ホセア書6章1~3節「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは9~10月頃に降る雨のことで「先の雨」とも呼ばれています。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありませんが、雨が降らない乾季は土地がカラカラに乾いてしまうので種を蒔くことができません。その乾いた土地がこの雨が降って潤されるのです。この雨は次の作物の種を蒔くために必要な雨で、この雨が降らないと種を蒔くことができないのです。
  一方、3~4月頃に降る雨があります。これは「後の雨」と呼ばれているもので、これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われます。この雨は収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。この雨がないと収穫を期待することができません。これは穀物を実らせる祝福の雨なのです。真っ先に先の雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」が降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによってこのような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。

Ⅰ列王記21章

 

 今日は、列王記第一21章から学びます。

 Ⅰ.ナボテのぶどう畑(1-16)

まず、1~16節までをご覧ください。「1 これらのことがあった後のことである。イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていた。それはサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。2 アハブはナボテに次のように頼んだ。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」4 アハブは不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入った。イズレエル人ナボテが彼に「私の先祖のゆずりの地はあなたに譲れません」と言ったからである。アハブは寝台に横になり、顔を背けて食事もしようとしなかった。5 彼の妻イゼベルは彼のもとに来て言った。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか。」6 そこで、アハブは彼女に言った。「私がイズレエル人ナボテに『金を払うから、おまえのぶどう畑を譲ってほしい。あるいは、おまえが望むなら、代わりのぶどう畑をやってもよい』と言ったのに、彼は『私のぶどう畑はあなたに譲れません』と答えたからだ。」7 妻イゼベルは彼に言った。「今、あなたはイスラエルの王権を得ています。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑を、あなたのために手に入れてあげましょう。」8 彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送った。9 彼女は手紙にこう書いた。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、10 彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」11 そこで、その町の人々、その町に住んでいる長老たちとおもだった人々は、イゼベルが彼らに言ってよこしたとおり、彼女が手紙に書き送ったとおりに行った。12 彼らは断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせた。13 そこに、二人のよこしまな者が入って来て、彼の前に座った。よこしまな者たちは民の前で、「ナボテは神と王を呪った」と証言した。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石打ちにして殺した。14 こうして、彼らはイゼベルに「ナボテは石打ちにされて死にました」と言ってよこした。15 イゼベルはナボテが石打ちにされて殺されたことを聞くとすぐ、アハブに言った。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」16 アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、イズレエル人ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った。」

「これらのことがあって後」というのは、アハブがアラムの王ベン・ハダドと戦って、彼を生かして逃してしまった後ということです。怪我をしている兵士を装った預言者によって、アハブは、アラムの王の命の代わりにあなたのいのちが取られる、と言われました。そこでアハブは不機嫌になり、激しく怒って、自分の宮殿に帰って行きました。アハブには、性格上大きな問題がありました。それは、自分の気に入らないことがあるとすぐに不機嫌になってしまうということです。へりくだって悔い改めるどころか甘えん坊の子供のように、すぐにふてくされてしまうのです。今日のところにも、そんな彼の性格が如実に出てきます。

これらのことがあった後、イズレエル人ナボテはイズレエルにぶどう畑を持っていましたが、それがアハブの宮殿のそばにあったこともあり、それを欲しがるのですが、断られます。アハブはナボテに次のように頼みました。2節です。「おまえのぶどう畑を私に譲ってもらいたい。あれは私の宮殿のすぐ隣にあるので、私の野菜畑にしたいのだが。その代わりに、あれよりもっと良いぶどう畑を与えよう。もしおまえが良いと思うなら、それ相当の代価を銀で支払おう。」

アハブはいつも自分の宮殿からナボテのぶどう畑を見ていて、「あそこはいいぶどう畑だ。きっといろいろな野菜も育てられるだろう」と思っていたのでしょう。何とかそれを手に入れたいと思いました。そのために、もっと良い畑を与えると提示しました。何だったら、それ相当の銀貨を払ってもいいと思いました。何とかして手に入れたかったのです。

それに対して、ナボテはどのように答えましたか。ノーです。先祖のゆずりの地、相続地を譲るなど、主にかけてあり得ないことだったからです。ナボテは神を恐れるイスラエル人でした。モーセの律法によれば、先祖からの相続地を売ることは禁じられていました(レビ25:23~28,民36:7)。それで彼はアハブの申し出を断ったのです。

するとアハブはどうしたでしょうか。4節です。彼は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に入りました。彼はベッドに横になると、顔を向けて食事もしようとしませんでした。皆さん、どう思いますか。皆さんにもこういうことがありますか。自分の思うようにいかないと、嫌になって、ずっと寝てしまうということが。何もしたくありません。食べたくもない。ただベッドに横になっていたいということが。これは、20章43節にも見られる彼の悪い癖でした。彼は自分の思いどおりにならないことがあるとすぐにふてくされて、このような態度を取ってしまうのでした。

それを見た妻イゼベルは彼のもとに来て言いました。5節です。「どうしてそんなに不機嫌で、食事もなさらないのですか」。それで彼は、事の次第を彼女に告げました。すると彼女はどうしましたか。彼女はその地所を手に入れるために悪知恵を働かせて、ある行動に出ます。それは、アハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテの町に住む長老たちとおもだった人々にその手紙を送るということでした。その手紙にはこう書きました。9節。「断食を布告し、ナボテを民の前に引き出して座らせ、彼の前に二人のよこしまな者を座らせて、彼らに『おまえは神と王を呪った』と証言させなさい。そして、彼を外に引き出し、石打ちにして殺しなさい。」

どういうことでしょうか。イゼベルはモーセの律法を悪用しました。モーセの律法には、「神をののしってはならない。また、あなたの民の族長をののしってはならない。」(出エジプト22:28)とあります。もし神をののしる者があれば、石打の刑で殺されなければなりませんでした(レビ24:13-16)。そのためには、最低2人の証人が必要だったので、彼女は、彼の前に二人のよこしまな者を座らせ、彼らにナボテが神と王を呪ったと証言させるようにしたのです。

これらのことは、合法的に土地を手に入れたかのように見せかける陰謀でした。悪魔は、神のことばを引用し、神の民を破壊しようとします。悪魔の化身のようなイゼベルも、同じ手法でイズレエル人ナボテを抹殺しようとしたのです。悪魔に対抗するために必要なのは、みことばの正しい理解と適用です。時としてクリスチャンも御言葉を誤って用いる場合がありますが、それが本当に神のみこころなのかどうかを、御言葉によって十分吟味しなければなりません。

ナボテの町の人々は、彼女が彼らに言ってよこしたとおりに実行します。すなわち、断食を布告し、ナボテを民の前に引き連れ出して座らせると、そこに、二人のよこしまな者を座らせて、「ナボテは神と王を呪った」と証言させ、彼を町の外に引きずり出し、石打ちにして殺したのです。実は、この時に殺されたのはナボテだけではありません。Ⅱ列王記9章26節を見ると、彼の息子たちも殺されたことがわかります。なぜなら、ナボテが死ねば、その所有地は息子たちのものになるからです。そうさせないように、イゼベルは息子たちも殺すように手配していたのです。相続人のいない土地は、王宮のものになりますから。このようにして彼女はナボテのぶどう畑をアハブが手に入れることができるようにしたのです。

イゼベルはナボテが石打にされて殺されたと聞くとすぐ、アハブに告げました。「起きて、イズレエル人ナボテが代金と引き替えで譲ることを拒んだ、あのぶどう畑を取り上げなさい。もうナボテは生きていません。死んだのです。」(15)これは聖書の中で最も悪臭を放っているひどいことばの一つです。罪のないナボテが、アハブの欲望とその妻イゼベルの策略によって殺されてしまったのですから。

アハブはナボテが死んだと聞いてすぐ、立って、ナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行きました。アハブの良心は完全に麻痺していました。最初のうちはそれ相当の代価を銀で払って買い取ろうとしましたが、それが叶わないと人殺しまでして手に入れようとしました。まさにヤコブの手紙にあるとおりです。「1 あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。2 あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。3 求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」(ヤコブ4:1-3)。他人のものを欲しがることが、諸悪の根源です。物にこだわらないことこそ、平安の秘訣なのです。

それにしても、ナボテの人々は、なぜイゼベルの要求をはねのけなかったのでしょうか。それは、彼らがイゼベルを恐れたからです。彼らは主を恐れる以上に、バアル神の崇拝者であったイゼベルを恐れていました。「人を恐れるとわなにかかる、しかし、主を恐れる者は守られる。」(箴言29:25)とあります。人を恐れるのではなく、主を恐れ、主に従いましょう。

Ⅱ.ティシュベ人エリヤの登場(17-24)

次に、17~24節をご覧ください。「17 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。18 「さあ、サマリアにいるイスラエルの王アハブに会いに下って行け。今、彼はナボテのぶどう畑を取り上げようと、そこに下って来ている。19 彼にこう言え。『主はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『主はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』」

20 アハブがエリヤに「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」と言うと、エリヤは答えた。「そうだ。あなたが主の目に悪であることを行うことに身を任せたので、見つけたのだ。21 『今わたしは、あなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、イスラエルの中の、アハブに属する小童から奴隷や自由の者に至るまで絶ち滅ぼし、22 あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにする。それは、あなたが引き起こしたわたしの怒りのゆえであり、あなたがイスラエルに罪を犯させたためだ。』23 また、イゼベルについても【主】はこう言われる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。24 アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬がこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。』」」

神様のタイミングってすごいですね。ちょうどそのとき、エリヤに、サマリアにいるアハブに会いに行くようにと、言われたからです。「そのとき」とは、まさに、アハブがナボテのぶどう畑を取り上げようと下って行った、ちょうどその時です。そのときに、エリヤに主のことばがあったのです。エリヤは、ちょっと前までホレブ山にいましたが、エリシャに油を注ぎなさいという主の命令を受けて、イスラエルの地に戻っていました。そのエリアに、アハブに会いに行って、次のように言うようにと告げられたのです。「『主はこう言われる。あなたは人殺しをしたうえに、奪い取ったのか。』また、彼に言え。『主はこう言われる。犬たちがナボテの血をなめた、その場所で、その犬たちがあなたの血をなめる。』」(19)つまり、アハブは人殺しをしてまでナボテからぶどう畑を奪ったので、悲惨な死に方をするということです。そんなひどいことをしたので、何と犬たちがナボテの血をなめた場所で、その犬たちが今度はアハブの血をなめるようになるというのです。これはⅠ列王記22章38節で成就することになります。

すると、アハブは何と言いましたか。彼はエリヤにこう言いました。「おまえは私を見つけたのか、わが敵よ」(20)それに対してエリヤは「そうだ。あなたが主の目の前で悪を行うことに身を任せたので、見つけたのだ。」と言いました。

どういうことでしょうか。アハブにとってエリヤは敵のような存在でしかなかったということです。かつてアハブはエリヤのことを「イスラエルを煩わすもの」(Ⅰ列王18:17)と呼びました。まさに目の上のたんこぶのような存在です。アハブは、ナボテのぶどう畑を略奪したことが神の人エリヤにばれるのではないかと心配していたようです。「おまえは私を見つけたのか」という言葉が、それを示しています。それが実現しました。エリヤは彼を見つけ、神のさばきを告げたのです。

それは21~24節の内容です。それはアハブの家がヤロブアムの家ように、また、バシャの家のように、滅ぼされるということです。これはどういうことかというと、北イスラエルでは、これまで一つの王家が根絶やしにされるということが二度、ありました。一つはヤロブアムの家であり、もう一つがバシャの家です。そのヤロブアムの家のように、また、バシャの家のように、アハブの家を根絶やしにされるというのです。それは、彼が引き起こした罪に対する神の怒りのゆえであり、彼がイスラエルに罪を犯させたためです。

また、イゼベルについては、「犬がイゼベルの領地でイゼベルを食らう」とあります。死体が犬に食われるのは、犬に血をなめられるよりも屈辱的であり、厳しい裁きです。そして最後にアハブの家系に属する者に対するさばきが告げられますが、彼らは犬に食われるか、空の鳥に食われるかのいずれかの運命をたどるようになるのです。これが後に現実のものとなります(Ⅱ列王9:30~10:28)。

罪に対して鈍感になっていたアハブは、神の人エリヤを自分の敵としか見ることができませんでした。彼には真の友と真の敵を見分ける力がなかったのです。エリヤこそ、アハブに罪を示し、彼が主に立ち返るようにと勧めた最良の友であり、イゼベルこそ、ナボテのぶどう畑の事件を見てもわかるように、彼を地獄に突き落とす最悪の敵だったのに、それを見分けることができませんでした。なんと悲しいことでしょうか。しかし、いつの世でも真理は変わりません。私たちにとって最良の友は、私たちが過ちを犯す時それを戒め、神の道に引き戻そうとする者であり、最悪の敵は、誘惑と自己満足に引き込み、奈落の底へと突き落とす者です。友情から出た勧告を敵の声だと勘違いするなら、恐ろしい結果を刈り取ることになります。敵に見えるような人でも、愛をもって真理を語り、忠告を与えてくれる友の声に耳を傾けることができるように祈りましょう。

Ⅲ.アハブの悔い改め(25-29)

最後に、25~29節をご覧ください。「25 アハブのように、自らを裏切って主の目に悪であることを行った者は、だれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。26 彼は、主がイスラエル人の前から追い払われたアモリ人がしたのと全く同じように、偶像につき従い、非常に忌まわしいことを行った。27 アハブはこれらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に粗布をまとって断食をした。彼は粗布をまとって伏し、打ちひしがれて歩いた。28 そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。29 「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」」

北王国イスラエルに、アハブほど主の目に悪を行った者はいませんでした。彼は最悪の王でした。その最大の原因は、彼の妻イゼベルです。イゼベルが彼をそそのかしたのです。アハブは完全に妻イゼベルの尻に敷かれていました。妻の尻に敷かれるとは妻の言いなりになるということですが、必ずしもそれ自体が悪いわけではありません。しかし、神様が行なってはいけないと禁じていることをしたり、あるいは行なわなければいけないと命じていることを行わないようにと妻が要求するとしたら、そしてその妻の言うことを聞いてしまうなら、それは問題です。たとえば、アダムは神の命令に反して妻のエバが言うことを受け入れてしまいました。食べてはならないと命じられていた木から取って食べてしまったのです。それゆえ、全人類に罪が入ってしまいました。ですから、妻の尻に敷かれることは構いませんが、それは神が命じていることなのかどうかをよく吟味し、そうでないときは毅然とした態度を取らなければなりません。まぁ、そういう時はあまりありませんけど。アハブの場合は、イゼベルに完全にそそのかされてしまいました。アハブの罪は、アモリ人の罪を再びイスラエルにもたらしたことでした。それは忌むべきカナン人やアモリ人の偶像礼拝やそのならわしを、イスラエルの中に導入したことです。特に妻イゼベルの影響で、イスラエルにバアル崇拝を持ち込んだのが大きな罪でした。

27節の「これらのことば」とは、21~24節でエリヤが語ったことばのことです。彼はそれを聞くとどうしましたか。彼は自分の外套を裂き、粗布を身にまとって断食しました。これは悔い改めのしるしです。彼はエリヤのことばを聞くと、粗布をまとって悔い改めたのです。本当ですか?あれほど主に背きひどいことをしてきた彼が、本当に悔い改めたのでしょうか。本当です。29節には「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。」とあるように、アハブは主の前にへりくだって悔い改めたのです。それゆえ主は、彼が生きている間はわざわいを下さないと言われたのです。

アハブほどの悪王はいないというのに、彼が悔い改めた時、いつくしみ深い主は彼にあわれみ示されました。主はどこまでもいつくしみ深い方なのです。

主は私たちにも恵み深くあられます。どのような罪を犯した人であっても、主の御前にへりくだり、心から悔い改めるなら、主はその罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいます。父なる神は今日も、ご自身の子が立ち返るのを待っておられるのです。

マタイの福音書1章18~25節「ヨセフのクリスマス」

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メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図からキリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びましたが、きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際にはイエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼は聖書の中で一言も発していないのです。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と、気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と、宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書の中にはそういうことばはありません。黙ったままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には18節と19節の冒頭に、それぞれ「デ」(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たことを受けて「しかし」ということです。1節から17節にはキリストの系図が記されてありました。そこには、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという系図が記されてありましたが、それに対してイエス・キリストの誕生はどうであったのかということです。つまり、1節から17節までの系図にある誕生というのはごく自然な誕生であったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではなかったということです。イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったのです。それはどのような方法だったのでしょうか。

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」ですね。できちゃったから結婚するというのはよくあることですが、ここではそのようにできちゃったから結婚したというのではなく、まだ一緒にならないうちに聖霊によって身ごもったと言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

当時の結婚の定めからすると、二人はすでに婚姻関係にあると認められていました。でもまだ一緒に生活するまでには至っていなかったのです。というのは、ユダヤにおいては結婚までに三つの段階があったからです。

第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっと違い、法的には夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていなかったのです。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできませんでした。通常、この期間は1年~1年半くらいでした。その間、お互いは離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて花嫁と過ごすための準備をしたのです。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整え花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になって二人ははじめて一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますので、これは、この第二段階にあったことを示しています。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

そのような時、マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれないということです。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと考えられていますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時に「実は、聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と、頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことです。とても信じられないことでした。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。ですから、彼女は相当悩んだはずです。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えたのです。

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

普通だった怒りとか失望落胆、いや、嫌悪感さえ抱くでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし妻が不貞を働いたらさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場で引き連れられ、町中の人から一斉に石を投げつけられたのです。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語では「ディカイオス」(δικαιος)という言葉です。これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべく人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかるのではないかと思います。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、それは彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていたという何よりの証拠だと思います。正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

ヨセフがこのことで思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。順序が逆のような気がします。マリアの時のように、先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフもそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。どうして神様は先にこのことを教えてくれなかったのでしょうか。それは、ヨセフにとって思い巡らす時が必要だったからです。そうした思い巡らす時、沈黙の時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われその理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく私たちの弱さなり、危険性を、このように鋭く突いたのです。

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできないのです。ですから、神の前に静まることなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはできません。ボンヘッファーはそれを言いたかったのはそういうことだったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、キリストの召しを否定することになるし、そうすれば、召された者たちの交わりとは何の関わりを持つことはできません。まあ、バランスが必要だということですが、そのバランスの中でも、ひとり神の前に立つこと、神様と1対1となって思い巡らす時が必要であり、そのとき、神のみこころが明らかにしてくださるのです。そういう意味でみことばと祈りの時、ディボーション、静思の時を持つことがいかに重要であるかがわかります。

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。あなたを救ってくださる。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。この罪こそ、私たちすべての問題の根源にあるものです。

今年はロシヤのウクライナ侵攻とういう暴挙がありましたが、それももとはと言えば、この罪が原因です。台湾の問題もあります。私たちは、いつ第三次世界大戦が勃発してもおかしくない時代に生きています。それは戦争ばかりでなく、私たちの社会、私たちの人生に襲い掛かる様々な問題においても言えることです。どんなに法律を作っても、この世から悪が一掃されることはないでしょう。それは私たち人間に罪があるからです。この罪がすべての問題を引き起こすのであって、真の平和を実現するためには、この罪を取り除かなければなりません。その罪から救ってくださるお方、それが神の御子イエス・キリストなのです。その方は罪のない方でなければなりませんでした。だから、聖霊によって身ごもらなければならなかったのです。

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたというか、心が震えるような体験をしたのです。

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。主の前に静まり、黙って主を待ち望むのです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれない。今すぐ何かをしなければならないといろいろな対応策が頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書は「私たましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」というのです。あれやこれやと自分で考え、慌ただしく動き回るのではなく、主の前に静まり、神を待ち望むのです。そして、主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいというのです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

ですから、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従いました。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な関係を持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもやめ、身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや噂の前に立ちはだかり、神の約束、インマヌエルの神に信頼しました。彼は、神の救いにすべてをかけて生きたのです。

私たちの人生においても、ひとり静かに黙さなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある兄弟姉妹との交わりの中に身を置きながら持つのです。その時、その静けさの中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。ですから、沈黙とはただことばを発しないということではなく、神のことばを聞くこと、神が語られることばに傾聴することなのです。

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前で静まり、主のみことばを聞く所へと導かれていきたいものです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、「わたしはあなたとともにいる」ということばと出会い、そのことばによって慰められ、励まされ、生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。

Ⅰ列王記20章

 今日は、列王記第一20章から学びます。

 Ⅰ.アラムの王ベン・ハダドによる侵攻(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。「1 アラムの王ベン・ハダドは彼の全軍勢を集めた。彼には三十二人の王と、馬と戦車があった。彼はサマリアに上り、これを包囲して攻め、2 町に使者たちを遣わして、イスラエルの王アハブに3 こう言った。「ベン・ハダドはこう言われる。『おまえの銀と金は私のもの。おまえの妻たちや子どもたちの、最も美しい者も私のものだ。』」4 イスラエルの王は答えた。「王よ、仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」5 使者たちは再び戻って来て言った。「ベン・ハダドはこう言われる。『私はおまえに人を遣わし、おまえの銀と金、および、おまえの妻たちや子どもたちを私に与えよ、と言った。6 明日の今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らは、おまえの家とおまえの家来たちの家の中を探し、たとえ、おまえが一番大事にしているものさえ、手をかけて奪い取るだろう。』」7 イスラエルの王は国のすべての長老たちを呼び寄せて言った。「あの男が、こんなにひどいことを要求しているのを知ってほしい。彼は人を遣わして、私の妻たちや子どもたち、および、私の銀や金を求めたが、私はそれを断りきれなかった。」8 すると長老たちや民はみな、彼に言った。「聞かないでください。承諾しないでください。」9 そこで、彼はベン・ハダドの使者たちに言った。「王に言ってくれ。『初めにあなたがこのしもべにお求めになったことは、すべてそのようにいたしますが、このたびのことはできません。』」使者たちは帰って行って、このことを報告した。10 するとベン・ハダドは、彼のところに人を遣わして言った。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」11 イスラエルの王は答えた。「こう伝えてくれ。『武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。』」12 ベン・ハダドは、このことばを聞いたとき、王たちと仮小屋で酒を飲んでいたが、家来たちに「配置につけ」と命じたので、彼らはこの町に向かう配置についた。」

アハブの妻イゼベルの言葉に恐れ鬱になったエリヤでしたが、主のかすかな声を聞いて大いに励まされました。それは、イスラエルの中に七千人の信仰の勇士を残しておくということ、そして、エリシャを彼の後継者として立てるということでした。

その頃、北イスラエルの脅威となっていたのが、北に位置していたアラムでした。そのアラムの王ベン・ハダドが、全軍勢とともに32人の同盟国の王と、馬と戦車をもって、北王国イスラエルの首都サマリアに上り、これを包囲しました。彼は使者たちを遣わしてアハブにこう言いました。「おまえの銀と金は私のもの。おまえの妻たちや子どもたちの、最も美しい者も私のものだ。」つまり、アハブが持っている金、銀、財宝、それに彼の家族を引き渡すようにと要求したのです。それに対してアハブは勝ち目がないと判断したのか、その要求をすんなり受け入れました。

すると、ベン・ハダドはアハブがあまりにも簡単に要求を受け入れたので、再度使者たちを遣わして、さらなる要求をしました。それは、自分の家来たちが彼の家と家来たちの家を略奪することを許可するようにということでした。

それでアハブ王は、国のすべての長老たちを呼び寄せて協議すると、長老たちや民はみな、その要求を聞かないようにしようということになり、アハブは、ベン・ハダドの使者たちにそのことを伝えると、ベン・ハダドは、アハブのところに人を遣わしてこう言いました。10節です。「サマリアのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」どういうことでしょうか。

これは、サマリアはちりみたいなもので、自分たちの民にはあまりにも小さすぎるという意味です。つまり、全軍で攻撃し、全てを略奪し尽くすということです。ここに彼の傲慢さと貪欲さが頂点に達しました。

するとアハブはこう伝えます。「武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。」これは、戦争に勝ってから誇りなさいという意味です。尾山令仁先生は、これを「とらぬ(たぬき)皮算用(かわざんよう)」と訳しています。これは、狸をまだ捕まえていないのに、その皮を売ったと考えて、(もう)けの計算をすることから、手に入れていないものを当てにして、様々な計画を立てるこという意味です。名訳だと思います。戦いに勝ってから言え、ということです。

随分勇敢なことを言ったアハブでしたが、実際にはこの戦いに勝ち目がないことは誰よりもよく知っていました。しかし彼は、バアル礼拝に心が奪われていたので、イスラエルの神、主に祈りませんでした。バアルには、アハブとその民を救う力はありません。それなのに、真の神、主に祈れなかったというのは残念なことです。こうした危機に関しては、日頃の信仰がものを言います。日々主とともに歩むことが、こうした危機から守られるための最善の道なのです。

これを聞いたベン・ハダドは、仮小屋で酒を飲んでいましたが、イスラエルに戦いを挑むための配置につきました。

Ⅱ.ベン・ハダドに勝利したアハブ(13-21)

次に、13~21節をご覧ください。「13 見よ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいてこう言った。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」14 アハブが、「誰を用いてそうなさるのか」と尋ねると、預言者は、「主はこう言われる。『諸州の知事に属する若者たちである』」と答えた。王が、「誰が戦いを始めるのか」と尋ねると、彼は、「あなたです」と答えた。15 そこでアハブが、諸州の知事に属する若者たちを召集すると、その数は二百三十二名であった。続いてすべての民すなわちイスラエル人七千人を召集した。16 彼らが出陣したのは正午であったが、ベン・ハダドと援護に来た三十二人の王侯たちは仮小屋で酒を飲んで酔っていた。17 諸州の知事に属する若者たちがまず出て行った。ベン・ハダドは、サマリアから人々が出て来るとの知らせを、遣わした者から受けると、18 「彼らが和平のために出て来たとしても生かしたまま捕虜にし、戦いのために出て来たとしても、生かしたまま捕虜にせよ」と命じた。19 諸州の知事に属する若者たち、更に後続部隊が町から出て来た。20 それぞれがその相手を打ち、アラム軍は敗走した。イスラエルの人々は追い打ちをかけたが、アラムの王ベン・ハダドは馬に乗り、騎兵を伴って逃げ去った。21 イスラエルの王も出陣して、軍馬や戦車を撃ち、アラムに大損害を与えた。」

ちょうどそのころ、一人の預言者がアハブ王に近づいて言いました。「主はこう言われる。『この大軍のすべてをよく見たか。わたしは今日これをあなたの手に渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」

ここは興味深い預言です。極悪人であるアハブに対して、神はなおも、ご自分が主であることをアハブに現わそうとされたのです。主はいつまでも忍耐深く、アハブに接してくださる方です。主はアハブに勝利を約束されました。この約束はアハブに何か称賛すべき資質があったからではなく、一方的な主のあわれみによるものでした。それは、この勝利によって彼が主こそ神であることを知るためでした。

それでアハブが、「それはだれによってもたらされるのでしょうか」と尋ねると、その預言者は「諸州の首長に属する若者たちによって」と答えました。つまり、各州の青年将校たちによるということです。さらにアハブが、「誰が戦いを仕掛けるのでしょうか」と尋ねると、「あなたです」という答えがありました。アハブがこの戦いの総司令官になるということです。それで彼は、諸州の首長に属する若者たちを調べてみると、その数は232人、それに兵士たちが7千人いたので、真昼ごろ出陣しました。

そのころ、ベン・ハダドは何をしていたかというと、味方の32人の王たちと仮小屋で酒を飲んで酔っ払っていました。この地方では、昼間の熱い時間帯は戦いを避けるのが普通だったからです。彼らはまさかこの暑い中を攻めてくるなど全く想像していませんでした。ベン・ハダドは、「人々がサマリアから出て来ています」という報告を聞いても、「和平のために出て来ても生け捕りにし、戦うために出てきても生け捕りにせよ」と言いました。彼はアハブの軍勢を見下し、完全に油断していたのです。

しかし、戦いは予想外の方向に展開します。諸州の首長に属する若い者たちと、これに続く軍勢がアラムの軍勢を打ったので、イスラエルは大勝利を収めることができました。アラム人は逃げ、ベン・ハダドは馬で逃走しました。

この戦いから、どんなことが教えられるでしょうか。主だけがイスラエルを救うことができる神であることです。しかし、この戦い以降も、アハブは不信仰な態度を取り続けます。主に信頼する人は幸いです。そのような人は、人生の勝利を収めることができるからです。しかし、これを無視するなら、最後は自らに滅びを招くことになります。

Ⅲ.アハブの失敗(22-34)

次に、22~35節をご覧ください。まず22~25節をお読みします。「22 その後、あの預言者がイスラエルの王に近寄って言った。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをよく考えなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るからです。」23 そのころ、アラムの王の家来たちは王に言った。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかし、私たちが平地で彼らと戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。24 このようにしてください。王たちをそれぞれ、その地位から退かせ、王たちの代わりに総督を任命し、25 あなたは失っただけの軍勢と馬と戦車を補充してください。彼らと平地で戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」王は彼らの言うことを聞き入れて、そのようにした。」

戦いに勝利した後、あの預言者が再びアハブ王に近づいてこう言いました。「さあ、奮い立って、これからなすべきことをよく考えなさい。来年の今ごろ、アラムの王があなたを攻めに上って来るからです。」

一度の勝利で安心してはならないということです。なぜなら、再び敵が攻めてくるからです。私たちの敵である悪魔も、容易に誘惑の手を緩めません。その戦いにいつも備えていなければならないのです。

そのころ、アラムの王の家来たちが王に言いました。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかし、私たちが平地で彼らと戦うなら、きっと私たちのほうが彼らより強いでしょう。」

彼らは、自分たちが戦いに敗れたのは、イスラエルの神が山の神だからであって、もし平地で戦えば必ず勝てると思いました。それで同盟関係にあった32人の王たちをその王位から退け、その代わりに総督を任命し、彼らが失った軍勢と馬と戦車を補充して、平地で戦うなら、絶対自分たちが勝ちますと進言すると、アラムの王ベン・ハダドは、そのようにしました。ベン・ハダドの高官たちは、戦争に勝利をもたらすのは戦車ではなく、神であることを理解していませんでした。

それはクリスチャンの生活においても同じことが言えます。クリスチャン生活において、勝利をもたらすのは自分の置かれた環境とか状況ではなく、キリストの臨在、神の力によります。私たちはきょうも、神の力によってこの世に出て行かなければなりません。

26~30節をご覧ください。「26 年が改まると、ベン・ハダドはアラム人を召集し、イスラエルと戦うためにアフェクに上って来た。27 一方、イスラエル人も召集され、食糧を受けて、彼らを迎え撃つために出て行った。イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのように陣を敷いたが、アラム人はその地に満ちていた。28 ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」

29 両軍は互いに向かい合って、七日間、陣を敷いていた。七日目になって戦いに臨んだが、イスラエル人は一日のうちにアラムの歩兵十万人を打ち殺した。30 生き残った者たちはアフェクの町に逃げたが、その生き残った二万七千人の上に城壁が崩れ落ちた。ベン・ハダドは逃げて町に入り、奥の間に入った。」

年が改まると、ベン・ハダドはアラム人を召集して、イスラエルと戦うためにアフェクに上って行きました。「アフェク」という町がどこにあるか巻末の地図をご覧ください。地図6を見るとあります。ガリラヤ湖の東岸ですね。ダマスコからイスラエルに下ってくる途中にあります。北からアラム軍が下り、南西の方面からイスラエルが上って来てぶつかるところです。しかし、正確なところはわかっていません。サマリアからは離れ過ぎるからです。それでアフェクのところに?のマークがあるわけです。ある学者は、イズレエルの平原のどこかにあったのではないかと考えていますが、はっきりしたことはわかりません。

一方、イスラエル人もまた、アラムの軍勢を迎え撃つために進軍して行きました。イスラエル人は彼らと向かい合って、二つの小さなやぎの群れのようであったのに対して、アラム人はその地に満ちていました。両者の兵力は歴然としていたということです。

そのとき、一人の神の人が近づいて来て、アハブにこう言いました。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」

アラムは、イスラエルの神は山の神であって平地の神ではないと言っているので、この平地で主は、彼らをイスラエルの手に渡すということでした。それは、アハブ王とイスラエルの民のすべてが、主こそ神であるということを知るためです。二度目の勝利の預言です。アハブはどれほど勇気づけられたことかと思います。

両軍は互いに向き合って、七日間、陣を敷いていましたが、七日目になって戦いに挑みましたが、イスラエルは一日のうちにアラムの歩兵10万人を打ち殺しました。生き残った者たちはアフェクの町に逃げましたが、彼らの上に城壁が崩れ落ちたので、2万七千人が死にました。それでベン・ハダドは逃げて町に入り、奥の間に入ったのです。またもやイスラエルの大勝利です。

31~34節をご覧ください。「31 家来たちは彼に言った。「イスラエルの家の王たちは恵み深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」32 こうして彼らは腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに行って願った。「あなたのしもべ、ベン・ハダドが『どうか私のいのちを助けてください』と申しています。」するとアハブは言った。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」33 この人々は、これは吉兆だと見て、すぐにそのことばにより事が決まったと思い、「ベン・ハダドはあなたの兄弟です」と言った。王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダドが王のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。34 ベン・ハダドは彼に言った。「私の父が、あなたの父上から奪い取った町々をお返しします。あなたは私の父がサマリアにしたように、ダマスコに市場を設けることもできます。」「では、契約を結んで、あなたを帰そう。」こうして、アハブは彼と契約を結び、彼を去らせた。」

 「家来たち」とは、ベン・ハダドの家来たちのことです。彼らはベン・ハダドに言いました。「イスラエルの家の王たちは恵み深い王である、と聞いています。それで、私たちの腰に粗布をまとい、首に縄をかけ、イスラエルの王のもとに出て行かせてください。そうすれば、あなたのいのちを助けてくれるかもしれません。」

荒布と縄は、悔い改めと従順のしるしです。彼らは腰に荒布をまとい、首に縄をかけて、イスラエルの王アハブのもとに行きました。

すると、イスラエルの王アハブはこう言いました。「彼はまだ生きているのか。彼は私の兄弟だ。」彼は私の兄弟だとは、彼は親しい友人であるということです。そしてベン・ハダドがアハブ王のところに出て来ると、彼を戦車に乗せました。

ベン・ハダドはアハブ王に、自分の父がイスラエルの王バシャの時代に数々の町々を奪い取ったが(Ⅰ列王15:20)、それらをイスラエルに返還すると言うと、アハブに一つの提案をしました。それは、ダマスコに市場を設けることができるように契約を結ぼうというものでした。するとアハブは、「では、契約を結んで、あなたを帰そう。」と言って彼と契約を結び、彼を去らせたのです。いったい彼はなぜベン・ハダドとこのような契約を結んだのでしょうか。

アハブがしたことは一見良さそうにみえますが、これが致命傷となります。彼はアラムと同盟関係を結ぶことで、北からの脅威であったアッシリアに対抗しようとしたのですが、それは人間的な知恵であって、信仰から出たことではありませんでした。結局、これがいのち取りとなり、イスラエルは滅ぼされてしまうことになります。私たちが良かれと思ってやっていることが、必ずしも主の御心にかなっているとは限りません。主の御心に反する歩みを続けるアハブには、将来の希望がありませんでした。私たちも注意しなければなりません。何か重大な決断をする前に主に御心を求めて祈り、それが御心に反していないかどうかを吟味しなければならないのです。いつも、主に聞かなければならないということです。

Ⅳ.御心を損なったアハブ(35-43)

最後に35~43節をご覧ください。 「35 預言者の仲間の一人が、主のことばにしたがって、自分の仲間に「私を打ってくれ」と言った。しかし、その人は彼を打つことを拒んだ。36 そこで彼はその人に言った。「あなたは主の御声に聞き従わなかったので、あなたが私のところから出て行くと、すぐ獅子があなたを殺す。」その人が彼のそばから立ち去ると、獅子がその人を見つけて殺した。37 彼はもう一人の人に会ったので、「私を打ってくれ」と頼んだ。すると、その人は彼を打って傷を負わせた。38 それから、その預言者は行って、道端で王を待っていた。彼は目の上に包帯をして、だれだか分からないようにしていた。39 王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言った。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人が一人の者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにおまえのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』40 ところが、しもべがあれやこれやしているうちに、その人はいなくなってしまいました。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「おまえは、そのとおりにさばかれる。おまえ自身が決めたとおりに。」41 彼は急いで目から包帯を取った。そのとき、イスラエルの王は彼が預言者の一人であることに気づいた。42 彼は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」43 イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」

アハブが行なったことがいかに主の御心を損なったのかを伝えるために、主があの預言者を再びアハブの元に遣わします。そのために彼は、自分の仲間に「私を打ってくれ」と頼みましたが、す。彼はそれを拒んだので、この預言者が言った通り、彼は獅子に食い殺されてしまいました。これは、主がこれから起こることを効果的にアハブに伝えるための預言でした。主はそれほどに、自分の思いをアハブに伝えたかったということです。

それで、彼はもう一人の人に会ったので同じように他の頼むと、その人は彼を打って傷を負わせたので、その預言者は目の上に包帯をして、道端でアハブ王を待っていました。そして王が通りかかったとき、彼は王に叫んで言いました。39~40節の内容です。「しもべが戦場に出て行くと、ちょうどそこに、ある人が一人の者を連れてやって来て、こう言いました。『この者を見張れ。もし、この者を逃がしでもしたら、この者のいのちの代わりにおまえのいのちを取るか、または、銀一タラントを払わせるぞ。』ところが、しもべがあれやこれやしているうちに、その人はいなくなってしまいました。」(39-40)

これはたとえ話です。捕虜を見張るように命じられた者が、その捕虜を逃がしでもしたら、その捕虜のいのちの代わりに見張り人のいのちを取るか、または、銀1タラントを罰金として払わされることになります。銀1タラントは高額です。それは、この捕虜が重要な人物であることを示しています。しかし、彼はその重要な捕虜を、不注意のためるに逃がしてしまいました。さて、どうしたらいいものか。ダビデの姦淫の罪を責めるためにナタンが遣わされ、彼はダビデに富んでいる人が貧しい者の一匹の小さな雌の子羊を奪い取り、それで自分のところに来た人のために調理したが、果たしてどうすべきかと、尋ねているのに似ています。(Ⅱサムエル記12章)

そのときダビデはその男に対して激しい怒りを燃やし、「そんなことをした男は死に値する。」と言いましたが、ここでアハブ王もこう言いました。40節です。「おまえは、そのとおりにさばかれる。おまえ自身が決めたとおりに。」

すると、その預言者の仲間の一人は、急いで目から包帯を取りました。その時アハブは、彼があの預言者の一人であることに気付きました。この預言者が兵士に変装したのは、アハブが犯した罪を自らさばかせるためでした。敵を逃がした兵士が罰せられなければいけないのであれば、アハブがベン・ハダデ王にしたのもそれと同じである、ということです。つまり、アハブは、主が聖絶しようとした者を逃がしたので、彼のいのちはその者のいのちの代わりとなり、彼の民はその者の民の代わりとなるのです。ベン・ハダドを聖絶することが主の御心だったのに、アハブは逃してしいました。それゆえ、彼自身がベン・ハダドに代わって死ぬことになるのです(Ⅰ列王22:30)。

それを聞いたアハブはどうしたでしょうか。43節、「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」

彼は不機嫌になり、激しく憤って、自分の宮殿に戻って行きました。彼は、へりくだって悔い改めるどころか、非常に不機嫌になり、甘えん坊の子供のように、ふてくされて家に帰ったのです。いわゆる「逆切れ」です。主によって叱責を受けたときに、自分を正すのではなく、逆に頭に来たのです。

神に敵対する人には平安がありません。いつもアハブのように不機嫌になり、ふてくされています。憤り、怒りがその人の心を支配するからです。時として私たちも間違いを犯しやすい者ですが、その間違いを示されたなら、へりくだって悔い改めなければなりません。そうすれば、主が共にいてくださり、その心に平安を与えてくださるのです。

マタイの福音書1章1~17節「イエス・キリストの系図」

アドベントの第二週を迎えました。御言葉からキリストの御降誕を待ち望みたいと思います。今日は、マタイの福音書1章前半にある「イエス・キリストの系図」からお話ししたいと思います。

多くの人が初めて手にする聖書は新約聖書ではないかと思いますが、その最初のページをめくって抱く印象は、「戸惑い」ではないでしょうか。私も、高校3年生の時、当時はわかりませんでしたが国際ギデオン協会の方々が校門の前で配っていた赤いカバーの聖書を手にして、「いったい何が書いてあるんだろう」と興味津々、帰宅して読み始めたのが、このマタイの福音書1章でした。そこには読み慣れない名前の羅列と、無味乾燥に見える系図が書かれてあって、「何だ、これは?」とすぐに読むので止めてしまいました。でも捨てるに捨てられず、他にバスケットボールの本しかなかった本箱に飾っていたら、その後、後に妻になる1人の宣教師と出会い教会へと導かれました。そして、そこでイエス・キリストに出会うことができたのです。でも私のようなケースは稀で、ほとんどの人はこの箇所を見て読むのを断念するのではないかと思います。

かつてある人がこんなことを言いました。「新約聖書はマタイの福音書よりもマルコの福音書の方が最初にあったほうがいい。多くの人はせっかく手にしてもマタイの福音書1章の系図につまずいて、それ以上先に読み進めなくなってしまう。」

確かに、いきなり系図から始まっては、読み手は面食らってしまうかもしれません。それよりも一切の前置きを省略して、真っ直ぐイエス・キリストの物語に進むマルコの福音書のほうが、人々が福音に触れるにはよいのではないかと思います。実際に書かれた年代からすれば、マタイの福音書よりもマルコの福音書の方が先に書かれました。それなのになぜマルコの福音書ではなく、マタイの福音書が最初に置かれたのでしょうか。しかも、なぜその冒頭が系図だったのか。そこには深い神様の意図があったと思うのです。
 

Ⅰ.アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(1)

まず1節の冒頭のことばから見ていきましょう。ここには、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。

これを書いたマタイは、これから書き連ねていく福音書の主人公イエス・キリストがどのような方なのかを紹介するにあたり、アブラハムから始まる系図を示して、イエス・キリストとは誰なのかを紹介しています。なぜ系図から書いたのでしょうか。それはこの福音書の著者であるマタイが、ユダヤ人ないしユダヤ社会の価値観に生きていた人々に向けてこれを書いたからです。

このような系図が出てくると、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものですが、当時のユダヤ人にとってはむしろピンと来たのではないかと思います。というのは、彼らが一人一人の名前を読むとき、その人物とその時代の歴史的背景を次々に思い出すことができたからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現までの、約二千年間の物語です。これほど壮大なドラマは、そんじょそこらに見出せるものではありません。ユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっていたので、こうした系図も容易に理解することができたのです。

その系図の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」でした。マタイはまず、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であると述べています。「子」とは「子孫」であるということです。これはある意味この系図の要約であり、またこの福音書全体の主題であるとも言えます。

アブラハムは、皆さんもご存知のように、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福すると約束をされたからです。創世記12章1~3節にこうあります。「1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

このように神様はアブラハムとその子孫によって、すべての民族を祝福すると約束されました。その子孫こそ、イエス・キリストです。ですから、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、私たちはこの子孫によって祝福される、つまり救われるのです。マタイは、イエスが「アブラハムの子」であると言うことによって、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを、読者に伝えたかったのです。

また、マタイはイエスが「ダビデの子」であるとも言っています。ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王でした。ユダヤ人は今日でもその国旗にダビデの紋章を用いていることからもわかります。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムが生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に生きていました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界を揺さぶるような約束を与えられています。それは、Ⅱサムエル7:12~13にある「ダビデ契約」と呼ばれているものです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この「世継ぎの子」とは直接的にはソロモンのことですが、これはダビデの子孫から出るメシヤのことです。それはここに「とこしえまでも堅く立てる」と言われていることからもわかります。そのメシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されるというのです。その王こそ、ダビデの子として生まれるイエスなのです。

それで、国を滅ぼされたユダヤ人は、このダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれるメシヤの現われを待ち望むようになりました。そして、メシヤを待望する信仰が生まれたのです。そのメシヤとはだれか。マタイはここに「ダビデの子」と記すことによって、その子孫から生まれるイエスこそダビデ契約の成就者であり、全人類に救いをもたらすメシヤであるということを伝えたかったのです。

Ⅱ.イスラエルの歴史(2-16)

では、アブラハムからダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる系図とはどのようなものだったのでしょうか。2~16節にその長い系図が出てきます。2~6節までは、アブラハムからダビデまでの、いわゆる族長時代、士師の時代の歴史です。そして7~11節には、ダビデからバビロン捕囚までのイスラエルの王朝の系図、そして12~16節には、バビロン捕囚からイエス誕生までの歴史が記されてあります。

まず2~6節をご覧ください。「2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、」

司会者泣かせの箇所です。でも、ここまでは比較的ポピュラーな人たちの名前なのでそれほど大変でもありませんが、この後16節までずっと読み進めていくと、舌を噛みそうになります。

この6節までに出てくる人たちの名前の中で特徴的なことは、ここに4人の女性たちの名前が記されてあることです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この系図全体にはもう一人の女性の名前が出てきます。それは16節に出てくるイエスの母マリアです。それと合わせると全部で5人の女性の名前が記録されてありますが、そのうちの4人は6節までに出てきます。

圧倒的な男性優位の社会の中にあって、このように女性の名前が記録されていることは非常に珍しいことでした。マタイはなぜここにこれら4人の女性の名前を記したのでしょうか。マタイがこの特定の女性を選んでわざわざ記したのには、それなりの深い意図があったのではないかと思います。

系図の中で最初に登場する女性は、タマルです。3節をご覧ください。タマルに関しては、創世記38章に詳しく書かれてありますので、後でゆっくりご覧いただきたいと思いますが、タマルはユダの長男(エル)の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎのために次男(オナン)がタマルを妻としましたが、次男も死んでしまいました。そこで父のユダは「三男(シェラ)が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、三男まで殺されるのがいやだったので、タマルに与えるつもりはありませんでした。

そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダと関係をもって子どもを設けようと考えたのです。ユダはタマルと関係を持ち、ほうびのしるしとして、印形とひもと杖を彼女に与えました。その後、ユダはタマルが妊娠していることを聞くと「あの女を引き出して、焼き殺せ。」と言いましたが、タマルは「私はこれらの品々の持ち主によって身ごもったのです」と言うと、ユダは「あの女は私よりも正しい」と認めました。そのタマルが、イエスの先祖として加えられているのです。いったいなぜタマルの名前が記されたのでしょうか。それは、どんなに罪深い人でも許されることを示すためでした。

思いつめたタマルは、義父を誘うという不道徳な行動を取ってしまいましたが、神はタマルを赦して子どもを与え、その子ペレツをイエス・キリストの祖先の一人としてくださいました。私たちもまた、タマルのようにしばしば間違った行動を取ってしまうことがありますが、神はそんな間違いやすく罪深い私たちが、神の前に悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪から聖めてくださいるのです。

次に登場する女性は、ラハブです。5節をご覧ください。ラハブについては、旧約聖書のヨシュア記2章に書かれてあります。ラハブもエリコに住む売春婦、遊女でした。タマルは売春婦に変装しましたが、ラハブは正真正銘の売春婦でした。しかもユダヤ人ではなくカナン人でした。カナン人とはカナンの先住民族のことで、占いとか、呪術、霊媒などを行っていた民族です。そればかりか、自分たちの息子や娘をいけにえとして火で焼いたりしていました。つまり、神に忌み嫌われていたことを平気で行っていた民族だったのです。そんなラハブの名がここに記されてあるのです。なぜでしょうか。それは彼女がエリコという異教社会にあって、限られた知識しかないにもかかわらず、リスクを顧みずに、敵であったイスラエルの神こそまことの生ける神であると信じ、告白したからです。

彼女はヨシュアによってエリコ偵察のために遣わされた二人のスパイを家の屋上にかくまうと、エリコの警備兵には嘘をついて、二人を助けました。ラハブは屋上に上ると、亜麻の間に隠れているイスラエル人に、なぜ自分が二人をかくまったのかを語りました。それは、「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:9-11)

何とラハブの口から出たのは、イスラエルの神に対する信仰告白でした。二人の斥候は驚きました。彼女は旅人たちからイスラエル人のうわさを聞き、そこに働いている神の力を知ったとき、それこそ真の神であると信じるようになっていたからです。

それからラハブは、二人の斥候に、「私はあなた方を助けました。どうか、今度は、あなた方が私と私の家族を救ってください。」と要求すると、二人は、窓に赤いひもを結び付けておくようにと言いました。やがてイスラエルがこの地に攻め入るとき、その赤いひもが目印となって、彼らを救うためです。そのようにして、ラハブとその家族が救われました。これは、イエス・キリストの十字架の血の象徴でした。キリストの十字架の血を受け入れる者は誰でも救われるのです。

たとえ遊女のように汚れた者であっても、たとえ神から遠く離れた異邦人であっても関係ありません。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。遊女ラハブの名がここに記されてあるのは、そのことを示すためだったのです。

キリストの系図に出てくる三人目の女性はルツです。ルツのことは旧約聖書の「ルツ記」に書かれてあります。ルツも信仰深い女性でしたが、モアブ人でした。モアブ人は、異邦人の中でも最も嫌われていた民族でした。というのは、かつてモアブの娘たちがイスラエルの民を惑わして不道徳と偶像崇拝に導いたからです。その出来事は民数記25章1~3節にありますので、後でご覧いただけたらと思います。それで、モアブ人は「主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」(申命記23:3)と厳しく命じられていました。そのモアブ人ルツの名前がここに記されてあるのです。どうしてでしょうか。それはルツが素敵なお嫁さんだったからではありません。それは彼女の信仰のゆえでした。

二人の息子を亡くした姑のナオミが、「あなたがたは、それぞれ自分の家へ帰りなさい。そして、いい人を見つけて再婚しなさい。神があなたがたに恵みを賜りますように。」と言ったのに、ルツは、「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言って、ナオミについてベツレヘムまでやって来ました。つまり、彼女はモアブ人でありながら、ナオミの信じていたイスラエルの神、主を信じのです。

それだけでありません。ルツの名前がここに記されてあるのは、彼女の信仰がすばらしかったというだけでなく、彼女がベツレヘムで誠実で、忠実な信仰の人ボアズと出会い、結婚したからです。ベツレヘムに戻ったナオミは、苦しい生活の中にあって、ルツが落ち穂ひろいをして生計を立てていました。その麦畑の主人がボアズでした。彼はルツをあわれみ、買い戻しの権利という権利を使って、やもめとなっていた彼女を自らの妻として迎え入れました。実は、このボアズはイエス・キリストのひな型でした。ですから、これはキリストとその花嫁である教会がどのようなものなのかを示しているのです。つまり、そこにはユダヤ人とか異邦人といった区別は全くなく、キリストにあって一つであるということを表していたのです。

村の人々はみな、ルツとボアズを祝福し、こう言いました。「どうか、主がこの娘を通してあなたに授かる子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」(ルツ4:12)

タマルがユダに産んだペレツの家とは、先ほど見てきたとおりです。ルツとボアズの家がその家のようになりますようにというのは、その系統を引き継いでいるということです。そのペレツの子孫であるボアズからオベデが生まれます。このオベデは、ダビデのお祖父ちゃんに当たります。そこからキリストは生まれてくるのです。神様の不思議な救いの計画が、ここにも脈々と流れているということです。そのために用いられたのがルツであり、ボアズでした。神様は本当に不思議なことをなさいます。

キリストの系図に出てくる4人目の女性は「ウリヤの妻」です。これはバテ・シェバのことです。でもマタイは「バテ・シェバ」と書かないで「ウリヤの妻」と書きました。どうしてでしょうか。それは彼女が他人の妻であったからです。ダビデはその他人の妻と関係を持って妊娠させてしまいました。そればかりか夫のウリヤを戦場に送り、計略によって戦死させ、その事実をもみ消そうとしました。その出来事はⅡサムエル記11章にありますので、後でご覧ください。ダビデは姦淫をし、何と殺人までも犯してしまったのです。名君と言われ、ユダヤ人が誇りに思っていたダビデが、このような大きな罪を犯したのです。これはユダヤ人にとっては耳痛いことでした。触れられたくない事実でした。でもあえて神はマタイを通してそのユダヤ人たちの誇りを打ち砕くかのように、ウリヤの妻という形でここにその事件のことを記したのです。

こうやって見ると、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかに異邦人の血が混じっていたり、決して純粋ではなく、そのうえ数々のスキャンダルや罪の汚点があったことがわかります。イエスは、そうした人間の罪の中から生まれてくださいました。それは、罪深い人間をあわれまれ、罪人を救うためです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15-16)

マタイはこれらの4人の女性の名前をあげることで、そうした事実を思い起こさせているのです。

それは、この4人の異邦人の女性だけでなく、7節以降の南ユダ王国の王たちの歴史や、12節以降に出てくる人物を見てもわかります。私たちは今ちょうど礼拝でエレミヤ書を、祈祷会で列王記第一を学んでいますが、そこに出てくる王たちの歴史は、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝にふけり、主の律法に背いた悪しき王たちです。その結果として王国の滅亡とバビロン捕囚がもたらされるわけです。

12節以降は、バビロン捕囚後の系図ですが、ここに出てくる人物は、旧約聖書の中に名前も出てこない人たちです。文字通り名もなき人々の系図が記されてあるのです。そしてついにはイエスの父ヨセフが生まれますが、ヨセフはかつてのダビデ王家の血筋も今は昔で、ナザレでひっそりと大工業を営む家となっていました。

ですから、マタイの福音書がこの系図の冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記していても、事柄はそう単純ではなく、旧約聖書に預言された救い主メシヤの訪れはまさに主の救いのご計画と人間たちの歴史、苦難と栄光、光と影の織りなす歴史であったことがわかります。その中からイエス・キリストは生まれてきたのです。私たちは、この方を私たちは救い主としてお迎えするのです。マタイが伝えたかったのはそのことだったのです。

Ⅲ.神の完全な救いのご計画(17)

最後に17節を見て終わりたいと思います。17節にはこうあります。「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を三つに大きく区分しています。それは、アブラハムからダビデまでの全部で十四代の期間と、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、そして、バビロン捕囚からキリストまでの十四代です。

しかしよく見ると、この系図はマタイの福音書がある意図をもって「十四代」ごとにまとめ上げたものであることがわかります。たとえば、これはもともとこの部分は旧約聖書の中の歴代誌第一3章にある系図を基に書かれてありますが、それと読み比べてみると、マタイ1章8節には「ヨラムがウジヤを生み」となっていますが、実際にはヨラムとウジヤの間にいるアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王が抜けていることがわかります。また、11節にはヨシヤがエコンヤを生みとありますが、実際にはその間にエホヤキムがいて、彼の名が省略されています。さらに12節には、シェアルティエルがゼルバベルを生みとありますが、その間のペダヤが省略されています。これはどういうことかというと、マタイはそういう操作をしてまで、「14」という数字にこだわったということです。

旧約聖書においては「7」という数は完全数と呼ばれ、完全さの表れを意味しています。「14」はその倍です。さらなる完全さを象徴していたのです。完全の完全です。マタイはこのことを踏まえつつ、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの時が一つの完全な時であったことを示すことで、神の救いのご計画が完全な神の御業であったことを示しているのです。また、マタイはこのように系図をたどることによって、アブラハムに約束された神の救いが、いよいよ実現しようとしていることを思い起こさせているのです。そういう意味でこの系図は旧約聖書と新約聖書を結び付ける上できわめて重要なものであると言えます。マタイの福音書が新約聖書の冒頭に置かれたのは、単なる偶然ではなく、神の完全なご計画であったのです。

このような完全な神のご計画の前に、私たちに求められていることは、私たちも神の救いの約束の確かさ、完全さを信じて、アブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを救い主として受け入れることなのです。

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:2-4)

あなたはどうですか。聖書に、このようにあらかじめ約束されていた御子イエス・キリストを信じ、この方に従っているでしょうか。主の御名を呼び求める者は、みな救われます。あなたもアブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを信じてください。

エレミヤ12章1~6節「どうして、どうして、どうして」

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きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

Ⅰ列王記19章

 今日は、列王記第一19章から学びます。

 Ⅰ.自分の死を願ったエリヤ(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。4節までをお読みします。「1 アハブは、エリヤがしたことと、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととの一部始終をイゼベルに告げた。2 すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」3 彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、4 自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」」

18章には、エリヤとバアル預言者との戦いが記されてありました。1対450です。火をもって答える神、それが真の神です。まずバアルの預言者450人が一日中祈りました。しかし、何も起こりませんでした。次にエリヤが祈ると、雄牛にたくさんの水をかけたのにも関らず、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くしました。それによって、主こそ神であることが明らかとなりました。エリヤが勝利したのです。それでエリヤは、バアルの預言者たちをキション川で殺しました。今回の箇所は、その後の出来事です。

アハブはカルメル山でエリヤがしたこと、また、預言者たちを皆殺しにしたことの一部始終を、妻のイゼベルに報告しました。するとイゼベルは使者をエリヤのところに遣わして、こう言いました。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」

どういうことでしょうか。24時間以内にエリヤを殺すということです。もしそれが達成できなかったら、神々が自分を幾重にも罰せられるように、つまり、自分のいのちにかけてエリヤを殺すということです。ここに彼女の並々ならぬ決意が表れています。

それを聞いたエリヤはどうしたでしょうか。彼は、イゼベルのことばを恐れてベエル・シェバまで逃亡しました。イズレエルからベエル・シェバまでは、南に約 160㎞も離れています。どうしてそんな所まで逃げたのでしょうか。そこまで逃げれば大丈夫と思ったのでしょう。しかし、それで彼の恐れは消えることがありませんでした。彼は若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行くと、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言いました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

エリヤは、自分の死を願うほどのひどい鬱状態に陥りました。信じられません。私たちは前の章で彼の信仰について学びましたが、彼は「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」(18:15)と言って、カルメル山で450人のバアルの預言者と対決して勝利した人です。それなのに今、たった一人の異教徒の女イゼベルの脅しによって恐れを抱き、逃げられるところまで逃げて、自殺願望まで抱くようになるなんて考えられません。どうして彼はそんなに恐れたのでしょうか。霊的大勝利を体験したエリヤほどの信仰者であっても、このような状態に陥ることがあります。いや、不思議なことですが、こうした大活躍をした後こそ、このような状態に陥ることが多いのです。いったい何が問題だったのでしょうか。

3節をご覧ください。ここには「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うために立ち去った」とあります。彼は、自分のいのちを救おうとしました。言い換えると、神様から目を離してしまいました。彼は神様ではなく、自分自身に目を向けました。自分、自分、自分と、自分に関心が向いてしまうと、このように落ち込んでしまいます。でも、自分から神様に目を向けると守られます。イエス様もこのように言われました。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」(ヨハネ2:25)自分のいのちを愛そうとする者は、いのちを失うことになります。でも自分ではなく神様に目を向けるなら、守られます。エリヤの関心は自分のいのちを救うことでした。エリヤも普通の人でした。神から目を離した瞬間に、恐れに支配されてしまいました。その結果、恐れと落胆、孤独と失望にさいなまれてしまうようになったのです。

次に、5~8節までをご覧ください。「5 彼がエニシダの木の下で横になって眠っていると、見よ、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言った。6 彼が見ると、見よ、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入った壺があった。彼はそれを食べて飲み、再び横になった。7 主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。8 彼は起きて食べ、そして飲んだ。そしてこの食べ物に力を得て、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブに着いた。」

エリヤがエニシダの木の下で横になって眠っていると、一人の御使いが彼に触れ、「起きて食べなさい」と言いました。死を願うほどひどく落ち込んでいたエリヤを癒すために主が取られた方法は、食事を取らせることでした。体調を守り、肉体を整えようとされたのです。

彼が見てみると、そこに焼け石で焼かれたパン菓子一つと、水の入った壺があったので、彼はそれを食べ、また飲みました。それを食べて飲むと、彼は再び横になりました。相当疲れていたのでしょう。再び横になり眠ってしまいました。そこで御使いがもう一度彼に触れ「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのですから。」と言うと、エリヤは起きて食べ、そして飲んで力が与えられました。すると彼は、四十日四十夜歩いて、神の山ホレブまでやって来ました。なぜホレブまでやって来たのでしょうか。誰も神の山ホレブに行くようになんて言っていません。そこはかつてモーセが神から律法を受けた場所です。おそらく彼は、そこに行けば神からの新しい啓示が与えられるのではないかと思ったのでしょう。しかし、それは神の指示によるものではなく、自分勝手な判断によるものでした。これまでのエリヤの働きはすべて神からの指示によるものでした。たとえば、ケレテ川のほとりに行ったのも(Ⅰ列王17:3)、また、ツァレファテのやもめのところに行ったのもそうです(Ⅰ列王17:9)。アハブに会いに行った時もそうです(Ⅰ列王18:1)。つまり、神の御心から外れて自分勝手な道を歩み始めると、日々の生活の方向性を失ってしまい、信仰の漂流が始まるのです。そんなエリヤに、主は何と言われたでしょうか。

Ⅱ.ここで何をしているのか(9-18)

次に、9~18節をご覧ください。「9 彼はそこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごした。すると、主のことばが彼にあった。主は「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言われた。10 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」11 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。13 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立った。すると声がして、こう言った。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」14 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」15【主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」」

神の山ホレブに着いたエリヤは、そこにある洞穴に入り、そこで一夜を過ごししまた。すると主は彼にこう言われました。「エリヤよ、ここで何をしているのか」。どういうことでしょうか。このことばで、神はエリヤに何を問うておられたのでしょうか。

彼は神の御心から外れて日々の生活の方向性を見失っていました。彼は本来いるべきところにいなかったのです。そこで主は彼に「ここで何をしているのか」と問われたのです。つまり、あなたはどこにいるのか、あなたはわたしが望んでおられるところにいるのかと問われたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。彼は10節でこのように答えました。「私は万軍の神、主に熱心に仕えました。しかし、イスラエルの子らはあなたとの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っています。」

エリヤは、「ただ私だけが残りました」と言っています。これは事実ではありません。アハブ王の側近であるオバデヤがすでに、主の預言者100人をほら穴に隠して養っていたことをエリヤは知っていました。それなのに彼は自分だけが主に仕えていると言いました。エリヤは、落胆と孤独で事実が見えなくなっていたのです。否定的なことしか見ることができなくなっていました。私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。たとえば、長いこと病気でいると、どうして自分ばかりこんなに辛い思いをしなければならないのか・・と。つまり、自分の置かれた状況に振り回されてしまうのです。

それに対して主は何と言われましたか。11節です。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると主が通り過ぎて行かれました。でもそこには主はおられませんでした。大風が山々を裂き、岩々を砕きましたが、そこにも主はおられませんでした。風の後に地震が起こりましたが、その火の中にも主はおられませんでした。そうした激しい自然現象の中には、主はおられませんでした。ではどこにおられましたか。火の後です。火の後に、かすかな細い声がありました。それは主の声でした。エリヤはそれが主の声でだとわかったので、すぐに外套で顔をおおい、外に出て洞穴の入り口に立ちました。エリヤが外套で顔をおおったのは、神に対する畏怖の念があったからです。

すると声がしました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」主はここで彼に同じ質問を繰り返されました。その質問に対してエリヤも同じ答えを繰り返しています。彼は依然として否定的な面にしか目を向けることができないでいました。なぜでしょうか。エリヤはこれまで多くの奇蹟を見ていきましたが、そのような奇蹟をもたらすのが万軍の主だと思い込んでいたからです。しかし主は、そのような奇跡の中だけにおられるのではありません。むしろ、そうしたことにばかり目が行ってしまうと、そうでない現実に疲れや落胆を抱くようになってしまいます。でもこのような奇跡が私たちを動かすのではなく、ただ自分の内に語られる神様のかすかな細い声、しずかな声によって私たちは動かされるのです。エリヤも激しい自然現象によってではなく、かすかな細い声に動かされて、ほら穴から出て来ることができました。この神のかすかな細い声が、私たちを人生の洞穴から導き出してくださるのです。その声が、私たちのじたばたやもがきを止めてくれるのです。私たちはこの声を聞くべきなのです。

Ⅲ.エリヤの後継者エリシャ(15-21)

最後に、15~21節をご覧ください。15~18節をお読みします。「15 主は彼に言われた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油を注いで、アラムの王とせよ。16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。17 ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺す。18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

エリヤは、自分がどういうことをしたのか、他のイスラエルの民は何をしたのかとなど、いろいろな事を主の前に並べ立てました。しかし、主にとってそんなことはどうでも良いことでした。主が求めておられたことは、エリヤが自分に与えられている使命を果たすことだったのです。

そこで主は彼に、主は新しい使命を与えられました。それは、ダマスコの荒野へ帰って行き、そこでハザエルに油を注いで、アラムの王とすることでした。また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とすること、そして、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、彼に代わる預言者とすることでした。アラムの王ハザエルは、偶像礼拝と不信仰に陥っていたイスラエルの民を裁く器となります。また、ニムシの子エフーは、北イスラエルの王アハブの家を罰し、滅亡させる器となります。シャファテの子エリシャは、エリヤに代わる預言者となります。この3人は、エリヤが始めたバアル撲滅運動を完成させる器なのです。ハザエルの剣を逃れる者をエフーが殺し、エフーの剣を逃れる者をエリシャが殺します。そんなことをしたらイスラエルにはだれも残らなくなってしまうんじゃないですか。いいえ、違います。主はこのように約束してくださいました。18節です。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。これらの者はみな、バアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちである。」

ここで、エリヤの過剰なまでの自負心と孤独に対する最終的な解決が与えられます。それが、七千人の残りの者たちです。この「イスラエルの残りの者たち」(レムナント)という概念は、エリヤの時代に明らかになりました。彼らは、各時代にあって主を信頼した真の信仰者たちです。イスラエルの残れる者は、いつの時代にあっても少数者です。そしてそれは、イエスの時代も、使徒たちの時代も、さらに今の時代も、変わることがない真理なのです。

ですから、クリスチャンが少ないからと言って、悲しむ必要はありません。真の信仰者は、いつの時代であっても少数者だからです。それよりも、少数者でもバアルに膝をかがめず、バアルに口づけしなかった者たちがいることを喜び、感謝すべきです。エリヤは「自分だけが」という思いから深い孤独と絶望の中にいましたが、自分だけでなく、何と多くの兄弟姉妹たち、同労者たちに囲まれているということを知り、励ましと慰めを受け鬱から解放されたのです。立ち上がることができました。

19~21節をご覧ください。「19 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。」

そればかりではありません。彼はもう一つの事実を知って、完全に立ち直ります。それは、後継者が備えられていたという事実です。エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャのところへ行きました。エリシャの出身はアベル・メホラです。すなわち、彼はシナイ山から、アベル・メホラまでやって来たということです。アベル・メホラは、死海とガリラヤ湖の中間にあるヨルダン渓谷の町です。エリシャは12くびきの牛を先に立て、その12番目のくびきのそばで耕していました。農作業に従事していたということです。

エリヤが彼のところを通り過ぎると、彼はエリシャに自分の外套を彼に掛けました。この外套を掛けるという行為は、自分の後継者として選んだということです。エリシャはそれをすぐに理解して、それで自分の職を捨て、エリヤに従っていきます。そして、こう言いました。

「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」

どういうことでしょうか。エリヤについて行く前に、父と母に挨拶させてください。それからあなたに従って行きますと。するとエリヤは、「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」と言いました。これは「あなたの思うようにしなさい」ということです。これはあなたと神様との問題なのだから、神の召しに答えるのに、自分がとやかく言えるものではないといった意味です。

エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせてからエリヤについて行きました。エリシャは家族のためにさよならパーティーを開き、その後でエリヤについて行ったのです。

主はエリヤに、イスラエルの中にバアルに膝をかがめず、口づけしなかった七千人を残すと言われましたが、ここでは、彼の後継者として、神の働きを行う者を備えておられました。神の働きは決して途絶えることはありません。神は、いつの時代も、ご自身のしもべを用意しておられるのです。このことを通して、エリヤは完全に孤独と落胆から解放されました。彼は「自分だけが・・」と思っていましたが、実際には自分だけでなく、バアルに膝をかがめない、口づけしない七千人の勇士と、彼の働きを受け継ぐエリシャが備えられていることを知って、大いに励ましを受け、そこから立ち上がることができたのです。

それは私たちも同じです。私たちも恐れや困難に直面すると自分のことしか見えなくなってしまいます。「自分だけが・・・」と、孤独と落胆に陥ってしまうのです。しかし、実際はそうではありません。神様は少数者でも私たちと同じように主に信頼する真の信仰者を残しておられるのです。そればかりか、この働きを担う後継者までちゃんと用意しておられるのです。あなたは決して一人ではないのです。あなたはその事実をきちんと見なければなりません。

エリヤは神様によってその事実を見せられることによって大いに励ましを受け、孤独と落胆から立ち上がることができました。私たちもこの事実をしっかりと見ましょう。そして、そこに励ましと慰めを受けたいと思います。それはかすかな主の御声を聞くことから始まります。御声によってその事実に目が開かれるとき、あなたはあなたの目を自分から神に向けることができるようになり、神に感謝することができるようになるのです。

エレミヤ11章11~23節「実りの良い、緑のオリーブの木」

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きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」
 主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは既に7:16にもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権であるらです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分の言うことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにもちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神様との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話の線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「それで」とか、「そこで」という接続詞があります。

「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」    

つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、それらは、決して彼らを救わないということです。「犠牲を供えている神々」とは、偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまであちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけのことです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決はあなたが罪を悔い改めて、真の神に立ち返ることです。あなた自身が変えられることです。そのことを忘れないでください。

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。ヨシヤ王の宗教改革はB.C.621年でした。その時ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後(B.C.609)、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていました。元の状態に戻ってしまったのです。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

これは私たちにも言えることです。信仰が単なるパフォーマンスになってしまうことがあります。信仰が私たちの生活の中に根差し、私たちの生活を変えるところまでいかないことがあるのです。私たちも考えなければなりません。私たちの中には、町の数のほどの偶像はないかということを。私たちの中心に主イエスがおられ、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神の御霊が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように祈りましょう。

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

これは、とりなしの祈りの禁止令です。ここで主はエレミヤに、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的にはいけにえをささげるために来ていましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかというのです。彼らの神殿で行う宗教的儀式というは彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。主はかつて彼らの名を「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれました。ところが、その美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。それは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。こうしてイスラエルはみな救われます。神の賜物と召命は変わることがないからです。すごいですね、神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

にもかかわらず、その「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主が」とありますが、彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル神を礼拝して、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が接ぎ木してくださったからであり、一方的な神の恵みによるのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうことがあるということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことをすっかり忘れてしまいます。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満といったものが消え去り、感謝が満ち溢れるようになるのではないでしょうか。

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。それを計画していたのは何と、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。彼らはエレミヤの語る主のことばを聞いて「ウザい!」と思っていました。そして彼を殺そうとしていたのです。エレミヤ当初その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださいました。

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、そのような時に限って、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

  • 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
  • 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
  • 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
  • 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それが21~23節にあることです。それは、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

あなたはどうですか?不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。一難去ってまた一難です。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。

Ⅰ列王記18章

 

 今日は、列王記第一18章から学びます。

 Ⅰ.主を深く恐れていたオバデヤ(1-15)

まず、1~6節までをご覧ください。「1 かなりの日数を経て、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」2 そこで、エリヤはアハブに会いに出かけた。そのころ、サマリアでは飢饉がひどかった。3 アハブは宮廷長官オバデヤを呼び寄せた。オバデヤは主を深く恐れていた。4 かつてイゼベルが主の預言者たちを殺したときに、オバデヤは百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養ったのである。5 アハブはオバデヤに言った。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておく草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない。」6 二人はこの国を分けて巡り歩くことにし、アハブは一人で一つの道を行き、オバデヤは一人で別の道を行った。」

干ばつが始まって3年目に、アハブに会いに行くようにという主のことばが、エリヤにありました。それは「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らそう。」というものでした。それでエリヤは、アハブに会うためにサマリアに出かけて行きました。というのは、特にサマリアでの飢饉がひどかったからです。これは、主に敵対するアハブとイゼベルに向けられていたものだったのです。

アハブには宮廷長官でオバデヤという名の家臣がいました。彼は主を深く恐れていました。彼は、かつてアハブの妻イゼベルが主の預言者たちを殺したときに、百人の預言者たちを救い出し、五十人ずつ洞穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養いました。飢饉のときに、百人分の食料を調達するのは容易なことではありません。それは信仰がなければできないことです。彼は主を深く恐れていたので、アハブに背いても主に従ったのです。

極悪な王アハブのもとで、北王国イスラエルがバアル礼拝へと向かっていた中でも、彼のように真実な信仰を持っていた人が残っていたということは驚きです。そして、神は今もこのような少数の者たちを残しておかれ、彼らを用いて、ご自身の御業を行っておられるのです。ですから、クリスチャンが少ないからと言ってがっかりしないでください。数が問題なのではありません。問題はそこにオバデヤのような神を恐れる真の神の民がいるかどうかということです。私たちの置かれている状況がどうであれ、私たちはいつも「私と、私の家とは主に仕える」という信仰に堅く立っていなければなりません。

アハブはオバデヤに言いました。「国内のすべての水の泉や、すべての川に行ってみよ。馬とらばを生かしておくための牧草が見つかり、家畜を絶やさないですむかもしれない」と。馬とらばは、戦いに必要な家畜です。ですから、何とかして家畜を絶やさないようにしたかったのです。それで、アハブとオバデヤは、国を分けてそれぞれ別の道を巡り歩くことにしました。その方が効率がよいからです。

7~15節をご覧ください。「7 オバデヤがその道にいたところ、エリヤが彼に会いに来た。オバデヤにはそれがエリヤだと分かったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」8 エリヤは彼に答えた。「そうです。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」9 すると、オバデヤは言った。「私にどんな罪があると言うのですか。あなたがこのしもべをアハブの手に渡し、殺そうとされるとは。10 あなたの神、主は生きておられます。私の主人があなたを捜すために人を遣わさなかった民や王国は一つもありません。その王国や民が、あなたはいないと言うと、主人は彼らに、あなたが見つからないという誓いをさせています。11 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。12 私があなたから離れて行っている間に、主の霊はあなたを私の知らないところに連れて行くでしょう。私はアハブに知らせに行きますが、あなたを見つけられなければ、彼は私を殺すでしょう。しもべは子どものころから主を恐れています。13 あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。14 今、あなたは『行って、エリヤがここにいるとあなたの主人に言え』と言われます。彼は私を殺すでしょう。」15 すると、エリヤは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」」

オバデヤが道を歩いていた時、エリヤが彼に会いにやって来ました。オバデヤはそれがエリヤだとすぐにわかったので、その場にひれ伏しました。彼はエリヤに、「あなたはわたしの主人エリヤではありませんか」と言いました。それは、エリヤに対する恐れと尊敬の表れでした。エリヤが預言したとおり干ばつが起こったことを知っていたオバデヤは、エリヤを恐れていたのです。

エリヤはオバデヤに、「そうです」と言うと、「行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」と言いました。あなたの主人とはアハブ王のことです。

するとオバデヤは大いに恐れました。なぜ?エリヤが自分をアハブに渡し、殺すのではないかと思ったのです。どういうことかというと、これまでアハブはエリヤを殺そうといろいろなところに人を遣わして捜させましたが、「いない」と報告すると「本当か?」と言って誓いまで書かせていました。もし自分がそのエリヤがいることをアハブに報告している間にエリヤ本人がいなくなってしまったら、自分が殺されるのではないかと思ったのです。12節でオバデヤが言っていることはそういうことです。自分がアハブのところに報告にいっている間に、主の霊が彼をどこか知らないところに連れて行くことがあれば、私は殺されてしまうことになると言っています。エリヤは3年間アハブから逃れて隠れた生活をしていました。そのためエリヤは「主の霊」によって取り去られたのではないかという噂が広がっていたのです。そんなことが私の身に起こったら大変です。子どものころから主を信じ、主を恐れている自分にそのような悲劇があるとしたら、あまりにも理不尽です。

オバデヤは自分がしてきたことをエリヤに伝えます。13節です。「あなたには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつ洞穴に隠し、パンと水で彼らを養ったのです。」

彼がしたことは、主の預言者たちの間ではよく知られていました。当然、エリヤにも知らされていたはずです。彼はいのちがけで主の預言者をかくまい、彼らを養ったのです。そんな自分に災難が降りかかるようなことをしないでくださいとお願いしているのです。

するとエリヤは何と言ったでしょうか。15節をご覧ください。彼はこう言いました。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。私は必ず、今日、アハブの前に出ます。」

エリヤは、自分のいのちを狙っているアハブの前に出ることは相当の恐れがあったと思いますが、彼が仕えている主は万軍の主であって、今も生きておられるお方であると信じていました。であれば、主は必ず守ってくださいます。その信仰をもって、今日、アハブの前に出ると言っているのです。どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。

エリヤは最初からこのような信仰を持っていたわけではありません。17章にあったことを思い出してください。彼はまずケレテ川のほとりに身を隠せと主から言われたのでそのようにすると、主は烏をもって彼を養ってくださいました。毎日、朝と晩に、肉とパンを運んできたのです。それから主はエリヤを、ツァレファテのやもめのところに遣わされました。このやもめは本当に貧しく、かめの中には一握りの粉と、壺の中にはほんの少しの油しか持っておらず、それを自分の息子のために調理して食べて、死のうとしていました。しかし、「主が血の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、壺の油はなくならない。」という主のことばを信じて従うと、そのことばの通りになりました。エリヤはこうしたケレテ川での体験や、ツァレファテのやもめの家での体験を通して信仰が強められ、揺るぎないものとなっていきました。それがこのことばの中に表れているのです。私たちも試練を通して練られ、強くされていきます。そうした苦難を通して信仰が養われていると信じ、神の御業を体験させていただきたいと思います。

Ⅱ.バアルとアシェラの預言者たちとの戦い(16-40)

次に、16~29節をご覧ください。「16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」

20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。22 そこで、エリヤは民に向かって言った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23 私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。24 おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。」

25 エリヤはバアルの預言者たちに言った。「おまえたちで一頭の雄牛を選び、おまえたちのほうから、まず始めよ。人数が多いのだから。おまえたちの神の名を呼べ。ただし、火をつけてはならない。」26 そこで彼らは、与えられた雄牛を取って、それを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んだ。「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。27 真昼になると、エリヤは彼らを嘲って言った。「もっと大声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席を外しているか、旅に出ているのだろう。もしかすると寝ているのかもしれないから、起こしたらよいだろう。」28 彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29 このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。」

オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来ました。アハブはエリヤを見るやいなや、エリヤに言いました。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は」。アハブは、エリヤがイスラエルに災いをもたらしていると思っていたのです。

それに対してエリヤは何と言いましたか。エリヤはこう言いました。18節、「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている」。イスラエルに災いをもたらしているのは自分ではなく、アハブと彼の家族であると指摘し、彼らが主の命令を捨てて、バアルの神々に従っている結果だと告げたのです。

そこでエリヤは続けてこう言いました。「今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」(19)

どういうことですか。真の神はだれなのかということです。エリヤが信じている万軍の神、主なのか、それともバアルなのかということです。そのことをはっきりさせようではないかというのです。それをはっきりさせるために、バアルの預言者とアシェラの預言者をカルメル山にいる私の自分のところに集めよ、といったのです。巻末の地図をご覧ください。カルメル山は、イズレエル平原の北西にある地中海沿岸から南東に伸びる、標高およそ520メートルの山脈です。そこに450人のバアルの預言者と、400人のアシェラの預言者を集めるようにというのです。この預言者の数によって、当時の北王国イスラエルにおけるバアル礼拝の規模がどれほどのものであったかを想像することができます。それは相当の規模でした。

ここに彼らの問題の真の原因がありました。北王国イスラエルの物質的問題も霊的問題も、すべて主を退けバアルやアシェラといった偶像を礼拝していたことにあったのです。私たちも、自分が直面している問題の真の原因はどこにあるのかを考えなければなりません。それらすべての問題の原因は、神を神としないで、偶像を礼拝していることにあります。あなたのバアルは何でしょうか。あなたのアシェラは何でしょうか。私たちはバアルやアシェラといった目に見える偶像を拝むことはしていないかもしれませんが、神以上に愛するものがあるなら、それがあなたの偶像なのです。神を神として認め、この神を第一として歩むなら、神があなたを祝福してくださいます。

昨日、「1対1弟子養育聖書研究」という本を学んでいたら、サタンは「この世」を通して私たちクリスチャンを攻撃してくるとありました。そこに次のようなケースが紹介されていました。

ある若い夫婦が熱心に主に仕えていましたが、急に教会に出席するのを止めました。その理由を探ってみると、彼らが一生懸命に貯めたお金で家を勝ってから、妻は家を飾ることに神経を使い、夫は車を買うお金を稼ぐために仕事により多くの時間と勢力を費やすようになったということです。家と車を買うこと自体は罪ではありませんが、彼らがそれらを神様よりもってと愛したので、ついにサタンの誘惑に負けてしまったのです。私たちはこのような試みにどのように対処すべきでしょうか。

私たちの心を攻撃するこの世の心配が、短い人生の中で比重を占めています。今日のような物質主義、消費主義の社会においては、もっとそうなります。町の中で豪華なレストランやお店などが私たちを誘惑します。また、高級乗用車などが私たちの関心を引きます。このような誘惑は神様に対する私たちの愛が冷え始めると、その空白の中に入って来ます。このような外敵な試みは逃げて解決できるものではありません。この世を通して入って来た試みはこの世から逃げるよりは、神様に対する自分の愛がどうであるかで決まります。そのためには、自分の敬虔の生活を顧みなければなりません。

20節をご覧ください。そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めました。カルメル山は、バアル礼拝の聖地です。つまり、バアル神の力が最も発揮される所と言っていいでしょう。そこが霊的戦いの場となりました。しかし、エリヤにとってそんなことは問題ではありませんでした。むしろ、カルメル山がそのような所だからこそ、バアルの預言者たちとの戦いには最適なところだと考えたのです。本当の神はどちらかが明らかになるからです。

エリヤはイスラエルの民、皆の前に進み出て何と言いましたか。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」(21)

イスラエルの民は、主なる神とバアルの間を揺れ動いていました。いつまでもどっちつかずによろめいていたのです。それはよいことではありません。もし主が神であるならば主に従い、バアルが神であるなら、バアルに従えばいい。どっちつかずにいることを「二心」と言います。ヤコブ1:8-9にあるように、そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は、歩むすべてにおいて心が定まっていないのです。どちらかに決めなければなりません。主に仕えるのか、バアルに仕えるのか。しかし、イスラエルの民は一言も答えることができませんでした。

そこで、エリヤは民に向かって言いました。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。」(22)1対450です。エリヤは、彼以外にも主の預言者がいたことを知っていましたが(18:13)、この戦いに関しては、彼一人でした。敵は450人もいました。人間的に見れば勝敗は決まっているかのようですが、エリヤは自分の仕えている神は万軍の主であって、生きておられる神であると信じていたので、ただ主に信頼して戦いました。

彼は、2頭の雄牛を全焼のいけにえために用意するように命じました。そして、相手に自分たちの気に入った牛を選ばせ、それを切り裂いて薪の上に乗せるようにと言いました。そして、それぞれの神の名を呼んで、その呼びかけに対して、火をもって答える神が真の神であるということでよいかを確かめると、民が「それがよい」と言いったので、いよいよここにバアルの預言者たちとエリヤとの戦いの幕が下されました。

エリヤはバアルの預言者たちから始めるようにと言いました。人数が多かったからです。そこで彼らは、自分たちが選んだ雄牛を取って、朝から真昼までバアルの名を呼びました。「バアルよ、私たちに答えてください。」と。バアルは、天から雨を降らせ、作物を実らせる豊穣の神です。また、天から稲妻を降らせる神でもあります。ですから、彼らは必死になって彼らの神、バアルの名を呼びました。この光景がよく聖書の紙芝居に描かれていますが、おもしろいですね。阿波踊りのような格好で自分たちが造った祭壇のあたりで踊り狂っています。でも結果はどうだったでしょうか。何の声もありませんでした。何の声もなく、答える者もありませんでした。

それを見ていたエリヤは彼らを嘲って言いました。「もっと大きな声で読んでみたらどうか」「彼は神なのだから、呼べばきっと答えてくれるはずだ」。「もしかすると何かに没頭しているのかもしれない。旅に出ているのかな。もしかすると寝ているのかもしれない。」「だから、もっと大きな声で叫んで起こした方がいいんじゃないか」。

それで彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちのからだに傷つけたりしました。しかし、それでも何の声もなく、答える者もなく、注目する者もありませんでした。バアルには実体がないからです。偶像礼拝とは、実体のないものを神として礼拝しているだけのことです。それはただ森から切り出された木や石に、金箔とか、銀箔を塗っただけのものにすぎません。中身がないのです。ですから、どんなに叫んでも聞かれることはありません。空の空、すべては空です。偶像を拝む者もこれと同じです。それは空しいだけなのです。

それに対して、エリヤはどうしたでしょうか。30~40節をご覧ください。「30 エリヤが民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言ったので、民はみな彼に近寄って来た。彼は、壊れていた主の祭壇を築き直した。31 エリヤは、主がかつて「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって、十二の石を取った。32 その石で、彼は主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。33 それから彼は薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に載せ、34 「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。それから「もう一度それをせよ」と言ったので、彼らはもう一度そうした。さらに、彼が「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35 水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。

36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」38 すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。39 民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。40 そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕らえよ。一人も逃すな。」彼らがバアルの預言者たちを捕らえると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。」

エリヤは、すべての民を呼び寄せると、まず壊れていた主の祭壇を築き直しました。主の祭壇が破壊されたというのは、彼らの信仰が崩れていたことを表しています。北王国イスラエルは、主からも、主との契約からも、遠く離れた状態にありました。それをまず立て直さなければならなかったのです。すべては主の祭壇を立て直すことから始めなければなりません。それが個人であっても、教会であっても、また国であっても、私たちは壊れた祭壇を立て直すことから始めなければならないのです。あなたの祭壇は壊れていませんか。あなたの心の祭壇を建て直し、主との関係を再建することから始めなければなりません。

次に彼は「あなたの名はイスラエルとなる」と言われたヤコブの子たちの部族の数にしたがって12の石を取りました。これはイスラエル12部族を象徴していました。その石で彼は、主の御名によって一つの祭壇を築き、その祭壇の周りに、2セアの種が入るほどの溝を掘りました。2セアとは、1セアが7.6リットルですから、約15リットルとなります。それほどの水が入る溝を掘ったのです。なぜでしょうか。次のところを見るとわかりますが、これから祭壇に注ごうとしている水が流れ出さないようにするためです。

それからエリヤは薪を並べ、一頭の雄牛を切り裂いて薪の上に乗せると、四つのかめに水を満たし「この全焼のささげものと薪の上に注げ。」と命じました。干ばつが3年以上も続く中、いったいどこからこの水を汲んできたのでしょうか。おそらく、カルメル山の麓のどこかに枯れていなかった泉が残っていたのでしょう。その水を全焼のいけにえと薪の上に3度も注いだのは、これから起こることがトリックではなく、神の御業であることを示すためでした。そのことばの通り3度水を注ぐと、周囲に掘られた溝に水が流れ出しました。エリヤは溝にも水を満たしました。それは絶対にトリックなどではないことを示すためです。

ささげ物をささげるころになると、エリヤは進み出て祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37 私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」

エリヤはどのように祈ったでしょうか。エリヤは、バアルの預言者のようにやみくもに祈ったり、何度も同じことばを繰り返したりはしませんでした。彼はまず、「アブラハム、イサク、イスラエルの神」と呼びました。これは、イスラエルの神は契約の神であるということです。つまり、このことが神のみことばの約束に基づいて行われたことであると訴えているのです。次に彼は、主がこの祈りに応えてくださることによって、神の民であるイスラエルが主こそ神であることを知ることができるように、また、その心を翻してくださるようにと祈りました。

その結果はどうだったでしょうか。38~39節をご覧ください。「すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。民はみな、これを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。」

すると、主の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、何と溝の水もなめ尽くしました。主が勝利したということです。民はこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言いました。民はようやく、主だけが真の神であることを認識したのです。

私たちの誰もが、エリヤが体験したような奇跡を体験するわけではありません。しかし、日々の生活において、神はこのような奇跡を行っておられます。何よりも私たちの存在と生き方がそうなのではないでしょうか。

先週、那須で88歳と83歳の御夫妻が洗礼を受けられましたが、それは東京に住んでおられる一人娘さんの生き方に深く感動してのことでした。鬱で寝たきりの御主人を真心を込めて介護する力は、主イエスを信じる信仰から出ているということを、その姿から伝わってきました。

まことに私たちは取るになりない小さな者ですが、このような小さな者を通して成される主の御業を通して、それを見る人たちが「主こそ神です。主こそ神です。」と告白することができたらどんなに素晴らしいことでしょうか。

Ⅲ.福音のためなら何でする(41-46)

最後に、41~46節をご覧ください。「41 エリヤはアハブに言った。「上って行って、食べたり飲んだりしなさい。激しい大雨の音がするから。」42 そこで、アハブは食べたり飲んだりするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。44 七回目に若い者は、「ご覧ください。人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上っています」と言った。エリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」45 しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗って、イズレエルへ行った。46 主の手がエリヤの上に下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行った。」

「上って行って」とは、カルメル山の山頂に上って行ってということではありません。自分の宿営地に帰って行ってということです。そこで食べてり、飲んだりするようにということです。なぜなら、激しい大雨の音がするからです。干ばつが終わり、もうすぐ雨が降るからということです。だから宴会を開いてお祝いするようにというのです。

すると、アハブは食べたり飲んだりするために上って行きました。彼には悔い改めも霊的洞察力もなく、ただ現状を見てホッとしたのです。何事もなかったかのように振る舞いました。

すると、エリヤはカルメル山の頂上に上り、地にひざまずいて祈りました。「自分の顔を膝の間にうずめる」とは、彼の祈りが真剣なものであったことを表しています。そして若い者に言いました。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」

若い者は上って行って見ましたが、何も見えなかったので「何もありません」と言うと、エリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返しました。そして七回目に上って行ったとき、人の手のひらほどの小さな濃い雲が海から上ってくるのが見えました。するとエリヤはその若者に、アハブにこう伝えるように言いました。「大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。」どういうことでしょうか。

エリヤは、手のひらほどの小さな雲が、やがて大雨に変わることを知っていました。それは、そのように前もって知らされていたからです。しかし、ただ知らされていただけでなく、彼が祈っていたからです。エリヤはずっと祈っていたので、それがどういうことなのかを悟ることができたのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも祈っていなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。しかし、エリヤのように祈り求めていると、確かに約束がかなえられていることを悟ることができるのです。たとえそれが小さな兆候でも。小さな始まりを軽んじてはいけません。

しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい雨になりました。アハブは、その雨の中戦車に乗って、イズレエルへ行きました。それはカルメル山とイズレエル平原の間に、彼が冬を過ごす宮殿があったからです。すると主の手がエリヤに下ったので、彼は裾をたくし上げて、イズレエルの入り口までアハブの前を走って行きました。どういうことでしょうか。カルメル山からイズレエルの入り口までは、約35~40㎞あります。その距離を走り続けるというのは並大抵のことではありません。それは、主から超自然的な力が与えられていなければできなかったことです。エリヤは主の力をいただいて、アハブの車の前を走り続けました。何とかしてアハブを主に立ち返らせようと思ったからです。エリヤは背教の王を主に立ち返らせるために何でもしようと思ったのです。それで、アハブの車の前を35㎞も走ったのです。

このエリヤの姿から、主のしもべとはどのような者なのかを教えられます。彼の行動はすべて福音のため、主の栄光のためでした。主の栄光のために彼は、バアルとアシェラの預言者たちと戦い、主の栄光のために祈りました。主の栄光のためにアハブ王の車の前を何十キロと走り続けました。それは私たちも同じです。福音のためなら何でもするという決意で、ただ主の栄光が現わされることを求めなければなりません。ピリピ1:21で、パウロはこう言っています。「生きることはキリスト、死ぬことは益です。」これがパウロの生き方でした。生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのです。私たちも、私たちの身をもって、ただキリストの栄光が現わされることをひたすら求めて歩もうではありませんか。

エレミヤ11章1~10節「この契約のことばを聞け」

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エレミヤ書11章に入ります。ここから、エレミヤの第三のメッセージが始まります。第一のメッセージは2~6章にありましたが、そこでは、神から離れたイスラエルに対して、神に立ち返れと語られました。第二のメッセージは7~10章にありますが、そこには、神のことばに従わないイスラエルに対する神のさばきが語られました。そしてこの11章から第三のメッセージが語られます。その中心が、この「契約のことばを聞け」ということです。

結論から申し上げますと、この契約のことばに完全に聞き従うことは無理です。これに従おうとすることは大切なことですが、完全に行うことができる人など一人もいないのです。ではどうすればいいのでしょうか。それがきょうのポイントです。この契約のことばが指し示していたものをしっかり見て、そこに歩むことです。それがイエス・キリストです。イエス様の十字架の贖いを受け、神の聖霊をいただいて、新しい契約に生きることこそ、神が私たちに求めておられることなのです。きょうはこのことについてみことばを聞きたいと思います。

Ⅰ.この契約のことばを聞け(1-5)

まず、1~5節までをご覧ください。「1 主からエレミヤにあったことばは、次のとおりである。2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語れ。3 『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。5 それは、わたしがあなたがたの父祖たちに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことを、今日のとおり成就するためであった。』」私は答えた。「アーメン。主よ。」

再びエレミヤに主の言葉がありました。これがいつのことなのか学者によって見解が分かれます。恐らく、南ユダ王国のヨシヤ王が死んだ後のことではないかと思います。ヨシヤ王の時代、大祭司でヒルキヤという人が神殿で律法の書を発見すると(B.C621)、それがきっかけとなって宗教改革につながっていきました。しかし、それは長くは続かずB.C.609年にヨシヤ王がエジプトの王パロ・ネコとの戦いに敗れて死んでしまうと、ユダの民は元の状態に逆戻りしてしまいました。その時に語られたのがこれです。「この契約のことばを聞け。これをエルサレムの住民に語れ。」(2)

この「この契約のことば」とは、かつて神がモーセを通してイスラエルの民と結ばれたあの契約のことば、シナイ契約のことです。それはイスラエルの民がエジプトを出てシナイ山までやって来た時、彼らと結ばれた契約です。ですから、4節に「これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地、鉄の炉から導き出したとき、「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」と言って、彼らに命じたものだ。」とあるのです。その契約を結んだ舞台がシナイ山だったので、この契約を「シナイ契約」と言うのです。シナイ契約といっても、契約をしないということではありません。ちゃんと契約をしましたが、シナイ契約と言います。この契約については出エジプト記19:4~5のところに、前提として次のように言われています。

「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」

もし彼らが主の声に聞き従い、この契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって神の宝の民となると約束されていました。つまり、この契約のことばを守るなら祝福されるということです。これがイスラエルの原点でした。ですから、ここで神がエレミヤを通して語っておられることは、この原点に立ち返りなさいということです。そうすれば、祝福されると。それは彼らの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して、乳と蜜の流れる地を与えると誓ったことが成就するためでした。その約束通り主は、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださいました。しかし、その地に住むことと、その地に住んで祝福を味わうこととは別のことです。もしイスラエルの民がその契約を守るなら祝福を味わうことができますが、そうでなければ、のろわれることになります。それが3節で言われていることです。「『イスラエルの神、主はこう言われる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれる。」

これが、モーセを通して神がイスラエルに約束してくださったことばです。この契約のことばを聞く者は祝福されますが、そうでなければのろわれることになります。

しかし残念ながら今、ヨシヤ王が死に人々が再び偶像礼拝に走って行ったことで、主は「もうここまで」と言われたのです。契約のことばを聞かなかった彼らに、のろいがもたらされると宣告をしているのです。奇しくも、申命記28:63のことばが実現しようとしていました。そこにはこうあります。「あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。」(申命記28:63)
 それが今、実現しようとしていました。神の民であるユダヤ人が約束の地から引き抜かれて、彼らの知らない異邦人のところ、つまり、バビロンに捕え移されようとしていたのです。

それに対してエレミヤは何と答えていますか。5節後半のところで彼は、「アーメン。主よ。」と答えています。「アーメン」とは、「その通りです」という意味です。そうなりますように、まことにそうです、ということです。つまり、契約にはペナルティーが伴うということです。もし神のことばに聞き従うなら神の祝福を受けますが、そうでなければのろいを招くことになります。その主のことばに対してエレミヤは、「アーメン、主よ。」と答えたのです。

私の妻は、1979年にカリフォルニア州のガーディナという町にあるカルバリーバプテストという教会から日本に遣わされました。その教会の牧師はアール・キースターという人でしたが、世界宣教、特にアジアの宣教に非常に重荷を持っていました。それは教会を退職してからも同じで、退職後はカールソンという教育担当の牧師をしていた御夫妻とオーカーストという町に移り住み、そこでりんごを栽培しながら後身の指導に当たっておられました。ですから、私たちが行くといつも大歓迎してくれて、私たちの日本での働きについて関心をもって聞いてくれました。

そのオーカーストという町のすぐ近くにアメリカでも有名な「ヨセミテ国立公園」があります。そこは岩肌がとても美しい大自然です。これはそのヨセミテで、1999年10月22日に起こった悲劇です。

この日、プロのパラシューダー(パラシュートを使って地上に曲芸的に降りる人)であるジャン・デイビス夫人が、事故で亡くなりました。ベース・ジャンプという大変危険なスポーツがありますが、彼女は、そのスポーツを行っていたのです。

その日、5人のジャンパーが、960mの絶壁から下に飛び降りる予定でした。彼女は、その4番目でした。しかし、パラシュートが開かないまま20秒間落下し、そのまま岩盤に叩きつけられたのです。彼女の夫は、その様子をビデオに納めていました。他に、数名の記者も同行していました。彼らは、その惨劇に、自分の目を疑いました。

そこは、この危険なスポーツであるベース・ジャンプは禁止されていました。というのも、それまでに6人もの人がそのスポーツでいのちを落としていたからです。

その日集まった5人のジャンパーたちは、ヨセミテ国立公園でのベース・ジャンプが禁止されているのを知っていましたが、皮肉なことに、彼らはベース・ジャンプが危険なものではないことを証明するために、あえて飛んだのです。彼らは、このスポーツの危険性だけでなく、違法性までも知っていました。ジャン・デイビスは、いのちの代価を払ってその償いをしたのです。

それはイスラエルの民も同じです。彼らもこの契約のことばを聞かなければどうなるかということをちゃんと知っていました。にもかかわらず、彼らはそれに聞き従いませんでした。その結果、神ののろいを受けることになってしまったのです。それは、私たちにも言えることです。この契約のことばを聞くなら祝福されますが、そうでなければのろわれてしまうことになるのです。

あるテレビの番組で、最近の若者の文化について特集していました。そこでは、最近の若者は「約束の時間を守らない、借りた物を返さない」ことが特徴だと言っていました。つまり、「いいかげん」な文化であるというのです。このままでは日本の将来が思いやられると嘆いていました。約束を守るということは、住みやすい社会を作るための基本的なルールです。神様と私たちの関係も同じで、約束(契約)というルールで成り立っています。神はイスラエルの民と契約を結ばれました。それは彼らが幸せに生きるためであって、その契約を守るなら祝福されますが、そうでなければのろわれることになるのです。

Ⅱ.わたしの声を聞け(6-8)

それに対して、イスラエルの民はどのように応答したでしょうか。6~8節をご覧ください。「6 すると、主は私に言われた。「これらのことばのすべてを、ユダの町々と、エルサレムの通りで叫べ。『この契約のことばを聞いて、これを行え。7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。8 しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。』」

「この契約のことばを聞け」ということが、何度も繰り返されています。「聞け」というのはただ聞くというだけでなく、聞き従うこと、聞いてそれを行うということです。聞いたらメモをしておこうではありません。聞いたら自分の感じたことをシェアしなさいということでもありません。聞いたら、それを実行しなさいということです。

7節をご覧ください。ここには、「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの地から導き出したとき、厳しく彼らを戒め、また今日まで、「わたしの声を聞け」と言って、しばしば戒めてきた。」とあります。新改訳聖書第三版では「しきりに戒めてきた」と訳しています。主は今日まで「わたしの声を聞け」と、しきりに、しばしば戒めてきました。2~3回ということではありません。しきりに、しばしば、です。何回も、何回も、忍耐をもって戒めてきたのです。なぜなら、やがて聞けなくなる時がやって来るからです。それがいつなのかはわかりません。しかし、その日は間違いなくやって来ます。このエレミヤの時代も、バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼそうとしていました。そうなったらもう聞けなくなってしまいます。私たちの時代でいえば、イエス様の再臨の時はそうでしょう。イエス様が再臨してからでは遅いのです。聞きたくても聞けなくなります。ですから、その前に聞かなければなりません。神様がこうやって戒めてくださるのは、本当に幸いなことなのです。ですから、「わたしの声を聞け」という主のことばをスルーしないでください。「いつかそのうちに」とか、「今のところはまだ」などと言わないでください。「今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしてはならない。」(へブル3:7-8)とあるように、主の御声を聞いていただきたいと思います。

いったいなぜ主は「わたしの声を聞け」と言われるのでしょうか。それはあなたを責めるためではありません。また、あなたを叱るためでもないのです。それは、あなたに信仰を与えたいからです。というのは、信仰は聞くことから始まるからです。ローマ10:17にこうあります。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」

皆さん、信仰は聞くことから始まります。神はあなたに、イエス・キリストに対する信仰を与えたいのです。神が語られるとき、それは時として耳に痛いことばかもしれません。とても聞くに耐えられないと思うかもしれない。このエレミヤのことばもそうでした。当時のユダヤ人にとっては非常に厳しい言葉だったので、故郷アナトテの人たちは彼を殺そうとしたほどです。もう聞きたくないと思いました。でも、信仰は聞くことから始まります。どんな言葉であろうと、どんな内容であろうと、聖書のことばを聞くことを止めないでいただきたい。聞くことを止めてしまったら、あなたは信仰に立ち続けることができなくなってしまいます。でも聞き続けるなら、あなたはしっかりと立つことができます。ですから、主のことばを聞くことを止めないでください。ヤコブ1:21には、「心に植え付けられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」とあります。心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなければなりません。その御言葉が、あなたのたましいを救うことができるからです。あなたの考えがあなたを救うのではありません。神の御言葉があなたを救うのです。神の御言葉は完全だからです。詩篇19:7~10にこうあります。「7 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ 主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。8 主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ 主の仰せは清らかで人の目を明るくする。9主からの恐れはきよくとこしえまでも変わらない。主のさばきはまことでありことごとく正しい。10 それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」

8節をご覧ください。「しかし彼らは聞かず、耳を傾けず、それぞれ頑なで悪い心のままに歩んだ。そのため、わたしはこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませた。わたしが行うように命じたのに、彼らが行わなかったからである。」

しかし、イスラエルの民は聞かず、耳を傾けませんでした。そして、頑なな悪い心のままに歩みました。それゆえ、主はこの契約のことばをことごとく彼らの上に臨ませました。臨ませたとは、実現させたということです。つまり、神のことばを聞かない者はのろわれるということばを実現させたということです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。約束の地から引き抜かれることになります。それは主が行うようにと命じられたのに、彼らが行わなかったからです。

Ⅲ.契約のことばを破ったイスラエル(9-10)

では、どうしたらいいのでしょうか。9~10節をご覧ください。「9 主は私に言われた。「ユダの人、エルサレムの住民の間に、謀反がある。10 彼らはわたしのことばを聞くことを拒んだ自分たちのかつての先祖の咎に戻り、彼ら自身もほかの神々に従って、これに仕えた。イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った。」

6~8節で言われたことが、ここでも繰り返されています。こうやって見ると、イスラエルの民はいつも罪を犯していることがわかります。でもこれはイスラエルの民だけのことだけでありません。私たちも同じなのです。私たちもいつも罪を犯しています。私たちはあからさまにバアルとかアシェラといった偶像を拝むことはしないかもしれませんが、テレビやネットなどの情報を信じてまことの神から心が離れてしまうことがあります。つまり、どの時代の人でも本質的にはみな罪人なのです。聖書に「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:11)と書いてある通りです。だれ一人として神の律法を守り行うことができる人などいないのです。であれば、この契約ことば、律法にいったいどんな意味があるというのでしょうか。

この問題について取り上げているのが、ガラテヤ人への手紙3章です。この中でパウロは次のように言っています。「10 律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11 律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12 律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13 キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:10-13)

律法の行いによるならば、人はみなのろわれた者です。なぜなら、義人はいない、一人もいないのですから。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないのです。しかし、信仰によるのであれば別です。信仰によるなら義と認めていただくことができます。「義人は信仰によって生きる」とあるからです。そのために、キリストはご自分がのろわれた者となって、十字架にかかって死んでくださいました。それは、罪のために神ののろいを受けて死ななければならない私たちの代わりとなって、私たちを律法ののろいから贖い出すためでした。木にかけられる者はのろわれた者なのです。律法を行うことができなくてのろわれた者となった姿こそ、この木にかけられた者の姿なのです。これが私たちの本来の姿です。しかし、律法をすべて行うことができる方、全く罪のない完全な神の御子イエス・キリストが代わりにのろいを受けてくださることによって、この方を信じる者を義と認めてくださったのです。

これが、永遠の神の救いのご計画でした。これが「新しい契約」と呼ばれているものです。新しい契約があるということは古い契約もあるということですが、その古い契約こそ、このシナ契約です。つまり、このシナイ契約が指し示していたもの、シナイ契約の先にあったのもの、それがこの新しい契約だったのです。それは新約聖書で明らかにされたのではなく、このエレミヤの時代にすでに啓示されていました。たとえば、エレミヤ31:31~33にこうあります。「31 見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った─主のことば─。33 これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである─主のことば─。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

新しい時代に、主がイスラエルと結ばれる新しい契約は、エジプトの地から導き出された日に、彼らと結んだような古い契約とは違います。それは、彼らの心に書き記される律法です。それは行いによるのではなく、神の真実に基づくものであって、イエス・キリストが流された血によって結ばれる契約なのです。イエス様がこのように言われました。「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:20)

したがって、ここでは私たちクリスチャンにとって非常に重要なことが教えているのです。それは、人は律法の行いによっては救われないということです。「この契約のことばを聞け」とか、「わたしの声を聞け」とありますが、残念ながら私たちは聞き従うことができないのです。律法を守り行おうとすることは大切なことですが、その律法によってはだれも罪から救われないということです。結果、神ののろいを受けるしかありません。

では、この契約のことばにいったいどんな意味があるというのでしょうか。何のために律法が与えられたのでしょうか。それは、私たちが罪人であることを示すためです。そして、その罪から救われたいという願いを起こすためです。律法があるからこそ、私たちは神の前にどのような者であるかがわかります。律法は、いわば私たちの姿を写し出す鏡なのです。それがなかったら、義人はいない、一人もいないと言われても、ピンとこないでしょう。 「いや、私はそんなに悪い人間ではありません」とか、「隣の人を見てください。その人の方がよっぽど悪い人ですよ」となります。

でも、この律法の前に置かれたらどうでしょうか。神様の前に顔向けできなくなります。目も合わせることもできません。違反が示されるからです。律法が与えられた目的はここにあります。ガラテヤ3:22にこうあります。「しかし聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。」つまり、律法は私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのです。ですから、律法によっては救われないことは明らかです。律法によるなら、のろわれるしかありません。だからこそ神は、救い主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。それは、私たちが律法を行うことによってではなく、信仰によって義と認められるためです。律法の行いによっては永遠にのろわれて当然な者なのに、神は救い主を私たちのところへ送り、この救い主を信じる信仰によって救おうとしてくださいました。永遠ののろいから、永遠の祝福へと移してくださったのです。ですから、主イエスを信じるならだれでも救われるのです。

大切なのは、何を信じるのか、だれを信じるのかということです。今、あなたが信じているものは何でしょうか。それは大丈夫ですか。それはあなたを救うことができるでしょうか。あなたが愛して止まないもの、あなたが頼りにしているものは、あなたを裏切らないでしょうか。ほんとうに困ったとき、あなたを助けてくれるでしょうか。あなたに永遠のいのちを与えてくれるでしょうか。そのことをよく考えなければなりません。

しかし、イエス様を信じる者は、だれでも救われます。何かをしなければならないということではありません。ただ信じるだけでいいのです。イエス・キリストを信じる者はみな救われます。律法によってはのろわれた者でしかない私たちを、神は救ってくださいました。十字架の贖いによって。この神の救い、イエス様の十字架の贖いを受け、神が与えてくださる聖霊の力によって、神のみことばに従う者とさせていただきましょう。自分の力、肉の力では限界があります。神が与えてくださる聖霊の力こそ、私たちが神のみことばに従う秘訣なのです。それは神の救い、イエス・キリストの贖いを受けることから始まります。この契約ことばは、イエス・キリストによって結ばれる新しい契約を指示していたのです。