されています。婚約した女が取られる。建てた家が住めなくなる。ぶどう畑を作っても、収穫がない。自分の家畜がほふられても、自分は食べることができない。自分で労苦しても、報いどころかマイナスになるというのです。しかも、このようになってもだれも助ける者がなく、自分でもどうすることもできません。常に略奪と圧制が行われるのです。それに加えて足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物で打たれます。あたかも、ヨブが体験した疾病を想起させます(ヨブ2:7)。神ののろいは、「これでもか、これでもか」と、徹底的に臨むのです。

 

36節と37節は、イスラエルの民が離散することの預言です。イスラエル人たちが、異邦人の国に住み、その中で、彼らが恐怖となり、物笑いとなり、なぶりものとなります。これは、文字通り、祖国を失い離散の民となったユダヤ人において、実現しました。ユダヤ人がいるところに、どこにでも反ユダヤ主義がありました。ユダヤ人であるという理由で、憎まれ、あざけりを受け、また脅威に見られました。これは、彼らが神の命令に聞き従わなかったからです。

 

次に38節から44節までをご覧ください。

「畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。」

 

ここでも彼らの罪によって、地がのろいを受けるようになると警告しています。彼らが畑に多くの種を蒔いても、少ししか収穫できず、ぶどう畑を耕しても、ぶどう酒を飲むことも、集めることもできません。いなごが、虫がそれを食べてしまうからです。彼らの領土の至るところにオリーブの木があっても、油を取ることもできません。オリーブの実が落ちてしまうからです。彼らはすべての国々の尾となり、彼らから借りることはあっても、貸すことはありません。

 

45節から48節です。

「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。」

 

これらのすべてののろいが彼らに臨みます。それは彼らを根絶やしにするまで追いかけて行くのです。それは、彼らが、主が命じられた命令とおきてとを守らないからです。しかも、そののろいは、不従順な世代だけでなく、彼らの子孫までも及ぶのです。事実、イスラエルは、苦難と悲惨の歴史として人々に知られるようになりました。

 

.捕囚(49-57

 

次に49節から57節までをご覧ください。

「主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。」

 

49節以下のみことばは、将来、神がイスラエルをさばくために、どのような民族が、どのようにイスラエルを包囲し、どのような方法で破滅し、その時、イスラエルの民がどのような目に遭うかを描写しています。49節の、「遠くの地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。」とは、アッシリヤのことを指しています。ホセア書8章1節に、アッシリヤが「鷲」として喩えられていることからもわかります。事実、北イスラエル王国は、B.C.722年にアッシリアに滅ぼされました。また、南王国ユダもB.C.586年にバビロンによって滅ぼされ、捕囚として連れて行かれました。そして、敵に包囲され、攻撃される時、両親が子供を殺して食べる悲劇が起こると預言されていますが(53,55,57)、歴史的事実となりました。

 

.神ののろいの結論(58-68

 

最後に、58節から68節までを見て終わりたいと思います。

「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。」私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。」

 

ここでは、神ののろいを再び要約し、結論付けています。神ののろいを引き起こす原因は、神の律法を守り行わないことです。神の律法に反することは、栄光の御名を敬わないことと同じです。それは神の御名が、神の本質と品性を現し、真実な契約の神を表しているからです。彼らの不従順は、神が下したエジプトにおけるもっとも恐ろしい病気をもたらします(58-60)。それだけでなく、このみおしえの書に記されていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもたらし、ついには彼らを滅ぼしてしまうのです。この問題の解決は、神のみことばに従うことだけです。

 

62節から最後までをご覧ください。国家として急成長したイスラエルであっても、神ののろいが臨めば、一瞬にして滅んでしまいます。アブラハム、イサク、ヤコブのもとで、空の星のように増え広がった民も少人数しか残されなくなります。その民もすべての国民の中に散らされてしまうことになります。その場所で彼らは、これまで知りもしなかった偶像の神をあがめるようになるのです。約束の地で安息と平安を失い、心配と恐れの中で生きるようになるのです。あなたは祝福の中にいますか、それとも、のろいの中にいるでしょうか。祝福とのろいを分けるたった一つの基準、それは、神のみおしえに従うかどうかなのです。

 

ある本に、天国と地獄の電話番号があるとありました。ちなみに、天国の電話番号は66-3927で、地獄の電話番号は11-1111だそうです。その理由は、天国の電話番号は、旧約と新約の巻数で、地獄の電話番号は、自分が最高であるという意識と、自分だけが一番であるという思いが合わさっているからだと言います。

そうしますと、天国の電話番号よりも地獄の電話番号の方がずっと、簡単で覚えやすく、その座席数もずっと多いことがわかります。天国の座席を予約するには聖書を一生懸命に学び、その教えに聞き従わなければならず、地獄の座席を予約するには自分が最高だと言い続けていれば良いということが癒えます。そうすれば当然、天国の座席を予約するのは難しく、地獄の座席を予約するのはやさしいと言えるのではないかというのです。

 

確かに、神のみことばに従うよりも自分の思いに生きた方がやさしいですが、そこには神の祝福はありません。そこにあるのはただ神ののろいだけです。それはやがて滅びと地獄につながります。私たちが神の祝福を受ける唯一の道、それは神を信じ、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従うことなのです。

申命記27章

 申命記27章から学びます。まず1節から10節までをご覧ください。

 

 1.律法が書き記された石(1-10

 

「ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたがはいるためである。あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。そこに、あなたの神、主のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行ないなさい。」

 

1節には、モーセだけでなくイスラエルの長老たちも一緒になって、民に命じています。このようなことは、申命記においてはここだけに記されてあることです。いったいなぜここで長老たちも一緒になって民に語っているのでしょうか。それは、モーセは約束の地に入って行くことができないからです。その務めは長老たちが担うことになります。そこでモーセに代わる権威として長老たちが立てられたのだと思います。

 

その内容は何でしょうか。イスラエルの民がヨルダン川を渡って約束の地に入って行くとき、ヨルダン川から大きな石を取り、その石に神の戒めを記し、それをエバル山に立てよ、ということでした。その石の上には石灰を塗らなければなりませんでした。石灰を塗ったのは、神の戒めを書き記すためだったのでしょう。

 

エバル山はイスラエルのほぼ真中に位置し、ヨルダン川を渡ってすぐのところにありました。それはシェケムにあります。そこはかつてアブラハムが祭壇を築いた所です。そこで主は彼に、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と告げられました(創世12:7)。そこに石の祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ、それを食べ、主の御前で喜ばなければなりませんでした。その祭壇の石は自然のままの石で築かなければなりませんでした。それは人為的な礼拝ではなく、ただ主の御霊によって行われるものにするためです。それはやがて神の御霊によってキリストが私たちのうちに住まわれて、聖霊によって神のみことばが心に焼き付けられるようになることを示していました。預言者エレミヤはそのことをこう予言していました。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルと結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)イスラエル人たちは、石に刻まれた文字を見て、それを守り行なえと教えましたが、新約において、神の御霊が人々に注がれ、その神の御霊によって神のみことばが心に焼き付けられるようになったのです。とはいえ、神との関係は神が語られたみことばに服従することによって成り立つという点では、同じです。彼らは一方的な神の恵みによって神の民とされました。それゆえに彼らは神の御声を聞き、それに従わなければならなかったのです。

 

2.祝福と呪い(11-14

 

 次に11節から14節までをご覧ください。

「その日、モーセは民に命じて言った。あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。」

 

モーセは、民にヨルダン川を渡らせた後、六つの部族を、民を祝福させるためにゲルジム山に立たせ、他の六つの部族は呪いのためにエバル山に立つように命じました。ゲリジム山に立つ部族は、ヤコブの二人の妻レアとラケルの子たちの子孫であり、エバル山に立つ部族はレアの二人の息子ルベンとゼブルンを含んだ女奴隷ジルパとビルハが生んだ子たちの子孫でした。

 

ここで私たちは、神の契約に関する二つの結果を見ることができます。それは、神のみこころに従った者には祝福が与えられ、従わなかった者には呪いがもたらされるということです。神の契約の民として、あなたはどちらの山に立たされていますか。

 

312種類の呪い(15-26

 

まず呪いです。モーセはまず、レビ人に12種類の呪いを朗読させ、民にアーメンと言って、応答するようにさせました。

「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。」

 

これらの呪いにはどんな人々が呪われ、なぜ呪われるのかが明らかにされていきます。最初の呪いはイスラエルと神との関係を扱っています。この呪いは偶像を造って、ひそかに安置する者は呪われると言っています。たとえ、他の人たちは気付かなくても、神はすべてをご存知であられるので、そのようにする者を呪われるのです。次は自分の父母を侮辱したり、大切にしない者たちに臨む呪いです。三番目の呪いは、土地の分配に関することです。各自に割り当てられた土地は、尊重しなければなりません。四番目と五番目の呪いは、不具者や不遇な人たちに対して不親切であったり、権利を搾取する者たちに臨む呪いです。神は公義が実現することを望んでおられるからです。(出22:21-24,23:9,レビ19:33-34,申命10:17-19,24:17

 

20節から23節までは、性的な堕落に対する呪いです。父の妻とは継母のことです。継母と性的関係を持つことは、自分の父の恥をさらすことであり、父の結婚関係を破壊する行為です。獣と寝ることも禁じられています。これはカナンの地で、こうした行為が行われていたことを示しています。また、自分の姉妹と練ることや、義母と寝ることも禁じられています。このようなことをする者にも神の呪いが臨むのです。

 

24節からには人を殺す者たちに臨む呪いが書かれてあります。ひそかに隣人を打ち殺す者、殺人を請け負って、罪のない者を殺す者にも神の呪いが臨みます。最後に12番目の呪いは、これまで語られて来たことがまとめられています。すなわち、これまで語られてきたことは、その実例としてのいくつかのことでしかありません。私たちは、神の律法のすべてを守らなければなりません。しかし、イエス・キリスト以外に、完全に守ることができる者はいません。ということは、私たちはみな、神の呪いの下にある存在だと言えます。パウロは、「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(ガラテヤ3:10」と言いました。キリストが律法ののろいを受けてくださったことによって、私たちは信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐ者となったと、言っているのです。したがって、私たちは、律法の行ないではなく、キリストが行なってくださった十字架のみわざによって神の呪いから解放していただくことができるのです。キリストが私たちのために行なってくださったことを信仰によって受け入れることによって、神の御霊が私たちのうちに働くのです。ですから、律法を行なうのではなく、律法の要求を完全に成し遂げられたイエス・キリストを信じ、御霊によって生きることが求められるのです。

ヘブル人への手紙手紙13章17~25節 「完全な者にしてくださるように」

ずっとヘブル人への手紙を学んできましたが、きょうはその最後の箇所です。パウロの手紙でもそうですが、この手紙でもその最後は祈りによって結ばれています。きょうは、その祈りからご一緒に学びたいと思います。

 

Ⅰ.もっと祈ってください(17-19)

 

まず、17節から19節までをご覧ください。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。」

 

この手紙の著者は、最後のところに来て、教会の指導者と信徒の関係について教えています。そしてその関係というのは、「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。」ということです。また、「この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることがないようにしなさい。」ということです。どうしてここに来て、指導者と信徒の関係について語っているのでしょうか。それは7節でも言われていたことですが、異なった教えに迷わされないように、神のことばにしっかりと立続けるためです。そのためには、神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い起こし、彼らの言うことを聞くことが必要です。そのことをここでは、この人たちは神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです、と言われています。どのようにして見張りをしているのかというと、神のことばによってです。だから、神のことばをもって指導している指導者たちの言うことに従うことが必要であって、それは、自分自身の益のためにもなることなのです。

 

けれども、ここでこの手紙の著者が指導者に服従するようにと言っている最も大きな理由は、その後の18節にあるように、指導者のためにも祈ってほしいということを伝えたかったからです。ここには指導者と信徒との関係は単に指導する者とされる者という関係以上のものであることが示されています。つまり、指導者と信徒の関係は祈りの関係であるということです。手紙の著者は18節で、「私たちのために祈ってください。」と懇願しています。また、19節には、「もっと祈ってくださるよう特にお願いします。」とあります。ここでは教会の指導者たちが信徒のために祈るというのではなく、むしろ教会の信徒が指導者たちのために祈ってほしいと言っているのです。もちろん、牧師は神の祭司として信徒のためにとりなして祈る務めが与えられていますが、その祈りは一方通行ではなく互いになされるものなのです。牧師が信徒のために祈るというだけでなく、信徒もまた牧師のために祈るという相互の祈りが求められているのです。そのようにしてこそ牧師と信徒の信頼関係が構築され、深められて、キリストのからだである教会が、キリストの御丈にまで達することができるのです。

 

尾山令仁先生は、ヘブル書の注解書の中でそのことについて次のように言っておられます。

「この祈り祈られる関係が成り立つ時、牧師と信徒の関係はすばらしい愛と信頼の関係になります。牧師が霊的権威を振りかざしたり、信徒が牧師に対して不平、不満やつぶやきを口にするのでは、教会は決して健康な状態とは言えません。牧師も、いくら教えてもその通りにしない信徒がいると、心の中に不満がたまってくるでしょう。それをためておかないで、祈りの中で神にそのことを申し上げるのです。一方、信徒は信徒で、牧師に対して不平や不満を持っているかもしれません。そんな時、それを祈りの中で申し上げるのです。お互いに不平、不満を相手にぶつけるのではなく、祈りの中で相手の欠けを神が補ってくださるように願うなら、神がそうした問題を解決してくださいます。」

 

祈りの中で神に相手の欠けを補ってくださるように願うというのはすばらしいですね。というのは、その問題を真に解決できるのは神しかいないからです。真の解決とは祈りの中でその人自身が変えられることだからです。イエス様は、「教会は、祈りの家でなければならない。」と言われました。なぜなら、教会は祈りの中から生まれたからです。皆さん、教会はどのようにして誕生したのでしょうか。ペンテコステというユダヤ教のお祭りの時、キリストの最初の弟子たちがたぶんマルコの母マリヤの家に集まり、心を合わせ、祈りに専念していたとき、突然、天から、激しい風が吹いてくるように聖霊が降ることによって誕生したのです。その日、三千人ほどが彼らの仲間に加えられました。ですから、教会は祈りの家でなければならないのです。教会が祈らなかったら教会ではなくなってしまいます。教会は祈りを通して神にすべてをゆだね、神が働いてくださることによって、すべての問題が解決されていくところなのです。

 

この手紙の著者はここで、「私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。」と言っています。なぜ指導者のために祈らなければならないのでしょうか。それは指導者が正しい良心、純粋な良心を持って、何事についても正しく行動しようと願っているからです。教会の指導者がそのように生きているのなら、そのような指導者の言うことに従い、彼らのために祈るというのは、むしろ望むところではないでしょうか。

 

皆さんも、私のために祈っていてくださると思いますが、ぜひ祈ってください。ある人は、牧師のために祈るということはそれだけ牧師が無能であるということを意味するのではないか、牧師のために祈るということが、その牧師をかえってはずかしめることになるのではないかという人もいますが、そうではありません。確かに牧師にとって自分から、「祈ってください」と言えば、自分の弱さや無能さを露呈するかのようでなかなか言いにくいこともありますが、本当にへりくだった人とは、「私には祈りが必要です。どうか、私のために祈ってください。」と言える人なのです。

 

たとえば、パウロはローマ15章30節で次のように言っています。「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。」この「力を尽くして」ということばは、スポーツ選手がベストを尽くす時に使われることばです。それはかなりのハードワーク、重労働です。そのような力を尽くして祈ってほしいと言ったのです。偉大な人であっても祈りを必要としています。パウロは自分の知恵や力によって神の働きをすることはできないということをよく自覚していました。パウロが他の人たちよりも多く働くことができたのは、彼がそのような器として神に選ばれていたことは確かですが、と同時に、他の人たちよりも多く祈られていたからでもあるのです。偉大な牧師は、偉大な信徒によって作られると言っても過言ではありません。

 

19世紀に、イギリスに当時世界で一番大きな教会がありました。それはメトロポタンタバナクルという教会で、チャールズ・ハットン・スポルジョンという牧師が牧会していました。その教会には6,000人収容できる会堂がありましたが、当時、ロンドンのすべての教会の座席数を足しても15,000席であったということを考えても、この教会がいかに大きな教会であったかがわかるかと思います。

この教会には世界中から多くの人々が視察にやって来ていましたが、ある視察団が礼拝を終えてホールに出ると、そこにオーバーオールを着た男性がいたので、その人はきっとこの教会の用務員さんに違いないと思って、これだけ大きい教会をどのようにして温めているのかを聞きました。

「これだけ大けれども、いったいどのような発電システムなのかを見せてもらえませんか。」

するとその人は、「わかりました。それでは今、あなたたちをそこに案内します」と言って、彼らを地下室に連れて行きました。そして、彼らに、「ここがこの教会の発電システムです。」と言いました。そこには四百人もの男性がひざまずいて祈っていました。午前中の礼拝が終わり、夜の礼拝を迎えるにあたり、四百人もの男性がそのためにひざまずいて祈っていたのです。それがこのメトロポリタンタバナクルの成長の秘訣でした。スポルジョンの教会が世界最大の教会になったのは、彼が偉大であったからではなく、また彼の説教のせいでもありませんでした。それはこうした祈りがあったからなのです。

 

このヘブル人の手紙の著者も、「私たちのために祈ってください。」と言いました。いや、「もっと祈ってください。」とお願いしました。これはどういうことでしょうか。私たちは時々「祈ってください」とか、「祈っています」というのが口癖になっていることがあります。どこか社交辞令になりさがっていることがあります。そうした常套句としての祈りの要請ではなく、本気で祈ってほしいと懇願しているのです。これが祈りに生きている人の姿です。私たちも互いのために本気で祈り合うべきです。もっと祈ってくださるようお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。祈り祈られる関係、それこそ神が私たちの教会に望んでおられることなのです。

 

Ⅱ.完全な者としてくださるように(20-21)

 

次に20節と21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

今度は、この手紙の読者たち、信徒たちのための祈りです。ここで著者は、平和の神がイエス・キリストによって、みこころにかなうことを彼らのうちにしてくださるように、また、彼らがみこころにかなったことを行うことができるように、あらゆる良いものを備えて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っています。そして、この平和の神がどのような神なのかというと、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された方」です。

 

まずこの「永遠の契約の血による羊の大牧者」ということから見ていきましょう。これは父なる神のことであり、また、私たちの主イエス・キリストのことです。イエスは偉大な大牧者です。牧者というのは羊飼いのことですから、イエスは偉大な羊飼いであられるということです。イエスはこのように言われました。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)

イエスは私たちのためにご自身のいのちを捨ててくださいました。それは、羊である私たちがこの方にあって永遠のいのちを持つためです。まことにイエスは私たちの永遠の大牧者であられるのです。心配事で不安にさいなまれる時、主は共にいて助けてくださいます。人生に疲れ果てもう立ち上がれないと思う時、主は励ましを与えてくださいます。病気で苦しむ時には、いやしを与え、死の陰の谷を歩くような時には、あなたの前を歩いてくださいます。だから私たちは何も恐れることはありません。この方が永遠にあなたの大牧者であられるからです。

 

しかも、それは今だけのことではなく、今も、これから後もずっと、永遠にです。イエスがあなたの羊飼いでなくなることはありません。なぜなら、この方は永遠の契約の血によって、あなたを贖ってくださったからです。これはどういうことかというと、イエスが十字架の上であなたのために血を流してくださったということです。血を流すことがなければ、罪の赦しはないからです。イエスが流された血は、私たちの罪を贖う永遠の神の契約のあかしでした。まさにイエス様は良い羊飼いとなって、あなたのためにいのちを捨ててくださったのです。あなたはそれほどまでに愛されているのです。であれば、この方があなたを見捨てたり、見離したりすることがあるでしょうか。ありません。13章5節を見てください。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」とあります。イエス様は決してあなたを見捨てたりはしないのです。イエス様はあなたの永遠の大牧者なのです。

 

そのイエスを死者の中からよみがえらせた神は「平和の神」です。この時この手紙を受け取ったヘブル人クリスチャンたちは迫害の苦しみの中にありました。彼らは同胞ユダヤ人からも、ローマ帝国からも激しい迫害を受けていました。彼らは目の上のたんこぶで、邪魔者扱いされていました。家を失い、財産を失い、仕事を失い、家族を失うという苦しみの中で、相当辛い思いをしていたのです。しかし、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。この神は主イエスを死からよみがえらせてくださった神です。この神はどんな迫害の苦しみの中にあってもあなたを助け、あなたを守り、あなたに平安を与えて、その苦しみを乗り越えさせてくださる。この平和の神が、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださったように、どんな状況からもあなたを救ってくださるのです。このことは、迫害で苦しんでいた彼らにとって何よりも大きな励ましだったに違いありません。その平和の神が彼らのうちに働いて、彼らを完全な者にしてくださるようにと祈っているのです。これがこの祝福の祈りのハイライトです。

 

では、完全な者になるとはどういうことでしょうか。これは何の欠点もない完全無欠な聖人君子になるようにということではありません。この「完全な者にする」というギリシャ語の言葉(ギリシャ語はカタルキゾウ)には、物事を適切な状態にするという意味があります。たとえば、この言葉はマタイの福音書4章21節にも使われています。

「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。」この「網を繕う」の「繕う」が「カタルキゾウ」です。すなわち、穴が開いた網を繕って正常なすることという意味なのです。

 

また、ガラテヤ6章1節には、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とありますが、この「正してあげる」が「カルキゾウ」です。すなわち、間違った状態を正してあげることを言うのです。

 

また、Ⅰテサロニケ3章10節には、「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」とありますが、この「補いたい」という言葉が「カタルキゾウ」です。不足しているものを補給するとか、補うという意味です。

 

そして、Ⅰコリント1章10節には、「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」とありますが、この「完全に保つ」が「カタルキゾウ」です。本来であれば、クリスチャンは一致していなければなりませんが、そうでないことがあるわけです。そういう状態を修復し、同じ心、同じ判断を完全に保つことができるようにすることを示しているのです。

 

このように、完全な者とするとは物事を適切な状態にすることです。間違ったところが正され、足りないところは補われ、破れたところが修復されて、神が望まれる状態に整えられることを言うのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちも魚の網が破れるように人生に敗れを生じているのではないでしょうか。羊のように目先のことに捕らわれて、道に迷ってはいるのではないでしょうか。霊的、精神的に、また肉体的、物質的に不足を感じているのではないでしょうか。人間関係においても壊れかけているのではないでしょうか。夫婦の間で、親子の間で、職場においても、友人との関係においても、壊れかけていませんか。壊れかけたラジオのように、壊れかけているのです。イエスはそうした壊れかけたものを修復し、正常な状態に回復してくださいます。足りないところを補って満たしてくださいます。なぜなら、イエスは十字架で敵意を廃棄されたからです。(エペソ2:16)キリストの十字架の血によって、こうした破れた人生が正常な状態になるようにと祈っているのです。

 

このように、平和の神はイエス・キリストによって物質的にも、肉体的にも、霊的、精神的にも、関係においても、社会的にも、ありとあらゆる面であなたの必要を満たしてくださり、あなたを完全な者としてくださるのです。このようなものはセミナーに行けば満たされるというようなものではありません。何らかの勉強会やワークショップに行けば解決するというようなものでもありません。これらのものはすべてイエスの血によって満たされるのです。このイエス・キリストの血によって、平和の神ご自身が、あなたがたが神のみこころを行うために、すべてのことについて、あなたがたを完全な者としてくださるのです。

 

このような神がいったいどこにいるでしょうか。私たちが今まで理解していた神は、自分の欲望を満たすために利用していたにすぎない神であって、自分が作った偶像にすぎませんでした。しかし、そのようなものが果たして本当に私たちを救うことができるでしょうか。できません。私たちを救うことができるのは、私たちのために十字架で死なれ、三日目によみがえって、私たちを罪の中から救い出してくださった救い主イエス・キリスト、平和の君です。この方があなたのすべての必要を満たし、あなたを完全な者にしてくださるのです。であれば、私たちはこの神を信じ、この神にすべてをゆだねなければなりません。あなたがたを完全な者としてくださいますようにという祈りの中に、あなた自身を置かなければならないのです。

 

Ⅲ.恵みがありますように(22-25)

 

最後に22節から25節までをご覧ください。22節には、「兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。」とあります。「このような勧めのことば」とは、この手紙のことを指しています。著者は、ただ手短に書いたと言っていますが、手短に書いたにしてはかなり長いてがみです。ですから、ここでこの勧めのことばを「受けてください」と言っているのです。この「受けてください」という言葉は、下の欄外にもありますが「こらえてください」という意味のギリシャ語です。この勧めのことばをこらえて聞いてほしい、忍耐して聞いてほしい、というのです。

 

ということは、当時のクリスチャンたちの中にも今日の私たちと同様、忍耐に欠けている人たちが少なからずいたということです。そうでなければ、わざわざこんなことは言わなかったでしょう。ちょっと安心しますね。いつの時代でも忍耐することは簡単なことではありませんが、大切な真理を身に着けるにはこらえることが、忍耐が必要であることがわかります。

 

23節には、「兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。」とあります。テモテはパウロの第二次伝道旅行の時、ルステラでパウロに出会い、それ以後、パウロの手元において訓練した結果、すばらしい働き人として成長していました。パウロが獄中から手紙を書いた時、そのテモテもパウロと一緒に獄中にいたようで、その彼が釈放されたことを伝えています。このことから多くの学者は、この手紙はパウロによって書かれたのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。しかし、このことから言えることは、テモテがこの手紙の著者と親しい関係であったということです。クリスチャン同士、喜びも悲しみも共に共有できることは大きな特権であると言えます。

 

24節と25節には、あいさつと心からの祝禱をもって終わります。「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

恵みは、このヘブル人の手紙における強調点の一つでした。なぜなら、彼らがキリストから離れてかつてのユダヤ教に戻って行ったのは、この恵みを忘れていたからです。だから最後に恵みをもう一度強調しているのです。

 

それは私たちも同じで、恵みを忘れてしまうと信仰のバランスを崩してしまうことになります。というのは、恵みを忘れると行いに走ってしまうからです。行いに走っていけば律法主義に陥ってしまいます。律法主義に陥ると人をさばくようになります。自分と同じようにしていない人に対して苦々しい思いを抱くようになるのです。自分はクリスチャンとしてクリチャンとしてちゃんと生きているのに、どうしてあの人はしないのだろうと人をさばくようになるのです。恵みを忘れているからです。恵みとは受けるに値しない者が受けることです。神の恵みを受けるにはふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが恵みです。それはあなたが立派な人だから、何か特別なことができるから、ちゃんとまじめに生きているからではなく、そうでないにもかかわらず、神はあなたを愛してくださいました。これまでずっと自分が捕われていたことから解放していただいた、であれば、もう人はどうでもいいのです。自分もどうでもいいのです。大切なのは、神があなたのことをどのように思っておられるかということです。そうすれば、すべてのものから解放されます。そして、どんな問題も乗り越えることができるのです。

 

先日、アンビリーバボーという番組で、ある男に暴行されたジェニファーという一人の女性が、犯人はロナルドであると証言したことで、彼は裁判で終身刑プラス50年の刑が言い渡され、無実の罪でノースカロライナの刑務所に収監されました。しかし、事件から11年後の1995年、O・J・シンプソンの事件の裁判で、当時最先端だったDNA鑑定が事件の解明に用いられた事を知り、最後の賭けとしてDNA鑑定を依頼した結果、彼は無罪であることが判明したのです。実は、彼にそっくりの男が真犯人だったのですが、彼女は間違って彼が犯人だと思っていたのです。自分の勘違いから事件と関係のない男性を11年間も服役させてしまった彼女は自責の念にかられ、また、いつ復讐されるかと思うと生きた心地がしませんでした。そして、ロナルドが釈放されてから1年後の1996年に、目撃者が何故過ちを犯してしまうのかを検証するドキュメンタリー番組への出演依頼がきっかけとなって、彼女は彼と会って謝罪し、自分の気持ちを正直にロナルドに話さなければならないと思い、そのように決意しました。大学の敷地内に置かれた礼拝堂で会った時、ジェニファーは自分の勘違いとは言え、とりかえしのつかないことをしてしまったことを詫びると、彼は、「私はあなたを赦します」と宣言したのです。その時彼女は、「長い間壊れていた心や魂がまるで氷が解けるように癒やされていくのを感じました。体の中で壊れた部分がもう一度もとに戻ろうとしている感じでした。」と言いました。会ってから2時間彼らは話しては泣き、話しては泣きを繰り返しました。お互いがどのような時間を過ごしていたか知りたがっていたしあの最悪の11年間は一体何だったのか?という思いを共有することができたのです。ロナルドはこのように言っています。「人間は間違いを犯します。完璧な人間なんてこの地球には存在しません。怒りを持ち続けるより許したいと思いました。許せば解放されるけど怒りを持ち続ければどこに行ってもそれを握りしめて苦しむ事になります。怒りを手放せば楽になれます。楽観的に考え始めれば前向きに良い人生が送れます。僕はハッピーで自由な人生を送りたいんです」ジェニファーは、とりかえしのつかないことをして、とても許される者ではなかったのに許されました。それが恵みです。その恵みは彼らの後の人生にどれほどの喜びと解放をもたらしたことでしょう。

 

同じように神は、許されるには値しない私たちにイエス・キリストを与えてくださいました。私たちが救われたのはただ神の恵みによるのです。この恵みがあれば、どんな迫害があっても、どんな問題が起ころうとも、必ず乗り越えることができます。すべては恵みです。私たちはこの恵みの中でしか生きることはできませんし、この恵みの中でしか成長することができません。ですから、この恵みを強調しすぎるということはありません。すべてを忘れてもこの恵みだけは忘れないでください。この恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。神の恵みのうちにこのヘブル人への手紙を終えることができることを感謝したいと思います。

ヘブル人への手紙13章7~16節 「賛美のいけにえをささげよう」

イエス様を救い主として信じ、救いの喜びに与った人の最大のしるしは何でしょうか。それは生き方が変わるということです。そういう人は、自分の思いや考えではなく神のみこころに歩むことを求め、苦難の中にあっても最後まで忍耐して、天の御国を目指して最後まで信仰のレースを走り抜きます。たとえこの世に心が奪われることがあっても、イエス・キリストにしっかりととどまります。そして、兄弟愛をもって互いに愛し合い、旅人をもてなし、牢につながれている人や苦しめられている人たちを思いやるのです。また、金銭を愛する生活ではなく、いま持っているもので満足します。つまり、イエス・キリストの愛に生きるのです。その愛を軸にした生き方がきょうの箇所でも勧められています。それは神に喜ばれるいけにえをささげるという生き方です。

 

Ⅰ.恵みによって心を強める(7-9)

 

まず、7節から9節までご覧ください。ここには、「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼の生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。さまざまの異なった教えによって惑わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。」とあります。

 

この手紙の著者は6節で、「主が私の助け手です。私は恐れません。人間は私に対して何ができましょう。」と言って、いよいよこの手紙を終えようとした時ふと思い出したかのように、ここで一つのことを書き加えています。それは教会の指導者たちのことです。神のみことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その生活の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧めました。いったいなぜここで教会の指導者たちのことを取り上げたのでしょうか。おそらく彼らが信仰に堅く立ち続けるためにどうしても必要であることを述べたかったからでしょう。それは神のみことばです。教会が教会であるために最も重要なことは神のみことばを正しく教え、宣べ伝えることです。みことばが正しく教えられなければ、信仰に堅く立ち続けることはできません。ですから神のことばを彼らに話した指導者たちのことを思い出し、その信仰の結末をよく見て、その信仰にならうようにと勧められているのです。

 

しかし、どんなにすぐれた指導者でもやがては過ぎ去ります。確かに、彼らの姿は記憶され書き留められることによって後代の人々に影響を及ぼすことができますが、いつまでも生きていて指導することはできません。ですから、そのように指導者たちの教えを思い出し、彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいながらも、最終的にはいつまでも変わることがない方に目を留めなければなりません。それはイエス・キリストご自身です。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。この方が、私たちの本当の指導者であられるということは、何と幸いなことでしょうか。人はどんなに立派な指導者であっても、やがて死にこの世から去って行かなければなりませんが、私たちの主イエス・キリストは永遠に生きておられ、いつまでも変わることなく、私たちを助け、慰め、励まし、力づけてくださいます。この方がいつも私たちのすぐそばにいてくださるということが分かれば、何も恐れることはありません。だれがいなくてもこの方がともにいてくださるなら、千人力、万人力だからです。

 

ですから、9節にあるように、「さまざまな異なった教えによって惑わされてはなりません。」ここで言われているさまざまな異なった教えとはどのような教えのことでしょうか。この後に「食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。」とあることから、それは旧約聖書で教えられている食物や飲み物についての教えのことです。この手紙が書かれたころ初代教会では、禁欲を重んじるユダヤ教の一派であるエッセネ派の影響が強かったらしく、ある種の食べ物や飲み物を禁じる異端の教えがはびこっていたようです。それは、コロサイの教会にも入ろうとしていたようで、パウロはコロサイの教会への手紙の中で、「そういうわけで、食べ物や飲み物、あるいは、祭りや新月や安息日を、何か救いに必要なものと考えてはならない。」(コロサイ2:16)と言及しています。こうした異端的な教えは、このような律法を守っていないと救われないと教えていました。すなわち、信仰だけではだめで、信仰にプラスして何らかの行いが必要だと教えていたのです。こうした教えがこのヘブル人クリスチャンたちの間にも忍び込んでいました。

 

しかし、私たちが救われるために必要なすべての御業は完了しました。十字架によって。イエス様は、十字架の上で「完了した」と言われました。ですから、私たちはそのイエスの御業に感謝して、イエスを信じるだけでいいのです。どちらかというと日本人は「ただほど怖いものはない」とただで受けることに抵抗があり、何らかのお返しをしなければならないと思いがちですが、聖書で言っている救いとはそうしたことを一切必要とせず、ただ感謝して受け取るだけでいいのです。だから、「恵み」と言われているのです。それは神からの一方的な神からの賜物なのです。だからその恵みにいつも心を留めていなければなりません。そうでないと、振り回されてしまうことになります。この「迷わされてはなりません」の「迷わされる」という言葉は、「振り回される」とか、「吹き回される」という意味です。英語では「Driven」という言葉が使われています。流れに運ばれるとか、動かされるという意味になります。この言葉は、エペソ人への手紙4章14節にも使われていて、そこでは「吹き回される」と訳されています。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪だくみや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく・・」それはまさに風に吹き回されたような状態のことを言うのです。風はこっちから吹いていたかと思ったら次の瞬間にはあっちの方から吹いてきます。ある時は強く吹いているかと思ったら、次の瞬間はパタッと止んだりします。つまり一定ではないのです。いつもコロコロしていて安定していません。どこに吹き飛ばされてしまうかわからないのです。神の恵みにとどまっていないと、そのように吹き飛ばされてします。

 

ですから、恵みによって心を強めるのは良いことなのです。多くの人は恵みではなく、自分の行いによって心を強めようとします。一生懸命に伝道したり、熱心に奉仕をしたり、たくさん献金すれば心が強くなり、信仰が安定するだろうと考えているのです。伝道したり、奉仕したり、献金すること自体はすばらしいことですが、そうしなければ救われないとなると大変なことになります。そうしなければ救われないとか、そうすることによって心が強くなると思ってするのは間違っています。そうではなく、私たちは神に恵みによって救っていただいたので、その喜びから溢れてするのです。イエス様が十字架で完了してくださった救いの御業に信頼しその恵みの中に身を置くなら、あなたの心は強められるのです。

 

皆さんはどうでしょうか。ちょっとしたことですぐに不安になるのです、いつも心が揺れ動いて落ち着かないのです、という方はおられますか。そのような方は、どうぞイエス様のもとに来てください。イエス様はあなたのために十字架で死んでくださいました。あなたの救いのために必要なすべての代価を支払ってくださいました。ですから、もしあなたがイエスのもとに行くなら、あなたは何も悩む必要はないのです。あなたはそれを感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、あなたは救われるからです。イエス様の恵みの中にあなた自身を置いてください。そうすれば、恵みによって心を強めていただくことができます。どんなことがあってもびくともしない深い平安を得ることができるのです。

 

皆さんはニック・ブイチチという方をご存知ですか。この方は生まれながら両手両脚がない障害を持って生まれました。彼は自分の状況に絶望し、8歳のころから三度も自殺を試みましたが、信仰深いクリスチャンである両親の全面的な支援と愛を受けて立派に育ちました。その彼がロサンゼルスでの講演を終えたあと、ひとりの女性が赤ちゃんを抱いて彼のもとにやって来ました。驚いたことに、その赤ちゃんはニックと同じように両手両脚がありませんでした。その母親は、子供の障害を何とか直そうと、多くの病院を巡り、神様に奇跡を現してくださるようにと祈りましたが、そのようなことは起こりませんでした。しかし、ニック・ブイチチの講演を聞いたその母親はこう言いました。

「神様は、きょうになって、ようやく奇跡を現してくださいました。私は今まで、子ともの手足が伸びて、完全な肉体を持った正常な人になれるように祈ってきましたが、きょうあなたを見て、手足がなくても幸せになれるということを知りました。そして、それこそが奇跡だということも。」

時には、苦しみを受けることが神のみこころであることがあります。その苦しみの中で神様に信頼し、あきらめないで歩んでいくとき、苦しみを許された神の意図を見いだすことができるのです。ですから、どんな苦しみの中にあってもキリストのもとに来て、キリストにすべてをゆだねるなら、キリストの恵みによってそのような苦しみの中にあっても心を強められ、びくともしない確かな人生を歩むことができるのです。

 

Ⅱ.宿営の外に出て(10-14)

 

第二のことは、宿営の外に出ようということです。10節から14節までをご覧ください。「私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちは、この祭壇から食べる権利がありません。動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」どういうことでしょうか。

 

こここには旧約聖書における罪が贖われるための儀式とキリストの十字架の贖いの御業を比較して、宿営の外に出ることが勧められています。旧約聖書では、年に一度、民が犯したすべての罪が赦されるために、大祭司が雄牛と山羊を殺して、その血を取って、天幕の中に携えて行きました。天幕の中の一番奥のある至聖所と呼ばれる所に入って行き、そこに置かれた契約の箱の上にその血を振りかけたのです。血を取られた動物のからだはどうされたかというと、幕屋の門の外へ持って行き、そこで焼かれました。その体は汚れていたからです。それらの動物はイスラエルの罪を身代わりに負ったので、汚れているとされたのです。汚れたものは宿営の中に置くことができなかったので、宿営の外、幕屋の外へ持って行かれたのです。

 

ところで、ここには、「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」とあります。これはどういうことかと言うと、イエス様もあの殺されたいけにえの動物と同じように、エルサレムの町の郊外にあった十字架で死なれたという意味です。それはゴルゴタと呼ばれていた場所でした。なぜなら、イエスはあのいけにえの動物と同じように、人々の罪を身代わりに負われたからです。もともとイエスは神の子として全く罪のないお方でしたが、私たちの罪のために汚れた者となって死んでくださったのです。ということはどういうことかというと、神の恵みは宿営の中にあるのではなく、宿営の外にあるということです。神殿の中の祭壇や儀式にあるのではなく、十字架で成し遂げられた救いの御業の中にあるということなのです。であれば、そうした神殿の中にとどまっているのではなく、そこから出て、キリストのみもとに出て行かなければなりません。

 

何度も申し上げているように、この手紙は迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに宛てて書かれました。彼らは、かつてのユダヤ教から回心しイエス・キリストを救い主として受け入れましたが、そこには多くの苦難がありました。それまでのユダヤ人のコミュニティから追い出されるというだけでなく、時にはいのちを狙われることもありました。そうした中にあって彼らは、こんなことならクリスチャンとしてあまり目立った行動をせずに、神殿を中心としたかつてのユダヤ教の儀式にとどまっていた方が安全ではないかと考えていたのです。しかし、そこには救いはありません。イエス様はそのようなユダヤ教の伝統やしきたりから彼らを解放するために十字架にかかってくださいました。ですから、そんな彼らに求められていたことは思い切って宿営の外に出て、神のみもとに出て行くことだったのです。勿論、宿営から外に出るということは簡単なことではありません。元来、町というのは、外敵から守るために城壁がめぐらされていました。ですから、その城壁の内側にいれば安全です。そこから出るということは危険であることを意味していました。そこには罪を犯した人や汚れた人が住んでいました。普通の人が住めるような場所ではなかったのです。しかしキリストはそのような所から出て、罪人として死なれました。であれば、キリストの弟子である私たちも、そこから出て行かなければなりません。

 

「今の所から出る」ことは、確かに一つの大きな決断がいるでしょう。生まれながらの人間はいつも安定を求めますから、これまでの生活から出ようとしないのです。しかし、そこには救いはありません。救いは宿営の外に出たイエスの中にあるのですから。イエスはこう言われました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その門は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13-14)

いのちに至る門は小さく、その門は狭いのです。それを見い出す者はまれですが、そこにいのちがあるのです。迫害や苦しみはあるかもしれませんが、それを覚悟でその安住の場所から出て、主とともに生きる道を選ぶなら、あなたもいのちに至るのです。いや、そのような苦難の中にあっても、その中に主がともにいてくださり、それを乗り越えることができるように助けと力を与えてくだいます。

 

あなたにとっての恐れは何ですか。あなたにとっての十字架は何でしょうか。どうぞ恐れないで、あなたの十字架を負って、イエスのもとに出て行ってください。そうすれば、あなたも必ずいのちを得ることができますから。

 

14節には、「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」とあります。これがクリスチャンの生き方です。クリスチャンはこの地上に永遠の住まいを持っているかのようにではなく、天の都を求めているのです。なぜなら、この地上のものは一時的であり、天の都は永遠に続くからです。パウロは、Ⅱコリント4章18節で、「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言っています。また、同じⅡコリント5章7節では、「確かに、私たちは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と言っています。私たちは目に見えるこの地上の一時的なものだけでなく、目に見えないいつまでも続く天の都を持っているのですから、その都を求めて生きるべきなのです。

 

Ⅲ.賛美のいけにえをささげよう(15-16)

 

ですから、第三のことは、賛美のいけにえをささげようということです。15節をご覧ください。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの過日を、神に絶えずささげようではありませんか。」

 

旧約聖書には、イスラエルの民が神を礼拝する時には動物のいけにえをささげることが求められていましたが、キリストが私たちのためにご自分のいのちという最高のいけにえをささげてくださったので、クリスチャンにはそのような動物のいけにえではなく、神が喜ばれる霊的ないけにえをげようというのです。そのいけにえとはどのようなものでしょうか。一つは賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実です。くちびるを通してささげられる賛美と感謝です。賛美というと、多くの人は讃美歌や聖歌、あるいはブレイズソングを歌うことであると思うかもしれませんが、ここで言われている賛美というのはただ口先だけで歌うのとは違い、主に向かってささげられる心からの賛美のことです。ですからそれは歌を歌っている時もそうですが、祈っている時にも、いつもくちびるからほとばしり出てくるものです。特にここには「絶えずささげようではありませんか」と言われています。いいことやうれしいことがあった時だけでなく、嫌なことや苦しいことがあっても、どうも歌うような気分になれない時も、体調が悪くうなだれているような時でも、毎日忙しくて賛美などしていられないというような時でもいつもです。いったいどうしたらそのようなことが可能なのでしょうか。ですからここには、「キリストを通して」とあるのです。キリストを通してでなければ、絶えず賛美することなどできません。でもイエス様を見上げるなら、どんな時でも賛美をささげることができます。

 

先週、私たちの結婚式を導いてくださった牧師婦人が召され葬式に参列しました。礼拝堂の前に置かれた棺の上には、この牧師婦人が書かれた紙が2枚置かれてありました。そこには、感謝、喜び、祈りと自筆で書かれてありました。1996年に乳がんを患ってから20年間、いつ天に召されるかわからない恐怖の中で、先生は主イエスにあって心からの賛美と感謝をささげることができたのです。イエスを見上げるなら、あなたもいつでも、どんな状況にあっても賛美のいけにえをささげることができるのです。なぜなら、イエスはあなたを愛して、あなたのためにいのちを捨ててくださいました。あたが一番苦しい時にでも、イエスはあなたを離れず、あなたを捨てませんでした。あなたのためにこれほどまでの痛みに耐え、最後までその愛の中に置いてくださったことを思う時、賛美が自然とあふれてくるのです。

 

パウロとシラスがピリピで伝道していたとき、占いの霊につかれていた若い女奴隷から占いの霊を追い出すと、もうける望みがなくなった主人から訴えられて、彼らは牢に入れられ、足かせを掛けられてしまいました。そのとき彼らはどうしたでしょうか。真夜中に、ふたりは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたと聖書に記録されています。すると突然大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。目を覚ました看守は逃げられたと思い、「もうだめだ」と自害しようと思ったとき、パウロは大声で言いました。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」助かったと思った看守はパウロとシラスのところに駆け込んでくると、ひれ伏して言いました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」するとふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30)と言うと、彼とその家族は主イエスを信じ、その夜、その家の者全部がバプテスマを受けたのです。ハレルヤ!パウロとシラスはそのような状況でも主を賛美しました。なぜなら、主は賛美を受けるにふさわしいお方だからです。主は、私たちがいつでも、どんな時でも、主を賛美することを願っておられるのです。

 

詩篇34篇1節を開いてください。これはダビデの賛美です。

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」

これはダビデが敵であったペリシテの王に捕まえ、そこから脱出した時に歌った詩です。この時ダビデはサウル王から逃れペリシテの町に行きましたが、ペリシテまたイスラエルに手は対していた民族です。それがダビデであることはすぐにばれてしまいました。いったいどうしようか悩んだ末に、彼はペリシテの王アビメレクの前で気が狂った人のふりをして、この危機を逃れたのです。彼は、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりして気違いを装ったのです。するとアビメレクはそれを見て、「こんな気の狂った人間に用はない。さっさと私の前から連れて行け」と家来に命じたので、ダビデはやっとの思いで危険から脱出したのです。その時に歌った詩なのです。

ダビデにとってどんなに屈辱的であったかわかりません。それでも彼は賛美しました。あらゆる時に主を賛美したのです。

 

クリスチャンの信仰生活には、信仰によって困難を乗り越えて前進する時もあれば、ダビデのようにペリシテの王の前で気が狂ったかのような真似をしなければ自分を守れないようなときもあります。しかし、あらゆる時に主を賛美しなければなりません。なぜなら、そこにも神の守りと助けがあるからです。いやむしろ、そうした中にこそ、もっと深い神の恵みがあるのです。ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえを、神に絶えずささげることができるのです。

 

それから善を行うことと、持ち物を人に分けることも怠ってはいけない、とあります。これはどういうことかというと、賛美は歌ったり、祈ったりといたくちびるによってささげられるものだけでなく、善を行ったり、持ち物を分け与えたりといった行いによっても表すことができるもので、そうしたいけにえを神は喜ばれるということです。それは神の恵みによってキリストのいのちを受けた人にとっては、むしろ自然の流れであると言えるでしょう。

 

だからパウロはこう言ったのです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「そういうわけですから」とは、パウロがそれまで語ってきたことを受けてということですが、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められたので、ということです。そういうわけで、その深い神の恵みを受けたのであれば、今度は自分自身を神様にささげて生きるべきであるというのです。それが善行であり、持ち物を分け合うということによって表れてくるのです。それが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる生きた供え物としてささげなさい。」ということです。あなたがたのからだをささげるというのはおもしろい表現です。普通ならば「心をささげなさい」と言うのではないかと思いますが、パウロは「からだをささげなさい」と言いました。からだをささげるとは自分のすべてをささげるという意味です。クリスチャンがささげるいけにえは死んだ動物ではなく生きている自分自身であって、自分の存在のすべて、自分の生活そのものが、神様へのいけにえだというのです。

 

18世紀のアメリカを代表する伝道者であったD・L・ムーディは、ある時神様の迫りを感じ礼拝に回ってきた献金の皿の上に、「D・L・ムーディ」と書いた紙切れを置いたと言われています。彼は自分自身を神へのいけにえとしてささげたのです。その皿の中で横になりたい気持だったのでしょう。私たちのからだをささげるとは、そういうことなのです。

 

ある人は、聖会で神のことばを聞いたとき、神の御霊が激しく彼に臨み、肌身離さず持っていた金メダルを献金の皿の上に置きました。それはオリンピックで獲得した金メダルでした。今まで10ドル献金していた人が100ドルささげたというならわかりますが、金メダルをささげたとは聞いたことがありません。その人にとっては、自分の人生において最も大切なものをささげることによって、自分の気持ちを表したのでしょう。

 

神様が喜んでくださるいけにえとは、このようないけにえです。神は私たちを、聖い、生きた供え物としてささげることを望んでおられるのです。それこそ霊的な礼拝なのです。私たちもこのようないけにえを神にささげようではありませんか。それは神がまず私たちをあわれんで、罪の中から救ってくださったからなのです。

ヘブル人への手紙13章1~6節 「主は私の助け手です」

いよいよヘブル人への手紙の最終章に入ります。この手紙の著者は、迫害の中にあったユダヤ人クリスチャンたちに対して、彼らがなぜキリストの恵みにとどまり、信仰のマラソンを最後まで走り続けなければならないのかについて述べてきました。そしてそれは、彼らには揺り動かされない御国に入るという約束が与えられているからです。であれば、そのような特権に与ったクリスチャンはどうあるべきなのでしょうか。そこでこの手紙の著者は最後に、それにふさわしい生き方とはどのようなものなのかを語ってこの手紙を結ぶのです。その第一回目の今回は「主は私の助け手です」というテーマでお話ししたいと思います。

 

皆さん、私たちの生活は何を信じるかによって決まります。つまらないものを信じていればつまらない生活となり、すばらしいものを信じていればすばらしい生活になります。もし「この世の中は金次第だ」と思っていれば、人生はお金の奴隷のようなものになり、そこには何の潤いもない、すべはお金という尺度で測られるような生活になってしまいます。その結果家族の間には心の交流はなくなり、お金がすべてといった生活になってしまうのです。ですから、私たちが何を信じて生きるのかということは、私たちの生活を左右するとても重要なことなのです。

 

それは信仰生活も同じで、私たちが何をどのように信じているかによって、その生活のスタイルが決まります。ですから、この手紙の著者は、私たちが信じている信仰の内容とはどのようなものかを述べた後で、いよいよその信仰から出てくる生活について勧めるのです。そしてその中で最も大切な愛について語っています。

 

Ⅰ.兄弟愛をいつも持っていなさい(1-3)

 

まず、第一のことは、兄弟愛をいつも持っていなさいということです。1節から3節までをご覧ください。1節には、「兄弟愛をいつも持っていなさい。」とあります。

 

このヘブル人への手紙をはじめ、聖書全体でクリスチャンに対して強く言われていることは、互いに愛し合いなさいということです。この手紙の読者であったユダヤ人クリスチャンたちは、クリスチャンに回心したことで、これまでのようにユダヤ人としてその共同体の中で生きていくことが困難になっていました。そのような時に彼らに必要だったことは何かというと、互いに愛と善行を促すことです。ですから、10章24節には、「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」と勧められ、また、続く25節にも「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」勧められていました。そういう状況であったからこそ、ますます熱く愛し合うことが必要だったのです。

 

そして、ここには「いつも」と強調されています。調子がいい時だけでなくいつもです。以前は熱心に愛し合っていたけど、今は冷めてしまいましたというのではなく、いつもです。6章10節には、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」とあります。彼らはかつて熱心に愛し合っていました。しかし、クリスチャンとしての歩みの中で迫害や苦難に会うと、いつしかその愛が冷めてしまっていたのです。

 

これは私たちにも言えることではないでしょうか。イエス様を信じて救われた時は喜びにあふれていました。何をしてもうれしいのです。教会に集まって一緒に賛美したり祈ったりすることが楽しくて、できるだけみんなと交わりたいと思っていました。しかし、長い信仰生活の中で人間関係に疲れたり、様々な問題に直面すると、いつしかそのような関わりを避け、自分の殻に閉じこもるようになります。それはちょうどガソリンスタンドで給油するようなものです。一週間の中でいろいろなことエネルギーを使い果たした人がガソリンスタンドにやって来て、そこでたまたま知り合いの人でガソリンの給油にやって来る人がいると、「あっ、お元気ですか。毎日大変ですね。」と言ってその場を去っていくようなものなのです。そこには他の人との関わりはありません。しかし聖書が教える教会とは、自分の好みや利益のために集まるような所ではなく、神が招き、共に生きるように導かれた信仰の共同体であり、神の家族なのです。ですから、イエス様はこの共同体を実現するためにこのように言われたのです。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:35)ですから、教会は私と神様という個人的な関係だけでなく、私たちと神様という関係であり、そうした関わりが求められるのです。

 

イエス様はアジアにある七つの教会に手紙を書き送りましたが、その中にラオデキヤの教会に対して次のように書き送りました。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、暑くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

ラオデキヤの教会はどういう点で熱くもなく、冷たくもなかったのでしょうか。自分のことしか考えていなかったという点においてです。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることを知らない。」(黙示録3:17)

彼らは自分の姿が見えませんでした。自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、他の兄弟たちのことが見ていませんでした。ですから、彼らに必要だったのは、他の兄弟が見えるようになるために、目に塗る目薬を買うということだったのです。

 

それは私たちも同じです。自分のことだけに向きがちな関心を、他の兄弟に向けなければなりません。パウロも、「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ2:4)と勧めています。兄弟愛をいつも持っていることは、神の愛によって救われたクリスチャンがまず第一に求めていかなければならないことなのです。

 

次に2節をご覧ください。ここには、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。このような互いの愛は、具体的な行動になって表れてきます。その一つが、旅人をもてなすことです。

 

旅人をもてなすということは、当時の社会において非常に重要なことでした。というのは、当時は今のように宿泊施設が整っているわけではなかったからです。ですから、巡回伝道者や預言者、あるいは仕事で旅行しなければならなかったクリスチャンにとっては、何よりもありがたいことだったのです。

 

「ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とは、アブラハムのことです。アブラハムは三人の人が自分の天幕を通り過ぎようとした時、この見知らぬ人々を心からもてなしました。彼らは御使いで、そのうちの一人は主の使い、すなわち、受肉前のキリストでしたが、アブラハムは彼らを見ると地にひれ伏して礼をし、上等の小麦粉でパンを作り、また美味しそうな子牛を取って料理して、彼らをもてなしました。彼は、それが神の御使いだと知らずにもてなしました。それはアブラハムにとって特別のことではなく、板についていたというか、習慣になっていたのです。旅人をもてなすことは時間も労力もお金もかかるためかなりの犠牲を強いられますが、だからこそ私たちのためにご自身のいのちを犠牲にして愛してくださった主の愛にふさわしい応答でもあるのです。

 

特に外国の方々をもてなしましょう。言葉や文化が違う所で生活することは私たちの想像を超える困難があります。そのような中で温かく迎えてもらえることは本当に助かります。

私は今年の夏中国へ行きましたが、そこで受けたもてなしにとても感動しました。行く所、行く所、どこでも喜んで歓迎してくれました。「これはにわとり足ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」「これは近くの川で今朝とった魚ですがおいしいです。どうぞ食べてください。」と、たくさんのお料理がテーブルに並べられてもてなしていただきました。中国の教会が成長しているのは、こうした生きた神の愛といのちが脈々と流れているからだということを強く示されました。

 

また、昨年の夏にアメリカのサンディエゴにいるスティーブ・ウィラー先生のお宅を訪問したときも、その心からのおもてなしに強く心が打たれました。ウィーラー先生のお宅には私たちのようなゲストが来ても泊まれるようにゲストルームが用意されてあり、そこにはトイレやシャワールームも完備されているので気兼ねなく泊まれるようになっています。また、広々としたガーデンを見渡せるデッキで食事ができるようになっていて、ゆっくりとくつろぐことができます。特に私たちが日本の教会の開拓に携わっているということで気を使ってくださり、滞在中はサンディエゴズーやサファリ―パーク、市内の観光にも連れて行ってくれました。本当に申し訳ないと思うほどのもてなしをしていただいて恐縮ではありましたが、キリストにある愛の深さを強く感じることができました。

 

中国でのもてなしにしても、アメリカでのもてなしにしても、それぞれ文化の違いもあり一様に同じではありませんでしたが、そこに流れていた精神は同じでした。それは兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れはいけません、ということです。ややもすると私たちは完璧なもてなしを求めるあまり言葉が通じなかったり、文化の違いがあるとどのように接したらいいかわからないと不安になり、接触を避ける傾向がありますが、本当の愛はどのようにもてなすかということではなく、兄弟愛をもって愛すること、旅人をもてなすということを実践することなのです。

 

もう一つのことは、牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい、ということです。これはどういうことかというと、信仰のために投獄されている人々を自分のことのように思うということです。この牢につながれている人々というのはキリストの名のゆえに投獄されている人々のことです。日本では、信仰のために投獄されている人はほとんどいないだろうと思いますが、世界には今でもそのような人たちがたくさんいます。先にも述べたように、当時クリスチャンは信仰のゆえにしばしば投獄され重い刑罰を科せられました。このような時、クリスチャンは祈ることはもちろんのこと、自分も牢にいる気持ちで思いやり、時には訪問したり、何かを差し入れたりして、具体的に助け合うことが求められました。なぜかというと、その人たちは同じキリストのからだである教会に属している器官だからです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が喜べば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)私たちはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。私たちはそれぞれ一つのからだにつながっているので、一つの器官が苦しめば、すべての器官がともに苦しむのは当然のことなのです。

 

Ⅱ.結婚がすべての人に尊ばれるように(5)

 

第二のことは、結婚がすべての人に尊ばれるようにすることです。5節をご覧ください。「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。」

 

皆さん、本来、結婚は尊ばれるものです。すべての人に、クリスチャンの人にも、ノンクリスチャンの人にも、すべての人に尊ばれるものなのです。それなのに、結婚はあまり尊ばれていません。結婚することにどんな意味があるのか、結婚して束縛されるのならもっと自由でいた方がいいと、あまり結婚したがらないのです。しかし、結婚は本来神が制定されたものであって、人類の幸福と繁栄のために与えられたものです。その結婚が尊ばれなくなってしまいました。なぜなら、それを破壊するものがあるからです。それが不品行であり、姦淫です。不品行とは性的なすべての罪のこと、姦淫とは、結婚関係以外に性的関係を持つことです。ですからここに、寝床を汚してはいけません、とあるのです。性的関係は夫婦の枠組みの中では尊いものであり、夫婦の関係を緊密にするものですが、その枠組みから離れたところで行われると喜びが台無しになってしまうどころか、汚れたものになってしまうのです。それはちょうど花壇の花のようです。花壇にはふわふわした柔らかな土がまかれ、そこに花が咲くととてもきれいですが、花壇の外に、たとえばリビングに柔らかな土をまいて花を咲かせても、それはきれいではありません。むしろ汚い限りです。花はやわらかな土が置かれた花壇に咲くときれいですが、それ以外のところにまかれると汚れてしまうのです。それと同じように性的な関係も夫婦という枠組みの中で行われると喜びであり、二人の関係が緊密にしますが、それ以外の枠組みで行われると汚れてしまうのです。

 

創世記2章24節には、結婚の奥義について次のように言われています。「それゆえ男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」

皆さん、二人はどうしたら一心同体になるのでしょうか。父母を離れ、つまりふたりは結婚して、妻あるいは夫と結ばれ、すなわち、性的な関係が持つことによって一心同体になるのです。この順序が重要です。男と女は結婚して、妻と結ばれ、そうした性的結合が持たれることによって、一心同体となる、すなわち、より親密な関係になるのであって、結ばれる前に関係を持つと、あるいは結婚してからその枠の外で関係を持つと、逆に自分自身を、夫婦の関係が滅ぼしてしまうことになるのです。

 

箴言6章27~29節、32~33節をご覧ください。

「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と貫通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。」

「女と貫通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることはできない。」

 

火というのは隣人の妻のことです。そのような者と貫通すると、罰を免れません。それどころか、自分自身を滅ぼし、そのそしりを消し去ることはできません。たとえば、ダビデがバテシェバと姦淫を行ったとき、その罪責感でのたうちまわった、その心はカラカラに渇ききっていたと告白しています。(詩篇32:3-4)ですからパウロは、Ⅰコリント6章18節のところで、「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を犯す者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。」と言っているのです。自分のからだに対して罪を犯すとはどういうことかというと、このように自分自身を滅ぼすということ、それがずっと消えないということです。だから不品行を避けなければならないのです。それが結婚の前であっても、後であっても、結婚という枠組みの外で行われるなら、それが自分を傷つけ、その傷がいつまでも残り、自分自身を滅ぼすことになってしまうのです。そして、夫婦関係を、家族関係を破壊することになるのです。そしてその結果、地域社会、社会全体が破壊しまうことになります。それはこの社会を見ればわかるでしょう。社会全体が病んでいます。

 

それでは、どうしたらいいのでしょうか。もしそのような関係にあるならば、私たちはどうしたらいいのでしょうか。幸いなことに、私たちが罪を犯したからといって神は狼狽することはありません。もう神は受け入れてくださらないということはありません。傷は一生残るかもしれませんが、神は回復させてくださいます。もう一度麗しい関係を持たせてくださるのです。もう赦されないということはありません。ではそのためにどうしたらいいのでしょうか。聖書は悔い改めと実りある人生のために、次の四つのステップを踏むことを勧めています。

第一に、罪を告白して悔い改めることです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあります。私たちが罪を犯したならばそれが罪であったと認めて、悔い改めることです。それが砕かれるということです。自分が間違ったことをしたと認めることが砕かれるということです。これが最初にすべきことです。

第二のことは、その罪を捨てること、罪から離れることです。箴言28章13節には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」とあります。どういう人があわれみを受けるのでしょうか。それを告白して、それを捨てる人です。自分のそむきの罪を隠す者は成功しません。

第三のことは、神の聖さを求めることです。詩篇51篇10節に、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」とあります。これはダビデのマスキールですが、彼はナタンによって罪が示されたときその罪の赦しを求めただけでなく、きよめられることを求めました。

そして第四のことは、悪魔の誘惑を避けることです。パウロは若き伝道者テモテに次のように書き送りました。「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(Ⅱテモテ2:22)罪から離れても、再び悪魔が誘惑してきます。誘惑自体は罪でも悪でもありません。問題はその誘惑に落ちてしまうことです。どうした誘惑に勝利することができるのでしょうか。ここでは二つのことが言われています。一つは情欲を避けるということ、そしてもう一つのことは、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めるということです。そうすれば守られるのです。

 

バテシェバと姦淫して後悔と憂鬱の中に疲れきっていたダビデは、主に罪を告白し、悔い改めて、その罪を赦していただきました。その時彼はどのように告白したでしょうか。詩篇32篇1-2節です。彼はこのように賛美しました。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。」これは彼が罪を犯して悔い改め、その罪を捨て、離れることによって、罪をきよめていただいたダビデが歌った詩なのです。彼は、「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」と高らかに賛美することができました。この「幸い」はHappyです。皆さんはHappyですか。その罪を赦していただきましたか。罪が赦され、罪がおおわれた人は何とHappyでしょうか。確かに自分の犯した罪に苦しむことはあっても、主がその罪を赦してくださったと言える人は本当にHappyなのです。そればかりか、詩篇51篇13節に、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。」とあるように、その経験が、同じような罪で苦しんでいる人の助けとして用いられることもあるのです。ですから、罪を犯したからもう終わりだとあきらめないでください。神様はその罪を赦してくださいます。そして、あなたをきよめて、ご自身のご栄光のために用いてくださるのです。

 

Ⅲ.金銭を愛する生活をしてはいけません(5-6)

 

第三のことは、金銭を愛する生活をしてはいけないということです。5節と6節をご覧ください。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしはけっしてあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。そこで、私たちは確信してこう言います。「主は私の助けです。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

金銭を愛することは、神を愛することに逆行することです。イエス様も、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言われました。神を愛するのではなく、金銭を愛することが問題です。Ⅰテモテ6章9節にも、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」と言われています。金銭そのものが問題ではなく、金銭を愛することが問題です。この金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。ですから、争いごとの多くは大抵お金が絡んでいるのです。人はお金があれば幸せになれると思っていますが、実際にはお金を愛することで自分自身を亡ぼすことになってしまうのです。

 

以前、イタリアでもひとりの男の死が話題になりました。彼は公営の賭博で3億円を当て、かつては「イタリアで一番幸福な男」と言われた人物でしたが、「一度当たって二度当たらぬはずがない」とその後ギャンブルに手を染め、ついには一文無しになってしまったのです。

彼の最期は悲劇でした。子どもたちに里帰りの列車の指定席代も払ってやることができなかった彼は、自由席を確保しようと、ミラノ駅構内でまだ止まりきらない列車に飛び乗りました。そして線路に落ち、列車の下敷きになって死んでしまったのです。

彼の死は国中で話題になりました。大金を手にして金に目がくらみ、最後は一番大切ないのちまでも失った彼の人生は、はたして本当に「イタリアで一番幸福」だったのでしょうか。

 

ですから、金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなければなりません。なぜなら、主ご自身がこう言われるからです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てなさい。」これがどのみことばからの引用なのかはわかりません。イエス様は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われましたが、「あなたを離れず、あなたを捨てなさい。」と言われたとは書かれていないからです。おそらくこれは旧約聖書からの引用でしょう。申命記31章6節やヨシュア記1章5節にそのような約束のことばがあります。しかし、ここで重要なことはどこからの引用であるかということではなく、この金銭を愛する生活をしてはいけないということが、このことと深いつながりがあるということです。すなわち、もしあなたがイエス様としっかりつながっていて、イエス様と親しい関係にあれば、あなたはもう不満足であるということはないということです。でももしあなたがイエス様から離れていて、イエス様との関係がなければ、何をしても不満であり、いつまでも満足することはできないということです。だから不満になるとお金やモノで心を埋めようとするのです。あなたがイエス・キリストに近ければ近いほど、あなたの心は満たされるのです。イエス様との関係が、あなたの心の満たしのバロメーターになるということです。主は決してあなたから離れず、あなたを捨てないと約束しておられます。にもかかわらずその主から離れてしまうと、人との関係やビジネスとの関係を優先してしまうのです。そうすると、いつまでも心が満たされることはありません。イエス様がいれば十分満足なはずだからです。

 

それはちょうど新婚時代のようです。新婚時代のことを思い起こしてください。皆さんにも新婚の時代があったはずです。それははるか昔、もう忘れてしまったわという方もおられるかもしれませんが、その感覚は覚えているでしょう。もう何も無くても幸せでした。あなたと二人、同じ屋根の下に一緒にいるだけで幸せだったはずです。別に高級な車がなくても、大きな家に住んでいなくても、そんなに贅沢な暮らしなんてできなくても、もう十分満足でした。それなのに結婚してしばらくすると、ちょっとしたことでも嫌になって文句を言うようになります。その愛から離れているからです。愛があれば必ず満足することができるのです。

 

ですから、聖書は確信に満ちてこういうのです。6節の「」のことばをご一緒に読みましょう。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」このような確信はどこから与えられるのでしょうか。聖書のみことばです。聖書のみことばを通して、私たちは確信に満ちてこういうことができるのです。聖書のみことばをベースにして生きるなら、たとえ問題があっても、たとえ不安なことがあっても、私たちはこういうことができるのです。「主は私たちの助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

 

皆さん、人を恐れるとわなにかかります。しかし、主を恐れる者は守られるのです。主は私の助け手です。人間は、私に対して何もすることができません。だから何も恐れる必要はありません。あれがない、これがない、今月の支払いが間に合わない、リストラされたらどうしよう、パートの時間が減らされた、子供の学費をどうしようと心配するのはやめましょう。そういうのは神様を信じていない人です。神様を信じている人は、神が私の助け手ですと確信に満ちているので、何も恐れる必要がないのです。現代は不安の時代だと言われています。先が見えなくてみんな不安になっています。それはこの確信がないからです。心配すれば恐怖で暗くなりますが、この確信に満たされていれば、心がパッと明るくなり、安心感を持つことができます。

 

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、迫害によって財産までも奪われていました。彼らは、すべてを彼らは失ってしまったのです。けれども、彼らには信仰がありました。それは、主が彼らとともにおられるということです。彼らはすべてを失いましたが、一番大事なものを持っていました。それはイエス・キリストでした。イエス・キリストを持っているということはすべてを持っているということだからです。なぜなら、それは永遠のいのちを持っているということだからです。その一方でこの地上ですべてのものを持っていたとしても、もしいちばん大切なもの、永遠のいのち、イエス・キリストを持っていなのならば悲惨です。なぜならこの地上のものはすべて一時的なものであって、どんなものでもすべて過ぎ去ってしまうからです。この主がともにおられることこそ、私たちが勝利ある人生を歩んでいく秘訣なのです。

 

星野富広さんの詩の中に、「いのちよりも大切なもの」という詩があります。

「いのちが一番大切だと 思っていたころ

生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日

生きているのが嬉しかった」

ここで星野さんが言っている「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。よく人間にとって一番大切なものは「いのち」だと言われますが、そのいのちよりも大切なものがあるというのです。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストを信じることによってもたらされる永遠のいのちです。星野さんはかつて中学校の体育の教師として健康な肉体と、体育の能力にもすぐれた人でしたが、それらを一瞬のうちに失い、絶望の淵に落ちました。その苦しみと試練は過酷でありましたが、入院中に聖書に出会い、そこから本当の生きる希望と喜びを見出だしたのです。

 

あなたはこのイエス様を信じていますか。そして、イエス様にしっかりつながっておられるでしょうか。イエス様があなたとともにおられるなら、あなたはそれで十分です。イエス様があなたを助けてくださるからです。

これが、クリスチャンの人生観の根底にあるものです。ですから、私たちはどんな思い煩いからも解放され、何が真の満足であるかを悟りながら、この世を旅することができるのです。このようないのちを与えてくださった主に感謝します。そして、いつも主がともにおられることを信じて、主とともに歩んでまいりましょう。