民数記12章

きょうは民数記12章から学びたいと思います。

1.  モーセに対する非難(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。2 彼らは言った。「はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」はこれを聞かれた。」

ここに「そのとき」とあります。イスラエルの民は神の山シナイ山から旅立ち、まずタブエラへ進みました。そこで民はひどく不平を鳴らして主につぶやいたので、主は彼らに対して怒りを燃やされ、宿営をなめ尽くされました。また「ああ、肉が食べたい」という声に紛れてつぶやく民に対して、主は大量のうずらを降らせましたが、肉が彼らの歯の間にあるうちに、主の怒りが燃え上がり、彼らは激しい疫病で打たれて死にました。それがキブロテ・ハタワテという所での出来事です。イスラエルはそこからハツェロテに進み、そこにとどまりました。「そのとき」のことです。モーセの姉ミリヤムがアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難したのです。

このクシュ人の女が誰のことを指しているのかははっきりわかりません。モーセには、チッポラという妻がいました。彼女はミデヤン人イテロの娘です。このクシュ人がそのチッポラのことなのか、あるいはチッポラが死んだ後の二人目の妻なのかは分かりませんが、イスラエル人ではない異邦人であることは確かです。ミリアムは、この女のことでモーセを非難したのです。なぜでしょうか。ねたみがあったからです。自分はモーセの姉なのにモーセばかり用いられて自分は全く認められていないことにある種の不満があったのでしょう。しかし、このような妬みは地に属するものであり、肉に属し、悪霊に属するものです。

ヤコブ3章14-15節には、「14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。私たちは、自分たちの中にこうしたねたみがないかどうかを、しっかりと見張っていなければいけません。確かにモーセにも欠陥があったかもしれません。しかし、モーセは神によって立てられたしもべなのです。主がお立てになりました。そのモーセを非難して、彼の評判を傷つけるということは、それは神ご自身を傷つけることと同じです。ミリヤムはそのことを理解していませんでした。

ローマ13章1節には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたのです。」とあります。私たちは平気で上に立てられた権威を非難したり、悪口を言ったり、さばいたりすることことがありますが、それは神ご自身を非難することであり、傷つけることであるということを覚えておかなければなりません。なぜなら、上に立つ権威は、すべて神によって立てられたものだからです。勿論、私たちはキリストにあって一つであり、上下の関係でありません。みな平等です。けれども、そこには秩序があるのです。神によって立てられた権威を非難することは神のみこころではありません。むしろそれを理解し、主にあって支え、守る責務を持っているのだということを覚えておかなければなりません。

2.神のしもべモーセ(3-8)

次に3節から8節までをご覧ください。

「3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。4 そこで、は突然、モーセとアロンとミリヤムに、「あなたがた三人は会見の天幕へ出よ」と言われたので、彼ら三人は出て行った。5 は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、6 仰せられた。「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

モーセは、ミリアムとアロンから非難されたとき、何も反発しませんでした。そのままにしていました。自分は、確かに足りない人間だと思ったのでしょう。「私に立てつくとはどういうことだ」というようなことを言いませんでした。ですからここには、モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった、と書いてあるのです。

そこで、モーセではなく主ご自身が三人に天幕の所に出て来るようにと言われました。モーセも傷ついていましたが、それ以上に傷つかれたのは神でした。ですから、神が黙っておられなかったのです。彼らが出て行くと、主は雲の柱の中にあって降りて来られ、こう仰せになられました。「「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。7 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。8 彼とは、わたしの口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」

「幻の中で知らせる」とか「夢の中で語る」というのは、誰かの解き証しが必要であるようなあやふやな語り方で語るということです。しかし、モーセに対してはそうではありません。モーセに対しては、口と口で語り、明らかに語って、なぞで話すことはしないのです。なぜなら、彼は全家を通して忠実な者だからです。どういう意味でしょうか。神の家全体のために忠実であるということです。ミリアムは、主の働きを履き違えていました。モーセが預言をし、不思議を行なっているのを見て、なんとすばらしいんだろうと興奮し、自分もそのような奉仕に携わりたい、と思ったかもしれませんが、モーセはそういうつもりで奉仕していたのではなく、ただ神に忠実であることに徹していたのです。神から与えられた使命を全うするために与えられていた賜物を用いて仕えて。彼は自分の分をよくわきまえて、与えられた奉仕に集中していたのです。

時に私たちも、そうした目ざましいわざや、興奮するような事を求める傾向がありますが、そうではなく、自分に与えられた使命を認識し、そのために与えられた賜物を用いて、忠実に与えられたを果たしていかなければなりません。他の賜物を持っている人を見てすばらしいと思い、自分もそれを持ちたいなあと思うことがあっても、そのために賜物が与えられるのではありません。しっかりと主に与えられた務めを行なうために、主にお仕えするために与えられているのです。そのことをわきまえなければなりません。それは地味で、きらびやかしたものではないかもしれませんが、主のしもべに求められていることは忠実であることなのです。

3.主の懲らしめ(9-16)

最後に、ミリヤムの高慢に対する主のさばきを見て終わりたいと思います。9節から16節までをご覧ください。

「9 の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。10 雲が天幕の上から離れると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを降り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」14 しかしはモーセに言われた。「彼女の父が、彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日間、恥をかかせられたことになるではないか。彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後に彼女を連れ戻すことができる。」15 それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出された。民はミリヤムが連れ戻されるまで、旅立たなかった。16 その後、民はハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した。」はミリアムに罰を与えられます。」

主の怒りがミリヤムとアロンに向かって燃え上がると、主は天幕の上から離れ去って行きました。すると、ミリヤムはツァラートのようになり、雪のように白くなりました。すると、アロンがモーセに「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」と言いましたが、主は彼女を七日間宿営の外に締め出さなければならないと言われたので、そのようにしました。
モーセは、自分を非難したミリアムのために祈ることができました。彼には赦す心がありました。愛は、忍耐し、親切にする、とありますが、まさにモーセは愛をもって行動したのです。しかし、主は彼女を七日間、宿営外の外に締め出しておかなければならないと言われました。どういうことでしょうか。「つばきをかける」とは、はずかしめを受けるということです。死刑ではないけれども、このようにつばきをかけられて、はずかしめを受けるという刑が律法にありました。それと同じように、ミリヤムは神の懲らしめを受け、自分の罪を悲しみ、もう二度と同じことをしないという悔い改めの期間が求められました。それが七日間、宿営の外に締め出されるということです。

それでミリヤムは七日間、宿営の外に締め出されましたが、民はミリヤムが連れ戻されるまで、そこにとどまり、旅立ちませんでした。それはミリヤムだけでなくイスラエル全体が、このことを深く考え、主の戒めを考える時でもあったかもしれません。主の懲らしめを受けるのは、私たちにとっても必要なことです。それは、私たちに意地悪するのではなく、愛をもっておられるからです。へブル12章5~13節に次のようにあるとおりです。

「5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。12 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。13 また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、いやむしろ、いやされるためです。」

こうしてモーセたちは、パランの荒野に宿営しました。イスラエルの民は約束の地に向かう荒野の道中ですぐにつぶやき、激しい欲望にかられてその多くが滅び失せました。また、モーセの姉ミリヤムは主のしもべを非難して、主の懲らしめを受けました。これらのことはみな何に起因していたのでしょうか。それは、主のあわれみと真実から離れてしまったことです。主は私たちに良くしてくださっています。一見、いつもと同じことの繰り返しのようで、物足りないと感じるかもしれませんが、主のあわれみは朝ごとに新しいのです。つぶやきはこのことを忘れたところから出てきます。そして、非難も、主が立てておられる秩序に違反することから出てきます。秩序を乱すことや、平和を壊すことに、私たちは注意していなければいけません。慎み深くして、主とともに歩むことが、天に向かって進む私たちのこの荒野での歩みにおいて求められていることなのです。

Ⅱテサロニケ3章1~18節 「主は真実な方ですから」

きょうはテサロニケ第二の手紙からの最後のメッセージとなります。第一の手紙同様この第二の手紙も、迫害で苦しんでいたテサロニケのクリスチャンたちを励ますために書かれました。また、主の再臨について、もうすでに来たかのように言うのを聞いて動揺し、落ち着きを失ったりすることがないように教えるために書かれました。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、主の再臨の前には背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が必ず現れるからです。だから、そうした誤った教えを聞いて動揺することがないようにと教え、彼らが信仰に堅く立つようにと励ましたのです。そして、この手紙の終わりの部分に入ります。

Ⅰ.パウロの確信(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。2 また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」

終わりにパウロは、私たちのためにも祈ってくださいとお願いしています。いったい彼は何を祈ってほしいと言っているのでしょうか。彼はここで二つの祈りのリクエストをしています。一つは、主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられるようにということです。

主のことばとは福音のことです。また、それは神のことば全体のことでもあります。この神のことばが彼らのところで急速に広がったように、他のところでも急速に広がり、そのことによって神の栄光があがめられるように祈ってほしいと願ったのです。

パウロはこの時コリントにいました。コリントの教会はとても堕落していました。教会は性的に堕落しており、また、ねたみや争いが絶えませんでした。彼らはイエスさまを信じて救われていたはずなのに、ただの人のように歩んでいたのです。いったい何が問題だったのでしょうか。それは神のことばを聞いてもそれをただ聞くだけで、それが彼らの心に留まっていなかったことです。神のことばを聞いているのですが、それが心の中に留まることがなかったのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはそうではありませんでした。。彼らはパウロたちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れたので、そのことばが、信じている彼らのうちに働いたのです(Ⅰテサロニケ12:13)。主のことばは生きていて、力があるので、これを聞く人を救うだけでなく、その人を全く新しい人に作り変えることができます。テサロニケのクリスチャンたちのすばらしい点は、この神のことばに生きていたということです。そのようにコリントでもいや、他の至るところでもみことばが急速に広がり、それによって救われる人々が起こされるように、そして、その神のことばによって生活が変えられ、主の御名があがめられるように祈ってほしいと言ったのです。

パウロの第二の祈りのリクエストは、自分たちがひねくれた悪人たちの手から救い出されるようにということです。2節にこうあります。「また、私たちが、ひねくれた悪人どもの手から救い出されますように。すべての人が信仰を持っているのではないからです。」「ひねくれた悪人ども」とは、イエスさまを信じて救われていると言いながらパウロの教えを否定したり、あからさまにパウロの人格を否定するようなことを言って、その働きを妨げていた人たちのことです。彼らはユダヤ主義者と呼ばれていました。キリストの福音を信じてもそれだけでは足りない。ブラス律法も守らないと救われないといった間違ったことを教えていました。間違ったことを教えていただけでなく、パウロの教えが間違っていると言って混乱させていたのです。伝道には反対や困難は付き物です。しかし、時としてそれが福音宣教の大きな足かせになってしまうこともあります。だからパウロは、福音の前進のために、このような悪人どもの手から救い出されるように祈ってほしいと訴えているのです。

しかし、こうした困難な中にもパウロは、それを乗り越える力がどこにあるのかをよく知っていました。それは確信です。3節と4節をご覧ください。「3 しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。4 私たちが命じることを、あなたがたが現に実行しており、これからも実行してくれることを私たちは主にあって確信しています。」

パウロはここで、「私たちは主にあって確信しています」と言っています。確信を持つことはとても大切なことです。それがどんなに険しい状況であっても、こうした確信を持つことによって必ず乗り越えることができるからです。パウロはここで二つの確信を持っています。一つは、主は真実な方ですから、彼らを強くし、悪い者から守ってくれるという確信です。

皆さん、私たちの信じている神は真実な方です。たとえすべての人が信じなくても、たとえ教会の中に問題があっても、それは神が真実な方ではないということではありません。人がどうであれ、教会がどうであれ、神は常に真実な方なのです。信仰が安定しているクリスチャンの秘訣はここにあります。私たちは人を見て、あるいは教会を見て、あるいはキリスト教の歴史を見て、またクリスチャンの理不尽な状況を見てすぐにつまずいてしまいますが、それでも神が真実であることは変わらないのです。そうしたことは確かに多いかと思います。それは今もあるし、これからもあるでしょう。いつもあります。ではそれによって神は真実ではないということにはならないのです。人は真実でなくとも、神は常に真実なのです。これがパウロの持っていた確信です。Ⅱテモテ2章13~14節を開きたいと思います。

「13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。」

彼とはイエス・キリストのことです。私たちは真実でなくても、彼は常に真実です。彼にはご自身を否むことができないからです。だから、これらのことを思い出させるようにと言っているのです。頼りにならない人間に依存しないで、神に信頼しなければなりません。なぜなら、神は真実な方だからです。そうでないと、人のことばに振り回されてしまうことになります。神は真実な方であるという確信があれば、たとえ人がどうであろうと、たとえ教会がどうであろうと全く関係ありません。そこに希望を置くことができるからです。

パウロが持っていたもう一つの確信は、4節にありますが、テサロニケの人たちが、パウロたちが命じたことをこれからも実行してくれるということです。彼らは、パウロたちが伝えた福音を神のことばとして受け入れました。そして、信じて救われたというだけでなく、その教えに堅く立ち、それを守り、実行していました。もう現にそれをしていたのです。それをこれからもしていくということです。パウロの確信は、彼らがそれを信じて終わりではなく、これからもずっと信じていくということでした。かつて信じていましたが今は信じていませんというのでは、意味がありません。かつては熱心に仕えていましたが今はちょっと引いていますというのでは、主に喜ばれることないのです。なぜなら、主はこれからも続けていくことを強く願っておられるからです。そうした確信に立ってパウロはこう祈っているのです。5節、「どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように。」

もしこの二つの確信があれば、あとは主が働いてくださいます。主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださるのです。クリスチャンが神の愛とキリストの忍耐を持つことは、自分の力や人間の努力だけでできるものではありません。そのためにはどうしても神の恵みと導きによらなければなりません。だから、パウロの祈りはこの二つの確信によって裏付けられていたのです。主は真実な方ですから、必ずあなたを強くし、悪い者から守ってくださる。聖書が命じていることを、あなたが現に実行しているように、これからも必ず実行していくという確信です。私たちもこのような確信を持たせていただきましょう。それが困難な中にあっても神の愛とキリストの忍耐とを持ち続けていく秘訣だからです。

Ⅱ.締りのない歩み方をしないで(6-15)

次に6節から12節までを見ていきましょう。終わりに、パウロがテサロニケの人たちに命じている第二のことは、締りのない歩み方をしないようにということです。

「6 兄弟たちよ。主イエス・キリストの御名によって命じます。締まりのない歩み方をして私たちから受けた言い伝えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい。7 どのように私たちを見ならうべきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、8 人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした。10 私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました。11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」

6節には、締りのない歩み方をして、主の教えに従わないでいる、すべての兄弟たちから離れていなさい、とあります。「締りのない生き方」とは仕事ができるのに、怠けて何もしない。フラフラしていた人たちのことです。彼らはもう既に主は再臨したのだから、仕事していても意味がないと、全く仕事をしませんでした。そうなると経済的に苦しくなり、回りの人に負担をかけてしまうことになります。そういう人たちに対してパウロは、「自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11)と命じてきましたが、その命令に従わない人がいたので、そういう人たちからは「離れていなさい」と命じているのです。

なぜでしょうか。仕事をすることは神のみこころだからです。神は世の初めから今に至るまでずっと働いておられます。また、イエスさまも神が人となって来られた方ですが、公生涯に入るまでずっと大工として働いておられました。パウロもそうです。パウロ人のパンをただで食べることはしませんでした。かえって、だれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。それは、彼らに報酬を受ける権利がなかったからではありません。彼にはその権利がありましたが、それでも労苦しながら働き続けたのは、彼らのだれにも負担をかけないようにするためだったのです。また、彼らがパウロたちを見習うようにと、身をもって模範を示すためだったのです。だから、パウロは彼らのところにいたときも、働きたくない者は食べるなと命じたのです。働くことは神のみこころなのです。勿論、健康上の理由で働けない人もいます。また、仕事をしたくてもない人たちもいますが、ここではそういう人たちのことを言っているのではありません。そういう人たちには当然助けが必要です。ここでパウロが言っているのは、十分働けるのに働く気のない人たちのことです。

11節を見てください。彼らの問題は、ただ仕事をしないというだけではありませんでした。彼らは人のおせっかいばかりして、締りのない歩み方をしていたのです。言わなくてもいいようなことまで言って問題を作ったり、お腹が空けばだれかの厄介になるというように、まさにパンツのひもがゆるんだような生活をしていたのです。そういう人たちに対してパウロは、「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」と命じたのです。しかし、そうでない人たちもいます。汗水たらして働き、わずかなお給料を大切に使い、そこから精一杯主にささげるという人たちもいたのです。

そういう人たちに必要だったのは、たゆむことなく善を行うということでした。仕事をしない人には食べさせるな!と聞くと、食べさせてはダメだということをすべての人に当てはめてしまう人がいますが、それもよくありません。中には仕事をしたくてもできないという人もいます。そういう人たちには助けが必要なのです。特に、当時は社会保障制度が確立されていなかったので、夫に先立たれてしまうと仕事がなくて食べるのにも困り果ててしまうということがありました。そういう人たちに対しては助けてあげるように、善を行うようにと命じているのです。

マタイの福音書25章40節のところでイエス様は、「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と言われました。弱い人に助けの手を差し伸べることは神にしたことと全く同じことだと言われたのです。だから善いことを行うことを止めてはいけません。たゆむことなく善を行わなければならないのです。

Ⅲ.平和の神がともにおられるように(16-18)

最後に16節から終わりのところを見て終わりたいと思います。パウロはこの手紙の最後にテサロニケの人たちのために祈り、あいさつを送っています。「16 どうか、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてと、ともにおられますように。」

ここでパウロは、平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、彼らに平和を与えてくださるようにということ、また、主が彼らすべてとともにおられるようにと祈りました。これはテサロニケのクリスチャンたちにとって最もふさわしい祈りであったと言えるでしょう。というのは、彼らは激しい迫害の中に苦しんでいたからです。また、もう既に主の日は来られたと言って心を騒がせる人たちがいたからです。そんな彼らにとって必要だったのは、平和の主が、彼らとともにいて、彼らの心に平和を与えてくださるということでした。

皆さん、私たちは問題があるとすぐに心を騒がせ、右往左往してしまいます。もうどうしたらいいかわからなくてパニクッテしまうのです。ですから、私たちに必要なのは心の平安であり、安心感です。いったいどうしたらこの平安を持つことができるのでしょうか。それは主に祈ることです。なぜなら、それは平和の主である神から来るからです。だからパウロはここで、この平和の主ご自身が、どんな場合にも、いつも、あなたがたに平和を与えてくださるようにと祈っているのです。もしあなたが、この平和の主ご自身があなたとともにおられるということを知るなら、心に平安を持つことができるのです。たとえば、小さな子どもにとってはお母さんがすべてです。お母さんがいないと不安になるのです。しかし、そばにいれば安心します。それと同じことです。

私たちは問題に直面すると、自分だけが世界のすべてを背負っているかのように感じてしまいます。だれも助けてくれないとか、自分だけが・・・と、孤独に陥ってしまうのです。神にも見捨てられたような気分に陥ってしまうのです。しかし、そうではありません。神は決して私たちを見離したり、見捨てたりすることはないのです。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われた主は、世の終わりまで、いつもあなたと共にいてくださいます。平和の主が共におられるということを知るなら、あなたは心に神の平安を持つことができるのです。

ではどうしたらこのことを知ることができるのでしょうか。そのためには二つのことが必要です。一つのことは、あなたが神との平和を持っているということです。ローマ人への手紙5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。イエス・キリストを信じるならあなたのすべての罪は赦され、神が聖霊をとおしてあなたの内にいてくださいます。あなたは神との平和を持つことができるのです。以前はそうではありませんでした。以前は罪があったので、神に敵対していましたが、今はその罪が赦されて、聖められたので、神の子と呼ばれるようになりました。あなたは神との平和を持っているのです。

しかし、神との平和があるということと、神の平安を持つことは違います。神との平和はあなたと神との間の平和のことですが、それでも目の前に問題が起こると、すぐに心が騒いでしまいます。平安を失ってしまうのです。神との平和があっても、神の平安が失われてしまうことがあるのです。ではそのような時はどうすればいいのでしょうか。パウロはこう言っています。ピリピ4章6~7節です。開いてみましょう。

「6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」

ここでパウロは、何も思い煩わないで、あらゆる場合に祈れと言っています。私たちは神との平和が与えられても心配したり、落ち込んだりしますが、そういう時には祈るように、あらゆる場合に感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさいというのです。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。つまり、あなたのことを神に知っていただくと、あなたは安心するのです。あなたが何も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝をもって祈ると、神がともにおられることがわかるようになるからです。平和の主があなたとともにおられることがわかると、あなたは再び神との平安を持つことができるようになるのです。

この切り替えが早いか遅いかだけの問題です。信仰生活が長くても不安は押し寄せてきますし、心騒ぐことがあります。問題は同じように起こります。信仰を持ったらすべてがバラ色になるということではありません。同じように問題は起こります。どこに行っても、何をしても、必ず問題は起こるのです。でも、神との平和を持つ前と持ってからでは全く違います。そういう時でも祈れる対象をちゃんと持っているということです。それまでは困ったときの神頼みで、もう何でもいいから祈っていました。答えてくれそうなものなら、たとえそれがきつねでもたぬきでも、太陽でも、星でも、ご先祖様でも、何でもいいから祈れとばかり祈っていたわけです。しかし、神との平和を持ってからは違います。神との平和を持ってからは、そうした太陽や星、ご先祖様までも造られた創造主なる神に祈ることができるようになりました。だから、神の平安を持つことができるのです。これが早いか遅いかの違いです。これが遅いと不安の方が強くなるのです。

ですから、私たちはどんな時でも、いつでも祈ることが大切です。あなたが不安になったときには、どうぞ祈ってください。何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただくようにしてください。そうすれば、神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。もしあなたが人間関係で悩んでいるなら、神に祈ってください。もしあなたが夫婦関係で悩んでいるなら、子どもの問題で悩んでいるなら、それを神に祈りましょう。感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたの願い事を神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いが、キリスト・イエスにあって守っていただけます。もしあなたが経済的な問題で悩んでいるなら、あるいは仕事のことで、病気のことで、この先どうしていったらいいのだろうと悩んでいるなら、それを神に知っていただいてください。そうすれば、あなたの心と思いは、キリスト・イエスにあって守っていただけるのです。自分一人で悩み、ふさぎ込んだりしないで、それを神に知っていただくように祈ってください。また、そのために神の家族がいます。信仰の仲間たちがいるのです。そういう人たちと一緒に祈ってください。そうすれば、あなたはどんな困難な状況の中にも、平安を持つことができるのです。

17節と18節をご覧ください。「17 パウロが自分の手であいさつを書きます。これは私のどの手紙にもあるしるしです。これが私の手紙の書き方です。18 どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

パウロはいつも恵みによって手紙を書き始め、恵みによって終えます。それは私たちの信仰生活も同じです。私たちも神の恵みによって信仰生活が始まりました。今までいろいろ辛いこともありましたが、神の恵みによって救われました。救われた後もいろいろな問題が襲ってきますが、その恵みの中にいるのです。そして、最後まで恵みの中を歩み続けるのです。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。」

民数記11章

きょうは、民数記11章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

1.  イスラエルの民の不平、つぶやき(1-9)

「1 さて、民はひどく不平を鳴らしてにつぶやいた。はこれを聞いて怒りを燃やし、の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。2 すると民はモーセに向かってわめいた。それで、モーセがに祈ると、その火は消えた。3 の火が、彼らに向かって燃え上がったので、その場所の名をタブエラと呼んだ。4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いた、言った。「ああ、肉が食べたい。5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」7 マナは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようであった。8 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていた。その味は、おいしいクリームの味のようであった。9 夜、宿営に露が降りるとき、マナもそれといっしょに降りた。」

イスラエルは神の山シナイ山のふもとから旅立ち、約束の地に向かって荒野の旅を始めました。彼らが宿営を出て進むとき、主の雲が彼らの上にあって彼らを導きました。主の雲が最初にとどまったのはパランの荒野でした。それはシナイ山の北にある荒野ですが、彼らが主の山を出て、三日の道のりを進んだところにありました。しかし、彼らがパランの荒野に着くまでの間に、大きな問題が起こりました。1節から3節までを見てください。彼らはひどく不平を鳴らして主につぶやいたのです。それで主はこれを聞いて怒りを燃やされ、宿営の端をなめ尽くしたのです。荒野の旅を始めてまだ三日だというのに、早くも不平やつぶやきが出たのです。いったいなぜ彼らはつぶいたのでしょうか。荒野は決して楽な場所ではなく、不便さと困難がつきものです。空腹や疲れもあったでしょう。そんな荒野での三日間続いた旅の後で、彼らは「もう嫌だ、こんな生活」と不平を言ってつぶやいたのです。何ということでしょう。この荒野の旅のために神さまからいろいろな準備をしていただいたにもかかわらず、わずか三日でつぶやいてしまったのです。それに対して主は怒りを燃やし、火をもって彼らを懲らしめられました。この火は神の裁きを表しています。イスラエルの宿営の中にきよさがなくなったので、神は火をもってその汚れを取り除こうされたのです。

すると民はモーセに向かってわめきました。モーセに向かって、「どうか、助けてください。何とかしてください。主に祈ってください。」とお願いしたのでしょう。それでモーセは主に祈ると、その火は消えました。それで、その所を「タブエラ」と名付けました。「燃える」という意味です。

つぶやきとか不平は、クリスチャンである私たちがいつも抱えている問題でもあります。イスラエルの荒野の旅は、クリスチャンにとって、この世での歩みです。この世は、クリスチャンにとって、実に住みにくいところです。すべてが自分の思いとは反対の方向へ進んでいるかのように見えます。もちろん、この世の人たちと同じような問題にも出くわします。たとえば病気であったり、交通事故であったり、仕事をしている人はその会社の経営状況が悪かったり、さまざまな嫌なことや苦しいことが起こります。そこで私たちは、イスラエルの民のように、不平を漏らしてしまうのです。神さまから、旅のためのいろいろな準備をしていただいたのにもかかわらずです。いざ不快なことが起こると、イスラエルのように不平を鳴らしてしまうのです。それは神を怒らせることなのです。

4節から7節までのところをご覧ください。また彼らのうちに混じっていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣き叫びました。「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいかも、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

ここで彼らは激しい欲望にかられ、「ああ、肉が食べたい。魚も。きゅうりも、すいかも・・・」と、かつてエジプトにいた時のことを思い出して嘆いているのです。でもエジプトにいた時は本当にそんなに良かったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。ここで彼らはエジプトでの生活が楽であったように言っていますが、実際は、激しい苦役であえぎ、叫んでいたのです。あの激しい労働を忘れていたのです。これが、私たちが陥ってしまう過ちの一つす。この世は楽しそうに見え、過去のほうが良かったように見えるときがあります。けれども、その時はきまって、自分が通ってきたむなしさ、苦しみ、悩み、暗やみを忘れてしまっているときです。そこから救い出された今こそが、最もすばらしい時であるということを見ることができないのです。

とこで、4節を見ると、ここに「また彼らのうちに混じってきていた者が・・」とあります。ここで気づかされることは、このつぶやきを初めに言ったのは、「イスラエルの中に混じってきた者」であるということです。これはいったい誰のことでしょうか?彼らはイスラエル人ではありません。イスラエルがエジプトを出るときに、「さらに、多くの入り混じって来た外国人も、彼らとともに上った。」と出エジプト記12章38節に書いてあります。イスラエルとの契約の中に入っていない者たちが、イスラエル人たちとともに旅をしていたのです。行動はともにしているのですが、異なる動機で、異なる価値観で生きていたのです。けれども、彼らがいたこと自体は問題ではありませんでした。問題は、イスラエル人自身が、彼らにつられて、つぶやいてしまったということです。宿営の中に、神の思いではなく、人の思い、肉の思いを入れてしまったところに問題があったのです。

このことは神の民の集まりである教会にも言えることです。教会は、主から与えられた幻を見て、ともに前進する共同体です。そこに必要なのは信仰であり、主のみことばによって、主を仰ぎ見ながら前進していくということです。しかし、信仰の共同体であるはずの教会が人のことばや人の考えに振り回されてしまうことがあります。そして、そのような人たちに影響されて、いっしょになってつぶやいてしまうことがあるのです。「彼らのうちに混じってきた者」がイスラエルとの契約の中に入っていない者であるように、神の救いにあずかっていない人であることが多いのです。教会は、あらゆる人々を受け入れるところでありますが、人々に影響される共同体ではありません。教会は、神の方法によって人々に影響を与えているところの共同体であるということをしっかりと覚えておきたいものです。

さて、この「マナ」は、イスラエルがエジプトを出て荒野に導かれた時、食べ物に飢えたイスラエルがモーセとアロンにつぶやいたので、彼らが食べることができるように、天から降らせたパンのことです。それは、コエンドロの種のようで、その色はベドラハのようでした。 人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、パン菓子を作っていたのですが、その味は、おいしいクリームの味のようでした。しかし、イスラエルはこのマナに食べ飽きたのです。肉が食べたい、魚が食べたい、美味しい野菜も・・・。そう言ってつぶやいたのです。これは注意しなければなりません。そんな荒野にいてもちゃんと食べることができるように神が日々与えてくださったのですから、本来であれば、それを感謝しなければならなかったのに、彼らは、この一見お決まりの食事がいやになってしまったのです。にんげってどこまでも欲足らずですね。

このことは、私たちクリスチャンも注意しなければなりません。というのは、この世における歩みは、荒野の旅のように、単調で、お決まりの日々が続くからです。必ずしも、自分たちの魂を満足させるような目新しいこと、刺激的なことが起こるわけではありません。この世においては、そのようなスリルを味わいたくて、私たちを刺激させるようなものをいろいろ提供してくれるのですが、信仰生活は違うのです。クリスチャンは、毎日与えられたマナを食べるような、単調に見える歩みではありますが、主の真実を知って、喜び感謝しなければなりません。

2.  モーセの嘆きと祈り(10-15)

次に10節から15節までをご覧ください。

「10 モーセは、民がその家族ごとに、それぞれ自分の天幕の入口で泣くのを聞いた。の怒りは激しく燃え上がり、モーセも腹立たしく思った。11 モーセはに申し上げた。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのでしょう。なぜ、私はあなたのご厚意をいただけないのでしょう。なぜ、このすべての民の重荷を私に負わされるのでしょう。12 私がこのすべての民をはらんだのでしょうか。それとも、私が彼らを生んだのでしょうか。それなのになぜ、あなたは私に、『うばが乳飲み子を抱きかかえるように、彼らをあなたの胸に抱き、わたしが彼らの先祖たちに誓った地に連れて行け』と言われるのでしょう。13 どこから私は肉を得て、この民全体に与えなければならないのでしょうか。彼らは私に泣き叫び、『私たちに肉を与えて食べさせてくれ』と言うのです。14 私だけでは、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。15 私にこんなしうちをなさるなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を苦しみに会わせないでください。」

イスラエルの民の不平とつぶやきに対するモーセの反応は、神に訴えることでした(11~14)。神に祈ることは、指導者であるモーセが問題を前にしてできる最も重要なことでした。しかし、モーセは民の絶え間ない不平とつぶやきに忍耐の限界を感じていました。モーセはイスラエルの民に対して、「このすべての民」(11)と呼んでいます。このような言い方は、自分とイスラエルの民との間に距離を置いた言い方です。神に自分の命を取り去ってほしいと叫ぶモーセの祈り(15)は、えにしだの木の下で嘆いていたエリヤの祈り(Ⅰ列王19章)を連想させます。モーセは指導者として直面する痛みと苦しみを、神の前に正直に吐き出したのです。時に私たちも率直に神の前に祈る必要があります。神は人間の限界を十分に理解されます。ゆだねられたたましいが重荷に感じられるとき、指導者として直面する心の痛みを主に告白して祈りたいものです。

3.70人の長老(16-30)

そんなモーセの祈りに主は答えてくださいました。16節から30節までのところをご覧ください。

「16 はモーセに仰せられた。「イスラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。17 わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。18 あなたは民に言わなければならない。あすのために身をきよめなさい。あなたがたは肉が食べられるのだ。あなたがたが泣いて、『ああ肉が食べたい。エジプトでは良かった』とにつぶやいて言ったからだ。が肉を下さる。あなたがたは肉が食べられるのだ。19 あなたがたが食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日だけではなく、20 一か月もであって、ついにはあなたがたの鼻から出て来て、吐き気を催すほどになる。それはあなたがたのうちにおられるをないがしろにして、御前に泣き、『なぜ、こうして私たちはエジプトから出て来たのだろう』と言ったからだ。」21 しかしモーセは申し上げた。「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」23 はモーセに答えられた。「の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」24 ここでモーセは出て行って、のことばを民に告げた。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせた。25 するとは雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その七十人の長老にも与えた。その霊が彼らの上にとどまったとき、彼らは預言した。しかし、それを重ねることはなかった。26 そのとき、ふたりの者が宿営に残っていた。ひとりの名はエルダデ、もうひとりの名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。―彼らは長老として登録された者たちであったが、天幕へは出て行かなかった―彼らは宿営の中で預言した。27 それで、ひとりの若者が走って来て、モーセに知らせて言った。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアも答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」29 しかしモーセは彼に言った。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」30 それからモーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。」

神は重荷をひとりで背負い、苦しむモーセに解決策を与えてくださいました。それは、イスラエルの長老たちのうちから70人を取り、モーセのそばに立たせるということです。つまり、モーセの重荷を分けられたのです。これによってイスラエルに新しい形の組織ができました。イスラエルは一つの国として備えるべき行政的組織を整備していったのです。神はモーセの祈りと嘆願を通して、危機をチャンスに変えてくださったのです。神はモーセに臨んだ同じ霊を70人の長老に注がれ、神の働きを力強くするようにされました。神が指導者を立てられるとき、同時に権威と力も備えてくださるのです。神の働きは聖霊の油注ぎが伴う聖霊の働きであり、信仰の人々共に成されていくものです。他の人の助けによってさらにスムーズらできることは何かを、真剣に祈り求めていかなければなりません。

さて、イスラエルの不満に対しては、主は何と言われたでしょうか。18節から23節までのところで、主は彼らに肉を食べさせると言われました。しかもただ食べさせてくるというのではないのです。それが鼻から出てくるほど嫌気がさすほど与えられるというのです。どういうことでしょうか。こんなに与えられたからと言って喜んではなりません。なぜなら、それは神が喜ばれることではなかったからです。食べたい肉を嫌というほど食べさせるというのは、一見神の答えであるかのように見えますが、実際には神の懲らしめでした。欲望のままに祈りが答えられたからと言っても、それは神がしかたなく許されたことであるかもしれないのです。この場合はまさにそうでした。祈りは私たちの願いではなく、神の願いを求めていかなければなりません。神のみこころを自分の考えに合わせて祈るのではなく、神のみこころに合わせて祈ること、それが本当の祈りなのです。個人的な欲望によって祈ることがないかを点検しなければなりません。

するとモーセは驚いて主に申し上げました。「「私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。22 彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らに十分でしょうか。」(21-22)

主は 70人の長老を立てることを約束してくださいまいましたが、何と一ヶ月もの間、肉を与えなければならないとしたら、どうやってそれができるでしょう。イスラエルの民は男だけで60万人もいるのですから・・。すると主は仰せられました。「主の手は短いだろうか。」主がこのことを成し遂げてくださいます。それはモーセやこの70人の長老によるのではありません。これを聞いて、モーセは気づいたかもしれません。「ああ、70人の長老が与えられても、それは、この肉の食べ物の問題には関係のなかったことなのだ。私は、的外れなお願いをしていたのだ。」と。主は、私たちがあまりにも切羽詰っていて、しきりにお願いするので、それを惜しまず与えられることがありますが、けれども、実は神はもっと違ったことを考えておられるのです。

そこでモーセは出て行って、主のことばを民に告げました(24)。そして彼は民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の回りに立たせました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語り、彼の上にある霊を取って、その長老たちも与えました。その礼が彼らの上にとどまったしるしとして、そのとき彼らは預言をしました。しかし、この時エルダデとメダテというたちりの者が宿営に残っていたので、天幕のモーセのところには行きませんでした。そして。宿営で預言していたのです。そこで、若者やヨシュアもびっくりして、彼らの預言をやめさせなければいけない、と思ってそのことをモーセに告げたのですが、モーセの答えはこうでした。29節です。

「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」

どういうことでしょうか。彼は、このふたりが、自分が行なっていることと同じことをしていなくても、それをねたまずに、そのような働きがもっともっと起こされればよいのに、と言ったのです。モーセはすべての人に主の霊が臨むことを願ったのです。神はキリストを通して、私たちに聖霊の賜物を与えてくださいました。それは神の子としての権威であると同時に、神の共同体である教会に仕えるための力を与えてくださったということを意味しています。神はその賜物を通して、私たちが御国の建設のために仕えることを願っておられるのです。私たちは霊的リーダーとして聖霊の賜物が用いられることを求めていかなければならないのです。

この個所で興味深いのは、モーセのことばです。「主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」(29)この当時、神は、特定の選ばれた者にのみ御霊を注がれました。そこで、モーセは「すべての人」に御霊が注がれるとよいのに、と言いました。実は、預言者ヨエルが、世の終わりにそのようになると預言しました。「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル2:28-29)そして、この預言は成就しました。五旬節の日に、聖霊が弟子たちに降り、それだけではなく、サマリヤ人、異邦人コルネリオの家族にも降りました。イスラエルの長老たちにくだった霊が、汚れているとされていたイスラエルの契約とは無縁であるとされていた異邦人にさえ下ったのです。そして、その礼が私たちにも注がれているのです。

4.  欲望にかられた民(31-35)

最後に31節から35節までを見て終わりたいと思います。

「31 さて、のほうから風が吹き、海の向こうからうずらを運んで来て、宿営の上に落とした。それは宿営の回りに、こちら側に約一日の道のり、あちら側にも約一日の道のり、地上に約二キュビトの高さになった。32 民はその火は、終日終夜、その翌日も一日中出て行って、うずらを集め、―最も少なく集めた者でも、十ホメルほど集めた―彼らはそれらを、宿営の回りに広く広げた。33 肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、の怒りが民に向かって燃え上がり、は非常に激しい疫病で民を打った。34 こうして、欲望にかられた民を、彼らがそこに埋めたので、その場所の名をキブロテ・ハタアワと呼んだ。35 キブロテ・ハタアワから、民はハツェロテに進み、ハツェロテにとどまった。」

エジプトを出た日、主は一晩中東風で紅海を干上がらせましたが、今回はその主の風でうずらの群れを送られました。神は奇跡的な方法でイスラエルの民の要求を満たされ、これを通して人間の理性を越えて働かれる神の無現の力を現してくださいました(11:23)。風に乗って飛んできたうずら群れは、約90cmの高さにまで積もりました。それでイスラエルはそれぞれ2.2リットル以上の大量のうずらを集めることができたのです。しかし、肉が彼らの歯の間にあってまだかみ終わらないうちに、主の怒りが彼らの燃え上がり、主は非常に激しい疫病で彼らを打ったのです。これはどういうことでしょうか。科学的には、うずらに何らかのばい菌が入っていたのかもしれません。それを少しずつ除菌しながら食べればよかったのかもしれませんが、むさぼり食ったためにばい菌が体に蔓延して死んだのかもしれません。あるいは、そうしたむさぼりに対する神のさばきだったのかもしれません。

いずれにせよ、イスラエルはむさぼりのために滅んでしまいました。それは私たちにも言えます。肉の欲望は人を滅びに至らせるのです。私たちは欲望に駆り立てられているときに、そのことに気づきません。けれども、自分のからだ、いのちさえをも惜しんで、欲望を満たしたいと思うようになりそこで、病気になったり、交通事故にあったり、金がなくなったので盗みを働いたり、離婚をしなければいけなくなったり、さまざまな悲惨な結果を招くことになるのです。だからパウロはこのむさぼりを殺しなさい(コロサイ3:5)と言っているのです。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです、と。私たちはむさぼり殺し、神が与えてくださったものに満足し、感謝をもって日々歩んでいきましょう。

創世記12章

きょうは創世記12章から学びます。

1.アブラハムの召命(1-9)

まず1節から9節までをご覧ください。1節には、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」とあります。11章31節を見ると、これはアブラハムが父テラとハランの孫のロトといっしょにカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからハランまでやって来て、そこに住み着いた時に語られたかのように記されてありますが、実際はそうではありません。使徒の働き7章2-3節をみると、そこに「アブラハムがハランに住む以前、まだメソポタミヤにいたとき、」に栄光の神が彼に現れて、この命令を与えたと記されてとあります。ですからこれは、カルデヤのウルにいた時にすでに与えられていた命令だったのです。ですから、注解者の中には、アブラハムがこのような命令を受けたときすぐに父や甥から離れなかったことを非難する人がいるのですが、そうではありません。アブラムはカルデヤのウルで召命をうけたとき、その時期をずっと待っていたのです。そして兄弟ハランがウルで死に、父テラもハランの地で死んだとき、彼は信仰によって歩むべき時がやってきたことを悟ったのです。物事には時期があります。信仰、信仰と、信仰だからいつでもいいかというとそうではなく、その信仰によって歩み出すべき契機となる出来事があるのです。アブラムにとってテラの死は、まさにその一つの大きな出来事であったに違いありません。

ところで、この命令の内容は「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」というものでした。いったいなぜ彼は父の家を出る必要があったのでしょうか?それは父の家が偶像礼拝の盛んなところだったからです。そのことは前回もみましたが、ヨシュア24章2節をみるとわかります。そこには、テラはほかの神々に仕えていたということばからもわかります。そこがたとえ長年住み慣れた国、長年つきあってきた気心の知れた人たちであっても、そうした偶像礼拝の盛んなカルデヤのウルやハランの地から離れ、神様が示す地に行かなければならなかったのです。それが神様のみこころだったのです。

次に2節と3節をご覧ください。ここには、「それすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福とな。あなたを祝福する者を私は祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。

ここには3つの祝福が約束されています。第一に、あなたを大いなる国民とするということです。この「国民」とはKing James Versionでは「Nation」と訳されています。民族、国、国民全体のことです。つまり、彼を通して一つの国民が造られるという約束です。考えてみてください。このとき妻サライは不妊の女(11:30)でした。それにもかかわらず、彼を「大いなる国民とする」というのです。それは本当に驚きと同時に、大きな慰めだったのではないでしょうか。

第二の祝福は、アブラハムを祝福し彼を祝福の基とするということでした。「アブラハムを祝福する者を祝福し、のろう者をのろう」とあります。つまり、彼を通して他の人も祝福の恩恵を受けるようになるということです。

そしてもう一つの約束は、彼に与えられた約束の中でも最も素晴らしい約束ですが、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」というものです。これはどういう意味でしょうか?これはこの地上に救いをもたらす方を、彼の子孫から送られるというものだからです。最初の人アダムが罪に陥ったとき、神様はそのサタンの力を打ち破る救いをもたらす方を送ると約束されましたが、それが何とアブラハムの子孫から生まれるというのです。地上のすべての人は、アブラムから出る一人の子孫によって救われるようになるというのです。もちろん、この約束には私たちも含まれています。

さて、アブラムがそのような召しを受けたとき、彼はどのように応答したでしょうか?4節と5節をご覧ください。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」とあります。この時彼は75歳という高齢でした。一般的に考えればもうゆっくり暮らしたいという年なのではないでしょうか。今よりも全体的に寿命が長かったとはいえ、それでも75歳という年は高齢でありました。にもかかわらず彼は、主がお告げになったとおりに出かけて行きました。しかもおいのロトと、彼らが得たすべての財産、ハランで加えられた人々を伴ってです。それがどのくらいの量であったかを前に調べたことがありましたが、かなりの量でした。そういったものを携えて彼は、カナンに向かって旅立って行ったのです。なぜでしょうか?なぜ彼は出かけて行くことができたのでしょうか?ヘブル11章8~10節には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しをうけたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」とあります。

それは「信仰によって」でありました。それは単なる気まぐれや冒険心からではありませんでした。アブラムは神を信じていたので、出て行くことにしたのです。彼は裕福で名声もありました。その彼が今、旅をし、テント生活をしなければならないのです。こうしたさまざまな不便な生活や社会からの圧力があったにもかかわらず、アブラムは神を信じていたので、彼のすべて、家族や所有物そして名声まで神にゆだねて、神に従ったのです。

これが信仰者の生き方の基本にあるものです。彼は、神様からそのように告げられたので、そのとおりに出かけて行くのです。そしてこの時点ではまだどこに行くのかも曖昧でした。にもかかわらずそうやって従うことができたのは、彼が神にのみ望みを置いていたからなのです。

聖書全体の真ん中はどの章だかわかりますか。詩篇118篇です。その前が全部で594章、後が594章です。この数字をたすと全部で1188です。そして、聖書全体の真ん中の節はどこかというと、詩篇118:8です。信じられないですが本当です。こんなことを調べている学者がいるんですね。ところでその詩篇118篇8節にはこうあります。

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。」

アブラハムはまさに主に身を避けた人、主のみことばに信頼した人なのです。だから神のみことばに従って出て行くことができたのです。

そうしたアブラムの信仰は、彼が約束の地に入ってからも見られます。6節から9節までをご覧ください。

「6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。7 そのころ、がアブラムに現れ、そして、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。
8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼はのため、そこに祭壇を築き、の御名によって祈った。9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。」

アブラムは神様が示してくださったカナンの地に着くと、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた主のために、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈りました。どういうことでしょうか?6節には、アブラムがカナンに入って行ったとき、そこにはすでにカナン人たちがいました。このカナン人たちはどこから来たのでしょうか。そう、あのハムの子カナンの子孫です。彼らはバベルの塔の出来事以来散らされてその一部がここに住み着くようになっていたのです。そこにアブラムたちが渡り鳥のようにやって来たわけです。そこにしっかりと居を構えていた先住民族カナン人に対して、彼らはよそ者であり、天幕に住むような実に弱い存在でしかありませんでした。しかし、そこが、神が示してくださった地であり、彼らが住むべき土地だったのです。そんな彼らの生活を支えたのは実にこの神でした。彼らにとっての頼りといえば、ただ神の約束だけだったのです。だから彼らはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈ったのです。もし彼らが出てきたところのことを考えたなら、帰る機会はいくらでもあったでしょう。その方が楽に暮らすことができたはずです。けれども彼らは、もっと良い、天の故郷を仰ぎ見ていたので、この地上ではたとえ旅人であったとしても、それに堪え忍び、神が仰せになられたことを淡々と行って行ったのです。彼は、天に用意された神の都を望んでいたので、神が示された地に安んじることができたのです。そこに祭壇を築いて礼拝し、自分が生かされている目的、自分たちに与えられている使命、そういったものをいつも確認しながら、そのように導いてくださった主に感謝して祈ったのです。

これが信仰の原点です。信仰はその人が、その置かれてある状況がどうのこうのではなく、どんな状況にあってもこの主を覚え、主に祈り、主に信頼して生きようとすることです。人に信頼するのではなく、神に信頼するのです。しかし、どちらかというと私たちはすぐに回りの状況に心が奪われてしまいます。ですからそこに祭壇を築いて主を礼拝し、主に祈り、自分たちの置かれている場所をたえず確認していかなければならない。それが礼拝であり、祈祷会なのだと思います。私たちも日々の生活の中に祈りの祭壇を築き、この神によって生かされていることを覚えながら、神を中心としていつも歩む者でありたいと思います。

2.信仰の試練(10)

アブラハムは、いよいよ神様が約束してくださったカナンの地に着きました。そこで彼は主のために祭壇を築き、主の名によって祈りました。まさに「信仰によって」歩んだ彼の姿が描き出されています。しかし、そんなアブラハムも完全な人間ではありませんでした。さまざまな試練の中で苦しむことも多かったのです。その一つの試練が、ここにある内容です。

アブラハムに与えられた最初の試練は何だったでしょうか。それは「ききん」の問題でした。いわば生活問題です。10節を見ると、ここに「さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。」とあります。神から与えられたこの試練こそ、彼の信仰の試験にほかなりませんでした。何も問題がなければいいのですが、私たちの信仰生活はそういうわけにはいきません。なぜなら、神様はその試練を通して私たちの信仰を成熟させようとしておられるからです。サタンは倒して、殺すために私たちを試みますが、神様はそうではありません。神様は倒すためではなく、建て上げるために試練をお与えになるのです。このような試練に耐え、その中で神様に従い、神様のみこころをよく知るために、このような機会を与えておられるのです。ですから、大切なのはこのような試練があることではなく、このような試練にどのように対処するかということです。アブラハムは、この試練にどのように対処したでしょうか?

11~13節をご覧ください。「 彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」

何と彼はエジプトに下って行き、そこに入ろうとする時、妻のサライに、自分の妹だと言ってくれと頼みました。そうすれば、サラのゆえにアブラハムもよくしてもらい、生き延びることができるから・・・と。ここにはアブラハムの信仰の陰さえ見られません。人間的、肉的な考え方が頭をもたげてきたのです。それは、妻の美貌に対する危惧の念であり、そのことにより起こるであろう自分の身の危険に、人間的な小細工をすることによって、当座の処置をしようと考えたのです。つまり愛すべき妻の貞節を犠牲にしてまで、自己の身の安全を計ろうとしたのです。

いったいなぜアブラハムはこのようなことをたのでしょうか?確かに生活の不安は大きかったと思います。ききんで明日からどうやって食べて行ったらよいのかわからない時、人はだれもみな不安を抱えると思います。今回の地震や津波、原発の事故で非難して来られた人を訪問して、那須町の体育館に行って話しを聞きましたが、やはり一番不安なのはこの先どうなるかということでした。家も、仕事もなくなって、これから先どうやって生活していったらいいのか。ちゃんと保障してもらいたいということでした。

アメリカの心理学者でアブラハム・マズローという人が欲求段階説を唱えましたが、それによると、こうした衣食住の欲求は、人が生きていくために必要な根源的な欲求なのです。これが脅かされるというのは、相当の不安が生じるのは確かです。しかし、アブラハムの失敗の原因はどこにあったのかというと、そうした生活上の不安が生じたことではなく、神様から目が離れてしまったことです。

かつて弟子たちだけでガリラヤ湖を舟で渡っていたとき、向かい風に悩まされて、なかなか前に進めないでいたときイエス様が湖の上を歩いて近寄られたことがありました。そして、ペテロに「舟を出て、水の上を歩いて来なさい。」と言われました。するとペテロは湖の上を歩き出したのです。しかし、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエス様が手を伸ばして助けました。そのときイエス様が言われたことはこうでした。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのだ。」(マタイ14:31)同じように、アブラハムも神様から目を離してしまったのです。

神様がアブラハムに願っておられたことはどんなことだったのでしょうか?それは彼が神様に示された地にとどまっていることでした。そこがどのような地であろうとも、またそこでどんなことが起ころうとも、そこに留まっているべきだったのです。その彼がついに生活難に耐えかねて、約束の地をみすみす捨て、エジプトへと下って行ってしまった。それが彼の失敗の原因だったのです。マタイ6章にあるように、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかについて心配するのではなく、そのようなものは神様が与えてくださると信じて、神の国とその義とを第一に求めることが彼に必要なことだったのです。

ここでちょっと注意したいことは、困難があるかないかが道の正、不正を示すものではないということです。しばしば正しい道、神に服従する道に最も大きな困難が横たわっている場合があるのです。神の約束されたカナンの地にも、強力な力を持ったカナン人がおり、こうしたききんが起こってきたのです。

3.約束を守られる神(14-20)

アブラハムがエジプトに下って行った結果、どういうことが起こったでしょうか?エジプト人はサライの非常に美しいのを見て彼女をパロに推奨したので、彼女は宮廷に召しかかえられることになりました。そして彼女のゆえにパロはアブラムによくしてやり、彼は羊の群れ、牛の群れ、ろばやらくだ、それら男女の奴隷を所有するようになりました。しかし、それはアブラハムが行ったことが正しかったということではありません。それはただ神のあわれみであり、神が彼らを守ってくださったからなのです。主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけると事の真相が明らかにされ、パロはアブラムとサラをエジプトから去らせました。いったいなぜ神様はパロに、こんなひどい災害で痛めつけられたのでしょうか。それは、神がアブラハムと交わされた約束を守るためです。神様はアブラムに、あなたによって、地上のすべての民族は祝福されると約束されました。アブラハムの子孫から多くの子孫が出て、その子孫から救い主が出るという約束です。この神様の約束が成就されるためには、神様の特別な選びが必要であり、ただアブラハムの子であるだけでは不十分だったのです。どのような女の胎から生まれるかが重要だったのです。それはサラの胎でした。神様が選ばれた胎は、不妊の女と言われていた彼女の胎を通して実現されるものでした。彼女もまた神様から選ばれた胎だったのです。にもかかわらず、もし彼女がエジプトに召し入れられ、そこでパロのそばめとして仕えるようになったとしたら、あの神様の約束が無効になってしまう危険があったのです。アブラハムはこの聖なる神様の約束が成就されるはずだったサラの胎を、自分の身の保全のために犠牲に供しようとしたのです。神様はそれを拒まれた。もしこの時、神様が御手を伸ばし事態に干渉されなかったら、あるいはアブラハムはいつまでも愛すべきサラをパロの宮廷においたなら、確かにそれで多くの財産を得、安易な生活にとどまることができたかもしれませんが、それ以上に重要な祝福を失うことになってしまう危険に直面していたのです。 しかし、たとえ人が不真実であっても、神の真実はいつまでも変わりません。神様はご自分が約束されたことを忠実に保護し、履行されるのです。すなわち神様はパロとその家とに疫病を送られて、悩まされたので、ついに事の真相が明らかにされ、パロは驚いてアブラムとサラをエジプトからさらせたのです。

私たちにもアブラハムのような試練に会うことがありますが、その時には神のみこころを求めて祈り、そのみこころに従うことによって、勝利していかなければなりません。イエス様もその宣教のはじめに悪魔の試みを受けられました。四十日四十夜断食して祈っていたとき、悪魔がやって来て、「この石がパンになるように命じなさい」と言って誘惑してきたのです。神のみこころを忘れさせ、曲がった道を求めるように誘惑してきたのです。そのための道具が「パン」でした。私たちの信仰生活にも、こうしたききんがやってくることがあります。その誘惑に勝利する力は、ただ神から与えられる力です。イエス様が一人荒野に出て神様と交わり、祈ることによってその力を求められたように、私たちも人生の荒野の中で神様の前に出て祈り、神の力を求めなければなりません。その神様との交わりの中で、神様のみこころを知り、それに従っていく力が与えられるようにと祈らなければならないのです。アブラハムが失敗に陥ったのは、それがなかったからでしょう。生活の中に祭壇が取り除かれ、主の名によって祈ることもなくなってしまった。それが一番大きな問題でした。私たちはこのアブラハムの失敗を通して、できるだけそのような失敗に陥ることがないように、いつも神様の御声を聞き、その神様のみこころから離れることがないように祈っていく者でありたいと思います。

Ⅱテサロニケ2章13~17節

きょうは、Ⅱテサロニケ2章後半のところから、「主があなたの心を慰め、強めてくださるように」というタイトルでお話します。パウロは2章前半のところで、主の日がすでに来たかのように言って惑わす人がいても、そのようなことにだまされないようにと勧めました。なぜなら、その前には必ず二つのことが起こるからです。一つは背教で、もう一つは不法の人の到来です。終わりの日の前にはこの二つのことが起こるので、それをよく見てだまされたいりしないようにしなさいと言いました。きょうのところはその続きです。

Ⅰ.神の救い(13-14)

まず13節をご覧ください。ご一緒に読んでみたいと思います。

「しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。」(13)

パウロは、キリストを受け入れない人たちに臨む神のさばきについて語りましたが、一方、テサロニケの人たちについては神に感謝しています。なぜなら、神が彼らを救いにお選びになったからです。パウロは1章3節でも感謝しました。それは彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの相互の間に、愛が増し加わっていたからです。また、彼らは激しい迫害と患難とに耐えながらその信仰を堅く保っていたからです。そして、彼は再び神に感謝しています。それは神が彼らを救ってくださったからです。

いったいなぜ神は彼らを救ってくださったのでしょうか。それは、神が彼らを愛してくださったからです。ここには、「主に愛された兄弟たち」とあります。神が彼らを愛してくださったので、彼らは救われたのです。いったいなぜ神は彼らを愛されたのでしょうか。わかりません。というのは、彼らには愛される資格などなかったからです。彼らも、私たちも罪を犯し、神を神とも思わず、自分勝手に生きていました。愛される資格など全くなかったのです。それにもかかわらず、神は私たちを愛してくださいました。そして、そのためにご自身のひとり子を与えてくださいました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

とても有名なみことばです。これは聖書の中の小聖書と言われている箇所で、この一節を見れば、聖書が何のために書かれたのかがわかると言われている箇所です。それは、神は愛であるということ、そして、神はそのひとり子をお与えになったほどに世を、あなたを、私を愛してくださったということです。そしてそれは、この御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため、すなわち、救われるためです。

同じヨハネが書いた手紙にも、この神の愛について書かれてあります。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(Ⅰヨハネ4:9~11)

皆さん、いったいどこに愛があるのでしょうか。ここにあります。神が私たちのために、なだめの供え物としての御子を遣わされたことの中にあるのです。なだめるというのは、怒りや不満の気持ちを静めることです。神は私たち人間の罪に対して怒っておられます。その怒りを静めようと人はいろいろな事をするわけです。たとえば、ボランティアをしたり、困っている人を助けたり、高価なささげものをしたりといったことです。ほら、皆さんが怒っておられるとき、誰かがお詫びのしるしとして何かを差し出すと、それを見て気持ちがやわらぐのと同じです。やってしまったことはしょうがないけど、そこまで反省しているならしょうがないか、となるわけです。ところが、人間の罪はあまりにもひどいので、たとえ人がどんな良いことをしても、困っている人を助けたり、相談にのってあげた、たくさんささげものをしたからといっても、神の怒りを静めることはできませんでした。それをなだめることができたのは、人間の側の何かではなく、神のひとり子のいのちだったのです。神はご自身のひとり子をなだめの供え物として十字架につけてくださいました。神はそのひとり子のいけにえを見て、人間の罪に対するご自身の怒りをなだめられたのです。そこまでして神は私たちをゆるしてくださったのです。ここに神の愛が示されたのです。

だからヨハネは「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合いましょう。」と言っているのです。神がこれほどまでに愛してくださったのだから、私たちは互いに愛することができるのです。この愛がわからなければ、他の人を愛することも、赦すこともできません。それはただ十字架で死なれたイエスさまを見上げ、そこに現された神の愛を知った人だけができることなのです。

ここでパウロは、神はテサロニケの人たちを愛してくださったので、彼らを救いにお選びになったと言っています。それはいつのことでしょうか。それは「初めから」です。あなたが何か良いことをしたからではなく、あなたが優れていたからでもなく、そういうことと全く関係なく、あなたが生まれるずっと前から、いや、この世界が造られるずっと前からそのように選ばれていたのです。エペソ人への手紙1章には、「世界の基の置かれる前から」とあります。世界の基の置かれる前から、神はあなたが救われるようにとあらかじめ救いに定めておられたのです。

そのことは、イエスさまの言葉からもわかります。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

皆さん、私たちは、自分で教会に来たかのように思っていますが、実はそうではありません。自分でイエス・キリストを信じたかのように考えていますが、そうではないのです。イエスさまがあなたをそのように選んでおられたのです。ここに私たちの救いの確かさがあるのではないでしょうか。もし私たちが自分で好きに信じたのであれば、嫌になったら「や~めた」ということになってしまいますが、そうじゃないというのです。神がそのように選んでくださったのですから、たとえ日の中、水の中、どんなことがあろうとも、決して見捨てられることはありません。神は最後まで責任をもって導いてくださるのです。

ところで、神はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。ここには、「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、救いにお選びになったからです。」とあります。どういうことでしょうか。ここから、私たちが救われるためには二つのことが必要であることがわかります。一つは神の側の働きと、それからもう一つは私たち人間の側の応答です。

まず救いは神の側の働きによるものです。そのことをパウロはここで「御霊による聖め」と言っているのです。御霊とは神の聖霊のことです。神はこの聖霊によって私たちを聖めてくださいました。聖めるとは「分離する」とか「分ける」という意味です。神は聖霊によってこの世からあなたを分離してくださった、救ってくださったのです。

ヨハネの福音書3章にニコデモの話があります。彼はユダヤ人の指導者で教師でもありましたが、ある一つのことがどうしてもわかりませんでした。それは、人はどうしたら神の国を見ることができるかということです。どうしたら救われて天国に入ることができるかということですね。そこである夜、ほっかぶりをしてイエスさまのもとを訪ねるのです。ほら、彼はユダヤ教の指導者でしたから、わからないなんて言えないのです。だから、だれにもわからないようにかぶり物をして、しかも夜、こっそりとやって来たのです。

そんなニコデモにイエスは何と言われたでしょうか。イエスは言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)

ん、新しく生まれなければ神の国を見ることができない?どういうことか?もう私は70ですよ。こんな老年になっていて、どのようにして生まれることができましょう。もう一度、お母さんの胎に入って生まれなければならないということでしょうか。(3:4)

ニコデモは新しく生まれるということがどういうことがわかりませんでした。彼はユダヤ教の教師で、聖書もよく知っていましたが、救い主がだれなのか、イエスがだれなのかがわからなかったのです。それでイエス言われました。「人は水と御霊によって新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(3:5)

人は水と御霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないのです。水と御霊によって新しく生まれるとはどういうことでしょうか。皆さん、人間には二つの誕生があります。一つは肉体の誕生であり、もう一つは霊の誕生です。肉体の誕生、すなわち生まれたままの状態では神の国に入ることはできません。なぜなら、そこには罪があるからです。罪があれば神の国に入ることはできないのです。神の国に入るには霊(神の霊、聖霊)によって新しく生まれなければならないのです。それで神はイエス・キリストを与えてくださいました。イエス・キリストを信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。だれでもイエスを信じるなら、その瞬間に神の霊を受けることができます。聖霊によって新しく生まれることができるのです。これは神の側による、神の働きによるものなのです。

けれども、その一方で、救いを得るためには私たちの側の応答も必要です。それが「真理による信仰」です。どういうことでしょうか。それは、真理であるイエス・キリストを信じる信仰ということです。ヨハネ14章6節のところで、イエスはこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

イエスは道であり、真理であり、いのちです。このイエスを信じるなら、あなたは救われます。あなたも、あなたの家族も。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

このように、私たちが救われるためには神の側の働きと、人間の側の応答という二つの側面があるのです。真理のみことばを聞かなければ応答のしようがありません。聞いたことがないものを、どうして信じることができるでしょう。ですから、神さまはそのために人を遣わされるのです。テサロニケにもパウロたちが遣わされました。14節をご覧ください。

「ですから神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。」

神はパウロたちを遣わして福音を宣べさせました。ここに、「福音によってあなたがたを召し」とあるのはこのことです。神はパウロたちを通して語った福音を通して彼らを救いへと召し、イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。

このことを思うと、パウロは感謝せずにはいられませんでした。信仰をもってまだ数か月のテサロニケの人たちは、激しい迫害と患難の中にありましたが神は一方的に彼らを愛してくださり、救ってくださったことを思うと、自然と感謝が溢れてきたのです。

それは私たちも同じです。私たちにも困難があります。苦しみもあるでしょう。でも、このことを思うと感謝せずにはいられなくなるのです。神があなたを救ってくださいました。あなたが何かをしたからでなく、また、あなたに救われるだけの根拠があったからでもありません。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によって、一方的に救ってくださったのです。あなたが救われたのは、ただ恵みによるのです。そのことを思うと感謝せずにはいられません。たとえ今どのような状況にあっても、たとえ困難にあっても、あなたは感謝せずにはいられなくなるのです。

Ⅱ.堅く立って(15)

次に15節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。

「そこで、兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」

「そこで」というのは、これまでパウロが語ってきたことを受けてということです。それを受けてパウロはこう言っています。「堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。」

堅く立つためには軸がしっかりしているということがとても大切です。土台がしっかりしているということが必要なんです。その軸とは何でしょうか。その土台とは何でしょうか。それは神のことばです。あなたの心が揺るがないためには、神のことばにしっかりと立っていなければなりません。あなたが揺らぐのは問題を見ているからです。問題を見るとぐらぐらと揺らぎ、穴の中に沈みかけてしまいます。ペテロも湖で沈みかけたのは風を見て怖くなったからです。もし彼がイエスさまだけを見ていたら、沈みかけることはありませんでした。問題を見て怖くなったので沈んだのです。私たちも人の言葉や人の態度を見ると揺らいでしまいます。でももし神のことばに立つなら、決して揺らぐことはありません。しっかりと立つことができるのです。

パウロはここで、神のことばのことを「私たちのことば」と言っています。これはどういうことでしょうか。また、ここで彼は私たちの手紙と言っているのはどうしてでしょうか。それは、パウロや使徒たちが直接イエスさまから教えられた人たちだからです。私たちは間接的に聞いて、間接的に教えられていますが、パウロたちや使徒たちは、人となって来られた神イエスを直接見て、その奇跡を目の当たりにしました。また、その権威ある教えをじかに聞いたのです。ですから、彼らが教えていたことはイエスさまが教えていたことであり、イエスさまのことばそのものであったわけです。また、それは彼らが書いた手紙というのも神の霊感を受けたものであり、普通の手紙ではなく、主イエスからの手紙と同じであったからです。ですからパウロはここで、「私たちのことば」とか「手紙」と言っているのです。その教えを守るとき、私たちの信仰は揺らぐことがなく、しっかりと立つことができるのです。

私たちの信仰が弱くなるのはどうしてでしょうか。また、教会が霊的に弱くなってしまうのはどうしてなのでしょうか。それは、神のことばに立たないで、自分の考えや自分の思いに立つからです。私たちが神にことばに立たないで自分の思いに立つなら弱くなります。また、すでに教えられている教えからズレてしまうと弱くなってしまうのです。ですから、そういうことがないように、私たちは神のことば、すでに教えられた教えに堅く立っていなければなりません。

Ⅲ.心を慰め、強めてくださいますように(16-17)

最後に16節と17節を見て終わりたいと思います。ご一緒に読んでみましょう。パウロはテサロニケのクリスチャンたちに教えと励ましを与えた後でこう祈っています。

「どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。」

パウロはここで二つのことを祈っています。一つは、神が彼らの心を慰め、強めてくださるようにということ、そしてもう一つのことは、あらゆる良いわざとことばに進むようにということです。この順序が大切です。というのは、あらゆる良いわざとことばとに進むためには、心が慰められ、強められなければならないからです。良いわざとか、ことばというのは、自分の中に力がないとできません。したいと思っても力がないとできないのです。その力とは何でしょうか。それは聖霊の力です。イエスさまはこう言われました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリやの全土、および地の果てまでわたしの証人となります。」

良いわざとことば、すなわち、キリストの証人となるためには、力を受けなければなりません。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリやの全土、および地の果てにまで、キリストの証人となることができます。でも力がないと証をすることができません。そういう時には休んでください。休むと回復します。神のことばによって慰められ、励まされ、強められると元気になってくるのです。そのように力を受けたら、証をすればいいのです。

ところで、そのように彼らの心を慰め、強めてくださる方はだれでしょうか。それは、もちろん神です。それは、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神です。しかし、ここにはその神がどのような方であるかが紹介されています。すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。

まず神は私たちを愛してくださった方です。イエスさまは私たちを愛し、私たちのために十字架で死んでくださいました。このキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。パウロはローマ8章35節から39節までのところでこう言っています。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」

「しかし」です。患難があります。苦しみもあります。迫害がある。しかし、私たちはこれらすべての中にあって圧倒的な勝利者となることができるのです。どうしてでしょうか。神が愛してくださったからです。誰も、何も、このキリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。皆さん、私たちは問題を見ると心が沈みます。しかし、私たちの目を神に向けると慰めを受けるのです。なぜなら、私たちは私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるからです。

また、神は恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方です。神は慰めの神です。どのような苦しみの時でも、私たちを慰めてくださるとあります(Ⅱコリント1:3-4)。どんな苦しみの中にあっても、やがて神の安息が与えられると思うと慰められます。永遠の安息はこの地上にはありません。どこに行っても問題はあります。でも永遠の御国、天国はそうではありません。そこにはもはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。そこには主がともにおられるので、主が彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。それこそ本当の慰めではないでしょうか。

またパウロはここで、神はすばらしい望みを与えてくださった方であると言っています。苦しいことがあると、希望が消えそうになります。テサロニケの人たちもまさにそうでした。しかし、パウロは彼らにすばらしい望みを思い起こさせています。その望みとは何でしょうか。それは神の国に入れていただけるという望みです。やがて永遠の安息が待っています。そして、そればかりではなく、朽ちることのないからだ、栄光の姿によみがえるという希望が与えられているのです。この希望を持っていれば、この地上でどんなに苦しいことがあっても、辛いこと、悲しいことがあっても、必ず乗り越えることができます。だからパウロは彼らにお願いをする前に、神がどのような方なのか、どんなことをしてくださったのかを思い起こさせているのです。

どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を慰め、強めてくださいますように。

私たちの周りにもまだ救われていない人たちがたくさんおられます。そしてそういう人たちが救われるようにと、神はあなたが良いわざとことばとに進むように願っておられます。そのためにまずあなた自身が慰められ、強められる必要があります。あなたが受けている苦しみは何ですか。あなたは今どんことで疲れ果てておられるでしょうか。でも神はあなたを慰め、あなたを強めてくださいます。神はあなたを愛し、あなたのためにひとり子さえも与えてくださいました。そして、私たちの主イエス・キリストの栄光を得させてくださったのです。この方にあって、あなたは慰めを受け、強めていただくことができるのです。どうかペテロのように風を見て怖くなり沈みかけるのではなく、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みとを与えてくださった方を見て強められますように。それによってあらゆる良いわざとことばとに進むことができますように祈ります。

民数記10章

きょうは、民数記10章をご一緒に学びたいと思います。約束の地に向かって進むイスラエルのために、そのために必要なことを主はシナイの荒野で語っています。今回の箇所でイスラエルは実際に旅立ちます。

1.銀のラッパ(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。

「1 ついではモーセに告げて仰せられた。2 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。3 この二つが長く吹き鳴らされると、全会衆が会見の天幕の入口の、あなたのところに集まる。4 もしその一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちがあなたのところに集まる。5 また、あなたがたがそれを短く吹き鳴らすと、東側に宿っている宿営が出発する。6 あなたがたが二度目に短く吹き鳴らすと、南側に宿っている宿営が出発する。彼らが出発するには、短く吹き鳴らさなければならない。7 集会を召集するときには、長く吹き鳴らさなければならない。短く吹き鳴らしてはならない。8 祭司であるアロンの子らがラッパを吹かなければならない。これはあなたがたにとって、代々にわたる永遠の定めである。9 また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。あなたがたが、あなたがたの神、の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。10 また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、である。」

1節と2節には、「ついではモーセに告げて仰せられた。 「銀のラッパを二本作らせよ。それを打ち物作りとし、あなたはそれで会衆を招集し、また宿営を出発させなければならない。」とあります。主はモーセに、会衆を招集したり、また宿営させるために、銀のラッパを二本作らせるようにと命じました。3節、この二本のラッパが長く吹き鳴らすと、全会衆が会見の入り口にいたモーセのところに集まりました。4節、もし一本のラッパだけなら、分団のかしらである族長たちだけが集まりました。5節、それを短く1回だけ吹き鳴らすと、東側に宿っていた宿営が出発します。6節、二度目に短く鳴らすと、南側の宿営が出発します。このように分団を招集するときには長く、出発するときには短くラッパを吹き鳴らしました。また9節を見てください。イスラエルの民は、絶えず敵からの襲撃の脅威にさらされていましたが、その時には、ラッパを短く吹き鳴らしました。彼らが彼らの神、主に覚えられ、敵から救われるためです。このように敵と戦い、敵に勝利してくださるのも主ご自身でした。敵と戦うとき、主に覚えらるために、ラッパを吹き鳴らしたのです。また10節には、彼らの喜びの日、すなわち、例祭と新月の日に、全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、彼らの神の前に覚えられる、とあります。ですから、ラッパの音というのは、まさに神の音であったのです。

私たちが、この地上にいて聞くラッパの音があります。それは、主イエス・キリストが私たちのために再び戻ってきてくるときです。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」 (Ⅰコリント15:52)。イスラエルの民の族長たちが、ラッパの音を聞いてモーセのところに集まってきたように、私たち教会も、終わりのラッパの音とともに一挙に引き上げられるのです。

それだけではありません。イエスさまがこの地上に戻られるとき、今度はイスラエルの民自身が、イスラエルの土地に集まってきます。イエスさまが言われました。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)ラッパは私たちを集め、一つにしてくださる神のみわざなのです。また、イスラエルが戦いに出たときに、ラッパが吹き鳴らされたように、神が地上にさばきを下さるときにラッパが吹き鳴らされることがわかります。黙示録に出てくる七つのラッパの災害です。したがって、イスラエルの民がラッパによって集められたり、旅立ったり、戦ったり、祭りを行ったりしたというのは、私たちが神のラッパの合図によって行動するように、それをいつも待ち望まなければいけないことを表しているのです。

2.出発順序(11-28)

次に11節から28節までをご覧ください。いよいよイスラエルが約束の地に向かって旅立ちますが、ここにはその出発の順序が記されてあります。

「11 第二年目の第二月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。12 それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ったが、雲はパランの荒野でとどまった。13 彼らは、モーセを通して示されたの命令によって初めて旅立ち、14 まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発した。軍団長はアミナダブの子ナフション。15 イッサカル部族の軍団長はツアルの子ネタヌエル。16 ゼブルン部族の軍団長はへロンの子エリアブ。17 幕屋が取りはずされ、幕屋を運ぶゲルション族、メラリ族が出発。18 ルベンの宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はシェデウルの子エリツル。19 シメオン部族の軍団長はツリシャダイの子シェルミエル。20 ガド部族の軍団長はデウエルの子エルヤサフ。21 聖なる物を運ぶケハテ人が出発。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられる。22 また、エフライム族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発。軍団長はアミフデの子エリシャマ。23 マナセ部族の軍団長はペダツルの子ガムリエル。24 ベニヤミン部族の軍団長はギデオニの子アビダンであった。25 ダン部族の宿営の旗が、全宿営の後衛としてその軍団ごとに出発。軍団長はアミシャダイの子アヒエゼル。26 アシェル部族の軍団長はオクランの子パグイエル。27 ナフタリ部族の軍団長はエナンの子アヒラ。28 以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序であって、彼らはそのように出発した。」

イスラエルが出発したのは、第二年目の第二月の二十日のことでした。それは、神がイスラエルの民を登録するようにと命じてから二十日後のことでした(民数記1:1)。雲があかしの幕屋の上から離れていきました。それでイスラエル人はシナイの荒野を出て旅立ちましたが、雲はパランの荒野でとどまりました。そして、どのように出発したかが描かれています。

まず初めにユダ族の宿営の旗が、その軍団ごとに出発しました(14)。ユダの宿営にはユダ部族以外にイッサカル部族とゼブルン部族がいましたので、彼らがまず出発しました。

次は17節にあるように、レビ人が幕屋を取り外して、彼らの後に続いて出発します。彼らは、イスラエルの軍団と軍団の間に挟まれるようにして進みました。その次はルベンの宿営が出発しました。すなわち、南側に宿営していた部族です。ここにはルペン族以外にシメオン部族とガド部族がいました。次に、聖なる物を運ぶケハテ人が出発しました。レビ族です。彼らが着くまでに、幕屋は建て終えられていなければなりませんでした。なぜケハテ族はゲルション族とメラリ族の後に続かなかったのかと言うと、彼らが着くまでに、幕屋が建て終えられていなければならなかったからです。そこまで計算されていたのです。すごいですね。実に整然としています。次に進んだのは、エフライム族の宿営です。これは西側にいた部族でした。ここにはエフライム部族の他にマナセ部族、ベニヤミン部族がいました。最後に出発したのはダン部族の宿営、すなわち、北側に宿営していた部族です。ここにはダン部族の他にアシェル部族、ナフタリ部族がいました。彼らは全宿営の後衛に回りました。

以上がイスラエル人の軍団ごとの出発順序でした。これを上空から眺めると、東から動いて、次にあかしの幕屋が動き、そして南、西、北と円を描くようにして出発していたことがわかります。実に整然としています。それはどういうことかというと、神の民の共同体には、このような秩序と順序があるということです。どうでもよかったのではないのです。神は混乱の神ではなく、平和の神だからです(Ⅰコリント14:33)。それは私たちが集まるところにおいても同じです。神の教会にも平和と秩序があります。それを乱すことは神のみこころではありません。「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いな」(Ⅰコリント14:40)わなければならないのです。私たちは、どのように神が権威を人々に与えておられるのかを、見極めることが大切なのです。

3.主の契約の箱が出発するとき(29-36)

最後に29節から36節までを見て終わります。まず29節から32節までをご覧ください。

「29 さて、モーセは、彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホバブに言った。「私たちは、があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。」30 彼はモーセに答えた。「私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。」31 そこでモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。32 私たちといっしょに行ってくだされば、が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。」

彼のしゅうとミデヤン人レウエルの子ホハブとは、モーセのしゅうとレウエル、別名イテロの息子レウエルのことです。ここでモーセはレウエルに、自分たちの道案内人になってくれと頼んでいるのです。荒野を歩くことは死を意味するということをテレビで観たことがありますが、何の目印もない広大な荒野を旅することは方向感覚を失うことでもあり、それは一般的には不可能なことでした。ですからモーセはずっとミデヤンの荒野に住んでいた彼らなら、どこをどのように進んで行ったらいいのかをよく知っていましたから、自分たちの目になってほしいと頼んだのです。

しかし、私たちはこれまで民数記を学んでくる中で、主が荒野を旅するイスラエルをどのように整え、備えてきたかを見てきました。まず二十歳以上の男子が登録され、敵の攻撃に備えました。また、イスラエルの各部族は天幕の回りに宿営し上空から見れば十字架の形になって進んでいきました。また、外敵の攻撃ばかりでなく、内側も聖めました。なぜなら、そこには神が住まわれるからです。神が共におられるなら、どんな攻撃があっても大丈夫です。ですから彼らは内側を聖め、ささげ物をささげ、過越の祭りを行ないました。そして、彼らが迷うことがないように、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導いてくださったのです。これほど確かな備えと導きが与えられていたにもかかわらず、いくらその地域を熟知しているからといっても、イテろの息子に道案内を頼むというのは不思議な話です。いったいモーセはなぜこのようなことをしたのでしょうか。

それはモーセが彼らの道案内を頼ったというよりも、これまで長らくお世話になったしゅうとのイテロとその家族に対する恩返しのためであり、彼らを幸せにしたいというモーセの願いがあったからでしょう。事実、約束の地に入った彼の子孫は、イスラエル人の中に住みました(士師1:16,4:11)。なぜそのように言えるのかというと、33節から終わりまでのところに、実際にイスラエルの荒野旅を導いたのはミデヤン人ホバブではなく、主ご自身であったことがわかるからです。ここにはこうあります。

「33 こうして、彼らはの山を出て、三日の道のりを進んだ。の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。34 彼らが宿営を出て進むとき、昼間はの雲が彼らの上にあった。35 契約の箱が出発するときには、モーセはこう言っていた。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」36 またそれがとどまるときに、彼は言っていた。「よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」

旅の中では後ろのほうにあるはずの契約の箱が、ここでは先頭に立って進んでいることがわかります。すなわち、本当の道案内人は、ホバブではなく主ご自身であったのです。主が彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所をもたらしたのです。

そして、その契約の箱が出発するときには、モーセはいつもこのように祈りました。「よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。」また、それがとどまるときには、「主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」と祈りました。つまり、真にイスラエルの荒野の旅を導いていたのは、主ご自身であったということです。モーセは出発するときには、その主が立ち上がり、敵が逃げ去って行きますように、宿営するときには、主がとどまってくださるように祈ったのです。

この二つの祈りは単純な祈りですが、私たちにとっても大切な祈りです。私たちが、この世において歩むときにも、霊の戦いがあります(エペソ6章)。その戦いにおいて勝利することができるように、主が立ち上がり、敵と戦ってくださるように、そして、敵の手から、私たちを救い出してください、と祈らなければなりません。また、この世において歩んでいるところから立ち止って、礼拝をささげるとき、「主よ、お帰りください。私たちとともにいてください。」と祈ることが必要です。というのは、私たちの信仰の歩みにおいて最も重要なことは、この主が共にいてくださるかどうかであるからです。私たちの信仰の旅立ち、その行程において、主が共におられ、敵から救ってくださり、敵に勝利することができるように祈り求める者となりますように。

Ⅱテサロニケ2章1~12節

新年あけましておめでとうございます。教会ではきょうが新年の礼拝となりますが、この新しい年もみことばから教えられ、主のみこころに歩ませていただきたいと思います。 この新年の礼拝で私たちに与えられているみことばは、Ⅱテサロニケ2章1節からの箇所です。1章のところでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちが受けている迫害と患難の意味を語り、彼らを励ましました。それは彼らを神の国にふさわしい者とするためであって、やがてキリストが来臨されるとき、報いとして安息と栄光を受けるためであるということでした。けれども、テサロニケの教会の中には、このキリストの再臨についての間違った理解から、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしている人たちがいました。そこでパウロは迫害と患難の中にあるテサロニケのクリスチャンたちを励まし主の再臨について正しく教えるために、この第二の手紙を書いたのです。

これはテサロニケのクリスチャンたちだけでなく、今の時代を生きる私たちクリスチャンに対する神からのメッセージでもあります。こうして新しい年を迎えるということは、同時に、主の再臨がより近づいているということでもありますから、私たちはこの主の再臨について聖書から正しく理解し、だれからも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話をします。第一に、主のご再臨はいつやって来るのですか。その前には二つの兆候があります。背教が起こり、不法の人が現れるということです。不法の人と呼ばれる人が現れなければ、主の日は来ないのです。第二のことは、しかし、今は、その不法の人が来ないように、引き止められているということです。そして第三のことは、その時になると不法の人が現れますが、主は御口の息をもって滅ぼしてしまわれるということです。

Ⅰ.終わりの日の二つのしるし(1-4)

それでは、本文を見ていきたいと思います。まず1節から4節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「1 さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。2 霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」

パウロはテサロニケのクリスチャンたちに、イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関して、お願いしています。霊によっても、あるいはことばによっても、あるいはパウロたちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように勘違いして、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないようにしてください・・・と。イエス・キリストが再び来られることと、主のみもとに集められることに関してというのは、主の空中再臨とそのときに起こる携挙という出来事のことであります。

このことについてはすでに、Ⅰテサロニケ4章13節から18節までのところで学んだとおりです。聖書は、主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、天から下って来られます。そのときキリストにあって死んだ人たちが、まず初めによみがえり、次に、生き残っているクリスチャンたちが、たちまち雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになると言っています。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになります。これが主の日に起こることです。

ところが、テサロニケのクリスチャンたちの中には、彼らがまだ地上にいるというのに、主の日がすでに来たかのように話している人たちがいたのです。その日にはクリスチャンたちは引き挙げられると言われているのに地上に残っていたら大変なことになります。いったいこれはどういうことかと混乱しますよね。自分は救われていなかったのかと悩むに違いありません。

「霊によって」とは、別の霊、間違った霊、悪霊のことです。「ことばによって」とは、人のことば、人の考え、人の思いによってということです。神のことばによってではなく人のことば、人の教えによってということです。そして「私たちから出た手紙によって」とは、パウロたちから出たかのような手紙によってということで、パウロたちの名を名乗る偽物の手紙が当時出回っていたことがわかります。このようなことを言いふらす人たちは、いかにもそれが聖霊の導きによって示されたかのように語ったり、パウロが教えた内容であるかのように言って惑わしていたので、彼らは落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。彼らは人のことばに振り回されていて、聖書に書かれてあることをよく吟味していなかったということす。彼らは幼子のような純粋な信仰を持っていましたが、聖書をよく調べるという点では弱かったのです。ですから、誰かが主の日はすでに来たかのように言うのを聞くとすぐにそれを間に受け、落ち着きを失い、心を騒がせていたのです。私たちも注意したいですね。誰か他の人が語る言葉を聞いて、あるいはそうした類の書物を読んで、それがあたかも神から出たかのように思い込みと、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせてしまうことになります。しかし、もしその言っていることをみことばによってよく吟味するなら、そのように落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

あのベレヤのユダヤ人たちはそうでした。彼らはたとえパウロが語ったことであっても、それが本当に聖書に書いてあることなのかどうかを毎日聖書によって調べました。そのように聖書によってきちんと確認するなら、落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

では主の日はどのようにしてやって来るのでしょうか。3節と4節をご覧ください。

「3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。4 彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」

ここでパウロは主の日が来る前に二つの前兆があると言っています。一つは「背教」であり、もう一つは「不法の人」すなわち「滅びの子」の出現です。「背教」とはギリシャ語で「アポスタシア」と言いますが、これは「元々立っている所から離れて立つ」という意味です。すなわち、元々立っていた信仰から離れてしまうことを指しています。聖書に書かれてあることに背くことと言ってもいいでしょう。これは英語のapostasy(背教、背信という意味)の語源になったことばです。主の日が近くなると、社会全体、全世界がアポスタシアの状態になります。聖書から完全に離れた社会、それがまかりとおるような社会になるのです。現代はまさにそういう社会ではないでしょうか。それがますます加速しているように思えます。パウロはⅡテモテ3章1~5節のところでこう言っています。

「1 終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。2 そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、3 情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、4 裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」

現代はまさにここに書いてあるような社会ではないでしょうか。それは神から離れた人間の、もともと立っていなければならない所から離れた人間の姿なのです。これはずっと昔から見られる傾向ですが、世の終わりが近くなるとその傾向がもっともっと強くなります。まさに今はこのような時代を迎えているのです。

主の再臨の前兆としてここに挙げられているもう一つのことは、「不法の人、すなわち滅びの子が現れる」ということです。彼は4節に、「彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高くあげ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」とあるように、神に反抗し、自分を神よりも高く上げ、自分こそ神であると宣言する反キリストのことです。反キリストはサタンの手先となってキリストに対抗するのですが、パウロは、この反キリストが現れなければ主の日は来ないと言っています。それは何の根拠もなく言っているのではありません。このような不法の人が現れることは実はずっと昔から、旧約聖書で預言されていたことだったのです。

たとえばダニエル書7章24,25節には、「十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もう一人の王が立つ。彼は先の者たちと異なり、三人の王を打ち倒す。彼はいと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼしつくそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。」(ダニエル7:24,25)とあります。これは世の終わりのひと時とふた時と半時の間、すなわち3年半の間、神に敵対して、聖徒たちを滅ぼしつくそうとする反キリストのことを預言していたのです。彼は、「彼の軍勢は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。」(同11:36)のです。彼はエルサレムの神殿の至聖所にズケズケと入って来て、我こそが神であると宣言するのです。

この「荒らす忌むべきもの」については、イエスさまも語られたことです。マタイの福音書24章15節から29節です。「15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。19 だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」

多く聖書学者は、これはB.C.2世紀にエルサレムの神殿を踏み荒したセレウコス朝シリヤのアンティオコス・エピファネスのことだろうと考えていますが、それは一つの型にすぎません。世の終わりには彼とは別の、不法の人、滅びの子、反キリストが現れるのです。彼が現れなければ、主の日はやって来ることはありません。

だから、だれにも、どのようにも、だまされてはいけません。聖書をよく見て、そこに書かれてあることが起こっているかどうかを確認して、冷静に判断しなければなりません。そうすれば、主の日がすでに来たかのように言うのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりすることはないのです。

Ⅱ.引き止める者(5-7)

では、その不法の人はいつ現れるのでしょうか。次に5節から7節までをご覧ください。

「5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。6 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現れるようにと、いま引き止めているものがあるのです。7 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」

5節の「これらのこと」とは、1節から4節までのところに書かれてあることです。パウロはテサロニケの町を訪れて伝道したとき、信じた人たちにこれらのことをよく話していました。パウロがテサロニケで伝道したのはわずか3週間余りでしたがその短い間に彼は、救われたばかりのベイビークリスチャンに、これらのこと、つまり終末に関する聖書の教えを既に語っていたのです。キリストが再臨されること、また、その時にはクリスチャンは一挙に雲の中に引き挙げられること、そしてそこで主とお会いするということ、しかしその前にまず背教が起こり、反キリストが現れるということを話していたのです。ということは、これらのことは一部の聖書に興味のある人たちだけの話題ではなく、新しく救われたクリスチャンも知っておかなければならない大切で、基本的な教えであることがわかります。

その教えによると、確かに不法の人は現れるのですが、いまそれを引き止めている者があるということです。その引き止めているものとは何でしょうか。7節ではこれを「引き止める者」と人格的に表現しています。そうです、これは神の聖霊のことなのです。これをローマ帝国とその皇帝のことではないかと考えている人もいますが、そうではありません。このサタンの力をどうやってローマの皇帝が引き止めることができるでしょうか。どんなに力ある者でも、この悪に対抗できる者などいません。それを引き止めることができるのはただ神の力、聖霊ご自身以外にはいないのです。聖霊はペンテコステの時以来教会と共に臨在され、教会を守り、神の聖徒たちとともに働いておられるのです。主イエスはこう言われました。

「13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:13-16)

皆さん、私たちは地の塩、世の光です。塩が塩けをなくしたら何の役にも立ちません。クリスチャンは地の塩として、この世の腐敗を防止する役割が与えられているのです。また、この世の光として、この世を照らしていく役割があります。どんなにこの世が暗くなっても、完全に暗くなることはできません。なぜなら、そこにクリスチャンが置かれているからです。いったいどのようにしたら暗やみに勝利することができるのでしょうか。暗やみに空手チョップを食らわせてもだめです。キリストの御名によって出て行けと叫びますか。あなたがそのようにどんなに叫んでも暗やみが出ていくことはないのです。でももしあなたが光を持ってきたら、一瞬にして闇は消え去ります。ただ光を持って来ればいいのです。そうすればやみはすぐに逃げ去って明るくなります。その光を輝かせなければなりません。その光こそイエス・キリストの光、聖霊の光なのです。この聖霊とともに私たちはこの世に働いているサタンの力を制御し、悪霊の働きをとどめているのです。

しかし、その聖霊が取り除かれる時がやってきます。いつですか。携挙の時です。クリスチャンが一挙に引き上げられるので、彼を引き止めているものが無くなってしまうのです。その時には一気が悪の力がこの地上になだれ込むようになります。そして恐ろしい患難時代が始まるのです。でも今は地上には教会がありますから、聖霊を内住したクリスチャンたちがたくさんいるので、今はそれを引き止めているのです。やがてクリスチャンが取り除かれるとき、この世は一気に真っ暗になるのです。しかし、今はまだ「不法の人」が現れることが引き止められていますが、不法の秘密はすでに働いています。「不法の秘密」とは反キリストの霊のことです。Ⅰヨハネ2章18節にはこうあります。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」

一人の反キリストは現れていませんが、今は多くの反キリストの霊が働いているのです。事実周囲を見回すと、神に敵対する悪の勢力や、自らを神としてキリストに取って代わって礼拝されたがっている反キリスト的な力が強く働いていることがわかります。あからさまにキリストに反逆することはしなくとも、自分こそは神であるかのように人々から称賛されたり、感謝されたり、礼拝されることを求めている人たちがたくさんいることがわかります。キリストに従うなんてもってのほか、自分の思いのままに生きていきたい。それは反キリストの霊、不法の秘密がすでに働いているからなのです。だから、不法の人はまだ現れてはいませんが、不法の秘密はすでに働いています。それによって私たちは、世の終わりが近づいていることを知ることができますが、今は反キリストが定められた時に現れるようにと、聖霊が引き止めているのです。ですから、私たちは主の聖霊の働きを締め出してはなりません。

Ⅲ.その時になると(8-12)

では「不法の人」が現れるとき、いったいどのようなことが起こるのでしょうか?8節から12節までをご覧ください。まず8節から10節までをお読みします。

「8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」

「その時になると」、すなわち「引き止める者」が取り除かれる時になると、いよいよ不法の人、反キリストが現れ、神とキリストに対する徹底的な挑戦が始まります。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴うので、あっと驚くようなことをして、人々の心をひきつけます。一度死んだかと思ったら、その致命的な傷も治って生き返るので、全地が驚いて、彼に従うようになるのです。彼は圧倒的な権威を身にまとい、多くの人と堅い契約を結ぶので、政治的にも、軍事的にもカリスマ的な力をもって世界をまとめるのです。ところが3年半が経ったとき、事態は急変いたします。これまで世界を救うヒーローかと思っていた彼が急に傲慢なことを言い始め、神を汚すようなことを言い、自分こそ神だと宣言するようになるのです。4節にあるとおりです。

けれども主は、御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれている戦いにおいてです。御口の息をもってとはみことばによってということです。主はみことばの剣をもって反キリストを滅ぼされるのです。主のみことばにはそれほどの力があるのです。主はこのみことばをもって天地を創造されました。主が「光よ。あれ。」と仰せられると、光ができました。また主がこの地上を歩まれた時も、みことばによって病人をいやし、嵐を静め、死人をよみがえらせました。また、そのみことばによってサタンを退けられたのです。それは両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるのです。

また、主は来臨の輝きをもって敵を滅ぼされます。この場合の来臨とは地上再臨のことです。その七年前に主は空中に再臨され、ご自身の花嫁である教会を携え挙げられますが、その七年後に、今度は多くの御使いを従えて天から下ってこられるのです。それはありにも輝いた姿なので、不法の子である悪魔は滅ぼされてしまうのです。しかし、そのさばきは悪魔だけに対してのものではありません。10節を見ると、それはその悪魔に従って神がキリストによって与えてくださった救いを拒否して受け入れなかった人々にも臨むのです。彼らがさばかれるのは、何か悪いことをしたからとか、刑事事件を起こしたからではありません。彼らが滅ぼされるのは、サタンの誘惑に負け、キリストの救いを拒んだからです。パウロはここで、「彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」とはっきりと言っています。

私たちは、神の前に、キリストの十字架の愛を受け入れるか受け入れないか、すなわち、キリストを救い主として信じるか信じないか、救いか滅びの二つに一つの道しかありません。救われもしなければ滅びもしない道といった中間的な道は存在しないのです。救われなくてもいいけど、滅びたくはないとか、そういう道はないのです。救われるか滅びるかのどちらかの道しかないのです。だから、主イエスはこう言われたのです。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その満ちは広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

神の愛によって与えられたキリストの唯一の救いをいつまでも拒む者に対して、主はあのエジプトの王パロの心をかたくなにされたように、かたくなにされます。もう少したったら信じられるようになるでしょうとか、仕事を退職したら信じるようになるでしょうというのは、サタンである悪魔の偽りです。後になればなるほどもっとかたくなになってしまいます。もしあなたが救われるための真理への愛を受け入れないと、偽りを信じるように、惑わす力が送り込まれるからです。だから、主が来臨されるとき滅ぼされることがないように、今、神の救い、神のあなたに対する愛を受け入れほしいと思います。確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。ですから、聖霊はこう言われるのです。「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたように、心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)

どうかここにおられる人が一人も漏れることなく、神の御救いにあずかることができるように、きょう、もし御声を聞いたなら、心をかたくなにしないでいただきたいと思います。確かに今は恵みの時、今は救いの日なのです。やがてその救いのドアが閉じられる時がやってきます。そのときに、この救いに漏れることがないように、どうか主の救いを受け入れてください。この新しい一年が主の救いを受け、やがて来る主の来臨にしっかりと備えた年でありますように。たとえ、回りがどんなに騒いでも、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりするのではなく、みことばの約束をしっかり握りしめて生きる年でありますように祈ります。

Ⅱテサロニケ1章5~12節

あっという間に今年最後の主の日を迎えました。この一年も主が毎週の礼拝を守り、導いてくださったことを心から感謝します。きょうはⅠテサロニケ1章5節から12節までの箇所から、「感嘆の的イエス・キリスト」というタイトルでお話します。

Ⅰ.神の国にふさわしい者とするため(5-7)

まず5節から7節までをご覧ください。

「5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

「このこと」とは、1節から4節までに書かれてあることです。テサロニケの教会には激しい迫害がありました。しかし、そのような迫害の中にも彼らの信仰は目に見えて成長し、彼らの相互の愛は増し加わり、そうした迫害や患難に耐えて、信仰を堅く保っていました。試練や苦しみは、彼らの信仰の根を引き抜くことはできなかったのです。でもいったいなぜクリスチャンにはこのような苦しみがあるのでしょうか。ここでその理由が語られているのです。それは、彼らを神の国にふさわしい者とするための、また報いとして彼らに安息を与えるためのものであるということです。どういうことでしょうか?

まず5節には、「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため・・・・あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。」とあります。クリスチャンがこの世で迫害や患難を受けることがあるとしたらそれは神の国のためであって、神の国にふさわしい者とするためなのです。Ⅰペテロ1章7節には、「信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とあります。皆さん、信仰の試練は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊いのです。それは、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になるのです。それは苦しみを受けているクリスチャンが神の国の一員であるということの証拠であり、そのことによってクリスチャンはダイヤモンドのように輝きを増していくことになるのです。不純物が取り除かれることによってもっともっと聖いものに変えられていくために、そして、神の国の住民としてふさわしいものに造り変えられるために、神はこうした患難や試練を用いられるのです。

「そんなのいらない」と言う方がおられますか。そういう人は輝くことができません。称賛と光栄と栄誉を受けることはできないのです。試練はできたら避けて通りたいものですが、実はその試練こそが私たちを神の国にふさわしい者として整えるために神が用いられる道具だというのです。だから聖書はこう言うのです。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

これは本を読んで勉強したからできることではありません。ただ試練を通して、患難を通してそれに耐え、その忍耐を完全に働かせることによってもたらされるものなのです。これは口で言うのは簡単なことですが、実行しようとするとなかなかできることではありません。実際に試練に会うと、そのようには思えなくなるのです。そこから逃げることしか考えられなくなります。何とかこの試練を取り除いてくださいとひたすら願うだけなのです。試練が悪いものだと思って、そこから逃げることしか考えられないのです。けれどもその患難が、あなたに忍耐や信仰をもたらすのです。その患難から逃れることばかり考えていたら非常にもったいないことです。神があなたを創り変えることはできません。それは神の働きを阻害することにもなるのです。いつまでも完全なものとして成長を遂げることはできません。しかし、あなたが患難を通して聖書に約束された通りのことを私の身にも行ってください、主よ、どうか患難を道具として用いてください。傷もしみもしわもそのようなものの何一つない栄光の花嫁にしてくださいと祈るなら、神はあなたをそのように創り変えてくださるのです。

そんなこと言ったも、耐えられなかったらどうするんですか。大丈夫です。神はあなたが耐えられないような試練を与えることはなさらないからです。耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。Ⅰコリント10章13節を見てください。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

ですからどうぞ安心してください。あなたがたの試練はみな人の知らないようなものではないのです。みんな同じような試練に会っています。涼しい顔して平気でいる人を見ると、「あの人はいいなぁ。あの人は試練なんてないんだろう」とか、「私の痛みや苦しみを理解することなんてできないだろう」と思うかもしれませんが、そうではないんです。みんな同じような試練を通っているんです。あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではないのです。けれども、神は真実な方ですから、あなたがたが耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。何とすばらしい励ましでしょうか。それは私たちを倒すためではなく、私たちを神の国にふさわしい者として整えるために与えているものだからです。あなたはその試練に耐えることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な人となることができるのです。神の国にふさわしい者として整えられるのです。

へブル書12章11節にはこうあります。「すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(へブル12:11)すべての懲らしめは、そのときには喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われものですが、後で振り返ってみると、あの苦しい経験があったからこそ今の自分があると思い、むしろその意見が感謝できるようになるというのです。

いったいなぜこんなに苦しみがあるのでしょうか?そのもう一つの答えが6節と7節にあります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。」

クリスチャンに対して不当な苦しみを与える者に対して、神は正当に報いを与えてくださいます。ですから、あなたは自分で復讐する必要はないんです。復讐は神がなさることですから、神は正しくさばいてくださいます。ですから、自分がさばきをつけなくてもいいのです。ついついさばきをつけたくなるのですが、そうやってさばきをつけることによって、私たちがさばかれてしまうことがあります。というのは、私たちは間違ってさばくことの方が多いからです。間違ってさばいたら大変なことになります。その責任はとても重いからですね。誤審、冤罪、これは大変な責任です。その人の人生を台無しにしてしまいます。ですから、そういうことがないように、神が正しく裁いてくださいます。今、不当な目に遭っていても、今、理不尽でも、不条理であっても、やがて神がすべてを正しくさばいてくださいます。

具体的にはどういうことでしょうか。具体的には「あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。」

これはキリストが地上に再臨される時に起こることです。その七年前に主は空中に再臨され、キリストの花嫁である教会を一挙に引き上げられます。そして天国で結婚式が行われるのです。それが小羊の婚宴と呼ばれるものです。そこでクリスチャンはいつまでも主とともにいるようになるのです。

しかし、その時この地上では恐ろしいことが起こっているのです。七年間の大患難時代です。反キリストが現れて猛威を振うので、地上の多くの人々が死に絶えるのです。そしてそれがクライマックスに達するまさにその時、キリストが力ある御使いを従えて天から下ってこられるのです。オリーブ山という山です。その時主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わなかった人々を報復されます。その一方で、この地上で苦しみを受けたクリスチャンは、報いとして安息が与えられるのです。

皆さんには安息がありますか。あなたがこの地上でどんなに頑張っても、自分の力で罪を帳消しにすることはできません。あなたを罪から救うことができるのは、ただあなたの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストだけなんです。このイエスを信じるならあなたの罪は赦され、安息を受けることができます。いい人を演じても限界があります。結局、人はみな必ず死ぬのですから。死んだらすべてを失います。地獄の沙汰も金次第ということは通用しません。あなたは神の前に立ち、神のさばきを受けなければならないのです。もしあなたがイエスを信じていなければ、主はあなたに報復されます。そこには何の安息もありません。でも、イエスを救い主として信じるなら、主が報いとして安息を与えてくださるのです。主イエスは言われました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

今は不当な苦しみにあえいでいるかもしれません。理不尽な思いでいっぱいかもしれません。でもやがて主イエスが再臨されるとき、主が正しくさばいてくださいます。あなたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、報いとして安息が与えられるのです。

皆さん、なぜ私たちには試練や苦しみがあるのでしょうか。それはあなたを神の国にふさわしい者として整えるためであり、やがてさばき主なる主が再臨されるときに主が正しくさばかれ、あなたに報いを与えるためです。あなたはそこで真の安息を得るのです。だから、たとえ試練や苦しみがあってもがっかりしないでください。もう信じていても意味がないと投げやりにならないでください。主の日は近いのです。そのとき、主が正しくさばかれ、あなたに報いてくださいますから。

今、あなたが抱えておられる試練は何ですか?それがどんなに大きな試練でも、それよりももっと大きな方を見なければなりません。試練を通して神を見るのではなく、神を通して試練を見るなら、その苦しみの中に隠れている神のみこころを見出すことができるのです。

Ⅱ.感嘆の的イエス・キリスト(8-10)

次に8節から10節までをご覧ください。

「8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」

 

ここには、主イエスが再び来られるとき、神を知らない人々や、主イエスの福音に従わない人をさばかれるとあります。そのような人々は、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。 神はあわれみ深い方ですからすべての人々を救われると思っている方がおられますが、そうではありません。勿論、神はすべての人が救われることを望んでおられますが、だからといってすべての人が主の救いを信じるわけではないのです。そういう人たちはみな永遠の滅びの刑罰を受けるのです。死んだらみんな天国に行くのであって、地獄に行く人なんて誰もいないという人がいますが、それは嘘です。聖書は、そのような人は永遠の滅びの刑罰を受けるとはっきり言っているのです。そんな恐ろしい地獄など実際には存在しないと考えている人々がいますが、それは単なる人間の願望から出た想像にすぎないのであって、実際には地獄は存在するのです。

ですから、聖書はこう言うのです。ヨハネ3章16節です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書は、キリストを信じる者はひとりも滅びないで、永遠のいのちを持ち、信じない者は滅びると明言しているのです。神はこの世の罪人を救うために御子を世に遣わされました。そして十字架にかけて人間の罪の罰を御子に負わせました。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。これが、人間が罪から救われる唯一の道です。これ以外には救いの道はありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名としては人間には与えられていないからです。この唯一の救い主イエス・キリストを信じない人々に対して、神はこのようにされるのです。

先週はクリスマスでしたが、主イエスが最初にこの地上に来られた時はベツレヘムの家畜小屋で生まれてくださいました。飼い葉おけに寝かされたと言います。実にみすぼらしい姿をとって来てくださいました。しかし、今度再び来られる時には、二度目の来臨の時には、天の万軍を従えて、王の王として、主の主としてお出でになられます。また、その時は最初に来られた時のように一部の人しか知らないような姿ではなく、世界中の人々がはっきりと目撃する形で来られるのです。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)

昔は地球の裏側で起こっていることを同じ時間に見ることなど考えられないことでしたが、今やテレビの発明や宇宙中継などによって、お茶の間に居ながら、世界中の動きを一瞬にして知ることができるようになりました。1963年、日本とアメリカとの間で、宇宙中継による最初のテレビ放映が行われましたが、そのときいきなりテレビの映像から飛び込んできたのはジョン・F・ケネディ大統領暗殺の生々しいニュースでした。そのニュースをご覧になった方々は、どれほどの衝撃を受けられたことかと思います。また、1989年にベルリンの壁が崩壊したニュースも、一瞬にして世界中に伝えられました。それと同じように、いやそれよりもはるかに鮮やかに、主の再臨の出来事はもっと大々的な出来事として世界中を揺るがすはずです。その時、世界中のクリスチャンは、どれほどの歓喜の声を上げることでしょう。それが10節にあります。ご一緒に読んでみましょう。

「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の・・そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。・・感嘆の的となられます」

世界中の人々の注目を集め、全てのクリスチャンの「感嘆の的」となられる主イェス・キリストの姿を想像するだけでも、胸が躍る思いがします。パウロのこのことばによって、テサロニケのクリスチャンたちは、迫害や患難の中にありながらも、ますます、主イエスに対する信仰を強められたのではないでしょうか。

現代に生きる私たちも、その時が来た時に、主イエスを「感嘆の的」とさせて頂けるように、今からイエスさまを信じ、イエスさまの再臨を待ち望みながら歩む者とさせていだたきたいものです。同時に、家族の誰か、友人のどなたかが取り残されてしまうことがないように、置き去りにされてしまうことがないように、みんなで主イエスを信じることができるように熱心に祈りに励みたい思います。そして主イエスが迎えに来られるとき一人も漏れなく携え挙げられて、天の御国に入れるように祈りましょう。

Ⅲ.御力によって(11-12)

最後に11節と12節を見て終わりたいと思います。

「11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

そのためにいつも祈っている必要があります。主イエスがいつ戻って来てもいいように、油断しないで祈っていなければなりません。ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちのためにこう祈りました。「どうか私たちの神が、あなたがたをお召にふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」

神が彼らをこの世とサタンの支配から救い出し、罪を赦し、神の子としてくださったのは決して偶然のことではありませんでした。またそれは単に彼らの願いによるものではなかったのです。それは一方的な神のみわざであり、神の選びによるものでした。主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われました。私たち一人一人は神に選ばれ、召し出されてここにいるのです。自分ではたまたま大田原に来て、たまたま教会に来て、たまたま信じたかのように思っていますが、それはたまたまのことではなく、神の深いご計画によるものでした。それはあなたが母の胎に生まれる前から、いや世界の基が置かれるずっと前からそのように選ばれていたことなのです。であるなら、その召しにふさわしく生きることが求められます。

その召しにふさわしい生き方とはどのようなものなのでしょうか。ここには、「御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」とあります。つまり、進んで善を行うクリスチャンになるようにということです。エペソ2章10節には、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」とあります。

しかし、進んで善を行う力など、私たちにはありません。私たちの生まれながらの人間は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行ってしまうからです。ですから、根本的には善を行う力など持っていないのです。では望みはないのでしょうか。いいえ、だからここには「御力によって」とあるのです。「どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者とし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きを全うしてくださいますように。」と、神の御力が強調されているのです。そればかりではありません。12節をご一緒に読みましょう。

「それは私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。」

ここにも、「私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって」とあります。私たちは自分の力で良い行いができるのではありません。自分の力でキリストと同じ姿に変えられるのではないのです。私たちの神が、御力によって、そのことをしてくださいます。私たちの主であるイエス・キリストの恵みによって、それができるようにと助けてくださるのです。

であれば、私たちは主が私たちをその召しにふさわしい者とし、善を行うことができるように、私たち自身を主に差し出し、主によって造り変えていただかなければなりません。そのとき、主の力と主の恵みによって、私たちもそのような者へと変えていただけるのです。そして、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるようになるのです。

この新しい年が主イエスの御力によって、その召しにふさわしい者として変えられ、信仰を全うしていくことができますように、主イエス・キリストの恵みによって堅く信仰に歩めるように祈ります。

民数記9章

 きょうはレビ記9章から学びます。まず1~5節までをご覧ください。

「1 エジプトの国を出て第二年目の第一月に、はシナイの荒野でモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人は、定められた時に、過越のいけにえをささげよ。3 あなたがたはこの月の十四日の夕暮れ、その定められた時にそれらをささげなければならない。そのすべてのおきてとすべての定めに従って、それをしなければならない。」4 そこでモーセはイスラエル人に、過越のいけにえをささげるように命じたので、5 彼らはシナイの荒野で第一月の十四日の夕暮れに過越のいけにえをささげた。イスラエル人はすべてがモーセに命じられらとおりに行った。」

1.過ぎ越しのいけにえをささげよ(1-5)

1節を見ると、時は、再び、第二年目の第一月にさかのぼっています。出エジプト記40章17節に戻っています。モーセが幕屋の建設を完成したのはエジプトを出て第二年目の第一の月でした。その月の第一日に幕屋は完成したのです。それから、主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられました。それがレビ記の内容です。ですから、この箇所の内容はその時まで遡っていることがわかります。

さて、その時主は(モーセに何を告げられたのでしょうか。イスラエル人に、定められた時に、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと言われました。その月の十四日の夕暮れに、その定められた時に、それをするようにと言われたのです。過ぎ越しのいけにえとは、イスラエルがエジプトを出るときにささげたいけにえです。出エジプト記12章3~13節までにそのことが記されてあります。

「3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これはへの過越のいけにえである。12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしはである。13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」

ここには、この月の十日、すなわち、第一年の第一の月の十日のことです。おのおのその父祖の家ごとに羊一頭を用意し、それを十四日の夕暮れにほふり、その血を取って家々の門柱と、かもいにつけなければなりませんでした。そして、その夜にその肉を食べました。種を入れないパンと苦菜を添えて。腰には帯を締め、足にくつをはき、手には杖を持っていました。すぐに旅立てるように支度を整えて食事をしたのです。そして、その夜神はエジプトの地を行き巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、初子という初子はすべて打ちました。ただ門柱とかもいに羊の地が塗ってある家だけは、そのさばきを通り越したのです。そこには神の滅びのわざわいがもたらされることはありませんでした。

その一年後に、イスラエルがシナイの荒野で旅を始めるにあたり、主は同じように過越のいけにえをささげるようにと命じられたのです。いったいこれはどうしてでしょうか。それはイスラエルの民にとって過ぎ越しの小羊の血はエジプトから救い出されたときだけではなく、荒野の旅をするときにも必要だったということです。その旅は、エジプトでの救いと切り離されたものではなく、むしろ、贖いによって彼らは荒野の過酷な生活を耐え忍び、前に向かって進み出すことができます。荒野にひそむ危険やわなも、過越にある主の贖いによって避けることができるのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。この過ぎ越しの小羊の血とはイエス・キリストの十字架の血潮を表していますが、それは私たちがイエスさまを信じて救われた時だけでなく、その後の信仰の歩みにおいても、常に必要なもののです。そうでなければ、荒野の旅を全うすることはできません。天の都に向かう私たちの信仰の旅においては、常にキリストの血潮に立ち返る必要があるのです。信仰をもってからどのような局面にいようとも、絶えず過去にキリストが成し遂げてくださった十字架のみわざを仰ぎ見ていくものでなければいけません。ですから、イエスさまは、聖餐式を行うようにと命じられたのです。聖餐のパンを裂き、ぶどう酒を飲むことによって、わたしのからだと血を思い出しなさいと言われたのです。それは、私たちが常に初めの愛に立ち返らなければならないからです。初めの愛に立ち返って、十字架の愛を思い出さなければならないのです。

2.もし死体によって身を汚したら(6-14)

次に6~14節までをご覧ください。

「6 しかし、人の死体によって身を汚し、その日に過越のいけにえをささげることができなかった人々がいた。彼らはその日、モーセとアロンの前に近づいた。7 その人々は彼に言った。「私たちは、人の死体によって身を汚しておりますが、なぜ定められた時にイスラエル人の中で、へのささげ物をささげることを禁じられているのでしょうか。」8 するとモーセは彼らに言った。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」

しかし、もし人が死体によって身を汚し、その日に過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったらどうしたらいいのでしょうか。死体によって身を汚していた人はどうしてその日にいけにえをささげることができなかたのかというと、宿営の外に追い出されていたからです。覚えていらっしゃいますか、5章2節のところで、ツァラアトの者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者は、すべて宿営の外に追い出せとありました。ですから、そのような人は過ぎ越しのいけにえをささげることができなかったのです。そのような人たちはどうしたらいいのかということです。

するとモーセは彼らに言いました。8節です。「待っていなさい。私はがあなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。」このことについてモーセは考えたこともなくわからなかったので、彼は主に伺いを立てました。ここにモーセの謙遜さが見られますね。「モーセと言う人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)とありますが、彼は本当に謙遜な人でした。わからないことはわからないと正直に認めた上で、答えを知っておられる方に伺いをたてたのです。これが本当に謙遜な人の姿です。

ではその問いに対する神の答えはどういうものだったでしょうか。10~14節をご覧ください。それは一ヶ月遅れの、第二の月に過越の祭りを守るようにというものでした。なぜなら、それはとても重要なことだったからです。過ぎ越しのいけにえをやめるようなことがあったら、その者は民から断ち切られなければなりませんでした。過ぎ越しのいけにえのおきては、少しでもはぶいてはいけませんでした。すべて過ぎ越しのいけにえのおきてに従って捧げなければなりませんでした。

実際に一か月遅れで過ぎ越しのいけにえをささげたという例があります。Ⅱ歴代誌30章1~5節です。この時ユダの王ヒゼキヤはアッシリヤの攻撃に対して、まず宗教改革を行うのです。主に過ぎ越しののいけにえをささげることから始めました。それは第二の月の十四日のことです。なぜなら、身を聖別した祭司たちの数が十分ではなかったからです。そこで、イスラエルとユダの全会衆に呼び掛けてエルサレムに集まり、過ぎ越しのいけにえをささげるようにと手紙を書き送ったのです。その結果はご存知のとおりです。アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲するのですが、主は、アッシリヤの王の手からイスラエルを救い出されました。主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの陣営にいたすべての勇士、隊長、主張を全滅されたのです(Ⅱ歴代誌32:21)。まさに十字架の血潮による勝利です。たとえそれが一か月遅れであっても、それははぶくことができない重要なことであり、それが神の命令に従ってささげられるとき、そこに偉大な神の力と勝利がもたらされるのです。それは最初の過ぎ越しの祭りに優とも劣らない神の祝福なのです。

このことから教えられることは、この過ぎ越しの祭りは聖餐式に相当するということを申し上げましたが、聖餐式では自分を吟味することが求められています(Ⅰコリント11:28)。それが偶発的かどうかとかかわりなく、死体に触れたままで、汚れたままで聖餐にあずかることは避けなければなりません。この場合の死体とは罪、汚れのことです。自分の中に罪、汚れがあるなら、聖餐をひかえるべきです。けれども、たとえその時に聖餐にあずかることができなくても、次の機会にはあずかることができるのです。その罪を悔い改めて、イエスの十字架の血によって聖めていただくことによってです。いや、その1分前でも、自分をよく吟味し、そこに汚れがあるなら、それを悔い改めて聖めていただくことによって、私たちはこの十字架の贖いにあずかることができるのです。

つまり、私たちは何度でもやり直しをすることができる、ということです。イスラエルの民が死体にさわって自分の身を汚したように、私たちも自分の身を汚すことがあります。それゆえ、主の集会の中にある恵みにあずかることができないことがあります。自分は失敗した。もうだめだ。教会に行っても、おとなしくしておこう。または、そんなにイエスさまに対して熱心になる必要はない。私はだめだ、と意気消沈することがありますが、神は完全なやり直しを与えてくださっているのです。私たちは神に立ち返って、新たにキリストの基準に従った生活をやり直すことができるのです。いや、やり直さないといけないのです。自分で勝手に、その基準を落として、キリストから少し距離を離しながら生きるのではなく、主が与えられた二回目のチャンスを精いっぱい生きることが求められているのです。

3.雲の柱火の柱(15-23)

次に15~23節までをご覧ください。

「9 はモーセに告げて仰せられた。10 「イスラエル人に告げて言え。あなたがたの、またはあなたがたの子孫のうちでだれかが、もし死体によって身を汚しているか、遠い旅路にあるなら、その人はに過越のいけにえをささげなければならない。11 第二月の十四日の夕暮れに、それをささげなければならない。種を入れないパンと苦菜をいっしょにそれを食べなければならない。12 そのうちの少しでも朝まで残してはならない。またその骨を一本でも折ってはならない。すべて過越のいけにえのおきてに従ってそれをささげなければならない。13 身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえをささげることをやめたなら、その者はその民から断ち切られなければならない。その者は定められた時に、へのささげ物をささげなかったのであるから、自分の罪を負わなければならない。14 もし、あなたがたのところに異国人が在留していて、に過越のいけにえのおきてと、その定めに従ってささげなければならない。在留異国人にも、この国に生まれた者にも、あなたがたには、おきては一つである。」15 幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。16 いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。17 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。18 の命令によって、イスラエル人は旅立ち、の命令によって宿営した。雲が幕屋の上にとどまっている間、彼らは宿営していた。19 長い間、雲が幕屋の上にとどまるときには、イスラエル人はの戒めを守って、旅立たなかった。20 また雲がわずかの間しか幕屋の上にとどまらないことがあっても、彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。
21 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立った。22 二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。23 彼らはの命令によって宿営し、の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示されたの命令によって、の戒めを守った。」

次に、イスラエルの民が旅立つときに、導き手となる雲の柱、火の柱について書いてあります。モーセが幕屋を建てた日から雲が幕屋をおおいました。夕方には幕屋の上に火の柱があって、それが朝までありました。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立ち、そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していました。 雲が夕方から朝までとどまるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、彼らはただちに旅立ちました。昼でも、夜でも、雲が上れば、彼らはいつも旅立ったのです。彼らとしては、突然雲が上がっても、まだ出発したくないという時もあったでしょうが、それでも、昼でも、夜でも、雲が上がれば、いつでも旅立ったのです。また、一日でも、二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立ちませんでした。ただ雲が上ったときだけ旅立ったのです。長い期間、宿営していたら退屈になってしまうかもしれませんが、それでも彼らは雲がとどまっている限り、宿営をつづけました。

これはどういうことでしょうか。それは、イスラエルが主の命令によって旅立ち、また主の命令によってとどまったように、私たちも主の導きに従って進まなければならないということです。私たちの生活は彼らの生活よりもずいぶん便利になりました。いつでも行きたい所に行き、泊まりたい所に泊まることができます。やりたいことをし、やりたくないことはしない、何でも自由にできます。けれども、そのような自由が必ずしも良いとは限りません。何の問題もないようでも、実はそこに大きな落とし穴があるのです。

ヤコブはこう言っています。「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(ヤコブ4:13-15)」

主のみこころなら、です。私たちのいのちは完全に、主によりかかっています。ですから、主のみこころのみを求めて、主のみこころが成し遂げられることを願い求めて、生きていかなければいけません。人生の行程に、突然の変化があるかもしれません。しかし、柔軟になるべきです。主がなされることを眺めていき、そしてその導きにしたがうべきです。

イスラエルに与えられていたのは雲の柱でした。それは神がそこにおられ、彼らを導いておられることを表していました。同じように、神は私たちに聖霊を与えて、私たちの歩みを導いておられます。中には、「イスラエルはいいなぁ、はっきりとした形で導かれて・・・。雲のように目に見えるものがあったらどんなにいいだろう。迷うことなく、思い煩うこともなく、安心して進んでいけたに違いない。」確かに彼らには目に見える形での道しるべが与えられていました。しかし、だからといってそれでよかったのかというとそうでもないのです。というのは、彼らはそのような確かな道しるべが与えられていたにもかかわらず、不平や不満を言って神の怒りを買っていたからです。彼らは目に見えるものがあっても文句を言っていたのです。大切なのは、それは目に見えるか見えないかというとこではなく、見えても見えなくても、従順に従うことです。

でも神様は私たちに新しい道しるべを与えてくださいました。それは目には見えませんが、私たちの中に住み、私たちを導いてくださる神の聖霊です。神は今、聖霊によって私たちを導いておられるのです。確かにそれは目には見えませんが、私たちの歩みを確かにしてくださる方です。なぜなら、それは私たちの内に住んでくださるからです。そのうちなる聖霊の声によって歩めるというのは何と幸いなことでしょうか。大切なのは、神がどのように導いておられるかを知るということともに、その導いてくださる神の御声に聴き従うことです。私たちに与えられたこの信仰の歩みを、神の聖霊の導きに従って歩んでいくものでありたいと思います。

Ⅱテサロニケ1章1~4節

きょうからテサロニケの第二の手紙に入ります。この手紙もパウロとシルワノとテモテから、テサロニケのクリスチャンたちに宛てて書かれた手紙です。この手紙は第一の手紙が書かれてから数か月後に書かれたものだと言われていますが、いったいなぜ書かれたのでしょうか。テサロニケの第一の手紙が書かれたのは紀元51年頃で、これはパウロの手紙のの中でも最も初期に書かれた手紙ですが、それは救われたばかりのテサロニケのクリスチャンたちを励ますためでした。彼らはその地の住人とユダヤ人から激しい迫害を受けていたので、そうした中にあっても信仰に堅く立ち続けることができるようにと励ますために書いたのです。それにプラスして、彼らの中には主の再臨について誤解している人たちがいて、それによって落ち着きのない生活をしている人たちがいたので、この主の再臨について正しく教えるために書いたのです。

では第二の手紙は何のために書かれたのでしょうか。2章1~3節には、「さて、兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。」とあります。彼らの中には、主の日がすでに来たかのように言う人たちがいて、それがあたかもパウロたちから出た手紙によって語られたかのように言ったので、それを聞いたある人たちは落ち着きを失ったり、心を騒がせていたのです。そこでパウロはこの主の再臨について正しく教え、そのことによって生じた混乱を静めるために、この手紙を書き送ったのです。

皆さん、だれにも、どのようにも、だまされないようにしなければなりません。主の日の前にはこのような不法の人が起こりますが、主は来臨の輝きをもってそれを滅ぼされます。ですから、私たちはみことばの教えを正しく理解し、だれにも、また何にもだまされないようにしなければならないのです。

Ⅰ.目に見えて成長する信仰(3)

それでは、まず3節をご覧ください。

「3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

パウロは、テサロニケ人の教会へあいさつを書き送ると、彼らに感謝しています。なぜなら、彼らの信仰が目に見えて成長し、彼らの間で、相互の愛が増し加わり、すべての迫害と患難に耐えながら、その忍耐と信仰とを保っていたからです。この信仰、愛、希望の三つはクリスチャンの特質であり、キリスト教信仰において尊ばれているものです。Ⅰコリント13章13節にも、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。この信仰と希望と愛こそクリスチャンの基本的な特性であって、この三つの特性がそろっていないと健全な信仰の歩みをすることができません。けれども、このテサロニケのクリスチャンたちには、この三つの特性が備わっていたのです。

パウロはテサロニケの第一の手紙でも、彼らの信仰と愛と望みの忍耐についてふれました。1章3節です。奇しくもテサロニケの第二の手紙でも同じ1章3節で、そのことを思い起こして感謝しているのです。

まずここには、「あなたがたの信仰が目に見えて成長し」とあります。この「目に見えて成長し」という言葉は、原語のギリシャ語では「ヒュペラウクサネイ」という一語です。これは英語の「hyper」の語源になった言葉でもあります。「hyper」とは「超」という意味です。超えているということです。限界を超えています。よくハイパーレスキュー隊という言葉を耳にすることがありますが、ハイパーレスキュー隊というのは普通のレスキュー隊を超えている部隊のことです。普通のレスキュー隊では救助が困難な時に出動するのがハイパーレスキュー隊です。彼らは限界を超えて救助にあたるので「ハイパーレスキュー隊」と言われているのです。このテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、まさにハイパーでした。限界を超えていました。彼らの信仰は限界を超えるほど目に見えて成長していたのです。その信仰に対してパウロは、感謝をささげずにはいられなかったのです。

思えば、パウロがテサロニケに滞在して伝道したのはたった三週間のことでした。そんなに短い期間であったにもかかわらず彼らの主イエスに対して信仰には、目を見張るものがありました。限界を超えるほどの強い信仰に成長していたのです。救われたばかりだからこそ燃えていたということもあったかもしれませんが、彼らの信仰はそのような一時的なものではありませんでした。それは、彼らが激しい迫害や患難にありながらも忍耐と信仰とを保っていたことからもわかります。

信仰とは、自分と神様とを結ぶパイプのようなものです。この信仰以外に神様と私たちを結ぶものはありません。この信仰によって私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを受けました。すべての罪が赦され、いつも神が共にいてくださることを実感することができるようになりました。

また、信仰とは徹底的に神と主イエスに信頼することです。神が私たちに最も望んでおられることは、私たちが富や名誉を得ることではなく、神に信頼し、神を求めて生きることです。ですから聖書はこう言っているのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)そして、テサロニケのクリスチャンたちは、この神に対する信仰と神に従う信仰、そして、主が再び来られる再臨信仰を持っていました。そのような彼らの信仰を、パウロはどれほど喜んだことでしょうか。それは目に見えて成長するほどの著しい成長を遂げていたのです。

皆さんの信仰はどうでしょうか?テサロニケのクリスチャンたちのように目に見えて成長していますか、それとも、そんなに急激にではなくとも、少しずつ、少しずつ成長しているでしょうか。目に見えるほどの著しい成長であっても、少しずつであっても、神が私たちに望んでおられることは、私たちの信仰が成長することです。Ⅱペテロ3章18節には、「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(Ⅱペテロ3:18)とあります。私たちも主イエスの恵みと知識において成長する者でありたいと願います。

Ⅱ.増し加わっている愛(3)

次に彼らの愛について見ていきましょう。3節のところでパウロはこのように言っています。「あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

彼らは信仰において目ざましく成長していましたが、それは信仰ばかりでなく愛においても同じでした。彼らの間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっていたのです。Ⅰテサロニケ3章12節を見ると、これはパウロの祈りの答えであったことがわかります。パウロはこう祈りました。

「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」神様は、このパウロの祈りに答えてくださり、その数か月後にパウロがこの第二の手紙を書いた頃には、彼ら相互の間には愛が増し加えられていたのです。

愛は、最大の徳です。たとい人があらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい人が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与えても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛こそ私たち人間にとって最も必要なものなのです。ところが、この愛が現代の社会において最も欠けているものでもあります。

インドで苦しんでいる人々に愛の手を差し伸べたマザー・テレサが来日した際に、このように言いました。「私たち人間にとって最も本質的なことは、不幸な人々の面倒を見ることではなく、その人を愛することです。人にはパンへの飢えがあるように、愛とか親切な心、思いやりの心などに対する飢えがあります。この大きな飢えや欠乏のためにこそ、人々はこんなにも苦しんでいるのです。」

人間にとって愛こそ最も大切なものであるということは昔も今も変わらない真理なのです。そして、テサロニケのクリスチャンたちの間には、この愛が増し加わっていました。彼らは神の愛を実践していたのです。しかも彼らが置かれていた状況は迫害と患難という厳しい状況でしたが、そうした中にあっても彼らの間に愛が増し加わっていたということは、彼らがそれほど神に愛されていたという証拠でありますし、彼らが福音の本質をきちんと理解していたということですから、パウロがどれほど喜んだかわかりません。それは喜びを越えて感謝となり、神にささげたほどです。

Ⅲ.見上げた忍耐(4)

そればかりではありません。彼らには見上げた忍耐がありました。4節にはこうあります。「それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。」

ここには「誇りとしています」とあります。何を誇りとしていたのかといいますと、彼らが迫害と患難に耐えながらも、従順と信仰とを保っていたことです。彼らはキリストを信じる信仰のゆえに外部の人々から迫害され、さまざまな苦難を受けたにもかかわらず、それでもひるむことがありませんでした。それはパウロが誇りとしたほどであり、まことに見上げたものだったのです。Ⅰテサロニケ1章6節には、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とありますが、彼らはそのような苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、みことばに従いました。それゆえに、この神のことばは、信じている彼らのうちに働いたのです。私たちの中にも神のみことばを聞くと初めは喜んで受け入れる人がいますが、困難や苦難に会うとすぐにつまずいてしまう人がいます。「こんなはずじゃなかった・・・」と。

イエス様は、種まきのたとえの中で岩地に落ちた種について教えられました。「20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」(マタイ13:20-21)

岩地に蒔かれた種はすぐに芽を出すものの、太陽が上り、焼けてしまうと、根がないために枯れてしまうのです。根がないクリスチャンはすぐにつまずいてしまいます。いつもみことばに裏付けられ、それがどういうことなのかを悟る人は、困難や迫害が起こっても枯れることはありません。むしろ、それを肥やしにして、もっと大きく成長していくのです。

テサロニケのクリスチャンたちはそうでした。彼らは迫害と患難に耐えながらその従順と信仰を保っていたのです。この「従順」と訳されていることばには※がついていますが、下の脚注の説明を見ると、そこに「忍耐」とあります。これは忍耐のことです。彼らは迫害と患難に耐えることで忍耐を育んでいたのです。真の忍耐は本を読んだり忍耐についての講義を聞くことによって得られるものではなく、迫害と患難という体験を通して得られるものなのです。ですから、ローマ人への手紙5章2節から5節にこうあるのです。

「2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

ここには、「患難が忍耐を生み出し」とあります。忍耐を生み出すのは患難なのです。それによって忍耐が生み出され、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。この希望は失望に終わることはありません。この希望はイエス・キリストによってもたらされる永遠の栄光につながっていくからです。イエス・キリストが再臨されるときにもたらされる栄光です。これが本当の希望です。「目に見える望みは、望みではありません。」(ローマ8:24)「だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちには、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)イエス・キリストによってもたらされる栄光、イエス・キリストが再びおいでになられるとき、私たちの卑しいからだが栄光のからだによみがえり、雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うようになります。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。これこそ本当の望みです。これは忍耐によってもたらされるのです。忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すのです。それゆえにヤコブはこう言ったのです。

「2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。3 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」なぜなら、信仰が試されると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるからです。まあ、口で言うのは簡単ですがいざこれを実践しようとすると、かなり大変であることがわかります。なかなかできないからつまずくのです。しかし、テサロニケのクリスチャンたちはこの希望のゆえに、忍耐と信仰を保っていました。彼らのこのような忍耐強さを知ったパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。彼はここでこう言っています。「誇りとしています。」これ以上の称賛のことばはないでしょう。「誇りとしています。」そんなテサロニケのクリスチャンたちの信仰は、パウロの誇りでもあったのです。

あなたの信仰はどうでしょうか。試練や患難、苦難に会うとき、あなたはそれをどのように受け止めておられますか?日本のクリスチャンを評して、ある人がこう言いました。「一年目は熱心に働き、二年目には悩み、三年経つといなくなる」これでは残念です。これはまさに岩の上に蒔かれた種です。確かにいろいろな理由があると思いますが、それがどんな理由であるにせよ、どんなことがあっても主イエスから離れない信仰、主イエスにとどまっている信仰、いや、それを肥やしにして逆に強められていく信仰者にさせていただきたいと願うものです。私たちの信仰は筋肉のようなものなのです。ウエイトトレーニングとか、何らかの付加をかけ、それに耐えることによって筋肉が鍛えられるように、私たちの信仰も患難や試練、困難といった付加かがかかることによって鍛えられ、強くされていくのです。それは私たちの信仰が成長を遂げた完全なものとなるために、なくてはならないものでもあるのです。

ヤコブ5章11節に「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」とあります。

ヨブは、甚大な試練を受けました。それは、普通の人が耐え切れないような大きな試練でした。財産を奪われ、家族の命を一瞬のうちに取られたのです。そればかりか自分の健康も害し、妻からも見捨てられ、その友からも苦しめられました。ヨブは、大きな怒りを誰かにぶっつけたい気持ちだったでしょう。しかし、彼は忍耐し、神様に信頼したのです。その結果、どうなったでしょうか。最後に神は、以前にもまして彼を祝福してくださいました。ヨブの所有物を二倍にし、七人の息子と三人の娘を与えてくださいました。彼は老年を迎え、長寿を全うしました。神は彼のあとの半生を前の半生よりも祝福されたのです。このヨブの実例が指し示しているのは、再臨の主を待つ信仰者の忍耐です。主は必ず来られ、キリスト者の忍耐を祝福で締めくくってくださいます。だから、耐え忍んだ人は幸いなのです。心に染み渡る約束ではありませんか!最後まで望みを捨てずに、待ち続け、耐え続けましょう。テサロニケのクリスチャンたちの忍耐は、常に彼らが神を待ち望んでいたからこそ出来た忍耐だったのです。

新聖歌385番の作者ジョン・アーネスト・ボード(John Ernest Bode)は次のように歌いました。

「主よ 終わりまで仕えまつらん みそばはなれず おらせたまえ
世の戦いは はげしくとも 御旗のもとに おらせたまえ

主よ 今ここに 誓いをたて しもべとなりて 仕えまつる
世にあるかぎり このこころを つねにかわらず もたせたまえ

これは彼の3人のこどもが堅信礼を受ける時に作った詩だそうです。信仰を告白していよいよこれから神の聖徒として歩む自分のこどもたちが、その信仰をずっと持ち続け、終わりまで主に仕えていくことができるように、それは彼の祈りでもありました。四番の歌詞は「常に変わらずもたせたまえ」とあります。それは、常に変わらず支えてくださいという意味です。主よ、終わりまで、あなたのしもべとして、あなたに仕えることができますように。世のたたかいは激しくても、主よ、あなたの御旗のもとにおらせてください。この世にある限り、この心が常に変わることがないように支えてください。これを、私たち一人一人の祈りと決意としたいと思います。