民数記20章

きょうは民数記20章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人のつぶやき(1-6)

まず1-6節までをご覧ください。

「1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちがの前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。4 なぜ、あなたがたはの集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れた。

イスラエルの全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着きました。ツィンの荒野とは、あの12人のスパイたちをカナン偵察のために遣わした地のことです。そこに戻ってきたわけです。ですから、1節の「第一の月」というのは、あの時以来のことになります。実は、あれから38年後のことなのです。なぜなら33章38節を見ると、そこにエジプトを出てから第四十年目とあるからです。その時アロンが死にました。ここにもアロンの死のことがあります。ですから、これはエジプトを出てから40年目の第1の月のことなのです。以前、カデシュ・バルネアで彼らが約束の地に入れなかった時、すでにエジプトから出て1年以上が経っていました。ですから、彼らが荒野で放浪したのは実際には38年になります。そして彼らはこの「ツィンの荒野」に戻ってきたのです。

そこで、モーセの姉「ミリヤム」が死にました。彼女はすでに133歳になっていたことと思われます。というのは、モーセが生まれたときに彼女は13歳でしたので、モーセは120歳で死にましたから、彼女はこの時133歳であったろうと考えられます。その他の人々はほとんどが新しい世代の人たちです。古い世代の人たちはみな死に絶えてしまいました。

そこで一つの事件が起こりました。それは、イスラエルがモーセとアロンに逆らったのです。いったい彼らはなぜ逆らったのでしょうか?そこに水がなかったからです。水がなかったので、穀物やくだものが育たないというだけでなく、彼らの家畜にも飲ませる水がありませんでした。それで彼らはモーセとアロンにつぶやいたのです。ここで興味深いことは、彼らのつぶやきは、かつてカデシュ・バルネアからスパイを遣わした際、その偵察から帰ってきた10人の悪い報告を聞いたイスラエル人の親の世代と同じあることです(14:1~)。また、コラの事件があったとき、あのダタンとアビラムが言ったこととも同じです(16:12~)。人間の心というのは、いつの時代も同じであることを思います。そこに水がなかったので、彼らはそれを契機にこのような不平を鳴らしたのです。おそらく、ミリヤムが死んだという悲しみがあったでしょうし、かつてここから偵察を遣わしたという記憶もよみがえったのではないかと思います。私たちは平素では希望を持っていても、いざ状況が悪くなるとすぐに不満を漏らしやすいものなのです。それでモーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。するとの栄光が彼らに現れたのです。モーセとアロンはいつもと同じように、主の前にひれ伏しました。

Ⅱ.メリバの水(7-20)

「7 はモーセに告げて仰せられた。8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、の前から杖を取った。10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」13 これがメリバの水、イスラエル人がと争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。」

すると主は何と仰せになられたでしょうか?杖を取って、彼らの目の前で岩に命じるようにと言われました。そうすれば、岩は水を出す、と言われたのです。そり水を会衆とその家畜とに飲ませるようにと言われたのです。そこでモーセは、主が命じられたとおりに、主の前から杖を取って、岩の前に召集したイスラエル人に、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言い、杖で岩を二度打ちました。すると、岩からたくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲みました。

しかし、そのとき主はモーセとアロンにこう言われました。12節です。 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

いったいどういうことでしょうか?彼らは神に命じられたとおりにしたかのようでしたが、実はそうではありませんでした。モーセは岩に命じればよかったのに、岩を打ってしまいました。しかも、二度も、です。いったいなぜモーセは岩を二度打ってしまったのでしょうか。それはモーセに怒りがあったからです。モーセはその怒りを抑えることができませんでした。それでついつい岩を打ってしまったのです。それでも主は民をあわれみ、水をわき出るようにされましたが、それは主のみこころを損なわせたので、モーセとアロンはこの集会を約束の地に導き入れることはできないと言われたのです。このことが原因で彼らは約束の地に入ることができなかったのです。この出来事はそれだけ重要な出来事でした。

いったいこのことは私たちにどんなことを教えているのでしょうか。どういうことでしょうか?Ⅰコリント10章4節には、この岩がキリストを表していると語られています。「(私たちの先祖は)みな、同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」この岩とはキリストのことでした。その岩から水を飲むとは、キリストにあるいのちを受けることを指しています。そのためには、その岩に向かってただ命じればよかったのです。すなわち、神の命令に従えばよかったのです。それなのにモーセは岩を打ってしまいました。モーセとアロンは、主が仰せになられたことに従わなかったのです。つまり、主のことばを信じなかったことです。モーセは自分の思い、自分の感情、自分の方法に従いました。それは信仰ではありません。信仰とは、神のことばに従うことです。そうでなければ救われることはありません。私たちが救われるのはただ神のみことばを信じて受け入れること、すなわち、御霊の岩であるイエスを信じる以外にはないのです。彼らは神と争い、神の方法ではなく自分の方法によって水を得ようとしたのです。それでこの水はメリバの水と呼ばれました。意味は争うです。彼らは神に従ったのではなく、神と争ったのです。

私たちはここから、神に従うことの大切さを学びます。そして、そのためには自分の感情をコントロールすることの必要性を感じます。自分の感情に流されて神に従うことができないということがよくあります。たとえ自分の感情がどうであれ、御霊によって歩み、御霊に導かれて歩まなければなりません。そうすれば、肉に支配されることはないからです。

Ⅲ.エドムの反抗(14-21)

「14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。16 そこで、私たちがに叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。」

カデシュから直接、約束の地に入ることが御心ではないことを知っていたモーセは、ヨルダン川の東から、ヨルダン川を渡って入ることを考えていました。ゆえに死海を迂回して、死海の北にあるヨルダン川に行こうとしました。しかし、そこにはエドムの地が広がっていました。それでモーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送り、彼らの地を通らせてほしいと願いましたが、彼らの答えは「ノー」でした。「通ってはならない」と、頑なに拒んだのです。なぜでしょうか?

エドムとはもともと、ヤコブの兄エサウの子孫で、イスラエルの兄弟です。それゆえ、主はモーセに対してエドム人と争ってはいけないという命令を出していました。それは、「彼は同族であるから」です。ヤコブの兄であったので、戦ってはいけない、と言われたのです。それでモーセは平和的な解決を求めてエドムの王に通行許可を願いましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。それどころか、戦争も辞さない姿勢で向かってきたのです。

それは、彼らがイスラエルの神に畏れを抱きながらも、最終的には自分たちの思いを優先していたからです。あのエサウが一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利をヤコブに譲ったように、霊的なことに目が開かれることなく、いつも肉的に考えていたからなのです。それはこの時からずっと続きました。彼らはイスラエルに決して服することをせず、何かがあれば、イスラエルに敵対しました。イスラエルが苦しめられていても何のお構いなしで、彼らを助けようとせず、自分たち中心に行動したのです。その結果、このエドムには永遠の廃墟という預言が与えられました。いつまでも悔い改めず、神に敵対する者がどうなってしまうのかを、この箇所はよく教えていると思います。

Ⅳ.アロンの死(22-29)

「22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。23 は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」27 モーセは、が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。」

こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着きました。ホル山はエドム領にあるとありますが、明らかに直線の道を通らずに、エドムの領土を廻っていく形で道を進んでいます。そのホル山で、主はモーセとアロンに仰せられました。そこでアロンは死ぬと。それで、そこでアロンの子エルアザルに大祭司の装束を着せて、それで引き継ぎが行なわれ、彼はそこで死にました。その理由は、先ほどのメリバの水のことで、主の命令に逆らったからです。

アロンはこうして、ホル山において息を引き取りました。厳しい現実です。しかし、このことをとおして、主はいかに、キリストのわざを示しておられるかがわかります。すなわち、主のわざこそ完全であって、それが私たちを完全に救うことができるということです。それ以外に救いはありません。もし、それを妨げるものがあれば、こうした厳しいさばきを受けることになるのです。たとえば、自分の行為によって生きていこうとすることです。それは私たちを救うことはできません。ただ神が要求されることは、私たちが神の贖いを受け入れること以外にはないのです。

Ⅰテモテ5章17~25節 「長老を敬う」

きょうは、Ⅰテモテ5章後半の箇所から、「長老を敬う」というテーマでお話をしたいと思います。パウロは5章で教会の様々な人たちに対してどうあるべきかについて述べてきましたが、きょうのところでは、教会の長老に対してどうあるべきかについて語っています。長老というのは、初代教会では監督、牧師と同じ職分を表す名称でした。その選出については3章で見たとおりですが、人格的で道徳的な品性を持ち、キリスト者らしい生き方を通して教会や社会に仕えていた人です。彼らは教会の教育と牧会の働きをしました。また、慈善や救援の働きを管理し、病人を見舞い、監督者となって教会をしっかりと管理していました。また、御言葉によって信徒を励まし、慰め、正して、福音にしっかり立ち続けるように勧めました。ですから、今日の牧師と同じ働きをしていたのです。もし牧師と違う点があるとしたら、それは年配者であったということくらいです。初代教会ではユダヤ教のように、年配者で尊敬される人を長老として立てたのです。ですから、ここでは長老とありますが、それは監督、牧師も含めた教会の指導者のことであり、そういう人たちに対してどうあるべきかが教えられているのです。

Ⅰ.二重の尊敬(17-18)

まず17節と18節をご覧ください。17節には、「よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。」とあります。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとあります。みことばと教えのためにほねをおっている長老は、特にそうです。なぜなら、みことばの教えによって私たちの信仰生活が決まるからです。教会において最も重要なことは、このみことばと教えることです。このみことばと教えにほねをおり、よく指導の任に当たっている長老は、尊敬に値する者であり、二重に尊敬を受けるにふさわしいのです。

ある人たちは、クリスチャンは「万人祭司」だから、牧師だけが特別なのではない、言います。勿論、そうです。教会は牧師の教会ではなく、神の教会であり、そこに集められた人たちのものです。ですから神は、その教会を建て上げるために、それぞれ御霊の賜物を与えてくださったのです。しかし、それは皆が同じということではありません。ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、またある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられていますが、ある人には預言の賜物、教える賜物が与えられているのです。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの身たけにまで達するためです。それが、神が教会に与えてくださった秩序です。その秩序に従って、それぞれが慎み深い考え方をしなければなりません。それなのに、あのモーセに逆らったコラたちのように、「全会衆残らず聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」(民数記16:3)「分を越えている。」(同)と言うことがあるとしたら、そこに神のさばきがあるのは当然です。ですから、よく指導の任に当たっている長老は、二重の尊敬を受けるにふさわしいのです。

では、「二重に尊敬を受ける」とはどういうことでしょうか。新共同訳聖書ではこれを、「二倍の報酬を受けるにふさわしい」と訳しています。また、バークレーという聖書注解者も「二倍の給与」を意味すると考えていますがそういうことでしょうか?これは二倍の給与を受けるべきだということではありません。十分な尊敬と十分な報酬を受けるにふさわしいという意味です。態度においても尊敬すべきですが、報酬の面でも十分受けられるようにすべきであるということです。なぜそのように言えるのかというと、18節にこうあるからです。

「18聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」と言われているからです。」

「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」ということばは、旧約聖書の申命記25章4節からの引用です。「くつこ」というのは牛や馬の口にかぶせるかごのことです。牛や馬は収穫した穀物を食べる習性があるため、それを食べないように口にかごを掛けておいたのですが、そういうことはするなというのです。なぜでしょうか?牛や馬が働いてくれたお陰で田畑を耕せたり、穀物をこなしたりできたわけです。穀物をこなすとは、穀物を粉(こな)にするという意味で、製粉作業のことです。そのように働いてくれた牛に食べさせないようにするなんてとんでもない。そうした牛や馬がちゃんと食べられるように食べ物を与えるべきだというのです。それは長老も牧師も同じです。牧師は牛なんです。牧師は教会のために霊の穀物であるみことばをこなします。その牧師の口にくつこをかけてはいけないのです。生活のことで心配せずみことばの奉仕に専念できるように支えていかなければならないというのです。

それから、その後の「働き手が報酬を受けることは当然である」ということばですが、これはイエス様ご自身のことば(マタイ10:10,ルカ10:7)ですが、主のために労している働き人が、そこから報酬を受けることは当然のことであるということです。

それは、古代イスラエルにおいてもそうでした。神はイスラエル12部族の中からレビ族を取り、彼らがフルタイムで神に仕えるようにさせました。その彼らの生活はどのようにして支えられたかというと、イスラエル12部族からそれぞれ1/10を受け取って、それを彼らの生活の支えとしたのです。ということは、レビ人は他の部族よりも多く受けていたということです。彼らは約束の地で相続地を受けなかったので、その分このような形で報酬を得ていたのです。そのようにして彼らは、フルタイムで神に仕えることができました。主イエスはご自身を中心とする新しいイスラエル、神の教会においてもその原則が適用されると言われたのです。

それは、パウロも何回も言及してきたことです。ここでもそうですが、たとえば、Ⅰコリント9章14節には、「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます」とあります。

パウロは、神に仕える者がその働きの中から生活の支えを受けることは決して悪いことではなく、むしろそうすべきだと言ったのです。ただパウロはそうしませんでした。彼は天幕作りをしながら福音を宣べ伝えたのです。いわゆる自給伝道です。なぜでしょうか。彼はそのようにする権利があったし、そうしても良かったのですが、あえてそのようにはしませんでした。それは、教会に負担をかけないようにするためでした。彼は開拓伝道者でしたから、始まったばかりの教会にそこまで要求したらどうなるかということをよく知っていたのです。それは教会にとって負担となり、伝道の足かせになってしまうと思いました。そのようにならないために彼は、労苦して仕えたのです。

もう一つの理由は、教会に誤解を与えないためでした。パウロの時代には偽教師たちが横行していて、彼らは教会からお金をだまし取るようなことをしていました。その偽教師たちと同じように見られないために、あえてそのような教会からは一切お金を受け取らないようにしたのです。たとえばコリントの教会からは一切報酬を受け取りませんでした。なぜなら、コリントの教会の中にパウロは使途ではないとか非難する者たちがいたからです。そういう教会からは謝儀を受け取ったらどういうことになるでしょう。また別の誤解を生むことになってしまいます。ですから、そういう誤解を受けないために、報酬を一切受け取らず、身を粉にして働いたのです。しかし、それは当たり前のことでありません。例外的なことです。働き手が報酬を受けることは当然のことなのです。

日本では教職者がお金のことを口にするのは汚いと考える人が少なくありません。神に仕える者は質素に生きるべきで、衣服があれば十分だというのです。でもそういう考え方は本来の聖書の教えではありません。勿論、牧師が豊かでなければ証にならないと報酬を要求するのも間違っていますし、必ずしも余裕のない教会では、パウロのように牧師が天幕作りをしながら伝道する場合もありますが、それが当たり前ではないということです。最初のうちは小さくて牧師を十分にサポートすることができないこともあるでしょうが、いつまでもそれに甘んじているのではなく、やがて牧師が生活のことで心配することなく、牧会に専念することができるように十分配慮すべきなのです。それは教会にとっても大きな恵みと祝福につながるからです。そのようにして、みことばと教えにほねをおる人がいてこそ教会は霊的に養われ、健全に成長していくことができるのです。

Ⅱ.長老に対する訴え(19-21)

次に19節から21節までをご覧ください。長老に対する接し方の第二のことは、長老に対して何か訴えがある時にはどうしたらよいかということです。

「19 長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。20 罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。21 私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行いなさい。」

まず長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。なぜでしょうか。教会の指導者に対する悪いうわさは、教会に大きなダメージを与えるからです。教会はキリストのからだですから、キリストご自身を傷つけてしまうことになるということです。牧師や長老に対する陰口、告げ口、うわさ話は、教会に大きな影響を及ぼすのです。ですから、牧師、長老に対する訴えは慎重でなければいけないのです。

牧師は人前に立つことが多い性質上、人からの非難を受けやすいのです。これはどの政治的な指導者も同じであり、避けることが難しいことです。イエス様でさえ非難されました。ルカ7章34節には、「人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言われたかと思うと、バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まないでいると、「あれは悪霊につかれている」と言われたのです。食べても、食べなくても、非難されるのです。じゃ、どうすればいいの、という感じですが、イエス様の場合はひどいことに、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」とも言われたのです。(マルコ3:22)。「ベルゼブル」というのは「悪霊どものかしら」のことですが、悪霊にとりつかれているとまで言われたのです。本当にひどいことです。

なぜ教会の牧師、長老、指導者がそのように悪く言われるのでしょうか?ま、牧師にも問題があるのは確かですが、それ以上にというか、本当の原因は、サタンがそのように企てているからなんです。サタンは、どうしたら教会をつぶすことができるのかをよく知っているんです。そのためには教会の指導者を倒せばいいのです。教会の指導者が倒れたら、そのとたんに教会は簡単に倒れてしまいます。だからサタンは必死になって教会の指導者をつぶそうとするのです。そのためには指導者の悪口を言えばいいのです。だから訴えられたり、悪口を言われたりするのです。

「悪口を言う」ということばは3章11節にも出てきましたが、これはギリシャ語で「ディアボロス」と言って、実は悪魔のことを指す言葉です。ですから、悪口を言うということは悪魔的な罪なのですが、そういうことが平気で行われています。別に大した罪じゃないと、噂話が絶えないのです。でもそれはディアボロス、悪魔的な罪であって、神が忌み嫌われることなのです。

箴言26章20節には、次のような教えがあります。「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」「陰口をたたく」とはうわさ話をするとか、悪口を言うということです。そのように陰口をたたく者がいなければ争いはやむのです。それはたきぎのようです。たき木があればもっと燃え上がります。だから、陰口をたたく人も問題ですが、それを聞く人も問題なのす。たきぎになってもっと盛り上がるか、たきぎにならないようにするかは、それを聞く人の態度で決まるのです。聞かなければ、火は小さくなってくすぶって消えます。たきぎがなければ火は消えるのです。ですから、一緒になって悪口を言ったり、陰口を言ったりしてサタンの企てに協力することがないように注意しましょう。

では、教会の牧師や長老に対する訴えはどのようにしてなされなければならないのでしょうか?ここには、ふたりか三人の証言がなければ、受理してはいけません、とあります。そのことはイエス様も教えられました。マタイの福音書18章15節から17節を見るとこうあります。

「15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」

これは牧師、長老に対する訴えだけでなく、すべての人に対する訴えも同じです。まずその人のところに行って、ふたりだけのところで責めます。もし相手が聞き入れたなら、あなたは兄弟を得たことになります。でも、もし聞き入れないなら、ほかにふたりか三人をいっしょに連れて行かなければなりません。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるからです。それでもなお聞き入れようとしないなら、教会に告げなければなりません。すなわち、すべての人の前で責めなければならないということです。それでも言うことを聞かないような時はどうしたらいいでしょうか。彼を異邦人か取税人のように扱いなさい、すなわち、教会から除名しなさいというのです。

いったいなぜそこまでしなければならないのでしょうか。それはほかの人をも恐れさせるためです。どういうことでしょうか?このことによってほかの人たちが、教会とは何かを知るためであるということです。教会は真理の柱また土台です。弱さに対してはこの上ない愛と寛容を示しますが、罪に対しては厳格な処置がとられるところであるということを、ほかの人たちが知るためにそうするのです。それは罪を犯した人をさばくためではなく救うためであり、教会をきよめるためでもあるのです。

21節には、このことを「おごそかに命じます。」とあります。パウロはこのことをテモテにおごそかに命じました。それはテモテが牧会していたエペソの教会の中にそういう人たちがいたからです。違った教えを説いたり、果てしのない空想話によって人々を惑わしている人たちがいたのです。いったいそのような人たちにどのように対処していったらよいのか?教会の長老だからといって大目にみるとか、見ないふりをするというようなことがあってはいけません。罪を犯している人がいれば、このようにして責めなければなりません。そして、その人が悔い改めたなら、あなたは兄弟を得たことになります。しかし、もし悔い改めないなら、他にふたりか三人によって確かめられ、ついにはすべての人の前で責めなければなりません。そうすることによって教会は聖さを保ち、世の光として、また地の塩としての役割を果たしていくことができるからなのです。

Ⅲ.軽々しく按手してはいけません(22-25)

第三に、では牧師、長老をどのように任命したらいいのでしょうか。そうです、牧師や長老には大きな責任が伴いますので、軽々しく按手してはいけません。22節から25節までをご覧ください。「22 また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。23 これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。24 ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。25 同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」

22節には、「だれにでも軽々しく按手をしてはいけません」とあります。「按手」とは、牧師や長老など、教会の働きをするのにふさわしいと認め、その人に権威を与えて祝福することです。これはこの文脈から判断すると、長老に対する按手と解釈するのがいいと思います。ほかに、罪を犯した者が信仰を回復し、再び教会の交わりの中に加える時にも按手をして祈ったこともありますが、ここでは牧師、長老のことについて語られていますので、彼らに対する按手のことと理解するのがいいと思います。それを軽々しく行ってはいけないというのです。なぜでしょうか?他人の罪にかかわりを持たないためです。へたに按手を授けると、按手を授けた人も罪にかかわりを持つことになってしまいます。牧師や長老に任命される人に罪があり、その人が按手を受ける時には隠れていてそのまま残っているようなことがあったとしたら、按手を授けた人もその責任を負うことになってしまうのです。ですから、按手をささげる時には、軽々しくささげてはいけないのです。

この「軽々しく」という言葉は、新共同訳聖書では「性急に」と訳しています。性急に、あわてて、軽率に授けてはなりません。むしろ、じっくりと、よく吟味して、時間をかけて、慎重に授けなければなりません。もしふさわしくない者がリーダーとして立てられるようなことがあれば、教会に葛藤が生じ、さらには分裂をもたらすことになってしまうからです。イエス様もご自分の12弟子を選ばれた時には、夜を徹して祈られました。長い間祈られたあとに弟子たちを選ばれたのです。えっ、と驚かれる方もおられるかもしれません。夜を徹して祈ったのに、あんな弟子たちを選ばれたんですか・・・と。でも、イエス様の選択は完全でした。あのような弟子たちだったからこそ、ご自分の救いの御業が達成したのですから。であれば、私たちも自分たちの指導者を選ぶ時にはよく祈って、慎重に選ばなければなりません。

最後に23節のことばを見て終わりたいと思います。ここには、「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」とあります。ここにパウロは急にお酒の話が出てきています。テモテの胃腸のことを気にかけたパウロが、これからはあまり水ばかり飲まないで、胃のために、またたびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いるように・・・と。どういうことでしょうか?

どうもテモテは虚弱体質であったようです。ここに「胃のために」とありますから、テモテは胃腸を患っていたのでしょう。また、「たびたび起こる病気のためにも」とありますから、しょっちゅう体調を崩していたのかもしれませんね、詳細は不明ですが、若い牧会者のテモテにとってエペソ教会での伝道と牧会は相当のストレスがあったようで、心身共にまいっていたようです。多くの病気をいやし、死んだ人をもよみがえらせることができたパウロでも、このテモテの病気だけはいやすことができませんでした。そこでパウロはテモテに、これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のために、少量のぶどう酒を飲みなさい、と勧めたのです。

これは酒を飲めということではありません。健康のために少量のぶどう酒を飲みなさいと言っているのです。今であれば太田胃散とかキャベジン、養命酒といった薬がありますが、当時はそのような薬が無かったので、少量のぶどう酒を飲んで健康にも留意するようにと勧めたのです。

多くの学者は、この文脈の中でなぜパウロがこんなことを言ったのかわからないと言いますが、ここをずっと読んでくると、その意味がわかるような気がします。それは、時に教会の指導者にも不十分で弱いところを見つけることがあるかもしれませんが、神の家族としての教会は、温かい尊敬と愛の心をもって互いに接しなければならないということです。だれも完全な指導者はいません。最初からりっぱな信徒もいないのです。そうした中にあって私たちに求められていることは、それでも互いに温かい愛と尊敬をもって受け入れ合うということです。それは指導者に対してだけではありません。私たちは神の家族として、いつも互いにそうあるべきなのです。牧師も信徒も皆弱さを抱えています。でも、ここに書いてあるように互いに敬い、互いに愛し合うなら、教会はさながら天国のようなところになるでしょう。私たちが目指す教会はそのような教会ではないでしょうか。そのためにここに書かれてある聖書の原則から離れれることなく、牧師や長老といった教会の指導者に対して自分はどうあるべきなのかをもう一度吟味する必要があるのではないでしょうか。

ⅠTimothy5:17-25 “Honor the elders”

Paul from chapter 5 is stating how we should act towards various people in the church. In today’s passage it talks about how we should act towards “the elders”. (17) “The elders” (1) was a title in the first church that expressed the same duties as an overseer or pastor.  We looked in chapter 3 at how they were selected. They were respectable both in character and morally and served society in the church through Christ like living. Their duties were to teach and preach. Also they managed the work of charity and relief, visited the sick, and managed the affairs of the church as an overseer. Also by the Word of God encouraged, comforted, corrected and advised the believers to continue to stand firmly on the Gospel. Thus, they did the same work as the pastors of today. They were normally men of experience and maturity. The first church like the Jewish faith made respectable elderly elders. Here it says “the elders” (17) but they are the church leaders including the overseers, pastors. It is teaching us how we should be towards such people.

Double honor (Vs. 17 & 18)

First please look at verses 17 and 18. Verse 17 says, “The elders who direct the affairs of the church well are worthy of double honor, especially those whose work is preaching and teaching.”

“The elders who direct the affairs of the church well are worthy of double honor.” (17) Especially those elders “whose work is preaching and teaching” (17) were “worthy of double honor.” (17) That is because by the teaching of the Word of God our Christian life is determined. The most important thing in the church is the teaching of the Word of God. The elders “whose work is preaching and teaching” (17) and “who direct the affairs of the church well” (17) are valuable and “are worthy of double honor.” (17)

Some people say that Christians are a “priesthood of all believers”. They say that the pastor is not special. They are like Korah, Dathan, Abiram, and the 250 Israelite men who opposed Moses saying, “You have gone too far! The whole community is holy, every one of them, and the LORD is with them. Why then do you set yourselves above the LORD’s assembly?” (Numbers 16:3) However, in the “priesthood of all believers” which God has ordained everyone is not in the same position. Some are called to teach, others to follow. That doesn’t mean that someone is high-ranking. It is the order that God has given for the building up of the church. For that purpose God has given each person gifts “in accordance with the measure of faith (the gift) God has given” (Romans 12:3) him. Since “God has given,” (Romans 12:3) the gift comes from God, God is the source. Therefore there can be no basis for a superior attitude or self-righteousness. Often the church falls into confusion because it doesn’t realize this.  Such people oppose God’s blessings of order. It makes them miss God’s blessings for them. According to God’s order, it is saying that those “whose work is preaching and teaching” (17) are worthy of respect.

Here is says, “are worthy of double honor.” (17) It means that they are worthy of honorable respect and financial honorable support. That his honor should include financial support can be seen by the two illustrations that follow.

Verse 18 says, “For the Scripture says, ‘Do not muzzle the ox while is treading out the grain,’ and ‘The worker deserves his wages.’”

“Do not muzzle the ox while is treading out the grain” (18) is a quotation from the Old Testament from Deut. 25:4. Sometimes oxen were muzzled so they could not eat the grain while they were treading it into flour. The Mosaic Law, however, is teaching that the oxen labor for their owners so they should be given food to eat. That is a principle that is to be applied to pastors and elders too. The pastor is the same as an ox. He treads out the spiritual grain for the church. “Do not muzzle the” (18) pastor. The church should give the pastor wages so he can eat. In other words, more than for the ox the pastor must be honored and his needs provided. This Mosaic Law has greater weight when applied to Pastors rather than to oxen.

Then it says, “The worker deserves his wages.” (18) These words are quoted from Jesus’ words in Matthew 10:10 and Luke 10:7. It is only natural that those who work for the Lord should receive his wages.

That was the same in ancient Israel too. God picked the Levites from the 12 tribes of Israel to serve God full time. The way their lives were supported was they received the tithes from the other 11 tribes. This means that the Levites received more than the other tribes. They did not receive an inheritance in the promise land so in this way they received a reward for their services. By this they were able to serve God full time. It is said that the same principle applies to the new Israel with the Lord Jesus at its center, the church.

Many times Paul too mentions that. Here he does too, but for example in I Cor. 9:14 it says, “In the same way, the Lord has commanded that those who preach the gospel should receive their living from the gospel.” Paul is saying that it is definitely not wrong for “those who preach to the gospel” (I Cor. 9:14) to receive support from their ministry. In fact they “should receive their living from the gospel.” (I Cor. 9:14)  However, Paul didn’t do that. He made tents while spreading the Gospel. He was what is called a self-supported evangelist. He had the right and it would good to do so, but he didn’t venture to do so. That was because he didn’t want to be a burden on the church.

He was a church planter so he knew well what would happen if he requested this from a church that had just begun. It would be a burden on the church and would put a burden on evangelism. So that wouldn’t happen he worked for his living.

Another reason was so that it would not cause misunderstanding in the church. At the time of Paul false teachers were rampant and they deceived the church taking money from church. So that Paul wouldn’t be seen as the same of these false teachers he didn’t venture to receive any money from the Corinthian church. That’s because in the Corinthian church there were people that were suspicious about Paul’s apostleship. They made accusations that Paul was not an apostle. If he receive a pastor’s salary from  such a church then it would cause other misunderstanding. Therefore, he didn’t receive any offerings from the church at all, but while working earnestly served the Lord. However, that was not ordinary. It was an exception. It was right and proper for “those who preach the gospel” (I Cor. 9:14) to “receive their living from the gospel.” (I Cor. 9:14)

In Japan there are a lot of people that think that for teachers to speak about money is completely unacceptable.  More unacceptable is to talk about your own salary or pay.  It’s o.k. for a pastor to be poor. There are still people left who strongly think that if the pastor has food and clothing that that is enough. However, what the Bible fundamentally says is not this. It teaches that “The worker deserves his wages.” (18)

Of course, in churches that don’t have enough money there are cases where a pastor, like Paul, while evangelizing is a tentmaker. That is a great joy, but that is not ordinary.  There are cases where at the beginning the church is small and can’t support the pastor fully, but it shouldn’t be content in doing so forever. If so, the church won’t grow healthy and won’t desire to develop. That is a sad situation for the church. By having people in the church who “whose work is preaching and teaching,” (17) the church is fed spiritually and by that the church as a church can grow healthy.

  1. Accusations against an elder (vs. 19-21)

Next please look at verses 19 to 21. Here it teaches about accusations against an elder. “Do not entertain an accusation against an elder unless it is brought by two or three witnesses.  Those who sin are to be rebuked publicly, so that the others may take warning.  I charge you, in the sight of God and Christ Jesus and the elect angels, to keep these instructions without partiality, and to do nothing out of favoritism.”

That’s because bad gossip about leaders in the church causes huge damage to the church. Even if it is known that it is a mistake, there is no way of keeping the authority that is given to the elders from being cut. Therefore, discretion must be used in bringing accusations against a pastor or an elder.

The nature of a pastor is that he stands before people a lot so he receives criticism from people a lot.  All leaders are the same. Whether it is political leaders or other kinds of leaders, those who stand in front of people are the center of criticism. Even Jesus was criticized. Luke 7:34 says, “The Son of Man came eating and drinking, and you say, ‘Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners.’” They said that Jesus was “a glutton and a drunkard”. (Luke 7:34) Moreover, they said, “He is possessed by Beelzebub!” (Mark 3:22) “Beelzebub” was “the prince of demons.” (Mark 3:22) They went to the extent to say that Jesus was possessed by demons.

The reason bad things are said about the church leaders is that Satan is plotting it. Satan knows how he can crush the church. That is by knocking down the church leaders. If the church leaders are knocked down, then immediately the church will be knocked down. That is an extremely joyous thing for Satan. Therefore, Satan is desperately trying to crush the church. To do that all that is needed is to say bad things about the leader. Therefore, accusations, bad rumors are said.

“Malicious talkers” appeared in 3:11. The Greek word that is used for “malicious talkers” (3:11) is a word that also refers to Satan. Therefore, to gossip is a Satanic sin. These words were spoken about the wives of deacons or deaconesses because especially women have this tendency. It’s strange but the Bible doesn’t say much about men and gossiping.  Men are advised not to speak with a double tongue. They are advised to have a more honest attitude. The Bible doesn’t say much to men about gossiping. If anything it is a weakness and tendency of women.

Proverbs 26:20 teaches us the following, “Without wood a fire goes out; without gossip a quarrel dies down.” If there is no one gossiping or speaking ill of others then fighting will stop.  It is like wood.  If there is no wood (gossiping) then the fire will go out. However, if there is wood (gossiping) then it will flame up. Therefore, the problem is people who gossip.  The person who listens to the gossip is also the problem. The attitude of the person who listens determines whether it becomes wood and builds the fire up or it doesn’t become wood and the “fire goes out.” (Proverbs 26:20) If he doesn’t listen then the fire will become small and go out. That’s because “without wood a fire goes out.” (Proverbs 26:20)  Therefore, we must be careful not to join in gossiping or speaking ill of others and helping the plot of Satan.

Then, if you have an accusation against the church pastor or elder, what must you do? Here it says, “Do not entertain an accusation against an elder unless it is  brought by two or three witnesses.” (19) Matt. 18:15 to 17, says, “If your brother sins against you, go and show him his fault, just between the two of you.  If he listens to you, you have won your brother over.  But if he will not listen, take one or two others along,

 

so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’ If he refuses to listen to them, tell it to the church; and if he refuses to listen even to the church, treat him as you would a pagan or a tax collector.”

There is an order.

①    First go to the pastor “and show him his fault, just between the two of you. If he listens to you, you have won your brother over.” (Matt. 18:15)

②    “But if he will not listen, take one or two others along, so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’” (Matt. 18:16)

③    “If he refuses to listen to them, tell it to the church.” (Matt. 18:17) In other words, his fault must be brought before all the members of the church.

④    “If he refuses to listen even to the church, treat him as you would a pagan or a tax collector.” (Matt. 18:17) It is to excommunicate him from the church.

The reason why his fault is “to be rebuked publicly” (20) is “so that the others may take warning.” (20) It is so that other people will know what the church is. It is to show other people that the church as “the pillar and foundation of the truth” (3:15) shows the utmost love and patience towards weaknesses, but towards sin there are cases where the punishment is strict and severe. That is not to judge the person, but to save him and to purify the church.

In verse 21 it says “I charge you”. Paul is charging Timothy. That was because in the Ephesian church where Paul was pastoring, there were such people. There were people who by teaching false doctrines and devoting “themselves to myths” (1:4) confused and deceived people. Just because the person was a church elder they must not overlook it or pretend like they didn’t see it. The person who is accusing the elder must “show him his fault, just between the two of” (Matt. 18:15) them.  “But if he will not listen” (Matt. 18:16), the accuser should “take one or two others along, so that ‘every matter may be established by the testimony of two or three witnesses.’ If he refuses to listen to them, tell it to the church.” (Matt. 16,17)  His fault must be brought before all the members of the church. By doing this there is no favoritism.  That is a very grave and serious thing. However, by doing such a thing the church can keep holiness and fulfill its role as the salt of the earth.

  1. Do not be hasty in the laying on of hands (Vs. 22-25)

Thirdly is concerning the laying on of hands on elders. Please look at verses 22 to 25. “Do not be hasty in the laying on of hands, and do not share in the sins of others .  Keep yourself pure. Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses. The sins of some men are obvious, reaching the place of judgment ahead of them, the sins of others trail behind them. In the same way, good deeds are obvious, and even those that are not cannot be hidden.

Verse 22 says, “Do not be hasty in the laying on of hands.”  “The laying on of hands” (22) is to recognize that a pastor or an elder is suitable for the work of the church and to lay hands on him giving the person authority and blessing him.  Paul is speaking about the ordination of elders. They must “not be hasty in the laying on of hands.” (22) That was so they will “not share in the sins of others.” (22) If a person who was ordained before he had time to prove himself and the person sins then the person who ordained him shares in the sin.  “The sins of some men are obvious, reaching the place of judgment ahead of them, the sins of others trail behind them. In the same way, good deeds are obvious, and even those that are not cannot be hidden.” Here Paul is advising to be alert to hidden sins as well as to good deeds in the lives of candidates for ordination. If a candidate has sins trailing behind him and he is ordained then the person who ordained him shares in the sin. Therefore, “Do not be hasty in the laying on of hands.” (22)

Ordination should not be done until candidates have had time to prove themselves. If a person unworthy of the office of elder is ordained then dissension will occur in the church and in addition it will bring divisions. Jesus too before he chose his 12 disciples spent the whole night praying. After praying for a long time he chose his disciples. Jesus chose perfectly. Through those disciples God’s work of salvation was completed. Therefore, we too when we choose our leaders, we must pray well and carefully choose them.

Finally let’s look at verse 23. Here it says, “Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses.” Here Paul suddenly brings up the subject of alcohol. Paul who was worried about Timothy’s stomach said, “Stop drinking only water, and use a little wine because of your stomach and your frequent illnesses.” (23)

Timothy was inclined to infirmities. Paul says “stomach” so he must have had stomach problems. Also Paul says “frequent illnesses” so he must have been sick a lot.  Therefore, for his health Paul advises to “stop drinking only water, and use a little wine.” Paul may also have said this because at that time safe drinking water was hard to find so in order to eliminate stomach problems from water to drink a little wine.

Many scholars for the text it is in can’t understand why Paul says this. If you read this through I feel like you can understand the meaning. That is at times our eyes may fall on church leaders who are inadequate and weak. However, God’s family, the church, must treat each other with warm respect and a heart of love. There are no perfect leaders. Also there are no grand laymen from the beginning. In the midst of this what God desires is that we have warm respect and a heart of love. That is not only towards the elders. We as the family of God should always be like that. Pastor and laymen too have weaknesses. However, if like it is here, always respect and love each other then the church will become like heaven. Let’s make that the goal of our church.  To do that let’s not move away from the principles of the Bible that are written here. It is necessary to think once again about how we should be towards the leaders in the church.

創世記13章

きょうは創世記13章から学びたいと思います。タイトルは「信仰による選択」です。

1.信仰者の場所(1-7)

アブラハムは、ききんのためエジプトに下りましたが、神様のご介入によってもとの地ネゲブに戻ってきました。こここそが、神様の約束の地だったからです。彼は神様から目を離し人間的になってしまったのでエジプトに下って行きましたが、もう一度もとの場所、神様のもとに戻って来たのです。信仰は一度失敗すると、失敗した最初のところにもどって来てこそ、ようやく回復されるのです。アブラハムも彼が出た最初のところに戻ってきました。そこはどのようなところだったのでしょうか。4節を見ると、

「そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の名によって祈った。」

とあります。そこには主の祭壇があり、主の名による祈りがあります。そこはかつて下って行ったエジプトのような豊かな地ではないかもしれませんが、主がともにおられるところです。そこで主を礼拝し、主の名によって祈るのです。それこそ、信仰者がいるべき所なのです。アブラハムはその場所に戻ったのです。

2.アブラハムとロトの間に起こった問題(6-7)

 

ところで、その地に戻って住んでみると、一つの問題が起こりました。それは場所が狭いという問題です。彼らの持ち物が多すぎて、いっしょに住むことができなかったのです。ですから、アブラムの家畜の牧者たちと、おいのロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こりました。

問題はいつでもささいなところから生じます。財産が少なくて喧嘩になったのではなく、多くて喧嘩になりました。現代風に言えば、遺産相続の争いをしているようなものです。相続する遺産がなければ喧嘩にもなりませんが、多いために兄弟が互いに憎しみ合うこともあります。しかも、彼らの牧者たちとの間にも争いが起こりました。いったい何が問題だったのでしょうか。もし財産が多くて喧嘩になったのであれば、ロトは財産をアブラハムにそっくりあげればよかったはずです。もともと彼の財産はアブラハムによって与えられたものなのですから・・・・。また、そのような争いが起こってもきちんと話し合えば解決できたはずです。にもかかわらず彼らは、カナン人やペリジ人が住んでいる前で醜い争いを繰り広げました。ということは、こうした争いというのは表面的なことであって、本質的な問題は別なところにあったということです。では、その本当の問題とは何だったのでしょうか?

3.信仰による選択(8-13)

8節からのところを見ると、その争いの本質的な原因が見えてくると思います。8,9節を見ると、アブラハムはロトに一つの提案をしたことがわかります。それは、自分から別れてほしいということです。そして、もし彼が右に行けば左に、左に行けば右に行くと言ったのです。なぜアブラハムはこのような提案をしたのでしょうか?おそらく彼の中にはこのような思いがあったことでしょう。テモテ第二の手紙2章24~25節です。

「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しく、よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」

主のしもべが争うことは、神様のみこころではありません。主のしもべはすべての人に優しく、忍耐して、反対する人たちを柔和な心で訓戒すべきです。そうした思いがあったに違いありません。ですから彼は何とかしてこの問題を解決したいと思ったのです。そしてその解決のカギは、ロトにその選択の優先権を与えるということでした。元々そのあたり一帯は、アブラハムが神様から賜った土地です。その土地をどうしようとそれは彼の自由であったはずなのです。そして、彼とて、よく潤っていた低地全体に心がひかれたことでしょう。しかし彼は自分自身の思いにまかせることをせず、まずロトに好きな土地を選ばせ、自分は残りの土地を受けることにしたのです。どうしてでしょうか。詩篇16篇6節をご覧ください。

「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」

一般には測りなわがどこに落ちるかが大きな問題のようですが、しかし、信仰によるならばそうではありません。どこに落ちるかではなく、だれが落とすのか、投げるのかです。神様が投げられるのであれば、そこがどのような地であっても、好ましいところとなるのです。アブラハムはそのような信仰を持っていたのです。つまり彼は、神様に信頼したのです。

それに対してロトはどうだったでしょうか。彼はアブラハムのようではありませんてでした。彼が低地全体を見渡すとそこが主の園のようにどこも潤っていたので、その地を選び取りました。彼は、自分が欲するところを手に入れようとしたのです。自分の選択を神様にまかせることをしませんでした。なぜでしょうか?信仰に生きていなかったからです。これが問題の本質です。問題は財産が多いか少ないかということではなく、どこを見て生きていたのかということだったのです。アブラハムは神を見て神に信頼して生きていたのに対して、ロトは自分の欲に従い自分の思い、自分の考えを基準に生きていました。これが問題だったのです。

何年か前に、当時聖書宣教会の教師であった内田先生を迎えて修養会を行いましたが、その時、教会に起こる問題の根底には救いの問題があると言われました。イエス様を信じて救われているようでも、本当の意味で救われていないと、問題は解決できないと言われたのです。もし教会にいる人がみな救われ御霊によって生きていたら、たとえ問題が起こっても御霊によって解決できるはずです。しかし、実際にそのようにならないのは、本当の意味で神に従いたいと思っていないからです。まだ自分が中心になっているからです。すなわち、肉の思いが御霊の思いを妨げているのです。それが問題の根底にあるのです。

まさにロトの問題はここにあったのです。そして、問題の根底にこのような要因があると解決するのが非常に困難ですが、アブラハムはそれを見事に乗り越えました。どのようにしたのでしょうか。彼は主の前にへりくだり、自分に執着することを捨てたのです。謙遜になってロトにその選択の優先権を与えのでした。これこそ、私たちが求めていかなければならない態度です。自分を捨て、主にすべてをゆだねるのです。そうすれば、主が最善に導いてくださいます。

4.神の祝福(14-18)

さて、ロトとアブラハムは別れて、それぞれどうなったでしょうか?ロトについては後にこのソドムとゴモラが滅ぼされることになっていくことがわかります。自分の欲に従い自分の思いで人間的に判断した彼は、神のさばきを受けなければなりませんでした。一方のアブラハムはどうなったかというと、14節からのところにあるように、神様の祝福を受けました。この地を全部アブラハムとその子孫に与えると約束してくださったのです。そればかりではありません。彼の子孫を地のちりのようにならせると言われました。このとき、彼にはまだ子どもがありませんでした。そのアブラハムに、地のちりのように子孫を与えるというのは、本当に大きな慰めです。

そこでアブラハムは天幕を移し、ヘブロンの樫の木のそばに来て住み、そこに主のための祭壇を築きました。どこにいても、神が祝福してくださるところが最善です。ですから、アブラハムはどこにいても、神のために祭壇を築き、そこで主の名によって祈ったのです。

それにしてもアブラハムは、どうしてこのような信仰に生きることができたのでしょうか?12章の後半を見る限り、そこには信仰の「し」の字もないかのような彼の生き様が描かれていたのですが、ここにはあの信仰の人アブラハムが復活したかのようです。おそらく彼は、あのエジプトでの失敗から学んだのではないでしょうか。信仰者とて完全な人はいません。ですから、時には失敗して痛い目に遭うこともありますが、大切なのはそこから学ぶことです。彼は、どんな時でも神に信頼することを学びました。ですから、この問題も信仰によって乗り越えることができたのです。私たちの信仰生活にもいろいろな問題が起こりますが、そうした問題が問題なのではなく、私たちがどこを見てむ歩むか、誰とともに歩むのかが重要です。神とともに歩むなら、そこが山地のでこぼこしたような所であっても祝福となりますが、自分の思いや考えによって生きようとするなら、絶えず問題にさいなまれるばかりか、結果的に近視眼的な判断をしてしまうことになるのまです。ですから私たちは、いつでも、どんなときでも、神のみこころを求め、この神のみこころに歩む者でありたいと思います。

民数記19章

きょうは民数記19章から学びます。ここでのテーマは「完全に赤い雌牛」です。まず19章全体を読んでみましょう。ここで主はモーセとアロンに、完全な赤い雌牛によって灰を作るように命じています。何のためでしょうか?その灰によってきよめの水をつくり、それを死体に触れて汚れた人たちに振りかけるためです。そうすれば死体にふれて汚れた者がきよめられるというのです。

まず、この箇所の背景ですが、この時イスラエルの民は、四十年間荒野をさまよっていました。そのときコラたちがモーセとアロンに反逆し、生きたままよみに投げ入れられるという神のさばきを受けると、それに同情したイスラエルの民もモーセに反抗して罪を犯したためそれに対する神罰が下り、彼らの中からもたくさんの死者が出たのです。コラの事件の他に何と14,700人が死にました。けれども、レビ記にあるように死者に触れる者は汚れました。そこで主は、死体に触れた者が清められるために特別な方法を示されたのです。それがこの「完全に赤い雌牛」であり、この雌牛の灰によって作られた水を注ぎかけるという儀式だったのです。

いったいこれはどんなことを教えていたのでしょうか?これまでも人の死体に触れた場合の戒めは幾度か取り上げられていました(レビ記21:1-4、11、民数記6:6-12、9:6-12)。しかし、それを取り除く具体的な方法は示されていませんでした。16章のコラの反逆の結果、多くの人が一度に死んだことで人の死の汚れをどのように取り除くべきかは、最も深刻な問題となったのです。誰でも死体や人間の骨や墓に触れるなら、あるいは、死人の天幕に入るならば汚れ(14-16)、その汚れは伝染しました(22)。宿営の中で誰かが死ぬと、宿営の中のすべての人が汚れ、何らかの対応をしないと、主の幕屋を汚す恐れがあったのです。

いったいどうすればいいのでしょうか?赤い雌牛をほふり、その灰によってきよめの水を作り、それを汚れた人に注ぎかけるのです。そうすれば、死体によって汚れた人のすべてがいやされるのです。

その水の作り方ですが、まずくびきの置かれたことのない赤い雌牛が犠牲にされ、灰が用いられました。「傷がなく」というのは、全く欠陥がない(罪がない)ということです。そして、「くびきの置かれたことのない」というのは、罪のくびき(罪の奴隷)が置かれたことがないという意味です。「赤い雌牛」の「赤」は血といのちを表していました。「雌牛」は新しいいのちを産み出す象徴なのです。つまりこれは、やがて来られるイエス・キリストのことを指し示していたのです。祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕に向かって七たび振りかけました。「七度」は完全数です。

そしてその雌牛は彼の目の前で焼かれました。また、その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければなりませんでした。宿営の外で・・。そして6節にあるように、祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れました。

この杉の木とヒソプ、緋色の糸がそれぞれ何を象徴しているのかはっきりわかりません。ある注解者は、杉の木は十字架の象徴、ヒソプは罪のきよめの象徴、そして緋色の糸はキリストの血を表していると考えていますが、果たしてそうでしょうか。確かに、ヒソプはイスラエル人がエジプトで,過ぎ越しのいけにえの血を自分たちの家の2本の戸柱と戸口の上部に塗った時に用いられました。(出12:21-22)また,以前にらい病にかかっていた人や家を清める儀式や(レビ14:2-7,48-53),「清めの水」に使われる灰を準備する際に使われ,その水を特定の物や人にそそぎかけるときにも用いられました。(民19:6,9,18)ですから、ダビデが,ヒソプをもって罪から浄めてください、と祈ったのです。(詩篇51:7)。また、緋色についても、それはキリストの血を表すものとして出エジプト記の中の幕屋の垂れ幕や大祭司の服に刺繍されていました。

けれども、ここにはそれを火の中に投げ入れたのです。それをもって血を塗るとか、何かをするというのではなく、それを雌牛と一緒に焼いたのです。ですから、それは十字架やきよめ、血の象徴としてではなく全く逆の意味として使われているのです。そしてよく調べてみると、杉の木は力の象徴、富、権力、栄光の象徴として用いられていることがわかります。そしてⅠ列王記第4章33節には、ソロモンが草木のことを論じた際に、「杉の木からヒソプにまで及んだ」と言っています。ヒソプというのはとても低い草なのだそうですが、杉木のように高くて大きな木からヒソプのように低くて小さな草に至るまでという意味です。それは植物全体を意味しています。すべての草木を表徴してそういったのです。言い換えると、それらは全世界を予表しているということになります。緋色の糸は何を表していたのでしょうか? この言葉は、イザヤ書第1章18節において「緋」とも翻訳されており、それはこう言っています、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」。このことから、緋色の糸はわたしたちの罪を表徴します。すなわちこの三つは、大きな罪から小さな罪まで、全ての罪を象徴していたのです。それを火の中に投げ入れ成した。ですから、杉の木、ヒソプ、緋色の糸が一緒に焼かれることは、赤い雌牛を神にささげた時、全世界の罪が赤い雌牛と一緒にされて、それらがすべて共に焼かれたことを意味しているのです。

その灰を集め、湧き水と混ぜ合わされて「きよい水」を作ります。その水がすべての汚れをきよめるのです。その水を死体にふれて汚れた人にきよめられると、だれでもきよめられました。ここには三日目と七日目とあります。三日目は復活を、七日目は完全を表していたと思われます。

いったいこれは何を表していたのでしょうか。ヘブル人への手紙9章13-14節にはこうあります。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」

そうです、これはキリストの十字架の血によるきよめを表していたのです。この灰を死体にふれた人々に注ぎかけるということは、十字架につけらえたキリストの血を、罪の中に死んでいる人々に注ぎかけることを象徴していました。そうすれば汚れはなくなり、罪はみなきよめられ、完全なきよめが果たされるのです。それだけ、キリストの血には力があるのです。しかも、この赤い雌牛の犠牲は、これ以前にもこれ以降にも一度限りです。完全な一度限りのいけにえです。イエスのいけにえも、全人類のための完全な一度限りの犠牲であり、いけにです。イエスの死によって、私たちは、神の怒りから解放され、罪の赦しを得、罪の支配からも解放されたのです。実に、このように雌牛が人の罪を赦し、きよいものとするならば、尊いイエスの犠牲はいかばかりであろうか、というのです。

ここには、キリストの血がどれほど力があるのかを、三つの点で語られています。第一に、良心をきよめる力です。「どんなにか私たちの良心をきよめて」とあります。

人間の良心は、罪によって汚されており、汚れた良心は、人にとって負い目となります。パウロは自らの中にある罪を認めてこう言いました。「私には自分のしていることがわかりません。私には自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分の憎むことをしているからです。」(ローマ7:15)とあるように、人は無意識的にそうした良心の咎めを持っています。どんなに、言い訳、弁解、仕事、趣味、宗教、善行等で繕おうと務めてもその「良心の呵責」があれば真の自由を得ることはできません。しかしキリストの血はそのような「良心の呵責」から完全に解放してくれるのです。

第二に、生き方を変える力があります。ここには、「死んだ行いから離れさせ」とあります。キリストの血潮は、人を縛っている罪のくびきから解放することができます。ザアカイはその一人です。彼はキリストと出会ったその日から新しい人に変えられました。人の心に罪が支配している間は、人は「死んだ行いの奴隷です。人は「新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。キリストの血潮と御霊による新生は人を全く新しい人に造り変えます。使徒ペテロもこう語っています。「あんたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、・・傷もなく、汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:19)

第三に、キリストの血は人を生かす力です。ここにはまた、「生ける神に仕える者とする」とあります。

キリストの血は神から離れた人を神に連れ戻すだけでなく、新しい歩みをさせる力を与えます。「古い生き方」から解放され罪を離れるならば、「神に仕える」という新しい目標、真の生きがいをもつようになります。「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6:13)とパウロは勧めました。主の死にあずかるならば、主のよみがえりの力にもあずかることができ、そのような人は神の前に立つことができ(ささげて)、神のために実を結ぶ生涯へと導かれるのです(ローマ6:5, 22)

このようにキリストの血の力を知ることは、私たちをして、責められることなく、臆することなく、大胆に、神の前に立つことができ、破格の恵みによって歩くことのできる力を与えられるのです。

民数記18章

民数記18章から学びます。前回までのところにはコラの反乱とその結果、そして、アロンの杖について学びました。コラはレビ人であり、かつケハテの氏族に属していましたが、彼はアロンの祭司職を欲しがって、モーセとアロンに反抗しました。「あなたがたは分を越えている」と。そんなコラにして、主は彼と彼の家族を生きたまま陰府に投げ込むというさはぎを行いました。それを見たイスラエル人は、モーセとアロンがコラを殺したとつぶやき、それゆえ、主はイスラエルの民に罰を下され、何とイスラエルの民の中から14,700もの人たちが死に絶えました。しかし、アロンが香を盛った火皿をもって宿営の中に入り、ちょうど死んでいる者と生きている者の間に立ったとき、その神罰が止みました。イスラエルはアロンのとりなしによって救われたのです。

その後、主はアロンの杖にアーモンドの花と実を結ばせて、イスラエルの民がアロンこそ選ばれた祭司であることをお示しになりました。しかし、イスラエルの民は、ここにあらわされた神さまのあわれみを理解せず、「私たちも滅びる!私たちも滅びる。」と言って、パニック状態になっていました。それは、彼らが神の恵みとあわれみを理解していなかったからです。彼らは祭司の務めによって初めて、そうした神の怒りから救われるということです。主はさばきを行なわれる方です。しかし、主は、祭司という仲介者をとおして、ご自分の怒りをなだめ、彼らに罪の赦しと和解を与えようとされるのです。そこで主はこの18章において、さらに祭司の務めについてお語りになられました。

Ⅰ.祭司の務め(1-7)

まず1節から7節までをご覧ください。

「1 そこで、はアロンに言われた。「あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。2 しかし、あなたの父祖の部族であるレビ族のあなたの身内の者たちも、あなたに近づけよ。彼らがあなたに配属され、あかしの天幕の前で、あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちに仕えるためである。3 彼らはあなたのための任務と、天幕全体の任務を果たすのである。しかし彼らは、聖所の器具と祭壇とに、近づいてはならない。彼らも、あなたがたも、死ぬことのないためである。4 彼らがあなたに配属され、天幕の奉仕のすべてにかかわる会見の天幕の任務を果たす。ほかの者があなたがたに近づいてはならない。5 あなたがたが聖所の任務と祭壇の任務を果たすなら、イスラエル人に再び激しい怒りが下ることはない。6 今ここに、わたしは、あなたがたの同族レビ人をイスラエルの中から取り、会見の天幕の奉仕をするために、彼らをにささげられたあなたがたへの贈り物とする。7 あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちは、祭壇に関するすべてのことや、垂れ幕の内側のことについてのあなたがたの祭司職を守り、奉仕しなければならない。わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える。ほかの者で近づく者は死ななければならない。」

主はアロンに、彼と彼の子たち、すなわちアロンの家族が、聖所にかかわる咎を負わなければなせない、と言われました。彼の家族こそが祭司職を担わなければならないと確認されたのです。少し前に、コラの家族やそれにくみ与する者たちを死をもってさばかれたことによって、イスラエル全体に混乱が起こりましたが、ここでもう一度、だれが祭司の務めを果たすのかを示されたのです。

2節には、アロンの家族以外の、レビ人たちの位置についても、確認されています。レビ人は、聖所でアロンの祭司の務めを助ける奉仕を行なうことはできましたが、祭壇で献げ物をささげることはできませんでした。(1:47-53,3:5-10)それがレビ人に与えられた役割なのです。その任務に忠実であることを神は求めておられるのです。コラの罪は、この役割を忘れ、アロンの祭司職まで求めたことだったのです。

3節から5節までのところには、神がそのようにされる(祭司の務めと、レビ人の奉仕について確認している)理由を語られます。それは、イスラエル人が死ぬことがないためです。コラたちが受けたような激しい御怒りを二度と受けることがないようにという配慮からなのです。

6節と7節を見ると、このアロンの祭司職は、彼とその家族が自分たちで手に入れたのではなく、神の恵みの賜物として与えられたことが教えられています。それは彼らを助けるレビ人も同じです。レビ人もアロンたちが会見の天幕の奉仕をするために、主にささげられたかれらへの贈り物として、神から与えられたものなのです。私たちが自分たちの奉仕について考えるとき、このことはとても重要なことです。これはすべて神からの贈り物、賜物なのです。それは私たちの救いがもともと神からの賜物であることと同じです。神の一方的な恵みによって救いを与えてくださった主は、その後の奉仕においても恵みの賜物を与えてくだり、私たちがしなければならない務めを与えてくださったのです。その分を越えてはいけません。それぞれが神から与えられた信仰の量に応じて、慎み深く、仕えなければならないのです。

Ⅱ.永遠の分け前(8-24)

次に8節から24節までをご覧ください。

「8 はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
11 また次の物もあなたの分となる。イスラエル人の贈り物である奉納物、彼らのすべての奉献物、これをわたしはあなたとあなたの息子たち、それにあなたとともにいる娘たちに与えて、永遠の分け前としする。あなたの家にいるきよい者はみな、それを食べることができる。12 最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々がに供える初物全部をあなたに与える。13 彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らがに携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。14 イスラエルのうちで、聖絶のものはみな、あなたのものになる。15 人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれたものでにささげるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖われなければならない。また、汚れた獣の初子も贖われなければならない。16 その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。
17 ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものであるからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、その脂肪を火によるささげ物、へのなだめのかおりとして、焼いて煙にしなければならない。18 その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸や右のもものようにあなたのものとなる。19 イスラエル人がに供える聖なる奉献物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それはの前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」20 はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当て地であり、あなたの相続地である。21 さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのついの十分の一をみな、相続財産として与える。22 これからはもう、イスラエル人は、会見の天幕に近づいてはならない。彼らが罪を得て死ぬことがないためである。23 レビ人だけが会見の天幕の奉仕をすることができる。ほかの者は咎を負う。これは代々にわたる永遠のおきてである。彼らはイスラエル人の中にあって相続地を持ってはならない。24 それは、イスラエル人が、奉納物としてに供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。」

8節には、「はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物に関わる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。」とあります。どういうことでしょうか?これは、アロンの家族たちが、祭司としてイスラエルが神に対してささげたささげものの一部を、受け取ることができたということです。イスラエルは、神に動物のいけにえや穀物のささげものなどをささげましたが、それを受け取ることができたのです。そして、それは祭司としての彼らの任務なのです。ここに「聖なるささげ物」とありますが、これは主ご自身のものを自分たちが受け取ることによって、主と自分たちが交わることを意味しています。祭司たちは、主のものを共有することによって主と交わる、あるいは礼拝したのです。それは、私たちの主の聖餐と同じです。私たちはイエス・キリストの血と肉を食することによって主と交わりを持つのです。キリストにあって一つになることができるからです。それは、アロンとその家族に対する「永遠の分け前」なのです。

9節には、最も聖なるものとして、穀物のささげもの、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえがあげられています。なぜこれらが最も聖なるものなのでしょうか?それは、罪のいけにえによって、神と人との間の仕切りとなっている罪が取り除かれるからです。その肉を食べるということは、主ご自身が人の代わりに罪のさばきをお受けになったことを意味しているからです。

しかし、ヘブル書を見ると、「雄牛ややぎの血は、罪を除くことができません。(ヘブル10:4)」とあります。そうした動物のいけにえは、罪を取り除くことはできないのです。では何が私たちの罪を取り除くことができるのでしょうか。ヘブル書のその後のところには、それがイエス・キリストであることが書かれてあります。「キリストは、つみのために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、」(ヘブル10:12)とあります。神と人とが一つとなることができるのは、神のひとり子キリスト以外にはありません。イエス様が、罪のためのいけにえとなってくださったことによって、私たちの罪のすべてを負ってくださいました。それ故に、このイエスを信じることによって、私たちは完全な罪の赦しを得ることができるのです。イエスは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)」と言われました。祭司が罪のためのいけにえの肉を食べるとき、それは新約聖書の言う祭司である私たちがキリストを食することに他なりません。

11節には、その他の奉納物や奉献物は、彼らの息子たち、また娘たちにも与えられるとあります。罪のいけにえは聖所で奉仕を行なう男子だけが食べることができましたが、その他の奉納物や奉献物は、息子たちや娘たちも食べることができました。しかしここには、それも「永遠の分け前」であると言われています。これは、時を経ると効力がなくなってしまうような一時的なものではなく、永遠に続くものである、ということです。言い換えれば、完全な分け前であり、欠けたものがないもの、ということです。またそれは、繰り返す必要のない、ただ一度の出来事、と言うことが言えるでしょう。それは、神の贖いのわざも同じです。キリストが十字架の上で血を流され、死なれたことによって、贖いは完成しました。神にとって必要な贖いは、もうこれ以上何一つありません。したがって、キリストの成し遂げられた贖いは永遠に続くものであり、再び繰り返される必要はないものなのです。

このことについてヘブル人への手紙9章11節にはこうあります。「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

これが、私たちクリスチャンの贖いです。私たちは、キリストのただ一度の贖いによって、永遠の救いを受けました。私たちの過去、現在、未来のすべての罪が、二千年前のキリストの十字架の贖いによってすべて取り除かれているのです。あたかも罪が赦されていないかのように、その赦しを請うために祈ったり、聖書を読んだり、奉仕をしているということはないでしょうか?あるいは、自分をもっと聖めたいと思って、これらの宗教的活動をしていることはないでしょうか。心の中で、「まだ自分は聖められていない。もっと神さまに従って、神さまに近づかなければいけない。」と思っていないでしょうか?しかし、キリストの贖いは、そのような不完全なものではないのです!使徒パウロは言いました。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(Ⅰコリント6:11)」私たちはすでに、洗われて、聖められて、義と認められたのです。キリストが二千年前に死なれたときに、これらはみな完成しました。ですから、祭司たちが、神からいただく分け前は「永遠」のものであったのです。

12節と13節には、「最良の新しい油、最良の新しいぶどう酒と穀物、これらの人々が主に供える初物全部をあなたに与える。彼らの国のすべてのものの初なりで、彼らが主に携えて来る物は、あなたのものになる。あなたの家にいるきよい者はだれでも、それを食べることができる。」とあります。

イスラエル人は、罪や罪過のためにいけにえだけではなく収穫物の初物を幕屋に携えてきました。最良の新しい油、最良のぶどう酒や穀物を自分たちの分け前とすることができたのです。これらも、罪のためのいけにえと同じように、キリストご自身を表していました。キリストが信者たちの初物となってくださっています。キリストが死者の中からよみがえられたように、キリストを信じる者は死んでも生きるのです。キリストが死なれて葬られたように、キリストにつく者は古い人に対して死に、キリストが神からすべてのものを相続しておられるように、キリストのうちにある者も、神からの相続を受けるのです。ですから他の個所では、キリストはすべての兄弟の長子となられた、と書いてあります。祭司としての私たちは、初物であられるキリストを心に受け入れているのです。

14節には、イスラエルのうちで、聖絶のものがみな、祭司たちのものとなる、とあります。 聖絶のものはすべて神のものであり、すべて神の宝物倉に入れておかなければならないものですが、それが祭司たちは自分たちのものとなるというのです。

15節には、「人でも、獣でも、すべての肉なるものの最初に生まれるもので主にささげられるものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の初子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた獣の初子も贖わなければならない。その贖いの代金として、生後一か月以上は聖所のシェケルの評価によって銀五シェケルで贖わなければならない。一シェケルは二十ゲラである。」とあります。

植物の初物が祭司のものになったように、動物や人間の初子も祭司のものとなります。ただし、イスラエルに初めに生まれてきた男の子が、祭司のものになるのではありません。初子はすべて主のものですが、イスラエル人はお金を払って買い取るからです。それは生後一ヶ月以上であれば聖所のシェケルで銀五シェケルと定められていました。ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖うことができませんでした(17)。なぜなら、それらは火によるささげものとして、主にささげられなければならなかったからです。そして、肉はみな祭司たちのものとなりました(18)。

19節には再び「永遠の分け前」が出てきます。ここには、この分け前についてのまとめが記されてあります。これは永遠の分け前であり、永遠の塩の契約なのです。「永遠の塩の契約」とは、解消されることのない契約である、という意味です。これは、物理的に祭司職が続くということではなく、先ほど申し上げたように、キリストの永遠の祭司職を指し示しています。

20節から24節までには、相続地に関する教えが記されてあります。祭司たちは、約束の地において自分たちが所有となる土地が与えられませんでした。それは、彼らにとって主を礼拝することがすべてであり、主を礼拝するという霊的富をすでに得ていたからです。主は、「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である」と言われました。私たちも、新約時代の祭司としてこのように告白しなければなりません。私たちはただ、イエス様だけを相続地としているでしょうか。イエス様だけのことばに拠り頼んでいるでしょうか。この地では、楽しいこと、喜ばしいこと、多くの友だち、家族、いろいろな祝福があります。しかし、「わたしの相続地はイエス様です。それで十分です。」という告白しているでしょうか。アロンに対して、主は、「相続地を持ってはならない。わたしがあなたの相続地である。」と言われました。

それはレビ人も同じです。主はレビ人にも相続地を与えられていません。その代わり、イスラエル人が携えてくる十分の一をみな、レビ人が受け取ることができました。それは、レビ人が幕屋の奉仕をすることができるようになるためであり、それによって、イスラエル人が幕屋の中に入ったりしなくても良いようにしてくださったのです。レビ人はそれによって生活が支えられ、フルタイムで主に仕えることができたのです。

Ⅲ.祭司の報酬(25-32)

最後に25節から32節までを見て終わりたいと思います。

「25 はモーセに告げて仰せられた。26 「あなたはレビ人に告げて言わなければならない。わたしがあなたがたに相続財産として与えた十分の一を、イスラエル人から受け取るとき、あなたがたはその十分の一の十分の一を、への奉納物として供えなさい。27 これは、打ち場からの穀物や、酒ぶねからの豊かなぶどう酒と同じように、あなたがたの奉納物とみなされる。28 それで、あなたがたもまた、イスラエル人から受け取るすべての十分の一から、への奉納物を供えなさい。その中からへの奉納物を祭司アロンに与えなさい。29 あなたがたへのすべての贈り物のうち、それぞれ最上の部分で聖別される分のうちからへのすべての奉納物を供えなさい。30 またあなたは彼らに言え。あなたがたが、その最上の部分をその中から供えるとき、それはレビ人にとって打ち場からの収穫、酒ぶねからの収穫と同じようにみなされる。
31 あなたがたもあなたがたの家族も、どこででもそれを食べてよい。これは会見の天幕でのあなたがたの奉仕に対する報酬だからである。32 あなたがたが、その最上の部分を供えるなら、そのことで罪を負うことはない。イスラエル人の聖なるささげ物を、あなたがたは汚してはならない。それは、あなたがたが死なないためである。」

レビ人は受け取った十分の一のすべてを自分たちのものとすることはできませんでした。その中から十分の一を取り、それを主への奉納物としてささげたのです。すなわち、アロンの家族に与えたのです。それは祭司の家族が生活に困ることなく、祭壇と聖所における奉仕に専念することができるようにするためでした。こうして、アロンの家族は、レビ人を含むイスラエル人すべてを代表して、主に奉仕をし、礼拝をささげました。物質的な必要が支えられることによって、神と人との仲介の役を果たし、イスラエル人が幕屋に近づいて殺されなくてもすむようにしたのです。

これが神の計画でした。神はイスラエルが聖所の器具と祭壇に近づいて死ぬことがないようにするために、このように配慮してくださいました。それは今日で言うなら、神は教会に牧師、長老、監督といったは働き人を与え、彼らによってこの働きを担うことができるようにしておられるのと同じです。彼らが死ぬことがないように、神は牧師、長老、監督といった霊的指導者を教会に与えてくださいました。そうした働き人がその働きに専念できるように、教会は彼らの必要を与え養わなければならないのです。「穀物をみなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」し、「働き人が報酬をうけることは当然である」のです。

ⅠTimothy5:1-16 “The church is the family of God”

Today’s passage is I Timothy 5:1-16. From today’s passage let’s look at how we should serve each other in the church which is the family of God.

1.As family (Vs. 1-3)

First please look at verses 1 to 3.

“Do not rebuke an older man harshly, but exhort him as if he were your father. Treat younger men as brothers, older women as mothers, and younger women as sisters, with absolute purity. Give proper recognition to those widows who are really in need.”

Paul said in 3:15 that the church is God’s family, God’s household. In the family there are different members: grandfather, grandmother, father, mother, son, daughter, grandchildren, etc. It is composed of different members. The church is God’s family so the church is also the same. It has people of different ages, positions, and circumstances. Recently it is said that there are a lot of elderly in the church, but normally the elderly, young, men, and women, people of all ages gather in the church. In such a church how should we serve each other?

In verse 1 Paul says first of all, “Do not rebuke an old man harshly.”  When humans grow old they can’t move as vigorously and quick as when they were young.  Because of that there are cases where young people treat the elderly as people who stand in their way and are mean to them. However, there must not be such things in the church. “Do not rebuke…harshly” means not to scold severely. The elderly fail and make mistakes, but even at such times you must “not rebuke…harshly” or look down on them and find fault with them.

According to Tsugio Kosegawa when you get old your thinking is controlled by three thoughts. One is by sentimental memories of past life: the success and failures, the joys and sadness, etc. The mixed feelings of joy and anger are constantly crossing over each other. When you remember an event for a moment you rejoice, then in the next moment feelings of regret suddenly overcome you. There are times when you are emotionally unstable. The second is emotions that come from the future. Such feelings of fear of death, uncertainties that come from the ageing of the body, the hope of heaven, etc. are interwoven. Thirdly are the sentiments that come from the present conditions: feelings of not working, powerless, isolation, etc. It is hard for those who are working hard to understand such feelings, but it is important to understand such mixed emotions and not put pressure on the elderly who move at their own pace. We must not be harsh towards them.

Lev. 19:32 says, “Rise in the presence of the aged, show respect for the elderly and revere your God. I am the LORD.”  In today’s passage it says to treat older men as fathers, and “older women as mothers.” (2) The Greek word used for “treat” (1) is paracleo which means “stand next to and assist”. It is the root word for paracletos which means the comforter or Holy Spirit. It is to stand next and encourage or stand next and help. If an elderly person makes a mistake or does a wrong, we must stand next to him and encourage him.  Especially here it says “as fathers” (1) and “as mothers”. (1) The 10 commandments teach us that we should honor our father and mother. Therefore, to treat the elderly “as fathers” (1) and “as mothers” is to honor them. It is also respecting the elderly for their life experience and the character that was formed by the mixing of those experiences.

Next is how we should treat young people. “Treat younger men as brothers…and younger women as sisters, with absolute purity.” (1, 2) Among young people there may be some who are wild and irresponsible or cause only trouble. There may be some that leave a lot to be desired. However, when we have contact with them, we must treat them as brother and sister. To treat as brothers and sisters is treat the relationship like an intimate relationship that even if you cut off the relationship it doesn’t become a broken relationship. Here too the word “treat” (1) is used. Therefore, it is not looking down on the person and spitting out words of disgust, but we must support them standing beside them and helping them.

Especially younger women are to be treated “as sisters, with absolute purity.” (2) “Absolute purity” (2) is used also in 4:12. It is a pure heart with no secret intentions. In other words they are to be treated like real sisters.

Please look at verse 3. The next to appear is “the widowed”. (3) In that age a widow by losing her husband lost her life base. They didn’t have social security like we have today so all the support for life was lost. It was extremely necessary for the church to support such widows.  Rather, not just the widowers, it was the church’s duty to help the weak in society.  James 1:27 says, “Religion that God our Father accepts as pure and faultless is this: to look after orphans and widows in their distress and to keep oneself from being polluted by the world.”  “To look after the orphans and widows in their distress” (James 1:27) was an important duty of the church.

Paul is saying, “Give proper recognition to those widows” (3) He didn’t say just to take care of them and help them, but to “give proper recognition to those widows.” (3) To “give proper recognition” is to show honor and respect.  However, it goes beyond the honor that is to be shown to the elderly as Paul taught in verses 1 and 2. Not only were the widows to be honored and respected, but they were to be taken care of too.

By the way, the name Timothy means “honor God”. A person that honors God honors God’s family. Also even within God’s family he especially honors the weak.

Paul said that the church was Christ’s body. If you look at what a body is like we can understand this. Paul says in I Cor. 12:22-27, “On the contrary, those parts of the body that seem to be weaker are indispensable, and the parts that we think are less honorable we treat with special honor. And the parts that are unpresentable are treated with special modesty, while our presentable parts need no special treatment.  But God has combined the members of the body and has given greater honor to the parts that lacked it, so that there should be no division in the body, but that its parts should have equal concern for each other.  If one part suffers, every part suffers with it; if one part is honored every part rejoices with it.  Now you are the body of Christ, and each of you is a part of it.”

The church is the body of Christ. “Those parts of the body that seem to be weaker are indispensable…God has combined the members of the body and has given greater honor to the parts that lacked it.” (I Cor. 12:22, 24) Therefore, by honoring those that are weak, the church becomes a healthy body. The church benefits from all its combined parts.

However, here it isn’t saying to help all widows.  Here it says, “Give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) That is so as it says in verse 16 the church will not be burdened by them. Not all churches have enough money financially. There are some churches that are poor. For such poor churches to help orphaned children and widows it was necessary for them to distinguish who “those widows who are really in need” (3) are. Even if a church was poor, the church must as a whole support such needy widows. Next let’s look at who “those widows who are really in need” (3) are.

2.Those widows who are really in need (Vs. 4-10)

  1. “Those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives.  Verse 4 says, “But if a widow has children or grandchildren, these should learn first of all to put their religion into practice by caring for their own family and so repaying their parents and grandparents, for this is pleasing to God.”

In other words, it is important that children and grandchildren learn to respect, care for, and repay their parents and grandparents. There may be some people that can’t respect their parents. They may think that their parents didn’t bring them up well or that they showed no compunction for abandoning them. However, it is certain that their parents bore them. Now they exist because they had parents that gave birth to them. Their parents may not have brought them up well. They may have made mistakes. It may be true that they had weak points. However, to continue to have bitterness or to not respect them is not pleasing to God.

Verse 8 says, “If anyone does not provide for his relatives, and especially for his immediate family, he has denied the faith and is worse than an unbeliever.” No matter what kind of parents a person had to “not provide for” (8) his parents it to deny “the faith and is worse than an unbeliever.” (8) “Honor your father and mother” (Exodus 20:12) is pleasing to God. Children must learn to do this and we must teach them to do so.

  1. “Those widows who are really in need” (3) put their “hope in God.” (5) Please look at verses 5 and 6. “The widow who is really in need and left all alone puts her hope in God and continues night and day to pray and ask God for help. But the widow who lives for pleasure is dead even while she lives.”

“Those widows who are really in need” (3) put their hope in God and continue “night and day to pray and ask God for help.” (5) In other words, they live a life of faith. Such a person like verse 10, “is well known for her good deeds, such as bringing up children, showing hospitality, washing the feet of the saints, helping those in trouble and devoting herself to all kinds of good deeds.” They are women who don’t receive any remuneration from the church, but like the church staff, just earnestly serve God and the church. It is only natural for the church to support them. That is because such people have always supported the church.

“But the widow who lives for pleasure is dead even while she lives.” (6) That is not just limited to widows. A person who lives for his own pleasure, for his own joy and contentment “is dead even while” (6) he lives. Even though normally the older and older a person gets, the longer and longer he has faith, he must become a model of a person of faith and lives a life of godliness, but if he his living for pleasure, that’s terrible. Just because she is a widow, the church mustn’t thoughtlessly support her. The church must not support a person that is living for pleasure.

  1. “Those widows who are really in need” (3) are “over sixty” (9) and have “been faithful to her husband.” (9) Please look at verse 9. “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty, has been faithful to her husband.”  It says, “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty.” (9) In that age over 60 was considered elderly. Here there are probably some people over 60 who think they are still young, but in that age over 60 was counted as elderly. Here it says, “No widow may be put on the list of widows unless she is over sixty.” The reason will appear after this so I’d like to identify it then.

Also here it says, “has been faithful to her husband.” (9) The fruits of faith must first be evident in the marriage relationship. The Greek phrase in verse 9, literally, “one-man woman” is the counterpart to the “one-woman man” which describes the overseer and deacon (3:2, 12) This refers to faithfulness in marriage.

Thus, a widow is a widow, but “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) Often there are people who think that the church should help all people who are in poverty without conditions or requirements. However, that it not so. Real kindness is not giving help to just anyone no matter what he does. The church must help “those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives, are “left all alone” (5) put their “hope in God” (5) and continue “night and day to pray and ask God for help,” (5) are “over sixty” (9) and have “been faithful to” (9) their husband. I think we must think more seriously and constructively about helping people in this kind of situations.

3.Do not put younger widows on such a list (Verses 11-16)

Please look at verses 11 to 16.

“Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.  Besides, they get into the habit of being idle and going about from house to house.  And not only do they become idlers, but also gossips and busybodies, saying things they ought not to.  So I counsel younger widows to marry, to have children, to manage their homes and to give the enemy no opportunity for slander.  Some have in fact already turned away to follow Satan.  If any woman who is a believer has widows in her family, she should help then and not let the church be burdened with them, so that the church can help those widows who are really in need.”

Until now we have looked at what “widows who are really in need” (3) are like. “Those widows who are really in need” (3) have no blood or non-blood relatives, are “left all alone” (5) put their “hope in God” (5) and continue “night and day to pray” (5) and serve God. Then an age restriction of over 60 was laid. Here it says, “As for younger widows, do not put them on such a list.” (11) That is because “when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry. Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.” (11,12)

In the ancient church among the exponent theologians were John Chrysostom and Tertullianus. According to their accounts, the first church had a system concerning the widows. They established an agreement that for widows that serve God for life, the church will fulfill their obligation to them. Those who were registered had faith and had to pledge to not remarry the rest of their lives. Those who made this vow put on “widows clothes” and received the laying on of hands. Therefore, here the widows that are being spoken about are not just widows. Their husbands had died and they had vowed to serve the Lord for the rest of their life.

However, this mustn’t be the case with young widows too. That is because “when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry. Thus they bring judgment on themselves, because they have broken their first pledge.” (11,12) “Their sensual desires overcome their dedication to Christ” (11) means that “their sensual desires overcome” their commitment to dedicate themselves to Christ. As a result of their youth, for “sensual desires,” (11) they discard their first vow, their first faith. This is the image of a young ox that tries to escape from his yoke.  In the old day the fields were plowed by 2 oxen that were tied together by a yoke.  However, in time one of the oxen tries to escape from the yoke. Young widows are the same. They try to escape from the yoke and “they want to marry.”

To marry in and of its self is not bad.  The problem is that even though they had promised to give all to Jesus, they break the vow and marry.  Now that they became a widow, they vow to give the rest of their life to God. It is like Catholic sisters that even though they vow not to marry and give their life to God, when they meet a kind man, a man whose faith they respect, soon “they want to marry.” (11) This is the problem.

Marriage is wonderful. It is a blessing of God. However, marriage isn’t everything.  If your husband dies first, it is also wonderful to give the Lord the rest of your life and serve the Lord. That’s because “a married man is concerned about the affairs of this world-how he can please his wife-and his interests are divided.  An unmarried woman or virgin is concerned about the Lord’s affairs; her aim is to be devoted to the Lord in both body and spirit.” (I Cor. 7:33,34) “But if you do marry, you have not sinned.” (I Cor. 7:28) However, Paul advises, “Because of the present crisis, I think that it is good for you to remain as you are.” (I Cor. 7:26) That is because you can live “in undivided devotion to the Lord.” (I Cor. 7:35) Therefore. marrying is a good thing.  Also “if she stays as she is,” (I. Cor. 7:40) in other words, she doesn’t remarry, that is also wonderful. What is important is how you are going to serve the Lord in the situation that you are in. If a young woman becomes a widow, she must think about how she should spend the rest of her life. Then if she has vowed to give the rest of her life to the Lord, she must not turn her back on that vow.  However, it says that “As for younger widows, do not put them on such a list.  For when their sensual desires overcome their dedication to Christ, they want to marry.” (11)

“Besides, they get into the habit of being idle and going about from house to house.  And not only do they become idlers, but also gossips and busybodies, saying things they ought not to.” (13) These are the women that have discarded their first vow.  A woman whose husband dies and vowed that she would use the rest of her life for the Lord is good, but then if she gives up her vow and marries another man, has time on her hands and idles away her life, “going about from house to house.  And … also gossips.” (13) They are busybodies, “saying things they ought not to.” (13)

Therefore, Paul counsels the younger women “to marry, to have children, to manage their homes and to give the enemy no opportunity for slander.” (14) That is because “Some have in fact already turned away to follow Satan.” (15 Therefore, while you are young, you should work faithfully, or do your household jobs, and live a calm life.

Just because a person is a widow we shouldn’t haphazardly support them. We need to among the widows “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) That’s because the church is God’s family.

As you know the other day Vanatu, a small country in the South Pacific was hit by a huge cyclone that did extensive damage. Actually 70% of the countries’ population lost their homes. We received a report on the present condition from our friend Greg Carlson and his wife who are sent out by Wycliffe to do Bible translation there. According to Greg the people of Vanatu are facing a deeper problem than the loss of their homes. That is food! They live off of the land. Most of the population lives by subsistence farming. Their crops were all destroyed so they have nothing to eat. Even if they plant seeds, it will take 6 months before they can harvest.  Fortunately rice has been sent to Vanatu from many countries, but they have nothing to eat but rice.

When I received this report I prayed about what I should do. God’s answer was “give proper recognition to those widows who are really in need.” (3) In the body of Christ, God’s church, if there are such people, we should give them proper recognition.

We should do what we can to help them. The problem is not how much we give. What is important is that we follow God’s word, and put it into practice. In the back of the room there is an offering box so please pray and give.

A few weeks ago on the television program “Unbelievable” Shu Wuan Jien was introduced on a film strip from China entitled “2013’s most beautiful neighbor”. In 1979 Shun who lived in a small village in Shisensho, China was 15 years old.  His family was poor and they didn’t even have money to buy pig feed. Every day he would go to the town and gather left over food that could be used to feed the pig.

One day Shun eyes fell upon some people who were eating wantan ramen which looked so delicious. Without thinking Shun stopped and looked at them. Food like wantan that has meat in it was too expensive for the poor.

Then a 60 year old woman named Wan Zuyu said to him, “It’s hard when you are still a child to collect left over food.” Then she gave him some wantan ramen to eat. Shu was so thankful. Also he thought that he wanted to become a person like Wan.

However, the next day he saw Wan working as a carrier of baggage. Moreover her blind son was pushing the cart from the rear. Besides that she had a sick husband. He realized that she was poor like him.  After that too Wan was always concerned about Shun.

21 years passed. Shun married and had a family. Even after he became an adult he visited and kept his relationship with Wan. In 2002 when Shun was 38 years old he received the news that Wan’s husband and son unfortunately died. Besides that, Wan broke both legs and was put in a home for the elderly. The homes for the elderly in China are public so they are almost all free, but for an older person like Wan who is by herself the greatest agony is loneliness. At that time Wan was 83 years old. Therefore, Shun talked with his own mother, wife, and son and brought Wan to his home to live with them.  He loved her like his own mother. The people around him could not understand why he would bring an old lady to live with him. They thought he did it out of an expectation for something in return, but her only possession was a walking cane. In return as gratitude for one bowl of wantan ramen he brought Wan to his house.

Then after 11 years in Jan. of 2014 Wan died. She was 95 years old. While she was alive, she said to Shun, “You weren’t my real son. However, like a real son you loved me. You did so much that I don’t know how to repay you. I’m thankful from the bottom of my heart.”

At the “The most beautiful neighbor” awards ceremony Shun said, “A neighbor is in a sense family. Wan treated me like a family member when I was young. Even today she lives within my heart.”

These words, “A neighbor is in a sense family” rang strongly in my heart.  The church is God’s family. Therefore, we are asked to treat the members as a family. The church has people of many different ages, backgrounds, and circumstances, but no matter what kind of person, we are asked to treat them as family. How do you look at the people in the church, the family God? Let’s remember once again that the church is the family of God and let’s treat the members like family.

Ⅰテモテ5章1-16節「教会は神の家族」

きょうは、Ⅰテモテ5章1節から16節のみことばから、「教会は神の家族」というタイトルでお話したいと思います。4章でパウロは、教会の奉仕者として、りっぱな奉仕者とはどのような者なのかについて語りましたが、この5章では、神の教会においてどのように仕えたらよいかについて語っています。パウロは、3章15節で教会は神の家、神の家族だと言いました。家族の中にはいろいろな人たちがいます。おじいちゃんやおばあちゃん、お父さんやお母さん、息子たちや娘たち、そして孫たちもいます。教会は、いろいろなメンバーで構成されているわけです。その教会においていったいどのように仕えていったらいいのでしょうか。

Ⅰ.家族に対するように(1-3)

まず1節から3節までをご覧ください。

「年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。」

1節には「年寄をしかってはいけません」とあります。人間は年を取ると若い時のように活発に、あるは敏速に行動することができなくなります。そのため若い人は年寄りを見てイライラしたり、つらく当たってしまったりすることがありますが、そういうことがあってはならないというのです。「しかってはいけない」というのは、厳しく叱ってはいけないという意味です。年寄りでも失敗したり、過ちに陥ったりすることがありますが、そのような時でも叱ったり、厳しく咎めるようなことがあってはいけないのです。お年寄りが安心していられるような環境を整えることが大切です。

よく年をとると次の三つの思いに支配されると言われています。一つは過去の生活とその思い出です。それは成功や失敗、喜びや悲しみなどの喜怒哀楽が交差した複雑なもので、過去のことを思い出して一瞬喜んだかと思ったら、次の瞬間には悔しがったりといろいろな思いが突然湧いてきたりして、情緒的に不安定になることがあるのです。

二つ目は未来に関することです。これは死の恐れ、肉体が衰えていくことの不安と恐怖、そして天国の希望といった絡み合った思いです。

そして三つ目は現在の状態に対する思いです。これは退職しての無力感、孤独などから来る気持ちです。このような気持ちは元気でバリバリ働いている人にはなかなか理解できないことですが、そうした複雑な心情にあることを理解し、自分のペースをお年寄りに押し付けたりして、つらくあたるようなことがあってはならないのです。

レビ記19章32節にはこうあります。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしはである。」老人を敬うことは神を恐れることでもあり、旧約の昔から教えられてきた真理なのです。

では、こうしたお年寄りにはどのように接したらいいのでしょうか。ここには、「むしろ、父親に対するように勧めなさい。」とか、「年をとった婦人たちには母親に対するように、勧めなさい」とあります。父親に対するように、また、母親に対するように勧めなければなりません。父親に対するように勧めるとか、母親に対するように勧めるとはどういうことでしょうか。十戒には、「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)とあります。ですから、父親に対するようにとか、母親に対するようにとは、尊敬をもって勧めるということです。それは、お年寄りのこれまでの人生経験と、その中から練り上げられてきた人格に対する尊敬の念を失わないことでもあるのです。

ところで、この「勧める」ということばはパラカレオーというギリシャ語ですが、これは、「そばにいて援助する」という意味があります。これは「助け主」(聖霊)を表す「パラクートス」ということばの語源となった言葉です。もし年をとった方が間違いを犯したり、過ちに陥いるようなことがあれば、そばにいて援助するようにして励まさなければならないのです。

次に、若い人たちにはどうあるべきでしょうか。ここには、若い人たちには兄弟に対するように、若い女性たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい、とあります。若い人たちの中には結構いい加減で自堕落な生活をしていたり、面倒ばかりかけるような人もいるかもしれませんが、兄弟に対するように切っても切れないような親しい間柄として勧めなければなりません。上から目線で「まったくなっていない」と吐き捨てるようにではなく、そばにいて助けるようにして支え、励ましてあげなければならないのです。

特に若い女たちには真に混じりけのない姉妹に対するようにとあります。これは4章12節にも使われていた言葉ですが、そこでは「純潔」と訳されています。つまり、下心のない純粋な心で、実の姉妹に対するように勧めなければならないということです。

3節をご覧ください。次に出てくるのは「やもめ」です。やもめとは未亡人のことです。何らかの理由で夫に先立たれた妻のことです。当時のやもめは、夫を失うことで生活の基盤を失いました。今日のような社会保障制度がなかったので、文字通り、大黒柱を失うと生活の柱を失ったわけです。そのようなやもめたちを援助するということは、教会にとってとても重要なことでした。いや、やもめに限らず、社会的弱者を助けることは、教会の務めでもありました。ヤコブの手紙1章27節にはこうあります。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです」

神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。孤児ややもめが困っているときに世話をすることは、教会にとって大切な務めだったのです。

パウロは、そういうやもめに対しても「敬いなさい」と言っています。この敬うという言葉は単に尊敬するということ以上に、大切にすることも含まれています。彼らを大切にして、その必要に答えてあげるようにということです。テモテという名前は「神を敬う」という意味ですが、神を敬う人は神の家族を敬います。そして、神の家族の中でも、特に弱い者を敬うのです。

パウロは、教会はキリストのからだであると言いましたが、それはからだがどのようなものであるかをみればわかります。Ⅰコリント12章22~27節にはこうあります。

「22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官はことさらに良いかっこうになりますが、24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

教会はキリストのからだなのです。からだは、比較的弱いとみられる器官が、かえってなくてはならないものです。そのように劣ったところを尊ぶことによって、からだ全体の調和が図られるからです。ですから、そうした弱いと思われるような人を敬うことによって、教会全体の調和が保たれるのです。

しかし、やもめならだれでもいいというわけではありません。ここには、「ほんとうのやもめを敬いなさい」とあります。それは16節にあるように、教会に負担をかけないようにするためです。教会といってもすべての教会が、経済的に余裕があるわけではありません。貧しい教会もあります。そうした貧しい教会が孤児ややもめを援助していくためには、ほんとうに必要なやもめはだれかを見分ける必要があるのです。そうしたやもめにはたとえ教会が貧しくても、全体でサポートしていく必要があるのです。ではほんとうのやもめとはどのような人なのでしょうか。

Ⅱ.ほんとうのやもめ(4-10)

第一に、ほんとうのやもめとは肉親も身寄りもいない人です。4節をご覧ください。

「しかし、もし、やもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。」

そのやもめに子どもか孫がいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬い、親の恩に報いる習慣をつけさせるべきです。おじいちゃんやおばあちゃんのところに行くのはお年玉やおこずかいをねだる時だけであって、そうでないと寄り付かないというのではよくありません。それは神の家族の中ではふさわしいことではないのです。

この「恩に報いる習慣をつけさせなさい」という言葉は、2章11節にも使われていた言葉です。そこでは「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。」とあります。この「教えを受ける」ということばが「習慣をつけさせる」という言葉が同じ言葉なのです。つまり、子どもや孫に自分の親やおじいちゃん、おばあちゃんを尊敬し、その恩に報いるように教えることは大切なことであるということを教えなければならないということです。中には親を尊敬できないという人がいるかもしれません。自分のことをちゃんと育ててくれなかった、平気で見捨てられたということもあるかもしれません。でも、産んでくれたということは事実です。今、あなたがここにいるのは、あなたを生んでくれた親がいるからなのです。その親はうまくあなたを育てることができなかったかもしれません。間違いや失敗もたくさんしたことでしょう。彼らにも弱さがあったのは事実です。だからと言って恨み続けて「こんな親は親じゃない。」とか、「尊敬に値しない」んていうことがあるとしたら、それは神に喜ばれることではないのです。

8節には、「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。」とあります。どんな親であっても自分の親を顧みないということがあれば、それは信仰を捨てていることと同じであって、不信者よりも悪いのです。「あなたの父と母を敬」(出エジプト20:12)ことは神に喜ばれることであり、神のみこころであるということを、子どもたちにしっかりと教え込まなければならないのです。

第二に、ほんとうのやもめは神に望みを置いている人です。5節と6節をご覧ください。

「ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。」

ほんとうのやもめは、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています。つまり、信仰の生活を送っている人です。そのような人は、10節に「良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。」とあるように、良い行いによって認められていました。つまり、子どもをよく育て、旅人をもてなし、神の家族に仕え、困っている人がいれば助けていたのです。この人たちはいつも祈り、神と教会に仕えた人たちなのです。教会から何の謝礼も受け取らずに、教会のスタッフ同様、ただひたすら神に仕えた人たちなのです。そのような人たちを支えるのは、教会として当然のことではないでしょうか。

しかし、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。自堕落な生活をしているとは「快楽」と訳される言葉で、快楽のために生きているやもめのことです。そういうやもめは、生きてはいても死んだ者と同じだというのです。別にこれはやもめに限ったことではありません。自分の快楽のために生きている人は、自分の喜びと満足のために生きている人は、生きてはいても死んだ者と同じです。本来は年を重ねれば重ねるほど、信仰が長ければ長いほど、信者の模範となっていなければならないのに、自堕落な生活をしているとしたらもう目も当てられません。そういうやもめをサポートするようなことがあってはならないのです。

第三のことは、9節、やもめの名簿に載せるのは、六十歳以上の人で、ひとりの夫の妻であった人です。初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えると誓ったやもめには名簿に載せられました。そのような名簿に載せられたやもめに対して、教会はしっかりとサポートする義務があったのです。ではその名簿に載せる人はどのような人なのでしょうか。ここには、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、良い行いによって認められていた人」とあります。当時は六十歳でお年寄りの仲間入りとなりました。現代ではかなり寿命が伸びましたから六十歳でお年寄りなんて言ったら怒られます。「私はまだ若いです」なんて・・・。若いかどうかはともかくある程度の年齢に達していなければならなかったのです。なぜでしょうか。若いやもめは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。このことについては、この後のポイントで触れたいと思いますが、ここではもう一つのことが挙げられています。それは、「ひとりの夫の妻であった人」であるということです。これしどういう意味でしょうか。これは監督、執事の条件にもあげられていたことです。ここではそれと同じ言葉が使われています。すなわち、健全な結婚関係にあった人であるということです。当時は一夫多妻というのが当たり前の風習にあって、ひとりの夫の妻としてその務めを忠実に果たしてきたかどうかが問われました。

しばしば教会では生活に困窮している人がいれば無条件で援助すべきだと考える方もおられますが、聖書で言われていることは必ずしもそうではありません。ほんとうに親切にするということはそれを受ける相手がどういう人でも構わないということではなく、ここにあげられているような人でなければならないというのです。私たちは教会でいったいだれを援助しなければならないのかということを、もっと真剣に考えていかなければなりません。

Ⅲ.若いやもめは断りなさい(11-16)

第三に、11節から16節をご覧ください。

「若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。」

ここには、「若いやもめは断りなさい」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。どういうことでしょうか。

古代教会における代表的な神学者たちの中にクリュソストモスとかテルトリアヌスといった人たちがいますが、彼らの記述によると、初代教会にはやもめに関する制度があって、生涯神に仕えるというやもめに規約を設けたり、教会の義務を課したりしていたようです。そして、やもめとして登録される者は、信仰をもって、生涯独身の約束をしなければならなかったのです。そのような誓約をした者は「やもめの衣装」を着用し、按手を受けたとされています。ですから、ここで言われているやもめとはただの未亡人のことではなかったのです。夫に先立たれ、その残された生涯を神のために仕えると誓約までしたのです。

しかし、若いやもめはそういうわけにはいきません。彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。この「キリストにそむいて情欲に引かれる」とは、彼女たちの情欲が、キリストへの献身を打ち負かしてという意味です。その若さのゆえに、その情欲と肉欲が、初めの誓い、初めの信仰を捨ててしまうことになるというのです。これは、くびきから逃れようとする若い雄牛のイメージです。昔、田畑を耕したのは、くびきによって結ばれた二頭の雄牛でした。ところが、そのうちの一頭がオレは嫌だとくびきから逃れようとするわけです。若いやもめも同じです。くびきから逃れて結婚したがるようになるのです。

結婚すること自体が悪いことではありません。問題はイエス様にすべてをささげますと誓ったにもかかわらず、その誓いを破って結婚することです。やもめになった以上は残りの生涯をあなたにささげますと、カトリックのシスターのように誓ったにもかかわらず、ちょっとでも優しい男性に出会ったりすると、ちょっとでも信仰的に尊敬できるような人に出会うと、すぐに結婚したがる。それが問題なのです。

結婚することはすばらしいことであり、神の祝福ですが、結婚がすべてではありません。何らかの理由で夫に先立たれてしまい、その残りの生涯を主にささげ、主に仕えることもすばらしいことなのです。なぜなら、結婚した男、女は、どうしたら相手に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれますが、独身の男、独身の女、夫を失った女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配ることができるからです。たとえ結婚したからと言って罪を犯すのではありません。でも、現在の危急の時には、そのままの状態にとどまるのがよいと思うと、パウロは勧めています。それは思う存分、主にお仕えすることができるからです。ですから、結婚することも良いことであり、そのままの状態、すなわち、独身のままでいることもすばらしいことです。大切なのは、自分の置かれた状況の中で、どのように主に仕えるかということです。もし若い女性が結婚して夫に先立たれ、未亡人になったとしたら、その後の生涯をどのようにすべきかをよく考えなければなりません。そして、もしその残りの生涯を主にささげますと言って誓うなら、それに背いてはならないということです。けれども、若いやもめは情欲に引かれるとすぐに結婚したがるので、そういう人を登録するのは断るようにと言われているのです。

そればかりではありません。彼らは怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話すようになるからです。これは初めの誓いを捨てた人のことです。夫が死んで、その残された生涯を主にささげますと誓ったのはいいものの、や~めた!と打算で結婚する人は、かえって時間をもて遊ぶようになり、家から家へと飛び回り、うわさ話やおせっかい話の花を咲かせ、おっと、話してはいけないことまで話すようになるのです。

だから、若いやもめに対しては、彼らが結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないようにすべきです。というのは、すでに、道を踏み外し、サタンのあとについて行った者があるからです。だから、若いうちはきちんと働いて、あるいは家庭の務めについて、落ち着いた生活をすることを心がけるべきなのです。

やもめだからといって、やみくもに援助することがあってはなりません。やもめの中でもほんとうのやもめを敬い、彼らを心から支えていくべきです。なぜなら、教会は神の家族だからです。

皆さんもご存じのように、先日南太平洋のバヌアツという小さな国が巨大サイクロンに襲われ大きな被害が出ました。実に国の70%の人たちの住宅が損壊し、避難所生活をしています。そこには私たちの友人で、ウィクリフ聖書翻訳協会から遣わされているGreg Carlsonという宣教師夫妻が住んでいますが、彼から現況の報告がありました。それによると、バヌアツの人たちにとって住宅よりも深刻な問題は食糧の問題です。彼らのほとんどは農業を営んで生活しているため、畑が被害に会うと収穫することができにいため、食べることができなくなるのです。これから種を植えても収穫するのは半年先のことです。幸いいろいろな国から食料が届いていますがどれもお米ばかりで、野菜などの食糧が不足しているとのことです。

私はこの報告を受けてどうすべきかと祈りましたが、神の答えは、ほんとうのやもめを敬いなさいということです。キリストのからだである神の教会に、そのような人たちがいるなら、私たちは敬うべきです。彼らの必要に少しでも答えられるように、できるだけのことをすべきではないでしょうか。ささげる額や量が問題なのではありません。大切なのは、神の御言葉に従い、それを実践することです。後ろにそのための献金箱を用意しておきましたので、志のある方はこのために祈ってささげていただきたいと思います。

 

数週間前に「アンビリーバボー」というテレビの番組で、中国の四川省から『2013年度の最も美しい隣人』として表彰された徐文建(シュ・ウェン・ジィェン)さんのことが紹介されていました。

1979年、中国四川省の小さな村に暮らしていたシュさんは、当時15歳でしたが、家が貧しく、豚のエサさえ買うお金さえもなかったので、毎日、街に出ては、エサとなる残飯を集めていました。

そんなある日、シュさんは一軒の食堂の前で目が奪われてしました。そこにおいしそうにワンタン麺を食べている人たちがいたからです。シュさんは、思わず立ち止まってしまいました。ワンタンのような肉の入った食べ物はとても貴重なもので、貧乏な者が払えるような金額では食べることができませんでした。

すると、そんな彼に声をかけてきた女性がいたのです。彼女は王子玉(ワン・ズーユー)さんと方で、当時60歳の方でした。「まだ、子供なのに残飯集めなんて大変だね」と、心を痛めたワンさんは、なんと彼にワンタン麺をご馳走してくれたのです。シュさんは、感謝の気持ちでいっぱいになりました。そして、自分はワンさんのような人間になりたいと思いました。

ところが、翌日、いつものように残飯集めをしていると、彼の前に荷物運びの仕事をするワンさんの姿がありました。しかも、後ろからリアカーを押していたのは、盲目の息子でした。さらに、彼女には、病気の夫もいて、自分と同じような貧しい境遇であった事を知るのです。それからも、ワンさんは、シュさんの事を何かと気にかけてくれました。

それから21年が経ち、少年だったシュさんも家族を持つようになりました。そして、大人になってからも頻繁にワンさんのもとを訪れては交流を続けていましたが、2002年、シュさんが38歳だったある日、ワンさんが不運にも夫と息子を亡くし、さらに、ワンさんが両足を骨折したため、敬老院に入居したという知らせを受けました。シュさんは、すぐに見舞いに行きました。敬老院と呼ばれる中国の老人ホームは公営のため、ほぼ無料で入居できましたが、ワンさんのように一人で入居した老人にとって最大の苦しみは孤独でした。このときワンさんは83歳になっていました。そこで、シュさんは、自身の母親や、妻、息子と相談し、ワンさんを自宅に引き取る事にしました。そして、実の母親のように尽くしたのです。血のつながりのない老人を引き取るなんて、何か見返りが欲しいのかと、回りの人からは理解されませんでしたが、彼女の唯一の財産は、拾った一本の竹の棒だけでした。彼はただ一杯のワンタン麺の恩返しがしたくてワンさんを引き取ったのです。

それから11年、2014年1月に王さんはこの世を去りました。95歳でした。生前ワンさんはシュさんに、「あなたは本当の息子ではありません。でも、本当の息子のように愛しています。どう恩返ししたらいいかわからないほどよくしてくれるあなたに、心から感謝しています。」と言っていました。

シュさんは、「最も美しい隣人」の授賞式でこう言いました。「隣人とは、ある意味、家族ではないでしょうか。彼女は若き日の私に対して、家族のように接してくれました。今も、私の心の中で生きています。」

私はこの「隣人とは家族ではないか」という言葉がとても強く心に響きました。教会は神の家族です。だから私たちは家族のように接することが求められているのです。教会にはいろいろな年齢、経歴、境遇の方がいらっしゃいますが、それがどのような人であっても家族のように接することが求められているのです。あなたは神の家族である教会の人たちを、どのように見ておられますか?教会は神の家族であるということをもう一度覚えながら、家族に対するように接していきたいと思います。

民数記17章

前回は、モーセとアロンに立ち向かったコラたちに対する神のさばきと、そのことを受け入れられず、同じようにモーセに反抗したイスラエルの会衆に臨んだ神罰について学びました。きょうのところには、さらに、神が選ばれた祭司はだれであるかということを、神は別のしるしをもって現されます。まず1節から7節までをご覧ください。

1.族長たちの杖(1-7)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中のの前に置いた。」(1-7)

主はモーセに、イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ取り、その杖におのおの名を書いて持ってこらせ、それをあかしの箱の前に置くようにと言われました。何のためでしょうか。神が祭司としてお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。それは羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれました。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置きます。神はその中から、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。死んだはずの杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司であるということをはっきりと表そうとされたのです。そして、イスラエルがモーセに向かってつぶやくのを主ご自身が静めようとされたのです。それで、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡したので、モーセはそれらを、至聖所にある契約の箱の前に置きました。

2.アロンの杖(8-13)

その結果、どうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。

「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがその杖をみな、の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。10 はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」11 モーセはそうした。が命じられたとおりにした。」(8-11)

その翌日、モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。そして、モーセはそれをイスラエル人の前に示しました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者がアロンであることを示されたのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」とか「見張る」という意味の動詞と語源が同じ言葉です。主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しているのです。

死んだ木からいのちを芽生えさせる働きは、神にしかできないことです。これは、その神によって選ばれた者だけができる御業であって、人がどんなに望んでも、それなりのふりをしても、できることではないのです。形ではそのようにふるまっても、そこにいのちの実を実らせることはできません。人を永遠のいのちに導くのは主であって、主によって立てられ、主によって賜物が与えられた者によってのみなのです。

神は、死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることができるのです。神はそれをイエス・キリストによって示してくださいました。十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせました。私たちにはこの復活のいのちが与えられており、祭司の務めはこのいのちの恵みを分け与えることなのです。

それで主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。神に反逆した者たちへの警告のしるしとして保管しておくためです。このしるしを見て、イスラエルが神に対して不平を漏らすことをなくして、彼らが死ぬことがないためです。  それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。

3.神の恵みにお頼りして(12-13)

「12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。13 の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは、ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」(12-13)

彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。なぜでしょうか。神の恵み、神の慈しみを理解していないからです。神が祭司を通してどのような恵みをあえてくださるのかを理解していないのです。そして、ただ神の裁きの恐ろしさだけを見て恐れているのです。彼らにとって必要なことは、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを知り、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れること、つまり、信仰を持つことなのです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人、いつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。

「15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白するなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れは締め出されるのです。そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストです。そして、ここでもそのために立てられていたのが大祭司アロンでした。神はイスラエルが死なくてもよいように、アロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立ててくださったのです。それなのに彼らはそのことに気づきませんでした。まだ自分たちの行いによって救われようとしていたのです。それで彼らは怯えていたのです。この後18章には、このアロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めが語られます。それは、彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ななくてもよいように守ってくださるためです。そして19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめが完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いたからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪のきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。

このように、神は私たちのために祭司の務めをしておられます。私たちはそれを受けなければならないのです。祭司の務めとは、神のあわれみと恵みを分かち合うことです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受け続けることができるのです。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、私たちには今、神の右の座におられる大祭司なるイエス様がいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。

Ⅰテモテ4章7~16節「敬虔のための鍛錬」

先週は、世の終わりが近づくとどういうことが起こるかを学びました。世の終わりが近づくと、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。だから、そういうことがないように正しい聖書の教えを教えなければなりません。これらのことを教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者です。りっぱな奉仕者とは神のみことばを教える人、また、このみことばを教えることができるように整える人のことなのです。

きょうの箇所はその続きです。ここには、ただ教えるだけでなくそれを実行することの大切さが語られています。それが敬虔のための鍛錬です。鍛錬というのは訓練とか、トレーニングということですね。敬虔のための鍛錬、すなわち、神を敬い、神を恐れるといった霊的、信仰のための鍛錬ということです。

Ⅰ.敬虔のために鍛錬しなさい(7-11)

まず、7節から11節までをご覧ください。7節をお読みします。「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」

「俗悪で愚にもつかぬ空想話」とは何でしょうか。新改訳聖書第二版では、「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」と訳されています。第三版では「年寄女がするような」という言葉が抜けています。詳訳聖書を見ると、ここは「俗悪な、汚れた、神を知らない作り話、つまらぬおばあちゃん話やばかげた神話を避けなさい。」となっています。やはり年寄女とか、つまらぬおばあちゃん話といった内容になっています。別におばあちゃんの話がつまらないという意味ではありません。おそらくこれは2章からの流れを受けて、「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とありましたが、そうした人たちの教えを指しているのではないかと思われます。エペソの教会にはそういう年配の婦人たちがいて、違った教えを説いたり、果てしのない空想話に花を咲かせていたようです。彼らの話は神を知らない不敬虔な作り話でした。こくこくと話をするのはいいのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。それはまるで空想話のようだったのです。そういう話を避けなさいというのです。

Ⅱテモテ4章を見ると、世の終わりになると、そういう話が蔓延するようになるとパウロは警告しています。4章1節から5節です。

「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりになると、空想話にそれていくようになるのです。自分に都合の良いことを言ってもらうために、自分の考えに合ったことを言ってもらうために、そういう教師たちを捜しては、教会を渡り歩くようになるというのです。「聖書はこう言っている」と言われるのが嫌で、自分たちに都合のいいことを言ってもらえる教師を捜し歩くのです。それでも見つからないと、じゃ、自分たちで教会を作っちゃおうと、そこにスピーカーを呼んで集会まで始めちゃうのです。家の教会だとか言って…。これは世の終わりのしるしです。自分に都合のいいことを言ってもらおうと、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくようになっているからです。

もしかすると、これはエペソの教会に蔓延していた異教的な習慣に汚染された教えのことだったのかもしれません。エペソには豊穣の女神アルテミスを祭った神殿、アルテミスの神殿がありましたが、そうした異教的な教えによって神の教えが汚されていたということがあったのかもしれません。いずれにせよ、そうした俗悪で、愚にもつかぬ空想話を避けるように、そして、むしろ、敬虔のために自分を鍛錬するようにと命じたのです。

敬虔のために鍛錬するとはどういうことでしょうか。敬虔とは神を敬うということですが、言い換えると、信仰のため、霊的なことのためにということです。信仰のため、自分の霊のために鍛錬するようにと勧めたのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。8節にはこうあります。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

皆さん、肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。もっと、もっと有益です。それは比べものにならないくらいの、計り知れない益をもたらすのです。

2015年2月10日、米国心臓病学会誌(Journal of the American College of Cardiology:JACC)で報告された、デンマークのコペンハーゲンの研究者らによると、「『軽い、適度』なジョギングが座りがちの生活や『過度』なジョギングをするよりも、長生きにつながる」という研究報告を発表しました。つまり週に2~3回、1回30分くらいのゆっくりとしたペースの軽いジョギングか、もしくは適度な運動をする人の死亡率が低いというのです。また、激しいジョギングをする人の死亡リスクと、長時間座りジョギングの習慣がない人の死亡リスクが変わらないという意外な結果も示されました。運動をすれば必ずしも長生きするとは限らないというのです。運動のしすぎはかえって体に良くないというのです。軽いジョギングが健康にはいいというわけです。

しかし、最期はだれでもみな死にます。どんなに適度な運動をしても、どんなに軽いジョギングしてもみな死ぬのです。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。それは肉体の鍛錬とは比較にならないほどの益をもたらすのです。体育よりも霊育の方がはるかに重要であり、有益なのです。フィトネスクラブもいいですが、霊的トレーニングジムこそ私たちが通うべきところなのです。勿論、肉体のトレーニングジムが不要だとか、フィットネスクラブが必要ないと言っているのではありません。私も男だけのフィットネスクラブがあれば、ぜひ参加したいと思っているのですが、今のところ、そういうものがないのが残念です。肉体的にも健康体でいることは大切なことです。ご老人になっても病気やけがをしないように、80歳になっても自分の歯で食べたい、生活習慣病にならないように、食生活には気を付けるなど注意しなければならないし、いろいろな努力もしなければなりませんが、それだけでなく、その先においても、次に来る世のことも考えなければならないのです。

有名な詩篇の90篇にはこうあります。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90:10)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうした私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

「自分の日をかぞえる」とは、自分に与えられている人生がどれほど短いものであるのかを悟り、そのいのちを握っておられるまことの神を信じて、神を恐れて生きるということです。つまり、敬虔のために自分を鍛錬するということなのです。

C.S.ルイスは、「永遠に続かないものはみな、役に立たないものである。」と言いました。言い換えるとそれは、永遠に続くものこそ価値があるということです。

皆さん、私たちは永遠に続かないもののために、あまりにも時間と労力を使いすぎてはいないでしょうか。肉体の鍛錬のために、今の生活をもっと向上させることのために、もっと老後を楽に過ごせるために、何一つ不自由のない生活をするために身を粉にして必死で働いても、敬虔のためにどれだけ鍛錬しているでしょうか。それ自体が悪いということではなく、それと同時に、いやそれ以上にやらなくてはならないことがあるということです。それはあなたに大きな益をもたらすものなのです。

9節をご覧ください。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。」これはパウロの常套句です。1章15節でも使われています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」ここでも、「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばであると言っているのです。皆さん「アーメン」でしょうか。それとも、首をかしげながら「う~ん」とうなりながら、「私にはちょっと受け入れがたいなぁ」と言うでしょうか。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばなのです。アーメンと言って、そのまま受け入れましょう。そして、聖書が教える未来のいのちを大切にしながら、天国に向かって進む者でありたいと願わされます。

10節をご覧ください。「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

なぜパウロはこのことをアーメンと言って受け入れているのでしょうか。それは、パウロはそのために労し、また苦心しているからです。「労し」というのは特に肉体的に労するという意味のことばであり、「苦心し」というのは、精神的に苦しむことを指しています。パウロが労し、また苦心しているのは、すべての人々のほんとうの救いであり、ほんとうの望みは、この救い主なる生ける神にあるからです。ここにこそ、真の希望なのです。

神が与えてくださった肉体をベストコンディションに保ち、整えることは大切なことでありますが、しかし、どんなに肉体を鍛えても人間のからだは年とともに衰えていくものです。しかし、ここに決して衰えることのないものがあります。それが神の救い、永遠のいのちなのです。この神の救いの中に主とともに生かしていただくのでなければ、たとえ五体満足であっても、肉体の健康など意味がありません。それはむなしいものにすぎないのです。敬虔のための鍛錬こそ、私たちに真のいのちと希望をもたらしてくれるものなのだということをわきまえ、このために生きる者でありたいと願わされます。

Ⅱ.信者の模範になりなさい(12-14)

第二のことは、信者の模範になりなさいということです。12節から14節までをご覧ください。12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」とあります。

パウロは11節のところで、「これらのことを命じ、また教えなさい。」と言いました。命じること、教えることはだれにでもできることです。しかし、それを実行することは簡単なことではありません。しかし、本当に聖書を教えるということは、その教えたことを自らが実践して模範を示すことによってこそ説得力があるのです。イエス様は命じられたことを実践し、それを弟子たちの前に現して模範を示されました。たとえば、ヨハネの福音書13章には、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ったという出来事が記録されています。夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれて、弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいでふかれたのです。いったいなぜそんなことをされたのでしょうか。それは模範を示すためです。イエス様は、自分がしたように彼らもまたするようにと、その模範を示されたのです。イエス様は単に神の御言葉を教えられただけではなく、それを実践されたのです。だから説得力があったのです。だからパウロはここでも同じようにテモテに、これらのことを命じまた教えるだけでなく、それを実践して模範を示すようにと言っているのです。それが、神の働き人が人々から尊敬と信頼を勝ち取る道でもあるからです。

ここには、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」とあります。この時テモテが何歳くらいだったかは書いていないのでわかりませんが、長老たちがたくさんいたエペソの教会では、比較的若く、見られていたのでしょう。このような若い人が教会で霊的リーダーシップ(霊的権威)を持つということは並大抵のことではありません。こうしたものは人間的な資格や条件、あるいは身分や年齢によっては与えられるものではないからです。こうしたものは、御霊のみわざによってのみもたらされるのです。

ですから、パウロはここで、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにするために、「かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも信者の模範となりなさい。」と勧めているのです。それは生き方によって示されなければならないからです。しかもその生き方というのは、ある事柄においては模範的でも、ある事柄においてはそうではないということではなく、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも、すなわち、すべてのことにおいて信者の模範でなければならないのです。無理です!そんなことできるはずないじゃないですか。そうです、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神は、弱い私たちをご自身と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。主は栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たち自身を主にゆだね、そのような模範となれるように助けてください!と謙虚に祈り求めましょう。そうすれば、主は必ずあなたを変えてくださるのです。

それからもう一つのことは、与えられた御霊の賜物を軽んじてはならないということです。13節と14節にはこうあります。「13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」どういうことでしょうか。

「聖書の朗読と勧めと教え」とは、聖書の教えのことです。それに専念しなさいというのです。なぜなら、それはテモテに与えられた神の御霊、聖霊の賜物だからです。その賜物を軽んじてはいけません。その与えられた賜物に従って、その与えられた務めに忠実に励むとき、そうした霊的リーダーシップも自然についてくるのです。こうした霊的な権威は年齢とか立場、あるいは、学歴や社会的な身分といったものによってもたらされるものではなく、ただ自分に与えられた使命に集中し、敬虔な生き方を実践することによってのみもたらされるものなのです。

旧約の預言者エレミヤも若くして選ばれました。彼は主から次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)

「若い」ことが即、障害になるのではありません。むしろ、若いからこそできることもあるのです。若くてもキリストの大使になることができます。キリストの大使として神が遣わすどんな所へでも行き、神が命じるすべてのことを語らなければなりません。その与えられた務めを忠実に果たさなければならないのです。それは私たちを遣わしておられる方が、私たちの主なる神であられるからです。一国の大使は、たとえ年が若いからといってその権限や行動が左右されたり、制約されたりすることはありません。それと同じように、どんなに若くても神によって召され、神によって遣わされたのならば、その与えられた使命に集中し、それを忠実に果たしていかなければならないのです。そうすれば、年が若いからといって軽く見られることはないのです。

Ⅲ.これらの務めに心を砕き(15-16)

最後に、15節と16節をご覧ください。「15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

ここには、神の働き人が自分自身にも、教えることにも、よく気を付けなければならない、その理由が記されてあります。それは、自分自身をも、また自分から教えを聞く人たちを救うことになるからです。どういうことでしょうか?もちろん、ここで言っている「救い」とは罪からの救いのことではありません。ここで言っている救いとは、4章1節に書かれている「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いのことです。そうでないと、こうした教えによって信仰から離れるようになってしまうからです。敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら歩き回っています。ですから、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。自分自身に気を付けて、また、自分が教えていることにも気を付けて、これらの務めに心を砕かなければならないのです。

「心を砕く」とは、直訳では「留意する」とか「考慮する」、「実行する」ということです。つまり、御言葉に関する務めを、よく祈り、よく考えて、ある時は喜びながら、またある時は悲しみや痛みを覚えながら、神のみこころにそった奉仕として全うしなさいということです。神の御言葉につかえる奉仕者は、「心を砕いて」これにあたらなければなりません。そうすれば、自分自身をも、またその教えを聞く人をも救うことになるのです。そのような人こそりっぱな奉仕者なのです。

クリスチャンはいつも二つの影響を受けながら生きています。一つは神からの影響で、もう一つはこの世からの影響です。神のくださる御言葉と恵みの中でクリスチャンは強められ、キリストの兵士としてりっぱに訓練されていきます。しかし、この世からも別の影響を受けています。この世の中で耳にし、学習する俗悪で愚にもつかない空想話から悪影響を受けることもあるのです。結局、クリスチャンの敬虔さはだれから多くの影響を受けるかによって決まるのです。もちろん、神からの影響を受ければ敬虔に生きることができますが、神は私たちに無理矢理影響を及ぼそうとはなさいません。私たちの意思によって敬虔に生きるようにと願っておられるのです。救いは神がくださるものですが、救われた後の敬虔は私たちが努力して身につけていかなければならないものなのです。

この作業は簡単なことではありませんが、この作業をし続けていくなら、必ずや自分自身を救うだけでなく、他の人を救うことになります。敬虔のための鍛錬こそ、今のいのちと未来のいのちにおいて有益なものであることを覚え、そのために労ししていく者でありたいと思います。