民数記17章

前回は、モーセとアロンに立ち向かったコラたちに対する神のさばきと、そのことを受け入れられず、同じようにモーセに反抗したイスラエルの会衆に臨んだ神罰について学びました。きょうのところには、さらに、神が選ばれた祭司はだれであるかということを、神は別のしるしをもって現されます。まず1節から7節までをご覧ください。

1.族長たちの杖(1-7)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。3 レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。4 あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。5 わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。」6 モーセがイスラエル人にこのように告げたので、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡した。アロンの杖も彼らの杖の中にあった。7 モーセはそれらの杖を、あかしの天幕の中のの前に置いた。」(1-7)

主はモーセに、イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ取り、その杖におのおの名を書いて持ってこらせ、それをあかしの箱の前に置くようにと言われました。何のためでしょうか。神が祭司としてお立てになられた者がだれであるのかをはっきりと示すためです。

「杖」は、かつてモーセまたアロンが、エジプトから出て行く時にエジプトに神が災いを下すときに用いられたものです。それは羊飼いの杖ではありますが、主はそれを用いてご自分の力ある働きを行なわれました。その杖にそれぞれの名前を書き、至聖所にある契約の箱の前に置きます。神はその中から、ご自分が選ばれた者の杖に、芽を出させるというのです。死んだはずの杖から芽を出させることによって、その者こそ、神がご自分の祭司であるということをはっきりと表そうとされたのです。そして、イスラエルがモーセに向かってつぶやくのを主ご自身が静めようとされたのです。それで、彼らの族長たちはみな、父祖の家ごとに、族長ひとりに一本ずつの杖、十二本を彼に渡したので、モーセはそれらを、至聖所にある契約の箱の前に置きました。

2.アロンの杖(8-13)

その結果、どうなったでしょうか。次に8節から11節までをご覧ください。

「8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。9 モーセがその杖をみな、の前から、すべてのイスラエル人のところに持って来たので、彼らは見分けて、おのおの自分の杖を取った。10 はモーセに言われた。「アロンの杖をあかしの箱の前に戻して、逆らう者どもへの戒めのため、しるしとせよ。彼らのわたしに対する不平を全くなくして、彼らが死ぬことのないように。」11 モーセはそうした。が命じられたとおりにした。」(8-11)

その翌日、モーセがあかしの天幕(至聖所)に入って行くと、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。そして、モーセはそれをイスラエル人の前に示しました。これではっきりと、神の箱にまで近づくことのできる選ばれた者がアロンであることを示されたのです。ヘブル語で「アーモンド」は、「目覚める」とか「見張る」という意味の動詞と語源が同じ言葉です。主がこれを見張っている、はっきりと見つめていることも表しているのです。

死んだ木からいのちを芽生えさせる働きは、神にしかできないことです。これは、その神によって選ばれた者だけができる御業であって、人がどんなに望んでも、それなりのふりをしても、できることではないのです。形ではそのようにふるまっても、そこにいのちの実を実らせることはできません。人を永遠のいのちに導くのは主であって、主によって立てられ、主によって賜物が与えられた者によってのみなのです。

神は、死んだ杖から実を結ばせることのできるお方です。死者の中から人を復活させることができるのです。神はそれをイエス・キリストによって示してくださいました。十字架で死なれたキリストを三日目によみがえらせました。私たちにはこの復活のいのちが与えられており、祭司の務めはこのいのちの恵みを分け与えることなのです。

それで主は、アロンが祭司であることを示すために、この杖をあかしの箱の中に入れるようにされました。神に反逆した者たちへの警告のしるしとして保管しておくためです。このしるしを見て、イスラエルが神に対して不平を漏らすことをなくして、彼らが死ぬことがないためです。  それに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。

3.神の恵みにお頼りして(12-13)

「12 しかし、イスラエル人はモーセに言った。「ああ、私たちは死んでしまう。私たちは滅びる。みな滅びる。13 の幕屋にあえて近づく者はだれでも死ななければならないとは、ああ、私たちはみな、死に絶えなければならないのか。」(12-13)

彼らはまだ、自分たちが主の幕屋に近づくことに対する恐れを抱いています。なぜでしょうか。神の恵み、神の慈しみを理解していないからです。神が祭司を通してどのような恵みをあえてくださるのかを理解していないのです。そして、ただ神の裁きの恐ろしさだけを見て恐れているのです。彼らにとって必要なことは、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを知り、悔い改めて、神の贖いの御業を受け入れること、つまり、信仰を持つことなのです。自分の正しさや自分の行いによって義と認められようとする人、いつもこのように神のさばきに怯えますが、逆に、神の恵みに信頼する人は、恐れから解放されるのです。Ⅰヨハネ4章15~18節にはこうあります。

「15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。17 このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」

全き愛は恐れを締め出します。私たちがイエスを神の御子と告白するなら、神は私たちのうちにおられ、その神の愛によって、恐れは締め出されるのです。そのように導いてくださったのが、私たちの大祭司であられるイエス・キリストです。そして、ここでもそのために立てられていたのが大祭司アロンでした。神はイスラエルが死なくてもよいように、アロンの家とレビ人を幕屋の奉仕に立ててくださったのです。それなのに彼らはそのことに気づきませんでした。まだ自分たちの行いによって救われようとしていたのです。それで彼らは怯えていたのです。この後18章には、このアロンの家の祭司職と、レビ人の幕屋の奉仕についての定めが語られます。それは、彼らがしっかりとその務めを果たすことによって、イスラエル人が死ななくてもよいように守ってくださるためです。そして19章には、完全な赤い雌牛を罪のためのいけにえとして用意して、死体をさわった者たちのきよめが完全に行なわれます。会衆にはすでに、14,700人の死者が出ているので、その死体によって汚されている者たちが大勢いたからです。ちなみに、この完全な赤い雌牛は、宿営の外で焼かれて、その火の中に、杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を投げ入れます。これらはみな、それぞれ、私たちの主イエス・キリストの十字架の木と、罪のきよめと、血を表しています。このようにして、主は、イスラエルの民のために、徹底的にご自分の恵みとあわれみのわざを、行なわれているのです。

このように、神は私たちのために祭司の務めをしておられます。私たちはそれを受けなければならないのです。祭司の務めとは、神のあわれみと恵みを分かち合うことです。キリストが来られた今、それはすべての信者に与えられ、それぞれ信仰の量りにしたがって、賜物が与えられています。互いに仕え合うことによって、私たちは主から恵みとあわれみを受け続けることができるのです。それぞれが、どのような働きに召されているのか、どのような賜物が与えられているのかを知るのは、私たち一人一人の責任です。そして、何よりも、私たちには今、神の右の座におられる大祭司なるイエス様がいます。この方が、アロンのように、私たちと神との仲介となってくださり、神の右の座において執り成しをされておられます。このことに対し、私たちは、約束の地にはいって穀物やぶどう酒をささげるイスラエルの民のように、感謝と賛美のいけにえをおささげするのです。

Ⅰテモテ4章7~16節「敬虔のための鍛錬」

先週は、世の終わりが近づくとどういうことが起こるかを学びました。世の終わりが近づくと、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。だから、そういうことがないように正しい聖書の教えを教えなければなりません。これらのことを教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者です。りっぱな奉仕者とは神のみことばを教える人、また、このみことばを教えることができるように整える人のことなのです。

きょうの箇所はその続きです。ここには、ただ教えるだけでなくそれを実行することの大切さが語られています。それが敬虔のための鍛錬です。鍛錬というのは訓練とか、トレーニングということですね。敬虔のための鍛錬、すなわち、神を敬い、神を恐れるといった霊的、信仰のための鍛錬ということです。

Ⅰ.敬虔のために鍛錬しなさい(7-11)

まず、7節から11節までをご覧ください。7節をお読みします。「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。」

「俗悪で愚にもつかぬ空想話」とは何でしょうか。新改訳聖書第二版では、「俗悪な、年寄り女がするような空想話を避けなさい。」と訳されています。第三版では「年寄女がするような」という言葉が抜けています。詳訳聖書を見ると、ここは「俗悪な、汚れた、神を知らない作り話、つまらぬおばあちゃん話やばかげた神話を避けなさい。」となっています。やはり年寄女とか、つまらぬおばあちゃん話といった内容になっています。別におばあちゃんの話がつまらないという意味ではありません。おそらくこれは2章からの流れを受けて、「女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。」とありましたが、そうした人たちの教えを指しているのではないかと思われます。エペソの教会にはそういう年配の婦人たちがいて、違った教えを説いたり、果てしのない空想話に花を咲かせていたようです。彼らの話は神を知らない不敬虔な作り話でした。こくこくと話をするのはいいのですが、何を言っているのかさっぱりわからない。それはまるで空想話のようだったのです。そういう話を避けなさいというのです。

Ⅱテモテ4章を見ると、世の終わりになると、そういう話が蔓延するようになるとパウロは警告しています。4章1節から5節です。

「1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。5 しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

世の終わりになると、空想話にそれていくようになるのです。自分に都合の良いことを言ってもらうために、自分の考えに合ったことを言ってもらうために、そういう教師たちを捜しては、教会を渡り歩くようになるというのです。「聖書はこう言っている」と言われるのが嫌で、自分たちに都合のいいことを言ってもらえる教師を捜し歩くのです。それでも見つからないと、じゃ、自分たちで教会を作っちゃおうと、そこにスピーカーを呼んで集会まで始めちゃうのです。家の教会だとか言って…。これは世の終わりのしるしです。自分に都合のいいことを言ってもらおうと、真理から耳をそむけ、空想話にそれていくようになっているからです。

もしかすると、これはエペソの教会に蔓延していた異教的な習慣に汚染された教えのことだったのかもしれません。エペソには豊穣の女神アルテミスを祭った神殿、アルテミスの神殿がありましたが、そうした異教的な教えによって神の教えが汚されていたということがあったのかもしれません。いずれにせよ、そうした俗悪で、愚にもつかぬ空想話を避けるように、そして、むしろ、敬虔のために自分を鍛錬するようにと命じたのです。

敬虔のために鍛錬するとはどういうことでしょうか。敬虔とは神を敬うということですが、言い換えると、信仰のため、霊的なことのためにということです。信仰のため、自分の霊のために鍛錬するようにと勧めたのです。なぜでしょうか。8節をご覧ください。8節にはこうあります。

「肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」

皆さん、肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。もっと、もっと有益です。それは比べものにならないくらいの、計り知れない益をもたらすのです。

2015年2月10日、米国心臓病学会誌(Journal of the American College of Cardiology:JACC)で報告された、デンマークのコペンハーゲンの研究者らによると、「『軽い、適度』なジョギングが座りがちの生活や『過度』なジョギングをするよりも、長生きにつながる」という研究報告を発表しました。つまり週に2~3回、1回30分くらいのゆっくりとしたペースの軽いジョギングか、もしくは適度な運動をする人の死亡率が低いというのです。また、激しいジョギングをする人の死亡リスクと、長時間座りジョギングの習慣がない人の死亡リスクが変わらないという意外な結果も示されました。運動をすれば必ずしも長生きするとは限らないというのです。運動のしすぎはかえって体に良くないというのです。軽いジョギングが健康にはいいというわけです。

しかし、最期はだれでもみな死にます。どんなに適度な運動をしても、どんなに軽いジョギングしてもみな死ぬのです。肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益なのです。それは肉体の鍛錬とは比較にならないほどの益をもたらすのです。体育よりも霊育の方がはるかに重要であり、有益なのです。フィトネスクラブもいいですが、霊的トレーニングジムこそ私たちが通うべきところなのです。勿論、肉体のトレーニングジムが不要だとか、フィットネスクラブが必要ないと言っているのではありません。私も男だけのフィットネスクラブがあれば、ぜひ参加したいと思っているのですが、今のところ、そういうものがないのが残念です。肉体的にも健康体でいることは大切なことです。ご老人になっても病気やけがをしないように、80歳になっても自分の歯で食べたい、生活習慣病にならないように、食生活には気を付けるなど注意しなければならないし、いろいろな努力もしなければなりませんが、それだけでなく、その先においても、次に来る世のことも考えなければならないのです。

有名な詩篇の90篇にはこうあります。

「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。それは早く過ぎ去り、私たちは飛び去るのです。」(詩篇90:10)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうした私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

「自分の日をかぞえる」とは、自分に与えられている人生がどれほど短いものであるのかを悟り、そのいのちを握っておられるまことの神を信じて、神を恐れて生きるということです。つまり、敬虔のために自分を鍛錬するということなのです。

C.S.ルイスは、「永遠に続かないものはみな、役に立たないものである。」と言いました。言い換えるとそれは、永遠に続くものこそ価値があるということです。

皆さん、私たちは永遠に続かないもののために、あまりにも時間と労力を使いすぎてはいないでしょうか。肉体の鍛錬のために、今の生活をもっと向上させることのために、もっと老後を楽に過ごせるために、何一つ不自由のない生活をするために身を粉にして必死で働いても、敬虔のためにどれだけ鍛錬しているでしょうか。それ自体が悪いということではなく、それと同時に、いやそれ以上にやらなくてはならないことがあるということです。それはあなたに大きな益をもたらすものなのです。

9節をご覧ください。「このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。」これはパウロの常套句です。1章15節でも使われています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」ここでも、「肉体の鍛錬もいくらか有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。」このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばであると言っているのです。皆さん「アーメン」でしょうか。それとも、首をかしげながら「う~ん」とうなりながら、「私にはちょっと受け入れがたいなぁ」と言うでしょうか。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばなのです。アーメンと言って、そのまま受け入れましょう。そして、聖書が教える未来のいのちを大切にしながら、天国に向かって進む者でありたいと願わされます。

10節をご覧ください。「私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。」

なぜパウロはこのことをアーメンと言って受け入れているのでしょうか。それは、パウロはそのために労し、また苦心しているからです。「労し」というのは特に肉体的に労するという意味のことばであり、「苦心し」というのは、精神的に苦しむことを指しています。パウロが労し、また苦心しているのは、すべての人々のほんとうの救いであり、ほんとうの望みは、この救い主なる生ける神にあるからです。ここにこそ、真の希望なのです。

神が与えてくださった肉体をベストコンディションに保ち、整えることは大切なことでありますが、しかし、どんなに肉体を鍛えても人間のからだは年とともに衰えていくものです。しかし、ここに決して衰えることのないものがあります。それが神の救い、永遠のいのちなのです。この神の救いの中に主とともに生かしていただくのでなければ、たとえ五体満足であっても、肉体の健康など意味がありません。それはむなしいものにすぎないのです。敬虔のための鍛錬こそ、私たちに真のいのちと希望をもたらしてくれるものなのだということをわきまえ、このために生きる者でありたいと願わされます。

Ⅱ.信者の模範になりなさい(12-14)

第二のことは、信者の模範になりなさいということです。12節から14節までをご覧ください。12節には、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」とあります。

パウロは11節のところで、「これらのことを命じ、また教えなさい。」と言いました。命じること、教えることはだれにでもできることです。しかし、それを実行することは簡単なことではありません。しかし、本当に聖書を教えるということは、その教えたことを自らが実践して模範を示すことによってこそ説得力があるのです。イエス様は命じられたことを実践し、それを弟子たちの前に現して模範を示されました。たとえば、ヨハネの福音書13章には、イエス様が弟子たち一人一人の足を洗ったという出来事が記録されています。夕食の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれて、弟子たちの足を洗い、その手ぬぐいでふかれたのです。いったいなぜそんなことをされたのでしょうか。それは模範を示すためです。イエス様は、自分がしたように彼らもまたするようにと、その模範を示されたのです。イエス様は単に神の御言葉を教えられただけではなく、それを実践されたのです。だから説得力があったのです。だからパウロはここでも同じようにテモテに、これらのことを命じまた教えるだけでなく、それを実践して模範を示すようにと言っているのです。それが、神の働き人が人々から尊敬と信頼を勝ち取る道でもあるからです。

ここには、「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。」とあります。この時テモテが何歳くらいだったかは書いていないのでわかりませんが、長老たちがたくさんいたエペソの教会では、比較的若く、見られていたのでしょう。このような若い人が教会で霊的リーダーシップ(霊的権威)を持つということは並大抵のことではありません。こうしたものは人間的な資格や条件、あるいは身分や年齢によっては与えられるものではないからです。こうしたものは、御霊のみわざによってのみもたらされるのです。

ですから、パウロはここで、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにするために、「かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも信者の模範となりなさい。」と勧めているのです。それは生き方によって示されなければならないからです。しかもその生き方というのは、ある事柄においては模範的でも、ある事柄においてはそうではないということではなく、ことばにも、態度にも、愛にも、純潔にも、すなわち、すべてのことにおいて信者の模範でなければならないのです。無理です!そんなことできるはずないじゃないですか。そうです、それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできるのです。神は、弱い私たちをご自身と同じ姿に変えてくださいます。それは御霊なる主の働きによるのです。主は栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、私たち自身を主にゆだね、そのような模範となれるように助けてください!と謙虚に祈り求めましょう。そうすれば、主は必ずあなたを変えてくださるのです。

それからもう一つのことは、与えられた御霊の賜物を軽んじてはならないということです。13節と14節にはこうあります。「13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。」どういうことでしょうか。

「聖書の朗読と勧めと教え」とは、聖書の教えのことです。それに専念しなさいというのです。なぜなら、それはテモテに与えられた神の御霊、聖霊の賜物だからです。その賜物を軽んじてはいけません。その与えられた賜物に従って、その与えられた務めに忠実に励むとき、そうした霊的リーダーシップも自然についてくるのです。こうした霊的な権威は年齢とか立場、あるいは、学歴や社会的な身分といったものによってもたらされるものではなく、ただ自分に与えられた使命に集中し、敬虔な生き方を実践することによってのみもたらされるものなのです。

旧約の預言者エレミヤも若くして選ばれました。彼は主から次のように言われました。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」(エレミヤ1:7-8)

「若い」ことが即、障害になるのではありません。むしろ、若いからこそできることもあるのです。若くてもキリストの大使になることができます。キリストの大使として神が遣わすどんな所へでも行き、神が命じるすべてのことを語らなければなりません。その与えられた務めを忠実に果たさなければならないのです。それは私たちを遣わしておられる方が、私たちの主なる神であられるからです。一国の大使は、たとえ年が若いからといってその権限や行動が左右されたり、制約されたりすることはありません。それと同じように、どんなに若くても神によって召され、神によって遣わされたのならば、その与えられた使命に集中し、それを忠実に果たしていかなければならないのです。そうすれば、年が若いからといって軽く見られることはないのです。

Ⅲ.これらの務めに心を砕き(15-16)

最後に、15節と16節をご覧ください。「15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」

ここには、神の働き人が自分自身にも、教えることにも、よく気を付けなければならない、その理由が記されてあります。それは、自分自身をも、また自分から教えを聞く人たちを救うことになるからです。どういうことでしょうか?もちろん、ここで言っている「救い」とは罪からの救いのことではありません。ここで言っている救いとは、4章1節に書かれている「惑わしの霊、悪霊の教え」からの救いのことです。そうでないと、こうした教えによって信仰から離れるようになってしまうからです。敵である悪魔はほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を探し求めながら歩き回っています。ですから、堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かわなければなりません。自分自身に気を付けて、また、自分が教えていることにも気を付けて、これらの務めに心を砕かなければならないのです。

「心を砕く」とは、直訳では「留意する」とか「考慮する」、「実行する」ということです。つまり、御言葉に関する務めを、よく祈り、よく考えて、ある時は喜びながら、またある時は悲しみや痛みを覚えながら、神のみこころにそった奉仕として全うしなさいということです。神の御言葉につかえる奉仕者は、「心を砕いて」これにあたらなければなりません。そうすれば、自分自身をも、またその教えを聞く人をも救うことになるのです。そのような人こそりっぱな奉仕者なのです。

クリスチャンはいつも二つの影響を受けながら生きています。一つは神からの影響で、もう一つはこの世からの影響です。神のくださる御言葉と恵みの中でクリスチャンは強められ、キリストの兵士としてりっぱに訓練されていきます。しかし、この世からも別の影響を受けています。この世の中で耳にし、学習する俗悪で愚にもつかない空想話から悪影響を受けることもあるのです。結局、クリスチャンの敬虔さはだれから多くの影響を受けるかによって決まるのです。もちろん、神からの影響を受ければ敬虔に生きることができますが、神は私たちに無理矢理影響を及ぼそうとはなさいません。私たちの意思によって敬虔に生きるようにと願っておられるのです。救いは神がくださるものですが、救われた後の敬虔は私たちが努力して身につけていかなければならないものなのです。

この作業は簡単なことではありませんが、この作業をし続けていくなら、必ずや自分自身を救うだけでなく、他の人を救うことになります。敬虔のための鍛錬こそ、今のいのちと未来のいのちにおいて有益なものであることを覚え、そのために労ししていく者でありたいと思います。

民数記16章

きょうは民数記16章から学びます。私たちは前回、イスラエルがカデシュ・ベルネアまで来たとき、「上って行って、そこを占領せよ」との主の御言葉に背き、上って行かなかった姿を見ました。不信仰のゆえに、恐れてしまったからです。その結果、二十歳以上の者はみな荒野の中で死ぬことになってしまいました。そして、イスラエルが40年にわたる荒野での生活を始めようとしていたとき、もう一つの大きな事件が起こりました。

1.  コラの子たちの反抗(1-3)

「1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

まず1節から3節までをご覧ください。ここには、レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラが、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かいました。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」と言ったのです。

いったいなぜ彼らはそのように言ったのでしょうか。レビの氏族には三つの氏族がいました。ゲルション族、ケハテ族、メラリ族です。ここで問題になっているのはケハテの子、イツハルの子のコラという人物です。彼はルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、会衆の上に立つ者250人とともに、モーセに立ち向かったのです。

ケハテ族は、他の二つの氏族に比べ、もっと聖なる奉仕に携わっていました。ゲルション族は幕を運搬する奉仕が与えられ、メラリ族は板とか、土台、柱、横棒などを運搬しました。それに対してケハテ族は、契約の箱を始め、供えのパンの机、香壇、青銅の祭壇などを、幕屋の聖具を運ぶ最も聖なる奉仕に召されていました。ですから、ケハテ族は、レビ族の三つの氏族の中でも最も主のご栄光に近いところで奉仕する特権が与えられていたのです。それなのに、彼らは主の幕屋で奉仕することが許されていませんでした。幕屋で奉仕するのは祭司だけであって、祭司だけが聖所の中に入り、燭台のともしびを整え、供えのパンを取替え、また青銅の祭壇では数々の火による捧げ物をささげることができたのです。それゆえ彼らは祭司たちをねたみました。なぜアロンの家系だけがそのような特権が与えられているのか、なぜ自分たちにはそれができないのか・・・。それを間近で見ていたコラは、自分にもこの務めを行う権利があるものと思ったのです。

しかも、その理由がもっともらしいのです。彼らは、「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか」と言っています。あなただけが特別なのではない、主にとってはここにいるみんなが同じように大切なのであって、あなたたちが、主の集会の上に立っているのはおかしいというのです。皆さん、どうでしょうか。もっともらしい意見ではないでしょうか。私たちの教会はバプテストの教理に立っていますが、その一つの特徴は会衆性にあります。会衆性とは、教会政治が牧師や長老によって決められるのではなく会衆みんなの総意によって決められるべきであるというものです。牧師も会衆と同じ立場であって、特別に権力があるのではないという考えです。ここでコラたちが言っていることはそういうことです。彼らは自分たちが支配したいというねたみによって突き動かされていたのに、そのようなことを理由にあたかもそれが正当であるかのように言いました。

ルベン族のダタンとアビラム、そしてオンが共謀したのも、さらには二百五十人の有力者たちが共に立ち上がったのも、本質的には同じ理由からでしょう。ルベン族はヤコブの長男だったので、自らが第一の者であるという自負があったものと考えられます。また、二百五十人の有力者たちも、彼らが人々に認められているという自負があったので、モーセとアロンに立ち向かったのでしょう。

また、そこには、イスラエルが荒野を四十年間放浪しなければならなくなったということも、その大きな要因の一つであったと思います。人は物事が順調に進んでいる時はこうした肉の思いが抑えられがちですがいざ苦難や困難に直面すると、不満や反抗という形ですぐに表に現れてくるのです。彼らにとって必要だったのはそのような状況にあっても不平や不満をぶちまけることではなく、力強い主の御手にへりくだることでした。Ⅰペテロ5:6には、こうあります。「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるのです。」

2.慎み深い考え方をしなさい(4-11)

それに対してモーセはどうしたでしょうか。4節から7節までをご覧ください。

「4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げて言った。「あしたの朝、は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ。6 こうしなさい。コラとその仲間のすべてよ。あなたがたは火皿を取り、7 あす、の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。がお選びになるその人が聖なるものである。レビの子たちよ。あなたがたが分を越えているのだ。」

モーセはこれを聞いて、主の前にひれ伏しました。彼は、このようなことも主の許しの中に起こっていることを認め、主がこの問題を解決してくださるように祈り求めたのです。そして、コラとそのすべての仲間とに、主は、だれを選ばれ、ご自分に近づけられるのかを知るために、火皿を取って、その中に火を入れ、その上に香を盛るようにと言いました。

火皿とは、神の前で香をたく際に、燃える炭火を入れる特別な道具です。祭司だけが祭壇で香をたくことができました。祭司でない者が香をたいたり、祭司が規定に反して香をたいたりすると、だれであれ死罪とされました。ですから、もし生き残ることができれば神に選ばれた物であるということです(レビ10:1-2)。

モーセはさらにコラに言いました。8節から11節までをご覧ください。

「8レビの子たちよ。よく聞きなさい。16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

これはどういうことかというと、コラは、レビ族として荒野の旅をするときに、幕屋を取り外して、運搬し、また次の宿営地において再び組み立てるという奉仕を行なっていました。そして、幕屋の外庭においても、祭司たちを補佐する役割を担っていました。特にケハテ族は、聖所の中の用具を運搬するということで、他のレビ族の氏族よりも、さらに主に近いというか、栄誉ある働きに召されていたのです。それなのに、コラはそれで満足することができず、祭司職、つまり、聖所の中における奉仕までを要求したのです。それは分を越えていることでした。モーセが分を越えていたのではなく、コラたちが分を越えていたのです。

ローマ12章3節には、「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあります。神はご自身のみからだてある教会を建て上げるために、それぞれに賜物を与えてくださいました。それは一方的な神の恵みによるのであって、神がそのようにお選びになられたのです。モーセがイスラエルの上に立って指導したかったのではなく、神が彼をその働きに召し、賜物を与えてくださったのです。そのモーセに反抗するということは、それは神に対する反抗でもあるのです。ですから、ここでコラたちがモーセに、「あなたがたは分を越えている」と言ったのは、このことを全く理解していないからであり、神が定めた秩序を無視したことだったのです。神が定めた秩序とは人間主体の民主主義ではなく、神が恵みによって与えられた賜物にしたがって、慎み深い考え方をすることなのです。

3.神のさばき(12-19)

「12 モーセは使いをやって、エリアブの子のダタンとアビラムとを呼び寄せようとしたが、彼らは言った。「私たちは行かない。13 あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している。それでも不足があるのか。14 しかも、あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず、畑とぶどう畑を受け継ぐべき財産として私たちに与えてもいない。あなたは、この人たちの目をくらまそうとするのか。私たちは行かない。」15 モーセは激しく怒った。そしてに申し上げた。「どうか、彼らのささげ物を顧みないでください。私は彼らから、ろば一頭も取ったことはなく、彼らのうちのだれをも傷つけたこともありません。」16 それから、モーセはコラに言った。「あなたとあなたの仲間のすべて、あなたと彼らとそれにアロンとは、あす、の前に出なさい。17 あなたがたは、おのおの自分の火皿を取り、その上に香を盛り、おのおのの前にそれを持って来なさい。すなわち二百五十の火皿、それにまたあなたも、アロンも、おのおの火皿を持って来なさい。18 彼らはおのおの、その火皿を取り、それに火を入れて、その上に香を盛った。そしてモーセとアロンはいっしょに会見の天幕の入口に立った。19 コラは全会衆を会見の天幕の入口に集めて、ふたりに逆らわせようとした。そのとき、の栄光が全会衆に現れた。」

モーセは使いをやって、ダタンとアビラムを呼び寄せようとしましたが、彼らの答えはノーでした。その理由は何でしょうか。モーセが自分たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、この荒野で死なせようとしたということです。あれっ、乳と蜜の流れる地とは神が約束されたカナンの地のことなのに、彼らはここでかつて自分たちが住んでいたエジプトのことを、そのように言っているのです。また、「それでも不足があるのか」という言葉も、先ほどモーセが、コラに対して言った言葉をもじっています。さらに、約束のカナン人の地にあなたがたが連れて行かなかった、とモーセたちの失敗をあげつらっています。

それでモーセは激しく怒り、彼らのささげものを顧みないようにと、主に申し上げました。そして、コラに言いました。コラとその仲間たち、そしてアロンとは、明日、主の前に出るように・・・と。するとコラたちは、おのおの火皿を取り、それに火に入れて、その上に香を盛りました。そしてイスラエルの全会衆を会見の天幕の入り口に集めて、ふたりに逆らわせようとしたのです。

それに対して、主はどのようにされたでしょうか。20節から24節までをご覧ください。

「20 はモーセとアロンに告げて仰せられた。21 「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまうから。」22 ふたりひれ伏して言った。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」23 はモーセに告げて仰せられた。24 「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」

主はモーセに、この民から離れるようにと言われました。彼らをたちどころに滅ぼされるからです。モーセが怒っている以上に、主がお怒りになっておられました。そして、主はそのような反逆の民を滅ぼそうとされたのです。

するとモーセとアロンはひれ伏して言いました。「神。すべての肉なるもののいのちの神よ。ひとりの者が罪を犯せば、全会衆をお怒りになるのですか。」

何と、彼らは、イスラエルのためにとりなして祈りました。ここまで反抗する民のためにとりなすこと人間的にはなかなかできないことですが、モーセは地上のだれにもまさって謙遜な人でした。そのような中にあっても冷静に、あわれみの心をもって主にとりなしたのです。

すると主は、「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」と言って、会衆を滅ぼさないようにされたのです。しかし、そのようにモーセに反抗し会衆を扇動したダタンとアビラムに対しては、きびしいことばを語りました。25節から35節です。

「25 モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、26 そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」27 それでみなは、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去った。ダタンとアビラムは、その妻子、幼子たちといっしょに出て来て、自分たちの天幕の入口に立った。」モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのはであって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。29 もしこの者たちが、すべての人が死ぬように死に、すべての人の会う運命に彼らも会えば、私を遣わされたのはではない。30 しかし、もしがこれまでにないことを行われて、地がその口を開き、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとくのみこみ、彼らが生きながらよみに下るなら、あなたがたは、これらの者たちがを侮ったことを知らなければならない。」31 モーセがこれらのことばをみな言い終わるや、彼らの下の地面が割れた。32 地はその口をあけて、彼らとその家族、またコラに属するすべての者と、すべての持ち物とをのみこんだ。33 彼らとすべて彼に属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。34 このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない」と思ったからである。35 また、のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。」

モーセは、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、まず会衆に、彼らから離れるように告げると、これが自分の考えによるのではなく、主が遣わして、これらのことをさせたのであることを示すために、地がその口を開いて、彼らと彼らに属する者たちとを、ことごとく呑み込み、生きながらよみに下るようにさせると言いました。そして、モーセがこれらのことばを語り終えるや、彼らの下の地面が割れて、彼らとその家族、またコラに族するすべての者が、呑み込まれたのです。彼らは、生きながら、よみにくだったのです。よみとは死者の住む世界です。死んだ人が行くところなのです。ところが、そのよみに生きながら、下って行ったのです。これはおそろしいことです。

このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げました。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからです。しかし、神はあわれみ深い方です。モーセとアロンのとりなしによって、彼らが滅びないで済むようにしてくださったのです。 また、先ほどコラと共に来てモーセとアロンに立ち向かった二百五十人は、その持っていた火皿の火が彼らを焼き尽くしました。このように神によって遣わされたモーセに反逆した彼らは、おそろしい神のさばきを受けたのです。

4.祭壇のための被金(36-40)

すると主は、モーセにつげて次のように言われました。36節から40節までをご覧ください。

「36 はモーセに告げて仰せられた。37 「あなたは、祭司アロンの子エルアザルに命じて、炎の中から火皿を取り出させよ。火を遠くにまき散らさせよ。それらは聖なるものとなっているから。38 罪を犯していのちを失ったこれらの者たちの火皿を取り、それらを打ちたたいて延べ板とし、祭壇のための被金とせよ。それらは、彼らがの前にささげたので、聖なるものとなっているからである。こうして、これらをイスラエル人に対するしるしとさせよ。」39 そこで祭司エルアザルは、焼き殺される者たちがささげた青銅の火皿を取って、それを打ち延ばし、祭壇のための被金とし、40 イスラエル人のための記念とした。これは、アロンの子孫でないほかの者が、の前に近づいて煙を立ち上らせることがないため、その者が、コラやその仲間のようなめに会わないためである。―がモーセを通してエルアザルに言われたとおりである。」

新共同訳聖書では、ここから17章になっています。新共同訳聖書が、なぜここから17章にしたのかはわかりません。もともと章節は人間が便宜的に作ったものでそこに霊感が働いたわけではないので重要なことではありませんが、ここから17章にしたのには何か意図があったのではないかと思います。17章には「アロンの杖」についての言及があるので、祭壇の被いについて記されてあるここから17章にしたものと思われます。しかし、49節にはイスラエルに下った神罰に対する言及があるので、これはコラやダタンとアビラム、また、二百五十人のリーダーたちに対するさばきの続きと見た方がよいかと思います。

そしてこのところで主は、罪を犯していのちを失った者たちの火皿を取り、それを打ちたたいて、祭壇のための被金(きせがね)、これは被いのことですが、それを作るようにと言われました。何のためでしょうか。それは「しるし」のため、「記念」のためです。アロンの子孫でないほかの者たちが、主の前に近づいて煙を上らせるようなことがないために、そのようなことをして主の怒りをかい、滅びることがないようにするためです。私たちにもこのようなしるしが必要ですね。繰り返し、繰り返し主に反抗しては罪を犯す者だからです。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(1コリント10:11-12)とありますが、このようなことを教訓として、倒れることがないように気を付けたいと思います。

ところで、ここには焼き尽くすささげものの祭壇がどうして青銅で覆われるようになったのかが記されてあるのです(出エジプト27:1-2,38:1-2)。それは、このコラの罪のためです。それを見て、自分たちへの戒めとするためだったのです。それはまさに私たちの罪のために焼き尽くすささげものとなられた十字架のキリストを指し示すものだったのです。キリストの十字架を見る時、私たちの罪がいかに大きいものであるかを知ります。その罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことによって、私たちのすべての罪が赦されたのです。これはそのためのしるしなのです。私たちはこのしるしを見て、キリストの贖いの恵みに感謝しつつ、神に喜ばれる歩みをしていきたいと願わされます。

5.さらなる神罰(41-50)

最後に41節から50節までのところを見て終わりたいと思います。

「41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたはの民を殺した。」42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、の栄光が現れた。43 モーセとアロンが会見の天幕の前に行くと、44 はモーセに告げて仰せられた。45 「あなたがたはこの会衆から立ち去れ。わたしがこの者どもをたちどころに絶ち滅ぼすことができるように。」ふたりはひれ伏した。46 モーセはアロンに言った。「火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。」47 アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真ん中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。48 彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。50 こうして、アロンは会見の天幕の入口のモーセのところへ帰った。神罰はやんだ。」

これほど恐ろしい神のさばきを目の当たりにし、そのさばきを免れたイスラエルの民はさぞ感謝したかと思いきや、全く違っていました。その翌日、イスラエルの全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいたのです。「あなたがたは主の民を殺した。」と。言い換えると、「愛がない」ということでしょうか。彼らはコラたちに同情していたのです。主の指導者たちにつぶやくことは主につぶやくことであり、そのことに対するさはぎがどれほど恐ろしいものであるかを目の当たりにしたのに、彼らはそこから学ぶことをせず、同じような過ちを犯しました。

それで、モーセとアロンが天幕の方を振り向くと、雲がそれをおおい、主の栄光が現れました。そして、モーセとアロンに、彼らから離れるようにと言われたのです。主が彼らをたちどころに滅ぼされるからです。するとモーセはひれ伏しました。そして、アロンに、彼らの罪の贖いをするようにと命じます。けれども、すでに神罰は始まっていました。コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰でイスラエルの一万四千七百人が死んだのです。しかし、アロンが死んだ者と生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやみました。これは、神と人間の間に立たれたイエス・キリストを表しています。罪のゆえに神に滅ぼされてもいたしかたない私たちのために、神は御子イエス・キリストをお遣わしくださり、私たちと神との間に立って罪の贖いをしてくださったので、神の怒り、神罰はやんだのです。

彼らはいつまでも自分の感情に流されていました。何が神のみこころなのかを知り、それに従うということよりも、たとえそれが罪であっても、自分の思いや感情に従って歩もうとしたのです。これはクリスチャンにとって陥りやすい過ちでもあります。神のみこころがどうであるかよりも、あくまでも自分の考えや思いを優先するのです。自分が滅ぼされるまで、自分の肉に従って生きようとするのです。その結果は、このように滅びる以外はありません。私たちは自分の感情がどうであれ、神のみこころが何であるかを知り、それに従うことが求められます。それが信仰の歩みなのです。

Ⅰテモテ4章1~6節「りっぱな奉仕者」

きょうは、Ⅰテモテ4章のみことばから「りっぱな奉仕者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、教会が守るべきメッセージについて、2章と3章では、教会のメンバーとしてどうあるべきなのかについて語ってきたパウロは、4章においては、りっぱな奉仕者とはどのような奉仕者なのかについて語ります。「奉仕者」と訳されていることばは「ミニスター」で、一般には聖職者とか教役者、牧会者のことを指していますが、これはもともと「仕える者」のことで、主の働きに召されている人のことを指しています。そういう意味では、クリスチャンはみなミニストリーに召されているので、すべてのクリスチャンに対して語られていると言ってもいいでしょう。

Ⅰ.信仰から離れるようになる(1)

まず1節をご覧ください。ここには、「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」とあります。

「しかし」というのは、3章16節で語られた内容を受けての「しかし」です。そこでは敬虔の奥義について語られていました。それは一言で言うなら、それはイエス・キリストの福音でした。最初から最後まで、徹頭徹尾イエス・キリストです。これがキリスト教です。キリスト教とはキリストです。キリスト教信仰とはキリストです。そして、私たちが宣べ伝えるべき内容はイエス・キリストであって、それ以外のメッセージはありません。これが敬虔の奥義であり、いくら強調しても、強調しすぎることはありません。「しかし」です。

「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」

「御霊が明らかに言われるように」とは、御霊が書かれたこの聖書で明らかに言われているようにということです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。その聖書が繰り返し、繰り返し、後の時代になると、どういうことが起こるのかを告げています。それは、ある人たちは惑わす霊と悪霊との教えに心奪われて、信仰から離れるようになるということです。それはこのテモテへの手紙だけでなく、他のパウロの書簡でも、またヨハネの書簡でも、またペテロの書簡、ヤコブの書簡でも言及されていることです。聖書はすべて、神の霊感によるものなので、だれが書いても同じことを語っているのです。勿論、それはイエス様も語っておられることです。マタイの福音書24書を開いてみましょう。ここには世の終わりになると戦争があったり、ききんがあったり、いろいろな自然災害、天変地異が起こると言われていますが、その中で最も顕著なしるしは、これではないかと思います。12節です。

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」

「不法」というのは、神のみことばに反することです。神のみことばに反するので、多く人たちの愛は冷たくなります。これがパウロの言葉では、「信仰から離れる」と表現されているわけです。世の終わりになると、神のみことばに反するようなことを教えたり、また、反聖書的な神学、教理がはびこるので、多くの人たちの神に対する愛も、教会に対する愛も、兄弟姉妹たちに対する愛も、隣人に対する愛も、失われていくたましいに対する愛も冷めてしまうというのです。いったいなぜ神様に対する愛が冷めてしまうのでしょうか。それは不法がはびこるからです。聖書のことばに反するようなことを言ったり、教えたりするのからです。神のみことばから離れると、愛が冷えてくるのです。信仰から離れるようになるのです。「聖書なんて、そんなに熱心に学ばなくてもいいじゃないですか。」「教会にそんなに足しげく通う必要なんてないですよ。」「好きな時に行くだけで十分です。」「今はインターネットもありますから、いつでも好きな時に、好きなメッセージを聞けばいいんです」教会に対する愛も覚めてきます。これは世の終わりのしるしなんです。不法がはびこるので、多くの人たちの愛が冷たくなるのです。今はまさにそのような時代ではないでしょうか。刻一刻と世の終わりに近づいているのです。

この「信仰から離れるようになります」の「信仰」には定冠詞がついています。定冠詞というのは、英語で言うところの「The」です。その信仰です。その信仰とはどの信仰かというと、文脈を見ておわかりのように3章16節の信仰です。キリスト教信仰のことです。その信仰から離れるようになるのです。ただ不信仰に陥るとかということではありません。キリスト教信仰そのものから離れるようになるのです。これは救いから離れていくようになるということです。つまり、救いを失うようになるということなのです。ですから、この信仰から離れるというのは、非常に重いことです。ただ誤解がないように整理しておきたいと思いますが、クリスチャンが救いを失うことは決してありません。これはヨハネの福音書10章28節、29節のイエス様のことばを読めば明らかなことです。一度キリストに捕えられた者は、その救いを失うことは絶対にありません。ヨハネの福音書にはこうあります。

「28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」

「永遠のいちの」とは言い換えると「救い」のことです。イエス様は彼らに救いを与えます。だれもイエスの御手の中から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスばかりでなく、父なる神からもあなたを奪い去るようなことはできません。あなたはイエスと父なる神の両方の手によってしっかりとガードされ、守られているのです。だれもそこからあなたを奪い去ることはできないのです。これ以上安全なところはありません。救いは絶対保障、完全保障なのです。

他にも、ローマ書8章1節で、パウロはこう言っています。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」

言い換えれば、クリスチャンが、再び永遠の滅びに定められるようなことは絶対にないということです。キリスト・イエスのうちにあるならば、本当の意味でクリスチャンであるならば、地獄に行くようなことは絶対にないのです。その刑罰は、イエス・キリストが二千年前に十字架の上で肩代わりしてくださったからです。すべての贖いは完了済みなのです。

これは絶対に外せないところです。ある人たちはクリスチャンでも救いを失うことがあると言う人もいますが、それは違います。聖書が教えていることは、救いは絶対に失われることはないのです。これが聖書の教えです。

その一方で、同時に聖書はこうも言っているのです。ある人たちは、その信仰から離れるようになる・・・と。どういうことですか?ここでは離れることもあり得る、と言っているのです。ちょっと矛盾しているかのように感じるところですが、その違いをしっかりと区分けして解する必要があるかと思います。

こういうことです。クリスチャンは絶対に救いを失うことはありませんが、しかし、その一方でクリスチャンは救いから離れることがあり得るということです。それは、私たち人間がロボットように造られたからではないからです。私たちは自由意志を持つ者として造られました。自由意思を持つ者というのは、自由に神を賛美し、喜び、ほめたたえることができるということです。逆に言うなら、自由に神から離れることもできるということです。仮に私たちがもうキリストの手の中にはいたくない、神の手の中に収まりたくない、私は自由に生きたいと思うなら、神から離れることができるのです。その人は実際に離れることができるのです。神様は、無理矢理に私たちをご自身の手の中にとどめておくようなことはなさらないのです。私たちの意志をもって神を愛し、神をほめたたえ、神に従うことを望んでおられるのです。ですから私たちは、自分の自由な意思によって神を信じることも、信じないこともできるのです。自由意思によって天国に行くことも選べるし、地獄に行くことも選べるのです。

ただ私は、個人的に思うのは、もしそのように思う人があるとしたら、すなわち、信仰から離れたいと思うようなことがあるとしたら、その人は本当の意味で救われていなかったのではないかということです。本当に救われていたなら、あるいは、本当に神の恵みを味わっていたのなら、この神の愛から離れたいなんてだれも思わないからです。そう思うとしたら、最初から信じていなかったのではないかと思うのです。わかりません。ただ聖書が告げていることは、そういう事実があるということです。クリスチャンは救いを失うことはないし、その一方で、その救いから離れることもあるということを教えているのです。

ヘブル3章12節にもこう書いてあります。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」

「兄弟たち」とは、もちろん、クリスチャンたちのことです。ヘブル人クリスチャンたちに語っているのです。「あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」と。この「離れる」ということばはⅠテモテ4章1節で使われている「離れる」と全く同じ原語が使われています。気を付けるように。生ける神から離れるということがないように。こういうことがクリスチャンたちの間でもあり得るからです。そういう事実を事実として受け止めながら、そういうことがないように気を付けるようにと勧められているのです。

でも、仮にその人が信仰から離れることがあったとしても、それですべてがだめになってしまうわけではありません。そういう人でももう一度やり直すことができます。何度でもやり直すことができるのです。正しいキリストの福音を聞き、悔い改めて、イエスを救い主と信じればいいのです。そうすれば、救われるのです。

「私はただクリスチャンのふりをしていただけです。口先だけの信仰でした。心を込めて、意味がわかっていたわけではありません。何となく雰囲気に呑まれて、何となく人から勧められて、プレッシャーになって、感情的になって、人間的な思いでイエス様を信じますとは言ったけれど、よく考えてみたら、自分は全くイエス様のことがわかっていませんでした。救いについてわかりませんでした。イエス様と生きた関係もありませんでした。ごめんなさい。いま、あなたの救いかわかりました。私はいま、あなたを私の罪からの救い主として、私の人生の主として迎えます。どうか、あなたの喜ばれる者に変えてください。」

そう言って、イエス様を信じればいいのです。そうすれば、確かな救いを受けることができるのです。そう気づいたならば遅くはありません。もう一度やり直すことができるのです。もう一度真剣に神の前に自らの罪を悔い改め、そして神に立ち返って、イエス・キリストを信じればいいのです。やり直しはできるのです。ですから、仮に信仰から離れたとしても、もう一度信仰に戻ってくることができるのです。一度信仰から離れたらもう二度と救われないとか、そういういい加減なクリスチャンは救われないということはないのです。

このように、世の終わりになると、信仰から離れる人たちが起こることをパウロは警告しています。それは御霊が明らかに言われることなのです。だから、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それが惑わしの霊や悪霊の教えによるものではないかどうか、みことばによって吟味しなければなりません。そして、惑わされることがないように、この信仰にしっかりととどまっていなければならないのです。

Ⅱ.うそつきどもの偽善(2-5)

では、悪魔はどのように惑わしてくるのでしょうか。次に2節から5節までをご覧ください。ここには惑わしの方法が記されてあります。

「2 それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、3 結婚することを禁じたり、食物を絶つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。4 神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。5 神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」

それは、うそつきどもの偽善によるものです。惑わす霊と悪霊の教えの特徴は、「偽り」にあります。悪魔は偽りの父であり、悪魔から真実を聞くことはありません。悪魔は偽教師を用いてそのわざを進めるのです。その偽教師について、ここでは二つの特徴があげられています。一つは、彼らの良心が麻痺しているということ、そしてもう一つのことは、彼らは禁欲主義的な傾向を持っているということです。

まず、良心が麻痺していることについてですが、この麻痺しているという言葉は、アイロンで自分のからだをやけどさせ、焦がしてしまい、ついには無感覚になってしまう状態のことを指しています。これが、良心が麻痺するという言葉です。パウロは、このテモテへの手紙の中で、「良心」という言葉をたくさん用いています。たとえば、1章5節では、「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています。」とあります。また、1章19節にも、「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。」と言っています。この良心が麻痺してしまうほど、つまり罪の意識を感じないほどに、平気で嘘をつくのです。いくら聖書の御言葉に「こう書いてあります」と言っても、「それで」とか、「それがどうしたんですか」、「みんながやっていることじゃないですか」、「おかしいのはあなたです」なんて開き直ったりするのです。聖書の御言葉を聞いても良心が痛むことがありません。それが罪だということもわからないのです。

偽りの教師たちのもう一つの特徴は、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりすることです。これは律法主義、または禁欲主義と呼ばれるものです。これらはすべて惑わしの霊によるもの、悪霊の教えによるもの、または、パウロはこのⅠテモテの冒頭で「違った教えを説いたり」と言っていますが、本来のキリストの教えとは違った教えのことです。その背景にはグノーシス主義とか、ユダヤ主義といった異端がはびこっていました。グノーシス主義とは霊肉二元論で、「すべて肉体的、物質的なものは悪であり、霊的、精神的なものが善いものである」という教えです。したがって、結婚は肉体的なものですから悪いものとされ、結婚することを禁じたりしたのです。食べ物も物質的なものですから悪いものであると、食物を断つことを禁じたりしたのです。

ここからローマ・カトリック教会では、聖職者の独身性というものを強調するようになりました。司祭やシスターなど神に仕える者は聖くなければならないと、独身であることが求められたのです。独身でないと司祭になれません。結婚していると司祭にはなれないのです。それは肉であり、世俗的なことだからです。祭司やシスターなど神に仕える者たちはそうした世俗的なことから離れ、ただ神だけを求めなければならないし、それが聖いことだと考えられるようになったのです。

しかし、そこには一つの矛盾があります。というのは、このローマ・カトリック教会の最初の教皇であったペテロは、皮肉にも結婚していたことです。ローマ・カトリック教会では、初代法王をペテロにおいているのに、そのペテロは結婚していました。何という矛盾でしょうか。ですから、そうしたローマ・カトリック教会の教えの中にも、こうしたグノーシス主義の名残というか、そういう考え方が入り込んでいたのであって、それはもともとの聖書の教えではありません。聖書では、そもそも結婚を禁じてはいないのです。結婚は神の創造の初めに神が立てられた制度であり、それは祝福されたもの、聖なるものなのです。それを禁じるということは、まさに惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。勿論、だからと言って結婚しなければならないというものでもありません。結婚するのは神のためであり、しないのも神のためです。私たちは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、神の栄光を現すためにするのです。したがって、結婚に関して言うならば、それはしてもいいし、しなくてもいい、ということです。それを禁じることは、聖書とは違った惑わす霊と悪霊の教えによるものになのです。

しばらく前に統一協会の合同結婚式が話題なりましたが、あれも問題です。確かに合同結婚式では結婚を禁じているわけではありませんが、教団の思惑でまだ一度も会ったことがない人が結婚させられるのですから・・。結婚を禁じているのではなく、無理やり結婚させるのも問題です。

それからもう一つの食物を断つことについでですが、ここにもユダヤ主義的な影響が強く見られます。ユダヤ主義というのは、クリスチャンになっても旧約聖書の律法を守らなければ救われないという教えです。その中心がこうした食べ物の規定であったわけです。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られたものです。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。それは、神のことばと祈り、すなわち、信仰によって感謝して受けるとき、すべては聖められるからです。それなのに、いったいなぜ食物を断たなければならないのでしょうか。もし、健康のために断つというのならわかります。食べ過ぎてメタボにならないように、少しどころか、かなりセーブしなければならない時もあるでしょう。あるいは、祈りのために一時的に断つというのもわかります。イエス様も、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」(マタイ17:21)と言って、断食して祈ることの重要性を教えられました。しかし、それ以外に、食物を断たなければならない理由はありません。旧約聖書のレビ記にそう書いてあるではないですか?レビ記には数々の食物に関する規定が書かれてあるのは確かです。しかし、それは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。コロサイ書2章16,17節をお開きください。ここに何と書いてありますか。こうあります。

「16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16-17)

皆さん、本体はキリストにあるのです。旧約聖書にある律法の規定は影にすぎません。その影を必至に追い求め、本体を見失うことがあるとしたら、それこそ本末転倒です。律法の目的であるキリストが、旧約聖書の目的であるキリストが何と言っておられるのかということが重要なことです。そのキリストが、神が造られた物はみな良い物で。感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません、と言っているのです。いいえ、これはパウロのことばであってキリストのことばではありませんと言う方がいらっしゃるかもしれませんが、パウロはキリストのことばをここで語っているのです。イエス様は、「外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」(マルコ7:15)と言われ、すべての食物をきよいとされました。それゆえ、食物を断つことを禁じてはいけないのです。もし禁じることがあるとしたらそれは聖書とは違った教えであり、惑わしの霊、悪霊の教えなのです。

キリスト教の異端とされているモルモン教では、食べ物について細かな規定があります。コーヒー、紅茶、緑茶など、カフェインの入っている飲み物は全部だめです。もちろん、アルコールもご法度です。それは不健康をもたらし、霊的にも聖くなることができないと考えているからです。また、モルモン教では通常、月の初めの日曜日が断食の日に設定されていて、2食を断つことが推奨されています。その断食によって節約されたお金で困っている人を助けるというのです。その目的自体はすばらしいものですが、それが個人の信仰によってではなく、教団の教えによって強いられてやっているとしたら問題です。なぜなら、聖書では、食物を断つことを禁じてはならないと命じられているからです。もしそのように命じることがあるとしたら、それは偽りの教え、惑わす霊と悪霊の教えによるものなのです。

私たちが義と認められるのはイエス・キリストを信じる信仰によってのみであって、その他のどんな宗教的な行為も、どんな行いも義とすることはできないのです。私たちを救い、私たちをご自身と同じ姿に変えてくれるのはキリストのみであって、それは御霊なる主の働きによるものなのです。私たちの行いによるのではありません。ですから、私たちはいつも「この信仰」から離れることがないように注意しなければならないのです。

Ⅲ.これらのことを教えるなら(6)

第三のことは、これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になることができるということです。6節をご覧ください。

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。」

「これらのこと」とは、1節から5節までのところでパウロが語ってきた内容のことです。すなわち、後の時代になるとどのようなことが起こるのか、そこには惑わす霊と悪霊の教えが蔓延するようになるのでそれをよく判別し、聖書が教えている正しい教えとはどのようなものなのかを教えるなら、ということです。これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはりっぱな奉仕者になることができるのです。よい奉仕者とは、これらのことをよく教える人です。その信仰から離れることがないように、イエス・キリストのことをよく教える奉仕者のことなのです。イエス・キリストのことはそっちのけで全く言及しないというのでは、りっぱな奉仕になることはできません。

なぜなら、信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばによって養われているからです。信仰のことばと、テモテが従って来た教えのことばとは同じものを指していますが、パウロはここでそれをあえて強調してこのように言っています。信仰から出てないことば、つまり、聖書に書かれていないようなことば、そして、テモテがこれまで聞いたこともないような奇抜な教えは、惑わしの霊、悪霊の教えによるものであって、そういう教えは退け、この聖書のことば、昔からずっと教えられてことば、すべての教会が伝統的に守ってきた教えにしっかりととどまるように、そのことによって信仰が養われていくからです。何かこの世で流行っているから、人々がもてはやしているからといったものに目移りして、そういったものに飛びついたりしてはいけないのです。古いと言われようと、時代遅れだと言われようと、時代錯誤だと言われようと、同性愛がいまどき罪だなんてアホじゃないかと言われようとも、それでも、この信仰のことば、テモテがずっと従ってきた聖書の御言葉に立ち、これを教えなければならないのです。それによって私たちの信仰が養われていくからです。それ以外は惑わしの霊によるものであって、信仰から離れていくようになるのです。愛が冷えて、自分を愛するようになり、神から離れるようになるのです。ですから、私たちはこれらのことを教えなければなりません。教えるとは思い起こさせるという言葉ですが、何度も何度も繰り返し、繰り返し語って、思い起こさせなければなりません。そのような奉仕者こそ良いミニスター、りっぱな奉仕者なのです。

このように見て来ると、教会の牧会者の務めが何であるかが見えてきます。それは、これらのことを教えることです。これが教会の牧会者にとって最も重要な務めなのです。日本ではどちらかというと、教会のこまごまとしたことから、事務的なこと、教会員のケア、食べ物も飲み物に関することまで何でもする牧師が良い牧師であるかのように思われがちですが、聖書で言うところの良いミニスターとそうではありません。

使徒の働き6章には、最初の教会に起こった問題を対処するために御霊と知恵に満ちた7人の執事が選ばれたことが記録されています。ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに苦情を申し立てたのです。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給のことでなおざりにされていたからです。食べ物の恨みは恐ろしいのです。たかが食べ物のことで・・・と思うかもしれませんが、食べ物のこと、飲み物のことは以外と重要なのです。

しかし、12人の弟子たちがこうした問題に関わっていたら、彼らがしなければならない大切なことがなおざりにされてしまいます。そりは祈りとみことばです。それで初代教会は、彼らが祈りとみことばの奉仕に専念するために、彼らにこの問題7人の解決をゆだねたのでした。もし彼らがこれらのことに振り回されて最も重要な奉仕ができなくなってしまったら、それは教会にとって不幸なことなのです。

りっぱな奉仕者とは、祈りとみことばに専念し、これらのことを教える奉仕者です。私たちはいつもみことばから教えられ、惑わしの霊と悪霊との教えに心を奪われ、信仰から離れることがないように、みことばによって養われ、整えられていくことを求めていきたいと思います。

I Timothy 4:1-1 “A good minister”

Today I would like to talk about “a good minister” (6) from the first part of I Timothy chapter 4. In chapter 1 of this letter to Timothy Paul spoke about the contents of the message that the church must keep. That is the glorious Gospel that is full of blessing. “The goal of this…is love, which comes from a pure heart and a good conscience and a sincere faith.” (1:5) In chapter 2 and 3 he spoke about the order of creation and what the church members should be like. Now in this chapter 4 he advises Timothy to become “a good minister” (6) and is teaching about what is necessary in order to be so. The word that is used here for “minister” (6) has as its origin the meaning of “servant” or “someone who serves”. If you take that meaning, then all Christians are called to be the Lord’s servant so this can be applied to all Christians.

 

  1. Some will abandon the faith (Vs. 1)

First of all please look at verse 1. It says, “The Spirit clearly says that in later times some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.”

This verse is related to the last verse in chapter 3. Christ “appeared in a body, was vindicated by the Spirit, was seen by angels, was preached among the nations, was believed on in the world, was taken up in glory.” (3:16) In one word this is the Gospel of Jesus Christ. From the beginning to the end is Jesus Christ.  That is Christianity. Christianity is Jesus Christ. The Christian faith is Christ. The truth of Christianity is Christ. What we should preach is Christ. There is no other message. It is the “mystery of godliness” (3:16) No matter how much you emphasize it, it can’t be emphasized too much.

“The Spirit clearly says that in later times some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.” (1)

“The Spirit clearly says” (1) means that it is clearly said in the Bible that the Holy Spirit inspired it. In the Bible it says over and over again what “later times,” that can be used interchangeably with the end of the world, will be like. That is “some will abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons.” (1) This is prophesized about not only in this letter to Timothy, but also in the books by Paul, also in the books by John, the books by Peter and in the same way in the book by James.  This is because they were all written by the same Holy Spirit of God. The Holy Spirit gave the same inspiration. He made it clear what will occur “in later times.” (1) Of course, Jesus Christ himself too in advance stated the same signs preluding the end of the world.

That is in Matthew 24. There will be wars, famines, natural disaster, and a convulsion of nature. However, the most obvious sign of the end of the world will be this I think. “Because of the increase of wickedness, the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12)

“Wickedness” (Matt. 24:12) is towards God’s Word. Wickedness is the opposite of God’s Word. It will prevail so “the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12) This is expressed by Paul as “some will abandon the faith.” (1) In the age at the end of the world, things contrary to the Word of God will be taught.  Also theology and doctrine contrary to the Bible will increase. Most people’s love towards God, towards the church, and towards the brothers and sisters in Christ, towards their neighbors, towards the lost “will grow cold.” (Matt. 24:12) The things that people were on fire for will cool off and become lukewarm.  There will be a lack of interest in studying the Bible. People won’t feel the need to go to church. “Because of the increase of wickedness, the love of most will grow cold.” (Matt. 24:12) Now we are entering such an age.

The word “faith” in “some will abandon the faith” in I Timothy 4:1 is preceded by article “the”. “The faith” (1) is the faith of 3:16. It is the Gospel of Christ, the Christian faith. This is “the faith” (1), but “some will abandon” (1) it.  This doesn’t mean to fall into unbelief. It refers to abandoning the faith of Christianity, abandoning the Gospel of Christ. It is abandoning the nucleus of the doctrine of salvation. In other words, they will lose their salvation.   Therefore, abandoning the faith is an extremely serious thing. However, so there is no misunderstanding I would like to put this teaching in order. Christians will never lose their salvation. If you read Jesus’ words in John 10:28 and 29 this will be clear. Anyone who is in Jesus’ hand will never lose his salvation. In John it says, “I give them eternal life, and they shall never perish; no one can snatch them out of my hand. My Father who has given them to me is greater than all; no one can take them out of my Father’s hand.” (John 10:28, 29)

“Eternal life” (John 10:28) said in other words is “salvation”. Therefore, Jesus gives them salvation. “No one can snatch them out of” (John 10:28) Jesus’ hand.  Not only Jesus’ hand. “No one can take them out of” (John 10:29) the Father’s hand either. You are guarded and taken care of by both the hands of Jesus and God the Father. “No one can snatch” (John 10:28) you out of them. There is no greater place of security. Salvation is an absolute guarantee, and a full and comprehensive guarantee.

Also in another passage too, Roman 8:1, Paul said, “Therefore, there is now no condemnation for those who are in Christ Jesus. The total ransom has been paid.

This will definitely not fail. There are some people that take the view that even Christians can lose their salvation, but that is wrong.  What the Bible teaches is that salvation is never lost. This is the teaching of the Bible.

On the other hand, at the same time the Bible says, “some will abandon the faith.” (1)  This seems to contradict the teaching that Christians cannot lose their salvation. Therefore, it is important that we clearly understand this difference.

Christians definitely cannot lose their salvation. However, on the other hand a person can “abandon the faith”. (1) That’s because we mankind have a free will. God will definitely never take away our salvation, but on the other hand there are cases where we by our own will abandon salvation. God doesn’t make us to be robots, but made us with free wills, to freely praise the Lord, to rejoice, and to sing to God. Therefore, he doesn’t force us to stay within his hands. For example, if a person says that he wants to leave God’s hands or he doesn’t want to be in God’s hands any more, or that he wants to live his own way, that person can in reality leave. That is because man has been given a free will. By our free will we believe in God or we can choose not to believe. By our free will we can choose to go to heaven and at the same time we can choose to go to hell.

Only I think personally myself that if a person was saved once, but even so thinks that he wants to abandon the faith, then I think that he was never really saved. If that person really knows the salvation of Jesus Christ and tasted it, then I think he would definitely not want to leave. I don’t know, but I wonder if he had just been pretending to be saved. I don’t know.  That is just my personal opinion. However, the truth of the Bible is that Christians cannot lose their salvation. On the other hand, it teaches that a person can “abandon the faith”. (1)

In Hebrews 3:12 it says, “See to it, brothers, that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.”

“Brothers” (Hebrews 3:12) is, of course, Christians. Paul is talking to the Hebrew Christians.  He is saying to them to be careful to see to it that among them none of them have “a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.” (Hebrews 3:12) “Turns away” (Hebrews 3:12) is exactly the same word that is used in verse 1 for “abandon”. They are to be careful that no one abandons the living God. It is conceivable that this can happen among Christians. While accepting this as a reality, we are being advised to “see to it…that none of you has a sinful, unbelieving heart that turns away from the living God.” (Hebrews 3:12)

However, for example, even if there is a case of a person abandoning the faith, that doesn’t mean that all is lost.  Even such a person can once start all over again. He can start all over again time after time after time. He can start over many times. He just needs to hear the Christian Gospel, repent and believe in Jesus as his Savior.  Then that person will be saved.

 

 

If you feel like you were under pressure by other people to believe in Christ so you said you did. However, you feel like it was just words and not from your heart. If you feel like you don’t have a living relationship with Jesus, the only thing you need to do is to believe in Jesus and ask him to forgive you of your sins and become your Lord. If you realize this, it’s not too late. You can start over again. For example, even if we abandon the faith, we can return again to the faith.

Paul is warning that like this at the end of the world there will be people who will abandon the faith. This is something that “the Spirit clearly says.” (1) We must not believe all things, but check with what the Bible teaches to make sure the teaching is not by “deceiving spirits and things taught by demons.” (1) Then so we are not deceived we need to abide in the faith.

 

  1. Hypocritical liars (Vs. 2-5)

In the next verses, verses 2 to 5, is written the methods by which we are deceived by the devil. “Such teachings come through hypocritical liars, whose consciences have been seared as with a hot iron.  They forbid people to marry and order them to abstain from certain foods, which God created to be received with thanksgiving by those who believe and who know the truth.  For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (2-5)

“Such teachings come through hypocritical liars.” (2) A characteristic of teaching by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) is that it is lies. The devil is the father of lies. You won’t hear the truth from the devil. The devil advances his works by using false teachers. Here 2 characteristics of the false teachers are given. One is that their “consciences have been seared.” (2) The other is that they were disposed to asceticism.

First about their consciences being seared, the word “seared” refers to burning your body with an iron, scorching it, and being in the condition of having no feelings. That is the meaning of their “consciences have been seared.” (2) Paul in the book of Timothy uses the word “conscience” many times. For example, in 1:5 it says, “The goal of this command is love, which comes from a pure heart and a good conscience and a sincere faith.” Also in 1:19 too it says, “holding on to faith and a good conscience.” This good conscience becomes so seared, in other words, so much that the conscience doesn’t feel sin, it is indifferent to telling lies. Even if he hears the Words of the Bible, his conscience isn’t hurt. That is because he doesn’t recognize sin.

 

 

Another characteristic is that the false teachers “forbid people to marry and order them to abstain from certain foods.” (3) This is called legalism or asceticism. These are all by ”deceiving spirits and things taught by demons.” (2) Also Paul in the opening paragraph of I Timothy warns about men who teach false doctrines. That teaching was a different teaching from the original teachings of Christ. In the background was such prevailing Gnosticism and Jewish heresies. Gnosticism was a soul and body dualism that taught that everything that was fleshly and material was bad, and spiritual and mind were good. Accordingly, marriage is a fleshly thing so it is evil and “forbid people to marry.” (3) Food too is material so evil and therefore “ordered them to abstain from certain foods.” (3)

From this the Roman Catholic Church came to emphasize single clergy. Priests and sisters and such people who serve God must be holy so they sought singleness. If you are not single, you can’t be a priest. If you are married, you can’t be a priest. That is fleshly and secular. They thought that by being single you are spiritual. However, there is one contradiction. It is it is ironic, but the Catholic Church’s first pope, Peter, was married. The practice is a relic of Gnosticism caused by the infiltration of such thinking into the church. It was not the teaching of the Bible.  In the Bible from the beginning marriage was not forbidden. Marriage was an institution instituted by God from the beginning of creation. It is blessed and holy. It can be said that for it to be forbidden is really the teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)  Of course, that doesn’t mean that you have to get married. You get married for God and you don’t marry for God. “So whether you eat or drink or whatever you do, do it all for the glory of God.” (I Cor. 10:31) If you apply this to marriage then it’s o.k. to get married and its o.k. not to get married. To forbid is a teaching of “deceiving spirit and things taught by demons.” (2) and is different than the teaching of the Bible.

Also about the other one, ordering “them to abstain from certain foods,” (3) the influence of Judaism can be strongly seen. It was the teaching that even though you became a Christian, you had to follow the law of the Old Testament or you couldn’t be saved. The main thing was the commands about food. However, food was created by God to be received thankfully by people that know the truth and have faith. “For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (3, 4) There may be times when for our health we should watch how much we eat or there are times when we may fast for the purpose of prayer. However, there is no reason that food should be forbidden. Actually in Leviticus there are many regulations written about food. However, they are a shadow of what is to come. The substance is Christ. Please open your Bibles to Colossians 2:16, 17. It says, “Therefore do not let anyone judge you by what you eat or drink, or with regard to a religious festival, a New Moon celebration or a Sabbath day.  These are a shadow of the things that were to come; the reality, however, is found in Christ.”

The substance is Christ.  The regulations of the law of the Old Testament were nothing more than a shadow. If you desperately pursue the shadow and lose sight of the substance, then that is really overturning the plans. The purpose of the law was Christ, but what is important is what Christ who is the purpose of the Old Testament says. Christ said, “For everything God created is good, and nothing is to be rejected if it is received with thanksgiving, because it is consecrated by the word of God and prayer.” (3, 4) Actually you might be realizing these aren’t Jesus’ words, but Paul’s. However, Paul is speaking about Christ’s words. Jesus said, “Nothing outside a man can make him ‘unclean’ by going into him.  Rather, it is what comes out of a man that makes him ‘unclean’.” (Mark 7:15) He made all foods clean. Therefore, food must not by forbidden. If it is forbidden, then it is a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)

The Christian cult, the Mormons, has detailed regulations concerning food. Drinks that contain caffeine like coffee, tea, green tea, etc. are not allowed. Of course alcohol is prohibited. They think it isn’t healthy and that they won’t be able to be spiritually holy too. Also the Mormons usually make the first Sunday of each month a day of fasting. Fasting for 2 meals is recommended. The money that is saved by fasting is used to help people. The purpose in and of itself is wonderful, but the problem it is not by personal faith that they are doing it, but by the teaching of the religious group. That’s because the Bible commands not to forbid food. If such a thing is commanded then it is a false teaching. It is a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2)

We are made righteous only by a faith of believing in Jesus Christ. There are no other religious acts or works by which a person can be made righteous. We are saved and changed into his likeness only by Christ. It is by the spiritual work of the Lord. It is not by our works. Therefore, we must always be careful not to abandon the faith.

 

  1. If you point these things out (Vs. 6)

The third point is that “if you point these things out to the brothers, you will be a good minister.” (6)  Please look at verse 6 “If you point these things out to the brothers, you will be a good minister of Christ Jesus, brought up in the truths of the faith and of the good teaching that you have followed.” (6)

 

 

“These things” (6) are the contents that Paul talked about in verses 1 to 5.  In other words, it is about what will occur “in later times” (1).  “In later times” (1) teachings by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) will prevail so Paul is teaching that Timothy needs to distinguish the teaching and teach the teaching of the Bible correctly. “If you point these things out to the brothers, you will be a good minister of Christ Jesus.” (6) “A good minister of Christ Jesus” (6) is a person that teaches these things well. “A good minister of Christ Jesus” (6) teaches the about Jesus Christ well so that no one abandons the faith. A person who neglects Jesus Christ, and doesn’t mention him at all is not a good minister. “A good minister of Jesus Christ” (6) teaches all “these things”. (6)

That’s because you were “brought up in the truths of the faith and of the good teaching that you have followed.” (6) “The truths of the faith” and “the good teaching that you have followed” are the same things, but here Paul is saying this in this way in order to emphasize it. Words that do not come from faith, in other words, original words that are not written in the Bible and that Timothy had not heard up until now are a teaching of “deceiving spirits and things taught by demons.” (2) Such teaching must be gotten rid of. By keeping the words of the Bible which have not changed from the beginning, and the teaching that all the churches have kept traditionally, “the truths of the faith and of the good teaching that” (6) he has followed and by teaching them he will be “a good minister of Jesus Christ.” (6) Even if it seems old fashion or out dated Timothy must teach the “the truths of the faith” (6) and “the good teaching that (6) he has followed. By doing so our faith will mature. All other teaching is by “deceiving spirits and things taught by demons” (1) and will cause people to abandon the faith. Love will become cold and people will love only themselves and abandon God.  Therefore, we must teach these things. To teach is the word used for remember. We must repeat it over and over again, saying it repeatedly and we must remember it. Such a minister is “a good minister.” (6)

By looking at this we can see what the duty of the minister of the church is. It is to teach “these things”. (6) This is the most important duty of the minister of the church. In Japan there is a tendency to think that a good Pastor is one does everything: the secretarial things, the church member’s care, things concerning food and drink, and who does all details in the church. However, that is not what the Bible says a good minister is.

In Acts 6 there is a record of 7 people being chosen as deacons who were filled with the Holy Spirit and wisdom to deal with a problem that occurred in the first church. The Jews who spoke Greek “complained against the Hebraic Jews because their widows were being overlooked in the daily distribution of food.” (Acts 6:1) However if the 12 disciples took care of this problem it would mean neglecting the important things that they had to do. That was prayer and the Word of God.  In order to concentrate on the ministry of the word of God and prayer, they turned the responsibility of the problem over to 7 men. If they were to be worried about this problem then they wouldn’t be able to do their important ministry and so it would be a misfortune for the church.

“A good minister” (6) gives “attention to prayer and the ministry of the word” (Acts 6:4) and is a minister that teaches “these things.” (6) Let’s seek to always be taught by the Word and not “abandon the faith and follow deceiving spirits and things taught by demons” (1) b

I Timothy 3:14-16 “The mystery of godliness”

Today I would like to talk about “the mystery of godliness” (3:16) from the last part of chapter 3.  Those who are fit to be an overseer of the church or a deacon is written about in the first part of chapter 3.  That is because from chapter 2 on it teaches how Christians should be in the church.  The church first of all must pray for all people. That’s because God “wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.” (2:4) Also in the church men are “to lift up holy hands in prayer, without anger or disputing.” (2:8) “A woman should learn in quietness and full submission.” (2:8) That’s because “Adam was formed first, then Eve.” (13) That’s the order of creation.  The church is to follow this order and men are to be manly and women are to be lady like.

Today’s passage is a continuation of this.  It is teaching more concretely.  In other words, precisely, what is the church? “Beyond all question, the mystery of godliness is great.” (3:16) Today let’s look at three things about this “mystery of godliness.” (3:16)

 

  1. The church is the family of God (Vs. 14, 15)

First of all let’s look at verses 14 and 15.  “Although I hope to come to you soon, I am writing you these instructions so that if I am delayed, you will know how people ought to conduct themselves in God’s household, which is the church of the living God, the pillar and foundation of the truth.”

This is a letter written from the apostle Paul to the disciple Timothy. The purpose of writing the letter was so that if Paul was delayed Timothy would “know how people ought to conduct themselves in God’s household, which is the church.”  (14, 15)  Here Paul is saying something extremely important about the church. The church is “God’s household”. (14, 15)

The same Greek word “household” is also used in 3:4 and 5 where it is translated as “family”.  “If anyone does not know how to manage his own family, how can he take care of God’s church?” (3:5)

Therefore, “God’s household” (14) is the family of God. The church is God’s household, the family of God. It is the flock gathered together by God, a co-operative body. Ephesians 2:19 says, “Consequently, you are no longer foreigners and aliens, but fellow citizens with God’s people and members of God’s household.”  We were formerly separated from Christ “without hope and without God, But now in Christ Jesus you who once were far away have been brought near through the blood of Christ.” (Eph. 2:12, 13)

 

By believing in Jesus Christ and being in Christ we have become one. We are “follow citizens with God’s people and members of God’s household.” (Eph. 2:19) Therefore, the church is God’s family.

We hold the church as important because it is the family of God, “God’s household”. (14) The church is not the Pastor’s family. It’s God’s family.  Its structure is different from companies in this world.  If it is a company, then if the workers quit then other human resources are available and the workers can be replaced. However, families aren’t like that. There are no replacements for family members.  There is no one to replace you.

 

  1. The church is the pillar and foundation of the truth (Vs. 15)

That’s not all. Verse 15 says, “God’s household, which is the church of the living God, the pillar and foundation of the truth.”

Here the church is not just God’s household, but the household “of the living God, the pillar and foundation of the truth.” “The living God” (15) is in contrast to  a dead god or idol. The real God is living in contrast to the idol that is dead.

At this time Paul is writing to Timothy who is pastoring the Ephesian church.  Ephesus boasted of a pagan temple dedicated to the goddess Artemis. At present the temple is beyond recognition, but at that time it was one of the 7 wonders of the world. It was 115 meters long 55 meters wide, and18 meters tall. It was supported by 117 pillars and it was made entirely of marble. It started to be built in the 7th century B.C. and the grand temple was finally finished after 200 years of building. In the inner room the goddess Artemis was enshrined. It was made of wood, but except for the head, arms and legs which were decorated with precious stones.  The town of Ephesus made the temple that the great Artemis was enshrined at as the center of their lives.

However, not matter how magnificent a thing it was, it was nothing more than something just made from wood and stone. There was no life there and it couldn’t give man life either. It was only just an idol, and nothing more than a dead god. However, God of “God’s household, with is the church” (14) is different. God of the church is “the living God”. (15) He is alive now and working. He is different from the gods of the idols. He can give those who believe in God life. Therefore, the church is “the church of the living God.” (15)

That’s not all. Here it says, “the church of the living God, the pillar and foundation of the truth.” (15)  In order to understand what this means let’s think about the role of the pillars and foundation.  Of course, it is to support the entire building. However, that is not the only role. The pillars and foundation are a necessary support for the building, but at the same time, depending on the place, they are used as a part of

the interior design. At the Fukushima church at the entrance of the sanctuary there are 3 pillars. I couldn’t figure out what they were for.  When I asked, I was told that the architect put them there as part of the design.

Before I talked about the temple of Artemis. Paul probably used this expression because he was bearing in mind the pillars and foundations of the Artemis temple. In that case the pillars certainly had the role of supporting the entire temple, but more than that they were used as elaborate decorations. Also the foundation was the same. Marble was used entirely throughout the foundation. I think it is not difficult to imagine how magnificent it was.

Bearing this in mind, when you look at the church of this world in relationship with the world, it may look really poor.  However, the church is the climax of God’s truth. In other words, it is the place of testimony. It takes care of God’s truth so that it doesn’t crumble. By such a meaning the church is “the pillar and foundation of the truth.” (15) That is because “the living God” (15) is there working. This definitely doesn’t mean that the church is a perfect organization without one flaw.  Certainly the church that is seen by the eyes has many weaknesses and faults both systemically and capability wise.  However, even so, it is not to say that the church is not the church as Christ’s body, the universal church. Of course we are not a perfect being.  However, we who are in the midst of this imperfect vessel, have entered into God’s truth, the Gospel.  If you look at II Cor. 4:7, you will see this. “But we have this treasure in jars of clay to show that this all-surpassing power is from God and not from us.”

“This treasure” is Jesus Christ.  The Words of salvation is the Gospel. We put “this treasure in jars of clay.” (II Cor. 4:7)  “Jars of clay” (II Cor. 4:7) are very weak. If by mistake it is dropped, then it will be broken. That the treasure is not put in metal or steal boxes, but in weak us, like weak jars of clay makes it clear that it is by the power of God, not by our power. Therefore, the church is a great place! Even though it is such a small flock, even it is a poor building that is weak and poor and about to collapse, the treasure has been put there.

In this world there is no other place other than the church where in reality the correct truth of Christianity is seen, supported and taken care of. Therefore, in this Ephesian church too even though they had many problems on their hands, they had to be protected from heretical teaching and getting off the track of faith. That is also the same today in our church too. We must recognize the great commission that God has given the church that we belong to and firmly live out our church life. Even if it is a small flock, we must remember that it is a church established by God’s providence and together take care of the truth and testify to it.

 

  1. The mystery of godliness (Vs. 16)

Paul summarized the content of the truth as “the mystery of godliness”. (16) Please look at verse 16. “Beyond all question, the mystery of godliness is great!

He appeared in a body,

was vindicated by the Spirit,

was seen by angels,

was preached among the nations.

was believed on in the world,

was taken up in glory.””

“Mystery of godliness means the revealed secret of true piety. In other words, it is the secret that produces piety in people. That secret as the following words indicate is Jesus Christ. The content is “He appeared in a body,

was vindicated by the Spirit,

was seen by angels,

was preached among the nations.

was believed on in the world,

was taken up in glory.”  In other words, Christ’s incarnation is the source of genuine piety. These words are printed in poetic form and probably come from an early creedal hymn. Paul uses it here to explain what the truth is and quoted this hymn which was well known at that time. Its content is 6 facts about the entire life of Jesus Christ.

  1. Christ “appeared in a body.” (16)  This refers to Christ’s incarnation. Please look at John 1:1-3, 14 and 18. “In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.  He was with God in the beginning. Through him all things were made; without him nothing was made that has been made. The Word became flesh and made his dwelling among us.  We have seen his glory, the glory of the One and Only, who came from the Father, full of grace and truth. No one has ever seen God, but God the One and Only, who is at the Father’s side, has made him known.”

“The Word” (John 1:1) is Jesus. Jesus 2,000 years ago through the Holy Spirit by the virgin May was born. However, Jesus didn’t come into being then. Jesus “was with God in the beginning.” (John 1:1) He is the Son of God. He took on flesh and came from heaven.  He is the Savior Jesus Christ.  “No one has ever seen God” (John 1:18) but he made it clear what God is like. Christ is with God forever and is God and has made God known.

 

 

 

  1. Christ “was vindicated by the Spirit.” (16) This means that the Holy Spirit vindicated that Christ was without sin. When Jesus was baptized by John the Baptist, heaven was opened and God’s Spirit could be seen as a dove hovering above him. At that time a voice from heaven said, “This is my Son whom I am well pleased.” Matt. 3:17)

Also by Jesus rising from among the dead, he demonstrated that he was righteous.  “Who through the Spirit of holiness was declared with power to be the Son of God by his resurrection from the dead: Jesus Christ our Lord.” (Romans 1:4)

If Jesus remained dead, then he couldn’t have been the Savior. However, Jesus died and then rose again. By this he “was declared with power to be the Son of God.” (Romans 1:4)

 

  1.  Christ “was seen by angels.” (16)  In other words, Christ’s being wasn’t just seen by humans, but also by angels. For example, when Jesus was born, he was seen by the angels. When the shepherds were watching their sheep, the angels appeared and praised God.  “Glory to God in the highest,

And on earth peace to men on whom his favor rests “(Luke 2:14).

Also when Jesus was tempted by Satan in the wilderness, the angels came near Jesus and supported him. This happened too when Jesus prayed at Gethsemane and when he rose from the dead. His whole life was seen by the angels.

 

  1. Christ “was preached among the nations.” (16) The Gospel of God’s kingdom was  not accepted by the Jews so it was preached to the Gentiles who were far from God. By this it showed that Christ was the Savior of the whole world.

 

  1. Christ “was believed on in the world.” (16) Paul who is writing this letter is one of the people. He before persecuted Christians. However, the resurrected Christ appeared to him. Then he became an apostle to preach the Gospel throughout the word. This Gospel “was believed on in the world.” (16)

 

  1. Christ “was taken up in glory.”  (16) In this, of course, the cross and resurrection, the work of salvation, is included.  Christ’s cross is God’s glory.  Christ’s resurrection is also God’s glory.  Jesus accomplished the work of salvation, the cross and the resurrection, and “he was taken up in glory.” (16) Christ’s death was not the end.  He rose again and ascended into heaven. He went there to prepare a place for

 

us. He will come again and to get us Christians, the bride, the church. We are not the end either. In the course of time we will rise again in an unperishable, glorious body, and we will be taken up to heaven. There we will be with the Lord forever.

 

This is the “mystery of godliness”. (16) This is the contents of our faith that we believe in. This is the contents of the truth that the church should follow.  These contents are Jesus Christ. The Christian faith is Jesus Christ. Jesus Christ is the “mystery of godliness”. (16) This is our faith.

This is not hidden, but has already been made clear. The truth of who Jesus Christ is and how we are saved has already been made clear. The Bible shows this to us clearly. We must not wander from the teaching of the Bible. If we move away from this truth then there is no salvation. Anyone one who believes in Christ will be saved.  If you seek this truth, then come to Jesus Christ.  If so, you will be saved. If you seek the power of the blessings of faith, then come to Jesus.  If so, you will receive power. Let’s not forget that it is all by Jesus Christ whodied and rose again for us. This is above all that we can understand, but this is the truth. “Beyond all question, the mystery of godliness is great! (16) God made this mystery clear. Its center is Jesus Christ. “Let us fix our eyes on Jesus, the author and perfecter of our faith.” (Hebrews 12:2)

The church is the place where Christ’s truth is made clear. Also it takes care of the truth and supports it. We too have entered into this church. That it because God wants to do his work through the church.

“Church, which is his body, the fullness of him who fills everything in every way.” (Eph.1:23)

God gave us this church. That is so that we can do God’s work through the church.  God “wants all men to be saved and to come to a knowledge of the truth.” (2:4) People are saved through the church. Therefore the church is necessary. What is necessary is that the church, we, each individual, stand firmly on the truth. If we are separated from the truth, then there is no salvation. Through “the church of the living God, the pillar and foundation of the truth” (15) we must remain firmly in Jesus Christ. To do that we must make God’s mystery clear. If you look at each individual one of us we are all weak and frail, but let’s remember that God gave these clay pots the truth of Jesus Christ and keep this truth and become someone who testifies to it. Let’s perform our role as “the pillar and foundation of the truth.” (15)

  

民数記15章

きょうは民数記15章から学びたいと思います。まず1節から16節までをお読みします。

1.  穀物のささげ物と注ぎのささげ物(1-16)

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り、3 特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物をにささげるときは、4 そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパをにささげなければならない。5 また全焼のいけにえ、またはほかのいけにえに添えて、子羊一頭のための注ぎのささげ物としては四分の一ヒンのぶどう酒をささげなければならない。6 雄羊の場合には、穀物のささげ物として、油三分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の二エパをささげ、7 さらに、注ぎのささげ物としてぶどう酒三分の一ヒンをへのなだめのかおりとして、ささげなければならない。8 また、あなたがた特別な誓願を果たすため、あるいは、和解のいけにえとして、若い牛を全焼のいけにえ、または、ほかのいけにえとしてにささげるときは、9 その若い牛に添えて、油二分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の三エパの穀物のささげ物をささげ、10 また注ぎのささげ物としてぶどう酒二分の一ヒンをささげなければならない。これはへのなだめのかおりの、火によるささげ物である。11 牛一頭、あるいは雄羊一頭、あるいはどんな羊、やぎについても、このようにしなければならない。12 あなたがたがささげる数に応じ、その数にしたがって一頭ごとにこのようにしなければならない。13 すべてこの国に生まれた者が、へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげるには、このようにこれらのことを行わなければならない。14 また、あなたがたのところにいる在留異国人、あるいはあなたがたのうちに代々住んでいる者が、へのなだめのかおりの、火によるささげ物をささげる場合には、あなたがたがするようにその者もしなければならない。15 一つの集会として、定めはあなたがたにも、在留異国人にも、同一であり、代々にわたる永遠の定めである。の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。16 あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一のおしえ、同一のさばきでなければならない。」

13章と14章には、イスラエルの民がカデシュ・バルネアまで来ていたこときに、不信仰になって、神の約束のことばに背いたため、荒野を40年間さまようことになってしまったということが記されてありました。そして、この15章に入ると、様々なささげ物の規定が記されています。イスラエルの不信仰とこのささげ物の規定がいったいどんな関係があるのでしょうか。1節には、「わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、」とあります。これは、悲しい痛ましい荒野での長い刑罰の時を終え、赦されてカナンの地に入ることのできる新しい世代の者たちを対象に語られていることがわかります。彼らがカナンの地に入ってから守るように命じられているのは、いけにえをささげるにあたっての新しい規定ではなく、すでに命じられている規定に対する補足的なもので、これによって以前の規定は完全になるのです。つまり、この穀物のささげものは、彼らが約束の地に入ってから得られる収穫のことで、それはいのちの象徴であったのです。確かに彼らは不信仰によって40年もの間荒野でさまよわなければなりませんでしたが、やがて新しい世代がその地に入るとき、そこで豊かないのちを受け継ぐようになるという希望が語られたのです。

このように主はイスラエルの失敗のその後で、イスラエルの失敗にもかかわらず、彼らに希望のメッセージを語ることをお忘れになりませんでした。たとえ彼らが不信仰に陥って失敗しても、神様はご自身の約束を忠実に果たされる方であり、失望のどん底にあっても、その変わらない希望を垣間見させてくださるのです。荒野で死なせることを告げられた後で、約束の地における収穫物のささげものについて語られた主は、そのような配慮をもっておられる方なのです。

3節からの規定をようやくすれば、特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげものとして、あるいは例祭の時のささげものであれ、人が羊が牛の群れから、主へのなだめのかおりとして、いけにえを「火によるささげ物」としてささげる時には、それらと共に、穀物と注ぎのささげ物をささげなければならないということです。

いけにえ 穀物のささげ物 注ぎのささげ物  
小羊1頭ごとに 油1/4ヒンを混ぜた小麦粉1/10エパ ぶどう酒1/4ヒン  
雄羊1頭ごとに 油1/3ヒンを混ぜた小麦粉2/10エパ ぶどう酒1/3ヒン  
若い牛1頭ごとに 油1/2ヒンを混ぜた小麦粉3/10エパ ぶどう酒1/2ヒン  

1ヒンは3.8リットル、1エパは2.3リットル。ささげ物の種類によらず、いけにえの動物の種類により、1頭ごとに以上の規定によってささげられた。

14節からのところには、それはイスラエル人に対してだけでなく在留異国人も、あるいは、彼らのうちに代々住んでいる者たちも同じようにしなければならないということが規定されています。それはイスラエルの民と同一の定めになっているのです。どういうことでしょうか?それは創世記12章3節で神がアブラハムに語られた約束の成就と考えることができます。神はアブラハムに、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と仰せになられましたが、イスラエルに与えられる祝福を異邦人にも押し流そうとされたのです。もちろん、その約束はイエス・キリストによって実現するものです。イエス・キリストによって文字通り隔ての壁が取り除かれ、キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つとされ、同じ祝福にあずかるようにされるのですが、その中にあって、こうしてすでに神のイスラエルに対する祝福が、異邦人にももたらされていることを見ることができるのです。

2.  初物の麦粉で作った輪型のパンのささげ物(17-21)

次に17節から21節までを見てください。ここには、「主はまたモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたがはいり、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供え、打ち場からの奉納物として供えなければならない。初物の麦粉のうちから、あなたがたは代々にわたり、主に奉納物を供えなければならない。」とあります。

ここでも、彼らが約束の地に入り、その地のパンを食べる時どうしなければならないかということが教えています。約束の土地で得た収穫物は動物のいけにえとして添えるだけではなく、その初物を供えなければなりませんでした。初物の麦粉で作った輪型のパンを奉納物として供えなければならなかったのです。

ヨシュア記5章10~12節を見ると、イスラエルはヨルダン川を渡ってギルガルに宿営したとき、彼らはすべて割礼を受け、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過ぎ越しのいけにえをささげ、その翌日、その地の産物と炒り麦を食べたて言われていますが、おそらくこの時に、初物の麦粉で作られた物が、主にささげられたのであろうと思われます。その翌日からマナが降るのが止みました。しかも、このように初物の麦粉のうちからささげられるのは、約束の地に入った時だけでなく、代々にわたってのことです(15:21)。それは、あなたの家に祝福が宿るためであります。

主はいつも「初めのもの」を私たちに求められます。初めに生まれてきた男子、つまり初子は主のものであります。残りものではなく、自分にとって最も大切なものをささげるのです。そのことによって、私たちのすべては主のものであり、主の恵みによって生かされていることを信仰によって認めたのです。ですから、初物をささげるということは、とても重要なことだったのです。私たちも約束の地に入ったならば、すなわち、霊的な恵みと祝福を経験したならば、初物を主にささげなければなりません。それは、私たちの家に祝福が宿る霊的な原則なのです。

3.あやまって罪を犯した場合(22-36)

次に22節から36節までを見ていきましょう。

「22 あなたがたが、もしあやまって罪を犯し、がモーセに告げられたこれらの命令のどれでも
23 が命じられた日以来、代々にわたってがモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行われないときは、24 もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。25 祭司がイスラエル人の全会衆の贖いをするなら、彼らは赦される。それが過失であって、彼らは自分たちの過失のために、ささげ物、への火によるささげ物、罪のためのいけにえをの前に持って来たからである。26 イスラエル人の全会衆も、あなたがたのうちの在留異国人も赦される。それは民全体の過失だからである。27 もし個人があやまって罪を犯したなら、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげなければならない。28 祭司はあやまって罪を犯した者のために、の前で贖いをしなければならない。彼はあやまって罪を犯したのであるから、彼の贖いをすれば、その者は赦される。29 イスラエル人のうちの、この国に生まれた者にも、あなたがたのうちにいる在留異国人にもあやまって罪を犯す者には、あなたがたと同一のおしえがなければならない。30 国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。31 のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」32 イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男を見つけた。33 たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来た。34 しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておいた。35 すると、はモーセに言われた。「この者は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺さなければならない。」36 そこで、がモーセに命じられたように、全会衆はその者を宿営の外に連れ出し、彼を石で打ち殺した。」

ここには、もし彼らがあやまって罪を犯した場合、どうしたらいいかが教えられています。これは、レビ記14:13-21に取り扱われていることですが、違うのは、レビ記の方では、「主がするなと命じられたことの一つでも行って」罪を犯した時のことであるが、ここでは逆に、「代々に渡って主がモーセを通してあなたがたに命じられたことの一つでも行わないときは」(23)とあるように、不履行の罪になっていることです。その場合、前者の場合は、若い雄牛を1頭罪のためのいけにえとしてささげましたが、後者の場合は、若い雄牛1頭を全焼のいけにえとして、また定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、そしてさらに雄山羊1頭を罪のためのいけにえとしてささげなければなりませんでした。

このように祭司がイスラエル人の全会衆のための贖いをする時には、過失の場合のいけにえに従っていけにえをささげたので、イスラエルの全会衆も、在留異国人も赦されました。

ここでは「過失のため」とか、「過失だから」と、過失であることが強調されています。過失とは何でしょうか。過失とは、不注意によって、うっかりと、あやまって犯した罪のことです。それに対することはわざとです。ここではあやまってしたのだから、このようにして全焼のいけにえをささげるなら赦されたのです。

また、個人があやまって罪を犯した場合も、一歳の雌やぎ一頭を罪のためのいけにえとしてささげ、祭司が贖いをすれば、その者は赦されました。ところで、会衆全体が罪を犯した場合は、若い雄牛をささげなければなりませんでしたが、個人の場合は雌やぎとなっています。それは、会衆全体の場合の方が、責任が重かったからでしょう。

しかし、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければなりませんでした。「故意に」と訳されていることばは「高く上げた手」という意味で、「主に向って手を振り上げて」とか、「公然と主に逆らって」という意味で用いられています。それは、主を冒涜する者であり、主のことばをあなどり、その命令をわざと破ることです。そのような者は民の間から断ち切られなければなりません。

これは、私たちクリスチャンにとっても非常に厳粛な意味を持っています。クリスチャンはキリストの死によって贖われているとはいえ、故意にみことばに背くことがあるとすれば、それがどんなに大きな罪であるかを、よく考えなければなりません。主イエスは、「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28-29)と言われましたが、それは聖霊をけがすことなのです。

ヘブル書10章26節には、「ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。」とあるとおりです。そのような人は、主の前に罪のためのいけにえを持ってくることさえも拒みます。つまり、イスラエル人の場合は、雄牛や雌やぎをたずさえてくることを拒むことですが、クリスチャンの場合は、キリストの十字架のところに行かないことです。罪の赦しを請わなければいけない、と考えることもなく、十字架による救いの道が示されているのに、それを拒むのであれば、神のさばきがその人のうちにとどまるのは当然のことなのです。それが故意に罪を犯す、という意味です。

その具体的な例が出てきます。32節から36節のところです。イスラエル人が荒野にいたとき、安息日に、たきぎを集めている男がいました。たきぎを集めているのを見つけた者たちは、その者をモーセとアロンおよび全会衆のところに連れて来ました。しかし彼をどうすべきか、はっきりと示されていなかったので、その者を監禁しておきましたが、すると、主はモーセに、その者は必ず殺されなければならない、と言われたので、全会衆は宿営の外で、彼を石で打ち殺したのです。

薪を集めることはささいなことであり、それ自体は決して悪いことではありませんが、それが、神が定めた安息日に行ったということが問題になっているのです。彼はそれを知らずにではなく、意図的に、故意に、知りながら行いました。そのように故意に罪を犯す者は当然いけにえを携えてくることなど考えておらず、罪の赦しを請おうともしません。そこには神の赦しは残されていないのです。私たちには悔い改めることが求められるのです。

4.着物のすそのふさ(37-41)

最後に37節から41節までを見て終わりたいと思います。

「37 はモーセに告げて仰せられた。38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。41 わたしはあなたがたの神、であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしはあなたがたの神、である。」」

ここで主はイスラエル人に、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言いました。いったい何のためでしょうか。それは彼らがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うためであり、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするためです。こうして彼らが、神のすべての命令を思い起こして、これを行い、神の聖なる者となるためです。

マタイ23:5を見ると、パリサイ人がこの着物のふさを長くして、他人の目を非行としたことが記されてあるが、彼らはこのふさの長さによって、自分たちがいかに律法をよく守っているのかを誇示しようとしたかったのです。

しかし、それは自分たちのわざを誇るためではありません。むしろ逆で、日常生活において、彼らがいつもそれを見て、積極的にも、消極的にも、自らを戒め、励まして、主の命令を守り行うためでした。それがないのにただ形だけ長くしても意味がありません。それは、彼らが神の命令を思い起こして、これを行い、彼らが神の聖なるものとなるためだったのです。つまり、神との交わりの中で、心から神を喜ぶ者となるためです。それこそが、神がイスラエルをエジプトから救い出された目的なのです。私たちもいつも主の愛の中にとどまり、罪から救い出してくださった方のみこころに歩み、心から神を喜びながら歩む物とさせていただきたいと願います。

民数記14章

きょうは民数記14章から学びます。

1.  信仰と不信仰の狭間で(1-12)

まず1節から12節までをお読みします。

「1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。3 なぜは、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。8 もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。9 ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。11 はモーセに仰せられた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

イスラエルの全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしました。なぜでしょうか。10人の偵察隊の報告を聞いたからです。彼らはそこに大きくて、強い敵がいることを知り、上っていくことはできないと判断したのです。彼らは彼らとともにおられる主の臨在を見ることができませんでした。そこでもう絶望してしまったのです。こんなことならエジプトを出てくるんじゃなかった。このまま進んで行っても結局殺されてしまい、妻子たちもさらわれてしまうなら、どうしようもない。エジプトに帰った方がいいに決まっている。しかし、エジプトではどれほど過酷な奴隷生活を虐げられていたかを知っていたはずです。主はそこから彼らを救い出し、約束の地に導くと約束されたのに、再びエジプトに戻ろうというのです。

これが神を忘れ、自分で何とかしようともがく人間の姿です。私たちが信仰を持った以上、必ず、自分自身では何もできないという道を歩まされるのです。行けども、行けども、自分の前には岩があり、自分を食い尽くす敵は必ずいるのです。そこで、自分とその問題を比べながら生きていこうとしている人は、必ず行き詰ってしまいます。引き下がれば、初めに出てきたときよりも悲惨になることは知っています。そのことも分かっているので、大抵は、今いる場所であたふたとしていることが多いのです。中にはクリスチャンになってからの方が、むしろ、生活が苦しくなったという人の話を聞くことがあります。それは、クリスチャンになったのに、まだクリスチャンではない法則で生きようとしているからなのです。そういう人はいつも「この世」というエジプトに戻りたがるので、問題が起こるたびに、このように泣き叫ぶのです。

それに対してモーセはどのように対処したでしょうか。「モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。」(5)どういうことでしょうか。こうやってイスラエル人をエジプトから連れ出したことを謝っているのでしょうか。そうではありません。彼らはただ主にひれ伏し、主が御業を行ってくださるようにと祈っているのです。

なかなかできることではありません。イスラエル人のモーセに対するリーダーシップを完全に無視したような発言にも、モーセとアロンは怒らず、地にひれ伏したのです。主に祈り叫んだのです。これが、主の奉仕者の姿です。

そのとき、その地を探って来た者たちのうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、イスラエル人の全会衆に向かって次のように言いました。

「7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。8 もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。9 ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

彼らはどこまでも信仰に立っていました。たとえイスラエルのすべてが右に流れようとも、自分たちは主のみこころに従うという覚悟、信仰があったのです。ここで彼らは、あの強い民のことを、自分たちのえじきになる、とまで言っているのです。いったいなぜ彼らはこのように言うことができたのでしょうか。それは彼らが信仰に立っていたからです。彼らは、自分たちには全能の主がともにおられ、主がその地を与えると約束してくださったので必ずできるという信仰がありました。だからこのように確信を持って言うことができたのです。このように、信仰に立ったときに見えてくる世界と、そして不信仰になったときに見えなくなる世界があるのです。

そのとき、イスラエルの全会衆が、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われました。そして、こう仰せになられました。11節、12節です。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

いつまでも主に従おうとしないイスラエルに対して、主は疫病で彼らを打ち、滅ぼしてしまうと言われたのです。そして、モーセを彼らよりも大いなる国民にすると言われたのです。どういうことでしょうか。主は、やり直しのご計画として、モーセ個人からご自分の民をつくりだそうと提案されたのです。アブラハムに約束された「大いなる国民」のご計画を、今度はモーセをとおして再開されるというのです。しかし、モーセはこの提案を拒みました。

2.モーセのとりなし(13-25)

それに対してモーセは何と言ったでしょうか。13節から19節までをご覧ください。

「13 モーセはに申し上げた。「エジプトは、あなたが御力によって、彼らのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、14 この地の住民に告げましょう。事実、彼らは、あなた、がこの民のうちにおられ、あなた、がまのあたりに現れて、あなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前を歩んでおられるのを聞いているのです。15 そこでもし、あなたがこの民をひとり残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は次のように言うでしょう。16 『はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、彼らを荒野で殺したのだ。』17 どうか今、わが主の大きな力を現してください。あなたは次のように約束されました。18 『は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。』と。19 あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

モーセはここで、イスラエルの咎を赦してくださいと懇願しました。その一つの理由は、主ご自身の栄誉のためです。もし主がご自身の導かれた民を滅ぼすようなことがあったら、異邦の民は、「主はこの民を彼らが誓った地に導き入れることができなかったので、途中で彼らを荒野で殺したというようになり、主の御名が汚されることになるからです。

もう一つのことは、「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」であるということです。これは、主の約束のことばです。モーセはその約束のゆえに、そのことばを引用して祈っているのです。主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」方なので、どうか、その大いなる恵みによって赦してくださいと祈ったのです。

Ⅰヨハネ5章14節に、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあるように、主のみことばと約束を引用することによって、主のみこころに適った祈りをすることができるということが、ここからわかります。

Ⅲ.神の答え(20-25)

それに対して主は、どのように答えられたでしょうか。20節から25節までをご覧ください。

「20 は仰せられた。「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。21 しかしながら、わたしが生きており、の栄光が全地に満ちている以上、22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。24 ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。25 低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」」

モーセの祈りを聞かれた主は、イスラエルを赦されました。けれども、その後でこうも言われました。「しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。」
どういうことでしょうか。これでは赦していないということと同じことではないでしょうか。そうではありません。主は彼らの罪を赦されるのですが、それは彼らが自分たちの蒔いたものを何ら刈り取らないということではないということです。多くのクリスチャンは、罪が赦されるということを、罪の結果を負わないことであるかのように考えていますが、そうではありません。罪が赦されるということは、罪に対する咎めをまったく受けない、ということです。罪は赦され、きよめられ、忘れ去られ、遠くに追いやられ、海の深みに投げ込まれます。ですから、もはや罪の責めを負わなくてもよいのです。けれども、自分が行なったことに対しての結果は受けなければなりません。刈り取りはしなければならないのです。

たとえば、ダビデは、バテシェバとの姦淫によって夫のウリヤを殺してしまいましたが、それを主に告白したとき、主はその罪を赦してくださいました。けれども、その罪の結果は刈り取らなければなりませんでした。初めに生まれる子どもは死に、自分の息子たちの間には悲劇が重なりました。ダビデは、それを主によるものと認めましたが、決して自分がさばかれていると思いませんでした。むしろ、主のねたむほどの愛を、これらの出来事を見て、ますます知っていったことでしょう。彼の主への信仰と愛はますます精錬されました。そして、主はダビデのことを、「わたしの愛する者」と呼ばれました。同じように、この時のイスラエルも主に対する不信仰の罪は赦されましたが、その罪に対する報いは受けなければなりませんでした。
ただし、カレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れ、彼の子孫はその地を所有するようになる、と言われました。これが信仰による報いです。信じる者は、たとえ神の裁きがあろうとも滅びることなく、命を持つことができます。裁きから免れる道は、神とキリストを信じることなのです。

ところで、ここでおもしろいと思うことは、主はカレブが、「他の者と違った心」を持っていると言われたことです。主がカレブを喜こばれたのは、彼の行ないよりも、その心だったのです。なぜなら、その心が行動になって表われてくるからです。一時的に主に従っているかのような信仰ではなく、ずっと従い通す信仰、それは、そうした心から生まれてくるものなのです。主は私たちの一つ一つの行動よりも、主に対してどのような心をもって歩んでいるかを問うておられるのです。そして、次のように言われました。

「低地にはアマレク人とカナン人が住んでいるので、あなたがたは、あす、向きを変えて葦の海の道を通り、荒野へ出発せよ。」(25)

「葦の海」とは紅海のことです。それは彼らがいるカデシュ・バルネアからかなり後方にあります。しかし、ここでは葦の海まで行くようにと言っているのではなく、葦の海の道を通りとあるので、実際に葦の海まで後退したのではなく、その道まで後退したということです。なぜなら、低地にはアマレク人とカナン人が住んでいたからです。だから、カデシュ・バルネアから迂回させて、紅海の北端にあるところを通らせ、死海の東側、今のヨルダンのほうから回って北上するようにさせたのです。

Ⅳ.荒野での死(26-38)

最後に26節から終わりまでを見て終わりたいと思います。まず26節から38節までをお読みします。

「26 はモーセとアロンに告げて仰せられた。27 「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいているのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いている。28 あなたは彼らに言え。これはの御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。35 であるわたしが言う。一つになってわたしに逆らったこの悪い会衆のすべてに対して、わたしは必ず次のことを行う。この荒野で彼らはひとり残らず死ななければならない。36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」
37 こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、の前に、その疫病で死んだ。38 しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。」

イスラエル人は、会見の天幕における主の栄光を見ても、ずっと、つぶやいていたようです。そこで主は次のように言われました。「これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。」(28)

イスラエル人は、「この荒野で死んだほうがましだ。」と言いました。また、「妻子がさらわれてしまう。」とも言いました。だから、彼らが言ったとおりのことをしよう、と言うのです。ここには、「わたしは生きている」とあります。主は生きておられます。ですから、主をないがしろにすることはできません。主の前で発したことは、必ずその実を刈り取ることになるのです。たとえそれが自分の不満から生じたことであっても、主の前で発したのであれば主は聞いておられるので、その実を刈り取ることになるので、注意しなければなりません。主は生きておられるのです。彼らは、この荒野で死体となって倒れ、主につぶやいた者で、二十歳以上の者たちはみな倒れて死ぬ、と仰せになられました。それ以下の子供たちが新しい世代として約束の地に入ることになります。けれども、信じ続けたヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ることができます。

コリント人への手紙第一2章と3章には、人間には三つの種類の人がいることを教えています。一つは、「生まれながらの人間」です。この種類の人たちは御霊による新生を体験していません。それは、エジプト(この世に属している)にいる人だと言い換えることができます。そしてもう一つは「御霊の人」です。御霊に導かれて生きている人です。神の約束の地に入った人たちと言うこともできるでしょう。それは、戦いがなくなる、ということではありません。約束の地に入っても敵との戦いがあります。けれども、主が戦ってくださることを知っているので、いつも主により頼んで、主によって勝利することができます。そして、もう一つの種類は、「肉に属する人」です。「キリストにある幼子」です。御霊によって新生はしたけれども、御霊によって生きることを知らない人です。肉の欲求が自分の行動に先行してしまうのです。ですから、罪に敗北します。平和よりも争いを好みます。ねたみによって人を裁きます。この時のイスラエルのようにこの世という荒野で少しでも嫌なことや苦しいことがあるとすぐに泣き叫び、神のみこころを痛めるだけでなく、そうでない人たちをも不信仰へといざないます。

しかし、こうした荒野での試みは、私たちの肉がそがれ、御霊の人へと導かれていくための訓練の時でもあるのです。私たちは御霊によって神の約束と祝福を得ることができますが、そのためには荒野の道を通らなければなりません。なぜなら、荒野の旅は、その約束に至るために肉の部分が削がれて、信仰によって生きていくことを学ぶことができるからです。私たちは、御霊に導かれることを知るために、しばしの間、肉の中でもがく時を神は許されるのです。自分自身で罪の問題を解決しようとします。けれども、できないために敗北を味わいますが、その間に、「自分」というものに死んでいなければいけないことに気がつきます。自分には何も良いものがなく、かえってキリストの愛に自分が満たされて、自分ではなくキリストが自分を通して働いてくださることを願います。信仰によって神の約束をそのまま信じて、主に働いていただく御霊の領域に入ることができるのです。

31節からのところをご覧ください。イスラエルが不信仰になったそのつけは、荒野でさまよい続け、最後は死に絶えるというものでした。そして、これが私たちクリスチャンの霊的現実でもあります。つまり、私たちがいつまでも自分にたより、信仰によって生きないのであれば、自分の肉が死ぬまで、いつまでも、同じところを巡回するような生き方をしなければいけなくなるのです。

神は、私たちにキリストのいのちを与えられました。私たちは罪を赦されただけではなく、罪に対して死んで、キリストに対して生きている者とされました。このいのちに生きるのに必要なのは信仰です。たとえ、自分の問題が、アナク人のように巨大に見えても、それをキリストにあって死んだものだとみなし、信仰によって前に踏み出ることが必要なのです。「この分野に入ると、私の肉が出てくるので、前に進むのはよそう。」と言って、主が示されているところに出て行くのを拒むのであれば、その時点で、自分はさまよう民となってしまうのです。前進もできず、後戻りもできないです。しかし、私たちのこの世における歩みは、自分の肉の領域、神にゆだねていない領域を聖霊によって示され、それを死んだものとみなし、御霊によって進むことです。カデシュ・バルネアまで来たら、やはり前に進むしかなかのです。

「モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。 あの悪く言いふらした10人のイスラエル人は、40年を待たずしてすぐに死にました。

「39 モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。40 翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかくが言われた所へ上って行ってみよう。」41 するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。42 上って行ってはならない。はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。43 そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたがにそむいて従わなかったのだから、はあなたがたとともにはおられない。」44 それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。」

どういうことでしょうか。彼らは「じゃ、山に上ればいいのか」と山に登って行こうとしました。しかし、問題は、彼らが山に登って行くかどうかということではありません。主に聞き従うかどうかということです。たとえ山に登ったとしても、それが主からの命令によるものでなければ、まったく意味がありません。大切なのは、主は何と言っておられるのかを聞き、それに従うことです。
ヘブル人への手紙には、「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかなくなにしてはならない。(4:15)」とあります。信仰というのは、御声に聞き従うことであります。御声を聞くそのときでなければ、私たちは後で従おうとしても、力が出てきません。なぜなら、それは信仰によるものではないからです。信仰とは、神の御声を従順な心で聞くことに他なりません。そのときに、自分ではなく神の力が自分のうちに働き、それで神のみわざが自分のうちに成されるのです。イエスさまによっていやされた人たちが、どのようにいやされたかを思い出してください。イエスさまが、「起き上がりなさい。」と言われたそのときに起き上がりました。「右手を伸ばしなさい。」といわれたそのときに、伸ばしました。みな、信仰をもって聞いたからです。

するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」

信仰のないところには、主がともにおられないので成功しないのです。それは敵に打ち負かされるだけのことです。

それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動きませんでした。契約の箱は、主の臨在です。動かなかったということは、主がともに出て行かれなかったということです。山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

こうして私たちは、生き残ったカレブとヨシュアの信仰と、荒野で死に絶えたイスラエル人の不信仰を見てきました。両者の違いはいったい何だったのでしょうか。それは、信仰によって見ていたかどうかということです。主にあって見ていたか、それとも自分の視点で見ていたかの違いでした。自分から出発して、「自分はこれだけのことができる。これだけのことができない。」と計算して、行動することは、人間の世界では通用しますが、霊の世界では通用しないことが分かります。ですから、主のみこころは何か、何が良いことで、完全であるのかをわきまえ知るために、自分自身を神にささげ、ただ神が仰せになられたことを信仰によって行っていく、そんな信仰者とならせていただきましょう。

Ⅰテモテ3章14~16節「敬虔の奥義」

きょうは3章後半の箇所から、「敬虔の奥義」というタイトルでお話したいと思います。2章3章には、私たちはクリスチャンとしてどうあるべきなのかが語られてきました。まず、すべての人のために祈らなければなりません。なぜなら、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを願っておられるからです。また、男は怒ったり、言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈らなければなりません。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなければなりません。なぜなら、アダムが最初に造られ、次にエバが造られたからです。それが創造の秩序なのです。では監督はどうですか、執事はどうでしょう。どのような人が監督として、執事としてふさわしいのでしょうか。その資格について述べられてきました。 きょうのところはその続きですが、続きというよりも、そもそもと教会とは何なんですかという本質的なことが語られます。それが「敬虔の奥義」です。きょうはこの敬虔の奥義について三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.教会は神の家(14-15a)

まず14節と15節の前半をご覧ください。

「14 私は、近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。15 それは、たとい私がおそくなった場合でも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」

この手紙は使徒パウロから弟子のテモテに宛てて書かれた手紙ですが、いったいなぜパウロは手紙を書き送ったのでしょうか。遅ればせながらここにその理由が述べられています。それは、パウロがテモテのもとに行くのが遅くなっても、テモテが教会でどのように行動すべきなのかを知らせるためです。使徒として、先輩として、そして同労者として、若い牧会者テモテが苦闘しているのを見て放っておけなかったのでしょう。ここにパウロの弟子に対する温かさや思いやりを見ることができます。

ところで、パウロはここで教会についてきわめて重大なことを言っています。それは、教会は神の家であるということです。皆さん、教会は神の家です。教会が神の家であるとはどういうことでしょうか?

この「神の家」の「家」という言葉は「オイコス」というギリシャ語ですが、これは3章4節と5節にも出てきます。そこでは「家庭」と訳されています。皆さん、家庭というとどういうイメージがありますか?どちらかというと家族が住む場所とか空間といったイメージがあるかと思いますが、3章4,5節で使われている「家庭」という言葉は、どちらかというと家族に近い言葉です。それを構成しているメンバーたちのことです。英語の聖書では「Household」と訳されています。Householdとは、雇人も含めて一軒の家に住んでいる家族のことです。ですから、どちらかというと建物としての家よりも、それも含めたそこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。ここでは自分の家と神の家が比較されているのです。自分自身の家庭をよく治めることを知らない人が、どうして神の家である教会の世話をすることができるでしょうか、と言われているのです。この場合の家とか、家庭は、そこに住んでいる人たち、家族のことを指しているのです。

ですから、神の家とは神の家族のことです。教会は神の家、神の家族なんです。神によって集められた者たちの群れ、共同体であります。エペソ2章19節にはこうあります。

「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」

私たちは、かつてはキリストから離れ、この世にあって望みもなく、神もない人たちでしたが、そのように遠く離れていた私たちも、イエス・キリストの血によって、イエス・キリストを信じて、キリストの中にあることによって一つにされました。同じ国民とされたのです。神の国民、神の家族です。ですから、教会は、その神の家族なのです。

皆さん、なぜ私たちは教会を大切にするのでしょうか。それは、教会は神の家、神の家族だからです。教会は牧師の家でもなければ、この世の会社とも違います。もし会社であれば社員が辞めても代わりの人材を見つけて補充すれば済むかもしれませんが、家族はそういうわけにはいきません。家族の代わりになる人はいないのです。あなたの代わりになる人はいないのです。家族とは私たちのいのちそのもの、生活そのものです。家族がいなければ、私たちの生活は成り立ちません。家族はそれほど重要なものなのです。そして、教会はその神の家族なのです。

Ⅱ.教会は真理の柱また土台(15b)

そればかりではありません。15節の後半の部分を見てください。ここには、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。

ここには、教会はただ神の家族というだけでなく、生ける神の家族であり、真理の柱また土台です、とあります。どういうことでしょうか。「生ける神」というのは「死んだ神」「死んだ偶像」に対して使われる言葉です。まことの神が生きているのに対して、偶像は死んだものです。

この時パウロはエペソで牧会していたテモテにこの手紙を書き送りました。エペソには何がありましたか。エペソには偉大なアルテミスの神殿がありました。この神殿は現在では原形をとどめていませんが、当時は世界の七不思議にかぞえられていて、長さが115メートル、幅55メートル、高さは18メートルもあり、それが117本の柱で支えられており、総大理石で作られていたといました。それは紀元前7世紀に建てはじめて200年かけてやっと完成したほど立派な神殿です。そして奥には高さ15メートルのアルテミスの女神が祭られていたのです。それは木でできていましたが、顔と手足の先以外は黄金と宝石で飾られていました。エペソの町は、この偉大なアルテミスが祭られた神殿を中心に生活が営まれていたのです。

しかし、それがどんなに壮大なものであっても、ただの木や石でできたものにすぎません。そこにいのちがあるわけでもなく、また人にいのちを与えることができるわけでもないのです。それはただの偶像であり、死んだ神にすぎません。しかし、神の家である教会におられる方は違います。教会におられる方は生ける神であり、今も生きて働いておられる方です。この方は偶像の神々と違って、神を信じる者にいのちを与えることができる方です。ですから教会は「生ける神の教会」と言われているのです。

そればかりではありません。ここには、「その教会は、真理の柱また土台です。」とあります。どういうことでしょうか。教会とは神に召し出された物たちの群れであり、集まりですが、そこに集っている人たちを見ると、必ずしも優れている人たちというわけではありません。ただ罪赦された罪人、聖なる罪人であるにすぎません。そのような者が真理の柱とか、土台であるなんてとても言えるようなものではありません。ですから、多くの人たちはこれを、教会がイエス・キリストという真理の柱によって支えられ、イエス・キリストという真理の土台の上に建てられていると解釈するのですが、そうではないのです。教会が真理の柱、また土台だと言うのです。それはこの新改訳聖書だけなく口語訳聖書も、新共同訳聖書も、その他英語のすべての訳も同じように訳しているのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

このことを理解するために、柱とか土台の役割について考えてみたいと思うのです。いったい柱は何のためにあり、土台は何のためにいるのでしょうか。もちろん、支えるためです。建物全体を支えるためにしっかりし土台と柱で支えるわけです。しかし、それだけではないのです。柱とか土台というのは建物の重要な「支え」であると同時に、場所によっては一種の飾りとしての効果もあるのです。日本式の家屋では「床柱」といって、床の間を黒檀やヒノキといった特別な木材が使われるのはそのためです。私が福島で会堂建設に携わったとき、礼拝堂の入り口を出たとても目立つところに3本の柱が立っているのですが、いったい何ために立っているのかわからなかったので、あるとき設計士に聞いたことがあります。「この柱は何のためにあるんですか」するとその設計士が言いました。「デザインです」かつて小さな会堂で礼拝をしていたとき真ん中に1本の柱が立っていて邪魔だったのですがどうしてもそれを取ることができず、柱に対してはあまりいい思いがありませんでした。できればスパッと取り払いたい気分なのですが、デザインというとても重要な働きがあることがわかったのです。

先ほど、エペソにあったアルテミスの神殿についてお話しましたが、パウロがこのように表現しているのは、おそらくこのアルテミス神殿の柱と土台を念頭に置いていたのではないかと考えられます。その場合の柱とは、確かに神殿全体を支えるという役割もありましたが、それ以上に豪華な装飾の方にウェイトが置かれていました。また、土台についても同様です。それは総大理石が使われていましたが、それがどれほど豪華であったかを想像するのは難しいことではないと思います。

このようなことを念頭において、この世界との関係においてこの地上の教会を見る時、それはまことにみすぼらしいかのように見えるかもしれませんが、教会は神の真理の見せ場、つまりあかしの場でもあるのです。そして、その神の真理が崩されないように守っているところでもあります。そういう意味で教会は真理の柱であり土台なのです。そこには生ける神が働いておられるところだからです。これは決して教会が間違いのない完全な組織であるということではありません。確かに目に見える教会は、組織的にも能力的にもいろいろに弱さがあり欠陥があります。しかし、だからといってその教会が「真の普遍的な教会、キリストのからだとしての教会であることが否定されるわけではないし、真理そのものが否定されるわけでもないのです。確かに私たちは不完全な存在ですが、しかし私たちは、この不完全な器の中に神の真理である福音を入れているのです。このことはⅡコリント4章7節をみるとわかります。

「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

「この宝」とはイエス・キリストのことであり、その救いのみことば、福音のことです。私たちはこの宝を土の器の中ら入れているのです。皆さん、土の器をご存じでしょう。もし誤って落としてしまったらすぐに割れてしまうほど弱いものです。神は鉄の器、金の器のような強くて完全な器ではなく土の器のような弱い私たちにこの宝を入れてくださったのは、それはこの測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためなのです。だから、教会ってすごい所なんですよね。それがどんなに小さな群れであっても、今にも倒れそうな貧弱な建物であっても、その中にこの宝を入れているのですから。

この地上では、「教会」以外に実際的に、また正しくキリスト教の真理を現し、支え、守っているところはありません。だからこそエペソの教会も、数々の問題を抱えていても、異端的な教えや信仰から脱線することから何としても守られなければならなかたのです。それはまた今日の私たちの教会も同じです。私たちは、自分たちが所属している教会に与えられたこの重大な使命を心に留め、しっかりした教会生活を送らなければなりません。たとえそれがささやかな群れであっても、それは神の摂理によって立てられた教会なのであるということを覚え、共に真理を守り、これをあかししていきたいと思うのです。

Ⅲ.敬虔の奥義(16)

 

では、その真理とは何でしょうか。そこでパウロは、この真理の内容を「この敬虔の奥義」ということばでまとめて言及しています。16節をご覧ください。

「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

「奥義」とは原語で「ムステーリオン」という言葉で、隠されていたものが、ある時ベールが上げられて明らかにされるという意味です。この言葉から英語の「ミステリー」ということばが派生しました。隠された真理が明らかにされることです。ですから偉大なのはこの敬虔の奥義なのです。そしてその内容は、16節の中の「」にまとめられています。

「キリストは肉において現れ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

これは初代教会で歌われていた賛美歌の一部だったと考えられています。パウロは、当時よく知られていた賛美歌を引用して、真理とは何かをここで説明しているのです。その内容は、イエス・キリストの生涯全体にわたる事実で、次の六つのことです。

第一に、キリストは肉において現れたということです。キリストが肉において現れたとはどういうことでしょうか。それはイエス・キリストの受肉を現しています。ヨハネの福音書1章1~3節、それと14節、そして18節を開いてください。

「1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

「14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

「ことば」とはイエス様のことです。イエス様は二千年前に、聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、その時に存在したのではありません。そのずっと前から、いや永遠の昔から神とともに存在しておられました。この方は神の子であられたのです。その方が肉体の姿を取って天から降りて来られました。この方が救い主イエス・キリストです。それは、いまだかつてだれも神を見た者はいないので、その神がどのような方であるのかを説き明かされるためでした。キリストは永遠に神とともにおられた神なので、それを解き明かすことがおできになられたのです

次は「霊において義と宣言され」という言葉です。これは、キリストが罪のない方であるということが聖霊によって宣言されたということです。キリストはいつそのように宣言されたのでしょうか。マタイの福音書3章16,17節には、イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に下られるのをご覧になったとあります。そしてその時、天からこう告げる声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(3:17)

また、キリストは死人の中から復活したことによって義なる方であることが証明されました。「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:4)

イエス様が死んだままであったなら、彼が救い主であるはずはなかったわけですが、イエスは死んで復活してくださいました。それによってこの方が大能の御子として、義なる方として公に示されたのです。

そして次は、「御使いたちに見られ」です。何ですか、「御使いたちに見られ」とは?「御使いたちによって見られ」というのは、キリストの存在は単に人々によって注目されたというだけでなく、天的な存在である御使いたちによっても注目されたということです。キリストはいつ御使いたちに見られたでしょうか。たとえば、キリストが生まれたとき、彼は御使いたちに見られました。羊飼いたちが荒野で野宿していたとき、そこに御使いたちが現れ、神を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。

また、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた時も、御使いたちが近づいてきてイエスに仕えたとあります(マタイ4:11)。また、イエス様がゲッセマネの園で祈られた時もそうです。あるいは死人の中から復活した時も・・・。イエス様の生涯のすべは御使いたちにも見られたのです。

そして、キリストは諸国民の間に宣べ伝えられました。神の国の福音はユダヤ人のみならず、神からは遠く離れた異邦人にも宣べ伝えられました。それによってキリストは全世界の救い主であることを示されたのです。

また、世界中で信じられました。この手紙を書いたパウロもその一人です。彼は、以前はクリスチャンたちを迫害する者でしたが、復活のキリストが彼に現れてくださって、彼はこの福音を世界中に宣べ伝える使徒になりました。この福音は、世界中で信じられるようになったのです。

そして彼は、「栄光のうちにあげられ」ました。キリストは栄光のうちにあげられました。この中にはもちろん十字架と復活という救いの御業も含まれています。イエスの十字架は神の栄光でした。イエスの復活も神の栄光でした。イエス様は十字架と復活という救いの御業を成し遂げて、栄光のうちに天に上られたのです。キリストは死んで終わりではありませんでした。死んでよみがえられました。よみがえられて、天に上って行かれたのです。それは、私たちのために場所を備えるためです。場所を備えたら再び戻って来て、そこに私たちクリスチャンを、花嫁である教会を迎えてくださいます。私たちも死んでも終わりではありません。やがてよみがえり朽ちることのないからだ、栄光のからだに変えられて、天に上げられるのです。そこで、いつまでも主とともにいるようになるのです。

これが敬虔の奥義です。これが、私たちが信じている信仰の内容なのです。これが、教会が守るべき真理の内容です。その内容とは何かというと「イエス・キリスト」です。キリスト教の信仰とはイエス・キリストなのです。イエス・キリスト、これが敬虔の奥義であり、私たちの信仰そのものです。

これは隠されていることではなく、すでに明らかにされました。イエス・キリストとはどのような方なのか、どうしたら救われるのか、その真理が明らかにされたのです。聖書はそれを私たちにはっきりと示しています。この聖書の教えからズレではいけません。この真理からずれたら、そこには救いはないからです。このイエス・キリストを信じる者は、だれでも救われます。もしあなたが真理を求めているなら、イエス・キリストの許に行ってください。そうすれば、救われます。もしあなたが信仰の祝福を力を求めているならイエスの許に行ってください。そうすれば、あなたは力を受けます。すべては私たちのために死んでよみがえってくださったキリスト・イエスによるのだということを忘れないでいただきたいのです。これは私たちの理解をはるかに越えたことですが、これが真理なのです。確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。神がこの奥義を明らかにしてくださいました。そして、その中心がイエス・キリストなのです。私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでください。

教会はこのキリスト教の真理を明らかにしているところです。またその真理を守り支えるところでもあります。その教会の中に私たちもまた入れられました。それは、神は教会を通してご自分の働きをなさいたいからです。どこかのお店を通してではないのです。学校を通してでもありません。病院やどこかの会社でもない。神は教会を通してご自身の働きをなさろうとしておられるのです。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

神はこの教会を私たちにお与えになりました。それは私たちが教会を通して神の御業を行うためです。神はひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われて、真理を知るようになることです。すべての人が救われることを願っておられるのです。どのようにして救われるのでしょうか。教会を通してです。あなたを通してです。教会を通して神は、救われる人たちをご自身のところに引き寄せたいと願っておられるのです。であれば、そのために必要なことは何でしょうか。それは教会が、私たち一人一人がこの真理の上にしっかりと立っていることです。この真理から離れては救いはないからです。真理の柱、また土台である教会、生ける神の教会を通して、キリストにしっかりとどまっていなければならないのです。そのために神はこの奥義を明らかにしてくださったのです。私たち一人一人をみたらまことに貧弱な者ですが、神はこのような器にキリストという真理をお与えになられたということを覚え、私たちはこの真理を守り、証していく者でありたいと思います。真理の柱、まだ土台としての役割を果たしていきたいと思います。

民数記13章

きょうは民数記13章から学びます。これはイスラエルの歴史の中で最も悲しい出来事の一つが記されてあるところです。それは彼らが約束の地に入ることができなくなった原因となった出来事です。このことによってイスラエルは荒野を40年間もさまよわなければなりませんでした。それは彼らの不信仰が原因でした。いったいなぜ彼らは不信仰に陥ってしまったのでしょうか。きょうは13章からそのことについて確認していきたいと思います。

1.  約束の地への派遣(1-24)

まず1節から24節までを見ていきましょう。まず1節から16節までをお読みします。

「1 はモーセに告げて仰せられた。2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」3 モーセはの命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。4 彼らの名は次のとおりであった。ルベン部族からはザクルの子シャムア。5 シメオン部族からはホリの子シャファテ。6 ユダ部族からはエフネの子カレブ。7 イッサカル部族からはヨセフの子イグアル。8 エフライム部族からはヌンの子ホセア。9 ベニヤミン部族からはラフの子パルティ。10 ゼブルン部族からはソディの子ガディエル。11 ヨセフ部族、すなわちマナセ部族からはスシの子ガディ。12 ダン部族からはゲマリの子アミエル。13 アシェル部族からはミカエルの子セトル。14 ナフタリ部族からはボフシの子ナフビ。15 ガド部族からはマキの子ゲウエル。16 以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。」

主はモーセに、人々を遣わして、主がイスラエル人に与えようとしているカナンの地を下がらせるようにと命じられました。いったいなぜ主はこのようなことを命じられたのでしょうか。ここで申命記1章19節から23節までをお開きください。

「19 私たちの神、が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。
20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。21 見よ。あなたの神、は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。」

このところを見ると、これは主がそのように命じたというよりも、イスラエルの民からの申し出であったことがわかります。彼らがパランの荒野のカデシュ・バルネアまで来たとき、主はモーセを通して「上れ。占領せよ。」と言ったのに、彼らは、その前に人を遣わして、その地を探らせてくださいと言ったのです。それでモーセは、そのことは彼にとっても良いことだと思われたので、各部族からひとりずつ、十二人を取って遣わしました。いったいなぜ彼らはその地を探らせようとしたのでしょうか。不安があったからです。自分たちに占領できるだろうか、自分たちの力で大丈夫かどうかと、その可能性を探ろうとしたのです。

それにしても、なぜ神はそのことを許されたのでしょうか。モーセはなぜそのことが良いことだと思われたのでしょうか。なぜなら、神の意図は別のところにあったからです。あとでヨシュアとカレブがこの偵察によって、ますます元気づいて、この地を占領しようと奮い立ちますが、神はそのために偵察することは良いことだと思われたのです。すなわち、その地をどのように占領すべきかを知るために、その準備として、先に人をやって偵察させようとしたのです。

それなのに、イスラエルの民の思惑は違っていました。彼らはその地を偵察して、自分たちの能力で彼らに勝利することができるかどうかを知ろうとして人を遣わしたかったのです。ですから、そこには大きな違いがあったことがわかります。

さて、彼らが遣わしたのは、イスラエル人のかしらたちでした。民数記1章にも、軍務につくことができる者たちが軍団ごとに数えられ、そのかしらたちが登録されていますが、ここに記録されているかしらたちとは異なる人たちです。それはおそらく、スパイ行為というかなり危険で、体力を使う特殊な任務であったため、比較的若い人が用いられたからではないかと思われます。

そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。ヨシュアは、モーセによって名づけられた名前でした。その前は「ホセア」という名前で、意味は「救い」です。そしてヨシュアは「ヤハウェは救い」あるいは「主は救い」となります。このギリシヤ語名が、「イエス」なのです。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったということです。

2.  エシュコルの谷(17-24)

次に17節から24節までをご覧ください。

「17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブに入り、山地に行って、18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、あるいは少ないか多いかを調べなさい。19 また彼らが住んでいる土地はどうか、それが良いか悪いか、彼らが住んでいる町々はどうか、それらは宿営かそれとも城壁の町か。20 土地はどうか、それは肥えているか、やせているか。そこには木があるか、ないかを調べなさい。あなたがたは勇気を出し、その地のくだものを取って来なさい。」その季節は初ぶどうの熟すころであった。21 そこで、彼らは上って行き、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブまで、その地を探った。22 彼らは上って行ってネゲブに入り、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマンと、シェシャイと、タルマイが住んでいた。ヘブロンはエジプトのツォアンより七年前に建てられた。23 彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが人ふさついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかついだ。また、いくらかのざくろやいちじくも切り取った。24 イスラエル人がそこで切り取ったぶどうのふさのことから、その場所はエシュコルの谷と呼ばれた。」

モーセは、綿密にその土地と住民を調べてくるように指示しました。その地はどのような地形になっているか、そこに住んでいる民は強いか弱いか、あるいは多いか少ないか。その地質はどうなっているのか。また彼らが住んでいる町々は宿営の町なのか、それとも、外敵から守るための城壁があるのか。また、土壌はどうなっているか。作物を得るのに、適しているのかいないのか。肥えているか、やせているか、そして、みなを元気づけるために、そこのくだものを取ってきなさい、というものです。かなり綿密に調べるように命じました。

そこで彼らは上って行って、その地を偵察しました。偵察隊は、ツィンの荒野からレボ・ハマテのレホブに至るまでの地をゆきめぐりました。レボ・ハマテというのは、ダマスコよりもさらにはるか北にあり、ユーフラテス川の近くまで来ています。神さまが約束された土地の北端になっている町です。カナンの地の領土の広がりについては、34章1~12節に詳しく語られていますが、それは現在のイスラエルのほぼ全領土と、レバノン、シリヤ南部までを含んでいます。かなり広い領域を偵察しました。おそらく、12人が皆一緒に行動したというよりは、それぞれが分担の地域に分かれて偵察したのでしょう。

またここにはネゲブからヘブロンへとさりげなく書かれてはいますが、そこは彼らにとっては重要な歴史的スポットでした。ネゲブは神がアブラハムに現れたところであり、ヘブロンには、アブラハム、サラ、イサク、リベカ、レア、ヤコブが葬られた墓所がありました。しかしそこにはアナクの子孫が住んでいました。彼らは巨人のように体が大きく、ちょうどダビデが対峙したゴリアテのようでした。

しかし、そこは乳と蜜の流れる地であり、豊かないのちをもたらす土地でした。彼らはエシュコルの谷までやって来たとき、そこで、ぶどう一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒でかつぎました。これはイスラエル政府観光局のシンボルになっています。イスラエルに観光に行くと、必ず見るマークの一つです。それはこの地が豊かないのちをもたらす土地であることを表しています。

3.報告(25-33)

さて、その地の偵察から帰って来たスパイたちは、どんな報告をもたらしたでしょうか。最後に25節から33節を見てください。

「25 四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」」

四十日経って、彼らはその地の偵察から帰ってきました。これが後に、イスラエルが荒地で放浪する期間として定められた40年の根拠となります。彼らは偵察から帰ってくると、パランの荒野のカデシュ・バルネアにいたモーセとアロン、そしてイスラエルの全会衆のところに行き、その地で取ったくだものを見せて、自分たちが見たとおりのことを話しました。それは、その地は豊かな土地であるけれども、その地の住民は力強く、町々には城壁が張り巡らせてあり、そこにはアナクの子孫がいたということです。そればかりか、ネゲブの地方にはアマレク人が、山地にはヘテ人、エモリ人が住んでいるというものでした。

これは事実でした。彼らは自分たちが見たとおりのことを報告したのですからいいのですが、ここからが問題です。この調査をどのように受けとめ、そして、それにどのように対処していくかということです。31節をご覧ください。彼らはこの現実にこう結論しました。

「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」

ここで彼らは、自分たちと敵とを比べました。これが問題です。彼らは神ご自身と敵を比較したのではなく、自分自身と敵を比較しました。このようにもし自分と敵とを比較すると、そこには恐れ以外の何ものも生じることはありません。そしてその結論はゆがめられたものなってしまいます。彼らは自分たちが探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらしました。そこには非常に大きく、力強い民がいて、とてもじゃないが、勝てる相手ではない。彼らに比べたら、自分たちはいなごのように小さく、何の力もない者であるかのようだと言ったのです。彼らは心に植え付けられた恐れによって、物事を誇大解釈してしまったのです。

それに対してヨシュアとカレブはどうだったでしょうか。彼らの見方は違いました。30節には、そのような恐れにさいなまれた他のスパイのことばをさえぎり、こう言いました。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

いったいこの違いは何でしょうか。同じものを見ても、その捉え方は全く違います。他のスパイたちは、そこには大きく、強い民がいるから上って行くことはできないと言ったのに対して、カレブは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。」と言ったのです。いったいこの違いは何なのか。

これは信仰によるか、そうでないかの違いです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(へブル11:1)目に見えるものを信じ、それによって判断することは信仰ではありません。信仰とは目に見えるものがどうであっても、神が言われることを聞き、それに従うことです。そのみことばに基づいて、目に見えないものに対処する、これが信仰なのです。単に主がおられることを信じ、遠くにある約束を信じているだけではなく、実際に自分の前に立ちはだかる現実に対して、神ご自身とそのみことばを当てはめるのです。カレブはそのことを行なったのです。これは無謀とは違います。無謀とは、神が語っていないのに自分で勝手にそう思い込むことです。自分で、むりやりに、「これを信じます。信じます!」と言い聞かせるのです。しかし、信仰は違います。信仰は無理に言い聞かせることではなく、神が仰せになられことを信じることなのです。たとえ目に見えないことでも、たとえ、人間的には難しいことであっても。

特に、このような能力を神から与えられた人たちがいます。それを「信仰の賜物」と言います。神が与えてくださった賜物によって、人には不可能と思えることでも信仰によって信じることができるような能力を、御霊によって与えられているのです。自然にそのように信じることができ、必ずこのことは起こると確信することができます。この賜物を受け取るには、「自分が」ではなく、「神が」という姿勢が必要です。自分ができるかどうか、ではなく、神が何をなしてくださっているのかに目を留めなければなりません。

私たちのうちには、このカレブのような人も、また10人のイスラエルのスパイのような人も存在します。信仰によって、戦いの中に入っていくことができるときもあれば、恐れ退くときもあります。御霊によって、「これはきっとできる。」と思って前に進むこともあれば、思いもよらなかなった攻撃や試練によって、「これ以上前に進んだら、自分がだめになってしまう。」と思って、退いてしまうときがあります。しかし、私たちが、乳と蜜の流れる地に入りたいと思うなら、信じなければなりません。信じて、前進するしかないのです。たとえ現実的には難しいかのようであっても、主がそのように言われるのなら、そのように前進しなければならないのです。

ヘブル書には、「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10::39)」とあります。恐れ退いて、悲しみ、嘆き、さまよう人生ではなく、神が与えてくださった豊かないのちを受けるために、信じて前進していく者でありたいと思います。