民数記1章

きょうから民数記の学びに入ります。「民数記」は英語で「Numbers」と言いますが、ヘブル語では『ベミドバル』、「荒野で」という意味です。これが「民数記」となっているのはイスラエルの民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖書、これはヘブル語をギリシャ語に訳した聖書ですが、『アリスモイ』(数)と呼ばれたことから、民数記という名称がつけられました。しかし、元々は「荒野で」という名前で、エジプトから連れ出されたイスラエルが約束の地カナンに向かうその途上の荒野で、神がどんなことをしてくださったのかが記されたものです。この民数記は「不平不満の書」とか、「つぶやきの書」などとも言われていますが、それは彼らがこの荒野でつぶやいたことからつけられました。

Ⅰコリント10章はこの民数記の出来事が背景にありますが、その中でパウロはこう言っています。11節です。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに望んでいる私たちへの教訓とするためです。」ですから、これは私たちへの教訓のために書かれたものなのです。私たちの信仰生活は天の御国に向かっての荒野の旅です。その旅路においては、かつてエジプトの奴隷の状態から連れ出されたことを忘れ、ちょくちょくつぶやくことがありますが、そのことによっていったいどういうことになったのか、結論から言うと、40年も荒野をさまようことになってしまったということです。そして、その時代の多くの人々は死に絶え、たった二人だけ、神に従ったヨシュアとカレブだけが新しい世代の人たちと約束に地に入ることができました。申命記1章2節を見ると、このホレブからカデシュ・バルネアまで、カデシュ・バルネアというのは荒野と約束の地の境にある地ですが、そこまではたった11日で行ける距離だったのです。にもかかわらず、彼らは40年も荒野をさまようことになってしまいました。なぜでしょうか?つぶやいたからです。彼らは神の単純な約束を信じることができなかったので、そのような結果になってしまったのです。具体的には12人の偵察隊を送ったとき敵は大きく強いので、そこに入って行くことはできないと言って嘆きました。不平不満を言って神につぶやいたのです。それで彼らは40年も荒野をさまよわなければなりませんでした。それは現代を生きる私たちクリスチャンに対する戒めでもあります。私たちの時代にも荒野があります。そこで神の約束のことばを信じるか、信じないかによって、その後の結果が決まります。信じるか、信じないかの差は大きいのです。民数記では、それが問われています。

民数記はモーセ五書の一つで、モーセによって書かれた四番目の書です。モーセによってずっと書かれているということは、それなりに流れがあるということです。まず創世記ですが、創世記のテーマは、神の民の選びと言えます。神は、罪に陥った人類を救うためにアブラハムを選ばれました。アブラハムから出る子を通して、人類を救おうと計画されたのです。それがイサクであり、ヤコブでした。ヤコブがイスラエルになりました。彼の12人の子どもたちを通してイスラエルの12部族を誕生させたのです。

創世記の次は出エジプト記です。出エジプト記のテーマは、神の民の贖いと言えるでしょう。神によって選ばれたイスラエルが飢饉に直面したとき、神はヨセフを通してイスラエルをエジプトに導かれました。しかし、新しいエジプトに新しい王が誕生したとき、彼らはエジプトの奴隷として仕えるようになりました。その奴隷の状態から救い出したのはモーセでした。神はモーセを通して430年も奴隷としてエジプトに捕えられていたイスラエルを解放したのです。

そして、前回まで次のレビ記を学びました。レビ記のテーマは何でしょうか。神の民の礼拝です。神によって贖われた神の民に求められていたことは、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」ということでした。聖別することが求められていたのです。そのために彼らはいけにえをささげなければなりませんでした。神に近づくためには、神が定められた方法によらなければ近づくことはできなかったのです。それがいけにえであり、それは神の小羊であるイエス・キリストを象徴していたものでした。そして、その礼拝において聖なる者としての生き方とはどのようなものかが教えられました。

そして、その次が民数記です。民数記のテーマは、神の民の奉仕です。この場合の奉仕とは、戦いと言ってもいいでしょう。神の民として贖われ、聖なる者としてされた者が、実際に約束の地に向かって歩み出すのです。私たちの信仰生活には様々な戦いがあります。それは外敵との戦いだけでなく、自分の肉との戦いなどいろいろです。その戦いにどのように勝利して進んで行ったらいいのかを、この民数記から学ぶことができます。それでは本文を見ていきましょう。

1.人口調査(1-16)

まず1~16節までをご覧ください1節には、「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。これはイスラエルの民がエジプトを出て二年目の第二月の一日に、主がシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられたことです。エジプトを出てから1年間シナイ山に導きそこで十戒を与え、幕屋を建設されました。モーセはそのシナイ山のふもとの会見の天幕にいます。出エジプト記40章2節を見ると、イスラエルが会見の天幕である幕屋を建てられたのはエジプトを出て二年目の第一月の一日でした。したがって、ここに1ヶ月間の空白があることがわかります。この空白の1か月の期間に何があったのでしょうか。この期間にレビ記が入ります。神の幕屋が完成したとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちました(出エジプト40:34)。主はその会見の天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました(レビ1:1)。その内容がレビ記なのです。私たちはレビ記を学ぶのに半年くらいかかりましたが、実際は1か月です。その1か月の間に神の民としてのあり方を学び、そして今いよいよ約束の地カナンに向けて出発していくのです。その旅の準備が12章まで語られます。その準備の最初のことは何だったでしょうか?2節から16節までをご覧ください。

「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。また部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。あなたがたの助手となるはずの者の名は次のとおりである。ルベンからはシェデウルの子エリツル。シメオンからはツリシャダイの子ナフション。ユダからはアミナダブの子ナフション。イッサカルからはツアルの子ネタヌエル。ゼブルンからはへロンの子エリアブ。ヨセフの子のうちからは、エフライムからアミフデの子エリシャマ、マナセからペダツルの子ガムリエル。ベニヤミンからはギデオニの子アビダン。ダンからはアミシャダイの子アヒエゼル。アシェルからはオクランの子パグイエル。ガドからはデウエルの子エルヤサフ。ナフタリからはエナンの子アヒラ。」 これらの者が会衆から召し出された者で、その父祖の部族の長たちである。彼らがイスラエルの分団のかしらたちである。」

ここで神はモーセに、イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ、と命じました。なぜでしょうか?戦うためです。これは20歳以上の者で、すべての軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えるためだったのです。戦うためには軍隊を整えなければなりませんでした。神の軍隊の陣営を組織し、その戦いに備えなければならなかったのです。部族ごとにリーダーが立てられ、それぞれの人数が数えられたのです。

エペソ人への手紙6章を見ると、クリスチャンの生涯にも悪霊との戦いであると言われています。私たちがクリスチャンとなり教会から出てこの世の中で歩もうとすると、必ず戦いがあります。その戦いにおいて悪魔の策略に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければならないのです。

そのために選ばれのが父祖の家のかしらたちです。部族ごとにひとりずつ、父祖の家のかしらである者が選ばれ、モーセやアロンたちとともにいなければなりませんでした。すなわち、彼らの助手となる人たちです。モーセとアロンたちがそのすべてを行なうのではなく、部族ごとにかしらを立てて、彼らの助手となりました。それが5節から15節までに記されている人たちです。この人たちの名前をよく見てみると、「エリ」とか「エル」という名前が多いことに気づきます。この「エリ」とか「エル」というのは「神」という意味で、彼らの名前は神の名が入った複合体であることがわかります。そこに彼らの信仰が表われていると思います。彼らは皆、神に信頼し、神のために仕える勇士になるようにという願いが込められていたのです。

2.神に数えられている民(17-46)

次に17節から46節までをご覧ください。ここに20歳以上の者の名をひとりひとり数えて、その家系を登記しました。なぜ登記する必要があったのでしょうか?彼らがどこの家の出身の者で、どこに属しているのかを明らかにするためでした。イスラエルの民の中で、自分の家系がわからないという人は一人もいませんでした。

これは私たちにも言えます。私たちが戦いに出ていくためには、まず自分がどこに所属しているのかを明らかにしなければなりません。そうでないと戦えません。私たちの家系は何でしょうか?私たちはどこに所属しているのでしょうか?私たちの家系は神の家族です。クリスチャンという家系に所属しています。自分がクリスチャンかどうかわからないというのは問題です。神によって罪が贖われて神の民、クリスチャンになっているということがわからなくては戦うことができません。戦うためにはまず、自分が神の民であるということ、クリスチャンであるということを明らかにしなければならないのです。どうやって明らかにすることができるのでしょうか?いつも教会に行っていればクリスチャンでしょうか。洗礼を受けていればクリスチャンなのでしょうか。そうではありません。私たちが救われてクリスチャンであるかどうかは、神の御霊が証してくださいます。ローマ8章16節を開いてください。ここには、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とあります。クリスチャンの内には聖霊の内住があります。私たちが神の子どもであることは、その聖霊が証してくださいます。ですから、自分がクリスチャンであるかどうか確信のない人はどうか祈ってください。そうすれば、神の聖霊が証してくださいます。

神に仕えるためにはまずあなたが神の家族に登録されなければなりません。神の子どもであるということをはっきりさせなければならないのです。そうでなければ良い成果を上げることはできません。戦いに勝利することはできないのです。

それは同時に、あなたがどの家系に属しているのかをはっきりさせることでもあります。つまり、どの地域教会に属しているのかを明確にするということです。Ⅰコリント14章33節には、「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです」とあります。この「平和の神」というのは「秩序の神」という意味です。神は混乱の神ではなく秩序の神です。一定の組織に加わっていることは自分を守ることにもなります。この荒野で敵から攻撃された時どこに属しているのかがわからなかったら、誰も助けてくれる人がいなかったとしたら、一緒に戦ってくれる人がいなかったとしたら、敗残兵となってしまいます。私はどこの教会にも入りたくない、だれの指示も受けない、私はイエスさまの指示だけ従うというのは聞こえがいいですが、自由気ままで無責任な態度なのです。アカンタビリティーということばがあいます。報告責任と訳される言葉ですが、どこかの群れに属していなければ、このアカンタビリティーを持つこともできません。クリスチャンは一匹狼では戦えないのです。どこかの群れに属していなければなりません。私たちが救われたのは戦いに勝利するためです。敗北感を味わうためではありません。孤独で、不安定で、満足のない歩みをするためではないのです。私たちが救われたのは、私たちが勝利するためなのです。そして、そのためには私たちは登記されなければなりません。私たちが神の子どもであるということ、また、私たちはどの地域教会に属しているのかを登記することによって、私たちの身分が明らかとなり、この世での戦いに勝利することができるのです。

次に19節から46節までをご覧ください。ここにはそれぞれの部族の人数が記されています。ルベン部族46,500人、シメオン部族59,300人、ガド部族45,650人です。そして、ユダ部族74,600人です。イッサカル部族は54,400人、ゼブルン部族57,400人です。エフライム部族40,500人、マナセ部族32,200人、ベニヤミン部族35,400人です。そして、ダンは部族62,700人、アシェル部族41,500人、ナフタリ部族53,400人です。この12部族で合計60万3550人です。ものすごい数です。女や子どもを含めれば、おそらく300万人を越えていたでしょう。いったいなぜ、このように細かに人数が記録されているのでしょうか。

その大きな一つの理由は、アブラハムに対する約束が成就したことの確認です。創世記15章5節で、神はアブラハムを外に連れ出し、天を見上げさせ、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われました。神は彼の子孫を空の星、海辺の砂のように数多く増し加えると約束されたのです(同22:17)その約束がどのように成就したのかを、この民数記で見ることができます。ヤコブがエジプトを下るときにはたった70人しかいませんでした。それから約215年の歳月が経た今、その群れは20歳以上の男子で60万人以上おり、女性やこどもを含めると300万人以上に増えたことがわかります。神はアブラハムとイサクとヤコブに約束されたことがそのようになったのです。 これを見るとき、私たちは励まされるのではないでしょうか。神は約束されたことを一つもたがわず成就してくださる真実な方なのです。

このように軍務につく者が登記されました。彼らは兵士として戦うために、まず自分たちが兵士であると数えられなければいけませんでした。主は、だれが兵士なのかを数えるようにと命じられたのです。主はだれが戦うのかを知っておられその者たちにご自分の力と知恵と資格を与え、彼らが戦うときに、主ご自身が戦ってくださったのです。神は数えておられます。私たちの中には数など気にするべきではない、大切なのは質だ!ということをよく聞きます。しかし、数えることも大切なのです。使徒の働きをみると、そこにはちゃんと数えられていることがわかります。最初の教会には3,000人が加えられました。すぐに5,000人の群れに成長していきました。数えることも大切なのです。しかし、それは自分たちの教会がどれだけ大きいかとか、どんなにすばらしい教会か、どんなに優れているのかを自慢するためではありません。プライドを助長するために数えるのではなく、あくまでも祈るためです。集会にだれが出席され、だれが休まれたのかを数えることによって、そのために祈っていくことができます。そのために数えるのです。教会にはいてもいなくてもいいような人は一人もいません。みんな誰かのケアを必要としています。そのために互いに祈り合っていかなければなりません。だれが来たかなんて関係ない、自分さえちゃんとしていればそれでいいというのは、あまりにも自分よがりの信仰と言えます。互いにいたわり合って、互いに助け合って、互いに支え合っていくために、私たちは祈り合わなければなりません。そのために数えるのです。

Ⅰ歴代誌21章1節をご覧ください。ここにはダビデが人口調査をしたことが書いてあります。彼はいったい何のために数えたのでしょうか。「ここに、サタンがイスラエルに逆らって、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」とあります。これはサタンの誘惑によるものでした。サタンはダビデに人口を調査させ、主の力よりも自分の力、自分の軍事力に頼らせようとしたのです。自分がいかに強いのかを見せて、いかに優れているのか、自分たちの教会がどんなに立派なのかを誇ろうとして数えさせたのです。それは主のみこころを損なわせました。それによって疫病が蔓延し7万人のいのちが奪われたのです。

ですから、このような動機で数えるなら罪です。自分たちの教会がどんなにすぐれているかとか、立派であるかを誇るための人口調査は神のみこころではないのです。しかし、互いに祈り合うために、相手の状態を知りながら、神に助けを求めていくために数えることは大切なことなのです。だから、数を数える時にはその動機に注意しバランスをよく考えなければなりません。ここで神が人口を調査したのは、イスラエルが軍隊を組織として荒野での戦いを戦っていくためだったのです。

3.レビ族について(47-53)

最後に47節から終わりまでのところを見てください。ここにはレビ人についての説明されています。
「しかしレビ人は、彼らの中で、父祖の部族ごとには、登録されなかった。はモーセに告げて仰せられた。「レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録してはならない。また、その人口調査もしてはならない。あなたは、レビ人に、あかしの幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理させよ。彼らは幕屋とそのすべての用具を運び、これを管理し、幕屋の回りに宿営しなければならない。 幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない。イスラエル人は、軍団ごとに、おのおの自分の宿営、自分の旗のもとに天幕を張るが、レビ人は、あかしの幕屋の回りに宿営しなければならない。怒りがイスラエル人の会衆の上に臨むことがあってはならない。レビ人はあかしの幕屋の任務を果たさなければならない。」

レビ部族だけは、他のイスラエル人といっしょに登録されませんでした。なぜなら、彼らの奉仕は神の幕屋とそのすべての用具、およびそのすべての付属品を管理することだったからです。ですから、彼らは幕屋の回りに宿営しなければなりませんでした。それは、イスラエルの軍団が神の幕屋に近づくことがないためです。幕屋には主が住んでおられ、そこは聖なるところであったので、だれも近づいてはならなかったのです。ただレビ族だけは近づくことができました。彼らは神に一番近いところにいることができたのです。イスラエルは、このようにしてすべて主が命じられたとおりに行いました。彼らは約束の地カナンに向けて歩んでいくために軍隊を組織したのです。

それは、私たちの信仰の旅路も同じです。私たちも約束の地、天の御国に向かって進んで行くために、神が仰せられたように軍隊を組織して敵からの攻撃に備え、神のすべての武具をもって悪摩との戦いに勝利する者でありたいと思います。

Ⅰテサロニケ2章13~20節 「信じる者に働く神のことば」

きょうはⅠテサロニケ2章の後半の箇所からお話したいと思います。前半のところには、パウロの伝道に対して非難していた人たちに対する弁明が述べられていました。ここではそれを受けて、テサロニケの人たちがどのように神に従ったのかが記録されています。それはパウロたちにとって、本当に喜びでした。19節と20節のところでパウロはこう言っています。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」いったいなぜテサロニケのクリスチャンたちはそのように受け止めることができたのでしょうか。きょうはこのことについて三つのポイントで見ていきたいと思います。

Ⅰ.神のことばとして(13)

まず13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

「こういうわけで」というのは、今述べたように、パウロがどのように福音を語ったのかということを受けてのことです。彼は福音をゆだねられた者としてそれにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。彼は決して人をだましたりするような不純な心やだましごとで語ったのではありませんでした。こういうわけで・・・です。こういうわけで、パウロたちとしても、そのような宣教の働きにこのテサロニケの人たちが真実に応答してくれたことに感謝しています。それは彼らが、パウロたちが語ったことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおり神のことばとして受け入れてくれたからです。神のことばとして受け入れるとは、ただ単に知的に認めるというレベルではなく、絶対的な真理として受け入れるということです。人間のことばのように、「こうではないか」、「ああではないか」といった憶測や、「こうあるべきだ」といった自分の考えを捨てて、神のことばのとおりに生きようとすることです。伝道者や牧師が語る聖書のことばを聞いてそれにどんなに感銘を受けたとしても、それが単に「良い話だった」とか「感動的な話だった」というレベルに留まっているかぎりは、まだ人間のことばとして受け止められているにすぎません。神のことばとして受け入れるとは、ただ聞くだけでなく、その聞いたことばのとおりに生きることなのです。まさにテサロニケの人たちはそのように受け入れました。それを自分たちが従うべき絶対的な真理として受け入れたのです。それは神のことばを語る側の者として、どれほど大きな慰めと励ましを受けたことでしょう。牧師なり、伝道者なり、福音宣教の働きに携わっている者がかえって励まされるという経験をよくしますが、テサロニケの人たちの福音に対する応答は、まさにパウロたちに励ましを与えるものでした。いやパウロたちだけでなく、それは神ご自身を喜ばせるものだったのです。

いったいそれを可能にしたのは何だったのでしょうか?それは聖霊の働きです。1章6節を振り返ってみましょう。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。テサロニケの人たちは聖霊による喜びをもってパウロたちが語ったことばを神のみことばとして受け入れたのです。

その結果、どういうことが起こったでしょうか?どのような神の御わざが起こったのでしょうか?「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」この神のことばが、それを信じた人たちのうちに働いたのです。この「働いている」ということばのギリシャ語は、「作用する」とか「動く」という意味のことばです。神のみことばがその人を動かして変化をもたらしたということです。リビングバイブルではここを、「信じる者の生活を一変させるのです」と訳しています。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、この神のことばはそれを受け入人の心に変化を起こすのです。その神のことばがその人の内に働いて、信じる人の生活を一変させるのです。

先日、Yさんを施設に訪問したとき、ご自分が救われた時のことを話してくれました。三人兄弟の末っ子として生まれたYさんは、実にわがままに生きておられました。そんな時一番上のお兄さんが結核で亡くなるのです。これまで自分をかわいがってくれた兄が亡くなったとき、心にぽっかり穴が開いたように、虚しくなりました。いったい自分は何のために生きているのか・・・。そんな時、渋谷駅の前で行われてキリスト教の路傍伝道に出会いました。そこで歌われていた賛美歌を聞いていると、胸がスーとするのを感じました。それでキリスト教にのめりこんで行ったのです。しかし、当時は耶蘇教と言われていた時代です。ご両親の反対はなかったのですか、と尋ねると、全然なかったと言うのです。むしろ、応援してくれた、と言います。なぜなら、イエスさまを信じてからのYさんの生活が一変したからです。それまでは両親に反抗的でしたが、イエスさまを信じてからは逆に素直になって、両親の言うことを聞くようになりました。それで両親はとても喜ばれ、「キリスト教はいい宗教だ」と応援してくれたというのです。そればかりも自分たちも教会に行ってみたいと言ってくれました。それはYさんの生活が一変したからです。神のことばは、それを信じる者たちのうちに働いて、その人の生活を一変させる力があるのです。

イエス様は種蒔きのたとえの中で、この信じる者に働く神の力がどのように偉大であるのかをお語りくださいました。「3種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:3-8)

みことばを聞く姿勢が重要です。どのように聞くかによって結果が違います。神のことばを聞いても悟らないと悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪っていきます。道端に蒔かれるとはこのような人たちのことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んでそれを受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばないのです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。この神のことばは、信じている人のうちに働くのです。三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。ですから、どのように神のことばを聞くのかが重要です。

クリスチャンとは人間が与える影響や感動によってではなく、根本的には神のみことばによって内面が変えられ続ける者です。この信じる者の内に働くみことばの力にどれだけその人があずかっているかということによって、クリスチャンの成長の度合いも異なってきます。テサロニケのクリスチャンたちは、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れました。その結果、その神のことばが彼らのうちに働いて、彼らの生活を一変させたのです。

Ⅱ.神の諸教会にならう者(14-16)

次に14節から16節までをご覧ください。14節のところでパウロは、「兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。」

ここでパウロはテサロニケのクリスチャンたちを、ユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったと言っています。どういう点でならう者となったのでしょうか。同国民であるユダヤ人に苦しめられたという点においてです。イエスさまもユダヤ人であり、またパウロもユダヤ人ですが、同胞のユダヤ人から迫害を受けました。彼らは主であるイエスをも、預言者たちも殺し、神に喜ばれるどころか、すべての人の敵となってしまいました。しかし、そのような中でもパウロたちはひるむことをせず、福音を語ることをやめませんでした。それと同じようにテサロニケのクリスチャンたちも激しい迫害があるかもしれませんが、それにひるむことをせず、福音を語り続けてほしい。そういう点においてもキリスト・イエスにある神の諸教会にならう者になってほしいと言っているのです。そういう前例があるから、それにならってほしいと言ったのです。

Ⅱテモテ3章12節にはこうあります。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、必ず迫害を受けるようになります。すばらしい約束です。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、敬虔に生きていなくてもそのように願っただけで、その瞬間に、あなたは迫害を受けるのです。これは確かな約束です。逆に、迫害を受けていないとしたら問題です。敬虔に生きようと願うなら迫害を受けるのであれば、そのようには生きていないということになります。この世にどっぷりと浸かっていると何の迫害も受けません。でもキリストのように生きたいと願うなら、それができていなくても、そう願うだけで迫害を受けるのです。なぜなら、この世には確かにキリストの敵がいるからです。この敵の存在は現実であり、リアルです。悪魔、サタンはこの世の神と呼ばれ、この世の支配者とも呼ばれているのです。しかし、たとえそのような迫害を受けても、決してひるまないでいただきたいのです。なぜなら、それこそ真のクリスチャンであるということのしるしであり、正真正銘の救いを得たことにほかならないからです。それは紛れもなく神の諸教会にならう者となったという事実だからです。

皆さんはどうでしょうか。皆さんにはどんな迫害がありますか。しかしそれがどのようなものであっても、それはあなたが真のクリスチャンであることのしるしなのだと覚え、感謝をもって受け止めましょう。そして、私たちも神の諸教会にならう者とさせていただきましょう。

Ⅲ.クリスチャンの交わり(17-20)

最後に17節から20節を見て終わりたいと思います。「17 兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、―なおさらのこと、あなたがたの顔を見たいと切に願っていました。18 それで私たちは、あなたがたのところへ行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」

パウロたちは、テサロニケには三週間ほどしか滞在できなかったので、どうしてもテサロニケに戻って来て彼らに会いたいと願っていました。それでパウロたちは一度ならず二度までも彼らのところに行こうとしたのですが、その実現には至りませんでした。なぜか?それはサタンがそれを妨げたからです。サタンが妨げたとはどういうことでしょうか?サタンの実在についてはさきほども触れましたが、常に私たちの働きを妨害してきます。このサタンの妨害が実際には何を指しているのかはわかりません。ある人は、それはパウロが抱えていた肉体のとげ(Ⅱコリント12:7)ではないかと考えていますし、ある人は、テサロニケ市当局の厳しい監視の目があったということを指しているのではないかと考えています。またある人はアテネ、コリントと伝道してくる中で生じた様々な問題の対応に追われていたということではないかと考えていまが、はっきりしたことはわかりません。しかし、それがいずれの理由であったにせよ、パウロはその背後にあって神の働きを必至になって妨害しようとするサタンの存在と巧妙なしわざであったと見て取っていたのです。それは私たちもよく経験することです。教会に行こうとしたら急に来客があって行けなくなったとか、聖書を読もうとしたら電話があって読めなかった、祈ろうとしたらどうも体がだるくて祈れない、そういったことがよくあります。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げがあるということを見て、戦っていかなければなりません。

しかし、そのような困難にもかかわらず、パウロは決して落胆しませんでした。なかなか打開できない状況にありながらも、彼らは感謝を抱き続けたのです。なぜでしょうか?第一に、それはクリスチャンの交わりというのは、たとい直接顔を合わせられなくても、心においてしっかりと結び合わされた交わりであるということです。17節でパウロは、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので―といっても、顔を見ないだけで、心においてではありませんが、」と言っています。顔を見て交わることはできないかもしれない。でも心においてではそうではありません。心において交わりを持つことができるのです。どのように?祈りを通してです。私たちには祈りによる交わりという賜物が与えられているのです。祈りを通して、全世界のまだ一度も会ったことのない兄弟姉妹と豊かな交わりを持つことができるのです。先の東日本大震災では世界中のクリスチャンが、まだ一度も会ったことのない人々から、たくさんの支援が送られてきました。また一度も会ったことはないけれども、それは彼らの祈りの中にあり、その祈りに答えて神が彼らの心を動かしてくださったのです。

家内は1979年にアメリカカリフォルニア州ガーデナ市にあるカルバリーバプテスト教会から遣わされて日本にやって来ました。その数年後私と結婚することになったので、私もアメリカに渡り挨拶をしながら、神が私たちを通して何をなそうとしておられるのかをお話ました。すると、そこにいた大勢の人たちが手放しで喜んでくれました。当時その教会の牧師で、今は天国に行かれましたが、キースターという牧師は、これは神さまのみこころだと信じますと言って、按手をして祈ってくれました。またユースのグループは自宅に私たちを招いて歓迎のパーティーをしてくれました。そのとき私は思いました。それまで私は一度も彼らと会ったことはありませんでしたが、ずっと祈られていたんだな・・と。ですから、初めて会ったような感じがしませんでした。もう何年も知っているかのような友のように感じたのです。それは祈りを通して交わっていたからです。クリスチャンはまだ一度も会ったことのない人でも祈りを通して豊かな交わりを持つことができるのです。教会には年齢や職業はもちろんのこと、趣味や考え方においても異なった人々が集まっていますが、目的において、また価値観においても一致することができるのは、そこに共通の土台が与えられているからです。聖書、祈り、信仰、聖霊の働きという共通の土台のゆえに、たとえ遠く離れていても、常に主にあって心は一つになることができる。それがクリスチャンの交わりなのです。

第二のことは、主イエスが再びこの地上に来られる時、必ず再会できるという約束があることです。19節を見てください。ここには、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」とあります。

いますぐに会うことはできないかもしれない、さまざまな妨げに会って会えないでいるかもしれない、でも必ず再会する時がやってきます。いつでしょうか。それはイエス・キリストが再び戻ってこられる時です。イエスが再臨する時です。その時には顔と顔とを合わせて会うことができるのです。その前に会うことができるかもしれませんが、たとえ会うことができなくても、その時には必ず会うことができます。なぜなら、クリスチャン死んでも生きる永遠のいのちが与えられているからです。ですから、この世で物理的に会えなくても、必ず天国で会えるのです。ですから、クリスチャンが死ぬとき、亡くなったとは言わないのです。肉体的には死んでも、霊においてはまだ生きているからです。ですから喪失感というものはありません。感情的には、この地上での別れいう寂しさはありますが、実際には、今も生きているのです。ですから私たちは失ったわけではないのです。

それはただ目に見えないだけで、一時的に会えないだけで、やがて必ず会う時がやってくるのです。この地上での別れは、天国での永遠の再会に比べれば、ほんのしばしの間の別れにすぎません。クリスチャンにとっては「天国でまた会いましょう」と言える再会を待つ希望の別れでもあるのです。これがクリスチャンの希望です。ですからパウロは今すぐに会えなくても、たとえサタンの妨害があって彼らのところに行くことができなくても、喜ぶことができました。彼は、「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りとなるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」と言ったのです。それを知っていたからこそパウロは、会いたくても会えない悲しみ中でも、いつも神に感謝をささげることができたのです。

クリスチャンの交わりはこの希望で支えられているのです。たとえ離れていても、たとえ顔と顔とを合わせることができなくても、祈りによって交わることができるだけでなく、やがて主が再臨されるとき、文字通り顔と顔を合わせて交わることができる。その希望のゆえに、いつも心から主を待ち望むことができたのです。

私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。私たちもそう言われるように、キリストにある神の諸教会にならう者となりたいと思います。それは神のことばを神のことばとして受け入れるところから始まります。この神のことばは、信じている私たちのうちに働いているからです。

Ⅰテサロニケ2章1~12節 「福音をゆだねられた者」

きょうはⅠテサロニケ2章のみことばから、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章には、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んだかが語らました。彼らは、絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもって歩みました。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです。

しかし、そんなすばらしい教会でしたが、問題が全くなかったかというとそうではなく、多少なりの問題がありました。パウロの働きに対する非難と誤解です。パウロが愛をもって教会を訪問しようとすると、自分たちを支配しに来るのではないかと思われたり、諸教会から献金を集めれば、献金をだまし取っていると中傷する人たちがいたのです。当時各地を回って偽りの教えを説いていた偽教師たちとパウロたちの働きを同一視し、パウロを悪しざまに非難する人たちがいたのです。

神に立たされた者がこのような非難を受けることはイエス様でさえ受けたことであって驚くべきことではありませんが、そのようなことよって教会の中が動揺することがあるとしたら避けなければなりません。なぜなら、そうしたことによって神の働きがそしられたり、福音が誤って伝えられてしまう恐れがあるからです。特に、誕生して間もないテサロニケの教会にとって、そうした悪いうわさはどんな悪影響を及ぼすか分かりませんでした。そこでパウロは、主の恵みのうちに成長しているテサロニケの教会が決してそのような愚かなことで動揺してほしくないという思いから、これが純粋な神の働きであることを弁明しているのです。

Ⅰ.神によって、大胆に(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。

「1 兄弟たち。あなたがたが知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、むだではありませんでした。2 ご承知のように、私たちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたのですが、私たちの神によって、激しい苦闘の中でも大胆に神の福音をあなたがたに語りました。」

どういうことでしょうか。1節でパウロは、彼らのところに行ったことはむだではなかったと言っています。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果として教会が誕生したからです。それは並大抵のことではありませんでした。そこには激しい苦闘があったのです。しかし、そうした激しい苦闘の中にあっても、彼らは大胆に神の福音を彼らに語ることができました。どうしてでしょうか。ここに「私たちの神によって」とありますが、そうです、そこに神の助けがあったからです。それがなかったらどうやって宣教活動を続けることができたでしょう。パウロたちの働きは全く不可能なことでした。それを可能にしたのは、ただ神の助けと守りがあったからなのです。神が彼らをテサロニケに遣わしてくださり、その働きを成し遂げてくださったのです。それは神の働きによるものだったのです。

ここには、パウロたちはまずピリピで苦しみに会い、はずかしめを受けたとあります。一人のマケドニヤ人の叫びを聞いてマケドニヤに渡って行ったその最初の宣教地がピリピでした。そこでは占いの霊につかれた若い女奴隷から悪霊を追い出したということで、もうける望みを失った彼女の主人から訴えられ、何度もむち打ちにされたあげく、牢屋の中にぶち込まれました(使徒16:12-40)。もしパウロたちがいい加減な伝達者であったなら、こうした度重なる迫害に直面したときさっさと退散し、伝道することなど止めていたことでしょう。ところが、それでも彼らは勇気を失わず、次の宣教地であるテサロニケに向かい、そこでも福音を語り続けることができました。それは、神がともにおられたからです。神がともにいて助けってくださったのです。パウロの働きは一貫して神によるものだったのです。

ここには、「激しい苦闘の中でも大胆に神の福音を語った」とあります。この「大胆に」というのは「雄弁に」という意味ではなく、「ありののままに」とか「自由に」という意味です。パウロは、神の福音をそのまま、ありのままに語ったのです。

私たちは、自分たちが福音を伝えるとき、それに対して反対者が起こったり非難されたりすると、できるだけ語らようにしようと思います。そしてできるだけ相手に合わせて、相手に受け入れられるようなことだけを語ろうとするのです。しかし、パウロたちはそうではありませんでした。彼らはたとえ迫害されても、たとえむちで打たれても、たとえ牢屋の中にぶち込まれてとも、大胆に神の福音を語りました。それは彼らの中に自分たちの働きが神によるものであるという確信があったからです。人を全く新しく創り変えることができるのはただ神のみことばだけであるという確信があったからなのです。みことばをそのまま伝えるとき、必ずそこに神のみわざが現されると信じていました。事実、彼らがテサロニケに行ったことは、決してむだではありませんでした。そこに神の教会が誕生したからです。

私たちも苦しみに会うと伝道するのはもうやめようとか、宗教の話はできるだけしない方がいいという誘惑にかられることがありますが、しかし、そうした激しい苦闘の中でも神の福音を福音として大胆に語るなら、神が働いてくださいます。そして、すばらしいみわざを現してくださるのです。その労苦は決してむだになることはありません。私たちは、この働きが神によって成されているという確信を持たなければなりません。そして、神によって、大胆に福音を語らなければならないのです。

Ⅱ.純粋な心で(3-6)

次に3節から6節までをご覧ください。ここにはパウロがどのような心で福音を語っていたのか、その動機が語られています。

「3 私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません。4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。5 ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実をもうけたりしたことはありません。神がそのことの証人です。6 また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」

3節でパウロは、「私たちの勧めは、迷いや不純な心から出ているものではなく、だましごとでもありません」と言っています。「迷い」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。また「不純な心」とは、純粋な心でないこと、つまり純粋な動機から出たものではないことです。そして、「だましごと」とは、人をだますような話しのことです。真実はそうではないのに、別のことを話してだますのです。昔も今も、こうしただましごとは絶えません。見かけではもっともらしいようでも、その中身はだましごとで満ちています。だから多くの人たちは宗教には関わりを持ちたくないと思うのです。宗教は怖い・・・と。しかし、パウロたちの勧めはそういうものではありませんでした。パウロたちの勧めは4節にあるように、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとするものでした。なぜなら、神は自分たちの心をお調べになることがおできになられる方だからです。Ⅰサムエル16章7節に、「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。人を外見だけで判断するのは危険です。故事に「外面如菩薩内心如夜叉(げめん にょぼさつ ないしん  にょやしゃ、Fair without, foul within.Fair face, foul heart)ということばがあります。顔は仏のように優しく美しいが、心は夜叉(残忍な鬼神)のように邪悪で恐ろしいという意味のことばです。人はそのように惑わされやすいのです。けれども、神は違います。神は外見ではなく、私たちの心までも見抜くことがおできになられる方だからです。神は人の心の内側のすべてを見抜き、心をお調べになられる方なのです。私たちは人をごまかすことはできても、神をごまかすことはできません。ですから、パウロは人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語ったのです。これがパウロの福音宣教の動機だったのです。これは、宣教における動機ばかりでなく、私たちの生活のあらゆる行動において求められている原則でもあります。Ⅰコリント10章31節には、

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」とあります。

神の喜びと栄光のために行動する、それがクリスチャンに求めてられている生き方です。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなければなりません。「いったい自分は何のためにこれをしているのか」「だれを喜ばせようとして今このことをしようとしているのか」ということを、いつも吟味しなければならないのです。

しかし、それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足はどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はないのです。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるはずだからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度といったものが現れます。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。「あなたには罪があります。罪があれば決して幸せになることはできません。すべての問題の原因はこの罪です。あなたは自分の力ではどうすることもできません。この罪から救われることはできないのです。神を信じてください。神はあなたのためにイエス様を遣わしてくださいました。イエス様があなたの罪のために十字架で死んでくださって、あなたの罪を解決してくださいました。あなたがイエス様を信じるなら、すべての罪が赦されて天国に行くことができます。あなたはこの罪から救われるのです。」とはっきり言わなければなりません。

このようなことを言うと、ある人はこう言うかもしれません。「何だって、この私が罪人だって。とんでもない。私をだれだと思っているのか。罪人呼ばわりして、けしからん。私は無力で何もできない?とんでもない。私はこれまで必死で頑張ってきたんだ。そして、それなりに成功してきた。そんなこと言うなんて失礼だ。そんな宗教だれが信じるか。だからキリスト教は嫌いなんだ。だからだれも信じないじゃないか。たまにはもっといいことを言ったらどうなんだ。心に響くようなことを・・。」

人々が求めているのはその人の自我を満足させてくれるようなことばであって真理ではありません。伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人の気の入ることを語ろうとすることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうという誘惑があるのです。しかし、パウロはこの誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょう。けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。

6節を見ると、ここには、「また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。」とあります。

パウロは使徒としての権威を主張することもできました。この「使徒としての権威」とは、使徒として人々の尊敬を受けるということもそうですが、ここではそれよりも経済的な支援を受ける権利のことを指しているものと思われます。Ⅰコリント9:13-15には、「13 あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」とあります。

使徒、伝道者、牧師が福音の働きから生活の支えを得ることは間違いではありません。神はそのように定めておられます。ですから、それは伝道者の権利でもあるのです。しかし、パウロはその権利を主張しませんでした。なぜでしょうか?誤解されないためです。それを受けることによって他の人たちからの誤解を招き、神の働きがそしられないようにしたのです。そのために彼は自分の権威、名誉を放棄したのです。そして9節にあるように、彼らに負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、福音を宣べ伝えました。それは彼が神の前に純粋な動機をもって歩んでいたからです。

皆さんは、どのような心で歩んでおられるでしょうか。それが迷いや不純な心から出ていたり、だましごとであったりはしていないでしょうか。人を喜ばせようとするあまり、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしてはいないでしょうか。人はうわべを見るが、主は心を見られます。この主の前に純粋な心を持って歩み、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語ろうではありませんか。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

第三のことは、そのふるまい方です。7節から12節までのところをご覧ください。ここには、「それどこか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。」とあります。人は子供が生まれて親になると、喜びとともに子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちの誕生をみたパウロも、その後の彼らの養育に全力を注ぎました。彼は母がその子供を養い育てるように、優しくふるまいました。母のように優しくふるまうとは、無条件に子供を包み込む母親の本質的なふるいまです。

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が表現されています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とありますし、詩篇131篇2節にも、「まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。」とあります。

まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。その神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったほどです。これはまさに母親の姿でしょう。自分と子供を同一化しているのです。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していました。

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように、接しました。つまり、「勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じ」たのです。その父親の愛は、威厳を持って子供たちを正しい道に導くために訓戒する愛です。このような父親の愛は「あなたがたひとりひとりに」とあるように、ひとりひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛だったのです。決して十把一からげにまとめて訓戒するというものではありませんでした。ひとりひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。これのようなことには相当の時間と労力も必要だったのではないかと思います。パウロは後でエペソの長老たちに説教したとき、このように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

このようにパウロのテサロニケでの働きには母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面が相伴わなければ、健全な成長は望めません。ともすれば、優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあったり、優しさの中にも厳しさもあるといった主のバランスが求められているのです。

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものでは無いのが難しい所ですが、確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが重要のようです。特に家庭環境が重要であることはだれもが思うことでしょう。今日、子供の非行の問題が大きな社会問題になっていますが、その大きな原因の一つは、父親と母親の役割が欠如しているところにあると言われています。少し前は厳しい父親がいて、父親が一言・・・だというと、皆それに従いましたが、今は違います。父親が言ってもだれも聞きません。それを知ってか、父親もできるだけ何も言わないようにしているのです。それがやさしさだと思っています。では母親はどうかというと、言いすぎるのです。言わなくてもいいことまで言ってしまいます。ガミガミ文句ばっかり言すのでうるさいのです。子供とどのように接するかは本当に難しい問題で、だれも完璧にできる人などいませんが、その基本は母親のやさしさと父親の厳しさというバランスにあると言えます。そうした環境で育てられて始めてこどもが健全に成長するように、教会もやさしさと厳しさのバランスがあって健全に成長していくのです。パウロはこの母親のように優しくふるまい、父親のように、ご自身の御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。それに加えて彼は、先ほども申し上げたように、昼も夜も働きながら、神の福音を宣べ伝えました。それは、彼らのだれにも負担をかけまいとしたからです。そこにはなみなみならぬ労苦と苦闘があったでしょう。それはまさに涙の伝道でした。

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもなかったのです。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解はありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神の喜びのために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

Ⅰテサロニケ1章4~10節 「すべての信者の模範となった教会」

きょうは、テサロニケ人への第一の手紙1章4節から1章の終わりまでのところから学びたいと思います。1章3節でパウロは、彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていると言いました。そして、4節から3章の終わりまで、その彼らの信仰の働きがどのようなものであったかが語られます。それは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となるような信仰でした。きょうはその信仰から学びたいと思います。

Ⅰ.聖霊によって伝えられた福音(4-5)

まず4節と5節をご覧ください。4節でパウロは、「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」と言っています。

彼らは、「神に愛されている兄弟たち」でした。それは彼らが神を愛したからではありません。神がまず彼らを愛し、彼らのためになだめの供え物としての御子を遣わしてくださったからです(Ⅰヨハネ4:10)。彼らは神に愛される資格など全くありませんでした。平気で罪を犯し、平気でキリストを十字架につけて殺すような者だったのです。にもかかわらず神は、彼らを愛してくださいました。なぜでしょうか。それは「あなたがたが神に選ばれた者」だからです。

彼らは神に愛されるように選ばれた者なのです。それは彼らだけではありません。私たちもそうです。イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンは皆、神に選ばれた者なのです。私たちはどこか自分で教会に来て、自分でイエス様を信じたかのような思いがありますが、実はそうではありません。神があなたを選んでくださったので、あなたは救われ、こうして教会に来ることができるのです。有名なヨハネの福音書15章16節には、次のようにあります。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」

また、エペソ人への手紙1章4節5節を見ると、このように書かれてあります。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。にしようとされました。」皆さん、私たちは生まれる前から、いや、世界の基の置かれる前から、救われるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、「じゃ、神は救われない人は、あらかじめそのように定められていたのか」とか、「信じていない人は救われないように定められているということなのか」「そんなの不公平じゃないか」という人たちがいます。しかし、決してそういうことではありません。Ⅰテモテ2章4節を開いてください。ここには、「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」とあります。皆さん、神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。それなのに信じようとしないのはそれはその人の側の問題であって、神の問題ではないのです。差し出された救いを自ら拒んでいるだけなのです。神の救いはすべての人に差し出されています。神は、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、もしあなたがその差し出された救いを受け入れるならば、あなたも神に選ばれた人になるのです。テサロニケの兄弟たちは、差し出された神の救いを素直に受け入れました。それは彼らが神に選ばれた人たちだったからです。

5節をご覧ください。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」

ここには、テサロニケの人たちが神に愛され、神に選ばれた人たちであると言える理由が語られています。それは、パウロたちによって彼らに伝えられた福音は、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。

どういうことでしょうか?Ⅰコリント人の手紙1章18節でパウロはこのように言っています。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)

また、同じⅠコリント2章4節のところでも、こう言っています。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリント2:4)

パウロによって伝えられた福音はただのことばだけではなく、そこに御霊の力があったということです。それはここに、「私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。」とあることからもわかります。これはおそらくしるしや奇跡、いやしといった不思議なみわざもあったでしょうが、それ以上に、彼らの生活を通して、神の福音が力強く証されていたということでしょう。というのは、ここでパウロは福音のことを「私たちの福音」と言っているからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。これは、私たちの所有となっている福音、私たちのものになっている福音という意味です。ただ私たちが信じた福音というだけでなく、その福音がすっかり板についていたということです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が現れたことでしょう。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

皆さんはどうでしょうか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われたけれど、それは救われた時だけでした・・というようなことはないでしょうか。この福音が「私の福音」と言えるくらいになるまで、この福音にとどまり、福音に生き、福音によって成長していく人になりたいものです。そこに主の聖霊が力強く、豊かに働かれるからです。福音とは良い知らせ、グッド・ニュースです。神はあなたを愛しておられるという知らせです。どのように愛しておられるのでしょうか。神はあなたの罪を赦すために、ひとり子イエスを十字架につけてくださいました。それはあなたが滅びないで、永遠のいのちを持つためです。それは、あなたがどのようになっても変わらない永遠の約束なのです。たとえあなたが罪を犯しても、たとえあなたが道を踏み外したとしても、神は決してあなたを見捨てるようなことはなさいません。あなたの代わりにイエスさまが死んでくださったからです。だから、どんなことがあっても、あなたが救いを失うことは絶対にありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを赦してくださいます。その約束はどんなことがあっても変わりません。それは永遠の契約なのです。すばらしい約束ではないでしょうか。この神の愛にとどまり、福音に生き続けるなら、神はあなたにも御力を表してくださるのです。

Ⅱ.聖霊による喜びをもって受け入れられた福音(6)

次に6節をご覧ください。ここには、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。

福音は、力と聖霊と強い確信とによってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。彼らもまた多くの苦難の中にあって、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れました。パウロたちのうちに働いた聖霊のみわざは、伝道の対象であったテサロニケの人たちにも同様に力強く働いたのです。テサロニケの人々は、当然迫害が予想される中でも、聖霊による喜びを持ってみことばを受け入れることができたのです。

皆さん、クリスチャンの歩みは、決して良いことずくめではありません。良いことがあれば悪いこともあります。クリスチャンになったら何もかもがバラ色になるというわけではないのです。イエスさまがいばらの冠を被らせられたように、クリスチャンの生涯にもいばらがあるのです。バラもあれば、いばらもあります。パウロは若き伝道者テモテにこのように書き送りました。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)

また、イエスさまは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

しかし、そうしたいばらの中にあっても、クリスチャンは喜ぶことができるのです。なぜでしょうか。それは聖霊が与えてくれるからです。聖霊によって喜ぶことができます。たとえ外側からは多くの苦難があっても、聖霊によって内側から喜びが溢れます。

聖書が語っている喜びは、一般的に語られている喜びとは違います。聖書が語っている喜びはまわりの状況がどうであれ、決して奪い取られることがない喜びです。一般的には、健康の時には喜ぶことができても、いざ病気になったら、その喜びはすぐに吹っ飛んでしまいます。お金があれば喜べますが、無くなった途端に不安になります。友達がいれば喜べますが、友達に裏切られたり、見捨てられたりすると落ち込んでしまいます。それまで抱いていた喜びがいっぺんに吹っ飛んでしまうのです。しかし、聖書が与える喜びは、どのような状況にあっても奪い去られることはありません。それは聖霊による喜びなのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていたのです。

皆さんは、この聖霊による喜びを持っているでしょうか?いったいどうしたらこの喜びを持つことができるのでしょうか。それは信仰によります。クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけでなく、目に見えない世界も見ているのです。だから、たとえ現実の生活が苦しくても、喜ぶことができるのです。

使徒ペテロは、迫害によって散らされていたクリスチャンたちに対してこう書き送りました。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:6-9)

「そういうわけで」というのは、イエスによって罪赦されて、永遠のいのちが与えられたので、ということです。そういうわけで、私たちは大いに喜んでいるのです。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。私たちはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。アーメン。

これは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからなのです。それは人間の目で見ることはできません。それはただ信仰によって、聖霊がその真理を明らかに示してくださることによって見えるのです。それは信仰の結果なのです。だから、たとえ苦難にあっても喜ぶことができます。そして、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどることができるのです。

ですから、これが見えるか、見えないかは大きな違いです。信仰によってそれがはっきりと見えるなら、どのような苦難をもろともせずに、聖霊によって喜ぶことができますが、そうでないとまわりの状況に一喜一憂して悲しみに打ちひしがれてしまうことになります。ですから、この差は大きいのです。私たちはいつも聖霊による喜び、聖霊による力、聖霊の臨在にあふれるために、いつもこの信仰によって、自分たちに与えられている霊的祝福がどのように偉大なものなのかを見ていかなければなりません。

Ⅲ.聖霊によって広がり続けた教会(7-10)

第三に、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7,8節をご覧ください。

「こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、わずか3週間しかテサロニケに滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちは、そうした多くの苦難の中にあっても、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主とパウロたちにならうものになっていたのです。それを聞いたときパウロは、どれほど喜んだことでしょう。もう天にも上るような気持ちになったのではないでしょうか。この8節には、そんなパウロの喜びが表現されているように見えます。「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなた方の信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていくのに似ています。彼らの信仰はマケドニヤとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の励ましになって響き渡りました。この「響き渡った」ということばは実は完了形で書かれています。完了形というのは継続を表しています。つまり、響き渡り続けたということです。一時的に響いただけでなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。

私たちの教会もそのような教会になりたいですね。私たちの主への信仰が、この大田原、那須ばかりでなく栃木県の全域に、いや日本全土に、そして全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になれたらと思うのです。絶対にそうなります。私たちは弱くても神は強い方だからです。聖霊には人を新しく作り替える力があります。この聖霊により頼むなら、かつてテサロニケでおこったことが、この大田原でも起こると信じます。かつての中国の教会がそうであったように、この日本の教会も多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主にならう者となるだけでなく、今度はここから出て行って、あらゆる所に響き渡るようにな、そんな教会になるように祈ろうではありませんか。

いったいそのためにはどうしたらいいのでしょうか。まず9節をご覧ください。「私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」

パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり、離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケにはどれほど多くの偶像があったことでしょう。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。たくさんのギリシャ神話の神々を信奉している人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていたものと思われます。しかし、彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになったのです。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。それは中途半端な決別ではありません。明確な、歴然とした方向転換だったのです。

日本人の中には、白黒をはっきりさせない曖昧さをよしとする傾向があります。お正月は神社に行き、お盆なるとお寺に行く。そしてクリスマスになると教会に行ってお祝いするということが平気でできるのです。そうした傾向はクリスチャンになっても引きずっている場合が少なくありません。そして、クリスチャンになってもなかなか偶像から立ち返ることができないでいるということがあるのです。

この偶像というのは単に木や石できたものばかりではなく、私たちの中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあるのです。それがなければ生きていけないとか、絶対に失いたくないと、縛られているとしたら、それはその人にとっての偶像なのです。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神に仕える者とならなければなりません。

それから、もうひとつのことが10節に書かれてあります。「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことはたの人々が言い広めているのです。」

これはどういうことかというと、テサロニケのクリスチャンたちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかっているのでその備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいました。いつ来られてもいいように、その備えをしていたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、イエスさまを信じて、その思いがイエスさまに向かっているでしょうか。偶像に仕える過去の生活から生けるまことの神に仕える現在の生活に一変させられ、そして将来はキリストの再臨の祝福にあずかる希望へと導かれるクリスチャンライフは、何と幸いなものでしょうか。テサロニケのクリスチャンたちはこのように歩みました。それはすべての信者の模範となるほど輝いていたのです。その信仰はあらゆる所に響き渡るものでした。それは私たちの模範でもあります。私たちも聖霊によって伝えられた福音を受け入れ、その喜びの中に入れられました。しかし、それだけで終わりではありません。福音は私たちの生活を一変させます。偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようにしてくれます。そこには明確な変化が伴います。そして、それはキリストの再臨の希望へとつながっていくのです。私たちもこのテサロニケのクリスチャンたちにならい、生けるまことの神に仕え、キリストの再臨を心から待ち望む者でありたいと思います。これが福音のもたらす大きな変化であり、祝福なのです。

Ⅰテサロニケ1章1~3節 「テサロニケ人への手紙」

きょうから、テサロニケ人への手紙から学んでいきたいと思います。この手紙はパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれた手紙ですが、パウロが書いた手紙の中で一番初めに書かれた手紙です。新約聖書の手紙の多くはパウロによって書かれましたが、その中でも最も初期に書かれた手紙なのです。

なぜこの手紙が書かれたのでしょうか?パウロがテサロニケを訪問したのは、彼の第二回伝道旅行の時でした。アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたパウロは、フルギヤ・ガラテヤの地方を通ってムシヤに面した所に来ましたが、それからビテニヤの方に行こうとしたら、イエスの御霊がそれをお許しにならなかったのです。それでムシヤを通ってトロアスに下ると、彼はそこで一つの幻を見ます。それは、ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」(使徒16:10)と懇願するものでした。パウロはその幻を見たとき、それは神が自分たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるためだと確信し、ただちにマケドニヤに出かけていくことにしました。こうして福音がエーゲ海を渡り、初めてからヨーロッパへともたらされることになったのです。

マケドニヤに渡ったパウロたちは、まずピリピで伝道します。そこでは紫布の商人ルデヤとその家族が救われましたが、その一方で占いの霊につかれた女から悪霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった主人がパウロたちを訴えたので、パウロとシラスは捕えられ、投獄されるという苦しみを体験します。しかし、神はそうした中にも力強いみわざをなされ、大地震を起こし、看守とその家族全員が救われるというみわざを行われました。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30-31)そうやって看守一家が救いに導かれたのです。

その次に向かったのが、このテサロニケです。テサロニケでの伝道の様子は使徒の働き17章にありますので、後で読んで確認しておいていただきたいと思いますが、パウロたちはここにあまり長くはいませんでした。いなかったというよりも、いられなかったのです。パウロはいつもしているように、ユダヤ教の会堂に入って行って、聖書に基づいてイエスこそキリスト、救い主であると宣言すると、彼らのうちの幾人かはよくわかって、信仰の道に入りましたが、他のユダヤ人たちはねたみにかられて騒ぎを起こしました。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。」(使徒17:6)と言って。このままではどうなってしまうのかわからないので、兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスを隣の町のベレヤへ送り出したのです。ですから、彼らはわずか一か月くらいしかいられなかったのです。

それにしてもパウロが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちのことでした。彼らはまだ救われたばかりです。しかも、パウロたちはそこに一か月くらいしか滞在することができなかったので、神のみことばをそんなに教えることができませんでした。誕生したばかりの教会にとって激しい迫害の中で、しっかりと信仰に立っていることができるだろうか。中には信仰から離れてしまう人もいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされているかもしれない・・・。そんな不安と恐れの中で、パウロはアテネからテモテをテサロニケに遣わすのです。

テモテがテサロニケから戻ってきたのは、パウロたちが次の伝道地コリントにいた時でした。パウロはテモテから、テサロニケのクリスチャンたちは激しい迫害の中にあっても固く信仰に立っているということ、そして彼らもパウロたちと再会することを心待ちにしているということを聞いて、とても喜びます。しかし、中には再臨について誤って理解していることから、混乱している人たちもいるということを聞きました。そこでパウロは迫害に苦しんでいるテサロニケの人たちを慰め、励ますために、また、福音の基本的な教えを彼らに伝えるためにこの手紙を書いたのです。

皆さん、聖書を正しく理解することは大切なことです。なぜなら、それによって信仰生活が決まるからです。何を、どのように信じているかによって、そのライフスタイルが決まるのです。特に生まれたばかりのクリスチャンにとって福音の基本的な教えを正しく理解することは、その後の信仰生活に大きな影響を及ぼしていきますから、とても重要なことであると言えます。きょうは満喜人兄と桂珍姉のバプテスマ式を行いましたが、これからの信仰生活が祝福されたものとなるために、聖書のみことばを正しく理解することは重要なことなのです。きょうからこのテサロニケの手紙から聖書の基本的な教えを一つ一つ学んでいきたいと思います。

Ⅰ.神および主イエス・キリストにある教会(1)

まず1節をご覧ください。まず、パウロはいつものようにあいさつから手紙を書き始めます。

「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

ここでは、差出人がパウロだけでなくシルワノ、テモテからとなっています。シルワノとはシラスのことです。シラスは使徒の働き15章22節、32節を見ると、エルサレム教会の指導者の一人であり、預言者であったことがわかります。彼はパウロの第二回伝道旅行で、バルナバに代わってパウロの同行者となりました。テモテは、パウロの第二回伝道旅行の途中、ルステラで一行に加わりました。彼はギリシャ人を父とし、ユダヤ人を母とする評判の良い弟子でした。そのシルワノとテモテの名前も一緒に書き記されているのです。なぜでしょうか。実際にこの手紙を書いたのはパウロです。ですから、パウロからテサロニケ人の人たちへ、で良かったはずですが、わざわざシルワノとテモテの名前も書き記されているのです。

一つには、このテサロニケでの伝道はパウロ一人によって行われたのではなく、そこにシラスもテモテもいました。そのシラスとテモテの名前も書くことで、それを受け取ったテサロニケの人たちが当時のことを思い出し、大きな慰めがもたらされたに違いありません。

もう一つの理由は、このテサロニケでの働きはパウロ一人によるものではなく、そこにはシラスやテモテもいて、彼らとの協力によって成された働きであったということです。つまり、宣教の働きは決してパウロ一人によるものではなく、シルワノやテモテ、あるいはここに名前も記されないような人たちのチームワークによるものであるということです。パウロがいて、またそれを支えるパートナーやサポーターがいて、そのような人たちが互いに祈り合い、助け合ってこそ、成し得ることができるのです。特に、背後で祈ってくれる人たちの働きはどれほど大きな力であったことでしょう。伝道というと、実際にそれに携わる人たちだけの働きのように見えますが、実はこうした背後にある人たちの祈りや、側面からのサポートなど、それを支える人たちの協力があってこそ力強く前進していくものなのです。

1節をもう一度ご覧ください。ここにはテサロニケ人の教会へ、とあります。これはパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれて手紙なのです。しかし、ただのテサロニケ人の教会へのではありません。ここには、「父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ」とあります。どういうことでしょうか?それはこのテサロニケの教会は神とキリストの教会であるということです。この教会はパウロが開拓した教会ですがパウロの教会ではなく、神の教会なのです。たとえそれがパウロたちによって立てられた教会であっても、キリストにある神の教会なのです。ですから、教会を構成しているクリスチャン一人一人は神とキリストのうちにあって結ばれ、生かされてこそ成長することができるのです。たとえその教会の設立にどんなに貢献した人であっても、その教会にどんなに長くいて貢献した人がいても、神とキリストの地位に取って代わることはできません。教会はキリストのからだであり、神ご自身のものなのです。それゆえ、教会は神とキリストに固く結びついてこそしっかりと立ち続けることができるのです。パウロたちは、このテサロニケに1か月しかいられませんでした。そして、残された教会は激しい迫害の中にありました。しかしそれでも彼らがしっかりと信仰に立ち続けることができたのは、パウロが宣べ伝えた神と主イエス・キリストにしっかりととどまっていたからだったのです。

そのテサロニケの教会のためにパウロは祈っています。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この「恵みと平安」という順序が大切です。恵みがあって平安がもたらされるのであって、その逆ではありません。神の恵みを知らなければ平安はないということです。神の恵みとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストによる救いです。それは一方的な神の恵みによってもたらされました。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)。何の功績もない者が救われました。ただ救い主イエス・キリストを信じただけで救われたのです。自分の力ではどうすることもできませんでした。ただイエスさまを救い主と信じただけで救われたのです。それは恵みではないでしょうか。この恵みがわかると平安がもたらされます。なぜなら、この平安は神から罪が赦され神との平和が与えられたことによってもたらされるものだからです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

神が私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違います。世が与える平安は一時的なものです。しかし、神が与えくださる平安はどんな悩みや苦しみにあっても、どんな恐れや不安があっても、決して奪い取られることのない平安です。それは確固たる平安なのです。主イエスはそのような平安を与えてくださいます。それは主イエスを信じることによって神との敵対関係が解消され、神が共にいてくださることによってもたらされるものなのです。

Ⅱ.祈りとみことば(2)

次に2節をご覧ください。パウロはテサロニケの人たちにあいさつを送ると、今度は彼らのために祈ります。

「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、」

パウロはいつもテサロニケの人たちのために祈っていました。彼の祈りは時々思い出したかのような気まぐれの祈りではありませんでした。また、ほんの少数の人たちのためにとりなすことで満足するような祈りでもなかったのです。パウロの祈りはいつも、彼らすべてのためにとりなして祈る祈りでした。このような祈りは、神との交わりと祈りに十分時間を割かなければできないことです。テサロニケの教会はこうした祈りによって生まれたのです。また、パウロが聖書からイエスこそキリスト、救い主であると語ったことを彼らが理解したことによって生まれたのです。そうです、教会の土台は祈りとみことばであり、教会は祈りとみことばによって生まれ、立て上げられていくのです。

この情報過多な時代にあっては、こうした情報の収集に時間がとられ、祈りとみことばに打ち込むことがとても難しくなっていますが、教会が成長していくためには、あるいは、私たちの信仰が成長していくためには、いつも、すべての人のために、心を合わせ、一つになって祈り、みことばによって私たち自身が新しく創り変えられる必要があるのです。

Ⅲ.信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐(3)

1. 信仰の働き

第三のことは、パウロの祈りの内容です。3節をご覧ください。ここには、「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」とあります。

パウロはいつも彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こして祈っていました。「信仰の働き」とは何でしょうか?この言葉は一見、矛盾しているようにも聞こえます。なぜなら、信仰は信じることであって、働くことではないからです。信仰と働きとか、信仰と行いというのは、相容れないもののように感じるのです。いったいこれはどういうことでしょうか?

「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)

これはどういうことかというと、私たちが救われるためにはただ信じればいいのですが、その信仰に行いがなかったら、そのような信仰は死んだものだ、というのです。しかし、これは当然と言えば当然なのです。神の恵みがわかり、イエス・キリストによって救われた人なら、喜びと感謝に満ち溢れ、それに応答して喜んで自分を差し出したいと思うようになるでしょう。本当の信仰にはそのような応答が伴うからです。それがないとしたら、何の喜びもないとしたら、何の感動もないとしたら、その人の信仰に問題があるか、あるいはまだ救いを経験していないかのどちらかです。ここでヤコブが言っていることはそういうことです。

信仰は行いによるのではありません。私たちが何をしたかによってもたらされるものではなく、一方的な神の恵みによるものです。しかし、そのような恵みに触れた人は必ず良い行いが伴うようになります。それがないとしたら、その信仰は死んでいるか、どこかに問題があるのです。本物の信仰にはそうした働きが伴うからです。テサロニケの人たちの信仰には、こうした働き、行いが伴っていたのです。それは彼らが本物の信仰を持っていたからです。

2. 愛の労苦

それだけではりません。彼らには「愛の労苦」がありました。この「労苦」と訳されたことばは「打つ」とか「たたく」、「切る」という意味から来たことばです。つまり、痛みか伴うということです。

皆さん、愛には痛みが伴います。愛しても、愛しても報われないとしたらどうでしょう。痛いです。苦しいです。それは打ちたたかれ、切られたかのような気持ちになるのと同じです。本当の愛には労苦が伴うのです。それは神の愛を考えるとわかります。神はひとり子イエスをこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのにこの神の恩を仇で返すようなことがあったとしたらどうでしょう。どんなに悲しまれることかと思います。それなのに、この世は彼を受け入れませんでした。それほど悲しいことはありません。愛には労苦が伴うのです。

しかし、愛することをやめてはなりません。なぜなら、私たちはこの愛で救われたからです。たとえ報いが得られなくても、たとえ感謝されなくても、このような愛で愛することを止めてはならないのです。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければならないのです。(Ⅰヨハネ3:18 )。テサロニケのクリスチャンたちには、このような真実な愛があったのです。

3.望みの忍耐

そしてもう一つは、「主イエス・キリストへの望みの忍耐」です。主イエス・キリストへの望みの忍耐とは何でしょうか?これは主イエス・キリストが再び来られるという再臨の希望のことです。イエス様が再臨されるとき、私たちは一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになります。そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいるようになるのです。これが本当の希望です。そのとき私たちは朽ちることのないからだ、栄光のからだに変えられます。今のからだは朽ちていきます。そして、みな土にかえるのです。いつまでも若々しく、ピチピチしているということはありません。いつまでも輝いているわけではないのです。年をとれば肉体は衰えていきます。いつの間にか髪も白くなり、薄くなったり、無くなったりします。顔にもしみやしわが出てきます。この肉体がいつまでも続くということはないのです。

しかし、やがてキリストが天から再び来られるとき、私たちは御霊のからだ、栄光のからだに変えられ、いつまでも主とともにいることになります。もう病気になることもなく、障害になることもありません。罪を犯すこともなくなるのです。完全なからだ、栄光のからだによみがえるのです。。これは希望ではないでしょうか。その日が来るとすべての問題が解消されます。今は苦しいことばかりでも、その時にはそうした苦しみから完全に解放されるのです。これは希望です。

「16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

ですから、私たちは勇気を失いません。この希望があるからです。この希望こそ私たちを慰め、励ましてくれるのです。

パウロはこのテサロニケの人たちを励ますために、この主の再臨の希望を何度も何度も語っていることがわかります。このテサロニケ人への第一の手紙の各章の終わりには、必ずこの再臨のことガム語られているのです。(1:9-10,2:19-20,3:11-13,4:13-18,5章全体)

いったいなぜパウロはこんなにも主イエス・キリストの再臨について語っているのでしょうか。それは一つには彼らの中に再臨について誤って理解している人たちがいたからですが、それ以上に、この主の再臨こそ私たちクリスチャンにとっての真の希望であり、慰めであり、励ましであると確信していたからです。

しかし、この主イエス・キリストの望みを持つためには忍耐が求められます。それが近いということはわかっていても、それがいつなのかがはっきりわかりません。いつまで歩くのか、どこまで行くのか、全くわからない中でずっと我慢することはたやすいことではありません。しかし、そのような中にあっても私たちは、忍耐をもって主イエス・キリストが再び来られる時を待ち望まなければなりません。それがあるからこそ私たちはあきらめたり、投げ出したり、絶望したりしないで、最後まで耐え忍ぶことができるからです。

最後にⅠコリント13章13節を開きたいと思います。ここには、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」とあります。これは結婚式でもよく読まれる箇所で、なじみのある聖書の言葉ですが、この信仰と希望と愛こそが、私たちを固く立たせてくれるのです。

信仰のない働きはむなしいです。愛のない労苦、望みのない忍耐は長続きしません。どんなにがんばって働いても信仰がなければ意味がないのです。どんなに労苦しても愛がなければ報われることはありません。どんなにがんばっても、望みがなければ長続きはしないのです。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛がありました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐がありました。そして、それが彼らの励ましとなり、慰めとなり、希望となり、激しい迫害の中にあっても信仰に固く立ち続けることができたのです。たった3週間、あるいは1か月だったかもしれませんが、それでパウロが、シルワノが、テモテがその地を離れて行かなければならないという状況の中でも、彼らがしっかりと信仰に固く立ち続けることができたのは、この信仰と希望と愛があったからなのです。

その人が若いかどうか、どれだけ経験があるか、どれほど能力があるかといったことは全く関係ありません。若くても用いられます。たとえ経験がなくても、どんなに能力がなくても、用いられるのです。信仰の働き、愛の労苦、主イエスキリストへの望みの忍耐があれば、私たちも励まされ、用いられるのです。

私たちの教会もこのテサロニケの教会のように、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐によって、固く信仰に立ち続ける教会であるように祈りたいと思います。

創世記6章

きょうは創世記6章から学びたいと思います。

Ⅰ.人の悪の増大(1-7)

「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」

まず1節と2節をご覧ください。最初の人アダムとエバが造られてからどのくらいの時が経っていたでしょうか。おそらく2に専念くらいが経過していたと思われます。地上には多くの人々が増え始めていました。そのように地上に人が増え始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたとあります。いったいこれはどういうことでしょうか。

ここには「神の子ら」と「人の娘たち」という二種類の人たちが出てきていることがわかります。ある人たちはこの「神の子ら」を「天使たち」と解釈する人もいますが、これは天使のことではありません。天使と人間が結婚することなどないからです。また、天使には性もなく、肉体もないからです。ましてや、天使と人間との間から子どもが生まれるということなどあり得ないのです。ではこの「神の子ら」とか「人の娘たち」とはいったいだれのことを指しているのでしょうか。それは、アダム-セツ-ノアという系統と、アダム-カイン-レメクという系統のことです。すなわち神を信じて歩む神の民と、そうでない人々のことです。同じ人間でも信仰によって歩む人たちのことを「神の子たち」と表現しているのです。いったい神の子たちに何があったのでしょうか。

ここには、「神の子ら」が、人の娘たちの、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたとあります。すなわち、信仰によって歩むはずの神の子たちが、神に向けていたその目を、人の娘に向けたということです。このようなことがあると、いったいどういうことが起こるのでしょうか。信仰から離れるということが起こってきます。これまでは神を中心に歩んでいた人たちが、この世を中心に生きるようになってしまうのです。その一番大きな原因が結婚なのです。結婚によって信仰から離れてしまうというケースが少なくありません。それゆえに神は、未信者との結婚を禁じているのです。あの知恵者ソロモンでさえその王国が分裂した直接の原因は、千人のそばめを置いたことです。それによって彼の心が、真の神から離れ偶像へと向かっていったのです。ですから、誰と結婚するかというのはとても重要なことです。聖書は一貫して未信者との結婚を禁じています。ここでも神の子たちが人の娘たちの中から妻を選んで結婚したことが、彼らが悪の道に走っていく一番大きな原因だったのです。

そこで主はどうされたのでしょうか。3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。」

神様は人の齢を120年と定められました。それまではほとんど900歳くらいまで生きることができました。なぜなら、そこに神の祝福があったからです。もちろん、環境も、食物も、良かったでしょう。けれども、何といっても神の祝福があったのです。ですから人は長く生きることができました。しかし、地上に人が増え始め、その悪が増大し、その心に量ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になられた主が、人の齢を120年としたわけです。その人の悪が増大した一つの例が、この神の子らが人の娘たちを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻としたということだったのです。

次に4節をご覧ください。 ここには、「ネフィリム」がいたとあります。「ネフィリム」とは何でしょうか?何だか恐竜かのような名前ですが、これは恐竜のことではありません。「ネフィリム」とは、「ナファル」ということばから派生したもので、「攻撃する」という意味があります。ですから、「ネフィリム」とは「攻撃者」とか「略奪者」というような意味なのです。つまり、神を畏れることを知らない権力者たちのことです。政治的にも経済的にも力を持っている巨人のことです。このような存在はその当時だけでなく、今もたくさんいるでしょう。いや、そうした人たちで満ちています。まさにこの「ネフィリム」の存在は、現代の社会そのものを現しているようです。人の目から見る時、そのような人々は「勇士」であり、「名のある者」たちです。しかしどんなに名があり、力があっても、あるいは美しくても、そこに神がいなければ悪なのです。そうした悪がこの地上に増大した、それがノアの時代だったわけです。

このように、地上に人の悪が増大したことをご覧になられた主はどうされたでしょうか。5節から8節までをご覧ください。「それで主は、地上に人をつくったことを悔やみ、心を痛められました。」「悔やまれた」ということばは「後悔する」という意味ではありません。「悔やむ」とは、「痛む」とか「悲しく思う」という意味で、結果を見て後悔する人間のそれとは全く違うのです。Iサムエル15章2節に、「この方は人間ではないので、悔いることはない」とあるとおりです。神様は人の悪が増大するのを見て、深く心を痛められたのです。ですから、この悔やみというのは、神様の深いあわれみが示されていることばなのです。人は罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らずに、かえって罪を誇りとしています。その罪を自分の問題として悲しみ、心を痛められたのです。それがやがてイエス・キリストの救いへとつながっていくわけですが・・・。神様は、人間の罪をご覧になられて、本当に心を痛められたのです。

その結果、どうされたでしょうか。7節です。「そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

人の罪を痛み、あわれんでおられるなら、いったいどうして人を地の表から消し去るようなことをされるのでしょうか?それは、神は罪や悪と共存できるお方ではないからです。正しく、きよい神様は、少しの汚れとも共存することができません。だからこそ、そうした人の悪、罪に対しては、怒りを持たれるのです。しかし、その怒りとは私たちの怒りとは違います。心に痛みの伴う怒りです。それは「わたしが創造した」ということばに表れているのではないでしょうか。「わたしが創造した人」、私たちは神によって造られたものなのです。神と深く結びついているものなのです。ですから、そのような人を滅ぼすということには、神の深い苦しみと痛みがあったのです。ご自分で造られたものを、ご自分で打ち壊さなければならない神の心痛はいかばかりであったかと思うのです。

Ⅱ.主の心にかなっていたノア(8-14)

しかし、そのような中で、ノアだけは違いました。彼は主の心にかなっていました。彼は、たとえまわりの人たちが自分勝手に生きていても、神を敬い、神に信頼して歩んでいたのです。9節を見ると、「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。彼は他の人たちと同じように罪人の一人にすぎませんでしたが、他の人たちのように自分の思うようにではなく、神に信頼して生きたのです。

地上に人の悪が増大する中で、そのように信仰によって歩むことには大きな戦いがあったかと思いますが、神はその信仰を受け入れられ、喜ばれ、彼とその家族を救われ、後の新しい人類の礎とされました。それは今の時代も同じです。今の時代も人々は神を敬うことをせず、自分勝手に歩んでいますが、それでも私たちはノアのように、神とともに歩む、神に信頼して生きる、そういう者でありたいと思います。

13節と14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らと地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」

ここには「そこで、神は・・・」とあります。神がノアに箱舟を造るようにと命じられたのは、地が神の前に堕落し、暴虐で満ちていたからです。そこで神は、彼らを地とともに滅ぼそうとされたのです。しかし、9章18~27節を見ると、洪水の直後にノアがぶどう酒を飲んで酔っぱらい、天幕の中で裸になったとき、それを見たハムが罪を犯したことを考えると、もしこの地上の悪を一掃することが洪水の目的であったとしたら、それは元の木阿弥(もとのもくあみ)となり、目的を達成することができなかったということになるのではないでしょうか。いったい洪水の目的は何だったのでしょうか。

マタイの福音書24章37~39節のところには、イエス様がこのノアの洪水について言及しています。 「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。の子が来るのも、そのとおりです。」

これは世の終わりのことです。イエス様が再臨されることについて預言しているのです。その預言の中でイエス様は、人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだと言っています。つまり、このノアの時の洪水の出来事は、世の終わりの時のことの型だったのです。キリスト再臨される時の警告であったわけです。

Ⅲ.ノアの箱舟(15-22)

さて、ノアが造るように命じられた箱舟がどのようなものであったかについて、15節以降に記されてあります。その長さは300キュビト、幅は50キュビト、高さは30キュビトです。1キュビトはだいたい44㎝ですから、長さ132㍍、幅22㍍、高さ13㍍となります。近代の船でいえば1万5千トンぐらいの船に相当する大きな船であっただろうと考えられています。

そして、箱舟に天窓が作られました。神様はどうして天窓を作るようにされたのでしょうか。それは洪水を見ないで神様だけを見るためです。祈りの窓を通して、神だけを待ち望まなければならなかったのです。それから、箱舟の側面には戸口を設けました。この箱舟の戸口はイエス・キリストの救いを表しています。ヨハネの福音書10章9節には、「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」とあります。

これはイエス・キリストの門を表しています。だれでもイエスを通って入るなら救われます。そして安らかに出入りし、牧草を見つけるのです。いやぁ、ここには戸口が1階と2階と3階と3つもあるのだから、これがイエスの救いを示しているとは言えないのではないかと考えられますが、実はそうではありません。新改訳聖書では1階から3階にそれぞれ戸口が作られたかのように記されてありますが、実際には戸口は一つしかありませんでした。戸口が一つしかない船で、1,2,3階のある船を造るようにと命じられたのです。ですから、口語訳には次のように訳されてあるのです。

「あなたは糸杉の木で箱舟を造り、その中に部屋(複数)を設け、ピッチでその内外を塗りなさい。その造り方は次のとおりである。箱舟の長さは300キューピット、幅は50キューピット、高さは30キューピットとし、箱舟に屋根を造り、上へ1キューピットにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、1階と2階と3階のある箱舟を造りなさい」

これが正しい訳です。戸口は一つしかありませんでした。それはイエス・キリストを表していたのです。イエスが門です。だれでもイエス様を通って入るなら救われますが、そうでなければ救われることはありません。イエス・キリストを通って入るなら救われます。そうでなければ救われないのです。

ノアはその箱舟の中に入りました。妻と息子たちと一緒に・・・。神様は今日でも私たちに、「あなたとあなたの家族とは皆箱舟に入りなさい」と語っておられます。誰も信じないような時代にあって、ただ聖書のみことばに従ってイエス・キリストの箱舟に入るなら、救われるのです。この世にはいろいろな船があって、いろいろなドアがあって、どの船、どのドアから入ったらいいのか迷ってしまいますが、聖書は、救いに至る船、戸口は、イエス・キリストであるとはっきりと告げているのです。皆さんはこのみことばを信じますか。そうであればご自分だけでなく、妻、息子たち、すなわち家族といっしょにこの箱舟に入ってください。

さて、この神の命令に対してノアはどのように応答したでしょうか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」

ここには「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った」とありますが、これはなかなか簡単なことではありません。まず時間がかかったでしょう。創世記5章32節にはノアが500歳のとき、セム、ハム、ヤペテが生まれたとあります。そして7章11節には彼が600歳のときに洪水がありました。ですから、箱舟を作るにはかなりの期間がありました。そうした歳月をかけて作ったのがこの箱舟です。雨などあまり降らないような時に、これだけの歳月をかけて箱舟を造ることがどれだけ大変であったかを想像することは容易いことです。人々に馬鹿にされ、あざけられる中でも、彼はコツコツと箱舟を造り続けました。

第二に、このためには多額の資金が要でした。おそらく彼は、このために自分の全財産を使ったのではないかと思います。それなのにもし洪水が起こらなかったとしたら、今までやってきたことが全部無駄になってしまいます。それでも彼は、神様が命じられたとおりにしたのです。

第三に、かなりの労力が必要でした。猫の手も借りたいくらいの状態だったでしょう。実際これをノアと三人の息子たちだけで作ることはできなかったでしょうから、多くの人たちを雇ったに違いありません。しかし、そうした彼らも、ノアの行ったことをそのまま信じることはできなかったのです。

こうした困難な中で、どうしてノアは箱舟を造ることができたのでしょうか。信仰があったからです。ノアは神様が言われたことは必ずそうなると信じたのです。

「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」(へブル11:7)

彼は信仰によって生きたので、まだ見ていないことでしたが、神が洪水によってこの世をさばかれるということを聞いたとき、それを信じてそのように行ったのです。

皆さん、キリストが再臨されるときも同じなのです。キリストが再臨されるのも、ノアの日のようです。洪水が来て、すべてのものをさらってしまうまで、彼らはわかりませんでした。思いがけない時にやってくるのです。しかし、違う点が一つだけあります。それは、ノアの日は洪水によってこの地が滅びましたが、キリストの再臨の時はそうではないということです。黙示録などを見ると、もうありとあらゆることが起こるとあります。天変地異から、疫病、原子力災害のようなもの、大混乱が地上に起こるのです。それらのことは前兆なのです。そういうのを見たら、世の終わりが近いということを悟るようにとあります。そういう面から見ると、確かに世の終わりは近いのです。私たちはノアのように、いつキリストが再臨されてもいいように、いつ世の終わりがあり、どのようなことになってもいいように、神様が語られたことをそのとおり行っていく、そういう信仰をもって日々歩んでいきたいと思います。

レビ記26章

いよいよレビ記26章に入ります。25章においては安息年、ヨベルの年、そして買戻しの権利について学びました。きょうのところには、神に聞き従う者への祝福と、そうでない者へのさばきが語られています。

Ⅰ.神の命令(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。ここには、「26:1 あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」とあります。

主はこれまでも、イスラエルの民に数々の戒めを与えられましたが、ここでは極めて単純に、神の命令を与えられています。それは、「自分のために偶像を造ってはならない」こと、また、「それを拝んではならない」、「安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない」ということです。なぜなら、「わたしがあなたがたの神、主だから」です。これは十戒にも定められている戒めです。なぜここにきて、このようなことか戒められているのでしょうか。それは、これがすべての戒めの中心的なポイントだからです。神の戒めというとあれをしてはならない、これもしてはならない、といったいろいろな戒めを思い出しますが、神に対してしなければならないことはそれほど多くはありません。いや一つだけです。それは何かというと、主だけを愛し、主に従いなさい、ということです。

ルカの福音書10章41-42節には、イエス様をもてなすために気が落ち着かずイライラしていたマルタが、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私を手伝うように妹におっしゃってください。」と言ったことに対するイエスのことばが記録されています。そのときイエスはこういわれました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。(ルカ10:41-42)」それと同じです。どうしても必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけです。それは主を第一にして、主の御言葉を聞いて生きるということです。このような単純な生活の中に、神のみわざを経験することができるのです。

これは教会も同じです。教会にとって必要なことはそんなに多くはありません。いや一つだけなのです。それは何でしょうか。神のみ言葉を聞き、それに生きるということです。神を愛し、神を第一にして生きることです。あれもしなければならない、これもしなければならい、ということではありません。何かをすることで忙しくなってしまい、肝心のみ言葉を聞くことが後回しになってしまうと、神の祝福が見えなくなってしまいます。

Ⅱ.神の命令に従う者への祝福(3-13)

次に3節から13節までをご覧ください。ここには、神のおきてに従って歩む者への祝福が語られています。

それは第一に、豊かな収穫です。4-5節をご覧ください。

「26:4 わたしはその季節にしたがってあなたがたに雨を与え、地は産物を出し、畑の木々はその実を結び、26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取り入れ時まで続き、ぶどうの取り入れ時は、種蒔きの時まで続く。あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかにあなたがたの地に住む。」

普通大麦の収穫は四月ごろに、小麦の収穫が五月ごろに行われますが、それがぶどうの取り入れ時まで続きます。ぶどうの取り入れ時とは八月なので、それまで続くということです。そして、ぶどうの取り入れ時は、種まきの時まで続きます。種を蒔くのは十月以降、つまりぶどうの収穫が種蒔きの時である十月まで続くということです。それだけ豊かな収穫をもたらされるということです。ヨハネ1章16節には、「私たちはみな、この方(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とありますが、その祝福は無尽蔵の豊かさです。恵みが与えられたかと思いきや、さらに大きな恵みがその上に押し寄せる豊かさです。

第二に、安全が約束されています。6節をご覧ください。

「26:6 わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る。わたしはまた悪い獣をその国から除く。剣があなたがたの国を通り過ぎることはない。」

これは敵や獣の襲撃がなく安心していることができる、というものです。この豊かな日本に住んでいると、こうした安全は当たり前に思ってしまいますが、イスラエルではそうではありません。いつ何時、敵に襲われるかわかりません。ですから、当時の町は城壁に囲まれていたのです。しかし主は、そんな彼らに平和と安全を与えてくださいます。

 

第三に、勝利の約束です。7-8節をご覧ください。

「26:7 あなたがたは敵を追いかけ、彼らはあなたがたの前に剣によって倒れる。26:8 あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。」

これは、戦いにおける勝利の約束です。どのようにして勝利するのでしょうか。五人が百人を追いかけ、百人が万人を追いかけるのです。どのようにしてこんなことが可能になるのでしょうか。主が戦っていてくださることによってです。イスラエル人の戦いは、その多くがごく少数によって行われていました。代表的なのはギデオン率いる三百人によって、十三万五千人のミデヤン人に勝利した出来事です(士師7:7)。

 

第四に、出産の祝福です。9節です。

「26:9 わたしは、あなたがたを顧み、多くの子どもを与え、あなたがたをふやし、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにする。」

聖書には、子どもは神からの賜物であり、神の祝福の象徴として語られています。神がアブラハムに与えられた祝福の約束も、彼の子孫を星の数のように、海辺の砂のようにふやす、というものでした。

第五の祝福は、豊かな収穫の約束です。10節をご覧ください。

「26:10 あなたがたは長くたくわえられた古いものを食べ、新しいものを前にして、古いものを運び出す。」それは倉庫に保管されている作物の古い穀物を取り出さなければいけない程です。それほどの豊かな収穫がもたらされるということです。

そして六つ目の祝福は、主の臨在の約束です。11-13節をご覧ください。

「26:11 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。26:12 わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。26:13 わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、主である。わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。」

これはもろもろの祝福の中でももっとも優れた祝福です。「わたしの住まいを建てよう」とは、主の臨在を表しています。天の天も、主をお入れすることなどできないのに、その主が住まわれる家を建ててくださいます。それは物質的な家ではなく霊的なに家、つまり、聖霊の宮である私たちのからだのことを指しています。その私たちの間を、主は歩んでくださるということは、何と大きな恵みでしょうか。また、主は決して彼らを忌み嫌うことはありません。好意をもって見つめていてくださいます。言い換えると、数ある目に見える祝福は、目に見えない祝福、霊的祝福の証し、あるいはしるしであったということです。

また12節には、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」とあります。これは神との個人的で、人格的な結びつきのことです。黙示録21章3節、4節には、「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」とあります。これこそ、私たちにとっての究極の祝福です。その祝福へと導いてくれるのです。

Ⅲ.神の命令に従わない者へのさばき(14-39)

次に、神の命令に従わない者、つまり神のおきてを拒み神の命令を破る者には対するさばきが語られます。

まず第一に不安と恐れ、病です。敵からの攻撃です。16節と17節をご覧ください。

「26:16 わたしもまた、あなたがたに次のことを行なおう。すなわち、わたしはあなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病で目を衰えさせ、心をすり減らさせる。あなたがたは、種を蒔いてもむだになる。あなたがたの敵がそれを食べる。26:17 わたしは、あなたがたからわたしの顔をそむける。あなたがたは自分の敵に打ち負かされ、あなたがたを憎む者があなたがたを踏みつける。だれも追いかけて来ないのに、あなたがたは逃げる。」

ここでは先ほど語られた「安心」「安全」の代わりに恐怖がもたされるということが語られています。そればかりではありません。肺病や熱病によって目が衰えます。また、心をすり減らさせる、心

の病のことでしょう。また、せっかく種を蒔いてもその収穫は敵に奪われるようになるのでむだになります。敵が襲いかかり、打ち負かされ、踏みつけられます。だれも追いかけて来ないのに、ただおどおどと逃げ惑うばかりです。

第二のことは、飢饉。18節から20節をご覧ださい。

「26:18 もし、これらのことの後でも、あなたがたがわたしに聞かないなら、わたしはさらに、あなたがたの罪に対して七倍も重く懲らしめる。26:19 わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。26:20 あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。」

19節には「あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き」とありますが、これは神により頼まず、おのが力で成し遂げたと言って誇っている者を指しています。自分に今与えられているものがあたかも自分の力で成し遂げたかのように思い込んでは誇り、神に感謝もせずも神に栄光を帰することをしないなら、神はその高慢を打ち砕くのです。どのようにでしょうか。あなたがたの地を青銅のようにし、あなたがたの天を鉄のようにしてです。これはその地が産物を出さず、地の木々も実を結ばないで、すなわち、飢饉によってということです。

ところで、18節には「さらに、七倍重く懲らしめる」とありますが、これはどういうことかというと、その程度が極めて強くなることを意味しています。「七」という数字は完全数ですが、神がこれを完璧に行なわれるということです。

第三に、獣による襲撃です。21節、,22節をご覧ください。

「26:21 また、もしあなたがたが、わたしに反抗して歩み、わたしに聞こうとしないなら、わたしはさらにあなたがたの罪によって、七倍も激しくあなたがたを打ちたたく。26:22 わたしはまた、あなたがたのうちに野の獣を放つ。それらはあなたがたから子を奪い、あなたがたの家畜を絶えさせ、あなたがたの人口を減らす。こうしてあなたがたの道は荒れ果てる。」

神が獣を野に放つので、その獣がこどもを奪い、家畜が絶やし、人口が減少するのです。そして、道は荒れ果ててしまうことになります。そしてここにも「七倍も激しく」とあります。神の怒りの激しさが現されています。

第四のさばきは、敵の襲来です。23節から26節までをご覧ください。ここには、敵によって町が包囲されることが語られています。主は彼らの上につるぎを臨ませ、契約の復讐を果たさせるのです。また、主は彼らの中に疫病を送り込まれるので、彼らは敵の手に落ちることになります。26節には、パンがないので、満ち足りないと言われています。それぞれの家で窯を使う燃料がないので、十人が一度に同じ窯を使うからです。普通なら一つの家庭で一つの窯が必要だったのに、十人が使っても十分な位、非常に少量のパンだったのです。そして、何十グラムとかいう単位で、残り少ないパンを計ることで、食いつないだ様子がここに書かれています。もちろん、空腹で体が弱まっている時には、免疫力がなくなっているので疫病も蔓延します。

そして第五のさばきは、もっとおそろしいことが起こります。それは親が自分の息子、娘たちの肉を食べるようになるという警告です。27節から33節をご覧ください。

「26:27 これにもかかわらず、なおもあなたがたが、わたしに聞かず、わたしに反抗して歩むなら、26:28 わたしは怒ってあなたがたに反抗して歩み、またわたしはあなたがたの罪に対して七倍も重くあなたがたを懲らしめよう。26:29 あなたがたは自分たちの息子の肉を食べ、自分たちの娘の肉を食べる。26:30 わたしはあなたがたの高き所をこぼち、香の台を切り倒し、偶像の死体の上に、あなたがたの死体を積み上げる。わたしはあなたがたを忌みきらう。26:31 わたしはあなたがたの町々を廃墟とし、あなたがたの聖所を荒れ果てさせる。わたしはあなたがたのなだめのかおりもかがないであろう。26:32 わたしはその地を荒れ果てさせ、そこに住むあなたがたの敵はそこで色を失う。26:33 わたしはあなたがたを国々の間に散らし、剣を抜いてあなたがたのあとを追おう。あなたがたの地は荒れ果て、あなたがたの町々は廃墟となる。」

ここにも「七倍も重く」懲らしめるとあります。これは本当に凄惨です。親が自分の息子や娘の肉を食べるという事態が起こるのです。それがバビロンに包囲されたユダに起こりました(Ⅱ列王6:28-29)。また、「高き所に死体が積み上げられる」とありますが、これは外国が、自分が征服した民を侮辱するため、彼らが拝んでいる神の祭壇に彼らの死体を置くことで、その祭壇を汚しているのです。これも、バビロンはユダの国に対して行いました。そして町々は廃墟となり、聖所は荒れ果てます。ユダがバビロンによって滅ぼされたとき、これが実現しました。これは紀元前1400年頃、モーセがシナイ山において神から与えられた言葉なのです。バビロン捕囚は紀元前586年ですが、858年前にこのことが前もって預言されていたのです。神の言葉はこれだけ確かなものなのです。

そして第六番目のさばきは、滅びです。あるいは、敵の国で捕えられるということです。34節から39節までのところです。

「26:34 その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、そのとき、その地は休み、その安息の年を取り返す。26:35 地が荒れ果てている間中、地は、あなたがたがそこの住まいに住んでいたとき、安息の年に休まなかったその休みを取る。26:36 あなたがたのうちで生き残る者にも、彼らが敵の国にいる間、彼らの心の中におくびょうを送り込む。吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ、剣からのがれる者のように逃げ、追いかける者もいないのに倒れる。26:37 追いかける者もいないのに、剣からのがれるように折り重なって、つまずき倒れる。あなたがたは敵の前に立つこともできない。26:38 あなたがたは国々の間で滅び、あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。26:39 あなたがたのうちで生き残る者も、あなたがたの敵の地で自分の咎のために朽ち果てる。さらに、その先祖たちの咎のために朽ち果てる。」

これはユダヤ人が捕囚の民となって、七十年間、バビロンに捕え移されることによって成就します。彼らがバビロンによって滅ぼされ捕囚となって連行されたのは、神に背いたからなのです。ここには安息年のことが指摘されていますが、彼らが引き抜かれたのは彼らが七年ごとに訪れる安息年を守らなかったからです。そして、彼らはバビロンへと連行されて行きました。バビロン捕囚です。彼らは敵の国にいる間、ここに書かれている通りになりました。敵国において脅かしと恐れの生活を歩みました。そればかりではありません。紀元70年には今度はローマによって世界中に散らされ、敵の国にいる間、迫害と虐殺の連続でした。そして、先ほど出てきた荒れ果てた地というのも、ユダヤ人が十九世紀にイスラエルの地に帰還を始める前までは、沼地と荒地しかなかったと言われています。実に、イスラエルは、祝福のみならず、裁きにおいても神の存在を世界に知らしめる証人となっていたのです。

そして私たちが知らなければならないのは、この離散の状態になることこそ神が最もイスラエルに経験してほしくなかったことなのです。主が何度も何度も、「わたしは、あなたがたをエジプトから連れ出した神である」と宣言されました。それは、彼らが奴隷状態になっていることを神ご自身が最も望んでいなかったからです。それで、彼らにイスラエルにカナンの地を与えられたのです。ところが、その初めの状態に戻ってしまいました。これは悲惨なことです。

けれども、これはキリスト者にとっても大きな警告となっています。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2:20)」初めから知らずに罪に溺れていることのほうが、知ってから溺れるよりはましだ、とペテロは言っています。このことを避けるために、主はイスラエルに対して、また私たちに対して、何とかして振り返ってほしいと願い、懲らしめを与えられるのです。

Ⅳ.神の慰め(40-46)

しかし、神の警告はこれだけで終わっていません。そこから悔い改めて神に立ち返る者への回復と慰めを語っています。最後に40節から46節までを見て終わりたいと思います。まず40-41節をご覧ください。

「26:40 彼らは、わたしに不実なことを行ない、わたしに反抗して歩んだ自分たちの咎と先祖たちの咎を告白するが、26:41 しかし、わたしが彼らに反抗して歩み、彼らを敵の国へ送り込んだのである。そのとき、彼らの無割礼の心はへりくだり、彼らの咎の償いをしよう。」

いよいよイスラエルは自分たちの過ちに気が付きます。自分たちが不実なことを行い、神に反抗して歩んだ自分たちの罪と先祖たちの罪、咎を告白します。彼らは敵国へと送り込まれたことによって、自分たちの過ちにやって気づくわけです。これが、主がイスラエルに望まれていたことでした。ここに「無割礼の心」とありますが、これは男性の性器が包皮で覆われていることによって感覚が鈍るのと同じように、心が神の声に対して鈍くなっていたことを示しています。けれども、今彼らはそれを悔い改めて、神に立ち返ります。これこそが神の懲らしめの目的であり、懲らしめによってその罪の愚かさに気づき、自らその罪を楠改め、神に立ち返るのです。するとどういうことが起こるでしょうか。42-46節です。

「26:42 わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こそう。またイサクとのわたしの契約を、またアブラハムとのわたしの契約をも思い起こそう。そしてわたしはその地をも思い起こそう。26:43 その地は彼らが去って荒れ果てている間、安息の年を取り返すために彼らによって捨てられなければならず、彼らは自分たちの咎の償いをしなければならない。実に彼らがわたしの定めを退け、彼らがわたしのおきてを忌みきらったからである。26:44 それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。26:45 わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らを、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。26:46 以上は、主がシナイ山でモーセを通して御自身とイスラエル人との間に立てられたおきてと定めとおしえである。」

ここにすばらしい神の慰めの約束があります。彼らが離散の民になったことによって、もうこれで終わりと考えてもおかしくありません。けれども、アブラハム、イサク、ヤコブに神が与えられた約束はそれでも有効だったのです。主はイスラエルをお見捨てになりません。今も見捨てておられないし、今後も見捨てることはありません。異邦人の救いが完成したら、今度は彼らを救ってくださるのです。アブラハムとの契約を思い出すというのです。

このように、神の選びというのは確かなのです。私たちがイスラエルに対して、私たちの勝手な思いで「イスラエルは見捨てられた」と考えるならば、私たちが罪に陥って、とことんまでどん底に落ちたら、主は私たちをお見捨てになる、と言っているのと等しいのです。これでも、主は予め知っておられる者たちを、決して見捨てたりなさらないのです。もちろん、土地から引き抜かれるという痛みを味わいました。こんなひどいところを通らずして、主とともに歩むことができれば最高です。だから、通らないで従順でいることのほうが大事なのです。けれども、たとえ失敗しても、主は再び立ち上がる機会を与えてくださるのです。

Isaiah66:18-25 “Where will you spend eternity?”

Today is the last message on Isaiah.  Just as the whole Bible is composed of 66 books, the whole book of Isaiah consists of 66 chapters. Also just as the Bible finishes with Revelation’s new heavens and new earth the end of Isaiah too describes the final goal of human history.

  1. Those who survive (Vs. 18,19)

First let’s look at verses 18 and 19. Verse 18 says, “And I because of what they have planned and done, am about to come and gather the people of all nations and languages, and they will come and see my glory.”

Here the Lord’s plan of missions is displayed. That it that “some of those who survive” (19) in other words, the remnant of Israel, will be sent and proclaim God’s glory “to the nations…that have not heard of “(19) the God of the Bible.

Here is says, “Tarshish, to the Libyans and Lydians (famous as archers), to Tubal and Greece, and to the distant islands.” (19) The Lydians were probably from Lydia in the western Asian Minor. Tubal was in the area of present day Turkey. “The distant islands” (19) includes Japan. In other words, God will send them to the entire world. Through them the Lord’s name will be proclaimed in the world. The Lord’s glory will be seen throughout the world.

If you look at verse 19, it says, “I will set a sign among them.” God “will set a sign” (19) among those who preach God’s glory to the entire world. What is this sign? Some people think that it is the stamp that is stamped on the heads of 144,000 people in Revelations chapter 7. Also other people think it is the 120 Jews of Acts 1:15. It is through them that the first church was born. It was through them that God’s Gospel was proclaimed though out the entire world. They say that since they were chosen by God to go to the nations and preach the Gospel that they are the remnant.

However, this “sign” (19) is probably Jesus. That’s because Matt. 12:38-40 says this, “Then some of the Pharisees and teachers of the law said to him, ‘Teacher, we want to see a sign from you.’

He answered, ‘A wicked and adulterous generation asks for a sign! But none will be given it except the sign of the prophet Jonah.  For as Jonah was three days and three nights in the belly of a huge fish, so the Son of Man will be three days and three nights in the heart of the earth.’”

Jesus says that the sign is “the Son of Man” who “will be three days and three nights in the heart of the earth.” (Matt. 12:40) In other words, it is Jesus who died on the cross and went to down to hades and spent “three days and three nights in the heart of the earth.” (Matt. 12:40)  God “will set a sign among them.” (19) “Them” (19) can said to refer to Christians who believe in Jesus. God has set a sign among Christians who are the remnant that God has chosen and through them to preach to the entire world that has not heard of Jesus, to prepare those who are saved, and to bring them before God. When you think of this, it can be said that the Word of God, now too is to be continuously and constantly preached. God has planned through us Christians to proclaim God’s glory to the ends of the earth.

It is for that purpose that God chose us. “You did not choose me, but I chose you and appointed you so that you might go and bear fruit-fruit that will last-and so that whatever you ask in my name the Father will give you.” (John 15:16) You were chosen by God to do his precious work. You are those who survived. As one who survived are you prepared to do so? What are you doing to prepare yourself to proclaim God’s glory among the nations?

  1. History’s final goal (Vs. 20-23)

Next let’s look at verses 20 to 23. Verse 20 says, “’And they will bring all your people, from all the nations, to my holy mountain in Jerusalem as an offering to the LORD- on horses, in chariots and wagons, and on mules and camels,’ says the LORD. ‘They will bring them, as the Israelites bring their grain offerings, to the temple of the LORD in ceremonially clean vessels.’”

“They” (20) are “those who survive”. (19) They will bring all the people who were saved “from all the nations”, (20) to the Lord’s holy mountain “in Jerusalem as an offering to the LORD.” (20)  The reason they bring all the people is to worship. There the Jewish Christians that believed in Jesus and are saved and the Gentile Christians that believed in Jesus and are saved will in unity worship God.

Please look at verse 22. “’As the new heavens and the new earth that I make will endure before me,’ declares the LORD, ‘so will your name and descendants endure.’”

“The new heavens and the new earth that” (22) God will make “will endure before” (22) God. They will definitely never perish.  They will continue for eternity. Also God’s people that have assembled before God too will definitely never perish. They will continue to live eternally. At the end of the world all things will be burned up. However, “The new heavens and the new earth…will endure” (22) forever. Also the Christians that inherit the “the new heavens and the new earth…will endure” (22) forever.  There we will receive God’s never ending protection and help and will continue to live eternally with God. What we will do there is written in verse 23. “’From one New Moon to another and from one Sabbath to another, all mankind will come and bow down before me,’ says the LORD.”

They will worship God there. “All mankind” (23) will come before the Lord and worship. This is heaven. Christians who believe in their Savior Jesus Christ and have become the people of God will praise God eternally. Revelations 21 talks about what that will be like.

“Then I saw ‘a new heaven and a new earth,’ for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea.  I saw the Holy City, the New Jerusalem coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband.  And I heard a loud voice from the throne saying, ‘Look! God’s dwelling place is now among the people, and he will dwell with them.  They will be his people, and God himself will be with them and be their God. 「He will wipe every tear from their eyes.  There will be no more death」or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away.’

He who was seated on the throne said, ‘I am making everything new!’ Then he said, ‘Write these words are trustworthy and true.’

He said to me: ‘It is done. I am the Alpha and the Omega, the Beginning and the End. To the thirsty I will give water without cost from the spring of the water of life.  Those who are victorious will inherit all this, and I will be their God and they will be my children.’” (Rev. 21:1-7)

God’s people, Christians, are promised victory. “God’s dwelling place is now among the people, and he will dwell with them…God himself will be with them…He will wipe every tear from their eyes.  There will be no more death or mourning or crying or pain, for the old order of things has passed away.”(Rev. 21:3,4) In the new heaven and new earth we will receive living “water without cost from” (Rev. 21:6) God. We will in this heaven worship God for eternity. What comfort!

This is the final ending of history. It is the final goal of history. “All mankind will come” (23) and worship before God. This is the ultimate purpose of God’s salvation. We were created for the purpose of worshiping God. We were created to praise God for eternity. It was for this purpose that sin was atoned for.  Therefore, there is not even one person in heaven that doesn’t want to worship God. There isn’t anyone who doesn’t believe in God. Everyone in heaven is moved by the work of Jesus’ salvation, and is thankful so they worship the Savior from their hearts.

In 1994 when I went to Korea for the first time, I attended worship at Korin        Church, the largest Holiness Church in the world. I was very surprised. In the sanctuary that is said to fit 3,000 we worshipped together with a large choir and orchestra. When the worship started the curtain opened automatically and the hymn that the orchestra was playing began. It was Hymn 27, “New every morning”. It was very impressive. As I was singing my body felt a holy trembling. I couldn’t stop crying. I was over whelmed by the Lord’s presence. It was a time of wanting to be there forever and praise the Lord forever.

Worship in heaven will be greater than that.  That is because the Lord will be there.  A large number of people will praise God. We will be surrounded by what we think is the greatest possible joy and inspiration. To be able to praise God eternally makes everything else of no significance.  That is heaven. There is no world that is as great as this anywhere. “All mankind will come” (23) before the God of heaven and praise God. This is the end that is promised to God’s people, Christians. Are you included in this?

III.Where will you spend eternity? (Vs. 24)

However, the book of Isaiah does not just end here. It adds verse 24. Although it would have been o.k. to have ended at verse 23, the words of verse 24 are added. I will read verse 24. “And they will go out and look on the dead bodies of those who rebelled against me; the worms that eat them will not die, that fire that burns them will not be quenched, and they will be loathsome to all mankind.”

In reality this is a description of hell. If you look at Mark 9:47 and 48 Jesus is quoting from this. “And if your eye causes you to stumble, pluck it out.  It is better for you to enter the kingdom of God with one eye than to have two eyes and be thrown into hell, ‘the worms that eat them do not die, and the fire is not quenched.’”

That Jesus quoted this means that there is really such a place. When a person dies, what happens?

Last Sunday evening on NHK’s special they broadcasted a program, “Near death experience, a documentary by Takashi Tachibana, When you die, what happens to your soul?”  Takashi Tachibana, a journalistic critic, who reported on near death experience over 20 years ago, has turned 74 years old. He has cancer and heart disease so now he feels death approaching.  Therefore, once again he is contemplating about the field of near death experience from the newest research and is rethinking about “death”. Since the near death experience that certain people on the verge of death see began to receive attention in the 1980s and on there have been mainly two explanations for it. One is the scientific explanation that it is an hallucination that occurs in the brain and the other is that after our physical body dies, our soul continues to exist. There are two scientists that when Takashi Tachibana had previously interviewed them, held strongly to the scientific explanation that it is an hallucination that occurs in the brain. However, now they both have now changed their position to there is definitely a world after death. Takashi Tachibana introduced these two people.

One person is Dr. Eben Alexander、a neurological surgeon who for 25 years rejected the notion of a world after death. However, now he asserts that his out of body and near death experience while in a meningitis-induced coma in 2008 proves that consciousness is independent of the brain, and that death is a transition into eternity.

The other person is Raymond Moody. He is a psychologist, but for many years he studied near death experiences and his written many books. When he was interviewed by Takashi Tachibana on “Takahashi Tachibana reports Near death experiences, What does a person see when he dies” aired on NHK in March of 1991 Raymond Moody rejected the idea of a world after death. However 23 years later in this report he said that during these 23 years he had psychological problems and attempted suicide. During his suicide attempt he had a near death experience himself so he came to believe that there is a world after death.

The program ended with the concept that there is a world after death, but admitting that no one knew where this world is. No one knows what a soul is. We don’t know how our soul or “I” is born and how it disappears. We don’t know what “I” is.

However, the Bible knows all these things. The Bible clearly says that when a person dies, even if his body perishes, his soul lives eternally either in heaven or hell. Those who believe in God’s son Jesus Christ as their Savior that saved them from their sin will live eternally with God in Heaven. Those who don’t will as this verse says, live for eternity in hell where “the worms that eat them will not die, that fire that burns them will not be quenched, and they will be loathsome to all mankind.” (24) Where do you want to spend eternity? You have only two choices, heaven or hell.  There are no other possibilities.  If that’s the case, wouldn’t it be best to believe in Jesus Christ and go to heaven? For that purpose God sent Jesus into this world. God wants you to be saved and to have eternal life.

“For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.  For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him. Whoever believes in him is not condemned, but whoever does not believe stands condemned already because he has not believed in the name of God’s one and only Son.” (John 3:16-18)

This is the essence of the Bible and the conclusion of the book of Isaiah. Those who believe in the Son will not be judged. Those who do not believe in the name of God’s only Son so they have already been judged. So that you are not judged please believe in the Son.

“That f you confess with your mouth, ‘Jesus is Lord’, and believe in your heart that God raised him from the dead, you will be saved. For it is with your heart that you believe and are justified, and it with your mouth that you confess and are saved.” (Romans 10:9-10)

Only those who believe Jesus in their hearts and confess it with their mouths will be saved. Those who don’t will not go to heaven.  Such people will go to hell.  So that that doesn’t happen, please repent of your sins and believe in Jesus. If you believe, you can go to heaven and praise God for eternity and you will please God. This is the ultimate goal for us humans who were created by God.  Let’s praise God for eternity in heaven together. Heaven or hell, which will you choose?  The choice is up to you.

イザヤ66:18-24レジュメ

「永遠をどこで」

イザヤ66:18-24

 Ⅰ.のがれた者たち(18-19)

 イザヤ書の最後の箇所からのメッセージである。ここには、やがて神はすべての国々と種族を集めるので、彼らは来て、神の栄光を見る、とある。「わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光も見たことがない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。」(19)この「のがれた者たち」とはだれのことなのかわからないが、彼らはこれまで主なる神のうわさを聞いたことも、その栄光を見たこともない諸国の民のところに出ていき、主の栄光を告げ知らせるようになる。

 神はこの尊い働きのために私たちを選んでくださった。そう、この「のがれた者たち」は、私たちのことでもあるのだ。私たちには、「のがれた者」として、すべての国々に主の栄光を告げ知らせる使命が与えられている。あなたはその準備ができているだろうか。主の栄光をすべての民に伝えるために、あなたは主に献身しておられるだろうか。

 Ⅱ.歴史の最終ゴール(20-23)

 「彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れてくる。」(20)「あなたがたの同胞」も誰のことを指しているのか明確ではない。しかし、のがれた者たちの宣教によって救われた人たちのことであるのは間違いない。彼らは聖なる山に連れて来られる。何のために?礼拝するためである。彼らはエルサレムにやって来て、心を一つにして主を礼拝する。「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、-主の御告げ-あなたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。」(22)これは天国の光景である。神が造られる新しい天と新しい地が、神の前にいつまでも続くように、彼らは決して滅ぼされることはない。いつまでも続く。永遠に神をほめたたえる。これが神の民に約束されている勝利の姿である。これが全歴史の最終ゴールだ。すべての人が神の前に来て、礼拝をささげるようになる。私たちはいったい何のために造られたのか?神を礼拝するためである。永遠に神をほめたたえるためなのである。やがてそれが実現する。これが神の民であるクリスチャンに約束されている最後の姿なのだ。

 Ⅲ.永遠をどこで?(15-17)

 しかし、イザヤ書はこれたけで終わってはいない。最後に24節の言葉が加えられている。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌み嫌われる。」これはげヘナ、地獄のことである。イエス様はここから引用して、ゲヘナが実際にある現実の世界であることを示された(マルコ9:47-48)。もしあなたが悔い改めないで、イエスを信じないなら、このゲヘナに投げ込まれる。私たちを救うのはただイエスを救い主として信じ、それを口で告白することによってのみである。そうでなければ地獄に落ちてしまうことになる。そこはうじがわいていて、永遠に消えない火で焼かれる。どんなに苦しくて死にたくても、死ぬこともできない。そこで永遠に苦しみ続けることになる。それが地獄である。

神は私たち人間がひとりも滅びることがないように、この地獄に行くことがないように、ひとり子イエスを送ってくださった。このイエスを信じるなら、だれでも救われる。その人は神が造られた新しい天と新しい地で、永遠に神とともに生きることになる。天国と地獄、あなたはどちらで永遠を過ごしたいか?選択はあなたにゆだねられている。イエス様を信じて、天国で永遠に神とともに生きる者となっていただきたい。

レビ記25章23~55節

きょうは、レビ記25章の後半部分から学びたいと思います。まず23節から28節までをご覧ください。

1.買戻しの権利(23-28)

「23 地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。24 あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。25 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。26 その者に買い戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたなら、27 売ってからの年数を計算し、なお残る分を買い主に返し、自分の所有地に帰る。28 もしその者に返す余裕ができないなら、その売ったものは、ヨベルの年まで、買い主の手に渡る。ヨベルの年にその手を離れると、その者が、自分の所有地に帰る。」

ここには買戻しの権利について語られています。買戻しの権利とは25節にあるように、もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買戻しの権利のある親類が来て、兄弟が売ったものを買い戻すというものです。その者に買戻しの権利のある親類がいないときは、その者の暮らし向きが良くなり、それを買い戻す余裕ができたら、売ってからの年数を計算し、なお残りの分を買主に支払って、自分の所有地に帰りました。もしその者に返す余裕ができなかったら、ヨベルの年まで待たなければなりませんでした。ヨベルの年になれば、前回学んだように、すべての者が、自分の所有地に戻ることができました。

それにしても、なぜ神はこうも一度割り当てられた所有地に対して、こだわりを持っておられるのでしょうか?それは23節にあるように、「地はわたしものであるから」です。確かに、イスラエル人がそれを所有していますが、元々それは神に属しているものであり、神の所有地です。彼らはただそれを一時的にゆだねられているにすぎません。

私たちは全てのことについて、この姿勢を持っていなければいけません。前回は安息年について学びましたが、なぜ、七年ごとに安息を得なければならなかったのか?それは安息することによって、自分の手からその土地が離れるからです。そして元々、その土地を与えられた神を認めることができるようになります。土地についてもそれはもともと自分のものではなく主ご自身のものであり、自分はあくまでも主にこの務めを割り当てられているにしか過ぎないのだ、ということを知ることは、とても大切なことです。

25節には、貧しくなってその地を売らなければならなくなった時に、近親の者がそれを買い戻してあげなければならないということが記されてあります。ヘブル語ではこれを「ゴエル」と言います。「ゴエル」とは、買い戻す者という意味ですが、ルツ記に出てくるボアズが、ルツが嫁いだエリメレク家にとってのゴエルでした。彼は、今は亡きエリメレクの土地を、ナオミとルツのために買い戻してくれたのです。それはやがい来られるイエス・キリストの型でもありました。

また、例えば自分のしている商売がうまくいって暮らし向きが良くなれば、自分自身で買い戻すことができました。ヨベルの年までの土地の収穫によってかつて売っていたわけですが、自分の手から離れた年数を差し引いて、その土地を買い戻します。けれども、たとえ買い戻すことができなくても、ヨベルの年になれば自分のものに戻ってきたのです。

次に29~34節をご覧ください。

「29 人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がある。買い戻しはこの期間に限る。30 もし満一年たつまでに買い戻されないなら、城壁のある町の中のその家は買い戻しの権利の喪失により、代々にわたり、それを買い取った人のものとなって、ヨベルの年にも手を離れない。31 その回りに城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができ、ヨベルの年にはその手を離れる。32 レビ人の町々、すなわち、彼らが所有している町々の家は、レビ人にいつでも買い戻す権利がある。33 レビ人から買い戻していたもの、すなわち、その所有している町で売られていた家は、ヨベルの年には手放される。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にある彼らの所有だからである。34 しかし、かれらの町々の放牧用の畑は売ってはならない。それは彼らの永遠の所有地だからである。」

人がもし城壁のある町の中の住宅を売るときは、それを売ってから満一年の間は、買い戻す権利がありましたが、満一年の間に買い戻されなかったら、城壁のある町のその家は買戻しの権利の喪失ということで、代々に渡って、買い取った人のものとなりました。それがたとえヨベルの年であっても、その買い取った人の手から離れることはありませんでした。

これはどういうことでしょうか。ここでのポイントは、それが城壁のある町に囲まれた住宅であるということです。作物を育てる土地とは異なり、城壁に囲まれた町にある住居は買い戻しの権利は一年しかありませんでした。その期間が過ぎれば、たとえヨベルの年になっても買い戻すことはできませんでした。なぜでしょうか。城壁の中に住むことは、自分たちを敵から守ることだからです。もしそこに住んでいる人から買い戻されるようなことがあれば、そこに住んでいた人はその町から出て行かなければならなくなります。つまり、自分たちの安全と保護がなくなり、敵の手に渡される危険性があったのです。ですから、そうした事態にならないように、城壁の中にある住宅が売られることがないようにされたのです。もしそうしたことになれば買戻しの権利を喪失するという例外まで定め、何とかしてそのような事態にならないようにしたのです。しかし31節にあるように、城壁のない村落の家は土地とみなされ、買い戻すことができたばかりか、ヨベルの年にはその手を離れたのです。

レビ人には、土地の割り当てが与えられていませんでした。なぜなら、主ご自身が彼らの相続地であったからです。彼らは神の幕屋に関する奉仕に従事する人々であり、主にお仕えするということそのものが財産だったのです。ですから、そのレビ人から買い戻していたものは、ヨベルの年には手放され、再びそのレビ人のものとなりました。レビ人の町々の家は、イスラエル人の間にあるかれらの所有地だったからです。ですから、レビ人の場合は、城壁の中の住居とは異なり、いつでも買い戻すことができました。しかし、彼らの町々の放牧用の畑は売ってはなりませんでした。それは彼らの永遠の所有地だからです。売ること自体が論外だったのです。

2.兄弟が貧しくなり、身売りしたらどうするか(35-46)

次に35~46節までを見ていきましょう。まず38節までをお読みします。

「35 もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在住異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。36 彼から利息も利得も取らないようにしなさい。あなたの神を恐れなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。37 あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。38 わたしはあなたがたの神、である。わたしはあなたがたにカナンの地を与え、あなたがたの神となるためにあなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。」

ここには、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、どうしたらよいかということが教えられています。25節には、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、その地の買戻しの権利を認めなければならないということが語られていましたが、ここでは所有地どこではありません。その貧しさがもっとひどくなり、生活そのものは成り立っていかなくなった場合、日々の生活さえままならない状態に陥った場合どうしたらいいかが教えられているのです。そして、もしあなたの兄弟がそのような状態に陥ったなら、彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなければなりません。在留異国人として扱うなんてひどいじゃないかと思われるかもしれませんが、逆に、身売りしなければならなくなった人をこのように扱うということは、そのこと自体が神のあわれみのしるしです。というのは、ここでは異邦人ではなく在留異国人と言われているからです。それは土地を持たない寄留者のこと、あるいは、旅人のことを表しているからです。財産を失って、もう身売りしなければならなくなった人を奴隷としてではなく旅人のように、寄留者のように扱うというのは、何と大きなあわれみでしょうか。なぜそのように扱うのでしょうか。

38節にその理由が書かれてあります。それは、主がエジプトからイスラエル人を連れ出してくださったからです。それなのに、再び奴隷になるようなことがあるとしたら、それが全く無意味なものとなってしまいます。それで主は、同胞のイスラエル人がその貧しい人を扶養するように命じておられるのです。そして、その状況を利用してその人から利息を取るようなことがないように、つまり、従属関係に陥ることのないように戒めておられるのです。「あなたの神を恐れなさい」(43)と。

それにしても、なにゆえに神はそこまで貧しくなった人たちを憐れんでおられるのでしょうか。おそれは神の家族の中では全ての人が平等であって、そこには何の差別もあってはならないからです。全ての人が罪人であり、全ての人がキリストへの信仰によって義と認められるという差別なき救いのゆえなのです。ゆえに、そこに上下関係や階層制度が入ってはならないのです。すべてのクリスチャンは兄弟であり、姉妹なのです。

39~46節までをご覧ください。

「39 もし、あなたのもとにいるあなたの兄弟が貧しくなり、あなたに身売りしても、彼を奴隷として仕えさせてはならない。40 あなたのもとで住み込みの雇い人としておらせ、ヨベルの年まであなたのもとで仕えるようにしなさい。41 そして、彼とその子どもたちがあなたのもとから出て行き、自分の一族のところに帰るようにしなさい。そうすれば彼は自分の先祖の所有地に帰ることができる。
42 彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。彼らは奴隷の身分として売られてはならない。43 あなたは彼をしいたげてはならない。あなたの神をおそれなさい。
44 あなたのものとなる男女の奴隷は、あなたがたの周囲の国々から男女の奴隷を買い取るのでなければならない。45 または、あなたがたのところに居留している異国人の子どもたちのうちから、あるいは、あなたがたの間にいる彼らの家族で、あなたがたの国で生まれた者のうちから買い取ることができる。このような者はあなたがたの所有にできる。46 あなたがたは、彼らを後の子孫にゆずりとして与え、永遠の所有として受け継がせることができる。このような者は奴隷とすることができる。しかし、あなたがたの兄弟であるイスラエル人は互いに酷使し合ってはならない。」

39節以降の場合は、実際に身売りしてしまった場合のことです。たとえ身売りしたような場合でも、彼を奴隷として仕えさせてはなりませんでした。その時には住み込みの雇人としておらせ、ヨベルの年までその人のもとで仕えるようにさせなければなりませんでした。奴隷として扱ってはならなかったのです。それはイスラエル人の間で主人と奴隷の関係を持たせることを、神は望んでおられなかったからです。労働にふさわしい賃金を支払わなければなりませんでした。「彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出した、わたしの奴隷だからである。」(42)だからです。ただ異邦人は奴隷とすることができました。44~45節にあるように、彼らの周囲の国々から奴隷を買い取ることができましたが、彼らの中からはだれも奴隷にすることは赦されていませんでした。

それは神の教会においても同じです。キリスト者は、後に王となり祭司となることが約束されています(黙示1:6)。キリストと共に神の国を統治することが約束されているのです。したがって今の時代にも、教会の外では雇用関係や商売や政治活動など、この世の制度の中で主の命令に違反しない限りのことを行うことはできますが、それを教会の中に持ち込むことはできません。私たちはあくまでもキリストが頭であられ、互いに神の家族の兄弟姉妹であるからです。

3.在留異国人の奴隷となってしまったらどうしたらいいか(47-55)

最後に47節から55節までを見て終わりたいと思います。

「47 もしあなたのところの在住異国人の暮らし向きが良くなり、その人のところにいるあなたの兄弟が貧しくなって、あなたのところの在住異国人に、あるいはその異国人の氏族の子孫に、彼が身を売ったときは、48 彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権利がある。彼の兄弟のひとりが彼を買い戻すことができる。49 あるいは、彼のおじとか、おじの息子が買い戻すことができる。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができる。あるいはもし、彼の暮らし向きがよくなれば、自分で自分自身を買い戻すことができる。50 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決める。それは雇い人の場合の期間と同じである。51 もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければならない。52 もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければならない。53 彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければならない。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはならない。54 たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができる。55 わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、である。」

ここには、あなたがたの兄弟、すなわちイスラエル人が貧しくなり、在留異国人に身を売ってしまったらどうしたらよいかが教えられています。これは最悪な状況です。主はイスラエル人の奴隷になることも避けるように戒めておられたのに、ここでは異邦人の奴隷になってしまった状況が想定されています。いったいこんなことがあるのでしょうか。イスラエルの歴史を見ると侵略の歴史です。その昔はエジプトに捕えられて奴隷になったことがありますし、この後にはバビロンによって滅ぼされ、奴隷としてとらえられ、奴隷として過ごすときがやってきます。このようにイスラエル人だからといって必ずしも平穏に過ごすことができるかというとそうではありません。こうした外国からの侵略によらなくても、生活が貧しくなり、身を売ってしまうという状況に陥る場合があるのです。そのような時はいったいどうしたらいいのでしょうか。

その時は、先ほど土地においての買い戻しの権利を奴隷を解放する身代金を支払うことで行使することができます。つまり、彼が身を売ったあとでも、彼には買い戻される権威があるのです。彼の兄弟のひとりか、あるいは彼のおじとか、おじの息子とかが買い戻すことができます。あるいは、彼の一族の近親者のひとりが買い戻すことができます。あるいは、もし彼の暮らし向きが良くなれば、自分で自分を買い戻すこともできます。そのときは、どのようにして買い戻せばいいのでしょうか。

50節以降にこうあります。 彼は買い主と、自分が身を売った年からヨベルの年までを計算し、彼の身代金をその年数に応じて決めます。それは雇い人の場合の期間と同じです。もし、まだ多くの年数が残っているなら、それに応じて自分が買われた金額のうちの自分の買い戻し金を払い戻さなければなりません。もしヨベルの年までわずかの年数しか残っていないなら、彼はそのように計算し、その年数に応じてその買い戻し金を払い戻さなければなりませんでした。彼は年ごとに雇われる者のように扱われなければなりません。あなたの目の前で、その人は彼を酷使してはなりません。たとい、彼がこれらの方法によって買い戻されなかったとしても、ヨベルの年には、彼はその子どもといっしょに出て行くことができました。

それは土地を売買するときの計算と同じですね。ヨベルの年まで何年残っているかによって身代金が変わりました。たとえば後十年残っていれば、十年分の労働賃金を売り手に支払います。そして、奴隷のように酷使してはならないと強く戒めておられます。これらの戒めの根拠が55節にあります。

「わたしにとって、イスラエル人はしもべだからである。彼らは、わたしがエジプトの地から連れ出したわたしのしもべである。わたしはあなたがたの神、主である。」

イスラエル人は主のみに属する僕だからです。神の僕である者は、他のあらゆるものから自由にされている存在ですから、他に負債があったり、ましてや身売りされている状態は何としてでも回復させ、解放させなければならないのです。

これはどんことを表していたのかというと、イエス・キリストの身代金です。イエス様は、ご自分が来たのは、「多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)と言われました。その贖いの代価とは、人質に身代金を与える身代金の意味を持っています。また奴隷を解放する時の身代金です。貧しくなって土地を売り渡し、また自分の身をも売り渡さなければいけない状態から解放するために、主はご自分の命をもって買い戻しの権利を行使されたのです。

やがてヨエルの年が来ます。究極的に主が全てのものを回復される時が来ます。その時に私たちは栄光の姿に変えられます。そして、主と共に地上に降りてきて御国を相続するようになるのです。しかし、だからといって私たちは罪の中にいていいのでしょうか。罪の中にいることは、まさに身売りしているような状態と同じです。罪を犯せば、罪の支配を受けるようになるからです。その結果、自分の持っているものまでが奪い取られることになってしまいます。神との慕わしい交わりはもちろんのこと、教会の兄弟姉妹との信頼関係も失われ、夫婦の関係や親子関係にも傷が生じます。そして罪を犯し続けると、さらには世においても惨めな姿になります。ちょうど異邦人の奴隷になってしまうのと同じです。

主は、そのようなことのないように、何とかしてご自分が与えられた贖いの代価によって、私たちが自分に与えられている神の自由を、その分け前を取り戻すべく働きかけておられます。ご聖霊が、私たちが確かに罪の支配を受けないように、そこから自由になり、神の霊的祝福を楽しむことができるように導びいてくださいます。そして、兄弟たちが代わりに買い戻すように、教会では兄弟たちが罪を犯している仲間を、重荷をもって助け、柔和な心で正していくのです。パウロはガラテヤ5章13節で、「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは自由を持っているのですから、罪を犯してその特権を売り渡してはなりません。むしろ、その自由を保ちつつ、他の兄弟姉妹に対して愛をもって仕えていかなければならないのです。