イザヤ55:1-5 レジュメ

イザヤ書55:1~5  「ただで恵みを受けよ」                  No.87

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1) 

 主のしもべは十字架と復活によって救いの御業を成し遂げてくださった。ここでは、その御業に対する応答が求められている。その応答とは何か?「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」(1)という招きに応答して出て行くことである。ここでは水だけではない。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないでただで受けよ、と言われている。それは霊的にも物質的にも私たちにいのちと喜びをもたらしてくれるものである。「来る」ことがなければ何も始まらない。神が私たちに向かって開口一番おっしゃられることは、「来なさい」ということである。それはただ遠くから見つめることではない。神について研究することでもない。もし、あなたが疲れているなら、重荷を負っているなら、主のもとに来なければならない。そうすれば、主があなたを休ませてくださる。あなたが本当の祝福にあずかりたいのならば、どんな用事があろうと、どんなことをしていても、ひとまずそれを脇に置いて、主のもとに来なければならないのである。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

それなのに、「なぜ、あなたがたは、食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」(2)「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」とは、神ご自身以外のものである。主のもとに出て行くのではなく、この世のもので満たされようと追い求めている。けれども、この世のものは決して私たちのお腹を満たすことはできない。だから、良い物を食べなければならない。「良い物」とは救いのみことばのことである。人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きている。これこそ私たちを真に満たしてくれるものである。私たちはこの救いのみことばに信頼し、自分の置かれた絶望的な状況を乗り越えなければならない。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことになる。「脂肪」とは「最上のもの」という意味である。あなたが神とそのみことばに信頼するなら、神はあなたをすべての良いもので満ち溢れさせてくださる。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3~5)

そればかりではない。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」(3a)とある。もし神のもとに出て、神のみことばに聞き従うなら、あなたは生きることになる。これは肉体的に生きるということではない。永遠のいのちが与えられるということである。もしあなたが神を信じるなら、永遠に生きることになる。たとえ肉体的に死んでも、その霊は永遠に生きる。しかし、クリスチャンでない人はそうではない。死んだらまた死ぬ。死が二回ある。肉体的な死と、霊的な死である。霊的な死とは第二の死とも言われ(黙示録20:14)、永遠に燃える火の池の中に投げ込まれることを指している。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことはない。そしてたとえ肉体的に死んでも永遠のいのちが与えられ、天国で主とともにいつまでも生きることになる(黙示録21:27)のである。

その保証は何か。それはダビデと結ばれた愛の契約である。「わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」(3b)それはダビデの行いによるものではなく、神の一方的な恵みの契約である。ただへりくだって神の前に出、神が与えてくださる恵みをうけることによってもたらされる救いである。それがダビデ契約であり、その子孫からお生まれになられたイエス・キリストによって実現した。これほど確かな保証がどこにあろうか。それは私たちの行いとは全く関係なく、一方的に神の恵みによって与えられるものだからである。

あなたは、このように価なしに味わうことができる神の恵みを、信仰をもって受け入れておられるだろうか。それともまだ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労しているだろうか。もしあなたが神のもとに出て、神に聞き従うなら、あなたは生きる。あなたも神からの救いの招きに応答して、神がただで与えてくださる祝福を受けていただきたい。

イザヤ書55章1~5節 「ただで恵みを受けよ」

きょうはイザヤ書55章のみことばから、「ただで恵みを受けよ」というタイトルでお話します。1節を見ると、「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒を買え。」とあります。ここで神はただで恵みを受けるようにと招いておられます。

イザヤ書53章には、主のしもべによって成し遂げられた救いの御業が預言されていました。主は私たちにできないことをしてくださったのです。十字架にかかって死なれ、私たちの罪を赦してくださいました。その主の贖いを信じる者に、神はとてつもない回復を約束されました。それが54章にあることです。54章12節には、「あなたの城壁をすべて宝石にする」とありますが、主は天の御国を相続するようにしてくださったのです。

そして55章に入ります。ここには、そのようにして成し遂げられた祝福への招きが語られています。皆さんは、今までどれだけの招待を受けたことがあるでしょうか。その中で一番価値のある招待はどのようなものでしょうか。きょうのところで主は、「だれでも渇いているなら、わたしのところに来て飲みなさい」と招いておられます。ただで恵みを受けるようにというのです。これこそほんとうに価値ある招きではないでしょうか。きょうはこの神の招きについて、三つのポイントでお話をしたいと思います。

Ⅰ.渇いている者は出て来い(1)

まず1節をご覧ください。ここには「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」とあります。水というと、日本ではただで飲めるというイメージがあってあまり価値のないもののように感じますが、そうではありません。調べてみると、この地球にはおよそ14億Km3の水があると言われていますが、そのうちの約97%は海水で、淡水はわずか3%しかありません。そしてこの淡水のうち私たちが生活に利用できる水はわずか0.8%しかないのです。ですから、水はとても貴重な資源なのです。ヨーロッパなどでは昔からレストランなどてで何かを注文する時、水が欲しかったら「ミネラル・ウォーター」といって注文しなければならないそうです。お金を払って買わなければならないのです。しかも水の方がぶどう酒よりも高いという所もあります。イスラエルやエジプト、中近東の砂漠地帯に行きますと水はもっと貴重で、たとえば最大の産油国であるサウジアラビアでは石油よりも水の方が高いと言われています。それほど水は貴重なものなのです。

それなのに、ここではその水をただで飲めと言われています。水だけではありません。穀物も、ぶどう酒も、乳もです。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」もちろん、これは物質的な祝福だけのことではありません。物質的なものも含め、すべての良いものをを意味しています。「穀物」というのは、いのちの象徴でしょう。イエスは「わたしはいのちのパンです」と言われました。また、「ぶどう酒」は喜びを、「乳」は「みことばの乳」という言葉があるようにいのちを養い、成長させるうえで欠かせないものです。そのように物質的にも、霊的にも、私たちにいのちを与え、私たちの生活を支え、私たちに喜びをもたらすものを求めて、神のもとに出て来い、というのです。

「出て来い」という言葉は命令形で、非常に強いことばです。3節にも繰り返して出てきます。なぜこのように強く命じられているのでしょうか。なぜなら、来ることがなければ何も始まらないからです。来ることによって初めて受けることができます。ですから、神は私たちに向かって開口一番言われることは、来なさいということなのです。あなたがどんな用事があろうと、どんな状況であっても、あなたが神の祝福を受けたいと思うのであれば、そうしたものを脇に置いてでも来なければならないのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

ここでイエス様は、「わたしを遠くから見なさい」とか「わたしを研究しなさい」とは言いませんでした。「来なさい」と言われました。そうすれば、あなたがたを休ませてあげる・・と。ですから、もしあなたが恵みを受けたいのなら、イエスのもとに来なければなりません。

私が小さい頃、母がよく言ってたことがあります。それは「ただほど怖いものはない」ということです。ただなんてあり得ない。ただであげるというのは、何かたくらみがあるからだ。しかし、神はただで与えてくださるのです。これを何というかというと、「恵み」と言います。神の恵みです。しかもこれは神の一方的なあわれみによるものです。そこには私たち人間の側のどのような手のわざも加えることはできません。私が何かしたから、たとえば、私が奉仕したから、私が一生懸命に祈ったから、私が一生懸命に何かをしたから与えられるのではなく、ただ一方的な恵みによって与えられるものなのです。神の前には自分がどれだけやったかといったことは、全く関係ありません。ただ神の前に出て行くかどうかということだけなのです。神の前に出て行くことによってのみ受けることができるもの、それが神の恵みであり、神が私たちに与えてくださる救いなのです。神の目から見たら、私たち人間はみなナッシングです。何もない、何の価値もありません。しかし神は、そのように神の恵みに全くあずかる資格のない者や罪深い者に対して、「渇いているならわたしのもとに来て飲みなさい。穀物も、ぶどう酒も、乳も、金を払わないで買いなさい。ただであげよう」と言って招いておられるのです。

Ⅱ.良い物を食べよ(2)

次に2節をご覧ください。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」

それなのに、なぜ食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのでしょうか。お金では買えない霊的祝福があります。それらはただで受けることができるのにそうしたものにはちっとも目もくれず、心の糧にもならない物のためにお金を払い、天国には持っていけない物や天国では何の役にも立たないもののために労するのでしょうか。もちろん、それはこの地上の生活を楽しんではならないということではありません。むしろ、私たちが投資すべきものは何なのか、その優先順序をよく考えてみなさいということです。もっと永遠に残るもののためにお金を使い、労し、時間を使うべきだということです。

このことについて、イエス様はこのように言われました。「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

一生懸命に汗水垂らして働いて、ようやくいただいたお給料で、たまったストレスを発散しようと、ブランドものを買ったり、高級な洋服を買ったりしても、そうしたものが私たちの心を満たすことはできません。買ったその瞬間から古くなってしまいます。エントロピーの法則といって、形あるものは滅びていくのです。中には一回も着ないのに虫に食われて穴が空いてしまったり、太って着れなくなってしまったということもあります。せっかくローンを組んで買った車が、きず物になったり、さびついてしまうこともあります。だから最近は車がその辺にぶつかっても気にしないことにしました。形あるものは壊れるのですから。ですから、自分の宝を地上にたくわえるのはやめて、天にたくわえるべきです。憂さを晴らそうと高いお酒を買う必要はありません。神に聞き従い、良い物を食べるなら、ストレスも解消でき、喜びに満ち溢れるようになるからです。

ここでは、「そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう」とあります。「脂肪」は現代では様々な病気の原因となっていてあまり歓迎されていませんが、聖書では芳ばしい香のする最上のものとして、神にささげられました。つまり、「脂肪」は最上のものを表しているわけです。神に聞き従い、良い物を食べるなら、あなたは最上のもので元気づくことができるのです。

では「良い物」とか「最上のもの」とは何でしょうか。ここではそれが「食料にもならない物」とか「腹を満たさない物」と対比されています。私たちの糧となり、私たちの腹を満たすものです。それは、神とその救いのみことばのことです。この時イスラエルはバビロンに捕らえられていましたが、そうした異教の生活の中に自分たちの心を満たすものを求めていたでしょうが、見つけられませんでした。そうした異教の社会の中には彼らを満たすものはありませんでした。一時的に満腹感を味わうことができても、次の瞬間はにはまたお腹が空いてしまうのです。真に人の心を満たすことができるのは、神とそのみことばだけです。イエス様はこう言われました。「人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)これが良い物であり、イスラエルが置かれた絶望的な状況の中でそれを乗り越えていく力であったのです。

それは私たちも同じです。皆さんは何のためにお金を払い、何のために労しておられるでしょうか。食料にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労してはいないでしょうか。神に聞き従い、良い物を食べなければなりません。神の口から出る一つ一つのことばを食べて、そこに希望を置かなければならないのです。そうすれば、あなたは脂肪で元気づくことができます。イエス・キリストは、いのちの水になってくだるし、穀物(いのちのパン)にもなってもくださいます。またぶどう酒(喜び)にも、乳(成長の糧)にもなってくださいます。イエス・キリストは、あなたのすべてのすべてになってくださるのです。この方を食べるなら、すなわち、この方を求め、この方と交わりをもって生きるなら、あなたの一生は良いもので満たされるのです。

Ⅲ.あなたがたは生きる(3-5)

第三にその結果です。神に聞き、神のもとに出て行くなら、あなたがたは生きるということです。3節をご覧ください。ここには、「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。」とあります。

「私はちゃんと生きてますよ!」という方がおられるでしょうか。それは一時的なことで、あとどのくらい生きられるかわかりません。ここで言われているのは永遠のいのちのことです。死んでも生きるいのちです。イエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われましたが、この死んでる生きるいのちのことなのです。 クリスチャンにはこのいのちが約束されています。ですから、クリスチャンは今死んでもまた生きます。クリスチャンでない人は違います。クリスチャンでない人は、今晩死んだらまた死にます。死が二回あるんです。肉体の死と、霊的な死です。霊的な死とは第二の死とも言われ、永遠に神から離れてしまうことを意味しています。黙示録20章14~15節に記されてあります。「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この池に投げ込まれた。」これがいわゆる地獄のことです。しかし、クリスチャンは一度しか死ぬことがありません。そして肉体的に死んでも天国に入り、そこで永遠に神と生きるようにになります。これが永遠のいのちです。この地上でのいのちは70年か80年、長くても100年くらいです。どんなに頑張っても120年くらいでしょう。みんな必ず死にます。それは100パーセントです。そして死んだらどうなるのかというと、死んでも霊において生きるのです。人は死んだら終わりではないのです。死後も霊において生き続けるのです。永遠にです。死後の世界の方が圧倒的に長いのです。この地上でのいのちは点にすぎません。あっという間に過ぎ去りますが、死後の世界は永遠なのです。あなたはこの永遠の世界をあなたはどこで過ごされますか。神とともに天国で過ごされますか。それとも、神のいない燃える火の池である地獄でしょうか。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」もしあなたが神のもとに行き、神に聞き従い、神の救いを受け入れるなら、あなたは生きるのです。

アメリカの企業家であったハワード・ヒューズは、映画、放送局、航空会社、ホテル、賭博場など、約50あまりの事業を手がける富豪で、若い頃はハリウッドのスターたちとも数多くのうわさがあった人です。                     しかし彼は、45歳になると対人恐怖症にかかかり、人を避け、一人で過ごすようになりました。病原菌を恐れ、自宅に無菌室を作り、食べ物に毒が入っていないかを心配して、チキンスープしか飲まずに生活しました。理容師が、かみそりやハサミで自分を殺しはしないかと恐れ、床屋にも行かず、手足のつめは切りませんでした。さらに彼は、仕事も電話とインターフォンを通してするようになりました。とうとう栄養失調にかかり、最後は飛行機で移動中に亡くなりましたが、死ぬ間際に、次のような言葉を残したと言います。「何もない。何もない。何もない!」つまり、「むなしい。むなしい。むなしい。!」と叫びながら死んだので す。                                            人が全世界を手に入れたとしても、まことのいのちを損じたら何の得があるでしょうか。私たちが常に感謝しなければならないのは、たとえこの世で楽しむことができなくても、一番尊い天国のいのちが約束されているからです。「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたは生きる。」とあるように、このいのちを受けたのです。

3節後半のところを見てください。ここには、「わたしはあなたがたにとこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」とあります。これはどういうことでしょうか。ここでは、この約束がどれほど確かなものであるかを示すために、ダビデへの変わらない愛の契約が記されてあるのです。これはⅡサムエル記7章12~16節にあるものです。ダビデの子孫から救い主イエス・キリストが生まれ、彼によって王国が確立されるという預言です。それはいったいどのようにしてもたらされるのでしょうか。それは一方的な恵みによってです。かつてシナイ山でモーセに与えられた十戒はそうではありませんでした。それは神がこうしなさいということに対してそれを行うことによって与えられる救いでしたが、ダビデ契約は違います。ダビデ契約は恵みの契約です。ただ神のもとに出て、神が与えてくださる恵みを受けることによって救われるのです。私たちがへりくだってただ神の前に出、神の救いを受け入れるなら、だれでも救われます。それがダビデ契約であり、それがその子孫から生まれたイエス・キリストによって実現したのです。ですからこれは確かな救いなのです。私たちの行いとは全く関係なく、一方的な神の恵みによる救いだからです。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11,12)    そのいのちは御子のうちにあります。御子を持つ者、すなわち御子を信じる者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。それは神の約束のみことばによるのです。私たちの感情とは全く関係ありません。御子を持つ者はいのちを持つことができるのです。お金をはらわなくても、代価を払わなくても、ただで・・・。

このように何の代価も払わないでと言いますと、何だかそれはとても安っぽいように感じますが、実はそうではなく、そこにはものすごい代価が払われているのです。神のひとり子のいのちという代価です。私たちは自分の罪の代価を支払うことができなかったので、神が代わりに支払ってくださいました。それが御子イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったので、この御子の代価のゆえに、私たちの罪は赦されたのです。

5節を見て終わります。「見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。」

「あなたを知らない国民」とは異邦人のことです。やがて異邦人までもあなたのところにやって来て、あなたの祝福にあやかりたいというようになるということです。この恵みはそれほど豊かな救いなのです。この大いなる祝福の中にあなたも招かれているのです。きょう、この招待状があなたにも送られました。あなたはどのように応じられますか。

マタイ22章には、天の御国は、王子のために結婚披露宴を設けた王にたとえることができるとあります。王は招待しておいた客を呼びに、しもべたちを遣わしましたが、彼らは来たがりませんでした。彼らは王が遣わしたしもべたのことを気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、ほかの者たちは、そのしもべたちをつかまえて恥をかかせ、殺してしまいました。  そしたら王は何と言ったでしようか。「宴会の用意は出来ているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者たちをみな宴会に招きなさい。」(9)それでしもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになったのです。

皆さんはどうか王である神の招待を拒むようなことはなさらないでください。神の前に出て、神がただで与えてくださる祝福を味わっていただきたいと思います。そうすれば、あなたは生きるのです。

イザヤ書55章1~5節のメッセージをアップロードします!

本日の礼拝で語られたみことば、イザヤ書55章1~5節のみことばからのメッセージをアップロードします。ここには、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。」という神様からの招きのことばがあります。日本では水というとただで飲めるというイメージがあり、あまり価値があるもののようには感じませんが、実際にはとても貴重なものです。中東やヨーロッパなどではお金を払わなければ飲めないことも少なくありません。その水を求めて出て来るようにというのです。お金を払わないで飲むように。

私たちの人生にも渇きがあります。だれにも言えない心の苦しみがあります。いったいどうしたらいいのでしょうか。神のもとに水を求めて出て行くことです。耳を傾け、神のところに出て行くことです。そうすれば、あなたがたは生きます。あなたも、水を求めて神のもとに出て来てください。そうすれば、神はカラカラに渇いたあなたの心も子たしてくださるでしょう。

「祈りの確信」

基礎の学び2回目は、「祈りの確信」の学びでした。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)

私たちが信仰生活を続ける上で受けるもう一つの攻撃は、祈りの効果に疑いを持たせることです。祈っても無駄だ、祈っても何も変わらないと、神に祈ることを止めてしまいます。しかし、神に祈るなら神は答えてくださいます。なぜなら、神は私たちの父であられるからです。自分の子どもがパンを下さいと言うときに、石を与えるような父はいません。魚をくださいというのに、蛇を与えるような父もいません。父親は自分の子どものためには良い物を与えることを知っています。とすれば、なおのこと、天におられる父なる神が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょうか。必ず良いものを与えてくださいます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけだし、たたく物には開かれます。」(マタイ7:7~8)

大胆に祈り求め、祈りが答えられるという喜びを体験していきましょう。

基礎の学びが始まりました!

信仰の基礎の学びIがスタートしました。基礎の学びIでは、5つの確信について学びます。救いの確信、祈りの確信、勝利の確信、赦しの確信、導きま確信です。今回はその第一回目で、救いの確信を学びました。

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(Iヨハネ5:11-12)

イエス様を信じてもさまざまな試練に直面するとき、信仰が揺るがされることがあります。自分はイエス様を信じ、受け入れても、本当に救われているのかどうか不安に思うことがあるのです。こうした不安を克服する方法は、神のみことばに信頼することです。自分がどう思うのかではなく、神がどのように約束しておられるのかを知り、その約束に信頼することなのです。この約束に基づいて、イエス様は、今私の心の中にいてくださり、永遠のいのちを与えてくださっていることを確信することができます。この学びでは鍵になる聖句を暗記することになっています。あなたもこのIヨハネ5:11-12のみことばを暗記して、救いの確信を持ちましょう。

 

レビ記14章1~32節

レビ記14章1~32節

きょうは、レビ記14章1~32節から学びだいと思います。13章では、ツァラアトがあるかどうかをどのように調べるのかについて語られていましたが、この14章では、それをどのようにきよめることができるかについて教えられています。つまり、どのように罪をきよめてもらい、神との交わりの中へ、また教会の交わりの中へ加えてもらうことができるかということについてです。

1.ツァラアトからのきよめ(1-9)

それではまず、1~9節までをご覧ください。ツァラアトに冒された者がきよめられるためには、まず彼を祭司のところに連れて来なければなりませんでした。祭司は宿営の外に出て行き、彼を調べ、もしツァラアトの者のツァラアトの患部がいやされているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じます(2-4)。

ツァラアトの人は宿営の中にいることができず、宿営の外に住まなければならなかったので(13:46)、祭司が宿営の外にいる彼の所に行かなければなりませんでした。それは私たちも同じです。私たちは自分で自分の罪をきよめることはできません。ですから、主の方から私たちのところに近づいてくださいました。

そして、きよめるために必要なものは、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプです。それを土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふりました。そして、生きているもう一羽の小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、浸しました。それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけました。そして彼をきよいと宣言した後、生きている小鳥を野に放ちました。きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうすると、彼はきよめられました。そして、宿営に入ることができたのです。しかし七日間は天幕の外にとどまりました。七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とします。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、そのからだに水を浴びました。そのようにしてきよめられたのです。

いったいこれはどんなことを表していたのでしょうか?これは、イエス・キリストの十字架と復活を象徴していました。まず土の器に入れられた湧き水のですが、これはキリストが葬られた墓を表しています。その水の中には杉の木がありました。これは、キリストの十字架の象徴です。キリストは木につけられて死なれましたが、その木を表しているのです。また、緋色の糸は、キリストが流された血潮を表しています。また、ヒソプは、罪を取り除くものの象徴です。ダビデは、「ヒソプをもってわたしの罪を除いてきよめてください。(詩篇51:7)」と言いました。ですから、この土の器に入れた湧き水は、キリストが十字架の上で死なれ、葬られたことを表していたのです。そして、その水の中から生きている小鳥を野に放つというのは、キリストが墓の中からよみがえられたことを表しています。このように、これはキリストの死と復活を表しているものですが、ここにはこのときの水を、きよめられるツァラアトに七たび振りかけなければなりませんでした。なぜかというと、このようにキリストの死と復活を象徴している水を振りかけることによって、キリストの死と復活に結びつけられることを表していたからです。

ローマ人への手紙6章3~11節には、キリスト・イエスにつくバプテスマについて記されてあります。すなわち、キリストの死にあずかるバプテスマを受けた私たちは、キリストとともに葬られたこと、またキリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをすることができるのです。私たちがきよめられるのは、このイエス・キリストに結びつけられることによってであるということです。それがバプテスマの意味です。ここに七たび振りかけるとあるのは、その罪の赦しが完全であることを表しているのでしょう。

しかし、七日間はまだ天幕にとどまることができませんでした。天幕の外にとどまっていなければなりませんでした(8)。そして、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びます。そうして後に、彼は宿営に入ることができました。つまり、彼は全くきれいになって、全くきよめられて、天幕に入ることができたのです。パウロは、「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)」と言っていますが、まさに神は、聖霊による新生と更新の洗いをもって救ってくださいました。聖霊によって洗いきよめられることによって、私たちは神の幕屋の中へ入っていくことができるようになったのです。

2.神へのささげもの(10-20)

次に10~20節までを見てください。そのようにツァラアトがきよめられた人は、神へのささげものをします。10節に、「八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。」とあります。聖書では、8という数字は新しい始まりを表しています。その新しい歩みを始めるにあたり、まずは神へのいけにえをもって始めるわけです。これは礼拝をもって始めるといってもいいでしょう。私たちが週の初めの日に礼拝をもって始めるのはそのためです。自分を罪からきよめてくださった主に心からの賛美と感謝をささげることは、むしろ自然の行為だと言えるでしょう。

その礼拝において彼がささげるいけにえは、傷のないものでなければなりませんでした。傷のない雄の子羊二頭と傷のない一切の雌の子羊一頭です。傷がないいけにえは何を表していたのかというと、完全ないけにえです。神は完全ないけにえしか受け取られまん。傷のあるものは受け取らないのです。イエス・キリストは全く罪を犯したことのない完全ないけにえだったので、神は受け取られたのです。そのほかに、穀物のささげものとしての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来なければなりませんでした。

11節と12節をご覧ください。最初にささげるいけにえは、罪過のためのいけにえです。罪過のためのいけにえとは、自分が罪を犯したことによってもたらされる神や人への損害に対する償いのいけにえです。それによって神や人との関係が修復されるのです。罪を犯すことによって、まず私たちがしなければならないことは、この関係の修復です。これは、祭壇へのささげもの、つまり神への礼拝に優先されるべきものです。

マタイ5章23~24節には、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」とあります。供え物をする前にまず仲直りをする、つまり、罪過のいけにえはすべてにまさって先んじられるものなのです。なぜでしょうか。そうした障害物があると純粋な礼拝をささげることができないからです。

 そしてここには、それを奉献物として主に向かって揺り動かす、とあります。これは神に差し伸べているということです。これは神への賛美と感謝を表しています。私たちが賛美をささげるときにも、手を上げて賛美することがありますが、それと同じです。それは神への賛美と感謝を主に差し伸べているのです。

 その罪過のためのいけにえを、罪のためのいけにえや全焼のいけにえをほふる所でほふります。それは罪のためのいけにえ同様、祭司のものとなるからです。祭司が食べる分け前になるのです。これは主との交わりを表していて、そのきよさにあずかることを意味しています。

 14節をご覧ください。祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。なぜこんなことをするのでしょうか。なぜなら、子羊の血によらなければ罪の赦しはないからです。使徒ヨハネはその手紙の中でこう言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ1:7)」もし私たちが父なる神との交わりを保ちたいなら、主イエスが流された血を塗らなければならないのです。

 ここではそれを、きよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつけました。聖書で「右」は権威の象徴でした。そして、耳たぶとは聞くこと、親指はすること、つまり行いのことですね。そして親指は歩くこと、つまり歩みのことです。その上にイエスの血を注ぐということは、私たちのすへての罪の赦しをいただくということです。

 次に油が振りかけられます。15~18節をご覧ください。祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左手のひらに注ぎます。そして、右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかけたのです。祭司は、その手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指の上に塗りました。いったいこれは何を表しているのでしょうか?

 この油とは、もちろん聖霊のことです。罪がきよめられた者の上にこのように油を塗るのは、そのすべての歩みにおいて聖霊の注ぎと導きを求めなければならないことを表しています。耳たぶや手の親指、足の親指とは、そのすべての歩みのことです。すなわち、クリスチャンの生活とは、キリストの血によって罪赦されたことだけではなく、聖霊に導かれる生活であるということです。多くのクリスチャンは、罪からきよめられるところでストップしています。それがすべてであるかのように考えているからです。けれども、それはきよめられたクリスチャンの歩みのスタートであって、その完成を目指しての歩みが始まっただけなのです。そのクリスチャン生活はこの聖霊によって全うされるのです。そのすべての歩みにおいて聖霊に従い、聖霊に導かれていかなければならないのです。そして18節には、「残りの油をきよめられる者の頭に塗り」とあります。これは聖霊に満たされることを表しています。クリスチャンは単に聖霊の注ぎを受けて罪からきよめられただけでなく、聖霊に満たされて、キリストの証人として大胆に主を証しなければなりません。

 19節と20節を見てください。罪過のためのいけにえがささげたあとに、罪のためのいけにえをささげます。罪のためのいけにえは、私たちの罪の告白を表しています。神から罪の赦しをいただき、平安と喜びに満たされるための告白です。そして、全焼のいけにえをささげます。これは、「これから私は、イエスさまに従います。」という決心です。

 「祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。」

 穀物のささげものは、全焼のいけにえとともにささげられます。穀物のささげものは、キリストのいのちを表しています。「わたしはいのちのパンです。」と主は言われました。このささげものが全焼のいけにえとともにささげられるのは、全焼のいけにえがキリストの十字架にともにつけられている私たちを表し、穀物のささげものは、その中に復活の主が生きておられることを表しているからです。

 キリストによって罪からきよめられ、聖霊の油注ぎを受けて、主に自分自身のすべてをささげ生きるとき、そこにキリストのいのちが宿るのです。これがクリスチャンの歩みです。キリストのいのち溢れた歩みが始まります。単に罪の赦しというだけでなく、そこに聖霊の油注ぎがあり、神への献身があるとき、そこにキリストのいのちが豊かに溢れるのです。

3.貧しい人のためのいけにえ(21-32)

 次に21~32節までをご覧ください。ここには、生活が貧しくて、今ささげたいけにえをささげることができない人はどうしたらよいかについて教えられています。21~22節には、「その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。」とあります。子羊のかわりに、山鳩二羽か家鳩のひな二羽もって来なければなりませんでした。また、穀物のささげものが、十分の三エパではなく、十分の一エパに減っています。鳩の一羽は、罪のためのいけにえ、もう一羽は、全焼のいけにえとしてささげます。あとは、さきほどのいけにえの捧げ方とすべて同じです。

 ということはどういうことかというと、たとえ貧しくても、罪からきよめられ、神との交わりに入れられるためには、いけにえ(礼拝)をささげなければならないということです。それは経済的な理由で妨げられることではありません。経済的な理由で、主を礼拝できないという言い訳はできません。礼拝はすべての人にとっての特権であり、同時に責任なのです。どのような理由でも、主はだれでもご自分に近づくことができるようにしてくださいました。これは恵みではないでしょうか。

レビ記14章1~32節のメッセージをアップロードしました!

今週の祈祷会の聖書の学び、レビ記14章1~32節のメッセージをアップロードしました。ここには、ツァラアトに冒された人がきよめられるにはどうしたらいいのかについて教えられています。ここから、イエス・キリストの十字架の血によって罪から贖われたクリスチャンの信仰の歩みとはどのようなものなのかがわかります。聖書を開きながら神のことばをお聞きください。

イザヤ書54章11~17節のメッセージをアップロードしました!

今週の礼拝のみことば、イザヤ書54章11~17節までのメッセージをアップロードしました。一昨日からの積雪と停電により不安な夜を過ごされた方もおられたかと思いますが、「義によって堅く立つ」とのメッセージをいただき感謝しました。私たちの人生には本当に不安なことが絶えませんが、だれもキリスト・イエスにある神の愛から引き離すものはありません。この神の愛と救いによって、私たちは神の平安と力をいただくことができます。そのことを確認できたメッセージでした。

Isaiah54:11-17 “In righteousness you will be established”

Today let’s look at the last half of chapter 54 of Isaiah. In the first half of chapter 54 it said, “Enlarge the place of your tent, stretch your tent curtains wide.” (2) That’s “because more are the children of the desolate woman than of her who has a husband.” (1)  Israel who was captured by Babylon was truly like a “desolate woman”, (1) but the Lord will in due time restore them and they “will spread out to the right and to the left.”(3) In today’s passage too it continues to talk about Israel’s restoration.

Ⅰ.God will make your walls of precious stones (Vs. 11,12)

First of all please look at verses 11 and 12. Here God promises to make Israel like precious stones.

“O afflicted city, lashed by storms and not comforted,I will build you with stones of turquoise, your foundations with sapphires.  I will make your battlement of rubies,your gates of sparkling jewels,and all your walls of precious stones.”

“O afflicted city, lashed by storms and not comforted” is Israel.  Israel was afflicted by and lashed by the storms of Babylon. However, the Lord says that he will make such an Israel into precious stones. Turquoise is a bluish-green stone. Sapphires and rubies I think you know. Their walls will be of precious stones.  God will make Israel like these precious stones.  It will be just like a beautifully dressed up bride. From head to foot she is decked up and brilliantly shinning. The rock that has been broken to pieces will be restored by God.

Please look at Rev. 21:1-2.

“Then I saw a new heaven and a new earth, for the first heaven and the first earth had passed away, and there was no longer any sea.  I saw the Holy City, the new Jerusalem, coming down out of heaven from God, prepared as a bride beautifully dressed for her husband.”

This is a scene of heaven. Heaven is truly like a bride dressed up for her husband. The prophecy that Isaiah saw was of heaven.  In other words, this isn’t only just a prophecy of Israel who was captured by Babylon being liberated and made into precious stones, but also at the end of the world God’s people, Christians too will be so. It is a two folded prophecy.

In the verses following Rev. 21:10 it says in more detail what the new Jerusalem is like. In verse 11 it says, “It shone with the glory of God, and its brilliance was like that of a very precious jewel, like a jasper, clear as crystal.” Verses 18 to 21 say, “The wall was made of jasper, and the city of pure gold, as pure as glass.  The foundations of the city walls were decorated with every kind of precious stone. The first foundation was jasper, the second sapphire, the third chalcedony, the fourth emerald, the fifth sardonyx, the sixth carnelian, the seventh chrysolite, the eighth beryl, the ninth topaz, the tenth chrysoprase, the eleventh jacinth, and the twelfth amethyst. The twelve gates were twelve pearls, each gate made of a single pearl.  The great street of the city was of pure gold, like transparent glass.” Heaven is such a place shining with precious stones. Christians in the course of time will inherit such a heaven.

How wonderful this is! Now for a while we may be afflicted by various problems and “lashed by storms.” (11) We may be only suffering and in the condition of not finding hope anywhere. However, God will surely comfort you. In due time, he will lead you to the heavenly kingdom which is like precious stones.

Ⅱ.A great peace (Vs. 13)

The second point is that your children will have great peace. Please look at verse 13.

“All your sons will be taught by the LORD,  and great will be your children’s peace.”

This is a wonderful promise! We all put ourselves aside and desire that our children become happy.  Our children will all “be taught by the LORD, and great will be your children’s peace.” (13) Now it may not be so. They may not now know why they are living, but when they realize that they are living for God’s joy and glory, then they will have joy and peace. In the course of time such a time will come.  “All your sons will be taught by the LORD, and great will be your children’s peace.” (13)

Do your children have a great peace? Here it says, “be taught by the LORD.” (13)   For your children’s peace to be great they must “be taught by the LORD.” (13) Peace is not something that is obtained automatically.  It is the grace that is brought by being “taught by the LORD.” (13) Why do children rebel against their parents? Why are children anxious? Why are children selfish and self centered? It’s the age we live in…No! It is because they are not “taught by the LORD.” (13) If they are taught by the Lord, “great will be your children’s peace.” (13)

Ephesians 6:1-4 says, “Children, obey your parents in the Lord, for this is right.  ‘Honor your father and mother’ –which is the first commandment with a promise-‘that it may go well with you and that you may enjoy long life on the earth.’ Fathers, do no exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.”  How can children be happy and “enjoy long life on the earth”?  (Eph. 6:3) It is by obeying their “parents in the Lord”. (Eph. 6:1)Then the parents are commanded, “do no exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.” (Eph. 6:4)

Looking back on the past, I exasperated my children a lot.  Raising children is not easy. Things don’t go the way you want them to.  However, even though while having such weaknesses, if we bring our children “up in the training and instruction of the Lord,” (Eph. 6:4) the Lord will give peace and will be responsible for bringing them up. Of course, this is not just going through the actions of reading the Bible and praying every day.   Here it says, “in the Lord.” (Eph. 6:1) This is in the Lord’s love and instruction. In any case, what is certain is when your children are taught by the Lord, “great will be your children’s peace.” (13) You may think that your child is still too young to understand, but in reality it is when a child is very small that is the most important time. It seems like they don’t understand at all, but in reality they are soaking it up.  Therefore, whether they understand or don’t understand, if you want them to have a great peace, you must seek to have them receive the Lord’s teaching. Those who think that it is too late because their children have already grown up, must not give up. No matter how big they have gotten if you pray that your child will walk in the Lord and grow, then surely that prayer will be answered.  “If we ask anything according to his will, he hears us.” (I John 5;14) Therefore, no matter how old your child gets, don’t give up, but pray. In the course of time your child will look at his parents and your child too will for sure walk in the way of the Lord.

Ⅲ.In righteousness you will be established (Vs. 14-17)

The third point is “in righteousness you will be established.” (14) Please look at verses 14 to 17. I will read verse 14.

“In righteousness you will be established: Tyranny will be far from you;you will have nothing to fear. Terror will be far removed;it will not come near you.”

Here it insists that “Tyranny will be far from you; you will have nothing to fear.” (14) That is because “In righteousness you will be established.” (14) “Righteousness” (14) is salvation. We “will be established”(14) by righteousness, by salvation. To be saved is to have a relationship with God.  The first man, Adam and Eve, sinned and fell short of the glory of God.  Even when God called out, “Where are you?” (Genesis 3:9) they weren’t able to answer, “Here I am” .but feared the face of the Lord and hid among the trees of the garden.  In other words, their relationship with God was completely severed.  This is spiritual death. This is hell. Hell is the world where God does not exist.  So there is no joy, and no hope. Constantly you are fearful about something.  Constantly you are anxious about something. However, when you believe in the Son, Jesus Christ, and you are saved of your sin, God’s light floods your dead soul, and it comes back to life. By the interchange with the life of God you are renewed. If God is with us, what do we have to fear? David confessed this, “Even though I walk through the valley of the shadow of death, I will fear no evil, for you are with me.” (Psalm 23:4) If God is with us, even though we “walk through the valley of the shadow of death,” (Psalm 23:4) we have nothing to fear.

In John Kuuan’s book, A life of thankfulness, 365 days, there is an essay, “Thankfulness from birth to death”. He wrote that there are people who complain with a feast sitting before them and there are people who are thankful with one slice of dry bread. There are people who even though they have been given health, bear a grudge against their environment. There are people who even though have don’t have both arms and legs, they are thankful. There are people who lost only one, but they are angry, and there are people who have lost two, but are thankful.  There are people who are despaired or take their life because they failed.  There are people who are thankful for all the things of their past and are preparing for their future.  There are people who quarrel with those criticize them, or do harm to them. There are people who love their enemies and are thankful. There are people who fear death. There are people who gratefully accept death.

We have many reasons for being thankful: thankful for breathing,        thankful for being able to walk, thankful for eating and sleeping, thankful for husband, wife, and children, thankful for success and failure, thankful for sickness and also health. In reality from the time we are born until the time we die, we have nothing more than thankfulness.

Such thankfulness is truly born from God being with us.  That’s why there are those for whom death is the end of everything and others who are able to gratefully accept death because even if they die God is with them. Therefore, to have a relationship with God is a greater joy than anything else, a blessing. That is “righteousness”. (14) That is salvation. Salvation is to be in a right relationship with God. Such a person has nothing to fear. “Terror will be far removed.” (14)

We live daily in fear. We worry about losing money, about health, about losing our job and losing family. We have such fears.  Besides such fears there are also uncertainties about natural disasters coming upon us.  However, in the midst of such fears, if you believe in Jesus Christ, all your sin will be forgiven and you can be in a right relationship with Jesus Christ. God will be with you. Therefore, you will have nothing to fear. “If God is for us…who shall separate us from the love of Christ?…In all these things we are more than conquerors through him who loved us.” (Romans 8:31,35,37)

Please look at verses 15 to 17. “If anyone does attack you, it will not be my doing;whoever attacks you will surrender to you. See, it is I who created the blacksmithwho fans the coals into flame and forges a weapon fit for its work And it is I who have created the destroyer to work havoc; no weapon forged against you will prevail, and you will refute every tongue that accuses you.

If anyone attacks Israel, on the contrary, they will surrender to Israel.  For example, Haman who appears in the book of Esther plotted to kill all the Jews and made a gallows seventy-five feet high to hang Mordecai. However, on the contrary, “they hanged Haman on the gallows he had prepared for Mordecai.” (Esther 7:10)  God blesses those who bless Abraham and curses those who curse him. Therefore, if someone  is antagonistic towards Israel, then on the contrary, they will surrender to Israel. That is because Israel was redeemed by God and is the people of God.  It is because God is with them. No matter how much they are attacked, Israel will definitely not surrender.

Also no matter what new weapons the enemy has, it is God “who forges a weapon” (16) so such a weapon will be useless. No one can be antagonistic towards God. Therefore, no matter what happens they will never be shaken.  God is sovereign. He controls all so if we depend upon God there is nothing to fear.

Please look at the last part of verse 17.

“’This is the heritage of the servants of the LORD,and this is the vindication from me.’declares the Lord.”

“This is the heritage of the servants of the LORD. (17)  The servant of the Lord are promised this blessing.  If you are the Lord’s servant, then you too are promised this promise. The problem is whether you are a servant of the Lord or not.   Also whether you have received the Lord’s righteousness or not.

Please open your Bibles to II Cor. 5:21.

“God made him who had no sin to be sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.”

God made his only son, Jesus Christ “sin for us, so that in him we might become the righteousness of God.” (II Cor. 5:21)

Therefore, if you would like to receive God’s righteousness, you must believe in Jesus Christ who died on the cross for your sin as your Savior. If so, you can receive the righteousness of God. That righteousness has no conditions. It is offered to                    you. If you believe in Jesus and receive God’s righteousness, you will in the course of time receive the glory that is promised here. “In righteousness you will be established.” (14) Your children too will have a great peace. No matter what kind of fears you are in, you will definitely not be shaken. You will be able to continue standing firmly. God will always be with you and watch over you. What amazing grace! Please accept this grace. Believe in Jesus and receive God’s righteousness, and receive the blessing of this heritage. This salvation is being offered to you..

イザヤ書54章11~17節 「義によって堅く立つ」

きょうは、イザヤ書54章後半の箇所からお話したいと思います。54章にはイスラエルの回復について語られています。主は子を産まない不妊の女のようであったイスラエルを回復し、右と左に増え広がるようにしてくださいます。だから、あなたの天幕の場所を広げるように、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばすようにというのです。きょうのところも、イスラエルの回復が続いて語られます。

Ⅰ.あなたの城壁をすべて宝石にする(11-12)

まず第一に、11節と12節をご覧ください。ここには、神はイスラエルを宝石のようにしてくださると約束しておられます。

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。」

「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女」とは、イスラエルのことです。彼らはバビロンによって苦しめられ、もて遊ばれた女のようでした。しかし、そんなイスラエルを主は、宝石のようにするというのです。「アンチモニー」とは黒色の鉱石です。黒色の塗料などに使われるとても美しい石です。エジプトの女性たちが使う化粧で最も特徴的なのは、目の周りを黒く塗るものですが、その塗料に使われているのがこのアンチモニーの粉だと言われていま。「サファイヤ」や「ルビー」はわかりますね。「紅玉」とはりんごではありません。「エメラルド」のことです。新共同訳ではここを、「エメラルドであなたの門を飾り」と訳しています。神は彼らをこのような宝石にするというのです。それはまるで美しく着飾った花嫁のようです。頭のてっぺんから足の先まできれいに着飾り、キラキラと輝いています。粉々に砕かれたはずの石を、神はこのように回復させてくださるのです。

ここで、黙示録21章1~2節をご覧ください。 「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」 これは天国の光景です。天国は、まさに夫のために飾られた花嫁のようです。そうです、あのイザヤが見た預言は、この天国のことだったのです。つまり、これはバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放して宝石のようにするというだけでなく、世の終わりにおいて、神の民であるクリスチャンもこのようにしてくださるという二重の預言だったのです。    この黙示録21章10節以降には、この聖なる都、新しいエルサレムがどのようなものなのかがもっと詳しく語られています。11節には、「その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。」とあります。また、18~21節には、「その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイヤ、第三は玉髄、第四は緑玉、第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七は貴かんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十は緑玉髄、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。た、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」とあります。天国は、このような宝石のように輝いている所です。クリスチャンはやがてこの天国を相続するようになるのです。

なんとすばらしいことでしょうか。今はしばらくの間、さまざまな問題に苦しみ、もてあそばれているような状態かもしれません。毎日辛いことばかりで、どこにも希望を見いだせないような状況かもしれません。しかし、神は必ずあなたを慰めてくださいます。やがて、どれも宝石のような天の御国へと導いてくださるのです。

Ⅱ.豊かな平安がある(13)

第二のことは、あなたの子どもたちには、豊かな平安があるということです。13節をご覧ください。

「あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」

これもすばらしい約束です。私たちはだれでも自分ことはさておき、子どもたちには幸せになってほしいと願うものです。その子どもたちがみな、主の教えを受けるようになり、そこには豊かな平安があるというのです。今はそうではないかもしれません。学校では進化論が絶対的な真理であるかのように教えられ、真理がねじ曲げられています。「先生、私たちはいったい何のために生きているんでしょうか。」と質問すれば、「馬鹿!そんなこと考える暇があったらもっと一生懸命勉強しろ」と言われるでしょう。でも何のために勉強するのかがわからなければ、一生懸命勉強することなどできません。たとえしたとしても、そこには何の喜びも得られないでしょう。平安もありません。私たちは神の喜びと栄光のために生かされているということがわかった時に初めて、喜びと平安をもって勉強することができるのではないでしょうか。しかし、やがてそのような時がやってきます。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには豊かな平安が得られるようになるのです。

皆さんのお子さんはどうでしょうか。皆さんのお子さんには豊かな平安があるでしょうか。もしないとしたら、どこがおかしいのかを点検しなければなりません。ここには「主の教えを受け」とあります。子どもたちが豊かな平安を得るためには、主の教えを受けなければなりません。それは自動的に得られるものではないのです。主の教えを受けることによってもたらされる恵みなのです。なぜ子どもたちは親に反抗するのでしょうか?なぜ子どもたちはいつもイライラしているのでしょうか?なぜわがままに、身勝手にしているのでしょうか?そういう時代だから・・・。違います。主の教えを受けていないからです。もし主の教えを受けるなら、あなたの子どもたちにはみな、豊かな平安があるのです。

エペソ人への手紙6章1~4節にはこうあります。 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」

皆さん、どうしたら子どもたちはしあわせになり、地上で長生きすることができるのでしょうか?それは、主にあって両親に従うことによってです。そしてその両親に命じられていることは何かというと、子どもたちをおこらせてはいけないということです。かえって、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。

振り返ってみると、私も随分子どもたちをおこらせたなぁと思います。穴があったら入りたいくらいです。子どもを育てるというのは本当に楽ではありません。なかなか自分の思うようにはいかないものです。しかし、そのような弱さを抱えながらも、主の教育と訓戒によって育てるならば、主が平安を与え、責任をもって育ててくださいます。もちろん、それはただ機械的に毎日聖書を読み、祈ればいいということではありません。ここに「主にあって」とありますが、それは主にある愛情と訓戒によってということでしょう。いずれにせよ、確かなことは、あなたの子どもたちはみな、主の教えを受けると、豊かな平安があるということです。「まだ小さくて聖書を読んでもチンプンカンプンです!」と思う方もおられるかもしれませんが、実は、そうした小さい時こそ大切な時期なのです。何も理解していないようでも、実はとってもよく吸収しています。ですから、わかってもわからなくても、あなたが子どもに豊かな平安を持ってほしいと願うなら、主の教えを受けるように求めなければなりません。もう子どもが大きくなってしまったから遅い!という方でもあきらめてはいけません。どんなに大きくなってもその子が主にあって歩み、成長するようにと祈るなら、きっとその祈りがかなえられるはずです。何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は聞いてくださるからです。だから何歳になってもあきらめないで祈りましょう。やがてそうした親の姿を見て、あなたの子どもさんも必ず主の道に歩むようになるからです。

Ⅲ.義によって堅く立つ(14-17)

第三のことは、あなたは義によって堅く立つということです。14~17節までをご覧ください。14節をお読みします。 「あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。」

ここには、しいたげから遠ざかるように、恐れから遠ざかるようにと勧められています。なぜなら、あなたは義によって堅く立つからです。義とは救いのことです。私たちは義によって、救いによって、堅く立つことができます。救いとは神との関係を持つことです。最初の人アダムとエバは罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなりました。「あなたは、どこにいるのか」と言われても、「はい、ここにいます」と答えることができず、主の御顔を恐れて、園の木の間に隠れてしまいました。つまり、神との関係が完全に断たれてしまったのです。これが霊的な死であり、地獄のことです。地獄とは神がいない世界のことで、そこには何の喜びも、希望もありません。絶えず何かにおびえ、何をしても不安になります。けれども、御子イエス・キリストを信じて罪が赦されると、死んでいたたましいに神の光が差し込み、息を吹き返します。神とのいのちの交流が再開するのです。神がともにおられるなら、いったい何を恐れることがあるでしよう。ダビデはこう告白しました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)神がともにおられるなら、たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても 恐れることはないのです。

ジョン・クゥアン著、「一生感謝」365日」の中に、「生まれてから死ぬまで感謝」というエッセイがあります。 「ごちそうを前にしても文句を言う人がいるかと思えば、乾いたパン一切れでも感謝する人がいる。健康なからだが与えられていても環境を恨む人がいれば、両手両足がないにもかかわらず感謝する人がいる。一つを失うことに怒りを抑えられない人がいれば、二つを失ってもかえって感謝する人がいる。失敗したからといのちを絶ったり絶望したりする人がいるかと思えば、過ぎ去ったすべてのことを感謝し、未来に向けて準備する人がいる。自分を非難したり害を加えたりする人と仲違いする人がいれば、敵を愛して感謝する人がいる。死を恐れる人がいれば、死をありがたく受け入れる人がいる。  私たちには感謝する理由がたくさんある。呼吸できることに感謝し、歩けることに感謝し、食べるとができ、寝ることができることに感謝し、夫と妻と子どもを感謝し、成功も失敗も感謝し、病気でも健康でも感謝する。実際、この地上に生まれてから死ぬ火まで、感謝するのみではないだろうか。」

こうした感謝というのは、まさに神がともにおられることから生まれるものです。なぜなら、死んだらすべてが終わりだという中にも、その死さえもありがたく受け入れることができるのは、死んでもともにいる神がおられるからではないでしょうか。ですから、神との関係を持っているということは、すべてにまさる喜びであり、祝福なのです。それが義であり、それが救いです。救いとは、神との正しい関係にあることであり、そのような人は何も恐れることはありません。恐れが遠ざかるからです。

皆さんはどうでしょうか。私たちは日々様々な恐れの中に生きています。お金を失うのではないか、健康を失ったらどうしよう、仕事や家族を失ったらどうしようか。そうした恐れがあります。また、こうした恐れのほかにも、自然の災害に遭わないだろうかといった不安があります。しかしこれらの中にあっても、もしあなたがイエス・キリストを信じているならあなたのすべての罪は赦され、神との正しい関係を持つことができるようになるのです。神があなたとともにいてくださいます。ですから、あなたは何も恐れることはないのです。神が私たちの味方であるなら、何も私たちをキリストの愛から引き離すことはできないのです。 これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となることができるのです。

15~17節前半のところを見てください。 「見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出た者ではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。」

もしイスラエルを攻める者があったとしたら、どうなるでしょうか。もしイスラエルを攻める者があれば、そのような者は逆にイスラエルによって倒されることになります。たとえば、エステル記に登場するハマンはどうだったでしょうか。彼はユダヤ人を根絶やしにしようと高さ2.5メートルの柱を立て、それにモルデカイをかけて殺そうとしましたが、逆にハマンがそれにかけられて殺されました。アブラハムを祝福する者は祝福され、迫害する者は迫害されます。ですから、もしイスラエルに敵対する者があるとしたら、そういう者は逆にイスラエルによって倒されることになるのです。なぜなら、イスラエルは神によって贖われた神の民であり、神が彼らとともにおられるからです。どんなに彼らを攻める者があっても、彼らを倒すことは絶対にできません。

また、たとえ敵がどんな最新鋭の武器を持ちだしても、それらの武器を作り出したのは神様ですから、そうした武器も何の役にも立たなくなります。だれも神に敵対できることはできないからです。したがって、何が起こっても動揺することはありません。主権者は神であって、この方がすべてをコントロールしておられるので、神に信頼していれば何も恐れることはないのです。

17節の後半のところを見てください。 「これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。」

これが主のしもべたちの受け継ぐ分です。主のしもべたちには、このような祝福が約束されています。もしあなたが主のしもべであるなら、あなたにもこの祝福が約束されているのです。問題は、あなたはこの主のしもべになっているかということです。また、あなたは神の義を受けておられるかということです。

Ⅱコリント5章21節を開きましょう。 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」  神が、そのひとり子であられるイエス・キリストを私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが、この方にあって、神の義となるためでした。

ですから、もしあなたもこの神の義を受けたいと思うなら、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死なれたイエス・キリストを、あなたの救い主として信じなければなりません。そうすれば、あなたもこの神の義を受けることができます。この義は無条件であなたにも提供されているのです。あなたがイエス様を信じて神の義を受けるなら、あなたもやがてここに約束されている栄光を受けるでしょう。あなたの城壁は宝石のようになり、あなたの子どもたちも豊かな平安を受け、あなたがどのような恐れの中にあっても決して動揺することなく、堅く立ち続けることができるのです。神がいつもあなたとともにいて、あなたを守ってくださるからです。これは何という恵みでしょうか。どうかあなたもこの恵みを受けてください。イエス・キリストを信じて神の義をいただき、この祝福を受け継ぐ人になってください。この救いはあなたにも差し出されているのです。