基礎の学びが始まりました!

信仰の基礎の学びIがスタートしました。基礎の学びIでは、5つの確信について学びます。救いの確信、祈りの確信、勝利の確信、赦しの確信、導きま確信です。今回はその第一回目で、救いの確信を学びました。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11-12)

イエス様を信じてもさまざまな試練に直面するとき、信仰が揺るがされることがあります。自分はイエス様を信じ、受け入れても、本当に救われているのかどうか不安に思うことがあるのです。こうした不安を克服する方法は、神のみことばに信頼することです。自分がどう思うのかではなく、神がどのように約束しておられるのかを知り、その約束に信頼することなのです。この約束に基づいて、イエス様は、今私の心の中にいてくださり、永遠のいのちを与えてくださっていることを確信することができます。この学びでは鍵になる聖句を暗記することになっています。あなたもこのIヨハネ5:11-12のみことばを暗記して、救いの確信を持ちましょう。

 

レビ記14章1~32節

レビ記14章1~32節

きょうは、レビ記14章1~32節から学びだいと思います。13章では、ツァラアトがあるかどうかをどのように調べるのかについて語られていましたが、この14章では、それをどのようにきよめることができるかについて教えられています。つまり、どのように罪をきよめてもらい、神との交わりの中へ、また教会の交わりの中へ加えてもらうことができるかということについてです。

1.ツァラアトからのきよめ(1-9)

それではまず、1~9節までをご覧ください。ツァラアトに冒された者がきよめられるためには、まず彼を祭司のところに連れて来なければなりませんでした。祭司は宿営の外に出て行き、彼を調べ、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じます(2-4)。

ツァラアトの人は宿営の中にいることができず、宿営の外に住まなければならなかったので(13:46)、祭司が宿営の外にいる彼の所に行かなければなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちは自分で自分の罪をきよめることはできません。ですから、主の方から私たちのところに近づいてくださいました。

そして、きよめるために必要なものは、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプです。それを土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふりました。そして、生きているもう一羽の小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、浸しました。それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけました。そして彼をきよいと宣言した後、生きている小鳥を野に放ちました。きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうすると、彼はきよめられました。そして、宿営に入ることができたのです。しかし七日間は天幕の外にとどまりました。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とします。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、そのからだに水を浴びました。そのようにしてきよめられたのです。

いったいこれはどんなことを表していたのでしょうか?これは、イエス・キリストの十字架と復活を象徴していました。まず土の器に入れられた湧き水のですが、これはキリストが葬られた墓を表しています。その水の中には杉の木がありました。これは、キリストの十字架の象徴です。キリストは木につけられて死なれましたが、その木を表しているのです。また、緋色の糸は、キリストが流された血潮を表しています。また、ヒソプは、罪を取り除くものの象徴です。ダビデは、「ヒソプをもってわたしの罪を除いてきよめてください。(詩篇51:7)」と言いました。ですから、この土の器に入れた湧き水は、キリストが十字架の上で死なれ、葬られたことを表していたのです。そして、その水の中から生きている小鳥を野に放つというのは、キリストが墓の中からよみがえられたことを表しています。このように、これはキリストの死と復活を表しているものですが、ここにはこのときの水を、きよめられるツァラアトに七たび振りかけなければなりませんでした。なぜかというと、このようにキリストの死と復活を象徴している水を振りかけることによって、キリストの死と復活に結びつけられることを表していたからです。

ローマ人への手紙6章3~11節には、キリスト・イエスにつくバプテスマについて記されてあります。すなわち、キリストの死にあずかるバプテスマを受けた私たちは、キリストとともに葬られたこと、またキリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをすることができるのです。私たちがきよめられるのは、このイエス・キリストに結びつけられることによってであるということです。それがバプテスマの意味です。ここに七たび振りかけるとあるのは、その罪の赦しが完全であることを表しているのでしょう。

しかし、七日間はまだ天幕にとどまることができませんでした。天幕の外にとどまっていなければなりませんでした(8)。そして、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうして後に、彼は宿営に入ることができました。つまり、彼は全くきれいになって、全くきよめられて、天幕に入ることができたのです。パウロは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)」と言っていますが、まさに神は、聖霊による新生と更新の洗いをもって救ってくださいました。聖霊によって洗いきよめられることによって、私たちは神の幕屋の中へ入っていくことができるようになったのです。

2.神へのささげもの(10-20)

次に10~20節までを見てください。そのようにツァラアトがきよめられた人は、神へのささげものをします。10節に、「八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。」とあります。聖書では、8という数字は新しい始まりを表しています。その新しい歩みを始めるにあたり、まずは神へのいけにえをもって始めるわけです。これは礼拝をもって始めるといってもいいでしょう。私たちが週の初めの日に礼拝をもって始めるのはそのためです。自分を罪からきよめてくださった主に心からの賛美と感謝をささげることは、むしろ自然の行為だと言えるでしょう。

その礼拝において彼がささげるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。傷のない雄の子羊二頭と傷のない一切の雌の子羊一頭です。傷がないいけにえは何を表していたのかというと、完全ないけにえです。神は完全ないけにえしか受け取られまん。傷のあるものは受け取らないのです。イエス・キリストは全く罪を犯したことのない完全ないけにえだったので、神は受け取られたのです。そのほかに、穀物のささげものとしての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来なければなりませんでした。

11節と12節をご覧ください。最初にささげるいけにえは、罪過のためのいけにえです。罪過のためのいけにえとは、自分が罪を犯したことによってもたらされる神や人への損害に対する償いのいけにえです。それによって神や人との関係が修復されるのです。罪を犯すことによって、まず私たちがしなければならないことは、この関係の修復です。これは、祭壇へのささげもの、つまり神への礼拝に優先されるべきものです。

マタイ5章23~24節には、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」とあります。供え物をする前にまず仲直りをする、つまり、罪過のいけにえはすべてにまさって先んじられるものなのです。なぜでしょうか。そうした障害物があると純粋な礼拝をささげることができないからです。

 そしてここには、それを奉献物として主に向かって揺り動かす、とあります。これは神に差し伸べているということです。これは神への賛美と感謝を表しています。私たちが賛美をささげるときにも、手を上げて賛美することがありますが、それと同じです。それは神への賛美と感謝を主に差し伸べているのです。

 その罪過のためのいけにえを、罪のためのいけにえや全焼のいけにえをほふる所でほふります。それは罪のためのいけにえ同様、祭司のものとなるからです。祭司が食べる分け前になるのです。これは主との交わりを表していて、そのきよさにあずかることを意味しています。

 14節をご覧ください。祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。なぜこんなことをするのでしょうか。なぜなら、子羊の血によらなければ罪の赦しはないからです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」もし私たちが父なる神との交わりを保ちたいなら、主イエスが流された血を塗らなければならないのです。

 ここではそれを、きよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。聖書で「右」は権威の象徴でした。そして、耳たぶとは聞くこと、親指はすること、つまり行いのことですね。そして親指は歩くこと、つまり歩みのことです。その上にイエスの血を注ぐということは、私たちのすへての罪の赦しをいただくということです。

 次に油が振りかけられます。15~18節をご覧ください。祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左手のひらに注ぎます。そして、右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかけたのです。祭司は、その手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指の上に塗りました。いったいこれは何を表しているのでしょうか?

 この油とは、もちろん聖霊のことです。罪がきよめられた者の上にこのように油を塗るのは、そのすべての歩みにおいて聖霊の注ぎと導きを求めなければならないことを表しています。耳たぶや手の親指、足の親指とは、そのすべての歩みのことです。すなわち、クリスチャンの生活とは、キリストの血によって罪赦されたことだけではなく、聖霊に導かれる生活であるということです。多くのクリスチャンは、罪からきよめられるところでストップしています。それがすべてであるかのように考えているからです。けれども、それはきよめられたクリスチャンの歩みのスタートであって、その完成を目指しての歩みが始まっただけなのです。そのクリスチャン生活はこの聖霊によって全うされるのです。そのすべての歩みにおいて聖霊に従い、聖霊に導かれていかなければならないのです。そして18節には、「残りの油をきよめられる者の頭に塗り」とあります。これは聖霊に満たされることを表しています。クリスチャンは単に聖霊の注ぎを受けて罪からきよめられただけでなく、聖霊に満たされて、キリストの証人として大胆に主を証しなければなりません。

 19節と20節を見てください。罪過のためのいけにえがささげたあとに、罪のためのいけにえをささげます。罪のためのいけにえは、私たちの罪の告白を表しています。神から罪の赦しをいただき、平安と喜びに満たされるための告白です。そして、全焼のいけにえをささげます。これは、「これから私は、イエスさまに従います。」という決心です。

 「祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。」

 穀物のささげものは、全焼のいけにえとともにささげられます。穀物のささげものは、キリストのいのちを表しています。「わたしはいのちのパンです。」と主は言われました。このささげものが全焼のいけにえとともにささげられるのは、全焼のいけにえがキリストの十字架にともにつけられている私たちを表し、穀物のささげものは、その中に復活の主が生きておられることを表しているからです。

 キリストによって罪からきよめられ、聖霊の油注ぎを受けて、主に自分自身のすべてをささげ生きるとき、そこにキリストのいのちが宿るのです。これがクリスチャンの歩みです。キリストのいのち溢れた歩みが始まります。単に罪の赦しというだけでなく、そこに聖霊の油注ぎがあり、神への献身があるとき、そこにキリストのいのちが豊かに溢れるのです。

3.貧しい人のためのいけにえ(21-32)

 次に21~32節までをご覧ください。ここには、生活が貧しくて、今ささげたいけにえをささげることができない人はどうしたらよいかについて教えられています。21~22節には、「その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。」とあります。子羊のかわりに、山鳩二羽か家鳩のひな二羽もって来なければなりませんでした。また、穀物のささげものが、十分の三エパではなく、十分の一エパに減っています。鳩の一羽は、罪のためのいけにえ、もう一羽は、全焼のいけにえとしてささげます。あとは、さきほどのいけにえの捧げ方とすべて同じです。

 ということはどういうことかというと、たとえ貧しくても、罪からきよめられ、神との交わりに入れられるためには、いけにえ(礼拝)をささげなければならないということです。それは経済的な理由で妨げられることではありません。経済的な理由で、主を礼拝できないという言い訳はできません。礼拝はすべての人にとっての特権であり、同時に責任なのです。どのような理由でも、主はだれでもご自分に近づくことができるようにしてくださいました。これは恵みではないでしょうか。

レビ記14章1~32節のメッセージをアップロードしました!

今週の祈祷会の聖書の学び、レビ記14章1~32節のメッセージをアップロードしました。ここには、ツァラアトに冒された人がきよめられるにはどうしたらいいのかについて教えられています。ここから、イエス・キリストの十字架の血によって罪から贖われたクリスチャンの信仰の歩みとはどのようなものなのかがわかります。聖書を開きながら神のことばをお聞きください。

イザヤ書54章11~17節のメッセージをアップロードしました!

今週の礼拝のみことば、イザヤ書54章11~17節までのメッセージをアップロードしました。一昨日からの積雪と停電により不安な夜を過ごされた方もおられたかと思いますが、「義によって堅く立つ」とのメッセージをいただき感謝しました。私たちの人生には本当に不安なことが絶えませんが、だれもキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはありません。この神の愛と救いによって、私たちは神の平安と力をいただくことができます。そのことを確認できたメッセージでした。

Isaiah54:11-17 “In righteousness you will be established”

Today let’s look at the last half of chapter 54 of Isaiah. In the first half of chapter 54 it said, “Enlarge the place of your tent, stretch your tent curtains wide.” (2) That’s “because more are the children of the desolate woman than of her who has a husband.” (1)  Israel who was captured by Babylon was truly like a “desolate woman”, (1) but the Lord will in due time restore them and they “will spread out to the right and to the left.”(3) In today’s passage too it continues to talk about Israel’s restoration.

Ⅰ.God will make your walls of precious stones (Vs. 11,12)

First of all please look at verses 11 and 12. Here God promises to make Israel like precious stones.

“O afflicted city, lashed by storms and not comforted,I will build you with stones of turquoise, your foundations with sapphires.  I will make your battlement of rubies,your gates of sparkling jewels,and all your walls of precious stones.”

“O afflicted city, lashed by storms and not comforted” is Israel.  Israel was afflicted by and lashed by the storms of Babylon. However, the Lord says that he will make such an Israel into precious stones. Turquoise is a bluish-green stone. Sapphires and rubies I think you know. Their walls will be of precious stones.  God will make Israel like these precious stones.  It will be just like a beautifully dressed up bride. From head to foot she is decked up and brilliantly shinning. The rock that has been broken to pieces will be restored by God.

Please look at Rev. 21:1-2.

“Then I saw a new heaven and a new earth, for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea.  I saw the Holy City, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband.”

This is a scene of heaven. Heaven is truly like a bride dressed up for her husband. The prophecy that Isaiah saw was of heaven.  In other words, this isn’t only just a prophecy of Israel who was captured by Babylon being liberated and made into precious stones, but also at the end of the world God’s people, Christians too will be so. It is a two folded prophecy.

In the verses following Rev. 21:10 it says in more detail what the new Jerusalem is like. In verse 11 it says, “It shone with the glory of God, and its brilliance was like that of a very precious jewel, like a jasper, clear as crystal.” Verses 18 to 21 say, “The wall was made of jasper, and the city of pure gold, as pure as glass.  The foundations of the city walls were decorated with every kind of precious stone. The first foundation was jasper, the second sapphire, the third chalcedony, the fourth emerald, the fifth sardonyx, the sixth carnelian, the seventh chrysolite, the eighth beryl, the ninth topaz, the tenth chrysoprase, the eleventh jacinth, and the twelfth amethyst. The twelve gates were twelve pearls, each gate made of a single pearl.  The great street of the city was of pure gold, like transparent glass.” Heaven is such a place shining with precious stones. Christians in the course of time will inherit such a heaven.

How wonderful this is! Now for a while we may be afflicted by various problems and “lashed by storms.” (11) We may be only suffering and in the condition of not finding hope anywhere. However, God will surely comfort you. In due time, he will lead you to the heavenly kingdom which is like precious stones.

Ⅱ.A great peace (Vs. 13)

The second point is that your children will have great peace. Please look at verse 13.

“All your sons will be taught by the LORD,  and great will be your children’s peace.”

This is a wonderful promise! We all put ourselves aside and desire that our children become happy.  Our children will all “be taught by the LORD, and great will be your children’s peace.” (13) Now it may not be so. They may not now know why they are living, but when they realize that they are living for God’s joy and glory, then they will have joy and peace. In the course of time such a time will come.  “All your sons will be taught by the LORD, and great will be your children’s peace.” (13)

Do your children have a great peace? Here it says, “be taught by the LORD.” (13)   For your children’s peace to be great they must “be taught by the LORD.” (13) Peace is not something that is obtained automatically.  It is the grace that is brought by being “taught by the LORD.” (13) Why do children rebel against their parents? Why are children anxious? Why are children selfish and self centered? It’s the age we live in…No! It is because they are not “taught by the LORD.” (13) If they are taught by the Lord, “great will be your children’s peace.” (13)

Ephesians 6:1-4 says, “Children, obey your parents in the Lord, for this is right.  ‘Honor your father and mother’ –which is the first commandment with a promise-‘that it may go well with you and that you may enjoy long life on the earth.’ Fathers, do no exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.”  How can children be happy and “enjoy long life on the earth”?  (Eph. 6:3) It is by obeying their “parents in the Lord”. (Eph. 6:1)Then the parents are commanded, “do no exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.” (Eph. 6:4)

Looking back on the past, I exasperated my children a lot.  Raising children is not easy. Things don’t go the way you want them to.  However, even though while having such weaknesses, if we bring our children “up in the training and instruction of the Lord,” (Eph. 6:4) the Lord will give peace and will be responsible for bringing them up. Of course, this is not just going through the actions of reading the Bible and praying every day.   Here it says, “in the Lord.” (Eph. 6:1) This is in the Lord’s love and instruction. In any case, what is certain is when your children are taught by the Lord, “great will be your children’s peace.” (13) You may think that your child is still too young to understand, but in reality it is when a child is very small that is the most important time. It seems like they don’t understand at all, but in reality they are soaking it up.  Therefore, whether they understand or don’t understand, if you want them to have a great peace, you must seek to have them receive the Lord’s teaching. Those who think that it is too late because their children have already grown up, must not give up. No matter how big they have gotten if you pray that your child will walk in the Lord and grow, then surely that prayer will be answered.  “If we ask anything according to his will, he hears us.” (I John 5;14) Therefore, no matter how old your child gets, don’t give up, but pray. In the course of time your child will look at his parents and your child too will for sure walk in the way of the Lord.

Ⅲ.In righteousness you will be established (Vs. 14-17)

The third point is “in righteousness you will be established.” (14) Please look at verses 14 to 17. I will read verse 14.

“In righteousness you will be established: Tyranny will be far from you;you will have nothing to fear. Terror will be far removed;it will not come near you.”

Here it insists that “Tyranny will be far from you; you will have nothing to fear.” (14) That is because “In righteousness you will be established.” (14) “Righteousness” (14) is salvation. We “will be established”(14) by righteousness, by salvation. To be saved is to have a relationship with God.  The first man, Adam and Eve, sinned and fell short of the glory of God.  Even when God called out, “Where are you?” (Genesis 3:9) they weren’t able to answer, “Here I am” .but feared the face of the Lord and hid among the trees of the garden.  In other words, their relationship with God was completely severed.  This is spiritual death. This is hell. Hell is the world where God does not exist.  So there is no joy, and no hope. Constantly you are fearful about something.  Constantly you are anxious about something. However, when you believe in the Son, Jesus Christ, and you are saved of your sin, God’s light floods your dead soul, and it comes back to life. By the interchange with the life of God you are renewed. If God is with us, what do we have to fear? David confessed this, “Even though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil, for you are with me.” (Psalm 23:4) If God is with us, even though we “walk through the valley of the shadow of death,” (Psalm 23:4) we have nothing to fear.

In John Kuuan’s book, A life of thankfulness, 365 days, there is an essay, “Thankfulness from birth to death”. He wrote that there are people who complain with a feast sitting before them and there are people who are thankful with one slice of dry bread. There are people who even though they have been given health, bear a grudge against their environment. There are people who even though have don’t have both arms and legs, they are thankful. There are people who lost only one, but they are angry, and there are people who have lost two, but are thankful.  There are people who are despaired or take their life because they failed.  There are people who are thankful for all the things of their past and are preparing for their future.  There are people who quarrel with those criticize them, or do harm to them. There are people who love their enemies and are thankful. There are people who fear death. There are people who gratefully accept death.

We have many reasons for being thankful: thankful for breathing,        thankful for being able to walk, thankful for eating and sleeping, thankful for husband, wife, and children, thankful for success and failure, thankful for sickness and also health. In reality from the time we are born until the time we die, we have nothing more than thankfulness.

Such thankfulness is truly born from God being with us.  That’s why there are those for whom death is the end of everything and others who are able to gratefully accept death because even if they die God is with them. Therefore, to have a relationship with God is a greater joy than anything else, a blessing. That is “righteousness”. (14) That is salvation. Salvation is to be in a right relationship with God. Such a person has nothing to fear. “Terror will be far removed.” (14)

We live daily in fear. We worry about losing money, about health, about losing our job and losing family. We have such fears.  Besides such fears there are also uncertainties about natural disasters coming upon us.  However, in the midst of such fears, if you believe in Jesus Christ, all your sin will be forgiven and you can be in a right relationship with Jesus Christ. God will be with you. Therefore, you will have nothing to fear. “If God is for us…who shall separate us from the love of Christ?…In all these things we are more than conquerors through him who loved us.” (Romans 8:31,35,37)

Please look at verses 15 to 17. “If anyone does attack you, it will not be my doing;whoever attacks you will surrender to you. See, it is I who created the blacksmithwho fans the coals into flame and forges a weapon fit for its work And it is I who have created the destroyer to work havoc; no weapon forged against you will prevail, and you will refute every tongue that accuses you.

If anyone attacks Israel, on the contrary, they will surrender to Israel.  For example, Haman who appears in the book of Esther plotted to kill all the Jews and made a gallows seventy-five feet high to hang Mordecai. However, on the contrary, “they hanged Haman on the gallows he had prepared for Mordecai.” (Esther 7:10)  God blesses those who bless Abraham and curses those who curse him. Therefore, if someone  is antagonistic towards Israel, then on the contrary, they will surrender to Israel. That is because Israel was redeemed by God and is the people of God.  It is because God is with them. No matter how much they are attacked, Israel will definitely not surrender.

Also no matter what new weapons the enemy has, it is God “who forges a weapon” (16) so such a weapon will be useless. No one can be antagonistic towards God. Therefore, no matter what happens they will never be shaken.  God is sovereign. He controls all so if we depend upon God there is nothing to fear.

Please look at the last part of verse 17.

“’This is the heritage of the servants of the LORD,and this is the vindication from me.’declares the Lord.”

“This is the heritage of the servants of the LORD. (17)  The servant of the Lord are promised this blessing.  If you are the Lord’s servant, then you too are promised this promise. The problem is whether you are a servant of the Lord or not.   Also whether you have received the Lord’s righteousness or not.

Please open your Bibles to II Cor. 5:21.

“God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.”

God made his only son, Jesus Christ “sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.” (II Cor. 5:21)

Therefore, if you would like to receive God’s righteousness, you must believe in Jesus Christ who died on the cross for your sin as your Savior. If so, you can receive the righteousness of God. That righteousness has no conditions. It is offered to                    you. If you believe in Jesus and receive God’s righteousness, you will in the course of time receive the glory that is promised here. “In righteousness you will be established.” (14) Your children too will have a great peace. No matter what kind of fears you are in, you will definitely not be shaken. You will be able to continue standing firmly. God will always be with you and watch over you. What amazing grace! Please accept this grace. Believe in Jesus and receive God’s righteousness, and receive the blessing of this heritage. This salvation is being offered to you..

イザヤ書54章11~17節 「義によって堅く立つ」

きょうは、イザヤ書54章後半の箇所からお話したいと思います。54章にはイスラエルの回復について語られています。主は子を産まない不妊の女のようであったイスラエルを回復し、右と左に増え広がるようにしてくださいます。だから、あなたの天幕の場所を広げるように、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすようにというのです。きょうのところも、イスラエルの回復が続いて語られます。

Ⅰ.あなたの城壁をすべて宝石にする(11-12)

まず第一に、11節と12節をご覧ください。ここには、神はイスラエルを宝石のようにしてくださると約束しておられます。

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。」

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女」とは、イスラエルのことです。彼らはバビロンによって苦しめられ、もて遊ばれた女のようでした。しかし、そんなイスラエルを主は、宝石のようにするというのです。「アンチモニー」とは黒色の鉱石です。黒色の塗料などに使われるとても美しい石です。エジプトの女性たちが使う化粧で最も特徴的なのは、目の周りを黒く塗るものですが、その塗料に使われているのがこのアンチモニーの粉だと言われていま。「サファイヤ」や「ルビー」はわかりますね。「紅玉」とはりんごではありません。「エメラルド」のことです。新共同訳ではここを、「エメラルドであなたの門を飾り」と訳しています。神は彼らをこのような宝石にするというのです。それはまるで美しく着飾った花嫁のようです。頭のてっぺんから足の先まできれいに着飾り、キラキラと輝いています。粉々に砕かれたはずの石を、神はこのように回復させてくださるのです。

ここで、黙示録21章1~2節をご覧ください。 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」 これは天国の光景です。天国は、まさに夫のために飾られた花嫁のようです。そうです、あのイザヤが見た預言は、この天国のことだったのです。つまり、これはバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放して宝石のようにするというだけでなく、世の終わりにおいて、神の民であるクリスチャンもこのようにしてくださるという二重の預言だったのです。    この黙示録21章10節以降には、この聖なる都、新しいエルサレムがどのようなものなのかがもっと詳しく語られています。11節には、「その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。また、18~21節には、「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。た、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。天国は、このような宝石のように輝いている所です。クリスチャンはやがてこの天国を相続するようになるのです。

なんとすばらしいことでしょうか。今はしばらくの間、さまざまな問題に苦しみ、もてあそばれているような状態かもしれません。毎日辛いことばかりで、どこにも希望を見いだせないような状況かもしれません。しかし、神は必ずあなたを慰めてくださいます。やがて、どれも宝石のような天の御国へと導いてくださるのです。

Ⅱ.豊かな平安がある(13)

第二のことは、あなたの子どもたちには、豊かな平安があるということです。13節をご覧ください。

「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」

これもすばらしい約束です。私たちはだれでも自分ことはさておき、子どもたちには幸せになってほしいと願うものです。その子どもたちがみな、主の教えを受けるようになり、そこには豊かな平安があるというのです。今はそうではないかもしれません。学校では進化論が絶対的な真理であるかのように教えられ、真理がねじ曲げられています。「先生、私たちはいったい何のために生きているんでしょうか。」と質問すれば、「馬鹿!そんなこと考える暇があったらもっと一生懸命勉強しろ」と言われるでしょう。でも何のために勉強するのかがわからなければ、一生懸命勉強することなどできません。たとえしたとしても、そこには何の喜びも得られないでしょう。平安もありません。私たちは神の喜びと栄光のために生かされているということがわかった時に初めて、喜びと平安をもって勉強することができるのではないでしょうか。しかし、やがてそのような時がやってきます。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには豊かな平安が得られるようになるのです。

皆さんのお子さんはどうでしょうか。皆さんのお子さんには豊かな平安があるでしょうか。もしないとしたら、どこがおかしいのかを点検しなければなりません。ここには「主の教えを受け」とあります。子どもたちが豊かな平安を得るためには、主の教えを受けなければなりません。それは自動的に得られるものではないのです。主の教えを受けることによってもたらされる恵みなのです。なぜ子どもたちは親に反抗するのでしょうか?なぜ子どもたちはいつもイライラしているのでしょうか?なぜわがままに、身勝手にしているのでしょうか?そういう時代だから・・・。違います。主の教えを受けていないからです。もし主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安があるのです。

エペソ人への手紙6章1~4節にはこうあります。 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

皆さん、どうしたら子どもたちはしあわせになり、地上で長生きすることができるのでしょうか?それは、主にあって両親に従うことによってです。そしてその両親に命じられていることは何かというと、子どもたちをおこらせてはいけないということです。かえって、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。

振り返ってみると、私も随分子どもたちをおこらせたなぁと思います。穴があったら入りたいくらいです。子どもを育てるというのは本当に楽ではありません。なかなか自分の思うようにはいかないものです。しかし、そのような弱さを抱えながらも、主の教育と訓戒によって育てるならば、主が平安を与え、責任をもって育ててくださいます。もちろん、それはただ機械的に毎日聖書を読み、祈ればいいということではありません。ここに「主にあって」とありますが、それは主にある愛情と訓戒によってということでしょう。いずれにせよ、確かなことは、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受けると、豊かな平安があるということです。「まだ小さくて聖書を読んでもチンプンカンプンです!」と思う方もおられるかもしれませんが、実は、そうした小さい時こそ大切な時期なのです。何も理解していないようでも、実はとってもよく吸収しています。ですから、わかってもわからなくても、あなたが子どもに豊かな平安を持ってほしいと願うなら、主の教えを受けるように求めなければなりません。もう子どもが大きくなってしまったから遅い!という方でもあきらめてはいけません。どんなに大きくなってもその子が主にあって歩み、成長するようにと祈るなら、きっとその祈りがかなえられるはずです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるからです。だから何歳になってもあきらめないで祈りましょう。やがてそうした親の姿を見て、あなたの子どもさんも必ず主の道に歩むようになるからです。

Ⅲ.義によって堅く立つ(14-17)

第三のことは、あなたは義によって堅く立つということです。14~17節までをご覧ください。14節をお読みします。 「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」

ここには、しいたげから遠ざかるように、恐れから遠ざかるようにと勧められています。なぜなら、あなたは義によって堅く立つからです。義とは救いのことです。私たちは義によって、救いによって、堅く立つことができます。救いとは神との関係を持つことです。最初の人アダムとエバは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなりました。「あなたは、どこにいるのか」と言われても、「はい、ここにいます」と答えることができず、主の御顔を恐れて、園の木の間に隠れてしまいました。つまり、神との関係が完全に断たれてしまったのです。これが霊的な死であり、地獄のことです。地獄とは神がいない世界のことで、そこには何の喜びも、希望もありません。絶えず何かにおびえ、何をしても不安になります。けれども、御子イエス・キリストを信じて罪が赦されると、死んでいたたましいに神の光が差し込み、息を吹き返します。神とのいのちの交流が再開するのです。神がともにおられるなら、いったい何を恐れることがあるでしよう。ダビデはこう告白しました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)神がともにおられるなら、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても 恐れることはないのです。

ジョン・クゥアン著、「一生感謝」365日」の中に、「生まれてから死ぬまで感謝」というエッセイがあります。 「ごちそうを前にしても文句を言う人がいるかと思えば、乾いたパン一切れでも感謝する人がいる。健康なからだが与えられていても環境を恨む人がいれば、両手両足がないにもかかわらず感謝する人がいる。一つを失うことに怒りを抑えられない人がいれば、二つを失ってもかえって感謝する人がいる。失敗したからといのちを絶ったり絶望したりする人がいるかと思えば、過ぎ去ったすべてのことを感謝し、未来に向けて準備する人がいる。自分を非難したり害を加えたりする人と仲違いする人がいれば、敵を愛して感謝する人がいる。死を恐れる人がいれば、死をありがたく受け入れる人がいる。  私たちには感謝する理由がたくさんある。呼吸できることに感謝し、歩けることに感謝し、食べるとができ、寝ることができることに感謝し、夫と妻と子どもを感謝し、成功も失敗も感謝し、病気でも健康でも感謝する。実際、この地上に生まれてから死ぬ火まで、感謝するのみではないだろうか。」

こうした感謝というのは、まさに神がともにおられることから生まれるものです。なぜなら、死んだらすべてが終わりだという中にも、その死さえもありがたく受け入れることができるのは、死んでもともにいる神がおられるからではないでしょうか。ですから、神との関係を持っているということは、すべてにまさる喜びであり、祝福なのです。それが義であり、それが救いです。救いとは、神との正しい関係にあることであり、そのような人は何も恐れることはありません。恐れが遠ざかるからです。

皆さんはどうでしょうか。私たちは日々様々な恐れの中に生きています。お金を失うのではないか、健康を失ったらどうしよう、仕事や家族を失ったらどうしようか。そうした恐れがあります。また、こうした恐れのほかにも、自然の災害に遭わないだろうかといった不安があります。しかしこれらの中にあっても、もしあなたがイエス・キリストを信じているならあなたのすべての罪は赦され、神との正しい関係を持つことができるようになるのです。神があなたとともにいてくださいます。ですから、あなたは何も恐れることはないのです。神が私たちの味方であるなら、何も私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。 これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となることができるのです。

15~17節前半のところを見てください。 「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。」

もしイスラエルを攻める者があったとしたら、どうなるでしょうか。もしイスラエルを攻める者があれば、そのような者は逆にイスラエルによって倒されることになります。たとえば、エステル記に登場するハマンはどうだったでしょうか。彼はユダヤ人を根絶やしにしようと高さ2.5メートルの柱を立て、それにモルデカイをかけて殺そうとしましたが、逆にハマンがそれにかけられて殺されました。アブラハムを祝福する者は祝福され、迫害する者は迫害されます。ですから、もしイスラエルに敵対する者があるとしたら、そういう者は逆にイスラエルによって倒されることになるのです。なぜなら、イスラエルは神によって贖われた神の民であり、神が彼らとともにおられるからです。どんなに彼らを攻める者があっても、彼らを倒すことは絶対にできません。

また、たとえ敵がどんな最新鋭の武器を持ちだしても、それらの武器を作り出したのは神様ですから、そうした武器も何の役にも立たなくなります。だれも神に敵対できることはできないからです。したがって、何が起こっても動揺することはありません。主権者は神であって、この方がすべてをコントロールしておられるので、神に信頼していれば何も恐れることはないのです。

17節の後半のところを見てください。 「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。」

これが主のしもべたちの受け継ぐ分です。主のしもべたちには、このような祝福が約束されています。もしあなたが主のしもべであるなら、あなたにもこの祝福が約束されているのです。問題は、あなたはこの主のしもべになっているかということです。また、あなたは神の義を受けておられるかということです。

Ⅱコリント5章21節を開きましょう。 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」  神が、そのひとり子であられるイエス・キリストを私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。

ですから、もしあなたもこの神の義を受けたいと思うなら、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれたイエス・キリストを、あなたの救い主として信じなければなりません。そうすれば、あなたもこの神の義を受けることができます。この義は無条件であなたにも提供されているのです。あなたがイエス様を信じて神の義を受けるなら、あなたもやがてここに約束されている栄光を受けるでしょう。あなたの城壁は宝石のようになり、あなたの子どもたちも豊かな平安を受け、あなたがどのような恐れの中にあっても決して動揺することなく、堅く立ち続けることができるのです。神がいつもあなたとともにいて、あなたを守ってくださるからです。これは何という恵みでしょうか。どうかあなたもこの恵みを受けてください。イエス・キリストを信じて神の義をいただき、この祝福を受け継ぐ人になってください。この救いはあなたにも差し出されているのです。

イザヤ54:11-17 レジュメ

「義によって堅く立つ」                                                                                          No.87

Ⅰ.あなたの城壁のすべてを宝石にする(11~12)

ここでも主のしもべに対する回復の預言ととも に、主のしもべが受け継ぐ分がどのようものであのかが語られている。まず第一のことは、 主はご自身のしもベの城壁をすべて宝石にしてくださる。「苦しめられ、 もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーに、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべての宝石にする。」(11~12)

これは、バビロンによって滅ぼされ、 捕囚の民として連れて行かれたイスラエルに対する回復の預言である。主は、彼らをバビロンから解放するというだけではなく、彼らの城壁を宝石のようにすると 約束さ れた。 まるで美しく着飾った花嫁のように、頭の上から足の先まできれいに着飾るようにしてくださる。それはまさに黙示録 21 章にある 天国そのものである。ヨハネは、 聖なる都、新しいエルサレムが、神のみもとを出て、天から 下ってくるのを見たが、それは夫のために飾られた花嫁のようであった。(黙示録 21: 2)その輝きは高価な宝石に似ており、透き 通った碧玉のようで、あっ た。( 同 21: 11) 天国はまさに宝石のように輝いていると こ ろである。 神の民は、この天の御国を相続するよう になる。もしかすると、今はしばらくの間苦しめられ、もてあそばれて、慰められていないように感じ る かもしれないが、それは一時のことである 。やがて神は必ずあなたを慰めてくださり御国を相続せてくださるのである 。

Ⅱ.豊かな平安がある(13)

第二のことは、そこには豊かな平安がある。「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(13)これもすらしい約束である。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、豊かな平安を得るよう になる。今はそうではいかもしれない。今は真理がねじ曲げられ、主の教えが受けられていないかもしれない。進化論が絶対的な真理であるかのように教えられていて、テストに出るとその通り答えなければ不正解となる。このような教えからは決して平安を得ることはできない。しかし、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、豊かな平安を得るようになる。それは自動的にもたらされるわけではない。それは主の教えを受けることによってもたらされるものである。なぜ子どもたちは親に反抗したり、わがままに、いつも身勝手なことをするのだろうか。なぜ子どもたちはいつもイライラしているのだろうか。それは、主の教えを受けていなからである。。主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安がある 。 やがてそのような時がやって来る。それもまた大きな慰めである 。

Ⅲ.義によって堅く立つ(14~17)

第三のことは、義によって堅く立つということである。「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ、恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」(14)義とは救いのことであり、神との関係を持つことを意味している。もしあなたが救われ、神と正しい関係にあるなら、あなたは何も恐れることはない。恐れが遠ざかるからである。

私たちは日々さまざまな恐れの中に生きている 。お金を失うのではないかと か、健康を失 ったらどうしよ う、 仕事や家庭を失 ったりはしないだろうか・・・・またこうした恐れのほかにも、いつ巨大地震が襲ってくる かどうかわからない、いつ大津波に襲われる か、いつ台風の被害に遭うか、といった驚異にさ ら されている。しかし、たとえこうした脅威の中にあっても 、 あなたは何も 恐れること はない。なぜなら、あなたは義によって堅く立っている からである 。あなたの罪は赦された。 あなたがイ エス・キリ ストを信じ たその瞬間にあなたのすべての罪は赦さ れ、神との正し い関係に入れられた。 それゆえ 、神がいつもあなたととも におら れる 。神があなたの味方であるなら 、だれがあなたに敵対することができよう か。だれもあなたをキリストにある神の愛から引き 離すこと はでき ない。 神があなたとと もにおら れるので、あなたはこれらすべての中にあっても 圧倒的な勝利者となることができる。それゆえにあなたは何も恐れることはない 。

あなたはこの神の義を受けておられるだろうか。もしあなたがこの義を受けたいと願うのなら、神の救いである イエス・キリスト を信じなければならない。あなたは自分の力でこの義を獲得することはできない。自分で自分を救うことはできない。あなたの身代わりと なって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じることによってのみ、あなたは救われること ができる。このイ エスを信じて、あなたも 神が約束してくださったすべての祝福を受け継ぐ人になっていただきたい。こ の義はすべての人に用意されているのだから。

Isaiah54:1-10 “Enlarge the place of your tent”

Today let’s look at Isaiah 54.  Last time we looked at what could be said to be the climax of Isaiah.  That was that God’s chosen servant was a servant of suffering. It was a prophecy that “He was pierced for our transgressions, he was crushed for our iniquities.” (5) That was for us. By that God’s righteousness came to many people. That result is chapter 54. To be said in one word, it is “the promise of restoration. God’s people who were in the condition of being abandoned from God will be restored.  With huge expectations and joy they will return to their homeland. Then Israel will once again be established as a country. How will God restore Israel?

  1. Enlarge the place of your tent (vs. 1-3)

First of all please look at verses 1 to 3.  I will read verse 1.

he “barren woman“ (1) is Israel.  Also “you who were never in labor“ (1) is also Israel.  They were destroyed by Babylon and became like women who can’t bear children. To such an Israel the Lord says, “sing“ (1) and “burst into song, shout for joy“. (1) That is “because more are the children of the desolate woman than of her who has a husband.” (1) “The desolate woman“ (1)  is also Israel. They were destroyed by Babylon in 586B.C. and became a captive people. That was truly like a “desolate woman“. (1) However in the latter days they will not be so. They will become more “than of her who has a husband.” (1) They will bring birth to much more offspring than the ordinary women who had no problem in bearing children.

That is just like Hannah that appears in the Old Testament. She was a barren woman and couldn’t bear any children. Her husband, Elkanah, had another wife, Peninnah. She was blessed with children and had many children.  This was trying and painful for Hannah. It couldn’t be helped so while in agony she prayed at the Lord’s temple.   Then the Lord answered her prayers. A boy, Samuel, was born. That’s not all.  After that 7 sons and daughters were born.  She said, “She who was barren has borne seven children, but she who has had many sons pines away.” (I Samuel 2:5)

To be put in other words, it was an incredible recovery. A blessing will come that Israel had never thought of before. It will so great that the place that they are living in now will become cramped.  Therefore, what God says is written in verses 2 and 3.

Verses 2 & 3

Israel by Babylon had completely lost everything, but the Lord will restore them again. They “will spread out to the right and to the left.” (2) Their “descendants will dispossess nations and settle in their desolate cities.” (2) Therefore, “enlarge the place of your tent, stretch your tent curtains wide, do not hold back; lengthen your cords, strengthen your stakes.” (2)

Even today in the Middle East there are nomads called Bedouins. When their family gets bigger and their tents are cramped, they tie tents together and enlarge their place of living.  Like this, the descendants of Israel will increase and their place of living will be enlarged and widen. Israel who was in 70 A.D. destroyed by Rome and dispersed throughout the whole world according to the promise of God returned to Palestine and the country of the Republic of Israel was established. That was in May 1948.  After that many Jews have returned to Israel and it continued to increase to 3,750.000 people in 1980 and to 7,870,000 last year in 2013. It is just as the Bible promised. They will “spread out to the right and to the left” (2) and settle in “desolate cities.” (2) Therefore, “enlarge the place of your tent, stretch your tent curtains wide,

That isn’t just a promise to the Jewish people.  This can also be said of those who have believed in Jesus Christ and have been saved, in other words of Christians, the spiritual Israelites. In the course of time God will explosively increase the amount of people who believe in Jesus Christ and are saved. Now it may be like the “barren woman… who never bore a child” (1), but in the course of time there will be more children “than of her who has a husband.” (1) Therefore, we must “enlarge the place of your tent, stretch your tent curtains wide, don’t hold back; lengthen your cords, strengthen your stakes.” (2) It will certainly happen so we must prepare before then not after it happens.

This passage spurred William Carrey, the 18th century missionary to India who is called the father of missions, on to world missions.  About this passage he said, “Expect great things from God. Plan great things for God.” He said that God will enlarge it so expect great things from God.

Also the father of the Salvation Army, William Booth’s mother from the time he was still an infant always said to him as he was growing up, “The world is waiting for you.”  She brought him up saying, “you are going to grow and grow and grow up to be a vessel that will be used for God’s great work.” She had the assurance that William would be used in God’s great plan and daily challenged him by saying this.

We are also the same. We should expect great things from God. We should undertake great things for God’s glory. Not for our honor, but for God’s honor.  Let’s enlarge the place of our tent, stretch our “tent curtains wide, don’t hold back;” (2) Let’s lengthen our cords and strengthen our stakes. Then let’s receive the blessing of what God does.

  1. You will not suffer shame  (Vs. 4-6)

Next please look at verses 4 to 6. Verse 4 says, “Do not be afraid; you will not suffer shame. Do not fear disgrace; you will not be humiliated.You will forget the shame of your youth and remember no more the reproach of your widowhood.

“The shame of your youth” (4) and “the reproach of your widowhood” (4) refers to the time when Israel was taken by Babylon.  They lost their language, lost their culture, and could not worship the God of Israel freely.  Of course, they lost the temple.  That was for them real shame, guilt, and an insult. However, now there is nothing to be afraid of. That is because they “will not suffer shame.” (4)

Please look at verse 5. “For your Maker is your husband-the LORD Almighty is his name- the Holy One of Israel is your Redeemer;he is called the God of all the earth.”

Here God calls himself, “your husband”. (5) “Your Maker is your husband.” (5) In other words, God and Israel’s relationship is spoken figuratively as a relationship of a married couple.  “Your husband” (4) is “your Maker”. (4) His name is “the LORD Almighty.” (5) He is “the Holy One of Israel” (5) and “the God of all the earth.” (5) He is the husband of Israel.  If so, there is nothing that they need to fear. He will take full responsibility and will save them.

Then verse 6 says, “The LORD will call you back as if you were a wife deserted and distressed in spirit-a wife who married young, only to be rejected, says your God.”

The relationship between God and Israel from the beginning was the relationship of a married couple. It was based on a covenantal relationship of love and truth. Even so, Israel turned its back on her husband, God, and committed the sin of adultery.  They worshipped idols.  Therefore, God abandoned them temporarily. Therefore, they are here called, “a wife deserted and distressed in spirit.” (6) Their condition when they were taken by Babylon was truly like this.  However, God has not abandoned them. This verse begins with, “the Lord will call you back.” (6) God is looking at Israel who betrayed the marital relationship as “a wife who married young.” (6) No matter what God’s love doesn’t change. We are not truthful, but God is true. God is faithful to the end to the covenant that he made with us.

In the Bible the Church is Christ’s bride. The Groom, Christ, by his own blood redeemed her.  Therefore we have been joined with the Christ, the Groom. I am a man, but a bride. Like marriage we are joined together in a strong relationship. That means that the Groom, Christ, will no matter what never abandon us. To the end He will take care of us.

Only now, more than already being in an officially married relationship, it may be better said that we are in the condition of being engaged. That is because Christ hasn’t still returned. When Christ returns, we will officially become Christ’s bride.  Like this we will be with the Lord forever.  That is called in Revelations “the wedding of the lamb.” (Rev. 19:7) That is the time when we will really marry.

However, Jesus will never break off the engagement. That is because there is a guarantee. The guarantee is the Holy Spirit. God gave us his own Spirit as a guarantee that he will someday marry us.  Therefore, it will certainly happen. At that time we will be forever with the Lord. No matter what, he will not abandon us. This is really a great encouragement, isn’t it?

  1. Eternal kindness (Vs. 7-10)

Lastly let’s look at verses 7 to 10. First please look at verses 7 and 8. “For a brief moment I abandoned you, but with deep compassion I will bring you back.  In a surge of anger I hid my face from you for a moment, but with everlasting kindness [loving-kindness; loyalty; covenant love] I will have compassion on you, says the LORD your Redeemer.”

The Lord “for a brief moment…abandoned” (7) Israel.  More that abandoning,  it is better said that the Lord for a brief moment punished Israel. The Lord sent Israel to Babylon, but he didn’t give her a certificate of divorce and kick her out completely. It was for a mere 70 years.  To say 70 years, seems like a lot of years, but “with the Lord a day is like a thousand years, and a thousand years are like a day.” (II Peter 3:8) Therefore, that it was “for a brief moment”. (7) Normally it would not be strange for them to have been abandoned eternally, but even so God didn’t do that. “For a brief moment” (7) he abandoned them, “but with deep compassion” (7) he brought them back.

The origin of this word “compassion” is “internal organs“ so it means that the heart is moved to the point that the internal organs are shaken up.  It means to have deep sympathy. Even if Israel who one-sidedly betrayed God, who showed no compunction about turning their backs on God was abandoned “for a brief moment,” (7) God will “with deep compassion” (7) bring them back.  God’s compassion never runs out. It’s limitless. It is inexhaustible. It is an inestimable compassion and you too are also the object of this compassion.

Please look at verse 8. Here it says, “In a surge of anger I hid my face from you for a moment, but with everlasting kindness  I will have compassion on you, says the LORD your Redeemer.”

The Lord will “with everlasting kindness…will have compassion.” (8) The center of the marriage ceremony is the vows. “I promise to be true to you in good times and in bad, in sickness and in health. I will love you and honor you all the days of my life.” However, how much of this vow is being fulfilled? It’s been a while back, but it was said that one fourth of all couples that marry in Japan get divorced.  That’s one couple ever 2 minutes and eighteen seconds.  If either one of the partners break the vow, then at that point, the agreement is not being met. However, God no matter how much we betray him, doesn’t ever renounce the agreement. Until the very, very, very end God takes care of us. God’s loving kindness is everlasting.  It doesn’t matter whether we follow him or don’t follow him. God’s loving kindness is one sided.

It isn’t the “if” kind of conditional love. It doesn’t have conditions such as if you have money, if you have talent, if you do what I say, or if you can cook. It is “in spite of” love.  In other words it is love without conditions. That is the love that Jesus showed on the cross.

Romans 5:6-8 says, “At just the right time, when we were still powerless, Christ died for the ungodly.  Very rarely will anyone die for a righteous man, though for a good man someone might possibly dare to die.  But God demonstrates his own love for us in this: While we were still sinners, Christ died for us.”

When we were still powerless,” (Romans 5:6) in other words, even though we were enemies with God, “still sinners”, (Romans 5:8) Christ willingly “died for us” (Romans 5:8) on the cross.  “Very rarely will anyone die for a righteous man, though for a good man someone might possibly dare to die. But God demonstrates his own love for us in this: While we were still sinners, Christ died for us. ” (Romans 5:7,8)  In other words, love is a hard thing, going to the point of giving your life. However, has our love really been true?

 

The writer Ayako Miura in her book, “There is a road” she said that she wondered if a bear came out when she was walking together with her husband, Mitsuyo             Miura, if she would leave her husband and flee or not. Ayako Miura was born and raised in Asahikawa. Therefore, from the time she was little she heard stories of bears as she grew up so she had the image of a bear being a very big enemy. Consequently, she thought if a bear came out, she would probably leave her husband and run like a rabbit.  Her husband is full of integrity.  When Ayako Miura was in the hospital for 12 years with spinal carries, he waited for 5 years for her while she was undergoing medical treatment, and then married the 2 year older Ayako. It was good that the sickness got better because if it hadn’t gotten better, he might have waited forever and ever. Therefore, she intends of course with thankful thoughts to love her husband. However, that is simply an intention, and when the time came she doesn’t know what she will do.  Even if she meets a bear she definitely won’t yell out, “Mitsuyo, I’ll let the bear eat me so hurry and flee!” She says that she is bound to push him towards the bear and quickly flee.

Emergencies may bring out such barbarity and cruelty, but man is human. However God’s love is different. God loved us so much that he gave his most important life. That is the love of Christ’s cross.

In Sept. of 1954 the Tōya Maru Ferry sank during typhoon 15 in the Tsugaru Strait between the Japanese islands of Hokkaidō and Honshū. It is said that 1,155 people aboard were killed in the accident. This incident was the biggest casualty in Japanese sea disaster history. When Toya Maru beached onto Nanae Beach, on the outskirts of Hakodate, there weren’t enough life jackets. Two missionaries, Dean Leeper and Alfred Russell Stone were riding on the Toya Maru.  Each of them gave their life jackets to Japanese youths. They said “Now in Japan you young people are necessary” then the 2 missionaries lost their lives in the foreign sea.  At that time Leeper was 33 years old and Stone was 52 years old.  Leeper had a wife and 4 children.

In the midst of a storm and the ship that you are riding in turns over, can you really do a sacrificial act of giving your life jacket to another person? It is a desperate time for you. No one can make you take the rouble to take off the life jacket that you have put on yourself. Even if you didn’t do it, no one will criticize. Everyone wants to live. It is a time when no one has time to think about others.

In such an emergency the two missionaries gave the life jackets that should have saved their lives to total strangers, youths of another country they had just met..

“Greater love has no one than this, that he lay down his life for his friends.” (John 15:13)

Christ to save you, me, and all the people in the world from sin was put on the cross and died in our place. It doesn’t matter what kind of person you or I are. He loves you with unconditional love. Please believe in the Savior and make eternal life yours.  If so, you too will receive encouragement. No matter what difficulties, what hopeless conditions there are, you won’t be depressed, and will be able to sing joyfully in the  hope that never changes.

Please look at verses 9 and 10. “To me this is like the days of Noah, when I swore that the waters of  Noah would never again cover the earth. So now I have sworn not to be angry with you. never to rebuke you again.

Though the mountains be shaken and the hills removed, yet my unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed, says the LORD, who has compassion on you.”

“This” (9) is that God will not be angry again or rebuke them again.”This is like the days of Noah.” (9) God promised to never send a flood to destroy the world again. Like this God is promising that he will not destroy Israel.  The sign of the covenant is the cross.  In Noah’s age it was the rainbow.  When the rainbow is in the sky, God looks at it, and remembers the eternal covenant between God and all flesh on the earth. Now the sign of the covenant is the cross.  When God looks at the cross, it is a sign of the covenant, and the promise that he will never judge all people. If you look at Jesus who was put on the cross and died in your place, from the time that you say that you believe in Jesus, God’s wrath will for sure not come upon you. Christ took everything upon himself, and received that punishment on the cross.

“For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.  For God did not send his Son into the world to condemn the world, but to save the world through him.” (John 3:16,17)

Let’s read verse 10 together. “Though the mountains be shaken and the hills removed, yet my unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed,says the LORD, who has compassion on you.”

“Though the mountains be shaken and the hills removed, yet my unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed.” (10) This love is called “Hesed” in Hebrew.  This is the mercy that God gives specially to his people.  This love has been given so we can love each other. Therefore, these are wonderful words. This is the love of God that is poured out on His people.  It is God’s mercy.  Also “nor my covenant of peace be removed.” (10) This “peace” is “shalom”. This is not just not having war and not having fighting, but a positive state of rightness and well-being. Such peace only comes from the Lord.

Is there anyone here that is concerned about problems of health or job or are carrying the load of problems at school? Is there anyone who thinks he is at the end of his rope and that God has abandoned him? Please be relieved. From the moment you believe in Jesus Christ you will enter into the covenant of the everlasting kindness of God. No matter what happens that promise will not be broken. “Though the mountains be shaken and the hills removed,” (10) you will definitely not be shaken. Therefore, even if before our eyes something that is unthinkable happens, even if you are suffering from something that you think that no one knows about happens, even if you are suffering so much that you forget about God, please remember that God’s “unfailing love for you will not be shaken nor my covenant of peace be removed.” (10)

イザヤ54:1-10 レジュメ

「あなたの天幕を広げよ」                  No.85

Ⅰ.あなたの天幕の場所を広げよ(1~3) 

 苦難のしもべの預言に続いて、その苦難のしもべによってもたらされる「回復の約束」が語られる。神に捨てられたようであったイスラエルが回復し、大いなる喜びと期待に胸を膨らませて祖国に戻り、国を再建するようになる。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」(1-2)それゆえ、彼らは自分たちの天幕の場所を広げなければならない。彼らの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にしなければならない。(2)右と左にふえ広がり、彼らの子孫が、国々を所有して、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。(3)

これは、民族としてのイスラエルだけに約束されていることではない。救い主イエス・キリストを信じ神の義とされた者たち、すなわち、霊的イスラエルであるキリストの教会にも約束されていることである。やがて神は、イエス・キリストを信じて救われる者たちをふやしてくださる。それゆえ、私たちは天幕の場所を広げ、鉄のくいを強固にしなければならない。そうなってからでは遅い。必ずそのようになるのだから、それに備えて準備しておかなければならないのである。

Ⅱ.あなたは恥をみない(4~6)

4節には、「恐れるな。あなたは恥をみない。」とある。彼らは自分たちの若かったころの恥を忘れ、やもめの時代のそしりを、もう思い出すことはない。なぜなら、主が彼らを贖われたからである。ここには主のことを「あなたの夫」(5)と言われている。「あなたの夫はあなたを造った者」と。その名は万軍の主であられる方が、彼らを贖ってくださる。だから、彼らは恐れることはないのである。彼らはかつて夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼ばれていたが、今はそうではない。今は若い時の妻のように、変わらぬ愛をもって見て下さる。神との婚姻関係を破り勝手に背を向けたイスラエルを、夫である神は、「若い時の妻をどうして見捨てられようか」(6)と言って、受け入れてくださるのである。私たちは不真実でも、神は常に真実である。神はご自身を否むことがないからだ。神はどんなことがあっても、最後まで見捨てるようなことはなさらない。

Ⅲ.永遠に変わらない愛(7~10)

それだけではない。ここには、「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(7-8)とある。神の愛はこれからも変わることがない。神は永遠の愛をもってあわれんでくださるのである。。神が無限であるように、神のあわれみも尽きることはない。その計り知れないあわれみの中に、私たちも置かれているのである。

神の愛は、私たちがしばしば耳にする「もしも」の愛ではない。もしも、あなたに才能があるなら、もしも、あなたにお金があるなら、もしも、あなたが健康なら、もしも、あなたが言うことを聞くなら愛するという、条件付きの愛ではない。神の愛は「にもかかわらず」の愛である。たとえ、あなたが罪を犯しても、たとえ、あなたが失敗しても、たとえ、あなたの性格が悪くても、たとえ、あなたに能力がなくても、たとえ、あなたの容姿がひどくても、そのようなこととは全く関係なく、無条件で愛してくださる。それが十字架で血を流して死んでくださったキリストの愛である。この十字架のキリストの血潮のゆえに、あなたは無条件の愛されている。まさに雑草のような者に注がれる神の豊かな恵みである。あなたはこのような愛で愛されている。だから、どんな困難や絶望的な状況にあっても落ち込むことなく、いつまでも変わらない希望を喜び歌うことができるのである。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」(10)ここに慰めを得る人は幸いである。

あなたが今悩んでおられることは何か。仕事のこと、学校のこと、家庭のことで苦しんでいるかもしれない。しかし、あなたはイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けたことで、この神との契約の中に入れられた。たとい山々が動いても、丘が移るようなことがあっても、神の変わらぬ愛はあなたから移ることはない。ここに希望をもって、神の慰めを受ける者でありたい。

レビ記13章29~59節

前回は13章1節から28節までのところから、人にツァラアトの患部が現れた時はどうしたらよいかを学びました。今回はその続きです。

1.  頭と、ひげの疾患(29-37)

 まず29節から37節までをご覧ください。男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、祭司はその幹部を調べます。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言します。これはかいせんで、頭またはひげのツァラアトです。「かいせん」とは、菌によって頭皮が犯される病で、辞書には黄癬(おうせん)という、とあります。黄色いかさぶたを形成する皮膚病ではないか、と考えられています。このような症状が見られる時には、祭司がそれを調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患部を七日間隔離します。これは他の症状が見られた時と同じですね。少し様子をみるわけです。 七日目になって祭司が患部を調べ、もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、その人は毛をそり落とします。ただし、そのかいせんをそり落としてはなりません。祭司はそのかいせんの患部をさらに七日間隔離して、七日目に祭司がまたそのかいせんを調べます。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言します。彼は自分の衣服を洗います。彼はきよいのです。
しかし、彼がきよいと宣言されて後にも、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、祭司は彼を調べ、もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はありません。彼は汚れているのです。もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言します。

 これまでのツァラアトの症状と違うのは、7日目になって祭司が患部を調べ、症状が広がっていなくても、きよいと宣言しないで、頭をそって、さらに7日間隔離することです。さらに7日間隔離したあとで、きよいか汚れているかを見極めて宣言するのです。このように、頭の部分、あるいはひげの部分には、合計14日の隔離期間を設けています。

 これはいったいなぜでしょうか。頭もひげも、髪の毛で隠れているからです。そのため、そこにツァラアトがあるかどうかを見極めることが難しいのです。つまり、隠れたところにあるツァラアトを調べるのには、二倍の期間を要するということです。したがって、ここから教えられることは、私たちがなかなか見分けの付かない、隠れたところで罪が広がることがある、ということです。

 例えば、エペソ4章25節から32節までのところを見ると、「偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語る」こと(25)、「怒っても、罪を犯してはならない」こと(26)、「盗んではいけない」(28)とあります。こうしたことは明らかな罪なので捨てなければならないことがわかります。しかし、その後に出てくる事柄はどうでしょう。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(29)、「無慈悲、憤り、怒り、そしりなど、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(31)。こうした罪はなかなか見分けがつきまません。悪いことばを発したからといって警察に捕まるわけではありませんし、人の悪口やうわさ話をしたからといって偽証罪で訴えられるわけではありません。しかし、聖書ではそうしたことは暗やみのわざであり、キリストの贖いによって救われたクリスチャンにとってふさわしくない罪であるとはっきりと告げています。(Iテモテ5:13,ヤコブ4:11)ですから、私たちは隠れたところ、心の中のことは、もっと気をつけなければなりません。私たちの心を探り極める方は、こうした小さな罪さえも見逃すことはないからです。ですから私たちは、信仰によって歩んでいるのか、また私たちの奉仕はキリストの愛によって駆り立てられているのか、といったことをしっかりと調べなければならないのです。

 2.「汚れている、汚れている」(38-46)

 次に38節から46節までのところをご覧ください。ここには、男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、祭司はこれを調べる、とあります。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹で、彼はきよいのです。

 39節には「皮膚に出てきた湿疹」とありますが、これは、「尋常性白斑(じんじょうせいはくはん、:vitiligo vulgaris)」といって、皮膚色素をつくる部位の損失を不規則に引き起こす、慢性的な皮膚疾患のことではないかと考えられています。日本ではシロナマズとも呼ばれ、治りにくい皮膚病のひとつとされています。これは、ツァラアトとはことなる、単なる皮膚の変色であるから、問題ありません。きよい、と宣言されます。

 次に、男の人の頭の毛が抜けることについて言及されています。「男の頭の毛が抜けても、それはただのはげであって、彼はきよい。もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげです。彼はきよい。もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たツァラアトである。」(40-42)毛が抜けているだけでは、らい病であるとは限りません。特に、男の頭のはげは、自然の成り行きであって、汚れているわけではないのです。

 けれども、次の場合は違います。すなわち、もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるツァラアトに見られるような赤みがかった白色である場合です。それはツァラアトであって、汚れているのです。たとえ隠れていなくても、「はげなんだから」と言って、かえって見過ごされてしまいがちですが、そうした当たり前にしているところに、以外と罪が入り込んでくるのです。

 では、そのような場合はどうしたらいいのでしょうか。44節から46節までのところにこうあります。「祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」

 ツァラアトの人は、人々が自分に近づいてくるとき、必死に、「汚れている!汚れている!」と叫ばなければなりませんでした。決して自分にさわってはいけないという信号を、人々に送らなければならなかったのです。そればかりではありません。さらに、彼は、イスラエルの民が住む宿営からも離れなければなりませんでした。なぜなら、前回学んだように、このツァラートは罪を表しているからです。宿営には聖所があり、そこには聖なる神がおられます。その中に汚れを持って行くことは、決してできなかったからです。

 このことから、罪とはどのようなものかがわかります。すなわち、罪とは神と人とを切り離し、また他のクリスチャンと切り離す、ものであるということです。罪がある者は、決して神のみもとに近づくことはできませんし、その神を信じている人たちの交わりの中に入ることもできません。パウロはコリント人への手紙第一5章5節で、「このような者をサタンに引き渡したのです。」と言っています。罪を犯して悔い改めない兄弟は、交わりから追い出して、サタンに引き渡すべきだ、というのです。なぜでしょう。それは、彼を教会の交わりから閉め出すことによって、彼の肉が滅ぼされても、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。つまり、彼が教会にとって邪魔だからではなく、彼が救われるためにです。罪を犯している兄弟が、その罪によってどれほど悲しむべきことになるのかを、知らせるためなのです。「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」(ヤコブ5:16)とあるように、私たちは互いに自分の罪を言い表して、いやされるようにきよめられるように、祈らなければなりません。

 そして、何よりもそうした罪のために神に近づくことができない私たちのために、神の方から近づいてくださったことを覚えなければなりません。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、罪に汚れた私たちを許し、すべての悪からきよめるために、私たちのところに来てくださいました。

 マルコの福音書1章40節を開いてください。ここには、ツァラアトに冒された人がイエス様のみもとに来て、「主よ。お心一つで、あなたは私をきよくすることができます。」と言ったことが記されてあります。すると主は、深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」主は、汚れた私たちに触れてくださったのです。さらに、宿営の外まで離れてくださいました。それがエルサレムの外にあったゴルゴダです。そこで罪人としてさばかれ、十字架につけられて死んでくださったのです。私たちはツァラアトに冒されたような汚れた者ですが、イエス様はそのような者をきよめてくださいます。ですから、私たちにとって必要なことは、自分には罪がないというのではなく、互いに罪を言い表して、イエス様の血潮でその罪を洗い聖きよめていただくことなのです。

 3.  衣服にツァラアトの患部が生じたとき(47-59)

 最後に47節から59節までを見て終わりたいと思います。ここには、衣服にツァラアトの患部が生じたときはどうしたらよいかが教えられています。「衣服にツァラアトの患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、その患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどんな皮製品でも、それはツァラアトの患部である。それを祭司に見せる。祭司はその患部を調べる。そして、その患部のある物を七日間隔離する。七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のツァラアトで、それは汚れている。羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、その患部のある物は焼く。これは悪性のツァラアトであるから、火で焼かなければならない。」(47-52)

 今までは、人に付いていたツァラアトについて語られていましたが、今度は、衣服についているツァラアトについての言及です。緑がかっていたり、赤みを帯びたりしている、というのは、カビのことです。衣服にカビが生えたら、それはツァラアトです。そのツァラアトが広がっていれば、それがどのような種類の衣類であっても、火で焼かなければなりませんでした。たとえそれが高級な衣類でもです。

 そして、「もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離します。祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べ、もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れています。それは火で焼かなければなりません。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食です。」(53-55)

 頭のらい病のときと同じように、さらに7日間隔離します。頭の場合は毛をそりましたが、衣服の場合は、その衣服を洗います。そして、たとえそのカビが広がっていなくても、変わっていなければ火で焼かなければなりませんでした。これは、人に付いたツァラアトよりも厳しい措置です。続く56節から59節にはこうあります。

「祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現れたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もしその患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」(56-58)

 きよい衣服というのは、その衣服を洗った後で患部(カビ)が完全に消えている場合だけでした。薄れているだけではダメです。また、再びそれが現れたらダメです。薄れている場合は、その部分だけをちぎり取らなければなりませんでしたし、再発した場合は、火で焼かなければなりませんでした。ただ洗って完全に消えていた場合だけがきよいとされたのです。

 いったいこれはどういう意味でしょうか?この衣服とは、私たちの行ないを表しています。たとえばエペソ4章22節~24節には、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。ですから、患部のある衣服を身につけている人は古い人です。それは、イエス・キリストを自分の救い主として信じていない人のことです。真理に基づく義と聖とをもって神にかたどり造り出された人は、そうした古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけなければなりません。古いものは焼かれ、新しいものだけが残るからです。私たちに求められていることは、イエス・キリストという新しい衣服を着て、キリストに喜ばれる歩みをすることです。イエス・キリストの十字架の血潮によって私たちの罪が洗いきよめられたにもかかわらず、まだそれが薄くついているような衣服を着たり、再び過去の虚しい生き方に逆戻りしないように注意しなければなりません。そのためには、神のみこころは何か、何が良いことで完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ尽くさなければなりません。この世と調子を合わせてはいけません。自分の考えに執着してもなりません。ただへりくだって神のみこころに歩むこと、それが新しい衣服を着た人の姿なのです。